魏書

卷40 陸俟

卷40 陸俟

陸俟は代の人である。曾祖父は幹、祖父は引、代々部落を統領した。父の突は太祖の時に部民を率いて征伐に従い、しばしば戦功を立て、厲威將軍・離石鎮将に任ぜられた。天興年間、上黨太守・關内侯となった。

原文陸俟,代人也。曾祖幹,祖引,世領部落。父突,太祖時率部民隨從征伐,數有戰功,拜厲威將軍、離石鎮將。天興中,為上黨太守、關內侯。

俟は幼少より聡明で、策略を持っていた。太宗が即位すると、侍郎に任ぜられ、内侍に遷り、爵位の關内侯を襲い、龍驤將軍・給事中に転じ、選部蘭臺の事務を管轄した。官職に当たって行動し、屈することはなかった。世祖が赫連昌を親征した際、詔により俟は諸軍を督して大磧を鎮め、蠕蠕に備えさせた。車駕が還ると、再び選部蘭臺の事務を管轄した。西平公の安頡と共に諸軍を督して虎牢を攻め、これを陥落させ、建業公の爵位を賜り、冀州刺史に任ぜられ、もとの將軍のままとした。時に州郡の治績を考課したところ、ただ俟と河内太守の丘陳のみが天下第一であった。都督洛豫二州諸軍事・本將軍・虎牢鎮大将に転じた。平涼の休屠の金崖・羌の狄子玉らが反乱すると、再び使持節・散騎常侍・平西將軍・安定鎮大将に転じた。到着すると、羌戎を懐柔し、帰順しない者はなかった。崖らを追討し、ことごとく捕らえた。召還されて散騎常侍に任ぜられた。

原文俟少聰慧,有策略。太宗踐阼,拜侍郎,遷內侍,襲爵關內侯,轉龍驤將軍、給事中,典選部蘭臺事。當官而行,無所屈橈。世祖親征赫連昌,詔俟督諸軍鎮大磧,以備蠕蠕。車駕還,復典選部蘭臺事。與西平公安頡督諸軍攻虎牢,克之,賜爵建業公,拜冀州刺史,仍本將軍。時考州郡治功,唯俟與河內太守丘陳為天下第一。轉都督洛豫二州諸軍事、本將軍、虎牢鎮大將。平涼休屠金崖、羌狄子玉等叛,復轉為使持節、散騎常侍、平西將軍、安定鎮大將。既至,懷柔羌戎,莫不歸附。追討崖等,皆獲之。徵還,拜散騎常侍。

出向して平東將軍・懷荒鎮大将となった。一年も経たぬうちに、諸高車の莫弗らが俟の厳しすぎること、部下への恩がないことを訴え、前の鎮将の郎孤を請い戻すよう願った。世祖は詔でこれを許し、俟を召還して京師に帰らせた。朝見すると、世祖に言上して曰く、「陛下が今郎孤を再び鎮守させようとされるが、臣の愚かな推量では、一年を過ぎず、郎孤は必ず敗れ、高車は必ず叛くでしょう」。世祖は事実でないと疑い、厳しく責め、公として邸宅に帰らせた。翌年、諸莫弗は果たして郎孤を殺して叛いた。世祖はこれを聞き、大いに驚き、直ちに俟を召し、敗れることを知った理由を問うた。俟は曰く、「そもそも高車は上下の礼がなく、礼のない者は、その上に立つことが難しい。臣が威厳をもって臨み、法網で節制したのは、次第に訓導を加え、分限を知らせようとしたからです。しかし、直を憎み正を醜とする者は、実に多く、故に臣に恩がないと訴え、孤の美を称えたのです。孤が鎮守に戻ることを得て、その名誉を喜び、必ず百姓に恩を加え、臣の失いを譏り、専ら寛恵をもって治め、仁恕をもって接しようとするでしょう。礼のない者は、陵傲を生じやすく、一年を過ぎず、上下の別がなくなり、その後で威をもって収めれば、人は怨懟を抱き、怨懟が多くなれば、敗乱が顕わになるのです」。世祖は笑って曰く、「卿の身は短いが、慮は何と長いことか」。即日、再び散騎常侍に任ぜられた。

原文出為平東將軍、懷荒鎮大將。未期,諸高車莫弗訟俟嚴急,待下無恩,還請前鎮將郎孤。世祖詔許之,徵俟還京。既至朝見,言於世祖曰:「陛下今以郎孤復鎮,以臣愚量,不過周年,孤身必敗,高車必叛。」世祖疑謂不實,切責之,以公歸第。明年,諸莫弗果殺郎孤而叛。世祖聞之,大驚,即召俟,問其知敗之意。俟曰:「夫高車上下無禮,無禮之人,難為其上。臣所以莅之以威嚴,節之以憲網,欲漸加訓導,使知分限。而惡直醜正,實繁有徒,故訟臣無恩,稱孤之美。孤獲還鎮,欣其名譽,必加恩於百姓,譏臣為失,專欲以寬惠治之,仁恕待之。無禮之人,易生陵傲,不過期年,無復上下,然後收之以威,則人懷怨懟,怨懟既多,敗亂彰矣。」世祖笑曰:「卿身乃短,慮何長也。」即日,復除散騎常侍。

世祖が蠕蠕を征し、涼州を破った時、常に車駕に随い別に輜重を督した。また高涼王の那と共に黄河を渡り南に進み、地を略して済南の東平陵に至り、その民六千家を河北に移した。

原文世祖征蠕蠕,破涼州,常隨駕別督輜重。又與高涼王那渡河南,略地至濟南東平陵,徙其民六千家於河北。

また俟を以て都督秦雍二州諸軍事・平西將軍・長安鎮大将とした。高涼王の那と共に杏城で蓋吳を撃ち、大いにこれを破った。吳の二人の叔父を捕らえ、諸将は京師に送ろうとしたが、俟だけは許さず、曰く、「そもそも長安は一つの都で、険阻な地であり、民は多く剛強で、その類は一様ではない。清平の時でさえ、なお叛動が多いのに、今は良民でさえなお懼れているところ、ましてその党与においてをやである。もし吳を斬らなければ、長安の変は未だ止まない恐れがある。吳は一身を隠し潜んでいるが、その親信でなければ、誰が捕らえられようか。十万の衆を留めて一人を追うのは、上策ではない。ひそかに吳の叔父を許し、その妻子を免じて、自ら吳を追わせれば、必ず擒にできるでしょう」。諸将は皆曰く、「今賊を討ち、既にこれを破り、その二人の叔父を捕らえた。ただ吳一人だけでは、再びどうなることもあるまい」。俟は曰く、「吳の悖逆は、もとより天性のものであり、今もし免れることを得れば、必ず愚民を誑惑し、王者は死なずと称し、妄りに扇動し、患いは必ず大きくなるでしょう。諸君は毒蛇を見ないのか。その頭を断ってもなお害をなす。まして腹心の疾を除きながら、必ずその類を遺すと言うのは、それでよいのか」。諸将は曰く、「公の言う通りである。しかし賊を得て殺さず、さらに求めるところがあって、遂に去って返らなければ、その罪はどうなるのか」。俟は曰く、「この罪は私が諸君と共に当たる」。高涼王の那も俟の計に従い、遂に吳の二人の叔父を遣わし、期日を約した。吳の叔父が至らぬと、諸将は各々俟を咎めた。俟は曰く、「これは未だその便を得ぬだけであり、必ず背くことはない」。後数日、果たして吳を斬って至り、皆その言う通りであった。俟の明略と独断は、皆この類である。内都大官に遷った。

原文又以俟都督秦雍二州諸軍事、平西將軍、長安鎮大將。與高涼王那擊蓋吳於杏城,大破之。獲吳二叔,諸將欲送京師,俟獨不許,曰:「夫長安一都,險絕之土,民多剛強,類乃非一。清平之時,仍多叛動,今雖良民,猶以為懼,況其黨與乎?若不斬吳,恐長安之變未已。吳一身藏竄,非其親信,誰能獲之?若停十萬之眾以追一人,非上策也。不如私許吳叔,免其妻子,使自追吳,擒之必也。」諸將咸曰:「今來討賊,既破之,獲其二叔,唯吳一人,何所復至。」俟曰:「吳之悖逆,本自天性,今若獲免,必誑惑愚民,稱王者不死,妄相扇動,為患必大。諸君不見毒蛇乎?斷其頭猶能為害,況除腹心疾,而曰必遺其類,其可乎?」諸將曰:「公言是也。但得賊不殺,更有所求,遂去不返,其如罪何?」俟曰:「此罪我與諸君當之。」高涼王那亦從俟計,遂遣吳二叔,與之期。及吳叔不至,諸將各咎於俟。俟曰:「此未得其便耳,必不背也。」後數日,果斬吳以至,皆如其言。俟之明略獨決,皆此類也。遷內都大官。

安定の盧水の劉超らが党を聚めて万余りで叛いた。世祖は俟の威恩が関中に及んでいるとして、詔で本官のまま都督秦雍諸軍事を加え、長安を鎮守させた。世祖は曰く、「秦川は険阻で、王化を受ける日は浅く、吏民は未だ恩徳に浴していない。故に近年以来、頻りに叛動がある。今、超らは険を恃み、王命に従わない。朕がもし重兵を卿に与えれば、超らは必ず合して一つとなり、険に拠って戦いを拒み、攻め易くない。もし軽兵を卿に与えれば、制することはできない。今、卿に方略をもってこれを定めさせよう」。ここにおいて俟は単騎で鎮に赴いた。超らはこれを聞いて大いに喜び、為す能わざるものと思った。到着すると、威信を宣揚し、成敗を示し、超の娘を誘い入れ、外見は姻親のようであった。超はなお自ら警戒し、初めから降伏の意思はなかった。俟は乃ちその帳下を率いて超に会いに行き、その挙措を観察し、掩襲の計を設けた。超は人を遣わして迎えさせて曰く、「三百人以外は、弓馬をもって相待つべく、三百人以内は、酒食をもって供応すべし」。俟は乃ち二百騎を率いて超に詣でた。超の設備は甚だ厳重であった。俟は遂に酒を恣にし、酔い尽くして還った。後に将士に謂って曰く、「超は取るべし」。乃ち密かに精兵五百人を選び、国の恩徳を述べ、将士を激勵し、言は至って懇切であった。士卒は奮勇し、各々曰く、「死をもって公に従い、必ず二心はありません」。遂に偽って狩りをして超に詣で、士卒と約して曰く、「今、機を発するに当たり、酔いを限りとすべし」。俟はここにおいて酔ったふりをし、馬に上って大呼し、手ずから超の首を斬った。士卒は声に応じて縦撃し、殺傷千数に及び、遂にこれを平定した。世祖は大いに悦び、俟を召還して京師に帰らせ、外都大官に転じ、散騎常侍はもとのままとした。

原文安定盧水劉超等聚黨萬餘以叛,世祖以俟威恩被於關中,詔以本官加都督秦雍諸軍事,鎮長安。世祖曰:「秦川險絕,奉化日近,吏民未被恩德,故頃年已來,頻有叛動。今超等恃險,不順王命,朕若以重兵與卿,則超等必合而為一,據險拒戰,未易攻也;若以輕兵與卿,則不制矣。今使卿以方略定之。」於是俟單馬之鎮,超等聞之大欣,以為無能為也。既至,申揚威信,示以成敗,誘納超女,外若姻親。超猶自警,初無降意。俟乃率其帳下,往見超,觀其舉措,設掩襲之計。超使人逆曰:「三百人以外,適當以弓馬相待,三百人以內,當以酒食相供。」俟乃將二百騎詣超,超設備甚嚴。俟遂縱酒盡醉而還。後謂將士曰:「超可取也。」乃密選精兵五百人,陳國恩德,激厲將士,言至懇切。士卒奮勇,各曰:「以死從公,必無二也。」遂偽獵而詣超,與士卒約曰:「今會發機,當以醉為限。」俟於是詐醉,上馬大呼,手斬超首。士卒應聲縱擊,殺傷千數,遂平之。世祖大悅,徵俟還京師,轉外都大官,散騎常侍如故。

高宗が即位すると、子の麗に策立の勲があったため、俟を征西大將軍に任じ、爵位を進めて東平王とした。太安四年に薨去。六十七歳。諡して成という。子十二人あり。

原文高宗踐阼,以子麗有策立之勳,拜俟征西大將軍,進爵東平王。太安四年薨,年六十七,諡曰成。有子十二人。

子に馛あり。

原文子 馛

長子の馛は智謀多く、父の風があった。高宗は馛を見てこれを悦び、朝臣に謂って曰く、「私は常にその父の智がその躯を過ぎることを歎じていたが、これはまた父を踰えている」。若くして内都下大夫となり、上に奉じ下に接し、行いや取るもの与えるもの、常に人の意を逆に曉ることができ、その事に従う者はこれを愛さぬ者はなかった。

原文長子馛,多智,有父風。高宗見馛而悅之,謂朝臣曰:「吾常歎其父智過其軀,是復踰於父矣。」少為內都下大夫,奉上接下,行止取與,每能逆曉人意,與其從事者無不愛之。

興安初年、聊城侯の爵位を賜り、出向して散騎常侍・安南將軍・相州刺史となり、長広公を仮された。為政は清平で、強きを抑え弱きを扶けた。州中に徳行ある宿老で名望重き者があれば、友礼をもってこれに接し、政事を諮詢し、方略を責めた。このような者十人を「十善」と号した。また諸県の強門百余りを簡抜して取り、仮子とし、殷勤に誘い接し、衣服を賜り、各々家に帰らせ、外に耳目とさせた。ここにおいて姦を発し伏を摘み、事として験ならざるはなかった。百姓は神明の如しと思い、敢えて劫盗する者はいなかった。州に在ること七年、家は極めて貧約であった。召還されて散騎常侍となるとき、民が馛の留任を乞うた者は千余人に及んだ。顯祖は許さず、群臣に謂って曰く、「馛の善政は、古人に復たせよと言っても、どうしてこれに加えられようか」。絹五百匹・奴婢十口を賜った。馛が還る時、吏民は大いに布帛を斂めてこれを贈ったが、馛は一切受けず、民も取らなかった。ここにおいてその物をもって仏寺を造り、長広公寺と名付けた。後に父の爵位を襲い、封建安王と改めた。

原文興安初,賜爵聊城侯,出為散騎常侍、安南將軍、相州刺史,假長廣公。為政清平,抑強扶弱。州中有德宿老名望重者,以友禮待之,詢之政事,責以方略。如此者十人,號曰「十善」。又簡取諸縣強門百餘人,以為假子,誘接殷勤,賜以衣服,令各歸家,為耳目於外。於是發姦摘伏,事無不驗。百姓以為神明,無敢劫盜者。在州七年,家至貧約。徵為散騎常侍,民乞留馛者千餘人。顯祖不許,謂羣臣曰:「馛之善政,雖復古人何以加之?」賜絹五百匹、奴婢十口。馛之還也,吏民大斂布帛以遺之,馛一皆不受,民亦不取,於是以物造佛寺焉,名長廣公寺。後襲父爵,改封建安王。

時に劉彧の司州刺史常珍奇が懸瓠を以て内附したが、新たな民はなお去就を懐いていた。馛は旨を銜んで撫慰し、諸々軍に陥ちて奴婢となった者があれば、馛は皆これを免じた。百姓は忻悦し、民情は乃ち定まった。蠕蠕が塞を犯すと、車駕自ら討たんとし、詔して馛を選部尚書と為し、留台の事を録し、兵を督し糧を運ぶことを委ね、一切処分を委ねた。

原文時劉彧司州刺史常珍奇以懸瓠內附,而新民猶懷去就。馛銜旨撫慰,諸有陷軍為奴婢者,馛皆免之。百姓忻悅,民情乃定。蠕蠕犯塞,車駕親討,詔馛為選部尚書,錄留臺事,督兵運糧,一委處分。

顕祖、将に京兆王子推に禅位せんとし、任城王雲・隴西王源賀等並びに皆固く諫めた。馛は抗言して曰く、「皇太子は聖徳を以て基を承け、四海属望す。横議を以てすべからず、国の紀を干すべからず。臣、請う、殿庭に刎頸し、死有りて二無からん」と。久しくして、帝の意乃ち解け、詔して曰く、「馛は直臣なり。其れ能く吾が子を保たんや」と。遂に馛を以て太保と為し、太尉源賀と節を持ちて皇帝の璽紱を奉じ、高祖に伝位せしめた。

原文顯祖將禪位於京兆王子推,任城王雲、隴西王源賀等並皆固諫。馛抗言曰:「皇太子聖德承基,四海屬望,不可橫議,干國之紀。臣請刎頸殿庭,有死無貳。」久之,帝意乃解,詔曰:「馛,直臣也,其能保吾子乎!」遂以馛為太保,與太尉源賀持節奉皇帝璽紱,傳位于高祖。

延興四年に薨じ、本官を以て贈られ、諡して貞王と曰う。馛に六子有り、琇・凱知名なり。

原文延興四年薨,贈以本官,諡曰貞王。馛有六子,琇、凱知名。

馛の子 琇

原文馛子 琇

琇は字を伯琳と云い、馛の第五子なり。母赫連氏は身長七尺九寸、甚だ婦徳有り。馛に爵を琇に伝えんとする意有り。琇年九歳の時、馛之に謂いて曰く、「汝が祖東平王に十二子有り、我は嫡長と為り、家業を承襲す。今已に年老い、汝の幼沖に属す。詎んぞ陸氏の宗首と為るに堪えんや」と。琇対えて曰く、「苟も力を鬬わすに非ざれば、何ぞ童稚を患えん」と。馛之を奇とし、遂に琇を立てて世子と為す。馛薨じ、爵を襲ぐ。琇は沈毅にして言少なく、雅く書を読むを好み、功臣の子孫として侍御長・給事中と為り、遷って黄門侍郎、転じて太常少卿・散騎常侍・太子左詹事、北海王師を領し、光禄大夫、転じて祠部尚書・司州大中正と為る。従兄叡の事に会い官を免ぜらる。景明初、試みに河内郡を守る。咸陽王禧謀反し、子の曇和と尹仵期・薛継祖等に令して先ず河内を拠えしむ。琇禧の敗るるを聞き、曇和の首を斬る。時に琇が先ず曇和を送らず、禧敗れて始めて首を斬るを以て、其の情を通ずるを責め、廷尉に徴詣せしむ。廷尉少卿崔振罪状を窮治し、琇を大逆に按じ、陸宗の大小、咸に収捕を見る。将に赦せんと会い、先ず獄に薨ず。琇の弟凱仍ち上書して冤を訴う。世宗詔して琇の爵を復す。子景祚襲ぐ。

原文琇,字伯琳,馛第五子。母赫連氏,身長七尺九寸,甚有婦德。馛有以爵傳琇之意。琇年九歲,馛謂之曰:「汝祖東平王有十二子,我為嫡長,承襲家業,今已年老,屬汝幼沖,詎堪為陸氏宗首乎?」琇對曰:「苟非鬬力,何患童稚。」馛奇之,遂立琇為世子。馛薨,襲爵。琇沉毅少言,雅好讀書,以功臣子孫為侍御長、給事中,遷黃門侍郎,轉太常少卿、散騎常侍、太子左詹事、領北海王師、光祿大夫,轉祠部尚書、司州大中正。會從兄叡事免官。景明初,試守河內郡。咸陽王禧謀反,令子曇和與尹仵期、薛繼祖等先據河內。琇聞禧敗,斬曇和首。時以琇不先送曇和,禧敗始斬首,責其通情,徵詣廷尉。廷尉少卿崔振窮治罪狀,按琇大逆,陸宗大小,咸見收捕。會將赦,先薨於獄。琇弟凱仍上書訴冤,世宗詔復琇爵。子景祚襲。

馛の子 凱

原文馛子 凱

凱は字を智君と云い、謹重にして学を好む。年十五、中書学生と為り、侍御中散を拝し、転じて通直散騎侍郎、遷って太子庶子・給事黄門侍郎と為る。凱枢要に在ること十余年、忠厚を以て称せられ、希言屢中し、高祖之を嘉す。後患に遇い、頻りに上書して骸骨を乞う。詔して許さず、勅して太医に湯薬を給せしむ。正平太守を除かれ、郡に在ること七年、良吏と号せらる。初め、高祖将に旧風を革変せんと議し、大臣並びに難色有り。又毎に劉芳・郭祚等を引きて密かに規謨に与かり、共に時政を論ず。而して国戚は遂に己を疏んずる謂い有り、怏怏として不平の色有り。乃ち凱に令して私に之を喻さしめて曰く、「至尊は但だ前に事を広く知らんと欲するのみ。直ちに当に其の古式を問うべき耳。終に彼を親しみて相い疏んずる無からん」と。国戚旧人の意乃ち稍く解く。咸陽王禧逆を謀り、凱の兄琇罪に陥り、凱も亦収めらる。赦に遇いて乃ち免る。凱兄の死を痛み、哭するに時節無く、目幾くんぞ失明せんとし、冤を訴えて已まず、人事を備え尽くす。正始初に至り、世宗琇の官爵を復す。凱大喜し、酒を置き諸親を集めて曰く、「吾が数年の間に病を抱え死を忍ぶ所以は、顧みて門戸の計のみ。逝く者は追わず、今願い畢れり」と。遂に其の年卒す。龍驤将軍・南青州刺史を贈られ、諡して惠と曰う。

原文凱,字智君,謹重好學。年十五,為中書學生,拜侍御中散,轉通直散騎侍郎,遷太子庶子、給事黃門侍郎。凱在樞要十餘年,以忠厚見稱,希言屢中,高祖嘉之。後遇患,頻上書乞骸骨,詔不許,敕太醫給湯藥。除正平太守,在郡七年,號為良吏。初,高祖將議革變舊風,大臣並有難色。又每引劉芳、郭祚等密與規謨,共論時政,而國戚謂遂疏己,怏怏有不平之色。乃令凱私喻之曰:「至尊但欲廣知前事,直當問其古式耳,終無親彼而相疏也。」國戚舊人意乃稍解。咸陽王禧謀逆,凱兄琇陷罪,凱亦被收,遇赦乃免。凱痛兄之死,哭無時節,目幾失明,訴冤不已,備盡人事。至正始初,世宗復琇官爵,凱大喜,置酒集諸親曰:「吾所以數年之中抱病忍死者,顧門戶計耳。逝者不追,今願畢矣。」遂以其年卒。贈龍驤將軍、南青州刺史,諡曰惠。

凱の子 暐

原文凱子 暐

長子暐は字を道暉と云い、弟の恭之と並びに時に誉有り。洛陽令賈禎其の兄弟を見て歎じて曰く、「僕は老年を以て、更に双璧を覩る」と。又嘗て兄弟共に黄門郎孫惠蔚を候う。惠蔚諸賓に謂いて曰く、「意わず二陸復た座隅に在る。吾が徳は張公に謝し、誉を延ぶる無し」と。暐は起家して司徒行参軍、太尉西閣祭酒、兼ねて尚書右民・三公郎と為り、事に坐して免ぜらる。後伏波将軍を除かる。正光中に卒す。司州治中を贈らる。孝昌中、重ねて冠軍将軍・恒州刺史を贈らる。暐は急就篇に擬いて悟蒙章と為し、及び七誘・十酔・章表数十篇有り。暐と恭之は晩に睦まず、時に鄙まれる。

原文長子暐,字道暉,與弟恭之並有時譽。洛陽令賈禎見其兄弟,歎曰:「僕以老年,更覩雙璧。」又嘗兄弟共候黃門郎孫惠蔚,惠蔚謂諸賓曰:「不意二陸復在座隅,吾德謝張公,無以延譽。」暐起家司徒行參軍,太尉西閣祭酒,兼尚書右民、三公郎,坐事免。後除伏波將軍。正光中卒。贈司州治中。孝昌中,重贈冠軍將軍、恒州刺史。暐擬急就篇為悟蒙章,及七誘、十醉、章表數十篇。暐與恭之晚不睦,為時所鄙。

凱の子 恭之

原文凱子 恭之

恭之は字を季順と云い、操尚有り。侍御史・著作佐郎を釈褐す。建義初、中書侍郎を除かれ、著作郎を領し、尋いで河北太守を除かれ、転じて征虜将軍・殷州刺史と為る。前廃帝初、廷尉卿を拝し、鎮西将軍を加えらる。歴る所並びに声績有り。後事に坐して免ぜらる。孝静初、還りて本任に復し、出でて征南将軍・東荊州刺史を除かる。天平四年卒す。散騎常侍・衞将軍・吏部尚書・定州刺史を贈られ、諡して懿と曰う。恭之の著す所の文章詩賦凡そ千余篇。

原文恭之,字季順,有操尚。釋褐侍御史、著作佐郎。建義初,除中書侍郎,領著作郎,尋除河北太守,轉征虜將軍、殷州刺史。前廢帝初,拜廷尉卿,加鎮西將軍。所歷並有聲績,後坐事免。孝靜初,還復本任,出除征南將軍、東荊州刺史。天平四年卒。贈散騎常侍、衞將軍、吏部尚書、定州刺史,諡曰懿。恭之所著文章詩賦凡千餘篇。

馛の弟 石跋

原文馛弟 石跋

馛の弟石跋、涇州刺史。

原文馛弟石跋,涇州刺史。

石跋の弟、帰

原文石跋弟 歸

石跋の弟の帰は、東宮舎人・駕部校尉となった。

原文石跋弟歸,東宮舍人、駕部校尉。

帰の弟、尼

原文歸弟 尼

帰の弟の尼は、内侍校尉・東陽鎮都將となった。

原文歸弟尼,內侍校尉、東陽鎮都將。

尼の弟、麗

原文尼弟 麗

尼の弟の麗は、幼少より忠謹をもって左右に侍し、太武帝は特に親昵された。挙動は審慎にして過失がなかった。章安子の爵位を賜り、次第に昇進して南部尚書となった。

原文尼弟麗,少以忠謹入侍左右,太武特親昵之。舉動審慎而無愆失。賜爵章安子,稍遷南部尚書。

太武帝が崩御し、南安王余が立ったが、まもなく中常侍宗愛らに殺害された。百官は憂い恐れ、誰を立てるべきか分からなかった。麗は高宗が世嫡の重みを有し、民望の係る所であるとして、真っ先に大義を唱え、殿中尚書の長孫渇侯・尚書の源賀・羽林郎の劉尼と共に苑中で高宗を奉迎し、これを立てた。社稷が安泰を得たのは、麗の謀によるものであった。これにより心膂の任を受け、朝廷においてその右に出る者はなかった。興安初年、平原王に封ぜられ、撫軍将軍を加えられた。麗は辞して言うには、「陛下は正統の重みをもって、基を承け業を継がれます。奉迎して順を守ることは、臣の職分の常であり、どうして大典を犯すようなことを敢えていたしましょうか」と。再三にわたって辞譲したが、詔は聞き入れなかった。麗は啓上して言うには、「臣の父は先朝に歴仕し、忠勤を著わしましたが、今年は西夕に至り、未だ王爵に登っておりません。臣は幼少より寵栄を蒙り、分を過ぎております。愚かな真情が未だ申し上げられず、犬馬の効が未だ展ばされておりません。過分な恩寵を裁ち、お聞き届けくださいますよう」と。高宗は言われた、「朕は天下の主として、卿父子に二王を封ずることができないことがあろうか」と。そこでその父の俟を東平王とした。麗はまもなく侍中・撫軍大将軍・司徒公に遷り、その子孫を復し、妻に妃の号を賜った。麗は優寵が既に頻繁であるとして、固辞して受けず、高宗はますます重んじられた。太子太傅を領した。麗は学問を好み士を愛し、常に講習を業とした。その待遇する者は皆、篤行の士であり、士人に多く称えられた。性質また至孝であり、父の憂いに遭い、礼を過ぎて憔悴した。

原文太武崩,南安王余立,既而為中常侍宗愛等所殺。百僚憂惶,莫知所立。麗以高宗世嫡之重,民望所係,乃首建大義,與殿中尚書長孫渴侯、尚書源賀、羽林郎劉尼奉迎高宗於苑中,立之。社稷獲安,麗之謀矣。由是受心膂之任,在朝者無出其右。興安初,封平原王,加撫軍將軍。麗辭曰:「陛下以正統之重,承基繼業,至於奉迎守順,臣職之常,豈敢昧冒以干大典。」頻讓再三,詔不聽。麗乃啟曰:「臣父歷奉先朝,忠勤著稱,今年至西夕,未登王爵。臣幼荷寵榮,於分已過,愚款之情未申,犬馬之効未展,願裁過恩,聽遂所請。」高宗曰:「朕為天下主,豈不能得二王封卿父子也。」乃以其父俟為東平王。麗尋遷侍中、撫軍大將軍、司徒公,復其子孫,賜妻妃號。麗以優寵既頻,固辭不受,高宗益重之。領太子太傅。麗好學愛士,常以講習為業。其所待者,皆篤行之流,士多稱之。性又至孝,遭父憂,毀瘠過禮。

和平六年、高宗が崩御した。先に麗は代郡の温泉で療養しており、崩御の報を聞いて駆けつけようとしたが、左右の者が止めて言うには、「宮車晏駕されました。王は徳望が平素より重く、姦臣がもし民の称賛を憎むならば、不測の禍を慮るべきです。少し猶予され、朝廷が寧静になってから奔赴されても、未だ遅くはありません」と。麗は言った、「どうして君父の喪を聞きながら、禍難を慮って、直ちに奔走しないことがあろうか」と。そこで直ちに馳せ参じた。乙渾がまもなく朝政を擅にし、麗を忌んで害した。初め、渾は悖傲で、常に不法を行ったが、麗はたびたび諫めたため、これによって忌まれるようになった。顕祖は麗を深く追惜し、簡王と諡し、金陵に陪葬させた。高祖は先朝の功臣を追録し、麗を廟庭に配饗させた。麗には二人の妻があり、長は杜氏、次は張氏である。長子の定国は杜氏の生み、次子の叡は張氏の生みである。

原文和平六年,高宗崩。先是麗療疾於代郡溫泉,聞諱欲赴,左右止之曰:「宮車晏駕,王德望素重,姦臣若疾民譽,慮有不測之禍。願少遲回,朝廷寧靜,然後奔赴,猶為未晚。」麗曰:「安有聞君父之喪,方慮禍難,不即奔波者!」遂便馳赴。乙渾尋擅朝政,忌而害之。初,渾悖傲,每為不法,麗數諍之,由是見忌。顯祖甚追惜麗,諡曰簡王,陪葬金陵。高祖追錄先朝功臣,以麗配饗廟庭。麗二妻,長曰杜氏,次張氏。長子定國,杜氏所生;次叡,張氏所生。

麗の長子、定国

原文麗長子 定國

定国は襁褓の中にあった時、高宗がその邸に幸し、詔して宮内で養育させ、遊びや起居は常に顕祖と同処させた。六歳で中庶子となった。顕祖が践祚すると、散騎常侍に拝され、特に東郡王に封ぜられ、鎮南将軍を加えられた。定国は父の爵を継ぐことについて、たびたび辞したが許されず、また父の爵を弟の叡に譲ることを求めたところ、ようやく聞き届けられた。まもなく侍中・儀曹尚書に遷り、殿中尚書に転じた。前後して大駕が征巡する度に、常に行臺録都曹事に抜擢された。超遷して司空となった。定国は恩寵を恃んで、法度を修めず、延興五年、事に坐して官爵を免ぜられ兵士とされた。太和初年、再び侍中・鎮南将軍・秦益二州刺史に除され、王爵を回復した。八年、州において薨じた。本官を以て追贈され、莊王と諡され、命服一襲を賜った。

原文定國在襁抱,高宗幸其第,詔養宮內,至於遊止常與顯祖同處。年六歲,為中庶子。及顯祖踐阼,拜散騎常侍,特賜封東郡王,加鎮南將軍。定國以承父爵,頻辭不許,又求以父爵讓弟叡,乃聽之。俄遷侍中、儀曹尚書,轉殿中尚書。前後大駕征巡,每擢為行臺錄都曹事。超遷司空。定國恃恩,不修法度,延興五年,坐事免官爵為兵。太和初,復除侍中、鎮南將軍、秦益二州刺史,復王爵。八年,薨於州。贈以本官,諡曰莊王,賜命服一襲。

定国の子、昕之

原文定國子 昕之

子の昕之は、字を慶始といい、風望は端雅であった。爵を襲い、例により公に降格された。顕祖の娘の常山公主を尚し、駙馬都尉に拝された。通直郎を歴任し、景明年中、従叔の琇の罪に連座して免官された。まもなく主の婿であることを以て、通直散騎常侍に除された。間もなく司徒司馬に遷り、輔国将軍を加えられ、出て兗州刺史となった。まもなく安東将軍の号を進められ、治績に名声があり、引き続き青州刺史に除された。州において寛平の称があり、安北将軍・相州刺史に転じた。永平四年夏に卒した。鎮東将軍・冀州刺史を追贈され、惠と諡された。

原文子昕之,字慶始,風望端雅。襲爵,例降為公。尚顯祖女常山公主,拜駙馬都尉。歷通直郎,景明中,以從叔琇罪免官。尋以主壻,除通直散騎常侍。未幾,遷司徒司馬,加輔國將軍,出為兗州刺史。尋進號安東將軍,治有名績,仍除青州刺史。在州著寬平之稱,轉安北將軍、相州刺史。永平四年夏卒。贈鎮東將軍、冀州刺史,諡曰惠。

初め、定国は河東の柳氏を娶り、子の安保を生み、後に范陽の盧度世の娘を納れて、昕之を生んだ。二室ともに旧族であったが、嫡妾の別がなかった。定国が亡くなった後、二人の子が父の爵を継ぐことを争った。僕射の李沖は当時寵愛を受けており、度世の子の淵と婚姻の親戚で親しかった。沖は左右して助けを申し立て、昕之はこれによって爵を継ぎ主を尚し、職位は赫奕たるものがあった。安保は沈淪して貧賤に陥り、飢寒を免れなかった。

原文初,定國娶河東柳氏,生子安保,後納范陽盧度世女,生昕之。二室俱為舊族而嫡妾不分。定國亡後,兩子爭襲父爵。僕射李沖有寵於時,與度世子淵婚親相好。沖遂左右申助,昕之由是承爵尚主,職位赫弈。安保沉廢貧賤,不免飢寒。

昕之の容貌は柔順で謹み深く、高祖はその主の婿であることを以て、特に昵眷を垂れた。世宗の時、四十歳に満たないうちに、たびたび三つの藩鎮を治め、当世はこれをもって栄誉とした。昕之が卒した後、母の盧氏は悼念のあまり哀傷し、まもなく亡くなった。公主は姑に仕えて孝の称があり、神亀初年、穆氏の頓丘長公主と共に女侍中となった。また性質は嫉妬せず、昕之に子がないため、妾媵を納れたが、皆女子を産んだ。公主には三人の娘がいて男子がおらず、昕之の従兄の希道の第四子の子彰を後嗣とした。

原文昕之容貌柔謹,高祖以其主壻,特垂昵眷。世宗時,年未四十,頻撫三蕃,當世以此榮之。昕之卒後,母盧悼念過哀,未幾而亡。公主奉姑有孝稱,神龜初,與穆氏頓丘長公主並為女侍中。又性不妬忌,以昕之無子,為納妾媵,而皆育女。公主有三女無男,以昕之從兄希道第四子子彰為後。

子彰は、字を明遠といい、本名は士沈といった。十六歳で後を継ぎ、公主に仕えて礼を尽くした。丞相の高陽王雍がかつて言った、「常山の妹は男子がいないが、子彰を子とすることは、自ら生んだ子よりも勝っている」と。正光年中、爵を襲って東郡公となり、まもなく散騎侍郎に除され、山陽太守に拝された。荘帝が即位すると、召されて給事黄門侍郎に拝された。子彰の妻は咸陽王禧の娘である。禧が誅殺された後、彭城王の邸で養われ、荘帝は親しく遇し、諸姉とほぼ同様であった。建義初年、尒朱栄が旧事を修めようとし、庶姓を王に封じたため、これによって子彰を濮陽王に封じ、食邑七百戸を与えた。まもなく詔してこれを罷め、先の爵に復した。安西将軍・洛州刺史に除された。還朝し、征東将軍・金紫光禄大夫に拝され、広平王賛の開府諮議参軍事を領した。天平年中、衞将軍・潁州刺史に拝された。母の憂いにより職を去った。元象年中、本将軍を以て斉州刺史に除され、また驃騎将軍を加えられ、行って懐州の事務を管轄した。北豫州刺史に転じ、引き続き徐州刺史に除され、将軍の号はそのままとした。一年で三州を歴任し、当世はこれを栄誉とした。還朝し、衞大将軍・左光禄大夫に除された。また行って瀛州の事務を管轄した。まもなく侍中に拝された。また行って滄州の事務を管轄した。驃騎大将軍の号を進められ、行って冀州の事務を管轄した。侍読・兼七兵尚書に除された。行って青州の事務を管轄した。子彰が州を治めるにあたり、当初は聚斂を事としたが、晩節に改め、自ら青・冀・滄・瀛の州を治めて、甚だ時誉があり、また虚己して物を受け入れたため、人々は敬愛した。武定八年二月、中書監に除された。三月に卒し、五十四歳であった。賻として帛一百匹を賜り、都督青光斉三州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・青州刺史を追贈され、公の爵はそのままとし、文宣と諡された。

原文子彰,字明遠,本名士沈。年十六出後,事公主盡禮。丞相高陽王雍嘗言曰:「常山妹雖無男,以子彰為兒,乃過自生矣。」正光中,襲爵東郡公,尋除散騎侍郎,拜山陽太守。莊帝即位,徵拜給事黃門侍郎。子彰妻即咸陽王禧女。禧誅,養於彭城王第,莊帝親之,略同諸姊。建義初,尒朱榮欲修舊事,庶姓封王,由是封子彰濮陽王,食邑七百戶。尋而詔罷,仍復先爵。除安西將軍、洛州刺史。還,拜征東將軍、金紫光祿大夫,領廣平王贊開府諮議參軍事。天平中,拜衞將軍、潁州刺史。以母憂去職。元象中,以本將軍除齊州刺史,又加驃騎將軍,行懷州事。轉北豫州刺史,仍除徐州刺史,將軍並如故。一年歷三州,當世榮之。還朝,除衞大將軍、左光祿大夫。又行瀛州事。尋拜侍中。復行滄州事。進號驃騎大將軍,行冀州事。除侍讀、兼七兵尚書。行青州事。子彰之為州,以聚斂為事,晚節修改,自行青、冀、滄、瀛,甚有時譽,加以虛己納物,人敬愛之。武定八年二月,除中書監。三月卒,年五十四。賻帛一百匹,追贈都督青光齊三州諸軍事、驃騎大將軍、開府儀同三司、青州刺史,公如故,諡曰文宣。

子彰は道術を好み、かつて重い病にかかり、薬に桑螵蛸が必要であったが、子彰は生き物を害することを忍びず、ついに服用しなかった。その仁恕はこのようなものであった。六人の子を教え諭すのに、大いに法度があった。

原文子彰崇好道術,曾嬰重疾,藥中須桑螵蛸,子彰不忍害物,遂不服焉。其仁恕如此。教訓六子,雅有法度。

子昂は、武定年間に中書舎人となった。

原文子昂,武定中,中書舍人。

昂の弟の駿は、太子洗馬となった。

原文昂弟駿,太子洗馬。

駿の弟の杳は、尚書倉部郎となった。

原文駿弟杳,尚書倉部郎。

定国の弟は叡である。

原文定國弟 叡

叡は、字を思弼という。その母の張氏は、字を黄龍といい、もとは恭宗の宮人であり、麗に賜わって、叡を生んだ。麗が亡くなったとき、叡は十余歳で、爵を襲い撫軍大将軍・平原王となった。沈着で風雅を好み、学問を好み、身分を低くして士に接した。年齢は二十に満たなかったが、当時の人々はすでに宰輔と見なした。東徐州刺史博陵の崔鑒の娘を娶り、鑒は親しい者に言った、「平原王は才能と器量は悪くないが、ただその姓名がひどく重複しているのが残念だ」と。当時高祖はまだその姓を改めていなかった。叡は東徐から婚礼を挙げて帰る途中、鄴を経由し、李彪に会い、大いに敬愛し、そのままともに京師へ急ぎ、館客とし、衣服・馬・下僕を給し、非常に厚く待遇した。北征都督となり、北部長に任じられ、尚書に転じ、散騎常侍を加えられた。

原文叡,字思弼。其母張氏,字黃龍,本恭宗宮人,以賜麗,生叡。麗之亡也,叡始十餘歲,襲爵撫軍大將軍、平原王。沉雅好學,折節下士。年未二十,時人便以宰輔許之。娶東徐州刺史博陵崔鑒女,鑒謂所親云:「平原王才度不惡,但恨其姓名殊為重複。」時高祖未改其姓。叡婚自東徐還,經於鄴,見李彪,甚敬悅之,仍與俱趨京師,以為館客,資給衣馬僮使,待之甚厚。為北征都督,拜北部長,轉尚書,加散騎常侍。

太和八年正月、叡は隴西公元琛とともに節を持ち、東西二道の大使となり、善を褒め悪を罰し、その名声は京師に聞こえた。五月、詔して叡に夏服一具を賜う。後に叡を北征都督とし、蠕蠕を撃ち、これを大破した。侍中・都曹尚書に遷った。時に蠕蠕がまた塞を犯したので、詔して叡に騎兵五千を率いてこれを討たせ、蠕蠕は逃げ走り、石磧まで追撃し、その帥の赤河突ら数百人を捕らえて帰還した。散騎常侍を加えられ、尚書左僕射に遷り、北部尚書を領した。

原文太和八年正月,叡與隴西公元琛並持節為東西二道大使,褒善罰惡,聲稱聞於京師。五月,詔賜叡夏服一具。後以叡為北征都督,擊蠕蠕,大破之。遷侍中、都曹尚書。時蠕蠕又犯塞,詔叡率騎五千以討之,蠕蠕遁走,追至石磧,擒其帥赤河突等數百人而還。加散騎常侍,遷尚書左僕射,領北部尚書。

十六年、五等の爵を降し、麗の勲功が前朝に顕著であったので、叡を鉅鹿郡開国公に封じ、食邑三百戸を与えた。まもなく使持節・鎮北大将軍とし、陽平王頤とともに都督となり、領軍将軍斛律桓らを督し、北征三道諸軍事を率い、歩騎十万をもって蠕蠕を討った。叡以下にそれぞれ衣服布帛を賜う。高祖自ら城北に幸し、諸帥に訓戒を述べた。尚書令・衛将軍を除した。叡は蠕蠕を大破して帰還した。まもなく母の喪により令を解かれた。高祖が南伐の計画を有するにあたり、本官をもって起用し、征北将軍に改めて授けようとした。叡は固く辞し、情礼を終えることを請うた。詔して言う、「叡はなお私の痛みに執して、往時の旨に違えんとす。金革の事いま正に急なり、どうして曲げて遂げるべきか。衛尉を領することを加えよ。重ねて有司に勅し、速やかに敦め諭させよ」と。後に使持節・都督恒肆朔三州諸軍事・本将軍・恒州刺史・行尚書令を除した。高祖が百官を大いに考課し、叡の尚書令の禄を一周間剥奪した。

原文十六年,降五等之爵,以麗勳著前朝,封叡鉅鹿郡開國公,食邑三百戶。尋為使持節、鎮北大將軍,與陽平王頤並為都督,督領軍將軍斛律桓等北征三道諸軍事,步騎十萬以討蠕蠕。叡以下各賜衣物布帛。高祖親幸城北,訓誓羣帥。除尚書令、衞將軍。叡大破蠕蠕而還。尋以母憂解令。高祖將有南伐之事,以本官起之,改授征北將軍。叡固辭,請終情禮。詔曰:「叡猶執私痛,致違往旨,金革方馳,何宜曲遂也。加領衞尉。可重敕有司,速令敦喻。」後除使持節、都督恒肆朔三州諸軍事、本將軍、恒州刺史,行尚書令。高祖大考百官,奪叡尚書令祿一周。

十九年、叡は上表して言う、「臣は聞く、先天には違えざる謀略あり、後天には時に順う規矩ありと。今、蕭鸞は名目を盗み、江左に窃拠し、悪は満ち罪は熟し、天と人とがこれを棄つ。乱を取って昧を攻むるは、誠にこの日に在り。愚かには、長江は浩蕩として、彼の巨防たり、徳をもって招くべく、力をもって屈するは難し。また南の地は昏霧し、暑気鬱蒸し、軍人は夏を経れば、必ず多く疾病する。しかるに鼎は遷り草創し、諸事まさに始まるばかり、台省には政を論ずる館なく、府寺には治を聴く所なく、百官の居止は、事行路に等しく、長雨と炎陽とが自ら癘疫を成す。かつ兵と徭役とを並び挙げるは、聖王の難しとするところなり。今、甲冑の士は外に仇寇を攻め、羸弱の夫は内に土木を動かし、運給の費は日に千金を損なう。疲弊の兵を駆りて堅城の虜を討つ、将に何をもってか勝を取らんとするか。陛下の往冬の挙は、まさに武を江漢に耀かし、威を衡湘に示さんと欲したるもの、春より夏に幾り、理として甲を解くべし。願わくは旌を櫜に巻き旆を収め、持久の方となし、帝居を崇成して、本を重んずるの固きを深くせん。聖懐に内念の憂いなく、兆庶に斤板の役を休め、礼を華区に修め、風を洛浦に諷せん。しかる後に英略の将を簡び、猛毅の雄を任じ、南に荊湘を取り、その要府を拠れば、則ち梁秦以西は機を覩て自ら服すべし。撫附して威を振い、麾を回して東を指せば、則ち義陽以左は声を馳せて制すべし。然る後に仁化を布きて近きを綏んじ、恩施を播きて遠きを懐かしめば、凡そ情有るもの、誰か奮わざらん。還た慕徳の人を遣わしてその余力を効せしめ、流れに乗って下れば、勢いは万倍に勝り、蕞爾たる閩甌、敢えて稽顙せざらんや。必ずしもこの年を競い、この寸尺を競わんとせず。ただ願わくは近き勅を顧み存し、降を納れて旋らせ、鑾輿を紆らせず、久しく炎暑に臨ませざらんことを」と。高祖はこれに従った。叡は上表して車駕が代に還り、太師馮熙の葬儀に親臨することを請い、都督三州諸軍事を削奪される罪に坐した。まもなく都督恒朔二州諸軍事を除され、征北大将軍に進号した。順遷の表があったので、邑四百戸を加増された。

原文十九年,叡表曰:「臣聞先天有弗違之略,後天有順時之規。今蕭鸞盜有名目,竊據江左,惡盈罪稔,天人棄之。取亂攻昧,誠在茲日。愚以長江浩蕩,彼之巨防,可以德招,難以力屈。又南土昏霧,暑氣鬱蒸,師人經夏,必多疾病。而鼎遷草創,庶事甫爾,臺省無論政之館,府寺靡聽治之所,百僚居止,事等行路,沉雨炎陽,自成癘疫。且兵徭並舉,聖王所難。今介冑之士,外攻讎寇;羸弱之夫,內動土木;運給之費,日損千金。驅罷弊之兵,討堅城之虜,將何以取勝乎?陛下往冬之舉,政欲曜武江漢,示威衡湘,自春幾夏,理宜釋甲。願櫜旌卷斾,為持久之方;崇成帝居,深重本之固。聖懷無內念之虞,兆庶休斤板之役,修禮華區,諷風洛浦。然簡英略之將,任猛毅之雄,南取荊湘,據其要府,則梁秦以西覩機自服;撫附振威,回麾東指,則義陽以左馳聲可制。然後布仁化以綏近,播恩施以懷遠,凡在有情,孰不思奮!還遣慕德之人効其餘力,乘流而下,勢勝萬倍,蕞爾閩甌,敢不稽顙!豈必茲年,競斯寸尺。惟願顧存近敕,納降而旋,不紆鑾輿,久臨炎暑。」高祖從之。叡表請車駕還代,親臨太師馮熙之葬,坐削奪都督三州諸軍事。尋除都督恒朔二州諸軍事,進號征北大將軍。以有順遷之表,加邑四百戶。

時に穆泰が定州刺史であったが、疾病を理由に辞し、土地が温暖であることを甚だしく言い、恒州で自ら効力することを請うたので、高祖はこれを許した。そこで叡を散騎常侍・定州刺史とし、将軍はもとのままとした。叡は出発せず、ついに泰らとともに謀りて逆を構えた。獄中で死を賜い、妻子の殺戮は免じ、その妻子を遼西郡の民に徙すことを聴許した。詔して僕射李冲・領軍于烈に言う、「陸叡・元丕は早くより寵禄を蒙り、位は人臣の極みに至った。自ら卿らとともに非常の詔を受け、朕は不死の旨を許し、上下斉しく信を得て、大義を保たんことを思う。朕は卿らに対して常に短を忘れ瑕を棄て、互いに含養することを務む。どうして陸叡が無心の甚だしきこと、ここに至らんとは謂わんや。乃ち穆泰と禍を結び、数えしばしば反噬を図る。朕が洛に遷るを以て、内に不可と懐き、諸王を推挙し、子恂を引き入れんと議す。かくの如きの論、前後一ならず。始めは故南安王を推さんと欲し、次に陽平王を推し、もし肯いて従わざれば、楽陵王を逼らんと欲す。朝廷を誹謗し、書信は炳然たり。事既に成らんと垂れ、叡は洛都の休明を以て、小緩せしめんと勧む。この後、両人また競う。然れどもなお隠して聞こえず。頼むに陽平王の忠貞奮発あり、泰の言を獲て、便ち馳表し、王人をして慝を糾さしめ、恒岳に塵無からしむ。ここを以て叡の愆失は、入門誅に処す。朕は前旨を諦尋し、法を尽くさざるを許す。反逆の志は、自ら幽冥に負い、誓いに違うは彼に在り、朕に関わらず。反心逆意は、既に余犯と異なり、たとえ矜恕せんと欲すとも、これを如何ともするなし。然れどもなお先言を憶い、兼ねて末に頗る異議有りしを以て、別府に自死するを聴し、その妻子の殺戮を免じ、その門は子孫永世に歯せず。元丕の二子一弟は、首として賊の端となり、その父には人明証無く、理において可睹たり。但だ言に炳灼無きを以て、隠して窮めず、連坐して死すべきに、特恕して民と為す。朕は本終わり有るを期すれど、彼自ら棄つ。卿らの間、忽ち今日に及ぶ、心に違い念に乖く、一何か悲しむべき。故にこの別示す、怪しむに致さざらんことを想う。謀反の外は、白日の如く皎たり」と。

原文時穆泰為定州刺史,辭以疾病,土溫則甚,請恒州自効,高祖許之。乃以叡為散騎常侍、定州刺史,將軍如故。叡未發,遂與泰等同謀構逆。賜死獄中,聽免孥戮,徙其妻子為遼西郡民。詔僕射李冲、領軍于烈曰:「陸叡、元丕,早蒙寵祿,位極人臣。自與卿等同受非常之詔,朕許以不死之旨,思得上下齊信,以保大義。朕於卿等常忘短棄瑕,務相含養。豈謂陸叡無心之甚,一至於斯!乃與穆泰結禍,數圖反噬。以朕遷洛,內懷不可,擬舉諸王,議引子恂,若斯之論,前後非一。始欲推故南安王,次推陽平王,若不肯從,欲逼樂陵王。訕謗朝廷,書信炳然。事既垂就,叡以洛都休明,勸令小緩,於是之後,兩人復競。然猶隱而弗聞。賴陽平王忠貞奮發,獲泰之言,便爾馳表,得使王人糾慝,恒岳無塵。是以叡之愆失,處入門誅。朕諦尋前旨,許不盡法。反逆之志,自負幽冥,違誓在彼,不關朕也。反心逆意,既異餘犯,雖欲矜恕,末如之何。然猶憶先言,兼以末頗異議,聽自死別府,免厥孥戮其門,子孫永世不齒。元丕二子一弟,首為賊端,其父無人明證,理在可覩。但以言無炳灼,隱而弗窮,以連坐應死,特恕為民。朕本期有終,而彼自棄。卿等之間,忽及今日,違心乖念,一何可悲,故此別示,想無致怪也。謀反之外,皎如白日耳。」

沖、烈が上表して言う、「臣らは幸運に巡り会い、昌平の世に生きることを得た。才能は役に立つものではなく、列位に座しているに過ぎず、汗馬の功もなく、山河の封を受けるに及んでいる。このような過分な寵遇は、古来比類なく、この大いなる恩恵は、万死をもってしても報いることはできない。しかし、叡と丕は犬馬の情を知らず、梟獍のような心を持ち、ひそかに幼い者を引き入れ、このような妖逆を企て、天の常道に背き、その罪は万死に値する。叡は心に禍いを結び、陰に構えることを止めず、親族や諸侯の間を離間し、天象を窺おうとしている。平穏な時を見ていながら、疑いを抱かなかったわけではなく、かつて一言でも宿志を明かしたことがあろうか。その心情と言動を推し量れば、まさに賊の首魁である。丕の二人の子は、長年にわたり悪に従い、東西で扇動し合い、并州・夏州を乱そうと企てていた。この様子を観測すれば、知らないはずはない。たとえ聖なる慈愛が彼らを包容し、その生命を許したとしても、天地に対してどうするというのか。神祇に対してどうするというのか。誠を尽くし節を全うすることは、臣下の常の分け前であり、このような者を罰して赦さないことは、上に立つ者の常の法である。ましてや、曲がりなりにも大いなる恩恵を蒙り、忠貞の義をもって奨励されながら、さらに天に背き道に逆らい、姦逆を包蔵しているのである。情状を求め道理を推し量れば、その罪は常刑に処されるべきである。しかし、慈愛深いお取り計いにより寛大な処置がなされ、さらに恩赦が流布され、叡の三度断たれた骸を継ぎ、丕の既に絶えた魄を還している。再三にわたる赦免は、まことに法典を損なうものである。それでもなお、天の眷顧が上に及び、かつての日々を思いやられる。臣らが余党を背負っているにもかかわらず、別に明らかな詔を垂れ、再び斉(等しく)信の恩を申し述べ、白日のようなご意志を重ねて諭される。伏して読み、悲しみ慚じ、ただ深く愧じ恐れるのみである。」

原文沖、烈表曰:「臣等邀逢幸會,生遇昌辰。才非利用,坐班位列;功無汗馬,猥受山河。叨忝之寵,終古無比;莫大之施,萬殞靡酬。而叡、丕識乖犬馬,心同梟獍,潛引童稚,構茲妖逆,違悖天常,罪踰萬殞。叡結釁在心,陰構不息,間說戚蕃,擬窺乾象。雖覩休平,未懷疑惑,何嘗片辭披露宿志,原心語跡,實為賊首。丕之二子,從惡累年,交扇東西,規擾并夏,測觀此狀,無容不知。雖聖慈含育,恕其生命,其若天地何!其若神祇何!夫効誠盡節,為下之恒分;刑茲無捨,在上之常法。況曲蒙莫大之恩,奬以忠貞之義,而更違天背道,包藏姦逆,求情推理,罪乃常誅。而慈造寬渥,更流恩貸,續叡三斷之骸,還丕已絕之魄,二三縱宥,實虧憲典。猶復上延天眷,言念疇日。不以臣等背負餘黨,別垂明詔,再申齊信之恩,重喻晈日之旨,伏讀悲慚,惟深愧惕。」

叡の長子 希道

原文叡長子 希道

叡の長子の希道は、字を洪度といい、風貌があり、美しい鬚髯を備えていた。経史を広く読み、かなり文才があった。初め中散に任じられ、通直郎に遷り、父の事件に連座して遼西に流された。後に帰還を許され、征伐に従って功を立てた。軍功により給事中に任じられ、司徒記室・司空主簿に遷った。征南将軍元英が蕭衍の司州を攻めたとき、希道を副将とし、義陽を平定すると、その功により爵位を淮陽男と賜った。諫議大夫に任じられた。学識が古今に通じていたため、新令の制定に参議した。廷尉少卿に転じた。龍驤将軍・南青州刺史を加えられた。本将軍のまま梁州刺史に転じた。希道はたびたび上表して辞退した。また東夏州刺史に任じられたが、拝命しなかった。北中郎将に転じ、前将軍・郢州刺史に遷った。希道は辺境の統治に長け、威略が非常にあり、平西将軍・涇州刺史に転じた。正光四年、在官中に卒した。撫軍将軍・定州刺史を追贈された。希道には六人の子があった。

原文叡長子希道,字洪度,有風貌,美鬚髯。歷覽經史,頗有文致。初拜中散,遷通直郎,坐父事徙於遼西。於後得還,從征自效。以軍功拜給事中,遷司徒記室、司空主簿。征南將軍元英攻蕭衍司州,以希道為副,及克義陽,以功賜爵淮陽男。拜諫議大夫。以學關今古,參議新令。轉廷尉少卿。加龍驤將軍、南青州刺史。以本將軍轉梁州刺史。希道頻表辭免。又除東夏州刺史,不拜。轉北中郎將,遷前將軍、郢州刺史。希道善於馭邊,甚有威略,轉平西將軍、涇州刺史。正光四年卒官。贈撫軍將軍、定州刺史。希道有六子。

士懋は、字を元偉という。天平年間、その曾祖父の麗に擁立の功勳があったため、詔により特に鉅鹿郡開国公を復活させ、邑三百戸とし、士懋に襲封させた。武定年間、平東将軍・営州刺史となった。

原文士懋,字元偉。天平中,以其曾祖麗有翼戴之勳,詔特復鉅鹿郡開國公,邑三百戶,令士懋襲。武定中,平東將軍、營州刺史。

士懋の弟の士宗は、字を仲彥という。尚書左外兵郎中となった。

原文士懋弟士宗,字仲彥。尚書左外兵郎中。

士宗の弟の士述は、字を幼文という。符璽郎中となった。士宗と士述は、建義初年に、ともに河陰で害に遇った。

原文士宗弟士述,字幼文。符璽郎中。士宗、士述,建義初,並於河陰遇害。

士述の弟の士沈は、従叔の昕之の後を継いだ。

原文士述弟士沈,出繼從叔昕之。

士沈の弟の士廉は、字を季脩という。建州平北府長史となった。永安末年、尒朱世隆に州城を攻め落とされ、害に遇った。

原文士沈弟士廉,字季脩。建州平北府長史。永安末,為尒朱世隆攻陷州城,見害。

士廉の弟の士佩は、字を季偉という。武定年間、安東将軍・司州治中となった。

原文士廉弟士佩,字季偉。武定中,安東將軍、司州治中。

希道の弟 希悅

原文希道弟 希悅

希道の弟の希悅は、尚書外兵郎中・驃騎諮議参軍・通直散騎常侍・平南将軍・光禄大夫となった。河陰で害に遇った。散騎常侍・衞将軍・相州刺史を追贈された。

原文希道弟希悅,尚書外兵郎中、驃騎諮議參軍、通直散騎常侍、平南將軍、光祿大夫。遇害於河陰。贈散騎常侍、衞將軍、相州刺史。

希悅の弟 希謐

原文希悅弟 希謐

希悅の弟の希謐は、太尉参軍となり、早世した。

原文希悅弟希謐,太尉參軍,早卒。

希謐の弟 希靜

原文希謐弟 希靜

希謐の弟の希靜は、字を季默という。司徒默曹となり、やがて邵郡太守に遷った。

原文希謐弟希靜,字季默。司徒默曹,稍遷邵郡太守。

希靜の弟に希質あり。

原文希靜弟 希質

希靜の弟の希質は、字は幼成という。員外郎として出仕し、侍御史を兼ね、やがて散騎侍郎・陽城太守に転じた。孝莊帝の初め、龍驤将軍・膠州刺史に任ぜられた。蕭衍が将を遣わし数万の兵を率いて郁洲より海を渡り島を占拠し、州の境界を侵してきたので、希質はこれを討ち破った。建州刺史に転じ、将軍の位はもとのままである。尒朱榮が死ぬと、世隆は兵を率いて北へ帰り晋陽に向かったが、希質は固く守ってこれを拒み、城は陥落し、兄の子は害された。希質の妻の元氏は、栄の妻の兄の孫であったため、これによって難を免れた。天平の初め、給事黄門侍郎となり、魏尹に遷り、太常卿・衞大将軍・都官尚書に転じた。武定七年夏に卒す。享年五十八。驃騎大将軍・中書監・青州刺史を追贈され、諡して文という。希質は名家の子であり、官位もまた通じていたが、物事に対して公平な心を持つことができず、ただ山偉・宇文忠之らと共に徒党を組み、朝廷の俊才を排斥誹謗したので、識者はこれを軽んじた。

原文希靜弟希質,字幼成。起家員外郎,領侍御史,稍遷散騎侍郎、陽城太守。孝莊初,除龍驤將軍、膠州刺史。蕭衍遣將率眾數萬從郁洲浮海據島,來侵州界,希質討破之。轉建州刺史,將軍如故。尒朱榮之死也,世隆率眾北還晉陽,希質固守拒之,城陷,兄子被害。希質妻元氏,榮妻之兄孫,由是獲免。天平初,給事黃門侍郎,遷魏尹,轉太常卿、衞大將軍、都官尚書。武定七年夏卒,年五十八。贈驃騎大將軍、中書監、青州刺史,諡曰文。希質名家子,位宦又通,不能平心於物,唯與山偉、宇文忠之等共為朋黨,排毀朝俊,有識者薄之。

子の珣は、字は子琰という。開府参軍。次に瑾は、字は子瑜という。性質ともに粗暴で邪険であり、ついに盗賊となり、珣・瑾ともに死んだ。

原文子珣,字子琰。開府參軍。次瑾,字子瑜。性並粗險,乃為劫盜,珣、瑾俱死。

瑾の弟の瓘は、字は子璧という。次に悉達。武定年間、ともに儀同開府参軍。

原文瑾弟瓘,字子璧。次悉達。武定中,並儀同開府參軍。

麗の弟に頹あり。

原文麗弟 頹

麗の弟の頹は、早く卒した。子の□は、字は清都という。機巧の性質を持ち、歴任して長水校尉となり、爵を広牧子に賜う。龍驤将軍・游撃将軍・北中郎将に遷る。南中郎将に転じ、魯陽太守を兼ね、前将軍の号を進められる。卒し、本将軍・夏州刺史を追贈され、諡して順という。

原文麗弟頹,早卒。子□,字清都。性機巧,歷位長水校尉,賜爵廣牧子。遷龍驤將軍、游擊將軍、北中郎將。轉南中郎將,帶魯陽太守,進號前將軍。卒,贈本將軍、夏州刺史,諡曰順。

頹の弟に陵成あり。

原文頹弟 陵成

頹の弟の陵成は、中校尉・河間太守・祕書中散・新城子。

原文頹弟陵成,中校尉、河間太守、祕書中散、新城子。

陵成の弟に龍成あり。

原文陵成弟 龍成

陵成の弟の龍成は、父兄の風範があった。若くして功臣の子として中散となり、やがて散騎常侍に遷り、爵を永安子に賜う。平遠将軍を加えられ、出て安南将軍・青州刺史となり、楽安公を仮授される。民を愛し下を恤れみ、百姓はこれを称えた。卒す。

原文陵成弟龍成,有父兄之風。少以功臣子為中散,稍遷散騎常侍,賜爵永安子。加平遠將軍,出為安南將軍、青州刺史,假樂安公。愛民恤下,百姓稱之。卒。

子の昶は、字は細文といい、爵を襲う。正始年間、太尉属となり、寧遠将軍を加えられ、本官のまま滎陽郡の事務を行った。弾劾を受けるが、赦令に会い免ぜられる。久しくして広武将軍の号を進められ、司空司馬に遷り、まもなく光禄大夫に任ぜられる。昶に他の才能はなく、ただ酒を飲むことを事とした。出て平西将軍・京兆内史となるが、固く辞して拝命せず。平北将軍・肆州刺史に転じる。入朝して衞将軍・大鴻臚卿となり、やがて車騎将軍・左光禄大夫に任ぜられる。天平年間、驃騎大将軍の号を進められ、散騎常侍・領左右・兼給事黄門侍郎を加えられ、なお太僕卿を兼ねる。また本将軍として東徐州刺史となる。まもなく卒す。本将軍・衞尉卿・青州刺史を追贈される。

原文子昶,字細文,襲爵。正始中,為太尉屬,加寧遠將軍,以本官行滎陽郡事。被劾,會赦免。久之,進號廣武將軍,遷司空司馬,尋拜光祿大夫。昶無他才能,唯飲酒為事。出為平西將軍、京兆內史,固辭不拜。轉平北將軍、肆州刺史。入為衞將軍、大鴻臚卿,仍除車騎將軍、左光祿大夫。天平中,進號驃騎大將軍,加散騎常侍、領左右、兼給事黃門侍郎,仍兼太僕卿。復以本將軍為東徐州刺史。尋卒。贈本將軍、衞尉卿、青州刺史。

龍成の末弟に騏驎あり。

原文龍成季弟 騏驎

龍成の末弟の騏驎は、侍御中散となり、侍御長に転じる。太和の初め、新平太守・銀青光禄大夫となり、彭城の功績により夏州刺史に任ぜられる。

原文龍成季弟騏驎,侍御中散,轉侍御長。太和初,新平太守、銀青光祿大夫,以彭城勳除夏州刺史。

子の高貴は、孝昌年間、兗州鎮東府法曹参軍。

原文子高貴,孝昌中,兗州鎮東府法曹參軍。

子の操は、武定末、度支尚書。操の弟に楚あり。

原文子操,武定末,度支尚書。操弟楚。

高貴の弟は順宗、員外郎・秘書中散を務めた。

原文高貴弟順宗,員外郎、祕書中散。

子の概之は、武定の末年に東莞太守となった。

原文子概之,武定末,東莞太守。

俟の族弟に宜がいる。

原文俟族弟 宜

俟の族弟の宜は、雲中鎮将であった。

原文俟族弟宜,雲中鎮將。

子の雋は、高宗の世に侍中・給事を歴任した。顕祖の初年に侍御長となった。乙渾を誅殺する謀議に加わり、侍中・楽部尚書に任ぜられた。散騎常侍・吏部尚書に転じ、安楽公の爵位を賜り、大いに信任された。まもなく尚書令に任ぜられた。後に安東将軍・定州刺史に任ぜられ、征東大将軍・相州刺史に転じた。政治は寛大で恵みを施すことを旨とし、民と官吏は安寧であった。死去し、貞公と諡された。

原文子雋,高宗世,歷侍中、給事。顯祖初,侍御長。以謀誅乙渾,拜侍中、樂部尚書。遷散騎常侍、吏部尚書,賜爵安樂公,甚見委任。尋拜尚書令。後除安東將軍、定州刺史,轉征東大將軍、相州刺史。政尚寬惠,民吏安定。卒,諡貞公。

子の登は、澄城太守となった。

原文子登,澄城太守。

子の匡は、司空倉曹参軍となった。

原文子匡,司空倉曹參軍。