韋閬
韋閬は、 字 を友観といい、京兆杜陵の人である。代々三輔の名族であった。祖父の楷は、晋の建威将軍・長楽・清河二郡太守であった。父の逵は、 慕容 垂の吏部郎・大長秋卿であった。閬は若くして器量と声望があり、慕容氏の政乱に遭い、薊城に避難した。世祖(太武帝)が召し出して咸陽太守に任じ、後に武都太守に転じた。杏城鎮将の郝温および蓋呉が反乱を起こし、関中が混乱した時、閬は心を尽くして民を慰撫し収容したので、その管轄区域だけは無事であった。郡に十六年在任し、死去した。
子の範は、鎮西大将軍府司馬を歴任し、華山郡の太守を試みた。高宗(文成帝)の時、興平男の爵位を賜った。死去した。
子の儁は、字を穎超といい、早くから学識があった。幼くして孤児となり、祖母に仕えて孝行で知られた。性質は温和で廉潔謙譲であり、州里で称賛された。太和年間に爵位を継いだ。荊州治中に任じられ、梁州寧朔府長史に転じた。帰還して、 太尉 外兵参軍・本州中正となり、都水使者に昇進した。在任地ごとに名声があった。世宗(宣武帝)が 崩御 すると、領軍の于忠が威刑を 擅 にし、左 僕射 の郭祚・ 尚書 の裴植と同時に害され、その言葉は『植伝』にある。時に五十七歳であった。儁は郭祚と姻戚関係にあり、于忠に憎まれたため、難に及んだのである。臨終に際し、儁は尚書の元欽に無実を訴えたが、欽は知りながらも理を申し立てることができなかった。儁は嘆いて言った。「我は一生善を行い、善の報いを受けたことはない。常に悪を行わなかったのに、今悪の終わりを迎える。はるかなる蒼天よ、正直を抱きながら訴えるところなし!」当時の人々は皆、怨み悲しんだ。熙平元年、中壘将軍・洛州 刺史 を追贈され、 諡 を貞といった。十三人の子があった。
長男の栄緒は、字を子光といい、広く文史に通じていた。爵位を継ぎ、員外散騎侍郎・斉王蕭宝夤の儀同開府属に任じられたが、戦いに敗れて戦死した。
栄緒の弟の栄茂は、字を子曄という。才幹と器量で知られた。侍御史・尚書考功郎中を歴任した。出向して征虜将軍・東秦州刺史となった。永熙の末、兄弟ともに関西で没した。
栄茂の弟の子粲は、宝炬(西魏の文帝)の下で南汾州刺史となった。
子粲の末弟の道諧は、南汾州鎮城 都督 となった。斉献武王( 高歓 )が将を命じて討伐に出させ、城を陥落させてこれを制圧した。武定の末、子粲の官位は南兗州刺史に至った。
韋真喜
閬の兄の子の真喜は、 中書 博士から起家し、中書侍郎・馮翊太守に昇進した。
子の祉は、太府少卿の任で死去した。
祉の子の義遠は、出帝(孝武帝)の時、岐州刺史となり、関西で没した。
祉の弟の禎は、識見と才幹があった。奉朝請から起家した。尚書郎中・ 司徒 主簿・太子中舎人・廷尉少卿・給事黄門侍郎・光禄大夫を歴任した。死去し、安西将軍・秦州刺史を追贈された。
子の文殊は、員外散騎侍郎となり、早世した。
韋道福
閬の従叔父に道福あり。父の羆は、苻堅の丞相王猛に器重せられ、娘を娶らせて妻と為す。堅に仕えて東海太守と為る。堅の滅びたる後、江左に奔り、劉裕に仕えて輔国将軍・秦州刺史と為る。道福は志略あり、劉駿の下で盱眙・南沛二郡太守を歴任し、鎮北府録事参軍を領す。時に徐州刺史薛安都、州を擁して内附せんと謀る。道福はその事に参賛す。功により安遠将軍を除かれ、爵を高密侯に賜い、これにより彭城に家を定む。卒し、征虜将軍・兗州刺史を贈られ、諡して簡と曰う。
子の欣宗は、帰国の勲により、別に爵を杜県侯に賜う。高祖(北魏孝文帝)の初め、彭城内史に拝され、大将軍・宋王劉昶の諮議参軍に遷る。広陵侯元衍が徐州刺史と為り、また長史を請い、彭城内史を帯ぶ。内外を撫綏し、民の和を甚だ得たり。世宗(宣武帝)の初め、通直 散騎常侍 を除かれ、出でて河北太守と為るも、行かず。尋いで太中大夫に転じ、幽州事を行ふ。卒し、龍驤将軍・南兗州刺史を贈られ、諡して簡と曰う。
子の元叡、武定年中、潁州驃騎府長史。
欣宗の従父弟合宗、東海太守にて卒す。
子の元恢、気幹あり。孝昌の初め、刺史元法僧が州を拠りて外叛するに値い、元恢は同志を招聚し、潜かに克復を規るも、事泄れ、法僧に害せらる。時に人これを傷み惜しむ。
韋崇
閬の従子に崇あり、字は洪基。父は肅、字は道寿。劉義真関中を鎮むるに、主簿に辟し、仍て義真に随ひて江を度り、魏郡・弋陽二郡太守・ 豫 州刺史を歴任す。崇年十歳にして父卒す。母鄭氏、国に入るに因り、河洛に寓居す。少くして舅の兗州刺史鄭羲に器賞せらる。解褐して中書博士、転じて 司徒 従事中郎と為る。高祖その女を納れて充華嬪と為す。南潁川太守を除かる。細事を発摘するを好まず、常に云く、「何ぞ小察を用いて、以て大道を傷つけんや」と。吏民これに感じ、郡中大いに治まる。高祖聞きて嘉賞し、帛二百匹を賜ふ。洛に遷り、崇を以て司州中正と為し、尋いで右将軍、咸陽王禧の開府従事中郎を除き、復た河南邑中正と為る。崇頻りに衡品に居り、平直を以て称さる。出でて郷郡太守と為り、更満して代わるべしとすれども、吏民闕に詣でて留まるを乞ひ、復た三年を延ぶ。郡に在ること九年、転じて 司徒 諮議と為る。久しくして華山太守を除かれ、卒す。
子の猷之、奉朝請にて解褐し、転じて給事中・歩兵 校尉 、稍く遷りて前将軍・太中大夫と為る。卒す。
猷之の弟休之、安州左将軍府城局参軍にて起家し、転じて給事中・河南邑中正、稍く遷りて安西将軍・光禄大夫と為る。休之は貞和自ら守り、未だ嘗て言行を以て物に忤わず。卒す。
子の道建、武定末、定州儀同開府長史、中山太守を帯ぶ。
道建の弟道儒、斉の文襄王大将軍府東閤祭酒。
韋珍
閬の族弟に珍あり、字は霊智、高祖名を賜ふ。父は尚、字は文叔、楽安王良の安西府従事中郎。卒し、安遠将軍・雍州刺史を贈らる。珍少くして志操あり。解褐して京兆王子推の常侍、転じて尚書南部郎と為る。
高祖の初め、蛮首桓誕帰款す。朝廷辺境を安んずるの略を思い、誕を以て東荊州刺史と為す。珍を使と為し、誕と共に蛮左を招慰せしむ。珍懸瓠より西に入ること三百余里、桐栢山に至り、淮源を窮め、恩沢を宣揚すれば、降附せざる莫し。淮源旧に祠堂あり、蛮俗恒に人を用いてこれを祭る。珍乃ち曉告して曰く、「天地の明霊は、即ち民の父母なり、豈に父母子の肉味を甘んずるあらんや。今より已後、悉く宜しく酒脯を以て代用すべし」と。群蛮約に従ひ、今に至るまでこれを行ふ。凡そ招降すること七万余戸、郡県を置きて還る。奉使旨に称するを以て、左将軍・楽陵鎮将を除かれ、爵を霸城子に賜ふ。
蕭道成の司州民謝天蓋自ら司州刺史を署し、規て州を以て内附せんと欲す。事泄れ、道成の将崔慧景に攻囲せらる。詔して珍に率いるに在鎮の士馬を以てし、淮を渡り援接せしむ。時に道成珍将に至らんと聞き、将苟元賓を遣わし淮を拠りて逆拒せしむ。珍乃ち鉄馬を分遣し、上流に於いて潜かに渡り、親ら歩士を率いて賊と対接す。旗鼓始めて交わるや、甲騎奄に至り、腹背奮撃してこれを破る。天蓋尋いで左右に殺され、慧景に降る。珍勝に乗じて馳進し、又た慧景を破り、降民七千余戸を擁して内徙し、表して城陽・剛陵・義陽の三郡を置きてこれを処す。高祖詔して珍をして比陽に移鎮せしむ。蕭賾その雍州刺史陳顕達を遣わし衆を率いて来寇す。城中の将士咸く出戦せんと欲す。珍曰く、「彼初めて至り気鋭し、未だ便ち挫くべからず。且く共に堅守し、その我を攻めて疲弊するを待ち、之を撃つも未だ晩しからず」と。是に於いて城に憑りて拒戦し、殺傷甚だ衆し。相持つこと旬有二日、夜城門を開きて掩撃すれば、賊遂に奔潰す。功により爵を侯に進む。
車駕が南征した際、珍は便宜を上奏し、また自ら辺境に長く在ったので要害を悉く知っており、先鋒を願い出た。詔により珍は隴西公源懐の衛大将軍府長史となり、転じて 太保 ・斉郡王の長史となった。顕武将軍・郢州刺史に遷り、州において声望と実績があり、朝廷はこれを嘉した。龍驤将軍に遷り、驊騮二匹・帛五十匹・穀三百斛を賜った。珍はそこで州内の孤貧の者を召集し、言うには「天子は私が卿らを綏撫できるとして、穀帛を賜うた。私はどうして独りでこれを当てにできようか」と。そこで賜った物を悉く彼らに分け与えた。まもなく平南将軍・荊州刺史を加えられ、尚書盧淵と共に赭陽を征したが、蕭鸞の将垣歴生・蔡道貴に敗れ、免官されて郷里に帰った。臨別に盧淵に言うには「主上は聖明で、呉会を併呑する志があり、用兵の機要は上流にある。もし荊楚に事があれば、恐らく老夫はまた留まるを得ないであろう」と。後に車駕が樊郢を征した時、再び珍を起用して中軍大将軍・彭城王勰の長史とした。沔北が平定されると、珍を建威将軍とし、試みに魯陽郡を守らせた。
高祖が再び南伐した時、路は珍の郡を経由し、中壘将軍を加え、正太守とした。珍は従って済水に至ったが、高祖は言うには「朕は近頃兵車を再び駆ったが、卿は常に中軍の翼務を務め、今日の挙もまた卿と同行したい。しかし三鵶は険悪であり、卿でなければ守れない」と。そこで珍に辞して還るよう命じた。高祖が行宮で崩御した時、秘匿して還り、珍の郡に至って初めて大 諱 を発した。還って中散大夫に除かれ、まもなく鎮遠将軍・太尉諮議参軍を加えられた。永平元年に卒し、時に七十四歳であった。本将軍・南青州刺史を贈られ、諡して懿といった。
長子の纘は、字は遵彦。十三歳の時、中書学生に補せられ、聡敏で明弁であり、博士李彪に称された。秘書中散に除かれ、侍御中散に遷った。高祖が名徳の沙門と往復談論する度に、纘は綴録を掌り、遺漏することなく、頗る知賞された。散騎侍郎に転じ、太子中舎人に徙り、仍って黄門を兼ね、また 司徒 右長史を兼ね、まもなく長兼尚書左丞に転じた。寿春が内附すると、 尚書令 王粛が揚州に出鎮し、纘を長史に請い、平遠将軍を加え、梁郡太守を帯びた。王粛が薨じると、詔により纘が州事を行った。任城王澄が王粛に代わって州となると、再び纘を長史に啓した。澄が出征した後、蕭衍の将姜慶真が虚に乗じて攻撃し、遂に外郭を占拠したが、まもなく克復したものの、纘は坐して免官された。永平三年に卒し、四十五歳であった。
纘の弟の彧は、字は遵慶、また学識があった。奉朝請より解褐し、太尉騎兵参軍に遷った。出て雍州治中となり、別駕に転じた。入って 司徒 掾となり、まもなく散騎侍郎に転じた。稍く遷って平遠将軍・東 豫 州刺史となった。彧は蛮左を綏懐し、頗るその心を得た。蛮首田益宗の子魯生・魯賢は先に父に叛いて南入し、数度寇掠していた。彧が州に至ってから、魯生らは皆牋啓を修めて敬意を表し、再び害を為さなくなった。彧は蛮俗が荒梗で礼儀を知らないとして、表して太学を立て、諸郡の生徒を選んで州で総教した。また城北に宗武館を置いて武を習わせた。境内は清粛となった。還ると、大将軍・京兆王継の西征に遇い、長史を請われ、通直 散騎常侍 に拝された。まもなく本官をもって尚書を兼ね、豳夏行台となった。功により陰盤県開国男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。孝昌元年秋、 長安 で卒した。撫軍将軍・雍州刺史を贈られ、諡して文といった。
子の彪は襲封した。本州治中を歴任し、別駕に転じた。孝庄帝の末、藍田太守となった。関西で没した。
彪の弟の融は、員外散騎侍郎より解褐した。軍功により爵長安伯を賜った。稍く遷って大司馬開府司馬となった。融は司農卿趙郡李瑾の女を娶ったが、天平年中、妻が章武王景哲と姦通したと疑い、遂に刺殺した。免れ得ぬことを懼れ、また自害した。
彧の弟の朏は、字は遵顕、少より志業があった。十八歳の時、州主簿に辟せられた。時に凶年に属し、朏は家の粟で粥を造り、飢えた人に与え、多くを生かした。太学博士より解褐し、秘書郎中に遷り、稍く遷って左軍将軍となり、荊郢和糴大使となった。南郢州刺史田夷が啓して、朏の父珍が往年荊州に任じ、夷夏に恩が洽ったと称し、朏を南道別将に充て、荊州の 驍 勇を領かせ、共に腹背となることを乞うた。詔して従った。まもなく、南荊州事を行った。粛宗の末、征虜将軍・東徐州刺史に除かれ、まもなく安東将軍に遷り、 散騎常侍 を加えられた。蕭衍がその郢州刺史田麤憘に衆を率いて来寇させたが、朏は石羊崗でこれを破り斬り、功により杜県開国子に封ぜられ、邑二百戸を賜った。永安三年、州で卒した。 侍中 ・車騎将軍・雍州刺史を贈られ、諡して宣といった。
長子の鴻は、字は道衍、頗る幹用があった。奉朝請より解褐し、 尚書令 吏部郎中・中書舎人に遷った。天平三年、漏泄に坐し、家で賜死し、時に三十二歳であった。
鴻の弟の道植は、武定末、儀同開府中兵参軍となった。
太祖の時、安定の梁穎があり、先に慕容宝に仕え、黄門郎を歴任した。国に入り、建徳太守に拝され、爵朝那男を賜った。
孫の景儁は、趙郡王幹の行参軍より起家した。稍く遷って治書侍御史・ 司徒 中兵参軍となった。卒した。
子の師礼は、早く卒した。
韋嵩遵
師礼の族弟の嵩遵は、少より気侠があった。奉朝請より起家し、 司空 外兵参軍を歴任した。後に蕭宝夤が雍州刺史となると、中兵参軍に引き立てられ、深く信任された。宝夤が反すると、嵩遵に衆を率いて出征させた。嵩遵は偽ってその署を受け、既に行った後、遂に侯終徳らと共に還って来襲した。功により烏氏県開国伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。後に光州平東府長史に除かれ、転じて荊州驃騎府司馬となった。官で卒し、四十四歳であった。
嵩遵の弟の嵩景は、武定年中、燕郡太守となった。
蘇湛
また武功に蘇湛という者がおり、字は景儁、魏の侍中蘇則の後裔である。晋の乱の際、河西に避難した。世祖(太武帝)が涼州を平定すると、郷里に帰還した。父の擁は字を天祐といい、秦州撫軍府司馬であった。蘇湛は若くして器量と行いを備え、広く諸書に通じた。二十歳余りで秀才に挙げられ、奉朝請に任じられ、侍御史を兼ね、員外散騎侍郎に転じた。
蕭宝夤が関西を討伐する際、蘇湛を行台郎中とし、深く信任して任用した。孝昌年間、宝夤が大敗して東帰すると、朝廷は彼を雍州刺史とした。後に宝夤は自ら猜疑と恐れを抱き、中尉酈道元を害し、兵を挙げて反乱を起こした。当時、蘇湛は家で病臥しており、宝夤は姜儉を使わせて蘇湛に告げさせた。「元略が蕭衍の意旨を受けて、我を除こうとしている。酈道元が来たのは、事態が測り知れない。私は座して死を待つことはできず、今や身のための計略を立て、もはや魏の臣下とはならない。卿とは親しい間柄ゆえ、このことを報せる。死生栄辱を、君と共にしよう。」蘇湛はこれを聞くと、声をあげて大声で泣いた。姜儉は慌てて止めて言った。「どうしてすぐにそうなるのか。」蘇湛は言った。「百人の家族が、即時に屠殺滅亡しようとしている。どうして泣かずにいられようか。」数十声泣いた後、ゆっくりと姜儉に言った。「私の言葉を斉王(蕭宝夤)に伝えてくれ。王はもともと窮した鳥が人に寄るように、朝廷に頼って王に羽翼を与えられ、このような栄寵に至った。国運に多難な時が続く折、忠を尽くして恩徳に報いることができず、かえって人の隙に乗じ、良からぬ心を抱いている。行きずりの無識の言葉を信じて惑わされ、疲弊敗残の兵をもって、関を守り鼎を問おうとしている。今、魏の徳は衰えたとはいえ、 天命 は未だ改まっていない。しかも王の恩義は、民に浸透しておらず、ただその敗北を見るだけで、成功を見ることはない。蘇湛は百人の家族を率いて、王のために一族滅亡に加わることはできない。」宝夤は再び返答して言った。「これは自らの命を救うための計略であり、やむを得ないことだ。先に告げなかったのは、我が計略を阻むことを恐れたからである。」蘇湛は再び言った。「およそ大事をなすには、天下の奇士を得るべきである。今、ただ長安の博徒や小児輩とともに計画を練り、成功の道理が整うというのか。蘇湛は必ずや荊棘が庭閣に生じることを恐れる。願わくば骸骨を賜り郷里に帰らせてほしい。もしこれによって病死することができれば、地下で先人に会うことができる。」宝夤はもともと蘇湛を重んじており、彼が病気であること、また己のために用いられないことを知って、武功に帰ることを許した。
宝夤が敗れると、荘帝が即位し、蘇湛を召し出して尚書郎に補任した。到着すると、荘帝は言った。「以前、卿が蕭宝夤に答えた言葉を聞いたが、非常に優れた言葉であった。私に話してくれ。」蘇湛は頓首して謝して言った。「臣の言辞は伍被には及ばないが、終始変わらぬことは、自ら彼に勝ると考えます。しかし臣は宝夤と親しく交わり、心を尽くして言いましたが、彼をして反逆させないようにすることはできませんでした。これが臣の罪です。」荘帝は喜び、散騎都尉に任じ、引き続き郎を兼ねさせた。まもなく中書侍郎に昇進した。出帝の初め、病気のため郷里に帰り、家で亡くなった。 散騎常侍 ・鎮西将軍・雍州刺史を追贈された。
蘇湛の従母弟に天水の姜儉がおり、字は文簡である。父の昭は、平憲司直から出て兗州安東長史となり、高平太守を兼ね、営構都将の任中で亡くなった。姜儉は若くして才幹があり、勤勉で人並み外れた働きをした。徐州車騎府田曹参軍として出仕し、太尉外兵参軍に転じた。蕭宝夤が関西討伐に出ると、開府属に引き抜かれ、軍機謀略に多く参与した。姜儉もまた知己に遇ったと自負し、誠心誠意を尽くして任に当たった。宝夤が雍州刺史となると、引き続き開府従事中郎を請い、長安令を兼ねた。宝夤が反乱を起こすと、左丞とし、特に信任され、部下たちから憎まれた。宝夤が敗れると、城内の者に殺され、時に三十九歳であった。蘇湛は常々人に言った。「姜儉の才志をもってすれば、富貴を得るに足りる。その不遇を惜しむ、これも運命というものか。」
姜儉の弟の素は、武定末年、中散大夫であった。
杜銓
杜銓は、字を士衡といい、京兆の人である。晋の征南将軍杜預の五世の孫である。祖父の冑は、苻堅の太尉長史であった。父の嶷は、慕容垂の秘書監であり、そのまま趙郡に僑居した。杜銓は学問に通じ長者の風格があり、盧玄・高允らとともに中書博士に徴された。初め、密太后の父の杜豹の喪が濮陽にあったため、世祖(太武帝)は 鄴 に迎えて葬ろうとし、 司徒 崔浩に言った。「天下の諸杜のうち、どこが声望が高いか。」崔浩は京兆が優れていると答えた。世祖は言った。「朕は今、外祖父を改葬しようとしている。京兆の長老一人を宗正とし、凶事の営護を命じたいと思う。」崔浩は言った。「中書博士杜銓は、その家は今趙郡にあるが、杜預の後裔であり、今の諸杜の中で最も優れています。すぐに召し出すことができます。」詔を下して召し出した。杜銓の器量と容貌は立派で優雅であり、世祖は感心して喜び、崔浩に言った。「これはまさに朕が望んでいた人物だ。」宗正とし、杜超の子の道生とともに杜豹の棺を迎え、鄴の南に葬らせた。杜銓はそこで杜超と親族のようになった。杜超は杜銓に言った。「既に宗族として近いなら、どうしてまた趙郡に僑居しているのか。」そこで迎え入れて同じく魏郡に属させた。散騎侍郎に昇進し、中書侍郎に転じ、新豊侯の爵位を賜った。死去すると、平南将軍・相州刺史・魏県侯を追贈され、諡を宣といった。
子の振は、字を季元という。太和初年、秀才に挙げられ、中書博士の任中で亡くなった。
子の遇は、字を慶期という。奉朝請として出仕した。員外散騎侍郎・尚書起部郎中に転じた。官の材瓦を盗んで私宅を建てたため、清議に蔑まれた。龍驤将軍・中散大夫に昇進した。出て河東太守となった。死去すると、中軍将軍・都官尚書・ 豫 州刺史を追贈され、諡を惠といった。
子の鴻は、永熙年間、 司徒 倉曹参軍であった。
杜洪太
杜銓の族子の洪太は、字を道廓という。延興年間、中書博士となった。後に高麗に使いし、安遠将軍・下邳太守に任じられ、梁郡太守に転じた。太和年間、鷹揚将軍・絳城鎮将に任じられ、新昌・陽平二郡太守を兼ねた。五十二歳で亡くなった。
子の祖悦は、字を士豁といい、かなり識見と志操があった。大将軍劉昶の参軍事となり、次第に天水・仇池二郡太守に昇進し、南秦州の事務を代行した。正光年間、入朝して太尉・汝南王悦の諮議参軍となった。出て高陽太守となったが、郡で亡くなった。
子の長文は、字を子儒という。粛宗(孝明帝)の挽郎・員外散騎侍郎となり、次第に尚書郎に昇進した。叔父の顒に従って岐州を守った功績により、始平伯の爵位を賜り、平東将軍を加えられた。天平末年、安西将軍・光禄大夫の任中で亡くなった。中軍将軍・度支尚書・雍州刺史を追贈された。
長文の第四の弟子達は、武定年間に、斉の文襄王の大 都督 府戸曹参軍となった。
祖悦の弟の顒は、字を思顔といい、大いに才幹があった。初めて官に就き北中府録事参軍となった。正光年間に、次第に昇進して厲威将軍・盱眙太守となり、大徐戍主を兼ねた。元法僧が反乱を起こしたとき、顒は逃げ隠れて難を免れた。後に諫議大夫となった。孝昌二年、西征軍司となり、岐州の事務を代行した。蕭宝夤が反逆を起こすと、顒は州を拠点として従わなかった。帰還し、征虜将軍・東荊州刺史に任ぜられた。岐州を守った功績により、平陽県開国伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。武泰年間に、転じて岐州刺史を授かった。永安年間に、涇州刺史に任ぜられた。時に万俟醜奴が関右に充満していたため、赴任しなかった。そこで 都督 となり、岐州を防衛した。醜奴がこれを攻めたが、陥落させられなかった。事態が鎮まると、鎮西将軍・光禄大夫に任ぜられた。功績によりまた安平県開国伯に封ぜられ、食邑五百戸を賜った。平陽伯の爵位は弟の二男景仲に譲られた。後に征西将軍・金紫光禄大夫となり、関西で没した。
裴駿
裴駿は、字を神駒といい、幼名を皮といい、河東郡聞喜県の人である。父の双碩は、本県の県令、仮の建威将軍・恒農太守、安邑子であった。没後、平南将軍・東雍州刺史、聞喜侯を追贈された。駿は幼少より聡明で慧く、親族や姻戚は彼を異才とみなし、「神駒」と呼んだため、これを字とした。二十歳の頃、経書史書に広く通じ、文章を好み、性格は方正で謹厳、礼節と度量があり、郷里の人々は彼を尊敬した。
蓋呉が関中で乱を起こすと、汾陰県の薛永宗が徒党を集めてこれに呼応し、しばしば諸県を破壊し、聞喜を襲撃しようとした。県内にはもともと武器がなく、人心は動揺し、県令は憂い恐れて、どうすべきか方策がなかった。駿は家でこれを聞くと、すぐに郷里の豪族を率いて激励し言った。「礼によれば、君父に危難あれば、臣子は命を捧げる。今、県府が賊に迫られている。これこそ我らが節義に殉ずる時である。諸君、奮起せぬことがあろうか。」諸豪族は皆奮い立って従うことを請い、駿は数百騎の勇猛な者を選び出して急行した。賊は救援が来たと聞き、兵を引き退いた。刺史はこれを賞賛し、状況を上奏して報告した。ちょうど世祖(太武帝)が自ら蓋呉を討伐するにあたり、駿を引見した。駿は事態について述べ、機微に大いに適っていた。世祖は大いに喜び、崔浩を顧みて言った。「裴駿は当世の才幹があり、かつ忠義が賞賛に値する。」中書博士に補任された。浩もまた深く駿を器とし、三河の領袖と目した。転じて中書侍郎となった。劉駿(宋の孝武帝)が使者の明僧暠を朝貢に遣わしたとき、駿に才学があるとして、仮の給事中・ 散騎常侍 を授け、国境で慰労・接待させた。皇興二年に没した。平南将軍・秦州刺史・聞喜侯を追贈され、諡を康といった。
子の修は、字を元寄といい、明晰な弁論と好学の心を持っていた。十三歳で中書学生に補任され、秘書中散に昇進し、転じて主客令となった。妻の父である李訢の事件に連座し、張掖子都大将として出向した。張掖の地境は胡夷と接し、前後数度にわたり寇掠を受けたが、修は烽候を明らかに設け、方略をもってこれを防いだ。辺境に六年間いて、関塞は静謐であった。高祖(孝文帝)はこれを嘉し、中部令に召し還した。転じて中大夫となり、祠部曹事を兼ね、職務は礼楽を主管し、疑義が生じるたびに、修は先例を斟酌し、すべて条理が通っていた。太和十六年に没し、時に五十一歳であった。高祖はその死を悼み惜しみ、葬儀のための絹百匹を賜い、諡を恭伯といった。世宗(宣武帝)の時、輔国将軍・東秦州刺史を追贈された。修は早くに孤児となり、喪に服して孝行で知られた。二人の弟と三人の妹は皆幼弱であり、修は彼らを養育し訓戒し、大いに道義にかなっていた。次弟の務は早世し、修はその死を哀傷し、行路の人をも感動させた。孤児となった甥を慈しみ育てること、己が子と同じであった。別居することになるとき、奴婢や田宅をすべて彼に譲った。当時の人々はこのことで彼を称えた。
子の詢は、字を敬叔という。容姿端麗で、多くの技芸に通じ、音律や囲碁など、すべて理解していた。初めて官に就き奉朝請となり、太尉集曹参軍に転じ、長流尚書起部郎中・平昌太守となった。時に太原長公主が寡居しており、詢と私通し、粛宗(孝明帝)はついに詔して詢に娶らせた。まもなく公主の婿であることを理由に、特に 散騎常侍 に任ぜられた。時に本邑の中正が欠員となり、 司徒 が詢を召してこれに任じようとした。詢の族叔の昞が自らこの官を望むと申し出たので、詢はこれを譲った。当時の論評はこれを善とした。まもなく起居事を監し、秘書監に昇進した。
平南将軍・郢州刺史として出向した。詢は、凡司の戍主である蛮酋の田朴特が要害の地に居り、その衆は数万を超え、辺境の防衛に足りると考え、上表して朴特を西郢州刺史とするよう請うた。朝廷の議論はこれを許した。蕭衍(梁の武帝)が将軍の李国興を遣わして辺境を侵犯した。時に四方多事であり、朝廷は外征に余裕がなく、沿境の城戍は多く国興に陥落させられた。賊は乗勝の勢いで、州城に向かった。詢は兵を率いて固守し、百日近くに及んだ。援軍が到着すると、賊は退却した。 散騎常侍 ・安南将軍を加えられた。朴特は国興が来寇して以来、詢と犄角の勢いをなし、表裏で声援し、郢州が保全されたのは、朴特の力が大いにあった。
七兵尚書に召し還されたが、都に着いて間もなく、 豫 州刺史に任ぜられた。まもなく撫軍将軍の号を進められ、 散騎常侍 を加えられた。州に赴任しないうちに、再び七兵尚書に任ぜられ、常侍はもとのままとした。武泰初年、詔により詢は本官のまま侍中を兼ね、関右大使となり、義に慕う者を賞抜することとなった。出発しないうちに、尒朱栄が 洛陽 に入り、河陰で遇害した。五十一歳であった。侍中・車騎大将軍・ 司空 公・雍州刺史を追贈され、諡を貞烈といった。子はなかった。
修の弟の務は、字を陽仁といい、幼少より聡明であった。秀才に挙げられ、州から主簿に辟召された。早世した。
子の美は、字を師伯といい、若くして美名があった。秀才に挙げられ、州主簿となった。太尉咸陽王(元禧)が彼を特に賞愛し、娘を娶らせようとしたが、美は拒んで受け入れなかった。奉朝請に任ぜられたが、これも早世した。子はなかった。
務の弟の宣は、字を叔令といい、明晰な弁論と広い学識を持ち、早くから名声があった。幼くして孤児となり、母と兄に仕えて孝友で称えられた。秀才に挙げられ、都に至り、 司空 李訢に会い、朝から夕方まで語り合うと、訢は嘆賞してやまなかった。 司空 李冲は人物鑑識眼があり、宣を見て重んじた。
高祖(孝文帝)の初年、尚書主客郎に召された。蕭賾(斉の武帝)の使者である顔幼明・劉思效・蕭琛・范雲らと応対した。転じて都官郎となり、員外散騎侍郎に昇進した。旧令では吏部郎と同班であった。(欠文)高祖はかつて沙門を集めて仏経を講じさせ、宣に論難を命じたところ、大いに道理に適っていたので、高祖は善しと称えた。都を洛陽に遷すにあたり、宣を採材副将とした。使命を果たして上意に適い、遙かに 司空 諮議参軍に任ぜられた。府が解かれると、司州治中に転じ、 司徒 右長史を兼ね、また別駕に転じ、長史のままとした。宣は明敏で器量と才幹があり、州府の事務を総括し、事が滞ることがなく、遠近の人々に称えられた。世宗(宣武帝)の初年、太中大夫に任ぜられ、本郡中正を領し、別駕のままとした。また司州 都督 となり、太尉長史に昇進した。宣は上言した。「遷都以来、すべての戦場および軍が兵を返す道筋において、骸骨で覆い隠されていないものがある。すべて州郡の戍邏に命じて検分し埋め掩わせてほしい。また出兵した郷里に符を下し、その家に戦役で死んだ者がいる場合は、すべてその魂を招き、先祖の霊に合祀させ、その年の租調を免除してほしい。自身が傷ついた者は、その兵役を免じてほしい。」朝廷はこれに従った。
征虜将軍・益州刺史として出向した。宣は綏撫に長け、 羌 戎の心を大いに得た。晋寿を回復し、新たに益州を置き、宣が治めていた所を南秦州と改称した。先に、陰平の 氐 酋である楊孟孫が数万戸を擁し、自ら王を称え、蕭衍と通じ、しばしば辺境の患いとなっていた。宣は使者を遣わして招き諭し、逆順の道理を説くと、孟孫は恩を感じ、すぐに子を朝廷に遣わした。武興の氐である姜謨ら千余人が上書して期限延長を乞うた。世宗はこれを嘉した。
宣は家世代々儒学を業とし、常に廉退を慕う。毎に嘆いて曰く、「賈誼の才を以て、漢の文帝の世に仕え、公卿を歴ねず、将に運にあらざるか」と。乃ち親賓に謂いて曰く、「吾は本より閭閻の士、素より当世の志無く、直に牒に随いて推移し、遂に此に至る。禄は後に親を養うも、道は国を光さず、往哲を瞻言すれば、以て帰るを言うべし」と。因りて表して解任を求む。世宗許さず、乃ち『懐田賦』を作りて心を叙す。永平四年、患篤し、世宗太醫令を遣わし馳驛して就き視せしめ、 并 せて御薬を賜う。宣は素より陰陽の書に明るく、始めて患うより、便ち起たざるを知り、因りて自ら亡日を剋し、果たして其の言の如し。時に年五十八。世宗悼惜す。左将軍・ 豫 州刺史を贈り、諡して定と曰う。尋いで穆と改む。
子の敬憲・莊伯、並びに『文苑伝』に在り。
第四子の獻伯、武定末、廷尉卿。
裴安祖
駿の従弟安祖、少にして聡慧なり。年八九歳、師に就きて詩を講じ、鹿鳴篇に至り、諸兄に語りて云く、「鹿は禽獣と雖も、食を得て相呼び、況んや人をや」と。此より後、未だ嘗て独り食せず。弱冠、州に辟せられて主簿と為る。民に兄弟財を争い、州に詣りて相訟うる者有り。安祖其の兄弟を召し、礼義を以て之を責譲す。此人兄弟、明日相率いて謝罪す。内外之を欽服す。復た人其の入仕を勧むる有り、安祖曰く、「高尚の事は、敢えて庶幾せず。且つ京師遼遠、実に栖屑を憚るのみ」と。是に於いて閑居して志を養い、城邑を出でず。安祖嘗て行きて天熱に値い、樹下に舎す。鷙鳥雉を逐い、雉急ぎ之に投じ、遂に樹に触れて死す。安祖之を愍み、乃ち取りて陰地に置き、徐徐に護視す。良久くして蘇るを得。安祖喜びて之を放つ。後夜忽ち一丈夫を夢み、衣冠甚だ偉く、繡衣曲領を著け、安祖に向かいて再拝す。安祖怪しみて之を問う。此人云く、「君の前日の見放を感ず、故に来たりて徳を謝す」と。聞く者之を異とす。後高祖長安に幸し、河東に至り、故老を存問す。安祖蒲坂に朝し、高祖と語りて甚だ悦び、仍ち安邑令を拝す。安祖老病を以て固辞し、詔して一時の俸を給し、以て湯薬を供せしむ。年八十三、家に卒す。
子の思済、亦た志操有り、早卒す。子は宗賢。
思済の弟幼儁、猗氏令に卒す。
辛紹先
辛紹先、隴西狄道人なり。五世の祖怡、晋の幽州刺史。父淵、私に涼王李暠の 驍 騎将軍を署す。暠の子歆も亦た厚く之を遇す。歆、沮渠蒙遜と蓼泉に戦い、軍敗れて馬を失う。淵、乗する所の馬を以て歆を援け、而して身は難に死す。義烈を以て西土に見称せらる。世祖の涼州を平らぐるに、紹先内徙し、家を 晋陽 にす。明敏にして識量有り、広平の游明根・范陽の盧度世・同郡の李承等と甚だ相善しむ。至性有り、父憂に丁り、三年口に甘味を甘まず、頭櫛沐せず、発遂に落ち尽く。故に常に垂裙の皂帽を著く。中書博士より転じて神部令と為る。皇興中、薛安都彭城を以て国に帰す。時に朝廷初附を綏安せんと欲し、紹先を以て下邳太守と為し、寧朔将軍を加う。政を為すに苟も激察せず、其の大綱を挙ぐるのみ。唯だ民に産を治め賊を禦ぐの備を教う。劉彧の将陳顯達・蕭道成・蕭順之の来寇するに及び、道成順之に謂いて曰く、「辛紹先侵し易からず、宜しく共に之を慎むべし」と。是に於いて郡境を歴ねず、遂に径ち呂梁に屯す。太和十三年卒す。冠軍将軍・ 并州 刺史・晋陽公を贈り、諡して惠と曰う。
子の鳳達、道に耽り古を楽しみ、長者の名有り。京兆王子推の国常侍に卒す。
鳳達の子祥、字は萬褔。司州秀才に挙げらる。 司空 行参軍、遷りて主簿。 太傅 元丕 并 州刺史と為り、祥は丕の府属と為り、勅せられて建興郡を行く。咸陽王禧の妃は即ち祥の妻の妹なり。禧の逆を構うるに及び、親知多く塵謗に罹るも、祥独り蕭然として預からず。転じて 并 州平北府司馬と為る。会に刺史喪有り、朝廷其の公清を以て、遂に長史を越え、勅せられて州事を行く。祥初め司馬に在りし時、白壁の還兵薬道顯、賊と誣えらるる有り。官属推処し、皆以て然りと為す。祥曰く、「道顯面に悲色有り、獄を色に察するは、其れ此れを謂うか」と。苦しく執りて之を申す。月余、別に真賊を獲たり。
後に除して郢州龍驤府長史、義陽太守を帯ぶ。白早生の反するや、蕭衍衆を遣わし来援す。此に因りて淮に縁る鎮戍、相継ぎて降没す。唯だ祥堅城独り守る。蕭衍将の胡武城・陶平虜を遣わし、州南の金山の上に連営し侵逼す。衆情大いに懼る。祥従容として曉喻す。人心遂に安んず。時に出でて挑戦し、偽り退きて以て賊を驕らす。賊果たして日来り攻逼し、復た自ら備えず。乃ち夜出でて其の営を襲う。将に曉けんとするに、矢刃交えて下る。賊大いに崩散潰え、平虜を擒え、武城を斬り、以て京師に送る。州境全きを得。功を論じて方に賞授有らんとす。而して刺史婁悦、勳其の下に出るを耻じ、之を執政に聞ゆ。事竟に行われず。
胡賊の劉龍駒、華州に逆を作す。勅して祥を除して華州永安王爕の征虜府長史と為し、仍り別将と為し、討胡使薛和と与にし之を討滅す。神龜元年卒す。時に年五十五。永安二年、冠軍将軍・南青州刺史を贈る。
長子の琨、字は懷玉、少にして聰敏なり。解褐して相州倉曹参軍。稍く遷りて陳郡太守・軽車将軍・済州征虜府長史。卒す。年四十六。
琨の弟懷仁、武定末、長楽太守。
懷仁の弟の賁は、字を叔文という。若くして文学があり、識見と度量は沈着で優雅であった。初めて官に就き、北中府中兵参軍・員外散騎侍郎となった。建義の初め、起居注を修めた。済州撫軍府長史に任ぜられた。出帝の時、膠州車騎府長史に転じ、平東将軍、太師・咸陽王元坦の開府長史に昇進した。武定年間、中尉の崔暹が上表して賁を推薦し、太守(官名欠落)に任ぜられた。官吏と民衆はその恩恵を慕った。帰還し、鄴で死去した。時に五十八歳。
賁の弟の烈は、字を季武という。太傅東閤祭酒を歴任し、梁州鎮南府長史の任で死去した。
烈の弟の匡は、字を季政といい、大いに文学があった。永安の初め、封丘県令に初めて任ぜられ、威烈将軍を加えられた。当時は河陰の役の後であり、朝廷の士人の多くは外任を求めたので、匡がこれに任ぜられたのである。後に平遠将軍・符璽郎中に任ぜられた。龍驤将軍・通直散騎侍郎の任で死去し、時に三十五歳。 散騎常侍 ・前将軍・雍州刺史を追贈された。
祥の弟の少雍は、字を季仲という。幼い頃から聡明で、孝行があり、特に祖父の紹先に愛された。紹先は羊の肝を好み、常に少雍を呼んで共に食べた。紹先が亡くなると、少雍は終生肝を食べなかった。性質は仁厚で礼儀正しく、家内の規律は当時重んじられた。奉朝請に初めて任ぜられ、太学博士・員外散騎侍郎となった。 司空 ・高陽王元雍が田曹参軍に抜擢した。少雍は清廉公正な性質で、権勢を恐れず、長年未解決の訴訟も、即座に裁決し、私的な依頼は途絶え、当時賢明と称された。正始年間、詔により百官がそれぞれ知る者を推薦すると、高陽王元雍と吏部郎中李憲はともに少雍を筆頭に推薦した。給事中に昇進した。侍中の游肇も後に彼を推薦したが、死去に遭い、四十二歳であった。少雍の妻の王氏は、徳義があり、その甥の懷仁兄弟と同居し、懷仁らは彼女を非常に謹んで仕え、家内の礼儀と譲り合いは、他に比べる者がなかった。士大夫はこれを称賛した。
子の元植は、武定年間、儀同府司馬となった。
元植の弟の士遜は、太師開府功曹参軍となった。
鳳達の弟の穆は、字を叔宗という。茂才に挙げられ、東雍州別駕となった。初め父に従って下邳におり、彭城の陳敬文と親しくした。敬文の弟の敬武は、幼くして沙門となり、師に従って遠方に学びに行き、長く帰らなかった。敬文は病で臨終に際し、雑綾二十匹を穆に託して敬武に渡すようにした。穆は長く探したが見つからなかった。二十余年を経て、ようやく洛陽で敬武に会い、品物を返したが、封緘と題籤は元のままであった。世間はその廉潔と信義を称えた。東荊州司馬を歴任し、長史に転じ、義陽太守を兼ね、戍を管轄した。民を思いやる名声があった。汝陽太守に転じた時、水害で民が飢えたため、上表して租税の軽減を請うた。帝はこれに従い、汝陽一郡に限り、小絹をもって調とすることを許した。中散大夫に昇進し、龍驤将軍を加えられた。正光四年、老齢を理由に致仕を求めた。詔により引見され、穆の志気と体力はまだ用いられると言われ、平原相に任ぜられた。穆はよく民を慰撫導いたので、民と官吏は彼を慕った。孝昌二年、征虜将軍・太中大夫に召されたが、出発せずに郡で死去した。七十七歳。後将軍・幽州刺史を追贈され、諡を貞といった。
長子の子馥は、字を元穎といい、早くから学問と行いがあった。孝昌の初め、南司州龍驤府録事参軍に初めて任ぜられた。父の喪に服し、喪に服する礼を守った。後に給事中・南冀州防城 都督 に任ぜられた。平素より荘帝に知られており、即位すると、宣威将軍・尚書右主客郎中に任ぜられ、節を持って南済・冀・済・青の四州慰労使となった。まもなく寧朔将軍・員外 散騎常侍 に任ぜられ、引き続き郎中を兼ねた。太宰の元天穆が邢杲を征討する時、行臺郎中に抜擢した。まもなく平原相に任ぜられた。子馥父子ともにこの郡を治めたので、官吏と民衆は安心して暮らした。元顥が洛陽に入ると、子馥はその赦令を受け入れなかった。刺史の元仲景が元顥に従ったため、子馥を拘束し、家族も監禁した。荘帝が政権を取り戻すと、詔により三門県開国男に封ぜられ、食邑二百戸を与えられた。天平年間、東南道行臺左丞・徐州開府長史となった。召されて太尉府司馬となった。長白山は三斉に連なり、瑕丘など数州の境界で、盗賊が多かった。子馥は使命を受けて検分し、山谷の要害を弁え、鎮戍を置くべき場所を定めた。また諸州の豪族が山中で鋳造を行い、悪党が多くこれに依り、密かに兵器を造っていることもあり、諸々の冶所を廃止するよう請うた。朝廷はこれを良しとして従った。帰還し、尚書右丞に任ぜられ、清河太守として出向した。武定八年、郡で死去した。子馥は三伝(春秋の注釈書)が経文について同じことを説きながら異なる点があるのを、遂に一つにまとめ、伝と注を併せ出し、長短を校訂しようとしたが、完成せずに亡くなった。
子の德維は、武定末、 司徒 行参軍となった。
子馥の弟の子華は、字を仲夷という。天平年間、右光禄大夫となった。
柳崇
柳崇は、字を僧生といい、河東郡解県の人である。七世の祖の軌は、晋の廷尉卿であった。崇は方正で優雅、器量があり、身長八尺、美しい鬚と明るい目を持ち、学問と行いを兼ね備えていた。秀才に挙げられ、射策で高第となった。太尉主簿・尚書右外兵郎中に初めて任ぜられた。当時、河東・河北の二郡が境界を争い、その間に塩池の豊かさと虜坂の利便があり、郡守と民衆は皆、他郡に割譲されることを恐れた。公私の徒が争い、朝廷に喧噪が絶えなかった。高祖(北魏の皇帝)は崇を派遣して裁定させ、民と官吏の訴訟を鎮めた。荊州・郢州が新たに帰附し、南方の敵寇が窺い騒がしい時、また詔により崇は節を持って州郡と計画を練り、兼ねて慰撫の言葉を加えた。帰還し、太子洗馬・本郡邑中正に昇進した。中壘将軍・散騎侍郎に転じた。 司空 司馬・兼 衞 尉少卿に昇進し、また邑中正を兼ねた。河北太守として出向した。崇が郡に着任した初め、郡民の張明が馬を失い、十余人が疑われた。崇は彼らに会い、盗賊の事は問わず、一人一人に別々に温顔を借り、さらにその親が老いて存命かどうか、農桑の多少を尋ね、微かにその言葉と顔色を観察した。すぐに真犯人である呂穆ら二人を捕らえ、残りは皆釈放した。郡中は畏服し、境内は平穏であった。官任で死去し、五十六歳。輔国将軍・岐州刺史を追贈され、諡を穆といった。崇の作った文章は、戦乱で散逸した。
長子の慶和は、性質が沈着で静かであり、時流に競わなかった。奉朝請から初めて官に就き、次第に軽車将軍・給事中・本郡邑中正に昇進した。死去した。
子の德逸は、武定末、斉王丞相府主簿となった。
慶和の弟の楷は、字を孝則という。身長八尺、草書を得意とし、広く文史に通じていた。員外散騎侍郎に初めて任ぜられた。蕭(名欠落)が西征する時、車騎主簿に抜擢され、引き続き行臺郎中となった。征討から帰還し、員外郎として殿中侍御史を兼ねた。太尉記室参軍に転じ、寧遠将軍・通直散騎侍郎・本郡邑中正に昇進した。普泰の初め、集書省の官を簡選して定める時、征虜将軍・ 司徒 從事・中書郎として出向し、儀同開府長史に転じた。天平年間、肆州驃騎府長史となり、かなりの名声があった。また中軍将軍を加えられた。興和年間、撫軍司馬となり、病に遭って死去した。
高崇の従父の弟の元章は、姿形が魁偉であった。太尉中兵参軍・ 司空 録事・ 司徒 従事中郎を歴任し、相州平東府長史に遷った。時に刺史の元熙が兵を起こし、元叉を除こうとした。元章は魏郡太守の李孝怡らと共に元熙を捕らえた。爵を猗氏伯に賜り、正平太守に任じられた。後に霊太后が政権に復帰すると、官爵を削除され、家で卒した。
柳敬起
高崇の族弟の敬起は、字を華之という。中書博士より起家し、城陽王文学に転じた。寧遠将軍・尚書儀曹郎中・龍驤将軍・平陽太守に任じられた。卒した。五人の子があった。
長子の永は、字を神護といい、性質は粗率であった。奉朝請より解褐し、員外散騎侍郎に転じた。太尉記室参軍に任じられ、諫議大夫に遷り、また征虜将軍・太中大夫・本郡邑中正に転じた。母が老齢のため官を解いて帰り養い、家で卒した。征西将軍・秦州刺史を追贈された。
柳永の弟の暢は、字を叔智という。奉朝請より出で、三転して伏波将軍・岐州征虜府長史となった。征虜将軍・魯陽太守に遷った。還り、左将軍・太中大夫に任じられ、安東将軍・光禄大夫に転じ、卒した。衛大将軍・雍州刺史を追贈され、諡して穆といった。
柳暢の弟の範は、字を洪礼という。前将軍・給事中・本州大中正の任に在りて卒した。
柳範の弟の粹は、字を季義といい、叔父の仲起の後を継いだ。武定の末、平東将軍・後軍将軍を経て、遼西太守に遷った。
敬起の弟の仲起は、字を紹隆という。秀才に挙げられ、咸陽王元禧が州牧となった時、西曹書佐に辟召された。子がなく、兄の子の粹がその後を継いだ。
柳儁起
高崇の族子の儁起は、若くして志尚があった。奉朝請より解褐し、太尉黙曹参軍・伏波将軍・ 司徒 倉曹参軍に転じた。卒した。
長子の達摩は、武定の末、陽城太守であった。
儁起の従父の弟の援は、字を乾護といい、身長八尺、儀望は甚だ偉であった。太尉鎧曹参軍より解褐し、護軍司馬に転じた。次第に冠軍将軍・ 司空 長史に遷り、廷尉少卿に転じた。出て安西将軍・南秦州刺史に任じられた。まもなく 散騎常侍 ・鎮軍将軍となり、征西将軍・金紫光禄大夫に転じた。車騎将軍・右光禄大夫に遷った。卒し、本官の将軍・秦州刺史を追贈された。
子の長粲は、武定の末、青州驃騎府中兵参軍であった。
柳援の従父の弟の仲景は、汝南王元悦の常侍であった。
【史論】
史臣が曰く、韋氏・杜氏は旧族にして門風あり、その名声もまた衰えず。裴氏・辛氏・柳氏は、素業に資あり、器量と行いは代々受け継がれた。これをもって列位に布き、その美を替えざる所以なり。
校勘記