魏書

卷38 刁雍 王慧龍 韓延之 袁式

卷38 刁雍 王慧龍 韓延之 袁式

刁雍

原文刁雍

刁雍、字は淑和、勃海郡饒安県の人である。高祖の攸は、晋の御史中丞であった。曾祖の協は、司馬叡に従って江を渡り、京口に居住し、位は尚書令に至った。父の暢は、司馬徳宗の右衛将軍であった。初め、暢の兄の逵は、劉裕が軽薄で行いが卑しく、社の銭三万を負い、期限に違えて返さなかったので、捕らえて徴収しようとした。劉裕が桓玄を誅殺した時、嫌疑の故に先ず刁氏を誅殺した。雍は暢の旧吏に匿われ、洛陽にいる姚興の豫州牧姚紹のもとへ奔り、後に長安に至った。雍は書伝を博覧し、姚興は雍を太子中庶子とした。

原文刁雍,字淑和,勃海饒安人也。高祖攸,晉御史中丞。曾祖協,從司馬叡渡江,居于京口,位至尚書令。父暢,司馬德宗右衞將軍。初,暢兄逵以劉裕輕狡薄行,負社錢三萬,違時不還,執而徵焉。及裕誅桓玄,以嫌故先誅刁氏。雍為暢故吏所匿,奔姚興豫州牧姚紹於洛陽,後至長安。雍博覽書傳,姚興以雍為太子中庶子。

泰常二年、姚泓が滅び、司馬休之らと共に帰国した。上表して誠意を述べ、南境において自ら効力を尽くさんことを請うた。太宗はこれを許し、雍に建義将軍を仮授した。雍は河済の間にて流散の民を招集し、五千余人を得て、南は大〈闕〉に阻まれ、徐兗を擾乱し、牙旗を建てて衆に誓い、檄を辺境に伝えた。劉裕は将の李嵩らを遣わして雍を討たせたが、雍はこれを蒙山にて斬った。ここにおいて衆は二万に至り、進んで固山に屯した。七年三月、雍の従弟の弥もまた衆を率いて京口に入り、共に裕を討たんと図ったが、裕は兵を遣わしてこれを破った。六月、雍はまた裕の青州を侵し、雍は敗れ、散卒を収めて馬耳山に保った。また裕の青州軍に逼迫され、遂に大郷山に入った。

原文泰常二年,姚泓滅,與司馬休之等歸國。上表陳誠,於南境自效。太宗許之,假雍建義將軍。雍遂於河濟之間招集流散,得五千餘人,南阻大〈闕〉,擾動徐兗,建牙誓眾,傳檄邊境。劉裕遣將李嵩等討雍,雍斬之於蒙山。於是眾至二萬,進屯固山。七年三月,雍從弟彌亦率眾入京口,規共討裕,裕遣兵破之。六月,雍又侵裕青州,雍敗,乃收散卒保於馬耳山。又為裕青州軍所逼,遂入大鄉山。

八年、太宗は南幸して鄴に至り、行観において朝見した。問うて曰く、「先に卿の家が劉裕を縛ったと聞くが、卿との親疎は如何なるものか」。雍曰く、「是は臣の伯父でございます」。太宗笑って曰く、「劉裕父子は卿を憚るべきであろう」。またこれに謂いて曰く、「朕は先に叔孫建らを遣わして青州を攻めさせたが、民は皆隠れ避け、城は未だ下らず。彼らは元より卿の威を憚り、士民もまた卿を信服している。今、卿を遣わして建らを助けさせたいと思う。卿は勉めよ」。ここにおいて雍に鎮東将軍・青州刺史・東光侯を仮授し、五万騎を与え、別に義軍を立てさせた。建は先に東陽を攻めた。雍が至り、義衆を招集して五千人を得た。郡県を撫慰して遣わすと、土人は皆降り、租を送って軍に供した。この時、東陽を攻め、その北城を三十歩ばかり平らげた。劉義符の青州刺史竺夔は城内に地道を穿ち、南に下って澠水澗に入り、退路とした。雍は建に謂って曰く、「此の城は既に平らげられた。時に応じて取り入るべし。然らざれば皆逃げ尽くすであろう」。建は兵士を傷つけることを恐れ、難色を示した。雍曰く、「若し官軍の兵士を傷つけることを恐れるならば、雍、今、義兵を率いて先に入ることを請う」。建は聞き入れなかった。夔は東走せんとしたが、丁度義符がその将檀道済らを遣わして青州を救援した。雍は建に謂って曰く、「賊は官軍の突騎を畏れ、鎖をもって車を連ね函陣と為す。大峴より以南は、処々狭隘にして、方軌すべからず。雍、義兵五千を率い、険要に邀え撃ってこれを破らんことを求む」。建は聞き入れず曰く、「兵士は水土に適わず、疫病が半ばを過ぎる。若し相持って休まずば、兵は自ら死に尽き、何ぞ復た戦うを須いん。今、大軍を損なわず、安全にして返るは、計の上なるものなり」。建は乃ち兵を引いて還った。

原文八年,太宗南幸鄴,朝於行觀。問:「先聞卿家縛劉裕,於卿親疏?」雍曰:「是臣伯父。」太宗笑曰:「劉裕父子當應憚卿。」又謂之曰:「朕先遣叔孫建等攻青州,民盡藏避,城猶未下。彼既素憚卿威,士民又相信服,今欲遣卿助建等,卿宜勉之。」於是假雍鎮東將軍、青州刺史、東光侯,給五萬騎,使別立義軍。建先攻東陽,雍至,招集義眾,得五千人。遣撫慰郡縣,土人盡下,送租供軍。是時攻東陽,平其北城三十許步。劉義符青州刺史竺夔於城內鑿地道,南下入澠水澗,以為退路。雍謂建曰:「此城已平,宜時入取。不者走盡。」建懼傷兵士,難之。雍曰:「若懼傷官兵者,雍今請將義兵先入。」建不聽。夔欲東走,會義符遣其將檀道濟等救青州。雍謂建曰:「賊畏官軍突騎,以鎖連車為函陣。大峴已南,處處狹隘,不得方軌。雍求將義兵五千,要嶮破之。」建不聽曰:「兵人不宜水土,疫病過半。若相持不休,兵自死盡,何須復戰。今不損大軍,安全而返,計之上也。」建乃引還。

雍は遂に尹卯固を鎮守した。また詔して南入を命じ、賊の境を乱さしめた。雍は項城を攻め落とした。丁度勅命が追って来て、機に随い効を立てよと命じたので、雍はここにおいて譙・梁・彭・沛の民五千余家を招集し、二十七営を置き、鎮所を遷して済陰に鎮した。延和二年、外黄城に徐州を立て、譙・梁・彭・沛の四郡九県を置き、雍を平南将軍・徐州刺史とし、爵を東安侯と賜った。鎮すること七年、太延四年、京師に徴し還されたが、頻年にわたり辺民に請われた。世祖はこれを嘉し、真君二年、再び使持節・侍中・都督揚豫兗徐四州諸軍事・征南将軍・徐豫二州刺史を授けた。

原文雍遂鎮尹卯固。又詔令南入,以亂賊境。雍攻克項城。會有敕追令隨機立效,雍於是招集譙、梁、彭、沛民五千餘家,置二十七營,遷鎮濟陰。延和二年,立徐州於外黃城,置譙、梁、彭、沛四郡九縣,以雍為平南將軍、徐州刺史,賜爵東安侯。在鎮七年,太延四年,徵還京師,頻歲為邊民所請。世祖嘉之,真君二年復授使持節、侍中、都督揚豫兗徐四州諸軍事、征南將軍、徐豫二州刺史。

三年、劉義隆の将裴方明が仇池を寇陷した。詔して雍と建興公古弼ら十余の将にこれを討平させた。五年、本将軍のまま薄骨律鎮将とした。鎮に至り、上表して曰く、

原文三年,劉義隆將裴方明寇陷仇池,詔雍與建興公古弼等十餘將討平之。五年,以本將軍為薄骨律鎮將。至鎮,表曰:

詔して曰く、「卿は国を憂え民を愛し、河水を更に引き、大田を勧課せんと欲するを知る。宜しく便りに興立し、克く就くを以て功とすべし。何ぞ必ずしも其の日数を限らん。国に便り民に利する有るものは、動静を以て聞かせよ」。

原文詔曰:「卿憂國愛民,知欲更引河水,勸課大田。宜便興立,以克就為功,何必限其日數也。有可以便國利民者,動靜以聞。」

七年、雍上表して曰く、「詔を奉じて高平・安定・統万及び臣の守る四鎮より、車五千乗を出し、屯穀五十万斛を運びて沃野鎮に付し、以て軍糧に供せよと。臣の鎮は沃野より八百里を去り、道は深沙多く、軽車の往来すら猶お難しと為す。設い穀を載せしむるとも、二十石を過ぎず、深沙に渉る毎に、必ず滞陷を致す。又、穀は河西に在り、転じて沃野に至るには、大河を越度す。車五千乗を計れば、十万斛を運び、百余日にして乃ち一返を得る。大いに生民の耕墾の業を廃す。車牛艱阻にして、全く至るは難く、一年に二運を過ぎず、五十万斛は乃ち三年を経る。臣、前に詔を被り、『国に便り民に利する有るものは動静を以て聞かせよ』と。臣聞く、鄭・白の渠は、遠く淮海の粟を引き、流れを溯ること数千、周年にして乃ち一至するも、猶お国に儲糧有りと称し、民用安楽たりと。今、牽屯山河水の次に於いて、船二百艘を造り、二船を一舫と為し、一船は穀二千斛に勝ち、一舫に十人、計りて千人を須う。臣の鎮内の兵は、率ね皆水に習う。一運二十万斛。方舟順流すれば、五日にして至り、沃野より牽き上れば、十日にして還り到る。合わせて六十日にして一返を得る。三月より九月に至るまで三返し、六十万斛を運送す。人功を計れば、車運より十倍有余軽く、牛力を費やさず、又田を廃せず」。詔して曰く、「船を造り穀を運ばんと欲するを知る。一冬にして即成り、大いに民力を省み、既に牛を費やさず、又田を廃せず、甚だ善し。但だ一運のみに非ず、自ら永く以て式と為すべし。今、別に統万鎮に下して兵を出して運穀に供せしむ。卿の鎮は百兵を出して船工と為すべし。豈に専ら千人を廃せんや。船匠を遣わすと雖も、猶お卿の指授を須う。専任すべからず。諸に此の如く国に益く民に利する有るものは、続いて復た聞かせよ」。

原文七年,雍表曰:「奉詔高平、安定、統萬及臣所守四鎮,出車五千乘,運屯穀五十萬斛付沃野鎮,以供軍糧。臣鎮去沃野八百里,道多深沙,輕車來往,猶以為難,設令載穀,不過二十石,每涉深沙,必致滯陷。又穀在河西,轉至沃野,越度大河,計車五千乘,運十萬斛,百餘日乃得一返,大廢生民耕墾之業。車牛艱阻,難可全至,一歲不過二運,五十萬斛乃經三年。臣前被詔,有可以便國利民者動靜以聞。臣聞鄭、白之渠,遠引淮海之粟,泝流數千,周年乃得一至,猶稱國有儲糧,民用安樂。今求於牽屯山河水之次,造船二百艘,二船為一舫,一船勝穀二千斛,一舫十人,計須千人。臣鎮內之兵,率皆習水。一運二十萬斛。方舟順流,五日而至,自沃野牽上,十日還到,合六十日得一返。從三月至九月三返,運送六十萬斛,計用人功,輕於車運十倍有餘,不費牛力,又不廢田。」詔曰:「知欲造船運穀,一冬即成,大省民力,既不費牛,又不廢田,甚善。非但一運,自可永以為式。今別下統萬鎮出兵以供運穀,卿鎮可出百兵為船工,豈可專廢千人?雖遣船匠,猶須卿指授,未可專任也。諸有益國利民如此者,續復以聞。」

九年、雍上表して曰く、「臣聞く、安きを忘れず乱を忘れざるは、先聖の政なり。況や綏服の外、帯として辺城に接し、防守備わらざれば、敵を禦ぐに以て無き者なり。臣の鎮の綰く所の河西は、辺表に在り、常に不虞を懼る。平地に穀を積むは、実に守護難し。兵人は散居し、依恃する所無し。脱ひ妖姦有らば、必ず狼狽を致す。固からんと欲すと雖も、全くを得るに以て無し。今、城を造りて穀を儲け、兵を置きて備守せんことを求む。鎮自ら建立し、更に官に煩わさず。又、三時の隙に於いて、農を廃せしめず。一年、二年に訖らずとも、三年には必ず成る。城を立つる所は、必ず水陸の次に在るべし。大小高下は、力を量りて取り辦す」。詔してこれを許した。十年三月に至り、城は訖る。詔して曰く、「卿は深く思い遠く慮り、憂勤して思を尽くす。城已に周訖し、辺境に不虞の憂い無く、千載に永安の固き有るを知る。朕甚だ之を嘉す。即ち此の城を名づけて刁公城と為し、以て爾が功を旌せよ」。

原文九年,雍表曰:「臣聞安不忘亂,先聖之政也。況綏服之外,帶接邊城,防守不備,無以禦敵者也。臣鎮所綰河西,爰在邊表,常懼不虞。平地積穀,實難守護。兵人散居,無所依恃。脫有妖姦,必致狼狽。雖欲自固,無以得全。今求造城儲穀,置兵備守。鎮自建立,更不煩官。又於三時之隙,不令廢農。一歲、二歲不訖,三歲必成。立城之所,必在水陸之次。大小高下,量力取辦。」詔許之。至十年三月,城訖。詔曰:「卿深思遠慮,憂勤盡思,知城已周訖,邊境無不虞之憂,千載有永安之固,朕甚嘉焉。即名此城為刁公城,以旌爾功也。」

興光二年、詔して雍を還都せしめ、特進を拝し、将軍は元の如し。和平六年、上表して曰く、

原文興光二年,詔雍還都,拜特進,將軍如故。和平六年,表曰:

詔して公卿をして集議せしむ。会に高宗崩御したるに遭い、遂に寝した。

原文詔令公卿集議,會高宗崩,遂寢。

皇興年中、雍は隴西王源賀及び中書監高允等と並びに耆年を以て特見優礼せられ、雍に几杖を賜い、剣履して殿に上ることを許され、月毎に珍羞を致した。

原文皇興中,雍與隴西王源賀及中書監高允等並以耆年特見優禮,錫雍几杖,劍履上殿,月致珍羞焉。

雍は性質寛柔にして、文典を好尚し、手より書を釋かず、明敏にして多智なり。凡そ為す所の詩賦頌論并びに雜文、百餘篇有り。又、汎く施して士を愛し、怡靜にして寡欲なり。佛道を篤く信じ、教誡二十餘篇を著し、以て子孫を訓導す。太和八年冬卒す。年九十五。命服一襲を賜ひ、賵帛五百匹を賜ふ。儀同三司・冀州刺史を贈り、將軍は故の如し。諡して簡と曰ふ。

原文雍性寬柔,好尚文典,手不釋書,明敏多智。凡所為詩賦頌論并雜文,百有餘篇。又汎施愛士,怡靜寡欲。篤信佛道,著教誡二十餘篇,以訓導子孫。太和八年冬卒,年九十五。賜命服一襲,賵帛五百匹,贈儀同三司、冀州刺史,將軍如故,諡曰簡。

雍の長子纂、字は奉宗。中書侍郎。早卒す。

原文雍長子纂,字奉宗。中書侍郎。早卒。

纂の弟遵、字は奉國。爵を襲ぐ。

原文纂弟遵,字奉國。襲爵。

遵の弟紹、字は奉世。武騎侍郎・汝陰王天賜の涼州征西府司馬。

原文遵弟紹,字奉世。武騎侍郎、汝陰王天賜涼州征西府司馬。

紹の弟獻、字は奉章。祕書郎。

原文紹弟獻,字奉章。祕書郎。

獻の弟融、字は奉業。汝陰太守。

原文獻弟融,字奉業。汝陰太守。

融の弟肅、字は奉誠。中書博士。

原文融弟肅,字奉誠。中書博士。

遵は少にして小節に拘わらず、長じて更に修改す。太和中、例に依りて侯に降る。景明中、相州魏郡太守を除く。還りて太尉諮議參軍と為る。年七十、志力衰へず。嘗て篤疾を經、幾くんか死せんとす。神明の救ひ免るるを見、是れ福門の子なり、當に長年を享くべしと謂ふ。延昌三年、司農少卿に遷る。尋いで龍驤將軍・洛州刺史を拜す。遵は招誘方有り、蕭衍の新化太守杜性・新化令杜龍振・平陽令杜臺定等、戶三千を率ひ地を據へて内附す。熙平元年七月卒す。年七十六。平東將軍・兗州刺史を贈り、諡して惠侯と曰ふ。子十三人有り。

原文遵少不拘小節,長更修改。太和中,例降為侯。景明中,除相州魏郡太守。還為太尉諮議參軍。年七十,志力不衰。嘗經篤疾,幾死,見神明救免,言是福門之子,當享長年。延昌三年,遷司農少卿。尋拜龍驤將軍、洛州刺史。遵招誘有方,蕭衍新化太守杜性、新化令杜龍振、平陽令杜臺定等,率戶三千據地內附。熙平元年七月卒,年七十六。贈平東將軍、兗州刺史,諡曰惠侯。有子十三人。

長子楷、字は景伯。州秀才に舉げらる。早卒す。

原文長子楷,字景伯。州舉秀才。早卒。

子沖、字は文助。儒林傳に在り。

原文子沖,字文助。在儒林傳。

楷の弟尚、字は景勝。本州治中。早卒す。

原文楷弟尚,字景勝。本州治中。早卒。

尚の弟整、字は景智。少にして大度有り、頗る書史に涉る。郡功曹。太和十五年、奉朝請。高祖洛に都し、親ら臨選し、司空法曹參軍を除く。

原文尚弟整,字景智。少有大度,頗涉書史。郡功曹。太和十五年,奉朝請。高祖都洛,親自臨選,除司空法曹參軍。

高祖南討し、廣陽王嘉を以て荊州に鎮せしむ。整は嘉の外兵參軍事と為る。尋いで太尉・咸陽王禧の外兵參軍に轉ず。景明中、給事中を除き、本州中正を領す。尋いで尚書左中兵郎中を除く。正始中、蕭衍の江州刺史王茂先來たりて南境を寇す。平南將軍楊大眼之を討つ。詔して整に節を持せしめて大眼の軍司と為し、大いに茂先を破り、衍の輔國將軍王花等を斬る。永平初、軍功を以て員外散騎常侍を除き、仍く郎中を除く。延昌三年秋、世宗朝堂に於て百官を親選し、右軍將軍を拜し、仍く郎中を除く。尋いで驍騎將軍に轉ず。未だ幾からず、父憂に丁る。

原文高祖南討,以廣陽王嘉鎮荊州,整為嘉外兵參軍事。尋轉太尉、咸陽王禧外兵參軍。景明中,除給事中,領本州中正。尋除尚書左中兵郎中。正始中,蕭衍江州刺史王茂先來寇南境,平南將軍楊大眼討之,詔整持節為大眼軍司,大破茂先,斬衍輔國將軍王花等。永平初,以軍功除員外散騎常侍,仍除郎中。延昌三年秋,世宗親選百官於朝堂,拜右軍將軍,仍除郎中。尋轉驍騎將軍。未幾,丁父憂。

相州刺史・中山王熙鄴に在りて兵を起し、將に元叉等を誅せんとす。事敗れ、首を傳へて京師に至る。熙の親故敢へて視る者莫し。整の弟婦即ち熙の姉なり。遂に其の屍を收めて藏す。後乃ち熙の親に還す。叉聞きて憾みを致し、因りて熙の弟略の蕭衍に南走するを以て、整將に叛かんとすと誣ひ、整と弟宣及び子恭等を送りて幽繫す。御史王基・前軍將檢事使魏子建の理雪に頼りて、免るることを獲。後、征虜將軍より出でて范陽太守を除く。時に已に兵亂有り、整の郡全きことを獲。郡を去りての後、尋いで陷沒せらる。靈太后政に反り、安南將軍・光祿大夫を除く。元略曾て整の坐に於て泣きて黃門王誦・尚書袁翻に謂ひて曰く、「刁公我家を收斂せり。卿等宜く知るべし」と。

原文相州刺史、中山王熙在鄴起兵,將誅元叉等。事敗,傳首京師,熙之親故莫敢視。整弟婦即熙姊,遂收其屍藏之,後乃還熙所親。叉聞而致憾,因以熙弟略南走蕭衍,誣整將叛,送整與弟宣及子恭等幽繫之。賴御史王基、前軍將檢事使魏子建理雪,獲免。後自征虜將軍出除范陽太守。時已兵亂,整郡獲全。去郡之後,尋被陷沒。靈太后反政,除安南將軍、光祿大夫。元略曾於整坐泣謂黃門王誦、尚書袁翻曰:「刁公收斂我家,卿等宜知。」

整、母老ゆるを以て、河北喪亂す。時に整の族弟雙西兗州刺史と為る。整遂に家を攜へて依る。永安初、金紫光祿大夫を拜す。二年、黃門を兼ぬ。元顥洛に入り、用ひて滄州刺史と為す。莊帝朝に還り、坐して官を免ぜらる。後、鄉里に歸る。莊帝尒朱榮を殺すに及び、就きて鎮東將軍・行滄州事を除く。普泰初、征東大將軍・滄冀瀛三州刺史・大都督を假り、將軍は前の如し。尋いで車騎將軍・右光祿大夫を加ふ。本鄉の賊亂に逢ひ、母を奉じて齊州に客す。衞大將軍を加ふ。天平四年、鄴に卒す。司空公を贈り、諡して文獻と曰ふ。整は音律を解し、財を輕んじ施しを好み、名勝と交結し、聲酒を以て自ら娛しむ。然れども貪にして色を好み、議者の貶する所と為る。

原文整以母老,河北喪亂,時整族弟雙為西兗州刺史,整遂攜家依焉。永安初,拜金紫光祿大夫。二年,兼黃門。元顥入洛,用為滄州刺史。莊帝還朝,坐免官。後歸鄉里。及莊帝殺尒朱榮,就除鎮東將軍、行滄州事。普泰初,假征東大將軍、滄冀瀛三州刺史、大都督,將軍如前。尋加車騎將軍、右光祿大夫。逢本鄉賊亂,奉母客於齊州。加衞大將軍。天平四年,卒於鄴。贈司空公,諡曰文獻。整解音律,輕財好施,交結名勝,聲酒自娛。然貪而好色,為議者所貶。

初めに雍は従弟の寶惠と共に国に入った。寶惠は字を道明といい、太祖は彼を上客とした。卒し、六人の子があった。子の連城は冀州開府掾となった。

原文初雍與從弟寶惠俱入國。寶惠,字道明,太祖以為上客。卒,有六子。子連城,為冀州開府掾。

刁氏は代々栄禄を有したが、門風は甚だ修潔ではなく、時に鄙まれた。

原文刁氏世有榮祿,而門風不甚修潔,為時所鄙。

雍の族孫の雙は、字を子山という。高祖の藪は、晋の斉郡太守であった。藪は晋の乱に因って青州の楽安に居住した。父の道履は、皇興の初めに平原太守に除された。雙に至って初めて本郷に還った。雙は少より学を好み、兼ねて文史に渉り、雅く中山王英に知賞された。西河太守に拝された。

原文雍族孫雙,字子山。高祖藪,晉齊郡太守。藪因晉亂居青州之樂安。父道履,皇興初,除平原太守。至雙始還本鄉。雙少好學,兼涉文史,雅為中山王英所知賞。拜西河太守。

正光の初め、中山王熙が誅された時、熙の弟の略は雙に身を投じた。雙は彼を一年間庇護した。時に略の購求は甚だ切であった。略は乃ち雙に謂って曰く、「我が兄弟は屠滅已に尽き、唯だ我が一身が刃を漏らして相託す。卿は厚恩なりと雖も、久しく容蔽を見るも、但だ事留まれば変生じ、終に恐らくは保ち難からん。脱や万一発覚せば、我が死は分なり、卿を相累す事無し。若し吾を送りて境外に出さば、便ち是れ再生の恵なり。其の然らずんば、輒ち自裁せんと欲す」と。雙曰く、「人生会に一死有り、死する所難く遇うのみ。今知己に遭い、死を視ること帰するが如し、願わくは以て慮と為さざれ」と。略は後苦しく南転を求め、雙は乃ち従子の昌を遣わして江左に送り届けしめた。霊太后が政に返り、略が雙に因って免れたるを知り、光禄大夫に徴拝した。時に略の姉の饒安公主は、刁宣の妻なり、頻りに霊太后に訴え、略を徴して朝廷に還すことを乞うた。乃ち徐州にて獲たる俘虜の江革・祖暅の二人を以て之と交換した。雙が略と旧有るを以て、乃ち境に至り略を迎接せしむ。

原文正光初,中山王熙之誅也,熙弟略投命於雙,雙護之周年。時購略甚切。略乃謂雙曰:「我兄弟屠滅已盡,唯我一身漏刃相託。卿雖厚恩,久見容蔽,但事留變生,終恐難保。脫萬一發覺,我死分也,無事相累卿。若送吾出境,便是再生之惠,如其不爾,輒欲自裁。」雙曰:「人生會有一死,死所難遇耳。今遭知己,視死如歸,願不以為慮。」略後苦求南轉,雙乃遣從子昌送達江左。靈太后返政,知略因雙獲免,徵拜光祿大夫。時略姊饒安公主,刁宣妻也,頻訴靈太后,乞徵略還朝廷。乃以徐州所獲俘江革、祖暅二人易之。以雙與略有舊,乃令至境迎接略。

粛宗の末、西兗州刺史に除された。時に賊盗蜂起し、州人張桃弓等は亡命を招聚し、公然と劫掠を行った。雙が境に至り、先ず使を遣わして桃弓を諭し、禍福を陳示すと、桃弓は即ち使に随いて罪に帰し、雙は捨てて問わず。後に盗発の有る処は、桃弓をして追捕せしめ、咸く悉く擒獲せしめた。ここに於て州境清粛なり。荘帝の初め、行済州刺史となり、功を以て曲城郷男に封ぜられた。出帝の初め、驃騎大将軍・左光禄大夫に遷った。興和三年に卒す。車騎大将軍・儀同三司・斉州刺史を贈られ、諡して清穆といった。

原文肅宗末,除西兗州刺史。時賊盜蜂起,州人張桃弓等招聚亡命,公行劫掠。雙至境,先遣使諭桃弓,陳示禍福,桃弓即隨使歸罪,雙捨而不問。後有盜發之處,令桃弓追捕,咸悉擒獲。於是州境清肅。莊帝初,行濟州刺史,以功封曲城鄉男。出帝初,遷驃騎大將軍、左光祿大夫。興和三年卒。贈車騎大將軍、儀同三司、齊州刺史,諡曰清穆。

王慧龍

原文王慧龍

王慧龍は、自ら云う、太原晋陽の人、司馬徳宗の尚書僕射愉の孫、散騎侍郎緝の子なりと。幼くして聡慧、愉は諸孫の龍と為すを以て、故に名づく。初め、劉裕微時の時、愉は礼を為さず、及んで志を得るに及び、愉は合家誅せらる。慧龍年十四、沙門僧彬に匿わる。百余日、慧龍を将いて江を過ぎんとす。津人の疑う所と為りて曰く、「行意怱怱徬徨たり、王氏の諸子に非ずや」と。僧彬曰く、「貧道師に従うこと年有り、西岸に止まる。今暫く定省せんと欲し、還期遠からず。此れ吾に随いて業を受くる者、何ぞ君の言うが如くに至らんや」と。既に済りて、遂に西上し江陵に至り、叔祖忱の故吏荊州前治中習辟疆に依る。時に刺史魏詠之卒し、辟疆は江陵令羅脩・前別駕劉期公・土人王騰等と謀りて兵を挙げ、慧龍を推して盟主と為し、日を剋して州城を襲わんとす。而して劉裕詠之の卒するを聞き、亦た江陵に変有るを懼れ、其の弟道規を荊州と為して遣わす。衆遂に果たさず。羅脩慧龍を将い、又僧彬と北詣し襄陽に至る。司馬徳宗の雍州刺史魯宗之、慧龍に資給し、送りて江を渡らしめ、遂に虎牢より姚興に奔る。其の自ら言う所此の如し。

原文王慧龍,自云太原晉陽人,司馬德宗尚書僕射愉之孫,散騎侍郎緝之子也。幼聰慧,愉以為諸孫之龍,故名焉。初,劉裕微時,愉不為禮,及得志,愉合家見誅。慧龍年十四,為沙門僧彬所匿。百餘日,將慧龍過江,為津人所疑,曰:「行意怱怱徬徨,得非王氏諸子乎?」僧彬曰:「貧道從師有年,止西岸,今暫欲定省,還期無遠,此隨吾受業者,何至如君言。」既濟,遂西上江陵,依叔祖忱故吏荊州前治中習辟疆。時刺史魏詠之卒,辟疆與江陵令羅脩、前別駕劉期公、土人王騰等謀舉兵,推慧龍為盟主,剋日襲州城。而劉裕聞詠之卒,亦懼江陵有變,遣其弟道規為荊州,眾遂不果。羅脩將慧龍,又與僧彬北詣襄陽。司馬德宗雍州刺史魯宗之資給慧龍,送渡江,遂自虎牢奔于姚興。其自言也如此。

泰常二年、姚泓滅び、慧龍帰国す。太宗引見して言わしむ。慧龍南討に効力を請う。言終わりて俯して涕を流す。天子之が為に動容す。謂いて曰く、「朕方に車書を混一し、呉会を席卷せんとす。卿の情計此の如し、豈に衆を以て相資する能わざらんや」と。然れども亦た未だ之を用いず。後に洛城鎮将に拝し、兵三千人を配して金墉を鎮守せしむ。拝すること十余日、太宗崩ず。世祖初め即位し、咸く南人を以て師旅の任に委するに宜しからずと謂い、遂に前の授を停む。

原文泰常二年,姚泓滅,慧龍歸國。太宗引見與言,慧龍請效力南討,言終,俯而流涕,天子為之動容。謂曰:「朕方混一車書,席卷吳會,卿情計如此,豈不能相資以眾乎?」然亦未之用。後拜洛城鎮將,配兵三千人鎮金墉。既拜十餘日,太宗崩。世祖初即位,咸謂南人不宜委以師旅之任,遂停前授。

初め、崔浩の弟恬、慧龍が王氏の子なるを聞き、女を以て妻とす。浩婚姻を結び、及んで慧龍を見て曰く、「信ずらくは王家の児なり」と。王氏は世に齇鼻たり、江東之を齇王と謂う。慧龍鼻大なり。浩曰く、「真に貴種なり」と。数えて諸公に其の美を称す。司徒長孫嵩之を聞き、悦ばず。世祖に言して曰く、其の南人を嘆服するは、則ち国化を訕鄙するの意有りと。世祖怒り、浩を召して責む。浩免冠して陳謝し、釈かるるを得たり。及んで魯宗之の子軌、姚興に奔り、後帰国し、云う、慧龍は王愉の家の豎にして、僧彬の通じて生める所なりと。浩之を聞くと雖も、女の故を以て、成す其の族を賛す。慧龍是に由りて調せられず。

原文初,崔浩弟恬聞慧龍王氏子,以女妻之。浩既婚姻,及見慧龍,曰:「信王家兒也。」王氏世齇鼻,江東謂之齇王。慧龍鼻大,浩曰:「真貴種矣。」數向諸公稱其美。司徒長孫嵩聞之,不悅,言於世祖,以其嘆服南人,則有訕鄙國化之意。世祖怒,召浩責之。浩免冠陳謝[876]得釋。及魯宗之子軌奔姚興,後歸國,云慧龍是王愉家豎,僧彬所通生也。浩雖聞之,以女之故,成贊其族。慧龍由是不調。

久しくして、楽安王範の傅に除され、并・荊・揚三州大中正を領す。慧龍表を抗し、願わくは南垂を得て自ら効せんとす。崔浩固く之を言い、乃ち南蛮校尉・安南大将軍左長史を授く。及んで劉義隆の荊州刺史謝晦、江陵に兵を起こし、慧龍を引きて援と為す。慧龍司馬霊寿等一万人を督し、其の思陵戍を抜き、進みて項城を囲む。晦敗れ、乃ち師を班す。後劉義隆の将王玄謨滑台を寇す。詔して慧龍に楚兵将軍を仮し、安頡等と同く之を討たしむ。相持すること五十余日、諸将賊盛なるを以て敢えて先んずる莫く、慧龍奇兵を設けて大いに之を破る。世祖剣馬銭帛を賜い、龍驤将軍を授け、長社侯の爵を賜い、滎陽太守に拝し、仍って長史を領す。任に在ること十年、農戦並びに修め、大いに声績著し。辺遠を招携し、帰附する者一万余家、善政と号せらる。

原文久之,除樂安王範傅,領并荊揚三州大中正。慧龍抗表,願得南垂自効。崔浩固言之,乃授南蠻校尉、安南大將軍左長史。及劉義隆荊州刺史謝晦起兵江陵,引慧龍為援。慧龍督司馬靈壽等一萬人拔其思陵戍,進圍項城。晦敗,乃班師。後劉義隆將王玄謨寇滑臺,詔假慧龍楚兵將軍,與安頡等同討之。相持五十餘日,諸將以賊盛莫敢先,慧龍設奇兵大破之。世祖賜以劍馬錢帛,授龍驤將軍,賜爵長社侯,拜滎陽太守,仍領長史。在任十年,農戰並修,大著聲績。招攜邊遠,歸附者萬餘家,號為善政。

其の後、劉義隆の将到彦之・檀道済等頻りに淮潁に頓し、大いに侵掠相いす。慧龍力戦し、屡々其の鋒を摧く。彦之友人蕭斌に与える書に曰く、「魯軌頑鈍、馬楚粗狂、亡人の中に唯だ王慧龍及び韓延之の為す可きは深く憚るべし。意わざらんや儒生懦夫、乃ち老子をして之に訝ましむ」と。劉義隆反間を縦し、云う、慧龍自ら功高くして位至らざるを以て、寇を引きて辺に入らんと欲し、因りて安南大将軍司馬楚之を執いて叛かんとすと。世祖聞きて曰く、「此れ必ず然らず、是れ斉人の楽毅を忌むのみ」と。乃ち慧龍に璽書を賜いて曰く、「義隆将軍を畏ること虎の如く、相い中害せんと欲す。朕自ら之を知る。風塵の言、想うに介するに足らざるべし」と。劉義隆の計既に行われず、復た刺客呂玄伯を遣わして慧龍の首を購わしむ。二百戸男・絹一千匹。玄伯反間と偽り来たり、人を屏いて論ずる所有るを求む。慧龍之を疑い、人をして其の懐を探らしむるに、尺刀有り。玄伯頭を叩きて死を請う。慧龍曰く、「各其の主の為めなり。吾此の人を害するに忍びず」と。左右皆言う、義隆賊心未だ已まず、玄伯を殺さざれば、将来を制するに以て無しと。慧龍曰く、「死生命有り。彼亦た安んぞ能く我を害せん。且つ吾方に仁義を以て干鹵と為す。又何ぞ刺客を憂えん」と。遂に之を捨つ。時に人其の寛恕に服す。

原文其後,劉義隆將到彥之、檀道濟等頻頓淮潁,大相侵掠,慧龍力戰,屢摧其鋒。彥之與友人蕭斌書曰:「魯軌頑鈍,馬楚粗狂,亡人之中唯王慧龍及韓延之可為深憚。不意儒生懦夫,乃令老子訝之。」劉義隆縱反間,云慧龍自以功高而位不至,欲引寇入邊,因執安南大將軍司馬楚之以叛。世祖聞曰:「此必不然,是齊人忌樂毅耳。」乃賜慧龍璽書曰:「義隆畏將軍如虎,欲相中害,朕自知之。風塵之言,想不足介意也。」劉義隆計既不行,復遣刺客呂玄伯購慧龍首,二百戶男、絹一千匹。玄伯偽為反間來,求屏人有所論。慧龍疑之,使人探其懷,有尺刀。玄伯叩頭請死。慧龍曰:「各為其主也。吾不忍害此人。」左右皆言義隆賊心未已,不殺玄伯,無以制將來。慧龍曰:「死生有命,彼亦安能害我。且吾方以仁義為干鹵,又何憂乎刺客。」遂捨之。時人服其寬恕。

王慧龍は自ら遭難して流離したことを以て、常に憂い憔悴を懐き、乃ち伍子胥を祭る文を作りて以て意を寄せしむ。一男一女を生み、遂に房室を絶つ。布衣蔬食、吉事に参ぜず。挙動必ず礼を以てす。太子少傅游雅、朝に言いて曰く、「慧龍は、古の遺孝なり」と。帝王制度十八篇を撰し、号して国典と曰う。真君元年、使持節・寧南将軍・虎牢鎮都副将に拝す。未だ鎮に至らずして卒す。臨没に、功曹鄭曄に謂いて曰く、「吾は覊旅の南人、恩は旧結に非ず、聖朝の殊特の慈を蒙り、疆埸に在りて命を効うるを得たり。誓って屍を呉市に鞭ち、墳を江陰に戮さんことを願う。此の重疾を嬰ふとは謂わず、心あれども遂げず。唯だ国霊を仰ぎ愧ずるのみに非ず、実にまた后土に俯して慚ず。修短は命なり、復た何をか言わん。身歿の後、河内州県の東郷に葬ることを乞い、古墓に依りて墳せず、足りて髪歯を蔵するのみとせよ。庶くは魂にして知有らば、猶ほ結草の報を希わん」と。時に制あり、南人国に入る者は皆桑乾に葬る。曄ら遺意を申し、詔して之を許す。安南将軍・荊州刺史を贈り、諡して穆侯と曰う。吏人及び将士共に墓所に於いて仏寺を起し、慧龍及び僧彬の象を図りて之を讃す。呂玄伯は全宥の恩を感じ、墓側に留守し、終身去らず。子宝興、爵を襲う。

原文慧龍自以遭難流離,常懷憂悴,乃作祭伍子胥文以寄意焉。生一男一女,遂絕房室。布衣蔬食,不參吉事。舉動必以禮。太子少傅游雅言於朝曰:「慧龍,古之遺孝也。」撰帝王制度十八篇,號曰國典。真君元年,拜使持節、寧南將軍、虎牢鎮都副將。未至鎮而卒。臨沒,謂功曹鄭曄曰:「吾覊旅南人,恩非舊結,蒙聖朝殊特之慈,得在疆埸効命。誓願鞭屍吳市,戮墳江陰。不謂嬰此重疾,有心莫遂。非唯仰愧國靈,實亦俯慚后土。修短命也,夫復何言。身歿後,乞葬河內州縣之東鄉,依古墓而不墳,足藏髮齒而已。庶魂而有知,猶希結草之報。」時制,南人入國者皆葬桑乾。曄等申遺意,詔許之。贈安南將軍、荊州刺史,諡穆侯。吏人及將士共於墓所起佛寺,圖慧龍及僧彬象讚之。呂玄伯感全宥之恩,留守墓側,終身不去。子寶興襲爵。

宝興は少くして孤となり、母に事へ至孝なり。尚書盧遐の妻は、崔浩の女なり。初め、宝興の母及び遐の妻俱に孕み、浩謂いて曰く、「汝等将来に生む所は、皆我が自出なり、指腹を以て親と為すべし」と。婚に及び、浩為に儀を撰し、躬自監視す。諸客に謂いて曰く、「此の家の礼事、宜しく其の美を尽くすべし」と。浩誅せらるるに及び、盧遐の後妻は、宝興の従母なり、縁坐して官に没せらる。宝興も亦逃避し、未だ幾ばくもせずして出づるを得たり。盧遐の妻は、時に官に賜ひて度河鎮の高車滑骨と為す。宝興は貨産を尽く売り、自ら塞を出でて之を贖ひて帰る。州辟して治中従事・別駕と為し、秀才に挙げらるるも、皆就かず。門を閉ぢて人事を交えず。爵長社侯・龍驤将軍を襲う。卒し、子瓊、爵を襲う。

原文寶興少孤,事母至孝。尚書盧遐妻,崔浩女也。初,寶興母及遐妻俱孕,浩謂曰:「汝等將來所生,皆我之自出,可指腹為親。」及婚,浩為撰儀,躬自監視。謂諸客曰:「此家禮事,宜盡其美。」及浩被誅,盧遐後妻,寶興從母也,緣坐沒官。寶興亦逃避,未幾得出。盧遐妻,時官賜度河鎮高車滑骨。寶興盡賣貨產,自出塞贖之以歸。州辟治中從事、別駕,舉秀才,皆不就。閉門不交人事。襲爵長社侯、龍驤將軍。卒,子瓊襲爵。

瓊は、字は世珍。高祖其の名を賜う。太和九年、典寺令と為る。十六年、侯より伯に降る。高祖其の長女を納れて嬪と為し、前軍将軍・并州大中正に拝す。正始中、光州刺史と為る。受納の響有り、中尉王顯に劾せらるるも、終に雪免を得たり。神亀中、左将軍・兗州刺史を除く。州を去りて京に帰り、多年沈滞す。居る所は司空劉騰の宅の西に在り、騰は朝野に勢傾くも、初め之を候はず。騰既に権重く、隣宅を吞并し、旧居を増広すれども、唯瓊終に肯て与へず。此を以て久しく抑屈せらるるを見る。瓊の女は范陽盧道亮に適す、其の夫家に帰るを聴かず。女卒するに及び、哀慟已む無し。瓊仍ひ別所に之を葬り、冢即ち塞がず、常に壙内に於いて哭泣す。久しうして乃ち掩ふ。当時深く怪しみ、其の穢行を疑う。聾疾を加ふるに、道俗を見る毎に、乞丐已む無し。造次に之を見て、人をして笑愕せしむ。道に太保・広平王懐に逢ひ、鞍に拠りて抗礼し、自ら馬痩せたりと曰ふ。懐即ち誕馬并びに乗具を以て之に与ふ。嘗て尚書令李崇に詣り、馬に騎りて其の黄閤に至り、崇の子世哲を見て、直に継伯在るや否やと問ふ。崇趨り出づ、瓊乃ち下る。崇は儉にして紙を以て衣領に帖するを好む、瓊哂ひて之を掣ち去る。崇の小子青肫は、嘗て盛服す。〈闕〉寵勢も亦恨むに足らず。領軍元叉奴をして瓊に馬を遺はしめ、并せて奴を留む。王誦之を聞きて笑ひて曰く、「東海の風、茲に於いて墜つ」と。孝昌三年、鎮東将軍・金紫光禄大夫・中書令を除く。時に瓊の子遵業は黄門郎と為る、故に此の授有り。卒す、年七十四。征北将軍・中書監・并州刺史を贈らる。慧龍国に入りより、三世一身、瓊に至りて始めて四子有り。

原文瓊,字世珍。高祖賜名焉。太和九年,為典寺令。十六年,降侯為伯。高祖納其長女為嬪,拜前軍將軍、并州大中正。正始中,為光州刺史。有受納之響,為中尉王顯所劾,終得雪免。神龜中,除左將軍、兗州刺史。去州歸京,多年沉滯。所居在司空劉騰宅西,騰雖勢傾朝野,初不候之。騰既權重,吞并隣宅,增廣舊居,唯瓊終不肯與。以此久見抑屈。瓊女適范陽盧道亮,不聽歸其夫家。及女卒,哀慟無已。瓊仍葬之別所,冢不即塞,常於壙內哭泣。久之乃掩。當時深怪,疑其穢行。加以聾疾,每見道俗,乞丐無已。造次見之,令人笑愕。道逢太保、廣平王懷,據鞍抗禮,自言馬瘦。懷即以誕馬并乘具與之。嘗詣尚書令李崇,騎馬至其黃閤,見崇子世哲,直問繼伯在否。崇趨出,瓊乃下。崇儉而好以紙帖衣領,瓊哂而掣去之。崇小子青肫,嘗盛服。〈闕〉寵勢亦不足恨。領軍元叉使奴遺瓊馬,并留奴。王誦聞之,笑曰:「東海之風,於茲墜矣。」孝昌三年,除鎮東將軍、金紫光祿大夫、中書令。時瓊子遵業為黃門郎,故有此授。卒,年七十四。贈征北將軍、中書監、并州刺史。自慧龍入國,三世一身,至瓊始有四子。

長子遵業は、風儀清秀、経史に渉歴す。位は著作佐郎、司徒左長史崔鴻と同しく起居注を撰す。右軍将軍に遷り、兼ね散騎常侍、蠕蠕を慰労す。乃ち代京に詣り、遺文を採拾し、以て起居の闕く所を補ふ。崔光・安豊王延明等と服章を参定す。光が肅宗に孝経を講ずるに及び、遵業は講に預かり、延業は義を録し、并びに詔に応じて釈奠侍宴の詩を作る。時人の語に曰く、「英英済済、王家の兄弟」と。転じて司徒左長史・黄門郎・監典儀注と為る。遵業は当時に誉有り、中書令陳郡袁翻・尚書瑯琊王誦と並びに黄門郎を領し、号して三哲と曰う。時に政は門下に帰し、世に侍中・黄門を小宰相と謂ふ。而るに遵業は従容恬素、丘園に処するが若し。嘗て穿角履を著け、好事者多く新履を毀りて以て之に学ぶ。胡太后の臨朝を以て、天下方に乱る、地を避くるを謀り、自ら徐州を求む。太后曰く、「王誦は幽州を罷めて始めて黄門を作す、卿何ぞ乃ち徐州を欲するや。更に一二年を待て、当に好処分有らん」と。遵業兄弟は、並びに時俊と交遊し、乃ち当時に美と為さる。尒朱栄の洛に入るに及び、兄弟は父喪の中に在りて、庄帝に従姨兄弟の親有るを以て、相率ひ奉迎し、俱に河陰に害せらる。議者其の人才を惜しみ、而して其の躁競を譏る。并州刺史を贈らる。『三晋記』十巻を著す。

原文長子遵業,風儀清秀,涉歷經史。位著作佐郎,與司徒左長史崔鴻同撰起居注。遷右軍將軍,兼散騎常侍,慰勞蠕蠕。乃詣代京,採拾遺文,以補起居所闕。與崔光、安豐王延明等參定服章。及光為肅宗講孝經,遵業預講,延業錄義,並應詔作釋奠侍宴詩。時人語曰:「英英濟濟,王家兄弟。」轉司徒左長史、黃門郎、監典儀注。遵業有譽當時,與中書令陳郡袁翻、尚書瑯琊王誦並領黃門郎,號曰三哲。時政歸門下,世謂侍中、黃門為小宰相。而遵業從容恬素,若處丘園。嘗著穿角履,好事者多毀新履以學之。以胡太后臨朝,天下方亂,謀避地,自求徐州。太后曰:「王誦罷幽州始作黃門,卿何乃欲徐州?更待一二年,當有好處分。」遵業兄弟,並交遊時俊,乃為當時所美。及尒朱榮入洛,兄弟在父喪中,以於莊帝有從姨兄弟之親,相率奉迎,俱見害河陰。議者惜其人才,而譏其躁競。贈并州刺史。著《三晉記》十卷。

遵業の子松年は、尚書庫部郎。

原文遵業子松年,尚書庫部郎。

韓延之

原文韓延之

韓延之は、字は顕宗、南陽赭陽の人、魏の司徒韓曁の後なり。司馬徳宗の平西府録事参軍。劉裕率ひて司馬休之を伐たんとし、未だ江陵に至らざるに、密かに使をして延之と書を以て之を招かしむ。延之報じて曰く、「親しく戎馬を率ひ、遠く西畿を履むと聞く、闔境の士庶、怪駭せざる莫し。何者ぞ。師出の名を知る莫き故なり。司馬平西は国体に忠貞、物に款愛を待つ、当に古人の中に求むべし。劉裕足下、海内の人誰か足下が此の心を見ざらん、而して復た国士を欺誑せんと欲す、天地の容れざる所、彼に在りて此に在らず。今人の君を伐ち、人に利を啗ます、真に謂ふ可き、処懐期物、自ら由来有る者なり。平西の至徳を以てす、寧くも授命の臣無からんや。仮令天長く喪乱し、九流渾濁すと雖も、当に臧洪と地下に遊ばん、復た多く言はじ」と。裕書を得て歎息し、諸佐に示して曰く、「人に事ふるは当に此くの如くすべし」と。劉裕の父の名は翹、字は顕宗、是に於いて延之の字を顕宗とし、子を名づけて翹と為す、蓋し劉氏に臣せざるを示すなり。後に姚興に奔る。泰常二年、司馬文思と来りて国に入り、延之を以て虎牢鎮将と為し、爵は魯陽侯。初め延之曾て栢谷塢に来往し、魯宗之の墓を省み、終焉の志有り。因りて子孫に謂ひて云く、「河洛は三代の都する所、必ず此に於いて治むる者有らん。我死して北代に葬るを労せず、即ち此に就くべし」と。卒するに及び、子其の言に従ひ、遂に宗之の墓次に葬る。延之の死する後五十餘年にして高祖都を徙め、其の孫即ち墓北の栢谷塢に居る。

原文韓延之,字顯宗,南陽赭陽人,魏司徒暨之後也。司馬德宗平西府錄事參軍。劉裕率伐司馬休之,未至江陵,密使與延之書招之。延之報曰:「聞親率戎馬,遠履西畿,闔境士庶,莫不怪駭。何者?莫知師出之名故也。司馬平西體國忠貞,款愛待物,當於古人中求耳。劉裕足下,海內之人誰不見足下此心,而復欲欺誑國士,天地所不容,在彼不在此矣。今伐人之君,啗人以利,真可謂處懷期物,自有由來者矣。以平西之至德,寧無授命之臣乎?假令天長喪亂,九流渾濁,當與臧洪遊於地下,不復多言。」裕得書歎息,以示諸佐曰:「事人當應如此。」劉裕父名翹,字顯宗,於是延之字顯宗,名子為翹,蓋示不臣劉氏也。後奔姚興。泰常二年,與司馬文思來入國,以延之為虎牢鎮將,爵魯陽侯。初延之曾來往栢谷塢,省魯宗之墓,有終焉之志。因謂子孫云:「河洛三代所都,必有治於此者。我死不勞向北代葬也,即可就此。」及卒,子從其言,遂葬於宗之墓次。延之死後五十餘年而高祖徙都,其孫即居於墓北栢谷塢。

延之の前妻羅氏は子措を生み、措は父に随ひて国に入る。又た淮南王の女を以て延之に妻せしめ、道仁を生む。措は道仁を推して嫡と為し、父の爵を襲はしめ、位は殿中尚書に至る。爵を進めて西平公と為す。

原文延之前妻羅氏生子措,措隨父入國。又以淮南王女妻延之,生道仁。措推道仁為嫡,襲父爵,位至殿中尚書。進爵西平公。

袁式

原文袁式

袁式、字は季祖、陳郡陽夏の人、漢の司徒袁滂の後裔なり。父の淵は、司馬昌明(東晋孝武帝)の侍中を務めた。袁式は南方にありて、武陵王司馬遵の諮議参軍を歴任す。司馬文思らと共に姚興(後秦)に帰順す。泰常二年(417年)、北魏に帰国し、上客として遇され、爵位陽夏子を賜う。司徒崔浩と一面識を得て、直ちに国士の交わりを尽くす。この時、朝廷の儀礼典章は全て崔浩の手に成り、浩は袁式が古事に博通するを以て、事を草創する毎に、常に顧みて諮問せり。性質は長者にて、羈旅漂泊の身ながらも、清貧にして節度を守り、士の節を失わず、当時の人甚だ敬重し、皆袁諮議と呼べり。延和二年(433年)、衛大将軍・楽安王拓跋範が雍州刺史となるに当たり、詔して袁式と中書侍郎高允を共に従事中郎と為さんとす、辞して免るるを得たり。袁式は沈靖にして道を楽しみ、広く書伝を覧、詁訓・倉頡篇・爾雅に至るまで、偏りに留意を留む。『字釈』を作るも、未だ成らず。天安二年(467年)に卒す。豫州刺史を追贈され、諡して粛侯と曰う。

原文袁式,字季祖,陳郡陽夏人,漢司徒滂之後。父淵,司馬昌明侍中。式在南,歷武陵王遵諮議參軍。與司馬文思等歸姚興。泰常二年歸國,為上客,賜爵陽夏子。與司徒崔浩一面,便盡國士之交。是時,朝儀典章,悉出於浩,浩以式博於古事,每所草創,恒顧訪之。性長者,雖羈旅飄泊,而清貧守度,不失士節,時人甚敬重之,皆呼曰袁諮議。延和二年,衞大將軍、樂安王範為雍州刺史,詔式與中書侍郎高允俱為從事中郎,辭而獲免。式沉靖樂道,周覽書傳,至於詁訓、倉、雅,偏所留懷。作字釋,未就。以天安二年卒。贈豫州刺史,諡肅侯。

子の袁済、爵を襲ぐ。魏郡太守の位に至り、政に清廉なる称あり、寧遠将軍を加えらる。子・姪遂に潁川の陽夏に居住す。

原文子濟,襲。位魏郡太守,政有清稱,加寧遠將軍。子姪遂居潁川之陽夏。