魏書

卷35 崔浩

卷35 崔浩

崔浩

原文崔浩

崔浩、字は伯淵、清河の人なり、白馬公玄伯の長子である。幼少より文学を好み、経史を博覧し、玄象陰陽、百家の言、関綜せざるなく、義理を研精し、当時の人及びぶ者なし。弱冠にして直郎となる。天興年中、給事祕書に任じ、著作郎に転ず。太祖はその書に巧みなるを以て、常に左右に置く。太祖の末年、威厳頗る峻しく、宮省の左右多くは微過を以て罪を得、逃げ隠れざるはなく、目下の変を避く。浩のみ恭勤して怠らず、或いは終日帰らず。太祖之を知り、輒ち命じて御粥を賜う。その砥直にして時に任じ、窮通に因りて節を改めざるは、皆此の類なり。

原文崔浩,字伯淵,清河人也,白馬公玄伯之長子。少好文學,博覽經史,玄象陰陽,百家之言,無不關綜,研精義理,時人莫及。弱冠為直郎。天興中,給事祕書,轉著作郎。太祖以其工書,常置左右。太祖季年,威嚴頗峻,宮省左右多以微過得罪,莫不逃隱,避目下之變,浩獨恭勤不怠,或終日不歸。太祖知之,輒命賜以御粥。其砥直任時,不為窮通改節,皆此類也。

太宗の初め、博士祭酒に拝し、爵を武城子に賜い、常に太宗に経書を授く。郊祠に至る毎に、父子並びに軒軺に乗り、時人これを栄しとす。太宗は陰陽術数を好み、浩の易及び洪範五行を説くを聞き、これを善しとし、因りて浩に命じて吉凶を筮かしめ、天文を参観し、疑惑を考定せしむ。浩は天人の際を綜覈し、その綱紀を挙げ、諸の処決する所、多く応験あり、恒に軍国の大謀に与かり、甚だ寵密なり。是の時、兎ありて後宮に在り、門官に験問すれども、従い入るを得るなし。太宗これを怪しみ、浩に命じてその咎徴を推せしむ。浩は以て当に隣国貢嬪嬙する者有るべし、善き応なりと為す。明年、姚興果たして女を献ず。

原文太宗初,拜博士祭酒,賜爵武城子,常授太宗經書。每至郊祠,父子並乘軒軺,時人榮之。太宗好陰陽術數,聞浩說易及洪範五行,善之,因命浩筮吉凶,參觀天文,考定疑惑。浩綜覈天人之際,舉其綱紀,諸所處決,多有應驗,恒與軍國大謀,甚為寵密。是時,有兔在後宮,驗問門官,無從得入。太宗怪之,命浩推其咎徵。浩以為當有隣國貢嬪嬙者,善應也。明年,姚興果獻女。

神瑞二年、秋穀登らず、太史令王亮・蘇垣、華陰公主等の言に因り讖書に国家当に鄴に治むべし、大楽五十年に応ずとあり、太宗を勧めて遷都せしむ。浩と特進周澹、太宗に言いて曰く、「今国家鄴に遷都せば、今年の飢を救うべけれども、長久の策に非ず。東州の人は、常に国家広漠の地に居り、民畜算うるに無しと謂い、牛毛の衆と号す。今旧都を留守し、家を分かちて南に徙らば、諸州の地に満たざるを恐る。郡県に参居し、榛林の間に処し、水土に便せず、疾疫死傷し、情見事露すれば、則ち百姓意沮す。四方之を聞き、軽侮の意有らん、屈丐・蠕蠕必ず提挈して来たり、雲中・平城には則ち危殆の慮有らん、恒代千里の険を阻隔し、援を救わんと欲すれども、之に赴く甚だ難し、此くの如くすれば則ち声実倶に損ず。今北方に居り、仮令山東に変有らば、軽騎南に出で、威を桑梓の中に燿し、誰か多少を知らん。百姓之を見て、塵を望みて震服す。此れは国家諸夏を威制するの長策なり。春草生じ、乳酪将に出で、兼ねて菜果有り、来秋に接ぐに足る。若し中熟を得ば、事は則ち済む。」太宗深く然りとし、曰く、「唯だ此の二人、朕が意に同じ。」復た中貴人をして浩・澹に問わしめて曰く、「今既に糊口して来秋に至る無く、来秋或いは復た熟せずんば、将に之を如何せん。」浩等対えて曰く、「窮下の戸を簡べ、諸州に就きて穀せしむべし。若し来秋年に無くんば、願わくは更に図らん。但だ遷都すべからず。」太宗これに従う。ここに於て民を分かちて山東三州に詣り食わしめ、倉穀を出だして之に稟す。来年遂に大熟す。浩・澹に妾各一人、御衣一襲、絹五十匹、綿五十斤を賜う。

原文神瑞二年,秋穀不登,太史令王亮、蘇垣因華陰公主等言讖書國家當治鄴,應大樂五十年,勸太宗遷都。浩與特進周澹言於太宗曰:「今國家遷都於鄴,可救今年之飢,非長久之策也。東州之人,常謂國家居廣漠之地,民畜無算,號稱牛毛之眾。今留守舊都,分家南徙,恐不滿諸州之地。參居郡縣,處榛林之間,不便水土,疾疫死傷,情見事露,則百姓意沮。四方聞之,有輕侮之意,屈丐、蠕蠕必提挈而來,雲中、平城則有危殆之慮,阻隔恒代千里之險,雖欲救援,赴之甚難,如此則聲實俱損矣。今居北方,假令山東有變,輕騎南出,燿威桑梓之中,誰知多少?百姓見之,望塵震服。此是國家威制諸夏之長策也。至春草生,乳酪將出,兼有菜果,足接來秋,若得中熟,事則濟矣。」太宗深然之,曰:「唯此二人,與朕意同。」復使中貴人問浩、澹曰:「今既糊口無以至來秋,來秋或復不熟,將如之何?」浩等對曰:「可簡窮下之戶,諸州就穀,若來秋無年,願更圖也。但不可遷都。」太宗從之,於是分民詣山東三州食,出倉穀以稟之。來年遂大熟。賜浩、澹妾各一人,御衣一襲,絹五十匹,綿五十斤。

初め、姚興の死する前歳、太史奏す:熒惑匏瓜星の中に在り、一夜忽然として亡失し、所在を知らず。或いは下りて危亡の国に入り、将に童謡妖言と為り、而して後その災禍を行わんと謂う。太宗之を聞き、大いに驚き、乃ち諸の碩儒十数人を召し、史官と与にその詣る所を求めしむ。浩対えて曰く、「春秋左氏伝に案ずるに、神莘に降る、その至るの日、各その物を以て祭ると説く。日辰を以て推するを請う。庚午の夕、辛未の朝、天に陰雲有り、熒惑の亡するは、当に此の二日の内に在るべし。庚と未とは、皆秦に主り、辛は西夷と為す。今姚興咸陽に据う、是れ熒惑秦に入るなり。」諸人皆色を為して曰く、「天上星を失う、人安んぞその詣る所を知らん、而して妄りに徴無きの言を説く。」浩笑いて応ぜず。後八十余日、熒惑果たして東井に出で、盤遊を留守し、秦中大旱して赤地と成り、昆明池水竭き、童謡訛言し、国内諠擾す。明年、姚興死し、二子兵を交え、三年にして国滅ぶ。ここに於て諸人皆服して曰く、「及ぶ所に非ず。」

原文初,姚興死之前歲也,太史奏:熒惑在匏瓜星中,一夜忽然亡失,不知所在。或謂下入危亡之國,將為童謠妖言,而後行其災禍。太宗聞之,大驚,乃召諸碩儒十數人,令與史官求其所詣。浩對曰:「案春秋左氏傳說神降于莘,其至之日,各以其物祭也。請以日辰推之,庚午之弘,辛未之朝,天有陰雲,熒惑之亡,當在此二日之內。庚之與未,皆主於秦,辛為西夷。今姚興據咸陽,是熒惑入秦矣。」諸人皆作色曰:「天上失星,人安能知其所詣,而妄說無徵之言。」浩笑而不應。後八十餘日,熒惑果出於東井,留守盤遊,秦中大旱赤地,昆明池水竭,童謠訛言,國內諠擾。明年,姚興死,二子交兵,三年國滅。於是諸人皆服曰:「非所及也。」

泰常元年、司馬徳宗の将劉裕、姚泓を伐たんとし、舟師淮泗より清に入り、河を泝り西上せんと欲し、国に仮道を請う。詔して群臣に議せしむ。外朝の公卿皆曰く、「函谷関は天険と号す。一人戈を荷えば、万夫進むを得ず。裕が舟船歩兵、何ぞ能く西入せん。脱我その後に乗ぜば、還路甚だ難し。若し北上して河岸に至らば、その行為易し。揚言して姚を伐つと雖も、意或いは測り難し。その水道を仮せば、寇は縦すべからず、宜しく先んじて軍を発し河の上流を断ち、西過せしむるなかれ。」又内朝に議すれども、皆外計と同じ。太宗将にこれに従わんとす。浩曰く、「此れ上策に非ず。司馬休之の徒その荊州を擾わし、劉裕切歯来たり久し。今興死し子劣り、その危亡に乗じて之を伐たんとす。臣その意を観るに、必ず関に入らんと欲す。勁躁の人、後患を顧みず。今若しその西路を塞げば、裕必ず上岸して北侵せん。此くの如くすれば則ち姚は事無くして我は敵を受く。今蠕蠕内寇し、民食又乏し、軍を発すべからず。軍を発して南に赴かば則ち北寇進撃し、若し其れ北を救わば則ち東州復た危うし。未だ水道を仮し、裕を縦して西入せしめ、然る後に兵を興してその東帰の路を塞ぐに若かず。所謂卞荘の虎を刺す、両得の勢なり。裕をして勝たしむれば、必ず我が仮道の恵を徳とし、姚氏をして勝たしむれば、亦た隣を救うの名を失わず。縦令裕関中を得るとも、県遠くして守り難く、彼守ること能わず、終に我が物と為らん。今兵馬を労せず、坐して成敗を観、両虎を鬬わしめて長久の利を収むるは、上策なり。夫れ国の計を為すには、利を択びて之を為す。豈に婚姻を顧み、一女子の恵に酬いんや。仮令国家恒山以南を棄つとも、裕必ず能く呉越の兵を発して官軍と河北を争い守ること無からん、居然として知るべし。」議者猶曰く、「裕西入して函谷すれば、則ち進退路窮まり、腹背敵を受く。北上岸すれば則ち姚軍必ず出関して我を助けず。声を揚げて西行し、意は北進に在り、その勢然り。」太宗遂に群議に従い、長孫嵩を遣わして兵を発して之を拒がしめ、畔城に戦い、裕の将朱超石に敗れ、師人多く傷つく。太宗之を聞き、浩の計を用いざりしを恨む。

原文泰常元年,司馬德宗將劉裕伐姚泓,舟師自淮泗入清,欲泝河西上,假道於國。詔羣臣議之。外朝公卿咸曰:「函谷關號曰天險。一人荷戈,萬夫不得進。裕舟船步兵,何能西入?脫我乘其後,還路甚難。若北上河岸,其行為易。揚言伐姚,意或難測。假其水道,寇不可縱,宜先發軍斷河上流,勿令西過。」又議之內朝,咸同外計。太宗將從之。浩曰:「此非上策。司馬休之之徒擾其荊州,劉裕切齒來久。今興死子劣,乘其危亡而伐之,臣觀其意,必欲入關。勁躁之人,不顧後患。今若塞其西路,裕必上岸北侵,如此則姚無事而我受敵。今蠕蠕內寇,民食又乏,不可發軍。發軍赴南則北寇進擊,若其救北則東州復危。未若假之水道,縱裕西入,然後興兵塞其東歸之路,所謂卞莊刺虎,兩得之勢也。使裕勝也,必德我假道之惠;令姚氏勝也,亦不失救隣之名。縱使裕得關中,縣遠難守,彼不能守,終為我物。今不勞兵馬,坐觀成敗,鬬兩虎而收長久之利,上策也。夫為國之計,擇利而為之,豈顧婚姻,酬一女子之惠哉?假令國家棄恒山以南,裕必不能發吳越之兵與官軍爭守河北也,居然可知。」議者猶曰:「裕西入函谷,則進退路窮,腹背受敵;北上岸則姚軍必不出關助我。揚聲西行,意在北進,其勢然也。」太宗遂從羣議,遣長孫嵩發兵拒之,戰於畔城,為裕將朱超石所敗,師人多傷。太宗聞之,恨不用浩計。

二年、司馬徳宗の斉郡太守王懿が降伏して来て、上書して計略を陳べ、劉裕が洛陽に在ると称し、国家に軍を以てその後路を断つべく勧め、そうすれば裕の軍は戦わずして勝つことができると述べた。書が奏上されると、太宗はこれを善しとした。折しも崔浩が御前で進み出て書伝を講じていたので、太宗は浩に問うて言った、「劉裕が西伐し、前軍は既に潼関に至った。この事態はどうか。卿の見るところでは、事は成るか」。浩は答えて言った、「昔、姚興は虚名を養うことを好み、実用はなかった。子の泓はまた病んでおり、衆は叛き親は離れた。裕はその危険に乗じ、兵は精鋭で将は勇猛である。臣の見るところでは、必ずやこれを克つでしょう」。太宗が言うには、「劉裕の武略は慕容垂に比べてどうか」。浩は言う、「裕が勝ります」。太宗、「その様子を試みに言え」。浩、「慕容垂は父祖の代々君主たる資質を乗じ、生まれながらに尊貴であり、同類の者がこれに帰し、夜の蛾が火に赴くが如く、少しでも依拠すれば、直ちに功を立てるに足りた。劉裕は寒微より挺出し、尺土の資に階せず、一卒の用を因ることなく、奮臂大呼して桓玄を夷滅し、北では慕容超を擒え、南では盧循らを摧破し、僭晋が陵遅するに乗じて、遂に国命を執った。裕がもし姚氏を平定して還れば、必ずやその主を簒奪するでしょう。その勢い然りです。秦の地は戎夷が混併し、虎狼の国である。裕もまたこれを守ることはできません。風俗が異なり、人情を変えることは難しく、荊揚の教化を三秦の地に行わんとすることは、譬えば翼なくして飛ばんとし、足なくして走らんとするが如く、得べからざることです。もし衆を留めてこれを守らせれば、必ずや寇に資することとなります。孔子が言う、善人邦を為すこと百年、以て残を勝ち殺を去るべしと。今、秦の難制たるを以て、一二年の間、どうして裕の為し得るところでありましょうか。しばらく戎を治め甲を束ね、民を休め境を備え、その帰るを待つべきです。秦の地もまた終には国の有と為るべきであり、坐して守ることができます」。太宗が言うには、「裕は既に関に入り、進退できぬ。我が精騎を遣わして南の彭城・寿春を襲えば、裕もまたどうして自立できようか」。浩、「今、西北の二寇未だ殄らず、陛下は親しく六師を御すべからず。兵衆は盛んなりといえども、将に韓白なし。長孫嵩は治国の用はあれど、進取の能はなく、劉裕の敵ではありません。臣はこれを待つも遅からずと謂います」。太宗は笑って言った、「卿の量る所は既に審らかである」。浩、「臣は嘗て近世の人物を私に論じ、敢えて上聞に上さざるを得ません。王猛の治国は、苻堅の管仲なり。慕容玄恭(慕容恪)の少主を輔くるは、慕容暐の霍光なり。劉裕の逆乱を平ぐるは、司馬徳宗の曹操なり」。太宗、「卿は先帝を如何と謂うか」。浩、「小人が管を以て懸象を窺う、どうして玄穹の広大を見えましょう。そうではあるが、太祖は漠北の醇樸なる人を用い、南に入って中地に至り、風を変え俗を易え、化を四海に洽くし、自ら羲農と列を斉しくする。臣どうして仰いで名を挙げられましょう」。太宗、「屈丐(赫連勃勃)はどうか」。浩、「屈丐は家国夷滅し、一身孤寄して、姚氏に封殖せられた。党を樹て強隣とし、讐を報い恥を雪がんと思わず、却って蠕蠕に忿りを結び、姚興に徳を背き、撅竪の小人にして大経略なく、ただ残暴をなすに正しく、終には人の滅ぼす所と為るのみです」。太宗は大いに悦び、語りは中夜に至り、浩に御製の縹醪酒十觚、水精の戎塩一両を賜い、言った、「朕、卿の言を味わうに、この塩酒の如し。故に卿とその旨を同じくするのだ」。

原文二年,司馬德宗齊郡太守王懿來降,上書陳計,稱劉裕在洛,勸國家以軍絕其後路,則裕軍可不戰而克。書奏,太宗善之。會浩在前進講書傳,太宗問浩曰:「劉裕西伐,前軍已至潼關。其事如何?以卿觀之,事得濟不?」浩對曰:「昔姚興好養虛名,而無實用。子泓又病,眾叛親離。裕乘其危,兵精將勇,以臣觀之,克之必矣。」太宗曰:「劉裕武能何如慕容垂?」浩曰:「裕勝。」太宗曰:「試言其狀。」浩曰:「慕容垂乘父祖世君之資,生便尊貴,同類歸之,若夜蛾之赴火,少加倚仗,便足立功。劉裕挺出寒微,不階尺土之資,不因一卒之用,奮臂大呼而夷滅桓玄,北擒慕容超,南摧盧循等,僭晉陵遲,遂執國命。裕若平姚而還,必篡其主,其勢然也。秦地戎夷混并,虎狼之國,裕亦不能守之。風俗不同,人情難變,欲行荊揚之化於三秦之地,譬無翼而欲飛,無足而欲走,不可得也。若留眾守之,必資於寇。孔子曰:善人為邦百年,可以勝殘去殺。今以秦之難制,一二年間豈裕所能哉?且可治戎束甲,息民備境,以待其歸,秦地亦當終為國有,可坐而守也。」太宗曰:「裕已入關,不能進退,我遣精騎南襲彭城、壽春,裕亦何能自立?」浩曰:「今西北二寇未殄,陛下不可親御六師。兵眾雖盛,而將無韓白。長孫嵩有治國之用,無進取之能,非劉裕敵也。臣謂待之不晚。」太宗笑曰:「卿量之已審矣。」浩曰:「臣嘗私論近世人物,不敢不上聞。若王猛之治國,苻堅之管仲也;慕容玄恭之輔少主,慕容暐之霍光也;劉裕之平逆亂,司馬德宗之曹操也。」太宗曰:「卿謂先帝如何?」浩曰:「小人管窺懸象,何能見玄穹之廣大。雖然,太祖用漠北醇樸之人,南入中地,變風易俗,化洽四海,自與羲農齊列,臣豈能仰名。」太宗曰:「屈丐何如?」浩曰:「屈丐家國夷滅,一身孤寄,為姚氏封殖。不思樹黨強隣,報讎雪耻,乃結忿於蠕蠕,背德於姚興,撅竪小人,無大經略,正可殘暴,終為人所滅耳。」太宗大悅,語至中夜,賜浩御縹醪酒十觚,水精戎鹽一兩。曰:「朕味卿言,若此鹽酒,故與卿同其旨也。」

三年、彗星が天津より出で、太微に入り、北斗を経て、紫微を絡み、天棓を犯し、八十余日、漢に至って滅びた。太宗は再び諸儒・術士を召して問うて言った、「今天下未だ一ならず、四方岳峙す。災咎の応は、将に何れの国に在るか。朕は甚だこれを畏れる。情を尽くして言え。隠す所あるなかれ」。皆共に浩を推して答えさせた。浩は言った、「古人に言有り、夫れ災異の生ずるは、人より起こると。人に釁なきときは、妖自ら作さず。故に人の下に失うあれば、則ち変は上に見え、天事は恒に象る、百代易わらず。漢書に王莽が位を簒する前に、彗星出入したことを載せるが、正に今と同じである。国家は主尊く臣卑しく、上下序有り、民に異望なし。僭晋は卑削し、主弱く臣強く、累世陵遅したが故に、桓玄に逼奪せられ、劉裕が権を秉ったのである。彗孛は、悪気の生ずる所、これ僭晋将に滅び、劉裕のこれを簒するの応である」。諸人、浩の言を易える者なく、太宗は深くこれを然りとした。五年、裕は果たしてその主司馬徳文を廃して自立した。南の鎮より裕の改元の赦書が上った。時に太宗は東南の潟滷池に幸して鳥を射たが、これを聞き、駅伝で浩を召し、これに謂って言った、「往年卿の言った彗星の占いが験を現した。朕は今日に至って始めて天道を信ずる」。

原文三年,彗星出天津,入太微,經北斗,絡紫微,犯天棓,八十餘日,至漢而滅。太宗復召諸儒術士問之曰:「今天下未一,四方岳峙,災咎之應,將在何國?朕甚畏之,盡情以言,勿有所隱。」咸共推浩令對。浩曰:「古人有言,夫災異之生,由人而起。人無釁焉,妖不自作。故人失於下,則變見於上,天事恒象,百代不易。漢書載王莽篡位之前,彗星出入,正與今同。國家主尊臣卑,上下有序,民無異望。雖僭晉卑削,主弱臣強,累世陵遲,故桓玄逼奪,劉裕秉權。彗孛者,惡氣之所生,是為僭晉將滅,劉裕篡之之應也。」諸人莫能易浩言,太宗深然之。五年,裕果廢其主司馬德文而自立。南鎮上裕改元赦書。時太宗幸東南潟滷池射鳥,聞之,驛召浩,謂之曰:「往年卿言彗星之占驗矣,朕於今日始信天道。」

初め、浩の父が病篤かった時、浩は爪を切り髪を截ち、夜に庭中で斗極を仰ぎ祈り、父のために命を請い、身を以て代わらんことを求め、頭を叩いて血を流し、歳余り止まなかったが、家人に知る者は稀であった。父が終ると、喪に居て礼を尽くし、時に人はこれを称えた。爵の白馬公を襲った。朝廷の礼儀・優文策詔・軍国の書記は、全て浩に関わった。浩は雑説を為すことができたが、文を属するのは長けず、制度・科律及び経術の言に留心した。家祭法を作り、五宗を次序し、蒸嘗の礼、豊儉の節を定め、その義理は観るべきものがあった。性、老荘の書を好まず、読むこと毎に数十行を過ぎざるに、輒ちこれを棄てて言った、「これは矯誣の説にして、人情に近からず、必ずや老子の作ったものではない。老聃は礼を習い、仲尼の師としたる者、豈に敗法の文書を設け、以て先王の教を乱らんや。袁生(袁粲)の所謂、家人の筐篋中の物、王庭に揚ぐべからざるものなり」。

原文初,浩父疾篤,浩乃剪爪截髮,夜在庭中仰禱斗極,為父請命,求以身代,叩頭流血,歲餘不息,家人罕有知者。及父終,居喪盡禮,時人稱之。襲爵白馬公。朝廷禮儀、優文策詔、軍國書記,盡關於浩。浩能為雜說,不長屬文,而留心於制度、科律及經術之言。作家祭法,次序五宗,蒸嘗之禮,豐儉之節,義理可觀。性不好老莊之書,每讀不過數十行,輒棄之,曰:「此矯誣之說,不近人情,必非老子所作。老聃習禮,仲尼所師,豈設敗法文書,以亂先王之教。袁生所謂家人筐篋中物,不可揚於王庭也。」

太宗は常に微恙を抱え、怪異がしばしば現れたため、中貴人をして密かに崔浩に問わせて言うには、「春秋に、星が北斗を孛し、七国の君主は皆咎を受けるとある。今、胃宿・昴宿で日蝕があり、光は尽く趙・代の分野に及ぶ。朕の病は一年を経ても、治療に効果なく、恐らく一朝に急逝するであろう。諸子は皆幼少である。どうしたらよいか。我がために後事を図る計略を設けよ」と。崔浩は言う、「陛下は春秋(年齢)盛んであり、聖業はまさに融和せんとしている。徳をもって災いを除けば、幸いに平癒に至るでしょう。しかも天道は懸遠にして、あるいは消えあるいは応ずるものです。昔、宋の景公は災いを見て徳を修めると、熒惑が退舎した。願わくは陛下は諸々の憂虞を遣わし、恬神保和し、嘉福を納御し、闇昧の説をもって聖思を損なうことなきように。必ずや已むを得ずとせば、請う、瞽言を陳ぜん。聖化が龍興して以来、儲貳を崇めず、このゆえに永興の始め、社稷は危うきに幾かった。今、早く東宮を建て、公卿の中より忠賢にして陛下が平素より委仗する者を選び、師傅と為し、左右の信臣で聖心に簡在する者を以て賓友と充て、内には万機を総べ、外には戎政を統べ、監国撫軍し、六柄を手にせしめよ。もしこのようにすれば、陛下は優遊無為し、神を頤養し、医薬を進御することができましょう。万歳の後、国に成主あり、民に帰する所あれば、則ち姦宄は望みを息め、傍らに覬覦する者無からん。これは万世の令典、禍を塞ぐ大備なり。今、長皇子の燾は、年齢漸く一周し、明叡温和にして、衆情の繫がる所、時に儲副に登らしめれば、則ち天下幸甚なり。子を立てるには長を以てす、礼の大経なり。もし並びに成人を待って択ぶを須いれば、天倫を倒錯し、則ち履霜堅冰の禍を生ぜん。古より以来、載籍の記す所、興衰存亡は、尠からずこれより由る」と。太宗はこれを納れた。ここにおいて崔浩をして策を奉じて宗廟に告げしめ、世祖を国副主と命じ、正殿に居て朝に臨ませた。司徒の長孫嵩・山陽公の奚斤・北新公の安同は左輔と為り、東廂に坐して西面し、崔浩と太尉の穆観・散騎常侍の丘堆は右弼と為り、西廂に坐して東面した。百僚は己を総べてこれを聴いた。太宗は西宮に避居し、時に隠れてこれを窺い、その決断を聴き、大いに悦び、左右の侍臣に謂って言うには、「長孫嵩は宿徳の旧臣、四世に歴事し、功は社稷に存す。奚斤は弁捷智謀、名は遐邇に聞こゆ。安同は俗情を暁解し、事に明練なり。穆観は政要に達し、吾が旨趣を識る。崔浩は博聞強識、天人の会に精し。丘堆は大用無きも、然れども公に在りて専謹なり。この六人を以て輔相せしめ、吾は汝曹と四境を遊行し、叛を伐ち服を柔らげ、天下に志を得ん」と。群臣が時に疑わしきを奏すと、太宗は言う、「これは我の知る所に非ず、決すべくは汝曹の国主なり」と。

原文太宗恒有微疾,怪異屢見,乃使中貴人密問於浩曰:「春秋:星孛北斗,七國之君皆將有咎。今茲日蝕於胃昂,盡光趙代之分野,朕疾彌年,療治無損,恐一旦奄忽,諸子並少,將如之何?其為我設圖後之計。」浩曰:「陛下春秋富盛,聖業方融,德以除災,幸就平愈。且天道懸遠,或消或應。昔宋景見災修德,熒惑退舍。願陛下遣諸憂虞,恬神保和,納御嘉福,無以闇昧之說,致損聖思。必不得已,請陳瞽言。自聖化龍興,不崇儲貳,是以永興之始,社禝幾危。今宜早建東宮,選公卿忠賢陛下素所委仗者使為師傅,左右信臣簡在聖心者以充賓友,入總萬機,出統戎政,監國撫軍,六柄在手。若此,則陛下可以優遊無為,頤神養壽,進御醫藥。萬歲之後,國有成主,民有所歸,則姦宄息望,旁無覬覦。此乃萬世之令典,塞禍之大備也。今長皇子燾,年漸一周,明叡溫和,眾情所繫,時登儲副,則天下幸甚。立子以長,禮之大經。若須並待成人而擇,倒錯天倫,則生履霜堅冰之禍。自古以來,載籍所記,興衰存亡,尠不由此。」太宗納之。於是使浩奉策告宗廟,命世祖為國副主,居正殿臨朝。司徒長孫嵩、山陽公奚斤、北新公安同為左輔,坐東廂西面;浩與太尉穆觀、散騎常侍丘堆為右弼,坐西廂東面。百僚總己以聽焉。太宗避居西宮,時隱而窺之,聽其決斷,大悅,謂左右侍臣曰:「長孫嵩宿德舊臣,歷事四世,功存社禝;奚斤辯捷智謀,名聞遐邇;安同曉解俗情,明練於事;穆觀達於政要,識吾旨趣;崔浩博聞強識,精於天人之會;丘堆雖無大用,然在公專謹。以此六人輔相,吾與汝曹遊行四境,伐叛柔服,可得志於天下矣。」羣臣時奏所疑,太宗曰:「此非我所知,當決之汝曹國主也。」

ちょうど劉裕の死を聞き、太宗は洛陽・虎牢・滑臺を取らんとした。崔浩は言う、「陛下は劉裕が歘起したことを以てせず、その使貢を納れ、裕もまた陛下を敬事しました。不幸にも今死せり。喪に乗じてこれを伐つは、たとえ得るとも令しからず。春秋に、晋の士丐が師を帥いて斉を侵し、斉侯の卒すを聞き、乃ち還ったとある。君子はその喪を伐たざるを大とし、恩は孝子を感ぜしむるに足り、義は諸侯を動かすに足ると為す。今、国家もまた一挙にして江南を定めることはできず、宜しく人を遣わして弔祭し、その孤弱を存し、その凶災を恤み、義風を天下に布くは、徳を令する事なり。もしこのようにすれば、則ち化は荊揚に被り、南金・象歯・羽毛の珍は、求めずして自ずから至らん。裕は新たに死し、党与は未だ離れず、兵をその境に臨めば、必ず相率いて拒戦し、功は必ずしも得られず、緩やかにするに如かず、その悪の熟するを待て。もしその強臣が権を争わば、変難必ず起こらん。然る後に将を命じて威を揚げれば、士卒を労せずして淮北の地を収めん」と。太宗は鋭意南伐し、崔浩を詰めて言う、「劉裕は姚興の死に因ってその国を滅ぼした。裕の死に我が伐つは、何を以て不可と為すか」と。崔浩は固執して言う、「興が死し、二子交争したので、裕は乃ちこれを伐ったのです」と。太宗は大いに怒り、崔浩の言に従わず、遂に奚斤を遣わして南伐させた。監国の前で議して言うには、「先に城を攻むるか?先に地を略するか?」と。奚斤は言う、「請う、先に城を攻めん」と。崔浩は言う、「南人は城を守るに長じ、苻氏が襄陽を攻め、一年を経ても抜けず。今、大国の力を以てその小城を攻め、もし時に克たずんば、軍勢を挫損し、敵は徐々に厳しくして来らん。我は怠り彼は鋭し、危き道なり。軍を分けて地を略し、淮を限りと為し、守宰を列置し、租穀を収歛するに如かず。滑臺・虎牢は反って軍の北に在り、南の救いを望み絶たれ、必ず河に沿って東走せん。もし或いは然らずんば、即ち是れ囿中の物なり」と。公孫表は先ずその城を図らんことを請うた。奚斤らは河を済り、先ず滑臺を攻め、時を経ても抜けず、表は師を済すことを請うた。太宗は怒り、乃ち親しく南巡した。崔浩を相州刺史に拝し、左光禄大夫を加え、軍に随って謀主と為した。

原文會聞劉裕死,太宗欲取洛陽、虎牢、滑臺。浩曰:「陛下不以劉裕歘起,納其使貢,裕亦敬事陛下。不幸今死,乘喪伐之,雖得之不令。春秋:晉士丐帥師侵齊,聞齊侯卒,乃還。君子大其不伐喪,以為恩足以感孝子,義足以動諸侯。今國家亦未能一舉而定江南,宜遣人弔祭,存其孤弱,恤其凶災,布義風於天下,令德之事也。若此,則化被荊揚,南金象齒羽毛之珍,可不求而自至。裕新死,黨與未離,兵臨其境,必相率拒戰,功不可必,不如緩之,待其惡稔。如其強臣爭權,變難必起,然後命將揚威,可不勞士卒,而收淮北之地。」太宗銳意南伐,詰浩曰:「劉裕因姚興死而滅其國,裕死我伐之,何為不可?」浩固執曰:「興死,二子交爭,裕乃伐之。」太宗大怒,不從浩言,遂遣奚斤南伐。議於監國之前曰:「先攻城也?先略地也?」斤曰:「請先攻城。」浩曰:「南人長於守城,苻氏攻襄陽,經年不拔。今以大國之力攻其小城,若不時克,挫損軍勢,敵得徐嚴而來。我怠彼銳,危道也。不如分軍略地,至淮為限,列置守宰,收歛租穀。滑臺、虎牢反在軍北,絕望南救,必沿河東走。若或不然,即是囿中之物。」公孫表請先圖其城。斤等濟河,先攻滑臺,經時不拔,表請濟師。太宗怒,乃親南巡。拜浩相州刺史,加左光祿大夫,隨軍為謀主。

車駕の還るに及び、崔浩は太宗に従って西河・太原に幸す。高陵の上に登り憚り、下は河流に臨み、傍らに川域を覧て、慨然として感有り、遂に同僚と五等郡県の是非を論じ、秦始皇・漢武帝の違失を考う。古を好み治を識り、時にその言を伏す。天師の寇謙之は毎に崔浩と語り、その古の治乱の迹を論ずるを聞き、常に夜より旦に達し、意を竦め容を斂めて、懈倦する所無し。既にしてこれを歎美して言うには、「この言は恵みなり、皆な底行すべく、また当今の皐繇なり。但だ世人は遠きを貴び近きを賤しみ、深くこれを察する能わざるのみ」と。因って崔浩に謂って言うには、「吾は行道隠居し、世務を営まず、忽ち神中の訣を受く。兼ねて儒教を修め、泰平真君を輔助し、千載の絶統を継がんとす。而るに学びて古を稽えず、事に臨みて闇昧なり。卿、吾がために王者の治典を撰列し、併せてその大要を論ぜよ」と。崔浩は乃ち書二十余篇を著し、上は太初を推し、下は秦漢の変弊の迹を尽くし、大旨は先ず五等を復するを本と為す。

原文及車駕之還也,浩從太宗幸西河、太原。登憇高陵之上,下臨河流,傍覽川域,慨然有感,遂與同僚論五等郡縣之是非,考秦始皇、漢武帝之違失。好古識治,時伏其言。天師寇謙之每與浩言,聞其論古治亂之迹,常自夜達旦,竦意斂容,無有懈倦。既而歎美之曰:「斯言也惠,皆可底行,亦當今之皐繇也。但世人貴遠賤近,不能深察之耳。」因謂浩曰:「吾行道隱居,不營世務,忽受神中之訣,當兼修儒教,輔助泰平真君,繼千載之絕統。而學不稽古,臨事闇昧。卿為吾撰列王者治典,并論其大要。」浩乃著書二十餘篇,上推太初,下盡秦漢變弊之迹,大旨先以復五等為本。

世祖即位す。左右は崔浩の正直を忌み、共に排毀す。世祖はその能を知るも、群議を免れず、故に崔浩を出し、公として第に帰らしむ。疑議有るに及び、召して問う。崔浩は繊妍潔白にして、美婦人の如し。而して性は敏達、謀計に長ず。常に張良に自比し、己の稽古はこれを過ぐると謂う。第に帰るを得てより、因って服食養性の術を修めんと欲す。而して寇謙之に神中録図新経有り、崔浩は因ってこれを師とす。

原文世祖即位,左右忌浩正直,共排毀之。世祖雖知其能,不免羣議,故出浩,以公歸第。及有疑議,召而問焉。浩纖妍潔白,如美婦人。而性敏達,長於謀計。常自比張良,謂己稽古過之。既得歸第,因欲修服食養性之術,而寇謙之有神中錄圖新經,浩因師之。

始光の中、爵を進めて東郡公と為し、太常卿を拝す。時に赫連昌を討つことを議す。群臣は皆な難しと為すも、唯だ崔浩のみ言う、「往年より以来、熒惑再び羽林を守り、皆な鈎己を成し、その占いは秦の亡ぶるなり。また今年五星並び出でて東方に在り、西伐に利あり。天応人和、時会並び集る、失うべからざるなり」と。世祖は乃ち奚斤らをして蒲坂を撃たしめ、而して親しく軽騎を率いてその都城を襲い、大いに獲て還る。世祖が復た昌を討つに及び、その城下に次し、衆を収めて偽り退く。昌は鼓譟して前し、陣を舒けて両翼と為す。時に風雨有りて東南より来たり、沙を揚げて昏冥す。宦者の趙倪進みて言う、「今、風雨賊の後より来たり、我は彼に向かい彼は背く、天人の助けず。また将士飢渇す。願わくは陛下騎を摂めてこれを避け、更に後日を待たん」と。崔浩これを叱して言う、「是れ何の言ぞや!千里制勝、一日の中豈に変易を得んや?賊は前行止まず、後は已に離絶せり。宜しく軍を分けて隠然と出で、奄かに撃って不意にせよ。風道は人に在り、豈に常有らんや!」と。世祖は言う、「善し」と。騎を分かち奮撃し、昌の軍大いに潰る。

原文始光中,進爵東郡公,拜太常卿。時議討赫連昌,羣臣皆以為難,唯浩曰:「往年以來,熒惑再守羽林,皆成鈎己,其占秦亡。又今年五星併出東方,利以西伐。天應人和,時會並集,不可失也。」世祖乃使奚斤等擊蒲坂,而親率輕騎襲其都城,大獲而還。及世祖復討昌,次其城下,收眾偽退。昌鼓譟而前,舒陣為兩翼。會有風雨從東南來,揚沙昏冥。宦者趙倪進曰:「今風雨從賊後來,我向彼背,天不助人。又將士飢渴,願陛下攝騎避之,更待後日。」浩叱之曰:「是何言歟!千里制勝,一日之中豈得變易?賊前行不止,後已離絕,宜分軍隱出,奄擊不意。風道在人,豈有常也!」世祖曰「善」。分騎奮擊,昌軍大潰。

初めに、太祖(道武帝)は尚書郎の鄧淵に詔して国記十余巻を著わさせたが、編年体で事を次ぐも、体例は未だ完成せず。太宗(明元帝)に至り、廃して述べず。神䴥二年、諸文人を集めて国書を撰録することを詔し、崔浩及びその弟の崔覧、高讜、鄧穎、晁継、范亨、黄輔らが共に著作に参じ、国書三十巻を叙成した。

原文初,太祖詔尚書郎鄧淵著國記十餘卷,編年次事,體例未成。逮于太宗,廢而不述。神䴥二年,詔集諸文人撰錄國書,浩及弟覽、高讜、鄧穎、晁繼、范亨、黃輔等共參著作,敍成國書三十卷。

この年、蠕蠕(柔然)を撃つことを議し、朝臣内外は皆行きたがらず、保太后が固く世祖(太武帝)を止めたが、世祖は皆聴かず、ただ崔浩のみが策略に賛成した。尚書令の劉潔、左僕射の安原らは、黄門侍郎の仇齊に赫連昌の太史である張淵・徐辯を推させて世祖に説かせた。「今年は己巳、三陰の歳であり、歳星が月を襲い、太白は西方にある。兵を挙ぐべからず。北伐は必ず敗れ、たとえ克っても上(天子)に利あらず」と。また群臣共に淵らに賛同し、「淵は少時に嘗て苻堅に南征すべからずと諫めたが、堅は従わずして敗れた。今、天時人事ともに和協せず、どうして挙動できようか」と言った。世祖は決意が定まらず、乃ち崔浩を召して淵らと弁論させた。

原文是年,議擊蠕蠕,朝臣內外盡不欲行,保太后固止世祖,世祖皆不聽,唯浩讚成策略。尚書令劉潔、左僕射安原等乃使黃門侍郎仇齊推赫連昌太史張淵、徐辯說世祖曰:「今年己巳,三陰之歲,歲星襲月,太白在西方,不可舉兵。北伐必敗,雖克,不利於上。」又羣臣共贊和淵等,云淵少時嘗諫苻堅不可南征,堅不從而敗。今天時人事都不和協,何可舉動!世祖意不決,乃召浩令與淵等辯之。

崔浩は張淵を難じて言った。「陽は徳なり、陰は刑なり。故に日蝕には徳を修め、月蝕には刑を修む。王者の刑を用いるや、大なるは則ちこれを原野に陳べ、小なるは則ちこれを市朝に肆す。戦伐は、刑を用いる大なる者なり。これをもって言えば、三陰に兵を用いるは、蓋しその類を得たるもの、刑を修むの義なり。歳星月を襲うは、年飢えて民流る、応は他国にあり、遠き期は十二年なり。太白倉龍宿を行くは、天文において東に在り、北伐を妨げず。淵らは俗生にして、志意浅近、小数に牽かれ、大体に達せず、遠図と謀り難し。臣が天文を観るに、比年以来、月行昴を奄し、今に至るも猶然たり。その占いは『三年にして、天子大いに旄頭の国を破る』と。蠕蠕・高車は、旄頭の衆なり。聖明時に御するは、非常の事を行い得る。古人の語に曰く『非常の原、黎民懼る、その成功に及びて、天下晏然たり』と。願わくは陛下疑うことなかれ」。淵らは慚じて言った。「蠕蠕は荒外の無用の物、その地を得ても耕して食うべからず、その民を得ても臣として使うべからず。軽疾にして常なく、得て制し難し。何ぞ汲々として士馬を苦労せしむるや」。浩曰く、「淵が天時を言うは、これその職とする所、形勢を論ずるは、彼の知る所に非ず。これは漢世の旧説常談にして、今に施すに、事宜に合わず。何をもってかこれを言う。夫れ蠕蠕は、旧は国家の北辺の叛隷、今その元悪を誅し、その善民を収め、旧役に復せしむるは、無用に非ず。漠北は高涼にして蚊蚋生ぜず、水草美善、夏は則ち北に遷る。その地を田牧するは、耕して食うべからざるに非ず。蠕蠕の子弟来降するは、貴き者は尚公主し、賤しき者は将軍・大夫となり、朝列に満ちて居る。又た高車は名騎と号す、臣として畜うべからざるに非ず。南人をもってこれを追えば、則ちその軽疾を患うも、国兵においては然らず。何となれば、彼遠く走る能く、我も亦た遠く逐う能く、これと進退するは、制し難きに非ず。且つ蠕蠕は往時数たび国に入り、民吏震驚す。今夏虚に乗じて掩い進まず、その国を破滅せずんば、秋に至りて復来り、安臥を得ず。太宗の世より今日に至るまで、歳として驚かざるは無し。豈に汲々たらざらんや。世人皆淵・辯は数術に通解し、成敗を明決すと謂う。臣請う試みにこれを問わん、西国(夏)未だ滅びざる前に何の亡徴有りやと。知りて言わざれば、これその不忠、若し実に知らざれば、これその無術なり」。時に赫連昌座に在り、淵らは先言無きを以て、慚赧して対うる能わず。世祖大いに悦び、公卿に謂いて曰く、「吾が意決せり。亡国の師は与に謀るべからず、信なるかな」。而して保太后猶これを難じ、復た群臣をして保太后の前に於いて評議せしむ。世祖、浩に謂いて曰く、「此ら意猶伏せず、卿善くこれを曉して悟らしめよ」。

原文浩難淵曰:「陽者,德也;陰者,刑也。故日蝕修德,月蝕修刑。夫王者之用刑,大則陳諸原野,小則肆之市朝。戰伐者,用刑之大者也。以此言之,三陰用兵,蓋得其類,修刑之義也。歲星襲月,年飢民流,應在他國,遠期十二年。太白行倉龍宿,於天文為東,不妨北伐。淵等俗生,志意淺近,牽於小數,不達大體,難與遠圖。臣觀天文,比年以來,月行奄昴,至今猶然。其占:『三年,天子大破旄頭之國。』蠕蠕、高車,旄頭之眾也。夫聖明御時,能行非常之事。古人語曰:『非常之原,黎民懼焉,及其成功,天下晏然。』願陛下勿疑也。」淵等慚而言曰:「蠕蠕,荒外無用之物,得其地不可耕而食,得其民不可臣而使,輕疾無常,難得而制,有何汲汲而苦勞士馬也?」浩曰:「淵言天時,是其所職,若論形勢,非彼所知。斯乃漢世舊說常談,施之於今,不合事宜也。何以言之?夫蠕蠕者,舊是國家北邊叛隸,今誅其元惡,收其善民,令復舊役,非無用也。漠北高涼,不生蚊蚋,水草美善,夏則北遷。田牧其地,非不可耕而食也。蠕蠕子弟來降,貴者尚公主,賤者將軍、大夫,居滿朝列,又高車號為名騎,非不可臣而畜也。夫以南人追之,則患其輕疾,於國兵則不然。何者?彼能遠走,我亦能遠逐,與之進退,非難制也。且蠕蠕往數入國,民吏震驚。今夏不乘虛掩進,破滅其國,至秋復來,不得安臥。自太宗之世,迄於今日,無歲不驚,豈不汲汲乎哉!世人皆謂淵、辯通解數術,明決成敗。臣請試之,問其西國未滅之前有何亡徵。知而不言,是其不忠;若實不知,是其無術。」時赫連昌在座,淵等自以無先言,慚赧而不能對。世祖大悅,謂公卿曰:「吾意決矣。亡國之師不可與謀,信矣哉。」而保太后猶難之,復令羣臣於保太后前評議。世祖謂浩曰:「此等意猶不伏,卿善曉之令悟。」

既に朝を罷みて、或る者浩を尤めて曰く、「今呉賊南に寇すもこれを捨てて北伐す。師を千里に行かしむ、その誰か知らざらん。若し蠕蠕遠く遁れば、前に獲る所無く、後に南賊の患い有り、危きの道なり」。浩曰く、「然らず。今年蠕蠕を摧かずんば、則ち以て南賊を禦ぐこと無からん。国家西国を并せしより以来、南人恐懼し、声を揚げて衆を動かし以て淮北を衞う。彼は北に我は南に、彼は労し我は息う、その勢然りなり。比くに蠕蠕を破る、往還の間、故にその至るを見ざるなり。何をもってかこれを言う。劉裕関中を得て、その愛子を留め、精兵数万、良将勁卒、猶固守すること能わず、挙軍尽く没す。号哭の声、今に至るまで未だ已まず。如何ぞ正に国家休明の世、士馬強盛の時に当たりて、駒犢を以て虎口に歯せんと欲するや。設令国家これに河南を与うとも、彼必ずこれを守る能わず。自ら量りて守る能わざるを以て、是をもって必ず来らざるなり。若し或いは衆有らば、辺を備うるの軍のみ。瓶水の凍るを見て、天下の寒きを知り、肉一臠を嘗めて、鑊中の味を識る。物その類有り、推して得べし。且つ蠕蠕はその絶遠を恃み、国家力至る能わずと謂い、自ら寛ぐこと久し、故に夏は則ち衆を散じ畜を放ち、秋肥えて乃ち聚まり、寒に背き温に向かい、南来り寇抄す。今その慮表に出で、その不備を攻む。大軍卒然として至れば、必ず驚駭星分し、塵を望んで奔走せん。牡馬は群を護り、牝馬は駒を恋い、駆馳制し難く、水草を得ず、数日を過ぎざれば則ち聚まりて困敝す、一挙にして滅ぼすべし。暫く労して永く逸す、長久の利、時失うべからず。唯だ上に此の意無きを患う、今聖慮已に決し、曠世の謀を発す、如何ぞこれを止めん。陋なるかな、公卿らよ」。諸軍遂に行く。天師(寇謙之)、浩に謂いて曰く、「この行や、これを如何、果たして克つべしや」。浩対えて曰く、「天時形勢、必ず克つこと疑い無し。但だ諸将瑣瑣たるを恐る、前後顧慮し、勝に乗じて深く入る能わず、全挙せしめざるを」。

原文既罷朝,或有尤浩者曰:「今吳賊南寇而舍之北伐。行師千里,其誰不知。若蠕蠕遠遁,前無所獲,後有南賊之患,危之道也。」浩曰:「不然。今年不摧蠕蠕,則無以禦南賊。自國家并西國以來,南人恐懼,揚聲動眾以衞淮北。彼北我南,彼勞我息,其勢然矣。比破蠕蠕,往還之間,故不見其至也。何以言之?劉裕得關中,留其愛子,精兵數萬,良將勁卒,猶不能固守,舉軍盡沒。號哭之聲,至今未已。如何正當國家休明之世,士馬強盛之時,而欲以駒犢齒虎口也?設令國家與之河南,彼必不能守之。自量不能守,是以必不來。若或有眾,備邊之軍耳。夫見瓶水之凍,知天下之寒;嘗肉一臠,識鑊中之味。物有其類,可推而得也。且蠕蠕恃其絕遠,謂國家力不能至,自寬來久,故夏則散眾放畜,秋肥乃聚,背寒向溫,南來寇抄。今出其慮表,攻其不備。大軍卒至,必驚駭星分,望塵奔走。牡馬護群,牝馬戀駒,驅馳難制,不得水草,未過數日則聚而困敝,可一舉而滅。暫勞永逸,長久之利,時不可失也。唯患上無此意,今聖慮已決,發曠世之謀,如何止之?陋矣哉,公卿也!」諸軍遂行。天師謂浩曰:「是行也,如之何,果可克乎?」浩對曰:「天時形勢,必克無疑。但恐諸將瑣瑣,前後顧慮,不能乘勝深入,使不全舉耳。」

軍その境に入るに及び、蠕蠕は先だって設備せず、民畜野に布き、驚怖四散し、相収摂する莫し。ここにおいて軍を分かちて捜討し、東西五千里、南北三千里、凡そ俘虜せし所及び獲たる畜産車廬、山澤に瀰漫し、蓋し数百万。高車蠕蠕の種類を殺し、帰降する者三十余万落。虜遂に散乱す。世祖弱水に沿いて西行し、涿邪山に至る。諸大将果たして深く入れば伏兵有りやと疑い、世祖を勧めて停止し追わず。天師、浩の曩日の言を以て、固く世祖を勧めて窮討せしむも、聴かず。後に降人有りて言う、蠕蠕の大檀は先に疾を被り、為す所を知らず、乃ち穹廬を焚焼し、科車に自ら載せ、数百人を将いて山南に走る。民畜窘聚し、方六十里の中、人領統する無し。相去ること百八十里、追軍至らず、乃ち徐徐として西に遁る、唯だ此れを得て免る。後に涼州の賈胡の言を聞くに、若し復た前行すること二日なば、則ち尽くこれを滅ぼし得たりと。世祖深くこれを恨む。大軍既に還り、南賊竟に動く能わず、浩の量る所の如し。

原文及軍入其境,蠕蠕先不設備,民畜布野,驚怖四奔,莫相收攝。於是分軍搜討,東西五千里,南北三千里,凡所俘虜及獲畜產車廬,彌漫山澤,蓋數百萬。高車殺蠕蠕種類,歸降者三十餘萬落。虜遂散亂矣。世祖沿弱水西行,至涿邪山,諸大將果疑深入有伏兵,勸世祖停止不追。天師以浩曩日之言,固勸世祖窮討,不聽。後有降人,言蠕蠕大檀先被疾,不知所為,乃焚燒穹廬,科車自載,將數百人入山南走。民畜窘聚,方六十里中,無人領統。相去百八十里,追軍不至,乃徐徐西遁,唯此得免。後聞涼州賈胡言,若復前行二日,則盡滅之矣。世祖深恨之。大軍既還,南賊竟不能動,如浩所量。

浩は天文に明るく、星の変化を観察することを好んだ。常に金銀銅の鋌を酢の器の中に入れて青くさせ、夜に何か見えることがあれば、すぐに鋌で紙に字を書き記してその異変を記録した。世祖はたびたび浩の邸宅に行幸し、多く異事について尋ねた。ある時は急なことで帯を締める暇もなく、野菜の食事を進上し、精美を整える暇もなかった。世祖は匙や箸を取って食べ、あるいは立ったまま味わってすぐに帰った。その寵愛はこのようなものであった。そこで浩を引き入れて寝所に出入りさせ、侍中・特進・撫軍大将軍・左光禄大夫を加え、謀略の功を賞した。世祖はゆったりと浩に言った、「卿の才智は淵博であり、朕の祖父・父に仕え、忠誠は三代にわたって顕著である。朕は故に卿を近くに引き寄せた。思う存分に規諫を尽くし、朕を補佐し輔弼せよ。隠しごとはするな。朕はたとえその時に怒りを遷すことがあっても、もし用いないことがあれば、長い時を経て卿の言を深く考えぬことはない。」そこで歌工に命じて群臣を順に称えさせた。事は長孫道生伝にある。また新たに降伏した高車の渠帥数百人を召し出し、面前で酒食を賜った。世祖は浩を指して彼らに示し、言った、「汝らはこの人を見よ。痩せて弱々しく、手で弓を引き矛を持つことはできないが、その胸に抱くところは、甲冑と兵器を超えている。朕は初め征討の意図はあったが、自ら決断できずに悩んでいた。前後にわたる勝利は、皆この人が朕を導いてここまで至らしめたのである。」そこで諸尚書に命じて言った、「およそ軍国大計で、卿らが決められないものは、皆まず浩に諮問し、それから施行せよ。」

原文浩明識天文,好觀星變。常置金銀銅鋌於酢器中,令青,夜有所見即以鋌畫紙作字以記其異。世祖每幸浩第,多問以異事。或倉卒不及束帶,奉進蔬食,不暇精美。世祖為舉匕箸,或立嘗而旋。其見寵愛如此。於是引浩出入臥內,加侍中、特進、撫軍大將軍、左光祿大夫,賞謀謨之功。世祖從容渭浩曰:「卿才智淵博,事朕祖考,忠著三世,朕故延卿自近。其思盡規諫,匡予弼予,勿有隱懷。朕雖當時遷怒,若或不用,久久可不深思卿言也。」因令歌工歷頌群臣,事在長孫道生傳。又召新降高車渠帥數百人,賜酒食於前。世祖指浩以示之,曰:「汝曹視此人,尫纖懦弱,手不能彎弓持矛,其胸中所懷,乃踰於甲兵。朕始時雖有征討之意,而慮不自決,前後克捷,皆此人導吾令至此也。」乃敕諸尚書曰:「凡軍國大計,卿等所不能決,皆先諮浩,然後施行。」

まもなく南方の諸将が上表して、劉義隆が大いに軍備を整え、河南を侵犯しようとしていると述べ、兵三万を請い、彼が未だ発する前に迎撃し、それに乗じて境界上にある河北の流民を誅殺し、その道案内を絶ち、その鋭気を挫き、深入りさせないようにするに足りるとした。詔して公卿に議させると、皆許すべきと言った。浩は言った、「これは従うべきではない。往年、国家は蠕蠕を大破し、馬力に余裕がある。南賊は震え恐れ、常に軽兵が突然到来することを恐れ、寝床でも安らかでなく、故に先に声勢を挙げて衆を動かし、不測の事態に備えているのであって、敢えて先に発するものではない。また南方の土地は低湿で、夏の月は蒸し暑く、水害がちょうど多く、草木は深く茂り、疫病が必ず起こり、軍を動かす時ではない。しかも彼らは先に軍備を整えており、必ず堅城を固守するであろう。軍を屯させて攻めれば、食糧が供給できず;兵を分けて討伐すれば、敵に対応する術がない。その利益は見られない。仮に来ることができたとしても、その疲労を待ち、秋の涼しさで馬が肥え、敵に因って食糧を奪い、ゆっくりと進んでこれを撃つのが万全の計であり、勝利は必ず得られるであろう。朝廷の群臣および西北の守将は、陛下に従って征討し、西では赫連を滅ぼし、北では蠕蠕を破り、多くの美女珍宝を得、馬や家畜は群れをなしている。南方の諸将はこれを聞いて羨み、また南方を掠めて資財を取ろうと欲している。それ故に毛を分けて瑕を求め、妄りに賊の勢いを誇張し、思いのままにしたいと望んでいるのである。聞き入れられないと、故にしばしば賊の動きを称え、朝廷を恐れさせている。公を背き私を存し、国のために事を生じさせるのは、忠臣ではない。」世祖は浩の議に従った。南方の諸将は再び上表して賊が到来したとし、自ら兵が少ないと陳べ、幽州以南の戍兵を選んで守備を助けさせ、漳水で船を造り、厳重に備えとするよう求めた。公卿の議する者は皆そうであり、騎兵五千を派遣し、さらに司馬楚之・魯軌・韓延之らに仮の官職を与え、辺境の民を誘引させようとした。浩は言った、「上策ではない。彼らは幽州以南の精兵が悉く出動し、大いに舟船を造り、軽騎が後ろにいることを聞けば、司馬氏を存立させ、劉氏の一族を誅除しようとしていると思い、必ず国を挙げて驚き騒ぎ、滅亡を恐れ、精鋭を悉く発して北方の境を備えるであろう。後になって官軍が声だけで実がないと知れば、先に集まったことを恃み、必ず喜んで前進し、まっすぐに黄河まで来て、侵暴をほしいままにし、我が守将はこれを防ぐ術がない。もし彼らに機を見る者がいて、巧みに権謀術数を設け、隙に乗じて深入りし、我が国の空虚を虞れば、変乱を生じさせるのは難しくなく、敵を制する良計ではない。今、公卿が威力をもって賊を撃退しようとするのは、かえって彼らを招いて速やかに来させようとするものである。虚声を張って実害を招くとは、このことを言うのである。考えないわけにはいかず、後悔しても及ばない。我が方の使者は彼の地にいて、四月前に帰還する予定である。使者が至るのを待ち、詳しく確かめてから発すれば、まだ遅くはない。かつ楚之の徒は、彼らが忌むところであり、その国を奪おうとするのである。彼らがどうして端座してこれを見ていられようか。故に楚之が行けば彼らは来り、止まれば彼らはやむ。その勢いはそうなるのである。かつ楚之らは取るに足らない才能で、軽薄な無頼の徒を招き集めることはできても、大功を成し遂げることはできない。国のために事を生じさせ、兵禍を連鎖させるのは、必ずこのような連中である。臣はかつて魯軌が姚興に求めて荊州に入ったが、到着すると散り敗れ、ついには蛮賊に掠められて奴隷として売られ、禍が姚泓に及んだことを聞いた。これは既に現れた効果である。」浩はまた天時が彼らに不利であることを陳べた、「今年は害気が揚州にあり、先に兵を挙げるのに宜しくない。これが一つ。午の年は自らを刑する年であり、先に発する者は傷つく。これが二つ。日蝕が光を滅ぼし、昼間が暗く星が見え、飛ぶ鳥が落ち、宿が斗牛に値し、危亡を憂うべきである。これが三つ。熒惑が翼軫に伏匿し、乱と喪を戒めている。これが四つ。太白が未だ出ず、進兵する者は敗れる。これが五つ。国を興す君主は、まず人事を修め、次に地利を尽くし、後に天時を観る。故に万回挙げても万回全うし、国は安らかで身は盛んとなる。今、義隆の国は新しく、人事が未だ行き届いていない。災変が屡々現れるのは、天時が調和していない。舟を行わせるのに水が涸れるのは、地利を尽くしていない。三つの事のうち一つも成らず、自ら守るのでさえ不安であるのに、どうして先に発して人を攻められようか?彼らは必ず我が虚声を聞いて厳重に備え、我らもまた彼らの厳重な備えに乗じて動く。両者共にその咎を推し、皆自らが敵に対応していると思う。兵法では災いを分かち、害気を受けるのを迎えるべきであり、挙動すべきではない。」

原文俄而南藩諸將表劉義隆大嚴,欲犯河南。請兵三萬,先其未發逆擊之,因誅河北流民在界上者,絕其鄉導,足以挫其銳氣,使不敢深入。詔公卿議之,咸言宜許。浩曰:「此不可從也。往年國家大破蠕蠕,馬力有餘,南賊震懼,常恐輕兵奄至,臥不安席,故先聲動眾,以備不虞,非敢先發。又南土下濕,夏月蒸暑,水潦方多,草木深邃,疾疫必起,非行師之時。且彼先嚴有備,必堅城固守。屯軍攻之,則糧食不給;分兵肆討,則無以應敵。未見其利。就使能來,待其勞倦,秋涼馬肥,因敵取食,徐往擊之,萬全之計,勝必可克。在朝群臣及西北守將,從陛下征討,西滅赫連,北破蠕蠕,多獲美女珍寶,馬畜成群。南鎮諸將聞而生羨,亦欲南抄,以取資財。是以披毛求瑕,妄張賊勢,冀得肆心。既不獲聽,故數稱賊動,以恐朝廷。背公存私,為國生事,非忠臣也。」世祖從浩議。南鎮諸將復表賊至,而自陳兵少,簡幽州以南戍兵佐守,就漳水造船,嚴以為備。公卿議者僉然,欲遣騎五千,并假署司馬楚之、魯軌、韓延之等,令誘引邊民。浩曰:「非上策也。彼聞幽州已南精兵悉發,大造舟船,輕騎在後,欲存立司馬,誅除劉族,必舉國駭擾,懼於滅亡,當悉發精銳,來備北境。後審知官軍有聲無實,恃其先聚,必喜而前行,徑來至河,肆其侵暴,則我守將無以禦之。若彼有見機之人,善設權譎,乘間深入,虞我國虛,生變不難,非制敵之良計。今公卿欲以威力攘賊,乃所以招令速至也。夫張虛聲而召實害,此之謂矣。不可不思,後悔無及。我使在彼,期四月前還。可待使至,審而後發,猶未晚也。且楚之之徒,是彼所忌,將奪其國,彼安得端坐視之。故楚之往則彼來,止則彼息,其勢然也。且楚之等瑣才,能招合輕薄無賴,而不能成就大功。為國生事,使兵連禍結,必此之群矣。臣嘗聞魯軌說姚興求入荊州,至則散敗,乃不免蠻賊掠賣為奴,使禍及姚泓,已然之效。」浩復陳天時不利於彼,曰:「今茲害氣在揚州,不宜先舉兵,一也;午歲自刑,先發者傷,二也;日蝕滅光,晝昏星見,飛鳥墮落,宿值斗牛,憂在危亡,三也;熒惑伏匿於翼軫,戒亂及喪,四也;太白未出,進兵者敗,五也。夫興國之君,先修人事,次盡地利,後觀天時,故萬舉而萬全,國安而身盛。今義隆新國,是人事未周也;災變屢見,是天時不協也;舟行水涸,是地利不盡也。三事無一成,自守猶或不安,何得先發而攻人哉?彼必聽我虛聲而嚴,我亦承彼嚴而動,兩推其咎,皆自以為應敵。兵法當分災迎受害氣,未可舉動也。」

世祖は衆に逆らうことができず、公卿の議に従った。浩はまた固く争ったが、従わなかった。そこで陽平王杜超を鄴に鎮守させ、琅邪王司馬楚之らを潁川に屯させた。すると賊の来襲はたちまち速くなり、到彦之が清水から黄河に入り、流れを遡って西行し、兵を分けて南岸に列して守り、西は潼関に至った。

原文世祖不能違眾,乃從公卿議。浩復固爭,不從。遂遣陽平王杜超鎮鄴,琅邪王司馬楚之等屯潁川。於是賊來遂疾,到彥之自清水入河,泝流西行,分兵列守南岸,西至潼關。

世祖は赫連定が劉義隆と河北を分け合おうとしていると聞き、兵を整え、まず赫連を討とうとした。群臣は言った、「義隆はまだ河中におり、これを捨てて西行すれば、前の敵(赫連)を必ずしも討ち取れるとは限らず、義隆が虚に乗じれば、東州を失うことになります。」世祖は疑い、浩に計を問うた。浩は言った、「義隆と赫連定は同悪相招き、馮跋と連結し、蠕蠕を牽引して、逆心をほしいままにしようと図り、虚しく唱和している。義隆は定の進むのを望み、定は義隆の前進を待っている。皆敢えて先に入る者はない。臣の観るところでは、連ねられた鶏のようで、共に飛ぶことができず、害をなすことはできない。臣は初め、義隆の軍が来たら河中に屯住し、二道に分かれて北上し、東道は冀州に向かい、西道は鄴を衝くであろうと思った。そうなれば、陛下は自ら討伐に赴かねばならず、ゆっくり行くことはできない。今はそうではない。東西に兵を列ね、距離は二千里に及び、一箇所に数千に過ぎず、形は分かれ勢いは弱い。これを見るに、臆病な子供の心情が現れており、ただ黄河を固めて自ら守り、死を免れて幸いとするのみで、北に渡る意思はない。赫連定は残った根は容易く摧け、これに擬すれば必ず倒れる。定を平定した後、東に出て潼関を越え、巻き席のように前進すれば、威は南極に震い、江淮以北には一本の草も立たなくなるであろう。聖なる策は独りで発せられ、愚かな近臣の及ぶところではない。願わくば陛下は西行を疑わないでください。」平涼が平定されると、その日の宴会で、世祖は浩の手を取って蒙遜の使者に示して言った、「先に言った崔公とは、これである。才略の美は、当今比類がない。朕の行くところ止まるところは必ず彼に問い、成敗は彼が決する。符契が合うように、初めから誤りはなかった。」後に冠軍将軍安頡の軍が帰還し、南方の捕虜を献上した。その際、南賊の言葉として、義隆がその諸将に命じたことを述べた。もし北国の兵が動けば、その未だ至らぬ先に、まっすぐに黄河に入れ。もし動かなければ、彭城に留まって進むな、と。浩の量った通りであった。世祖は公卿に言った、「卿らは以前、朕が浩の計を用いるのは誤りだとし、驚き怖れて固く諫めた。常勝の家は、初めは皆自ら人をはるかに超えていると言うが、終わりに至っては、及ばないのである。」浩を司徒に遷した。

原文世祖聞赫連定與劉義隆懸分河北,乃治兵,欲先討赫連。群臣曰:「義隆猶在河中,舍之西行,前寇未可必克,而義隆乘虛,則失東州矣。」世祖疑焉,問計於浩。浩曰:「義隆與赫連定同惡相招,連結馮跋,牽引蠕蠕,規肆逆心,虛相唱和。義隆望定進,定待義隆前,皆莫敢先入。以臣觀之,有似連雞,不得俱飛,無能為害也。臣始謂義隆軍來當屯住河中,兩道北上,東道向冀州,西道衝鄴。如此,則陛下當自致討,不得徐行。今則不然,東西列兵,徑二千里,一處不過數千,形分勢弱。以此觀之,儜兒情見,止望固河自守,免死為幸,無北渡意也。赫連定殘根易摧,擬之必仆。克定之後,東出潼關,席卷而前,則威震南極,江淮以北無立草矣。聖策獨發,非愚近所及,願陛下西行勿疑。」平涼既平,其日宴會,世祖執浩手以示蒙遜使曰:「所云崔公,此是也。才略之美,當今無比。朕行止必問,成敗決焉,若合符契,初無失矣。」後冠軍將軍安頡軍還,獻南俘,因說南賊之言云,義隆敕其諸將,若北國兵動,先其未至,徑前入河,若其不動,住彭城勿進。如浩所量。世祖謂公卿曰:「卿輩前謂我用浩計為謬,驚怖固諫。常勝之家,始皆自謂踰人遠矣,至於歸終,乃不能及。」遷浩司徒。

時に方士の祁纖が四王を立てることを奏上し、東西南北を日になぞらえて名とし、以て吉祥を招き、災異を除かんとした。詔して浩に学士とこれを議せしむ。浩対えて曰く、「先王は国を建てて藩屏と為すも、名を仮りて以てその福と為すべからず。夫れ日月は運転し、四方を周歴す。京都の居る所は、その内に在り。四王の称は、実に邦畿を奄う。これを名づくれば則ち逆なり、承用すべからず」と。先に、纖が代を万年と改むるを奏す。浩曰く、「昔、太祖道武皇帝は、天に応じて命を受け、洪業を開拓し、諸の制置する所、古に循わざるは無し。始め代土に封ぜられ、後に魏と称せられし故に、代・魏を兼用し、猶彼の殷商の如し。国家は徳を積み、図史に著る。まさに万億を享くべく、名を仮りて以て益と為すを待たず。纖の聞く所は、皆正義に非ず」と。世祖これに従う。

原文時方士祁纖奏立四王,以日東西南北為名,欲以致禎吉,除災異。詔浩與學士議之。浩對曰:「先王建國以作蕃屏,不應假名以為其福。夫日月運轉,周歷四方,京都所居,在於其內,四王之稱,實奄邦畿,名之則逆,不可承用。」先是,纖奏改代為萬年,浩曰:「昔太祖道武皇帝,應天受命,開拓洪業,諸所制置,無不循古。以始封代土,後稱為魏,故代、魏兼用,猶彼殷商。國家積德,著在圖史,當享萬億,不待假名以為益也。纖之所聞,皆非正義。」世祖從之。

この時、河西王の沮渠牧犍は、内に二心あり。世祖将にこれを討たんとし、先ず浩に問う。浩対えて曰く、「牧犍の悪心は既に露わなり、誅せざるべからず。官軍往年北伐するも、克ち獲ざりしと雖え、実に損する所無し。当時行く者、内外の軍馬三十万匹、道中に死傷するを計るに八千に満たず。歳常に羸死するは、恒に万を減ぜず、乃ちこれに少なからず。而して遠方虚を承け、便ち大損と謂い、復た振るう能わずとす。今その不意に出で、大軍の卒然として至るを図らず、必ず驚駭騒擾し、出ずる所を知らず、これを擒らうること必なり。且つ牧犍は劣弱にして、諸弟驕恣、権を争い従横し、民心離解す。比年以来越えて、天災地変、皆秦涼に在り、滅ぶべき国なり」と。世祖曰く、「善し、吾が意も亦た然りと為す」と。公卿をしてこれを議せしむ。弘農王の奚斤等三十余人皆曰く、「牧犍は西垂の下国、心純臣に非ざると雖え、然れども父の職貢を継ぎ、朝廷これに蕃礼を以て接す。又た王姫釐降し、罪甚だ彰れず。謂うらくは羈縻するのみとすべし。今士馬労止す、宜しく小息すべし。又たその地は鹵斥し、略々水草無し。大軍既に到れば、久しく停まるを得ず。彼軍来るを聞けば、必ず城を完聚して守り、攻むれば則ち抜き難く、野に掠むる所無し」と。ここにおいて尚書の古弼・李順の徒皆曰く、「温圉河以西より、姑臧城南の天梯山に至るまで、冬に積雪有り、深さ一丈余、春夏に至り消液し、下流して川と成り、引きて以て溉灌す。彼軍至るを聞けば、この渠口を決し、水通流せず、則ち渇乏を致す。城を去ること百里の内、赤地草無く、又た久しく軍馬を停めるに任せず。斤等の議是なり」と。世祖乃ち浩をしてその前言を以て斤と共に相難抑せしむ。諸人復た余言せず、唯だ「彼に水草無し」と曰うのみ。浩曰く、「漢書地理志に称す、『涼州の畜は、天下の饒と為す』と。若し水草無くば、何を以てか畜牧せん。又た漢人の居と為すは、終に水草無きの地に城郭を築き、郡県を立てず。又た雪の消液は、纔かに塵を斂めず、何ぞ渠を通じ漕を引き、数百万頃を溉灌せん。この言は大いに人を詆誣するものなり」と。李順等復た曰く、「耳聞は目見に如かず。吾曹目見す、何ぞ共に弁せん」と。浩曰く、「汝曹は人の金銭を受け、これが為に辞せんと欲し、我が目見ざるを謂いて便ち欺くべしとす」と。世祖隠れて聴き、これを聞きて乃ち出で、親しく斤等に見え、辞旨厳厲、神色に形わる。群臣乃ち敢えて復た言せず、唯唯するのみ。ここにおいて遂に涼州を討ちてこれを平らぐ。水草多く饒なり、浩の言う如し。

原文是時,河西王沮渠牧犍,內有貳意,世祖將討焉,先問於浩。浩對曰:「牧犍惡心已露,不可不誅。官軍往年北伐,雖不克獲,實無所損。于時行者內外軍馬三十萬匹,計在道死傷不滿八千,歲常羸死,恒不減萬,乃不少於此。而遠方承虛,便謂大損,不能復振。今出其不意,不圖大軍卒至,必驚駭騷擾,不知所出,擒之必矣。且牧犍劣弱,諸弟驕恣,爭權從橫,民心離解。加比年以來,天災地變,都在秦涼,成滅之國也。」世祖曰:「善,吾意亦以為然。」命公卿議之。弘農王奚斤等三十餘人皆曰:「牧犍西垂下國,雖心不純臣,然繼父職貢,朝廷接以蕃禮。又王姬釐降,罪未甚彰,謂宜羈縻而已。今士馬勞止,宜可小息。又其地鹵斥,略無水草,大軍既到,不得久停。彼聞軍來,必完聚城守,攻則難拔,野無所掠。」於是尚書古弼、李順之徒皆曰:「自溫圉河以西,至於姑臧城南,天梯山上冬有積雪,深一丈餘,至春夏消液,下流成川,引以溉灌。彼聞軍至,決此渠口,水不通流,則致渴乏。去城百里之內,赤地無草,又不任久停軍馬。斤等議是也。」世祖乃命浩以其前言與斤共相難抑。諸人不復餘言,唯曰「彼無水草」。浩曰:「漢書地理志稱:『涼州之畜,為天下饒。』若無水草,何以畜牧?又漢人為居,終不於無水草之地築城郭、立郡縣也。又雪之消液,纔不斂塵,何得通渠引漕,溉灌數百萬頃乎?此言大詆誣於人矣。」李順等復曰:「耳聞不如目見,吾曹目見,何可共辨!」浩曰:「汝曹受人金錢,欲為之辭,謂我目不見便可欺也!」世祖隱聽,聞之乃出,親見斤等,辭旨嚴厲,形於神色。群臣乃不敢復言,唯唯而已。於是遂討涼州而平之。多饒水草,如浩所言。

乃ち浩に詔して曰く、「昔、皇祚の興るや、世に北土に隆え、徳を積み仁を累ね、多年を歴、沢蒼生に流れ、義四海に聞こゆ。我が太祖道武皇帝は、天人に協順し、以て服さざるを征し、期に応じて乱を撥い、区夏を奄う。太宗統を承け、前緒を光隆し、刑典を釐正し、大業惟れ新たなり。然れども荒域の外は、猶未だ賓服せず。これ祖宗の遺志にして、功を後に貽す所なり。朕は眇身を以て、宗廟を奉ずることを獲、戦戦兢兢、淵海に臨むが如く、荷うて至重に負う能わざるを懼れ、名を継ぎて丕烈を継がんとす。故に即位の初め、寧処に遑あらず、威を朔裔に揚げ、赫連を掃定す。神䴥に逮り、始めて史職に命じ前功を注集せしめ、以て一代の典を成す。爾来已来、戎旗仍って挙がり、秦隴克く定まり、徐兗塵無く、逋寇を龍川に平らげ、孽豎を涼域に討つ。豈に朕一人の此に済わるのみならんや、宗廟の霊に頼り、群公卿士の力を宣ぶるの効なり。而して史その職を闕き、篇籍著わさず、毎にこの事の墜つるを懼る。公の徳は朝列に冠たり、言は世の範と為り、小大の任、君のこれを存するを望む。公を留台に命じ、史務を綜理せしめ、この書を述成せしむ。務めて実録に従え」と。浩ここに於いて秘書事を監し、中書侍郎の高允・散騎侍郎の張偉を以て著作に参じ、前紀を継成せしむ。損益褒貶に至り、折中潤色するは、浩の総ぶる所なり。

原文乃詔浩曰:「昔皇祚之興,世隆北土,積德累仁,多歷年載,澤流蒼生,義聞四海。我太祖道武皇帝,協順天人,以征不服,應期撥亂,奄有區夏。太宗承統,光隆前緒,釐正刑典,大業惟新。然荒域之外,猶未賓服。此祖宗之遺志,而貽功於後也。朕以眇身,獲奉宗廟,戰戰兢兢,如臨淵海,懼不能負荷至重,繼名丕烈。故即位之初,不遑寧處,揚威朔裔,掃定赫連。逮於神䴥,始命史職注集前功,以成一代之典。自爾已來,戎旗仍舉,秦隴克定,徐兗無塵,平逋寇於龍川,討孽豎於涼域。豈朕一人獲濟於此,賴宗廟之靈,群公卿士宣力之効也。而史闕其職,篇籍不著,每懼斯事之墜焉。公德冠朝列,言為世範,小大之任,望君存之。命公留臺,綜理史務,述成此書,務從實錄。」浩於是監祕書事,以中書侍郎高允、散騎侍郎張偉參著作,續成前紀。至於損益褒貶,折中潤色,浩所總焉。

恭宗始めて百揆を総ぶるに及び、浩復た宜都王の穆寿と政事を輔く。時に又た将に蠕蠕を討たんとす。劉潔復た異議を致す。世祖愈々これを討たんと欲し、乃ち浩を召して問う。浩対えて曰く、「往きて蠕蠕を撃つに、師多く日ならず、潔等各々回還せんと欲す。後にその生口を獲たるに、云う、軍還るの時、賊を去ること三十里と。是れ潔等の計の過ちなり。夫れ北土は積雪多く、冬時に至れば常に寒を避けて南徙す。若しその時に因り、潜軍して出でば、必ずこれと遇い、則ち擒獲すべし」と。世祖然りと為す。乃ち軍を分かちて四道と為し、諸将に詔して俱に鹿渾海に会せしむ。期日に定め有り。而して潔は計用いられざるを恨み、諸将を沮誤し、功無くして還る。事は潔伝に在り。

原文及恭宗始總百揆,浩復與宜都王穆壽輔政事。時又將討蠕蠕,劉潔復致異議。世祖逾欲討之,乃召問浩。浩對曰:「往擊蠕蠕,師不多日,潔等各欲回還。後獲其生口,云軍還之時,去賊三十里。是潔等之計過矣。夫北土多積雪,至冬時常避寒南徙。若因其時,潛軍而出,必與之遇,則可擒獲。」世祖以為然。乃分軍為四道,詔諸將俱會鹿渾海。期日有定,而潔恨計不用,沮誤諸將,無功而還。事在潔傳。

世祖西巡し、浩と尚書・順陽公の蘭延に詔して行臺中外諸軍事を都督せしむ。世祖東雍に至り、親しく汾曲に臨み、叛賊の薛永宗の壘を観、進軍してこれを囲む。永宗出兵して戦わんと欲す。世祖浩に問うて曰く、「今日撃つべしや否や」と。浩曰く、「永宗は未だ陛下の自ら来たるを知らず、人心安閑なり。北風迅疾なり。宜しく急ぎこれを撃つべし。須臾のうちに必ず碎けん。若し明日を待たば、その官軍の盛大なるを見るを恐れ、必ず夜に遁走せん」と。世祖これに従う。永宗潰滅す。車駕河を済え、前駆賊の渭北に在るを告ぐ。世祖洛水橋に至れば、賊は既に夜に遁れり。詔して浩に問うて曰く、「蓋吳は長安北九十里に在り。渭北地空しく、穀草備わらず。渭南に渡り西行せんと欲す。いかん」と。浩対えて曰く、「蓋吳の営は此を去ること六十里、賊魁の所在なり。蛇を撃つの法は、まさに頭を破るべく、頭破れば則ち尾豈に復た動く能わんや。宜しく勢いに乗じて先ず呉を撃つべし。今軍往かば、一日にして便ち到らん。呉を平げての後、長安に向かい回れば、亦た一日にして至らん。一日の内、未だ便ち損傷せず。愚謂うらくは北道に従うべし。若し南道に従わば、則ち蓋吳徐かに北山に入り、卒に平げ可からず」と。世祖従わず、乃ち渭南に渡る。呉世祖の至るを聞き、尽く散じて北山に入る。果たして浩の言う如く、軍克つ所無し。世祖これを悔う。後に浩の東宮を輔くるの勤めを以て、繒絮布帛各千段を賜う。

原文世祖西巡,詔浩與尚書、順陽公蘭延都督行臺中外諸軍事。世祖至東雍,親臨汾曲,觀叛賊薛永宗壘,進軍圍之。永宗出兵欲戰,世祖問浩曰:「今日可擊不?」浩曰:「永宗未知陛下自來,人心安閑,北風迅疾,宜急擊之,須臾必碎。若待明日,恐其見官軍盛大,必夜遁走。」世祖從之。永宗潰滅。車駕濟河,前驅告賊在渭北。世祖至洛水橋,賊已夜遁。詔問浩曰:「蓋吳在長安北九十里。渭北地空,穀草不備。欲渡渭南西行,何如?」浩對曰:「蓋吳營去此六十里,賊魁所在。擊蛇之法,當須破頭,頭破則尾豈能復動。宜乘勢先擊吳。今軍往,一日便到。平吳之後,回向長安,亦一日而至。一日之內,未便損傷。愚謂宜從北道。若從南道,則蓋吳徐入北山,卒未可平。」世祖不從,乃渡渭南。吳聞世祖至,盡散入北山,果如浩言,軍無所克。世祖悔之。後以浩輔東宮之勤,賜繒絮布帛各千段。

著作令史の太原の閔湛・趙郡の郄標、素より諂って浩に事う。乃ち石銘を立て、国書を刊載し、并せて注する所の五経を勒せんことを請う。浩これを賛成す。恭宗善しとす。遂に天郊の東三里に営み、方百三十歩、功三百万を用いて乃ち訖る。

原文著作令史太原閔湛、趙郡郄標素諂事浩,乃請立石銘,刊載國書,并勒所注五經。浩贊成之。恭宗善焉,遂營於天郊東三里,方百三十步,用功三百萬乃訖。

世祖(太武帝)が河西で狩猟を行い、詔を下して崔浩を行在所に召し寄せ、軍事を議させた。崔浩が上表して言うには、「昔、漢武帝は匈奴の強盛を憂い、涼州五郡を開き、西域に通じ、農を勧めて穀物を蓄積し、賊を滅ぼす資としました。東西より相次いで撃ちました。故に漢は未だ疲れず、匈奴は既に弊せられ、後に遂に入朝しました。かつて涼州を平定した際、臣の愚見では、北賊未だ平らかでなく、征役止まず、その民を移すべきではなく、前世の故事を案じ、長者の計を立てるべきであると考えました。もし民人を移せば、土地は空虚となり、たとえ鎮戍があっても、ただ辺境を防ぐに足るのみで、大挙して出撃するには、軍資必ず乏しくなります。陛下はこの事を闊遠として、遂に施行されませんでした。臣の愚意では、なお以前の議の如く、豪強の大家を募り移住させ、涼土を充実させ、軍を挙げる日には、東西斉しく勢いを合わせるのが、この計の得るところです」。

原文世祖蒐于河西,詔浩詣行在所議軍事。浩表曰:「昔漢武帝患匈奴強盛,故開涼州五郡,通西域,勸農積穀,為滅賊之資。東西迭擊。故漢未疲,而匈奴已弊,後遂入朝。昔平涼州,臣愚以為北賊未平,征役不息,可不徙其民,案前世故事,計之長者。若遷民人,則土地空虛,雖有鎮戍,適可禦邊而已,至於大舉,軍資必乏。陛下以此事闊遠,竟不施用。如臣愚意,猶如前議,募徙豪強大家,充實涼土,軍舉之日,東西齊勢,此計之得者。」

崔浩はまた五寅元暦を上奏し、上表して言うには、「太宗(明元帝)が即位された元年、臣に急就章・孝経・論語・詩・尚書・春秋・礼記・周易を解釈するよう命じられました。三年で完成しました。再び詔を下され、臣に天文・星暦・易式・九宮を学ばせ、全てを見尽くさぬものはありませんでした。今に至る三十九年、昼夜廃れることなく努めて参りました。臣は生来弱劣で、力は健やかな婦人にも及ばず、他に余能もありません。それ故に専心書物に思いを致し、寝食を忘れ、遂には夢に鬼と義を争うに至りました。こうして周公・孔子の要術を得、始めて古人には虚有り実有り、妄語する者多く、真正なる者少ないことを知りました。秦の始皇が書を焼いて以来、經典は絶滅しました。漢の高祖以来、世人が妄りに暦術を造る者十余家あり、皆天道の正を得ず、大誤四千、小誤甚だ多く、言い尽くせません。臣はそのこのような有様を哀れみます。今、陛下の太平の世に遭い、偽を除き真に従い、誤った暦を改め、天道に従うべきです。それ故に臣は前に暦を造ることを奏上し、今ようやく完成しました。謹んで奏呈いたします。ただ恩を以て省察され、臣の暦術を中書博士に宣示された上、然る後に施行されますよう。時に人だけでなく、天地鬼神も臣が正を得たことを知り、国家万世の名を益し、三皇・五帝を超えることができます」。事は律暦志にある。

原文浩又上五寅元曆,表曰:「太宗即位元年,敕臣解急就章、孝經、論語、詩、尚書、春秋、禮記、周易。三年成訖。復詔臣學天文、星曆、易式、九宮,無不盡看。至今三十九年,晝夜無廢。臣禀性弱劣,力不及健婦人,更無餘能,是以專心思書,忘寢與食,至乃夢共鬼爭義。遂得周公、孔子之要術,始知古人有虛有實,妄語者多,真正者少。自秦始皇燒書之後,經典絕滅。漢高祖以來,世人妄造曆術者有十餘家,皆不得天道之正,大誤四千,小誤甚多,不可言盡。臣愍其如此。今遭陛下太平之世,除偽從真,宜改誤曆,以從天道。是以臣前奏造曆,今始成訖。謹以奏呈。唯恩省察,以臣曆術宣示中書博士,然後施用。非但時人,天地鬼神知臣得正,可以益國家萬世之名,過於三皇、五帝矣。」事在律曆志。

真君十一年(450年)六月、崔浩を誅殺し、清河の崔氏は遠近を問わず、范陽の盧氏・太原の郭氏・河東の柳氏は、皆崔浩の姻親であり、その族を尽く滅ぼした。初め、郄標らが石に銘を刻み国記を刊行したが、崔浩は国事を尽く述べて、詳備ではあるが典拠に則らなかった。そして石銘が大道に顕わに在り、往来の行者が皆これを話題としたため、事は遂に発覚して聞こえた。有司が崔浩を取り調べ、秘書郎吏及び長暦生数百人の意向と状況を取った。崔浩は賄賂を受け取ったことを伏して認め、その秘書郎吏以下は尽く死罪となった。

原文真君十一年六月誅浩,清河崔氏無遠近,范陽盧氏、太原郭氏、河東柳氏,皆浩之姻親,盡夷其族。初,郄標等立石銘刊國記,浩盡述國事,備而不典。而石銘顯在衢路,往來行者咸以為言,事遂聞發。有司按驗浩,取祕書郎吏及長曆生數百人意狀。浩伏受賕,其祕書郎吏已下盡死。

崔浩が弱冠の頃、太原の郭逸が娘を娶わせた。崔浩は大成が遅く、華やかな才を輝かせなかったため、当時の人は知らなかった。郭逸の妻王氏は、劉義隆(宋の文帝)の鎮北将軍王仲徳の姉であり、常に崔浩の才能を奇異とし、自ら良き婿を得たと思った。間もなく娘が亡くなると、王氏は深く傷み恨み、更に末娘を継いで婚させた。郭逸と親族は良くないと考えたが、王氏は固執してこれを与え、郭逸は違えず、遂に重ねて縁組を結んだ。崔浩は仏法を誹謗したが、妻の郭氏は釈典を敬い好み、時折読誦した。崔浩は怒り、取り上げて焼き、灰を厠に棄てた。崔浩が捕らえられ檻に入れられ、城南に送られ、衛士数十人にその上で小便をさせられた時、嗷嗷たる叫び声は道行く人に聞こえた。宰相級の者が戮辱を受けたことは、崔浩の如きはなく、世間では皆報応の証拠であると考えた。初め崔浩が李順を陥れ害そうとした時、その基は既に成り、夜、火を持って李順の寝室を焼く夢を見た。火が起こり李順が死に、崔浩は家族と共に立ってこれを見ていた。間もなく李順の弟の息子が号哭して出て来て、「此の輩、我が賊なり!」と言い、戈で彼らを撃ち、悉く河に投げ込んだ。目覚めてこれを悪夢と思い、館の客の馮景仁に告げた。景仁は言うには、「これは真に不善であり、もはや虚事ではありません。火で人を焼くとは、暴虐の極みです。乱の階梯となり禍の兆し、また自ら招くところです。商書に曰く、『悪の易きこと、火の原に燎るが如く、向かって近づくべからず、その猶お撲滅すべけんや』と。かつ悪の兆し始まる者には終わりに災いあり、不善を積む者には余慶なし。禍の階梯成りました。公はこれを図られるべきです」。崔浩は「私は今それを考えている」と言ったが、改めることができず、ここに至って族滅された。崔浩は書をよくしたので、多くの人が急就章の代筆を頼んだ。少からず老いるまで、初め労を厭わず、書いたものはおそらく百数を数え、必ず「馮代強」と称し、国を犯さざるを示した。その謹みこのようなものであった。崔浩の書体・勢いはその先人に及ぶが、妙巧は及ばなかった。世はその筆跡を宝とし、多くは裁ち切り綴り合わせて模範とした。

原文浩始弱冠,太原郭逸以女妻之。浩晚成,不曜華采,故時人未知。逸妻王氏,劉義隆鎮北將軍王仲德姊也,每奇浩才能,自以為得壻。俄而女亡,王深以傷恨,復以少女繼婚。逸及親屬以為不可,王固執與之,逸不能違,遂重結好。浩非毀佛法,而妻郭氏敬好釋典,時時讀誦。浩怒,取而焚之,捐灰於厠中。及浩幽執,置之檻內,送於城南,使衞士數十人溲其上,呼聲嗷嗷,聞于行路。自宰司之被戮辱,未有如浩者,世皆以為報應之驗也。初浩構害李順,基萌已成,夜夢秉火爇順寢室,火作而順死,浩與室家羣立而觀之。俄而順弟息號哭而出,曰:「此輩,吾賊也!」以戈擊之,悉投於河。寤而惡之,以告館客馮景仁。景仁曰:「此真不善也,非復虛事。夫以火爇人,暴之極也。階亂兆禍,復己招也。商書曰:『惡之易也,如火之燎於原,不可向邇,其猶可撲滅乎?』且兆始惡者有終殃,積不善者無餘慶。厲階成矣,公其圖之。」浩曰「吾方思之」,而不能悛,至是而族。浩既工書,人多託寫急就章。從少至老,初不憚勞,所書蓋以百數,必稱「馮代強」,以示不敢犯國,其謹也如此。浩書體勢及其先人,而妙巧不如也。世寶其迹,多裁割綴連以為模楷。

崔浩の母盧氏は、盧諶の孫である。崔浩が著した食経叙に曰く、「余は少より長ずるまで、耳目に聞き見る所、諸母諸姑の修める婦功に、酒食を蘊習せざるはなし。朝夕に舅姑を養い、四時に祭祀す。功力有りと雖も、僮使に任せず、常に手ずから親しんだ。昔、喪乱に遭い、飢饉重なって至り、粥と野菜で口を糊し、その物用を具えること能わず、十余年間は再び備え設けることはなかった。先妣(母)は久しく廃れ忘れられ、後生に知見なからんことを慮り、また少くして業書に習わず、乃ち口述して九篇を授けられた。文辞は約にして挙げ、婉にして章を成す。聡明で弁が立ち強く記憶する、皆この類いである。親の没した後、国が龍興の会に値い、暴を平らげ乱を除き、四方を拓定した。余は台鉉の位に備わり、大謀に参与し、賞は豊厚に獲、牛羊は沢を覆い、資財は巨万を累ねた。衣は重錦、食は梁肉。遠く平生を思い、季路が米を負った時を思えば、再び得ることはできない。故に遺文を序し、来世に示す」。

原文浩母盧氏,諶孫也。浩著食經敍曰:「余自少及長,耳目聞見,諸母諸姑所修婦功,無不蘊習酒食。朝夕養舅姑,四時祭祀,雖有功力,不任僮使,常手自親焉。昔遭喪亂,飢饉仍臻,饘蔬餬口,不能具其物用,十餘年間不復備設。先妣慮久廢忘,後生無知見,而少不習業書,乃占授為九篇,文辭約舉,婉而成章,聰辯強記,皆此類也。親沒之後,值國龍興之會,平暴除亂,拓定四方。余備位台鉉,與參大謀,賞獲豐厚,牛羊蓋澤,貲累巨萬。衣則重錦,食則粱肉。遠惟平生,思季路負米之時,不可復得,故序遺文,垂示來世。」

初め崔浩と冀州刺史の崔賾・滎陽太守の崔模らは年齢が皆相次ぎ、崔浩が最年長、次が崔模、次が崔賾であった。三人は別祖であるが、崔模と崔賾は親族であった。崔浩はその家世が魏晉の公卿であることを恃み、常に崔模・崔賾を侮った。崔模は人に言うには、「桃簡(崔浩の小名)はただ我を欺くに足るのみで、どうして我が家の周兒(崔賾の小名)を軽んずるのか」と。世祖はこれをかなり聞き及んでいたため、崔浩を誅殺する時、二家は免れることができた。崔浩は既に仏・道を信じなかったが、崔模は深く帰依し、たとえ糞土の中であっても、毎度形像に礼拝した。崔浩はこれを大笑いし、「この頭を不浄な処に跪いて、是は胡の神なり」と言った。

原文始浩與冀州刺史賾、滎陽太守模等年皆相次,浩為長,次模,次賾。三人別祖,而模、賾為親。浩恃其家世魏晉公卿,常侮模、賾。模謂人曰:「桃簡正可欺我,何合輕我家周兒也。」浩小名桃簡,賾小名周兒。世祖頗聞之,故誅浩時,二家獲免。浩既不信佛、道,模深所歸向,每雖糞土之中,禮拜形像。浩大笑之,云:「持此頭顱不淨處跪是胡神也。」