李宝
李宝は、 字 を懐素、小字を衍孫といい、隴西狄道の人で、私的に涼王と称した李暠の孫である。父の翻は、字を士挙、小字を武彊といい、私的に 驍 騎将軍、祁連・酒泉・晋昌の三郡太守を称した。李宝は沈着で雅量があり、度量があり、 驍 勇で人を慰撫し接遇するのが巧みであった。伯父の李歆が沮渠蒙遜に滅ぼされると、李宝は姑臧に移った。一年余り後、母方の叔父の唐契に従って北の伊吾に逃れ、 蠕蠕 に臣従した。その遺民で帰順する者が次第に二千人ほどになった。李宝は身を低くして礼をもって接遇し、その心を大いに得たので、人々は皆喜んで彼のために働き、常に仇を討ち恥を雪ぐことを望んだ。世祖(太武帝)が将を遣わして敦煌の沮渠無 諱 を討伐した際、無諱は城を捨てて逃走した。李宝は伊吾から南に帰って敦煌に入り、城郭や官舎を修繕し、先人の事業を回復しようと図った。弟の懐達を使者として上表文を奉じて帰順の誠意を示した。世祖はその忠誠を嘉し、懐達を 散騎常侍 ・敦煌太守に任じ、別に使者を遣わして李宝に使持節・ 侍中 ・ 都督 西垂諸軍事・鎮西大将軍・開府儀同三司・領護西戎 校尉 ・沙州牧・敦煌公を授け、引き続き敦煌を鎮守させ、四品以下の官職については制命を承って仮に授けることを許した。真君五年(444年)、朝廷に入った際、そのまま京師に留められ、外都大官に任じられた。鎮南将軍・ 并州 刺史 に転じた。帰還後、内都大官に任ぜられた。高宗(文成帝)の初め、司馬文思に代わって懐荒を鎮守し、鎮北将軍に改めて任じられた。太安五年(459年)に 薨去 した。五十三歳であった。詔により命服一襲を賜り、生前の官職を追贈され、 諡 を宣といった。六人の子がいた。承・茂・輔・佐・公業・沖である。公業は早世し、沖は別に伝がある。
子 承
李承は、字を伯業といい、若い頃から策略に長けていた。初め、李宝が帰順を謀った時、民や僚属に異議を唱える者が多かったが、承は当時十三歳で、李宝に速やかに大計を定めるよう勧め、これによって決断した。そこで承に上表文に従って入朝し人質となることを命じた。世祖は深くその器量を異とし、礼遇は甚だ厚く、姑臧侯の爵位を賜った。後に父の喪に遭い、喪に服して孝行で知られた。承は先人の封爵を継ぐべきであったが、自ら爵位を持っていたため、弟の茂に譲った。当時の論評はこれを称えた。李承は方正で度量があり、鑑識と裁断力があり、当時に重んじられた。高宗の末、姑臧侯として龍驤将軍・ 滎陽 太守に任ぜられた。政治は厳明で、名声が大いに上がった。延興五年(475年)に卒去した。四十五歳であった。使持節・生前の将軍号、雍州刺史を追贈され、諡を穆といった。
承の子 韶
長子の韶は、字を元伯といい、学問に広く通じ、器量があった。弟の彦・虔・蕤と共に高祖(孝文帝)より名を賜った。韶はまた叔父の李沖に知遇と重視を受けた。延興年間(471-476年)、 中書 学生に補せられた。姑臧侯の爵位を襲封し、儀曹令に任ぜられた。当時、車服や羽儀の制度を改定する際、全て韶に主管させた。給事黄門侍郎に遷った。後に例により侯から伯に降格された。大鴻臚卿を兼ね、黄門侍郎の職は元の通りであった。
高祖が遷都の計画を立てようとした時、詔を下して侍臣を引見し、古事について諮問した。韶は答えて言った。「 洛陽 は九鼎の旧地、七百(年)の基業の地であり、地勢は天下の中央にあり、朝貢の便は実に均しく、王者が国を建てるには、これに勝るものはありません。」高祖は善しとされた。太子右詹事に遷った。まもなく左右の制度が廃止されると、引き続き詹事・秦州大中正となった。安東将軍・兗州刺史として出向した。高祖が 鄴 から洛陽に還る途中、韶が道中で朝見し、庶人(廃太子)元恂の事について言及した。高祖は言われた。「卿がもし東宮(太子側)を出ていなかったなら、あるいはここまでにはならなかったかもしれない。」
世宗(宣武帝)の初め、侍中に召され、七兵 尚書 を領した。まもなく撫軍将軍・ 并 州刺史に任ぜられた。従弟の伯尚が元禧の反乱に与同したため、州で拘禁され、京師に召還された。謀議を知らなかったが、功績ある親族に連座して官爵を免除された。長い後、将作大匠を兼ねて起用され、朝儀や律令の制定に参与するよう命じられた。
呂苟児が秦州で反乱を起こすと、撫軍将軍・西道 都督 ・行秦州事に任ぜられ、右衛将軍の元麗と共に軍を率いて討伐した。乱が平定されると、正式に秦州刺史となった。璽書を賜り労い励まされ、先人の爵位を回復した。当時、隴右は戦乱の後で、百姓は多く生業に安んじていなかったが、韶はよく慰撫して受け入れ、夷夏の人心を大いに得た。召還されて行定州事となった。まもなく相州刺史に転じ、将軍号は元の通りであった。
粛宗(孝明帝)の初め、殿中尚書として入朝し、行雍州事を兼ねた。後に中軍大将軍・吏部尚書に任ぜられ、 散騎常侍 を加えられた。韶は選曹(吏部)にあって、公平な心で正道を守ることができず、融通して容認するのみであったため、論者はこれを貶した。冀州刺史として出向した。清廉簡素で民を愛し、名声を大いに収め、政績の良さは当時第一と称された。粛宗はこれを嘉し、そのまま 散騎常侍 を加えられた。車騎大将軍に遷り、剣佩・貂蟬各一具、驊騮馬一匹、及び衣服寝具を賜った。韶は懸車(致仕)の年齢に達したとして、上表して退位を請うた。優れた詔により許されなかった。定州刺史に転じ、常侍は元の通りであった。中山(定州)に赴任する際、冀州の父老は皆、西の境界まで見送り、集まって泣いた。二州の境界は接しており、百姓は平素からその風徳を聞いていたので、州内は大いに治まった。正光五年(524年)四月、官任で卒去した。七十二歳であった。詔により葬儀の絹七百匹を賜り、侍中・持節・ 散騎常侍 ・車騎大将軍・ 司空 公・雍州刺史を追贈され、諡を文恭といった。埋葬の後、冀州の兵千余人が荊州に駐屯しており、帰還途中に韶の墓の前を通り、互いに墓土を盛り上げ、数日かけて帰った。そのように遺愛が残されていたのである。初め、韶が秦隴を平定した功績により、永安年間(528-530年)に安城県開国伯に追封され、食邑四百戸を賜った。
長子の璵は、字を道璠といい、爵位を襲封した。武定年間(543-550年)、驃騎大将軍・東徐州刺史となった。
璵の弟の瑾は、字を道瑜という。容貌が美しく、頗る才学があり、特に韶に寵愛された。清河王元懌がその才能を認め賞賛し、元懌が 司徒 となると、参軍に辟召した。著作佐郎に転じ、龍驤将軍を加えられた。次第に通直散騎侍郎に遷り、給事黄門侍郎の王遵業・尚書郎の盧観と共に儀注を主管した。臨淮王元彧が瑾らに言った。「卿ら三人は、共に帝の儀礼を掌っている。まさに舅甥の国と言えよう。」王・盧は即ち瑾の母方の従兄であった。粛宗が 崩御 した際、上諡の策文は、瑾が作成したものである。荘帝(孝荘帝)の初め、河陰で害に遭った。四十九歳であった。冠軍将軍・齊州刺史を追贈された。
長子の産之は、字を孫僑という。容貌は短小で醜かったが、諸弟を養育し訓導し、愛と友誼が篤厚で行き届いていた。四十九歳で亡くなった。
産之の弟の蒨之は、武定末(550年頃)、 司空 主簿となった。
瑾の弟の瓚は、字を道璋といい、若い頃から風操があった。 司徒 参軍事に辟召された。神亀年間(518-520年)に卒去した。漢陽太守を追贈された。
子の脩年は、大将軍開府士曹参軍であった。早世した。
承の子に彦がいる。
韶の弟の彦は、字を次仲という。学業に優れていた。高祖の初年、司州の秀才に挙げられ、中書博士に任じられた。諫議大夫に転じた。後に考課により、元士に降格された。まもなく主客曹事を行い、郊廟下大夫に移った。当時、朝儀典章はまだ十分に整っておらず、彦は心を留めて考定し、称職と号された。
高祖が南征すると、彦は、小さな江閩の地に、天子の車駕を親しく労させるには足りないと、たびたび上表して諫めた。聞き入れられなかったが、その至誠を嘉された。六軍が淮南に駐屯すると、広陵王羽の長史に徴され、恢武将軍・西翼副将軍を加えられた。帰還後、冀州趙郡王幹の長史に任じられた。青州広陵王羽の長史に転じ、斉郡太守を帯びた。龍驤将軍・ 司徒 右長史に徴され、左長史・秦州大中正に転じた。揚州事を行った。まもなく河南尹に徴されて拝された。汝陰に至って帰還し、また徐州事を行うよう命じられた。平北将軍・平州刺史に転じた。帰還後、平東将軍・徐州刺史となった。延昌二年夏、大雨が続き、川や溝がみな溢れた。彦は水陸の形勢を観察し、地形に応じて疏通させ、水害による被害を免れた。朝廷はこれを嘉し、たびたび詔を下して労い励ました。入朝して河南尹となった。金紫光禄大夫・光禄勲卿に遷り、度支尚書に転じた。出向して撫軍将軍・秦州刺史となった。
この時、破落汗抜陵らが北鎮で反乱を起こし、二夏・豳・涼の各地で蜂起が相次いだ。しかし彦の刑政は過酷で、下々の怨みを買い、城民の薛珍・劉慶・杜超らは四方の離叛に乗じて、ひそかに逆謀を結んだ。正光五年六月、州の門に突入し、彦を内斎で捕らえ、西府に囚禁し、その党の莫折大提を帥に推戴し、ついに彦を害した。永安年間、侍中・驃騎大将軍・ 司徒 公・雍州刺史を追贈され、諡を孝貞といった。
子の燮は、字を徳諧といい、若くして風望があった。 司徒 参軍として官途についた。著作佐郎・ 司徒 祭酒となり、主簿に転じた。死去し、輔国将軍・太常少卿を追贈された。
燮の弟の徳広は、中散大夫の官で終わった。
徳広の弟の徳顕は、 太尉 行参軍となり、やがて散騎侍郎に遷った。死去し、征虜将軍・東秦州刺史を追贈された。
徳顕の弟の徳明は、秘書郎であった。
承の子に虔がいる。
彦の弟の虔は、字を叔恭という。太和初年、中書学生となった。秘書中散に遷り、冀州驃騎府長史・太子中舎人に転じた。世宗の初年、太尉従事中郎に遷った。出向して清河太守となり、京兆王愉の反乱に遭遇し、虔は郡を棄てて朝廷に奔った。世宗は虔の到着を聞き、左右に言った。「李虔は冀州に長くおり、恩信が人々に著しい。今、難を抜けて来たので、衆情はおのずから解けるであろう。」そこで虔に別に軍を率いて前線を慰労する任を与えた。乱が平定されると、長楽太守に転じた。延昌初年、冀州で大乗の賊が起こり、虔に本官のまま別将として、 都督 の元遙とともに討伐平定させた。後将軍・燕州刺史に遷った。帰還して光禄大夫となり、平西将軍を加えられ、大司農卿を兼ねた。出向して 散騎常侍 ・安東将軍・兗州刺史となった。冀州平定の功績を論じられ、爵位を高平男に賜った。帰京し、河南邑中正に任じられ、鎮軍将軍・金紫光禄大夫に遷った。孝荘帝の初年、特進・車騎大将軍・儀同三司を授けられ、 散騎常侍 を加えられた。さらに驃騎大将軍・開府儀同三司の号を進められた。永安三年冬に薨去した。七十四歳。侍中・ 都督 冀定瀛三州諸軍事・驃騎大将軍・太尉公・冀州刺史を追贈され、男爵はもとのまま、諡を宣景といった。
長子の曖は、字を仁明という。 司空 行参軍として官途につき、やがて尚書左外兵郎に遷った。孝荘帝の初年、河陰で害に遭い、四十歳であった。安東将軍・度支尚書・青州刺史を追贈された。
子の褒は、武定年間、太師法曹参軍であった。
曖の弟の昞は、字を仁曜という。高陽王雍の常侍として起家し、員外散騎侍郎・太尉録事参軍となった。孝荘帝の初年、兄の曖と同時に害に遭い、三十八歳であった。 散騎常侍 ・左将軍・兗州刺史を追贈された。
子の為は、武定年間、 司空 長流参軍であった。
昞の弟の昭は、字を仁照という。散騎侍郎の任にて卒した。征虜将軍・涼州刺史を追贈された。
子の士元・操は、武定年間に、ともに儀同開府参軍事となった。
昭の弟の曉は、字を仁略という。武定末年、太尉諮議参軍となった。
承の子は蕤である。
虔の弟の蕤は、字を延賓という。歩兵 校尉 ・東郡太守・司農少卿を歴任した。卒すると、龍驤将軍・ 豫 州刺史を追贈された。
長子の詠は、字を義興といい、幹局(才幹と器量)があった。初官は太学博士であった。殿中侍御史を領し、やがて東郡太守に昇進した。荘帝の初め、安東将軍・済州刺史に転じた。広州刺史に転じ、 散騎常侍 を加えられた。前廃帝の時、第三弟の通直 散騎常侍 義真、第七弟の中書侍郎・太常少卿義邕とともに、同時に尒朱仲遠に害された。義邕は、荘帝が藩王であった頃、外戚として非常に親しまれ、天下を有するに及んで、特に信任を受けた。尒朱栄の誅殺に際し、義邕はその事に関与したため、これによって禍に及んだのである。出帝の初め、詠には侍中・ 驍 騎将軍・吏部尚書・冀州刺史を、義真には前将軍・齊州刺史を、義邕には安東将軍・青州刺史をそれぞれ追贈した。
詠の次弟の義慎は、 司空 属であった。第四弟の義遠は、国子博士であった。荘帝の初め、ともに河陰で害に遇った。義慎には 散騎常侍 ・征東将軍・雍州刺史を追贈した。
子は茂である。
承の弟の茂は、字を仲宗という。高宗の末、父の爵(鎮西将軍・敦煌公)を襲い、高祖の初め、 長安 鎮都将に任じられた。西兗州刺史に転じ、将軍の位はもとのままとした。入朝して光禄大夫となり、例により侯に降格された。茂は謙虚で慎み深い性格で、弟の沖が寵愛が盛んなのを恐れ、満ちて傾くことを憂い、老病を理由に、固く辞職を請うた。高祖はその志を奪わず、大夫の禄を給して私邸に帰ることを許し、定州の中山に居住した。これより郷里で悠々と過ごし、京師に入らなかった。景明三年に卒し、時に七十一歳であった。諡して恭侯という。
茂の子は静である。
子の静は、字を紹安といい、爵を襲い、初官は太尉参軍事であった。定州別駕・東平原太守を歴任した。神亀三年に卒し、五十五歳であった。
子の遐は、字を智遠といい、机案の才(事務処理の才能)があった。初官は 司空 行参軍で、爵を襲い、やがて右将軍・尚書駕部郎中に昇進した。出て河内太守となった。尒朱栄が兵を挙げて洛陽に向かい、その郡の境界に駐屯した時、荘帝はひそかに黄河を渡り北岸で相会した。遐は栄が荘帝を推戴奉じたと聞くと、門を開いて謁し、そのまま車駕に従って南へ渡った。河陰に至り、乱兵に害され、時に四十二歳であった。事態が収まると、 散騎常侍 ・車騎大将軍・尚書右 僕射 ・秦州刺史を追贈された。車駕を迎えた功績により、盧郷県開国伯に封ぜられ、邑三百戸を賜った。
子の孝儒が爵を襲い、斉が禅譲を受けると、爵は例により降格された。
茂の子は孚である。
静の弟の孚は、字を仲安といい、恭順で篤実温厚であった。初官は鎮北府功曹参軍であった。定州別駕、汝陽・汝南・中山の三郡太守を歴任した。孝荘帝の初め、外戚として抜擢され撫軍将軍・金紫光禄大夫を授けられた。出て鎮東将軍・滄州刺史となり、 散騎常侍 を加えられた。普泰元年に卒し、六十二歳であった。五人の子があった。
長子の恵昭は、 太傅 開府城局参軍であった。
恵昭の弟の恵諶は、武定年間に、斉州別駕となった。
李茂の子に敬安がいる。
李孚の弟の敬安は、奉朝請となった。早世した。
李茂の子に季安がいる。
敬安の弟の季安は、書史を粗く渉猟した。初官は彭城王行参軍であった。次第に寧朔将軍・歩兵 校尉 に昇進した。出向して徐州北海王元顥の撫軍府長史となった。正光の末、元顥が関西 都督 となると、再び長史に抜擢され、軍政を委ねられた。まもなく 驍 騎将軍を加えられた。孝昌三年、軍中で卒去した。時に五十三歳。征虜将軍・涼州刺史を追贈された。
子の処默は、若くして清廉で聡明であった。初官は青州彭城王府主簿であった。次第に通直 散騎常侍 ・安東将軍・光禄大夫・撫軍将軍・広州開府長史に昇進した。天平初年に卒去した。三十九歳。
子に輔がいる。
李茂の弟の輔は、字を督真といい、人望もあった。初官は中書博士で、 司徒 議曹掾に転じた。太和初年、高祖(孝文帝)が咸陽王元禧のためにその娘を妃に迎え、鎮遠将軍・潁川太守に任じ、長社戍を兼帯させた。輔は慰撫して民を集め、辺境の和合を大いに得た。六年、郡において卒去した。四十七歳。征虜将軍・秦州刺史・襄武侯を追贈され、諡を恵といった。
長子の伯尚は、若くして重い名声があった。弱冠で秘書郎に任じられた。高祖は常に「これは李氏の千里駒である」と言った。次第に通直散騎侍郎に昇進し、詔勅により『太和起居注』を撰修した。まもなく秘書丞に転じた。世宗(宣武帝)の初年、給事黄門侍郎を兼ねた。景明二年、咸陽王元禧の謀反に連座して誅殺された。時に二十九歳。
伯尚の弟の仲尚は、容姿が甚だ美しかった。若くして文学で知られた。二十歳で『前漢功臣序賛』および叔父の 司空 李沖の誄を作り、時に侍中を兼ねた高聡・尚書の邢巒が見て嘆息して「後生畏るべし、虚言にあらず」と言った。初官は京兆王元愉の行参軍であった。景明年間、兄の事件に連座して賜死を命じられた。二十五歳。
仲尚の弟の季凱は、沈着聡明で識見と度量があった。兄の事件に連座し、同母弟と共に辺境に流された。久しくして、赦令に遇い免罪となり、 晋陽 に寓居し、長年沈淪していた。孝昌年間、初官として太尉参軍事となり、威遠将軍を加えられた。まもなく 并 州安北府長史に任じられた。粛宗(孝明帝)が崩御すると、尓朱栄がひそかに義挙を図り、季凱はその計画に参与した。荘帝が即位すると、召し出されて給事黄門侍郎に任じられ、博平県開国侯に封ぜられ、邑七百戸を賜った。まもなく 散騎常侍 ・平東将軍を加えられた。秘書監に転じ、中軍将軍の号に進んだ。普泰元年七月、尓朱世隆は尓朱栄の死について、季凱が内通していたと考え、ここに害された。五十五歳。出帝(孝武帝)の初年、侍中・驃騎将軍・吏部尚書・定州刺史を追贈された。
子の統は、字を基伯といい、爵を継いだ。武定末年、太尉刑獄参軍であった。斉が禅譲を受けると、爵位は例により降格された。
季凱の弟の延慶は、孝昌年間、初官として定州鎮北城局参軍となった。次第に奉車都尉・陳留太守に昇進した。鎮東将軍・金紫光禄大夫に転じた。永熙二年に卒去した。五十二歳。本官の将軍号・雍州刺史を追贈された。
子の恵矩は、武定年間、儀同開府参軍事であった。
延慶の弟延度は、武定年間に、衛将軍・安德太守となった。
子に佐あり。
輔の弟佐は、字を季翼といい、文武の才幹を有していた。高祖の初年、 散騎常侍 を兼ね、命を受けて高麗に使節として赴いた。使命を果たすのに適切であったため、帰還すると常山太守に任じられ、真定子の爵位を賜った。冠軍将軍・懐州刺史に遷り、山陽侯の爵位を賜った。まもなく安南将軍を加えられ、河内公となった。安東将軍・相州刺史に転じた。任地において称賛される治績を挙げた。
車駕が南征した際、安南将軍に任じられ、大司馬・咸陽王禧の副将として殿中軍を率いた。まもなく詔により征南将軍・城陽王鸞、安南将軍盧淵らと共に赭陽を攻撃した。各軍は互いに節度せず、皆城下に陣を構えて戦わずして賊を降伏させようとした。佐のみが配下を率い、昼夜を問わず攻撃した。折しも蕭鸞がその太子右衛率垣歴生に軍勢を率いて援軍に派遣したため、皆は勢いが弱く敵わないと考え、退却を図った。佐は二千騎を選んで逆襲したが、賊に敗れた。連座して瀛州に流され庶民となった。車駕が宛・鄧を征討した際、再び佐を起用し、仮の平遠将軍・統軍とした。蕭鸞の新野太守劉忌が城に拠って固守したので、佐は配下を率いてこれを攻め落とした。功により涇陽県開国子に封ぜられ、三百戸を領した。沔北が平定されると、広陽王嘉が荊州刺史となり、引き続き佐を嘉の鎮南府長史とした。輔国将軍を加えられ、別に新野を鎮守した。大軍が凱旋する際、高祖は佐の手を取って言った、「沔北は洛陽の南門である。卿は既に朕のためにこれを平定した。また朕のために善く守るべきである」。
高祖が崩御し、遺詔により佐が荊州の事務を行い、もとの将軍のままとした。佐は州において威信が大いに広まり、辺境の民は喜んで帰附し、前後して帰順する者は二万余家に及んだ。まもなく正式に刺史となった。世宗の初年、都官尚書を兼ねて召された。景明二年に卒去、七十一歳。征虜将軍・秦州刺史を追贈され、諡して莊といった。子の遵が後を継いだ。
佐の子に遵あり。
遵は、爽やかで父の風があった。相州治中を歴任し、別駕・冀州征北府長史・ 司空 司馬に転じた。卒去し、龍驤将軍・洛州刺史を追贈された。孝荘帝の初年、外戚として特別に車騎大将軍・儀同三司・定州刺史を追贈された。
子の果は後を継いだ。 司空 諮議参軍となった。武定年間、西賊と通じた罪により誅殺された。
佐の子に柬あり。
遵の弟柬は、字を休賢という。郡から功曹に召されたが、父の喪に服して職を辞し、その後終生酒肉を口にせず、郷里に隠居した。粛宗の初年、 司空 ・任城王澄がその操行を賞賛し、参軍事とした。まもなく 司徒 外兵参軍に転じた。任城・済北二郡の太守を歴任した。孝荘帝の初年、鎮遠将軍・済州刺史に遷った。卒去し、安北将軍・殿中尚書・相州刺史を追贈された。
子の経は、 司徒 諮議参軍・行 豫 州事となった。興和初年、妖言の罪により死を賜った。
佐の子に神儁あり。
柬の弟神儁は、幼名を提といった。若くして才学で知られ、太常劉芳に賞賛された。奉朝請に始まり、 司徒 祭酒・従事中郎に転じた。ほどなく 驍 騎将軍・中書侍郎・太常少卿に任じられた。外任として前将軍・荊州刺史となった。
当時は四方に事変が多く、各地で戦闘が続いていた。蕭衍が将の曹敬宗を派遣して侵攻させ、長らく包囲攻撃し、さらに水を引いて城を灌漑したため、城壁の沈まない部分は数版のみとなった。神儁は兵民を慰撫し、力を合わせて固守した。詔により 都督 崔暹、別将王羆・裴衍らが援軍に派遣され、敬宗は退却した。当時は賊の侵攻の後で、城外には多くの遺骸が放置されていたが、神儁はこれらを収葬するよう命じた。大司農卿に召された。粛宗の末年、鎮軍将軍・行相州事に任じられた。その時葛栄が南に迫り、神儁は憂慮恐れて、故意に落馬して足を負傷し、汲郡に留まったが、詔により追還された。荘帝が即位すると、神儁を外戚として声望ある者とみなし、 散騎常侍 ・殿中尚書に任じた。荊州を固守した功績を追論し、千乗県開国侯に封ぜられ、一千戸を領した。 中書監 ・吏部尚書に転じた。
神儁は風流を尚び、人物を推挙することに情熱を注いだが、正しく公務を守ることができず、名声は多くはなかった。鉅鹿の人李炎が上書して神儁の過失を訴えた。天柱将軍尓朱栄がかつてある者を曲陽県令に補任したが、神儁はその官階が県令にふさわしくないとして任用しなかった。栄はこれを聞いて激怒し、神儁が自ら親党を立てて功臣を排斥していると言った。神儁は恐れ、官職の解任を願い出た。そこで衛将軍・右光禄大夫に任じられた。まもなく尓朱兆が京師に入り、乗輿が幽閉されると、神儁は民間に逃げ隠れた。出帝の初年、ようやく朝廷に帰参し、 散騎常侍 ・驃騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司に任じられた。孝静帝の初年、行 并 州事となった。まもなく驃騎大将軍・肆州刺史に任じられた。内任として侍中となった。興和二年に薨去、六十四歳。 都督 雍秦涇三州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・ 司徒 公・雍州刺史を追贈され、侍中・開国公はもとのままとした。
神儁は風韻秀挙にして、博学多聞であり、朝廷の旧章及び人倫氏族に通暁し、多くを諳記す。文雅を篤く好み、老いても廃せず、凡そ交遊する所は、皆一時の名士なり。後生を汲引し、その光価を為し、四方の才子、咸く宗附す。而して性通率にして、検度を持せず、少年の徒に至るまで、皆褻狎し、清正方重なる能わず、識者は此を以て譏る。神儁は二妻を喪い、又た鄭厳祖の妹を娶らんと欲す。神儁の従甥なり。盧元明も亦た婚せんと為さんとし、遂に紛競に至り、二家は厳祖の門に鬩ぐ。鄭は卒に元明に帰し、神儁は惆悵已まず、時に人は神儁を鳳徳の衰えと謂う。神儁に子無く、従弟延度が第三子容児を以て後にす。
韶の従弟、元珍。
韶の従弟元珍、小名は大墨。奉朝請より起家し、太尉録事参軍に至り、歩兵 校尉 の任に卒す。
元珍の弟仲遵は、業尚有り。彭城王勰が定州に在りし時、開府参軍に請う。累転して員外 散騎常侍 ・游撃将軍・太中大夫となる。出でて京兆内史と為る。大将軍・京兆王継が西伐するに当たり、諮議参軍に請う。尋いで左将軍・営州刺史を除す。時に四方の州鎮謀逆し、叛乱相続き、営州城内、咸く異心有り。仲遵は単車にて州に赴き、既に至り、大使盧同と恩信を以て懐誘し、率ね皆怡悦す。後に粛宗又た詔して盧同を行臺と為し、北出して慰労せしむ。同は彼の人情信じ難しと疑い、兵を聚めて将に往かんとす。城民劉安定等先ず異志有り、己を図らんと謂い、還って相恐動し、遂に仲遵を執る。二子清石・阿罕、尋いで亦た見殺さる。唯だ兄の子徽仁のみ免る。
韶の従叔、思穆。
韶の従叔思穆、字は叔仁。父抗は、涼州より江左に渡り、劉駿に仕え、晋寿・安東・東莱三郡太守を歴任す。思穆は度量有り、談論を善くし、草隸に工なり、当時に称せらる。太和十七年、家累を携えて漢中より帰国し、歩兵 校尉 を除す。母憂に遭い解任す。起きて都水使者と為る。車駕の南伐に及び、本官を以て直閤将軍を兼ね、従いて南陽を平げ、功に因りて爵を伯と賜う。尋いで 司徒 司馬を除す。彭城王勰が定州に在りし時、司馬に請い、鉅鹿太守を帯ぶ。勰が揚州に鎮を徙すに及び、仍って司馬に請う。府解け、征虜将軍・太中大夫を除す。出でて京兆内史と為り、郡に在ること八年、頗る政績有り。徴されて光禄大夫を拝す。粛宗初め、平北将軍・中山太守を除すも、拝せずして、安北将軍・営州刺史に遷る。位に卒す、時に年六十一。安西将軍・華州刺史を贈らる。永安中、子奬が荘帝に親待せられ、復た超贈して思穆に衛将軍・ 中書監 ・左光禄大夫を贈り、諡して宣恵と曰う。子十四人有り。
嫡子斌、襲ぐ。官は散騎侍郎に至る。早卒す。
斌の兄奬、武定末、 司徒 左長史。
李氏は初め魏に入りしより、人位兼ね挙げ、沖の寵遇に因り、遂に当世の盛門と為る。而して仁義吉凶、情礼浅薄にして、期功の服、殆ど惨容無く、相視て窘乏するも、拯済を加えず。識者は此を以て之を貶す。
【論】
史臣曰く、李宝は家難流離し、晩く帰正を獲、大いに名器を享け、世業殞せず、諸子基を承け、俱に位望有り。韶は身を清くし度を履み、声績洽美なり。神儁は才尚風流、殆ど民望なり、貞粹の地、君子或いは未だ許さざるか。
校勘記