巻56

鄭羲

鄭羲は、 あざな を幼驎といい、 滎陽 けいよう 郡開封県の人であり、魏の 作大匠鄭渾の八世の孫である。曾祖父の鄭豁は、 慕容 ぼよう 垂の太常卿であった。父の鄭曄は仕官せず、長楽の潘氏に娶り、六人の男子を生んだ。おおむね志気があり、鄭羲はその第六子で、文学に優れていた。弱冠にして秀才に挙げられ、 尚書 しょうしょ の李孝伯が娘を妻とした。高宗(文成帝)の末年、 中書 ちゅうしょ 博士に任ぜられた。

天安元年(466年)、劉彧(宋の明帝)の司州 刺史 しし 常珍奇が汝南を拠点として降伏を申し出た。顕祖(献文帝)は詔を下し、殿中尚書の元石を都將としてこれに向かわせ、併せて淮水・汝水一帯を招き慰撫するため、鄭羲を元石の軍事に参じさせた。上蔡に到着すると、珍奇は文武三百人を率いて出迎えた。相見えた後、軍を汝水の北に駐屯させ、直ちには城に入らないことを議した。鄭羲は元石に言った。「機事は速やかであることを尚ぶ。今、珍奇は来たとはいえ、その意図は測りがたい。直ちにその城に入り、管籥(鍵)を奪い、府庫を占拠するに如くはない。彼の意表を突くことになるが、要は全体的な制圧をもって勝利とすべきである。」元石は鄭羲の言に従い、遂に策馬して直ちに城に入った。城中にはなお珍奇の親兵数百人が、珍奇の邸宅内にいた。元石は城を制圧すると、ますます驕り怠り、酒宴を設けて戯れ、警備防備の憂いがなかった。鄭羲は元石に言った。「珍奇を見るに、甚だ不平の色がある。兵を厳しくし、設備を整え、非常事態に備えるべきである。」その夜、珍奇は果たして人を使わして府の廂屋を焼かせ、救火に乗じて乱を起こそうとしたが、元石に備えがあったため、やめた。翌朝、鄭羲は白虎幡を携えて郭邑を慰撫し、衆心はようやく落ち着いた。

翌年の春、また軍を率いて東進し汝陰を討った。劉彧の汝陰太守張超が城を守って降伏せず、元石は精鋭を率いて攻めたが、陥落せず、遂に退いて陳項に至り、軍を長社に還し、秋を待って撃つことを議した。諸将は早く帰還することを喜び、皆その計略を善しと称えた。鄭羲は言った。「今、張超は市井の人々を駆り立て、石を担いで、蟻のように窮城に集まり、その命は一月も延びまい。安心してこれを守るべきである。超の食糧は既に尽き、降伏しなければ逃走するであろう。足を上げて待つだけで、生け捕りにできるものである。しかるにこれを棄てて長社に還ろうとするのは、道程が懸け隔たって遠く、超は必ず城を修め堀を深くし、薪穀を多く蓄積するであろう。将来、恐らく図り難くなるであろう。」元石は受け入れず、遂に軍を返して長社に至った。冬になると、再び往って超を攻めたが、超は果たして設備を整えており、功なくして還った。数年を経て、超は死に、楊文長が代わって守ったが、食糧が尽きて城は潰え、ようやくこれを陥落させた。結局、鄭羲の策の通りであった。淮北が平定されると、中書侍郎に転じた。

延興初年(471年 ちかごろ )、陽武県人の田智度が、十五歳で妖術をもって衆を惑わし動かし、京・索の地を擾乱した。鄭羲が河南の民望であり、州郡に信頼されているため、鄭羲を駅伝に乗せて慰撫諭告させた。鄭羲が到着し、禍福を宣べ示し、重ねて募賞を加えたところ、十日ほどの間に、衆は皆帰散した。智度は潁川に奔り、間もなく捕らえられ斬られた。功により爵位平昌男を賜り、鷹揚將軍を加えられた。

高祖(孝文帝)の初年、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ね、仮に寧朔將軍・陽武子とされ、劉準(宋の順帝)のもとに使節として赴いた。中山王元叡は当世に寵愛され、王官が置かれたが、鄭羲はその傅となった。この後、長年転任せず、資産も乏しくなったため、仮を請うて帰郷し、遂に徘徊して戻らなかった。李沖が貴寵となると、鄭羲と姻戚関係にあったため、家に就いて徴されて中書令となった。文明太后が父の燕宣王のために 長安 ちょうあん に廟を立て、完成した時、鄭羲を兼ねて太常卿とし、仮に 滎陽 けいよう 侯とし、官属を つぶさ えさせ、長安に赴かせて廟を拝礼させ、廟門に石を刻み碑を建てさせた。帰還後、使節としての功により、引き続き侯爵を賜り、給事中を加えられた。出向して安東將軍・西兗州刺史となり、仮に南陽公とされた。鄭羲は多くの収賄を受け、政治は賄賂によって成った。性はまた吝嗇で、民が礼の贈り物をしても、杯酒や臠肉さえも与えず、西門で羊や酒を受け取り、東門でそれを売り捌いた。李沖の親族であったため、法官はこれを糾弾しなかった。酸棗県令の鄭伯孫・鄄城県令の童騰・別駕の賈德・治中の申霊度らは、皆在任中に廉潔で忠貞であり、よく百姓を思いやったので、鄭羲は皆上表して称揚推薦し、当時の論評はこれを多とした。文明太后が高祖のためにその娘を嬪妃に納れると、徴されて秘書監となった。

太和十六年(492年)に卒去した。帛五百匹を贈られた。尚書が奏上して おくりな を宣としようとしたが、詔して言った。「棺を蓋いて諡を定めるのは、先典の成式であり、清濁を激揚することは、治道の明らかな範である。故に何曾は幼少より孝行であったが、良史は『繆醜』の名を改めず、賈充は晋に寵愛されたが、直士はなお『荒公』の称を立てた。鄭羲は宿昔より文業はあったが、治績に廉清を欠く。古に稽る効は、朝策に光を放たず、貨を貪る評は、既に民の聴くところとなっている。善き問いによる諡は、甚だその衷に乖いている。また前年の選挙は、備行充挙によるものではなく、自ら後任を荷ったが、勲績は顕著でない。尚書は何ゆえに至公の情を遺し、明典に違背するのか。諡法に依れば、博聞多見を『文』といい、勤めずして名を成すを『霊』という。本官をもって贈り、諡して文霊と加えるべし。」

長子の鄭懿は、字を景伯という。経史に涉歴し、当世の事に善く通じた。中散をもって初官とし、尚書郎となり、やがて驃騎長史・尚書吏部郎・太子中庶子に遷り、爵位 滎陽 けいよう 伯を襲いだ。鄭懿は閑雅で治才があり、高祖に器重され、長兼給事黄門侍郎・ 司徒 しと 左長史に任ぜられた。世宗(宣武帝)の初年、従弟の鄭思和が咸陽王元禧の反逆に与同したため、弟の通直常侍鄭道昭と共に緦麻の親として出禁の処分を受けた。太常少卿に任ぜられ、冠軍將軍を加えられ、出向して征虜將軍・齊州刺史となり、間もなく平東將軍の号を進められた。鄭懿はよく勧課を好み、善く断決し、清廉潔白ではなかったが、義に適って後に取り、百姓はなお彼を慕った。永平三年(510年)に卒去した。本將軍・兗州刺史を追贈され、諡して穆といった。

子の鄭恭業が爵位を襲いだ。武定三年(545年)、房子遠の謀反に与した罪に坐し、誅殺された。

鄭懿の弟の鄭道昭は、字を僖伯という。 ごと くして学を好み、群言を綜覧した。初め中書学生となり、秘書郎に遷り、主文中散に任ぜられ、員外散騎侍郎・秘書丞・兼中書侍郎に転じた。

沔漢に従征し、高祖が懸瓠の方丈竹堂で侍臣を饗した時、道昭は兄の鄭懿と共に侍坐した。楽が奏でられ酒が酣になると、高祖は歌った。「白日光天 照らさざるはなく、江左の一隅 独り未だ照らされず。」彭城王元勰が歌を継いだ。「聖明に従わんことを願いて 衡会に登り、万国 誠を馳せて 江外に混ず。」鄭懿が歌った。「雲雷大いに振るい 天門闢け、率土 賓として来たり 一正の歴。」邢巒が歌った。「舜 干戚を舞わす 天下帰し、文徳 遠く被わる 思わざるは莫し。」鄭道昭が歌った。「皇風一たび鼓すれば 九地に匝し、日に戴き天に依りて 六合清し。」高祖がまた歌った。「彼の汝墳に遵えば 昔 化貞し、未だ今日の道風の明らかなるに若かず。」宋弁が歌った。「文王の政教 江沼に暉き、寧ろ大化の四表を光らすが如くは莫し。」高祖は道昭に言った。「比来、遷都の事務は煩雑であったが、諸才俊と詠綴を廃さず、遂に邢巒に命じて総集叙記させた。その当時、卿は頻りに艱禍に遭い、文席を顧みる毎に、常に慨然たる思いであった。」間もなく正しく中書郎に除され、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に転じた。北海王元詳が 司徒 しと となると、道昭を琅邪王元秉と共に諮議参軍とした。

国子祭酒に転じた。道昭は上表して言う、「臣がひそかに考えるに、政治を盛んにする道は、必ずや人材を必要とし、人材を養う要は、学問に先んずるものはない。今、国子学の学堂と部屋はおおよそ設置されているが、弦歌と誦読の声は聞こえない。城南の太学は、漢魏の石経が丘墟と化して残毀し、藜や藋が生い茂って荒れ果て、遊ぶ子供や牛飼いの童子さえも、これを見て嘆息する。情けある者は、実に心を痛めるものであり、まして臣が直接に管轄する者として、言い表さないわけにはいかない。伏して願わくは、天慈(天子の慈愛)が神慮をめぐらし目を留められ、ご覧察を賜わりますように。もし臣の微意が、万一にもご容認に叶うならば、重ねて尚書・門下に勅を下し、営造の規格を考論させ、五雍(五学)が高く立ち上がって興り、毀れた碑銘が一日も早く完成するよう求めたい。古い経典を帝京に樹て、盛んな模範を不朽に伝える。これこそ天下を有する者の美しい業績である。」聞き入れられなかった。

広平王懐が司州牧となった時、道昭と宗正卿の元匡を州都とした。道昭はまた上表して言う、「臣が聞くところによれば、唐虞が運を開くにあたり、文徳を根本とし、殷周が治を致すにあたり、道芸を先とした。されば、礼楽は国の基であり、しばらくも廃することはできない。それゆえ周は文教を広め、四海は心を安んじ、魯は周礼を守り、強斉は義に帰した。戦国に至って紛紜とし、干戈が次々と用いられ、五経は灰と化して焼かれ、多くの儒者は坑埋めに遭い、仁義の経典は害され、戦争の術が貴ばれた。遂に天下は分崩し、庶民は塗炭の苦しみを味わい、数十年の間、民に聊かも生きる楽しみがなかったのは、これによるのである。漢の高祖に至っては、行陣の中にありながら、なお叔孫通らを優遇して引き入れた。光武帝は撥乱の中興の際に、鄭衆・范升に東観で校書させた。降って魏・晋に至っても、いずれも篇籍に殷勤であり、戎伍の中にあっても篤学であった。伏して思うに、大魏の興りは、群凶が未だ滅びず、戎馬が郊外にあるにもかかわらず、なお英儒を招集し、広く学校を開き、道義を八荒に闡明し、盛徳を万国に布くことができ、教化は懐かぬものなく、風俗は従わぬものはなかった。今、休平の基に乗じ、無疆の祚を開き、伊瀍に鼎を定め、 宝暦 ほうれき を惟新し、九服は至徳の和に感じ、四垠は撃壤の慶を懐いている。しかるに愚かな閩呉は、教化を阻み江湫にあり、先帝は武怒を震わせ、戎車は止むことがなかった。しかしながら、鑾駕を停め行幸を留め、典墳に心を留め、故御史中尉の臣李彪と吏部尚書・任城王澄らに命じて英儒を妙選させ、文教を崇めさせた。澄らは旨に依り、四門博士四十人を置き、その国子博士・太学博士及び国子助教は、以前から既に選任されていた。伏して先の旨を尋ねるに、速やかな完成を意図していたが、軍国の多事により、営立する暇がなかった。爾来今日に至るまで、ほぼ一紀(十二年)に垂んとし、学官は凋落し、四術(詩書礼楽)は次第に廃れた。遂に碩儒耆徳は経を巻いて談ぜず、俗学の後生は本を遺して末を逐う。進んで競う風潮は、実にこれによるのである。伏して陛下は欽明文思(敬慎で明察、文徳に富み思慮深い)であり、玄鑒は洞遠である。越会(江南)は未だ款服せずとも、道を修めてこれを来たらせ、遐方の後服する者は、文教を敷いてこれを懐かしめる。経素に心を垂れ、墳籍に優柔である。将に化を軒唐(黄帝・堯)に越えさせ、徳を虞夏に隆んぜんとしている。それゆえ屡々中旨を発し、学館の営造を敦促し、房宇は既に修築されたが、生徒は未だ設立されていない。臣は学は全経に陋く、識は篆素(書籍)に蔽われているが、往年律令を刪定した際、誤って議筵に預かった。謹んで前修に準拠し、旧事を尋ね訪ね、学令を参酌して定め、事が終わって封をして呈上した。爾来今日に至るまで、未だ報判を蒙っていない。ただ学は歴年廃れており、経術は淹滞している。学令及び制を、早く施行を勅命し、選授に依るべきものがあり、生徒に準ずべきものがあらしめたい。」詔して言う、「卿が儒を崇め学を あつ くする意を つぶさ にすること、まことに言うべからざるものがある。新令は間もなく頒布され、施行は遠くない。職を思ってその憂いを抱くと言え、官を むな しくするものではない。」

道昭はまた上表して言う、「ひそかに考えるに、鼎が中県( 洛陽 らくよう )に遷ってより、年将に一紀にならんとし、縉紳は業を うば われ、俎豆(礼楽)の声は聞こえず、遂に盛んな明朝に、風を観る美がなく、国を光らせ風を宣べ、民を軌義に納れるものではない。臣は往年以来、頻りに学令と生員設置を請い、前後累ねて上奏したが、未だ一度の報いも蒙らず、故に臣の識見が浅く官に濫り、何かを感得させる能力がなかったからであろう。館宇は既に修築され、学生の部屋はおおよそ構築され、博士の現員は、講習するに足りる。新令は未だ頒布されていないが、旧に依り権(仮)に国子学生を置き、 およ く訓業を開き、教えを播くに章(規則)があり、儒風が墜ちないようにし、後生が義に うつ る機会を見、学徒が新しきを知る益を崇めるようにしたい。孔廟が既に完成し、釈奠を告げ始めるに至っては、揖譲の容儀は、令が出るのを待ちたい。」返答がなかった。

秘書監・ 滎陽 けいよう 邑中正に転じた。出て平東将軍・光州刺史となり、青州刺史に転じ、将軍は元の如し。再び入朝して秘書監となり、平南将軍を加えられた。熙平元年に卒した。鎮北将軍・相州刺史を追贈され、諡して文恭と言う。

道昭は詩賦を好み、凡そ数十篇あった。二州(光州・青州)においては、政務は寛厚で、威刑を任とせず、吏民に愛された。

子の厳祖は、風儀が頗るあり、文史を粗く観た。通直郎・通直常侍を歴任した。軽躁で行いが薄く、士業を修めず、勢家に傾側し、栄利を乾没し、閨門は穢乱で、その名声は天下に満ちた。出帝の時、御史中尉の綦儁が厳祖を弾劾し、宗氏の従姉と姦通したと糾弾した。人士は皆これを言うことを恥じたが、厳祖は聊かも愧色がなかった。孝静帝の初め、驃騎将軍・左光禄大夫・鴻臚卿に除された。出て北 州刺史となり、もとの将軍のままだった。州を罷めて還り、鴻臚卿に除された。卒し、 都督 ととく 兗潁三州諸軍事・□□将軍・ 司空 しくう 公・ 州刺史を追贈された。

厳祖の弟の敬祖は、性格もまた粗疏であった。著作佐郎として起家した。鄭儼が敗れた時、郷人に害された。

敬祖の弟の つと 祖は、武定年間に尚書であった。

述祖の弟の遵祖は、秘書郎であった。卒し、輔国将軍・光州刺史を追贈された。

遵祖の弟の順は、太常丞の任で卒した。

霊太后が政事に預かって以来、淫風が次第に行われ、元叉が権力を ほしいまま にすると、公然と姦穢を行った。これより素族名家は、遂に多く乱雑となり、法官は糾治を加えず、婚姻や官途も世に貶されることがなく、識者は皆これを嘆息した。

鄭羲の五人の兄:長兄は白驎、次は小白、次は洞林、次は叔夜、次は連山。皆豪門を恃み、多く無礼を行い、郷党の内では、これを あだ のように憎んだ。

白驎の孫の道慓は、随郡太守であった。

小白は、中書博士であった。

子の胤伯は、当世の器幹があった。中書博士から侍郎に遷り、 司空 しくう 長史に転じた。高祖(孝文帝)はその女を嬪とした。出て建威将軍・東徐州刺史となり、広陵王征東府長史に転じ、斉郡内史を帯びた。鴻臚少卿の任で卒し、諡して簡と言う。

子の希儁は、官に就かずして亡くなった。子の道育は、武定年間に開封太守となった。

希儁の弟の幼儒は、学問を好み謹厳で、当時の声望は甚だ優れていた。丞相・高陽王元雍は娘を娶らせた。尚書郎・通直郎・司州別駕を歴任し、官職に相応しいと称された。卒すると、 散騎常侍 さんきじょうじ ・安東將軍・兗州刺史を追贈され、諡は景といった。幼儒の死後、妻は淫蕩で凶暴悖逆、礼を無視して勝手な振る舞いをした。子の敬道・敬德は、共に才能がなく、共に関右に逃げた。幼儒の従兄の伯猷は、親しい者に常々言っていた。「従弟の人物・才能は、立派な徳行に足るものであったが、不幸にもこのような婦人を得て、今死してさらに死するが如し、悲嘆すべきことである」と。

胤伯の弟の 平城 へいじょう は、 太尉 たいい 諮議となった。広陵王元羽はその娘を妃に迎えた。出向して東平原太守となった。性格は軽率で酒乱、政治は貪婪で残忍であった。卒すると、征虜將軍・南青州刺史を追贈された。

長子の伯猷は、博学で文才があり、早くから名を知られた。司州の秀才に挙げられ、射策で高第となり、幽州平北府外兵参軍に任じられ、転じて太学博士となり、殿中御史を兼ねた。当時の名士たちと、皆親しく交遊した。肅宗が釈奠を行った時、詔により伯猷がその義を記録した。安豊王元延明が徐州を征した時、行臺郎中に抜擢した。事が収まって都に戻り、尚書外兵郎中に昇進し、起居注を管掌し、軍功により爵位陽武子を賜った。次第に 散騎常侍 さんきじょうじ ・平東將軍に昇った。前廃帝の初め、母方の縁故により越階して征東將軍・金紫光祿大夫を授けられ、国子祭酒を兼ねた。久しくして、車騎將軍・右光祿大夫となり、転じて護軍將軍となった。元象の初め、本官のまま 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ねて蕭衍に使した。前後の使者に対し、蕭衍はその侯王に命じて馬射の日に宴を設け礼を尽くして応対させた。伯猷の時、蕭衍はその領軍將軍臧盾に命じてこれと応接させた。議論する者はこれを以て彼を貶した。使いから戻り、驃騎將軍・南青州刺史に任じられた。州にあっては貪婪で、妻は安豊王元延明の娘であり、専ら収斂に励み、賄賂が公然と行われ、利益は親戚にまで及んだ。戸口は逃散し、邑落は空虚となった。そこで良民を誣いて、反乱を企てると言い、その資産を没収し、全てを己のものとし、その男子を誅殺し、婦女は配没した。百姓は怨み苦しみ、その声は四方に聞こえた。御史の糾弾を受け、死罪に相当する数十条の罪状があったが、赦令に遇って免罪となり、それにより失脚した。斉の文襄王が宰相となると、毎度朝士を戒め励ますのに、常に伯猷と崔叔仁を例に挙げた。武定七年、太常卿に任じられた。その年に卒し、六十四歳であった。驃騎大將軍・ 中書監 ちゅうしょかん ・兗州刺史を追贈された。

伯猷の弟の仲衡は、武定年間に、儀同開府中郎となった。

仲衡の弟の輯之は、初官は奉朝請に任じられ、侍御史を兼ね、軍功により爵位城臯男を賜った。次第に黎陽太守に昇った。時に元顥が洛陽に入った際、その舅の范遵に滑臺を鎮守させ、輯之と河を隔てて対峙した。范遵は密かに軍を率いて夜間に渡河し、不意打ちを企てたが、輯之は城民を率いて激励し、河を拒んでこれを撃ち、范遵は遂に逃げ去った。朝廷はこれを賞して、司州別駕に任じた。まもなく転じて 司空 しくう 長史となり、鎮南將軍・金紫光祿大夫に昇った。孝静帝の初め、征南將軍・東 北太守に任じられ、肥城戍主を兼ね、男爵は元の通りであった。天平四年に卒し、時に四十九歳であった。 都督 ととく 梁二州諸軍事・驃騎將軍・度支尚書・北 州刺史を追贈された。

輯之の弟の懷孝は、武定年間に、 司徒 しと 諮議となった。

洞林の子の敬叔は、司州都官從事・ 滎陽 けいよう 邑中正、濮陽太守となった。貪穢の罪に坐して除名された。

子の籍は、字は承宗。徐州平東府長史となった。

籍の弟の瓊は、字は祖珍、強幹の称があった。太尉諮議から范陽太守となり、治績にかなりの名声があった。卒すると、太常少卿を追贈された。孝昌年間、弟の儼が寵愛されて要職にあったため、重ねて安東將軍・青州刺史を追贈された。瓊兄弟は仲睦まじく、その諸々の嫁たちも皆互いに親愛し、閨門の内では有無相通じ、当時の人々に称賛された。子の道邕は、関西で没した。儼の事績は恩倖伝にある。

敬叔の弟の士恭は、燕郡太守となった。孝昌年間、儼の権勢により、 えい 尉少卿に任じられ、まもなく左將軍・瀛州刺史に昇った。時に葛榮が河北を侵犯し、州城が陥落したため、任地に赴くことができなかった。まもなく征北將軍・金紫光祿大夫に任じられ、また えい 將軍・右光祿大夫に昇った。永熙年間に卒した。驃騎將軍・冀州刺史を追贈され、重ねて尚書左 僕射 ぼくや を追贈され、諡は貞といった。

長子の子貞は、 司空 しくう 掾となった。転じて從事中郎・南兗州開府司馬となった。

子貞の弟の子湛は、斉州・済州の二州長史・光祿大夫となった。

子湛の弟の昭伯は、武定年間に、東平太守となった。

昭伯の弟の子嘉は、早くに卒した。

子の大護は、武定年間に 司空 しくう 戸曹参軍となった。

叔夜の子の伯夏は、 司徒 しと 諮議・東萊太守となった。卒し、冠軍將軍・太常少卿・青州刺史を追贈された。

子の忠は、字を周子という。右軍將軍・鎮遠將軍となった。卒し、平東將軍・徐州刺史を追贈された。

弟の豪は、長水 校尉 こうい ・東平原太守となった。

伯夏の弟の謹は、字を仲恭という。琅邪太守となった。

子の嵩賓は、尚書郎・員外常侍を歴任し、やがて左光禄大夫にまで昇進した。卒した。

連山は、性質が厳しく暴虐で、童僕を鞭打ち、その残酷さは人倫の道理を超えていた。父子はある時、奴僕に害され、首を断たれて馬槽の下に投げ込まれ、犯人は馬に乗って北へ逃げた。その第二子の思明は、 ぎょう 勇で騎射に長け、髪を振り乱して村の義勇を率い、馬を駆って追跡し、河に追いついた。奴僕は馬に乗って水中に飛び込んだが、思明は従者に矢を放つことを禁じ、自ら射ると、一発で命中し、落馬して流れに従った。人々が捕らえて家に連れ帰り、切り刻んで殺した。思明と弟の思和は、ともに武功をもって自ら朝廷に尽くした。思明は ぎょう 騎將軍・直閤將軍に至ったが、弟の思和が元禧の謀反に連座したことで辺境に流された。赦令に遇い、家で卒した。後に冠軍將軍・濟州刺史を追贈された。

子の先護は、若くして武勇の才幹があった。員外郎で官途につき、通直郎に転じた。莊帝が藩王であった時、先護は深く結び付いた。尒朱榮が兵を挙げて洛陽に向かうと、霊太后は先護に鄭季明らと共に河梁を固守するよう命じたが、先護は莊帝が河北で即位したと聞き、門を開いて栄を迎え入れた。功により平昌県開国侯に封ぜられ、邑七百戸を賜った。通常侍に転じ、鎮北將軍を加えられた。まもなく前將軍・廣州刺史・假平南將軍・当州 都督 ととく に任ぜられた。時に妖賊劉挙が濮陽で謀反を起こすと、詔により先護は本官のまま東道 都督 ととく として挙を討ち平定した。帰還して鎮守した。後に元顥が洛陽に入り、莊帝が北巡すると、先護は州を拠点に義兵を起こし、顥の命令を受けなかった。顥は 尚書令 しょうしょれい ・臨淮王彧に衆を率いて討伐させたが、先護は城を出て防戦した。莊帝が都に還ると、その誠実な節義を嘉し、使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 襄廣二州諸軍事・鎮南將軍に任じ、刺史は元のままとし、爵位を郡公に進め、邑一千三百戸を加増した。まもなく征西將軍・東雍州刺史・假車騎將軍・当州 都督 ととく に転じ、常侍は元のままとした。赴任しないうちに、また 都督 ととく 東雍三州諸軍事・征東將軍・ 州刺史に転じ、その他の官職は元のままとした。また尚書右僕射・二 郢潁四州行臺を兼ねた。まもなく車騎將軍・左 えい 將軍に任ぜられた。尒朱榮が死ぬと、徐州刺史尒朱仲遠が兵を擁して洛陽に向かい、東郡にまで至った。諸軍が出撃して討ったが、制することができなかった。そこで詔により先護は本官のまま假驃騎將軍・大 都督 ととく とし、配下を率いて行臺楊昱と共にこれを討つこととなった。莊帝はまた 都督 ととく 賀拔勝を派遣して仲遠を討たせたが、勝は陣中で賊に降り、兵士は離散した。まもなく京師が守られなかったと聞き、先護の部衆は逃散し、先護は南境に潜伏した。前廃帝の初め、仲遠が人を遣わして誘い出し、出てきたところを害した。出帝の時、持節・ 都督 ととく 青斉済兗四州諸軍事・驃騎大將軍・儀同三司・青州刺史を追贈され、開国は元のままとされた。

思和は、太尉中兵参軍を歴任した。元禧の謀反に与し、法により処刑された。

子の康業は、通直郎となった。出帝の時、事に坐して死を賜った。

子の彬は、武定末年に斉王相国中兵参軍となった。

思和の弟の季長は、太学博士となった。卒した。

子の喬は、司州治中・驃騎將軍・左光禄大夫を歴任した。

羲の叔父の簡、簡の孫の尚は、壮健で将帥の才略があった。たびたび統軍となり、東西を征討し、軍功により汝陽男の爵位を賜った。尚書郎・歩兵 校尉 こうい ぎょう 騎將軍を歴任し、輔国將軍・太尉司馬に昇進した。出向して濟州刺史となり、將軍は元のままとした。政治は寛大で簡素であり、民衆は安んじた。卒し、本將軍・ 州刺史を追贈され、諡を惠といった。

子の貴賓は、爵位を継いだ。北海王國常侍で官途についた。員外散騎侍郎となり、やがて尚書金部郎に昇進した。公事に坐して官を免ぜられた。久しくして、太尉属を兼ねた。卒し、征虜將軍・荊州刺史を追贈された。

子の景裕は、爵を襲う。武定の末、儀同開府行参軍となる。

貴賓の弟次珍は、員外常侍の任にて卒す。安東将軍・光州刺史を追贈される。

貴賓の異母弟に大倪・小倪あり。皆、粗暴にして行い薄く、劫盗を好み、郷里を侵暴し、百姓これを毒患す。普泰年中、ともに尒朱仲遠に殺さる。

尚の従父兄の雲は、字は道漢。雁門・濮陽の二郡を歴任し、貪穢狼藉たり。粛宗の時、劉騰に賄賂を納め、龍驤将軍・安州刺史となるを得たり。選挙にて財を受け取った罪に坐し、御史に糾弾され、暴病にて卒す。

雲の従父兄の子の敬賓は、秘書郎より次第に昇進し、輔国将軍・中散大夫・魏郡太守・金紫光禄大夫となる。

子の士淵は、 司空 しくう 行参軍となる。

羲の従父兄の徳玄。顕祖の初め、淮南より内附し、 滎陽 けいよう 太守に拝される。

子の子考は、太和年中、再び 滎陽 けいよう 太守となる。卒し、冠軍将軍・ 州刺史・開封侯を追贈され、諡して恵と曰う。

子の洪建は、太尉祭酒となる。元禧の逆に同調し、弟の祖育とともに法に伏す。永安年中、特に平東将軍・齊州刺史を追贈される。

子の士機は、性識周到ならず、多く短失あり。散騎侍郎・ 司空 しくう 従事中郎・中書郎を歴任す。卒す。

子の道蔭は、武定の末、開府行参軍となる。

祖育は、太尉祭酒となる。また特に平東将軍・ 州刺史を追贈される。

祖育の弟の仲明は、奉朝請となり、次第に太尉属に昇進す。公強をもって当世に当たり、従弟の儼に昵ねられ、 滎陽 けいよう 太守に除される。儼は世の難を慮り、東道を彼に託さんとす。建義の初め、仲明の弟の季明は河陰にて遇害す。儼は後に彼のもとに帰り、ともに起兵せんと欲すが、まもなく城民に殺さる。

仲明の兄の洪健は、李沖の女婿なり。建義の初め、荘帝は仲明が舅氏の親たるを以て、その弟が謀りて扶戴に与かり、仲明の死に、かつ国に奉ずるの意あるにより、安平県開国侯・邑七百戸を追封し、 侍中 じちゅう ・車騎大将軍・儀同三司・尚書左僕射・雍州刺史を追贈す。

長子の道門は、仲明が初めて起義を謀るに当たり、道門をして大 都督 ととく 李叔仁を大梁に説かしむ。叔仁は初めともに挙兵せんと欲すも、後に荘帝既に立つを聞き、叔仁の子の抜江、乃ち道門を斬る。建義年中、特に立節将軍・瓜州刺史を追贈される。

道門の弟孝邕は、爵位を襲封した。天保の初め、爵位は例に従って降格された。

仲明の弟季亮は、 司徒 しと 城局参軍・員外常侍となった。卒し、 散騎常侍 さんきじょうじ ・撫軍将軍・青州刺史を追贈された。

季亮の弟季明は、初めて官に就き太学博士となった。正光年間、譙郡太守となり、渦陽の戍主を兼ねた。たびたび蕭衍が将を遣わして攻囲したが、兵糧は少なく、外からの援軍も続かず、季明は孤城を自ら守り、ついに保全を得た。朝廷はこれを嘉し、安德県開国伯に封じ、邑七百戸を与えた。累進して平東将軍・光禄少卿となった。武泰年間、ひそかに尓朱栄と通じ、荘帝を奉じることを謀った。河陽におり、乱兵に害された。事態が収まると、南潁川郡開国公を追封され、食邑千五百戸を与えられ、驃騎大将軍・尚書左僕射・ 司空 しくう 公・定州刺史を追贈された。

子の昌は、爵位を襲封した。武定の末、 司徒 しと 城局参軍となった。天保の初め、爵位は例に従って降格された。

崔辯

崔辯は、字を神通といい、博陵安平の人である。経史に学問を広げ、風儀は整然として厳かであった。顕祖に召されて中書博士に任じられた。散騎侍郎・平遠将軍・武邑太守となった。政務の余暇には、専ら学問を勧めることを務めとした。六十二歳で卒した。安南将軍・定州刺史を追贈され、諡して恭といった。

長子の景儁は、剛直で高潔な風格があり、古を好み広く学問に通じた。経学に明るく品行を修めたことで召されて中書博士に任じられた。侍御史・主文中散を歴任した。詔を奉じて蕭頤の使者蕭琛・范雲を接遇し、高祖より逸の名を賜った。後に員外散騎侍郎となり、著作郎韓興宗とともに朝儀の制定に参与した。高雅で高祖に知られ重用され、国子博士に転じ、公事があるごとに、逸は常に詔を受けて単独で進み出た。博士が特命を受けるのは、逸から始まった。通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・廷尉少卿に転じた。卒し、朝廷は悼み惜しみ、本官をもって追贈した。

子の巨倫は、字を孝宗という。幼くして孤となり、成長すると経史を広く学び、文学と武芸を備えていた。世宗の挽郎となり、冀州鎮北府墨曹参軍・太尉記室参軍に任じられた。

叔父の楷が殷州刺史となると、巨倫は引き続き長史・北道別将となった。州が賊に陥落した際、死者を収容し生存者を救恤し、賊に義とされた。葛栄はその才名を聞き、黄門侍郎に用いようとした。巨倫は内心これを嫌った。五月五日に至り、官僚を集め、巨倫に詩を賦させたところ、巨倫は言った、「五月五日の時、天気はすでに大いに熱し。狗はあえぎて死なんと欲し、牛はまた舌を吐き出す」。これをもって自ら晦まし、免れることができた。まもなく、ひそかに死士数人を結び、夜中に南へ逃走し、賊の遊騎数百騎に出逢い、皆が助からないのではないかと恐れた。巨倫は言った、「寧ろ南へ向かい一寸死すとも、北へ向かい一尺生きることを得んや!」。すかさず賊を欺いて言った、「我は詔を受けて行くところである」。賊は信じず、共に火を焚いて詔書を見ようとした。火がまだ燃え上がらないうちに、巨倫は手ずから賊の帥を斬り、残りの者も奮って撃ち、数十人を殺傷し、賊は四散した。馬数匹を得て去った。夜陰に道を失い、ただ仏塔の戸を見て進んだ。洛陽に到着すると、朝廷はこれを嘉し、持節・別将北討を授けた。初め、楷が喪に服した始め、巨倫は急いで収殯したため、事が周到でなく、ここに至ってひそかに道をとり改葬し、併せて家族を盗み出して帰還した。まもなく国子博士を授けられた。

荘帝が即位すると、仮節・中堅将軍・東濮陽太守、仮征虜将軍・別将となった。当時河北は紛乱し、人士は賊を避けて多く郡界に住んだが、凶作で飢え困窮し、巨倫は資産を傾けて救恤し、互いに全うするよう務め、当時の人々はこれを高く評価した。元顥が洛陽に入ると、郡を拠てて従わなかった。荘帝が宮中に還ると、西兗州の事務を行い、漁陽県開国男に封じられ、邑二百戸を与えられ、まもなく光禄大夫に任じられた。三年に卒し、時に四十四歳であった。

子の武は、爵位を襲封した。武定年間、懐州衛軍府録事参軍となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例に従って降格された。

初め、巨倫に姉がおり、聡明で才能と品行があり、片目を患ったため、内外の親族に求婚する者がなく、その家では身分を下げて嫁がせようと議した。巨倫の姑で趙国の李叔胤の妻は、高潔で慈愛深く、これを聞いて悲しみ感慨して言った、「我が兄は盛徳であったが、不幸にも早世した。どうしてこの娘を卑しい族に屈して仕えさせようか」。そこで子の翼に娶らせた。当時の人々はその義を嘆じた。崔氏は翼に与えた書簡と詩数十首があり、文辞と道理は見るべきものがあった。

逸の弟の模は、字を叔軌という。身長八尺、胴回りもまた同じであった。叔父の後を継いだ。高雅で志と度量があった。初めて官に就き奉朝請となり、太尉祭酒・尚書金部郎中・太尉主簿を歴任し、中郎に転じ、太子家令に遷った。公事により免官された。神亀年間、詔により本来の資格を回復し、冠軍将軍・中散大夫に任じられた。出て魯陽太守となった。正光二年、襄陽の民がひそかに帰順を求めたため、詔により模を別将とし、淮南王世遵に隷属させ、衆を率いて赴かせた。事が露見し、模は襄陽の邑郭を焼いて帰還した。不首尾の罪により免官された。蕭宝夤が関隴を討つに及び、模を西征別将に引き入れ、たびたび戦功を立て、持節・光禄大夫・ 都督 ととく 別道諸軍事に任じられ、安東将軍を加えられた。万俟醜奴が将の郝虎を遣わして南侵すると、模はその営を攻め破り、郝虎を生け捕りにした。功により槐里県開国伯に封じられ、邑五百戸を与えられた。当時、将督で敗死する者が多かったが、模は敵を挫き慎重を保ち、名将と称された。後に仮征東将軍・行岐州事となった。まもなく、賊を撃って深く入り、陣中に没した。撫軍将軍・相州刺史を追贈された。永熙年間、以前の勲功を追録し、さらに 都督 ととく 定相冀三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・相州刺史を追贈された。子に士護がいる。

模の弟の楷は、字を季則という。風采と声望に優れ、性質は剛直で、当世の事務を処理する才能を備えていた。初めて官に就き奉朝請となり、員外散騎侍郎・広平王懐の文学となった。正始年間、王国の官が適任でない者が多く、刑戮を受けたが、ただ楷と楊昱のみがたびたび諫めて免れることができた。後に尚書左主客郎中・伏波将軍・太子中舎人・左中郎将となった。高肇に党与したため、中尉に弾劾され、事は高聡伝にある。楷の性質は厳しく激しく、豪強を挫くことができたため、当時の人々は言った、「莫(都買反)𢖆(孤楷反)せよ、崔楷に付すべし」。

当時、冀州・定州など数州は、たびたび水害に遭い、楷は上疏して言った。

詔して曰く、「頻年水旱の患ありて、黎民飢えに阻まる。静かにこれを念うに、 日昃 ひくれて 食うに いとま あらず。この事条を鑑みれば、深く慮いに協う。但し計画功広く、朝夕に合す可からず。宜しく外に付して量り聞くべし」と。事遂に行わる。楷功を用うる未だ就かず、詔して還り追いて罷む。

久しくして、京兆王継、大将軍として西討し、楷を引いて司馬と為す。還りて、後将軍・広平太守に転ず。後に葛栄転た盛んにして、諸将拒撃すれど、並びに皆失利す。孝昌初め、楷に持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・光禄大夫・兼尚書北道行台を加え、尋いで軍司に転ず。未だ幾ばくもせず、定相二州四郡を分ちて殷州を置き、楷を以て刺史と為し、後将軍を加う。楷州に至り、表して曰く、「竊かに惟うに、殷州の地は実に四衝たり、居は当に五裂すべし。西は長山に通じ、東は巨野に およ ぶ。 ちかごろ 国路康寧にして、 四方截 そな うる有り。 りて 姦宄 かんき を聚め、 桴鼓 ふこ 時に鳴る。況んや今天長く喪乱し、 妖災間 しばしば 起る。定州の逆虜は、北界に 趑趣 ししゅ し、 ぎょう 下の 兇燼 きょうじん は、腹心を 蠶噬 さんぜい す。両処の犬羊、勢足りて へい 合すべく、城下の戦は、暮れずして の朝ならん。臣不武を以て、この 屏捍 へいかん に属し、実に効力を思い、弱きを以て強きに敵し、骸を き弩を煮て、固くこの忠節を守らんとす。但し 基趾造創 きしぞうそう にして、庶事茫然たり。 升儲 しょうちょ 尺刃、聊か未だ有らず。誠を つく さんと欲すれども、何をか すべきかを知らず。謹みて もと むる所の兵仗を れっ し、矜許を垂れ給わんことを請う。必ず当に一方を虎視し、その 侵軼 しんいつ とど め、境内を粛清し、 ゆだ ぬる所を保全せん」と。詔して外に付して量らしむ。竟に与うる所無し。

葛栄、章武・広陽の二王を破りし後より、鋒当たる可からず。初め楷州に かんとす。 人咸 みな 家口を留め、単身にして職を つと むるを勧む。楷曰く、「人の禄を貪り、人の事を憂う。もし一身独り往かば、朝廷吾に進退の計有りと謂わん。将士又誰か人の為に志を固くせんや」と。遂に家を合せて州に赴く。三年春、賊勢已に せま る。或いは小弱を減じて以てこれを避くるを勧む。乃ち第四女・第三児を夜に出だす。既にして僚属を召し共にこれを論ず。咸に曰く、「女郎は出嫁の女、郎君は小にして未だ兵に勝たず。留むるも益無く、去るも何の損かあらん。且つ使君城に在り、家口尚お多し。将士の意を固くするに足る。窃かに疑うに足らずと為す」と。楷曰く、「国家豈に城小力弱なるを知らざらんや。吾を死地に置き、吾をして死なしめんとす。一朝にして児女を 送免 おくってのが せば、将に吾が心固からずと謂わん。忠を そこな い愛を全うするは、 臧獲 ぞうかく も之を恥ず。況んや吾国重寄を荷うや」と。遂に追還を命ず。州既に新たに立ち、 まった く禦備の具無し。賊来攻するに及び、楷力を率いて抗拒す。 強弱勢懸 かけはな る。毎に兵士を りっ して撫厲す。争奮せざる莫し。咸に称して曰く、「崔公尚お百口を惜しまず、吾等何ぞ一身を愛せん」と。速戦半旬、死者相枕す。力竭きて城陥つ。楷節を執りて屈せず。賊遂に之を害す。時に年五十一。長子士元、茂才に挙げられ、平州録事参軍・仮征虜将軍・防城 都督 ととく 、楷に随いて州に之く。州陥ち、亦戦歿す。楷兄弟父子、並びに王事に死す。朝野傷歎す。使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮軍将軍・定州刺史を贈る。永熙中、又特に侍中・ 都督 ととく 冀定相三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を贈る。

士元の弟士謙・士約、並びに関西に歿す。

士約の弟士順、儀同開府行参軍。

士元の息(子)励徳、武定中、 司徒 しと 城局参軍。

【史評】

史臣曰く、鄭羲は機識明悟、時に許さる。懿兄弟の風尚、俱に観る可き有り。故に能く並びに栄遇に当たり、その美を す。厳祖は穢薄にして、その家世を かたじけな くす。幼儒は令問促年、伯猷は賄をもって業を敗る。惜しいかな。崔辯は器業著聞、位遠く到らず。逸は経明行高く、 籍甚 せきじん たり太和の日。徳優れて官薄く、 仍世 じょうせい 之を恨む。模は雄壮の烈、楷は忠貞の操、身を殺して義を成し、難に臨んで帰するが如し。大丈夫に非ずして、亦何ぞ能く以て此の ごと くせんや。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻56