羅結
羅結は代の人であり、その祖先は部落を統率し、国の附臣となった。劉顯が謀逆を企てたとき、太祖はそこを去った。結は鑾輿を翼衛し、 賀蘭部 に従幸した。後に功により屈蛇侯の爵位を賜った。太宗の時、持節・ 散騎常侍 ・寧南将軍・河内鎮将に任じられた。世祖の初め、 侍中 ・外都大官に遷り、三十六曹の事を総管した。年齢は百七歳であったが、気力は衰えなかった。世祖はその忠実誠実さを以て、大いに信頼され、後宮を監典し、臥内に出入りしたため、長信卿に任じられた。百十歳の時、詔により老後の帰郷を許され、居業として大寧の東川を賜り、併せて城を築かせた。即ち羅侯城と号し、今日に至るまでなお存する。朝廷に大事がある度毎に、駅馬で諮問された。百二十歳で卒去した。寧東将軍・幽州 刺史 を追贈され、 諡 して貞といった。
子の斤は、太宗の時に侍御中散となった。後に世祖に従って 赫連 昌を討ち、世祖が追撃して城内に入ると、昌が邀撃し、左右の者が多く死んだが、斤は力戦して功があった。世祖はこれを嘉した。後に勲功を記録し、 散騎常侍 ・侍中・四部 尚書 に任じられ、さらに平西将軍を加えられた。後に涼州を平定し、城を攻め野に戦い、多く克捷し、功により帯方公の爵位を賜り、 長安 鎮都大将に任じられた。時に 蠕蠕 が国境を侵したため、駅馬を馳せて召還され、柔玄鎮都大将に任じられた。後に斤の機知と弁舌を以て、王俊と共に蠕蠕に使いし、女を迎えて後宮に備えることを命じられた。また本将軍のまま開府し、長安鎮都大将となった。卒去し、本将軍・雍州刺史を追贈され、諡して静といった。金陵に陪葬された。
子の敦は爵位を襲った。容姿風采があり、挙措を善くした。太子洗馬から次第に 散騎常侍 ・庫部尚書に遷った。卒去し、安東将軍・幽州刺史を追贈され、諡して恭といった。
子の伊利は、高宗の時に爵位を襲った。内行長に任じられ、沈密小心・恭勤怠らずを以て御食・羽獵の諸曹事を管掌した。伊利が病んだ時、顕祖がその邸宅に幸し、自ら医薬を視察した。そのように遇されたのである。次第に 散騎常侍 ・儀曹尚書に遷り、出て安東将軍・兗州刺史となった。撫導を善くし、州に数年いる間に、辺境の民が五千余戸帰附した。高祖の時、蠕蠕が来寇したため、詔により伊利がこれを追撃したが、及ばずして帰還した。後に例により侯に降格された。司農卿・光禄大夫に任じられた。卒去した。世宗の初め、征北将軍・燕州刺史を追贈され、諡して静といった。
子の阿奴もまた忠実寡言で、智度があった。勲臣の子として、侍御中散に任じられ、爵位を襲った。次第に中散大夫に遷った。卒去した。
子の殺鬼は爵位を襲った。武泰年間、驃騎将軍・南青州刺史であった。
敦の弟の抜は、殿中尚書を歴任し、済南公の爵位を賜った。高祖の時、爵位を王に進められた。征西将軍・吏部尚書に任じられ、趙郡王に改封された。後に例により公に降格された。卒去し、寧東将軍・定州刺史を追贈され、諡して康といった。金陵に陪葬された。
子の道生は、肆州安北府外兵参軍であった。卒去した。
子の延は、天興年間、驃騎将軍・左光禄大夫であった。
結の従子の渥、渥の子の提は、共に通顕を歴任した。提は世祖に従って赫連昌を討ち功があり、昌の女を妻として賜った。
子の雲は、早くから名位があった。顕祖の時、給事中となり、西征して敕勒を討つ際、賊に襲撃されて殺された。
子の蓋は、世宗の時、右将軍・直閤将軍であった。龍驤将軍・済州刺史に転じた。卒去し、本将軍・兗州刺史を追贈された。
長子の鑒は、累遷して冠軍将軍・岐州刺史となった。入朝して 散騎常侍 ・金紫光禄大夫・主衣都統に任じられた。卒去し、侍中・ 都督 冀定瀛三州諸軍事・尚書右 僕射 ・ 司空 公・ 衞 将軍・冀州刺史を追贈された。これは孝静帝の外戚であったためである。
鑒の弟の衡は、累遷して天水・楽陵二郡太守、輔国将軍、光州刺史となった。
結宗人彌は、弓射に優れ膂力があった。世祖の時に軍将となり、しばしば征伐に従って功績を挙げ、官は范陽太守に至った。没後、幽州刺史を追贈された。
彌の孫の念は、 字 を子懷という。武定年間に、驃騎将軍・膠州刺史となった。
伊馛
伊馛は、代の人である。若い頃から勇壮で健やかであり、走れば奔馬に及ぶほど速く、弓射に優れ、力が強く、牛を引きずって後退させることができた。神䴥の初め、侍郎に抜擢され、三郎に転じ、汾陽子の爵位を賜り、振威将軍を加えられた。
世祖が涼州を討伐しようとした時、議論する者は皆諫めたが、ただ 司徒 の崔浩のみが世祖を励まして決行を勧めた。群臣が退出した後、伊馛は世祖に言った。「もし涼州に水草がなければ、どうして国たりえましょうか。議論する者の意見は用いるべきではなく、崔浩の言葉に従うべきです。」世祖はこれを良しとした。涼州を平定した後、世祖は姑臧で大集会を開き、群臣に言った。「崔公は智計に余裕があるが、私はもはやそれを奇とは思わない。私はむしろ、伊馛のような弓馬の士でありながら、見解が崔浩と同じであったことをこそ、深く奇とすべきであると思う。」振り返って崔浩に言った。「伊馛の知力がこのようであるなら、やがて公や宰相に至るであろう。」崔浩は言った。「どうして必ずしも書を読んで、その後で学問とする必要がありましょうか。衛青や霍去病も書を読まずして、大いに勲名を立て、公輔の地位に至りました。」世祖は笑って言った。「まことに公の言う通りである。」
伊馛は忠実で謹直な性格であり、世祖に愛され、日増しに特別な親遇を受け、賞賜は手厚かった。真君の初め、世祖は伊馛を尚書に任じ、郡公に封じようとした。伊馛は辞退して言った。「尚書の職務は多忙であり、公爵は極めて重い地位です。これは臣のような若年で愚昧な者が担うべき任ではなく、過分な恩寵をお取り下げください。」世祖が彼の望みを尋ねると、伊馛は言った。「 中書 省と秘書省の二省には多くの文士がおります。もし恩寵を止められないのであれば、その次席に加えてください。」世祖は彼を賢者と認め、そこで中護将軍・秘書監に任じた。功績により魏安侯の爵位を賜り、冠軍将軍を加えられた。後に外任として東雍州刺史となり、恩徳と教化が大いに行われ、百姓は彼を慕った。殿中尚書に転じ、常に宿衛を管轄した。世祖は彼を親任した。瓜歩に行幸に従い、しばしば戦功を挙げ、鎮軍将軍の号を進められた。興安二年、征北大将軍・都曹尚書に遷り、侍中を加えられ、河南公に爵位を進めた。興光元年、 司空 に任じられた。三公となってからは、清廉で倹約し自らを守り、政治は大綱を挙げるのみで、苛細なことはしなかった。太安二年、太子 太保 を領した。三年、 司徒 の陸麗らと共に尚書事を平らげた。五年に 薨去 した。
子の蘭が爵位を継いだ。 散騎常侍 ・庫部尚書となった。没した。
子の盆生は、 驍 勇で胆気があった。初め統軍となり、累ねて戦功を挙げ、遂に名将となった。勲功により 平城 子の爵位を賜った。神亀二年、 驍 騎将軍・直閤将軍から持節・右将軍・洛州刺史となった。荊州刺史の淮南王世遵、魯陽太守の崔模と共に襄陽を討ったが、勝てずに帰還し、官を免ぜられた。後に安西将軍・光禄大夫に任じられた。また撫軍将軍・太僕卿・仮の鎮西将軍・西道別将となり、戦うごとに頻りに勝利した。崔延伯の後、盆生がこれに次ぐ者とされた。征西将軍の号を進められ、岐州刺史を代行した。再び西道 都督 となり、戦死した。車騎将軍・雍州刺史を追贈された。永熙年間、重ねて驃騎大将軍・儀同三司・定州刺史を追贈された。
子の武平は、 司徒 祭酒となった。
武平の弟の武栄は、直閤将軍となった。
伊馛の族孫の豹子は、武衛将軍となった。
豹子の従子の琳も、武衛将軍となった。
乙瓌
乙瓌は、代の人である。その祖先は代々部落を統率していた。世祖の時、瓌の父の匹知が国の威徳と教化を慕い、瓌を遣わして貢ぎ物を献上した。世祖はそこで瓌を留め置いた。瓌は弓馬に熟達し、弓射に優れ、手ずから猛獣と格闘し、膂力は人並み外れていた。しばしば征伐に従い、非常に信頼され厚遇された。上谷公主(世祖の娘)を娶り、鎮南将軍・駙馬都尉に任じられ、西平公の爵位を賜った。行幸に従って南征し、使持節・ 都督 前鋒諸軍事に任じられた。戦うごとに、自ら士卒の先頭に立ち、その勇気は三軍に冠たった。後に侍中・征東将軍・儀同三司・定州刺史に任じられ、爵位を王に進めた。また西道都将となった。和平年間に二十九歳で薨去した。 太尉 公を追贈され、諡を恭といった。
子の乾帰が爵位を継いだ。十二歳で侍御中散となった。成長すると、身長八尺、気骨があり、書簡や文書にやや習熟し、特に兵法を好んだ。また恭宗の娘の安楽公主を娶り、駙馬都尉・侍中に任じられた。顕祖の初め、征西将軍・秦州刺史に任じられ、善政を施した。高祖が即位した初め、征西道都将となり、また中道都将となった。延興五年、三十一歳で卒去した。左光禄大夫・開府儀同を追贈され、諡を康といった。
子の海は、字を懐仁という。若くして侍御中散・散騎侍郎を歴任し、卒した時は四十一歳であった。 散騎常侍 ・衛将軍・済州刺史を追贈され、諡して孝といった。
子の瑗は、字を雅珍という。淮陽公主(高祖の娘)を娶り、駙馬都尉に任ぜられ、汝南王友となったが、固辞して拝命しなかった。済南太守を歴任した。時に逆賊の劉桃が郡を攻めたため、瑗は城を越えて難を免れた。後に 都督 の李叔仁が劉桃を討って平定すると、瑗は郡に戻った。後に司農少卿、銀青光禄大夫・金紫光禄大夫・左光禄大夫・右光禄大夫、中軍将軍、西兗州刺史に任ぜられた。天平元年、挙兵して樊子鵠に応じ、行台左丞の宋顕と戦い、敗死した。時に四十六歳。
瑗の弟の諧は、字を遵和という。武定年間、司馬となった。
諧の弟の琛は、字を仲珍という。 司空 参軍事に初めて任ぜられた。次第に東平・済陰二郡太守、 散騎常侍 に昇進した。卒した時は四十九歳。
和其奴
和其奴は、代の人である。若い頃から操行があり、弓馬に優れていた。初め三郎となり、羽林中郎に転じ、恭勤をもって称された。爵位を東陽子と賜り、奮武将軍に任ぜられた。高宗の初め、尚書に昇進し、 散騎常侍 を加えられ、爵位を平昌公に進め、安南将軍に任ぜられ、尚書左僕射に昇進した。太安元年、詔して群臣に皇太子の名を立てることを議させた。其奴は 司徒 の麗らと共に、徳をもって命名すべきであるとし、帝はこれに従った。また河東王の閭毗・太宰の常英らと共に尚書事を平らげた。官にあっては法を慎み、私的な請託を受けなかった。時に西征の吐谷渾討伐の諸将が滞留して進まず、長く囚われて未決であった。其奴は尚書の毛法仁らと共にその情状を連日にわたり詰問し、ことごとく服罪させた。和平六年、 司空 に昇進し、侍中を加えられた。高宗が 崩御 すると、乙渾と林金閭が勝手に尚書の楊保年らを殺害した。殿中尚書の元郁が殿中の宿衛兵を率いて渾に兵を加えようとした。渾は恐れ、罪を金閭に帰し、金閭を捕らえて郁に引き渡した。時に其奴は金閭の罪悪が未だ分明でないとして、彼を出して定州刺史とした。皇興元年、長安鎮将の東平王の道符が反逆した。詔して其奴に征西大将軍を領させ、殿中の精鋭の甲冑を着た騎兵一万騎を率いてこれを討たせたが、到着する前に道符は敗れ、軍は帰還した。三年に薨去し、内外ともに歎惜した。平昌王を追贈され、諡して宣といった。
子の天受は、爵位を襲った。初め内行令となった。太和六年、弩庫曹下大夫に昇進し、卒した。
苟頹
苟頹は、代の人である。曾祖父の烏提は、登国の初め、太祖に勲功があり、呉寧子を賜った。父の洛跋は、内行長であった。頹は性質が重厚で言葉少なく、厳毅で清直であり、武力は人に優れていた。中散に抜擢され、小心謹敬であった。世祖が南征した時、頹を前鋒都將とし、敵と対戦するたびに、常に先頭に立って敵陣を陥れた。世祖が江に至り、爵位を建徳男と賜り、寧遠将軍を加えられた。帰還後、奏事中散に昇進し、涼州の作曹を管轄した。内行令に昇進し、給事中に転じ、司衛監に昇進した。本官の将軍として洛州刺史に任ぜられた。政治は剛厳で、強きを抑え弱きを扶け、山の蛮族はその威を畏れて寇と為すことができなかった。承明元年、文明太后が百官に才幹があり事を為し、人を委ね仗するに足る者を推挙させた。そこで公卿は皆頹を推挙した。 散騎常侍 ・殿中尚書に召されて任ぜられ、爵位を成徳侯に進め、後将軍を加えられた。太和元年、 散騎常侍 を加えられ、まもなく侍中・安東将軍・都曹尚書に昇進し、爵位を河南公に進めた。
頹は方正で直言を好み、文明太后の生殺が妥当でなくとも、頹は至って懇切に言上し、一度も阿諛したことがなかった。李訢・李敷が誅殺された時、頹は共に諫めたが、太后は聞き入れなかった。三年、征北大将軍・ 司空 公に昇進し、爵位を河東王に進めた。旧老であるため、歩挽車に乗り、朝廷で杖をつくことを許された。
大駕が三川に行幸した時、頹は京師を留守した。沙門の法秀が謀反を企てたが、頹が禁衛を率いて包囲しことごとく捕らえ、内外は平穏であった。車駕が帰還し、戦勝の宴が催された時、文明太后は言った、「あの時、卿が疑いを持って直ちに収捕せず、処置を誤っていたならば、事態は計り知れぬものとなっていたであろう。今、京畿が乱れず、宗廟 社稷 が安泰であるのは、実に卿の功績である」。七年、詔して言った、「頹は台鼎として、道を論ずることを委ねられ、四朝に歴仕し、功績はますます遠大である。崇異を加えて、その功を顕彰すべきである。今後は、永く復除(租税免除)を受けることを許す」。十三年の冬に薨去した。高祖は長く痛悼した。贈賵を加え、諡して僖王といった。
長子の愷は、累進して冠軍将軍、柔玄・懐荒・武川鎮大将となり、爵位の河東王を襲ったが、例により公に降格された。正光二年に卒した。平北将軍・恒州刺史を追贈された。
子の寶は、武定年間、北梁太守となった。
愷の弟の養は、歩兵 校尉 となり、早世した。
養の弟の資は、武騎侍郎・河間太守・太僕少卿・汲郡太守となった。龍驤将軍・肆州刺史に昇進した。帰還後、武衛将軍に任ぜられ、後将軍を加えられた。延昌の末に卒した。平北将軍・ 并州 刺史を追贈され、併せて帛二百匹、布一百匹を賜り、諡して愍といった。
子の景蠻は、莊帝の時に、撫軍將軍・金紫光祿大夫となった。
頹の弟の若周は、 散騎常侍 ・尚書となった。太和年間に、安南將軍・ 豫 州刺史・潁川侯となった。卒し、光祿大夫を追贈された。
若周の弟の壽樂は、太和年間に、北部尚書となった。安南將軍・懷州刺史となり、山陽公を仮授されたが、拝命しなかった。まもなく 散騎常侍 ・殿中尚書・ 晉 安侯に任じられた。卒し、安東將軍・冀州刺史を追贈された。
頹の従叔の孤は、若くして忠直をもって称された。太宗が即位すると、定策の功により車騎將軍に任じられた。後に鎮軍大將軍・ 并 州刺史・博陵公となった。産業を治めず、死んだ日に家に余財なく、百姓は彼を追慕した。
薛野䐗
薛野䐗は、代の人である。父の達頭は、姚萇の時より部落を率いて帰国した。太祖はその忠誠を嘉し、爵を聊城侯と賜い、散員大夫とし、上客の礼をもって遇し、妻に鄭氏を賜った。達頭は閑雅で恭慎であり、太祖は深く器とした。卒し、平南將軍・冀州刺史を追贈され、諡して悼といった。野䐗は幼くして父母を失い、宗人の利の家に養われた。成長すると、学を好み射を善くした。高宗の初め、召されて羽林に補せられた。給事中に遷り、民籍の事を管掌し、戸口を校計して、称職と号された。爵を順陽子と賜う。野䐗は幼くして孤となり、父の侯爵を襲封せず、ここに至って爵を賜うのである。和平年間に、平南將軍・ 并 州刺史となり、爵を河東公に進めた。太州刺史に転じ、治績に名声があった。卒し、年六十一。 散騎常侍 ・大將軍・ 并 州刺史を追贈され、諡して簡といった。
子の虎子は、姿貌壮偉で、明断に父の風があった。年十三にして、入侍して高宗に仕えた。太安年間に、内行長に遷り、諸曹の奏事を管掌した。官に当たって正直であり、内外憚らせた。文明太后が朝政に臨まれると、虎子を出して枋頭鎮将とした。
虎子は元来剛簡であり、近臣に憎まれて、小さな過失により鎮門士に貶黜された。顯祖が南巡し、山陽に駐輦された時、虎子は路傍に拝跪して訴え、「臣は昔、先帝に仕え、過分に重恩を蒙りました。陛下が諒闇におられる時、臣は横に非罪に罹り、自らこの辺境に擯黜されて、すでに多年を経ました。今日、聖顔に奉ずるを得ようとは思いもよりませんでした」と言い、涙を流して嗚咽した。顯祖は「卿は先帝の旧臣であり、久しく不当な場所に屈していた。まことに憮然たる思いである」と言われ、虎子に侍行を命じ、政事を諮問されると、数十里の間、応対が絶えなかった。時に山東は飢饉で、盗賊が競い起こった。相州の民孫誨ら五百余人が、虎子が鎮に在った日、境内が清晏であったと称し、虎子を乞うことを訴えた。そこで再び枋頭鎮将に任じ、即日赴任した。鎮に至ると、数州の地で、奸徒は跡を潜めた。顯祖は璽書をもって慰諭された。後に平南將軍・相州刺史となったが、顯祖が崩御されたため、赴任しなかった。太和二年、爵を襲いだ。三年、詔により虎子は三将を督して寿春より出撃し、劉昶とともに南討した。四年、徐州の民桓和らが叛逆し、五固に屯した。詔により虎子は南征都副将となり、尉元らとともにこれを討平した。本將軍をもって彭城鎮将となった。鎮に至ると、よく民和を得た。開府・徐州刺史となった。
時に州鎮の戍兵は、資絹を自ら携帯し、公庫に入れず、私用に任せていたため、常に飢寒に苦しんでいた。虎子は上表して言う、「臣は聞く、金城湯池の固さも、粟がなければ守れず、韓信・白起の勇も、糧がなければ戦えないと。故に用兵以来、先ず積聚をなし、その後併呑を図らぬ者はない。今、江左は未だ賓服せず、鯨鯢(敵)は誅戮を待っている。自ら粟を彭城に委ねて、豊沛を強くせずして、どうして江関を拓定し、衡霍を掃一できようか。窃かに考えるに、鎮に在る兵は、数万を下らず、資糧の絹は人に十二匹、すなわち自ら随身し、用度に準則なく、交代の時までに至らずして、飢寒を免れない。公について論ずれば、毫釐の潤いもなく、その利私を語れば、横費して足りない。民を軌度に納れ、公私相い益するというに非ざるなり。徐州の付近は、水陸ともに沃壤で、清・汴が通流し、激灌に足りる。その中に良田十万余頃あり。もし兵絹をもって牛を買い、戍卒を分減し、その牛数を計れば、万頭を得るに足る。公田に力を興せば、必ずや大いに粟稻を獲るであろう。一年のうちに、官食を給し、半兵を耘植に当て、余兵なお衆く、耕しながら守り、辺を捍うに妨げない。一年の収穫は、十倍の絹を過ぎ、暫時の耕作は、数載の食を充たすに足る。その後は兵資、ただ内庫を須いるのみで、五稔の後には、穀帛ともに溢れるであろう。ただに戍士に豊飽の資があるのみならず、国に敵を呑むの勢いがある。昔、杜預は宛葉に田して呉を平げ、趙充国は西零を耕して漢を強くした。臣は古人に識謝すれども、任は辺守に当たり、塵露を竭くして、山海を増すことあらんことを庶幾す」。高祖はこれを容れられた。
また上疏して言う、「臣は聞く、先王は不易の軌を建て、万代これを受け、聖主は不刊の制を垂れ、千載ともに仰ぐと。伏して惟うに、陛下は道は羣生に洽く、恩は造化に斉しく、仁徳の及ぶところ、迹は前哲を超える。遠く古典を崇め、治方に留意し、前王の弊法を革め、当今の宜用を申べられる。貢賦の軽重を定め、品秩の厚薄を均しくし、百辟に代耕に足らしめ、編戸にその余畜を享けしめんとされる。巍乎として煥かで、量るべからざるものがある。臣窃かに尋ねるに、辺境に居る民は、化を蒙る日浅く、戎馬の地は、資計素より微である。小戸は一丁のみで、その徴調の費を計れば、終歳にして七縑あるのみである。去年は徴責備わらず、あるいは田宅を貨易し、妻を質し子を売り、道路に呻吟するあり、聞くに忍びない。今、淮南の人は、聖化を思慕し、頸を延べ足を企てるもの、十室にして九である。賦の重きを聞けば、さらに進退を懐かしむであろう。ただに皇風の盛を損なうのみならず、義を慕う心を傷つけることを慮う。かつ臣の居る所は、南と連接し、民情の去就は、実に諳知する所である。特に宜しく寛省して、未だ至らざる者を招くべし。その小郡太守は、数戸のみである。一請に六尺絹を止め、歳に一匹に満たず。すでに辺捍を委ね、その必死を取るに、邀うる士重くして、何ぞ君の軽きを吝しまん。今、班制すでに行われ、天下に布かれた。宜しく忤冒して、朝章を乱すべからず。ただ猥りに恩私に藉り、蕃岳に備位し、憂責の地、敢えて言を尽くさざるべからず」。書が奏上されると、文明太皇太后は令して言われた、「俸制はすでに行われた。小なる不平あるをもって、便ち通式を虧くべからず」と。
州内の戍兵は毎年交代するが、虎子は必ず自ら労を送った。死者にはその殮帛を給した。州内に水害があり、二麦が収穫できず、上表して民に粟を貸すことを請い、民に車牛ある者は、東兗に赴いてこれを給するよう求めた。すべて奏の如く行われ、民は安堵を得た。高祖はかつて従容として秘書丞李彪に問うて曰く、「卿は頻りに江南に使いし、徐州刺史の政績は如何」と。彪曰く、「辺を綏撫し教化を布き、甚だその和を得たり」と。高祖曰く、「朕もまたこれを知る」と。沛郡太守邵安・下邳太守張攀は皆贓汚を以て、虎子これを法に照らして断じた。安らは子弟を遣わして上書し、虎子が南に賊虜に通ずることを誣告した。高祖曰く、「これはその妄りなり、朕は虎子必ず然らずと度る」と。推案すること果たして虚偽であった。乃ち詔を下して曰く、「夫れ君臣が体合すれば、則ち功業興すべく、上下猜懼すれば、則ち治道替わる。沛郡太守邵安・下邳太守張攀は皆貪婪を以て罪を得、各々子弟を遣わして闕に詣り、刺史虎子が民を縦して賊に通ぜしむと告げ、妄りに端無きを称す。安は賜死すべく、攀及び子僧保は鞭一百、敦煌に配す。安息他生は鞭一百。州の官兵民等を集め、宣告して行決すべし。彼の軽狡の源を塞ぎ、此の力を陳ぶるの効を開くべし」と。州に在ること十一載、太和十五年卒す、年五十一。 散騎常侍 ・鎮南将軍・相州刺史を贈られ、諡して文と曰う。六子あり。
長子世遵、爵を襲ぐ、例に降りて侯となる。景明中、秦州刺史となり、稍く左将軍に遷る。卒す、年四十二。
長子忱、字は安民。正光中、爵を襲ぐ。稍く鎮南将軍・鉅鹿太守・定州儀同開府諮議参軍・斉献武王大行台左丞・中外府司馬に遷る。出でて殷州驃騎府長史となる。武定五年、鎮北将軍・北広平太守を除く。治め暴虐にして、曾て公事に因り、一家の内に併せて数人を殺す。民に訟せられ、将にこれを罪せんとす、患いに遇い、郡に卒す。征西将軍・西兗州刺史を贈られる。
忱の弟安顥、武定末、東 豫 州征西府長史。
世遵の弟曇慶、少より度量あり。永平中、員外 散騎常侍 、尚書郎に遷る。年五十一、卒す。
子衍、字は元孫、財を軽んじ義を慕う。熙平中、侍御史・奉朝請となる。永安中、尚書駕部郎中、河陰県事を行なう。正平太守に卒す。征東将軍・徐州刺史を贈られる。
曇慶の弟曇宝、初め散騎を補う。高祖詔して曇宝に天下の遺書を採らしむ。侍御中散・直閤将軍・太子歩兵 校尉 を歴任す。世宗の時、使いを遣わして四方を巡行せしめ、曇宝を持節・兼 散騎常侍 ・龍驤将軍・南道大使とす。曇宝 豫 州に達し、卒す、年二十九。
曇宝の弟曇尚、容貌あり、性寛和なり。初め御史を辟き、奉朝請を加えらる。熙平二年、徐州穀陽戍主を除き、南陽平郡事を行なう。母憂にて職を去る。正光中、詔して陽平は蕭衍に隣接し、綏捍人を須うとし、尚書に才を挙げて遣わすを仰ぐ。左僕射蕭宝夤曇尚を挙げて選に応ぜしめ、馳駅して郡に之く。孝昌初、徐州刺史元法僧叛きて蕭衍に入る、曇尚その使人を斬り、首を 都督 ・安楽 王鑒 に送る。鑒援けず、遂に蕭衍の将王希聃に陥せられ、曇尚を拘えて蕭衍に送る。衍礼を以てこれに遇い、曇尚帰るを乞う、衍乃ち還るを聴す。粛宗その本秩を復す。武泰初、尒朱栄強く 并 肆を擅にす、朝廷その情を揣わんと欲し、曇尚を員外常侍に除き、栄に使いせしめ、慰喩を託し、密かにこれを観る。建義初、 司徒 左長史・兼吏部尚書を除き、太原王尒朱栄に官を授く。還り、爵永安侯を賜う。尋いで後将軍・定州刺史を除く。尒朱栄の死に、持節・兼尚書北道行台を授け、魏蘭根に代わる。後鎮東将軍・金紫光禄大夫となる。太昌初、征東将軍を加え、兗州事を行なう。天平中、驃騎大将軍・斉州刺史を除く。曇尚凡そ三州を歴任し、俱に貪虐と称せらる。還り、将作大匠を除き、官に卒す、年六十一。 都督 瀛滄二州諸軍事・本将軍・儀同三司・瀛州刺史を贈られる。
子仲芬、武定中、斉文襄王中外府中兵参軍。
曇尚の弟琡、字は曇珍。武定末、儀同三司・尚書右僕射。
宇文福
宇文福、河南 洛陽 の人。その先は南単于の遠属、世々擁部の大人たり。祖活撥、 慕容 垂に仕え、唐郡内史・遼東公となる。太祖の慕容宝を平らぐるに、活撥国に入り、第一客となる。
福少より 驍 果にして、膂力あり。太和初、羽林郎将に拝され、建節将軍に遷り、爵新昌侯・南征都将を賜う。蕭賾を撃ち功あり、顕武将軍を授かる。尋いで恢武将軍・北征都将を除き、特しく戎服を賜う。蠕蠕の別部を破り、万余を獲る。還り、都牧給事を除く。十七年、車駕南討し、冠軍将軍・後軍将軍を仮す。時に仍り洛に遷都す、勅して福に牧馬の所を検行せしむ。福石済以西・河内以東を規し、黄河の南北千里を拒めて牧地とす。事尋いで施行され、今の馬場これなり。及び代より雑畜を牧所に移すに、福将養に善くし、併せて損耗無し、高祖これを嘉す。尋いで司衛監を補う。駕に従い 豫 州に至り、冠軍将軍・西道都将・仮節・征虜将軍を加えらる。精騎一千を領し、専ら駕の後を殿す。未だ幾ばくもせず、 驍 騎将軍に転じ、仍り太僕・典牧令を領す。駕に従い南陽を征し、武衛将軍を兼ぬ。
二十二年、車駕南討し、福と右衛将軍楊播を前軍と為して遣わす。鄧城に至り、福兵を選び将を簡び、攻囲の勢いを為す。高祖福の軍法斉整、将士閑習するを望み、大いに褒歎せらる。蕭鸞その尚書崔慧景・黄門郎蕭衍に衆十万を率いて来救せしむ。高祖将士を指麾し、勅して福に 高車 羽林五百騎を領して賊の南面に出で、その橋道を奪い、帰路を遏絶せしむ。賊衆大いに恐れ、六道来たり戦う。福鞍に据り衆に誓い、身士卒に先んじ、賊前へ得ず、遂に大いに奔潰す。爵昌黎伯を賜い、武衛を正し、征虜将軍を加えらる。尋いで高車叛くを以て、命じて征北将軍・北征都将を加え、これを追討せしむ。軍敗れて黜せらる。
景明初、乃ち起ちて平遠将軍・南征統軍に拝す。 都督 彭城王勰に計を進めて曰く、「建安は淮南の重鎮、彼此の要衝なり。これを得れば則ち義陽図り易く、獲ざれば則ち寿春保ち難し」と。勰然りとす。及び勰州と為るに及び、遂に福をして建安を攻めしむ。建安降る、勲を以て襄楽県開国男に封ぜられ、邑二百戸。太僕少卿を除く。尋いで衍の将辺を寇すを以て、仮節・征虜将軍、兵を領して三関を出でてこれを討つ。又詔して福に 豫 州事を行なわしめ、東 豫 州刺史田益宗と共に相影援し、蛮楚を綏遏す。還り、光禄大夫と為り、太僕卿に転ず。延昌中、本官を以て左衛将軍を領し、 散騎常侍 ・都官尚書を除き、安東将軍・営州大中正を加えらる。
熙平の初め、鎮北将軍・瀛州刺史に任ぜられる。費福は忠清の性質を持ち、公務において厳格で、信をもって民を治め、甚だ名声を得た。任を解かれ、再び太僕卿に任ぜられる。また金紫光禄大夫となる。出て 散騎常侍 、 都督 懐朔・沃野・武川三鎮諸軍事、征北将軍、懐朔鎮将に任ぜられる。鎮に至り、病に遭い卒す。詔して主書楽安嘉を遣わし弔問に赴かしむ。車騎大将軍・定州刺史を追贈され、開国はもとの如く、諡して貞恵という。
長子の費善、字は慶孫、爵を襲ぐ。 司空 掾より、次第に平南将軍・光禄大夫に遷る。孝昌の末、北征して戦没す。車騎将軍・冀州刺史を追贈される。
費善の弟の費延、字は慶寿、体貌魁岸にして、眉目疎朗なり。永平年中、奉朝請に初任し、直後・員外 散騎常侍 となる。父の老齢により、詔して瀛州に随侍することを聴す。大乗の妖党が州城に突入するに属し、費延は奴客を率いて戦い、死者数人、身に重創を受け、賊はやや退くも、火を放って斎閣を焼く。費福は時に内にあり、費延は火中に突入し、費福を抱いて外に出る。肢体は灼けて爛れ、髪は全て灰となる。ここにおいて衆を勒して賊と苦戦し、賊は散走す。これにより称される。孝昌年中、仮節・建威将軍・西道別将を授かり、関隴に赴援し、戦功あり。員外 散騎常侍 に任ぜられ、直寝に転ず。万俟醜奴と戦い没す。冠軍将軍・ 豫 州刺史を追贈される。
子の費仲鸞、武定の末、斉王丞相府長流参軍。
慶寿の弟の慶安、給事中・尚書殿中郎中を歴任す。後に平北将軍・武衛将軍を加えられる。河陰において害に遇い、征東将軍・兗州刺史を追贈される。長子は費仲融。費仲融の弟は費仲衍。
費于
費于は代の人なり。祖父の費峻は赫連昌に仕え、寧東将軍となる。泰常の末、衆を率いて来降し、龍驤将軍に拝され、爵を犍為公と賜う。後に征南将軍・広阿鎮大将に遷り、爵を下邳公に移す。父の費郁は、父に随い帰誠の勲により、五等男を賜り、燕郡太守に任ぜられる。卒し、幽州刺史を追贈される。
費于は若くして節操あり、内三郎より起家す。世祖の南伐に、従駕して江に至る。宿衛の勤めにより、寧遠将軍に任ぜられ、爵を松楊男と賜う。商賈部二曹令に遷り、平南将軍・懐州刺史に任ぜられる。卒す。
子の費万、襲爵す。太和の初め、平南将軍・梁国鎮将に任ぜられる。後に高祖の南伐に、費万は従駕して淮を渡り、戦没す。鎮東将軍・冀州刺史を追贈される。
子の費穆、字は朗興。性質剛烈にして壮気あり、頗る書史に渉り、功名を好尚す。世宗の初め、男爵を襲ぐ。後に夏州別駕に任ぜられ、尋ねて寧遠将軍を加えられ、涇州平西府長史に転ず。時に刺史の皇甫集は、霊太后の元舅にして、外戚の親を恃み、多く非法を行う。費穆は正色して匡諫し、皇甫集もまたこれを憚る。安定太守に転じ、仍って長史となる。還朝し、左軍将軍に拝され、河陰令に転じ、厳明の称あり。
時に蠕蠕の主婆羅門が涼州より帰降す。その部衆は飢えに因り辺邑を侵掠す。詔して費穆に命を銜ませ宣慰せしむると、便ち皆款附す。明年また叛き、涼州に入寇す。費穆を輔国将軍・仮征虜将軍・兼尚書左丞・西北道行臺に任じ、仍って別将として、往きてこれを討たしむ。費穆、涼州に至る。蠕蠕遁走す。費穆、その所部に謂いて曰く、「夷狄は獣心にして、唯だ利を視る。敵を見れば便ち走り、虚に乗じて復た出づ。今王師来たりて討つも、威を畏れて跡を逃るるも、然れども軍還の後は、必ず来たりて侵暴せん。今、羸師を以て誘致し、一戦を獲んことを冀う。若しその破胆せしめざれば、終に奔命に疲るるを恐る」と。衆皆然りとす。費穆乃ち精騎を簡練し、山谷に伏せ、羸歩の衆をして外営と為さしめてこれを誘わしむ。賊騎覘見し、信弱と謂い、俄にして競い至る。費穆の伏兵奔撃し、これを大破し、その帥の郁厥烏爾・俟斤十代等を斬り、生口雑畜を獲ること甚だ衆し。
六鎮の反叛に及び、詔して費穆を別将とし、 都督 李崇の北伐に隷せしむ。 都督 崔暹失利す。李崇将に班師せんとし、諸将を会して議して曰く、「朔州は白道の衝にして、賊の咽喉なり。若し此の処全からずんば、則ち 并 肆危うからん。今諸将の一人を選び、留めて鎮捍せしめんと欲す。誰か此の任に堪うるを知らざる」と。僉に曰く、「費穆に過ぐるは無し」と。李崇乃ち朔州刺史と為すことを請い、仍って本将軍、尋いで雲州刺史に改めて任ず。費穆は離散を招き聚め、頗る人心を得たり。時に北境の州鎮は悉く皆淪没すれども、唯だ費穆独り一城を拠り、四面に抗拒す。久しくして援軍至らず、兼ねて行路阻塞し、糧仗俱に尽きぬ。費穆勢窮まるを知り、乃ち城を棄て南走し、尒朱栄を秀容に投ず。既にして闕に詣りて罪を請う。詔してこれを原う。
孝昌年中、二絳の蜀反し、費穆を 都督 として、これを討平す。前将軍・ 散騎常侍 に拝され、平南将軍・光禄大夫に遷る。妖賊の李洪が陽城に起ちて逆を為し、蛮左と連結す。詔して費穆に武衛将軍を兼ねさせ、衆を率いて討撃せしむ。関口の南に破る。金紫光禄大夫に遷り、正武衛将軍となる。
尒朱栄、洛に向かう。霊太后、費穆を徴し、小平に屯せしむ。尒朱栄が庄帝を推奉するに及び、河梁守られず、費穆遂に衆を棄て先に降る。費穆は素より尒朱栄に知られ、これを見て甚だ悦ぶ。費穆潜かに尒朱栄を説いて曰く、「公の士馬は万人を出でず。今長駆して洛に向かうも、前に横陳する者無きは、正に主上を推奉し、民心に順うが故のみ。既に戦勝の威無く、群情素より厭伏せず。今、京師の衆、百官の盛を以て、一たび公の虚実を知らば、必ず軽侮の心有らん。若し大いに誅罰を行い、更に親党を樹てざれば、公の北に還るの日、恐らくは太行を度えずして内難作らん」と。尒朱栄心に然りとす。ここにおいて遂に河陰の事有り。天下これを聞き、切歯せざるは莫し。尒朱栄、洛に入る。費穆は中軍将軍・吏部尚書、魯県開国侯に遷り、食邑八百戸、又夏州大中正を領す。
蕭衍、将軍曹義宗を遣わして荊州を逼る。詔して費穆を使持節・南征将軍・ 都督 南征諸軍事・大 都督 としてこれを援けしむ。費穆潜軍して径進し、その不意に出で、至るや即ちこれを大破し、生擒して曹義宗を闕に送る。功により衛将軍に遷り、趙平郡開国公に進封され、邑一千戸を増す。使持節に遷り、侍中・車騎将軍・仮儀同三司・前鋒大 都督 を加えられる。大将軍元天穆と東して邢杲を討ち、これを破平す。時に元顥内に逼り、庄帝北に幸す。元顥、京師に入る。費穆と元天穆は既に斉地を平げ、師を回して将に元顥を撃たんとす。費穆先駆して虎牢を囲み、鋭を尽くしてこれを攻む。将に抜かんとすに、元天穆の北渡するに属し、既に後継無く、人情離沮す。費穆遂に元顥に降る。河陰の酷濫の事は費穆に起こるを以て、引き入れて詰譲し、出でてこれを殺す。時に年五十三。庄帝還宮し、侍中・ 司徒 公を追贈し、諡して武宣という。
長子の慶遠は、永安年間に龍驤将軍・青州開府司馬となった。
第二子の孝遠は、爵位を継いだ。天平年間に、叛いて関西に入った。
孟威
孟威は、字を能重といい、河南洛陽の人である。気概と志操が頗るあり、特に北方の風俗に通暁していた。東宮斎帥・羽林監を歴任した。時に四鎮の高車が叛いて蠕蠕に投じたので、高祖(孝文帝)は詔を下して威に禍福を説かせ、逃散した者を追い返して民として分配させた。後に北方の言語に明解であることを以て、著作に在らしめ、推問に備えさせた。永平年間に、鎮遠将軍・前軍将軍・左右直長より、龍驤将軍を加えられ、高昌に使節として出向した。帰還後、城門 校尉 ・直閤将軍・沃野鎮将に遷った。正光初年、蠕蠕の主阿那瓌が帰国した際、詔により前郢州刺史陸希道を兼侍中として使主とし、威を兼 散騎常侍 として副使とし、遠く京畿を出て迎接させた。阿那瓌が帰国する際にも、再び威を平北将軍・光禄大夫とし、員外常侍を仮とし、使主としてこれを護送させた。前後頻りに遠蕃に使し、大略皆旨に適った。さらに撫軍将軍を加えられた。普泰年間に、大鴻臚卿に除され、まもなく驃騎大将軍・左光禄大夫を加えられた。天平三年に卒去した。使持節・侍中・本将軍・ 都督 冀瀛滄三州諸軍事・ 司空 公・冀州刺史を追贈された。子の恂が嗣いだ。
威の弟の季は、次第に鎮遠将軍・左中郎将・廷尉監に遷った。本将軍のまま広州刺史に除された。尒朱栄の義挙に参預し、鉅鹿県開国公に封ぜられ、食邑一千戸を与えられた。撫軍将軍・廷尉卿に除され、司農卿に転じた。出て平西将軍・華州刺史となった。卒去し、車騎大将軍・雍州刺史を追贈された。
【史論】
史臣が曰く、羅結は枝が葉に従うが如く、旧来の恩眷に当たり、子孫は顕禄を得て、皆公王に至った。伊馛は勇力を以て抜擢されながら、姑臧を伐つ策を賛し、中秘の官に参ずることを請うた。世祖が前にこれを嘉したのは、誠に由有る所以である。乙瓌の 驍 猛、和奴の貞正、苟頹の剛直、虎子の威強、宇文の気幹、皆また有用の士である。費穆は身を出して力に致し、遂に功名を成したが、末路の一言により、禍は簪帯に及んだ。文和と較べれば、異世にして同じ咎めを受けた。その死は幸いであったか。孟威は荒裔に力を致し、その勤めは録すべきものである。
校勘記