巻38

刁雍

刁雍、 あざな は淑和、勃海郡饒安県の人である。高祖の攸は、晋の御史中丞であった。曾祖の協は、司馬叡に従って江を渡り、京口に居住し、位は 尚書 しょうしょ 令に至った。父の暢は、司馬徳宗の右衛将軍であった。初め、暢の兄の逵は、劉裕が軽薄で行いが卑しく、社の銭三万を負い、期限に違えて返さなかったので、捕らえて徴収しようとした。劉裕が桓玄を誅殺した時、嫌疑の故に先ず刁氏を誅殺した。雍は暢の旧吏に匿われ、 洛陽 らくよう にいる姚興の 州牧姚紹のもとへ奔り、後に 長安 ちょうあん に至った。雍は書伝を博覧し、姚興は雍を太子中庶子とした。

泰常二年、姚泓が滅び、司馬休之らと共に帰国した。上表して誠意を述べ、南境において自ら効力を尽くさんことを請うた。太宗はこれを許し、雍に建義将軍を仮授した。雍は河済の間にて流散の民を招集し、五千余人を得て、南は大〈闕〉に阻まれ、徐兗を擾乱し、牙旗を建てて衆に誓い、檄を辺境に伝えた。劉裕は将の李嵩らを遣わして雍を討たせたが、雍はこれを蒙山にて斬った。ここにおいて衆は二万に至り、進んで固山に屯した。七年三月、雍の従弟の弥もまた衆を率いて京口に入り、共に裕を討たんと図ったが、裕は兵を遣わしてこれを破った。六月、雍はまた裕の青州を侵し、雍は敗れ、散卒を収めて馬耳山に保った。また裕の青州軍に逼迫され、遂に大郷山に入った。

八年、太宗は南幸して ぎょう に至り、行観において朝見した。問うて曰く、「先に卿の家が劉裕を縛ったと聞くが、卿との親疎は如何なるものか」。雍曰く、「是は臣の伯父でございます」。太宗笑って曰く、「劉裕父子は卿を憚るべきであろう」。またこれに謂いて曰く、「朕は先に叔孫建らを遣わして青州を攻めさせたが、民は皆隠れ避け、城は未だ下らず。彼らは元より卿の威を憚り、士民もまた卿を信服している。今、卿を遣わして建らを助けさせたいと思う。卿は勉めよ」。ここにおいて雍に鎮東将軍・青州 刺史 しし ・東光侯を仮授し、五万騎を与え、別に義軍を立てさせた。建は先に東陽を攻めた。雍が至り、義衆を招集して五千人を得た。郡県を撫慰して遣わすと、土人は皆降り、租を送って軍に供した。この時、東陽を攻め、その北城を三十歩ばかり平らげた。劉義符の青州刺史竺夔は城内に地道を穿ち、南に下って澠水澗に入り、退路とした。雍は建に謂って曰く、「此の城は既に平らげられた。時に応じて取り入るべし。然らざれば皆逃げ尽くすであろう」。建は兵士を傷つけることを恐れ、難色を示した。雍曰く、「若し官軍の兵士を傷つけることを恐れるならば、雍、今、義兵を率いて先に入ることを請う」。建は聞き入れなかった。夔は東走せんとしたが、丁度義符がその将檀道済らを遣わして青州を救援した。雍は建に謂って曰く、「賊は官軍の突騎を畏れ、鎖をもって車を連ね函陣と為す。大峴より以南は、処々狭隘にして、方軌すべからず。雍、義兵五千を率い、険要に邀え撃ってこれを破らんことを求む」。建は聞き入れず曰く、「兵士は水土に適わず、疫病が半ばを過ぎる。若し相持って休まずば、兵は自ら死に尽き、何ぞ復た戦うを須いん。今、大軍を損なわず、安全にして返るは、計の上なるものなり」。建は乃ち兵を引いて還った。

雍は遂に尹卯固を鎮守した。また詔して南入を命じ、賊の境を乱さしめた。雍は項城を攻め落とした。丁度勅命が追って来て、機に随い効を立てよと命じたので、雍はここにおいて譙・梁・彭・沛の民五千余家を招集し、二十七営を置き、鎮所を遷して済陰に鎮した。延和二年、外黄城に徐州を立て、譙・梁・彭・沛の四郡九県を置き、雍を平南将軍・徐州刺史とし、爵を東安侯と賜った。鎮すること七年、太延四年、京師に徴し還されたが、頻年にわたり辺民に請われた。世祖はこれを嘉し、真君二年、再び使持節・ 侍中 じちゅう 都督 ととく 兗徐四州諸軍事・征南将軍・徐 二州刺史を授けた。

三年、劉義隆の将裴方明が仇池を寇陷した。詔して雍と建興公古弼ら十余の将にこれを討平させた。五年、本将軍のまま薄骨律鎮将とした。鎮に至り、上表して曰く、

詔して曰く、「卿は国を憂え民を愛し、河水を更に引き、大田を勧課せんと欲するを知る。宜しく便りに興立し、克く就くを以て功とすべし。何ぞ必ずしも其の日数を限らん。国に便り民に利する有るものは、動静を以て聞かせよ」。

七年、雍上表して曰く、「詔を奉じて高平・安定・統万及び臣の守る四鎮より、車五千乗を出し、屯穀五十万斛を運びて沃野鎮に付し、以て軍糧に供せよと。臣の鎮は沃野より八百里を去り、道は深沙多く、軽車の往来すら猶お難しと為す。設い穀を載せしむるとも、二十石を過ぎず、深沙に渉る毎に、必ず滞陷を致す。又、穀は河西に在り、転じて沃野に至るには、大河を越度す。車五千乗を計れば、十万斛を運び、百余日にして乃ち一返を得る。大いに生民の耕墾の業を廃す。車牛艱阻にして、全く至るは難く、一年に二運を過ぎず、五十万斛は乃ち三年を経る。臣、前に詔を被り、『国に便り民に利する有るものは動静を以て聞かせよ』と。臣聞く、鄭・白の渠は、遠く淮海の粟を引き、流れを溯ること数千、周年にして乃ち一至するも、猶お国に儲糧有りと称し、民用安楽たりと。今、牽屯山河水の次に於いて、船二百艘を造り、二船を一舫と為し、一船は穀二千斛に勝ち、一舫に十人、計りて千人を須う。臣の鎮内の兵は、率ね皆水に習う。一運二十万斛。方舟順流すれば、五日にして至り、沃野より牽き上れば、十日にして還り到る。合わせて六十日にして一返を得る。三月より九月に至るまで三返し、六十万斛を運送す。人功を計れば、車運より十倍有余軽く、牛力を費やさず、又田を廃せず」。詔して曰く、「船を造り穀を運ばんと欲するを知る。一冬にして即成り、大いに民力を省み、既に牛を費やさず、又田を廃せず、甚だ善し。但だ一運のみに非ず、自ら永く以て式と為すべし。今、別に統万鎮に下して兵を出して運穀に供せしむ。卿の鎮は百兵を出して船工と為すべし。豈に専ら千人を廃せんや。船匠を遣わすと雖も、猶お卿の指授を須う。専任すべからず。諸に此の如く国に益く民に利する有るものは、続いて復た聞かせよ」。

九年、雍上表して曰く、「臣聞く、安きを忘れず乱を忘れざるは、先聖の政なり。況や綏服の外、帯として辺城に接し、防守備わらざれば、敵を禦ぐに以て無き者なり。臣の鎮の綰く所の河西は、辺表に在り、常に不虞を懼る。平地に穀を積むは、実に守護難し。兵人は散居し、依恃する所無し。脱ひ妖姦有らば、必ず狼狽を致す。固からんと欲すと雖も、全くを得るに以て無し。今、城を造りて穀を儲け、兵を置きて備守せんことを求む。鎮自ら建立し、更に官に煩わさず。又、三時の隙に於いて、農を廃せしめず。一年、二年に訖らずとも、三年には必ず成る。城を立つる所は、必ず水陸の次に在るべし。大小高下は、力を量りて取り辦す」。詔してこれを許した。十年三月に至り、城は訖る。詔して曰く、「卿は深く思い遠く慮り、憂勤して思を尽くす。城已に周訖し、辺境に不虞の憂い無く、千載に永安の固き有るを知る。朕甚だ之を嘉す。即ち此の城を名づけて刁公城と為し、以て爾が功を旌せよ」。

興光二年、詔して雍を還都せしめ、特進を拝し、将軍は元の如し。和平六年、上表して曰く、

詔して公卿をして集議せしむ。会に高宗 崩御 ほうぎょ したるに遭い、遂に寝した。

皇興年中、雍は隴西王源賀及び 中書 ちゅうしょ 監高允等と並びに耆年を以て特見優礼せられ、雍に几杖を賜い、剣履して殿に上ることを許され、月毎に珍羞を致した。

雍は性質寛柔にして、文典を好尚し、手より書を釋かず、明敏にして多智なり。凡そ為す所の詩賦頌論 へい びに雜文、百餘篇有り。又、汎く施して士を愛し、怡靜にして寡欲なり。佛道を篤く信じ、教誡二十餘篇を著し、以て子孫を訓導す。太和八年冬卒す。年九十五。命服一襲を賜ひ、賵帛五百匹を賜ふ。儀同三司・冀州刺史を贈り、將軍は故の如し。 おくりな して簡と曰ふ。

雍の長子纂、字は奉宗。中書侍郎。早卒す。

纂の弟遵、字は奉國。爵を襲ぐ。

遵の弟紹、字は奉世。武騎侍郎・汝陰王天賜の涼州征西府司馬。

紹の弟獻、字は奉章。祕書郎。

獻の弟融、字は奉業。汝陰太守。

融の弟肅、字は奉誠。中書博士。

遵は少にして小節に拘わらず、長じて更に修改す。太和中、例に依りて侯に降る。景明中、相州魏郡太守を除く。還りて 太尉 たいい 諮議參軍と為る。年七十、志力衰へず。嘗て篤疾を經、幾くんか死せんとす。神明の救ひ免るるを見、是れ福門の子なり、當に長年を享くべしと謂ふ。延昌三年、司農少卿に遷る。尋いで龍驤將軍・洛州刺史を拜す。遵は招誘方有り、蕭衍の新化太守杜性・新化令杜龍振・平陽令杜臺定等、戶三千を率ひ地を據へて内附す。熙平元年七月卒す。年七十六。平東將軍・兗州刺史を贈り、諡して惠侯と曰ふ。子十三人有り。

長子楷、字は景伯。州秀才に舉げらる。早卒す。

子沖、字は文助。儒林傳に在り。

楷の弟尚、字は景勝。本州治中。早卒す。

尚の弟整、字は景智。少にして大度有り、頗る書史に涉る。郡功曹。太和十五年、奉朝請。高祖洛に都し、親ら臨選し、 司空 しくう 法曹參軍を除く。

高祖南討し、廣陽王嘉を以て荊州に鎮せしむ。整は嘉の外兵參軍事と為る。尋いで太尉・咸陽王禧の外兵參軍に轉ず。景明中、給事中を除き、本州中正を領す。尋いで尚書左中兵郎中を除く。正始中、蕭衍の江州刺史王茂先來たりて南境を寇す。平南將軍楊大眼之を討つ。詔して整に節を持せしめて大眼の軍司と為し、大いに茂先を破り、衍の輔國將軍王花等を斬る。永平初、軍功を以て員外 散騎常侍 さんきじょうじ を除き、仍く郎中を除く。延昌三年秋、世宗朝堂に於て百官を親選し、右軍將軍を拜し、仍く郎中を除く。尋いで ぎょう 騎將軍に轉ず。未だ幾からず、父憂に丁る。

相州刺史・中山王熙鄴に在りて兵を起し、將に元叉等を誅せんとす。事敗れ、首を傳へて京師に至る。熙の親故敢へて視る者莫し。整の弟婦即ち熙の姉なり。遂に其の屍を收めて藏す。後乃ち熙の親に還す。叉聞きて憾みを致し、因りて熙の弟略の蕭衍に南走するを以て、整將に叛かんとすと誣ひ、整と弟宣及び子恭等を送りて幽繫す。御史王基・前軍將檢事使魏子建の理雪に頼りて、免るることを獲。後、征虜將軍より出でて范陽太守を除く。時に已に兵亂有り、整の郡全きことを獲。郡を去りての後、尋いで陷沒せらる。靈太后政に反り、安南將軍・光祿大夫を除く。元略曾て整の坐に於て泣きて黃門王誦・尚書袁翻に謂ひて曰く、「刁公我家を收斂せり。卿等宜く知るべし」と。

整、母老ゆるを以て、河北喪亂す。時に整の族弟雙西兗州刺史と為る。整遂に家を攜へて依る。永安初、金紫光祿大夫を拜す。二年、黃門を兼ぬ。元顥洛に入り、用ひて滄州刺史と為す。莊帝朝に還り、坐して官を免ぜらる。後、鄉里に歸る。莊帝尒朱榮を殺すに及び、就きて鎮東將軍・行滄州事を除く。普泰初、征東大將軍・滄冀瀛三州刺史・大 都督 ととく を假り、將軍は前の如し。尋いで車騎將軍・右光祿大夫を加ふ。本鄉の賊亂に逢ひ、母を奉じて齊州に客す。 えい 大將軍を加ふ。天平四年、鄴に卒す。 司空 しくう 公を贈り、諡して文獻と曰ふ。整は音律を解し、財を輕んじ施しを好み、名勝と交結し、聲酒を以て自ら娛しむ。然れども貪にして色を好み、議者の貶する所と為る。

初めに雍は従弟の寶惠と共に国に入った。寶惠は字を道明といい、太祖は彼を上客とした。卒し、六人の子があった。子の連城は冀州開府掾となった。

刁氏は代々栄禄を有したが、門風は甚だ修潔ではなく、時に鄙まれた。

雍の族孫の雙は、字を子山という。高祖の藪は、晋の斉郡太守であった。藪は晋の乱に因って青州の楽安に居住した。父の道履は、皇興の初めに平原太守に除された。雙に至って初めて本郷に還った。雙は少より学を好み、兼ねて文史に渉り、雅く中山王英に知賞された。西河太守に拝された。

正光の初め、中山王熙が誅された時、熙の弟の略は雙に身を投じた。雙は彼を一年間庇護した。時に略の購求は甚だ切であった。略は乃ち雙に謂って曰く、「我が兄弟は屠滅已に尽き、唯だ我が一身が刃を漏らして相託す。卿は厚恩なりと雖も、久しく容蔽を見るも、但だ事留まれば変生じ、終に恐らくは保ち難からん。脱や万一発覚せば、我が死は分なり、卿を相累す事無し。若し吾を送りて境外に出さば、便ち是れ再生の恵なり。其の然らずんば、輒ち自裁せんと欲す」と。雙曰く、「人生会に一死有り、死する所難く遇うのみ。今知己に遭い、死を視ること帰するが如し、願わくは以て慮と為さざれ」と。略は後苦しく南転を求め、雙は乃ち従子の昌を遣わして江左に送り届けしめた。霊太后が政に返り、略が雙に因って免れたるを知り、光禄大夫に徴拝した。時に略の姉の饒安公主は、刁宣の妻なり、頻りに霊太后に訴え、略を徴して朝廷に還すことを乞うた。乃ち徐州にて獲たる俘虜の江革・祖暅の二人を以て之と交換した。雙が略と旧有るを以て、乃ち境に至り略を迎接せしむ。

粛宗の末、西兗州刺史に除された。時に賊盗蜂起し、州人張桃弓等は亡命を招聚し、公然と劫掠を行った。雙が境に至り、先ず使を遣わして桃弓を諭し、禍福を陳示すと、桃弓は即ち使に随いて罪に帰し、雙は捨てて問わず。後に盗発の有る処は、桃弓をして追捕せしめ、咸く悉く擒獲せしめた。ここに於て州境清粛なり。荘帝の初め、行済州刺史となり、功を以て曲城郷男に封ぜられた。出帝の初め、驃騎大将軍・左光禄大夫に遷った。興和三年に卒す。車騎大将軍・儀同三司・斉州刺史を贈られ、諡して清穆といった。

王慧龍

王慧龍は、自ら云う、太原 晋陽 しんよう の人、司馬徳宗の尚書 僕射 ぼくや 愉の孫、散騎侍郎緝の子なりと。幼くして聡慧、愉は諸孫の龍と為すを以て、故に名づく。初め、劉裕微時の時、愉は礼を為さず、及んで志を得るに及び、愉は合家誅せらる。慧龍年十四、沙門僧彬に匿わる。百余日、慧龍を将いて江を過ぎんとす。津人の疑う所と為りて曰く、「行意怱怱徬徨たり、王氏の諸子に非ずや」と。僧彬曰く、「貧道師に従うこと年有り、西岸に止まる。今暫く定省せんと欲し、還期遠からず。此れ吾に随いて業を受くる者、何ぞ君の言うが如くに至らんや」と。既に済りて、遂に西上し江陵に至り、叔祖忱の故吏荊州前治中習辟疆に依る。時に刺史魏詠之卒し、辟疆は江陵令羅脩・前別駕劉期公・土人王騰等と謀りて兵を挙げ、慧龍を推して盟主と為し、日を剋して州城を襲わんとす。而して劉裕詠之の卒するを聞き、亦た江陵に変有るを懼れ、其の弟道規を荊州と為して遣わす。衆遂に果たさず。羅脩慧龍を将い、又僧彬と北詣し襄陽に至る。司馬徳宗の雍州刺史魯宗之、慧龍に資給し、送りて江を渡らしめ、遂に虎牢より姚興に奔る。其の自ら言う所此の如し。

泰常二年、姚泓滅び、慧龍帰国す。太宗引見して言わしむ。慧龍南討に効力を請う。言終わりて俯して涕を流す。天子之が為に動容す。謂いて曰く、「朕方に車書を混一し、呉会を席卷せんとす。卿の情計此の如し、豈に衆を以て相資する能わざらんや」と。然れども亦た未だ之を用いず。後に洛城鎮将に拝し、兵三千人を配して金墉を鎮守せしむ。拝すること十余日、太宗崩ず。世祖初め即位し、咸く南人を以て師旅の任に委するに宜しからずと謂い、遂に前の授を停む。

初め、崔浩の弟恬、慧龍が王氏の子なるを聞き、女を以て妻とす。浩婚姻を結び、及んで慧龍を見て曰く、「信ずらくは王家の児なり」と。王氏は世に齇鼻たり、江東之を齇王と謂う。慧龍鼻大なり。浩曰く、「真に貴種なり」と。数えて諸公に其の美を称す。 司徒 しと 長孫嵩之を聞き、悦ばず。世祖に言して曰く、其の南人を嘆服するは、則ち国化を訕鄙するの意有りと。世祖怒り、浩を召して責む。浩免冠して陳謝し、釈かるるを得たり。及んで魯宗之の子軌、姚興に奔り、後帰国し、云う、慧龍は王愉の家の豎にして、僧彬の通じて生める所なりと。浩之を聞くと雖も、女の故を以て、成す其の族を賛す。慧龍是に由りて調せられず。

久しくして、楽安王範の傅に除され、 へい ・荊・揚三州大中正を領す。慧龍表を抗し、願わくは南垂を得て自ら効せんとす。崔浩固く之を言い、乃ち南蛮 校尉 こうい ・安南大将軍左長史を授く。及んで劉義隆の荊州刺史謝晦、江陵に兵を起こし、慧龍を引きて援と為す。慧龍司馬霊寿等一万人を督し、其の思陵戍を抜き、進みて項城を囲む。晦敗れ、乃ち師を班す。後劉義隆の将王玄謨滑台を寇す。詔して慧龍に楚兵将軍を仮し、安頡等と同く之を討たしむ。相持すること五十余日、諸将賊盛なるを以て敢えて先んずる莫く、慧龍奇兵を設けて大いに之を破る。世祖剣馬銭帛を賜い、龍驤将軍を授け、長社侯の爵を賜い、 滎陽 けいよう 太守に拝し、仍って長史を領す。任に在ること十年、農戦並びに修め、大いに声績著し。辺遠を招携し、帰附する者一万余家、善政と号せらる。

其の後、劉義隆の将到彦之・檀道済等頻りに淮潁に頓し、大いに侵掠相いす。慧龍力戦し、屡々其の鋒を摧く。彦之友人蕭斌に与える書に曰く、「魯軌頑鈍、馬楚粗狂、亡人の中に唯だ王慧龍及び韓延之の為す可きは深く憚るべし。意わざらんや儒生懦夫、乃ち老子をして之に訝ましむ」と。劉義隆反間を縦し、云う、慧龍自ら功高くして位至らざるを以て、寇を引きて辺に入らんと欲し、因りて安南大将軍司馬楚之を執いて叛かんとすと。世祖聞きて曰く、「此れ必ず然らず、是れ斉人の楽毅を忌むのみ」と。乃ち慧龍に璽書を賜いて曰く、「義隆将軍を畏ること虎の如く、相い中害せんと欲す。朕自ら之を知る。風塵の言、想うに介するに足らざるべし」と。劉義隆の計既に行われず、復た刺客呂玄伯を遣わして慧龍の首を購わしむ。二百戸男・絹一千匹。玄伯反間と偽り来たり、人を屏いて論ずる所有るを求む。慧龍之を疑い、人をして其の懐を探らしむるに、尺刀有り。玄伯頭を叩きて死を請う。慧龍曰く、「各其の主の為めなり。吾此の人を害するに忍びず」と。左右皆言う、義隆賊心未だ已まず、玄伯を殺さざれば、将来を制するに以て無しと。慧龍曰く、「死生命有り。彼亦た安んぞ能く我を害せん。且つ吾方に仁義を以て干鹵と為す。又何ぞ刺客を憂えん」と。遂に之を捨つ。時に人其の寛恕に服す。

王慧龍は自ら遭難して流離したことを以て、常に憂い憔悴を懐き、乃ち伍子胥を祭る文を作りて以て意を寄せしむ。一男一女を生み、遂に房室を絶つ。布衣蔬食、吉事に参ぜず。挙動必ず礼を以てす。太子少傅游雅、朝に言いて曰く、「慧龍は、古の遺孝なり」と。帝王制度十八篇を撰し、号して国典と曰う。真君元年、使持節・寧南将軍・虎牢鎮都副将に拝す。未だ鎮に至らずして卒す。臨没に、功曹鄭曄に謂いて曰く、「吾は覊旅の南人、恩は旧結に非ず、聖朝の殊特の慈を蒙り、疆埸に在りて命を効うるを得たり。誓って屍を呉市に鞭ち、墳を江陰に戮さんことを願う。此の重疾を嬰ふとは謂わず、心あれども遂げず。唯だ国霊を仰ぎ愧ずるのみに非ず、実にまた后土に俯して慚ず。修短は命なり、復た何をか言わん。身歿の後、河内州県の東郷に葬ることを乞い、古墓に依りて墳せず、足りて髪歯を蔵するのみとせよ。庶くは魂にして知有らば、猶ほ結草の報を希わん」と。時に制あり、南人国に入る者は皆桑乾に葬る。曄ら遺意を申し、詔して之を許す。安南将軍・荊州刺史を贈り、諡して穆侯と曰う。吏人及び将士共に墓所に於いて仏寺を起し、慧龍及び僧彬の象を図りて之を讃す。呂玄伯は全宥の恩を感じ、墓側に留守し、終身去らず。子宝興、爵を襲う。

宝興は少くして孤となり、母に事へ至孝なり。尚書盧遐の妻は、崔浩の女なり。初め、宝興の母及び遐の妻俱に孕み、浩謂いて曰く、「汝等将来に生む所は、皆我が自出なり、指腹を以て親と為すべし」と。婚に及び、浩為に儀を撰し、躬自監視す。諸客に謂いて曰く、「此の家の礼事、宜しく其の美を尽くすべし」と。浩誅せらるるに及び、盧遐の後妻は、宝興の従母なり、縁坐して官に没せらる。宝興も亦逃避し、未だ幾ばくもせずして出づるを得たり。盧遐の妻は、時に官に賜ひて度河鎮の 高車 こうしゃ 滑骨と為す。宝興は貨産を尽く売り、自ら塞を出でて之を贖ひて帰る。州辟して治中従事・別駕と為し、秀才に挙げらるるも、皆就かず。門を閉ぢて人事を交えず。爵長社侯・龍驤将軍を襲う。卒し、子瓊、爵を襲う。

瓊は、字は世珍。高祖其の名を賜う。太和九年、典寺令と為る。十六年、侯より伯に降る。高祖其の長女を納れて嬪と為し、前軍将軍・ 并州 へいしゅう 大中正に拝す。正始中、光州刺史と為る。受納の響有り、中尉王顯に劾せらるるも、終に雪免を得たり。神亀中、左将軍・兗州刺史を除く。州を去りて京に帰り、多年沈滞す。居る所は 司空 しくう 劉騰の宅の西に在り、騰は朝野に勢傾くも、初め之を候はず。騰既に権重く、隣宅を吞 へい し、旧居を増広すれども、唯瓊終に肯て与へず。此を以て久しく抑屈せらるるを見る。瓊の女は范陽盧道亮に適す、其の夫家に帰るを聴かず。女卒するに及び、哀慟已む無し。瓊仍ひ別所に之を葬り、冢即ち塞がず、常に壙内に於いて哭泣す。久しうして乃ち掩ふ。当時深く怪しみ、其の穢行を疑う。聾疾を加ふるに、道俗を見る毎に、乞丐已む無し。造次に之を見て、人をして笑愕せしむ。道に 太保 たいほう ・広平王懐に逢ひ、鞍に拠りて抗礼し、自ら馬痩せたりと曰ふ。懐即ち誕馬 へい びに乗具を以て之に与ふ。嘗て 尚書令 しょうしょれい 李崇に詣り、馬に騎りて其の黄閤に至り、崇の子世哲を見て、直に継伯在るや否やと問ふ。崇趨り出づ、瓊乃ち下る。崇は儉にして紙を以て衣領に帖するを好む、瓊哂ひて之を掣ち去る。崇の小子青肫は、嘗て盛服す。〈闕〉寵勢も亦恨むに足らず。領軍元叉奴をして瓊に馬を遺はしめ、 へい せて奴を留む。王誦之を聞きて笑ひて曰く、「東海の風、茲に於いて墜つ」と。孝昌三年、鎮東将軍・金紫光禄大夫・中書令を除く。時に瓊の子遵業は黄門郎と為る、故に此の授有り。卒す、年七十四。征北将軍・ 中書監 ちゅうしょかん へい 州刺史を贈らる。慧龍国に入りより、三世一身、瓊に至りて始めて四子有り。

長子遵業は、風儀清秀、経史に渉歴す。位は著作佐郎、 司徒 しと 左長史崔鴻と同しく起居注を撰す。右軍将軍に遷り、兼ね 散騎常侍 さんきじょうじ 蠕蠕 じゅんじゅん を慰労す。乃ち代京に詣り、遺文を採拾し、以て起居の闕く所を補ふ。崔光・安豊王延明等と服章を参定す。光が肅宗に孝経を講ずるに及び、遵業は講に預かり、延業は義を録し、 へい びに詔に応じて釈奠侍宴の詩を作る。時人の語に曰く、「英英済済、王家の兄弟」と。転じて 司徒 しと 左長史・黄門郎・監典儀注と為る。遵業は当時に誉有り、中書令陳郡袁翻・尚書瑯琊王誦と並びに黄門郎を領し、号して三哲と曰う。時に政は門下に帰し、世に侍中・黄門を小宰相と謂ふ。而るに遵業は従容恬素、丘園に処するが若し。嘗て穿角履を著け、好事者多く新履を毀りて以て之に学ぶ。胡太后の臨朝を以て、天下方に乱る、地を避くるを謀り、自ら徐州を求む。太后曰く、「王誦は幽州を罷めて始めて黄門を作す、卿何ぞ乃ち徐州を欲するや。更に一二年を待て、当に好処分有らん」と。遵業兄弟は、並びに時俊と交遊し、乃ち当時に美と為さる。尒朱栄の洛に入るに及び、兄弟は父喪の中に在りて、庄帝に従姨兄弟の親有るを以て、相率ひ奉迎し、俱に河陰に害せらる。議者其の人才を惜しみ、而して其の躁競を譏る。 へい 州刺史を贈らる。『三晋記』十巻を著す。

遵業の子松年は、尚書庫部郎。

韓延之

韓延之は、字は顕宗、南陽赭陽の人、魏の 司徒 しと 韓曁の後なり。司馬徳宗の平西府録事参軍。劉裕率ひて司馬休之を伐たんとし、未だ江陵に至らざるに、密かに使をして延之と書を以て之を招かしむ。延之報じて曰く、「親しく戎馬を率ひ、遠く西畿を履むと聞く、闔境の士庶、怪駭せざる莫し。何者ぞ。師出の名を知る莫き故なり。司馬平西は国体に忠貞、物に款愛を待つ、当に古人の中に求むべし。劉裕足下、海内の人誰か足下が此の心を見ざらん、而して復た国士を欺誑せんと欲す、天地の容れざる所、彼に在りて此に在らず。今人の君を伐ち、人に利を啗ます、真に謂ふ可き、処懐期物、自ら由来有る者なり。平西の至徳を以てす、寧くも授命の臣無からんや。仮令天長く喪乱し、九流渾濁すと雖も、当に臧洪と地下に遊ばん、復た多く言はじ」と。裕書を得て歎息し、諸佐に示して曰く、「人に事ふるは当に此くの如くすべし」と。劉裕の父の名は翹、字は顕宗、是に於いて延之の字を顕宗とし、子を名づけて翹と為す、蓋し劉氏に臣せざるを示すなり。後に姚興に奔る。泰常二年、司馬文思と来りて国に入り、延之を以て虎牢鎮将と為し、爵は魯陽侯。初め延之曾て栢谷塢に来往し、魯宗之の墓を省み、終焉の志有り。因りて子孫に謂ひて云く、「河洛は三代の都する所、必ず此に於いて治むる者有らん。我死して北代に葬るを労せず、即ち此に就くべし」と。卒するに及び、子其の言に従ひ、遂に宗之の墓次に葬る。延之の死する後五十餘年にして高祖都を徙め、其の孫即ち墓北の栢谷塢に居る。

延之の前妻羅氏は子措を生み、措は父に随ひて国に入る。又た淮南王の女を以て延之に妻せしめ、道仁を生む。措は道仁を推して嫡と為し、父の爵を襲はしめ、位は殿中尚書に至る。爵を進めて西平公と為す。

袁式

袁式、字は季祖、陳郡陽夏の人、漢の 司徒 しと 袁滂の後裔なり。父の淵は、司馬昌明(東晋孝武帝)の侍中を務めた。袁式は南方にありて、武陵王司馬遵の諮議参軍を歴任す。司馬文思らと共に姚興(後秦)に帰順す。泰常二年(417年)、北魏に帰国し、上客として遇され、爵位陽夏子を賜う。 司徒 しと 崔浩と一面識を得て、直ちに国士の交わりを尽くす。この時、朝廷の儀礼典章は全て崔浩の手に成り、浩は袁式が古事に博通するを以て、事を草創する毎に、常に顧みて諮問せり。性質は長者にて、羈旅漂泊の身ながらも、清貧にして節度を守り、士の節を失わず、当時の人甚だ敬重し、皆袁諮議と呼べり。延和二年(433年)、衛大将軍・楽安王 拓跋 たくばつ 範が雍州刺史となるに当たり、詔して袁式と中書侍郎高允を共に従事中郎と為さんとす、辞して免るるを得たり。袁式は沈靖にして道を楽しみ、広く書伝を覧、詁訓・倉頡篇・爾雅に至るまで、偏りに留意を留む。『字釈』を作るも、未だ成らず。天安二年(467年)に卒す。 州刺史を追贈され、諡して粛侯と曰う。

子の袁済、爵を襲ぐ。魏郡太守の位に至り、政に清廉なる称あり、寧遠将軍を加えらる。子・姪遂に潁川の陽夏に居住す。

【評】

史臣曰く、刁雍は才識恢遠にして、声を著し事を立て、礼遇優隆、世に人爵堂構の義有り。王慧龍は難を抜けて自ら帰順し、頗る夷険を歴、人を撫で衆を督し、厳敵に見憚らる。世珍(王宝興)は実に令子有り、克く家声を播く。韓延之の劉裕に報ずる書、国体其の中に在り。袁式は崔浩に礼を賛し、時に長者と称せらる、一時に称有り、信に美なるかな。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻38