魏書

卷45 韋閬 杜銓 裴駿 辛紹先 柳崇

卷45 韋閬 杜銓 裴駿 辛紹先 柳崇

韋閬

原文韋閬

韋閬は、字を友観といい、京兆杜陵の人である。代々三輔の名族であった。祖父の楷は、晋の建威将軍・長楽・清河二郡太守であった。父の逵は、慕容垂の吏部郎・大長秋卿であった。閬は若くして器量と声望があり、慕容氏の政乱に遭い、薊城に避難した。世祖(太武帝)が召し出して咸陽太守に任じ、後に武都太守に転じた。杏城鎮将の郝温および蓋呉が反乱を起こし、関中が混乱した時、閬は心を尽くして民を慰撫し収容したので、その管轄区域だけは無事であった。郡に十六年在任し、死去した。

原文韋閬,字友觀,京兆杜陵人。世為三輔冠族。袓楷,晉建威將軍、長樂清河二郡太守。父逵,慕容垂吏部郎、大長秋卿。閬少有器望,值慕容氏政亂,避地於薊城。世祖徵拜咸陽太守,轉武都太守。屬杏城鎮將郝溫及蓋吳反,關中擾亂,閬盡心撫納,所部獨全。在郡十六年,卒。

子の範は、鎮西大将軍府司馬を歴任し、華山郡の太守を試みた。高宗(文成帝)の時、興平男の爵位を賜った。死去した。

原文子範,歷鎮西大將軍府司馬,試守華山郡。高宗時,賜爵興平男。卒。

子の儁は、字を穎超といい、早くから学識があった。幼くして孤児となり、祖母に仕えて孝行で知られた。性質は温和で廉潔謙譲であり、州里で称賛された。太和年間に爵位を継いだ。荊州治中に任じられ、梁州寧朔府長史に転じた。帰還して、太尉外兵参軍・本州中正となり、都水使者に昇進した。在任地ごとに名声があった。世宗(宣武帝)が崩御すると、領軍の于忠が威刑を擅(ほしいまま)にし、左僕射の郭祚・尚書の裴植と同時に害され、その言葉は『植伝』にある。時に五十七歳であった。儁は郭祚と姻戚関係にあり、于忠に憎まれたため、難に及んだのである。臨終に際し、儁は尚書の元欽に無実を訴えたが、欽は知りながらも理を申し立てることができなかった。儁は嘆いて言った。「我は一生善を行い、善の報いを受けたことはない。常に悪を行わなかったのに、今悪の終わりを迎える。はるかなる蒼天よ、正直を抱きながら訴えるところなし!」当時の人々は皆、怨み悲しんだ。熙平元年、中壘将軍・洛州刺史を追贈され、諡を貞といった。十三人の子があった。

原文子儁,字穎超,早有學識。少孤,事祖母以孝聞。性溫和廉讓,為州里所稱。太和中,襲爵。除荊州治中,轉梁州寧朔府長史。還,為太尉外兵參軍、本州中正,遷都水使者。所在有聲。世宗崩,領軍于忠矯擅威刑,與左僕射郭祚、尚書裴植同時遇害,語在〈植傳〉。時年五十七。儁與祚婚家,為忠所惡,故及於難。臨終,儁訴枉於尚書元欽,欽知而不敢申理。儁歎曰:「吾一生為善,未蒙善報;常不為惡,今為惡終。悠悠蒼天,抱直無訴!」時人咸怨傷焉。熙平元年,追贈中壘將軍、洛州刺史,諡曰貞。有子十三人。

長男の栄緒は、字を子光といい、広く文史に通じていた。爵位を継ぎ、員外散騎侍郎・斉王蕭宝夤の儀同開府属に任じられたが、戦いに敗れて戦死した。

原文長子榮緒,字子光,頗涉文史。襲爵,除員外散騎侍郎、齊王蕭寶夤儀同開府屬,因戰敗歿。

栄緒の弟の栄茂は、字を子曄という。才幹と器量で知られた。侍御史・尚書考功郎中を歴任した。出向して征虜将軍・東秦州刺史となった。永熙の末、兄弟ともに関西で没した。

原文榮緒弟榮茂,字子曄。以幹局知名。歷侍御史、尚書考功郎中。出為征虜將軍、東秦州刺史。永熙末,兄弟並歿關西。

栄茂の弟の子粲は、宝炬(西魏の文帝)の下で南汾州刺史となった。

原文榮茂弟子粲,為寶炬南汾州刺史。

子粲の末弟の道諧は、南汾州鎮城都督となった。斉献武王(高歓)が将を命じて討伐に出させ、城を陥落させてこれを制圧した。武定の末、子粲の官位は南兗州刺史に至った。

原文子粲少弟道諧,為南汾州鎮城都督。齊獻武王命將出討,陷城克之。武定末,子粲官至南兗州刺史。

韋真喜

原文韋真喜

閬の兄の子の真喜は、中書博士から起家し、中書侍郎・馮翊太守に昇進した。

原文閬兄子真喜,起家中書博士,遷中書侍郎、馮翊太守。

子の祉は、太府少卿の任で死去した。

原文子祉,卒於太府少卿。

祉の子の義遠は、出帝(孝武帝)の時、岐州刺史となり、関西で没した。

原文祉子義遠,出帝時,為岐州刺史,沒關西。

祉の弟の禎は、識見と才幹があった。奉朝請から起家した。尚書郎中・司徒主簿・太子中舎人・廷尉少卿・給事黄門侍郎・光禄大夫を歴任した。死去し、安西将軍・秦州刺史を追贈された。

原文祉弟禎,有識幹。起家奉朝請。尚書郎中、司徒主簿、太子中舍人、廷尉少卿、給事黃門侍郎、光祿大夫。卒,贈安西將軍、秦州刺史。

子の文殊は、員外散騎侍郎となり、早世した。

原文子文殊,員外散騎侍郎,早卒。

韋道福

原文韋道福

閬の従叔父に道福あり。父の羆は、苻堅の丞相王猛に器重せられ、娘を娶らせて妻と為す。堅に仕えて東海太守と為る。堅の滅びたる後、江左に奔り、劉裕に仕えて輔国将軍・秦州刺史と為る。道福は志略あり、劉駿の下で盱眙・南沛二郡太守を歴任し、鎮北府録事参軍を領す。時に徐州刺史薛安都、州を擁して内附せんと謀る。道福はその事に参賛す。功により安遠将軍を除かれ、爵を高密侯に賜い、これにより彭城に家を定む。卒し、征虜将軍・兗州刺史を贈られ、諡して簡と曰う。

原文閬從叔道福。父羆,為苻堅丞相王猛所器重,以女妻焉。為堅東海太守。堅滅,奔江左,仕劉裕為輔國將軍、秦州刺史。道福有志略,歷劉駿盱眙、南沛二郡太守,領鎮北府錄事參軍。時徐州刺史薛安都謀欲擁州內附,道福參贊其事。以功除安遠將軍,賜爵高密侯,因此仍家於彭城。卒,贈征虜將軍、兗州刺史,諡曰簡。

子の欣宗は、帰国の勲により、別に爵を杜県侯に賜う。高祖(北魏孝文帝)の初め、彭城内史に拝され、大将軍・宋王劉昶の諮議参軍に遷る。広陵侯元衍が徐州刺史と為り、また長史を請い、彭城内史を帯ぶ。内外を撫綏し、民の和を甚だ得たり。世宗(宣武帝)の初め、通直散騎常侍を除かれ、出でて河北太守と為るも、行かず。尋いで太中大夫に転じ、幽州事を行ふ。卒し、龍驤将軍・南兗州刺史を贈られ、諡して簡と曰う。

原文子欣宗,以歸國勳,別賜爵杜縣侯。高祖初,拜彭城內史,遷大將軍、宋王劉昶諮議參軍。廣陵侯元衍為徐州刺史,又請為長史,帶彭城內史。撫綏內外,甚得民和。世宗初,除通直散騎常侍,出為河北太守,不行。尋轉太中大夫、行幽州事。卒,贈龍驤將軍、南兗州刺史,諡曰簡。

子の元叡、武定年中、潁州驃騎府長史。

原文子元叡,武定中,潁州驃騎府長史。

欣宗の従父弟合宗、東海太守にて卒す。

原文欣宗從父弟合宗,卒於東海太守。

子の元恢、気幹あり。孝昌の初め、刺史元法僧が州を拠りて外叛するに値い、元恢は同志を招聚し、潜かに克復を規るも、事泄れ、法僧に害せらる。時に人これを傷み惜しむ。

原文子元恢,有氣幹。孝昌初,值刺史元法僧據州外叛,元恢招聚同志,潛規克復,事泄,為法僧所害。時人傷惜之。

韋崇

原文韋崇

閬の従子に崇あり、字は洪基。父は肅、字は道寿。劉義真関中を鎮むるに、主簿に辟し、仍て義真に随ひて江を度り、魏郡・弋陽二郡太守・豫州刺史を歴任す。崇年十歳にして父卒す。母鄭氏、国に入るに因り、河洛に寓居す。少くして舅の兗州刺史鄭羲に器賞せらる。解褐して中書博士、転じて司徒従事中郎と為る。高祖その女を納れて充華嬪と為す。南潁川太守を除かる。細事を発摘するを好まず、常に云く、「何ぞ小察を用いて、以て大道を傷つけんや」と。吏民これに感じ、郡中大いに治まる。高祖聞きて嘉賞し、帛二百匹を賜ふ。洛に遷り、崇を以て司州中正と為し、尋いで右将軍、咸陽王禧の開府従事中郎を除き、復た河南邑中正と為る。崇頻りに衡品に居り、平直を以て称さる。出でて郷郡太守と為り、更満して代わるべしとすれども、吏民闕に詣でて留まるを乞ひ、復た三年を延ぶ。郡に在ること九年、転じて司徒諮議と為る。久しくして華山太守を除かれ、卒す。

原文閬從子崇,字洪基。父肅,字道壽。劉義真鎮關中,辟為主簿,仍隨義真度江,歷魏郡弋陽二郡太守、豫州刺史。崇年十歲,父卒,母鄭氏以入國,因寓居河洛。少為舅兗州刺史鄭羲所器賞。解褐中書博士,轉司徒從事中郎。高祖納其女為充華嬪。除南潁川太守,不好發摘細事,常云:「何用小察,以傷大道。」吏民感之,郡中大治。高祖聞而嘉賞,賜帛二百匹。遷洛,以崇為司州中正,尋除右將軍,咸陽王禧開府從事中郎,復為河南邑中正。崇頻居衡品,以平直見稱。出為鄉郡太守,更滿應代,吏民詣闕乞留,復延三年。在郡九年,轉司徒諮議。久之,除華山太守,卒。

子の猷之、奉朝請にて解褐し、転じて給事中・歩兵校尉、稍く遷りて前将軍・太中大夫と為る。卒す。

原文子猷之,釋褐奉朝請,轉給事中、步兵校尉,稍遷前將軍、太中大夫。卒。

猷之の弟休之、安州左将軍府城局参軍にて起家し、転じて給事中・河南邑中正、稍く遷りて安西将軍・光禄大夫と為る。休之は貞和自ら守り、未だ嘗て言行を以て物に忤わず。卒す。

原文猷之弟休之,起家安州左將軍府城局參軍,轉給事中、河南邑中正,稍遷安西將軍、光祿大夫。休之貞和自守,未嘗以言行忤物。卒。

子の道建、武定末、定州儀同開府長史、中山太守を帯ぶ。

原文子道建,武定末,定州儀同開府長史,帶中山太守。

道建の弟道儒、斉の文襄王大将軍府東閤祭酒。

原文道建弟道儒,齊文襄王大將軍府東閤祭酒。

韋珍

原文韋珍

閬の族弟に珍あり、字は霊智、高祖名を賜ふ。父は尚、字は文叔、楽安王良の安西府従事中郎。卒し、安遠将軍・雍州刺史を贈らる。珍少くして志操あり。解褐して京兆王子推の常侍、転じて尚書南部郎と為る。

原文閬族弟珍,字靈智,高祖賜名焉。父尚,字文叔,樂安王良安西府從事中郎。卒,贈安遠將軍、雍州刺史。珍少有志操。解褐京兆王子推常侍,轉尚書南部郎。

高祖の初め、蛮首桓誕帰款す。朝廷辺境を安んずるの略を思い、誕を以て東荊州刺史と為す。珍を使と為し、誕と共に蛮左を招慰せしむ。珍懸瓠より西に入ること三百余里、桐栢山に至り、淮源を窮め、恩沢を宣揚すれば、降附せざる莫し。淮源旧に祠堂あり、蛮俗恒に人を用いてこれを祭る。珍乃ち曉告して曰く、「天地の明霊は、即ち民の父母なり、豈に父母子の肉味を甘んずるあらんや。今より已後、悉く宜しく酒脯を以て代用すべし」と。群蛮約に従ひ、今に至るまでこれを行ふ。凡そ招降すること七万余戸、郡県を置きて還る。奉使旨に称するを以て、左将軍・楽陵鎮将を除かれ、爵を霸城子に賜ふ。

原文高祖初,蠻首桓誕歸款,朝廷思安邊之略,以誕為東荊州刺史。令珍為使,與誕招慰蠻左。珍自懸瓠西入三百餘里,至桐栢山,窮淮源,宣揚恩澤,莫不降附。淮源舊有祠堂,蠻俗恒用人祭之。珍乃曉告曰:「天地明靈,即是民之父母,豈有父母甘子肉味!自今已後,悉宜以酒脯代用。」羣蠻從約,至今行之。凡所招降七萬餘戶,置郡縣而還。以奉使稱旨,除左將軍、樂陵鎮將,賜爵霸城子。

蕭道成の司州民謝天蓋自ら司州刺史を署し、規て州を以て内附せんと欲す。事泄れ、道成の将崔慧景に攻囲せらる。詔して珍に率いるに在鎮の士馬を以てし、淮を渡り援接せしむ。時に道成珍将に至らんと聞き、将苟元賓を遣わし淮を拠りて逆拒せしむ。珍乃ち鉄馬を分遣し、上流に於いて潜かに渡り、親ら歩士を率いて賊と対接す。旗鼓始めて交わるや、甲騎奄に至り、腹背奮撃してこれを破る。天蓋尋いで左右に殺され、慧景に降る。珍勝に乗じて馳進し、又た慧景を破り、降民七千余戸を擁して内徙し、表して城陽・剛陵・義陽の三郡を置きてこれを処す。高祖詔して珍をして比陽に移鎮せしむ。蕭賾その雍州刺史陳顕達を遣わし衆を率いて来寇す。城中の将士咸く出戦せんと欲す。珍曰く、「彼初めて至り気鋭し、未だ便ち挫くべからず。且く共に堅守し、その我を攻めて疲弊するを待ち、之を撃つも未だ晩しからず」と。是に於いて城に憑りて拒戦し、殺傷甚だ衆し。相持つこと旬有二日、夜城門を開きて掩撃すれば、賊遂に奔潰す。功により爵を侯に進む。

原文蕭道成司州民謝天蓋自署司州刺史,規欲以州內附。事泄,為道成將崔慧景攻圍。詔珍率在鎮士馬渡淮援接。時道成聞珍將至,遣將苟元賓據淮逆拒。珍乃分遣鐵馬,於上流潛渡,親率步士與賊對接。旗鼓始交,甲騎奄至,腹背奮擊,破之。天蓋尋為左右所殺,降於慧景。珍乘勝馳進,又破慧景,擁降民七千餘戶內徙,表置城陽、剛陵、義陽三郡以處之。高祖詔珍移鎮比陽,蕭賾遣其雍州刺史陳顯達率眾來寇。城中將士咸欲出戰,珍曰:「彼初至氣銳,未可便挫,且共堅守,待其攻我疲弊,擊之未晚。」於是憑城拒戰,殺傷甚眾。相持旬有二日,夜開城門掩擊之,賊遂奔潰。以功進爵為侯。

車駕が南征した際、珍は便宜を上奏し、また自ら辺境に長く在ったので要害を悉く知っており、先鋒を願い出た。詔により珍は隴西公源懐の衛大将軍府長史となり、転じて太保・斉郡王の長史となった。顕武将軍・郢州刺史に遷り、州において声望と実績があり、朝廷はこれを嘉した。龍驤将軍に遷り、驊騮二匹・帛五十匹・穀三百斛を賜った。珍はそこで州内の孤貧の者を召集し、言うには「天子は私が卿らを綏撫できるとして、穀帛を賜うた。私はどうして独りでこれを当てにできようか」と。そこで賜った物を悉く彼らに分け与えた。まもなく平南将軍・荊州刺史を加えられ、尚書盧淵と共に赭陽を征したが、蕭鸞の将垣歴生・蔡道貴に敗れ、免官されて郷里に帰った。臨別に盧淵に言うには「主上は聖明で、呉会を併呑する志があり、用兵の機要は上流にある。もし荊楚に事があれば、恐らく老夫はまた留まるを得ないであろう」と。後に車駕が樊郢を征した時、再び珍を起用して中軍大将軍・彭城王勰の長史とした。沔北が平定されると、珍を建威将軍とし、試みに魯陽郡を守らせた。

原文車駕南討,珍上便宜,并自陳在邊歲久,悉其要害,願為前驅。詔珍為隴西公源懷衞大將軍府長史,轉太保、齊郡王長史。遷顯武將軍、郢州刺史,在州有聲績,朝庭嘉之。遷龍驤將軍,賜驊騮二匹、帛五十匹、穀三百斛。珍乃召集州內孤貧者,謂曰:「天子以我能綏撫卿等,故賜以穀帛,吾何敢獨當。」遂以所賜悉分與之。尋加平南將軍、荊州刺史,與尚書盧淵征赭陽,為蕭鸞將垣歷生、蔡道貴所敗,免歸鄉里。臨別謂淵曰:「主上聖明,志吞吳會,用兵機要,在於上流。若有事荊楚,恐老夫復不得停耳。」後車駕征樊郢,復起珍為中軍大將軍、彭城王勰長史。沔北既平,以珍為建威將軍,試守魯陽郡。

高祖が再び南伐した時、路は珍の郡を経由し、中壘将軍を加え、正太守とした。珍は従って済水に至ったが、高祖は言うには「朕は近頃兵車を再び駆ったが、卿は常に中軍の翼務を務め、今日の挙もまた卿と同行したい。しかし三鵶は険悪であり、卿でなければ守れない」と。そこで珍に辞して還るよう命じた。高祖が行宮で崩御した時、秘匿して還り、珍の郡に至って初めて大諱を発した。還って中散大夫に除かれ、まもなく鎮遠将軍・太尉諮議参軍を加えられた。永平元年に卒し、時に七十四歳であった。本将軍・南青州刺史を贈られ、諡して懿といった。

原文高祖復南伐,路經珍郡,加中壘將軍,正太守。珍從至濟水,高祖曰:「朕頃戎車再駕,卿常翼務中軍,今日之舉,亦欲與卿同行。但三鵶險惡,非卿無以守也。」因敕珍辭還。及高祖崩於行宮,祕匿而還,至珍郡始發大諱。還,除中散大夫,尋加鎮遠將軍、太尉諮議參軍。永平元年卒,時年七十四。贈本將軍、南青州刺史,諡曰懿。

長子の纘は、字は遵彦。十三歳の時、中書学生に補せられ、聡敏で明弁であり、博士李彪に称された。秘書中散に除かれ、侍御中散に遷った。高祖が名徳の沙門と往復談論する度に、纘は綴録を掌り、遺漏することなく、頗る知賞された。散騎侍郎に転じ、太子中舎人に徙り、仍って黄門を兼ね、また司徒右長史を兼ね、まもなく長兼尚書左丞に転じた。寿春が内附すると、尚書令王粛が揚州に出鎮し、纘を長史に請い、平遠将軍を加え、梁郡太守を帯びた。王粛が薨じると、詔により纘が州事を行った。任城王澄が王粛に代わって州となると、再び纘を長史に啓した。澄が出征した後、蕭衍の将姜慶真が虚に乗じて攻撃し、遂に外郭を占拠したが、まもなく克復したものの、纘は坐して免官された。永平三年に卒し、四十五歳であった。

原文長子纘,字遵彥。年十三,補中書學生,聰敏明辯,為博士李彪所稱。除祕書中散,遷侍御中散。高祖每與名德沙門談論往復,纘掌綴錄,無所遺漏,頗見知賞。轉散騎侍郎,徙太子中舍人,仍兼黃門,又兼司徒右長史,尋轉長兼尚書左丞。壽春內附,尚書令王肅出鎮揚州,請纘為長史,加平遠將軍,帶梁郡太守。肅薨,敕纘行州事。任城王澄代肅為州,復啟纘為長史。澄出征之後,蕭衍將姜慶真乘虛攻襲,遂據外郭,雖尋克復,纘坐免官。永平三年卒,年四十五。

纘の弟の彧は、字は遵慶、また学識があった。奉朝請より解褐し、太尉騎兵参軍に遷った。出て雍州治中となり、別駕に転じた。入って司徒掾となり、まもなく散騎侍郎に転じた。稍く遷って平遠将軍・東豫州刺史となった。彧は蛮左を綏懐し、頗るその心を得た。蛮首田益宗の子魯生・魯賢は先に父に叛いて南入し、数度寇掠していた。彧が州に至ってから、魯生らは皆牋啓を修めて敬意を表し、再び害を為さなくなった。彧は蛮俗が荒梗で礼儀を知らないとして、表して太学を立て、諸郡の生徒を選んで州で総教した。また城北に宗武館を置いて武を習わせた。境内は清粛となった。還ると、大将軍・京兆王継の西征に遇い、長史を請われ、通直散騎常侍に拝された。まもなく本官をもって尚書を兼ね、豳夏行台となった。功により陰盤県開国男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。孝昌元年秋、長安で卒した。撫軍将軍・雍州刺史を贈られ、諡して文といった。

原文纘弟彧,字遵慶,亦有學識。解褐奉朝請,遷太尉騎兵參軍。出為雍州治中,轉別駕。入為司徒掾,尋轉散騎侍郎。稍遷平遠將軍、東豫州刺史。彧綏懷蠻左,頗得其心。蠻首田益宗子魯生、魯賢先叛父南入,數為寇掠。自彧至州,魯生等咸牋啟修敬,不復為害。彧以蠻俗荒梗,不識禮儀,乃表立太學,選諸郡生徒於州總教。又於城北置宗武館以習武焉。境內清肅。還,遇大將軍、京兆王繼西征,請為長史,拜通直散騎常侍。尋以本官兼尚書,為豳夏行臺。以功封陰盤縣開國男,邑二百戶。孝昌元年秋,卒於長安。贈撫軍將軍、雍州刺史,諡曰文。

子の彪は襲封した。本州治中を歴任し、別駕に転じた。孝庄帝の末、藍田太守となった。関西で没した。

原文子彪,襲。歷本州治中、轉別駕。孝莊末,藍田太守。沒於關西。

彪の弟の融は、員外散騎侍郎より解褐した。軍功により爵長安伯を賜った。稍く遷って大司馬開府司馬となった。融は司農卿趙郡李瑾の女を娶ったが、天平年中、妻が章武王景哲と姦通したと疑い、遂に刺殺した。免れ得ぬことを懼れ、また自害した。

原文彪弟融,解褐員外散騎侍郎。以軍功賜爵長安伯。稍遷大司馬開府司馬。融娶司農卿趙郡李瑾女,天平中,疑其妻與章武王景哲姦通,乃刺殺之。懼不免,仍亦自害。

彧の弟の朏は、字は遵顕、少より志業があった。十八歳の時、州主簿に辟せられた。時に凶年に属し、朏は家の粟で粥を造り、飢えた人に与え、多くを生かした。太学博士より解褐し、秘書郎中に遷り、稍く遷って左軍将軍となり、荊郢和糴大使となった。南郢州刺史田夷が啓して、朏の父珍が往年荊州に任じ、夷夏に恩が洽ったと称し、朏を南道別将に充て、荊州の驍勇を領かせ、共に腹背となることを乞うた。詔して従った。まもなく、南荊州事を行った。粛宗の末、征虜将軍・東徐州刺史に除かれ、まもなく安東将軍に遷り、散騎常侍を加えられた。蕭衍がその郢州刺史田麤憘に衆を率いて来寇させたが、朏は石羊崗でこれを破り斬り、功により杜県開国子に封ぜられ、邑二百戸を賜った。永安三年、州で卒した。侍中・車騎将軍・雍州刺史を贈られ、諡して宣といった。

原文彧弟朏,字遵顯,少有志業。年十八,辟州主簿。時屬歲儉,朏以家粟造粥,以飼飢人,所活甚眾。解褐太學博士,遷祕書郎中,稍遷左軍將軍,為荊郢和糴大使。南郢州刺史田夷啟稱朏父珍往任荊州,恩洽夷夏,乞朏充南道別將,領荊州驍勇,共為腹背。詔從之。未幾,行南荊州事。肅宗末,除征虜將軍、東徐州刺史,尋遷安東將軍,加散騎常侍。蕭衍遣其郢州刺史田麤憘率眾來寇,朏於石羊崗破斬之,以功封杜縣開國子,邑二百戶。永安三年,卒於州。贈侍中、車騎將軍、雍州刺史,諡曰宣。

長子の鴻は、字は道衍、頗る幹用があった。奉朝請より解褐し、尚書令吏部郎中・中書舎人に遷った。天平三年、漏泄に坐し、家で賜死し、時に三十二歳であった。

原文長子鴻,字道衍,頗有幹用。解褐奉朝請,遷尚書令吏部郎中、中書舍人。天平三年,坐漏泄,賜死於家,時年三十二。

鴻の弟の道植は、武定末、儀同開府中兵参軍となった。

原文鴻弟道植,武定末,儀同開府中兵參軍。

太祖の時、安定の梁穎があり、先に慕容宝に仕え、黄門郎を歴任した。国に入り、建徳太守に拝され、爵朝那男を賜った。

原文太祖時,有安定梁穎,先仕慕容寶,歷黃門郎。入國,拜建德太守,賜爵朝那男。

孫の景儁は、趙郡王幹の行参軍より起家した。稍く遷って治書侍御史・司徒中兵参軍となった。卒した。

原文孫景儁,起家趙郡王幹行參軍。稍遷治書侍御史、司徒中兵參軍。卒。

子の師礼は、早く卒した。

原文子師禮,早卒。

韋嵩遵

原文韋嵩遵

師礼の族弟の嵩遵は、少より気侠があった。奉朝請より起家し、司空外兵参軍を歴任した。後に蕭宝夤が雍州刺史となると、中兵参軍に引き立てられ、深く信任された。宝夤が反すると、嵩遵に衆を率いて出征させた。嵩遵は偽ってその署を受け、既に行った後、遂に侯終徳らと共に還って来襲した。功により烏氏県開国伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。後に光州平東府長史に除かれ、転じて荊州驃騎府司馬となった。官で卒し、四十四歳であった。

原文師禮族弟嵩遵,少有氣俠。起家奉朝請,歷司空外兵參軍。後蕭寶夤為雍州刺史,引為中兵參軍,深見信任。寶夤反,令嵩遵率眾出征。嵩遵偽受其署,既行之後,遂與侯終德等還來襲城。以功封烏氏縣開國伯,邑五百戶。後除光州平東府長史,轉荊州驃騎府司馬。卒官,年四十四。

嵩遵の弟の嵩景は、武定年中、燕郡太守となった。

原文嵩遵弟嵩景,武定中,燕郡太守。

蘇湛

原文蘇湛

また武功に蘇湛という者がおり、字は景儁、魏の侍中蘇則の後裔である。晋の乱の際、河西に避難した。世祖(太武帝)が涼州を平定すると、郷里に帰還した。父の擁は字を天祐といい、秦州撫軍府司馬であった。蘇湛は若くして器量と行いを備え、広く諸書に通じた。二十歳余りで秀才に挙げられ、奉朝請に任じられ、侍御史を兼ね、員外散騎侍郎に転じた。

原文又有武功蘇湛,字景儁,魏侍中則之後也。晉亂,避地河右。世祖平涼州,還鄉里。父擁,字天祐,秦州撫軍府司馬。湛少有器行,頗涉羣書。年二十餘,舉秀才。除奉朝請,領侍御史,轉員外散騎侍郎。

蕭宝夤が関西を討伐する際、蘇湛を行台郎中とし、深く信任して任用した。孝昌年間、宝夤が大敗して東帰すると、朝廷は彼を雍州刺史とした。後に宝夤は自ら猜疑と恐れを抱き、中尉酈道元を害し、兵を挙げて反乱を起こした。当時、蘇湛は家で病臥しており、宝夤は姜儉を使わせて蘇湛に告げさせた。「元略が蕭衍の意旨を受けて、我を除こうとしている。酈道元が来たのは、事態が測り知れない。私は座して死を待つことはできず、今や身のための計略を立て、もはや魏の臣下とはならない。卿とは親しい間柄ゆえ、このことを報せる。死生栄辱を、君と共にしよう。」蘇湛はこれを聞くと、声をあげて大声で泣いた。姜儉は慌てて止めて言った。「どうしてすぐにそうなるのか。」蘇湛は言った。「百人の家族が、即時に屠殺滅亡しようとしている。どうして泣かずにいられようか。」数十声泣いた後、ゆっくりと姜儉に言った。「私の言葉を斉王(蕭宝夤)に伝えてくれ。王はもともと窮した鳥が人に寄るように、朝廷に頼って王に羽翼を与えられ、このような栄寵に至った。国運に多難な時が続く折、忠を尽くして恩徳に報いることができず、かえって人の隙に乗じ、良からぬ心を抱いている。行きずりの無識の言葉を信じて惑わされ、疲弊敗残の兵をもって、関を守り鼎を問おうとしている。今、魏の徳は衰えたとはいえ、天命は未だ改まっていない。しかも王の恩義は、民に浸透しておらず、ただその敗北を見るだけで、成功を見ることはない。蘇湛は百人の家族を率いて、王のために一族滅亡に加わることはできない。」宝夤は再び返答して言った。「これは自らの命を救うための計略であり、やむを得ないことだ。先に告げなかったのは、我が計略を阻むことを恐れたからである。」蘇湛は再び言った。「およそ大事をなすには、天下の奇士を得るべきである。今、ただ長安の博徒や小児輩とともに計画を練り、成功の道理が整うというのか。蘇湛は必ずや荊棘が庭閣に生じることを恐れる。願わくば骸骨を賜り郷里に帰らせてほしい。もしこれによって病死することができれば、地下で先人に会うことができる。」宝夤はもともと蘇湛を重んじており、彼が病気であること、また己のために用いられないことを知って、武功に帰ることを許した。

原文蕭寶夤之討關西,以湛為行臺郎中,深見委任。孝昌中,寶夤大敗東還,朝廷以為雍州刺史。後自猜懼,害中尉酈道元,乃稱兵反。時湛臥疾於家,寶夤令姜儉報湛云:「元略受蕭衍意旨,乃欲見除。酈道元之來,事不可測。吾不能坐受死亡,今便為身計,不復作魏臣也。與卿契闊,故以相報,死生榮辱,與君共之。」湛聞之,舉聲大哭。儉遽止之曰:「何得便爾?」湛曰:「百口居家,即時屠滅,云何不哭!」哭數十聲,徐謂儉曰:「為我白齊王,王本以窮鳥投人,賴朝廷假王羽翼,榮寵至此。屬國步多虞,不能竭忠報德,乃欲乘人間隙,有不臧之心。信惑行路無識之語,欲以羸敗之兵,守關問鼎。今魏德雖衰,天命未改。且王之恩義,未洽於民,但見其敗,未見有成。蘇湛不能以百口居家,為王族滅。」寶夤復報曰:「此自救命之計,不得不爾。所以不先相白者,恐沮吾計故爾。」湛復曰:「凡為大事,當得天下奇士。今但共長安博徒小兒輩計校,辦有成理不?湛恐荊棘必生庭閤。願乞骸骨還鄉里,脫得因此病死,可以下見先人。」寶夤素重之,以湛病,且知不為己用,聽還武功。

宝夤が敗れると、荘帝が即位し、蘇湛を召し出して尚書郎に補任した。到着すると、荘帝は言った。「以前、卿が蕭宝夤に答えた言葉を聞いたが、非常に優れた言葉であった。私に話してくれ。」蘇湛は頓首して謝して言った。「臣の言辞は伍被には及ばないが、終始変わらぬことは、自ら彼に勝ると考えます。しかし臣は宝夤と親しく交わり、心を尽くして言いましたが、彼をして反逆させないようにすることはできませんでした。これが臣の罪です。」荘帝は喜び、散騎都尉に任じ、引き続き郎を兼ねさせた。まもなく中書侍郎に昇進した。出帝の初め、病気のため郷里に帰り、家で亡くなった。散騎常侍・鎮西将軍・雍州刺史を追贈された。

原文寶夤敗,莊帝即位,徵補尚書郎。既至,莊帝曰:「前聞卿答蕭寶夤,甚有美辭,為我說也。」湛頓首謝曰:「臣雖言辭不如伍被,始終不易,自謂過之。然臣與寶夤周遊契闊,言得盡心,而不能令其不反,臣之罪也。」莊帝悅,拜散騎都尉,仍領郎。尋遷中書侍郎。出帝初,病還鄉里,終於家。贈散騎常侍、鎮西將軍、雍州刺史。

蘇湛の従母弟に天水の姜儉がおり、字は文簡である。父の昭は、平憲司直から出て兗州安東長史となり、高平太守を兼ね、営構都将の任中で亡くなった。姜儉は若くして才幹があり、勤勉で人並み外れた働きをした。徐州車騎府田曹参軍として出仕し、太尉外兵参軍に転じた。蕭宝夤が関西討伐に出ると、開府属に引き抜かれ、軍機謀略に多く参与した。姜儉もまた知己に遇ったと自負し、誠心誠意を尽くして任に当たった。宝夤が雍州刺史となると、引き続き開府従事中郎を請い、長安令を兼ねた。宝夤が反乱を起こすと、左丞とし、特に信任され、部下たちから憎まれた。宝夤が敗れると、城内の者に殺され、時に三十九歳であった。蘇湛は常々人に言った。「姜儉の才志をもってすれば、富貴を得るに足りる。その不遇を惜しむ、これも運命というものか。」

原文湛從母弟天水姜儉,字文簡。父昭,自平憲司直,出為兗州安東長史,帶高平太守,卒於營構都將。儉少有幹用,勤濟過人。起家徐州車騎府田曹參軍,轉太尉外兵參軍。蕭寶夤出討關西,引為開府屬,軍機謀略,多所參預。儉亦自謂遭逢知己,遂竭誠委託。寶夤為雍州,仍請為開府從事中郎,帶長安令。及寶夤反,以為左丞,尤見信任,為羣下所讎疾。寶夤敗,城人殺之,時年三十九。蘇湛每謂人曰:「以姜儉才志,堪致富貴。惜其不遇,命也如何!」

姜儉の弟の素は、武定末年、中散大夫であった。

原文儉弟素,武定末,中散大夫。

杜銓

原文杜銓

杜銓は、字を士衡といい、京兆の人である。晋の征南将軍杜預の五世の孫である。祖父の冑は、苻堅の太尉長史であった。父の嶷は、慕容垂の秘書監であり、そのまま趙郡に僑居した。杜銓は学問に通じ長者の風格があり、盧玄・高允らとともに中書博士に徴された。初め、密太后の父の杜豹の喪が濮陽にあったため、世祖(太武帝)は鄴に迎えて葬ろうとし、司徒崔浩に言った。「天下の諸杜のうち、どこが声望が高いか。」崔浩は京兆が優れていると答えた。世祖は言った。「朕は今、外祖父を改葬しようとしている。京兆の長老一人を宗正とし、凶事の営護を命じたいと思う。」崔浩は言った。「中書博士杜銓は、その家は今趙郡にあるが、杜預の後裔であり、今の諸杜の中で最も優れています。すぐに召し出すことができます。」詔を下して召し出した。杜銓の器量と容貌は立派で優雅であり、世祖は感心して喜び、崔浩に言った。「これはまさに朕が望んでいた人物だ。」宗正とし、杜超の子の道生とともに杜豹の棺を迎え、鄴の南に葬らせた。杜銓はそこで杜超と親族のようになった。杜超は杜銓に言った。「既に宗族として近いなら、どうしてまた趙郡に僑居しているのか。」そこで迎え入れて同じく魏郡に属させた。散騎侍郎に昇進し、中書侍郎に転じ、新豊侯の爵位を賜った。死去すると、平南将軍・相州刺史・魏県侯を追贈され、諡を宣といった。

原文杜銓,字士衡,京兆人。晉征南將軍預五世孫也。祖冑,苻堅太尉長史。父嶷,慕容垂祕書監,仍僑居趙郡。銓學涉有長者風,與盧玄、高允等同被徵為中書博士。初,密太后父豹喪在濮陽,世祖欲命迎葬於鄴,謂司徒崔浩曰:「天下諸杜,何處望高?」浩對京兆為美。世祖曰:「朕今方改葬外祖,意欲取京兆中長老一人,以為宗正,命營護凶事。」浩曰:「中書博士杜銓,其家今在趙郡,是杜預之後,於今為諸杜之最,即可取之。」詔召見。銓器貌瓌雅,世祖感悅,謂浩曰:「此真吾所欲也。」以為宗正,令與杜超子道生迎豹喪柩,致葬鄴南。銓遂與超如親。超謂銓曰:「既是宗近,何緣復僑居趙郡?」乃迎引同屬魏郡焉。遷散騎侍郎,轉中書侍郎,賜爵新豐侯。卒,贈平南將軍、相州刺史,魏縣侯,諡曰宣。

子の振は、字を季元という。太和初年、秀才に挙げられ、中書博士の任中で亡くなった。

原文子振,字季元。太和初,舉秀才,卒於中書博士。

子の遇は、字を慶期という。奉朝請として出仕した。員外散騎侍郎・尚書起部郎中に転じた。官の材瓦を盗んで私宅を建てたため、清議に蔑まれた。龍驤将軍・中散大夫に昇進した。出て河東太守となった。死去すると、中軍将軍・都官尚書・豫州刺史を追贈され、諡を惠といった。

原文子遇,字慶期。起家奉朝請。轉員外散騎侍郎、尚書起部郎中。竊官材瓦起立私宅,清論鄙之。遷龍驤將軍、中散大夫。出為河東太守。卒,贈中軍將軍、都官尚書、豫州刺史,諡曰惠。

子の鴻は、永熙年間、司徒倉曹参軍であった。

原文子鴻,永熙中,司徒倉曹參軍。

杜洪太

原文杜洪太

杜銓の族子の洪太は、字を道廓という。延興年間、中書博士となった。後に高麗に使いし、安遠将軍・下邳太守に任じられ、梁郡太守に転じた。太和年間、鷹揚将軍・絳城鎮将に任じられ、新昌・陽平二郡太守を兼ねた。五十二歳で亡くなった。

原文銓族子洪太,字道廓。延興中為中書博士。後使高麗,除安遠將軍、下邳太守,轉梁郡太守。太和中,除鷹揚將軍、絳城鎮將,帶新昌、陽平二郡太守。卒,年五十二。

子の祖悦は、字を士豁といい、かなり識見と志操があった。大将軍劉昶の参軍事となり、次第に天水・仇池二郡太守に昇進し、南秦州の事務を代行した。正光年間、入朝して太尉・汝南王悦の諮議参軍となった。出て高陽太守となったが、郡で亡くなった。

原文子祖悅,字士豁,頗有識尚。大將軍劉昶參軍事,稍遷天水、仇池二郡太守,行南秦州事。正光中,入為太尉、汝南王悅諮議參軍。出除高陽太守,卒於郡。

子の長文は、字を子儒という。粛宗(孝明帝)の挽郎・員外散騎侍郎となり、次第に尚書郎に昇進した。叔父の顒に従って岐州を守った功績により、始平伯の爵位を賜り、平東将軍を加えられた。天平末年、安西将軍・光禄大夫の任中で亡くなった。中軍将軍・度支尚書・雍州刺史を追贈された。

原文子長文,字子儒。肅宗挽郎、員外散騎侍郎,稍遷尚書郎。以隨叔顒守岐州勳,賜爵始平伯,加平東將軍。天平末,卒於安西將軍、光祿大夫。贈中軍將軍、度支尚書、雍州刺史。

長文の第四の弟子達は、武定年間に、斉の文襄王の大都督府戸曹参軍となった。

原文長文第四弟子達,武定中,齊文襄王大都督府戶曹參軍。

祖悦の弟の顒は、字を思顔といい、大いに才幹があった。初めて官に就き北中府録事参軍となった。正光年間に、次第に昇進して厲威将軍・盱眙太守となり、大徐戍主を兼ねた。元法僧が反乱を起こしたとき、顒は逃げ隠れて難を免れた。後に諫議大夫となった。孝昌二年、西征軍司となり、岐州の事務を代行した。蕭宝夤が反逆を起こすと、顒は州を拠点として従わなかった。帰還し、征虜将軍・東荊州刺史に任ぜられた。岐州を守った功績により、平陽県開国伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。武泰年間に、転じて岐州刺史を授かった。永安年間に、涇州刺史に任ぜられた。時に万俟醜奴が関右に充満していたため、赴任しなかった。そこで都督となり、岐州を防衛した。醜奴がこれを攻めたが、陥落させられなかった。事態が鎮まると、鎮西将軍・光禄大夫に任ぜられた。功績によりまた安平県開国伯に封ぜられ、食邑五百戸を賜った。平陽伯の爵位は弟の二男景仲に譲られた。後に征西将軍・金紫光禄大夫となり、関西で没した。

原文祖悅弟顒,字思顏,頗有幹用。解褐北中府錄事參軍。正光中,稍遷厲威將軍、盱眙太守,帶大徐戍主。元法僧之叛也,顒逃竄獲免。後為諫議大夫。孝昌二年,為西征軍司,行岐州事。蕭寶夤起逆,顒據州不從。還,除征虜將軍、東荊州刺史。以守岐州勳,封平陽縣開國伯,邑五百戶。武泰中,轉授岐州刺史。永安中,除涇州刺史。時万俟醜奴充斥關右,不行。乃為都督,防守岐州。醜奴攻之,不克。事寧,除鎮西將軍、光祿大夫。以勳又賞安平縣開國伯,食邑五百戶。以平陽伯轉授弟二子景仲。後為征西將軍、金紫光祿大夫,沒於關西。

裴駿

原文裴駿

裴駿は、字を神駒といい、幼名を皮といい、河東郡聞喜県の人である。父の双碩は、本県の県令、仮の建威将軍・恒農太守、安邑子であった。没後、平南将軍・東雍州刺史、聞喜侯を追贈された。駿は幼少より聡明で慧く、親族や姻戚は彼を異才とみなし、「神駒」と呼んだため、これを字とした。二十歳の頃、経書史書に広く通じ、文章を好み、性格は方正で謹厳、礼節と度量があり、郷里の人々は彼を尊敬した。

原文裴駿,字神駒,小名皮,河東聞喜人。父雙碩,本縣令,假建威將軍、恒農太守,安邑子。卒,贈平南將軍、東雍州刺史,聞喜侯。駿幼而聰慧,親表異之,稱為「神駒」,因以為字。弱冠,通涉經史,好屬文,性方檢,有禮度,鄉里宗敬焉。

蓋呉が関中で乱を起こすと、汾陰県の薛永宗が徒党を集めてこれに呼応し、しばしば諸県を破壊し、聞喜を襲撃しようとした。県内にはもともと武器がなく、人心は動揺し、県令は憂い恐れて、どうすべきか方策がなかった。駿は家でこれを聞くと、すぐに郷里の豪族を率いて激励し言った。「礼によれば、君父に危難あれば、臣子は命を捧げる。今、県府が賊に迫られている。これこそ我らが節義に殉ずる時である。諸君、奮起せぬことがあろうか。」諸豪族は皆奮い立って従うことを請い、駿は数百騎の勇猛な者を選び出して急行した。賊は救援が来たと聞き、兵を引き退いた。刺史はこれを賞賛し、状況を上奏して報告した。ちょうど世祖(太武帝)が自ら蓋呉を討伐するにあたり、駿を引見した。駿は事態について述べ、機微に大いに適っていた。世祖は大いに喜び、崔浩を顧みて言った。「裴駿は当世の才幹があり、かつ忠義が賞賛に値する。」中書博士に補任された。浩もまた深く駿を器とし、三河の領袖と目した。転じて中書侍郎となった。劉駿(宋の孝武帝)が使者の明僧暠を朝貢に遣わしたとき、駿に才学があるとして、仮の給事中・散騎常侍を授け、国境で慰労・接待させた。皇興二年に没した。平南将軍・秦州刺史・聞喜侯を追贈され、諡を康といった。

原文蓋吳作亂於關中,汾陰人薛永宗聚眾應之,屢殘破諸縣,來襲聞喜。縣中先無兵仗,人情駭動,縣令憂惶,計無所出。駿在家聞之,便率厲鄉豪曰:「在禮,君父有危,臣子致命。府縣今為賊所逼,是吾等徇節之秋。諸君可不勉乎!」諸豪皆奮激請行,駿乃簡騎驍勇數百人奔赴。賊聞救至,引兵退走。刺史嘉之,以狀表聞。會世祖親討蓋吳,引見駿,駿陳敍事宜,甚會機理。世祖大悅,顧謂崔浩曰:「裴駿有當世才具,且忠義可嘉。」補中書博士。浩亦深器駿,目為三河領袖。轉中書侍郎。劉駿遣使明僧暠朝貢,以駿有才學,乃假給事中、散騎常侍,於境上勞接。皇興二年卒。贈平南將軍、秦州刺史、聞喜侯,諡曰康。

子の修は、字を元寄といい、明晰な弁論と好学の心を持っていた。十三歳で中書学生に補任され、秘書中散に昇進し、転じて主客令となった。妻の父である李訢の事件に連座し、張掖子都大将として出向した。張掖の地境は胡夷と接し、前後数度にわたり寇掠を受けたが、修は烽候を明らかに設け、方略をもってこれを防いだ。辺境に六年間いて、関塞は静謐であった。高祖(孝文帝)はこれを嘉し、中部令に召し還した。転じて中大夫となり、祠部曹事を兼ね、職務は礼楽を主管し、疑義が生じるたびに、修は先例を斟酌し、すべて条理が通っていた。太和十六年に没し、時に五十一歳であった。高祖はその死を悼み惜しみ、葬儀のための絹百匹を賜い、諡を恭伯といった。世宗(宣武帝)の時、輔国将軍・東秦州刺史を追贈された。修は早くに孤児となり、喪に服して孝行で知られた。二人の弟と三人の妹は皆幼弱であり、修は彼らを養育し訓戒し、大いに道義にかなっていた。次弟の務は早世し、修はその死を哀傷し、行路の人をも感動させた。孤児となった甥を慈しみ育てること、己が子と同じであった。別居することになるとき、奴婢や田宅をすべて彼に譲った。当時の人々はこのことで彼を称えた。

原文子修,字元寄,清辯好學。年十三,補中書學生,遷祕書中散,轉主客令。以婦父李訢事,出為張掖子都大將。張掖境接胡夷,前後數致寇掠,修明設烽候,以方略禦之。在邊六年,關塞清靜。高祖嘉之,徵為中部令。轉中大夫,兼祠部曹事,職主禮樂,每有疑議,修斟酌故實,咸有條貫。太和十六年卒,時年五十一。高祖悼惜之,賻帛一百匹,諡曰恭伯。世宗時,追贈輔國將軍、東秦州刺史。修早孤,居喪以孝聞。二弟三妹並在幼弱,撫養訓誨,甚有義方。次弟務早喪,修哀傷之,感於行路。愛育孤姪,同於己子。及將異居,奴婢田宅悉推與之,時人以此稱焉。

子の詢は、字を敬叔という。容姿端麗で、多くの技芸に通じ、音律や囲碁など、すべて理解していた。初めて官に就き奉朝請となり、太尉集曹参軍に転じ、長流尚書起部郎中・平昌太守となった。時に太原長公主が寡居しており、詢と私通し、粛宗(孝明帝)はついに詔して詢に娶らせた。まもなく公主の婿であることを理由に、特に散騎常侍に任ぜられた。時に本邑の中正が欠員となり、司徒が詢を召してこれに任じようとした。詢の族叔の昞が自らこの官を望むと申し出たので、詢はこれを譲った。当時の論評はこれを善とした。まもなく起居事を監し、秘書監に昇進した。

原文子詢,字敬叔。美儀貌,多藝能,音律博弈,咸所開解。起家奉朝請,太尉集曹參軍,轉長流尚書起部郎中、平昌太守。時太原長公主寡居,與詢私姦,肅宗仍詔詢尚焉。尋以主壻,特除散騎常侍。時本邑中正闕,司徒召詢為之。詢族叔昞自陳情願此官,詢遂讓焉,時論善之。尋監起居事,遷祕書監。

平南将軍・郢州刺史として出向した。詢は、凡司の戍主である蛮酋の田朴特が要害の地に居り、その衆は数万を超え、辺境の防衛に足りると考え、上表して朴特を西郢州刺史とするよう請うた。朝廷の議論はこれを許した。蕭衍(梁の武帝)が将軍の李国興を遣わして辺境を侵犯した。時に四方多事であり、朝廷は外征に余裕がなく、沿境の城戍は多く国興に陥落させられた。賊は乗勝の勢いで、州城に向かった。詢は兵を率いて固守し、百日近くに及んだ。援軍が到着すると、賊は退却した。散騎常侍・安南将軍を加えられた。朴特は国興が来寇して以来、詢と犄角の勢いをなし、表裏で声援し、郢州が保全されたのは、朴特の力が大いにあった。

原文出為平南將軍、郢州刺史。詢以凡司戍主蠻酋田朴特地居要險,眾踰數萬,足為邊捍,遂表朴特為西郢州刺史。朝議許之。蕭衍遣將李國興寇邊,時四方多事,朝廷未遑外略,緣境城戍,多為國興所陷。賊既乘勝,遂向州城。詢率厲固守,垂將百日,援軍既至,賊乃退走。加散騎常侍、安南將軍。朴特自國興來寇,便與詢掎角,為表裏聲援,郢州獲全,朴特頗有力焉。

七兵尚書に召し還されたが、都に着いて間もなく、豫州刺史に任ぜられた。まもなく撫軍将軍の号を進められ、散騎常侍を加えられた。州に赴任しないうちに、再び七兵尚書に任ぜられ、常侍はもとのままとした。武泰初年、詔により詢は本官のまま侍中を兼ね、関右大使となり、義に慕う者を賞抜することとなった。出発しないうちに、尒朱栄が洛陽に入り、河陰で遇害した。五十一歳であった。侍中・車騎大将軍・司空公・雍州刺史を追贈され、諡を貞烈といった。子はなかった。

原文徵為七兵尚書,至都未幾,除豫州刺史。尋進號撫軍將軍,加散騎常侍。未之州,還為七兵尚書,常侍如故。武泰初,詔詢以本官兼侍中,為關右大使,賞擢慕義之徒。未及發,會尒朱榮入洛,於河陰遇害,年五十一。贈侍中、車騎大將軍、司空公、雍州刺史,諡曰貞烈。無子。

修の弟の務は、字を陽仁といい、幼少より聡明であった。秀才に挙げられ、州から主簿に辟召された。早世した。

原文修弟務,字陽仁,少而聰慧。舉秀才,州辟主簿。早卒。

子の美は、字を師伯といい、若くして美名があった。秀才に挙げられ、州主簿となった。太尉咸陽王(元禧)が彼を特に賞愛し、娘を娶らせようとしたが、美は拒んで受け入れなかった。奉朝請に任ぜられたが、これも早世した。子はなかった。

原文子美,字師伯,少有美名。舉秀才,州主簿。太尉咸陽王雅相賞愛,欲以女妻之,美拒而不納。除奉朝請,亦早卒。無子。

務の弟の宣は、字を叔令といい、明晰な弁論と広い学識を持ち、早くから名声があった。幼くして孤児となり、母と兄に仕えて孝友で称えられた。秀才に挙げられ、都に至り、司空李訢に会い、朝から夕方まで語り合うと、訢は嘆賞してやまなかった。司空李冲は人物鑑識眼があり、宣を見て重んじた。

原文務弟宣,字叔令,通辯博物,早有聲譽。少孤,事母兄以孝友稱。舉秀才,至都,見司空李訢,與言自旦及夕,訢嗟善不已。司空李沖有人倫鑒識,見而重之。

高祖(孝文帝)の初年、尚書主客郎に召された。蕭賾(斉の武帝)の使者である顔幼明・劉思效・蕭琛・范雲らと応対した。転じて都官郎となり、員外散騎侍郎に昇進した。旧令では吏部郎と同班であった。(欠文)高祖はかつて沙門を集めて仏経を講じさせ、宣に論難を命じたところ、大いに道理に適っていたので、高祖は善しと称えた。都を洛陽に遷すにあたり、宣を採材副将とした。使命を果たして上意に適い、遙かに司空諮議参軍に任ぜられた。府が解かれると、司州治中に転じ、司徒右長史を兼ね、また別駕に転じ、長史のままとした。宣は明敏で器量と才幹があり、州府の事務を総括し、事が滞ることがなく、遠近の人々に称えられた。世宗(宣武帝)の初年、太中大夫に任ぜられ、本郡中正を領し、別駕のままとした。また司州都督となり、太尉長史に昇進した。宣は上言した。「遷都以来、すべての戦場および軍が兵を返す道筋において、骸骨で覆い隠されていないものがある。すべて州郡の戍邏に命じて検分し埋め掩わせてほしい。また出兵した郷里に符を下し、その家に戦役で死んだ者がいる場合は、すべてその魂を招き、先祖の霊に合祀させ、その年の租調を免除してほしい。自身が傷ついた者は、その兵役を免じてほしい。」朝廷はこれに従った。

原文高祖初,徵為尚書主客郎,與蕭賾使顏幼明、劉思效、蕭琛、范雲等對接。轉都官郎,遷員外散騎侍郎。舊令與吏部郎同班。〈闕〉高祖曾集沙門講佛經,因命宣論難,甚有理詣,高祖稱善。遷都洛陽,以宣為採材副將。奉使稱旨,遙除司空諮議參軍。府解,轉司州治中,兼司徒右長史,又轉別駕,仍長史。宣明敏有器幹,總攝州府,事無凝滯,遠近稱之。世宗初,除太中大夫,領本郡中正,仍別駕。又為司州都督,遷太尉長史。宣上言曰:「自遷都已來,凡戰陳之處,及軍罷兵還之道,所有骸骼無人覆藏者,請悉令州郡戍邏檢行埋掩。并符出兵之鄉:其家有死於戎役者,使皆招魂復魄,祔祭先靈,復其年租調;身被傷痍者,免其兵役。」朝廷從之。

征虜将軍・益州刺史として出向した。宣は綏撫に長け、羌戎の心を大いに得た。晋寿を回復し、新たに益州を置き、宣が治めていた所を南秦州と改称した。先に、陰平の氐酋である楊孟孫が数万戸を擁し、自ら王を称え、蕭衍と通じ、しばしば辺境の患いとなっていた。宣は使者を遣わして招き諭し、逆順の道理を説くと、孟孫は恩を感じ、すぐに子を朝廷に遣わした。武興の氐である姜謨ら千余人が上書して期限延長を乞うた。世宗はこれを嘉した。

原文出為征虜將軍、益州刺史。宣善於綏撫,甚得羌戎之心。復晉壽,更置益州,改宣所莅為南秦州。先是,有陰平氐酋楊孟孫,擁戶數萬,自立為王,通引蕭衍,數為邊患。宣乃遣使招喻,曉以逆順,孟孫感恩,即遣子詣闕。武興氐姜謨等千餘人上書乞延更限。世宗嘉焉。

宣は家世代々儒学を業とし、常に廉退を慕う。毎に嘆いて曰く、「賈誼の才を以て、漢の文帝の世に仕え、公卿を歴ねず、将に運にあらざるか」と。乃ち親賓に謂いて曰く、「吾は本より閭閻の士、素より当世の志無く、直に牒に随いて推移し、遂に此に至る。禄は後に親を養うも、道は国を光さず、往哲を瞻言すれば、以て帰るを言うべし」と。因りて表して解任を求む。世宗許さず、乃ち『懐田賦』を作りて心を叙す。永平四年、患篤し、世宗太醫令を遣わし馳驛して就き視せしめ、并せて御薬を賜う。宣は素より陰陽の書に明るく、始めて患うより、便ち起たざるを知り、因りて自ら亡日を剋し、果たして其の言の如し。時に年五十八。世宗悼惜す。左将軍・豫州刺史を贈り、諡して定と曰う。尋いで穆と改む。

原文宣家世以儒學為業,常慕廉退。每歎曰:「以賈誼之才,仕漢文之世,不歷公卿,將非運也!」乃謂親賓曰:「吾本閭閻之士,素無當世之志,直隨牒推移,遂至於此。祿後養親,道不光國,瞻言往哲,可以言歸矣。」因表求解。世宗不許,乃作懷田賦以敍心焉。永平四年,患篤,世宗遣太醫令馳驛就視,并賜御藥。宣素明陰陽之書,自始患,便知不起,因自剋亡日,果如其言。時年五十八。世宗悼惜之。贈左將軍、豫州刺史,諡曰定。尋改為穆。

子の敬憲・莊伯、並びに『文苑伝』に在り。

原文子敬憲、莊伯,並在〈文苑傳〉。

第四子の獻伯、武定末、廷尉卿。

原文第四子獻伯,武定末,廷尉卿。

裴安祖

原文裴安祖

駿の従弟安祖、少にして聡慧なり。年八九歳、師に就きて詩を講じ、鹿鳴篇に至り、諸兄に語りて云く、「鹿は禽獣と雖も、食を得て相呼び、況んや人をや」と。此より後、未だ嘗て独り食せず。弱冠、州に辟せられて主簿と為る。民に兄弟財を争い、州に詣りて相訟うる者有り。安祖其の兄弟を召し、礼義を以て之を責譲す。此人兄弟、明日相率いて謝罪す。内外之を欽服す。復た人其の入仕を勧むる有り、安祖曰く、「高尚の事は、敢えて庶幾せず。且つ京師遼遠、実に栖屑を憚るのみ」と。是に於いて閑居して志を養い、城邑を出でず。安祖嘗て行きて天熱に値い、樹下に舎す。鷙鳥雉を逐い、雉急ぎ之に投じ、遂に樹に触れて死す。安祖之を愍み、乃ち取りて陰地に置き、徐徐に護視す。良久くして蘇るを得。安祖喜びて之を放つ。後夜忽ち一丈夫を夢み、衣冠甚だ偉く、繡衣曲領を著け、安祖に向かいて再拝す。安祖怪しみて之を問う。此人云く、「君の前日の見放を感ず、故に来たりて徳を謝す」と。聞く者之を異とす。後高祖長安に幸し、河東に至り、故老を存問す。安祖蒲坂に朝し、高祖と語りて甚だ悦び、仍ち安邑令を拝す。安祖老病を以て固辞し、詔して一時の俸を給し、以て湯薬を供せしむ。年八十三、家に卒す。

原文駿從弟安祖,少而聰慧。年八九歲,就師講詩,至鹿鳴篇,語諸兄云:「鹿雖禽獸,得食相呼,而況人也?」自此之後,未曾獨食。弱冠,州辟主簿。民有兄弟爭財,詣州相訟。安祖召其兄弟,以禮義責讓之。此人兄弟,明日相率謝罪。內外欽服之。復有人勸其入仕,安祖曰:「高尚之事,非敢庶幾。且京師遼遠,實憚於栖屑耳。」於是閑居養志,不出城邑。安祖曾行值天熱,舍於樹下。鷙鳥逐雉,雉急投之,遂觸樹而死。安祖愍之,乃取置陰地,徐徐護視,良久得蘇。安祖喜而放之。後夜忽夢一丈夫,衣冠甚偉,著繡衣曲領,向安祖再拜。安祖怪而問之。此人云:「感君前日見放,故來謝德。」聞者異焉。後高祖幸長安,至河東,存訪故老。安祖朝於蒲坂,高祖與語甚悅,仍拜安邑令。安祖以老病固辭,詔給一時俸,以供湯藥焉。年八十三,卒於家。

子の思済、亦た志操有り、早卒す。子は宗賢。

原文子思濟,亦有志操,早卒。子宗賢。

思済の弟幼儁、猗氏令に卒す。

原文思濟弟幼儁,卒於猗氏令。

辛紹先

原文辛紹先

辛紹先、隴西狄道人なり。五世の祖怡、晋の幽州刺史。父淵、私に涼王李暠の驍騎将軍を署す。暠の子歆も亦た厚く之を遇す。歆、沮渠蒙遜と蓼泉に戦い、軍敗れて馬を失う。淵、乗する所の馬を以て歆を援け、而して身は難に死す。義烈を以て西土に見称せらる。世祖の涼州を平らぐるに、紹先内徙し、家を晋陽にす。明敏にして識量有り、広平の游明根・范陽の盧度世・同郡の李承等と甚だ相善しむ。至性有り、父憂に丁り、三年口に甘味を甘まず、頭櫛沐せず、発遂に落ち尽く。故に常に垂裙の皂帽を著く。中書博士より転じて神部令と為る。皇興中、薛安都彭城を以て国に帰す。時に朝廷初附を綏安せんと欲し、紹先を以て下邳太守と為し、寧朔将軍を加う。政を為すに苟も激察せず、其の大綱を挙ぐるのみ。唯だ民に産を治め賊を禦ぐの備を教う。劉彧の将陳顯達・蕭道成・蕭順之の来寇するに及び、道成順之に謂いて曰く、「辛紹先侵し易からず、宜しく共に之を慎むべし」と。是に於いて郡境を歴ねず、遂に径ち呂梁に屯す。太和十三年卒す。冠軍将軍・并州刺史・晋陽公を贈り、諡して惠と曰う。

原文辛紹先,隴西狄道人。五世祖怡,晉幽州刺史。父淵,私署涼王李暠驍騎將軍。暠子歆亦厚遇之。歆與沮渠蒙遜戰於蓼泉,軍敗失馬,淵以所乘馬援歆,而身死於難,以義烈見稱西土。世祖之平涼州,紹先內徙,家於晉陽。明敏有識量,與廣平游明根、范陽盧度世、同郡李承等甚相友善。有至性,丁父憂,三年口不甘味,頭不櫛沐,髮遂落盡,故常著垂裙皂帽。自中書博士,轉神部令。皇興中,薛安都以彭城歸國,時朝廷欲綏安初附,以紹先為下邳太守,加寧朔將軍。為政不苟激察,舉其大綱而已,唯教民治產禦賊之備。及劉彧將陳顯達、蕭道成、蕭順之來寇,道成謂順之曰:「辛紹先未易侵也,宜共慎之。」於是不歷郡境,遂徑屯呂梁。太和十三年卒。贈冠軍將軍、并州刺史、晉陽公,諡曰惠。

子の鳳達、道に耽り古を楽しみ、長者の名有り。京兆王子推の国常侍に卒す。

原文子鳳達,耽道樂古,有長者之名。卒於京兆王子推國常侍。

鳳達の子祥、字は萬褔。司州秀才に挙げらる。司空行参軍、遷りて主簿。太傅元丕并州刺史と為り、祥は丕の府属と為り、勅せられて建興郡を行く。咸陽王禧の妃は即ち祥の妻の妹なり。禧の逆を構うるに及び、親知多く塵謗に罹るも、祥独り蕭然として預からず。転じて并州平北府司馬と為る。会に刺史喪有り、朝廷其の公清を以て、遂に長史を越え、勅せられて州事を行く。祥初め司馬に在りし時、白壁の還兵薬道顯、賊と誣えらるる有り。官属推処し、皆以て然りと為す。祥曰く、「道顯面に悲色有り、獄を色に察するは、其れ此れを謂うか」と。苦しく執りて之を申す。月余、別に真賊を獲たり。

原文鳳達子祥,字萬褔。舉司州秀才。司空行參軍,遷主簿。太傅元丕為并州刺史,祥為丕府屬,敕行建興郡。咸陽王禧妃即祥妻妹,及禧構逆,親知多罹塵謗,祥獨蕭然不預。轉并州平北府司馬。會刺史喪,朝廷以其公清,遂越長史,敕行州事。祥初在司馬,有白壁還兵藥道顯被誣為賊,官屬推處,咸以為然。祥曰:「道顯面有悲色,察獄以色,其此之謂乎?」苦執申之。月餘,別獲真賊。

後に除して郢州龍驤府長史、義陽太守を帯ぶ。白早生の反するや、蕭衍衆を遣わし来援す。此に因りて淮に縁る鎮戍、相継ぎて降没す。唯だ祥堅城独り守る。蕭衍将の胡武城・陶平虜を遣わし、州南の金山の上に連営し侵逼す。衆情大いに懼る。祥従容として曉喻す。人心遂に安んず。時に出でて挑戦し、偽り退きて以て賊を驕らす。賊果たして日来り攻逼し、復た自ら備えず。乃ち夜出でて其の営を襲う。将に曉けんとするに、矢刃交えて下る。賊大いに崩散潰え、平虜を擒え、武城を斬り、以て京師に送る。州境全きを得。功を論じて方に賞授有らんとす。而して刺史婁悦、勳其の下に出るを耻じ、之を執政に聞ゆ。事竟に行われず。

原文後除郢州龍驤府長史,帶義陽太守。白早生之反也,蕭衍遣眾來援,因此緣淮鎮戍,相繼降沒,唯祥堅城獨守。蕭衍遣將胡武城、陶平虜於州南金山之上連營侵逼,眾情大懼。祥從容曉喻,人心遂安。時出挑戰,偽退以驕賊。賊果日來攻逼,不復自備,乃夜出襲其營。將曉,矢刃交下,賊大崩散潰,擒平虜,斬武城,以送京師,州境獲全。論功方有賞授,而刺史婁悅耻勳出其下,聞之執政,事竟不行。

胡賊の劉龍駒、華州に逆を作す。勅して祥を除して華州永安王爕の征虜府長史と為し、仍り別将と為し、討胡使薛和と与にし之を討滅す。神龜元年卒す。時に年五十五。永安二年、冠軍将軍・南青州刺史を贈る。

原文胡賊劉龍駒作逆華州,敕除祥華州永安王爕征虜府長史,仍為別將,與討胡使薛和討滅之。神龜元年卒,時年五十五。永安二年,贈冠軍將軍、南青州刺史。

長子の琨、字は懷玉、少にして聰敏なり。解褐して相州倉曹参軍。稍く遷りて陳郡太守・軽車将軍・済州征虜府長史。卒す。年四十六。

原文長子琨,字懷玉,少聰敏。解褐相州倉曹參軍。稍遷陳郡太守、輕車將軍、濟州征虜府長史。卒,年四十六。

琨の弟懷仁、武定末、長楽太守。

原文琨弟懷仁,武定末,長樂太守。

懷仁の弟の賁は、字を叔文という。若くして文学があり、識見と度量は沈着で優雅であった。初めて官に就き、北中府中兵参軍・員外散騎侍郎となった。建義の初め、起居注を修めた。済州撫軍府長史に任ぜられた。出帝の時、膠州車騎府長史に転じ、平東将軍、太師・咸陽王元坦の開府長史に昇進した。武定年間、中尉の崔暹が上表して賁を推薦し、太守(官名欠落)に任ぜられた。官吏と民衆はその恩恵を慕った。帰還し、鄴で死去した。時に五十八歳。

原文懷仁弟賁,字叔文。少有文學,識度沉雅。起家北中府中兵參軍、員外散騎侍郎。建義初,修起居注。除濟州撫軍府長史。出帝時,轉膠州車騎府長史,遷平東將軍,太師、咸陽王坦開府長史。武定中,中尉崔暹表薦賁,除〈闕〉太守。吏民懷其恩惠。還,卒於鄴。時年五十八。

賁の弟の烈は、字を季武という。太傅東閤祭酒を歴任し、梁州鎮南府長史の任で死去した。

原文賁弟烈,字季武。歷太傅東閤祭酒,卒於梁州鎮南府長史。

烈の弟の匡は、字を季政といい、大いに文学があった。永安の初め、封丘県令に初めて任ぜられ、威烈将軍を加えられた。当時は河陰の役の後であり、朝廷の士人の多くは外任を求めたので、匡がこれに任ぜられたのである。後に平遠将軍・符璽郎中に任ぜられた。龍驤将軍・通直散騎侍郎の任で死去し、時に三十五歳。散騎常侍・前将軍・雍州刺史を追贈された。

原文烈弟匡,字季政,頗有文學。永安初,釋褐封丘令,加威烈將軍。時經河陰之役,朝士多求出外,故匡為之。後除平遠將軍、符璽郎中。卒於龍驤將軍、通直散騎侍郎,時年三十五。贈散騎常侍、前將軍、雍州刺史。

祥の弟の少雍は、字を季仲という。幼い頃から聡明で、孝行があり、特に祖父の紹先に愛された。紹先は羊の肝を好み、常に少雍を呼んで共に食べた。紹先が亡くなると、少雍は終生肝を食べなかった。性質は仁厚で礼儀正しく、家内の規律は当時重んじられた。奉朝請に初めて任ぜられ、太学博士・員外散騎侍郎となった。司空・高陽王元雍が田曹参軍に抜擢した。少雍は清廉公正な性質で、権勢を恐れず、長年未解決の訴訟も、即座に裁決し、私的な依頼は途絶え、当時賢明と称された。正始年間、詔により百官がそれぞれ知る者を推薦すると、高陽王元雍と吏部郎中李憲はともに少雍を筆頭に推薦した。給事中に昇進した。侍中の游肇も後に彼を推薦したが、死去に遭い、四十二歳であった。少雍の妻の王氏は、徳義があり、その甥の懷仁兄弟と同居し、懷仁らは彼女を非常に謹んで仕え、家内の礼儀と譲り合いは、他に比べる者がなかった。士大夫はこれを称賛した。

原文祥弟少雍,字季仲。少聰穎,有孝行,尤為祖父紹先所愛。紹先性嗜羊肝,常呼少雍共食。及紹先卒,少雍終身不食肝。性仁厚,有禮義,門內之法,為時所重。釋褐奉朝請,太學博士、員外散騎侍郎。司空、高陽王雍引為田曹參軍。少雍性清正,不憚強禦,積年久訟,造次決之,請託路絕,時稱賢明。正始中,詔百官各舉所知,高陽王雍及吏部郎中李憲俱以少雍為舉首。遷給事中。侍中游肇後亦薦之,會卒,年四十二。少雍妻王氏,有德義,與其從子懷仁兄弟同居,懷仁等事之甚謹,閨門禮讓,人無比焉。士大夫以此稱美。

子の元植は、武定年間、儀同府司馬となった。

原文子元植,武定中,儀同府司馬。

元植の弟の士遜は、太師開府功曹参軍となった。

原文元植弟士遜,太師開府功曹參軍。

鳳達の弟の穆は、字を叔宗という。茂才に挙げられ、東雍州別駕となった。初め父に従って下邳におり、彭城の陳敬文と親しくした。敬文の弟の敬武は、幼くして沙門となり、師に従って遠方に学びに行き、長く帰らなかった。敬文は病で臨終に際し、雑綾二十匹を穆に託して敬武に渡すようにした。穆は長く探したが見つからなかった。二十余年を経て、ようやく洛陽で敬武に会い、品物を返したが、封緘と題籤は元のままであった。世間はその廉潔と信義を称えた。東荊州司馬を歴任し、長史に転じ、義陽太守を兼ね、戍を管轄した。民を思いやる名声があった。汝陽太守に転じた時、水害で民が飢えたため、上表して租税の軽減を請うた。帝はこれに従い、汝陽一郡に限り、小絹をもって調とすることを許した。中散大夫に昇進し、龍驤将軍を加えられた。正光四年、老齢を理由に致仕を求めた。詔により引見され、穆の志気と体力はまだ用いられると言われ、平原相に任ぜられた。穆はよく民を慰撫導いたので、民と官吏は彼を慕った。孝昌二年、征虜将軍・太中大夫に召されたが、出発せずに郡で死去した。七十七歳。後将軍・幽州刺史を追贈され、諡を貞といった。

原文鳳達弟穆,字叔宗。舉茂才,東雍州別駕。初隨父在下邳,與彭城陳敬文友善。敬文弟敬武,少為沙門,從師遠學,經久不反。敬文病臨卒,以雜綾二十匹,託穆與敬武。穆久訪不得。經二十餘年,始於洛陽見敬武,以物還之,封題如故,世稱其廉信。歷東荊州司馬,轉長史,帶義陽太守,領戍。雅有恤民之稱。轉汝陽太守,值水澇民飢,上表請輕租賦。帝從之,遂敕汝陽一郡,聽以小絹為調。遷中散大夫,加龍驤將軍。正光四年,以老啟求致仕。詔引見,謂穆志力尚可,除平原相。穆善撫導,民吏懷之。孝昌二年,徵為征虜將軍、太中大夫,未發,卒於郡,年七十七。贈後將軍、幽州刺史,諡曰貞。

長子の子馥は、字を元穎といい、早くから学問と行いがあった。孝昌の初め、南司州龍驤府録事参軍に初めて任ぜられた。父の喪に服し、喪に服する礼を守った。後に給事中・南冀州防城都督に任ぜられた。平素より荘帝に知られており、即位すると、宣威将軍・尚書右主客郎中に任ぜられ、節を持って南済・冀・済・青の四州慰労使となった。まもなく寧朔将軍・員外散騎常侍に任ぜられ、引き続き郎中を兼ねた。太宰の元天穆が邢杲を征討する時、行臺郎中に抜擢した。まもなく平原相に任ぜられた。子馥父子ともにこの郡を治めたので、官吏と民衆は安心して暮らした。元顥が洛陽に入ると、子馥はその赦令を受け入れなかった。刺史の元仲景が元顥に従ったため、子馥を拘束し、家族も監禁した。荘帝が政権を取り戻すと、詔により三門県開国男に封ぜられ、食邑二百戸を与えられた。天平年間、東南道行臺左丞・徐州開府長史となった。召されて太尉府司馬となった。長白山は三斉に連なり、瑕丘など数州の境界で、盗賊が多かった。子馥は使命を受けて検分し、山谷の要害を弁え、鎮戍を置くべき場所を定めた。また諸州の豪族が山中で鋳造を行い、悪党が多くこれに依り、密かに兵器を造っていることもあり、諸々の冶所を廃止するよう請うた。朝廷はこれを良しとして従った。帰還し、尚書右丞に任ぜられ、清河太守として出向した。武定八年、郡で死去した。子馥は三伝(春秋の注釈書)が経文について同じことを説きながら異なる点があるのを、遂に一つにまとめ、伝と注を併せ出し、長短を校訂しようとしたが、完成せずに亡くなった。

原文長子子馥,字元穎,早有學行。孝昌初,釋褐南司州龍驤府錄事參軍。丁父艱,居喪有禮。後除給事中、南冀州防城都督。素為莊帝所知識,及即位,除宣威將軍、尚書右主客郎中,持節為南濟、冀、濟、青四州慰勞使。尋除寧朔將軍、員外散騎常侍,仍領郎中。太宰元天穆征邢杲,引為行臺郎中。尋除平原相。子馥父子並為此郡,吏民懷安之。元顥入洛,子馥不受其赦。刺史元仲景附顥,拘子馥,并禁家口。莊帝反政,詔封三門縣開國男,食邑二百戶。天平中,為東南道行臺左丞、徐州開府長史。入除太尉府司馬。長白山連接三齊,瑕丘數州之界,多有盜賊。子馥受使檢覆,因辨山谷要害,宜立鎮戍之所。又諸州豪右,在山鼓鑄,姦黨多依之,又得密造兵仗,亦請破罷諸冶。朝廷善而從之。還,除尚書右丞,出為清河太守。武定八年卒於郡。子馥以三傳經同說異,遂總為一部,傳注並出,校比短長,會亡未就。

子の德維は、武定末、司徒行参軍となった。

原文子德維,武定末,司徒行參軍。

子馥の弟の子華は、字を仲夷という。天平年間、右光禄大夫となった。

原文子馥弟子華,字仲夷。天平中,右光祿大夫。

柳崇

原文柳崇

柳崇は、字を僧生といい、河東郡解県の人である。七世の祖の軌は、晋の廷尉卿であった。崇は方正で優雅、器量があり、身長八尺、美しい鬚と明るい目を持ち、学問と行いを兼ね備えていた。秀才に挙げられ、射策で高第となった。太尉主簿・尚書右外兵郎中に初めて任ぜられた。当時、河東・河北の二郡が境界を争い、その間に塩池の豊かさと虜坂の利便があり、郡守と民衆は皆、他郡に割譲されることを恐れた。公私の徒が争い、朝廷に喧噪が絶えなかった。高祖(北魏の皇帝)は崇を派遣して裁定させ、民と官吏の訴訟を鎮めた。荊州・郢州が新たに帰附し、南方の敵寇が窺い騒がしい時、また詔により崇は節を持って州郡と計画を練り、兼ねて慰撫の言葉を加えた。帰還し、太子洗馬・本郡邑中正に昇進した。中壘将軍・散騎侍郎に転じた。司空司馬・兼衞尉少卿に昇進し、また邑中正を兼ねた。河北太守として出向した。崇が郡に着任した初め、郡民の張明が馬を失い、十余人が疑われた。崇は彼らに会い、盗賊の事は問わず、一人一人に別々に温顔を借り、さらにその親が老いて存命かどうか、農桑の多少を尋ね、微かにその言葉と顔色を観察した。すぐに真犯人である呂穆ら二人を捕らえ、残りは皆釈放した。郡中は畏服し、境内は平穏であった。官任で死去し、五十六歳。輔国将軍・岐州刺史を追贈され、諡を穆といった。崇の作った文章は、戦乱で散逸した。

原文柳崇,字僧生,河東解人也。七世祖軌,晉廷尉卿。崇方雅有器量,身長八尺,美鬚明目,兼有學行。舉秀才,射策高第。解褐太尉主簿、尚書右外兵郎中。于時河東、河北二郡爭境,其間有鹽池之饒,虜坂之便,守宰及民皆恐外割。公私朋競,紛囂臺府。高祖乃遣崇檢斷,民官息訟。屬荊郢新附,南寇窺擾,又詔崇持節與州郡經略,兼加慰喻。還,遷太子洗馬、本郡邑中正。轉中壘將軍、散騎侍郎。遷司空司馬、兼衞尉少卿,又領邑中正。出為河北太守。崇初屆郡,郡民張明失馬,疑十餘人。崇見之,不問賊事,人人別借以溫顏,更問其親老存不,農桑多少,而微察其辭色。即獲真賊呂穆等二人,餘皆放遣。郡中畏服,境內帖然。卒於官,年五十六。贈輔國將軍、岐州刺史,諡曰穆。崇所製文章,寇亂遺失。

長子の慶和は、性質が沈着で静かであり、時流に競わなかった。奉朝請から初めて官に就き、次第に軽車将軍・給事中・本郡邑中正に昇進した。死去した。

原文長子慶和,性沉靜,不競於時。起家奉朝請,稍遷輕車將軍、給事中、本郡邑中正。卒。

子の德逸は、武定末、斉王丞相府主簿となった。

原文子德逸,武定末,齊王丞相府主簿。

慶和の弟の楷は、字を孝則という。身長八尺、草書を得意とし、広く文史に通じていた。員外散騎侍郎に初めて任ぜられた。蕭(名欠落)が西征する時、車騎主簿に抜擢され、引き続き行臺郎中となった。征討から帰還し、員外郎として殿中侍御史を兼ねた。太尉記室参軍に転じ、寧遠将軍・通直散騎侍郎・本郡邑中正に昇進した。普泰の初め、集書省の官を簡選して定める時、征虜将軍・司徒從事・中書郎として出向し、儀同開府長史に転じた。天平年間、肆州驃騎府長史となり、かなりの名声があった。また中軍将軍を加えられた。興和年間、撫軍司馬となり、病に遭って死去した。

原文慶和弟楷,字孝則。身長八尺,善草書,頗涉文史。解褐員外散騎侍郎。蕭〈闕〉西征,引為車騎主簿,仍為行臺郎中。征還,以員外郎領殿中侍御史。轉太尉記室參軍,遷寧遠將軍、通直散騎侍郎、本郡邑中正。普泰初,簡定集書省官,出除征虜將軍、司徒從事、中書郎,轉儀同開府長史。天平中,為肆州驃騎府長史,頗有聲譽。又加中軍將軍。興和中,撫軍司馬,遇病卒。

高崇の従父の弟の元章は、姿形が魁偉であった。太尉中兵参軍・司空録事・司徒従事中郎を歴任し、相州平東府長史に遷った。時に刺史の元熙が兵を起こし、元叉を除こうとした。元章は魏郡太守の李孝怡らと共に元熙を捕らえた。爵を猗氏伯に賜り、正平太守に任じられた。後に霊太后が政権に復帰すると、官爵を削除され、家で卒した。

原文崇從父弟元章,姿貌魁偉。歷太尉中兵參軍、司空錄事、司徒從事中郎,遷相州平東府長史。屬刺史元熙起兵,欲除元叉。元章與魏郡太守李孝怡等執熙。賜爵猗氏伯,除正平太守。後靈太后反政,削除官爵,卒於家。

柳敬起

原文柳敬起

高崇の族弟の敬起は、字を華之という。中書博士より起家し、城陽王文学に転じた。寧遠将軍・尚書儀曹郎中・龍驤将軍・平陽太守に任じられた。卒した。五人の子があった。

原文崇族弟敬起,字華之。起家中書博士,轉城陽王文學。除寧遠將軍、尚書儀曹郎中、龍驤將軍、平陽太守。卒。有五子。

長子の永は、字を神護といい、性質は粗率であった。奉朝請より解褐し、員外散騎侍郎に転じた。太尉記室参軍に任じられ、諫議大夫に遷り、また征虜将軍・太中大夫・本郡邑中正に転じた。母が老齢のため官を解いて帰り養い、家で卒した。征西将軍・秦州刺史を追贈された。

原文長子永,字神護,性粗率。解褐奉朝請,轉員外散騎侍郎。除太尉記室參軍,遷諫議大夫,又轉征虜將軍、太中大夫、本郡邑中正。以母老解官歸養,卒於家。贈征西將軍、秦州刺史。

柳永の弟の暢は、字を叔智という。奉朝請より出で、三転して伏波将軍・岐州征虜府長史となった。征虜将軍・魯陽太守に遷った。還り、左将軍・太中大夫に任じられ、安東将軍・光禄大夫に転じ、卒した。衛大将軍・雍州刺史を追贈され、諡して穆といった。

原文永弟暢,字叔智。自奉朝請,三遷伏波將軍、岐州征虜府長史。遷征虜將軍、魯陽太守。還,除左將軍、太中大夫,轉安東將軍、光祿大夫,卒。贈衞大將軍、雍州刺史,諡曰穆。

柳暢の弟の範は、字を洪礼という。前将軍・給事中・本州大中正の任に在りて卒した。

原文暢弟範,字洪禮。卒於前將軍、給事中、本州大中正。

柳範の弟の粹は、字を季義といい、叔父の仲起の後を継いだ。武定の末、平東将軍・後軍将軍を経て、遼西太守に遷った。

原文範弟粹,字季義,出後叔仲起。武定末,平東、後軍,遷遼西太守。

敬起の弟の仲起は、字を紹隆という。秀才に挙げられ、咸陽王元禧が州牧となった時、西曹書佐に辟召された。子がなく、兄の子の粹がその後を継いだ。

原文敬起弟仲起,字紹隆。舉秀才,咸陽王禧為牧,辟西曹書佐。無子,兄子粹繼之。

柳儁起

原文柳儁起

高崇の族子の儁起は、若くして志尚があった。奉朝請より解褐し、太尉黙曹参軍・伏波将軍・司徒倉曹参軍に転じた。卒した。

原文崇族子儁起,少有志尚。解褐奉朝請,轉太尉默曹參軍、伏波將軍、司徒倉曹參軍。卒。

長子の達摩は、武定の末、陽城太守であった。

原文長子達摩,武定末,陽城太守。

儁起の従父の弟の援は、字を乾護といい、身長八尺、儀望は甚だ偉であった。太尉鎧曹参軍より解褐し、護軍司馬に転じた。次第に冠軍将軍・司空長史に遷り、廷尉少卿に転じた。出て安西将軍・南秦州刺史に任じられた。まもなく散騎常侍・鎮軍将軍となり、征西将軍・金紫光禄大夫に転じた。車騎将軍・右光禄大夫に遷った。卒し、本官の将軍・秦州刺史を追贈された。

原文儁起從父弟援,字乾護,身長八尺,儀望甚偉。解褐太尉鎧曹參軍,轉護軍司馬。稍遷冠軍將軍、司空長史,轉廷尉少卿。出除安西將軍、南秦州刺史。尋為散騎常侍、鎮軍將軍,轉征西將軍、金紫光祿大夫。遷車騎將軍、右光祿大夫。卒,贈本將軍、秦州刺史。

子の長粲は、武定の末、青州驃騎府中兵参軍であった。

原文子長粲,武定末,青州驃騎府中兵參軍。

柳援の従父の弟の仲景は、汝南王元悦の常侍であった。

原文援從父弟仲景,汝南王悅常侍。