魏書

卷41 源賀

卷41 源賀

源賀

原文源賀

源賀は、自ら河西王禿髪傉檀の子であると称した。傉檀が乞伏熾磐に滅ぼされると、賀は楽都より来奔した。賀は容貌魁偉にして、風儀に優れていた。世祖(太武帝)はかねてよりその名を聞いており、会見するとその機転と弁舌を器として、西平侯の爵を賜い、龍驤将軍を加えた。賀に謂って曰く、「卿と朕とは源を同じくするが、事に因りて姓を分つ。今より源氏と為すべし」と。叛胡の白龍を撃つに従い、また吐京胡を討ち、いずれも先登して陣を陥れた。平西将軍の号を進めた。

原文源賀,自署河西王禿髮傉檀之子也。傉檀為乞伏熾磐所滅,賀自樂都來奔。賀偉容貌,善風儀。世祖素聞其名,及見,器其機辯,賜爵西平侯,加龍驤將軍。謂賀曰:「卿與朕源同,因事分姓,今可為源氏。」從擊叛胡白龍,又討吐京胡,皆先登陷陳。進號平西將軍。

世祖が涼州を征するに当たり、賀を郷導と為した。詔して攻戦の計を問うと、賀対えて曰く、「姑臧城外に四部の鮮卑あり、各々これが援と為る。然れども皆これ臣が祖父の旧民なり。臣願わくは軍前において国の威信を宣べ、その禍福を示せば、必ず相率いて帰降せん。外援既に服せば、然る後にその孤城を攻め、これを抜くこと反掌の如し」と。世祖曰く、「善し」と。ここにおいて賀を遣わし精騎を率い諸部を歴て招慰せしめ、三万余落を下し、雑畜十余万頭を獲た。姑臧を囲むに及び、これにより外慮無く、故に専力してこれを攻めることを得た。涼州平らぎ、征西将軍に遷り、西平公の号を進めた。また蠕蠕征伐に従い、五城・吐京胡を撃ち、蓋吳諸賊を討ち、いずれも功有り。散騎常侍に拝された。車駕に従い江に臨み、前鋒大将と為る。賀は人となり雄果にして、強寇に遇う毎に、輒ち自ら奮撃した。世祖これを戒めて曰く、「兵は凶、戦は危し、軽々しく犯すべからず。卿は籌を運らし処分すべく、身力を恃むことなかれ」と。賀の本名は破羌であったが、この役に際し、世祖曰く、「人の名を立つるは、その実を得るに宜しく、何ぞ濫りにせん」と。賀の名を賜うた。殿中尚書に拝された。

原文世祖征涼州,以賀為鄉導。詔問攻戰之計,賀對曰:「姑臧城外有四部鮮卑,各為之援。然皆是臣祖父舊民,臣願軍前宣國威信,示其福禍,必相率歸降。外援既服,然後攻其孤城,拔之如反掌耳。」世祖曰:「善。」於是遣賀率精騎歷諸部招慰,下三萬餘落,獲雜畜十餘萬頭。及圍姑臧,由是無外慮,故得專力攻之。涼州平,遷征西將軍,進號西平公。又從征蠕蠕,擊五城、吐京胡,討蓋吳諸賊,皆有功。拜散騎常侍。從駕臨江,為前鋒大將。賀為人雄果,每遇強寇,輒自奮擊。世祖戒之曰:「兵凶戰危,不宜輕犯,卿可運籌處分,勿恃身力也。」賀本名破羌,是役也,世祖曰:「人之立名,宜其得實,何可濫也。」賜名賀焉。拜殿中尚書。

南安王余が宗愛に殺害された時、賀は禁兵を部勒し、内外を静かに遏え、南部尚書陸麗と決議して策を定め、高宗(文成帝)を翼戴した。麗と劉尼をして苑中に馳せ詣らせ、高宗を奉迎せしめ、賀は禁中を守り内応と為った。俄かに麗が高宗を抱いて単騎而至ると、賀乃ち門を開いた。高宗即位し、社稷大いに安んずるに、賀の力有り。征北将軍に転じ、給事中を加えられた。定策の勲により、西平王に爵を進めた。高宗即位し、百僚に班賜するに当たり、賀に謂って曰く、「朕大いに善人を賚う。卿は其の意のままにこれを取れ、謙退することなかれ」と。賀は辞したが、固くして取らしむると、賀は唯だ戎馬一匹を取るのみであった。

原文南安王余為宗愛所殺也,賀部勒禁兵,靜遏外內,與南部尚書陸麗決議定策,翼戴高宗。令麗與劉尼馳詣苑中,奉迎高宗,賀守禁中為之內應。俄而麗抱高宗單騎而至,賀乃開門。高宗即位,社稷大安,賀有力焉。轉征北將軍,加給事中。以定策之勳,進爵西平王。高宗即位,班賜百僚,謂賀曰:「朕大賚善人,卿其任意取之,勿謙退也。」賀辭,固使取之,賀唯取戎馬一匹而已。

この時、断獄多く濫り有り、賀上書して曰く、「律を案ずるに、謀反の家は、その子孫たとえ他族に養われたるも、追い還して就戮す。是れ罪人の類を絶ち、大逆の辜を彰わす所以なり。劫賊として誅すべき者は、兄弟子姪遠くに在り、道関津に隔てられば、皆な坐せず。窃かに惟うに、先朝律を制せるの意は、同じく謀らず、類を絶つ罪に非ざるを以て、故に特ち不死の詔を垂れたり。若し年十三以下にして、家人首悪たりとも、計謀及びがたきは、愚以為く、その命を原し、県官に没入すべし」と。高宗これを納れた。出でて征南将軍・冀州刺史と為り、隴西王に改封された。賀上書して曰く、「臣聞く、人の宝とする所は、生を全うするより宝なるは莫し。徳の厚き者は、死を宥うより厚きは莫し、と。然れども死を犯すの罪は、尽く恕し難く、その軽重を権え、矜恤すべき有り。今勁寇は北に遊魂し、狡賊は南に険を負う。その疆埸に在りては、猶お防戍を須う。臣愚以為く、大逆・赤手人を殺すの罪に非ざる自らは、その贓に坐し及び盗と過誤の愆、死に入るべき者は、皆なその命を原し、辺境を謫守せしむべし。是れ則ち已に断たるるの体、更に全生の恩を受く。徭役の家、漸く休息の恵を蒙らん。刑措の化、庶幾くは茲に在らん。虞書に曰く『流して五刑を宥う』と。これ其の義なり。臣恩を受くること深重にして、仰いで答うるに無く、将に闕庭に違わんとし、予め係恋を増す。敢えて瞽言を上す。唯だ裁察を加えられんことを」と。高宗これを納れた。已後に死に入る者は、皆な死を恕して辺に徙せしめられた。久しくして、高宗群臣に謂って曰く、「源賀朕を勧めて諸の死刑を宥い、北番諸戍に徙して充てしむ。爾来今に至るまで、一歳に活かす所殊に少なからず。生を済うるの理既に多く、辺戍の兵益有り。卿等朕に事え、何の善意を致すや?苟くも人々賀の如くならば、朕天下を治むる復た何をか憂えん。誠言を顧み憶うれば、利実に広し」と。群臣皆な曰く、「忠臣に非ざればこの計を進むること能わず、聖明に非ざればこの言を納るることを能わず」と。

原文是時,斷獄多濫,賀上書曰:「案律:謀反之家,其子孫雖養他族,追還就戮,所以絕罪人之類,彰大逆之辜;其為劫賊應誅者,兄弟子姪在遠,道隔關津,皆不坐。竊惟先朝制律之意,以不同謀,非絕類之罪,故特垂不死之詔。若年十三已下,家人首惡,計謀所不及,愚以為可原其命,沒入縣官。」高宗納之。出為征南將軍、冀州刺史,改封隴西王,賀上書曰:「臣聞:人之所寶,莫寶於生全;德之厚者,莫厚於宥死。然犯死之罪,難以盡恕,權其輕重,有可矜恤。今勁寇遊魂於北,狡賊負險於南,其在疆埸,猶須防戍。臣愚以為自非大逆、赤手殺人之罪,其坐贓及盜與過誤之愆應入死者,皆可原命,謫守邊境。是則已斷之體,更受全生之恩;徭役之家,漸蒙休息之惠。刑措之化,庶幾在茲。虞書曰『流宥五刑』,此其義也。臣受恩深重,無以仰答,將違闕庭,豫增係戀,敢上瞽言,唯加裁察。」高宗納之。已後入死者,皆恕死徙邊。久之,高宗謂羣臣曰:「源賀勸朕宥諸死刑,徙充北番諸戍,自爾至今,一歲所活殊為不少,生濟之理既多,邊戍之兵有益。卿等事朕,致何善意也?苟人人如賀,朕治天下復何憂哉!顧憶誠言,利實廣矣。」羣臣咸曰:「非忠臣不能進此計,非聖明不能納此言。」

賀の州に臨むや、獄を情を以て鞫し、徭役を簡省した。武邑郡の姦人石華、沙門道可が賀と謀反すと告ぐ。有司以て聞す。高宗群臣に謂って曰く、「賀誠心国に事えり。朕卿等の為にこれを保つ。此れ無きこと明らかなり」と。乃ち精しく訊検を加うると、華果たしく誣を引く。ここにおいて使者を遣わし詔して賀に曰く、「卿忠誠款至を以て、先朝より著しく、丹青の潔きを以て蒼蠅の汚れを受く。朕登時に研検し、既に極法を加えたり。故に意を宣せしむ。其れ善く綏め所莅を、囂謗の言を以て致すに慮を損うること無かれ」と。賀上書して謝す。書奏す。高宗左右を顧みて曰く、「賀の忠誠を以てすら、尚お其の誣に致す。是の如からざる者は、慎むこと無からんや」と。時に殿最を考うるに、賀の治め第一と為り、衣馬器物を賜い、天下に班宣す。賀上表して代わることを請う。朝議賀民情を得たりとし、許さず。州に在ること七年、乃ち徴されて太尉に拝された。

原文賀之臨州,鞫獄以情,徭役簡省。武邑郡姦人石華告沙門道可與賀謀反,有司以聞。高宗謂羣臣曰:「賀誠心事國,朕為卿等保之,無此明矣。」乃精加訊檢,華果引誣。於是遣使者詔賀曰:「卿以忠誠款至,著自先朝,以丹青之潔而受蒼蠅之汙。朕登時研檢,已加極法,故遣宣意。其善綏所莅,勿以囂謗之言致損慮也。」賀上書謝,書奏,高宗顧謂左右曰:「以賀之忠誠,尚致其誣,不若是者,可無慎乎!」時考殿最,賀治為第一,賜衣馬器物,班宣天下。賀上表請代,朝議以賀得民情,不許。在州七年,乃徵拜太尉。

蠕蠕辺を寇す。賀車駕に従い追討し、これを破る。顕祖(献文帝)将に位を京兆王子推に伝えんとす。時に賀諸軍を都督し漠南に屯す。乃ち伝駅を馳せて賀を徴す。賀既に至るや、乃ち公卿をしてこれを議せしむ。賀正色固執して不可とす。即ち賀に詔して節を持ち皇帝の璽綬を奉じて高祖(孝文帝)に授けしむ。

原文蠕蠕寇邊,賀從駕追討,破之。顯祖將傳位于京兆王子推,時賀都督諸軍屯漠南,乃馳傳徵賀。賀既至,乃命公卿議之。賀正色固執不可。即詔賀持節奉皇帝璽綬以授高祖。

この歳、河西の敕勒叛く。賀を遣わし衆を率いてこれを討たしむ。二千余落を降し、倍道兼行して賊党の郁朱于等を枹罕に追い至り、大いにこれを破り、首級五千余を斬り、男女万余口・雑畜三万余頭を虜う。復た統万・高平・上邽の三鎮の叛く敕勒を金城に追い至り、首級三千を斬る。賀古今の兵法及び先儒耆旧の説に依り、略々至要を採りて、十二陳図を為し以て上る。顕祖これ覧めて嘉す。

原文是歲,河西敕勒叛,遣賀率眾討之,降二千餘落,倍道兼行,追賊黨郁朱于等至枹罕,大破之,斬首五千餘級,虜男女萬餘口、雜畜三萬餘頭。復追統萬、高平、上邽三鎮叛敕勒至于金城,斬首三千級。賀依古今兵法及先儒耆舊之說,略採至要,為十二陳圖以上之。顯祖覽而嘉焉。

賀年老を以て位を辞す。詔して許さず。又詔して三道の諸軍を都督し、漠南に屯せしむ。この時、毎歳秋冬、軍を三道並びに出だし、以て北寇に備え、春中に至りて乃ち師を班す。賀は京都を労役するを以て、又禦辺の長計に非ずとし、乃ち上言して曰く、「請う諸州鎮の武健なる者三万人を募り、その徭賦を復し、厚く賑恤を加え、三部に分つ。二鎮の間に城を築き、城に万人を置き、強弩十二床、武衛三百乗を給す。弩一床に牛六頭を給し、武衛一乗に牛二頭を給す。馬槍及び諸器械を多く造り、武略の大将二人をして以てこれを鎮撫せしむ。冬は則ち武を講じ、春は則ち種殖す。並びに戍り並びに耕せば、則ち兵未だ労せずして盈畜有らん。又た白道の南三処に倉を立て、近州鎮の租粟を運び以てこれを充て、食を足し兵を足し、以て不虞に備うれば、宜しきに便なり。歳常に衆を挙げ、連ねて京師を動かし、朝庭に恒に北顧の慮有らしむべからず」と。事寝て報えず。

原文賀以年老辭位,詔不許。又詔都督三道諸軍,屯于漠南。是時,每歲秋冬,遣軍三道並出,以備北寇,至春中乃班師。賀以勞役京都,又非禦邊長計,乃上言:「請募諸州鎮有武健者三萬人,復其徭賦,厚加賑恤,分為三部。二鎮之間築城,城置萬人,給強弩十二床,武衞三百乘。弩一床,給牛六頭;武衞一乘,給牛二頭。多造馬槍及諸器械,使武略大將二人以鎮撫之。冬則講武,春則種殖,並戍並耕,則兵未勞而有盈畜矣。又於白道南三處立倉,運近州鎮租粟以充之,足食足兵,以備不虞,於宜為便。不可歲常舉眾,連動京師,令朝庭恒有北顧之慮也。」事寢不報。

また上書して病篤きを称し、骸骨を乞うこと再三に及び、ようやくこれを許された。朝廷に大議あるときは皆そのもとに赴いて諮問し、また衣薬珍羞を給された。太和元年二月、温湯にて療養するに際し、高祖・文明太后は使者を遣わしてたびたび消息を問わせ、太医に病状を診させた。病篤く、京師に還る。賀は遺令を下し諸子を戒めて曰く、「我は近頃老病を以て事を辞したが、天慈の恩を降すことを悟らず、爵位が汝らに及んだ。汝らは驕り吝かず、荒怠せず、奢り越えず、嫉妬せざれ。疑わしきは問うことを思い、言は審らかにすることを思い、行いは恭しくすることを思い、服は度を思え。悪を遏ぎ善を揚げ、賢に親しみ佞を遠ざけよ。目に観るは必ず真を、耳に属するは必ず正を。誠を尽くして勤めて君に事え、清く約して己を行え。我が終わりの後、葬るに時服と単櫝とを以てし、孝心を申すに足れり。芻霊明器は一切用いるな」と。三年秋に薨じ、年七十三。侍中・太尉・隴西王の印綬を追贈され、諡して宣と曰う。雑綵五百匹を賻し、轀輬車及び命服・温明秘器を賜い、金陵に陪葬された。

原文又上書稱病篤,乞骸骨,至于再三,乃許之。朝有大議皆就詢訪,又給衣藥珍羞。太和元年二月,療疾於溫湯,高祖、文明太后遣使者屢問消息,太醫視疾。患篤,還京師。賀乃遺令敕諸子曰:「吾頃以老患辭事,不悟天慈降恩,爵逮於汝。汝其毋傲吝,毋荒怠,毋奢越,毋嫉妬;疑思問,言思審,行思恭,服思度;遏惡揚善,親賢遠佞;目觀必真,耳屬必正;誠勤以事君,清約以行己。吾終之後,所葬時服單櫝,足申孝心,芻靈明器,一無用也。」三年秋薨,年七十三。贈侍中、太尉、隴西王印綬,諡曰宣,賻雜綵五百匹,賜轀輬車及命服、溫明祕器,陪葬于金陵。

長子の延は、性質謹厚にして学を好む。初め功臣の子として侍御中散に拝され、武城子の爵を賜い、西冶都將となった。卒し、涼州刺史・広武侯を追贈され、諡して簡と曰う。子の鱗が襲封した。

原文長子延,性謹厚好學。初以功臣子拜侍御中散,賜爵武城子,西冶都將。卒,贈涼州刺史、廣武侯,諡曰簡。子鱗襲。

源懷

原文源懷

延の弟の思禮は、後に名を懷と賜り、謙恭寛雅にして大度あり。高宗の末、侍御中散となった。父の賀が老いを辞すに当たり、詔して懷に父の爵を受けさせ、征南將軍に拝した。まもなく持節・諸軍を督し、漠南に屯す。還りて殿中尚書に除され、出でて長安鎮将・雍州刺史となる。清儉にして恵政あり、撫恤に善く、劫盗は止み、流民は皆相率いて来還した。歳余して、再び殿中尚書に拝され、侍中を加えられ、都曹事に参ず。また諸軍を督して蠕蠕を征し、六道の大将皆その節度を受けた。尚書令に遷り、律令の議に参ず。後に例に従い公に降格される。司州刺史に除される。駕に従い南征し、衞大將軍を加えられ、中軍事を領す。母憂のため職を去り、帛三百匹・穀千石を賜う。十九年、征北大將軍・夏州刺史に除され、都督雍岐東秦諸軍事・征西大將軍・雍州刺史に転ず。

原文延弟思禮,後賜名懷,謙恭寬雅,有大度。高宗末,為侍御中散。父賀辭老,詔懷受父爵,拜征南將軍。尋為持節、督諸軍,屯於漠南。還,除殿中尚書,出為長安鎮將、雍州刺史。清儉有惠政,善於撫恤,劫盜息止,流民皆相率來還。歲餘,復拜殿中尚書,加侍中,參都曹事。又督諸軍征蠕蠕,六道大將咸受節度。遷尚書令,參議律令。後例降為公。除司州刺史。從駕南征,加衞大將軍,領中軍事。以母憂去職,賜帛三百匹、穀千石。十九年,除征北大將軍、夏州刺史,轉都督雍岐東秦諸軍事、征西大將軍、雍州刺史。

景明二年、尚書左僕射に徴され、特進を加えられる。時に詔あり、姦吏の犯罪は、毎度多く逃遁し、過ちあって乃ち出で、皆な釈然とす。今より以後、犯罪は軽重を問わず、隠れ竄る者は悉く遠流に処す。もし永く避けて出でざれば、兄弟を代わりに徙す、と。懷は乃ち奏して曰く、「謹んで条制を按ずるに、逃吏は赦限に在らず。窃かに惟うに聖朝の恩は、事は前の宥しに異なり、諸の流徙の路にある者尚お旋反を蒙る。況や未だ発せずして仍って辺戍に遣わさるる者あらんや。按ずるに守宰の犯罪し、逃走する者衆し。禄潤既に優なり、尚おこの失いあり。恩宥を蒙り、卒然として還るを得る。今独り此の等を苦しむは、恐らく均一の法に非ざらん。臣の管執する如くは、これを免ずべしと謂う」と。書奏すれども、門下は成式既に班せられたるを以て、駁奏して許さず。懷は重ねて奏して曰く、「臣以為うに、法は経通を貴び、治は簡要を尚ぶ。刑憲の設けは、以て罪人を網羅する所以なり。苟も理の備わる所は、繁典に在らず。行うこと通ず可きは、豈に峻制を容れんや。此れ乃ち古今の達政、救世の恒規なり。伏して条制を尋ぬるに、勲品已下、罪発して逃亡するは、恩に遇うも宥さず、仍って妻子を流す。姦途を抑絶せんと欲すと雖も、通式たるに匪ず。謹んで事条を按ずるに、官を侵し法を敗るは、専ら流外に拠る。豈に九品已上の人、皆な貞白ならんや。其の諸州の守宰、職任清流なるも、貪濁に至る者有り、事発して逃竄し、恩に遇って罪を免かる。勲品已下、独り斯の例に乖く。此くの如くすれば、則ち上流を寛縱し、下吏に法切なり。物を育するに差有り、恵罸等しからず。又謀逆滔天も、軽く恩を尚お免かる。吏微罪を犯すは、独り赦を蒙らず。大宥の経を通ぜず、生を開くの路を壅せしむ。進んでは古典に違ひ、退きては今律に乖く。輒ち愚見を率ゐて、停むべしと為す」と。書奏す。世宗これを納れたまう。

原文景明二年,徵為尚書左僕射,加特進。時有詔,以姦吏犯罪,每多逃遁,因眚乃出,並皆釋然。自今已後,犯罪不問輕重,而藏竄者悉遠流。若永避不出,兄弟代徙。懷乃奏曰:「謹按條制:逃吏不在赦限。竊惟聖朝之恩,事異前宥,諸流徙在路,尚蒙旋反,況有未發而仍遣邊戍?按守宰犯罪,逃走者眾,祿潤既優,尚有茲失,及蒙恩宥,卒然得還。今獨苦此等,恐非均一之法。如臣管執,謂宜免之。」書奏,門下以成式既班,駁奏不許。懷重奏曰:「臣以為法貴經通,治尚簡要,刑憲之設,所以網羅罪人。苟理之所備,不在繁典;行之可通,豈容峻制。此乃古今之達政,救世之恒規。伏尋條制,勳品已下,罪發逃亡,遇恩不宥,仍流妻子。雖欲抑絕姦途,匪為通式。謹按事條,侵官敗法,專據流外,豈九品已上,人皆貞白也?其諸州守宰,職任清流,至有貪濁,事發逃竄,而遇恩免罪。勳品已下,獨乖斯例。如此,則寬縱上流,法切下吏,育物有差,惠罸不等。又謀逆滔天,輕恩尚免,吏犯微罪,獨不蒙赦,使大宥之經不通,開生之路致壅,進違古典,退乖今律,輒率愚見,以為宜停。」書奏,世宗納之。

その年、車騎大將軍・涼州大中正に除される。懷は奏して曰く、「南賊遊魂江揚にあり、職として乱逆を為し、其の淫昏を肆にし、月に滋く日に甚だし。貴臣重将、孑遺有ること靡く、姦回を崇信し、閹豎に昵比し、内外心を離れ、骨肉猜叛す。蕭寶融は荊郢に僭号し、其の雍州刺史蕭衍は兵を勒して東襲し、上流の衆已に其の郊に逼る。広陵・京口は各兵を持して両望を懐き、鍾離・淮陰は並び鼎峙して得失を観る。秣陵孤危にして、制門を出でず。君子小人、並びに災禍に罹り、首を延べて北を望み、朝夕に及ばず。斯れ実に天啓の期、吞并の会なり。其の蕭牆の釁に乗じ、其の分崩の隙を藉り、東は歴陽に拠り、兼ねて瓜歩を指し、江に縁る鎮戍、荊郢に達せしむ。然る後に雷電の威を奮い、山河の信を布けば、則ち江西の地は刃せずして自ら来たり、呉会の郷は期を指して挙ぐ可し。昔、士治の言有り、皓若暴死し、更に賢主を立て、文武の官各其の任を得ば、則ち勁敵なり、と。若し蕭衍克く就き、上下心を同じくせば、直ちに後図の難のみに非ず、実に揚境危逼せん。何となれば、寿春の建鄴を去ること七百のみ。山川水陸、彼の諳利する所なり。脱や江湘波無く、君臣職を効し、水を藉り舟に憑り、倐忽として至らば、寿春容れ自ら保たず、江南将に之を若之何せん。今宝巻の邑居には土崩の形有り、辺城に継援の兆無し。江区を清蕩するは、実に今日に在り。臣恩を受くる既に重し、敢えて言わざるを得ず」と。詔して曰く、「君たらず臣たらずは、江南の常弊なり。粟有りて食わざるは、其れ斯れに在り。上天将に之を亡ぼさんと欲し、諸蕃又取らんと願う。人事天道、孰か会に匪ずと云わん。但だ害を養うは、仁者の為さざる所なり。且つ十月五日、衍の軍已に大航に達す。其の大傷小亡の勢は、久しく応に決有るべし。仮令天宝巻を罰し、衍の兵進むことを獲ば、則ち衍の主佐は又た乱亡の遺孽なり。皇靈其れ能く久しく之を祐せんや。今の矜る所は、正に南黔の徳を企て、辺書の継至するを以てなり。殄悴の氓は、理を以て救接すべし。若し爾らば、揚州の兵力、配積少なからず。但だ速やかに任城を遣わし、処分に委ね、別に慰勉を加え、辺算を妙に尽くさしむべし」と。衍の事克くするに因り、遂に停む。

原文其年,除車騎大將軍、涼州大中正。懷奏曰:「南賊遊魂江揚,職為亂逆,肆厥淫昏,月滋日甚,貴臣重將,靡有孑遺,崇信姦回,昵比閹豎,內外離心,骨肉猜叛。蕭寶融僭號於荊郢,其雍州刺史蕭衍勒兵而東襲,上流之眾已逼其郊。廣陵、京口各持兵而懷兩望,鍾離、淮陰並鼎峙而觀得失。秣陵孤危,制不出門。君子小人,並罹災禍,延首北望,朝不及夕。斯實天啟之期,吞并之會。乘厥蕭牆之釁,藉其分崩之隙,東據歷陽,兼指瓜步,緣江鎮戍,達於荊郢。然後奮雷電之威,布山河之信,則江西之地,不刃自來,吳會之鄉,指期可舉。昔士治有言,皓若暴死,更立賢主,文武之官,各得其任,則勁敵也。若蕭衍克就,上下同心,非直後圖之難,實亦揚境危逼。何則?壽春之去建鄴,七百而已,山川水陸,彼所諳利。脫江湘無波,君臣效職,藉水憑舟,倐忽而至,壽春容不自保,江南將若之何?今寶卷邑居有土崩之形,邊城無繼援之兆,清蕩江區,實在今日。臣受恩既重,不敢不言。」詔曰:「不君不臣,江南常弊,有粟不食,其在斯矣。上天將欲亡之,諸蕃又願取之,人事天道,孰云匪會?但以養害,仁者不為。且十月五日,衍軍已達大航,其大傷小亡之勢,久應有決。假令天罰寶卷,衍兵獲進,則衍之主佐,又是亂亡遺孽,皇靈其能久祐之乎?今之所矜者,正以南黔企德,邊書繼至,殄悴之氓,理須救接。若爾者,揚州兵力,配積不少,但可速遣任城,委以處分,別加慰勉,令妙盡邊算也。」以衍事克,遂停。

源懐はまた上表して言うには、「昔、世祖(太武帝)が昇遐(崩御)され、南安王余が在位した時、東廟に出て拝礼したところ、賊臣の宗愛に弑せられた。時に高宗(文成帝)は難を避け、苑中に潜んでおられた。宗愛は異図を抱き、神位(帝位)は未だ定まらなかった。臣の亡父、先臣の源賀は長孫渇侯・陸麗らと共に高宗を迎え奉るよう上表し、徽号と宝命(帝位)を継承させた。陸麗は聖躬(皇帝)を扶け負った功績により、親しく見識された者として、撫軍大将軍・司徒公・平原王を授けられた。興安二年(453年)、定策の勲を追論し、先臣の爵を西平王に進めた。皇興(献文帝の年号)の末年、顕祖(献文帝)が京兆王(拓跋子推か)に大位を伝えようとされた時、先臣は諸将を都督し、武川に屯していたが、召されて京に詣で、特に顧問を受けた。先臣は固執して不可とし、顕祖は久しくしてようやくこれを許し、遂に先臣に命じて節を持ち、高祖(孝文帝)に皇帝の璽綬を授けさせた。太和十六年(492年)に至り、陸麗の息子の陸叡が秘書に上書し、その亡父が先臣と共に高宗を援立したと称したため、朝廷は追録し、陸叡を鉅鹿郡開国公に封じた。臣は時に艱(父母の喪)に服し草土にあったため、例に及ぶことを許されなかった。二十年(496年)、臣が雍州刺史に任ぜられ、出発に際し奉辞して、先帝(孝文帝)に面奏し、先臣の旧勲を申し上げた。時に勅旨はただ赴任先に臨むべしとし、まもなく別に判断すべき旨であった。二十一年(497年)、車駕が雍州に行幸され、臣は再び陳聞した。時に蒙った勅旨は、征還されたら授けるとのことであった。宮車(帝の乗り物)が晏駕(崩御)して以来、遂にこれは明らかにならなかった。窃かに惟うに、先臣は遠くは高宗を援立し、宝暦(皇統)を墜とさず、近くは顕祖に力を尽くし、神器(帝位)に帰する所があった。かくの如き勲功は、世を超えた事績である。陸麗は父の功によって河山の賞(封土の賜)を得たのに、臣は家の勲功がありながら、茅社の賜(封爵)に霑(うるお)わない。得るものと否むものとの懸隔は甚だしい。どうか裁断を垂れ賜われ」と。詔して言うには、「宿老の元丕が云うように、訴えの通りである。史官に訪ねても、頗るこれを言う。比(先例)に依って馮翊郡開国公を授け、邑百戸とせよ」と。

原文懷又表曰:「昔世祖昇遐,南安在位,出拜東廟,為賊臣宗愛所弒。時高宗避難,龍潛苑中,宗愛異圖,神位未定。臣亡父先臣賀與長孫渴侯、陸麗等表迎高宗,纂徽寶命。麗以扶負聖躬,親所見識,蒙授撫軍大將軍、司徒公、平原王。興安二年,追論定策之勳,進先臣爵西平王。皇興季年,顯祖將傳大位於京兆王。先臣時都督諸將,屯於武川,被徵詣京,特見顧問。先臣固執不可,顯祖久乃許之,遂命先臣持節授皇帝璽綬於高祖。至太和十六年,麗息叡狀秘書,稱其亡父與先臣援立高宗,朝廷追錄,封叡鉅鹿郡開國公。臣時丁艱草土,不容及例。至二十年,除臣雍州刺史,臨發奉辭,面奏先帝,申先臣舊勳。時敕旨但赴所臨,尋當別判。至二十一年,車駕幸雍,臣復陳聞,時蒙敕旨,征還當授。自宮車晏駕,遂爾不白。竊惟先臣遠則援立高宗,寶曆不墜;近則陳力顯祖,神器有歸。如斯之勳,超世之事。麗以父功而獲河山之賞,臣有家勳,不霑茅社之賜。得否相懸,請垂裁處。」詔曰:「宿老元丕,云如所訴,訪之史官,頗亦言此。可依比授馮翊郡開國公,邑百戶。」

また詔して使持節とし、侍中・行臺を加え、北辺の六鎮及び恒・燕・朔の三州を巡行させ、貧乏を賑給し、兼ねて風俗を採り、殿最を考論し、事の得失は皆、先に決して後で奏聞させることとした。京師が洛陽に遷都して以来、辺朔は遙遠であり、連年の旱魃と凶作が加わり、百姓は困弊していた。源懐は命を奉じて巡撫し、存恤に方策があり、便宜を以て物資を運転し、有無を通じ救済した。時に后父の于勁は勢い朝野を傾け、勁の兄の于祚は源懐と昔から通婚しており、時に沃野鎮将としており、頗る収賄があった。源懐が鎮に入らんとした時、于祚は郊外で道の左に迎えたが、源懐は彼と語らず、即座に于祚を弾劾して免官させた。懐朔鎮将の元尼須は源懐と若い頃からの旧知であったが、また貪穢狼藉であった。酒宴を設けて源懐を招き、源懐に言うには、「命の長短は卿の口に由る。どうか寛貸せぬことがあろうか」と。源懐は言うには、「今日の集いは、源懐が故人と酒を飲む席であって、獄を鞫(きく)する所ではない。明日の公庭こそ、始めて使人が鎮将の罪状を検する処である」と。尼須は涙を揮うのみで、これに答える言葉がなかった。源懐は既にして表して尼須を弾劾した。その奉公して撓(たわ)まぬことは、皆この類いであった。

原文又詔為使持節,加侍中、行臺,巡行北邊六鎮、恒燕朔三州,賑給貧乏,兼採風俗,考論殿最,事之得失,皆先決後聞。自京師遷洛,邊朔遙遠,加連年旱儉,百姓困弊。懷銜命巡撫,存恤有方,便宜運轉,有無通濟。時后父于勁勢傾朝野,勁兄于祚與懷宿昔通婚,時為沃野鎮將,頗有受納。懷將入鎮,祚郊迎道左,懷不與語,即劾祚免官。懷朔鎮將元尼須與懷少舊,亦貪穢狼藉,置酒請懷,謂懷曰:「命之長短,由卿之口,豈可不相寬貸?」懷曰:「今日之集,乃是源懷與故人飲酒之坐,非鞫獄之所也。明日公庭,始為使人撿鎮將罪狀之處。」尼須揮淚而已,無以對之。懷既而表劾尼須。其奉公不撓,皆此類也。

源懐はまた上表して言うには、「景明(宣武帝の年号)以来、北蕃は連年災害と旱魃に見舞われ、高原の陸野は営殖(耕作)に耐えず、ただ水田のみが少しばかり開墾できる。しかし主将や参僚らは、専ら肥沃で良い土地を擅(ほしいまま)にし、瘠土や荒れた田畑を百姓に与えている。このため困弊し、日月を経るごとに甚だしくなっている。諸鎮の水田は、地令に依って細民(小民)に分け与え、まず貧しい者、後に富める者とすべきである。もし分付が公平でなく、一人でも怨訟する者があったならば、鎮将以下連署の官は、各々一時の禄を奪い、四人以上ならば禄を一周(一年分)奪うべきである。北鎮の辺蕃は、諸夏(中原)とは事態が異なる。往日は官を置くにも、全く差別がなかった。沃野一鎮だけで、将軍以下八百余人おり、黎庶は怨嗟し、皆が煩猥であると言う。辺隅の事は少なく、実際には畿服(京畿)よりも少ない。主帥と吏佐を五分の二減ずることを請う」と。詔して言うには、「表を省みて民を恤(めぐ)むるの懐(おもい)が具わっている。既に有司に勅して、一に上奏された通りにさせ、下って永準とせよ。このような類いで、民に不便であり、教化を損ない政を害するものは、備えて列挙して奏聞せよ」と。時に細民が豪強に陵圧され、積年の冤枉滞滞が一朝に申し開かれる者は、日に百数を数えた。上奏した事柄で北辺に便宜なものは、凡そ四十余条に及び、皆嘉納された。

原文懷又表曰:「景明以來,北蕃連年災旱,高原陸野,不任營殖,唯有水田,少可菑畝。然主將參僚,專擅腴美,瘠土荒疇給百姓,因此困弊,日月滋甚。諸鎮水田,請依地令分給細民,先貧後富,若分付不平,令一人怨訟者,鎮將已下連署之官,各奪一時之祿,四人已上奪祿一周。北鎮邊蕃,事異諸夏,往日置官,全不差別。沃野一鎮,自將已下八百餘人,黎庶怨嗟,僉曰煩猥。邊隅事尠,實少畿服,請主帥吏佐五分減二。」詔曰:「省表具恤民之懷,已敕有司一依所上,下為永準。如斯之比,不便於民,損化害政者,其備列以聞。」時細民為豪強陵壓,積年枉滯,一朝見申者,日有百數。所上事宜便於北邊者,凡四十餘條,皆見嘉納。

正始元年(504年)九月、蠕蠕が十二万騎を率い六道並進して、直ちに沃野・懐朔に向かい、南へ恒州・代州を寇掠しようとしているとの報告があった。詔して源懐を以て本官のまま、使持節・侍中を加え、北蕃に出て拠り、規略を指授し、必要に応じて徴発し、諸々の処分は皆、便宜を以て事に従うこととした。また詔して源懐の子の直寝の源徽に、源懐に随って北行することを命じた。詔して馬一匹・細鎧一具・御矟(じょく、矛)一枚を賜う。源懐は拝受し終わると、その庭で鞍を跨ぎ矟を執り、馬を躍らせて大呼し、顧みて賓客に言うには、「気力は衰えたが、尚ほこのようにできる。蠕蠕は壮を畏れ老を軽んずるが、我もまた未だ欺かれるべきではない。今、廟勝の規(朝廷の勝算ある計画)を奉じ、驍捍の衆を総べる。以てその酋帥を擒(とりこ)にし、俘虜を闕下に献ずるに足る」と。時に年六十一歳であった。源懐が雲中に至ると、蠕蠕は逃亡遁走した。

原文正始元年九月,有告蠕蠕率十二萬騎六道並進,欲直趨沃野、懷朔,南寇恒代。詔懷以本官,加使持節、侍中,出據北蕃,指授規略,隨須徵發,諸所處分皆以便宜從事。又詔懷子直寢徽隨懷北行。詔賜馬一匹、細鎧一具、御矟一枚。懷拜受訖,乃於其庭跨鞍執矟,躍馬大呼,顧謂賓客曰:「氣力雖衰,尚得如此。蠕蠕雖畏壯輕老,我亦未便可欺。今奉廟勝之規,總驍捍之眾,足以擒其酋帥,獻俘闕下耳。」時年六十一。懷至雲中,蠕蠕亡遁。

源懐は間もなく恒州・代州に至り、諸鎮の左右の要害の地を案視し、城を築き戍を置くべき処を検分した。皆その高低を量り、その厚薄を揣(はか)り、及び儲糧積仗の宜しき、犬牙相救の勢いを、凡そ五十八条を上表した。表に曰く、「蠕蠕は羈縻(きび、束縛)されず、古より爾(しか)り。遊魂の如く鳥の集まるが如く、水草を家とし、中国の患いとなる者は、皆この類いである。歴代これを駆逐したが、これを制する能わなかった。北に榆中を拓き、遠く瀚海に臨むも、智臣勇将、力算ともに竭き、胡人は頗る遁れ、中国は以て疲弊した。時に賢哲は、造化の至理を思い、生民の習業を推し量った。中夏の粒食邑居の民、蚕衣儒歩の士と、荒表の茹毛飲血の類、鳥宿禽居の徒とを較べ、短長を親(みずか)ら校(くら)べ、宜しきに因り防制した。城郭の固きを知り、暫くの労をもって永逸を得るのである。皇魏が統極(天下を統治)し、平城に都して以来、威は天下を震わせ、徳は宇宙を籠(おお)った。今、成周(洛陽)に定鼎し、北は遙遠に去っている。代(州)以遠の諸蕃は北に固く、高車は外に叛き、間もなく旱魃凶作に遭い、戎馬甲兵は十分の八を闕いている。去歳、再び陰山に鎮したが、諸事蕩尽し、尚書郎中の韓貞・宋世量らを遣わして要険を検行させ、形便を防遏させた。旧鎮を準え東西相望み、形勢相接するようにし、城を築き戍を置き、兵を分けて要害に配し、農を勧め粟を積み、警急の日には、随(したが)って便(たやす)く翦討すべきであると謂う。このようにすれば、威形は増広し、兵勢もまた盛んとなる。且つ北方の沙漠は、夏には水草に乏しく、時に小泉があっても大衆を済(すく)わない。もし非意(不意の事変)があれば、秋冬を待ち、雲に因って動くであろう。若し冬日に至れば、氷沙凝厲(こおりすなこおりつめたい)し、遊騎の寇は、終に敢えて城を攻めず、また敢えて城を越えて南に出ることもない。このようにすれば北方は憂い無し」と。世宗(宣武帝)はこれに従った。今の北鎮諸戍の東西九城がこれである。驃騎大将軍に遷った。

原文懷旋至恒代,案視諸鎮左右要害之地,可以築城置戍之處。皆量其高下,揣其厚薄,及儲糧積仗之宜,犬牙相救之勢,凡表五十八條。表曰:「蠕蠕不覊,自古而爾。遊魂鳥集,水草為家,中國患者,皆斯類耳。歷代驅逐,莫之能制。雖北拓榆中,遠臨瀚海,而智臣勇將,力算俱竭,胡人頗遁,中國以疲。于時賢哲,思造化之至理,推生民之習業。量夫中夏粒食邑居之民、蠶衣儒步之士,荒表茹毛飲血之類、鳥宿禽居之徒,親校短長,因宜防制。知城郭之固,暫勞永逸。自皇魏統極,都於平城,威震天下,德籠宇宙。今定鼎成周,去北遙遠。代表諸蕃北固,高車外叛,尋遭旱儉,戎馬甲兵,十分闕八。去歲復鎮陰山,庶事蕩盡,遣尚書郎中韓貞、宋世量等檢行要險,防遏形便。謂準舊鎮東西相望,令形勢相接,築城置戍,分兵要害,勸農積粟,警急之日,隨便翦討。如此則威形增廣,兵勢亦盛。且北方沙漠,夏乏水草,時有小泉,不濟大眾。脫有非意,要待秋冬,因雲而動。若至冬日,冰沙凝厲,遊騎之寇,終不敢攻城,亦不敢越城南出,如此北方無憂矣。」世宗從之。今北鎮諸戍東西九城是也。遷驃騎大將軍。

時に武興の氐王楊紹先の叔父の楊集起が反叛した。詔して源懐を以て使持節・侍中・都督平氐諸軍事とし、これを討たせ、興廃(措置)が必要な場合は、権計に任せて従うこととした。その邢巒・李煥は共に節度を禀(うけたまわ)った。三年(506年)六月に卒去した。年六十三歳。詔して東園の秘器・朝服一具・衣一襲・銭二十万・布七百匹・蠟三百斤を給し、司徒・冀州刺史を追贈した。兼吏部尚書の盧昶が奏上して言うには、「太常寺が議して諡を曰く、『源懐は体(たい)は寛柔を尚び、器操は平正である。諡法に依れば、柔直にして考終(天寿を全う)するを「靖」と曰う』。宜しく靖公と諡すべし。司徒府が議して曰く、『源懐は陝西(陝州以西、雍州方面)に牧たりし時、民に恵化の余りあり、入りて端貳(尚書省の長官・次官)を総べし、朝列仁に帰す。諡法に依れば、徳を布き義を執るを「穆」と曰う』。宜しく穆公と諡すべし。二つの諡が同じからず」と。詔して言うには、「府・寺の執る所、並びに克(よ)く允(まこと)ならず。民を愛し与うるを好むを「恵」と曰う。恵公と諡すべし」と。

原文時武興氐王楊紹先叔集起反叛,詔懷使持節、侍中、都督平氐諸軍事以討之,須有興廢,任從權計。其邢巒、李煥並禀節度。三年六月卒,年六十三。詔給東園祕器、朝服一具、衣一襲、錢二十萬、布七百匹、蠟三百斤,贈司徒、冀州刺史。兼吏部尚書盧昶奏:「太常寺議諡曰,懷體尚寬柔,器操平正,依諡法,柔直考終曰『靖』,宜諡靖公。司徒府議,懷作牧陝西,民餘惠化,入總端貳,朝列歸仁,依諡法,布德執義曰『穆』,宜諡穆公。二諡不同。」詔曰:「府、寺所執,並不克允,愛民好與曰『惠』,可諡惠公。」

源懐は寛容で簡約な性質であり、煩瑣なことを好まず、常に人に語って言うには、「貴人たる者は、世務を治めるには綱維を挙げるべきであり、何ぞ必ずしも細事に拘泥せんや。譬えば屋を造るが如く、ただ外から見て高く顕れ、楹棟平正にして、基壁完牢、風雨入らず、足れりとす。斧斤平らかならず、斲削密ならざるは、屋の病に非ず」と。また酒を飲まぬ性質ながら人に飲ませることを喜び、賓客や友人を迎えることを好み、音律に雅く通じ、白髪の身となっても、宴居の暇には常に自ら弦楽器を奏でた。懐には七人の子があった。

原文懷性寬容簡約,不好煩碎,恒語人曰:「為貴人,理世務當舉綱維,何必須太子細也。譬如為屋,但外望高顯,楹棟平正,基壁完牢,風雨不入,足矣。斧斤不平,斲削不密,非屋之病也。」又性不飲酒而喜以飲人,好接賓友,雅善音律,雖在白首,至宴居之暇,常自操絲竹。懷有七子。

長子の源規は、字を霊度という。中書学生・羽林監となり、爵を襲った。三十三歳で卒した。

原文長子規,字靈度。中書學生、羽林監,襲爵。年三十三卒。

子の源粛が襲爵した。卒した。

原文子肅,襲。卒。

子の源紹が襲爵した。景明の初め、詔により王爵を復し、まもなく隴西郡開国公に除された。光禄大夫の任にて卒した。度支尚書・冀州刺史を追贈され、諡して文といった。

原文子紹,襲。景明初,詔復王爵,尋除隴西郡開國公。卒於光祿大夫。贈度支尚書、冀州刺史,諡曰文。

子の源文遠が襲爵した。斉が禅譲を受けると、例により降格された。

原文子文遠,襲。齊受禪,例降。

源規の弟の源栄は、字を霊並という。三十二歳で、司徒掾の任にて卒し、光州刺史を追贈された。

原文規弟榮,字靈並。年三十二,卒於司徒掾,贈光州刺史。

源栄の弟の源徽は、字を霊祚という。二十八歳で、直閤将軍の任にて卒し、特に洛州刺史を追贈され、諡して質といった。

原文榮弟徽,字靈祚。年二十八,卒於直閤將軍,特贈洛州刺史,諡曰質。

源徽の弟の源玄諒は、懐の弟の源奐の後を継いだ。卒し、代郡太守を追贈された。

原文徽弟玄諒,出後懷弟奐。卒,贈代郡太守。

源子雍

原文源子雍

源玄諒の弟の子である源子雍は、字を霊和という。若くして文雅を好み、学問に篤志を励み、誠を推して士を待ったので、士多くこれに帰した。秘書郎より、太子舎人・涼州中正に除された。粛宗が践祚すると、宮臣の例により奉車都尉に転じ、司徒属に遷った。太中大夫・司徒司馬に転じた。恒農太守に除され、夏州刺史に遷った。

原文玄諒弟子雍,字靈和。少好文雅,篤志於學,推誠待士,士多歸之。自祕書郎,除太子舍人、涼州中正。肅宗踐阼,以宮臣例轉奉車都尉,遷司徒屬。轉太中大夫、司徒司馬。除恒農太守,遷夏州刺史。

時に沃野鎮の民破落汗抜陵が初めて反乱を起こし、所在に蜂起し、統万の逆胡もこれと相応接した。子雍は城を嬰して自ら守り、城中の糧尽き、馬の皮を煮て食した。子雍は綏撫に長け、士心を得て、人々力を戮し、離反する者無かった。飢饉が次第に切迫したため、自ら出て糧を求めようとし、子の延伯を留めて守らせた。僚属は皆言うには、「今天下分析し、寇賊万重、四方の音信、断絶せざるは莫く、俄頃の間に変は不意に在り、何ぞ父子をしてかくの如く分張せしむるに宜しからん。未だ城を棄てて俱に去り、更に規略を展ぶるに若かず」と。子雍は泣いて衆に謂いて言うには、「吾は世に国恩を荷い、早く藩寄を受く。此れは吾が死地なり、更に何をか求めん。然れども守禦以来、歳月浅からず、患う所は糧乏しきに在りて、勝を制するを得ざるなり。吾今東州に向かえば、数月の食を得、還りて諸人と保全せんこと必ずせり」と。遂に自ら羸弱を率い、東夏に向かい糧を運ぼうとした。延伯と将士は城外まで送り出し、泣いて拝辞し、三軍嗚咽せざるは無かった。子雍は数日行き、朔方の胡帥曹阿各抜に邀撃され、力屈して捕らえられた。子雍は密かに人を遣わし書を齎し、間道を行かせて城中の文武に伝えさせた。「大軍近し、努力して囲守せよ、必ず諸人をして福流れ苗裔に及ぼさしめん」と。また延伯に命じて固守を共にさせた。子雍は囚われた身ながらも、雅く胡人に敬われ、常に民礼をもってこれに事えた。子雍は安危禍福の理を陳べ、阿各抜を勧めて降伏させようとした。阿各抜はこれに従おうとしたが、果たさずして死んだ。阿各抜の弟の桑生が代わって部衆を総べ、竟に子雍に従って降った。時に北海王元顥が大行臺となっており、子雍は賊を滅ぼし得る状を具に陳べた。顥は子雍に兵馬を与え、先に行かせた。時に東夏は合境反叛し、所在に屯結していた。子雍は転鬬して前進し、九旬の間に凡そ数十戦し、遂に東夏を平定し、租粟を徴税して統万に運んだ。ここに於いて二夏漸く寧まった。

原文時沃野鎮人破落汗拔陵首為反亂,所在蜂起,統萬逆胡,與相應接。子雍嬰城自守,城中糧盡,煮馬皮而食之。子雍善綏撫,得士心,人人戮力,無有離貳。以飢饉轉切,欲自出求糧,留子延伯據守。僚屬僉云:「今天下分析,寇賊萬重,四方音信,莫不斷絕,俄頃之間,變在不意,何宜父子如此分張?未若棄城俱去,更展規略。」子雍泣而謂眾曰:「吾世荷國恩,早受藩寄,此是吾死地,更欲何求!然守禦以來,歲月不淺,所患乏糧,不得制勝。吾今向東州,得數月之食,還與諸人保全必矣。」遂自率羸弱,向東夏運糧。延伯與將士送出城外,哭而拜辭,三軍莫不嗚咽。子雍行數日,為朔方胡帥曹阿各拔所邀,力屈見執。子雍乃密遣人齎書,間行與城中文武云:「大軍在近,努力圍守,必令諸人福流苗裔。」又敕延伯令共固守。子雍雖被囚執,雅為胡人所敬,常以民禮事之。子雍為陳安危禍福之理,勸阿各拔令降,阿各拔將從之,未果而死。拔弟桑生代總部眾,竟隨子雍降。時北海王顥為大行臺,子雍具陳賊可滅之狀。顥給子雍兵馬,令其先行。時東夏合境反叛,所在屯結。子雍轉鬬而前,九旬之中凡數十戰,仍平東夏,徵稅租粟,運於統萬。於是二夏漸寧。

蕭宝夤らが賊に敗れると、賊帥宿勤明達は息の阿非を遣わし衆を率いて路を邀えた。華州・白水は囲逼され、関右は騒擾し、咫尺も通じなかった。時に子雍は新たに黒城を平定したばかりであり、遂に士馬を率い、夏州に募った義民と共に、家を携え席卷し、鼓行して南に出た。賊帥康維摩が羌胡を擁率して鋸谷を守り、嬰瓦棠橋を断った。子雍はこれと交戦し、大破して、維摩を生擒した。また賊帥契官斤を楊氏堡に攻め、これを破った。子雍は西夏より出で、漸く東に至り、千里を転戦し、ここに至って、朝廷始めてその委細な報告を得た。散騎常侍・使持節・仮撫軍将軍・都督・兼行臺尚書に除された。また賊帥紇単歩胡提を曲沃堡に破った。粛宗は璽書を下して労勉した。子雍は白水郡にて再び阿非の軍を破り、多くを斬獲した。詔により侍中・尚書令・城陽王元徽を潼関に遣わし、旨を宣して慰労させた。中軍将軍・金紫光禄大夫・給事黄門侍郎に除され、楽平県開国公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。

原文及蕭寶夤等為賊所敗,賊帥宿勤明達遣息阿非率眾邀路。華州、白水被圍逼,關右騷擾,咫尺不通。時子雍新平黑城,遂率士馬并夏州募義之民,攜家席卷,鼓行南出。賊帥康維摩擁率羌胡守鋸谷,斷[嬰瓦]棠橋,子雍與交戰,大破之,生禽維摩。又攻賊帥契官斤於楊氏堡,破之。子雍出自西夏,漸至於東,轉戰千里,至是,朝廷始得其委問。除散騎常侍、使持節、假撫軍將軍、都督、兼行臺尚書。復破賊帥紇單步胡提於曲沃堡。肅宗璽書勞勉之。子雍在白水郡復破阿非軍,多所斬獲。詔遣侍中、尚書令、城陽王徽於潼關宣旨慰勞。除中軍將軍、金紫光祿大夫、給事黃門侍郎,封樂平縣開國公,邑一千戶。

洛に還ると、葛栄が久しく信都を逼っていたため、詔して子雍に征北将軍を仮し、北討都督とした。時に相州刺史安楽王元鑑が鄴に拠って反したため、勅して子雍と都督李神軌に先ずこれを討たせた。子雍が湯陰に到着すると、鑑は弟の斌之を遣わし夜襲をかけたが、克たず、奔敗して返った。子雍は機に乗じて進み、径ちに鄴城を囲み、裴衍・神軌らと共に鑑を攻め、これを平定した。陽平県開国公に改封され、邑千五百戸を増やされ、鎮東将軍に進号した。遂に裴衍と共に鄴を発ち葛栄を討とうとしたが、信都城は陥落した。子雍を冀州刺史に除した。余官は元の如し。子雍は冀州が守られなかったことを以て、上書して言うには、「賊中甚だ飢え、専ら野掠に仰ぐ。今朝廷は食足り、兵卒は飽暖たり。高壁深壘し、争鋒するに与せず、彼戦を求めれば則ち得ず、野掠して獲る所無く、数旬を盈たさずして、坐して凶醜を制すべし」と。時に裴衍もまた表を上して行軍を求めた。詔して子雍と衍に速やかに進軍させた。子雍は重ねて表を上し固く請い、もし不可と謂わば、裴衍をして独り行かしめんことを乞い、若し解き給わざれば、裴衍を停めんことを求む。苟くも同行を逼れば、敗を取ること旦夕なり、と。詔は聴かず、遂に衍と俱に進んだ。陽平郡東北の漳曲に至ると、栄は賊十万を率いて官軍を逼った。子雍は戦いに敗れて害され、年四十。朝野痛惜した。車騎大将軍・儀同三司・雍州刺史を追贈し、公は元の如し。永安年中、重ねて司空を追贈し、諡して荘穆といった。

原文還洛,以葛榮久逼信都,詔假子雍征北將軍,為北討都督。時相州刺史安樂王鑒據鄴反,敕子雍與都督李神軌先討之。子雍行達湯陰,鑒遣弟斌之夜襲子雍軍,不克,奔敗而返。子雍乘機繼進,徑圍鄴城,與裴衍、神軌等攻鑒,平之。改封陽平縣開國公,增邑千五百戶,進號鎮東將軍。遂與裴衍發鄴以討葛榮,而信都城陷。除子雍冀州刺史。餘官如故。子雍以冀州不守,上書曰:「賊中甚飢,專仰野掠。今朝廷足食,兵卒飽暖。高壁深壘,勿與爭鋒,彼求戰則不得,野掠無所獲,不盈數旬,可坐制凶醜。」時裴衍復表求行,詔子雍與衍速進。子雍重表固請,如謂不可,乞令裴衍獨行。若不賜解,求停裴衍。苟逼同行,取敗旦夕。詔不聽,遂與衍俱進。至陽平郡東北漳曲,榮率賊十萬來逼官軍。子雍戰敗被害,年四十。朝野痛惜之。贈車騎大將軍、儀同三司、雍州刺史,公如故。永安中,重贈司空,諡曰莊穆。

長子の延伯は、従伯の後を継いだ。次子の士則は早世した。士則の弟の士正・士規は、共に事に坐して死んだ。次に楷、字は士質、小字は那延、爵を襲った。武定年中、斉文襄王府参軍となり、斉が禅譲を受けると、例により降格された。

原文長子延伯,出後從伯。次子士則,早亡。士則弟士正、士規,並坐事死。次楷,字士質,小字那延,襲。武定中,齊文襄王府參軍,齊受禪,例降。

延伯は、初め司空参軍事となった。時に南秦の民呉富が反叛し、詔して河間王元琛を都督とし、延伯の叔父子恭を軍司とした。延伯は統軍となり、子恭に随って西討し、戦えば必ず先鋒となった。子恭はその年幼きを見て、常に訶って制したが禁じ得なかった。

原文延伯,初為司空參軍事。時南秦民吳富反叛,詔以河間王琛為都督,延伯叔父子恭為軍司。延伯為統軍,隨子恭西討,戰必先鋒。子恭見其年幼,常訶制之而不能禁。

子雍が夏州におり、兵の援軍を求める上表をしたので、詔により延伯は羽林一千人を率いて赴き、城での戦いや野戦において、その勇猛は三軍に冠たるものがあった。子雍が東夏に向かう際、延伯を留めて城を守らせ、後事を託した。延伯は兵士と共に湯菜を分け合い、城壁と堀を固く防備した。子雍が胡に捕らえられた時、城中は皆憂い恐れたが、延伯は人々に諭して言った、「我が父の吉凶は測り難く、心は焦がれ爛れ、実に裁断に苦しむ。しかし命を受けて城を守ることは、重きをなすべき事柄であり、もし私情をもって公務を害するならば、忠誠も孝行も共に欠けることになる。諸君は幸いにもこの心を得て、託された責務を損なうことのないように」。そこで人々はその義に感じ、奮い立たない者はなかった。朝廷はこれを聞いて賞賛した。龍驤将軍に任じ、夏州の事務を行い、五城県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。ついに堅固に守り抜いた。後に刺史が到着すると、延伯は義兵を率いて子雍のもとに赴き、共に黒城を平定した。嬰瓦棠橋の戦いでは、先鋒として敵陣に突入し、自ら維摩を生け捕りにした。白水に至っては、真っ先に阿非を打ち破った。

原文子雍在夏州,表乞兵援,詔延伯率羽林一千人赴之,城鬬野戰,勇冠三軍。子雍之向東夏,留延伯城守,付以後事。延伯與兵士共分湯菜,防固城隍。及子雍為胡所執,合城憂懼,延伯乃人人曉喻曰:「吾父吉凶不測,方寸焦爛,實難裁割。但奉命守城,所為處重,若以私害公,誠孝並闕,諸君幸得此心,無虧所寄。」於是眾感其義,莫不勵憤。朝廷聞而嘉之。除龍驤將軍,行夏州事,封五城縣開國子,食邑三百戶。卒能固守。及後刺史至,延伯率領義眾還赴子雍,共平黑城。在[嬰瓦]棠橋戰,先鋒陷陳,身擒維摩。及至白水,首摧阿非。

子雍に従って都に至り、浮陽伯に爵位を進められ、封邑を百戸増やされ、諫議大夫となった。冠軍将軍・別将を仮授され、子雍に従って北方を討った。葛栄と戦って戦死し、時に二十四歳であった。持節・平北将軍・涼州刺史を追贈され、開国の爵位は従前の通りであった。

原文隨子雍至都,進爵浮陽伯,增封百戶,為諫議大夫。假冠軍將軍、別將,隨子雍北討。與葛榮戰歿,時年二十四。贈持節、平北將軍、涼州刺史,開國如故。

子の孝孫が襲封した。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。

原文子孝孫,襲。齊受禪,爵例降。

源子恭

原文源子恭

子雍の弟の子である子恭は、字を霊順といい、聡明で学問を好んだ。初め司空参軍事に辟召された。司徒祭酒・尚書北主客郎中となり、南主客の事務を摂行した。

原文子雍弟子恭,字靈順,聰惠好學。初辟司空參軍事。司徒祭酒、尚書北主客郎中,攝南主客事。

蕭衍の逃亡者である許周が自ら蕭衍の給事黄門侍郎と称し、朝廷の人士はこぞってこれを信じ待遇した。子恭は上奏して言った、「徐州が帰化人許団とその弟の周らを報告した。その牒状を究めると、周は自らを蕭衍の黄門侍郎と列記している。また山水を心に思い、栄官を好まず、たびたび辞退したが、かの者の激怒を招き、遂に斉康郡に出されたという。それによって帰国し、嵩山で志を全うしたいと願っているという。これまで調査を加えたが、少しも証明がなく、その上表の様子を尋ねると、またもや不明瞭である。案牒を推し量ると、実に疑わしい点がある。なぜか。昔、夷斉は独り去り、周王はその志を屈せず、伯況は禄を辞し、漢帝はその美を成した。これはまさに古の先哲の王には、必ず臣とならぬ者がいたということである。蕭衍はたとえ江左で崎嶇としていようとも、一隅に窃かに号したに過ぎず、物事を処するに至っては、礼に甚だ背いてはいない。どうして士が栄禄を辞して、苟も聞き入れられぬことがあろうか。情理を推し察すれば、これはでたらめである。仮に蕭衍が昏狂で、雅道を存せず、士を逼迫して郡に出したとしても、死に急ぐほどのことではなく、どうして軽々しく生養の地を去り、父母の邦に長く別れを告げるべきであろうか。もし栄官を好まず、志して嵩山を願うというなら、初めて来た日に、即ち杖を執って山を尋ね、書帙を背負って水に沿うべきであり、しかるに広く知己を尋ね、遍く執事に造り、栄達を希う心は既に見え、官を逃れる志はどこにあるのか。昔、梁鴻は郷里を去り、終に呉会で傭われ、逄萌は海を渡り、遠く遼東に客となった。共に志を全うし性を養い、逍遥しただけであって、事実を考証すれば、何と懸け離れていることか。またその履歴は清華で、名位は高く達しており、その家族の累を計れば、軽からぬはずである。今帰化するに当たり、何と孤迥であることか。仮に当時慌ただしく、携え行くことができなかったとしても、来た後には、家財産業は簿録に徴収されるべきであり、尊卑の家族も法に従うはずである。しかるに周兄弟は怡然として、かつて憂い悲しむことがない。もし一族がいないなら、理屈は通じるかもしれないが、もし連座しないなら、それは蕭衍が故意に遣わしたのであり、周の帰化ではない。二、三推究すれば、真偽は弁じ難い。徐揚二州に下して密かに尋ねさせ、必ず実情を得させられたい。数旬を満たさずして、玉石は見分けられよう」。そこで詔して推問させたところ、周は果たして罪によって帰朝し、職位を仮称したのであり、子恭の疑った通りであった。

原文蕭衍亡人許周自稱為衍給事黃門待郎,朝士翕然,咸共信待。子恭奏曰:「徐州表投化人許團并其弟周等。究其牒狀,周列云己蕭衍黃門侍郎。又稱心存山水,不好榮宦,屢曾辭讓,貽彼赫怒,遂被出為齊康郡。因爾歸國,願畢志嵩嶺。比加採訪,略無證明;尋其表狀,又復莫落。案牒推理,實有所疑。何者?昔夷齊獨往,周王不屈其志;伯況辭祿,漢帝因成其美。斯實古先哲王,必有不臣之人者也。蕭衍雖復崎嶇江左,竊號一隅,至於處物,未甚悖禮。豈有士辭榮祿而苟不聽之哉?推察情理,此則孟浪。假蕭衍昏狂,不存雅道,逼士出郡,未為死急,何宜輕去生養之土,長辭父母之邦乎?若言不好榮官,志願嵩嶺者,初屆之日,即應杖策尋山,負帙沿水,而乃廣尋知己,遍造執事,希榮之心已見,逃宦之志安在?昔梁鴻去鄉,終傭吳會;逄萌浮海,遠客遼東。並全志養性,逍遙而已,考之事實,何其懸哉?又其履歷清華,名位高達,計其家累,應在不輕。今者歸化,何其孤迥?設使當時怱遽,不得攜將,及其來後,家貲產業應見簿斂,尊卑口累亦當從法。而周兄弟怡然,嘗無憂戚。若無種族,理或可通,如有不坐,便應是衍故遣,非周投化。推究二三,真偽難辨,請下徐揚二州密訪,必令獲實,不盈數旬,玉石可覩。」於是詔推訪,周果以罪歸闕,假稱職位,如子恭所疑。

河州の羌である却鉄怱が反乱し、長吏を殺害したので、詔により子恭は持節を行台とし、諸将を率いてこれを討った。子恭は州郡及び諸軍を厳しく戒め、民の一物も犯さず、軽々しく賊と戦わず、その後威恩を示したので、二旬の間に悉く降伏した。朝廷はこれを嘉した。正光元年、行台左丞となり、北辺を巡行した。

原文河州羌却鐵怱反,殺害長吏,詔子恭持節為行臺,率諸將討之。子恭嚴勒州郡及諸軍,不得犯民一物,輕與賊戰,然後示以威恩,兩旬間悉皆降款。朝廷嘉之。正光元年,為行臺左丞,巡行北邊。

起部郎に転じた。明堂・辟雍は共に未だ完成しておらず、子恭は上書して言った、「臣は聞く、辟雍の台に気を望むことは、軌物の徳既に高く、方堂に政を布くことは、世を範する道斯くの如く遠しと。これにより書契の重みは、造化に冠たる理であり、推尊の美は、生民を絶する事である。郊天して帝を饗するに至っては、蓋し上霊に対越するためであり、宗祀して天に配するのは、下土に酬膺するためである。大孝これに加うる莫く、厳父は茲を以て大と為し、乃ち皇王の休業、国を有するの盛典である。窃かに惟うに、皇魏は震に居て極を統べ、宙を総べ宇を馭し、土中に制を革め、外無きに式を垂れる。北より南に徂き、共に卜維を洛食にし、鼎を定め民を遷し、気候を寒暑に均す。高祖これにより始めて基をなし、世宗ここに於いて構を恢めた。功成りて楽を作し、治定まりて礼を制するに按ずれば、乃ち遺文を訪ね、廃典を修め、明堂を建て、学校を立て、一代の茂矩を興し、千載の英規を標す。永平の中、始めて雉構を創し、基趾草昧にして、遂に成功無し。故に尚書令・任城王臣澄は、故司空臣沖の造れる明堂の様、並びに連ねた表詔答・両京の模式に按じ、営起を求めて奏上した。期に縁りて旨を発し、即ち葺繕を加う。侍中・領軍臣叉は、動作の官を総べ、宣し授令を賛す。茲より厥の後、方に兵人を配し、或いは一千を与え、或いは数百を与え、進退節縮、曾て定準無く、速やかに了せんことを望めば、理に在りて克ち難し。若し専ら此の功に役せしめ、長く営造を得、成るを委ねて責め弁ぜしめば、容れ就期有らん。但だ与うる所の夫は、本より寡少にして、諸処競いて借り、動けば即ち千計に及ぶ。繕作の名有りと雖も、終に功を就くるの実無し。爽塏荒茫、年載に淹積し、結架崇構、指して兆に就く無し。仍りて冑を肄うの礼は、掩仰して進まず、老を養うの儀は、寂寥として返らず。厦を構うるは尺土に止まり、山を為すは一匱に頓す、良く惜しむべけんや!愚かには謂う、民を召して経始すれば、必ず子来の歌有り、興造は亟にせず、将に不日の美を致さんとす。況んや本兵多く無く、兼ねて之を牽役し、此を廃して彼に与え、循環極まり無し。便ち是れ礼を創るの重きを輟み、不急の費に資し、国を経るの功を廃し、寺館の役に供す、遠図に求めれば、亦た闕けざらんや?今諸寺の大作は、稍々以て粗挙し、並びに徹減すべく、専ら経綜に事とし、工匠を厳勒し、務めて克成せしむべし。祖宗に薦配の期有らしめ、蒼生に礼楽の富を覩せしめん」。上書が奏上され、これに従った。冠軍将軍・中散大夫に任じ、また治書侍御史を領した。

原文轉為起部郎。明堂、辟雍並未建就,子恭上書曰:「臣聞辟臺望氣,軌物之德既高;方堂布政,範世之道斯遠。是以書契之重,理冠於造化;推尊之美,事絕於生民。至如郊天饗帝,蓋以對越上靈;宗祀配天,是用酬膺下土。大孝莫之能加,嚴父以茲為大,乃皇王之休業,有國之盛典。竊惟皇魏居震統極,總宙馭宇,革制土中,垂式無外。自北徂南,同卜維於洛食;定鼎遷民,均氣候於寒暑。高祖所以始基,世宗於是恢構。按功成作樂,治定制禮,乃訪遺文,修廢典,建明堂,立學校,興一代之茂矩,標千載之英規。永平之中,始創雉構,基趾草昧,迄無成功。故尚書令、任城王臣澄按故司空臣沖所造明堂樣,并連表詔答、兩京模式,奏求營起。緣期發旨,即加葺繕。侍中、領軍臣叉,總動作官,宣贊授令。自茲厥後,方配兵人,或給一千,或與數百,進退節縮,曾無定準,欲望速了,理在難克。若使專役此功,長得營造,委成責辦,容有就期。但所給之夫,本自寡少,諸處競借,動即千計。雖有繕作之名,終無就功之實。爽塏荒茫,淹積年載,結架崇構,指就無兆。仍令肄冑之禮,掩仰而不進;養老之儀,寂寥而不返。構厦止於尺土,為山頓於一匱,良可惜歟!愚謂召民經始,必有子來之歌;興造勿亟,將致不日之美。況本兵不多,兼之牽役,廢此與彼,循環無極。便是輟創禮之重,資不急之費,廢經國之功,供寺館之役,求之遠圖,不亦闕矣?今諸寺大作,稍以粗舉,並可徹減,專事經綜,嚴勒工匠,務令克成。使祖宗有薦配之期,蒼生覩禮樂之富。」書奏,從之。除冠軍將軍、中散大夫,又領治書侍御史。

秦益の氐が反乱し、詔により子恭は持節を都督・河間王琛の軍司としてこれを討った。事が平定されると、引き続き南秦州の事務を行った。六鎮が反乱すると、子恭を兼給事黄門郎とし、持節を持って慰労させた。帰還し、河内太守に拝され、後将軍を加えられ、絳蜀の反乱を平定した。丹谷・清廉の二路は険阻で通じず、子恭を当郡の別将とした。間もなく建興蜀がまた反乱し、互いに連勢したので、子恭を進めて持節・散騎常侍・仮平北将軍・征建興都督とし、引き続き尚書行台を兼ね、正平都督長孫稚と合勢して進討し、大いにこれを破った。正平の賊帥范明遠と賊帥劉牙奴は共に面縛して降伏を請うた。事が平定されると、平南将軍・豫州刺史に任じ、間もなく散騎常侍・撫軍将軍を加えられた。

原文秦益氐反,詔子恭持節為都督、河間王琛軍司以討之。事平,仍行南秦州事。及六鎮反,以子恭兼給事黃門郎,持節慰勞。還,拜河內太守,加後將軍,平絳蜀反。丹谷、清廉二路險澀不通,以子恭為當郡別將。俄而建興蜀復反,相與連勢,進子恭為持節、散騎常侍、假平北將軍、征建興都督,仍兼尚書行臺,與正平都督長孫稚合勢進討,大破之。正平賊帥范明遠與賊帥劉牙奴並面縛請降。事平,除平南將軍、豫州刺史,尋加散騎常侍、撫軍將軍。

武泰の初め、郢州刺史元願達が城を以て蕭衍に降り、詔して都督尉慶賓を徴して京師に還らしめ、その衆を子恭に隷属させてこれを討たしめた。蕭衍の将夏侯夔が衆数万を率いて来寇し、遠近不安となった。夔は勢いに乗じて兵を分け、遂に新蔡を逼り、自ら毛城を攻めた。子恭は方に随って応援し、賊は皆破れて走った。蕭衍の豫州刺史夏侯亶はまた四将を遣わし、衆三万を率いて南頓を囲み、北より陳項を攻めた。子恭は軍を遣わしてこれを防ぎ、賊はまた奔退した。鎮南将軍を加えられ、また尚書行臺を兼ねた。子恭は衆を率いて淮を渡り、民を淮北に移し、郡県を立て、戍を置いて還った。蕭衍の直閤将軍・軍主胡智達ら八将が、その監軍閻次洪とともに侵入し、州城の東北四十余里に屯した。子恭はこれを撃破し、智達を斬り、次洪を生け捕りにした。

原文武泰初,郢州刺史元願達以城降蕭衍,詔徵都督尉慶賓還京師,回眾隸子恭以討之。衍將夏侯夔率眾數萬來寇,遠近不安。夔乘勢分兵,遂逼新蔡,自攻毛城。子恭隨方應援,賊並破走。蕭衍豫州刺史夏侯亶復遣四將,率眾三萬,入圍南頓,北攻陳項。子恭遣軍禦之,賊復奔退。加鎮南將軍,又兼尚書行臺。子恭勒眾渡淮,徙民於淮北,立郡縣,置戍而還。蕭衍直閤將軍、軍主胡智達等八將,與其監軍閻次洪入寇,屯於州城東北四十餘里。子恭擊破之,斬智達,生擒次洪。

元顥が洛に入った時、子恭に車騎将軍を加えたが、子恭は敢えてこれを拒まず、頻りに間使を遣わして荘帝の動静を窺った。未だ幾ばくもせず、顥は敗れ、車駕は洛に還り、征南将軍・兼右僕射に進み、車騎将軍を仮し、後に散騎常侍を加えられた。

原文元顥之入洛也,加子恭車騎將軍,子恭不敢拒之,而頻遣間使參莊帝動靜。未幾,顥敗,車駕還洛,進征南將軍、兼右僕射,假車騎將軍,後加散騎常侍。

板橋の蛮族の文石活・石忌麤が蕭衍の印節を受け、党類を扇動誘惑し、険阻に拠って寇窃を働いた。子恭は躬自ら将士を率い、直ちにその柵を襲い、数日のうちに、殲滅すること略ね尽くした。諸蛮は服従を請い、皆税を輸納することを求めた。右光禄大夫・給事黄門侍郎に徴され、仍って本将軍のままとした。その前後の征討の功を録し、臨潁県開国侯に封ぜられ、食邑六百戸、散騎常侍を加えられた。俄かに侍中に遷った。

原文板橋蠻文石活、石忌麤受蕭衍印節,扇誘黨類,據險寇竊。子恭躬率將士,徑襲其柵,數日之中,殲殪略盡。諸蠻款服,咸求輸稅。徵拜右光祿大夫、給事黃門侍郎,仍本將軍。錄其前後征討功,封臨潁縣開國侯,食邑六百戶,加散騎常侍。俄遷侍中。

尒朱栄の死に際し、世隆・度律が河橋を占拠遮断した。詔して子恭を都督としてこれを討たしめ、大夏門の北に出て頓した。間もなく太府卿李苗が夜に河橋を焼き、世隆は退走した。仍って子恭に尚書僕射を兼ねさせ、大行臺・大都督とした。尋いで衛将軍に遷り、車騎将軍を仮し、諸将を率いて太行に塁を築きこれを防いだ。既にして尒朱兆が衆を率いて南に出ると、子恭の配下の都督史仵龍・羊文義が柵を開いて兆に降った。子恭は退走し、兆に破られた。衆は既に退散し、兆は因って洛に入った。子恭は緱氏に逃れ、仍って捕らえられて送られた。俄かに釈放された。

原文尒朱榮之死也,世隆、度律據斷河橋,詔子恭為都督以討之,出頓於大夏門北。尋而太府卿李苗夜燒河橋,世隆退走,仍以子恭兼尚書僕射,為大行臺、大都督。尋遷衞將軍、假車騎將軍,率諸將於太行築壘以防之。既而尒朱兆率眾南出,子恭所部都督史仵龍、羊文義開柵降兆。子恭退走,為兆所破。眾既退散,兆因入洛。子恭竄于緱氏,仍被執送。俄而見釋。

前廃帝の初め、驃騎将軍・左光禄大夫を除され、侍中は元の如しとした。尋いで散騎侍郎・都督三州諸軍事・本将軍・仮車騎大将軍・行臺僕射・荊州刺史を授けられた。定策の勲に与った功により、臨汝県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を賜った。時に叛蛮の雷乱清が蕭衍の兗州刺史の章綬を受け、侵入して寇掠し、諸蛮がこれに従い、郡県を置立した。子恭はこれを討平した。永熙年中、吏部尚書として入朝し、驃騎大将軍を加えられた。子恭が以前豫州での戦功があったことを以て、襄城県開国男を追賞し、食邑二百戸を賜った。また子恭の残りの功効を論じ、新城県開国子に封ぜられ、食邑四百戸を賜った。子恭は尋いで表を上って第五子の文盛に転授することを請い、許された。天平の初め、中書監を除された。三年、魏尹に拝され、また斉献武王の軍司となった。元象元年。興和二年、都督徐兗二州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・司空公・兗州刺史を贈られ、諡して文献といった。

原文前廢帝初,除驃騎將軍、左光祿大夫,侍中如故。尋授散騎侍郎、都督三州諸軍事、本將軍、假車騎大將軍、行臺僕射、荊州刺史。以與定策之勳,封臨汝縣開國子,食邑三百戶。時叛蠻雷亂清受蕭衍兗州刺史章綬,入為寇掠,諸蠻從之,置立郡縣。子恭討平之。永熙中,入為吏部尚書,加驃騎大將軍。以子恭前在豫州戰功,追賞襄城縣開國男,食邑二百戶。又論子恭餘効,封新城縣開國子,食邑四百戶。子恭尋表請轉授第五子文盛,許之。天平初,除中書監。三年,拜魏尹,又為齊獻武王軍司。元象元年。興和二年,贈都督徐兗二州諸軍事、驃騎大將軍、尚書左僕射、司空公、兗州刺史,諡曰文獻。

子の彪、字は文宗。子恭の存命中に、臨潁県開国侯を転授された。武定末、太子洗馬。

原文子彪,字文宗。子恭存日,轉授臨潁縣開國侯。武定末,太子洗馬。

彪の弟の文瑤、武定年中、襄城県開国男を襲封した。斉が禅を受けると、爵は皆降等された。

原文彪弟文瑤,武定中,襲襄城縣開國男。齊受禪,爵並降。

子恭の弟の纂、字は霊秀。員外散騎侍郎、累遷して征虜将軍・通直散騎常侍・涼州大中正となり、転じて太府少卿となった。建義の初め、河陰で害に遇い、年三十七。散騎常侍・征北将軍・定州刺史を贈られた。

原文子恭弟纂,字靈秀。員外散騎侍郎,累遷征虜將軍、通直散騎常侍、涼州大中正,轉太府少卿。建義初,遇害河陰,年三十七。贈散騎常侍、征北將軍、定州刺史。

懐の弟の奐、字は思周、若くして謹密であった。初め中書学生となった。父に従って敕勒を討ち、斬獲の功があり、中散に遷った。前後十余所の州鎮を巡察し、皆功績があった。長楽太守を除されたが、母老のため官を解き帰養した。卒し、子無し。

原文懷弟奐,字思周,少而謹密。初為中書學生。隨父討敕勒,有斬獲之功,遷中散。前後使檢察州鎮十餘所,皆有功績。除長樂太守,以母老解官歸養。卒,無子。