魏書

卷42 薛辯 寇贊 酈範 韓秀 堯暄

卷42 薛辯 寇贊 酈範 韓秀 堯暄

薛辯

原文薛辯

薛辯、字は允白。その先祖は蜀より河東の汾陰に移り、ここに家を定めた。祖父の陶は、薛祖・薛落らと部衆を分統し、故に世に三薛と号す。父の強はまた代わって部落を統率し、祖・落の子孫は衰微したため、強は遂に三営を総摂した。綏撫に長じ、民衆の帰するところとなり、石虎・苻堅の時代を経て、常に黄河を頼みとして自らを固めた。姚興に仕えて鎮東將軍となり、入朝して尚書となった。強が卒すると、辯はまたその営を襲統し、興の尚書郎・建威將軍・河北太守となった。辯は次第に驕傲となり、民心を頗る失う。劉裕が姚泓を平定すると、辯は営を挙げて裕に降り、司馬徳宗より寧朔將軍・平陽太守に拝された。裕が長安を失うに及んで、辯は帰国し、なお河際に功を立て、太宗より平西將軍・雍州刺史を授かり、爵を汾陰侯と賜う。泰常七年、任中に卒す。年四十四。

原文薛辯,字允白。其先自蜀徙於河東之汾陰,因家焉。祖陶,與薛祖、薛落等分統部眾,故世號三薛。父強,復代領部落,而祖、落子孫微劣,強遂總攝三營。善綏撫,為民所歸,歷石虎、苻堅,常憑河自固。仕姚興為鎮東將軍,入為尚書。強卒,辯復襲統其營,為興尚書郎、建威將軍、河北太守。辯稍驕傲,頗失民心。劉裕平姚泓,辯舉營降裕,司馬德宗拜為寧朔將軍、平陽太守。及裕失長安,辯來歸國,仍立功於河際,太宗授平西將軍、雍州刺史,賜爵汾陰侯。泰常七年卒於位,年四十四。

子の謹、字は法順、容貌魁偉、史伝を頗る覧る。劉裕が泓を擒えると、相府行参軍に辟され、裕に従って江を渡る。尋いで記室参軍に転ず。辯が帰国せんとするや、密かに使して謹に報じ、謹は彭城より来奔す。朝廷これを嘉し、河東太守を授く。後に爵を襲い平西將軍・汾陰侯となる。謹の治める所は屈丐と連接し、士を結び敵に抗し、威恵甚だ有り。始光中、世祖詔して奚斤に赫連昌を討たしめ、謹に偏師を領し前鋒郷導たらしむ。蒲坂を克つと、世祖は新旧の民を併せて一郡と為し、謹はなお太守となり、秦州刺史に遷り、将軍は元の如し。山胡の白龍、険に憑りて逆を為す。世祖詔して鎮南將軍奚眷に謹と共に太平より北入せしめ、これを討平す。安西將軍・涪陵公を除され、刺史は元の如し。太延初、吐没骨を征し平らぐ。謹は郡より州に遷り、威恵兼備し、風化大いに行わる。時に兵乱の後、儒雅の道息む。謹は命じて庠序を立て、詩書を以て教え、三農の暇に悉く業を受けしめ、躬ら邑里を巡り、親ら考試を加う。ここに於いて河汾の地、儒道興る。真君元年、徴されて京師に還り、内都坐大官を除く。五年、都將となり、駕に従い北討す。後期の罪により中山王辰らと共に都南に斬らる。時に年四十四。尋いで鎮西將軍・秦雍二州刺史を贈られ、諡して元公と曰う。

原文子謹,字法順,容貌魁偉,頗覽史傳。劉裕擒泓,辟相府行參軍,隨裕渡江。尋轉記室參軍。辯將歸國,密使報謹,遂自彭城來奔。朝廷嘉之,授河東太守。後襲爵平西將軍、汾陰侯。謹所治與屈丐連接,結士抗敵,甚有威惠。始光中,世祖詔奚斤討赫連昌,敕謹領偏師前鋒鄉導。既克蒲坂,世祖以新舊之民并為一郡,謹仍為太守,遷秦州刺史,將軍如故。山胡白龍憑險作逆,世祖詔鎮南將軍奚眷與謹自太平北入,討平之。除安西將軍、涪陵公,刺史如故。太延初,征吐沒骨,平之。謹自郡遷州,威惠兼備,風化大行。時兵荒之後,儒雅道息。謹命立庠,教以詩書,三農之暇,悉令受業,躬巡邑里,親加考試,於是河汾之地,儒道興焉。真君元年,徵還京師,除內都坐大官。五年,為都將,從駕北討,以後期與中山王辰等斬於都南,時年四十四。尋贈鎮西將軍、秦雍二州刺史,諡曰元公。

長子の初古拔、一に車輅拔と曰い、本名は洪祚、世祖より名を賜う。沈毅にして器識有り、年弱冠に始まるや、司徒崔浩見て奇とす。真君中、蓋呉関右を擾動し、薛永宗河側に屯據す。世祖親らこれを討つ。乃ち詔して拔に宗郷を糾合せしめ、河際に壁し、二寇往来の路を断たしむ。事平らぎ、中散を除かれ、爵を永康侯と賜う。世祖南討するに、拔を以て都將と為し、駕に従い江に臨みて還る。また陸真と共に反氐の仇傉檀・強免生を討ち平らぐ。皇興三年、散騎常侍を除かれ、西河長公主を尚し、駙馬都尉を拝す。その年、拔の族叔たる劉彧の徐州刺史安都城を據て帰順す。勅して拔に彭城に詣り労迎せしむ。冠軍將軍・南豫州刺史を除く。延興二年、鎮西大將軍・開府を除かれ、爵を進めて平陽公と為す。三年、拔は南兗州刺史游明根・南陽平太守許含らと治民に著るしく称せられ、徴されて京師に詣る。顕祖親ら労勉し、復た州に還るを令す。太和六年、爵を改めて河東公と為す。八年三月、詔して拔に入朝せしむ。暴病に卒す。年五十八。左光禄大夫を贈られ、諡して康と曰う。

原文長子初古拔,一曰車輅拔,本名洪祚,世祖賜名。沉毅有器識,年始弱冠,司徒崔浩見而奇之。真君中,蓋吳擾動關右,薛永宗屯據河側,世祖親討之。乃詔拔糾合宗鄉,壁於河際,斷二寇往來之路。事平,除中散,賜爵永康侯。世祖南討,以拔為都將,從駕臨江而還。又共陸真討反氐仇傉檀、強免生,平之。皇興三年,除散騎常侍,尚西河長公主,拜駙馬都尉。其年,拔族叔劉彧徐州刺史安都據城歸順,敕拔詣彭城勞迎。除冠軍將軍、南豫州刺史。延興二年,除鎮西大將軍、開府,進爵平陽公。三年,拔與南兗州刺史游明根、南陽平太守許含等以治民著稱,徵詣京師。顯祖親自勞勉,復令還州。太和六年,改爵為河東公。八年三月,詔拔入朝,暴病卒,年五十八,贈左光祿大夫,諡曰康。

長子の胤、字は寧宗、少くして父の風有り。弱冠、中散を拝し、爵を襲い鎮西大將軍・河東公となり、懸瓠鎮将を除かれる。蕭賾将を遣わして辺を寇す。詔して胤を都將と為し、穆亮らと淮上にて拒がしむ。尋いで持節義陽道都將を授かる。十四年、文明太后の公除に属し、高祖詔して諸刺史・鎮将で曾て近侍した者は、皆闕に赴くを聴す。胤は例に随い入朝す。五等を開革するに属し、公より侯に降る。十七年、高祖南討するに、詔して趙郡王幹・司空穆亮を西道都將と為す。時に幹年少にして、未だ軍旅に渉らず。高祖乃ち胤に仮節・仮平南將軍を除き、幹の副軍と為す。裒父に行き至り、蕭賾の死によりて班師す。また都將となり、共に秦州の反を討ち、支酉を敗り生擒して斬る。立忠將軍・河北太守を除く。郡は山河を帯び、路に盗賊多し。韓・馬の両姓有り、各二千余家、強を恃み険に憑り、最も狡害にて、道路を劫掠し、郷閭を侵暴す。胤の郡に至る日、即ちその姦魁二十余人を収め、一時にこれを戮す。ここに於いて群盗気を懾え、郡中清粛なり。二十三年秋、疾に遇い、郡に卒す。時に年四十四。諡して敬と曰う。

原文長子胤,字寧宗,少有父風。弱冠,拜中散,襲爵鎮西大將軍、河東公,除懸瓠鎮將。蕭賾遣將寇邊,詔胤為都將,與穆亮等拒於淮上。尋授持節義陽道都將。十四年,文明太后公除,高祖詔諸刺史、鎮將曾經近侍者,皆聽赴闕,胤隨例入朝。屬開革五等,降公為侯。十七年,高祖南討,詔趙郡王幹、司空穆亮為西道都將。時幹年少,未涉軍旅。高祖乃除胤假節、假平南將軍,為幹副軍。行達裒父,以蕭賾死,班師。又為都將,共討秦州反,敗支酉,生擒斬之。除立忠將軍、河北太守。郡帶山河,路多盜賊。有韓馬兩姓,各二千餘家,恃強憑險,最為狡害,劫掠道路,侵暴鄉閭。胤至郡之日,即收其姦魁二十餘人,一時戮之。於是羣盜懾氣,郡中清肅。二十三年秋,遇疾,卒於郡,時年四十四,諡曰敬。

子の裔、字は豫孫、爵を襲ぐ。性豪爽、園宅を盛んに営み、賓客声伎を以て嬉遊を恣にす。尚書左外兵郎・左軍將軍を歴任し、征虜將軍・中散大夫に遷る。出でて洛州刺史と為る。卒し、平西將軍・岐州刺史を贈られる。

原文子裔,字豫孫,襲爵。性豪爽,盛營園宅,賓客聲伎,以恣嬉遊。歷尚書左外兵郎、左軍將軍,遷征虜將軍、中散大夫。出為洛州刺史。卒,贈平西將軍、岐州刺史。

子の孝紳、爵を襲ぐ。稍く遷りて前將軍・太中大夫となる。孝紳は行い険薄を立て、事に坐して河南尹元世儁に劾せられ、死す。後に征西將軍・華州刺史を贈られる。

原文子孝紳,襲爵。稍遷前將軍、太中大夫。孝紳立行險薄,坐事為河南尹元世儁所劾,死。後贈征西將軍、華州刺史。

胤の弟□、字は崇業。広平王懐の郎中令・汝陰太守。

原文胤弟□,字崇業。廣平王懷郎中令、汝陰太守。

子の修仁、司空行参軍。

原文子修仁,司空行參軍。

修仁の弟玄景、陳留太守。

原文修仁弟玄景,陳留太守。

拔の弟洪隆、字は菩提。解褐して陽平王国常侍、稍く遷りて河東太守。

原文拔弟洪隆,字菩提。解褐陽平王國常侍,稍遷河東太守。

長子の驎駒、書を読むを好む。秀才に挙げられ、中書博士を除かれる。太和九年、蕭賾の使至る。乃ち詔して驎駒に主客郎を兼ねしめて以てこれに接せしむ。十年秋、疾に遇い卒す。時に年三十五。寧朔將軍・河東太守を贈られ、諡して宣と曰う。

原文長子驎駒,好讀書。舉秀才,除中書博士。太和九年,蕭賾使至,乃詔驎駒兼主客郎以接之。十年秋,遇疾卒,時年三十五。贈寧朔將軍、河東太守,諡曰宣。

長子の慶之、字は慶集、学業を以て頗る聞こゆ。解褐して奉朝請。侍御史を領し、廷尉丞に遷る。廷尉寺は北城に隣接し、曾て夏日に寺傍にて一狐を執え得たり。慶之と廷尉正博陵の崔纂は、或いは城狐狡害なれば宜しく速やかにこれを殺すべしとし、或いは長育の月なれば宜しく秋分を待つべしとす。二卿の裴廷儁・袁翻互いに同異有り。雖も戯謔と曰うも、詞義観るべく、事世に伝わる。転じて尚書郎・兼尚書左丞となり、并肆行臺と為り、爵を龍丘子と賜い、并州事を行なう。征虜將軍・滄州刺史に遷る。葛栄に攻囲せられ城陥つ。尋いで患い卒す。後に右將軍・華州刺史を贈られる。

原文長子慶之,字慶集,頗以學業聞。解褐奉朝請。領侍御史,遷廷尉丞。廷尉寺隣接北城,曾夏日於寺傍執得一狐。慶之與廷尉正博陵崔纂,或以城狐狡害,宜速殺之,或以長育之月,宜待秋分。二卿裴廷儁、袁翻互有同異。雖曰戲謔,詞義可觀,事傳於世。轉尚書郎、兼尚書左丞,為并肆行臺,賜爵龍丘子,行并州事。遷征虜將軍、滄州刺史,為葛榮攻圍,城陷。尋患卒。後贈右將軍、華州刺史。

慶之の弟英集、性通率。舅の李崇に従い揚州に積年あり、軍功を以て司徒鎧曹参軍を歴任し、稍く遷りて治書侍御史・通直散騎常侍となる。卒す。

原文慶之弟英集,性通率。隨舅李崇在揚州積年,以軍功歷司徒鎧曹參軍,稍遷治書侍御史、通直散騎常侍。卒。

驎駒の弟鳳子。都洛邑に徙るより、鳳子兄弟は華州河西郡に属を移す。太和二年、太子詹事丞・本州中正と為る。世宗登阼し、転じて太尉府鎧曹参軍、稍く遷りて治書侍御史。正始初、持節・征義陽軍司と為る。京に還り、その年秋卒す。時に年四十九。陵江將軍・光城太守を贈られる。

原文驎駒弟鳳子。自徙都洛邑,鳳子兄弟移屬華州河西郡焉。太和二年,為太子詹事丞、本州中正。世宗登阼,轉太尉府鎧曹參軍,稍遷治書侍御史。正始初,為持節、征義陽軍司。還京,其年秋卒,時年四十九,贈陵江將軍、光城太守。

鳳の弟の子、驥奴は、州の主簿であった。

原文鳳子弟驥奴,州主簿。

洪隆の弟、破胡は、州の治中別駕であった。次第に昇進して河東太守・征仇池都將となった。六人の子があった。

原文洪隆弟破胡,州治中別駕。稍遷河東太守、征仇池都將。有六子。

長子の聰は、字を延智という。世に称えられる名声があった。累進して治書侍御史・直閣將軍となり、高祖(孝文帝)に知られた。世宗(宣武帝)が即位すると、輔國將軍・齊州刺史に任ぜられた。州において卒した。征虜將軍・華州刺史を追贈された。

原文長子聰,字延智。有世譽。累遷治書侍御史、直閣將軍,為高祖所知。世宗踐阼,除輔國將軍、齊州刺史。卒於州。贈征虜將軍、華州刺史。

長子の景茂は、司州記室從事・猗氏令であった。早世した。

原文長子景茂,司州記室從事、猗氏令。早卒。

景茂の弟、孝通は、文才に優れていた。永安年間、中尉の高道穆に引き立てられて御史となり、中書舍人・中書侍郎・常山太守を歴任した。悪疾にかかり卒した。

原文景茂弟孝通,頗有文學。永安中,中尉高道穆引為御史,歷中書舍人、中書侍郎、常山太守。遇惡疾而卒。

聰の弟、道智は、尚書郎であった。卒した。

原文聰弟道智,尚書郎。卒。

子の長瑜は、天平年間、征東將軍・洛州刺史となり、潼関で賊を撃ったが、戦陣に没した。都督冀定太三州諸軍事・車騎將軍・冀州刺史を追贈された。

原文子長瑜,天平中,為征東將軍、洛州刺史,擊賊潼關,沒於陳。贈都督冀定太三州諸軍事、車騎將軍、冀州刺史。

道智の弟、仙智は、郡の功曹であった。

原文道智弟仙智,郡功曹。

仙智の弟、曇賢は、國子博士の任において卒した。

原文仙智弟曇賢,卒於國子博士。

末子の景淵は、尚書左民郎であった。

原文小子景淵,尚書左民郎。

曇賢の弟、和は、字を導穆という。初めて官に就き、大將軍劉昶の府の行參軍となった。司空長流參軍に転じ、太尉府主簿に任ぜられ、諫議大夫に昇進した。永平四年正月、山賊の劉龍駒が夏州を擾乱したため、詔により和は汾・華・東秦・夏の四州の兵を発して龍駒を討ち、これを平定した。和はこれにより東夏州の設置を上表し、世宗はこれに従った。また正平・潁川の二郡の事務を代行し、通直散騎常侍に任ぜられた。蕭衍が将軍の張齊を派遣して晉壽を寇したため、詔により和は尚書左丞を兼ね、西道行臺となり、都督傅豎眼ら諸軍を節度して、大いに齊軍を破った。正光初年、左將軍・南青州刺史に任ぜられ、州において卒した。享年五十五。安北將軍・瀛州刺史を追贈された。

原文曇賢弟和,字導穆。解褐大將軍劉昶府行參軍。轉司空長流參軍,除太尉府主簿,遷諫議大夫。永平四年正月,山賊劉龍駒擾亂夏州,詔和發汾、華、東秦、夏四州之眾討龍駒,平之。和因表立東夏州,世宗從之。又行正平、潁川二郡事,除通直散騎常侍。蕭衍遣將張齊寇晉壽,詔和兼尚書左丞,為西道行臺,節度都督傅豎眼諸軍,大破齊軍。正光初,除左將軍、南青州刺史,卒於州,年五十五。贈安北將軍、瀛州刺史。

長子の元信は、武定末年、中軍將軍・儀同開府長史であった。

原文長子元信,武定末,中軍將軍、儀同開府長史。

和の弟、季令は、奉朝請であった。

原文和弟季令,奉朝請。

破胡の弟、破氐は、本州の別駕であったが、早世した。四子があった。

原文破胡弟破氐,為本州別駕,早卒。四子。

長子の敬賢は、鉅鹿太守であった。

原文長子敬賢,為鉅鹿太守。

破氐の弟の積善は、中書博士・臨淮王提友となった。

原文破氐弟積善,為中書博士、臨淮王提友。

子の隆宗は、太原太守となった。

原文子隆宗,太原太守。

寇讃

原文寇讃

寇讃は、字を奉国といい、上谷の人であったが、難を避けて馮翊の万年に移住した。父の脩之は、字を延期といい、苻堅の東萊太守であった。讃の弟の謙之は道術に通じ、世祖(太武帝)がこれを敬重したため、脩之を追贈して安西将軍・秦州刺史・馮翊公とし、命服を賜り、諡して哀公といった。詔して秦・雍の二州に命じて墓に碑を立てさせた。また脩之の母を馮翊夫人に追贈した。そして宗族や従者で、太守・県令・侯・子・男に追贈された者は十六人に及び、実際に民を治めた者は七郡・五県であった。

原文寇讚,字奉國,上谷人,因難徙馮翊萬年。父脩之,字延期,苻堅東萊太守。讚弟謙之有道術,世祖敬重之,故追贈脩之安西將軍、秦州刺史、馮翊公,賜命服,諡曰哀公,詔秦雍二州為立碑於墓。又贈脩之母為馮翊夫人。及宗從追贈太守、縣令、侯、子、男者十六人,其臨民者七郡、五縣。

讃は若くして清廉で知られ、身長八尺、姿かたちは厳しく聡明で、礼に合わぬことは行わなかった。苻堅の僕射韋華は、州里の高名な達人であり、年齢や時勢は異なっていたが、常に風雅なもてなしで接した。韋華が馮翊太守となると、讃を功曹に召し、後に襄邑県令に任じた。姚泓が滅びると、秦・雍の民千余家が讃を主に推戴して帰順した。綏遠将軍・魏郡太守に任じられた。その後、秦・雍の民で河南・滎陽・河内に逃れて来た者は戸数一万に達し、讃は安遠将軍・南雍州刺史・軹県侯に任じられ、洛陽を治所とし、雍州の郡県を設置して彼らを撫育した。これにより流民が幼児を背負って遠方から到来し、以前の三倍となった。讃に河南公の爵位を賜り、安南将軍を加え、護南蛮校尉を兼任させ、刺史のまま、洛・豫二州の僑郡を分けてその管轄を増やした。地位は高く爵は重かったが、人をもてなすのに倦むことはなかった。

原文讚少以清素知名,身長八尺,姿容嚴嶷,非禮不動。苻堅僕射韋華,州里高達,雖年時有異,恒以風味相待。華為馮翊太守,召為功曹,後除襄邑令。姚泓滅,秦雍人千有餘家推讚為主,歸順。拜綏遠將軍、魏郡太守。其後,秦雍之民來奔河南、滎陽、河內者戶至萬數,拜讚安遠將軍、南雍州刺史、軹縣侯,治于洛陽,立雍州之郡縣以撫之。由是流民繈負自遠而至,參倍於前。賜讚爵河南公,加安南將軍,領護南蠻校尉,仍刺史,分洛豫二州之僑郡以益之。雖位高爵重而接待不倦。

初め、讃がまだ貴くなかった時、相者の唐文に相を見てもらったことがあり、唐文は言った。「あなたの額の黒子が冠の中に入っています。位は方伯(地方長官)に至り、公に封ぜられるでしょう。」貴くなってから、唐文が民の礼で拝謁すると、なおも言った。「明公はかつて私が申した言葉をお思い出しになりますか。あの時はただ貴くなられるとは知りましたが、自分が州民となるとは知りませんでした。」讃は言った。「かつて卿は杜瓊が官長になれないと言ったが、人々は皆そうではないと言った。杜瓊が盩厔県令に選ばれた時、卿はなお相の中に見えないと言い、杜瓊は果たして急病で、拝命せずに亡くなった。昔、魏舒は主人の子が死んだのを見て、自分が必ず公に至ると悟った。私は常に卿の杜瓊についての言葉が的中したことを、この望み(公になること)が叶う証拠としてやめなかったのだ。」そこで唐文に衣服と良馬を賜った。讃は州に十七年在任し、公私ともに大いに称賛を得た。年老いて上表して致仕を求めた。真君九年に卒去、八十六歳。遺言で薄葬を命じ、その時の衣服で納めた。世祖は悼み惜しんだ。諡して宣穆といった。

原文初,讚之未貴也,嘗從相者唐文相,文曰:「君額上黑子入幘,位當至方伯封公。」及貴也,文以民禮拜謁,仍曰:「明公憶民疇昔之言乎?爾日但知公當貴,然不能自知得為州民也。」讚曰:「往時卿言杜瓊不得官長,人咸謂不然。及瓊被選為盩厔令,卿猶言相中不見,而瓊果以暴疾,未拜而終。昔魏舒見主人兒死,自知己必至公,吾常以卿言瓊之驗,亦復不息此望也。」乃賜文衣服、良馬。讚在州十七年,甚獲公私之譽,年老表求致仕。真君九年卒,年八十六。遺令薄葬,斂以時服。世祖悼惜之。諡曰宣穆。

長子の元宝は爵位を継ぎ、豫州別駕となった。興安元年に卒去、安南将軍・豫州刺史を追贈された。

原文長子元寶,襲爵,為豫州別駕。興安元年卒,贈安南將軍、豫州刺史。

子の祖は爵位を継いだ。高祖(孝文帝)の時、安南将軍・東徐州刺史となり、卒去した。

原文子祖,襲爵。高祖時,為安南將軍、東徐州刺史,卒。

子の霊孫が継いだ。赭陽太守となった。

原文子靈孫,襲。赭陽太守。

元宝の弟の虎皮は、才幹と器量があった。本県の県令となった。

原文元寶弟虎皮,有才器。本縣令。

虎皮の弟の臻は、字を仙勝といった。十二歳の時、父の喪に遭い、喪に服して孝行で称えられた。財を軽んじ士を好んだ。顕祖(献文帝)の末、中川太守となった。当時、馮熙が洛州刺史であったが、政治は貪欲で残酷と評されていた。仙勝はわずかにこれに附くことができ、その意を大いに得た。弘農太守に転じた。後に母が年老いたためたびたび解任を求め、ようやく許された。高祖(孝文帝)の初め、母の喪が明けぬうちに、恒農の大盗張煩らが良民を害したため、都將に徴され、荊州刺史の公孫初頭らとともにこれを追討した。振武将軍・比陽鎮将に任じられ、威厳と恩恵の称があった。建威将軍・郢州刺史に遷った。高祖が南遷すると、郢州の地は王畿となったため、弘農太守に任じられた。収賄の罪で御史に弾劾され、ついに免官されて家で卒去した。

原文虎皮弟臻,字仙勝。年十二,遭父憂,居喪以孝稱。輕財好士。顯祖末,為中川太守。時馮熙為洛州刺史,政號貪虐。仙勝微能附之,甚得其意。轉弘農太守。後以母老屢求解任,久乃從之。高祖初,母憂未闋,以恒農大盜張煩等賊害良善,徵為都將,與荊州刺史公孫初頭等追揃之。拜振武將軍、比陽鎮將,有威惠之稱。遷建威將軍、郢州刺史。及高祖南遷,郢州地為王畿,除弘農太守。坐受納,為御史所彈,遂廢卒於家。

長子の祖訓は、順陽太守となった。

原文長子祖訓,順陽太守。

祖訓の弟の治は、字を祖礼といった。洛陽県令から次第に昇進して鎮遠将軍・東荊州刺史となった。交代で任を下った後、蛮民が刺史の酈道元が厳しく酷薄であるとして、治を刺史として請願した。朝廷の議論では辺境の民を喜ばせるべきであるとして、治をもって道元に代え、征虜将軍に進号した。戍兵を派遣して道元を送った罪で、免官された。治の兄弟は皆、孝友で篤実で和やかであり、白髪になるまで同居した。父が亡くなって久しいが、なお生前に過ごした堂宇に、帳や几杖を整え設け、季節ごとに堂を開いて並んで拝礼し、涙を流して供物を捧げ、あたかも宗廟のようにし、吉凶の事があれば必ず先に告げ、遠出する時や帰って来た時も同じようにした。治は、世宗(宣武帝)の末、前将軍・河州刺史に遷った。在任数年、却鉄怱の反乱に遭い、また城民が都に出向いてその貪婪な様子十六条を列挙して訴えた。赦令に遇って免罪された。久しくして、廷尉卿を兼ね、また尚書を兼ねた。権勢のある家を畏れ避け、顔色を窺い、自らの主張を貫くことができなかった。まもなく金紫光禄大夫に遷った。この時、蛮が三鵶で反乱し、治は都督として追討に当たり、戦死した。持節・都督雍華岐三州諸軍事・衛大将軍・七兵尚書・雍州刺史・昌平男を追贈された。

原文祖訓弟治,字祖禮。自洛陽令稍遷鎮遠將軍、東荊州刺史。代下之後,蠻民以刺史酈道元峻刻,請治為刺史。朝議以邊民宜悅,乃以治代道元,進號征虜將軍。坐遣戍兵送道元,免官。治兄弟並孝友敦穆,白首同居。父亡雖久,而猶於平生所處堂宇,備設幃帳几杖,以時節開堂列拜,垂淚陳薦,若宗廟然,吉凶之事必先啟告,遠出行反亦如之。治,世宗末,遷前將軍、河州刺史。在任數年,遇却鐵怱反,又為城民詣都列其貪狀十六條。會赦免。久之,兼廷尉卿,又兼尚書。畏避勢家,承顏候色,不能有所執據。尋遷金紫光祿大夫。是時,蠻反於三鵶,治為都督追討,戰沒。贈持節、都督雍華岐三州諸軍事、衞大將軍、七兵尚書、雍州刺史、昌平男。

治の弟の弥は、尚書郎を兼ねた。城陽王元徽に親しく遇された。永安の末、元徽は尒朱兆を避けて身一つで南へ逃げた。弥に身を寄せようとしたが、弥は受け入れず、人を遣わして害を加えようとした。当時の論評はこれを深く非難した。後に関西で没した。

原文治弟彌,兼尚書郎。為城陽王徽所親待。永安末,徽避尒朱兆脫身南走。歸命於彌。彌不納,遣人加害,時論深責之。後沒關西。

治の長子の朏之は、字を長明といった。直後・奉朝請から、再び昇進して鎮遠将軍・諫議大夫となり、なお直後を兼ねた。建義年中、出向して冠軍将軍・東荊州刺史となり、尚書を兼ね、荊郢行臺となった。交代で任を下り、征虜将軍に任じられた。普泰年中、爵位を継ぎ、また東荊州刺史となった。永熙年中、鎮東将軍・金紫光禄大夫となった。武定四年に卒去、五十八歳であった。

原文治長子朏之,字長明。自直後、奉朝請,再遷鎮遠將軍、諫議大夫,仍直後。建義中,出除冠軍將軍、東荊州刺史,兼尚書,為荊郢行臺。代遷,除征虜將軍。普泰中,襲爵,又為東荊州刺史。永熙中,鎮東將軍、金紫光祿大夫。武定四年卒,年五十八。

酈範

原文酈範

酈範は、字を世則といい、幼名を記祖といい、范陽郡涿鹿県の人である。祖父の紹は、慕容宝の時に濮陽太守であった。太祖(道武帝)が中山を平定した時、郡を挙げて降伏し、兗州監軍を授けられた。父の嵩は、天水太守であった。範は、世祖(太武帝)の時に給事東宮となった。高宗(文成帝)が即位すると、先朝の旧勲を追録し、永寧男の爵を賜り、寧遠将軍を加えられた。治礼郎として世祖と恭宗(景穆帝)の神主を太廟に奉遷し、爵を子に進めた。

原文酈範,字世則,小名記祖,范陽涿鹿人。祖紹,慕容寶濮陽太守。太祖定中山,以郡迎降,授兗州監軍。父嵩,天水太守。範,世祖時給事東宮。高宗踐阼,追錄先朝舊勳,賜爵永寧男,加寧遠將軍。以治禮郎奉遷世祖、恭宗神主於太廟,進爵為子。

征南大将軍慕容白曜が南征するに当たり、範は左司馬となった。軍が無塩に駐屯すると、劉彧の戍主申纂が城に拠って守りを固めた。識者は皆、攻城の具が未だ整わず、直ちに進むべきではないと論じた。範は言う、「今、軽軍を率いて遠くを襲い、深く敵境に入っている。長く留まるべきではなく、機会を逃してはならない。また、纂は必ずや我が軍の来襲が速やかであるため、攻守の備えを去らず、城を頼みとし、弱卒を恃みとしているであろう。これは天が彼を滅ぼす時である。今、外には威容を潜め、内には軍旅を整え、密かに将士を励まし、その不意を衝けば、一挙にこれを攻め落とすことができよう」。白曜は言う、「一日でも敵を逃せば、数世代の患いとなる。今、ゆるやかにすれば、民心は固まってしまう。司馬の策は正しい」。そこで密かに軍を退かせ、攻めない様子を示した。纂は果たして備えを設けず、そこで夜のうちに部署を定め、朝には城壁を登り、一朝にしてこれを陥落させた。白曜はその民を全て軍の戦利品としようとした。範は言う、「斉の地は四方に広がり、世に『東秦』と称される。遠からず経略しなければ、恐らく平定することはできまい。今、皇威が初めて及んだばかりで、民は恩沢に浴していない。連なる城には二心を抱く将がおり、並ぶ邑には守りを拒む者がいる。まず信義を示し、規範を示してこそ、民心を懐かしめることができ、二州を平定できるであろう」。白曜は言う、「これは良策である」。そこでこれを免じた。進軍して肥城に至り、白曜はこれを攻撃しようとした。範は言う、「肥城は小さいが、攻撃すれば日数を要し、得ても軍の名声には益なく、失えば威勢を損なう。また、無塩の兵卒を見よ。死者は塗炭の苦しみを味わった。成敗の機微は、十分に鑑とすべきである。もし飛書をもって告諭すれば、攻めずして自ら降伏しよう。たとえ降伏しなくとも、逃げ散るであろう」。白曜はそこで書状をもってこれを諭すと、肥城は果たして潰走した。白曜は大衆に向かって範を見て言う、「この行軍は、卿を得たことにより、三斉を平定するのに不足はない」。

原文征南大將軍慕容白曜南征,範為左司馬。師次無鹽,劉彧戍主申纂憑城拒守。識者僉以攻具未周,不宜便進。範曰:「今輕軍遠襲,深入敵境,無宜淹留,久稽機候。且纂必以我軍來速,不去攻守,謂方城可憑,弱卒可恃。此天亡之時也。今若外潛威形,內整戎旅,密厲將士,出其非意,可一攻而克之。」白曜曰:「一日縱敵,數世之患,今若舒遲,民心固矣。司馬之策是也。」遂潛軍偽退,示以不攻。纂果不設備,於是即夜部分,旦便騰城,崇朝而克。白曜將盡以其人為軍實。範曰:「齊四履之地,世號『東秦』,不遠為經略,恐未可定也。今皇威始被,民未霑澤,連城有懷貳之將,比邑有拒守之夫。宜先信義,示之軌物,然後民心可懷,二州可定。」白曜曰:「此良策也。」乃免之。進次肥城,白曜將攻之。範曰:「肥城雖小,攻則淹日,得之無益軍聲,失之有損威勢。且見無鹽之卒,死者塗炭,成敗之機,足為鑒矣。若飛書告喻,可不攻自伏;縱其不降,亦當逃散。」白曜乃以書曉之,肥城果潰。白曜目範於眾曰:「此行也,得卿,三齊不足定矣。」

軍が升城に達すると、劉彧の太原太守房崇吉が母と妻を棄てて東へ逃走した。彧の青州刺史沈文秀は、その寧朔将軍張元孫を使者として帰順の書簡を奉り、軍の接応と援護を請うた。白曜は偏師を派遣してこれに赴かせようとした。範は言う、「故郷を思う情は、同じ徳を懐く者に通じる。文秀の家は江南にあり、青州の地には墳墓の累がない。数万の衆を擁し、精鋭の兵甲と堅固な城を有している。強ければ戦いを拒み、勢いが屈すれば逃走するであろう。軍が未だ迫っていないのに、朝夕の憂いもなく、一体何を畏れて、すでに援軍を求めているのか。その使者を見るに、言葉は煩わしく顔には愧色があり、目線は下を向き志は怯んでいる。贈り物は厚く言葉は甘く、我々を誘おうとしている。もし遠大な計略を立てなければ、軍勢を損なうことを恐れる。進んでも取る所なく、退けば強敵に迫られ、雄羊が垣根に角を突きかけるようなもので、角を損なうことになろう。歴城を守り、盤陽を平定し、梁鄒を落とし、楽陵を陥落させてから、車を並べ馬を連ね、旌旗を揚げて直進するに若くはない。どうして道端で壺に飲み物を捧げて明公を迎える者がいないことを憂えようか」。白曜は言う、「卿は前後して献策し、いずれも道理を失わなかった。しかし今日の計算は、私は取らない。なぜか。道固(房崇吉)は孤城にあり、ただ自ら守るのみである。盤陽の諸戍は、野戦に出る勢いではない。文秀は必ずや討ち滅ぼすことができ、その意は先ず誠意を示すことにある。天が与えるものを取らなければ、後悔しても及ばない」。範は言う、「浅見ながらも、これは虚言ではないと思う。歴城は食糧も兵も十分で、一朝一夕に陥とせるものではない。文秀は既に東陽を拠点として諸城の根本としている。多く軍を派遣すれば歴城の堅固さは成り立たず、少なく派遣すれば敵の心を恐れさせることはできない。もし文秀が再び叛き、門を閉ざして守りを固めれば、前には偏師があり、それに挫かれ、梁鄒の諸城が後を追撃し、文秀自身が大軍を率いて必ずや相乗して迫ってこよう。腹背に敵を受け、進退の途を失えば、たとえ韓信や白起がいても、恐らく全うする道理はない。願わくばさらに考えを巡らし、賊の計略の中に入らぬよう」。白曜はそこでやめた。そこで範を青州刺史に上表して新たな民を撫でしめた。後に爵を侯に進め、冠軍将軍を加え、尚書右丞に遷った。

原文軍達升城,劉彧太原太守房崇吉棄母妻東走。彧青州刺史沈文秀遣其寧朔將軍張元孫奉牋歸款,請軍接援。白曜將遣偏師赴之。範曰:「桑梓之戀,有懷同德。文秀家在江南,青土無墳栢之累。擁眾數萬,勁甲堅城,強則拒戰,勢屈則走。師未逼之,朝夕無患,竟何所畏,已求援軍?且觀其使,詞煩而顏愧,視下而志怯,幣厚言甘,誘我也。若不遠圖,懼虧軍勢。既進無所取,退逼強敵,羝羊觸蕃,羸角之謂。未若先守歷城,平盤陽,下梁鄒,克樂陵,然後方軌連鑣,揚旌直進,何患不壺漿路左以迎明公者哉!」白曜曰:「卿前後納策,皆不失衷,今日之算,吾所不取。何者?道固孤城,裁能自守;盤陽諸戍,勢不野戰;文秀必克殄,意在先誠。天與不取,後悔何及。」範曰:「短見猶謂不虛。歷城足食足兵,非一朝可拔。文秀既據東陽為諸城根本,多遣軍則歷城之固不立,少遣眾則無以懼敵心。脫文秀還叛,閉門拒守,偏師在前,為其所挫,梁鄒諸城追擊其後,文秀身率大軍,必相乘迫。腹背受敵,進退無途,雖有韓白,恐無全理。願更思審,勿入賊計中。」白曜乃止。遂表範為青州刺史以撫新民。後進爵為侯,加冠軍將軍,遷尚書右丞。

後に平東将軍・青州刺史に任ぜられ、范陽公を仮授された。範が以前に州の任を解かれて京に還った時、夜に陰毛が踝を払う夢を見た。ある日、これを語った。当時、斉の人で夢占いをする者に史武という者がおり、進み出て言う、「豪毛が斉の地で盛んになるでしょう。使君が東秦を臨撫され、その道が海岱に光り輝けば、必ずや再び全斉を牧し、再び営丘に禄を受けることになるでしょう」。範は笑って答えた、「私は卿のために必ずこの夢を験すであろう」。果たしてその言葉の通りとなった。この時、鎮将の元伊利が範が外賊と通じていると上表した。高祖(孝文帝)は範に詔して言う、「卿の身は功労の旧臣ではなく、位も重い班列にはない。それでいて超えて顕爵に昇り、方夏の任に居るのは、まさに勤勉で能く遠きに致すからである。外に特別な功績はないが、また時勢に背く過ちもない。ところが鎮将の伊利が妄りに奸計を生じ、卿が船を造り玉を市い、外賊と通じていると上表し、卿に罪を陥れようと図り、州の任を窺っている。有司が推問検証したところ、虚実は自ずから明らかとなり、有罪の者は今その罪を服した。卿は明らかに計略を立て、再び疑うことなかれ。もし卿が別の罪を犯せば、刑及び鞭に処すところであるが、今は刑を恕し鞭を罷め、ただ五十の罰金とする。卿はよくこれに従い、辺境を安んじ纏め、朕の意に称えよ」。還朝し、六十二歳で、京師に卒した。諡して穆といった。範に五子あり、道元は『酷吏伝』にある。

原文後除平東將軍、青州刺史,假范陽公。範前解州還京也,夜夢陰毛拂踝。他日說之。時齊人有占夢者曰史武,進云:「豪盛於齊下矣。使君臨撫東秦,道光海岱,必當重牧全齊,再祿營丘矣。」範笑而答曰:「吾將為卿必驗此夢。」果如其言。是時,鎮將元伊利表範與外賊交通。高祖詔範曰:「卿身非功舊,位無重班,所以超遷顯爵,任居方夏者,正以勤能致遠。雖外無殊效,亦未有負時之愆。而鎮將伊利妄生姦撓,表卿造船市玉與外賊交通,規陷卿罪,窺覦州任。有司推驗,虛實自顯,有罪者今伏其辜矣。卿其明為算略,勿復懷疑。待卿別犯,處刑及鞭,今恕刑罷鞭,止罸五十。卿宜克循,綏輯邊服,稱朕意也。」還朝,年六十二,卒於京師,諡曰穆。範五子,道元在〈酷吏傳〉。

道元の第四弟の道慎は、字を善季という。歴史や伝記に広く通じ、幹略があった。奉朝請より始まり、尚書二千石郎中に遷り、威遠将軍を加えられ、漢川行臺となり、降伏する者を迎え入れた。功により員外常侍に任ぜられ、郎中を領した。輔国将軍・驍騎将軍に転じた。出て正平太守となり、治績に能吏の名声があった。長楽相に遷った。正光五年に卒し、三十八歳であった。後将軍・平州刺史を追贈された。

原文道元第四弟道慎,字善季。涉歷史傳,有幹略。自奉朝請,遷尚書二千石郎中,加威遠將軍,為漢川行臺,迎接降款。以功除員外常侍,領郎中。轉輔國將軍、驍騎將軍。出為正平太守,治有能名。遷長樂相。正光五年卒,年三十八。贈後將軍、平州刺史。

子の中は、字を伯偉という。武定初年、司徒刑獄参軍となった。

原文子中,字伯偉。武定初,司徒刑獄參軍。

道慎の弟の約は、字を善礼という。奉朝請より起家し、再遷して冠軍将軍・司徒諮議参軍となった。質朴で鈍重であり、琴と書を愛好した。性来、人に請うことを多く作り、栄利を求めて干謁を好み、物乞いを止めず、多く人に笑い弄ばれた。世に困窮し、飢寒を免れなかった。晩年に東萊・魯郡の二郡太守を歴任し、政治は清静で、吏民はこれを安んじた。六十三歳、武定七年に卒した。

原文道慎弟約,字善禮。起家奉朝請,再遷冠軍將軍、司徒諮議參軍。樸質遲鈍,頗愛琴書。性多造請,好以榮利干謁,乞丐不已,多為人所笑弄。坎壈於世,不免飢寒。晚歷東萊、魯郡二郡太守,為政清靜,吏民安之。年六十三,武定七年卒。

範の弟の神虎は、尚書左民郎中であった。

原文範弟神虎,尚書左民郎中。

神虎の弟の夔。子の惲は、字を幼和といい、学問を好み、文才があり、特に吏務の才幹に長けていた。正光年中、刺史の裴延儁に用いられて主簿となり、学校を修復興起させた。また秀才に挙げられ、射策で高第となり、奉朝請となった。後に延儁が討胡行臺尚書となると、行臺郎に引き立てた。招撫に功績があったと称され、尚書外兵郎に任ぜられ、引き続き行臺郎を務めた。延儁が解任されて還ると、行臺の長孫稚がまた行臺郎に引き立て、征虜将軍を加えた。惲は武用も兼ね備え、常に功名を自ら任じ、稚に計略を進言する度に、多く採用された。功により魏昌県開国子に叙され、邑三百戸を賜った。惲は軍中にあって、自身の官爵を減らして父に贈官を請うことを上奏し、詔して夔に征虜将軍・安州刺史を追贈した。惲は後に唐州刺史崔元珍と共に平陽を固守した。武泰年中、尒朱栄が兵を挙げて洛陽に向かうと、惲と元珍はその命令に従わず、栄の行臺郎中樊子鵠に攻められ、城は陥落して害され、時に三十六歳であった。世の人は皆これを痛惜した。その著作した文章は、広く世に行われた。慕容氏の書を撰したが、完成しなかった。

原文神虎弟夔。子惲,字幼和,好學,有文才,尤長吏幹。正光中,刺史裴延儁用為主簿,令其修起學校。又舉秀才,射策高第,為奉朝請。後延儁為討胡行臺尚書,引為行臺郎。以招撫有稱,除尚書外兵郎,仍行臺郎。及延儁解還,行臺長孫稚又引為行臺郎,加征虜將軍。惲頗兼武用,常以功名自許,每進計於稚,多見納用。以功賞魏昌縣開國子,邑三百戶。惲在軍,啟求減身官爵為父請贈,詔贈夔征虜將軍、安州刺史。惲後與唐州刺史崔元珍固守平陽。武泰中,尒朱榮稱兵赴洛,惲與元珍不從其命,為榮行臺郎中樊子鵠所攻,城陷被害,時年三十六,世咸痛惜之。所作文章,頗行於世。撰慕容氏書,不成。

子の懷則は、武定末年、司空長流参軍となった。

原文子懷則,武定末,司空長流參軍。

夔の弟の神期は、中書博士であった。

原文夔弟神期,中書博士。

神期の弟の顯度は、司州の秀才であり、尚書庫部郎であった。

原文神期弟顯度,司州秀才、尚書庫部郎。

韓秀

原文韓秀

韓秀は、字を白虎といい、昌黎の人である。祖父の宰は、慕容儁の謁者僕射であった。父の昞は、皇始の初めに帰国し、宣威将軍・騎都尉に任ぜられた。韓秀は吏職を歴任し、次第に尚書郎に昇進し、遂昌子の爵位を賜り、広武将軍に任ぜられた。高宗は韓秀が聡明で弁舌明晰であり、喉舌(機密の任)の才があると称賛し、ついに王命の出納を命じ、併せて機密を掌らせた。行幸や遊猟の際には、左右に随侍した。顕祖が即位すると、給事中に転じ、征南将軍慕容白曜の軍事に参与した。

原文韓秀,字白虎,昌黎人也。祖宰,慕容儁謁者僕射。父昞,皇始初歸國,拜宣威將軍、騎都尉。秀歷吏任,稍遷尚書郎,賜爵遂昌子,拜廣武將軍。高宗稱秀聰敏清辨,才任喉舌,遂命出納王言,并掌機密。行幸遊獵,隨侍左右。顯祖踐阼,轉給事中,參征南慕容白曜軍事。

延興年間、尚書が上奏して、敦煌の一鎮は西北の遠隔地に介在し、寇賊の通路の要衝であるため、堅固でないことを憂慮し、涼州に移転させようとした。百官が会議して、皆これを妥当とした。韓秀のみが不便であると主張し、言うには、「これは国を縮小する事態であり、国土を開拓する方策には適さない。愚考するに、敦煌の設置は、その由来既に久しい。強敵と土地を接しているとはいえ、兵士・民衆は平素より習熟しており、たとえ奸賊が窃発しても害をなすことはできず、常例通りに戍を置けば、自らを保全するに足る。進んで北狄の偵察路を断ち切り、退いて西夷の窺伺路を塞ぐ。もし姑臧に移転すれば、人々が異心を抱くことを憂慮する。あるいは重い移転を嫌って留まることを貪り、心情として移転を望まず、もしも寇賊を引き入れて内侵させれば、国の患いとなることは深い。また、敦煌は涼州から千余里離れており、遠きを捨てて近きに就けば、遠方の防備に欠陥が生じる。一旦これを廃止すれば、これは戎狄の野心を開くこととなり、夷狄が互いに結託し、往来し合うことになろう。恐らくは醜悪な徒党が協力し合い、涼土および近隣の諸戍を侵掠すれば、関右は荒廃し騒擾し、烽火の警報は止まず、辺境の役務は頻繁に起こり、艱難は甚だしくなるであろう」と。そこで韓秀の議に従った。太和の初め、内侍長に遷った。後に平東将軍・青州刺史となり、漁陽公を仮授された。州において数年を経て、卒去した。子の務が爵位を襲った。

原文延興中,尚書奏以敦煌一鎮,介遠西北,寇賊路衝,慮或不固,欲移就涼州。羣官會議,僉以為然。秀獨謂非便,曰:「此蹙國之事,非闢土之宜。愚謂敦煌之立,其來已久。雖土隣強寇,而兵人素習,縱有姦竊,不能為害,循常置戍,足以自全。進斷北狄之覘途,退塞西夷之闚路。若徙就姑臧,慮人懷異意。或貪留重遷,情不願徙,脫引寇內侵,深為國患。且敦煌去涼州及千餘里,捨遠就近,遙防有闕。一旦廢罷,是啟戎心,則夷狄交構,互相來往。恐醜徒協契,侵竊涼土及近諸戍,則關右荒擾,烽警不息,邊役煩興,艱難方甚。」乃從秀議。太和初,遷內侍長。後為平東將軍、青州刺史,假漁陽公。在州數年,卒。子務襲爵。

務は、字を道世といい、性質は端正で謹厳であり、治世の才幹があった。初め中散となり、次第に太子翊軍校尉に遷った。時に高祖が南征し、行梁州刺史楊霊珍が謀叛を企てた。務を統軍とし、都督李崇の節度を受けて楊霊珍を討伐させた。戦功があり、後軍長史を授けられ、行在所に召し出された。帰還後、長水校尉に遷った。景明の初め、節を仮授され肆州の事務を行い、左中郎将・寧朔将軍に転じ、常山郡の試守となった。また征蛮都督李崇の司馬となった。李崇が群蛮を掃討し、近畿の患いを除いたのは、務の力によるものがあった。後に鎮北府司馬を拝命した。初め常山郡を試守した。府が解かれると、再び平北長史となった。務はかなり収賄があり、御史中尉李平に弾劾され、廷尉に付されたが、赦令に会って免罪となった。後に龍驤将軍・郢州刺史を拝命した。務は七宝の牀と象牙の席を献上した。詔して曰く、「晋の武帝が雉頭の裘を焼いたことを、朕は常に嘉している。今、務の献上するものもこれと同類である。奇麗な物品は、風教・質素に背く。その家人に付すべし」と。辺境の者李旻・馬道進らが、蕭衍の黄坂戍主を偽って殺害し、戸を率いて降伏すると詐称した。務はこれを信じ、千余りの兵を派遣して迎接させた。戸は結局来ず、しかも賊を撃破したと偽って上表したため、官を免ぜられる罪に坐した。久しくして、冠軍将軍・太中大夫を拝し、左将軍の号を進めた。神龜の初めに卒去した。

原文務,字道世,性端謹,有治幹。初為中散,稍遷太子翊軍校尉。時高祖南征,行梁州刺史楊靈珍謀叛。以務為統軍,受都督李崇節度以討靈珍。有戰功,授後軍長史,徵赴行在所。還,遷長水校尉。景明初,假節行肆州事,轉左中郎將、寧朔將軍,試守常山郡。又為征蠻都督李崇司馬。崇揃蕩羣蠻,除近畿之患,務有力焉。後除鎮北府司馬。初試守常山。府解,復為平北長史。務頗有受納,為御史中尉李平所劾,付廷尉,會赦免。後除龍驤將軍、郢州刺史。務獻七寶牀、象牙席。詔曰:「晉武帝焚雉頭裘,朕常嘉之,今務所獻亦此之流也。奇麗之物,有乖風素,可付其家人。」邊人李旻、馬道進等許殺蕭衍黃坂戍主,率戶來降。務信之,遣兵千餘人迎接。戶既不至,而詐表破賊,坐以免官。久之,拜冠軍將軍、太中大夫,進號左將軍。神龜初卒。

堯暄

原文堯暄

堯暄は、字を辟邪といい、上党長子の人である。本名は鍾葵といったが、後に賜って暄と改めた。祖父の僧頼は、太祖が中山を平定した際、趙郡の呂舍と共に真っ先に帰国した。

原文堯暄,字辟邪,上黨長子人也。本名鍾葵,後賜為暄。祖僧賴,太祖平中山,與趙郡呂舍首來歸國。

暄は聡明で理解が早く、容貌が美しく、千人軍将・東宮吏となった。高宗はその恭謹さを認め、中散に抜擢した。斉州に奉使し、平原鎮将及び長史の貪暴な事跡を検査し、情実を推し究め道理を診断して、皆その実態を得た。太尉中給事・兼北部曹事を拝命し、後に南部に転じた。太和年間、南部尚書に遷った。当時、三長制が初めて立てられ、暄は東道十三州使となり、戸籍を改めて比較校訂した。独り乗りの車一乗と厩舎の馬四匹を賜った。時に蕭賾がその将陳顕達を遣わして辺境を侵犯したため、暄を使持節・仮中護軍・都督南征諸軍事・平陽公とした。軍は許昌に駐屯したが、陳顕達が遁走したため、暄は軍を返した。暄は前後して征戦に従い、また出使して検査すること三十回余り、いずれも己を克し公に奉じた称賛があった。衣服二十具・綵絹十匹・細絹千余段・奴婢十口を賞賜され、平陽伯の爵位を賜った。百官が改めて設置されると、太僕卿を授けられた。車駕が南征する際、安南将軍を加えられた。大司農卿に転じた。太和十九年、平城において卒去した。高祖はそのために哀悼の意を表した。安北将軍・相州刺史を追贈し、葬儀のための帛七百匹を賜った。

原文暄聰了,美容貌,為千人軍將、東宮吏。高宗以其恭謹,擢為中散。奉使齊州,檢平原鎮將及長史貪暴事,推情診理,皆得其實。除太尉中給事、兼北部曹事,後轉南部。太和中,遷南部尚書。于時始立三長,暄為東道十三州使,更比戶籍。賜獨車一乘,廐馬四匹。時蕭賾遣其將陳顯達寇邊,以暄為使持節、假中護軍、都督南征諸軍事、平陽公。軍次許昌,會陳顯達遁走,暄乃班師。暄前後從征及出使檢察三十餘許度,皆有克己奉公之稱。賞賜衣服二十具、綵絹十匹、細絹千餘段、奴婢十口,賜爵平陽伯。及改置百官,授太僕卿。車駕南征,加安南將軍。轉大司農卿。太和十九年,卒於平城。高祖為之舉哀。贈安北將軍、相州刺史,賻帛七百匹。

初め、暄が徐州に使した際、州城の楼観を見て、その華美で盛んなことを嫌い、しばしばこれを破却撤去させた。このため後には一層損なわれ荒廃した。高祖が彭城に行幸した際、これを聞いて言うには、「暄は今なお追って斬るに値する」と。

原文初,暄使徐州,見州城樓觀,嫌其華盛,乃令往往毀撤,由是後更損落。及高祖幸彭城,聞之曰:「暄猶可追斬。」

暄の長子の洪は、爵位を襲った。鎮北府録事参軍であった。

原文暄長子洪,襲爵。鎮北府錄事參軍。

子の桀は、字を永寿という。元象年間、開府儀同三司・楽城県開国公となった。

原文子桀,字永壽。元象中,開府儀同三司、樂城縣開國公。

洪の弟の遵は、伏波将軍・河州冠軍府長史・臨洮太守であった。卒去し、龍驤将軍を追贈され、諡を思といった。

原文洪弟遵,伏波將軍、河州冠軍府長史、臨洮太守。卒,贈龍驤將軍,諡曰思。

遵の弟の栄は、員外散騎侍郎であった。

原文遵弟榮,員外散騎侍郎。

子の雄は、字を休武という。元象年間、儀同三司・豫州刺史・城平県開国公となった。

原文子雄,字休武。元象中,儀同三司、豫州刺史、城平縣開國公。

雄の弟の奮は、字を彦挙という。興和年間、驃騎将軍・潁州刺史となった。

原文雄弟奮,字彥舉。興和中,驃騎將軍、潁州刺史。

奮の弟の難宗は、武定年間、征西将軍・南岐州刺史・征羌県開国伯となった。

原文奮弟難宗,武定中,征西將軍、南岐州刺史、征羌縣開國伯。

呂舍は帰国した後、京師に至り、田宅を給賜された。

原文呂舍既歸國,從至京師,給賜田宅。

子の方生は、機識明辯にして、主書郎の任に在りて卒す。建武将軍・定州刺史・高邑子を贈られ、諡して敬と曰う。

原文子方生,機識明辯,卒於主書郎。贈建武將軍、定州刺史、高邑子,諡曰敬。

子の受恩は、侍御中散となり、宜官曹を典し、累遷して外都曹令に至り、転じて北部給事・秦州刺史となる。官にて卒す。

原文子受恩,為侍御中散,典宜官曹,累遷外都曹令,轉北部給事、秦州刺史。卒於官。