巻40

陸俟は代の人である。曾祖父は幹、祖父は引、代々部落を統領した。父の突は太祖の時に部民を率いて征伐に従い、しばしば戦功を立て、厲威將軍・離石鎮将に任ぜられた。天興年間、上黨太守・關内侯となった。

俟は幼少より聡明で、策略を持っていた。太宗が即位すると、侍郎に任ぜられ、内侍に遷り、爵位の關内侯を襲い、龍驤將軍・給事中に転じ、選部蘭臺の事務を管轄した。官職に当たって行動し、屈することはなかった。世祖が 赫連 かくれん 昌を親征した際、詔により俟は諸軍を督して大磧を鎮め、 蠕蠕 じゅんじゅん に備えさせた。車駕が還ると、再び選部蘭臺の事務を管轄した。西平公の安頡と共に諸軍を督して虎牢を攻め、これを陥落させ、建業公の爵位を賜り、冀州 刺史 しし に任ぜられ、もとの將軍のままとした。時に州郡の治績を考課したところ、ただ俟と河内太守の丘陳のみが天下第一であった。 都督 ととく 二州諸軍事・本將軍・虎牢鎮大将に転じた。平涼の休屠の金崖・ きょう の狄子玉らが反乱すると、再び使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・平西將軍・安定鎮大将に転じた。到着すると、羌戎を懐柔し、帰順しない者はなかった。崖らを追討し、ことごとく捕らえた。召還されて 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられた。

出向して平東將軍・懷荒鎮大将となった。一年も経たぬうちに、諸 高車 こうしゃ の莫弗らが俟の厳しすぎること、部下への恩がないことを訴え、前の鎮将の郎孤を請い戻すよう願った。世祖は詔でこれを許し、俟を召還して京師に帰らせた。朝見すると、世祖に言上して曰く、「陛下が今郎孤を再び鎮守させようとされるが、臣の愚かな推量では、一年を過ぎず、郎孤は必ず敗れ、高車は必ず叛くでしょう」。世祖は事実でないと疑い、厳しく責め、公として邸宅に帰らせた。翌年、諸莫弗は果たして郎孤を殺して叛いた。世祖はこれを聞き、大いに驚き、直ちに俟を召し、敗れることを知った理由を問うた。俟は曰く、「そもそも高車は上下の礼がなく、礼のない者は、その上に立つことが難しい。臣が威厳をもって臨み、法網で節制したのは、次第に訓導を加え、分限を知らせようとしたからです。しかし、直を憎み正を醜とする者は、実に多く、故に臣に恩がないと訴え、孤の美を称えたのです。孤が鎮守に戻ることを得て、その名誉を喜び、必ず百姓に恩を加え、臣の失いを譏り、専ら寛恵をもって治め、仁恕をもって接しようとするでしょう。礼のない者は、陵傲を生じやすく、一年を過ぎず、上下の別がなくなり、その後で威をもって収めれば、人は怨懟を抱き、怨懟が多くなれば、敗乱が顕わになるのです」。世祖は笑って曰く、「卿の身は短いが、慮は何と長いことか」。即日、再び 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられた。

世祖が蠕蠕を征し、涼州を破った時、常に車駕に随い別に輜重を督した。また高涼王の那と共に黄河を渡り南に進み、地を略して済南の東平陵に至り、その民六千家を河北に移した。

また俟を以て 都督 ととく 秦雍二州諸軍事・平西將軍・ 長安 ちょうあん 鎮大将とした。高涼王の那と共に杏城で蓋吳を撃ち、大いにこれを破った。吳の二人の叔父を捕らえ、諸将は京師に送ろうとしたが、俟だけは許さず、曰く、「そもそも長安は一つの都で、険阻な地であり、民は多く剛強で、その類は一様ではない。清平の時でさえ、なお叛動が多いのに、今は良民でさえなお懼れているところ、ましてその党与においてをやである。もし吳を斬らなければ、長安の変は未だ止まない恐れがある。吳は一身を隠し潜んでいるが、その親信でなければ、誰が捕らえられようか。十万の衆を留めて一人を追うのは、上策ではない。ひそかに吳の叔父を許し、その妻子を免じて、自ら吳を追わせれば、必ず擒にできるでしょう」。諸将は皆曰く、「今賊を討ち、既にこれを破り、その二人の叔父を捕らえた。ただ吳一人だけでは、再びどうなることもあるまい」。俟は曰く、「吳の悖逆は、もとより天性のものであり、今もし免れることを得れば、必ず愚民を誑惑し、王者は死なずと称し、妄りに扇動し、患いは必ず大きくなるでしょう。諸君は毒蛇を見ないのか。その頭を断ってもなお害をなす。まして腹心の疾を除きながら、必ずその類を遺すと言うのは、それでよいのか」。諸将は曰く、「公の言う通りである。しかし賊を得て殺さず、さらに求めるところがあって、遂に去って返らなければ、その罪はどうなるのか」。俟は曰く、「この罪は私が諸君と共に当たる」。高涼王の那も俟の計に従い、遂に吳の二人の叔父を遣わし、期日を約した。吳の叔父が至らぬと、諸将は各々俟を咎めた。俟は曰く、「これは未だその便を得ぬだけであり、必ず背くことはない」。後数日、果たして吳を斬って至り、皆その言う通りであった。俟の明略と独断は、皆この類である。内都大官に遷った。

安定の盧水の劉超らが党を聚めて万余りで叛いた。世祖は俟の威恩が関中に及んでいるとして、詔で本官のまま 都督 ととく 秦雍諸軍事を加え、長安を鎮守させた。世祖は曰く、「秦川は険阻で、王化を受ける日は浅く、吏民は未だ恩徳に浴していない。故に近年以来、頻りに叛動がある。今、超らは険を恃み、王命に従わない。朕がもし重兵を卿に与えれば、超らは必ず合して一つとなり、険に拠って戦いを拒み、攻め易くない。もし軽兵を卿に与えれば、制することはできない。今、卿に方略をもってこれを定めさせよう」。ここにおいて俟は単騎で鎮に赴いた。超らはこれを聞いて大いに喜び、為す能わざるものと思った。到着すると、威信を宣揚し、成敗を示し、超の娘を誘い入れ、外見は姻親のようであった。超はなお自ら警戒し、初めから降伏の意思はなかった。俟は乃ちその帳下を率いて超に会いに行き、その挙措を観察し、掩襲の計を設けた。超は人を遣わして迎えさせて曰く、「三百人以外は、弓馬をもって相待つべく、三百人以内は、酒食をもって供応すべし」。俟は乃ち二百騎を率いて超に詣でた。超の設備は甚だ厳重であった。俟は遂に酒を恣にし、酔い尽くして還った。後に将士に謂って曰く、「超は取るべし」。乃ち密かに精兵五百人を選び、国の恩徳を述べ、将士を激勵し、言は至って懇切であった。士卒は奮勇し、各々曰く、「死をもって公に従い、必ず二心はありません」。遂に偽って狩りをして超に詣で、士卒と約して曰く、「今、機を発するに当たり、酔いを限りとすべし」。俟はここにおいて酔ったふりをし、馬に上って大呼し、手ずから超の首を斬った。士卒は声に応じて縦撃し、殺傷千数に及び、遂にこれを平定した。世祖は大いに悦び、俟を召還して京師に帰らせ、外都大官に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ はもとのままとした。

高宗が即位すると、子の麗に策立の勲があったため、俟を征西大將軍に任じ、爵位を進めて東平王とした。太安四年に 薨去 こうきょ 。六十七歳。 おくりな して成という。子十二人あり。

子に馛あり。

長子の馛は智謀多く、父の風があった。高宗は馛を見てこれを悦び、朝臣に謂って曰く、「私は常にその父の智がその躯を過ぎることを歎じていたが、これはまた父を踰えている」。若くして内都下大夫となり、上に奉じ下に接し、行いや取るもの与えるもの、常に人の意を逆に曉ることができ、その事に従う者はこれを愛さぬ者はなかった。

興安初年、聊城侯の爵位を賜り、出向して 散騎常侍 さんきじょうじ ・安南將軍・相州刺史となり、長広公を仮された。為政は清平で、強きを抑え弱きを扶けた。州中に徳行ある宿老で名望重き者があれば、友礼をもってこれに接し、政事を諮詢し、方略を責めた。このような者十人を「十善」と号した。また諸県の強門百余りを簡抜して取り、仮子とし、殷勤に誘い接し、衣服を賜り、各々家に帰らせ、外に耳目とさせた。ここにおいて姦を発し伏を摘み、事として験ならざるはなかった。百姓は神明の如しと思い、敢えて劫盗する者はいなかった。州に在ること七年、家は極めて貧約であった。召還されて 散騎常侍 さんきじょうじ となるとき、民が馛の留任を乞うた者は千余人に及んだ。顯祖は許さず、群臣に謂って曰く、「馛の善政は、古人に復たせよと言っても、どうしてこれに加えられようか」。絹五百匹・奴婢十口を賜った。馛が還る時、吏民は大いに布帛を斂めてこれを贈ったが、馛は一切受けず、民も取らなかった。ここにおいてその物をもって仏寺を造り、長広公寺と名付けた。後に父の爵位を襲い、封建安王と改めた。

時に劉彧の司州刺史常珍奇が懸瓠を以て内附したが、新たな民はなお去就を懐いていた。馛は旨を銜んで撫慰し、諸々軍に陥ちて奴婢となった者があれば、馛は皆これを免じた。百姓は忻悦し、民情は乃ち定まった。蠕蠕が塞を犯すと、車駕自ら討たんとし、詔して馛を選部 尚書 しょうしょ と為し、留台の事を録し、兵を督し糧を運ぶことを委ね、一切処分を委ねた。

顕祖、将に京兆王子推に禅位せんとし、任城王雲・隴西王源賀等並びに皆固く諫めた。馛は抗言して曰く、「皇太子は聖徳を以て基を承け、四海属望す。横議を以てすべからず、国の紀を干すべからず。臣、請う、殿庭に刎頸し、死有りて二無からん」と。久しくして、帝の意乃ち解け、詔して曰く、「馛は直臣なり。其れ能く吾が子を保たんや」と。遂に馛を以て 太保 たいほう と為し、 太尉 たいい 源賀と節を持ちて皇帝の璽紱を奉じ、高祖に伝位せしめた。

延興四年に薨じ、本官を以て贈られ、諡して貞王と曰う。馛に六子有り、琇・凱知名なり。

馛の子 琇

琇は あざな を伯琳と云い、馛の第五子なり。母赫連氏は身長七尺九寸、甚だ婦徳有り。馛に爵を琇に伝えんとする意有り。琇年九歳の時、馛之に謂いて曰く、「汝が祖東平王に十二子有り、我は嫡長と為り、家業を承襲す。今已に年老い、汝の幼沖に属す。詎んぞ陸氏の宗首と為るに堪えんや」と。琇対えて曰く、「苟も力を鬬わすに非ざれば、何ぞ童稚を患えん」と。馛之を奇とし、遂に琇を立てて世子と為す。馛薨じ、爵を襲ぐ。琇は沈毅にして言少なく、雅く書を読むを好み、功臣の子孫として侍御長・給事中と為り、遷って黄門侍郎、転じて太常少卿・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・太子左詹事、北海王師を領し、光禄大夫、転じて祠部尚書・司州大中正と為る。従兄叡の事に会い官を免ぜらる。景明初、試みに河内郡を守る。咸陽王禧謀反し、子の曇和と尹仵期・薛継祖等に令して先ず河内を拠えしむ。琇禧の敗るるを聞き、曇和の首を斬る。時に琇が先ず曇和を送らず、禧敗れて始めて首を斬るを以て、其の情を通ずるを責め、廷尉に徴詣せしむ。廷尉少卿崔振罪状を窮治し、琇を大逆に按じ、陸宗の大小、咸に収捕を見る。将に赦せんと会い、先ず獄に薨ず。琇の弟凱仍ち上書して冤を訴う。世宗詔して琇の爵を復す。子景祚襲ぐ。

馛の子 凱

凱は字を智君と云い、謹重にして学を好む。年十五、 中書 ちゅうしょ 学生と為り、侍御中散を拝し、転じて通直散騎侍郎、遷って太子庶子・給事黄門侍郎と為る。凱枢要に在ること十余年、忠厚を以て称せられ、希言屢中し、高祖之を嘉す。後患に遇い、頻りに上書して骸骨を乞う。詔して許さず、勅して太医に湯薬を給せしむ。正平太守を除かれ、郡に在ること七年、良吏と号せらる。初め、高祖将に旧風を革変せんと議し、大臣並びに難色有り。又毎に劉芳・郭祚等を引きて密かに規謨に与かり、共に時政を論ず。而して国戚は遂に己を疏んずる謂い有り、怏怏として不平の色有り。乃ち凱に令して私に之を喻さしめて曰く、「至尊は但だ前に事を広く知らんと欲するのみ。直ちに当に其の古式を問うべき耳。終に彼を親しみて相い疏んずる無からん」と。国戚旧人の意乃ち稍く解く。咸陽王禧逆を謀り、凱の兄琇罪に陥り、凱も亦収めらる。赦に遇いて乃ち免る。凱兄の死を痛み、哭するに時節無く、目幾くんぞ失明せんとし、冤を訴えて已まず、人事を備え尽くす。正始初に至り、世宗琇の官爵を復す。凱大喜し、酒を置き諸親を集めて曰く、「吾が数年の間に病を抱え死を忍ぶ所以は、顧みて門戸の計のみ。逝く者は追わず、今願い畢れり」と。遂に其の年卒す。龍驤将軍・南青州刺史を贈られ、諡して惠と曰う。

凱の子 暐

長子暐は字を道暉と云い、弟の恭之と並びに時に誉有り。 洛陽 らくよう 令賈禎其の兄弟を見て歎じて曰く、「僕は老年を以て、更に双璧を覩る」と。又嘗て兄弟共に黄門郎孫惠蔚を候う。惠蔚諸賓に謂いて曰く、「意わず二陸復た座隅に在る。吾が徳は張公に謝し、誉を延ぶる無し」と。暐は起家して 司徒 しと 行参軍、太尉西閣祭酒、兼ねて尚書右民・三公郎と為り、事に坐して免ぜらる。後伏波将軍を除かる。正光中に卒す。司州治中を贈らる。孝昌中、重ねて冠軍将軍・恒州刺史を贈らる。暐は急就篇に擬いて悟蒙章と為し、及び七誘・十酔・章表数十篇有り。暐と恭之は晩に睦まず、時に鄙まれる。

子元規、武定中、尚書郎。

凱の子 恭之

恭之は字を季順と云い、操尚有り。侍御史・著作佐郎を釈褐す。建義初、中書侍郎を除かれ、著作郎を領し、尋いで河北太守を除かれ、転じて征虜将軍・殷州刺史と為る。前廃帝初、廷尉卿を拝し、鎮西将軍を加えらる。歴る所並びに声績有り。後事に坐して免ぜらる。孝静初、還りて本任に復し、出でて征南将軍・東荊州刺史を除かる。天平四年卒す。 散騎常侍 さんきじょうじ えい 将軍・吏部尚書・定州刺史を贈られ、諡して懿と曰う。恭之の著す所の文章詩賦凡そ千余篇。

子曄、開府中兵参軍。

馛の弟 石跋

馛の弟石跋、涇州刺史。

石跋の弟、帰

石跋の弟の帰は、東宮舎人・駕部 校尉 こうい となった。

帰の弟、尼

帰の弟の尼は、内侍 校尉 こうい ・東陽鎮都將となった。

尼の弟、麗

尼の弟の麗は、幼少より忠謹をもって左右に侍し、太武帝は特に親昵された。挙動は審慎にして過失がなかった。章安子の爵位を賜り、次第に昇進して南部尚書となった。

太武帝が 崩御 ほうぎょ し、南安王余が立ったが、まもなく中常侍宗愛らに殺害された。百官は憂い恐れ、誰を立てるべきか分からなかった。麗は高宗が世嫡の重みを有し、民望の係る所であるとして、真っ先に大義を唱え、殿中尚書の長孫渇侯・尚書の源賀・羽林郎の劉尼と共に苑中で高宗を奉迎し、これを立てた。 社稷 しゃしょく が安泰を得たのは、麗の謀によるものであった。これにより心膂の任を受け、朝廷においてその右に出る者はなかった。興安初年、平原王に封ぜられ、撫軍将軍を加えられた。麗は辞して言うには、「陛下は正統の重みをもって、基を承け業を継がれます。奉迎して順を守ることは、臣の職分の常であり、どうして大典を犯すようなことを敢えていたしましょうか」と。再三にわたって辞譲したが、詔は聞き入れなかった。麗は啓上して言うには、「臣の父は先朝に歴仕し、忠勤を著わしましたが、今年は西夕に至り、未だ王爵に登っておりません。臣は幼少より寵栄を蒙り、分を過ぎております。愚かな真情が未だ申し上げられず、犬馬の効が未だ展ばされておりません。過分な恩寵を裁ち、お聞き届けくださいますよう」と。高宗は言われた、「朕は天下の主として、卿父子に二王を封ずることができないことがあろうか」と。そこでその父の俟を東平王とした。麗はまもなく 侍中 じちゅう ・撫軍大将軍・ 司徒 しと 公に遷り、その子孫を復し、妻に妃の号を賜った。麗は優寵が既に頻繁であるとして、固辞して受けず、高宗はますます重んじられた。太子 太傅 たいふ を領した。麗は学問を好み士を愛し、常に講習を業とした。その待遇する者は皆、篤行の士であり、士人に多く称えられた。性質また至孝であり、父の憂いに遭い、礼を過ぎて憔悴した。

和平六年、高宗が崩御した。先に麗は 代郡 だいぐん の温泉で療養しており、崩御の報を聞いて駆けつけようとしたが、左右の者が止めて言うには、「宮車晏駕されました。王は徳望が平素より重く、姦臣がもし民の称賛を憎むならば、不測の禍を慮るべきです。少し猶予され、朝廷が寧静になってから奔赴されても、未だ遅くはありません」と。麗は言った、「どうして君父の喪を聞きながら、禍難を慮って、直ちに奔走しないことがあろうか」と。そこで直ちに馳せ参じた。乙渾がまもなく朝政を擅にし、麗を忌んで害した。初め、渾は悖傲で、常に不法を行ったが、麗はたびたび諫めたため、これによって忌まれるようになった。顕祖は麗を深く追惜し、簡王と諡し、金陵に陪葬させた。高祖は先朝の功臣を追録し、麗を廟庭に配饗させた。麗には二人の妻があり、長は杜氏、次は張氏である。長子の定国は杜氏の生み、次子の叡は張氏の生みである。

麗の長子、定国

定国は襁褓の中にあった時、高宗がその邸に幸し、詔して宮内で養育させ、遊びや起居は常に顕祖と同処させた。六歳で中庶子となった。顕祖が 践祚 せんそ すると、 散騎常侍 さんきじょうじ に拝され、特に東郡王に封ぜられ、鎮南将軍を加えられた。定国は父の爵を継ぐことについて、たびたび辞したが許されず、また父の爵を弟の叡に譲ることを求めたところ、ようやく聞き届けられた。まもなく侍中・儀曹尚書に遷り、殿中尚書に転じた。前後して大駕が征巡する度に、常に行臺録都曹事に抜擢された。超遷して 司空 しくう となった。定国は恩寵を恃んで、法度を修めず、延興五年、事に坐して官爵を免ぜられ兵士とされた。太和初年、再び侍中・鎮南将軍・秦益二州刺史に除され、王爵を回復した。八年、州において薨じた。本官を以て追贈され、莊王と諡され、命服一襲を賜った。

定国の子、昕之

子の昕之は、字を慶始といい、風望は端雅であった。爵を襲い、例により公に降格された。顕祖の娘の常山公主を尚し、駙馬都尉に拝された。通直郎を歴任し、景明年中、従叔の琇の罪に連座して免官された。まもなく主の婿であることを以て、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に除された。間もなく 司徒 しと 司馬に遷り、輔国将軍を加えられ、出て兗州刺史となった。まもなく安東将軍の号を進められ、治績に名声があり、引き続き青州刺史に除された。州において寛平の称があり、安北将軍・相州刺史に転じた。永平四年夏に卒した。鎮東将軍・冀州刺史を追贈され、惠と諡された。

初め、定国は河東の柳氏を娶り、子の安保を生み、後に范陽の盧度世の娘を納れて、昕之を生んだ。二室ともに旧族であったが、嫡妾の別がなかった。定国が亡くなった後、二人の子が父の爵を継ぐことを争った。 僕射 ぼくや の李沖は当時寵愛を受けており、度世の子の淵と婚姻の親戚で親しかった。沖は左右して助けを申し立て、昕之はこれによって爵を継ぎ主を尚し、職位は赫奕たるものがあった。安保は沈淪して貧賤に陥り、飢寒を免れなかった。

昕之の容貌は柔順で謹み深く、高祖はその主の婿であることを以て、特に昵眷を垂れた。世宗の時、四十歳に満たないうちに、たびたび三つの藩鎮を治め、当世はこれをもって栄誉とした。昕之が卒した後、母の盧氏は悼念のあまり哀傷し、まもなく亡くなった。公主は姑に仕えて孝の称があり、神亀初年、穆氏の頓丘長公主と共に女侍中となった。また性質は嫉妬せず、昕之に子がないため、妾媵を納れたが、皆女子を産んだ。公主には三人の娘がいて男子がおらず、昕之の従兄の希道の第四子の子彰を後嗣とした。

子彰は、字を明遠といい、本名は士沈といった。十六歳で後を継ぎ、公主に仕えて礼を尽くした。丞相の高陽王雍がかつて言った、「常山の妹は男子がいないが、子彰を子とすることは、自ら生んだ子よりも勝っている」と。正光年中、爵を襲って東郡公となり、まもなく散騎侍郎に除され、山陽太守に拝された。荘帝が即位すると、召されて給事黄門侍郎に拝された。子彰の妻は咸陽王禧の娘である。禧が誅殺された後、彭城王の邸で養われ、荘帝は親しく遇し、諸姉とほぼ同様であった。建義初年、尒朱栄が旧事を修めようとし、庶姓を王に封じたため、これによって子彰を濮陽王に封じ、食邑七百戸を与えた。まもなく詔してこれを罷め、先の爵に復した。安西将軍・洛州刺史に除された。還朝し、征東将軍・金紫光禄大夫に拝され、広平王賛の開府諮議参軍事を領した。天平年中、 えい 将軍・潁州刺史に拝された。母の憂いにより職を去った。元象年中、本将軍を以て斉州刺史に除され、また驃騎将軍を加えられ、行って懐州の事務を管轄した。北 州刺史に転じ、引き続き徐州刺史に除され、将軍の号はそのままとした。一年で三州を歴任し、当世はこれを栄誉とした。還朝し、 えい 大将軍・左光禄大夫に除された。また行って瀛州の事務を管轄した。まもなく侍中に拝された。また行って滄州の事務を管轄した。驃騎大将軍の号を進められ、行って冀州の事務を管轄した。侍読・兼七兵尚書に除された。行って青州の事務を管轄した。子彰が州を治めるにあたり、当初は聚斂を事としたが、晩節に改め、自ら青・冀・滄・瀛の州を治めて、甚だ時誉があり、また虚己して物を受け入れたため、人々は敬愛した。武定八年二月、 中書監 ちゅうしょかん に除された。三月に卒し、五十四歳であった。賻として帛一百匹を賜り、 都督 ととく 青光斉三州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・青州刺史を追贈され、公の爵はそのままとし、文宣と諡された。

子彰は道術を好み、かつて重い病にかかり、薬に桑螵蛸が必要であったが、子彰は生き物を害することを忍びず、ついに服用しなかった。その仁恕はこのようなものであった。六人の子を教え諭すのに、大いに法度があった。

子昂は、武定年間に中書舎人となった。

昂の弟の駿は、太子洗馬となった。

駿の弟の杳は、尚書倉部郎となった。

定国の弟は叡である。

叡は、字を思弼という。その母の張氏は、字を黄龍といい、もとは恭宗の宮人であり、麗に賜わって、叡を生んだ。麗が亡くなったとき、叡は十余歳で、爵を襲い撫軍大将軍・平原王となった。沈着で風雅を好み、学問を好み、身分を低くして士に接した。年齢は二十に満たなかったが、当時の人々はすでに宰輔と見なした。東徐州刺史博陵の崔鑒の娘を娶り、鑒は親しい者に言った、「平原王は才能と器量は悪くないが、ただその姓名がひどく重複しているのが残念だ」と。当時高祖はまだその姓を改めていなかった。叡は東徐から婚礼を挙げて帰る途中、 ぎょう を経由し、李彪に会い、大いに敬愛し、そのままともに京師へ急ぎ、館客とし、衣服・馬・下僕を給し、非常に厚く待遇した。北征 都督 ととく となり、北部長に任じられ、尚書に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

太和八年正月、叡は隴西公元琛とともに節を持ち、東西二道の大使となり、善を褒め悪を罰し、その名声は京師に聞こえた。五月、詔して叡に夏服一具を賜う。後に叡を北征 都督 ととく とし、蠕蠕を撃ち、これを大破した。侍中・都曹尚書に遷った。時に蠕蠕がまた塞を犯したので、詔して叡に騎兵五千を率いてこれを討たせ、蠕蠕は逃げ走り、石磧まで追撃し、その帥の赤河突ら数百人を捕らえて帰還した。 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、尚書左僕射に遷り、北部尚書を領した。

十六年、五等の爵を降し、麗の勲功が前朝に顕著であったので、叡を鉅鹿郡開国公に封じ、食邑三百戸を与えた。まもなく使持節・鎮北大将軍とし、陽平王頤とともに 都督 ととく となり、領軍将軍斛律桓らを督し、北征三道諸軍事を率い、歩騎十万をもって蠕蠕を討った。叡以下にそれぞれ衣服布帛を賜う。高祖自ら城北に幸し、諸帥に訓戒を述べた。 尚書令 しょうしょれい ・衛将軍を除した。叡は蠕蠕を大破して帰還した。まもなく母の喪により令を解かれた。高祖が南伐の計画を有するにあたり、本官をもって起用し、征北将軍に改めて授けようとした。叡は固く辞し、情礼を終えることを請うた。詔して言う、「叡はなお私の痛みに執して、往時の旨に違えんとす。金革の事いま正に急なり、どうして曲げて遂げるべきか。衛尉を領することを加えよ。重ねて有司に勅し、速やかに敦め諭させよ」と。後に使持節・ 都督 ととく 恒肆朔三州諸軍事・本将軍・恒州刺史・行 尚書令 しょうしょれい を除した。高祖が百官を大いに考課し、叡の 尚書令 しょうしょれい の禄を一周間剥奪した。

十九年、叡は上表して言う、「臣は聞く、先天には違えざる謀略あり、後天には時に順う規矩ありと。今、蕭鸞は名目を盗み、江左に窃拠し、悪は満ち罪は熟し、天と人とがこれを棄つ。乱を取って昧を攻むるは、誠にこの日に在り。愚かには、長江は浩蕩として、彼の巨防たり、徳をもって招くべく、力をもって屈するは難し。また南の地は昏霧し、暑気鬱蒸し、軍人は夏を経れば、必ず多く疾病する。しかるに鼎は遷り草創し、諸事まさに始まるばかり、台省には政を論ずる館なく、府寺には治を聴く所なく、百官の居止は、事行路に等しく、長雨と炎陽とが自ら癘疫を成す。かつ兵と徭役とを並び挙げるは、聖王の難しとするところなり。今、甲冑の士は外に仇寇を攻め、羸弱の夫は内に土木を動かし、運給の費は日に千金を損なう。疲弊の兵を駆りて堅城の虜を討つ、将に何をもってか勝を取らんとするか。陛下の往冬の挙は、まさに武を江漢に耀かし、威を衡湘に示さんと欲したるもの、春より夏に幾り、理として甲を解くべし。願わくは旌を櫜に巻き旆を収め、持久の方となし、帝居を崇成して、本を重んずるの固きを深くせん。聖懐に内念の憂いなく、兆庶に斤板の役を休め、礼を華区に修め、風を洛浦に諷せん。しかる後に英略の将を簡び、猛毅の雄を任じ、南に荊湘を取り、その要府を拠れば、則ち梁秦以西は機を覩て自ら服すべし。撫附して威を振い、麾を回して東を指せば、則ち義陽以左は声を馳せて制すべし。然る後に仁化を布きて近きを綏んじ、恩施を播きて遠きを懐かしめば、凡そ情有るもの、誰か奮わざらん。還た慕徳の人を遣わしてその余力を効せしめ、流れに乗って下れば、勢いは万倍に勝り、蕞爾たる閩甌、敢えて稽顙せざらんや。必ずしもこの年を競い、この寸尺を競わんとせず。ただ願わくは近き勅を顧み存し、降を納れて旋らせ、鑾輿を紆らせず、久しく炎暑に臨ませざらんことを」と。高祖はこれに従った。叡は上表して車駕が代に還り、太師馮熙の葬儀に親臨することを請い、 都督 ととく 三州諸軍事を削奪される罪に坐した。まもなく 都督 ととく 恒朔二州諸軍事を除され、征北大将軍に進号した。順遷の表があったので、邑四百戸を加増された。

時に穆泰が定州刺史であったが、疾病を理由に辞し、土地が温暖であることを甚だしく言い、恒州で自ら効力することを請うたので、高祖はこれを許した。そこで叡を 散騎常侍 さんきじょうじ ・定州刺史とし、将軍はもとのままとした。叡は出発せず、ついに泰らとともに謀りて逆を構えた。獄中で死を賜い、妻子の殺戮は免じ、その妻子を遼西郡の民に徙すことを聴許した。詔して僕射李冲・領軍于烈に言う、「陸叡・元丕は早くより寵禄を蒙り、位は人臣の極みに至った。自ら卿らとともに非常の詔を受け、朕は不死の旨を許し、上下斉しく信を得て、大義を保たんことを思う。朕は卿らに対して常に短を忘れ瑕を棄て、互いに含養することを務む。どうして陸叡が無心の甚だしきこと、ここに至らんとは謂わんや。乃ち穆泰と禍を結び、数えしばしば反 ぜい を図る。朕が洛に遷るを以て、内に不可と懐き、諸王を推挙し、子恂を引き入れんと議す。かくの如きの論、前後一ならず。始めは故南安王を推さんと欲し、次に陽平王を推し、もし肯いて従わざれば、楽陵王を逼らんと欲す。朝廷を誹謗し、書信は炳然たり。事既に成らんと垂れ、叡は洛都の休明を以て、小緩せしめんと勧む。この後、両人また競う。然れどもなお隠して聞こえず。頼むに陽平王の忠貞奮発あり、泰の言を獲て、便ち馳表し、王人をして慝を糾さしめ、恒岳に塵無からしむ。ここを以て叡の愆失は、入門誅に処す。朕は前旨を諦尋し、法を尽くさざるを許す。反逆の志は、自ら幽冥に負い、誓いに違うは彼に在り、朕に関わらず。反心逆意は、既に余犯と異なり、たとえ矜恕せんと欲すとも、これを如何ともするなし。然れどもなお先言を憶い、兼ねて末に頗る異議有りしを以て、別府に自死するを聴し、その妻子の殺戮を免じ、その門は子孫永世に歯せず。元丕の二子一弟は、首として賊の端となり、その父には人明証無く、理において可睹たり。但だ言に炳灼無きを以て、隠して窮めず、連坐して死すべきに、特恕して民と為す。朕は本終わり有るを期すれど、彼自ら棄つ。卿らの間、忽ち今日に及ぶ、心に違い念に乖く、一何か悲しむべき。故にこの別示す、怪しむに致さざらんことを想う。謀反の外は、白日の如く皎たり」と。

沖、烈が上表して言う、「臣らは幸運に巡り会い、昌平の世に生きることを得た。才能は役に立つものではなく、列位に座しているに過ぎず、汗馬の功もなく、山河の封を受けるに及んでいる。このような過分な寵遇は、古来比類なく、この大いなる恩恵は、万死をもってしても報いることはできない。しかし、叡と丕は犬馬の情を知らず、梟獍のような心を持ち、ひそかに幼い者を引き入れ、このような妖逆を企て、天の常道に背き、その罪は万死に値する。叡は心に禍いを結び、陰に構えることを止めず、親族や諸侯の間を離間し、天象を窺おうとしている。平穏な時を見ていながら、疑いを抱かなかったわけではなく、かつて一言でも宿志を明かしたことがあろうか。その心情と言動を推し量れば、まさに賊の首魁である。丕の二人の子は、長年にわたり悪に従い、東西で扇動し合い、 并州 へいしゅう ・夏州を乱そうと企てていた。この様子を観測すれば、知らないはずはない。たとえ聖なる慈愛が彼らを包容し、その生命を許したとしても、天地に対してどうするというのか。神祇に対してどうするというのか。誠を尽くし節を全うすることは、臣下の常の分け前であり、このような者を罰して赦さないことは、上に立つ者の常の法である。ましてや、曲がりなりにも大いなる恩恵を蒙り、忠貞の義をもって奨励されながら、さらに天に背き道に逆らい、姦逆を包蔵しているのである。情状を求め道理を推し量れば、その罪は常刑に処されるべきである。しかし、慈愛深いお取り計いにより寛大な処置がなされ、さらに恩赦が流布され、叡の三度断たれた骸を継ぎ、丕の既に絶えた魄を還している。再三にわたる赦免は、まことに法典を損なうものである。それでもなお、天の眷顧が上に及び、かつての日々を思いやられる。臣らが余党を背負っているにもかかわらず、別に明らかな詔を垂れ、再び斉(等しく)信の恩を申し述べ、白日のようなご意志を重ねて諭される。伏して読み、悲しみ慚じ、ただ深く愧じ恐れるのみである。」

叡の長子 希道

叡の長子の希道は、字を洪度といい、風貌があり、美しい鬚髯を備えていた。経史を広く読み、かなり文才があった。初め中散に任じられ、通直郎に遷り、父の事件に連座して遼西に流された。後に帰還を許され、征伐に従って功を立てた。軍功により給事中に任じられ、 司徒 しと 記室・ 司空 しくう 主簿に遷った。征南将軍元英が蕭衍の司州を攻めたとき、希道を副将とし、義陽を平定すると、その功により爵位を淮陽男と賜った。諫議大夫に任じられた。学識が古今に通じていたため、新令の制定に参議した。廷尉少卿に転じた。龍驤将軍・南青州刺史を加えられた。本将軍のまま梁州刺史に転じた。希道はたびたび上表して辞退した。また東夏州刺史に任じられたが、拝命しなかった。北中郎将に転じ、前将軍・郢州刺史に遷った。希道は辺境の統治に長け、威略が非常にあり、平西将軍・涇州刺史に転じた。正光四年、在官中に卒した。撫軍将軍・定州刺史を追贈された。希道には六人の子があった。

士懋は、字を元偉という。天平年間、その曾祖父の麗に擁立の功勳があったため、詔により特に鉅鹿郡開国公を復活させ、邑三百戸とし、士懋に襲封させた。武定年間、平東将軍・営州刺史となった。

士懋の弟の士宗は、字を仲彥という。尚書左外兵郎中となった。

士宗の弟の士述は、字を幼文という。符璽郎中となった。士宗と士述は、建義初年に、ともに河陰で害に遇った。

士述の弟の士沈は、従叔の昕之の後を継いだ。

士沈の弟の士廉は、字を季脩という。建州平北府長史となった。永安末年、尒朱世隆に州城を攻め落とされ、害に遇った。

士廉の弟の士佩は、字を季偉という。武定年間、安東将軍・司州治中となった。

希道の弟 希悅

希道の弟の希悅は、尚書外兵郎中・驃騎諮議参軍・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・平南将軍・光禄大夫となった。河陰で害に遇った。 散騎常侍 さんきじょうじ えい 将軍・相州刺史を追贈された。

希悅の弟 希謐

希悅の弟の希謐は、太尉参軍となり、早世した。

希謐の弟 希靜

希謐の弟の希靜は、字を季默という。 司徒 しと 默曹となり、やがて邵郡太守に遷った。

希靜の弟に希質あり。

希靜の弟の希質は、字は幼成という。員外郎として出仕し、侍御史を兼ね、やがて散騎侍郎・陽城太守に転じた。孝莊帝の初め、龍驤将軍・膠州刺史に任ぜられた。蕭衍が将を遣わし数万の兵を率いて郁洲より海を渡り島を占拠し、州の境界を侵してきたので、希質はこれを討ち破った。建州刺史に転じ、将軍の位はもとのままである。尒朱榮が死ぬと、世隆は兵を率いて北へ帰り 晋陽 しんよう に向かったが、希質は固く守ってこれを拒み、城は陥落し、兄の子は害された。希質の妻の元氏は、栄の妻の兄の孫であったため、これによって難を免れた。天平の初め、給事黄門侍郎となり、魏尹に遷り、太常卿・ えい 大将軍・都官尚書に転じた。武定七年夏に卒す。享年五十八。驃騎大将軍・ 中書監 ちゅうしょかん ・青州刺史を追贈され、諡して文という。希質は名家の子であり、官位もまた通じていたが、物事に対して公平な心を持つことができず、ただ山偉・宇文忠之らと共に徒党を組み、朝廷の俊才を排斥誹謗したので、識者はこれを軽んじた。

子の珣は、字は子琰という。開府参軍。次に瑾は、字は子瑜という。性質ともに粗暴で邪険であり、ついに盗賊となり、珣・瑾ともに死んだ。

瑾の弟の瓘は、字は子璧という。次に悉達。武定年間、ともに儀同開府参軍。

麗の弟に頹あり。

麗の弟の頹は、早く卒した。子の□は、字は清都という。機巧の性質を持ち、歴任して長水 校尉 こうい となり、爵を広牧子に賜う。龍驤将軍・游撃将軍・北中郎将に遷る。南中郎将に転じ、魯陽太守を兼ね、前将軍の号を進められる。卒し、本将軍・夏州刺史を追贈され、諡して順という。

頹の弟に陵成あり。

頹の弟の陵成は、中 校尉 こうい ・河間太守・祕書中散・新城子。

陵成の弟に龍成あり。

陵成の弟の龍成は、父兄の風範があった。若くして功臣の子として中散となり、やがて 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、爵を永安子に賜う。平遠将軍を加えられ、出て安南将軍・青州刺史となり、楽安公を仮授される。民を愛し下を恤れみ、百姓はこれを称えた。卒す。

子の昶は、字は細文といい、爵を襲う。正始年間、太尉属となり、寧遠将軍を加えられ、本官のまま 滎陽 けいよう 郡の事務を行った。弾劾を受けるが、赦令に会い免ぜられる。久しくして広武将軍の号を進められ、 司空 しくう 司馬に遷り、まもなく光禄大夫に任ぜられる。昶に他の才能はなく、ただ酒を飲むことを事とした。出て平西将軍・京兆内史となるが、固く辞して拝命せず。平北将軍・肆州刺史に転じる。入朝して えい 将軍・大鴻臚卿となり、やがて車騎将軍・左光禄大夫に任ぜられる。天平年間、驃騎大将軍の号を進められ、 散騎常侍 さんきじょうじ ・領左右・兼給事黄門侍郎を加えられ、なお太僕卿を兼ねる。また本将軍として東徐州刺史となる。まもなく卒す。本将軍・ えい 尉卿・青州刺史を追贈される。

龍成の末弟に騏驎あり。

龍成の末弟の騏驎は、侍御中散となり、侍御長に転じる。太和の初め、新平太守・銀青光禄大夫となり、彭城の功績により夏州刺史に任ぜられる。

子の高貴は、孝昌年間、兗州鎮東府法曹参軍。

子の操は、武定末、度支尚書。操の弟に楚あり。

高貴の弟は順宗、員外郎・秘書中散を務めた。

子の概之は、武定の末年に東莞太守となった。

俟の族弟に宜がいる。

俟の族弟の宜は、雲中鎮将であった。

子の雋は、高宗の世に侍中・給事を歴任した。顕祖の初年に侍御長となった。乙渾を誅殺する謀議に加わり、侍中・楽部尚書に任ぜられた。 散騎常侍 さんきじょうじ ・吏部尚書に転じ、安楽公の爵位を賜り、大いに信任された。まもなく 尚書令 しょうしょれい に任ぜられた。後に安東将軍・定州刺史に任ぜられ、征東大将軍・相州刺史に転じた。政治は寛大で恵みを施すことを旨とし、民と官吏は安寧であった。死去し、貞公と諡された。

子の登は、澄城太守となった。

子の匡は、 司空 しくう 倉曹参軍となった。

登の弟の子の景元は、元象の初年に衛将軍・儀同三司・南青州刺史となった。

史臣が曰く、陸俟の威略と智謀は人に優るものがあった。馛は識見と才幹が明らかで厳格であり、家風を失わなかった。麗は国に忠を尽くし主に奉じ、時の棟梁となったが、忠義を実践して、一介の小人に制せられた。惜しいことである。叡と琇は沈着高雅で顕達したが、罪を犯して禍いに陥った。深い山と大きな沢には、まことに龍や蛇がいるものだ。希道は風度があり名声があり、子彰は善終の美を全うした。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻40