源賀
源賀は、自ら河西王禿髪傉檀の子であると称した。傉檀が乞伏熾磐に滅ぼされると、賀は楽都より来奔した。賀は容貌魁偉にして、風儀に優れていた。世祖(太武帝)はかねてよりその名を聞いており、会見するとその機転と弁舌を器として、西平侯の爵を賜い、龍驤将軍を加えた。賀に謂って曰く、「卿と朕とは源を同じくするが、事に因りて姓を分つ。今より源氏と為すべし」と。叛胡の白龍を撃つに従い、また吐京胡を討ち、いずれも先登して陣を陥れた。平西将軍の号を進めた。
世祖が涼州を征するに当たり、賀を郷導と為した。詔して攻戦の計を問うと、賀対えて曰く、「姑臧城外に四部の 鮮卑 あり、各々これが援と為る。然れども皆これ臣が祖父の旧民なり。臣願わくは軍前において国の威信を宣べ、その禍福を示せば、必ず相率いて帰降せん。外援既に服せば、然る後にその孤城を攻め、これを抜くこと反掌の如し」と。世祖曰く、「善し」と。ここにおいて賀を遣わし精騎を率い諸部を歴て招慰せしめ、三万余落を下し、雑畜十余万頭を獲た。姑臧を囲むに及び、これにより外慮無く、故に専力してこれを攻めることを得た。涼州平らぎ、征西将軍に遷り、西平公の号を進めた。また 蠕蠕 征伐に従い、五城・吐京胡を撃ち、蓋吳諸賊を討ち、いずれも功有り。 散騎常侍 に拝された。車駕に従い江に臨み、前鋒大将と為る。賀は人となり雄果にして、強寇に遇う毎に、輒ち自ら奮撃した。世祖これを戒めて曰く、「兵は凶、戦は危し、軽々しく犯すべからず。卿は籌を運らし処分すべく、身力を恃むことなかれ」と。賀の本名は破 羌 であったが、この役に際し、世祖曰く、「人の名を立つるは、その実を得るに宜しく、何ぞ濫りにせん」と。賀の名を賜うた。殿中 尚書 に拝された。
南安王余が宗愛に殺害された時、賀は禁兵を部勒し、内外を静かに遏え、南部尚書陸麗と決議して策を定め、高宗(文成帝)を翼戴した。麗と劉尼をして苑中に馳せ詣らせ、高宗を奉迎せしめ、賀は禁中を守り内応と為った。俄かに麗が高宗を抱いて単騎而至ると、賀乃ち門を開いた。高宗即位し、 社稷 大いに安んずるに、賀の力有り。征北将軍に転じ、給事中を加えられた。定策の勲により、西平王に爵を進めた。高宗即位し、百僚に班賜するに当たり、賀に謂って曰く、「朕大いに善人を賚う。卿は其の意のままにこれを取れ、謙退することなかれ」と。賀は辞したが、固くして取らしむると、賀は唯だ戎馬一匹を取るのみであった。
この時、断獄多く濫り有り、賀上書して曰く、「律を案ずるに、謀反の家は、その子孫たとえ他族に養われたるも、追い還して就戮す。是れ罪人の類を絶ち、大逆の辜を彰わす所以なり。劫賊として誅すべき者は、兄弟子姪遠くに在り、道関津に隔てられば、皆な坐せず。窃かに惟うに、先朝律を制せるの意は、同じく謀らず、類を絶つ罪に非ざるを以て、故に特ち不死の詔を垂れたり。若し年十三以下にして、家人首悪たりとも、計謀及びがたきは、愚以為く、その命を原し、県官に没入すべし」と。高宗これを納れた。出でて征南将軍・冀州 刺史 と為り、隴西王に改封された。賀上書して曰く、「臣聞く、人の宝とする所は、生を全うするより宝なるは莫し。徳の厚き者は、死を宥うより厚きは莫し、と。然れども死を犯すの罪は、尽く恕し難く、その軽重を権え、矜 恤 すべき有り。今勁寇は北に遊魂し、狡賊は南に険を負う。その疆埸に在りては、猶お防戍を須う。臣愚以為く、大逆・赤手人を殺すの罪に非ざる自らは、その贓に坐し及び盗と過誤の愆、死に入るべき者は、皆なその命を原し、辺境を謫守せしむべし。是れ則ち已に断たるるの 体 、更に全生の恩を受く。徭役の家、漸く休息の恵を蒙らん。刑措の化、庶幾くは茲に在らん。虞書に曰く『流して五刑を宥う』と。これ其の義なり。臣恩を受くること深重にして、仰いで答うるに無く、将に闕庭に違わんとし、予め係恋を増す。敢えて瞽言を上す。唯だ裁察を加えられんことを」と。高宗これを納れた。已後に死に入る者は、皆な死を恕して辺に徙せしめられた。久しくして、高宗群臣に謂って曰く、「源賀朕を勧めて諸の死刑を宥い、北番諸戍に徙して充てしむ。 爾 来今に至るまで、一歳に活かす所殊に少なからず。生を 済 うるの理既に多く、辺戍の兵益有り。卿等朕に事え、何の善意を致すや?苟くも人々賀の如くならば、朕天下を治むる復た何をか憂えん。誠言を顧み憶うれば、利実に広し」と。群臣皆な曰く、「忠臣に非ざればこの計を進むること能わず、聖明に非ざればこの言を納るることを能わず」と。
賀の州に臨むや、獄を情を以て 鞫 し、徭役を簡省した。武邑郡の姦人石華、沙門道可が賀と謀反すと告ぐ。有司以て聞す。高宗群臣に謂って曰く、「賀誠心国に事えり。朕卿等の為にこれを保つ。此れ無きこと明らかなり」と。乃ち精しく訊検を加うると、華果たしく誣を引く。ここにおいて使者を遣わし詔して賀に曰く、「卿忠誠款至を以て、先朝より著しく、丹青の潔きを以て蒼蠅の汚れを受く。朕登時に研検し、既に極法を加えたり。故に意を宣せしむ。其れ善く綏め所莅を、囂謗の言を以て致すに慮を損うること無かれ」と。賀上書して謝す。書奏す。高宗左右を顧みて曰く、「賀の忠誠を以てすら、尚お其の誣に致す。是の如からざる者は、慎むこと無からんや」と。時に殿最を考うるに、賀の治め第一と為り、衣馬器物を賜い、天下に班宣す。賀上表して代わることを請う。朝議賀民情を得たりとし、許さず。州に在ること七年、乃ち徴されて 太尉 に拝された。
蠕蠕辺を寇す。賀車駕に従い追討し、これを破る。顕祖(献文帝)将に位を京兆王子推に伝えんとす。時に賀諸軍を 都督 し漠南に屯す。乃ち伝駅を馳せて賀を徴す。賀既に至るや、乃ち公卿をしてこれを議せしむ。賀正色固執して不可とす。即ち賀に詔して節を持ち皇帝の璽綬を奉じて高祖(孝文帝)に授けしむ。
この歳、河西の敕勒叛く。賀を遣わし衆を率いてこれを討たしむ。二千余落を降し、倍道兼行して賊党の郁朱于等を枹罕に追い至り、大いにこれを破り、首級五千余を斬り、男女万余口・雑畜三万余頭を虜う。復た統万・高平・上邽の三鎮の叛く敕勒を金城に追い至り、首級三千を斬る。賀古今の兵法及び先儒耆旧の説に依り、略々至要を採りて、十二陳図を為し以て上る。顕祖これ覧めて嘉す。
賀年老を以て位を辞す。詔して許さず。又詔して三道の諸軍を 都督 し、漠南に屯せしむ。この時、毎歳秋冬、軍を三道並びに出だし、以て北寇に備え、春中に至りて乃ち師を班す。賀は京都を労役するを以て、又禦辺の長計に非ずとし、乃ち上言して曰く、「請う諸州鎮の武健なる者三万人を募り、その徭賦を復し、厚く賑恤を加え、三部に分つ。二鎮の間に城を築き、城に万人を置き、強弩十二床、武衛三百乗を給す。弩一床に牛六頭を給し、武衛一乗に牛二頭を給す。馬槍及び諸器械を多く造り、武略の大将二人をして以てこれを鎮撫せしむ。冬は則ち武を講じ、春は則ち種殖す。並びに戍り並びに耕せば、則ち兵未だ労せずして盈畜有らん。又た白道の南三処に倉を立て、近州鎮の租粟を運び以てこれを充て、食を足し兵を足し、以て不虞に備うれば、宜しきに 便 なり。歳常に衆を挙げ、連ねて京師を動かし、朝庭に恒に北顧の慮有らしむべからず」と。事寝て報えず。
また上書して病篤きを称し、骸骨を乞うこと再三に及び、ようやくこれを許された。朝廷に大議あるときは皆そのもとに赴いて諮問し、また衣薬珍羞を給された。太和元年二月、温湯にて療養するに際し、高祖・文明太后は使者を遣わしてたびたび消息を問わせ、太医に病状を診させた。病篤く、京師に還る。賀は遺令を下し諸子を戒めて曰く、「我は近頃老病を以て事を辞したが、天慈の恩を降すことを悟らず、爵位が汝らに及んだ。汝らは驕り吝かず、荒怠せず、奢り越えず、嫉妬せざれ。疑わしきは問うことを思い、言は審らかにすることを思い、行いは恭しくすることを思い、服は度を思え。悪を遏ぎ善を揚げ、賢に 親 しみ佞を遠ざけよ。目に観るは必ず真を、耳に属するは必ず正を。誠を尽くして勤めて君に事え、清く約して己を行え。我が終わりの後、葬るに時服と単櫝とを以てし、孝心を申すに足れり。芻霊明器は一切用いるな」と。三年秋に薨じ、年七十三。 侍中 ・太尉・隴西王の印綬を追贈され、 諡 して宣と曰う。雑綵五百匹を賻し、轀輬車及び命服・温明秘器を賜い、金陵に陪葬された。
長子の延は、性質謹厚にして学を好む。初め功臣の子として侍御中散に拝され、武城子の爵を賜い、西冶都將となった。卒し、涼州刺史・広武侯を追贈され、諡して簡と曰う。子の鱗が襲封した。
源懷
延の弟の思禮は、後に名を懷と賜り、謙恭寛雅にして大度あり。高宗の末、侍御中散となった。父の賀が老いを辞すに当たり、詔して懷に父の爵を受けさせ、征南將軍に拝した。まもなく持節・諸軍を督し、漠南に屯す。還りて殿中尚書に除され、出でて 長安 鎮将・雍州刺史となる。清儉にして恵政あり、撫恤に善く、劫盗は止み、流民は皆相率いて来還した。歳余して、再び殿中尚書に拝され、侍中を加えられ、都曹事に参ず。また諸軍を督して蠕蠕を征し、六道の大将皆その節度を受けた。 尚書令 に遷り、律令の議に参ず。後に例に従い公に降格される。司州刺史に除される。駕に従い南征し、 衞 大將軍を加えられ、中軍事を領す。母憂のため職を去り、帛三百匹・穀千石を賜う。十九年、征北大將軍・夏州刺史に除され、 都督 雍岐東秦諸軍事・征西大將軍・雍州刺史に転ず。
景明二年、尚書左 僕射 に徴され、特進を加えられる。時に詔あり、姦吏の犯罪は、毎度多く逃遁し、過ちあって乃ち出で、皆な釈然とす。今より以後、犯罪は軽重を問わず、隠れ竄る者は悉く遠流に処す。もし永く避けて出でざれば、兄弟を代わりに徙す、と。懷は乃ち奏して曰く、「謹んで条制を按ずるに、逃吏は赦限に在らず。窃かに惟うに聖朝の恩は、事は前の宥しに異なり、諸の流徙の路にある者尚お旋反を蒙る。況や未だ発せずして仍って辺戍に遣わさるる者あらんや。按ずるに守宰の犯罪し、逃走する者衆し。禄潤既に優なり、尚おこの失いあり。恩宥を蒙り、卒然として還るを得る。今独り此の等を苦しむは、恐らく均一の法に非ざらん。臣の管執する如くは、これを免ずべしと謂う」と。書奏すれども、門下は成式既に班せられたるを以て、駁奏して許さず。懷は重ねて奏して曰く、「臣以為うに、法は経通を貴び、治は簡要を尚ぶ。刑憲の設けは、以て罪人を網羅する所以なり。苟も理の備わる所は、繁典に在らず。行うこと通ず可きは、豈に峻制を容れんや。此れ乃ち古今の達政、救世の恒規なり。伏して条制を尋ぬるに、勲品已下、罪発して逃亡するは、恩に遇うも宥さず、仍って妻子を流す。姦途を抑絶せんと欲すと雖も、通式たるに匪ず。謹んで事条を按ずるに、官を侵し法を敗るは、専ら流外に拠る。豈に九品已上の人、皆な貞白ならんや。其の諸州の守宰、職任清流なるも、貪濁に至る者有り、事発して逃竄し、恩に遇って罪を免かる。勲品已下、独り斯の例に乖く。此くの如くすれば、則ち上流を寛縱し、下吏に法切なり。物を育するに差有り、恵罸等しからず。又謀逆滔天も、軽く恩を尚お免かる。吏微罪を犯すは、独り赦を蒙らず。大宥の経を通ぜず、生を開くの路を壅せしむ。進んでは古典に違ひ、退きては今律に乖く。輒ち愚見を率ゐて、停むべしと為す」と。書奏す。世宗これを納れたまう。
その年、車騎大將軍・涼州大中正に除される。懷は奏して曰く、「南賊遊魂江揚にあり、職として乱逆を為し、其の淫昏を肆にし、月に滋く日に甚だし。貴臣重将、孑遺有ること靡く、姦回を崇信し、閹豎に昵比し、内外心を離れ、骨肉猜叛す。蕭寶融は荊郢に僭号し、其の雍州刺史蕭衍は兵を勒して東襲し、上流の衆已に其の郊に逼る。広陵・京口は各兵を持して両望を 懐 き、鍾離・淮陰は並び鼎峙して得失を観る。秣陵孤危にして、制門を出でず。君子小人、並びに災禍に罹り、首を延べて北を望み、朝夕に及ばず。斯れ実に天啓の期、吞 并 の会なり。其の蕭牆の釁に乗じ、其の分崩の隙を藉り、東は歴陽に拠り、兼ねて瓜歩を指し、江に縁る鎮戍、荊郢に達せしむ。然る後に雷電の威を奮い、山河の信を布けば、則ち江西の地は刃せずして自ら来たり、呉会の郷は期を指して挙ぐ可し。昔、士治の言有り、皓若暴死し、更に賢主を立て、文武の官各其の任を得ば、則ち勁敵なり、と。若し蕭衍 克 く就き、上下心を同じくせば、直ちに後図の難のみに非ず、実に揚境危逼せん。何となれば、寿春の建 鄴 を去ること七百のみ。山川水陸、彼の諳利する所なり。脱や江湘波無く、君臣職を効し、水を藉り舟に憑り、倐忽として至らば、寿春容れ自ら保たず、江南将に之を若之何せん。今宝巻の邑居には土崩の形有り、辺城に継援の兆無し。江区を清蕩するは、実に今日に在り。臣恩を受くる既に重し、敢えて言わざるを得ず」と。詔して曰く、「君たらず臣たらずは、江南の常弊なり。粟有りて食わざるは、其れ斯れに在り。上天将に之を亡ぼさんと欲し、諸蕃又取らんと願う。人事天道、孰か会に匪ずと云わん。但だ害を養うは、仁者の為さざる所なり。且つ十月五日、衍の軍已に大航に達す。其の大傷小亡の勢は、久しく応に決有るべし。仮令天宝巻を罰し、衍の兵進むことを獲ば、則ち衍の主佐は又た乱亡の遺孽なり。皇靈其れ能く久しく之を祐せんや。今の矜る所は、正に南黔の徳を企て、辺書の継至するを以てなり。殄悴の氓は、理を以て救接すべし。若し爾らば、揚州の兵力、配積少なからず。但だ速やかに任城を遣わし、処分に委ね、別に慰勉を加え、辺算を妙に尽くさしむべし」と。衍の事克くするに因り、遂に停む。
源懐はまた上表して言うには、「昔、世祖(太武帝)が昇遐( 崩御 )され、南安王余が在位した時、東廟に出て拝礼したところ、賊臣の宗愛に 弑 せられた。時に高宗(文成帝)は難を避け、苑中に潜んでおられた。宗愛は異図を抱き、神位(帝位)は未だ定まらなかった。臣の亡父、先臣の源賀は長孫渇侯・陸麗らと共に高宗を迎え奉るよう上表し、徽号と宝命(帝位)を継承させた。陸麗は聖躬(皇帝)を扶け負った功績により、親しく見識された者として、撫軍大将軍・ 司徒 公・平原王を授けられた。興安二年(453年)、定策の勲を追論し、先臣の爵を西平王に進めた。皇興(献文帝の年号)の末年、顕祖(献文帝)が京兆王( 拓跋 子推か)に大位を伝えようとされた時、先臣は諸将を 都督 し、武川に屯していたが、召されて京に詣で、特に顧問を受けた。先臣は固執して不可とし、顕祖は久しくしてようやくこれを許し、遂に先臣に命じて節を持ち、高祖(孝文帝)に皇帝の璽綬を授けさせた。太和十六年(492年)に至り、陸麗の息子の陸叡が秘書に上書し、その亡父が先臣と共に高宗を援立したと称したため、朝廷は追録し、陸叡を鉅鹿郡開国公に封じた。臣は時に艱(父母の喪)に服し草土にあったため、例に及ぶことを許されなかった。二十年(496年)、臣が雍州刺史に任ぜられ、出発に際し奉辞して、先帝(孝文帝)に面奏し、先臣の旧勲を申し上げた。時に勅旨はただ赴任先に臨むべしとし、まもなく別に判断すべき旨であった。二十一年(497年)、車駕が雍州に行幸され、臣は再び陳聞した。時に蒙った勅旨は、征還されたら授けるとのことであった。宮車(帝の乗り物)が晏駕(崩御)して以来、遂にこれは明らかにならなかった。窃かに惟うに、先臣は遠くは高宗を援立し、 宝暦 (皇統)を墜とさず、近くは顕祖に力を尽くし、神器(帝位)に帰する所があった。かくの如き勲功は、世を超えた事績である。陸麗は父の功によって河山の賞(封土の賜)を得たのに、臣は家の勲功がありながら、茅社の賜(封爵)に 霑 わない。得るものと否むものとの懸隔は甚だしい。どうか裁断を垂れ賜われ」と。詔して言うには、「宿老の元丕が云うように、訴えの通りである。史官に訪ねても、頗るこれを言う。比(先例)に依って 馮翊郡 開国公を授け、邑百戸とせよ」と。
また詔して使持節とし、侍中・行臺を加え、北辺の六鎮及び恒・燕・朔の三州を巡行させ、貧乏を賑給し、兼ねて風俗を採り、殿最を考論し、事の得失は皆、先に決して後で奏聞させることとした。京師が 洛陽 に遷都して以来、辺朔は遙遠であり、連年の旱魃と凶作が加わり、百姓は困弊していた。源懐は命を奉じて巡撫し、存恤に方策があり、便宜を以て物資を運転し、有無を通じ救済した。時に后父の于勁は勢い朝野を傾け、勁の兄の于祚は源懐と昔から通婚しており、時に沃野鎮将としており、頗る収賄があった。源懐が鎮に入らんとした時、于祚は郊外で道の左に迎えたが、源懐は彼と語らず、即座に于祚を弾劾して免官させた。懐朔鎮将の元尼須は源懐と若い頃からの旧知であったが、また貪穢狼藉であった。酒宴を設けて源懐を招き、源懐に言うには、「命の長短は卿の口に由る。どうか寛貸せぬことがあろうか」と。源懐は言うには、「今日の集いは、源懐が故人と酒を飲む席であって、獄を 鞫 する所ではない。明日の公庭こそ、始めて使人が鎮将の罪状を検する処である」と。尼須は涙を揮うのみで、これに答える言葉がなかった。源懐は既にして表して尼須を弾劾した。その奉公して 撓 まぬことは、皆この類いであった。
源懐はまた上表して言うには、「景明(宣武帝の年号)以来、北蕃は連年災害と旱魃に見舞われ、高原の陸野は営殖(耕作)に耐えず、ただ水田のみが少しばかり開墾できる。しかし主将や参僚らは、専ら肥沃で良い土地を 擅 にし、瘠土や荒れた田畑を百姓に与えている。このため困弊し、日月を経るごとに甚だしくなっている。諸鎮の水田は、地令に依って細民(小民)に分け与え、まず貧しい者、後に富める者とすべきである。もし分付が公平でなく、一人でも怨訟する者があったならば、鎮将以下連署の官は、各々一時の禄を奪い、四人以上ならば禄を一周(一年分)奪うべきである。北鎮の辺蕃は、諸夏( 中原 )とは事態が異なる。往日は官を置くにも、全く差別がなかった。沃野一鎮だけで、将軍以下八百余人おり、黎庶は怨嗟し、皆が煩猥であると言う。辺隅の事は少なく、実際には畿服(京畿)よりも少ない。主帥と吏佐を五分の二減ずることを請う」と。詔して言うには、「表を省みて民を 恤 むるの 懐 が具わっている。既に有司に勅して、一に上奏された通りにさせ、下って永準とせよ。このような類いで、民に不便であり、教化を損ない政を害するものは、備えて列挙して奏聞せよ」と。時に細民が豪強に陵圧され、積年の冤枉滞滞が一朝に申し開かれる者は、日に百数を数えた。上奏した事柄で北辺に便宜なものは、凡そ四十余条に及び、皆嘉納された。
正始元年(504年)九月、蠕蠕が十二万騎を率い六道並進して、直ちに沃野・懐朔に向かい、南へ恒州・代州を寇掠しようとしているとの報告があった。詔して源懐を以て本官のまま、使持節・侍中を加え、北蕃に出て拠り、規略を指授し、必要に応じて徴発し、諸々の処分は皆、便宜を以て事に従うこととした。また詔して源懐の子の直寝の源徽に、源懐に 随 って北行することを命じた。詔して馬一匹・細鎧一具・御矟(じょく、矛)一枚を賜う。源懐は拝受し終わると、その庭で鞍を跨ぎ矟を執り、馬を躍らせて大呼し、顧みて賓客に言うには、「気力は衰えたが、尚ほこのようにできる。蠕蠕は壮を畏れ老を軽んずるが、我もまた未だ欺かれるべきではない。今、廟勝の規(朝廷の勝算ある計画)を奉じ、 驍 捍の衆を総べる。以てその酋帥を 擒 にし、俘虜を闕下に献ずるに足る」と。時に年六十一歳であった。源懐が雲中に至ると、蠕蠕は逃亡遁走した。
源懐は間もなく恒州・代州に至り、諸鎮の左右の要害の地を案視し、城を築き戍を置くべき処を検分した。皆その高低を量り、その厚薄を 揣 り、及び儲糧積仗の宜しき、犬牙相救の勢いを、凡そ五十八条を上表した。表に曰く、「蠕蠕は羈縻(きび、束縛)されず、古より 爾 り。遊魂の如く鳥の集まるが如く、水草を家とし、中国の患いとなる者は、皆この類いである。歴代これを駆逐したが、これを制する能わなかった。北に榆中を拓き、遠く瀚海に臨むも、智臣勇将、力算ともに竭き、胡人は頗る遁れ、中国は以て疲弊した。時に賢哲は、造化の至理を思い、生民の習業を推し量った。中夏の粒食邑居の民、蚕衣儒歩の士と、荒表の茹毛飲血の類、鳥宿禽居の徒とを較べ、短長を 親 ら 校 べ、宜しきに因り防制した。城郭の固きを知り、暫くの労をもって永逸を得るのである。皇魏が統極(天下を統治)し、 平城 に都して以来、威は天下を震わせ、徳は宇宙を 籠 った。今、成周(洛陽)に定鼎し、北は遙遠に去っている。代(州)以遠の諸蕃は北に固く、 高車 は外に叛き、間もなく旱魃凶作に遭い、戎馬甲兵は十分の八を闕いている。去歳、再び陰山に鎮したが、諸事蕩尽し、尚書郎中の韓貞・宋世量らを遣わして要険を検行させ、形便を防遏させた。旧鎮を準え東西相望み、形勢相接するようにし、城を築き戍を置き、兵を分けて要害に配し、農を勧め粟を積み、警急の日には、 随 って 便 く翦討すべきであると謂う。このようにすれば、威形は増広し、兵勢もまた盛んとなる。且つ北方の沙漠は、夏には水草に乏しく、時に小泉があっても大衆を 済 わない。もし非意(不意の事変)があれば、秋冬を待ち、雲に因って動くであろう。若し冬日に至れば、 氷沙凝厲 し、遊騎の寇は、終に敢えて城を攻めず、また敢えて城を越えて南に出ることもない。このようにすれば北方は憂い無し」と。世宗(宣武帝)はこれに従った。今の北鎮諸戍の東西九城がこれである。驃騎大将軍に遷った。
時に武興の 氐 王楊紹先の叔父の楊集起が反叛した。詔して源懐を以て使持節・侍中・ 都督 平氐諸軍事とし、これを討たせ、興廃(措置)が必要な場合は、権計に任せて従うこととした。その邢巒・李煥は共に節度を 禀 った。三年(506年)六月に卒去した。年六十三歳。詔して東園の秘器・朝服一具・衣一襲・銭二十万・布七百匹・蠟三百斤を給し、 司徒 ・冀州刺史を追贈した。兼吏部尚書の盧昶が奏上して言うには、「太常寺が議して諡を曰く、『源懐は 体 は寛柔を尚び、器操は平正である。諡法に依れば、柔直にして考終(天寿を全う)するを「靖」と曰う』。宜しく靖公と諡すべし。 司徒 府が議して曰く、『源懐は陝西(陝州以西、雍州方面)に牧たりし時、民に恵化の余りあり、入りて端貳(尚書省の長官・次官)を総べし、朝列仁に帰す。諡法に依れば、徳を布き義を執るを「穆」と曰う』。宜しく穆公と諡すべし。二つの諡が同じからず」と。詔して言うには、「府・寺の執る所、並びに 克 く 允 ならず。民を愛し与うるを好むを「恵」と曰う。恵公と諡すべし」と。
源懐は寛容で簡約な性質であり、煩瑣なことを好まず、常に人に語って言うには、「貴人たる者は、世務を治めるには綱維を挙げるべきであり、何ぞ必ずしも細事に拘泥せんや。譬えば屋を造るが如く、ただ外から見て高く顕れ、楹棟平正にして、基壁完牢、風雨入らず、足れりとす。斧斤平らかならず、斲削密ならざるは、屋の病に非ず」と。また酒を飲まぬ性質ながら人に飲ませることを喜び、賓客や友人を迎えることを好み、音律に雅く通じ、白髪の身となっても、宴居の暇には常に自ら弦楽器を奏でた。懐には七人の子があった。
長子の源規は、 字 を霊度という。 中書 学生・羽林監となり、爵を襲った。三十三歳で卒した。
子の源粛が襲爵した。卒した。
子の源紹が襲爵した。景明の初め、詔により王爵を復し、まもなく隴西郡開国公に除された。光禄大夫の任にて卒した。度支尚書・冀州刺史を追贈され、諡して文といった。
子の源文遠が襲爵した。斉が禅譲を受けると、例により降格された。
源規の弟の源栄は、字を霊並という。三十二歳で、 司徒 掾の任にて卒し、光州刺史を追贈された。
源栄の弟の源徽は、字を霊祚という。二十八歳で、直閤将軍の任にて卒し、特に洛州刺史を追贈され、諡して質といった。
源徽の弟の源玄諒は、懐の弟の源奐の後を継いだ。卒し、 代郡 太守を追贈された。
源子雍
源玄諒の弟の子である源子雍は、字を霊和という。若くして文雅を好み、学問に篤志を励み、誠を推して士を待ったので、士多くこれに帰した。秘書郎より、太子舎人・涼州中正に除された。粛宗が 践祚 すると、宮臣の例により奉車都尉に転じ、 司徒 属に遷った。太中大夫・ 司徒 司馬に転じた。恒農太守に除され、夏州刺史に遷った。
時に沃野鎮の民破落汗抜陵が初めて反乱を起こし、所在に蜂起し、統万の逆胡もこれと相応接した。子雍は城を嬰して自ら守り、城中の糧尽き、馬の皮を煮て食した。子雍は綏撫に長け、士心を得て、人々力を戮し、離反する者無かった。飢饉が次第に切迫したため、自ら出て糧を求めようとし、子の延伯を留めて守らせた。僚属は皆言うには、「今天下分析し、寇賊万重、四方の音信、断絶せざるは莫く、俄頃の間に変は不意に在り、何ぞ父子をしてかくの如く分張せしむるに宜しからん。未だ城を棄てて俱に去り、更に規略を展ぶるに若かず」と。子雍は泣いて衆に謂いて言うには、「吾は世に国恩を荷い、早く藩寄を受く。此れは吾が死地なり、更に何をか求めん。然れども守禦以来、歳月浅からず、患う所は糧乏しきに在りて、勝を制するを得ざるなり。吾今東州に向かえば、数月の食を得、還りて諸人と保全せんこと必ずせり」と。遂に自ら羸弱を率い、東夏に向かい糧を運ぼうとした。延伯と将士は城外まで送り出し、泣いて拝辞し、三軍嗚咽せざるは無かった。子雍は数日行き、朔方の胡帥曹阿各抜に邀撃され、力屈して捕らえられた。子雍は密かに人を遣わし書を齎し、間道を行かせて城中の文武に伝えさせた。「大軍近し、努力して囲守せよ、必ず諸人をして福流れ苗裔に及ぼさしめん」と。また延伯に命じて固守を共にさせた。子雍は囚われた身ながらも、雅く胡人に敬われ、常に民礼をもってこれに事えた。子雍は安危禍福の理を陳べ、阿各抜を勧めて降伏させようとした。阿各抜はこれに従おうとしたが、果たさずして死んだ。阿各抜の弟の桑生が代わって部衆を総べ、竟に子雍に従って降った。時に北海王元顥が大行臺となっており、子雍は賊を滅ぼし得る状を具に陳べた。顥は子雍に兵馬を与え、先に行かせた。時に東夏は合境反叛し、所在に屯結していた。子雍は転鬬して前進し、九旬の間に凡そ数十戦し、遂に東夏を平定し、租粟を徴税して統万に運んだ。ここに於いて二夏漸く寧まった。
蕭宝夤らが賊に敗れると、賊帥宿勤明達は息の阿非を遣わし衆を率いて路を邀えた。華州・白水は囲逼され、関右は騒擾し、咫尺も通じなかった。時に子雍は新たに黒城を平定したばかりであり、遂に士馬を率い、夏州に募った義民と共に、家を携え席卷し、鼓行して南に出た。賊帥康維摩が羌胡を擁率して鋸谷を守り、嬰瓦棠橋を断った。子雍はこれと交戦し、大破して、維摩を生擒した。また賊帥契官斤を楊氏堡に攻め、これを破った。子雍は西夏より出で、漸く東に至り、千里を転戦し、ここに至って、朝廷始めてその委細な報告を得た。 散騎常侍 ・使持節・仮撫軍将軍・ 都督 ・兼行臺尚書に除された。また賊帥紇単歩胡提を曲沃堡に破った。粛宗は璽書を下して労勉した。子雍は白水郡にて再び阿非の軍を破り、多くを斬獲した。詔により侍中・ 尚書令 ・城陽王元徽を潼関に遣わし、旨を宣して慰労させた。中軍将軍・金紫光禄大夫・給事黄門侍郎に除され、楽平県開国公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。
洛に還ると、葛栄が久しく信都を逼っていたため、詔して子雍に征北将軍を仮し、北討 都督 とした。時に相州刺史安楽王元鑑が鄴に拠って反したため、勅して子雍と 都督 李神軌に先ずこれを討たせた。子雍が湯陰に到着すると、鑑は弟の斌之を遣わし夜襲をかけたが、克たず、奔敗して返った。子雍は機に乗じて進み、径ちに 鄴城 を囲み、裴衍・神軌らと共に鑑を攻め、これを平定した。陽平県開国公に改封され、邑千五百戸を増やされ、鎮東将軍に進号した。遂に裴衍と共に鄴を発ち葛栄を討とうとしたが、信都城は陥落した。子雍を冀州刺史に除した。余官は元の如し。子雍は冀州が守られなかったことを以て、上書して言うには、「賊中甚だ飢え、専ら野掠に仰ぐ。今朝廷は食足り、兵卒は飽暖たり。高壁深壘し、争鋒するに与せず、彼戦を求めれば則ち得ず、野掠して獲る所無く、数旬を盈たさずして、坐して凶醜を制すべし」と。時に裴衍もまた表を上して行軍を求めた。詔して子雍と衍に速やかに進軍させた。子雍は重ねて表を上し固く請い、もし不可と謂わば、裴衍をして独り行かしめんことを乞い、若し解き給わざれば、裴衍を停めんことを求む。苟くも同行を逼れば、敗を取ること旦夕なり、と。詔は聴かず、遂に衍と俱に進んだ。陽平郡東北の漳曲に至ると、栄は賊十万を率いて官軍を逼った。子雍は戦いに敗れて害され、年四十。朝野痛惜した。車騎大将軍・儀同三司・雍州刺史を追贈し、公は元の如し。永安年中、重ねて 司空 を追贈し、諡して荘穆といった。
長子の延伯は、従伯の後を継いだ。次子の士則は早世した。士則の弟の士正・士規は、共に事に坐して死んだ。次に楷、字は士質、小字は那延、爵を襲った。武定年中、斉文襄王府参軍となり、斉が禅譲を受けると、例により降格された。
延伯は、初め 司空 参軍事となった。時に南秦の民呉富が反叛し、詔して河間王元琛を 都督 とし、延伯の叔父子恭を軍司とした。延伯は統軍となり、子恭に随って西討し、戦えば必ず先鋒となった。子恭はその年幼きを見て、常に訶って制したが禁じ得なかった。
子雍が夏州におり、兵の援軍を求める上表をしたので、詔により延伯は羽林一千人を率いて赴き、城での戦いや野戦において、その勇猛は三軍に冠たるものがあった。子雍が東夏に向かう際、延伯を留めて城を守らせ、後事を託した。延伯は兵士と共に湯菜を分け合い、城壁と堀を固く防備した。子雍が胡に捕らえられた時、城中は皆憂い恐れたが、延伯は人々に諭して言った、「我が父の吉凶は測り難く、心は焦がれ爛れ、実に裁断に苦しむ。しかし命を受けて城を守ることは、重きをなすべき事柄であり、もし私情をもって公務を害するならば、忠誠も孝行も共に欠けることになる。諸君は幸いにもこの心を得て、託された責務を損なうことのないように」。そこで人々はその義に感じ、奮い立たない者はなかった。朝廷はこれを聞いて賞賛した。龍驤将軍に任じ、夏州の事務を行い、五城県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。ついに堅固に守り抜いた。後に刺史が到着すると、延伯は義兵を率いて子雍のもとに赴き、共に黒城を平定した。嬰瓦棠橋の戦いでは、先鋒として敵陣に突入し、自ら維摩を生け捕りにした。白水に至っては、真っ先に阿非を打ち破った。
子雍に従って都に至り、浮陽伯に爵位を進められ、封邑を百戸増やされ、諫議大夫となった。冠軍将軍・別将を仮授され、子雍に従って北方を討った。葛栄と戦って戦死し、時に二十四歳であった。持節・平北将軍・涼州刺史を追贈され、開国の爵位は従前の通りであった。
子の孝孫が襲封した。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。
源子恭
子雍の弟の子である子恭は、字を霊順といい、聡明で学問を好んだ。初め 司空 参軍事に辟召された。 司徒 祭酒・尚書北主客郎中となり、南主客の事務を摂行した。
蕭衍の逃亡者である許周が自ら蕭衍の給事黄門侍郎と称し、朝廷の人士はこぞってこれを信じ待遇した。子恭は上奏して言った、「徐州が帰化人許団とその弟の周らを報告した。その牒状を究めると、周は自らを蕭衍の黄門侍郎と列記している。また山水を心に思い、栄官を好まず、たびたび辞退したが、かの者の激怒を招き、遂に斉康郡に出されたという。それによって帰国し、嵩山で志を全うしたいと願っているという。これまで調査を加えたが、少しも証明がなく、その上表の様子を尋ねると、またもや不明瞭である。案牒を推し量ると、実に疑わしい点がある。なぜか。昔、夷斉は独り去り、周王はその志を屈せず、伯況は禄を辞し、漢帝はその美を成した。これはまさに古の先哲の王には、必ず臣とならぬ者がいたということである。蕭衍はたとえ江左で崎嶇としていようとも、一隅に窃かに号したに過ぎず、物事を処するに至っては、礼に甚だ背いてはいない。どうして士が栄禄を辞して、苟も聞き入れられぬことがあろうか。情理を推し察すれば、これはでたらめである。仮に蕭衍が昏狂で、雅道を存せず、士を逼迫して郡に出したとしても、死に急ぐほどのことではなく、どうして軽々しく生養の地を去り、父母の邦に長く別れを告げるべきであろうか。もし栄官を好まず、志して嵩山を願うというなら、初めて来た日に、即ち杖を執って山を尋ね、書帙を背負って水に沿うべきであり、しかるに広く知己を尋ね、遍く執事に造り、栄達を希う心は既に見え、官を逃れる志はどこにあるのか。昔、梁鴻は郷里を去り、終に呉会で傭われ、逄萌は海を渡り、遠く遼東に客となった。共に志を全うし性を養い、逍遥しただけであって、事実を考証すれば、何と懸け離れていることか。またその履歴は清華で、名位は高く達しており、その家族の累を計れば、軽からぬはずである。今帰化するに当たり、何と孤迥であることか。仮に当時慌ただしく、携え行くことができなかったとしても、来た後には、家財産業は簿録に徴収されるべきであり、尊卑の家族も法に従うはずである。しかるに周兄弟は怡然として、かつて憂い悲しむことがない。もし一族がいないなら、理屈は通じるかもしれないが、もし連座しないなら、それは蕭衍が故意に遣わしたのであり、周の帰化ではない。二、三推究すれば、真偽は弁じ難い。徐揚二州に下して密かに尋ねさせ、必ず実情を得させられたい。数旬を満たさずして、玉石は見分けられよう」。そこで詔して推問させたところ、周は果たして罪によって帰朝し、職位を仮称したのであり、子恭の疑った通りであった。
河州の羌である却鉄怱が反乱し、長吏を殺害したので、詔により子恭は持節を行台とし、諸将を率いてこれを討った。子恭は州郡及び諸軍を厳しく戒め、民の一物も犯さず、軽々しく賊と戦わず、その後威恩を示したので、二旬の間に悉く降伏した。朝廷はこれを嘉した。正光元年、行台左丞となり、北辺を巡行した。
起部郎に転じた。明堂・辟雍は共に未だ完成しておらず、子恭は上書して言った、「臣は聞く、辟雍の台に気を望むことは、軌物の徳既に高く、方堂に政を布くことは、世を範する道斯くの如く遠しと。これにより書契の重みは、造化に冠たる理であり、推尊の美は、生民を絶する事である。郊天して帝を饗するに至っては、蓋し上霊に対越するためであり、宗祀して天に配するのは、下土に酬膺するためである。大孝これに加うる莫く、厳父は茲を以て大と為し、乃ち皇王の休業、国を有するの盛典である。窃かに惟うに、皇魏は震に居て極を統べ、宙を総べ宇を馭し、土中に制を革め、外無きに式を垂れる。北より南に徂き、共に卜維を洛食にし、鼎を定め民を遷し、気候を寒暑に均す。高祖これにより始めて基をなし、世宗ここに於いて構を恢めた。功成りて楽を作し、治定まりて礼を制するに按ずれば、乃ち遺文を訪ね、廃典を修め、明堂を建て、学校を立て、一代の茂矩を興し、千載の英規を標す。永平の中、始めて雉構を創し、基趾草昧にして、遂に成功無し。故に 尚書令 ・任城王臣澄は、故 司空 臣沖の造れる明堂の様、並びに連ねた表詔答・両京の模式に按じ、営起を求めて奏上した。期に縁りて旨を発し、即ち葺繕を加う。侍中・領軍臣叉は、動作の官を総べ、宣し授令を賛す。茲より厥の後、方に兵人を配し、或いは一千を与え、或いは数百を与え、進退節縮、曾て定準無く、速やかに了せんことを望めば、理に在りて克ち難し。若し専ら此の功に役せしめ、長く営造を得、成るを委ねて責め弁ぜしめば、容れ就期有らん。但だ与うる所の夫は、本より寡少にして、諸処競いて借り、動けば即ち千計に及ぶ。繕作の名有りと雖も、終に功を就くるの実無し。爽塏荒茫、年載に淹積し、結架崇構、指して兆に就く無し。仍りて冑を肄うの礼は、掩仰して進まず、老を養うの儀は、寂寥として返らず。厦を構うるは尺土に止まり、山を為すは一匱に頓す、良く惜しむべけんや!愚かには謂う、民を召して経始すれば、必ず子来の歌有り、興造は亟にせず、将に不日の美を致さんとす。況んや本兵多く無く、兼ねて之を牽役し、此を廃して彼に与え、循環極まり無し。便ち是れ礼を創るの重きを輟み、不急の費に資し、国を経るの功を廃し、寺館の役に供す、遠図に求めれば、亦た闕けざらんや?今諸寺の大作は、稍々以て粗挙し、並びに徹減すべく、専ら経綜に事とし、工匠を厳勒し、務めて克成せしむべし。祖宗に薦配の期有らしめ、蒼生に礼楽の富を覩せしめん」。上書が奏上され、これに従った。冠軍将軍・中散大夫に任じ、また治書侍御史を領した。
秦益の氐が反乱し、詔により子恭は持節を 都督 ・河間王琛の軍司としてこれを討った。事が平定されると、引き続き南秦州の事務を行った。六鎮が反乱すると、子恭を兼給事黄門郎とし、持節を持って慰労させた。帰還し、河内太守に拝され、後将軍を加えられ、絳蜀の反乱を平定した。丹谷・清廉の二路は険阻で通じず、子恭を当郡の別将とした。間もなく建興蜀がまた反乱し、互いに連勢したので、子恭を進めて持節・ 散騎常侍 ・仮平北将軍・征建興 都督 とし、引き続き尚書行台を兼ね、正平 都督 長孫稚と合勢して進討し、大いにこれを破った。正平の賊帥范明遠と賊帥劉牙奴は共に面縛して降伏を請うた。事が平定されると、平南将軍・ 豫 州刺史に任じ、間もなく 散騎常侍 ・撫軍将軍を加えられた。
武泰の初め、郢州刺史元願達が城を以て蕭衍に降り、詔して 都督 尉慶賓を徴して京師に還らしめ、その衆を子恭に隷属させてこれを討たしめた。蕭衍の将夏侯夔が衆数万を率いて来寇し、遠近不安となった。夔は勢いに乗じて兵を分け、遂に新蔡を逼り、自ら毛城を攻めた。子恭は方に随って応援し、賊は皆破れて走った。蕭衍の 豫 州刺史夏侯亶はまた四将を遣わし、衆三万を率いて南頓を囲み、北より陳項を攻めた。子恭は軍を遣わしてこれを防ぎ、賊はまた奔退した。鎮南将軍を加えられ、また尚書行臺を兼ねた。子恭は衆を率いて淮を渡り、民を淮北に移し、郡県を立て、戍を置いて還った。蕭衍の直閤将軍・軍主胡智達ら八将が、その監軍閻次洪とともに侵入し、州城の東北四十余里に屯した。子恭はこれを撃破し、智達を斬り、次洪を生け捕りにした。
元顥が洛に入った時、子恭に車騎将軍を加えたが、子恭は敢えてこれを拒まず、頻りに間使を遣わして荘帝の動静を窺った。未だ幾ばくもせず、顥は敗れ、車駕は洛に還り、征南将軍・兼右僕射に進み、車騎将軍を仮し、後に 散騎常侍 を加えられた。
板橋の蛮族の文石活・石忌麤が蕭衍の印節を受け、党類を扇動誘惑し、険阻に拠って寇窃を働いた。子恭は躬自ら将士を率い、直ちにその柵を襲い、数日のうちに、殲滅すること略ね尽くした。諸蛮は服従を請い、皆税を輸納することを求めた。右光禄大夫・給事黄門侍郎に徴され、仍って本将軍のままとした。その前後の征討の功を録し、臨潁県開国侯に封ぜられ、食邑六百戸、 散騎常侍 を加えられた。俄かに侍中に遷った。
尒朱栄の死に際し、世隆・度律が河橋を占拠遮断した。詔して子恭を 都督 としてこれを討たしめ、大夏門の北に出て頓した。間もなく太府卿李苗が夜に河橋を焼き、世隆は退走した。仍って子恭に尚書僕射を兼ねさせ、大行臺・大 都督 とした。尋いで衛将軍に遷り、車騎将軍を仮し、諸将を率いて太行に塁を築きこれを防いだ。既にして尒朱兆が衆を率いて南に出ると、子恭の配下の 都督 史仵龍・羊文義が柵を開いて兆に降った。子恭は退走し、兆に破られた。衆は既に退散し、兆は因って洛に入った。子恭は緱氏に逃れ、仍って捕らえられて送られた。俄かに釈放された。
前廃帝の初め、驃騎将軍・左光禄大夫を除され、侍中は元の如しとした。尋いで散騎侍郎・ 都督 三州諸軍事・本将軍・仮車騎大将軍・行臺僕射・荊州刺史を授けられた。定策の勲に与った功により、臨汝県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を賜った。時に叛蛮の雷乱清が蕭衍の兗州刺史の章綬を受け、侵入して寇掠し、諸蛮がこれに従い、郡県を置立した。子恭はこれを討平した。永熙年中、吏部尚書として入朝し、驃騎大将軍を加えられた。子恭が以前 豫 州での戦功があったことを以て、襄城県開国男を追賞し、食邑二百戸を賜った。また子恭の残りの功効を論じ、新城県開国子に封ぜられ、食邑四百戸を賜った。子恭は尋いで表を上って第五子の文盛に転授することを請い、許された。天平の初め、 中書監 を除された。三年、魏尹に拝され、また斉献武王の軍司となった。元象元年。興和二年、 都督 徐兗二州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・ 司空 公・兗州刺史を贈られ、諡して文献といった。
子の彪、字は文宗。子恭の存命中に、臨潁県開国侯を転授された。武定末、太子洗馬。
彪の弟の文瑤、武定年中、襄城県開国男を襲封した。斉が禅を受けると、爵は皆降等された。
子恭の弟の纂、字は霊秀。員外散騎侍郎、累遷して征虜将軍・通直 散騎常侍 ・涼州大中正となり、転じて太府少卿となった。建義の初め、河陰で害に遇い、年三十七。 散騎常侍 ・征北将軍・定州刺史を贈られた。
懐の弟の奐、字は思周、若くして謹密であった。初め中書学生となった。父に従って敕勒を討ち、斬獲の功があり、中散に遷った。前後十余所の州鎮を巡察し、皆功績があった。長楽太守を除されたが、母老のため官を解き帰養した。卒し、子無し。
【論】
史臣曰く、源賀は堂堂たり、ただ武節のみにあらず、その高宗を翼戴し、禅譲を庭抑するは、殆ど社稷の臣なり。懐は幹略兼ね備え、出内に声有り、賢考の跡を継ぎ、先業を墜とさず。子雍は夏方に効を立て、冀野に身を亡ぼす、惜しいかな。
校勘記