巻42

薛辯

薛辯、 あざな は允白。その先祖は蜀より河東の汾陰に移り、ここに家を定めた。祖父の陶は、薛祖・薛落らと部衆を分統し、故に世に三薛と号す。父の強はまた代わって部落を統率し、祖・落の子孫は衰微したため、強は遂に三営を総摂した。綏撫に長じ、民衆の帰するところとなり、石虎・苻堅の時代を経て、常に黄河を頼みとして自らを固めた。姚興に仕えて鎮東將軍となり、入朝して 尚書 しょうしょ となった。強が卒すると、辯はまたその営を襲統し、興の尚書郎・建威將軍・河北太守となった。辯は次第に驕傲となり、民心を頗る失う。劉裕が姚泓を平定すると、辯は営を挙げて裕に降り、司馬徳宗より寧朔將軍・平陽太守に拝された。裕が 長安 ちょうあん を失うに及んで、辯は帰国し、なお河際に功を立て、太宗より平西將軍・雍州 刺史 しし を授かり、爵を汾陰侯と賜う。泰常七年、任中に卒す。年四十四。

子の謹、字は法順、容貌魁偉、史伝を頗る覧る。劉裕が泓を擒えると、相府行参軍に辟され、裕に従って江を渡る。尋いで記室参軍に転ず。辯が帰国せんとするや、密かに使して謹に報じ、謹は彭城より来奔す。朝廷これを嘉し、河東太守を授く。後に爵を襲い平西將軍・汾陰侯となる。謹の治める所は屈丐と連接し、士を結び敵に抗し、威恵甚だ有り。始光中、世祖詔して奚斤に 赫連 かくれん 昌を討たしめ、謹に偏師を領し前鋒郷導たらしむ。蒲坂を克つと、世祖は新旧の民を併せて一郡と為し、謹はなお太守となり、秦州刺史に遷り、将軍は元の如し。山胡の白龍、険に憑りて逆を為す。世祖詔して鎮南將軍奚眷に謹と共に太平より北入せしめ、これを討平す。安西將軍・涪陵公を除され、刺史は元の如し。太延初、吐没骨を征し平らぐ。謹は郡より州に遷り、威恵兼備し、風化大いに行わる。時に兵乱の後、儒雅の道息む。謹は命じて庠序を立て、詩書を以て教え、三農の暇に悉く業を受けしめ、躬ら邑里を巡り、親ら考試を加う。ここに於いて河汾の地、儒道興る。真君元年、徴されて京師に還り、内都坐大官を除く。五年、都將となり、駕に従い北討す。後期の罪により中山王辰らと共に都南に斬らる。時に年四十四。尋いで鎮西將軍・秦雍二州刺史を贈られ、 おくりな して元公と曰う。

長子の初古拔、一に車輅拔と曰い、本名は洪祚、世祖より名を賜う。沈毅にして器識有り、年弱冠に始まるや、 司徒 しと 崔浩見て奇とす。真君中、蓋呉関右を擾動し、薛永宗河側に屯據す。世祖親らこれを討つ。乃ち詔して拔に宗郷を糾合せしめ、河際に壁し、二寇往来の路を断たしむ。事平らぎ、中散を除かれ、爵を永康侯と賜う。世祖南討するに、拔を以て都將と為し、駕に従い江に臨みて還る。また陸真と共に反 てい の仇傉檀・強免生を討ち平らぐ。皇興三年、 散騎常侍 さんきじょうじ を除かれ、西河長公主を尚し、駙馬都尉を拝す。その年、拔の族叔たる劉彧の徐州刺史安都城を據て帰順す。勅して拔に彭城に詣り労迎せしむ。冠軍將軍・南 州刺史を除く。延興二年、鎮西大將軍・開府を除かれ、爵を進めて平陽公と為す。三年、拔は南兗州刺史游明根・南陽平太守許含らと治民に著るしく称せられ、徴されて京師に詣る。顕祖親ら労勉し、復た州に還るを令す。太和六年、爵を改めて河東公と為す。八年三月、詔して拔に入朝せしむ。暴病に卒す。年五十八。左光禄大夫を贈られ、諡して康と曰う。

長子の胤、字は寧宗、少くして父の風有り。弱冠、中散を拝し、爵を襲い鎮西大將軍・河東公となり、懸瓠鎮将を除かれる。蕭賾将を遣わして辺を寇す。詔して胤を都將と為し、穆亮らと淮上にて拒がしむ。尋いで持節義陽道都將を授かる。十四年、文明太后の公除に属し、高祖詔して諸刺史・鎮将で曾て近侍した者は、皆闕に赴くを聴す。胤は例に随い入朝す。五等を開革するに属し、公より侯に降る。十七年、高祖南討するに、詔して趙郡王幹・ 司空 しくう 穆亮を西道都將と為す。時に幹年少にして、未だ軍旅に渉らず。高祖乃ち胤に仮節・仮平南將軍を除き、幹の副軍と為す。裒父に行き至り、蕭賾の死によりて班師す。また都將となり、共に秦州の反を討ち、支酉を敗り生擒して斬る。立忠將軍・河北太守を除く。郡は山河を帯び、路に盗賊多し。韓・馬の両姓有り、各二千余家、強を恃み険に憑り、最も狡害にて、道路を劫掠し、郷閭を侵暴す。胤の郡に至る日、即ちその姦魁二十余人を収め、一時にこれを戮す。ここに於いて群盗気を懾え、郡中清粛なり。二十三年秋、疾に遇い、郡に卒す。時に年四十四。諡して敬と曰う。

子の裔、字は 孫、爵を襲ぐ。性豪爽、園宅を盛んに営み、賓客声伎を以て嬉遊を恣にす。尚書左外兵郎・左軍將軍を歴任し、征虜將軍・中散大夫に遷る。出でて洛州刺史と為る。卒し、平西將軍・岐州刺史を贈られる。

子の孝紳、爵を襲ぐ。稍く遷りて前將軍・太中大夫となる。孝紳は行い険薄を立て、事に坐して河南尹元世儁に劾せられ、死す。後に征西將軍・華州刺史を贈られる。

胤の弟□、字は崇業。広平王懐の郎中令・汝陰太守。

子の修仁、 司空 しくう 行参軍。

修仁の弟玄景、陳留太守。

拔の弟洪隆、字は菩提。解褐して陽平王国常侍、稍く遷りて河東太守。

長子の驎駒、書を読むを好む。秀才に挙げられ、 中書 ちゅうしょ 博士を除かれる。太和九年、蕭賾の使至る。乃ち詔して驎駒に主客郎を兼ねしめて以てこれに接せしむ。十年秋、疾に遇い卒す。時に年三十五。寧朔將軍・河東太守を贈られ、諡して宣と曰う。

長子の慶之、字は慶集、学業を以て頗る聞こゆ。解褐して奉朝請。侍御史を領し、廷尉丞に遷る。廷尉寺は北城に隣接し、曾て夏日に寺傍にて一狐を執え得たり。慶之と廷尉正博陵の崔纂は、或いは城狐狡害なれば宜しく速やかにこれを殺すべしとし、或いは長育の月なれば宜しく秋分を待つべしとす。二卿の裴廷儁・袁翻互いに同異有り。雖も戯謔と曰うも、詞義観るべく、事世に伝わる。転じて尚書郎・兼尚書左丞となり、 へい 肆行臺と為り、爵を龍丘子と賜い、 并州 へいしゅう 事を行なう。征虜將軍・滄州刺史に遷る。葛栄に攻囲せられ城陥つ。尋いで患い卒す。後に右將軍・華州刺史を贈られる。

慶之の弟英集、性通率。舅の李崇に従い揚州に積年あり、軍功を以て 司徒 しと 鎧曹参軍を歴任し、稍く遷りて治書侍御史・通直 散騎常侍 さんきじょうじ となる。卒す。

驎駒の弟鳳子。都洛邑に徙るより、鳳子兄弟は華州河西郡に属を移す。太和二年、太子詹事丞・本州中正と為る。世宗登阼し、転じて 太尉 たいい 府鎧曹参軍、稍く遷りて治書侍御史。正始初、持節・征義陽軍司と為る。京に還り、その年秋卒す。時に年四十九。陵江將軍・光城太守を贈られる。

鳳の弟の子、驥奴は、州の主簿であった。

洪隆の弟、破胡は、州の治中別駕であった。次第に昇進して河東太守・征仇池都將となった。六人の子があった。

長子の聰は、字を延智という。世に称えられる名声があった。累進して治書侍御史・直閣將軍となり、高祖(孝文帝)に知られた。世宗(宣武帝)が即位すると、輔國將軍・齊州刺史に任ぜられた。州において卒した。征虜將軍・華州刺史を追贈された。

長子の景茂は、司州記室從事・猗氏令であった。早世した。

景茂の弟、孝通は、文才に優れていた。永安年間、中尉の高道穆に引き立てられて御史となり、中書舍人・中書侍郎・常山太守を歴任した。悪疾にかかり卒した。

聰の弟、道智は、尚書郎であった。卒した。

子の長瑜は、天平年間、征東將軍・洛州刺史となり、潼関で賊を撃ったが、戦陣に没した。 都督 ととく 冀定太三州諸軍事・車騎將軍・冀州刺史を追贈された。

道智の弟、仙智は、郡の功曹であった。

仙智の弟、曇賢は、國子博士の任において卒した。

末子の景淵は、尚書左民郎であった。

曇賢の弟、和は、字を導穆という。初めて官に就き、大將軍劉昶の府の行參軍となった。 司空 しくう 長流參軍に転じ、太尉府主簿に任ぜられ、諫議大夫に昇進した。永平四年正月、山賊の劉龍駒が夏州を擾乱したため、詔により和は汾・華・東秦・夏の四州の兵を発して龍駒を討ち、これを平定した。和はこれにより東夏州の設置を上表し、世宗はこれに従った。また正平・潁川の二郡の事務を代行し、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられた。蕭衍が将軍の張齊を派遣して しん 壽を寇したため、詔により和は尚書左丞を兼ね、西道行臺となり、 都督 ととく 傅豎眼ら諸軍を節度して、大いに齊軍を破った。正光初年、左將軍・南青州刺史に任ぜられ、州において卒した。享年五十五。安北將軍・瀛州刺史を追贈された。

長子の元信は、武定末年、中軍將軍・儀同開府長史であった。

和の弟、季令は、奉朝請であった。

破胡の弟、破氐は、本州の別駕であったが、早世した。四子があった。

長子の敬賢は、鉅鹿太守であった。

破氐の弟の積善は、中書博士・臨淮王提友となった。

子の隆宗は、太原太守となった。

寇讃

寇讃は、字を奉国といい、上谷の人であったが、難を避けて馮翊の万年に移住した。父の脩之は、字を延期といい、苻堅の東萊太守であった。讃の弟の謙之は道術に通じ、世祖(太武帝)がこれを敬重したため、脩之を追贈して安西将軍・秦州刺史・馮翊公とし、命服を賜り、諡して哀公といった。詔して秦・雍の二州に命じて墓に碑を立てさせた。また脩之の母を馮翊夫人に追贈した。そして宗族や従者で、太守・県令・侯・子・男に追贈された者は十六人に及び、実際に民を治めた者は七郡・五県であった。

讃は若くして清廉で知られ、身長八尺、姿かたちは厳しく聡明で、礼に合わぬことは行わなかった。苻堅の 僕射 ぼくや 韋華は、州里の高名な達人であり、年齢や時勢は異なっていたが、常に風雅なもてなしで接した。韋華が馮翊太守となると、讃を功曹に召し、後に襄邑県令に任じた。姚泓が滅びると、秦・雍の民千余家が讃を主に推戴して帰順した。綏遠将軍・魏郡太守に任じられた。その後、秦・雍の民で河南・ 滎陽 けいよう ・河内に逃れて来た者は戸数一万に達し、讃は安遠将軍・南雍州刺史・軹県侯に任じられ、 洛陽 らくよう を治所とし、雍州の郡県を設置して彼らを撫育した。これにより流民が幼児を背負って遠方から到来し、以前の三倍となった。讃に河南公の爵位を賜り、安南将軍を加え、護南蛮 校尉 こうい を兼任させ、刺史のまま、洛・ 二州の僑郡を分けてその管轄を増やした。地位は高く爵は重かったが、人をもてなすのに倦むことはなかった。

初め、讃がまだ貴くなかった時、相者の唐文に相を見てもらったことがあり、唐文は言った。「あなたの額の黒子が冠の中に入っています。位は方伯(地方長官)に至り、公に封ぜられるでしょう。」貴くなってから、唐文が民の礼で拝謁すると、なおも言った。「明公はかつて私が申した言葉をお思い出しになりますか。あの時はただ貴くなられるとは知りましたが、自分が州民となるとは知りませんでした。」讃は言った。「かつて卿は杜瓊が官長になれないと言ったが、人々は皆そうではないと言った。杜瓊が盩厔県令に選ばれた時、卿はなお相の中に見えないと言い、杜瓊は果たして急病で、拝命せずに亡くなった。昔、魏舒は主人の子が死んだのを見て、自分が必ず公に至ると悟った。私は常に卿の杜瓊についての言葉が的中したことを、この望み(公になること)が叶う証拠としてやめなかったのだ。」そこで唐文に衣服と良馬を賜った。讃は州に十七年在任し、公私ともに大いに称賛を得た。年老いて上表して致仕を求めた。真君九年に卒去、八十六歳。遺言で薄葬を命じ、その時の衣服で納めた。世祖は悼み惜しんだ。諡して宣穆といった。

長子の元宝は爵位を継ぎ、 州別駕となった。興安元年に卒去、安南将軍・ 州刺史を追贈された。

子の祖は爵位を継いだ。高祖(孝文帝)の時、安南将軍・東徐州刺史となり、卒去した。

子の霊孫が継いだ。赭陽太守となった。

元宝の弟の虎皮は、才幹と器量があった。本県の県令となった。

虎皮の弟の臻は、字を仙勝といった。十二歳の時、父の喪に遭い、喪に服して孝行で称えられた。財を軽んじ士を好んだ。顕祖(献文帝)の末、中川太守となった。当時、馮熙が洛州刺史であったが、政治は貪欲で残酷と評されていた。仙勝はわずかにこれに附くことができ、その意を大いに得た。弘農太守に転じた。後に母が年老いたためたびたび解任を求め、ようやく許された。高祖(孝文帝)の初め、母の喪が明けぬうちに、恒農の大盗張煩らが良民を害したため、都將に徴され、荊州刺史の公孫初頭らとともにこれを追討した。振武将軍・比陽鎮将に任じられ、威厳と恩恵の称があった。建威将軍・郢州刺史に遷った。高祖が南遷すると、郢州の地は王畿となったため、弘農太守に任じられた。収賄の罪で御史に弾劾され、ついに免官されて家で卒去した。

長子の祖訓は、順陽太守となった。

祖訓の弟の治は、字を祖礼といった。洛陽県令から次第に昇進して鎮遠将軍・東荊州刺史となった。交代で任を下った後、蛮民が刺史の酈道元が厳しく酷薄であるとして、治を刺史として請願した。朝廷の議論では辺境の民を喜ばせるべきであるとして、治をもって道元に代え、征虜将軍に進号した。戍兵を派遣して道元を送った罪で、免官された。治の兄弟は皆、孝友で篤実で和やかであり、白髪になるまで同居した。父が亡くなって久しいが、なお生前に過ごした堂宇に、帳や几杖を整え設け、季節ごとに堂を開いて並んで拝礼し、涙を流して供物を捧げ、あたかも宗廟のようにし、吉凶の事があれば必ず先に告げ、遠出する時や帰って来た時も同じようにした。治は、世宗(宣武帝)の末、前将軍・河州刺史に遷った。在任数年、却鉄怱の反乱に遭い、また城民が都に出向いてその貪婪な様子十六条を列挙して訴えた。赦令に遇って免罪された。久しくして、廷尉卿を兼ね、また尚書を兼ねた。権勢のある家を畏れ避け、顔色を窺い、自らの主張を貫くことができなかった。まもなく金紫光禄大夫に遷った。この時、蛮が三鵶で反乱し、治は 都督 ととく として追討に当たり、戦死した。持節・ 都督 ととく 雍華岐三州諸軍事・衛大将軍・七兵尚書・雍州刺史・昌平男を追贈された。

治の弟の弥は、尚書郎を兼ねた。城陽王元徽に親しく遇された。永安の末、元徽は尒朱兆を避けて身一つで南へ逃げた。弥に身を寄せようとしたが、弥は受け入れず、人を遣わして害を加えようとした。当時の論評はこれを深く非難した。後に関西で没した。

治の長子の朏之は、字を長明といった。直後・奉朝請から、再び昇進して鎮遠将軍・諫議大夫となり、なお直後を兼ねた。建義年中、出向して冠軍将軍・東荊州刺史となり、尚書を兼ね、荊郢行臺となった。交代で任を下り、征虜将軍に任じられた。普泰年中、爵位を継ぎ、また東荊州刺史となった。永熙年中、鎮東将軍・金紫光禄大夫となった。武定四年に卒去、五十八歳であった。

酈範

酈範は、字を世則といい、幼名を記祖といい、范陽郡涿鹿県の人である。祖父の紹は、 慕容 ぼよう 宝の時に濮陽太守であった。太祖(道武帝)が中山を平定した時、郡を挙げて降伏し、兗州監軍を授けられた。父の嵩は、天水太守であった。範は、世祖(太武帝)の時に給事東宮となった。高宗(文成帝)が即位すると、先朝の旧勲を追録し、永寧男の爵を賜り、寧遠将軍を加えられた。治礼郎として世祖と恭宗(景穆帝)の神主を太廟に奉遷し、爵を子に進めた。

征南大将軍慕容白曜が南征するに当たり、範は左司馬となった。軍が無塩に駐屯すると、劉彧の戍主申纂が城に拠って守りを固めた。識者は皆、攻城の具が未だ整わず、直ちに進むべきではないと論じた。範は言う、「今、軽軍を率いて遠くを襲い、深く敵境に入っている。長く留まるべきではなく、機会を逃してはならない。また、纂は必ずや我が軍の来襲が速やかであるため、攻守の備えを去らず、城を頼みとし、弱卒を恃みとしているであろう。これは天が彼を滅ぼす時である。今、外には威容を潜め、内には軍旅を整え、密かに将士を励まし、その不意を衝けば、一挙にこれを攻め落とすことができよう」。白曜は言う、「一日でも敵を逃せば、数世代の患いとなる。今、ゆるやかにすれば、民心は固まってしまう。司馬の策は正しい」。そこで密かに軍を退かせ、攻めない様子を示した。纂は果たして備えを設けず、そこで夜のうちに部署を定め、朝には城壁を登り、一朝にしてこれを陥落させた。白曜はその民を全て軍の戦利品としようとした。範は言う、「斉の地は四方に広がり、世に『東秦』と称される。遠からず経略しなければ、恐らく平定することはできまい。今、皇威が初めて及んだばかりで、民は恩沢に浴していない。連なる城には二心を抱く将がおり、並ぶ邑には守りを拒む者がいる。まず信義を示し、規範を示してこそ、民心を懐かしめることができ、二州を平定できるであろう」。白曜は言う、「これは良策である」。そこでこれを免じた。進軍して肥城に至り、白曜はこれを攻撃しようとした。範は言う、「肥城は小さいが、攻撃すれば日数を要し、得ても軍の名声には益なく、失えば威勢を損なう。また、無塩の兵卒を見よ。死者は塗炭の苦しみを味わった。成敗の機微は、十分に鑑とすべきである。もし飛書をもって告諭すれば、攻めずして自ら降伏しよう。たとえ降伏しなくとも、逃げ散るであろう」。白曜はそこで書状をもってこれを諭すと、肥城は果たして潰走した。白曜は大衆に向かって範を見て言う、「この行軍は、卿を得たことにより、三斉を平定するのに不足はない」。

軍が升城に達すると、劉彧の太原太守房崇吉が母と妻を棄てて東へ逃走した。彧の青州刺史沈文秀は、その寧朔将軍張元孫を使者として帰順の書簡を奉り、軍の接応と援護を請うた。白曜は偏師を派遣してこれに赴かせようとした。範は言う、「故郷を思う情は、同じ徳を懐く者に通じる。文秀の家は江南にあり、青州の地には墳墓の累がない。数万の衆を擁し、精鋭の兵甲と堅固な城を有している。強ければ戦いを拒み、勢いが屈すれば逃走するであろう。軍が未だ迫っていないのに、朝夕の憂いもなく、一体何を畏れて、すでに援軍を求めているのか。その使者を見るに、言葉は煩わしく顔には愧色があり、目線は下を向き志は怯んでいる。贈り物は厚く言葉は甘く、我々を誘おうとしている。もし遠大な計略を立てなければ、軍勢を損なうことを恐れる。進んでも取る所なく、退けば強敵に迫られ、雄羊が垣根に角を突きかけるようなもので、角を損なうことになろう。歴城を守り、盤陽を平定し、梁鄒を落とし、楽陵を陥落させてから、車を並べ馬を連ね、旌旗を揚げて直進するに若くはない。どうして道端で壺に飲み物を捧げて明公を迎える者がいないことを憂えようか」。白曜は言う、「卿は前後して献策し、いずれも道理を失わなかった。しかし今日の計算は、私は取らない。なぜか。道固(房崇吉)は孤城にあり、ただ自ら守るのみである。盤陽の諸戍は、野戦に出る勢いではない。文秀は必ずや討ち滅ぼすことができ、その意は先ず誠意を示すことにある。天が与えるものを取らなければ、後悔しても及ばない」。範は言う、「浅見ながらも、これは虚言ではないと思う。歴城は食糧も兵も十分で、一朝一夕に陥とせるものではない。文秀は既に東陽を拠点として諸城の根本としている。多く軍を派遣すれば歴城の堅固さは成り立たず、少なく派遣すれば敵の心を恐れさせることはできない。もし文秀が再び叛き、門を閉ざして守りを固めれば、前には偏師があり、それに挫かれ、梁鄒の諸城が後を追撃し、文秀自身が大軍を率いて必ずや相乗して迫ってこよう。腹背に敵を受け、進退の途を失えば、たとえ韓信や白起がいても、恐らく全うする道理はない。願わくばさらに考えを巡らし、賊の計略の中に入らぬよう」。白曜はそこでやめた。そこで範を青州刺史に上表して新たな民を撫でしめた。後に爵を侯に進め、冠軍将軍を加え、尚書右丞に遷った。

後に平東将軍・青州刺史に任ぜられ、范陽公を仮授された。範が以前に州の任を解かれて京に還った時、夜に陰毛が踝を払う夢を見た。ある日、これを語った。当時、斉の人で夢占いをする者に史武という者がおり、進み出て言う、「豪毛が斉の地で盛んになるでしょう。使君が東秦を臨撫され、その道が海岱に光り輝けば、必ずや再び全斉を牧し、再び営丘に禄を受けることになるでしょう」。範は笑って答えた、「私は卿のために必ずこの夢を験すであろう」。果たしてその言葉の通りとなった。この時、鎮将の元伊利が範が外賊と通じていると上表した。高祖(孝文帝)は範に詔して言う、「卿の身は功労の旧臣ではなく、位も重い班列にはない。それでいて超えて顕爵に昇り、方夏の任に居るのは、まさに勤勉で能く遠きに致すからである。外に特別な功績はないが、また時勢に背く過ちもない。ところが鎮将の伊利が妄りに奸計を生じ、卿が船を造り玉を市い、外賊と通じていると上表し、卿に罪を陥れようと図り、州の任を窺っている。有司が推問検証したところ、虚実は自ずから明らかとなり、有罪の者は今その罪を服した。卿は明らかに計略を立て、再び疑うことなかれ。もし卿が別の罪を犯せば、刑及び鞭に処すところであるが、今は刑を恕し鞭を罷め、ただ五十の罰金とする。卿はよくこれに従い、辺境を安んじ纏め、朕の意に称えよ」。還朝し、六十二歳で、京師に卒した。諡して穆といった。範に五子あり、道元は『酷吏伝』にある。

道元の第四弟の道慎は、字を善季という。歴史や伝記に広く通じ、幹略があった。奉朝請より始まり、尚書二千石郎中に遷り、威遠将軍を加えられ、漢川行臺となり、降伏する者を迎え入れた。功により員外常侍に任ぜられ、郎中を領した。輔国将軍・ ぎょう 騎将軍に転じた。出て正平太守となり、治績に能吏の名声があった。長楽相に遷った。正光五年に卒し、三十八歳であった。後将軍・平州刺史を追贈された。

子の中は、字を伯偉という。武定初年、 司徒 しと 刑獄参軍となった。

道慎の弟の約は、字を善礼という。奉朝請より起家し、再遷して冠軍将軍・ 司徒 しと 諮議参軍となった。質朴で鈍重であり、琴と書を愛好した。性来、人に請うことを多く作り、栄利を求めて干謁を好み、物乞いを止めず、多く人に笑い弄ばれた。世に困窮し、飢寒を免れなかった。晩年に東萊・魯郡の二郡太守を歴任し、政治は清静で、吏民はこれを安んじた。六十三歳、武定七年に卒した。

範の弟の神虎は、尚書左民郎中であった。

神虎の弟の夔。子の惲は、字を幼和といい、学問を好み、文才があり、特に吏務の才幹に長けていた。正光年中、刺史の裴延儁に用いられて主簿となり、学校を修復興起させた。また秀才に挙げられ、射策で高第となり、奉朝請となった。後に延儁が討胡行臺尚書となると、行臺郎に引き立てた。招撫に功績があったと称され、尚書外兵郎に任ぜられ、引き続き行臺郎を務めた。延儁が解任されて還ると、行臺の長孫稚がまた行臺郎に引き立て、征虜将軍を加えた。惲は武用も兼ね備え、常に功名を自ら任じ、稚に計略を進言する度に、多く採用された。功により魏昌県開国子に叙され、邑三百戸を賜った。惲は軍中にあって、自身の官爵を減らして父に贈官を請うことを上奏し、詔して夔に征虜将軍・安州刺史を追贈した。惲は後に唐州刺史崔元珍と共に平陽を固守した。武泰年中、尒朱栄が兵を挙げて洛陽に向かうと、惲と元珍はその命令に従わず、栄の行臺郎中樊子鵠に攻められ、城は陥落して害され、時に三十六歳であった。世の人は皆これを痛惜した。その著作した文章は、広く世に行われた。慕容氏の書を撰したが、完成しなかった。

子の懷則は、武定末年、 司空 しくう 長流参軍となった。

夔の弟の神期は、中書博士であった。

神期の弟の顯度は、司州の秀才であり、尚書庫部郎であった。

韓秀

韓秀は、字を白虎といい、昌黎の人である。祖父の宰は、慕容儁の謁者僕射であった。父の昞は、皇始の初めに帰国し、宣威将軍・騎都尉に任ぜられた。韓秀は吏職を歴任し、次第に尚書郎に昇進し、遂昌子の爵位を賜り、広武将軍に任ぜられた。高宗は韓秀が聡明で弁舌明晰であり、喉舌(機密の任)の才があると称賛し、ついに王命の出納を命じ、併せて機密を掌らせた。行幸や遊猟の際には、左右に随侍した。顕祖が即位すると、給事中に転じ、征南将軍慕容白曜の軍事に参与した。

延興年間、尚書が上奏して、敦煌の一鎮は西北の遠隔地に介在し、寇賊の通路の要衝であるため、堅固でないことを憂慮し、涼州に移転させようとした。百官が会議して、皆これを妥当とした。韓秀のみが不便であると主張し、言うには、「これは国を縮小する事態であり、国土を開拓する方策には適さない。愚考するに、敦煌の設置は、その由来既に久しい。強敵と土地を接しているとはいえ、兵士・民衆は平素より習熟しており、たとえ奸賊が窃発しても害をなすことはできず、常例通りに戍を置けば、自らを保全するに足る。進んで北狄の偵察路を断ち切り、退いて西夷の窺伺路を塞ぐ。もし姑臧に移転すれば、人々が異心を抱くことを憂慮する。あるいは重い移転を嫌って留まることを貪り、心情として移転を望まず、もしも寇賊を引き入れて内侵させれば、国の患いとなることは深い。また、敦煌は涼州から千余里離れており、遠きを捨てて近きに就けば、遠方の防備に欠陥が生じる。一旦これを廃止すれば、これは戎狄の野心を開くこととなり、夷狄が互いに結託し、往来し合うことになろう。恐らくは醜悪な徒党が協力し合い、涼土および近隣の諸戍を侵掠すれば、関右は荒廃し騒擾し、烽火の警報は止まず、辺境の役務は頻繁に起こり、艱難は甚だしくなるであろう」と。そこで韓秀の議に従った。太和の初め、内侍長に遷った。後に平東将軍・青州刺史となり、漁陽公を仮授された。州において数年を経て、卒去した。子の務が爵位を襲った。

務は、字を道世といい、性質は端正で謹厳であり、治世の才幹があった。初め中散となり、次第に太子翊軍 校尉 こうい に遷った。時に高祖が南征し、行梁州刺史楊霊珍が謀叛を企てた。務を統軍とし、 都督 ととく 李崇の節度を受けて楊霊珍を討伐させた。戦功があり、後軍長史を授けられ、行在所に召し出された。帰還後、長水 校尉 こうい に遷った。景明の初め、節を仮授され肆州の事務を行い、左中郎将・寧朔将軍に転じ、常山郡の試守となった。また征蛮 都督 ととく 李崇の司馬となった。李崇が群蛮を掃討し、近畿の患いを除いたのは、務の力によるものがあった。後に鎮北府司馬を拝命した。初め常山郡を試守した。府が解かれると、再び平北長史となった。務はかなり収賄があり、御史中尉李平に弾劾され、廷尉に付されたが、赦令に会って免罪となった。後に龍驤将軍・郢州刺史を拝命した。務は七宝の牀と象牙の席を献上した。詔して曰く、「晋の武帝が雉頭の裘を焼いたことを、朕は常に嘉している。今、務の献上するものもこれと同類である。奇麗な物品は、風教・質素に背く。その家人に付すべし」と。辺境の者李旻・馬道進らが、蕭衍の黄坂戍主を偽って殺害し、戸を率いて降伏すると詐称した。務はこれを信じ、千余りの兵を派遣して迎接させた。戸は結局来ず、しかも賊を撃破したと偽って上表したため、官を免ぜられる罪に坐した。久しくして、冠軍将軍・太中大夫を拝し、左将軍の号を進めた。神龜の初めに卒去した。

堯暄

堯暄は、字を辟邪といい、上党長子の人である。本名は鍾葵といったが、後に賜って暄と改めた。祖父の僧頼は、太祖が中山を平定した際、趙郡の呂舍と共に真っ先に帰国した。

暄は聡明で理解が早く、容貌が美しく、千人軍将・東宮吏となった。高宗はその恭謹さを認め、中散に抜擢した。斉州に奉使し、平原鎮将及び長史の貪暴な事跡を検査し、情実を推し究め道理を診断して、皆その実態を得た。太尉中給事・兼北部曹事を拝命し、後に南部に転じた。太和年間、南部尚書に遷った。当時、三長制が初めて立てられ、暄は東道十三州使となり、戸籍を改めて比較校訂した。独り乗りの車一乗と厩舎の馬四匹を賜った。時に蕭賾がその将陳顕達を遣わして辺境を侵犯したため、暄を使持節・仮中護軍・ 都督 ととく 南征諸軍事・平陽公とした。軍は許昌に駐屯したが、陳顕達が遁走したため、暄は軍を返した。暄は前後して征戦に従い、また出使して検査すること三十回余り、いずれも己を克し公に奉じた称賛があった。衣服二十具・綵絹十匹・細絹千余段・奴婢十口を賞賜され、平陽伯の爵位を賜った。百官が改めて設置されると、太僕卿を授けられた。車駕が南征する際、安南将軍を加えられた。大司農卿に転じた。太和十九年、 平城 へいじょう において卒去した。高祖はそのために哀悼の意を表した。安北将軍・相州刺史を追贈し、葬儀のための帛七百匹を賜った。

初め、暄が徐州に使した際、州城の楼観を見て、その華美で盛んなことを嫌い、しばしばこれを破却撤去させた。このため後には一層損なわれ荒廃した。高祖が彭城に行幸した際、これを聞いて言うには、「暄は今なお追って斬るに値する」と。

暄の長子の洪は、爵位を襲った。鎮北府録事参軍であった。

子の桀は、字を永寿という。元象年間、開府儀同三司・楽城県開国公となった。

洪の弟の遵は、伏波将軍・河州冠軍府長史・臨洮太守であった。卒去し、龍驤将軍を追贈され、諡を思といった。

遵の弟の栄は、員外散騎侍郎であった。

子の雄は、字を休武という。元象年間、儀同三司・ 州刺史・城平県開国公となった。

雄の弟の奮は、字を彦挙という。興和年間、驃騎将軍・潁州刺史となった。

奮の弟の難宗は、武定年間、征西将軍・南岐州刺史・征 きょう 県開国伯となった。

呂舍は帰国した後、京師に至り、田宅を給賜された。

子の方生は、機識明辯にして、主書郎の任に在りて卒す。建武将軍・定州刺史・高邑子を贈られ、諡して敬と曰う。

子の受恩は、侍御中散となり、宜官曹を典し、累遷して外都曹令に至り、転じて北部給事・秦州刺史となる。官にて卒す。

【論】

史臣曰く、薛辯・寇讚は有道に帰身し、並びに款效を以て嘉せらる。議して敦煌は遠きを馭するの算を得たりとす。務は武夫の鄙詐にして、牀を貢ぎ宝を飾るも、棄てて御さず、これ乃ち人主の盛徳なり。堯暄は聰察にして公に奉じ、以て名位を致し、礼を存歿に加え、余栄有り。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻42