巻37

司馬休之

司馬休之、 あざな は季 、本来は河内郡温県の人、晋の宣帝の末弟である譙王司馬遜の後裔である。司馬叡が江南に僭立すると、また司馬遜の子孫に封を襲封させた。休之の父の恬に至っては、司馬昌明(晋孝武帝)の鎮北将軍・青州兗州二州 刺史 しし となった。

天興五年(北魏年号、402年)、休之は司馬徳宗(晋安帝)の平西将軍・荊州刺史となった。桓玄に逼迫追逐され、ついに 慕容 ぼよう 徳のもとに奔った。劉裕が桓玄を誅殺した後、建 ぎょう に帰還し、劉裕はまた休之を荊州刺史とした。休之は江漢の人心をかなり得たため、劉裕は彼に異志があるのではないかと疑った。一方、休之の子の文思が休之の兄の めあわ 之の後を継いで譙王となり、劉裕を謀図したので、劉裕は文思を捕らえて休之のもとに送り、自ら処置するよう命じた。休之は文思を廃する上表をし、また劉裕に書を送って陳謝した。神瑞年間(414-416年)中、劉裕は休之の子の文宝と兄の子の文祖を捕らえ、ともに殺害し、ついに軍を率いて休之を討った。休之は徳宗に上表して自らを陳弁し、徳宗の鎮北将軍魯宗之および宗之の子で竟陵太守の魯軌らとともに兵を起こして劉裕を討った。劉裕の軍が江陵に至ると、休之は敵うことができず、ついに魯軌とともに襄陽に奔った。劉裕はさらに進軍してこれを討った。太宗(明元帝)は長孫嵩を河東に駐屯させ、その援けとしようとした。時に姚興の征虜将軍姚成王と冠軍将軍司馬国璠もまた兵を率いて救援に向かったが、間に合わずに帰還した。休之はついに子の文思および魯宗之らとともに姚興のもとに奔った。

劉裕が姚泓を滅ぼすと、休之は文思および徳宗(晋安帝)の河間王の子の道賜、輔国将軍温楷、竟陵内史魯軌、荊州治中韓延之・殷約、平西参軍桓謐・桓璲および桓温の孫の道度・道子、勃海の刁雍、陳郡の袁式ら数百人とともに、皆妻子を連れて長孫嵩のもとに降った。一月余りして、休之は長孫嵩の軍中で卒去した。詔して曰く、「司馬休之はその同義の士を率い、万里を越えて誠を帰し、雅操遂げず、中年にて殞喪す。朕甚だこれを愍れむ。その征西大将軍・右光禄大夫を追贈し、 おくりな して始平声公とすべし」。

文思は淮南公の国璠および池陽子の道賜と不和であったが、偽って親しくし、引き入れて飲宴を催した。国璠の性格は疎直であり、酒に酔ったため、ついに文思に語り、自分が温楷および三城の胡酋の王珍・曹栗らと外で反乱を起こし、また京師の豪強数十人と謀りを為すことができると言った。文思がこれを告発したため、皆誅殺に処せられた。文思を廷尉卿とし、爵を鬱林公と賜った。その職務に善くし、訴訟を聴き獄を断ずるに、百姓は再びその真情を隠さなくなった。劉義隆(宋文帝)が将の裴方明を遣わして仇池の楊難当を撃つと、世祖(太武帝)は文思を仮節・征南大将軍とし、爵を進めて譙王とし、 洛陽 らくよう 州の諸軍を督して南に向かい襄陽を趣き、その帰路を遮らせた。京に還り、懐朔鎮将となった。興安初年(452年)に 薨去 こうきょ した。

子の弥陀、爵を襲ぐ。選ばれて臨涇公主に めあわ せんとしたが、先に毗陵公竇瑾の女を娶ったことを理由に辞退した。竇瑾とともに祝詛の罪に坐し、誅殺された。

司馬楚之

司馬楚之、字は徳秀、晋の宣帝の弟である太常の司馬馗の八世の孫。父の栄期は、司馬徳宗(晋安帝)の梁州益州二州刺史であったが、その参軍楊承祖に殺害された。楚之の時年十七歳、父の喪を送って丹楊に還った。時に劉裕が司馬氏の戚属を誅夷したため、叔父の宣期、兄の貞之がともに殺害された。楚之はついに諸沙門の中に亡匿し、長江を渡った。歴陽より西に入り、義陽・竟陵の蛮の中に至った。従祖の荊州刺史司馬休之が劉裕に敗れるに及んで、ついに汝水・潁水の間に亡命した。

楚之は若くして英気があり、節を折って士を待遇することができた。司馬順明・道恭らと在所で徒党を集めた。劉裕が自立すると、楚之は報復を図り、衆を収めて長社に拠り、これに帰する者は常に一万余人を超えた。劉裕はこれを深く憚り、刺客の沐謙を遣わして楚之を害させようとした。楚之は沐謙を非常に厚く待遇した。沐謙は夜に病を詐り、楚之が必ず自ら来ることを知り、これによって殺そうとした。楚之は沐謙の病を聞き、果たして自ら湯薬を携えて見舞いに行った。沐謙はその誠意に感じ、ついに座席の下から匕首を取り出し、状況を告げて言うには、「将軍は劉裕に忌憚されています。軽率な行動を避け、保全を第一とされることを願います」。楚之は嘆息して言うには、「もしそなたの言う通りならば、たとえ防備があっても、恐らく失うところがあるだろう」。沐謙はついに身を委ねて彼に仕えた。その誠信を推し物に及ぼし、士の心を得たことは、皆この類いである。

太宗(明元帝)の末年、山陽公奚斤が河南の地を攻略すると、楚之は使者を遣わして降伏を請うた。よって上表して言うには、「江淮以北は、王師が南を首とすることを聞き、歓舞せざるはなく、徳化を奉じたいと願っています。しかし寇逆に逼迫され、自ら至る由がありません。臣は民の欲するところに因り、慕義の者を率いて国の前駆となることを請います。今は皆白衣の身であり、人望を制する服を持ちません。もし偏裨の号を蒙り、王威を仮りて義を唱えれば、則ち率いて従わざるはないでしょう」。ここにおいて楚之を使持節・征南将軍・荊州刺史に仮した。奚斤が河南を平定すると、楚之の率いる戸民を分けて汝南・南陽・南頓・新蔡の四郡を置き、 州を益した。

世祖(太武帝)の初め、楚之は妻子を内に鄴に居住させ、まもなく召されて朝廷に入った。時に南方の藩鎮の諸将が、劉義隆が侵入して寇とならんとしていると上表したため、楚之を使持節・安南大将軍とし、琅邪王に封じ、潁川に屯してこれを防がせた。その長史の臨邑子歩還が上表して言うには、「楚之が黄河を渡ると、百姓は旧を思い、義衆は雲のごとく集い、汝水・潁水以南は、風を望んで翕然とし、首を回らせて革面しました。これは誠に陛下が天に応じ民に順い、聖徳が広く被わったことによるものです」。世祖は大いに悦び、璽書を下して労い勉め、前後部の鼓吹を賜った。

劉義隆の将の到彦之が黄河を遡って西進し、南岸に列守して潼関に至った。到彦之らが退走すると、楚之はその別軍を長社で破った。また冠軍将軍安頡とともに滑臺を攻め、これを抜き、劉義隆の将の朱脩之・李元徳および東郡太守申謨を擒らえ、一万余人を俘虜とした。上疏して言うには、「臣は命を受けて南伐し、一方の任に当たりましたが、智力浅短にして、誠節未だ効なく、これをもって夙夜憂惶し、寝食を忘れます。臣は屡々人を荊州・揚州に遣わし、在所で陳説し、天朝の盛化の美を具に論じましたが、聖徳を忻んで承けず、首を傾けて北を望まぬ者はありません。しかし劉義隆兄弟は人情の動揺を知り、臣の私讎である司馬順を司州刺史として遣わし、淮北七郡を統べさせ、垣苗に代わって懸瓠を守らせています。鞏・洛・滑臺が敗散して以来、劉義隆はその敗北を恥じ、多く罪罰を加えています。到彦之は位を削られ、退いて卒伍と同列となり、寿春で姚縦夫を殺し、彭城で竺霊秀を斬り、王休元は疾を託け、檀道済は斥放されました。凡そ腹心にある者は、悉く疑阻を懐いています。民は怨み臣は猜む、今日と謂うべきです。臣は聞く、寇逆を平殄するには、必ず戦勝の威に乗ずべく、功勲を建立するも、また離貳の勢いに因るべきだと。伏して惟うに、陛下の聖徳は符に膺り、道は四海に光り、神旌の指すところ、摧服せざるはなく、その未だ賓せざる者は劉義隆のみです。今天網は遐く挙がり、殊方は徳を仰ぎます。固より東南を掃清し、区宇を斉一にし、済済たる風をして、江漢に被らしむべきです」。世祖は兵が久しく労することを以て、従わなかった。 散騎常侍 さんきじょうじ として召し還された。

涼州征伐に従い、功により隷戸一百を賜う。劉義隆が将の裴方明・胡崇之を遣わして仇池を寇す。楚之を仮節とし、淮陽公皮豹子らとともに関中の諸軍を督し、散関より西に入り、方明を撃退し、崇之を擒らえた。仇池が平定されると還った。

車駕(皇帝の行幸)が 蠕蠕 じゅんじゅん 柔然 じゅうぜん )を討伐するにあたり、詔して楚之に済陰公盧中山らと共に輸送を監督させ、大軍に続かせた。時に鎮北将軍封沓が蠕蠕に亡命し、楚之らを撃って糧道を断つよう勧めた。蠕蠕は間者を楚之の軍に潜入させ、驢馬の耳を切り取って去った。驢馬の耳を失ったと報告する者があったが、諸将は誰も察知できなかった。楚之は言った、「必ずや間者が切り取って証拠としたのであろう、賊はまさに来襲せんとしている」と。直ちに兵士に柳を伐らせて城とし、水をかけて凍らせた。城が完成すると賊が到来した。氷は険しく城は堅固で、攻め寄せることもできず、賊は散り散りに逃走した。世祖(太武帝)はこれを聞いて賞賛した。

まもなく仮節・ 侍中 じちゅう ・鎮西大将軍・開府儀同三司・雲中鎮大将・朔州刺史を拝命し、王爵はもとのままである。辺境に二十余年を過ごし、清廉倹約をもって知られた。和平五年に薨去した。時に七十五歳。高宗(文成帝)は悼み惜しみ、 都督 ととく 梁益秦寧四州諸軍事・征南大将軍・領護西戎 校尉 こうい ・揚州刺史を追贈し、諡して貞王とした。金陵に陪葬された。

長子の宝胤は、楚之と共に国(北魏)に入った。 中書 ちゅうしょ 博士・雁門太守に任じられ、卒去した。

楚之の後、諸王の娘である河内公主を娶り、子の金龍を生んだ。字は栄則。幼少より父の風範があった。初め中書学生となり、中散として宮中に入った。顕祖(献文帝)が東宮にあった時、抜擢されて太子侍講となった。後に爵位を襲い、侍中・鎮西大将軍・開府・雲中鎮大将・朔州刺史に任じられた。吏部 尚書 しょうしょ に召された。太和八年に薨去した。大将軍・ 司空 しくう 公・冀州刺史を追贈され、諡して康王とした。絹一千匹を賜った。金龍は初め 太尉 たいい ・隴西王源賀の娘を娶り、子の延宗、次いで纂、次いで悦を生んだ。後に沮渠氏を娶り、徽亮を生んだ。これは河西王沮渠牧犍の娘で、世祖の妹である武威公主が生んだ者である。文明太后の寵愛を受けたため、徽亮が襲爵した。定例により爵位は公に降格された。穆泰の罪に連座して爵位を失った。

延宗は、父の没後数年して卒去した。

子の裔、字は承業。世宗(宣武帝)の時、悦らが裔のために嫡子であることを主張し、祖父の爵位を襲うこととなった。後軍将軍の位に至り、卒去した。征虜将軍・洛州刺史を追贈された。

子の藏が襲爵した。斉が禅譲を受けると、定例により爵位は降格された。

纂、字は茂宗。中書博士。司州治中・別駕、河内邑中正を歴任した。永平元年に卒去した。鎮遠将軍・南青州刺史を追贈され、諡して肅といった。

子の澄、字は元鏡。司州秀才、 司空 しくう 功曹参軍・給事中を歴任し、卒去した。龍驤将軍・夏州刺史を追贈された。

澄の弟、仲粲。武定年間、尚書左丞。

悦、字は慶宗。 司空 しくう 司馬から立節将軍・建興太守に出向し、寧朔将軍・司州別駕に転じた。太子左衛率・河北太守に遷った。

世宗の初め、鎮遠将軍・ 州刺史に任じられた。時に汝南上蔡の董毛奴という者が、銭五千を携え、道路上で死んでいた。郡県は民の張堤が強盗を働いたと疑い、堤の家から銭五千を得た。堤は拷問を恐れ、自ら殺害を認めた。事件が州に届くと、悦はその様子と供述を観察し、事実ではないと疑った。毛奴の兄の霊之を引見し、言った、「人を殺して銭を奪う時は、慌てふためき、何かを落とすはずである。この賊は結局何を落としたのか」と。霊之は言った、「ただ一刀の鞘を得たのみです」と。悦は鞘を取って見て言った、「これは里巷の者が作ったものではない」と。そこで州城の刀匠を召して示すと、郭門という者が進み出て言った、「この刀の鞘は門手が作り、昨年、郭の民の董及祖に売りました」と。悦は及祖を捕らえ、詰問した、「お前はなぜ人を殺して銭を奪い、刀の鞘を落としたのか」と。及祖は罪を認めた。霊之はまた及祖の身上から毛奴が着ていた黒い短衣を得た。及祖は処刑された。悦の裁判は、多くこのようなものであった。 州では今も彼を称えている。

悦は鎮南将軍元英と共に義陽を攻撃し、これを陥落させた。詔して蕭衍の司州を郢州と改称し、悦を征虜将軍・郢州刺史とした。蕭衍はその 州刺史馬仙琕、左軍将軍・永陽戍主陳可らに兵一万を率いさせ、三関の南六十里の地で山に依って城を築かせ、竹敦と名付け、その輔国将軍・済陰太守薊沛に精兵二千を率いさせてこれを守備させた。後に関南四十里の麻陽の旧柵に城を築き、仙琕は軽騎で東西を往来し指揮した。関南の民は多く両方に心を寄せていた。悦は西関統軍諸霊鳳に奇襲を命じ、これを破り、その城楼と蓄えを全て焼き払い、薊沛およびその輔国将軍・軍主劉霊秀を生け捕りにした。詔して言った、「司馬悦は義陽攻略の首謀者として、征討に功績があった。また京師を離れて久しく、しばしば入朝を請うている。この志を遂げさせ、闕下に赴くことを許せ」と。まもなく詔して本官(征虜将軍)のまま 州刺史とした。義陽の功績により、漁陽県開国子に封じられ、食邑三百戸を賜った。

永平元年、城民の白早生が叛逆を謀り、遂に悦の首を斬り、蕭衍に送った。まもなく邢巒が懸瓠を回復した。詔して言った、「司馬悦は横死に遭い、身首異所となった。国戚にして旧勲の臣、特に悼み惜しむべきである。主書の董紹は公務を帯びて出向き、異域に囚われ漂っている。その事情は哀れむに値する。尚書は賊将の斉苟児ら四人の中から二人を選び、揚州に命じて文書を作成し、悦の首と董紹との交換を図り、迎え入れて本国に還せ。これをもって亡き者を慰め、存命の者を安んぜよ」と。平東将軍・青州刺史を追贈し、帛三百匹を賜り、諡して莊といった。子の朏が爵位を襲った。

朏は、世宗の妹である華陽公主を娶り、駙馬都尉に任じられた。特に員外 散騎常侍 さんきじょうじ を除され、鎮遠将軍を加えられた。正光五年、公主が薨去した。一月余りして、朏が卒去した。左将軍・滄州刺史を追贈された。

子の鴻は、字を慶雲という。性質は粗暴で武勇に長じた。爵位を襲い、都水使者の位に至った。西の賊と通じた罪により死を賜う。

子の孝政が襲爵した。斉が禅譲を受けると、爵位は例により降格された。

金龍の弟の躍は、字を宝龍という。趙郡公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられた。兄に代わって雲中鎮将・朔州刺史となり、安北将軍・河内公を仮授された。躍は河西の苑封を廃止し、民に開墾耕作させよと上表した。有司が執奏して言うには、「ここは麋鹿の棲む所であり、太官が供給を受ける地である。今もし民に与えれば、奉献すべき時の禽獣に欠ける恐れがある」と。詔して曰く、「この地がもし農耕に適するならば、たとえ獣の利があっても、封を廃すべきである。もし山澗であるならば、虞人の禁令に何の損があろうか。そもそも先朝がこれを置いたのは、ただこの禽獣を藉りるためではなく、また軍行の薪蒸の用に備えたのであろう。さらに論じよ」と。躍は固く民に与えるべきことを請い、高祖はこれに従った。還って祠部尚書・大鴻臚卿・潁川王師となった。病により上表して任を解くことを請うた。太和十九年に卒した。金紫光禄大夫を追贈され、朝服一具・衣一襲・絹一千匹を賜う。楚之父子相継いで雲中を鎮め、朔土はその威徳に服した。

司馬景之

司馬景之は、字を洪略といい、晋の汝南王司馬亮の後裔である。太宗の時に帰朝し、蒼梧公に封ぜられ、征南大将軍を加えられた。清廉正直で節操があり、太宗は甚だこれを重んじた。卒し、汝南王を追贈された。子の師子が爵を襲った。

景之の兄の準は、字を巨之という。泰常の末に、三千余家を率いて帰国した。時に太宗は虎牢におり、寧遠将軍・新蔡公・仮相州刺史を授けられた。車駕に従って京師に至る。出て広寧太守となった。近きを悦ばせ遠きを来たせ、清廉倹約で称賛された。世祖はこれを嘉し、布六百匹を賜うた。後に平遠将軍に降号され、密陵侯に改封された。興光の初めに卒した。子の安国が爵を襲った。

司馬叔璠

司馬叔璠は、晋の安平献王司馬孚の後裔である。父の曇之は、司馬徳宗の河間王であった。桓玄・劉裕の際、叔璠は兄の国璠とともに北へ奔って慕容超に仕えた。後に西へ投じて姚興に仕えた。劉裕が姚泓を滅ぼすと、北へ奔って屈丐に仕えた。世祖が統万を平定すると、兄弟ともに国に入った。国璠は淮南公の爵を賜うた。卒し、子がなく、爵は除かれた。叔璠は、安遠将軍・丹楊侯となった。卒した。

長子の霊寿は、神䴥年中に、弟の道寿とともに帰国した。霊寿は冠軍将軍・温県侯、道寿は寧朔将軍・宜陽子となった。霊寿は出て陳郡太守となった。劉義隆が国境を侵すと、詔により霊寿は義士を招引し、二千余人を得て、西平公安頡に従い虎牢・滑臺・洛陽の三城を破り、五百余家を河内に移した。また蠕蠕討伐に従い、西征して涼州を征し、在所で功績を顕した。出て遼西太守となり、治績に清廉倹約の称があった。太和九年に卒した。懐州刺史を追贈され、諡して靖といった。霊寿は太宰・頓丘王李峻の娘を娶ったが、舅と甚だ相善くせず、常に抑え退けられたため、位は大いに至らなかった。

子の恵安は、高祖の時に爵を襲った。恒州別駕・桑乾太守・太尉諮議参軍事を歴任した。卒した。

子の祖珍は、十五歳の時、司州の秀才に挙げられた。員外散騎侍郎に初任した。十八歳で、父に先立って卒した。

祖珍の弟の宗龐は、世宗の時、父の恵安が久病により上表して爵位を転授させた。安定王府騎兵参軍に初任し、洛州龍驤府司馬となった。弓射に優れたが、自ら誇ることはなかった。性質は閑淡で、交遊は少なかった。識者はその淳朴至誠を称えた。永安年中に卒した。子の嵩亮が襲爵した。

恵安の弟の直安は、尚書郎、済北・済南二郡太守、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任した。蕭宝夤が鍾離を征する時、長史に抜擢された。軍退の罪に坐し、免官の上刑を加えられた。病により免ぜられる。まもなく東平原太守に任ぜられた。京に還り、中散大夫となり、征虜将軍・太中大夫を加えられ、左将軍に遷った。正光四年に卒した。大将軍・済州刺史を追贈された。

子の龍泉は、滄州開府長史となった。

道寿の長子の元興が、父の爵を襲った。

子の景和は、給事中となり、やがて揚州驃騎府長史・清河内史に遷った。正光元年に卒した。左将軍・平州刺史を追贈された。

元興の弟仲明は、侍御史・中書舎人となった。謹慎で機敏であることで知られた。やがて衛尉少卿に遷り、引き続き舎人を領した。出て征虜将軍・涼州刺史となった。貪婪で残忍な行いにより、御史の弾劾を受け、赦令に遇って免罪されたが、長年叙用されなかった。後に霊太后の従姉を継室に娶り、武衛将軍・征虜将軍に任じられた。光禄大夫に転じ、武衛将軍は元の如くであった。大司農卿に遷り、安東将軍・ 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。出て安北将軍・恒州刺史となり、 散騎常侍 さんきじょうじ は元の如くであった。正光五年に卒した。

子の彦邕は、風格と声望があった。正員郎となった。やがて相州刺史・驃騎大将軍・左光禄大夫に遷った。天平四年に卒した。 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 懐洛二州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・懐州刺史を追贈された。

司馬天助

司馬天助は、自ら司馬徳宗の驃騎将軍元顕の子であると称した。劉裕が自立すると、朝廷に帰順してきた。平東将軍・青徐二州刺史・東海公に任じられた。天助は義士を招き率い、劉裕の東平・済北の二郡及び城戍を襲撃しようとし、また劉裕の将閭万齢の軍を破り、前後して多くを捕虜・鹵獲した。侍中・ 都督 ととく 青徐兗三州諸軍事・征東将軍・青兗二州刺史に拝され、公の爵位は元の如くであった。真君三年、司馬文思らとともに南征した。帰還後、また帝の北征に従った。陣中で没した。

子の元伯、字は帰都。爵位を襲い、後に温県子に降格された。太和年間、建威将軍・泰山太守となった。

【論】

史臣曰く、諸司馬は乱亡して命に帰した。楚之の風概と器略は、最も称えられるべきであろうか。その他は論ずるに足りない。しかしながら、前代の遺緒をもって、みな位遇に当たった。幸いであったというべきである。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻37