巻34

王洛兒は京兆の人である。若くして騎射に長じていた。太宗が東宮にあった時、帳下に給事し、遊猟に侍従して、朝から晩まで怠ることがなかった。性質は謹直で、過ちを犯したことがなかった。太宗が灅水の南で狩猟した時、氷を渡って進んだが、氷が陥没して馬が沈み、洛兒は水に飛び込み、太宗を奉じて岸に上げた。水は洛兒を没し、ほとんど凍死するところであったが、太宗は衣を解いてこれを賜った。ここより恩寵は日に日に厚くなった。天賜の末、太宗が外に出て居住した時、洛兒は朝晩侍衛し、少しの間も離れず、恭勤は至誠から発していた。元紹の逆乱の時、太宗の側近は洛兒と車路頭のみであった。昼は山嶺に居り、夜は洛兒の家に帰った。洛兒の隣人李道がひそかに奉給し、朝夕往復したので、民衆はよく知り、喜んで互いに告げた。紹はこれを聞き、道を捕らえて斬った。洛兒はなおも危難を冒して京都を往復し、大臣に通問したので、大臣は遂に出て奉迎し、百姓も駆けつけた。太宗が宮に還ると、 社稷 しゃしょく は安泰を得たが、洛兒に功があった。

太宗が即位すると、 散騎常侍 さんきじょうじ に拝された。詔して曰く、「士は家にあれば必ず孝敬を本とし、朝にあれば忠節を先とす。然らずんば、何をもって当世に身を立て、後代に名を揚げんや。 散騎常侍 さんきじょうじ 王洛兒・車路頭らは、左右に服勤すること十余年、忠謹恭肅にして、久しくしてますます至り、須臾の間も廃替の心がなかった。艱難に及んで、人は皆志を変えたが、洛兒らは命を授けられても動かず、貞操は懇ろさを超えた。漢の樊噲・灌嬰、魏の許褚・典韋といえどもこれに加えることはできない。勤めて賞せざれば、何をもって将来の臣節を奨励しようか。洛兒に爵を新息公と賜い、直意将軍を加える」と。またその父を追贈して列侯とし、僮隷五十戸を賜った。永興五年に卒した。 太尉 たいい ・建平王を贈られ、温明の秘器を賜い、轀輬車に載せ、殿中衛士に導従させた。太宗は親しく臨んで哀慟すること数度に及んだ。そしてその妻周氏を鴆殺し、洛兒と合葬させた。

子の長成が爵を襲いだ。卒し、子がなかった。

弟の徳成が爵を襲いだ。建城公に徙封され、鎮遠将軍を加えられた。官は 散騎常侍 さんきじょうじ に至り、 長安 ちょうあん の作事を典した。真君十一年に卒した。

子の定州が爵を襲いだ。建陽侯・安遠将軍に降格された。後に定州の弟の升が侍御中散となり、顕祖に寵愛され、祖父の洛兒が先朝に勲功を著したことを以て、詔して定州の爵を公に復した。高祖の初め、長安鎮将となった。卒した。

子の陵が升の爵を襲いだ。承明の初め、監御長に遷り、爵を始新子と賜い、寧朔将軍・員外 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。卒した。

車路頭は代の人である。若くして忠厚を以て選ばれ東宮に給し、太宗の帳下の帥となった。自ら修立することを善くし、謹慎して過ちがなかった。天賜の末、太宗が外に出た時、路頭は随従して侍し力を尽くした。太宗が即位すると、 散騎常侍 さんきじょうじ に拝され、爵を金郷公と賜い、忠意将軍を加えられた。後に宣城公に改封された。太宗の性質は明察であり、群臣は多く職事によって譴責を受け、杖罰に至る者もあったので、路頭は優遊して任事せず、左右に侍宿し、従容として談笑するのみであった。路頭の性質は害するところがなく、獄を評し事を処理する毎に、常に寛恕の議を献じ、これによって朝廷で重んぜられた。太宗もまた敬ってこれを納れ、寵待は隆厚で、賞賜は数え切れず、当時の功臣親幸で及ぶ者はいなかった。泰常六年に卒した。太宗は親しく臨んで哀慟した。 侍中 じちゅう ・左衛大将軍・太師・宣城王を贈られ、 おくりな して忠貞といった。喪礼はすべて安城王叔孫俊の故事に依った。金陵に陪葬した。子の眷が爵を襲いだ。

盧魯元は昌黎徒河の人である。曾祖父の副鳩は 慕容 ぼよう 垂に仕えて 尚書 しょうしょ 令・臨沢公となった。祖父・父ともに大官に至った。魯元は聡敏で学を好み、寛和で雅量があった。太宗の時、直郎に選ばれた。忠謹を以て東宮に給侍し、恭勤して節を尽くし、世祖に親愛された。即位すると、 中書 ちゅうしょ 侍郎とし、左右に拾遺し、寵待はますます深く、魯元はますます謹肅を加え、世祖はますます親信し、内外の大臣は敬憚しない者はなかった。性質は多くを容れ、人と交わることを善くし、人の過ちを掩い、人の美を揚げることを好み、これによって公卿は皆親附した。魯元は書に巧みで、文才があり、累遷して 中書監 ちゅうしょかん となり、秘書事を領した。爵を襄城公と賜い、 散騎常侍 さんきじょうじ ・右将軍を加えられた。その父を信都侯と賜った。 赫連 かくれん 昌征伐に従った。世祖が親しく追撃し、その城門に入った時、魯元は世祖に随従して出入りした。この日、魯元がなければ、ほとんど危殆に至るところであった。平涼征伐に従い、功により征北大将軍に拝され、侍中を加えられた。後に 太保 たいほう ・録尚書事に遷った。世祖はこれを貴異し、常に征伐に従い、臥内に出入りした。平定する毎に、功を以て僮隷を賞賜し、前後数百人、布帛は万を数えた。世祖はその邸に臨幸し、十日を出ないこともあった。その居を近くにし、往来を容易にせんと欲し、宮門の南に甲第を賜った。衣食車馬は、皆乗輿の副であった。

真君三年の冬、車駕が陰山に幸した時、魯元は病のため従わなかった。侍臣が病を問い医薬を送り、駅伝は路に相属した。薨じると、世祖は甚だ悼惜した。還ってその喪に臨み、哭して哀慟した。東西二宮は太官に命じて日々奠を送らせ、晨夕に哭臨し、終われば鐘鼓伎楽を備えて奏した。輿駕は葬に比して三度臨んだ。喪礼は安城王の故事に依り、贈送はさらに加えられた。襄城王を贈り、諡して孝といった。崞山に葬り、碑闕を建てた。魏が興って以来、貴臣の恩寵で比するものはなかった。子の統が爵を襲いだ。

少子の内は、東宮に給侍し、恭宗は深く昵しみ、常に臥起を共にし衣を同じくした。父子は両宮に寵愛され、勢いは天下を傾けた。内の性質は寛厚で、父の風があったが、恭順は及ばなかった。正平の初め、宮臣が誅された時、世祖は魯元の故を以て、内のみを殺し、その兄弟を厚く撫でた。

統は父の任により、東宮に侍した。世祖は元舅の陽平王杜超の娘で、南安長公主の生んだ者を妻とした。車駕は親しく臨送し、太官は供具を設け、賜賚は千を数えた。高宗が即位すると、選部・主客の二曹を典した。興安二年に卒した。襄城王を贈り、諡して景といった。子がなかった。

弟の弥娥が爵を襲いだ。北鎮都将に拝された。卒し、襄城王を贈られ、諡して恭といった。子の興仁が爵を襲いだ。

陳建は代の人である。祖父の渾は太祖の末に右衛将軍となった。父の陽は尚書であった。建は騎射に長じていたので、三郎に抜擢された。次第に下大夫・内行長に遷った。世祖が山胡の白龍を討った時、意は甚だこれを軽んじ、単身で数十騎を将いて山に登り険に臨み、毎日このようであった。白龍は壮士十余か所に伏せ、不意に出で、世祖は馬から落ち、ほとんど不測に至った。建は身を以て賊を捍ぎ、大呼して奮撃し、賊数人を殺し、身に十余の創を受けた。世祖はこれを壮とし、二十戸を賜った。

高宗の初め、爵を阜城侯と賜い、冠軍将軍を加えられた。出て幽州 刺史 しし となり、秦郡公を仮された。高宗は建が貪暴で懦弱であるとして、使者を州に遣わして杖罰五十を加えた。

高祖の初年、召し出されて尚書右 僕射 ぼくや となり、侍中を加えられ、爵位を趙郡公に進めた。陳建は侍中尚書・ しん 陽侯の元仙徳、殿中尚書・長楽王の穆亮、比部尚書・平原王の陸叡と密かに上表して言うには、「皇天は徳を輔け、命は大魏に集まる。臣らが祖父は初興を翼賛し、勤労は蜀漢を過ぎ、山河を固く誓い、この景福を享け、寵辱休戚は国と均しくす。臣は凡近をもって、識は遠達なく、先寵を階藉し、遂に今任を荷う。彼己の譏は群口に播く。仰いで生成を感し、俯して自ら策厲す。顧みて駑鈍を省みるに、終に益無し。然れども氷を飲みて寐を驚かすは、実に慚負を懐く。願う所に至っては、天高地厚、何ぞ日か之を忘れん。永嘉の末より、封豕横 ぜい し、馬叡南に拠り、奄に荊楚を有つ。桓劉の跋扈に及び、禍難相継ぐ。岱宗は望秩の敬を隔て、青徐は見徳の風を限る。献文皇帝は髫齓にして龍飛し、道光率土、干戚暫く舞えば、淮海風に従い、車書既に同じく、華裔将に一たらんとす。昊天弔わず、奄に万邦に背く。窃かに聞く、劉昱夭亡し、権臣殺害すと。思正の民、翹想罔極。愚かに謂う、時は再び来たらず、機宜は失い易く、毫分の差、悔を千里に致す。天与うるも取らざれば、反って其の咎を受く、所謂見て作さざるは、過ち介石に在る者なり。宜しく雄将を簡び、八方に号令すべし。義陽王臣昶は、深く存亡を悟り、遠く孫氏に同じ。苟くも歴運響従すれば、則ち呉会定むべく、脱すること事の成り難き有らば、則ち旅を振って返る。進むは以て義声を四海に揚げ、退くは以て徳信を遐裔に通わすべし。乗ずべきの会、運は今日に鍾る。如し聖聴に合わば、乞う速やかに施行せん。脱すること天心に忤えば、願わくは臣の表を存し、徐ろに後験を観、賞罰之に随え」と。高祖之を嘉した。 司徒 しと ・征西大将軍に遷り、爵位を魏郡王に進めた。高祖と文明太后は頻りに陳建の邸に幸し、陳建の妻に後庭にて宴を賜うた。太和九年に薨じた。

子の念、爵を襲う。中山の守となり、良人を掠める罪に坐し、御史中尉の王顕に弾劾された。赦に遇い、免ぜられる。爵は除かれた。

万安国は代の人である。祖父の真は世々酋帥たり、恒に部民を率いて世祖の征伐に従い、功により平西将軍・敦煌公に除され、転じて驃騎大将軍・儀同三司となった。父の振は高陽長公主を尚し、駙馬都尉に拝された。 散騎常侍 さんきじょうじ ・寧西将軍・長安鎮将に遷り、爵を馮翊公と賜うた。安国は少にして明敏、姿貌有り。国甥を以て、復た河南公主を尚し、駙馬都尉に拝された。 散騎常侍 さんきじょうじ に遷る。顕祖は特に之を親寵し、同じく臥起し、第宅を立て、賞賜は巨万に至った。超えて大司馬・大将軍に拝し、安城王に封ぜられた。安国は先に神部長の奚買奴と不平有り、承明初年、詔を矯って苑中に買奴を殺した。高祖之を聞き、大いに怒り、遂に安国に死を賜うた。年二十三。

子の翼、王爵を襲う。太和十五年薨じた。高祖は其の父が先朝に寵を受けたことを以て、特に 并州 へいしゅう 刺史を贈った。

子の纂、 あざな は輔興、襲封し、例に依り公に降る。世宗の時、起家して 司徒 しと 倉曹参軍となる。南秦平西府司馬・護軍長史に遷り、右軍将軍を加えられた。正光二年卒す。仮節・征虜将軍・荊州刺史を贈られた。

子の金剛、襲封す。武定末、開府祭酒。斉が禅を受けると、爵は例に依り降った。

嵇抜という者有り、世々紇奚部の帥たり。其の父の根は皇始初年に衆を率いて魏に帰順した。太祖之を嘉した。昭成の女を尚し、子の抜を生む。 尚書令 しょうしょれい に卒す。抜は華陰公主を尚し、子の敬を生む。元紹の逆に当たり、主は功有り、敬を超授して大司馬・大将軍とし、長楽王に封ぜられた。薨じた。

子の護、爵を襲う。外都大官に拝される。太和中、詔して護の年邁なるを以て、既に致仕せずと雖も、旧に依る養老の例に令す。卒し、子の彦嗣ぐ。根の事迹は遺落す、故に略して附す云う。

史臣曰く、王洛児・車路頭・盧魯元・陳建は、皆誠至衷より発し、節を竭くして危難に当たる。苟くも志烈人に過ぎざれば、亦何ぞ能く此の若くせんや。宜しく其の生に恩遇を受け、歿して哀栄を尽くすべし。安国の如きに至っては、貴寵数子に異なるかな。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻34