竇瑾
竇瑾、 字 は道瑜、頓丘郡 衞 国の人である。自らは漢の 司空 竇融の後裔と称した。高祖の竇成が頓丘太守となり、ここに家を定めた。瑾は若くして文学で知られた。 中書 博士より、中書侍郎となり、繁陽子の爵位を賜り、寧遠将軍を加えられた。軍国大計に参与し、しばしば軍功を立てた。秘書監に遷り、爵位は 衞 国侯に進み、冠軍将軍を加えられ、西部 尚書 に転じた。三秦を平定した当初、民衆の去就は定まらず、使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 秦雍二州諸軍事・寧西将軍・ 長安 鎮将・毗陵公に任ぜられた。鎮守の地に八年間在り、威厳と恩恵を大いに顕した。召されて殿中・都官尚書となり、依然として 散騎常侍 を兼ねた。世祖(太武帝)は親しく遇し、賞賜は甚だ厚かった。蓋呉征討に従い、先駆けて慰撫宣諭し、これにより巴西の 氐 ・ 羌 の酋長を平定し、数千家を降伏させ、降らぬ者はこれを誅した。また、蛮族の酋長仇天爾ら三千家を五将山に降した。蓋呉が平定されると、瑾は長安に留まって鎮守した。都に還り、再び殿中・都官尚書となり、左右の執法を管轄した。世祖は嘆じて言った、「古より賢者を右にし、外戚を左にするのは、国の良き輔けであるが、毗陵公のことを言うのであろう」と。恭宗(景穆帝)が東宮で薨じると、瑾は 司徒 を兼ね、詔を奉じて 諡 号を冊立した。出向して鎮南将軍・冀州 刺史 となった。清廉で質素、謙虚で、王事に憂い勤め、当時に称えられた。還朝して内都大官となった。興光(452年)の初め、瑾の女婿の鬱林公司馬弥陀が選ばれて臨涇公主に 尚 せんとしたが、瑾が弥陀に辞退するよう教唆し、誹謗・呪詛の言葉があったとして、弥陀とともに誅殺された。瑾には四子がおり、竇秉・竇持・竇依は皆中書学生となり、父と同時に刑に伏した。ただ末子の竇遵のみが逃げ隠れて免れた。
遵は楷書・篆書に優れ、北都( 平城 )の諸碑や台殿楼観、宮門の題署は、多く遵の書によるものであった。官は尚書郎・濮陽太守に至り、多くの賄賂を受け取った。その子の僧演は、民の婦女と密通し、民の賈邈に告発され、官を免ぜられた。後に書の巧みさにより、庫部令に任ぜられ、任地で没した。
許彦
許彦、字は道謨、小字は嘉屯、高陽郡新城県の人である。祖父の許茂は、 慕容 氏の高陽太守であった。彦は幼くして孤貧となり、書を好んで読み、後に沙門の法叡に易を学んだ。世祖(太武帝)の初年、召し出され、卜筮が頻りに的中したため、遂に側近にあり、謀議に参与した。 散騎常侍 に任ぜられ、博陵侯の爵位を賜った。彦は質朴で慎重周密、人と話すにも内廷の事には及ばなかった。世祖はこれにより一層親しく遇した。爵位は武昌公に進み、安東将軍・相州刺史に任ぜられた。州にあって賄賂を受け、多く法度に違反し、詔書により厳しく譴責された。しかし彦は腹心の近臣であるため、罪に問わなかった。真君二年(441年)、卒去した。諡して宣公といった。
子の宗之は、初め中散となり、内秘書を領した。世祖が長江に臨んだ時、高郷侯の爵位を賜った。高宗(文成帝)が即位すると、殿中尚書に遷り、出向して鎮東将軍・定州刺史・潁川公となった。勅命を受けて丁零を討ち、丁零が平定されると、宗之は郡県を巡回し、求め取ることに節度がなかった。深沢県の馬超が宗之を誹謗したので、宗之は怒り、遂に殴り殺した。超の家族が訴え出ることを恐れ、上奏して馬超が朝政を誹謗中傷したと告げた。高宗はこれを聞き、「これは必ず虚偽である。朕が天下の主として、何ぞ超を憎むことがあろうか、超がこのようなことを言うはずがない。必ずや宗之が罪を恐れて超を誣いるのであろう」と言った。取り調べると果たしてその通りであった。事は有司に下され、 司空 の伊馛らは、宗之が腹心の近臣として、方伯(地方長官)の任に出て、本朝の威徳を宣揚し、心を尽くして綏撫導くことができず、かえって良民を侵害損傷し、善良な者を枉げて殺し、無辜の者を虚偽に列挙し、上って朝廷に塵をかけ、誣告詐偽の不道を行ったとして、理は極刑に当たるとした。太安二年(456年)冬、遂に都の南で斬られた。
宗之の孫の亮、字は元規。正光年間(520-525年)、盪寇将軍となり、やがて冀州驃騎府長史・ 司徒 諮議参軍に遷った。五十二歳で卒去した。
宗之の長兄の熙、字は德融、武昌公の爵位を襲った。中書郎となり、早世した。
子の安仁、爵位を襲った。中書郎に任ぜられた。卒去し、安東将軍・冀州刺史を追贈され、諡して簡といった。
子の元康、爵位を襲い、後に侯に降格された。冠軍将軍・長安鎮副将に任ぜられた。監河州諸軍事・河州刺史に遷り、将軍の号は元の如し。入朝して廷尉少卿となった。魏郡太守に任ぜられたが、固辞して受けなかった。まもなく卒去し、征虜将軍・営州刺史を追贈され、諡して肅といった。
子の廓、字は崇遠、爵位を襲った。奉朝請に任ぜられ、累遷して頓丘・東太原二郡の太守となった。卒去、年二十八。子の子躬が襲封した。
子躬、武定末年(550年)、中外府水曹参軍となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例により降格された。
子躬の弟の子憲、 太尉 中兵参軍となった。
元康の弟の護、州主簿となった。
子の瑞、字は徵之、また州主簿となった。卒去した。
李瑞の弟の李絢は、字を伯禮といい、大いに学問と志操があった。家門は和やかで、三世が同居していた。吏部尚書の李神儁は常にその家風を称えた。侍御史から累進して尚書左民郎・ 司徒 諮議参軍となり、起居注を修めた。後に太中大夫に任ぜられた。興和の初めに卒去、四十七歳であった。使持節・ 都督 冀瀛二州諸軍事・征東将軍・吏部尚書・冀州刺史を追贈された。
李絢の弟の李遜は、武定の末に東陽平太守であった。
李遜の弟の李曄は、字を叔明といい、性質は率直で開けていた。州治中・別駕・西高陽太守・太中大夫を歴任した。興和三年に卒去、四十一歳であった。鎮東将軍・瀛州刺史を追贈された。
李曄の弟の李惇は、字を季良という。武定の末、大司農卿を兼ねた。
李熙の弟の李龍は、官は趙郡太守に至った。
孫の李琰は、字を長琳といい、実務の才能があった。初め太学博士に任ぜられ、累進して尚書南主客郎・瀛州中正となった。孝昌年間に卒去、四十七歳であった。平東将軍・滄州刺史を追贈された。永熙年間、重ねて 散騎常侍 ・ 衞 将軍・尚書右 僕射 ・瀛州刺史を追贈された。
李琰の弟の李璣は、字を仲衡といい、識見と志操があった。広平王常侍・員外散騎侍郎・諫議大夫を歴任した。通直 散騎常侍 ・瀛州大中正・ 散騎常侍 ・ 滎陽 太守・行南青州事に遷った。卒去、五十五歳であった。李琰兄弟はともに率直で、多くの名士と交遊した。
また博陵の許赤虎という者がおり、経史に広く通じ、嘲謔を得意とした。延興年間、著作佐郎となり、慕容白曜に従って南征した。後に江南に使いし、応対が敏捷で、言葉は典故に合わないこともあったが、南人はその機知と滑稽を大いに称えた。使いから帰ると、東郡太守となり、官で卒した。
子の許陀は、定州長史となった。
李訢
李訢は、字を元盛、小字を真奴といい、范陽の人である。曾祖父の李産、その子の李績は、二代にわたり慕容氏の下で名を知られた。父の李崇は、馮跋の吏部尚書・石城太守であった。延和の初め、車駕が和龍に至ると、李崇は十余郡を率いて帰降した。世祖は大いに礼遇し、「李公」と呼び、李崇を平西将軍・北幽州刺史・固安侯に任じた。卒去、八十一歳、諡して襄侯といった。
李訢の母は身分が低く、諸兄に軽んじられた。李崇は言った、「この子が生まれた時、相見が貴いと言った。私は常に観察しているが、あるいは未だ知れない。」そこで都に入らせ、中書学生とした。世祖が中書学に行幸し、彼を見て異とし、従者に指して言った、「この小児は終に朕の子孫のために用いられるであろう。」よって目をかけられた。世祖の舅の陽平王杜超に娘があり、貴戚に嫁がせようとしていた。世祖はこれを聞き、杜超に言った、「李訢は後に必ず官途で栄達し、家門を益すであろう。娘を妻とさせよ、他の貴人に許すな。」遂に婚姻を勧めて成立させた。南人の李哲はかつて李訢が必ず貴達すると言った。杜超が死ぬと、世祖は自ら三日間哭した。李訢は杜超の女婿として、喪の席に出入りすることができた。帝は彼を見て指し、左右に言った、「この人の挙動を見よ、衆と異ならざるがあろうか。必ず朕の家の事を為す臣となるであろう。」李訢は聡明で機知に富み、記憶力が強く明察であった。初め、李霊が高宗の博士・諮議となり、詔により崔浩が中書学生で器量学業の優れた者を選んで助教とした。崔浩はその弟子の箱子と盧度世・李敷の三人を挙げてこれに応じた。給事高讜の子の高祐・尚書段霸の児姪らは、崔浩が自分の親戚をひいきしていると考え、恭宗に言上した。恭宗は崔浩が不公平であるとし、世祖に聞かせた。世祖の意は李訢にあり、言った、「どうして幽州刺史李崇の老翁の児を取らなかったのか。」崔浩は答えて言った、「前もまた李訢は選に合うと言いましたが、ただ先に外任に出ていたので、取らなかったのです。」世祖は言った、「李訢が帰るのを待ち、箱子らを罷めよ。」李訢はこのように世祖に認められたのである。遂に中書助教博士に任ぜられ、次第に任用され、入って高宗に経を授けた。
高宗が即位すると、李訢は旧恩と親寵により、儀曹尚書に遷り、中秘書を領し、爵を扶風公と賜り、安東将軍を加えられ、その母の孫氏を容城君と追贈された。高宗は群臣を顧みて言った、「朕が学び始めた歳、情は未だ専一できず、既に万機を総べるに及び、温習する暇もない。故に儒道は実に欠けるところがある。豈にただ朕の過ちのみならんや、師傅の勤めざるによるのである。爵賞をなお重くする所以は、旧を遺さざるによるのだ。」李訢は冠を免じて拝謝した。出て使持節・安南将軍・相州刺史となった。政治は清廉簡素で、訴訟の裁断に明るく、姦盗は止み、百姓は彼を称えた。
李訢は上疏して学校を立てることを求めて言った、「臣は聞く、至治の隆盛は、文徳なくしては王道を経綸するに足らず、太平の美は、良才なくしては皇化を光賛するに足らぬと。これ故に昔の明主は、京畿に庠序を建て、郡邑に学官を立て、国の子弟を教え、その道芸を習わせた。然る後にその俊異を選び、以て造士と為した。今、聖治は欽明にして、道は三五(三皇五帝)に隆く、九服の民は皆徳化を仰ぐが、所在の州土には学校が未だ立てられていない。臣は不敏ながら、誠にこれを備え、後生に雅頌の音を聞かせ、童幼に経教の本を覩させたいと願う。臣は昔、恩寵を蒙り、長く中秘を管し、時に学業を課して成立した人、髦俊の士は、既に進用を蒙っている。臣は今重ねて栄遇を荷い、方岳の顕任にあり、帝の謀猷を闡明し、外に光宣せんと思う。到任以来、諸文学を訪ねたが、旧徳は既に老い、後生は未だ進まない。歳首に貢する者は、制に依って遣わすとはいえ、対問の日、堪えられぬことを恐れる。臣愚かならんと欲し、仰いで先典に依り、州郡の治所ごとに各々学官を立てたい。士望の流れ、冠冕の胄をして、就いて業を受けさせれば、必ずや成る者があるであろう。その経芸に通明な者を王府に貢ぐ。然らば郁郁たる文は、ここに於いて墜ちることはない。」上書が奏上されると、顕祖はこれに従った。
李訢の治績が諸州の最上であるとして、衣服を加賜された。ここから遂に驕り高ぶり得意とする志を抱くようになった。そして民の財や商胡の珍宝を受け取った。兵民が告発したが、尚書の李敷は李訢と幼少の頃から仲が良く、常に彼をかばった。ある者が奏聞するよう勧めたが、李敷は許さなかった。顕祖が李訢の罪状を聞くと、檻車で李訢を召還し、拷問して罪に当てた。時に李敷兄弟は疎んじられ排斥されようとしており、有司は李訢に、内旨として李敷兄弟を嫌う意があることをほのめかし、李敷らの隠れた罪を告発させれば、自らを全うできるとさせた。李訢は深く望むところではなく、またそのことを知らなかった。そこでその女婿の裴攸に言った、「我が宗と李敷の族は世こそ遠いが、情は一家の如し。事に当たってこのような勧めがあるが、結局どうしたものか。昨来、常にこのために死を取ろうとし、簪を引いて自ら刺し、帯をもって自ら絞めたが、絶命させることができなかった。またその事も知らない。」裴攸は言った、「何のために彼らのために死ぬのですか。李敷兄弟の事の兆しは知れます。馮闡という者がおり、先に李敷に敗れ、その家は切にこれを恨んでいます。ただ馮闡の弟を呼んで問えば、委曲を知るに足ります。」李訢はその言に従った。また趙郡の范𢷋が詳細に李敷兄弟の事状を条列し、有司がこれを聞かせた。李敷は罪に坐した。詔して李訢の貪婪を列挙し、罪は死に応ずるとしたが、李敷兄弟を糾弾した故に、降免され、百鞭の髠刑に処せられ、賤役に配された。
李訢が廃された時、平壽侯の張讜が李訢に会い、話をしてその才能を奇異とし、人に謂うには、「これは佳士である。久しく屈することはあるまい」と。未だ幾ばくもせずして、また太倉尚書となり、南部の事務を摂る。范𢷋・陳端らの計を用い、千里の外より、戸別に転運させ、倉に詣でてこれを輸納せしむ。所在に委滞し、歳月を停延し、百姓は競って貨賂をもって各々先を求め、ここにおいて遠近大いに困弊す。道路の群議に曰く、「畜聚斂の臣は、盗臣に如かず」と。李訢の弟、左将軍の李璞、李訢に謂うには、「范𢷋はよく人に色を降し、人に辞を仮することを善くす。未だ徳義の言を聞かず、ただ勢利の説あるのみ。その言を聴けば甘く、その行いを察すれば賊なり。いわゆる諂諛・讒慝・貪冒・姦佞、早くこれを絶たざれば、後悔追いつくべからず」と。李訢は従わず、ますますこれを信じ、腹心の事、皆以て𢷋に告ぐ。
李訢は既に顕祖に寵せられ、軍国の大議に参決し、兼ねて選挙を典し、権は内外に傾き、百僚は曲節してこれに事えざるは莫し。范𢷋は功無きに、起家して慮奴令を拝す。延興の末、詔して曰く、「尚書李訢は先朝に勲を著し、皇極に弼諧し、讜言嘉謀、旬日に屢進す。実に国家の楨幹、当今の老成なり。是を以て南部に擢授し、煩務を綜理せしむ。自ら厥の位に在りて、夙夜惟夤、乃心懈ること匪く、己を克し礼を復し、退食公よりす。上に利するの事、知りて為さざる無く、賞罰の加うる所、疏戚を避けず。孝子の慈母を思うも、鷹鸇の鳥雀を逐うも、何を以てかこれに方せん。鄭の子産、魯の季文も亦未だ加えざるなり。然れども直を悪み正を醜くす、盗は主人を憎む。往年より以来、群姦息まず、李訢の宗人李英ら四家を劫し、舎宅を焚焼し、良善を傷害す。此れを忍ぶべくんば、孰れか恕すべからざらんや。有司は明らかに購募を加え、必ず擒殄せしむべし」と。
六月、顕祖崩ず。李訢は 司空 に遷り、爵を進めて范陽公と為す。七月、李訢を以て 侍中 ・鎮南大将軍・開府儀同三司・徐州刺史と為す。范𢷋は文明太后が李訢を忿れるを知り、又内外のこれを疾むを知る。太和元年二月、旨に希い李訢の外叛を告ぐ。文明太后は李訢を徴して京師に至らしめ、その叛状を言う。李訢曰く無しと。𢷋を引いて李訢を証せしむ。李訢言う、「爾は妄りに我を知ると云う。吾また何をか言わん。然りと雖も、爾は余の厚徳を顧みずして忍びて此れを為す、不仁甚だし」と。𢷋曰く、「公の徳の𢷋に於けるや、何ぞ李敷の徳の公に於けるが若くせん。公は昔敷に忍びたり。𢷋今敢えて公に忍ばざらんや」と。李訢慨然として曰く、「吾は璞の言を用いず、自ら伊戚を貽す。心に万悔す、何ぞ嗟及びんや」と。遂に誅せらる。李訢に三子あり。
長子の李邃、起家して侍御中散・東宮門大夫を拝す。 散騎常侍 に遷り、平東将軍を加えらる。李訢に先だって卒す。
子の李晴、字は誨明。逃竄し、赦に遇い免ぜらる。
李晴の子の李衡、字は伯琳。武定年中、中堅将軍・斉献武王丞相府水曹参軍。
李邃の弟の李令和・李令度、李訢と同時に死す。
李訢の長兄の李恭、字は元順。成周太守。卒し、幽州刺史・容成侯を贈られ、諡して簡侯と曰う。
李恭の弟の李瓘、字は元衡。営丘太守、父の爵を襲い固安侯、平西将軍。卒し、兗州刺史を贈られ、諡して康侯と曰う。
子の李長生、襲ぐ。長生卒し、子の李元宗襲ぐ。広平郡丞、陳郡太守。
李璞、字は季真、性惇厚にして、人物を多く識る。中書博士・侍郎・漁陽王尉眷傅・左将軍・長安副将を歴任し、爵を宜陽侯に賜わり、太常卿。承明元年、年五十一、李訢に先だって卒す。安西将軍・雍州刺史を贈られ、諡して穆と曰う。
子の李暉、中書議郎。
李暉の弟の李固、太学博士・高密太守。
李固の弟の李欽、州主簿。
李欽の子の李奭、字は元熾。武定末、鎮西将軍・南営州別駕。
奭の弟の盛は、字を仲炎という。安東将軍・開府諮議参軍を歴任した。
盛の弟の叔樊は、平西将軍・太中大夫を歴任した。
欽の弟の蘊は、字を宗令といい、器量と才幹があった。中書学生・秘書中散・侍御中散を経て、出向して燕郡・范陽の二郡太守となった。召還されて員外 散騎常侍 ・尚書右丞・中堅将軍となり、左丞に昇進した。延昌三年に死去し、平遠将軍・南青州刺史を追贈され、諡を敬といった。
初め、崇が魏に帰順した時、同郷の北平の田彪と共に降伏したが、彪の子孫は遂に衰微してしまった。
【評】
史臣が言う。魏氏が天下を有してから百有余年の間、刑罰を用いて政治を行い、わずかな過失の間に、滅亡に至った。竇瑾・李訢は器量と識見に優れ、当時は良き幹部と称された。瑾は一言の疑わしい言葉により、訢は昔からの因縁による猜疑心のために、一族皆殺しの刑に処せられた。悲しいことだ!宗族を全うしなかったのは、自ら招いた災いである。
校勘記