李順は、 字 を徳正といい、趙郡平棘の人である。父の系は、 慕容 垂の散騎侍郎、東武城令となり、治績に能吏の名声があった。太祖が 中原 を平定すると、系を平棘令とした。年老いて、家で死去した。寧朔将軍・趙郡太守・平棘男を追贈された。順は経史に広く通じ、才策があり、世に知られた。神瑞年間、 中書 博士となり、中書侍郎に転じた。始光初年、 蠕蠕 征討に従軍した。籌略の功により、後軍将軍に任じられ、引き続き平棘子の爵位を賜り、奮威将軍を加えられた。
世祖が 赫連 昌を討伐しようとし、崔浩に言った、「朕が前に北征した時、李順が数件献策したが、実に経略の大計に合致していた。今、彼に前駆の事を総摂させようと思うが、卿はどう思うか。」浩は答えて言った、「順の智は事務を周到に処理するに足り、実に聖旨の通りです。しかし臣は彼と婚姻関係にあり、その行いを深く知っておりますが、性が去就に果敢であり、専ら委任することはできません。」世祖はそこでやめた。初め、浩の弟が順の妹を娶り、また浩の弟子が順の娘を娶ったが、二家は婚姻関係にあっても、浩は甚だ順を軽んじ、順もまた彼に服さなかった。ここから密かに猜忌し合い、故に浩は彼を誹謗したのである。統万に至り、昌の軍を大破し、順の謀功は上位にあり、左軍将軍に転任した。後に統万を征討し、前将軍に遷り、兵を授けられた。昌が出て逆戦し、順は士衆を督勒し、その左軍を破った。統万を攻克すると、世祖は諸将に珍寶雑物を賜ったが、順は固辞し、ただ書物数千巻を取っただけである。世祖はこれを良しとした。京に至って功を論じ、順を給事黄門侍郎とし、奴婢十五戸、帛千匹を賜った。また平涼で赫連定を撃つに従った。三秦が平定され、 散騎常侍 に遷り、侯に爵位を進め、征虜将軍を加えられ、四部 尚書 に遷り、甚だ寵待された。
沮渠蒙遜が河西を以て内附すると、世祖は行人を精簡しようとした。崔浩が言った、「蒙遜は蕃を称し、款誠は河右に著しい。もし遠域を通じさせ、殊荒をことごとく至らしめようとするならば、清徳の重臣に詔を奉じて褒慰させべきであり、尚書李順がその人です。」世祖は言った、「順は納言の大臣である。固より先ずこの使となるべきではない。もし蒙遜が身を以て玉帛を執りて朕に朝するならば、さらに何を以て加えようか。」浩は言った、「邢貞が呉に使した時も、魏の太常であった。苟くも事がこれに適うならば、重んずることを嫌うことはありません。あの日の行いが、果たして呉王の入覲であったでしょうか。」世祖はこれに従い、順を太常とし、策を以て蒙遜を 太傅 ・涼王に拝した。使いから還ると、使持節・ 都督 秦雍梁益四州諸軍事・寧西将軍・開府・ 長安 鎮都大将に任じられ、爵位を高平公に進めた。間もなく、また四部尚書に徴され、 散騎常侍 を加えられた。
延和初年、また涼州に使した。蒙遜は中兵校郎の楊定帰を遣わして順に告げさせた、「年老いて多くは発疹し、旧患が発動し、腰脚が従わず、拝伏に堪えません。近く三五日のうちに、消息少し良くなれば、相見えましょう。」順は言った、「王の年老いていることは、朝廷も知っている。王が臣礼を祗敬して執るのであれば、別に詔旨がある。どうして自ら安んじて上使に会わないことができようか。」蒙遜は翌日、順を延いて入らせた。庭中に至ると、蒙遜は箕坐して几に隠れ、動いて起つ様子がなかった。順は顔色を正して大声で言った、「この叟が無礼であることここに至るとは思わなかった。今は覆亡を恤れず、敢えて天地を陵侮する。魂神は逝った。何を以てこれを見ようか。」節を握って出ようとした。蒙遜は定帰に命じて庭で順を追わせて言った、「太常は既に衰疾を雅恕し、伝え聞くところでは朝廷に拝さざる詔があるとのこと、故に敢えて自ら安んじたまでです。もし太常が『爾は拝せよ、爾は跪け、しかして命を祗敬せず』と言われるならば、これこそ小臣の罪です。」順はますます怒って言った、「斉桓公は九たび諸侯を合し、天下を一匡し、周王は胙を賜い、命じて『伯舅、下拝すること無かれ』と言われた。しかし桓公は臣節を奉遵し、降りて拝受した。今、君は功高く勲厚いといえども、小白の朝廷に勤めたほどではない。朝廷は君を崇重するといえども、拝さざる詔はない。もし便ち偃蹇として自ら大とすれば、これこそ禍を速める道であり、久安の計を図るものではない。もし朝廷が震怒し、遂に相吞滅すれば、悔いても何ぞ及ぼんや。」蒙遜は言った、「太常は古烈を以て我を規し、天威を以て我を懼れしめる。敢えて翹悚せずや。敬って休命を聴く。」遂に拝伏して礼を尽くした。礼が終わると、蒙遜は言った、「徳に恃む者は昌え、力に恃む者は亡ぶ。朝廷は近頃征伐して屡々克ち、境宇は既に博い。ただこの民を理に循わしめるだけで、また治を興すに足る。しかし専ら討撃に務めるのは、恐らく常に勝つことはできないだろう。」順は言った、「昔、太祖は洪基を廓定し、区夏を造り有した。太宗は統を承け、王業は惟れ新たなり。聖上御臨以来、志は四海を寧んずるにある。故に戎車は屡々駕し、親しく風霜を冒し、赫連を三秦に滅ぼし、蠕蠕を漠北に走らせた。土を闢き辺を開き、隷首も紀せず。僵屍截馘、所在観を成す。暴虐を除蕩し、黎庶を存卹し、威は八荒に震い、声は九域に被わる。古より以来、用兵の美は、今日の盛んなるものはない。故に遐方荒俗の氓は、莫れず翹足抗手し、衽を斂め膝を屈す。天兵四たび臨み、徳を昭かにし罪を罰する。何を以て力に恃むと言わんや。夫れ聖王の兵を用いるや、南蛮を征すれば北狄怨み、西戎を討すれば東夷恨む。天子どうして已むを得んや。」蒙遜は言った、「誠に来言の如くならば、則ち涼土の民もまた魏帝の遠く至らんことを願うはずである。何為れぞまた駅を遽かにして警を告げ、昼夜を捨てずするのか。思うに君の言うところは、殆ど虚事であろう。」順は言った、「苗民は帝舜に叛きて暴君に親しみ、有扈は后啓に違いて逆主に従う。皆な近地に脅逼され、凶威に牽制されたのであり、古より然り。豈に独り涼民のみならんや。」
順が使いから還ると、世祖は蒙遜との往復の言辞、及び蒙遜の政教の得失を問うた。順は言った、「蒙遜は河右の威を専らにすること三十余年、艱難を経渉し、粗く機変を識り、また荒陬を綏集し、遠人も頗る畏服する。孫謀を貽厥することはできぬとも、なおその一世を終えるには足ります。前年、表を奉じて十月に曇無讖を送ると約したが、臣が往き迎えると、便ち本意に背いた。不忠不信、ここに甚だしい。礼は身の輿、敬は行の本なり。礼無く敬無くして久しく福祿を享くる者は未だいない。臣の観る所では、もはや長くはないでしょう。」世祖は言った、「卿の言う如くならば、効は遠からず、その子は必ずまた世を襲うであろう。世を襲った後、早晚滅ぶべきか。」順は答えて言った、「臣はその子を略見しましたが、並びに才俊ではなく、一隅を保つことはできましょう。聞くところによれば、敦煌太守の牧犍は、器性粗く立ち、蒙遜を継ぐ者は必ずこの人です。しかし父と比べれば、皆な及ばないと言います。これは天が聖明を資するために用いるのでしょう。」世祖は言った、「朕は今まさに東の事に従事し、西を営む暇がない。卿の言う如くならば、三五年の間は遅くはない。暫く前計を停め、後図としよう。」既にして蒙遜の死の報が至ると、世祖は順に言った、「卿は蒙遜の死を言ったが、今は則ち験があった。また牧犍の立つを言ったが、何と妙なることか。朕が涼州を克つことも、また遠からぬであろう。」ここにおいて絹千匹、廐馬一乗を賜い、安西将軍に号を進めた。寵待はますます厚く、政の巨細に参らざるはなかった。崔浩はこれを憎んだ。
李順は涼州に使者として十二度往復し、世祖はその才能を称えた。ところが蒙遜はしばしば李順と遊宴を共にし、しばしば不遜な言葉を口にしたため、李順が東に帰って朝廷に漏らすことを恐れ、やがて金銀財宝を李順の懐に押し込んだので、蒙遜の罪状は朝廷に徹底して知られずに済んだ。崔浩はこのことを知り、密かに世祖に告げたが、世祖は信じなかった。太延三年、李順が再び涼州に使いし、帰還すると、世祖は言った、「かつて卿と密かに図り、遠からず期したことである。ただ近年東征に忙しく、西顧する暇がなく、月日が流れるうちに、ここまで至った。今や和龍は既に平定し、三方に事なく、近ごろは甲冑を整え兵を治め、河右を指して営し、万里を掃蕩するは、今がその時である。卿は往復して歳月を積み、興廃を洞察している。もし朕がこの年に軍を進めるならば、必ずや平定できるか」。李順は答えて言った、「臣がかつて申し上げたことは、私としてはその通りであると思いました。しかし民は既に久しく労苦しており、まだ安息を得ておらず、頻繁に動かして労苦を増やすべきではありません。どうか他の年を待たれますよう」。世祖はこれに従った。五年、涼州征討を議し、李順は涼州は水草に乏しく、遠征すべきではないと論じた。崔浩と朝廷で争った。崔浩は固執して征討すべきであるとした。世祖は崔浩の意見に従った。姑臧に至ると、水草は非常に豊かであった。世祖は恭宗に手紙を書き、このことを伝え、李順をかなり恨んだ。後に崔浩に言った、「卿がかつて言ったことが、今や果たして実証された」。崔浩は言った、「臣の言うことは、虚実ともにこのような類いでございます」。初め、蒙遜に西域の沙門曇無讖がおり、わずかに方術を持っていた。世祖は詔を下し、李順に蒙遜に命じて京師に送らせた。李順は蒙遜から金を受け取り、彼が殺すのを許した。世祖が涼州を平定した後、このことを聞いて李順を疎んじた。涼州の地が平定されると、詔を下して李順に群臣の序列を定めさせ、爵位を賜った。李順はかなり賄賂を受け取り、品第は公平でなかった。涼州人の徐桀がこの事を告発した。崔浩もまた彼を誹謗し、言った、「李順はかつて牧犍父子から重い賄賂を受け、常々涼州には水草がなく、軍を進めることはできないと言っていました。陛下が姑臧に至られると、水草は豊かでした。その欺瞞はこのようであり、ほとんど国事を誤らせるところでした。このように不忠でありながら、かえって臣が陛下に讒言したと言います」。世祖は大いに怒り、真君三年、ついに李順を城西で処刑した。
李順の死後数年して、その従父弟の李孝伯が世祖に知遇を得て重用され、宮中で権勢を振るった。崔浩が誅殺された時、世祖は非常に怒り、李孝伯に言った、「卿の従兄はかつて国を誤ったが、朕の考えもここまで至るとは思わなかった。崔浩の讒言誹謗によって、朕の怒りは遂に激しくなった。卿の従兄を殺したのは、崔浩である」。皇興初年、李順の子の李敷らが貴寵を得ると、顕祖は李順を追贈して 侍中 ・鎮西大将軍・ 太尉 公・高平王とし、 諡 を宣王とし、妻の邢氏を孝妃とした。李順には四人の子がいた。
長子は李敷、字は景文。真君二年、中書学に選抜されて学ばせた。忠実で謹直であることから東宮に侍した。また中散となり、李訢・盧遐・度世らと共に聡明で機敏であるとして内で機密に参与し、詔命の出入りを担当した。李敷は謙虚で恭しく、さらに文学の才があり、高宗に寵遇された。秘書下大夫に昇進し、枢要な事柄を管掌し、前軍将軍を加えられ、平棘子の爵位を賜った。後に南部の事務を兼ねて録し、 散騎常侍 ・南部尚書・ 中書監 に昇進し、内外の秘書を領した。高平公の爵位を襲いだ。朝政の重要な議論には、事ごとに関与した。劉彧の徐州 刺史 薛安都・司州刺史常珍奇が彭城・懸瓠を以て降伏してきた時、当時の朝廷の議論では、彼らの誠意は偽りかも知れず信頼して保証できないとされた。李敷はかたくなに必ずそうなると主張し、言った、「劉氏は喪乱し、禍いは蕭牆(内輪)から起こり、骨肉は内で離反し、藩屏は外で叛いています。今、皇朝の威霊と兵馬の力により、併呑の機会は今にあります。ましてや安都・珍奇は機会を識って帰順し、万里を隔てて誠意を奉じており、小民の民衆は皇化を仰ぎ望んでいます。今のこの機会を、どうして再び失うことができましょうか」。そこで衆議はようやく一致し、軍を派遣して接応・支援した。淮海が平定・安定したのは、李敷の力によるものがあった。
李敷は二世にわたって厚遇され、兄弟親戚で朝廷にいる者は十余人に及んだ。弟の李弈もまた文明太后に寵愛された。李訢が彼らの隠れた罪状二十余条を列挙して告発すると、顕祖は大いに怒り、皇興四年の冬、李敷兄弟を誅殺し、李順の位号を削って庶人とした。李敷の従弟の李顕徳・妹婿の広平の宋叔珍らは皆、公私に乱れを及ぼした罪に連座して、同時に処刑された。李敷兄弟は孝義を重んじ、家門には礼があり、喪に服する法度から吉凶の書簡のやり取りに至るまで、全て典則に合致し、北州で称賛された。このような禍いに至ったため、当時の人々は彼らを惜しんだ。
李敷の長子は李伯和。次男は李仲良で、父と共に死んだ。李伯和は逃げ隠れて一年余り過ごしたが、人に捕らえられて送られ、殺された。李伯和には庶子の李孝祖がおり、幼かったため隠れて難を免れた。後に李敷の妻の崔氏が宮中から出ることが許され、彼を養育した。平涼太守に至った。
李敷の弟の李式、字は景則。学業で知られた。 散騎常侍 ・平東将軍・西兗州刺史を歴任し、濮陽侯となった。李式は自ら家が権要の地位を占めていることを以て、危険な禍いを心配し、常々渡し場の役人に命じていた。朝廷から使者があれば、必ず先に自分に報告し、それから渡すようにと。やがて使者が夜明け前に突然到着した。渡し場の役人が先に李式に報告しようとすると、使者は騙して言った、「私は南に渡る必要があり、この州には留まらない。刺史に知らせる煩わしさはない」。渡し守はこれを信じ、使者と共に渡った。使者は渡河すると、突入して李式を捕らえ都に連行し、兄と共に死なせた。
李式の子の李憲、字は仲軌。清らかで純粋、風采・容儀に優れ、学問を好み、器量があった。太和初年、爵位を襲い、また伯に降格された。秘書中散に任じられ、大いに高祖に賞賛された。次第に散騎侍郎に昇進し、蕭衍の使者である蕭琛・范雲の応接にあたった。母が老齢のため帰郷して養うことを請い、趙郡太守に任じられた。趙脩は彼と同郷であったが、趙脩が父母の葬儀のために帰郷した時、牧守以下は彼を恐れてぞろぞろと付き従ったが、李憲だけは彼に屈しなかった。当時の人々はこれを高く評価した。 驍 騎将軍・尚書左丞・長兼吏部郎中に転任した。長兼 司徒 左長史・定州大中正に昇進した。まもなく河南尹に昇進した。尚書上省で新令の制定に参与した。永平三年、左将軍・兗州刺史として出向した。四年、事に坐して除名された。後に高肇に党与したとして、御史の弾劾を受けた。事柄は高聡伝に詳しい。正光二年二月、粛宗が国子堂で講義を行い、李憲を召して聴講させ、またその子の李騫を国子生とした。四年、光禄大夫に任じられ、本来の爵位である濮陽伯に復した。五年、持節・安西将軍・行雍州刺史に任じられた。まもなく七兵尚書に任じられ、撫軍将軍を加えられた。
孝昌初年、元法僧が徐州を占拠して反乱を起こした。詔により李憲は使持節・仮鎮東将軍・徐州 都督 とされ、安豊王元延明・臨淮王元彧らと共にこれを討伐した。ちょうど蕭衍がその 豫 章王蕭綜を派遣して彭城を占拠させたが、まもなく蕭綜は降伏した。徐州が平定されると、詔により兼黄門侍郎の常景を軍中に派遣して慰労し、李憲に驊騮馬一匹を賜い、引き続き征東将軍・揚州刺史・淮南大 都督 に任じた。二年、蕭衍がその平北将軍元樹・右衛将軍胡龍牙・護軍将軍夏侯亶らを派遣して寿陽を侵犯してきた。元樹らは下蔡から軍を進めて城の東北に布陣し、夏侯亶は黎漿から進軍して城南に駐屯した。李憲は、まず元樹らを破らなければ夏侯亶を打ち破ることはできないと考え、子の李長鈞に軍勢を率いて迎撃させた。軍は敗れ、李長鈞は捕らえられた。元樹らはこれに乗じ、李憲は力尽きて城を挙げて降伏した。そこで帰国を求めると、蕭衍は帰還を許した。帰国すると、詔により廷尉に引き渡された。三年の秋、李憲の女婿である安楽王元鑒が相州を占拠して反乱を起こした。霊太后は元鑒が脅迫の意図を抱いていると考え、遂に詔を下して李憲に死を賜った。時に五十八歳であった。永熙年間、使持節・侍中・ 都督 定冀相殷四州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・ 尚書令 ・定州刺史を追贈され、諡を文静といった。
子の李希遠、字は景冲。早世した。
子の李祖悛が祖父の爵位を襲いだ。斉が禅譲を受けると、定例により降格された。
希遠の兄の長鈞は、興和年間に梁州驃騎府長史となった。
希遠の第二弟の希宗は、字を景玄という。憲の兄の後を継いだ。性質は寛和で、容姿は優雅美麗、書伝を渉猟し、文才があった。初官は太尉参軍事、転じて直後、侍御史を兼ね、通直 散騎常侍 に遷った。まもなく東南道行臺邸珍の右丞となり、諸軍とともに賊を彭沛で討ち、これを平定し、転じて斉献武王大行臺郎中となった。 散騎常侍 ・中軍大将軍・金紫光禄大夫に遷る。献武王は彼を抜擢して中外府長史とし、斉王がその第二女を娶った。希宗は人望と美質を兼ね、深く礼遇された。上党太守として出向した。まもなく病にかかり、興和二年四月に郡で卒去、四十歳であった。使持節・ 都督 定冀滄瀛殷五州諸軍事・驃騎大将軍・ 司空 公・殷州刺史を追贈され、諡は文簡といった。
長子の祖昇は、武定末年に太子洗馬となった。
希宗の弟の希仁は、字を景山という。武定末年に国子祭酒・兼給事黄門侍郎となった。
希仁の弟の騫は、字を希義という。経史を広く渉猟し、文藻が豊かであった。十四歳で国子学生となった。聡明で通達していることで知られた。大将軍府法曹参軍・太宰府主簿を歴任し、転じて中散大夫、遷って中書舎人となり、通直 散騎常侍 を加えられた。かつて『釈情賦』を作り、曰く。
まもなく 散騎常侍 ・殷州大中正・鎮南将軍・尚書左丞を加えられた。引き続き本官をもって 散騎常侍 を兼ねて蕭衍に使した。後に事に坐して免官されたが、論ずる者はこれを罪ではないとした。
騫はかつて親友の盧元明・魏収に贈った詩に曰く、「幽棲多暇日、総駕萃荒坰。南瞻帯宮雉、北睇拒畦瀛。流火時将末、懸炭漸云軽。寒風率已厲、秋水寂無声。層陰蔽長野、凍雨暗窮汀。侶浴浮還没、孤飛息且驚。三褫俄終歳、一丸曾未営。閑居同洛涘、帰身款武城。稍旅原思藋、坐夢尹懃荊。監河愛斗水、蘇子惜余明。益州達友趣、廷尉弁交情。豈若忻蓬蓽、収志偶沈冥」。後に詔により太府少卿を兼ねた。まもなく征南将軍・給事黄門侍郎に任ぜられた。 晋陽 で死去した。著した詩賦碑誄は、別に集録がある。本将軍・太常・殷州刺史を追贈された。斉が禅を受けると、重ねて使持節・侍中・ 都督 殷滄二州諸軍事・車騎大将軍・儀同三司を追贈され、引き続き殷州刺史、諡は文惠といった。
騫の弟の希礼は、字を景節という。武定末年に通直 散騎常侍 となった。
希遠の庶長兄の長剣は、興和年間に梁州驃騎府長史となった。
式の弟の弈は、字を景世という。容貌が美しく、才芸があった。早くから顕職を歴任し、 散騎常侍 ・宿衛監・都官尚書、安平侯となった。兄の敷とともに死んだ。太和初年、文明太后は弈兄弟を追憶し、李訢を誅し、憲ら一二家を慰問し、歳時に布帛を賜った。
弈の別生の弟の冏は、字を道度という。若くして中散となった。逃避して難を免れた。太和年間、下大夫・南部給事に任ぜられた。龍驤将軍・南 豫 州刺史として出向した。還って冠軍将軍に任ぜられた。まもなく光禄大夫となり、度支尚書を守った。二十一年、高祖が長安に行幸したとき、冏は咸陽の山河が険固で、秦漢の旧都、古く陸海と称されることを以て、高祖に 洛陽 を去ってここに都するよう勧めた。後に高祖が引見し、笑ってこれに謂いて曰く、「卿は先日啓上し、朕にここに都せんと欲した。昔、婁敬の一説で、漢祖は即日西駕した。尚書は今、西京を以て朕を説き、なお朕に東轅を廃せしめず、まさに献可の理殊なるが故に、今古相反する所以であろう」。冏対えて曰く、「昔、漢祖は布衣より起こり、険阻を藉りて自らを固めんと欲し、婁敬の言は本旨に合った。今、陛下は百世重光し、徳は四海に洽く、事は隆周に同じく、その職貢を均しくす。これをもって愚臣は説を献じ、上を動かすこと能わざるなり」。高祖は大いに悦んだ。その年、冏は卒去した。銭二十万、布百匹、朝服一具、衣一襲を賜った。冏の性質は鯁烈で、敢えて直言し、常に高祖を面折し、公卿を弾駁し、回避する所なく、百官は皆これを憚った。高祖は常に優礼を加え、故に車駕の巡幸には、恒に尚書右 僕射 を兼ねた。才学は諸兄に及ばないが、然れども公強当世、事を済すには彼らを超えていた。
子の祐は、字を長禧という。篤く穆(和)らぎ友于(兄弟愛)に厚く、世に称された。給事中・尚書祠部郎・相州撫軍府長史・ 司空 従事中郎・博陵太守を歴任した。所在でも清廉幹練をもって著名であった。
祐の弟の太は、字を季寧という。書伝を渉猟した。太尉行軍員外郎となった。
順の弟の修基は、陳留太守となった。卒去した。
子の探幽。探幽の兄の子の洪鸞は、河間太守となった。
洪鸞の孫の悕傑は、楽陵太守であった。武定年間(543–550)に、貪汙の罪により死を賜う。
脩基の末弟の惲は、字を善祖といい、小字を薬囊という。若くして高名があり、中書侍郎となった。世祖に従って涼州を征し、戦死した。当時の人々は皆これを惜しんだ。
初め、順は従兄の霊、従弟の孝伯と共に学識と器量事業をもって当時に重んぜられ、故に宗族を砥礪し、競って各々修養と高尚を重んじた。霊は族叔の詵、族弟の熙らと共に召し出された。事は高允の『高士頌』に見える。
詵は、字を令孫という。京兆太守となった。詵には後継者がいた。(欠落)
秀林は、小名を榼という。性質は強直であった。太和年間(477–499)に、中書博士から頓丘相となり、豪族権門は彼を畏れた。景明初年(500)に、試みに博陵郡を守り、強きを挫き弱きを扶け、政治は威厳をもって名とされた。母の喪により職を去った。後に太尉諮議参軍となり、節を仮り、荊州の事務を行った。 司徒 司馬に任ぜられ、冠軍将軍・定州大中正・太中大夫を加えられた。正光年間(520–525)に卒し、六十三歳であった。左将軍・齊州刺史を追贈された。
子の裔は、字を徽伯という。秀林の兄の鳳林の後を継いだ。裔は初め汝南王悦の常侍に任ぜられ、次第に昇進して定州別駕となった。孝昌年間(525–527)に、定州鎮軍長史となり、輔国将軍を加えられ、博陵太守を帯びた。時に逆賊杜洛周が州界を侵乱し、まもなく平北将軍を仮り、防城 都督 となった。賊が既に城を包囲すると、裔は密かに洛周を引き入れ、州は遂に陥落した。洛周が僭称したが、特に綱紀がなく、市令や駅帥に至るまで、皆これをもって王とし、市王・駅王と呼んだ。そこで裔を定州王に封じた。洛周はまもなく葛栄に滅ぼされ、裔は引き続き葛栄に仕えた。永安初年(528)、尒朱栄が葛栄を捕らえると、遂に裔及び高敖曹・薛脩義・李無為らを晋陽に拘束した。栄に従って洛陽に至った。栄が死ぬと免ぜられた。普泰初年(531)、裔を持節・ 散騎常侍 ・安北将軍・兼給事黄門侍郎・慰労山東大使とした。永熙年間(532–534)に、鎮東将軍・金紫光禄大夫・齊献武王大丞相諮議参軍に任ぜられた。天平初年(534)、策定に参与した功により、固安県開国伯に封ぜられ、食邑四百戸を賜り、征東将軍を加えられた。車駕が 鄴 に遷ると、大行台右丞となり、洛陽に留まって宮殿の修築を監督した。まもなく使持節・大将軍・陝州刺史に任ぜられた。四年(537)八月、宇文黒獺が州城を攻め陥とし、捕らえられて害せられ、五十歳であった。詔して使持節・ 都督 定冀瀛殷四州諸軍事・驃騎大将軍・ 尚書令 ・ 司徒 公・定州刺史を追贈した。
子の直が襲封した。武定末年(550)、 司徒 属となった。齊が禅譲を受けると、例により爵位を降格された。
裔の弟の景義は、大司馬諮議参軍・殷州大中正となった。
景義の弟の伯穆は、武定末年(550)、合州刺史となった。
秀林の従弟の煥は、字を仲文といい、小字を醜瓌という。幹用があった。若い頃に酈道元と共に李彪に知られた。給事中から治書侍御史に転じた。恒州刺史穆泰が代都を拠り謀反を起こすと、高祖は詔して煥に任城王澄と共にこれを推問処断させた。煥は先駆けて州に至り、旨を宣べ諭し、ついに泰らを誅した。景明初年(500)、 司空 従事中郎に遷った。蕭宝巻の 豫 州刺史裴叔業が寿春を以て帰順すると、詔して煥に本官のまま軍司とし、楊大眼・奚康生らと共に軍勢を率いてこれを迎えさせた。煥が淮西に至ると、叔業の兄の子の植が使者を遣わして人質を送った。煥らは軍を渡し、城に入って慰撫し、民は皆喜んだ。引き続き揚州の事務を行い、容城伯の爵位を賜った。軍が還ると、河内郡の事務を行った。 司徒 右長史に任ぜられた。荊蛮が騒擾したため、勅して煥に 散騎常侍 を兼ねさせてこれを慰労させると、降伏する者が一万余家あった。輔国将軍・梁州刺史に任ぜられた。時に武興の 氐 の楊集起が挙兵して逆を為し、弟の集義に命じて白馬戍を遮断させた。勅して煥に平西将軍を仮り、別将の石長楽・統軍の王祐らを督し、軍司の苟金養と共にこれを討たせ、集起軍を大破した。時に秦州の民の呂苟児が反乱を起こすと、煥は引き続き長楽らに命じて麦積崖より赴援させた。 都督 の元麗が到着したため、遂に共にこれを平定した。時に氐王の楊定進がなお方山を拠り、苟児と呼応していたため、煥は密かに氐の趙芒路を募って定進を斬らせた。朝廷に還り、病に罹り卒した。時に四十四歳であった。征虜将軍・幽州刺史を追贈され、諡を昭といった。
子の密は、武定年間(543–550)、襄州刺史となった。
秀林の族子の肅は、字を彦邕という。奉朝請を歴任し、清河王懌の郎中令となった。次第に遷って洛陽令・歩兵 校尉 ・員外常侍となった。初め侍中元暉に諂い附き、後に左道をもって侍中穆紹に仕えた。常に裸身で髪を振り乱し、腹に絵を描き刀を銜え、隠れた屏の内で紹の為に福を求めたため、紹は彼を愛した。延昌四年(515)、肅を黄門郎に推薦し、光禄大夫を加えた。肅は酒狂の性分であり、熙平初年(516)に霊太后が江陽王継の邸に幸した際、肅は時に侍飲し、頗る酔って言辞が不遜であり、太傅・清河王懌に対し侮辱したため、有司に弾劾された。霊太后は怒り、章武内史として出させた。一年余りして、右将軍・夏州刺史に遷った。卒し、左将軍・齊州刺史を追贈された。
肅の従弟の曒は、字を景林という。学識があった。初め奉朝請に任ぜられ、太学博士・ 司空 主簿となった。母の喪により職を去った。喪が明けると、左軍将軍に任ぜられた。正光年間(520–525)、元叉がその弟の羅を青州刺史とし、曒を羅の平東府長史とした。廷尉少卿・殷州大中正に遷った。孝昌二年(526)冬、卒し、五十七歳であった。平東将軍・齊州刺史を追贈され、諡を宣といった。
子の慎は、武定年間(543–550)、東平太守となった。
曒の従弟の仲琁は、奉朝請・定雍二州長史・太尉諮議・中散・太中大夫・東郡汲郡二郡太守・ 司徒 左長史・弘農太守を歴任した。先に、宮牛の二姓が険阻を恃んで害を為していたが、仲琁は威恵を示すと、共に即時に帰伏した。還って衛将軍・金紫光禄大夫に任ぜられた。引き続き北雍州刺史となり、将軍の号は元の如しとした。車騎将軍・左光禄大夫に転じた。天平初年(534)、都が鄴に遷ると、仲琁を営構将作とし、衛大将軍の号を進めた。出て車騎大将軍・兗州刺史となった。仲琁は孔子廟の牆宇が頗る頽毀しているのを見て、遂にこれを修繕した。還り、将作大匠に任ぜられた。歴任した所では皆清廉勤勉で名声があった。六十六歳で卒した。驃騎大将軍・儀同三司・青州刺史を追贈された。
子の希良は、侍御史となった。
詵の従子の善は、孝静帝の 諱 を犯した。趙郡太守となった。
子の顯進は、州の主簿となった。
顯進の子の映は、字を輝道という。南安王国常侍・光州征虜府主簿・相州治中・寧朔将軍・歩兵 校尉 を歴任した。孝昌三年の冬に卒去し、四十二歳であった。天平年間に、通直 散騎常侍 ・輔国将軍・殷州刺史を追贈された。
子の普済は、武定年間に、北海太守となった。
映の弟の育は、字を仲遠という。奉朝請となった。次第に揚烈将軍・奉車都尉・ 都督 相州防城別将に昇進した。葛栄を防いだ功績により、爵位を趙郡公と賜った。後に征東将軍・金紫光禄大夫に任じられた。天平四年の夏に卒去し、五十七歳であった。驃騎大将軍・都官尚書・定州刺史を追贈され、諡を貞といった。
子の惜は、爵位を継承した。武定末年、斉の文襄王の大将軍府記室参軍となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。
顯進の弟の恃顯は、左中郎将の位に至った。卒去すると、中壘将軍・安州刺史を追贈された。恃顯は京兆王愉の妾の楊氏を養女とし、愉は楊の姓を李と改め、恃顯を親しく思った。恃顯の子の道舒は愉とともに謀反を起こした。愉が敗れると、逃走して難を免れた。
第三子の道璩は、武定末年、范陽太守となった。
道璩の弟の道瓘は、幼少時に父の咎により刑罰を受け、中常侍の位に至った。
恃顯の弟の曄は、字を季顯といい、書史を広く学んだ。 司徒 行参軍となった。次第に済州輔国府長史に昇進した。兄の事件に連座して免官された。後に尚書中兵郎に任じられ、冠軍将軍・中散大夫に昇進した。正光二年、南荊州刺史の桓叔興が城民を駆り立てて略奪し、蕭衍に叛いて降った。蕭衍は兵糧を供給し、谷陂城を築かせて洛州を立て、土山の戍を脅かした。詔により曄は持節・兼尚書左丞として行台となり、諸軍を督して叔興を討ち、これを大破した。勝ちに乗じて谷陂を陥落させ、叔興は退走した。軍が帰還すると、そのまま尚書左丞に任じられた。外任として洛州刺史となり、将軍の位は元の通りであった。拝命せずに卒去した。左将軍・斉州刺史を追贈された。
子の暉賓は、容貌が美しく、寛和で沈着高雅であった。太学博士となった。
暉賓の弟の山儒は、若くして清く立派で、学問は群書に広く及んだ。山儒の末弟は大蓋である。ともに早世した。
曄の族弟の孝怡は、字を悦宗という。中書学生・相州高陽王雍の主簿・広陵王羽の掾・新蔡太守・別将蕭宝夤の長史を歴任した。中山王英に従い、梁城において蕭衍の臨川王蕭宏を撃破した。朔州安北府長史に任じられ、また中堅将軍・相州鎮北府長史となった。冠軍将軍・魏郡太守に昇進した。相州刺史・中山王熙が鄴に拠って兵を起こしたとき、孝怡は密かに城民を募り、熙の長史柳元章・別駕游荊之らとともに兵を率いて熙を捕らえ、賞として爵位を昌楽伯と賜った。霊太后が政権に復帰すると、孝怡は元叉の党与であるとして、除名されて庶民となった。後に安楽 王鑒 が鄴を鎮守したとき、孝怡を別将として起用した。永安初年、左将軍・太中大夫に任じられ、そのまま防城 都督 となった。葛栄を防いだ功績により、爵位を趙郡公と賜い、撫軍将軍・光禄大夫に任じられた。永安三年、殷州の事務を代行した。驃騎大将軍・左光禄大夫に昇進した。武定六年に卒去し、八十歳であった。
子の思道は、儀同開府中兵参軍となり、武城県公に封じられた。
李熙は、字を仲熙という。神䴥年間(428–431年)に、高允らとともに召し出され、中書博士に任ぜられ、侍郎に転じた。沮渠氏への使者として功績があったため、元氏子の爵位を賜り、中壘将軍を加えられた。死去すると、鎮東将軍・ 豫 州刺史を追贈され、諡は荘といった。
子の季主が爵位を継いだ。死去すると、青州刺史を追贈され、諡は貞といった。
子の遺元が爵位を継いだ。初め冀州趙郡王元幹の東閤祭酒に任ぜられ、累進して尚書左民郎中・冀州京兆王元愉の功曹参軍となり、扶柳県令を兼ねた。元愉に親しくされ、強いて同反を迫られた。元愉が敗れると、遺元は逃亡したが、赦令が出たため罪を雪がれた。再び兗州平東府長史に任ぜられた。後に中堅将軍・殷州征北将軍長史に任ぜられた。六十三歳で死去した。征北将軍・定州刺史を追贈された。
子の恃寧は、父の事に連座して刑罰を受けた。武定末年(549–550年)、官は中尹に至った。
恃寧の弟の子、子寧が爵位を継いだ。開府默曹参軍となった。北斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。
李熙の族孫の蘭和は、右軍将軍から平陽・勃海二郡の太守を歴任した。
蘭和の弟の蘭集は、平昌太守となった。
李熙の族孫の同軌は、体躯が魁偉で、腰帯は十囲あった。諸経を総合的に学び、多くを治め誦し、仏典をも読み、また医術を好んだ。二十二歳の時、秀才に挙げられ、射策して奉朝請に任ぜられ、国子助教を兼ねた。著作郎に転じ、儀注を掌り、国史を修めた。国子博士に遷り、征虜将軍を加えられた。
永熙二年(533年)、出帝(孝武帝)が平等寺に行幸し、僧徒が講説した際、詔により同軌が論難に加わり、音韻は朗らかで、問答は見るべきものがあったため、出帝はこれを良しとした。三年(534年)春の釈菜の儀に際し、詔により公卿学官を顕陽殿に招き、祭酒の劉廞に『孝経』を講ぜしめ、黄門の李郁に『礼記』を講ぜしめ、中書舎人の盧景宣に『大戴礼』の「夏小正」篇を解かしめた。この時広く儒学を招き、同軌を引いて聴講させた。同軌は経義に元来優れ、弁析も兼ねて美しかったが、経を執ることができず、深く慨恨した。天平年間(534–537年)に、中書侍郎に転じた。興和年間(539–542年)に、通直 散騎常侍 を兼ね、蕭衍(梁の武帝)に使した。蕭衍は深く仏学に耽溺しており、名僧をその愛敬寺・同泰寺の二寺に集め、『涅槃経』『大品経』を講じ、同軌を席に加え、蕭衍はまたその臣を遣わして共に聴講させた。同軌は長く論難し、道俗ともにこれを善しとした。
盧景裕が死去すると、斉献武王( 高歓 )は同軌を館に引き入れ諸公子を教えさせ、甚だ礼遇し、毎朝教授に入り、日暮れになって帰った。僧俗で学業を請う者には、同軌は夜に解説し、四季を通じて常にそうであり、倦むことをしなかった。武定四年(546年)夏に死去し、四十七歳であった。当時の人は傷み惜しんだ。斉献武王も殊に嗟悼し、賻襚は甚だ厚かった。驃騎大将軍・瀛州刺史を追贈され、諡は康といった。
同軌の兄の義深は、武定年間(543–550年)に、斉州刺史となった。
同軌の弟の幼挙は、安德太守となった。武定年間(543–550年)に、郡において貪汙を行ったため、直ちに部曲を召還して京師に帰し、棄市に処せられた。
幼挙の弟の之良は、幹用があった。前将軍・尚書金部郎となった。死去した。
之良の弟の稚廉は、武定末年(549–550年)に、 并州 儀同開府長史となった。
史臣が曰く、李順は器量と才識において、一時に推重され、謀は中国に宣べられ、気勢は外蕃を折した。それゆえ世祖(太武帝)は心を垂れ、崔浩は側目したのである。李敷・李式兄弟は、位も声望も共に高かった。李憲は風度が恢弘で雅やかであり、早くから朝列において重んぜられた。しかし遭遇と運命には定めがあり、報いと施しは共に爽かなかった。嗚呼、この盛徳をもって、その謀猷を広めることができ、宗族の枝葉は繁茂し、人々の地位は盛んに顕赫した。李姓は旧族ではあるが、その世系はまさに新たであると言えよう。
校勘記