崔浩
崔浩、 字 は伯淵、清河の人なり、白馬公玄伯の長子である。幼少より文学を好み、経史を博覧し、玄象陰陽、百家の言、関綜せざるなく、義理を研精し、当時の人及びぶ者なし。弱冠にして直郎となる。天興年中、給事祕書に任じ、著作郎に転ず。太祖はその書に巧みなるを以て、常に左右に置く。太祖の末年、威厳頗る峻しく、宮省の左右多くは微過を以て罪を得、逃げ隠れざるはなく、目下の変を避く。浩のみ恭勤して怠らず、或いは終日帰らず。太祖之を知り、輒ち命じて御粥を賜う。その砥直にして時に任じ、窮通に因りて節を改めざるは、皆此の類なり。
太宗の初め、博士祭酒に拝し、爵を武城子に賜い、常に太宗に経書を授く。郊祠に至る毎に、父子並びに軒軺に乗り、時人これを栄しとす。太宗は陰陽術数を好み、浩の易及び洪範五行を説くを聞き、これを善しとし、因りて浩に命じて吉凶を筮かしめ、天文を参観し、疑惑を考定せしむ。浩は天人の際を綜覈し、その綱紀を挙げ、諸の処決する所、多く応験あり、恒に軍国の大謀に与かり、甚だ寵密なり。是の時、兎ありて後宮に在り、門官に験問すれども、従い入るを得るなし。太宗これを怪しみ、浩に命じてその咎徴を推せしむ。浩は以て当に隣国貢嬪嬙する者有るべし、善き応なりと為す。明年、姚興果たして女を献ず。
神瑞二年、秋穀登らず、太史令王亮・蘇垣、華陰公主等の言に因り讖書に国家当に 鄴 に治むべし、大楽五十年に応ずとあり、太宗を勧めて遷都せしむ。浩と特進周澹、太宗に言いて曰く、「今国家鄴に遷都せば、今年の飢を救うべけれども、長久の策に非ず。東州の人は、常に国家広漠の地に居り、民畜算うるに無しと謂い、牛毛の衆と号す。今旧都を留守し、家を分かちて南に徙らば、諸州の地に満たざるを恐る。郡県に参居し、榛林の間に処し、水土に便せず、疾疫死傷し、情見事露すれば、則ち百姓意沮す。四方之を聞き、軽侮の意有らん、屈丐・ 蠕蠕 必ず提挈して来たり、雲中・ 平城 には則ち危殆の慮有らん、恒代千里の険を阻隔し、援を救わんと欲すれども、之に赴く甚だ難し、此くの如くすれば則ち声実倶に損ず。今北方に居り、仮令山東に変有らば、軽騎南に出で、威を桑梓の中に燿し、誰か多少を知らん。百姓之を見て、塵を望みて震服す。此れは国家諸夏を威制するの長策なり。春草生じ、乳酪将に出で、兼ねて菜果有り、来秋に接ぐに足る。若し中熟を得ば、事は則ち済む。」太宗深く然りとし、曰く、「唯だ此の二人、朕が意に同じ。」復た中貴人をして浩・澹に問わしめて曰く、「今既に糊口して来秋に至る無く、来秋或いは復た熟せずんば、将に之を如何せん。」浩等対えて曰く、「窮下の戸を簡べ、諸州に就きて穀せしむべし。若し来秋年に無くんば、願わくは更に図らん。但だ遷都すべからず。」太宗これに従う。ここに於て民を分かちて山東三州に詣り食わしめ、倉穀を出だして之に稟す。来年遂に大熟す。浩・澹に妾各一人、御衣一襲、絹五十匹、綿五十斤を賜う。
初め、姚興の死する前歳、太史奏す:熒惑匏瓜星の中に在り、一夜忽然として亡失し、所在を知らず。或いは下りて危亡の国に入り、将に童謡妖言と為り、而して後その災禍を行わんと謂う。太宗之を聞き、大いに驚き、乃ち諸の碩儒十数人を召し、史官と与にその詣る所を求めしむ。浩対えて曰く、「春秋左氏伝に案ずるに、神莘に降る、その至るの日、各その物を以て祭ると説く。日辰を以て推するを請う。庚午の夕、辛未の朝、天に陰雲有り、熒惑の亡するは、当に此の二日の内に在るべし。庚と未とは、皆秦に主り、辛は西夷と為す。今姚興咸陽に据う、是れ熒惑秦に入るなり。」諸人皆色を為して曰く、「天上星を失う、人安んぞその詣る所を知らん、而して妄りに徴無きの言を説く。」浩笑いて応ぜず。後八十余日、熒惑果たして東井に出で、盤遊を留守し、秦中大旱して赤地と成り、昆明池水竭き、童謡訛言し、国内諠擾す。明年、姚興死し、二子兵を交え、三年にして国滅ぶ。ここに於て諸人皆服して曰く、「及ぶ所に非ず。」
泰常元年、司馬徳宗の将劉裕、姚泓を伐たんとし、舟師淮泗より清に入り、河を泝り西上せんと欲し、国に仮道を請う。詔して群臣に議せしむ。外朝の公卿皆曰く、「函谷関は天険と号す。一人戈を荷えば、万夫進むを得ず。裕が舟船歩兵、何ぞ能く西入せん。脱我その後に乗ぜば、還路甚だ難し。若し北上して河岸に至らば、その行為易し。揚言して姚を伐つと雖も、意或いは測り難し。その水道を仮せば、寇は縦すべからず、宜しく先んじて軍を発し河の上流を断ち、西過せしむるなかれ。」又内朝に議すれども、皆外計と同じ。太宗将にこれに従わんとす。浩曰く、「此れ上策に非ず。司馬休之の徒その荊州を擾わし、劉裕切歯来たり久し。今興死し子劣り、その危亡に乗じて之を伐たんとす。臣その意を観るに、必ず関に入らんと欲す。勁躁の人、後患を顧みず。今若しその西路を塞げば、裕必ず上岸して北侵せん。此くの如くすれば則ち姚は事無くして我は敵を受く。今蠕蠕内寇し、民食又乏し、軍を発すべからず。軍を発して南に赴かば則ち北寇進撃し、若し其れ北を救わば則ち東州復た危うし。未だ水道を仮し、裕を縦して西入せしめ、然る後に兵を興してその東帰の路を塞ぐに若かず。所謂卞荘の虎を刺す、両得の勢なり。裕をして勝たしむれば、必ず我が仮道の恵を徳とし、姚氏をして勝たしむれば、亦た隣を救うの名を失わず。縦令裕関中を得るとも、県遠くして守り難く、彼守ること能わず、終に我が物と為らん。今兵馬を労せず、坐して成敗を観、両虎を鬬わしめて長久の利を収むるは、上策なり。夫れ国の計を為すには、利を択びて之を為す。豈に婚姻を顧み、一女子の恵に酬いんや。仮令国家恒山以南を棄つとも、裕必ず能く呉越の兵を発して官軍と河北を争い守ること無からん、居然として知るべし。」議者猶曰く、「裕西入して函谷すれば、則ち進退路窮まり、腹背敵を受く。北上岸すれば則ち姚軍必ず出関して我を助けず。声を揚げて西行し、意は北進に在り、その勢然り。」太宗遂に群議に従い、長孫嵩を遣わして兵を発して之を拒がしめ、畔城に戦い、裕の将朱超石に敗れ、師人多く傷つく。太宗之を聞き、浩の計を用いざりしを恨む。
二年、司馬徳宗の斉郡太守王懿が降伏して来て、上書して計略を陳べ、劉裕が 洛陽 に在ると称し、国家に軍を以てその後路を断つべく勧め、そうすれば裕の軍は戦わずして勝つことができると述べた。書が奏上されると、太宗はこれを善しとした。折しも崔浩が御前で進み出て書伝を講じていたので、太宗は浩に問うて言った、「劉裕が西伐し、前軍は既に潼関に至った。この事態はどうか。卿の見るところでは、事は成るか」。浩は答えて言った、「昔、姚興は虚名を養うことを好み、実用はなかった。子の泓はまた病んでおり、衆は叛き親は離れた。裕はその危険に乗じ、兵は精鋭で将は勇猛である。臣の見るところでは、必ずやこれを克つでしょう」。太宗が言うには、「劉裕の武略は 慕容 垂に比べてどうか」。浩は言う、「裕が勝ります」。太宗、「その様子を試みに言え」。浩、「慕容垂は父祖の代々君主たる資質を乗じ、生まれながらに尊貴であり、同類の者がこれに帰し、夜の蛾が火に赴くが如く、少しでも依拠すれば、直ちに功を立てるに足りた。劉裕は寒微より挺出し、尺土の資に階せず、一卒の用を因ることなく、奮臂大呼して桓玄を夷滅し、北では慕容超を擒え、南では盧循らを摧破し、僭晋が陵遅するに乗じて、遂に国命を執った。裕がもし姚氏を平定して還れば、必ずやその主を 簒奪 するでしょう。その勢い然りです。秦の地は戎夷が混併し、虎狼の国である。裕もまたこれを守ることはできません。風俗が異なり、人情を変えることは難しく、荊揚の教化を三秦の地に行わんとすることは、譬えば翼なくして飛ばんとし、足なくして走らんとするが如く、得べからざることです。もし衆を留めてこれを守らせれば、必ずや寇に資することとなります。孔子が言う、善人邦を為すこと百年、以て残を勝ち殺を去るべしと。今、秦の難制たるを以て、一二年の間、どうして裕の為し得るところでありましょうか。しばらく戎を治め甲を束ね、民を休め境を備え、その帰るを待つべきです。秦の地もまた終には国の有と為るべきであり、坐して守ることができます」。太宗が言うには、「裕は既に関に入り、進退できぬ。我が精騎を遣わして南の彭城・寿春を襲えば、裕もまたどうして自立できようか」。浩、「今、西北の二寇未だ殄らず、陛下は親しく六師を御すべからず。兵衆は盛んなりといえども、将に韓白なし。長孫嵩は治国の用はあれど、進取の能はなく、劉裕の敵ではありません。臣はこれを待つも遅からずと謂います」。太宗は笑って言った、「卿の量る所は既に審らかである」。浩、「臣は嘗て近世の人物を私に論じ、敢えて上聞に上さざるを得ません。王猛の治国は、苻堅の管仲なり。慕容玄恭(慕容恪)の少主を輔くるは、慕容暐の霍光なり。劉裕の逆乱を平ぐるは、司馬徳宗の曹操なり」。太宗、「卿は先帝を如何と謂うか」。浩、「小人が管を以て懸象を窺う、どうして玄穹の広大を見えましょう。そうではあるが、太祖は漠北の醇樸なる人を用い、南に入って中地に至り、風を変え俗を易え、化を四海に洽くし、自ら羲農と列を斉しくする。臣どうして仰いで名を挙げられましょう」。太宗、「屈丐( 赫連 勃勃)はどうか」。浩、「屈丐は家国夷滅し、一身孤寄して、姚氏に封殖せられた。党を樹て強隣とし、讐を報い恥を雪がんと思わず、却って蠕蠕に忿りを結び、姚興に徳を背き、撅竪の小人にして大経略なく、ただ残暴をなすに正しく、終には人の滅ぼす所と為るのみです」。太宗は大いに悦び、語りは中夜に至り、浩に御製の縹醪酒十觚、水精の戎塩一両を賜い、言った、「朕、卿の言を味わうに、この塩酒の如し。故に卿とその旨を同じくするのだ」。
三年、彗星が天津より出で、太微に入り、北斗を経て、紫微を絡み、天棓を犯し、八十余日、漢に至って滅びた。太宗は再び諸儒・術士を召して問うて言った、「今天下未だ一ならず、四方岳峙す。災咎の応は、将に何れの国に在るか。朕は甚だこれを畏れる。情を尽くして言え。隠す所あるなかれ」。皆共に浩を推して答えさせた。浩は言った、「古人に言有り、夫れ災異の生ずるは、人より起こると。人に釁なきときは、妖自ら作さず。故に人の下に失うあれば、則ち変は上に見え、天事は恒に象る、百代易わらず。漢書に王莽が位を 簒 する前に、彗星出入したことを載せるが、正に今と同じである。国家は主尊く臣卑しく、上下序有り、民に異望なし。僭晋は卑削し、主弱く臣強く、累世陵遅したが故に、桓玄に逼奪せられ、劉裕が権を秉ったのである。彗孛は、悪気の生ずる所、これ僭晋将に滅び、劉裕のこれを 簒 するの応である」。諸人、浩の言を易える者なく、太宗は深くこれを然りとした。五年、裕は果たしてその主司馬徳文を廃して自立した。南の鎮より裕の改元の赦書が上った。時に太宗は東南の潟滷池に幸して鳥を射たが、これを聞き、駅伝で浩を召し、これに謂って言った、「往年卿の言った彗星の占いが験を現した。朕は今日に至って始めて天道を信ずる」。
初め、浩の父が病篤かった時、浩は爪を切り髪を截ち、夜に庭中で斗極を仰ぎ祈り、父のために命を請い、身を以て代わらんことを求め、頭を叩いて血を流し、歳余り止まなかったが、家人に知る者は稀であった。父が終ると、喪に居て礼を尽くし、時に人はこれを称えた。爵の白馬公を襲った。朝廷の礼儀・優文策詔・軍国の書記は、全て浩に関わった。浩は雑説を為すことができたが、文を属するのは長けず、制度・科律及び経術の言に留心した。家祭法を作り、五宗を次序し、蒸嘗の礼、豊儉の節を定め、その義理は観るべきものがあった。性、老荘の書を好まず、読むこと毎に数十行を過ぎざるに、輒ちこれを棄てて言った、「これは矯誣の説にして、人情に近からず、必ずや老子の作ったものではない。老聃は礼を習い、仲尼の師としたる者、豈に敗法の文書を設け、以て先王の教を乱らんや。袁生( 袁粲 )の所謂、家人の筐篋中の物、王庭に揚ぐべからざるものなり」。
太宗は常に微恙を抱え、怪異がしばしば現れたため、中貴人をして密かに崔浩に問わせて言うには、「春秋に、星が北斗を孛し、七国の君主は皆咎を受けるとある。今、胃宿・昴宿で日蝕があり、光は尽く趙・代の分野に及ぶ。朕の病は一年を経ても、治療に効果なく、恐らく一朝に急逝するであろう。諸子は皆幼少である。どうしたらよいか。我がために後事を図る計略を設けよ」と。崔浩は言う、「陛下は春秋(年齢)盛んであり、聖業はまさに融和せんとしている。徳をもって災いを除けば、幸いに平癒に至るでしょう。しかも天道は懸遠にして、あるいは消えあるいは応ずるものです。昔、宋の景公は災いを見て徳を修めると、熒惑が退舎した。願わくは陛下は諸々の憂虞を遣わし、恬神保和し、嘉福を納御し、闇昧の説をもって聖思を損なうことなきように。必ずや已むを得ずとせば、請う、瞽言を陳ぜん。聖化が龍興して以来、儲貳を崇めず、このゆえに永興の始め、 社稷 は危うきに幾かった。今、早く東宮を建て、公卿の中より忠賢にして陛下が平素より委仗する者を選び、師傅と為し、左右の信臣で聖心に簡在する者を以て賓友と充て、内には万機を総べ、外には戎政を統べ、監国撫軍し、六柄を手にせしめよ。もしこのようにすれば、陛下は優遊無為し、神を頤養し、医薬を進御することができましょう。万歳の後、国に成主あり、民に帰する所あれば、則ち姦宄は望みを息め、傍らに覬覦する者無からん。これは万世の令典、禍を塞ぐ大備なり。今、長皇子の燾は、年齢漸く一周し、明叡温和にして、衆情の繫がる所、時に儲副に登らしめれば、則ち天下幸甚なり。子を立てるには長を以てす、礼の大経なり。もし並びに成人を待って択ぶを須いれば、天倫を倒錯し、則ち履霜堅冰の禍を生ぜん。古より以来、載籍の記す所、興衰存亡は、尠からずこれより由る」と。太宗はこれを納れた。ここにおいて崔浩をして策を奉じて宗廟に告げしめ、世祖を国副主と命じ、正殿に居て朝に臨ませた。 司徒 の長孫嵩・山陽公の奚斤・北新公の安同は左輔と為り、東廂に坐して西面し、崔浩と 太尉 の穆観・ 散騎常侍 の丘堆は右弼と為り、西廂に坐して東面した。百僚は己を総べてこれを聴いた。太宗は西宮に避居し、時に隠れてこれを窺い、その決断を聴き、大いに悦び、左右の侍臣に謂って言うには、「長孫嵩は宿徳の旧臣、四世に歴事し、功は社稷に存す。奚斤は弁捷智謀、名は遐邇に聞こゆ。安同は俗情を暁解し、事に明練なり。穆観は政要に達し、吾が旨趣を識る。崔浩は博聞強識、天人の会に精し。丘堆は大用無きも、然れども公に在りて専謹なり。この六人を以て輔相せしめ、吾は汝曹と四境を遊行し、叛を伐ち服を柔らげ、天下に志を得ん」と。群臣が時に疑わしきを奏すと、太宗は言う、「これは我の知る所に非ず、決すべくは汝曹の国主なり」と。
ちょうど劉裕の死を聞き、太宗は洛陽・虎牢・滑臺を取らんとした。崔浩は言う、「陛下は劉裕が歘起したことを以てせず、その使貢を納れ、裕もまた陛下を敬事しました。不幸にも今死せり。喪に乗じてこれを伐つは、たとえ得るとも令しからず。春秋に、晋の士丐が師を帥いて斉を侵し、斉侯の卒すを聞き、乃ち還ったとある。君子はその喪を伐たざるを大とし、恩は孝子を感ぜしむるに足り、義は諸侯を動かすに足ると為す。今、国家もまた一挙にして江南を定めることはできず、宜しく人を遣わして弔祭し、その孤弱を存し、その凶災を恤み、義風を天下に布くは、徳を令する事なり。もしこのようにすれば、則ち化は荊揚に被り、南金・象歯・羽毛の珍は、求めずして自ずから至らん。裕は新たに死し、党与は未だ離れず、兵をその境に臨めば、必ず相率いて拒戦し、功は必ずしも得られず、緩やかにするに如かず、その悪の熟するを待て。もしその強臣が権を争わば、変難必ず起こらん。然る後に将を命じて威を揚げれば、士卒を労せずして淮北の地を収めん」と。太宗は鋭意南伐し、崔浩を詰めて言う、「劉裕は姚興の死に因ってその国を滅ぼした。裕の死に我が伐つは、何を以て不可と為すか」と。崔浩は固執して言う、「興が死し、二子交争したので、裕は乃ちこれを伐ったのです」と。太宗は大いに怒り、崔浩の言に従わず、遂に奚斤を遣わして南伐させた。監国の前で議して言うには、「先に城を攻むるか?先に地を略するか?」と。奚斤は言う、「請う、先に城を攻めん」と。崔浩は言う、「南人は城を守るに長じ、苻氏が襄陽を攻め、一年を経ても抜けず。今、大国の力を以てその小城を攻め、もし時に克たずんば、軍勢を挫損し、敵は徐々に厳しくして来らん。我は怠り彼は鋭し、危き道なり。軍を分けて地を略し、淮を限りと為し、守宰を列置し、租穀を収歛するに如かず。滑臺・虎牢は反って軍の北に在り、南の救いを望み絶たれ、必ず河に沿って東走せん。もし或いは然らずんば、即ち是れ囿中の物なり」と。公孫表は先ずその城を図らんことを請うた。奚斤らは河を済り、先ず滑臺を攻め、時を経ても抜けず、表は師を済すことを請うた。太宗は怒り、乃ち親しく南巡した。崔浩を相州 刺史 に拝し、左光禄大夫を加え、軍に随って謀主と為した。
車駕の還るに及び、崔浩は太宗に従って西河・太原に幸す。高陵の上に登り憚り、下は河流に臨み、傍らに川域を覧て、慨然として感有り、遂に同僚と五等郡県の是非を論じ、秦始皇・漢武帝の違失を考う。古を好み治を識り、時にその言を伏す。天師の寇謙之は毎に崔浩と語り、その古の治乱の迹を論ずるを聞き、常に夜より旦に達し、意を竦め容を斂めて、懈倦する所無し。既にしてこれを歎美して言うには、「この言は恵みなり、皆な底行すべく、また当今の皐繇なり。但だ世人は遠きを貴び近きを賤しみ、深くこれを察する能わざるのみ」と。因って崔浩に謂って言うには、「吾は行道隠居し、世務を営まず、忽ち神中の訣を受く。兼ねて儒教を修め、泰平真君を輔助し、千載の絶統を継がんとす。而るに学びて古を稽えず、事に臨みて闇昧なり。卿、吾がために王者の治典を撰列し、併せてその大要を論ぜよ」と。崔浩は乃ち書二十余篇を著し、上は太初を推し、下は秦漢の変弊の迹を尽くし、大旨は先ず五等を復するを本と為す。
世祖即位す。左右は崔浩の正直を忌み、共に排毀す。世祖はその能を知るも、群議を免れず、故に崔浩を出し、公として第に帰らしむ。疑議有るに及び、召して問う。崔浩は繊妍潔白にして、美婦人の如し。而して性は敏達、謀計に長ず。常に張良に自比し、己の稽古はこれを過ぐると謂う。第に帰るを得てより、因って服食養性の術を修めんと欲す。而して寇謙之に神中録図新経有り、崔浩は因ってこれを師とす。
始光の中、爵を進めて東郡公と為し、太常卿を拝す。時に赫連昌を討つことを議す。群臣は皆な難しと為すも、唯だ崔浩のみ言う、「往年より以来、熒惑再び羽林を守り、皆な鈎己を成し、その占いは秦の亡ぶるなり。また今年五星並び出でて東方に在り、西伐に利あり。天応人和、時会並び集る、失うべからざるなり」と。世祖は乃ち奚斤らをして蒲坂を撃たしめ、而して親しく軽騎を率いてその都城を襲い、大いに獲て還る。世祖が復た昌を討つに及び、その城下に次し、衆を収めて偽り退く。昌は鼓譟して前し、陣を舒けて両翼と為す。時に風雨有りて東南より来たり、沙を揚げて昏冥す。宦者の趙倪進みて言う、「今、風雨賊の後より来たり、我は彼に向かい彼は背く、天人の助けず。また将士飢渇す。願わくは陛下騎を摂めてこれを避け、更に後日を待たん」と。崔浩これを叱して言う、「是れ何の言ぞや!千里制勝、一日の中豈に変易を得んや?賊は前行止まず、後は已に離絶せり。宜しく軍を分けて隠然と出で、奄かに撃って不意にせよ。風道は人に在り、豈に常有らんや!」と。世祖は言う、「善し」と。騎を分かち奮撃し、昌の軍大いに潰る。
初めに、太祖(道武帝)は 尚書 郎の鄧淵に詔して国記十余巻を著わさせたが、編年体で事を次ぐも、体例は未だ完成せず。太宗(明元帝)に至り、廃して述べず。神䴥二年、諸文人を集めて国書を撰録することを詔し、崔浩及びその弟の崔覧、高讜、鄧穎、晁継、范亨、黄輔らが共に著作に参じ、国書三十巻を叙成した。
この年、蠕蠕( 柔然 )を撃つことを議し、朝臣内外は皆行きたがらず、保太后が固く世祖(太武帝)を止めたが、世祖は皆聴かず、ただ崔浩のみが策略に賛成した。 尚書令 の劉潔、左 僕射 の安原らは、黄門侍郎の仇齊に赫連昌の太史である張淵・徐辯を推させて世祖に説かせた。「今年は己巳、三陰の歳であり、歳星が月を襲い、太白は西方にある。兵を挙ぐべからず。北伐は必ず敗れ、たとえ克っても上(天子)に利あらず」と。また群臣共に淵らに賛同し、「淵は少時に嘗て苻堅に南征すべからずと諫めたが、堅は従わずして敗れた。今、天時人事ともに和協せず、どうして挙動できようか」と言った。世祖は決意が定まらず、乃ち崔浩を召して淵らと弁論させた。
崔浩は張淵を難じて言った。「陽は徳なり、陰は刑なり。故に日蝕には徳を修め、月蝕には刑を修む。王者の刑を用いるや、大なるは則ちこれを原野に陳べ、小なるは則ちこれを市朝に肆す。戦伐は、刑を用いる大なる者なり。これをもって言えば、三陰に兵を用いるは、蓋しその類を得たるもの、刑を修むの義なり。歳星月を襲うは、年飢えて民流る、応は他国にあり、遠き期は十二年なり。太白倉龍宿を行くは、天文において東に在り、北伐を妨げず。淵らは俗生にして、志意浅近、小数に牽かれ、大体に達せず、遠図と謀り難し。臣が天文を観るに、比年以来、月行昴を奄し、今に至るも猶然たり。その占いは『三年にして、天子大いに旄頭の国を破る』と。蠕蠕・ 高車 は、旄頭の衆なり。聖明時に御するは、非常の事を行い得る。古人の語に曰く『非常の原、黎民懼る、その成功に及びて、天下晏然たり』と。願わくは陛下疑うことなかれ」。淵らは慚じて言った。「蠕蠕は荒外の無用の物、その地を得ても耕して食うべからず、その民を得ても臣として使うべからず。軽疾にして常なく、得て制し難し。何ぞ汲々として士馬を苦労せしむるや」。浩曰く、「淵が天時を言うは、これその職とする所、形勢を論ずるは、彼の知る所に非ず。これは漢世の旧説常談にして、今に施すに、事宜に合わず。何をもってかこれを言う。夫れ蠕蠕は、旧は国家の北辺の叛隷、今その元悪を誅し、その善民を収め、旧役に復せしむるは、無用に非ず。漠北は高涼にして蚊蚋生ぜず、水草美善、夏は則ち北に遷る。その地を田牧するは、耕して食うべからざるに非ず。蠕蠕の子弟来降するは、貴き者は尚公主し、賤しき者は将軍・大夫となり、朝列に満ちて居る。又た高車は名騎と号す、臣として畜うべからざるに非ず。南人をもってこれを追えば、則ちその軽疾を患うも、国兵においては然らず。何となれば、彼遠く走る能く、我も亦た遠く逐う能く、これと進退するは、制し難きに非ず。且つ蠕蠕は往時数たび国に入り、民吏震驚す。今夏虚に乗じて掩い進まず、その国を破滅せずんば、秋に至りて復来り、安臥を得ず。太宗の世より今日に至るまで、歳として驚かざるは無し。豈に汲々たらざらんや。世人皆淵・辯は数術に通解し、成敗を明決すと謂う。臣請う試みにこれを問わん、西国(夏)未だ滅びざる前に何の亡徴有りやと。知りて言わざれば、これその不忠、若し実に知らざれば、これその無術なり」。時に赫連昌座に在り、淵らは先言無きを以て、慚赧して対うる能わず。世祖大いに悦び、公卿に謂いて曰く、「吾が意決せり。亡国の師は与に謀るべからず、信なるかな」。而して保太后猶これを難じ、復た群臣をして保太后の前に於いて評議せしむ。世祖、浩に謂いて曰く、「此ら意猶伏せず、卿善くこれを曉して悟らしめよ」。
既に朝を罷みて、或る者浩を尤めて曰く、「今呉賊南に寇すもこれを捨てて北伐す。師を千里に行かしむ、その誰か知らざらん。若し蠕蠕遠く遁れば、前に獲る所無く、後に南賊の患い有り、危きの道なり」。浩曰く、「然らず。今年蠕蠕を摧かずんば、則ち以て南賊を禦ぐこと無からん。国家西国を 并 せしより以来、南人恐懼し、声を揚げて衆を動かし以て淮北を 衞 う。彼は北に我は南に、彼は労し我は息う、その勢然りなり。比くに蠕蠕を破る、往還の間、故にその至るを見ざるなり。何をもってかこれを言う。劉裕関中を得て、その愛子を留め、精兵数万、良将勁卒、猶固守すること能わず、挙軍尽く没す。号哭の声、今に至るまで未だ已まず。如何ぞ正に国家休明の世、士馬強盛の時に当たりて、駒犢を以て虎口に歯せんと欲するや。設令国家これに河南を与うとも、彼必ずこれを守る能わず。自ら量りて守る能わざるを以て、是をもって必ず来らざるなり。若し或いは衆有らば、辺を備うるの軍のみ。瓶水の凍るを見て、天下の寒きを知り、肉一臠を嘗めて、鑊中の味を識る。物その類有り、推して得べし。且つ蠕蠕はその絶遠を恃み、国家力至る能わずと謂い、自ら寛ぐこと久し、故に夏は則ち衆を散じ畜を放ち、秋肥えて乃ち聚まり、寒に背き温に向かい、南来り寇抄す。今その慮表に出で、その不備を攻む。大軍卒然として至れば、必ず驚駭星分し、塵を望んで奔走せん。牡馬は群を護り、牝馬は駒を恋い、駆馳制し難く、水草を得ず、数日を過ぎざれば則ち聚まりて困敝す、一挙にして滅ぼすべし。暫く労して永く逸す、長久の利、時失うべからず。唯だ上に此の意無きを患う、今聖慮已に決し、曠世の謀を発す、如何ぞこれを止めん。陋なるかな、公卿らよ」。諸軍遂に行く。天師(寇謙之)、浩に謂いて曰く、「この行や、これを如何、果たして克つべしや」。浩対えて曰く、「天時形勢、必ず克つこと疑い無し。但だ諸将瑣瑣たるを恐る、前後顧慮し、勝に乗じて深く入る能わず、全挙せしめざるを」。
軍その境に入るに及び、蠕蠕は先だって設備せず、民畜野に布き、驚怖四散し、相収摂する莫し。ここにおいて軍を分かちて捜討し、東西五千里、南北三千里、凡そ俘虜せし所及び獲たる畜産車廬、山澤に瀰漫し、蓋し数百万。高車蠕蠕の種類を殺し、帰降する者三十余万落。虜遂に散乱す。世祖弱水に沿いて西行し、涿邪山に至る。諸大将果たして深く入れば伏兵有りやと疑い、世祖を勧めて停止し追わず。天師、浩の曩日の言を以て、固く世祖を勧めて窮討せしむも、聴かず。後に降人有りて言う、蠕蠕の大檀は先に疾を被り、為す所を知らず、乃ち穹廬を焚焼し、科車に自ら載せ、数百人を将いて山南に走る。民畜窘聚し、方六十里の中、人領統する無し。相去ること百八十里、追軍至らず、乃ち徐徐として西に遁る、唯だ此れを得て免る。後に涼州の賈胡の言を聞くに、若し復た前行すること二日なば、則ち尽くこれを滅ぼし得たりと。世祖深くこれを恨む。大軍既に還り、南賊竟に動く能わず、浩の量る所の如し。
浩は天文に明るく、星の変化を観察することを好んだ。常に金銀銅の鋌を酢の器の中に入れて青くさせ、夜に何か見えることがあれば、すぐに鋌で紙に字を書き記してその異変を記録した。世祖はたびたび浩の邸宅に行幸し、多く異事について尋ねた。ある時は急なことで帯を締める暇もなく、野菜の食事を進上し、精美を整える暇もなかった。世祖は匙や箸を取って食べ、あるいは立ったまま味わってすぐに帰った。その寵愛はこのようなものであった。そこで浩を引き入れて寝所に出入りさせ、 侍中 ・特進・撫軍大将軍・左光禄大夫を加え、謀略の功を賞した。世祖はゆったりと浩に言った、「卿の才智は淵博であり、朕の祖父・父に仕え、忠誠は三代にわたって顕著である。朕は故に卿を近くに引き寄せた。思う存分に規諫を尽くし、朕を補佐し輔弼せよ。隠しごとはするな。朕はたとえその時に怒りを遷すことがあっても、もし用いないことがあれば、長い時を経て卿の言を深く考えぬことはない。」そこで歌工に命じて群臣を順に称えさせた。事は長孫道生伝にある。また新たに降伏した高車の渠帥数百人を召し出し、面前で酒食を賜った。世祖は浩を指して彼らに示し、言った、「汝らはこの人を見よ。痩せて弱々しく、手で弓を引き矛を持つことはできないが、その胸に抱くところは、甲冑と兵器を超えている。朕は初め征討の意図はあったが、自ら決断できずに悩んでいた。前後にわたる勝利は、皆この人が朕を導いてここまで至らしめたのである。」そこで諸尚書に命じて言った、「およそ軍国大計で、卿らが決められないものは、皆まず浩に諮問し、それから施行せよ。」
まもなく南方の諸将が上表して、劉義隆が大いに軍備を整え、河南を侵犯しようとしていると述べ、兵三万を請い、彼が未だ発する前に迎撃し、それに乗じて境界上にある河北の流民を誅殺し、その道案内を絶ち、その鋭気を挫き、深入りさせないようにするに足りるとした。詔して公卿に議させると、皆許すべきと言った。浩は言った、「これは従うべきではない。往年、国家は蠕蠕を大破し、馬力に余裕がある。南賊は震え恐れ、常に軽兵が突然到来することを恐れ、寝床でも安らかでなく、故に先に声勢を挙げて衆を動かし、不測の事態に備えているのであって、敢えて先に発するものではない。また南方の土地は低湿で、夏の月は蒸し暑く、水害がちょうど多く、草木は深く茂り、疫病が必ず起こり、軍を動かす時ではない。しかも彼らは先に軍備を整えており、必ず堅城を固守するであろう。軍を屯させて攻めれば、食糧が供給できず;兵を分けて討伐すれば、敵に対応する術がない。その利益は見られない。仮に来ることができたとしても、その疲労を待ち、秋の涼しさで馬が肥え、敵に因って食糧を奪い、ゆっくりと進んでこれを撃つのが万全の計であり、勝利は必ず得られるであろう。朝廷の群臣および西北の守将は、陛下に従って征討し、西では赫連を滅ぼし、北では蠕蠕を破り、多くの美女珍宝を得、馬や家畜は群れをなしている。南方の諸将はこれを聞いて羨み、また南方を掠めて資財を取ろうと欲している。それ故に毛を分けて瑕を求め、妄りに賊の勢いを誇張し、思いのままにしたいと望んでいるのである。聞き入れられないと、故にしばしば賊の動きを称え、朝廷を恐れさせている。公を背き私を存し、国のために事を生じさせるのは、忠臣ではない。」世祖は浩の議に従った。南方の諸将は再び上表して賊が到来したとし、自ら兵が少ないと陳べ、幽州以南の戍兵を選んで守備を助けさせ、漳水で船を造り、厳重に備えとするよう求めた。公卿の議する者は皆そうであり、騎兵五千を派遣し、さらに司馬楚之・魯軌・韓延之らに仮の官職を与え、辺境の民を誘引させようとした。浩は言った、「上策ではない。彼らは幽州以南の精兵が悉く出動し、大いに舟船を造り、軽騎が後ろにいることを聞けば、司馬氏を存立させ、劉氏の一族を誅除しようとしていると思い、必ず国を挙げて驚き騒ぎ、滅亡を恐れ、精鋭を悉く発して北方の境を備えるであろう。後になって官軍が声だけで実がないと知れば、先に集まったことを恃み、必ず喜んで前進し、まっすぐに黄河まで来て、侵暴をほしいままにし、我が守将はこれを防ぐ術がない。もし彼らに機を見る者がいて、巧みに権謀術数を設け、隙に乗じて深入りし、我が国の空虚を虞れば、変乱を生じさせるのは難しくなく、敵を制する良計ではない。今、公卿が威力をもって賊を撃退しようとするのは、かえって彼らを招いて速やかに来させようとするものである。虚声を張って実害を招くとは、このことを言うのである。考えないわけにはいかず、後悔しても及ばない。我が方の使者は彼の地にいて、四月前に帰還する予定である。使者が至るのを待ち、詳しく確かめてから発すれば、まだ遅くはない。かつ楚之の徒は、彼らが忌むところであり、その国を奪おうとするのである。彼らがどうして端座してこれを見ていられようか。故に楚之が行けば彼らは来り、止まれば彼らはやむ。その勢いはそうなるのである。かつ楚之らは取るに足らない才能で、軽薄な無頼の徒を招き集めることはできても、大功を成し遂げることはできない。国のために事を生じさせ、兵禍を連鎖させるのは、必ずこのような連中である。臣はかつて魯軌が姚興に求めて荊州に入ったが、到着すると散り敗れ、ついには蛮賊に掠められて奴隷として売られ、禍が姚泓に及んだことを聞いた。これは既に現れた効果である。」浩はまた天時が彼らに不利であることを陳べた、「今年は害気が揚州にあり、先に兵を挙げるのに宜しくない。これが一つ。午の年は自らを刑する年であり、先に発する者は傷つく。これが二つ。日蝕が光を滅ぼし、昼間が暗く星が見え、飛ぶ鳥が落ち、宿が斗牛に値し、危亡を憂うべきである。これが三つ。熒惑が翼軫に伏匿し、乱と喪を戒めている。これが四つ。太白が未だ出ず、進兵する者は敗れる。これが五つ。国を興す君主は、まず人事を修め、次に地利を尽くし、後に天時を観る。故に万回挙げても万回全うし、国は安らかで身は盛んとなる。今、義隆の国は新しく、人事が未だ行き届いていない。災変が屡々現れるのは、天時が調和していない。舟を行わせるのに水が涸れるのは、地利を尽くしていない。三つの事のうち一つも成らず、自ら守るのでさえ不安であるのに、どうして先に発して人を攻められようか?彼らは必ず我が虚声を聞いて厳重に備え、我らもまた彼らの厳重な備えに乗じて動く。両者共にその咎を推し、皆自らが敵に対応していると思う。兵法では災いを分かち、害気を受けるのを迎えるべきであり、挙動すべきではない。」
世祖は衆に逆らうことができず、公卿の議に従った。浩はまた固く争ったが、従わなかった。そこで陽平王杜超を鄴に鎮守させ、琅邪王司馬楚之らを潁川に屯させた。すると賊の来襲はたちまち速くなり、到彦之が清水から黄河に入り、流れを遡って西行し、兵を分けて南岸に列して守り、西は潼関に至った。
世祖は赫連定が劉義隆と河北を分け合おうとしていると聞き、兵を整え、まず赫連を討とうとした。群臣は言った、「義隆はまだ河中におり、これを捨てて西行すれば、前の敵(赫連)を必ずしも討ち取れるとは限らず、義隆が虚に乗じれば、東州を失うことになります。」世祖は疑い、浩に計を問うた。浩は言った、「義隆と赫連定は同悪相招き、馮跋と連結し、蠕蠕を牽引して、逆心をほしいままにしようと図り、虚しく唱和している。義隆は定の進むのを望み、定は義隆の前進を待っている。皆敢えて先に入る者はない。臣の観るところでは、連ねられた鶏のようで、共に飛ぶことができず、害をなすことはできない。臣は初め、義隆の軍が来たら河中に屯住し、二道に分かれて北上し、東道は冀州に向かい、西道は鄴を衝くであろうと思った。そうなれば、陛下は自ら討伐に赴かねばならず、ゆっくり行くことはできない。今はそうではない。東西に兵を列ね、距離は二千里に及び、一箇所に数千に過ぎず、形は分かれ勢いは弱い。これを見るに、臆病な子供の心情が現れており、ただ黄河を固めて自ら守り、死を免れて幸いとするのみで、北に渡る意思はない。赫連定は残った根は容易く摧け、これに擬すれば必ず倒れる。定を平定した後、東に出て潼関を越え、巻き席のように前進すれば、威は南極に震い、江淮以北には一本の草も立たなくなるであろう。聖なる策は独りで発せられ、愚かな近臣の及ぶところではない。願わくば陛下は西行を疑わないでください。」平涼が平定されると、その日の宴会で、世祖は浩の手を取って蒙遜の使者に示して言った、「先に言った崔公とは、これである。才略の美は、当今比類がない。朕の行くところ止まるところは必ず彼に問い、成敗は彼が決する。符契が合うように、初めから誤りはなかった。」後に冠軍将軍安頡の軍が帰還し、南方の捕虜を献上した。その際、南賊の言葉として、義隆がその諸将に命じたことを述べた。もし北国の兵が動けば、その未だ至らぬ先に、まっすぐに黄河に入れ。もし動かなければ、彭城に留まって進むな、と。浩の量った通りであった。世祖は公卿に言った、「卿らは以前、朕が浩の計を用いるのは誤りだとし、驚き怖れて固く諫めた。常勝の家は、初めは皆自ら人をはるかに超えていると言うが、終わりに至っては、及ばないのである。」浩を 司徒 に遷した。
時に方士の祁纖が四王を立てることを奏上し、東西南北を日になぞらえて名とし、以て吉祥を招き、災異を除かんとした。詔して浩に学士とこれを議せしむ。浩対えて曰く、「先王は国を建てて藩屏と為すも、名を仮りて以てその福と為すべからず。夫れ日月は運転し、四方を周歴す。京都の居る所は、その内に在り。四王の称は、実に邦畿を奄う。これを名づくれば則ち逆なり、承用すべからず」と。先に、纖が代を万年と改むるを奏す。浩曰く、「昔、太祖道武皇帝は、天に応じて命を受け、洪業を開拓し、諸の制置する所、古に循わざるは無し。始め代土に封ぜられ、後に魏と称せられし故に、代・魏を兼用し、猶彼の殷商の如し。国家は徳を積み、図史に著る。まさに万億を享くべく、名を仮りて以て益と為すを待たず。纖の聞く所は、皆正義に非ず」と。世祖これに従う。
この時、河西王の沮渠牧犍は、内に二心あり。世祖将にこれを討たんとし、先ず浩に問う。浩対えて曰く、「牧犍の悪心は既に露わなり、誅せざるべからず。官軍往年北伐するも、克ち獲ざりしと雖え、実に損する所無し。当時行く者、内外の軍馬三十万匹、道中に死傷するを計るに八千に満たず。歳常に羸死するは、恒に万を減ぜず、乃ちこれに少なからず。而して遠方虚を承け、便ち大損と謂い、復た振るう能わずとす。今その不意に出で、大軍の卒然として至るを図らず、必ず驚駭騒擾し、出ずる所を知らず、これを擒らうること必なり。且つ牧犍は劣弱にして、諸弟驕恣、権を争い従横し、民心離解す。比年以来越えて、天災地変、皆秦涼に在り、滅ぶべき国なり」と。世祖曰く、「善し、吾が意も亦た然りと為す」と。公卿をしてこれを議せしむ。弘農王の奚斤等三十余人皆曰く、「牧犍は西垂の下国、心純臣に非ざると雖え、然れども父の職貢を継ぎ、朝廷これに蕃礼を以て接す。又た王姫釐降し、罪甚だ彰れず。謂うらくは羈縻するのみとすべし。今士馬労止す、宜しく小息すべし。又たその地は鹵斥し、略々水草無し。大軍既に到れば、久しく停まるを得ず。彼軍来るを聞けば、必ず城を完聚して守り、攻むれば則ち抜き難く、野に掠むる所無し」と。ここにおいて尚書の古弼・李順の徒皆曰く、「温圉河以西より、姑臧城南の天梯山に至るまで、冬に積雪有り、深さ一丈余、春夏に至り消液し、下流して川と成り、引きて以て溉灌す。彼軍至るを聞けば、この渠口を決し、水通流せず、則ち渇乏を致す。城を去ること百里の内、赤地草無く、又た久しく軍馬を停めるに任せず。斤等の議是なり」と。世祖乃ち浩をしてその前言を以て斤と共に相難抑せしむ。諸人復た余言せず、唯だ「彼に水草無し」と曰うのみ。浩曰く、「漢書地理志に称す、『涼州の畜は、天下の饒と為す』と。若し水草無くば、何を以てか畜牧せん。又た漢人の居と為すは、終に水草無きの地に城郭を築き、郡県を立てず。又た雪の消液は、纔かに塵を斂めず、何ぞ渠を通じ漕を引き、数百万頃を溉灌せん。この言は大いに人を詆誣するものなり」と。李順等復た曰く、「耳聞は目見に如かず。吾曹目見す、何ぞ共に弁せん」と。浩曰く、「汝曹は人の金銭を受け、これが為に辞せんと欲し、我が目見ざるを謂いて便ち欺くべしとす」と。世祖隠れて聴き、これを聞きて乃ち出で、親しく斤等に見え、辞旨厳厲、神色に形わる。群臣乃ち敢えて復た言せず、唯唯するのみ。ここにおいて遂に涼州を討ちてこれを平らぐ。水草多く饒なり、浩の言う如し。
乃ち浩に詔して曰く、「昔、皇祚の興るや、世に北土に隆え、徳を積み仁を累ね、多年を歴、沢蒼生に流れ、義四海に聞こゆ。我が太祖道武皇帝は、天人に協順し、以て服さざるを征し、期に応じて乱を撥い、区夏を奄う。太宗統を承け、前緒を光隆し、刑典を釐正し、大業惟れ新たなり。然れども荒域の外は、猶未だ賓服せず。これ祖宗の遺志にして、功を後に貽す所なり。朕は眇身を以て、宗廟を奉ずることを獲、戦戦兢兢、淵海に臨むが如く、荷うて至重に負う能わざるを懼れ、名を継ぎて丕烈を継がんとす。故に即位の初め、寧処に遑あらず、威を朔裔に揚げ、赫連を掃定す。神䴥に逮り、始めて史職に命じ前功を注集せしめ、以て一代の典を成す。爾来已来、戎旗仍って挙がり、秦隴克く定まり、徐兗塵無く、逋寇を龍川に平らげ、孽豎を涼域に討つ。豈に朕一人の此に済わるのみならんや、宗廟の霊に頼り、群公卿士の力を宣ぶるの効なり。而して史その職を闕き、篇籍著わさず、毎にこの事の墜つるを懼る。公の徳は朝列に冠たり、言は世の範と為り、小大の任、君のこれを存するを望む。公を留台に命じ、史務を綜理せしめ、この書を述成せしむ。務めて実録に従え」と。浩ここに於いて秘書事を監し、 中書 侍郎の高允・散騎侍郎の張偉を以て著作に参じ、前紀を継成せしむ。損益褒貶に至り、折中潤色するは、浩の総ぶる所なり。
恭宗始めて百揆を総ぶるに及び、浩復た宜都王の穆寿と政事を輔く。時に又た将に蠕蠕を討たんとす。劉潔復た異議を致す。世祖愈々これを討たんと欲し、乃ち浩を召して問う。浩対えて曰く、「往きて蠕蠕を撃つに、師多く日ならず、潔等各々回還せんと欲す。後にその生口を獲たるに、云う、軍還るの時、賊を去ること三十里と。是れ潔等の計の過ちなり。夫れ北土は積雪多く、冬時に至れば常に寒を避けて南徙す。若しその時に因り、潜軍して出でば、必ずこれと遇い、則ち擒獲すべし」と。世祖然りと為す。乃ち軍を分かちて四道と為し、諸将に詔して俱に鹿渾海に会せしむ。期日に定め有り。而して潔は計用いられざるを恨み、諸将を沮誤し、功無くして還る。事は潔伝に在り。
世祖西巡し、浩と尚書・順陽公の蘭延に詔して行臺中外諸軍事を 都督 せしむ。世祖東雍に至り、親しく汾曲に臨み、叛賊の薛永宗の壘を観、進軍してこれを囲む。永宗出兵して戦わんと欲す。世祖浩に問うて曰く、「今日撃つべしや否や」と。浩曰く、「永宗は未だ陛下の自ら来たるを知らず、人心安閑なり。北風迅疾なり。宜しく急ぎこれを撃つべし。須臾のうちに必ず碎けん。若し明日を待たば、その官軍の盛大なるを見るを恐れ、必ず夜に遁走せん」と。世祖これに従う。永宗潰滅す。車駕河を済え、前駆賊の渭北に在るを告ぐ。世祖洛水橋に至れば、賊は既に夜に遁れり。詔して浩に問うて曰く、「蓋吳は 長安 北九十里に在り。渭北地空しく、穀草備わらず。渭南に渡り西行せんと欲す。いかん」と。浩対えて曰く、「蓋吳の営は此を去ること六十里、賊魁の所在なり。蛇を撃つの法は、まさに頭を破るべく、頭破れば則ち尾豈に復た動く能わんや。宜しく勢いに乗じて先ず呉を撃つべし。今軍往かば、一日にして便ち到らん。呉を平げての後、長安に向かい回れば、亦た一日にして至らん。一日の内、未だ便ち損傷せず。愚謂うらくは北道に従うべし。若し南道に従わば、則ち蓋吳徐かに北山に入り、卒に平げ可からず」と。世祖従わず、乃ち渭南に渡る。呉世祖の至るを聞き、尽く散じて北山に入る。果たして浩の言う如く、軍克つ所無し。世祖これを悔う。後に浩の東宮を輔くるの勤めを以て、繒絮布帛各千段を賜う。
著作令史の太原の閔湛・趙郡の郄標、素より諂って浩に事う。乃ち石銘を立て、国書を刊載し、 并 せて注する所の五経を勒せんことを請う。浩これを賛成す。恭宗善しとす。遂に天郊の東三里に営み、方百三十歩、功三百万を用いて乃ち訖る。
世祖(太武帝)が河西で狩猟を行い、詔を下して崔浩を行在所に召し寄せ、軍事を議させた。崔浩が上表して言うには、「昔、漢武帝は 匈奴 の強盛を憂い、涼州五郡を開き、西域に通じ、農を勧めて穀物を蓄積し、賊を滅ぼす資としました。東西より相次いで撃ちました。故に漢は未だ疲れず、匈奴は既に弊せられ、後に遂に入朝しました。かつて涼州を平定した際、臣の愚見では、北賊未だ平らかでなく、征役止まず、その民を移すべきではなく、前世の故事を案じ、長者の計を立てるべきであると考えました。もし民人を移せば、土地は空虚となり、たとえ鎮戍があっても、ただ辺境を防ぐに足るのみで、大挙して出撃するには、軍資必ず乏しくなります。陛下はこの事を闊遠として、遂に施行されませんでした。臣の愚意では、なお以前の議の如く、豪強の大家を募り移住させ、涼土を充実させ、軍を挙げる日には、東西斉しく勢いを合わせるのが、この計の得るところです」。
崔浩はまた五寅元暦を上奏し、上表して言うには、「太宗(明元帝)が即位された元年、臣に急就章・孝経・論語・詩・尚書・春秋・礼記・周易を解釈するよう命じられました。三年で完成しました。再び詔を下され、臣に天文・星暦・易式・九宮を学ばせ、全てを見尽くさぬものはありませんでした。今に至る三十九年、昼夜廃れることなく努めて参りました。臣は生来弱劣で、力は健やかな婦人にも及ばず、他に余能もありません。それ故に専心書物に思いを致し、寝食を忘れ、遂には夢に鬼と義を争うに至りました。こうして周公・孔子の要術を得、始めて古人には虚有り実有り、妄語する者多く、真正なる者少ないことを知りました。秦の始皇が書を焼いて以来、經典は絶滅しました。漢の高祖以来、世人が妄りに暦術を造る者十余家あり、皆天道の正を得ず、大誤四千、小誤甚だ多く、言い尽くせません。臣はそのこのような有様を哀れみます。今、陛下の太平の世に遭い、偽を除き真に従い、誤った暦を改め、天道に従うべきです。それ故に臣は前に暦を造ることを奏上し、今ようやく完成しました。謹んで奏呈いたします。ただ恩を以て省察され、臣の暦術を中書博士に宣示された上、然る後に施行されますよう。時に人だけでなく、天地鬼神も臣が正を得たことを知り、国家万世の名を益し、三皇・五帝を超えることができます」。事は律暦志にある。
真君十一年(450年)六月、崔浩を誅殺し、清河の崔氏は遠近を問わず、范陽の盧氏・太原の郭氏・河東の柳氏は、皆崔浩の姻親であり、その族を尽く滅ぼした。初め、郄標らが石に銘を刻み国記を刊行したが、崔浩は国事を尽く述べて、詳備ではあるが典拠に則らなかった。そして石銘が大道に顕わに在り、往来の行者が皆これを話題としたため、事は遂に発覚して聞こえた。有司が崔浩を取り調べ、秘書郎吏及び長暦生数百人の意向と状況を取った。崔浩は賄賂を受け取ったことを伏して認め、その秘書郎吏以下は尽く死罪となった。
崔浩が弱冠の頃、太原の郭逸が娘を娶わせた。崔浩は大成が遅く、華やかな才を輝かせなかったため、当時の人は知らなかった。郭逸の妻王氏は、劉義隆(宋の文帝)の鎮北将軍王仲徳の姉であり、常に崔浩の才能を奇異とし、自ら良き婿を得たと思った。間もなく娘が亡くなると、王氏は深く傷み恨み、更に末娘を継いで婚させた。郭逸と親族は良くないと考えたが、王氏は固執してこれを与え、郭逸は違えず、遂に重ねて縁組を結んだ。崔浩は仏法を誹謗したが、妻の郭氏は釈典を敬い好み、時折読誦した。崔浩は怒り、取り上げて焼き、灰を厠に棄てた。崔浩が捕らえられ檻に入れられ、城南に送られ、衛士数十人にその上で小便をさせられた時、嗷嗷たる叫び声は道行く人に聞こえた。宰相級の者が戮辱を受けたことは、崔浩の如きはなく、世間では皆報応の証拠であると考えた。初め崔浩が李順を陥れ害そうとした時、その基は既に成り、夜、火を持って李順の寝室を焼く夢を見た。火が起こり李順が死に、崔浩は家族と共に立ってこれを見ていた。間もなく李順の弟の息子が号哭して出て来て、「此の輩、我が賊なり!」と言い、戈で彼らを撃ち、悉く河に投げ込んだ。目覚めてこれを悪夢と思い、館の客の馮景仁に告げた。景仁は言うには、「これは真に不善であり、もはや虚事ではありません。火で人を焼くとは、暴虐の極みです。乱の階梯となり禍の兆し、また自ら招くところです。商書に曰く、『悪の易きこと、火の原に燎るが如く、向かって近づくべからず、その猶お撲滅すべけんや』と。かつ悪の兆し始まる者には終わりに災いあり、不善を積む者には余慶なし。禍の階梯成りました。公はこれを図られるべきです」。崔浩は「私は今それを考えている」と言ったが、改めることができず、ここに至って族滅された。崔浩は書をよくしたので、多くの人が急就章の代筆を頼んだ。少からず老いるまで、初め労を厭わず、書いたものはおそらく百数を数え、必ず「馮代強」と称し、国を犯さざるを示した。その謹みこのようなものであった。崔浩の書体・勢いはその先人に及ぶが、妙巧は及ばなかった。世はその筆跡を宝とし、多くは裁ち切り綴り合わせて模範とした。
崔浩の母盧氏は、盧諶の孫である。崔浩が著した食経叙に曰く、「余は少より長ずるまで、耳目に聞き見る所、諸母諸姑の修める婦功に、酒食を蘊習せざるはなし。朝夕に舅姑を養い、四時に祭祀す。功力有りと雖も、僮使に任せず、常に手ずから親しんだ。昔、喪乱に遭い、飢饉重なって至り、粥と野菜で口を糊し、その物用を具えること能わず、十余年間は再び備え設けることはなかった。先妣(母)は久しく廃れ忘れられ、後生に知見なからんことを慮り、また少くして業書に習わず、乃ち口述して九篇を授けられた。文辞は約にして挙げ、婉にして章を成す。聡明で弁が立ち強く記憶する、皆この類いである。親の没した後、国が龍興の会に値い、暴を平らげ乱を除き、四方を拓定した。余は台鉉の位に備わり、大謀に参与し、賞は豊厚に獲、牛羊は沢を覆い、資財は巨万を累ねた。衣は重錦、食は梁肉。遠く平生を思い、季路が米を負った時を思えば、再び得ることはできない。故に遺文を序し、来世に示す」。
初め崔浩と冀州刺史の崔賾・ 滎陽 太守の崔模らは年齢が皆相次ぎ、崔浩が最年長、次が崔模、次が崔賾であった。三人は別祖であるが、崔模と崔賾は親族であった。崔浩はその家世が魏 晉 の公卿であることを恃み、常に崔模・崔賾を侮った。崔模は人に言うには、「桃簡(崔浩の小名)はただ我を欺くに足るのみで、どうして我が家の周兒(崔賾の小名)を軽んずるのか」と。世祖はこれをかなり聞き及んでいたため、崔浩を誅殺する時、二家は免れることができた。崔浩は既に仏・道を信じなかったが、崔模は深く帰依し、たとえ糞土の中であっても、毎度形像に礼拝した。崔浩はこれを大笑いし、「この頭を不浄な処に跪いて、是は胡の神なり」と言った。
【論】
史臣曰く、崔浩は才芸通博、天人を究め覧、政事の籌策、時にこれに二するもの莫し。これ其れ自ら子房に比する所以なり。太宗の政を為すの秋に属し、世祖の経営の日に値い、言は聴かれ計は従われ、区夏を寧廓す。遇い既に隆んなり、勤め亦茂なり。謀は蓋世と雖も、威未だ主を震わさず、末途邂逅し、遂に自ら全からず。豈に鳥尽きて弓蔵され、民その上を悪むや。将に器盈てば必ず概(溢)れ、陰害禍を貽すか。何ぞ斯の人にして斯の酷に遭う、悲しいかな。
校勘記