魏書

卷33 宋隱 王憲 屈遵 張蒲 榖渾 公孫表 張濟 李先 賈彝 薛提

卷33 宋隱 王憲 屈遵 張蒲 榖渾 公孫表 張濟 李先 賈彝 薛提

宋隠は、字を処默といい、西河郡介休県の人である。曾祖父の奭は、晋の昌黎太守であった。後に慕容廆の長史となった。祖父の活は、中書監であった。父の恭は、尚書・徐州刺史であった。慕容儁が鄴に遷都すると、恭は初めて広平郡列人県に家を構えた。

原文宋隱,字處默,西河介休人也。曾祖奭,晉昌黎太守。後為慕容廆長史。祖活,中書監。父恭,尚書、徐州刺史。慕容儁徙鄴,恭始家於廣平列人焉。

隠は至孝の性質を持ち、十三歳にして既に成人の志があり、専心して学問に励み、兵乱によって節操を変えることはなかった。慕容垂に仕え、尚書郎・太子中舎人・本州別駕を歴任した。太祖が中山を平定すると、隠を尚書吏部郎に任じた。車駕が北に還ると、詔により隠は本官のまま衛王儀を補佐して中山を鎮守した。まもなく行台右丞に転じ、選挙を掌ることは従前の通りであった。たびたび老病を理由に致仕を願い出たが、太祖は許さなかった。やがて母の喪に服すため列人に帰った。葬儀を終えると、召還されたが、病気を理由に固辞し、州郡が厳しく期日に迫ったため、隠は妻子を捨て、密かに逃れて身を隠した。後に長楽郡の経県に匿れ、数年して卒去した。臨終に際し、子や甥たちに言った。「もし家にあっては父兄に順い、外に出ては郷里の人々に悌順し、郡に仕えて幸いにも功曹史に至り、忠清をもって職務を奉ずれば、それで十分である。わざわざ遠く台閣に詣でる労は要らぬ。お前たちが富貴を得られず、ただ家門の累を延ばすだけになることを恐れる。もし我が言葉を忘れるならば、それは父の如き者を持たぬことになる。仮に鬼に知るものがあれば、我は帰って食らうことはしない。」五人の子があった。

原文隱性至孝,年十三,便有成人之志,專精好學,不以兵難易操。仕慕容垂,歷尚書郎、太子中舍人、本州別駕。太祖平中山,拜隱尚書吏部郎。車駕還北,詔隱以本官輔衞王儀鎮中山。尋轉行臺右丞,領選如故。屢以老病乞骸骨,太祖不許。尋以母喪歸列人。既葬,被徵,固辭以病,而州郡切以期會,隱乃棄妻子,間行避焉。後匿於長樂之經縣,數年而卒。臨終謂其子姪等曰:「苟能入順父兄,出悌鄉黨,仕郡幸而至功曹史,以忠清奉之,則足矣,不勞遠詣臺閣。恐汝不能富貴,而徒延門戶之累耳。若忘吾言,是為無若父也,使鬼而有知,吾不歸食矣。」有五子。

第三子の温は、世祖の時に召されて中書博士に任じられた。卒去し、建威将軍・豫州刺史を追贈され、列人定侯と諡された。

原文第三子溫,世祖時徵拜中書博士。卒,追贈建威將軍、豫州刺史,列人定侯。

温の弟の演は、顕祖の初めに彭城征討に従軍して功績があり、明威将軍・済北太守に任じられた。

原文溫弟演,顯祖初從征彭城有功,拜明威將軍、濟北太守。

演の子の鮒は、字を伯魚という。州別駕であった。

原文演子鮒,字伯魚。州別駕。

隠の弟の輔は、字を処仁という。若くして慷慨として大節を持ち、広く群書を博覧した。州から別駕に辟召されたが、早世した。

原文隱弟輔,字處仁。少慷慨有大操,博覽羣書。州辟別駕。早卒。

隠の叔父の洽は、慕容垂の尚書であった。太祖が中山を包囲した時、洽は配下を率いて専ら北の包囲陣を守備した。洽の統轄する区域では、官軍に多くの死傷者が出たため、太祖は特に深く忿恨した。城が平定されると、遂に彼を殺した。子の順と訓はともに腐刑に処された。

原文隱叔父洽,為慕容垂尚書。太祖之圍中山也,洽率所領專守北圍。當洽所統,官軍多被傷殺,太祖特深忿恨。及城平,遂殺之。子順、訓並下腐刑。

洽の第四子の宣は、字を道茂といい、当時数歳であったが、親族が密かに逃がしたため難を免れた。後に范陽の盧玄・勃海の高允および甥の愔とともに召され、中書博士に任じられた。まもなく散騎常侍を兼ね、劉義隆(宋の文帝)に使した。冠軍将軍を加えられ、中都侯の爵を賜り、中書侍郎を領し、司隸校尉を行った。真君七年に卒去し、司隸校尉を追贈され、簡侯と諡された。

原文洽第四子宣,字道茂,時年數歲,親人竊逃以免。後與范陽盧玄、勃海高允及從子愔俱被徵,拜中書博士。尋兼散騎常侍,使劉義隆。加冠軍將軍,賜爵中都侯,領中書侍郎,行司隸校尉。真君七年卒,贈司隸,諡簡侯。

子の謨は、字を乾仁といい、爵を襲った。遼西太守の任中に卒去した。

原文子謨,字乾仁,襲爵。卒於遼西太守。

子の鸞は、字を珍和といい、爵を襲った。東莞太守であった。

原文子鸞,字珍和,襲爵。東莞太守。

鸞の弟の瓊は、字を普賢という。若くして孝行で称えられ、母がかつて病に臥せり、季秋の月に瓜を切に思い止まなかった。瓊が夢に見て、求めると遂に得られたので、当時の人は異事と称した。母が亡くなると、州郡からたびたび辟召されたが、全て就任しなかった。家で卒去した。

原文鸞弟瓊,字普賢。少以孝行稱,母曾病,季秋之月,思瓜不已。瓊夢想見之,求而遂獲,時人稱異。母終,州郡屢辟,皆不就。卒於家。

子の仲美は、武定の末年に、尚書水部郎であった。

原文子仲美,武定末,尚書水部郎。

王憲は、字を顕則といい、北海郡劇県の人である。祖父の猛は、苻堅の丞相であった。父の休は、河東太守であった。憲は幼くして孤となり、伯父の永に従って鄴にいた。苻丕が帝号を称すると、また永を丞相とした。永が慕容永に殺されると、憲は清河に奔り、民家に匿れた。皇始年間、輿駕が趙郡の高邑に駐蹕した時、憲は帰順した。太祖は彼を見て、「これは王猛の孫である」と言い、厚く礼遇し、本州中正とし、選曹の事務を領させ、門下の事をも掌らせた。世祖が即位すると、廷尉卿を行った。上谷太守として出向し、中壘将軍を加えられ、高唐子の爵を賜った。身を清くして下を率い、教化が大いに行われた。まもなく外都大官に任じられ、後に中都大官となった。二曹を歴任し、獄を裁断して旨に適い、劇県侯に爵を進められ、龍驤将軍を加えられた。并州刺史として出向し、安南将軍を加えられ、北海公に爵を進められ、管内は清粛であった。京師に還ると、憲が元老であることを以て、特に錦繡・布帛・綿綵・珍羞・礼膳を賜った。天安初年に卒去し、八十九歳であった。鎮南将軍・青州刺史を追贈され、康と諡された。

原文王憲,字顯則,北海劇人也。祖猛,苻堅丞相。父休,河東太守。憲幼孤,隨伯父永在鄴。苻丕稱尊號,復以永為丞相。永為慕容永所殺,憲奔清河,匿於民家。皇始中,輿駕次趙郡之高邑,憲乃歸誠。太祖見之,曰:「此王猛孫也。」厚禮待之,以為本州中正,領選曹事,兼掌門下。世祖即位,行廷尉卿。出為上谷太守,加中壘將軍,賜爵高唐子。清身率下,風化大行。尋拜外都大官,後為中都。歷任二曹,斷獄稱旨,進爵劇縣侯,加龍驤將軍。出為并州刺史,加安南將軍,進爵北海公,境內清肅。及還京師,以憲元老,特賜錦繡布帛綿綵珍羞禮膳。天安初卒,年八十九。贈鎮南將軍、青州刺史,諡曰康。

子の崇が爵を襲った。早世した。子の仲智が襲爵した。中書侍郎・安西将軍・幽州刺史を歴任した。清平の称があった。

原文子崇,襲。早卒。子仲智襲。歷中書侍郎、安西將軍、幽州刺史。有清平之稱。

崇の弟の嶷は、字を道長という。若くして父の任により中書学生となり、次第に南部大夫に昇進した。高祖の初め、青・徐・兗・豫の諸州を巡察する使者として出向し、新附の民を撫慰し、風俗を観察した。還ると、南部尚書に遷り、在任十四年であった。当時、南州は多事で、文書の上奏は机を埋め、訴訟する者は門を埋めた。嶷の性質は儒緩で、物事に従って決断せず、終日座っているだけで、ただ昏睡するばかりであった。李訢・鄧宗慶らは明察と号され、時務に勤めて処理したが、二人は結局誅殺され、他に十数人は罷免あるいは免職となったが、ただ嶷だけが終に自らを保つことができた。当時の人はこれについて語って言った。「実に痴なり実に昏し、終に保存を得たり。」散騎常侍・右将軍を加えられ、東平侯の爵を賜った。間もなく安東将軍に任じられ、楽安公に爵を進められた。持節・鎮西将軍・秦州刺史として出向した。華山公に改封され、散騎常侍は従前の通りであった。後に内都大官として召還された。卒去した。

原文崇弟嶷,字道長。少以父任為中書學生,稍遷南部大夫。高祖初,出使巡察青、徐、兗、豫,撫慰新附,觀省風俗。還,遷南部尚書,在任十四年。時南州多事,文奏盈几,訟者填門。嶷性儒緩,委隨不斷,終日在坐,昏睡而已。李訢、鄧宗慶等號為明察,勤理時務,而二人終見誅戮,餘十數人或黜或免,唯嶷卒得自保。時人為之語曰:「實癡實昏,終得保存。」加散騎常侍、右將軍,賜爵東平侯。未幾,拜安東將軍,進爵樂安公。出為持節、鎮西將軍、秦州刺史。改為華山公,散騎常侍如故。後入為內都大官。卒。

子の祖念は爵位を襲い、官は東平太守に至る。例に従い爵位を降格して侯となる。卒し、寧朔将軍・光州刺史を追贈される。

原文子祖念,襲爵。官至東平太守。例降爵為侯。卒,贈寧朔將軍、光州刺史。

子の慶鍾は爵位を襲ぐ。給事中となる。貪欲で穢れた行いがあり、事に坐して爵位を除かれる。

原文子慶鍾,襲爵。給事中。貪穢無行,坐事爵除。

祖念の弟の雲は、字を羅漢といい、頗る風尚があった。尚書郎より入り中書舎人となる。司州別駕・光禄少卿に転じ、改めて衛尉少卿を授かる。出て冠軍将軍・尚書・兗州刺史となり、尋いで征虜将軍の号を進められる。州にあって、部内の荊山戍主杜虞の財貨を受け取った罪に坐し、また官の絹を取って染め直し切り替えたため、御史が糾弾し、廷尉に付される。赦に遇い免ぜられる。熙平二年、官において卒す。平南将軍・豫州刺史を追贈され、諡して文昭という。九子あり。

原文祖念弟雲,字羅漢,頗有風尚。自尚書郎入為中書舍人。轉司州別駕、光祿少卿,改授衞尉少卿。出為冠軍將軍、尚書、兗州刺史,尋進號征虜將軍。在州坐受所部荊山戍主杜虞財貨,又取官絹,因染割易,御史糾劾,付廷尉。遇赦免。熙平二年卒官。贈平南將軍、豫州刺史,諡曰文昭。有九子。

長子の昕は、字を元景という。武定の末、太子詹事となる。

原文長子昕,字元景。武定末,太子詹事。

昕の弟の暉は、字を元旭という。早くより機悟を称される。尚書儀曹郎・中書舎人を歴任する。散騎常侍・鎮軍将軍・兗州刺史を追贈される。

原文昕弟暉,字元旭。早稱機悟。歷尚書儀曹郎、中書舍人。贈散騎常侍、鎮軍將軍、兗州刺史。

暉の弟の旰は、字を仲明という。秘書郎・司徒主簿となる。天平年中、盗賊のために害される。

原文暉弟旰,字仲明。祕書郎、司徒主簿。天平中,為盜所害。

屈遵は、字を子皮といい、昌黎徒河の人である。博学で多芸、名声は当時に著しい。慕容永に尚書僕射・武垣公となる。永が滅びると、慕容垂は博陵令とする。太祖が南伐し、車駕が魯口に幸すると、博陵太守申永は南へ河外に奔り、高陽太守崔玄伯は東へ海濱に走り、属城の長吏は多く逃げ隠れた。遵のみその吏民に告げて曰く、「往年、宝(慕容宝)の師は大敗し、今また垂(慕容垂)の征伐より還らず、天の燕を棄つるは、人これを支えざるなり。魏帝は神武にして命世し、寛仁にして善く納れ、百万の衆を御し、号令一の如し、これ湯武の師なり。我れ命に帰せんと欲す、汝らこれを勉めよ、嘉運に遇いて禍の先となることなかれ」と。遂に太祖に帰順す。太祖は平素よりその名を聞き、厚く礼を加う。中書令に拝し、王言を出納し、兼ねて文誥を総べる。中原既に平らぎ、爵を下蔡子に賜う。車駕に従い京師に還り、卒す。時に年七十。

原文屈遵,字子皮,昌黎徒河人也。博學多藝,名著當時。為慕容永尚書僕射,武垣公。永滅,垂以為博陵令。太祖南伐,車駕幸魯口,博陵太守申永南奔河外,高陽太守崔玄伯東走海濱,屬城長吏率多逃竄。遵獨告其吏民曰:「往年寶師大敗,今茲垂征不還,天之棄燕,人弗支也。魏帝神武命世,寬仁善納,御眾百萬,號令若一,此湯武之師。吾欲歸命,爾等勉之,勿遇嘉運而為禍先。」遂歸太祖。太祖素聞其名,厚加禮焉。拜中書令,出納王言,兼總文誥。中原既平,賜爵下蔡子。從駕還京師,卒,時年七十。

子の須は爵を襲ぐ。長楽太守に除され、鎮遠将軍を加えられ、爵を進めて信都侯となる。卒し、寧北将軍・昌黎公を追贈され、諡して恭という。

原文子須,襲。除長樂太守,加鎮遠將軍,進爵信都侯。卒,贈寧北將軍、昌黎公,諡曰恭。

少子の処珍は爵を襲ぐ。処珍卒し、子の車渠が爵を襲ぐ。高祖の初め、出て東陽鎮将となる。卒し、青州刺史を追贈され、諡して庄という。

原文少子處珍,襲爵。處珍卒,子車渠襲爵。高祖初,出為東陽鎮將。卒,贈青州刺史,諡曰莊。

須の長子の垣は、字を長生といい、沈深にして局量あり。少にして家業を継ぎ、特に書計を善くす。太祖の初め、諸曹に給事す。太宗の世、将作監に遷り、京師の諸署を統べる。世祖即位し、稍々尚書右僕射に遷り、侍中を加えられる。平涼を破った功により、爵を済北公に賜い、平南将軍を加えられる。後、中領軍に転ず。恭宗が東宮にあれば、垣は太子少傅を領す。後、諸軍を督して東伐し、鎮東大将軍の号を進む。師は和龍に次ぐ。馮文通が牛酒を致して軍を犒い、甲三千を献ず。垣はその侍子を送らざるを責め、王命を以てこれを数え、遂に男女六千口を掠めて還る。垣は宮中に公正にして、内外その平当を称す。世祖これを信任し、大政を委ね、車駕出征するときは、常に中に居り留まって鎮す。襄城公盧魯元とともに甲第を賜わり、世祖しばしば臨幸し、賞賜は隆厚なり。真君四年、馬より墜ちて卒す。時に年五十五。時に世祖は陰山に幸す。恭宗は使いを遣わし駅伝に乗って状を奏す。世祖は甚だこれを悼惜し、使人に謂いて曰く、「汝ら朕の良臣を殺す、何ぞ馬に乗るを用いん」と。遂に歩いて帰ることを命ず。征西大将軍を追贈し、諡して成公という。

原文須長子垣,字長生,沉深有局量。少纂家業,尤善書計。太祖初,給事諸曹。太宗世,遷將作監,統京師諸署。世祖即位,稍遷尚書右僕射,加侍中。以破平涼功,賜爵濟北公,加平南將軍。後轉中領軍。恭宗在東宮,垣領太子少傅。後督諸軍東伐,進號鎮東大將軍。師次和龍,馮文通致牛酒以犒軍,獻甲三千。垣責其不送侍子,數之以王命,遂掠男女六千口而還。垣在宮公正,內外稱其平當。世祖信任之,委以大政,車駕出征,常居中留鎮。與襄城公盧魯元俱賜甲第,世祖數臨幸,賞賜隆厚。真君四年,墜馬卒,時年五十五。時世祖幸陰山,恭宗遣使乘傳奏狀,世祖甚悼惜之,謂使人曰:「汝等殺朕良臣,何用乘馬!」遂令步歸。贈征西大將軍,諡曰成公。

長子の観は早く卒す。世祖これを哀れみ、その子に男爵を賜う。

原文長子觀,早卒。世祖愍之,賜其子男爵。

観の弟の道賜は祖の爵を襲ぐ。道賜は、少にして父の任により、内侍左右となる。稍々主客に遷り、進んで尚書となり、散騎常侍を加えられる。騎射を善くし、機弁あり辞気あり、世祖は甚だこれを器す。蓋呉を征することに従い、尚書右僕射に遷り、侍中を加えられる。還りて雁門に至り、暴疾に卒す。諡して哀公という。

原文觀弟道賜,襲祖爵。道賜,少以父任,內侍左右。稍遷主客,進為尚書,加散騎常侍。善騎射,機辯有辭氣,世祖甚器之。從征蓋吳,遷尚書右僕射,加侍中。還至雁門,暴疾卒。諡曰哀公。

子の抜は爵を襲ぐ。抜は少にして陰陽学を好む。世祖はその父祖を追思し、年十四にして、南部大夫とする。時に世祖は南伐し、劉義隆の将胡盛之を擒え、抜に付す。抜は酒に酔い、盛之の逃げ去るを覚えず。世祖は大いに怒り、これを斬ることを命ず。将に鑕に伏せんとするに、世祖は愴然として曰く、「若し鬼にして知有らば、長生(屈垣)その子孫を問わば、朕何を以てかこれに応えん」と。乃ち抜を赦し、免じて散大夫とす。後、顕祖はその功臣の子として、営州刺史に拝す。卒し、子の永興が爵を襲ぐ。

原文子拔,襲爵。拔少好陰陽學。世祖追思其父祖,年十四,以為南部大夫。時世祖南伐,擒劉義隆將胡盛之,以付拔。拔酒醉,不覺盛之逃去。世祖大怒,命斬之。將伏鑕,世祖愴然曰:「若鬼而有知,長生問其子孫,朕何以應之?」乃赦拔,免為散大夫。後顯祖以其功臣子,拜營州刺史。卒,子永興襲爵。

張蒲は、字を玄則といい、河内脩武の人、本名は謨、後に蒲と改む。漢の太尉張延の後裔。父の攀は、慕容垂の御史中丞・兵部尚書となり、清方を以て称される。蒲は少にして父の風あり、頗る文史に渉り、端謹を以て知られ、慕容宝の陽平・河間二郡太守、尚書左丞となる。太祖が中山を定め、宝の官司で叙用される者は、多く品秩を降ろされる。既に平素より蒲の名を聞き、仍って尚書左丞に拝す。天興年中、蒲の清謹方正を以て、東部大人に遷す。後、太中大夫に拝す。太宗即位し、内都大官となり、爵を泰昌子に賜い、庶獄の参決に与り、私謁行われず、公正と号せられる。

原文張蒲,字玄則,河內脩武人,本名謨,後改為蒲。漢太尉延之後。父攀,慕容垂御史中丞、兵部尚書,以清方稱。蒲少有父風,頗涉文史,以端謹見知,為慕容寶陽平、河間二郡太守,尚書左丞。太祖定中山,寶之官司敍用者,多降品秩。既素聞蒲名,仍拜為尚書左丞。天興中,以蒲清謹方正,遷東部大人。後拜太中大夫。太宗即位,為內都大官,賜爵泰昌子,參決庶獄,私謁不行,號為公正。

泰常の初め、丁零の翟猛雀が吏民を駆り逼って白𡼏山に入り、大逆を謀る。詔して蒲と冀州刺史長孫道生等を遣わし往きて討たしむ。道生等は直ちに大兵を以てこれを撃たんと欲す。蒲曰く、「良民の猛雀に従う所以は、乱を楽しんで為すに非ず、皆な凶威に逼られ、強いてこれに服するのみ。今若し直ちに大軍を以てこれに臨まば、吏民は善に返らんと欲すとも、その道無からん。又誅夷を懼れ、必ず勢を併せて官軍に距み、然る後に山に入り険阻に恃み、愚民を誑惑せん。その変は図り易からざるなり。先ず使いを遣わしてこれを諭し、民にして猛雀と同謀せざる者は坐せざらしむるに如かず。然らば民は必ず喜びて俱に降らん」と。道生は甚だ以て然りとし、具に以て奏聞す。太宗は詔して蒲に軍前に慰諭せしむ。乃ち数千家を降し、その本属に還し、蒲は皆これを安集す。猛雀は親党百余人と奔逃す。蒲と道生等は追い猛雀の首を斬り、京師に送る。

原文泰常初,丁零翟猛雀驅逼吏民入白𡼏山,謀為大逆。詔蒲與冀州刺史長孫道生等往討。道生等欲徑以大兵擊之,蒲曰:「良民所以從猛雀者,非樂亂而為,皆逼凶威,強服之耳。今若直以大軍臨之,吏民雖欲返善,其道無由。又懼誅夷,必并勢而距官軍,然後入山恃阻,誑惑愚民。其變未易圖也。不如先遣使喻之,使民不與猛雀同謀者無坐,則民必喜而俱降矣。」道生甚以為然,具以奏聞。太宗詔蒲軍前慰喻。乃下數千家,還其本屬,蒲皆安集之。猛雀與親黨百餘人奔逃。蒲與道生等追斬猛雀首,送京師。

後に劉裕が河表を侵犯すると、蒲を南中郎将・南蛮校尉とし、平南大将軍長孫嵩に隷属させて防がせた。劉裕が長安に入ると、帰還した。後に爵位を寿張子に改め、安平公叔孫建と共に兵を率いて平原から東へ渡り、劉義符の青州・兗州諸郡を巡行して降した。詔により陳兵将軍・済州刺史を加えられた。また叔孫建と共に青州を攻めたが、陥落せずに帰還した。

原文後劉裕寇竊河表,以蒲為南中郎將、南蠻校尉,隸平南大將軍長孫嵩往禦之。裕入長安,乃還。後改為壽張子,與安平公叔孫建將兵自平原東渡,徇下劉義符青兗諸郡。詔加陳兵將軍、濟州刺史。又與建攻青州,不克而還。

世祖が即位すると、蒲が清貧で妻子の衣食が足りないことを憐れみ、相州刺史として出向させた。弱きを扶け強きを抑え、善を進め悪を退け、教化が大いに行われた。始光三年、州において卒去。七十二歳。官吏と民衆は痛惜した。蒲は謀臣の列にあり、しばしば将として出陣し、朝廷の清論では常に称賛の筆頭とされた。平東将軍・広平公を追贈され、諡は文恭といった。

原文世祖即位,以蒲清貧,妻子衣食不給,乃出為相州刺史。扶弱抑強,進善黜惡,教化大行。始光三年卒於州,年七十二。吏民痛惜之。蒲在謀臣之列,屢出為將,朝廷清論,常為稱首。贈平東將軍、廣平公,諡曰文恭。

子の昭は志操があった。天興年間、功臣の子として太学生となった。太宗が即位すると、内主書となった。後に父の爵位を襲った。神䴥年間、蠕蠕征討に従軍し、功により爵位を脩武侯に進め、平遠将軍を加えられた。延和二年、幽州刺史として出向し、開府を許され、寧東将軍を加えられた。当時幽州は穀物が実らず、州の倉庫は空しく尽き、民衆の多くは飢えていた。昭は民と官吏に言った。「何たる不徳でこのような時に遭うのか」。そこで富人が貧乏人を救済し、車馬を持つ家は外境から穀物を運び入れ、貧弱な者には農桑を勧めた。その年は大いに豊作となった。男女は彼を称頌した。在任三年で卒去した。

原文子昭,有志操。天興中,以功臣子為太學生。太宗即位,為內主書。後襲父爵。神䴥中,從征蠕蠕,以功進爵脩武侯,加平遠將軍。延和二年,出為幽州刺史,開府,加寧東將軍。時幽州年穀不登,州廩虛罄,民多菜色。昭謂民吏曰:「何我之不德而遇其時乎?」乃使富人通濟貧乏,車馬之家糴運外境,貧弱者勸以農桑。歲乃大熟。士女稱頌之。在任三年,卒。

子の昶が爵位を襲った。早世した。

原文子昶,襲爵。早卒。

昶の弟の霊符。真君八年、中書博士に補任された。和平年間、咸陽郡の民趙昌が徒党を集めて叛乱を起こし、百姓が騒動した。詔により霊符が旨を宣べて慰撫すると、民は再び生業に就いた。天安初年、中書侍郎に遷り、昌国子の爵位を賜った。延興年間、南豫州に派遣され、風俗を観察した。太和四年、建威将軍・広平太守に任じられた。後に帰朝して尚書左丞、司州大中正となった。後に鎮遠将軍・斉州刺史に任じられた。十六年、光州刺史に転じ、立忠将軍を加えられた。卒去した。

原文昶弟靈符。真君八年,補中書博士。和平中,咸陽郡民趙昌聚黨作逆,百姓騷動。詔靈符宣旨慰喻,民乃復業。天安初,遷中書侍郎,賜爵昌國子。延興中,使南豫州,觀察風俗。太和四年,除建威將軍、廣平太守。還為尚書左丞,司州大中正。後除鎮遠將軍、齊州刺史。十六年,轉光州刺史,加立忠將軍。卒。

谷渾は字を元沖といい、昌黎の人である。父の袞は膂力が人に倍し、三百斤の弓を引き、勇気は一時に冠たった。慕容垂に仕え、広武将軍に至った。

原文谷渾,字元沖,昌黎人也。父袞,膂力兼人,彎弓三百斤,勇冠一時。仕慕容垂,至廣武將軍。

渾は若い頃より父の風があり、任侠で気風を好んだが、父母が存命のため、常に自ら退いて抑えていた。晩年に至って志を改めて経学を受け、群籍を広く読み、身なりは儒者のようであった。太祖の時、隷書に巧みなため内侍左右となった。太宗の世、前鋒将軍に遷り、河南行幸に従った。帰還後、選抜されて東宮に給事した。世祖が即位すると、中書侍郎となり、振威将軍を加えられた。赫連昌征討に従い、驍騎将軍となった。侍中・安南将軍に遷り、儀曹尚書を領し、濮陽公の爵位を賜った。

原文渾少有父風,任俠好氣,以父母在,常自退抑。晚乃折節受經業,遂覽群籍,被服類儒者。太祖時,以善隸書為內侍左右。太宗世,遷前鋒將軍,從幸河南。還,以選給事東宮。世祖即位,為中書侍郎,加振威將軍。從征赫連昌,為驍騎將軍。遷侍中、安南將軍,領儀曹尚書,賜爵濮陽公。

渾は正直で操行があり、性格は軽率に迎合せず、進退が自分と同調しない者を蔑視した。しかし旧友を愛重し、富貴を以て人に驕ることがなかった。当時の人はこれを称えた。官にあっては廉潔正直で、世祖に重んじられ、詔により渾の子孫で十五歳以上の者は皆中書学生に補任された。延和二年春、卒去した。世祖は悼惜し、自らその喪に臨んだ。贈り物は豊かで、諡は文宣といった。

原文渾正直有操行,性不苟合,趣舍不與己同者,視之蔑如也。然愛重舊故,不以富貴驕人。時人以此稱之。在官廉直,為世祖所器重,詔以渾子孫十五以上悉補中書學生。延和二年春,卒。世祖悼惜之,親臨其喪。贈賜豐厚,諡曰文宣。

子の闡は字を崇基といい、小字を長命といい、爵位を襲った。若くして東宮に侍し、次第に平南将軍・相州刺史に遷った。入朝して外都大官となった。延興四年に卒去した。諡は簡公といった。

原文子闡,字崇基,小字長命,襲爵。少侍東宮,稍遷平南將軍、相州刺史。入為外都大官。延興四年卒。諡曰簡公。

闡の弟の季孫が爵位を襲った。中書学生となり、入朝して秘書中散となり、中部大夫に遷った。出向して吐京鎮将となった。

原文闡弟季孫,襲爵。中書學生,入為祕書中散,遷中部大夫。出為吐京鎮將。

闡の子の洪は字を元孫といった。若くして中書で学を受けた。世祖は洪が機敏で祖父の風があるとして、高宗に経を授けるよう命じた。高宗が即位すると、旧恩により散騎常侍・南部長となった。尚書に遷り、滎陽公の爵位を賜った。洪の性格は貪欲で奢侈で、僕妾の衣服は錦綺を用い、財産は千金を累ねたが、欲望はますます激しくなった。当時、顕祖の舅の李峻らが初めて京師に至り、官が衣服を給したが、洪はこれを横領した。有司に糾弾され、前後の贓罪をことごとく追及され、法に伏して誅された。

原文闡子洪,字元孫。少受學中書。世祖以洪機敏有祖風,令入授高宗經。高宗即位,以舊恩為散騎常侍、南部長。遷尚書,賜爵滎陽公。洪性貪奢,僕妾衣服錦綺,貲累千金,而求欲滋劇。時顯祖舅李峻等初至京師,官給衣服,洪輒截沒。為有司所糾,并窮其前後贓罪,坐以伏法。

子の穎は、青州・征東大将軍・広陵王羽の田曹参軍、員外散騎侍郎、給事中、尚書郎、威遠将軍を加えられた。員外散騎常侍に任じられ、まもなく中散大夫に転じた。大軍が蜀を伐つ時、益州刺史傅豎眼が別将として出陣したため、穎が州事を代行した。後に仮節・鎮遠将軍・涼州刺史に任じられたが、赴任しなかった。太府少卿に改めて授けられ、また前将軍を加えられた。神亀二年に卒去した。平東将軍・営州刺史を追贈され、諡は貞といった。

原文子穎,青州、征東大將軍、廣陵王羽田曹參軍,員外散騎侍郎,給事中,尚書郎,加威遠將軍。除員外散騎常侍,尋轉中散大夫。大軍伐蜀,時益州刺史傅豎眼出為別將,以穎權行州事。後除假節、鎮遠將軍、涼州刺史,不行。改授太府少卿,又加前將軍。神龜二年卒。贈平東將軍、營州刺史,諡曰貞。

長子の纂は字を霊紹といい、学識がかなりあった。初官は太学博士で、侍御史を領した。次第に著作郎・司州治中・黄門郎・散騎常侍に遷った。また侍中・兼殿中尚書となった。驃騎大将軍・左光禄大夫・営州大中正に遷った。纂は以前著作を務め、また国史を監修したが、まとめることができなかった。

原文長子纂,字靈紹,頗有學涉。解褐太學博士,領侍御史。稍遷著作郎、司州治中、黃門郎、散騎常侍。又為侍中、兼殿中尚書。遷驃騎大將軍、左光祿大夫、營州大中正。纂前為著作,又監國史,不能有所緝綴。

纂の弟の士恢は字を紹達といった。若い頃から琴と書を好んだ。初め世宗の挽郎となり、奉朝請に任じられた。正光年間、内侍に入り、甚だ粛宗に寵遇された。元叉が失脚し、霊太后が政権に復帰する際、紹達は力を与えた。諫議大夫に遷り、まもなく通直散騎常侍・直閤将軍・鴻臚少卿に転じ、元城県開国侯に封ぜられ、邑七百戸を賜った。太后が鄭儼を寵愛し、紹達が帝の間に入って讒言することを恐れ、しばしば言葉の端々で、紹達を州官とするよう導いた。紹達は寵愛に耽り、外任を望まなかった。太后は罪をでっち上げて彼を殺した。

原文纂弟士恢,字紹達。少好琴書。初為世宗挽郎,除奉朝請。正光中,入侍,甚為肅宗寵待。元叉之出,靈太后反政,紹達預有力焉。遷諫議大夫,俄轉通直散騎常侍、直閤將軍、鴻臚少卿,封元城縣開國侯,邑七百戶。太后嬖幸鄭儼,懼紹達間構於帝,每因言次,導紹達為州。紹達耽寵,不願出外。太后誣其罪而殺之。

公孫表は字を玄元といい、燕郡広陽の人である。遊学して諸生となった。慕容沖が尚書郎とした。慕容垂が長子を破ると、中山に入った。慕容宝が逃走すると、朝廷に帰順した。江南への使者として詔旨に適ったため、尚書郎に任じられた。後に博士となった。初め、太祖は慕容垂の諸子が要地を分拠し、権柄が移り変わることで遂に亡滅に至ったこと、また国の風俗は敦朴で嗜欲が少ないため、その機心を開き巧利を導くべきではないと深く非とした。表はその意を受けて韓非子の書二十巻を献上し、太祖は善しとした。

原文公孫表,字玄元,燕郡廣陽人也。遊學為諸生。慕容沖以為尚書郎。慕容垂破長子,從入中山。慕容寶走,乃歸闕。以使江南稱旨,拜尚書郎。後為博士。初,太祖以慕容垂諸子分據勢要,權柄推移,遂至亡滅;且國俗敦樸,嗜欲寡少,不可啟其機心,而導其巧利,深非之。表承指上韓非書二十卷,太祖稱善。

太宗の初年、公孫表は功労将軍元屈の軍事に参じ、吐京の叛胡を討つが、胡に敗れる。表は先に屈を諫めて止めたことを上表し、太宗はこれを善しとし、固安子の爵を賜う。河西の飢胡劉虎が流民を集結し、上党で反し、南に河内を寇す。詔して表に虎を討たせ、また表に姚興の洛陽戍将と期を結ばせ、河南岸を備えさせた上で、進軍してこれを討たしむ。時に胡は内に疑阻し、互いに殺害し合う。表はその解散の勢い有るを見て、遂に戍将と相通ぜず、衆を率いてこれを討つ。法令整わず、胡に敗れ、軍人は大いに傷殺される。太宗は深くこれを恨む。

原文太宗初,表參功勞將軍元屈軍事,討吐京叛胡,為胡所敗。表以先諫止屈,太宗善之,賜爵固安子。河西飢胡劉虎聚結流民,反於上黨,南寇河內。詔表討虎,又令表與姚興洛陽戍將結期,使備河南岸,然後進軍討之。時胡內自疑阻,更相殺害,表以其有解散之勢,遂不與戍將相聞,率眾討之。法令不整,為胡所敗,軍人大被傷殺。太宗深銜之。

劉裕が姚興を征するに及び、兗州刺史尉建は寇の至るを聞き、滑台を棄てて北に走る。詔して表に寿光侯叔孫建に従い枋頭に屯せしむ。泰常七年、劉裕死す。河南の侵地を取るを議す。太宗は掠地して淮に至れば、滑台等の三城は自然に面縛すべしと為す。表は固く先ず城を攻むべきを執し、太宗これに従う。ここにおいて奚斤を都督と為し、表を呉兵将軍・広州刺史と為す。斤ら河を済み、表は滑台を攻むるも、時を歴て抜けず。太宗乃ち南巡し、その声援と為る。表ら既に滑台を克ち、師を引いて西伐し、土楼において劉義隆の将翟広らを大破し、遂に虎牢を囲む。車駕汲郡に次す。始昌子蘇坦・太史令王亮、表が軍を虎牢の東に置き、利便の地を得ず、故に賊を時に滅さしめざるを奏す。太宗は術数を雅好し、また前の忿りを積む。虎牢を攻むるに及び、士卒多く傷つく。乃ち人をして夜帳中に就きて縊り殺さしむ。時に年六十四。太宗は賊未だ退かざるを以て、秘して宣べず。

原文及劉裕征姚興,兗州刺史尉建聞寇至,棄滑臺北走,詔表隨壽光侯叔孫建屯枋頭。泰常七年,劉裕死,議取河南侵地。太宗以為掠地至淮,滑臺等三城自然面縛。表固執宜先攻城,太宗從之。於是以奚斤為都督,以表為吳兵將軍、廣州刺史。斤等濟河,表攻滑臺,歷時不拔。太宗乃南巡,為之聲援。表等既克滑臺,引師西伐,大破劉義隆將翟廣等於土樓,遂圍虎牢。車駕次汲郡,始昌子蘇坦、太史令王亮奏表置軍虎牢東,不得利便之地,故令賊不時滅。太宗雅好術數,又積前忿,及攻虎牢,士卒多傷,乃使人夜就帳中縊而殺之。時年六十四。太宗以賊未退,祕而不宣。

初め、表は勃海の封愷と善く友たり。後に子の為に愷の従女を求めしに、愷許さず。表甚だこれを恨む。封氏が司馬国璠に逮えらるるに及び、太宗は旧族を以てこれを原せんと欲す。表固くその罪を証し、乃ち封氏を誅す。表は人となり外和して内忌す。時人これをもってこれを薄しむ。表は本より王亮と同じ営署にあり。その出づるに及び、亮を軽侮す。故に死に至る。

原文初,表與勃海封愷友善,後為子求愷從女,愷不許,表甚銜之。及封氏為司馬國璠所逮,太宗以舊族欲原之,表固證其罪,乃誅封氏。表為人外和內忌,時人以此薄之。表本與王亮同營署,及其出也,輕侮亮,故至於死。

第二子軌、字は元慶。少より文学を以て知名たり。太宗の時、中書郎と為る。出でて征討に従い、諸軍司馬を補す。世祖、赫連昌を平らぐ。諸将帥を引きてその府蔵に入り、各おの任意に金玉を取らしむ。諸将はこれを取りて懐に盈つ。軌独り探り把せず。世祖乃ち親しく金を探りてこれを賜い、軌に謂いて曰く、「卿は財に臨みて苟も得ずと謂うべし。朕の増賜する所以は、廉を衆人に顕わさんと欲するなり」と。

原文第二子軌,字元慶。少以文學知名,太宗時為中書郎。出從征討,補諸軍司馬。世祖平赫連昌,引諸將帥入其府藏,各令任意取金玉。諸將取之盈懷,軌獨不探把。世祖乃親探金賜之,謂軌曰:「卿可謂臨財不苟得,朕所以增賜者,欲顯廉於眾人。」

後に大鴻臚を兼ね、節を持ちて氐王楊玄を拝して南秦王と為す。境に及び、玄は郊迎せず。軌、玄を数えて曰く、「昔、尉他跨拠す。陸賈の至るに及び、匍匐して奉順す。故に能く竹帛に名を垂る。今、君王に肅恭の礼無し。蕃臣に非ざるなり」と。玄、その属趙客子をして対せしめて曰く、「天子は六合を家と為す。孰れか王庭に非ざらん。ここを以て敢えて国に入りて、然る後に謁を受くを請う」と。軌答えて曰く、「大夫入境すら、尚お郊労有り。而るを況や王命なるをや。請う、策を奉じて還らん」と。玄懼れ、郊に詣でて命を受く。軌使いより還り、旨に称し、尚書を拝し、燕郡公の爵を賜い、平南将軍を加う。

原文後兼大鴻臚,持節拜氐王楊玄為南秦王。及境,玄不郊迎,軌數玄曰:「昔尉他跨據,及陸賈至,匍匐奉順,故能垂名竹帛。今君王無肅恭之禮,非蕃臣也。」玄使其屬趙客子對曰:「天子以六合為家,孰非王庭,是以敢請入國,然後受謁。」軌答曰:「大夫入境,尚有郊勞,而況王命者乎?請奉策以還。」玄懼,詣郊受命。軌使還,稱旨,拜尚書,賜爵燕郡公,加平南將軍。

劉義隆の将到彦之がその部将姚縦夫を遣わして河を済み、冶坂を攻むるに及び、世祖は更に北入らんことを慮り、軌を遣わして壺関に屯せしむ。会う上党の丁零叛く。軌これを討平す。出でて虎牢鎮将と為る。

原文及劉義隆將到彥之遣其部將姚縱夫濟河,攻冶坂。世祖慮更北入,遣軌屯壺關。會上黨丁零叛,軌討平之。出為虎牢鎮將。

初め、世祖将に北征せんとし、民の驢を発して糧を運ばしめ、軌に部して雍州に詣らしむ。軌、驢主に皆絹一匹を加うるを令し、乃ちこれを受く。百姓これが為に語りて曰く、「驢に強弱無し、輔脊自ら壮なり」と。衆共にこれを嗤う。坐して徴還さる。真君二年卒す。時に年五十一。軌既に死す。世祖、崔浩に謂いて曰く、「吾上党を行き過ぐるに、父老皆曰く、公孫軌は貨を受けて賊を縦し、今に至るまで余奸除かざらしむ。軌の咎なり。その初め来たりし時は、単馬鞭を執る。返り去るに、車百両に従い、物を載せて南す。丁零の渠帥、山に乗りて軌を罵る。軌怒り、罵る者の母を取り、矛を以てその陰を刺して殺し、曰く『何ぞこの逆子を生めるや』と。下より擘に到り、四支を分ち磔いて山樹上にし、以てその忿りを肆にす。是れ忍び難き事を行えるなり。軌幸いに早く死す。今に至るまで在らば、吾必ず族してこれを誅せん」と。

原文初,世祖將北征,發民驢以運糧,使軌部詣雍州。軌令驢主皆加絹一匹,乃與受之。百姓為之語曰:「驢無強弱,輔脊自壯。」眾共嗤之。坐徵還。真君二年卒,時年五十一。軌既死,世祖謂崔浩曰:「吾行過上黨,父老皆曰:公孫軌為受貨縱賊,使至今餘姦不除,軌之咎也。其初來,單馬執鞭;返去,從車百兩,載物而南。丁零渠帥乘山罵軌,軌怒,取罵者之母,以矛刺其陰而殺之,曰:『何以生此逆子!』從下到擘,分磔四支於山樹上以肆其忿。是忍行不忍之事。軌幸而早死,至今在者,吾必族而誅之。」

軌終に封氏に娶り、二子を生む。斌・叡なり。

原文軌終得娶于封氏,生二子,斌、叡。

斌、爵を襲ぐ。内都大官を拝す。正光二年卒す。幽州刺史を贈らる。

原文斌,襲爵。拜內都大官。正光二年卒。贈幽州刺史。

叡、字は文叔。初め東宮の吏と為り、稍く儀曹長に遷り、陽平公の爵を賜う。時に顕祖苑内に殿を立て、中秘の群官に名を制せしむるを敕す。叡曰く、「臣聞く、至尊至貴は帝王より崇きは莫し。天人挹損は謙光より大なるは莫し。伏して惟うに、陛下唐虞の徳を躬行し、道を存し神を頤し、物外に逍遥せらる。宮居の名は、当に叡旨に協うべし。臣愚以為うに、宜しく『崇光』と曰うべし」と。奏す可し。後に南部尚書に卒す。安東将軍・幽州刺史を贈られ、諡して宣と曰う。

原文叡,字文叔。初為東宮吏,稍遷儀曹長,賜爵陽平公。時顯祖於苑內立殿,敕中秘羣官制名。叡曰:「臣聞至尊至貴,莫崇於帝王;天人挹損,莫大于謙光。伏惟陛下躬唐虞之德,存道頤神,逍遙物外,宮居之名,當協叡旨。臣愚以為宜曰『崇光』。」奏可。後卒於南部尚書。贈安東將軍、幽州刺史,諡曰宣。

叡の妻は崔浩の弟の女なり。子良を生む。字は遵伯。聡明好学、尚書左丞と為り、雅に幹用有り、高祖の知遇を受く。

原文叡妻,崔浩弟女也,生子良,字遵伯。聰明好學,為尚書左丞,雅有幹用,為高祖所知遇。

良の弟衡、字は道津。良、爵を推してこれを譲る。仕えて司直に至る。良は別功を以て、昌平子の爵を賜う。子崇基襲ぐ。

原文良弟衡,字道津。良推爵讓之,仕至司直。良以別功,賜爵昌平子。子崇基襲。

軌の弟質、字は元直。経義有り、頗る文を属す。初め中書学生と為り、稍く博士に遷る。世祖涼州を征し、宜都王穆寿を留めて恭宗を輔けしむ。時に蠕蠕虚に乗じて塞を犯し、候騎京師に至る。京師大いに震う。寿は雅に質を信任し、以て謀主と為す。質の性、卜筮を好む。卜筮者皆云う、寇必ず来たらずと。故に備えを謀らず。質に由りて幾くんか国を敗らんとす。後に深く自ら督厲し、屡へ讜言を進め、超えて尚書に遷る。真君九年卒す。中護軍将軍・光禄勲・幽州刺史・広陽侯を追贈され、諡して恭と曰う。

原文軌弟質,字元直。有經義,頗屬文。初為中書學生,稍遷博士。世祖征涼州,留宜都王穆壽輔恭宗。時蠕蠕乘虛犯塞,候騎至於京師,京師大震。壽雅信任質,以為謀主。質性好卜筮,卜筮者咸云寇必不來,故不謀備。由質幾致敗國。後深自督厲,屢進讜言,超遷尚書。真君九年卒。追贈中護軍將軍、光祿勳、幽州刺史、廣陽侯,諡曰恭。

第二子邃、字は文慶。初め選部の吏と為り、積勤を以て、稍く南部長に遷る。敷奏称有り、南部尚書に遷り、范陽侯の爵を賜い、左将軍を加う。高祖詔して邃に内都幢将・上谷公張儵と衆を率いて蕭賾の舞陰戍を討たしむ。

原文第二子邃,字文慶。初為選部吏,以積勤,稍遷南部長。敷奏有稱,遷南部尚書,賜爵范陽侯,加左將軍。高祖詔邃與內都幢將、上谷公張儵率眾討蕭賾舞陰戍。

後に高祖と文明太后、王公以下を引見す。高祖曰く、「比年畿内及び京城の三部を方割するも、百姓に頗る益有りや」と。邃対えて曰く、「先ず者は人民離散し、主司猥りに多し。督察に至りては、実に斉整し難し。方割以来、衆賦辦え易く、実に大益有り」と。太后曰く、「諸人多く益無しと言う。卿の言は治機を識ると謂うべし」と。詔して醴陽に掠められたる兵、還り得る者有らば、絹二十匹を賜う。邃奏して貴賤の等級を為す。高祖善しと称す。例に依り侯を降し、襄平伯と改む。出でて使持節・安東将軍・青州刺史と為る。邃の公に在りて遺迹紀す可きを以て、詔を下して褒述す。鎮東将軍を加え、東夷校尉を領し、刺史は元の如し。

原文後高祖與文明太后引見王公以下,高祖曰:「比年方割畿內及京城三部,於百姓頗有益否?」邃對曰:「先者人民離散,主司猥多,至於督察,實難齊整。自方割以來,眾賦易辦,實有大益。」太后曰:「諸人多言無益,卿言可謂識治機矣。」詔醴陽被掠之兵,有得還者,賜絹二十匹。邃奏為貴賤等級,高祖稱善。依例降侯,改為襄平伯。出為使持節、安東將軍、青州刺史。以邃在公遺迹可紀,下詔褒述。加鎮東將軍,領東夷校尉,刺史如故。

太和十九年、官にて卒す。高祖は鄴宮に在りて、そのために哀悼の礼を挙げた。時に百事は新たに始まり、青州の佐吏は服喪の期間を疑う。詔して曰く、「今と古とは時を異にし、礼には或いは盛んなるものあり、或いは簡略なるものあり。専ら古に倣えば、理は今に背き、専ら今に従えば、大いに昔の義に乖く。両途を斟酌し、得失を商量すべし。吏民の情もまた苟くも順うべからず。主簿は、近代相承けて斬衰を服し、葬を過ぎて便ち除く。故事の如くすべし。その余は服せず、大いに寥落たり。諸境内の民に準じ、斉衰三月とすべし」と。

原文太和十九年,卒於官。高祖在鄴宮,為之舉哀。時百度唯新,青州佐吏疑為所服。詔曰:「今古時殊,禮或隆殺。專古也,理與今違;專今也,大乖曩義。當斟酌兩途,商量得失,吏民之情亦不可苟順也。主簿,近代相承服斬,過葬便除,可如故事。自餘無服,大成寥落,可準諸境內之民,為齊衰三月。」

子の同始、爵を襲ぐ。給事中にて卒す。

原文子同始,襲爵。卒於給事中。

同始の弟同慶は、篤厚にして廉慎、司徒田曹参軍、李崇の驃騎府外兵参軍となる。崇に従い北征し、方直の称あり。

原文同始弟同慶,篤厚廉慎,為司徒田曹參軍,李崇驃騎府外兵參軍。隨崇北征,有方直之稱。

邃と叡は従父兄弟なり。而して叡は才器小しく優れ、また封氏の生まれ、崔氏の婿なり。邃の母は雁門の李氏にして、地望は県隔たり。鉅鹿太守の祖季真は、北方の人物を多く識り、常に云う、「士大夫は須らく好き婚親を為すべし。二公孫は同堂の兄弟なるに、吉凶会集するに、便ち士庶の異有り」と。

原文邃、叡為從父兄弟,而叡才器小優,又封氏之生,崔氏之壻,邃母雁門李氏,地望縣隔。鉅鹿太守祖季真,多識北方人物,每云:「士大夫當須好婚親,二公孫同堂兄弟耳,吉凶會集,便有士庶之異。」

張済は、字を士度と云い、西河の人なり。父は千秋、慕容永の驃騎将軍。永滅び、来奔す。太祖これを善しとし、建節将軍に拝し、成紀侯の爵を賜う。征伐に従い、累ねて功績を著す。登国の末、卒す。

原文張濟,字士度,西河人也。父千秋,慕容永驍騎將軍。永滅,來奔。太祖善之,拜建節將軍,賜爵成紀侯。隨從征伐,累著功績。登國末,卒。

済は書伝に渉猟し、清弁にして、儀容美なり。太祖これを愛し、左右に侍らしめ、公孫表らと倶に行人と為り、散騎侍郎に拝し、爵を襲ぐ。

原文濟涉獵書傳,清辯,美儀容。太祖愛之,引侍左右,與公孫表等俱為行人,拜散騎侍郎,襲爵。

先に、姚興は将を遣わして洛陽を攻め、司馬徳宗の雍州刺史楊佺期は使いを遣わして常山王遵に師を乞う。遵は状を以て聞く。太祖は済を遣わし、遵の従事中郎としてこれに報ぜしむ。済は襄陽より還る。太祖、済に江南の事を問う。済対えて曰く、「司馬昌明死に、子の徳宗代わりて立ち、その部する州鎮は、迭り相い攻撃す。今は小定すと雖も、君弱く臣強く、全く綱紀無し。臣等既に襄陽に至り、佺期、臣に問うて曰く、『魏初め中山を伐つに幾十万の衆か』と。臣答えて曰く、『三十余万』と。佺期曰く、『魏国の被甲戎馬、幾匹か有るべし』と。臣答えて曰く、『中軍の精騎十余万、外軍は数無し』と。佺期曰く、『これを以て羌を討つに、豈に滅ぼすに足らんや』と。又曰く、『魏、中山を定め、幾戸を北に徙すか』と。臣答えて曰く、『七万余家』と。佺期曰く、『治めるところは何城か』と。臣答えて曰く、『平城に都を定む』と。佺期曰く、『許の大衆有るも、亦た何ぞ城を用いん』と。又曰く、『魏帝は久しく平城に都せんと欲するか、将たまたまた遷らんとするか』と。臣答えて曰く、『知らざる所なり』と。佺期、朝廷山東に都せざるを聞き、貌に喜色有りて曰く、『晋魏通和するは、乃ち往昔に在り、唯だ今日に非ず。羌寇狡猾にして、頻りに河洛を侵し、夙夜憂危す。今この寡弱、倉庫空竭す。君と便ち一家と為り、義に諱る所無し。洛城の救援は、魏に仰ぎ恃む。若し保全を獲ば、当に必ず厚く報いん。其れ羌に乗ぜらるるが如くは、寧ろ魏に取らしめん』と。臣等は分かれて揚州に向かわんと欲す。佺期曰く、『蛮賊互いに起こり、水行甚だ難し。魏の軍馬は已に滑台を拠す。此に於いて還り、北道より東下するは、乃ち更に便直なり。晋の法制は、魏に異なる有り。今都督襄陽、外事に委ね、征討を欲する有らば、輒ち便ち興発し、然る後に表して聞かしめ、朝廷に之を知らしむるのみ。其の事勢挙がざるも、亦た台命を承けず』と」と。太祖その辞の順なるを嘉し、乃ち厚くその使いを賞し、洛陽を救うことを許す。

原文先是,姚興遣將攻洛陽,司馬德宗雍州刺史楊佺期遣使乞師於常山王遵,遵以狀聞,太祖遣濟為遵從事中郎報之。濟自襄陽還,太祖問濟江南之事,濟對曰:「司馬昌明死,子德宗代立,所部州鎮,迭相攻擊,今雖小定,君弱臣強,全無綱紀。臣等既至襄陽,佺期問臣:『魏初伐中山幾十萬眾?』臣答:『三十餘萬。』佺期曰:『魏國被甲戎馬,可有幾匹?』臣答:『中軍精騎十有餘萬,外軍無數。』佺期曰:『以此討羌,豈足滅也。』又曰:『魏定中山,徙幾戶於北?』臣答:『七萬餘家。』佺期曰:『治在何城?』臣答:『定都平城。』佺期曰:『有如許大眾,亦何用城為?』又曰:『魏帝為欲久都平城,將復遷乎?』臣答:『非所知也。』佺期聞朝廷不都山東,貌有喜色,曰:『晉魏通和,乃在往昔,非唯今日。羌寇狡猾,頻侵河洛,夙夜憂危。今此寡弱,倉庫空竭,與君便為一家,義所無諱。洛城救援,仰恃於魏,若獲保全,當必厚報。如其為羌所乘,寧使魏取。』臣等欲分向揚州。佺期曰:『蠻賊互起,水行甚難,魏之軍馬,已據滑臺,於此而還,從北道東下,乃更便直。晉之法制,有異於魏。今都督襄陽,委以外事,有欲征討,輒便興發,然後表聞,令朝廷知之而已。如其事勢不舉,亦不承臺命。』」太祖嘉其辭順,乃厚賞其使,許救洛陽。

後に謁者僕射に遷り、使いとして姚興に報ず。累ねて使いとして旨に称うを以て、勝兵将軍に拝す。頻りに車駕に従い北伐し、済の謀功多くを占む。奴婢百口、馬牛数百、羊二十余口を賞賜す。天賜五年卒す。子の多羅、爵を襲ぐ。事に坐して除かれる。

原文後遷謁者僕射,報使姚興。以累使稱旨,拜勝兵將軍。頻從車駕北伐,濟謀功居多。賞賜奴婢百口,馬牛數百,羊二十餘口。天賜五年卒,子多羅襲爵。坐事除。

李先は、字を容仁と云い、中山盧奴の人なり。本字は高祖の廟諱に犯す。少くして学を好み、占相の術を善くす。清河の張御に師事し、御これを奇とす。苻堅に仕え、尚書郎。後に慕容永その名を聞き、迎えて謀主と為す。先は永を勧めて長子城に拠らしむ。永遂に制を称し、先を以て黄門郎・秘書監と為す。垂、永を滅ぼし、中山に徙す。

原文李先,字容仁,中山盧奴人也,本字犯高祖廟諱。少好學,善占相之術,師事清河張御,御奇之。仕苻堅,尚書郎。後慕容永聞其名,迎為謀主。先勸永據長子城,永遂稱制,以先為黃門郎、祕書監。垂滅永,徙於中山。

皇始の初め、先は井陘に於いて帰順す。太祖、先に問うて曰く、「卿は何国の人ぞ」と。先曰く、「臣は本より趙郡平棘の人なり」と。太祖曰く、「朕聞く、中山は土広く民殷しと。信に爾や否や」と。先曰く、「臣少くして長安に官し、仍って長子に事え、後乃ち郷に還り、民士を観望するに、実に殷広なり」と。又た先に問うて曰く、「朕聞く、長子の中に李先と云う者有りと。卿は其れ是なるか」と。先曰く、「小臣是なり」と。太祖曰く、「卿は朕を識るか」と。先曰く、「陛下の聖徳は符に膺り、沢は八表に被わる。龍顔挺特たり。臣安んぞ敢えて識らざらんや」と。太祖又た問うて曰く、「卿の祖父及び身の官は悉く何の官を歴たりしや」と。先対えて曰く、「臣の大父重は、晋の平陽太守・大将軍右司馬。父樊は、石虎の楽安太守・左中郎将。臣は、苻丕の尚書右主客郎、慕容永の秘書監・高密侯」と。太祖曰く、「卿既に宿士にして、屡りて名官を歴たり。経学の通ずる所、何の典を長とすや」と。先対えて曰く、「臣が才識愚暗にして、少く経史を習う。年荒れ廃忘し、十に猶お六を通ず」と。又た問う、「兵法風角、卿は悉く通ずるや否や」と。先曰く、「亦た曾て習読すと雖も、明解すること能わず」と。太祖曰く、「慕容永の時、卿は兵を用いしや」と。先曰く、「臣時は顕任を蒙り、実に兵事に参ぜり」と。

原文皇始初,先於井陘歸順。太祖問先曰:「卿何國人?」先曰:「臣本趙郡平棘人。」太祖曰:「朕聞中山土廣民殷,信爾以不?」先曰:「臣少官長安,仍事長子,後乃還鄉,觀望民士,實自殷廣。」又問先曰:「朕聞長子中有李先者,卿其是乎?」先曰:「小臣是也。」太祖曰:「卿識朕不?」先曰:「陛下聖德膺符,澤被八表,龍顏挺特,臣安敢不識。」太祖又問曰:「卿祖父及身官悉歷何官?」先對曰:「臣大父重,晉平陽太守、大將軍右司馬。父樊,石虎樂安太守、左中郎將。臣,苻丕尚書右主客郎,慕容永祕書監、高密侯。」太祖曰:「卿既宿士,屢歷名官,經學所通,何典為長?」先對曰:「臣才識愚闇,少習經史,年荒廢忘,十猶通六。」又問:「兵法風角,卿悉通不?」先曰:「亦曾習讀,不能明解。」太祖曰:「慕容永時,卿用兵不?」先曰:「臣時蒙顯任,實參兵事。」

太祖後に先を以て丞相衛王府左長史と為す。儀に従い鄴を平げ、義台に到り、慕容驎の軍を破り、回って中山を定む。先は毎に一策を進むるに、向かう所克く平ぐ。車駕代に還り、先を以て尚書右中兵郎と為す。太祖、先に謂いて曰く、「今蠕蠕は屡り来たりて塞を犯す。朕これを討たんと欲す。卿以て何如と為すや」と。先曰く、「蠕蠕は天命を識らず、荒朔に竄伏し、屡り来たりて偷窃し、辺民を驚動す。陛下は神武にして、威徳遐く振るう。兵を挙げてこれを征せば、必ず将に摧殄せん」と。車駕ここに於いて北伐し、大いに蠕蠕を破る。先に奴婢三口、馬牛羊五十頭を賞す。

原文太祖後以先為丞相衞王府左長史。從儀平鄴,到義臺,破慕容驎軍,回定中山,先每一進策,所向克平。車駕還代,以先為尚書右中兵郎。太祖謂先曰:「今蠕蠕屢來犯塞,朕欲討之,卿以為何如?」先曰:「蠕蠕不識天命,竄伏荒朔,屢來偷竊,驚動邊民。陛下神武,威德遐振,舉兵征之,必將摧殄。」車駕於是北伐,大破蠕蠕。賞先奴婢三口,馬牛羊五十頭。

七兵郎に転じ、博士・定州大中正に遷る。太祖、先に問うて曰く、「天下何の書か最も善くして、人の神智を益すべしや」と。先対えて曰く、「唯だ経書有り。三皇五帝治化の典は、以て王者の神智を補うべし」と。又た問うて曰く、「天下の書籍、凡そ幾何ぞ。朕これを集めんと欲す。如何にすれば備うるべしや」と。対えて曰く、「伏羲創制し、帝王相承け、以て今に至る。世伝の国記、天文秘緯は数うべからず。陛下誠にこれを集めんと欲せば、厳に天下の諸州郡県に制して搜索し備え送らしむ。主の好む所、集むるも亦た難からず」と。太祖ここに於いて天下に制を班し、経籍稍く集まる。

原文轉七兵郎,遷博士、定州大中正。太祖問先曰:「天下何書最善,可以益人神智?」先對曰:「唯有經書。三皇五帝治化之典,可以補王者神智。」又問曰:「天下書籍,凡有幾何?朕欲集之,如何可備?」對曰:「伏羲創制,帝王相承,以至於今,世傳國記,天文祕緯不可計數。陛下誠欲集之,嚴制天下諸州郡縣搜索備送,主之所好,集亦不難。」太祖於是班制天下,經籍稍集。

太祖が柴壁において姚興を討伐した際、李先に問うて言うには、「姚興は天渡に屯し、平は柴壁を拠り、互いに表裏を成している。今これを殄滅せんと欲するが、計略はどうすべきか」と。先は答えて言うには、「臣は聞く、兵は正をもって合し、戦は奇をもって勝つと。姚興が兵を天渡に屯させ、その糧道を利せんと欲していると聞きます。その未だ到らざる前に、奇兵を遣わして先んじて天渡を邀え、柴壁の左右に厳しく伏兵を設け、その表裏を備えますれば、陛下の神策をもって時を見て動かば、姚興は進むを得ず、退くもまた糧を欠くことでしょう。高いところは敵に棲まれるところとなり、深いところは敵に囚われるところとなる。兵法の忌むところにして、姚興はこれに居る。戦わずして取るべし」と。太祖はその計に従い、姚興は果たして敗れて帰った。

原文太祖之討姚興於柴壁也,問先曰:「興屯天渡,平據柴壁,相為表裏。今欲殄之,計將安出?」先對曰:「臣聞兵以正合,戰以奇勝。如聞姚興欲屯兵天渡,利其糧道。及其未到之前,遣奇兵先邀天渡,柴壁左右,嚴設伏兵,備其表裏。以陛下神策,觀時而動,興欲進不得,退又乏糧。夫高者為敵所棲,深者為敵所囚,兵法所忌而興居之,可不戰而取。」太祖從其計,興果敗歸。

太宗が即位し、左右の旧臣の中で先帝に親信された者に誰があるかを問うた。時に新息公王洛児が答えて言うには、「李先という者が最も先帝に知られております」と。太宗は先を召し引見し、問うて言うには、「卿は何の功行がありて、先帝に認められたのか」と。先は答えて言うには、「臣は愚かで細やか、才能行い聞こえるところなく、ただ忠直をもって上に奉じたのみで、他に異能はございません」と。太宗は言う、「卿、旧事を試みに言え」と。先は答えて言うには、「臣は聞く、堯舜の教えは民を化すこと子の如く、三王は賢を任じて天下は懐服すと。今陛下みずから労謙を執られ、六合は徳に帰し、士女言う能く、慶び躍らざるはありません」と。やがて先を召して韓子連珠二十二篇、太公兵法十一事を読ませた。有司に詔して言うには、「先の知るところは皆軍国の大事である。今より常に内に宿せよ」と。先に絹五十匹、絲五十斤、雑綵五十匹を賜う。御馬一匹。安東将軍・寿春侯に拝し、隷戸二十二を賜う。

原文太宗即位,問左右舊臣之中為先帝所親信者有誰。時新息公王洛兒對曰:「有李先者,最為先帝所知。」太宗召先引見,問曰:「卿有何功行,而蒙先帝所識?」先對曰:「臣愚細,才行無聞,適以忠直奉上,更無異能。」太宗曰:「卿試言舊事。」先對曰:「臣聞堯舜之教,化民如子;三王任賢,天下懷服。今陛下躬秉勞謙,六合歸德,士女能言,莫不慶抃。」俄而召先讀韓子連珠二十二篇、太公兵法十一事。詔有司曰:「先所知者,皆軍國大事,自今常宿於內。」賜先絹五十匹、絲五十斤、雜綵五十匹。御馬一匹。拜安東將軍、壽春侯,賜隸戶二十二。

詔して先と上党王長孫道生に師を率いて馮跋の乙連城を襲わせ、これを陥とし、その衆を悉く虜掠した。乃ち進んで和龍を討たんとした。先は道生に言うには、「密かに兵士一人一人に青草一束、各々五尺囲いを備えさせ、以て城塹を填むべし。その西南を攻め、外援を絶ち、兵を勒して急攻すれば、賊は必ず擒うべし」と。道生は従わず、遂に民を掠めて還った。

原文詔先與上黨王長孫道生率師襲馮跋乙連城,克之,悉虜其眾。乃進討和龍。先言於道生曰:「宜密使兵人人備青草一束,各五尺圍,用填城塹。攻其西南,絕其外援,勒兵急攻,賊必可擒。」道生不從,遂掠民而還。

後に出でて武邑太守となり、治績の名があった。世祖が即位し、内都大官に徴された。神䴥二年に卒す。九十五歳。詔して金縷の命服一襲を賜い、定州刺史・中山公を追贈し、諡して文懿といった。

原文後出為武邑太守,有治名。世祖即位,徵為內都大官。神䴥二年卒,年九十五。詔賜金縷命服一襲,贈定州刺史、中山公,諡曰文懿。

子の冏、爵を襲う。京兆・済陰二郡太守となる。卒す。

原文子冏,襲爵。為京兆、濟陰二郡太守。卒。

子の鍾葵、爵を襲う。子に降格される。

原文子鍾葵,襲爵,降為子。

鍾葵の弟鳳子、鳳子の弟虬子、ともに中書博士となる。

原文鍾葵弟鳳子,鳳子弟虬子,並中書博士。

鳳子の子預、字は元愷。少くして中書学生となる。聡敏で記憶力強く、経史に渉猟す。太和の初め、秘書令・斉郡王友を歴任す。出でて征西大将軍長史となり、馮翊太守を帯ぶ。数年を積み、府が解かれて郡を罷むると、遂に長安に居住す。毎に古人の玉を餐する法を羨み、乃ち藍田を採訪し、みずから往きて攻掘す。環璧雑器の形をしたもの大小百余を得、稍々粗黒きものをも得て、篋に盛って還る。家に至ってこれを観れば、皆光潤して玩ぶべし。預は乃ち七十枚を椎いて屑とし、日に服食す。余は多く人に恵む。後に預及び聞く者更に故処に求むるも、皆見る所なし。馮翊公源懐らその玉を得て、器佩に琢つも、皆鮮明にして宝とすべし。預は服すること経年、効験有りと云う。而して世事の寢食を禁節せず、又これに好酒して志を損うを加え、疾篤に及び、妻子に謂いて言うには、「玉を服し山林に屏居し、嗜欲を排棄すれば、或いは大いに神力有るべし。而るに吾は酒色を絶たず、自ら死に致る。薬の過ちに非ず。然れども吾が尸体は必ず異有るべし。便ち速やかに殯する勿れ、後人に餐服の妙を知らしめよ」と。時に七月中旬、長安毒熱なり。預の尸を停めること四宿、而して体色変ぜず。その妻常氏、玉珠二枚を以てこれを唅す。口閉ず。常これに謂いて言うには、「君自ら云う、玉を餐すること神験有りと。何ぞ故に唅を受ざるや」と。言い訖りて歯啓き、珠を納る。因って嘘きてその口に属す。都て穢気無し。挙げて棺に斂むるに、堅直にして傾委せず。死する時猶遺せる玉屑数斗有り、橐に盛って諸れを棺中に納る。

原文鳳子子預,字元愷。少為中書學生。聰敏強識,涉獵經史。太和初,歷祕書令、齊郡王友。出為征西大將軍長史,帶馮翊太守。積數年,府解罷郡,遂居長安。每羨古人餐玉之法,乃採訪藍田,躬往攻掘。得若環璧雜器形者大小百餘,稍得粗黑者,亦篋盛以還,而至家觀之,皆光潤可玩。預乃椎七十枚為屑,日服食之,餘多惠人。後預及聞者更求於故處,皆無所見。馮翊公源懷等得其玉,琢為器佩,皆鮮明可寶。預服經年,云有效驗,而世事寢食不禁節,又加之好酒損志,及疾篤,謂妻子曰:「服玉屏居山林,排棄嗜欲,或當大有神力,而吾酒色不絕,自致於死,非藥過也。然吾尸體必當有異,勿便速殯,令後人知餐服之妙。」時七月中旬,長安毒熱,預停尸四宿,而體色不變。其妻常氏以玉珠二枚唅之,口閉。常謂之曰:「君自云餐玉有神驗,何故不受唅也?」言訖齒啟,納珠,因噓屬其口,都無穢氣。舉斂於棺,堅直不傾委。死時猶有遺玉屑數斗,橐盛納諸棺中。

初め天興の中、先の子密、先に問うて言うには、「子孫永く魏の臣たらんか、将たまた他主に事えんか」と。先告げて言うには、「未だせず。国家の政化長遠にして、卒に窮むべからず」と。皇始より斉の禅を受くるに至るまで、実に百五十余歳なり。

原文初天興中,先子密問於先曰:「子孫永為魏臣,將復事他主也?」先告曰:「未也。國家政化長遠,不可卒窮。」自皇始至齊受禪,實百五十餘歲矣。

賈彝、字は彦倫、本は武威姑臧の人なり。六世の祖敷、魏の幽州刺史・広川都亭侯、子孫因ってここに家す。父は苻堅の鉅鹿太守となり、訕謗に坐して獄に繋がる。彝年十歳、長安に詣でて父を訟い申し獲る。遠近これを歎じ、僉に曰く、「此の子英俊、賈誼の後、これと京するもの莫し」と。弱冠、慕容垂の驃騎大将軍・遼西王農の記室参軍となる。太祖先ずその名を聞き、嘗て使者を遣わして彝を垂に求む。垂弥(いよいよ)器敬を増し、更加えて寵秩を加え、驃騎長史に遷し、昌黎太守を帯ぶ。垂その太子宝を遣わして来寇す。参合陂に大敗し、彝及びその従兄代郡太守潤等を執る。

原文賈彝,字彥倫,本武威姑臧人也。六世祖敷,魏幽州刺史、廣川都亭侯,子孫因家焉。父為苻堅鉅鹿太守,坐訕謗繫獄。彝年十歲,詣長安訟父獲申,遠近歎之,僉曰:「此子英俊,賈誼之後,莫之與京。」弱冠,為慕容垂驃騎大將軍、遼西王農記室參軍。太祖先聞其名,嘗遣使者求彝於垂。垂彌增器敬,更加寵秩,遷驃騎長史,帶昌黎太守。垂遣其太子寶來寇,大敗於參合陂,執彝及其從兄代郡太守潤等。

太祖即位し、尚書左丞に拝し、国政に参預し、給事中を加えらる。鄴に行台を置き、尚書和跋とともに鄴を鎮め、初附を招携す。久しくして乃ち召し還る。天賜の末、彝温湯に詣で病を療さんことを請う。叛胡に拘執せられ、姚興に送られる。数年を積み、遁れて帰る。又た屈丐に執られ、語らいてこれを悦び、秘書監に拝す。年六十一、卒す。世祖赫連昌を平ぐ。子秀その尸柩を迎え、代南に葬る。

原文太祖即位,拜尚書左丞,參預國政,加給事中。於鄴置行臺,與尚書和跋鎮鄴,招攜初附。久乃召還。天賜末,彝請詣溫湯療病,為叛胡所拘執,送於姚興,積數年,遁歸。又為屈丐所執,與語悅之,拜祕書監。年六十一,卒。世祖平赫連昌,子秀迎其尸柩,葬于代南。

秀、中書博士を歴任し、中書侍郎・太子中庶子・揚烈将軍に遷り、陽都男の爵を賜い、本州大中正となる。恭宗崩ず。以て爵を還して第す。既にして吏曹の事を掌る。高宗秀を東宮の旧臣とし、陽都子に爵を進め、振威将軍を加う。時に丞相乙渾威福を擅にし、殺害すること多し。渾の妻は庶姓にして公主の号を求め、屡々秀に言う。秀黙然たり。渾曰く、「公事に従わざる無きに、我公主を請うも応ぜざるは何の意ぞ」と。秀慷慨大言し、対えて言うには、「公主の称は王姫の号、尊寵の極み、庶族の宜しくする所に非ず。若し此の号を仮竊せば、当に必ず自ら咎むべし。秀は寧ろ今朝に死すとも、後日に笑われんことを取らじ」と。渾の左右色を失わざる莫く、これが為に震懼す。而して秀神色自若たり。渾夫妻黙然として忿みを含む。他日、乃ち太醫給事楊惠富の臂に「老奴官慳」の字を書き、令して以て秀に示さしむ。渾毎に隙を伺いてこれを陥れんと欲す。会に渾誅せらる。遂に難を免るるを得たり。秀正を執り志を守る、皆此の類なり。

原文秀,歷中書博士,遷中書侍郎、太子中庶子、揚烈將軍,賜爵陽都男,本州大中正。恭宗崩,以爵還第。既而掌吏曹事。高宗以秀東宮舊臣,進爵陽都子,加振威將軍。時丞相乙渾擅作威福,多所殺害。渾妻庶姓而求公主之號,屢言於秀,秀默然。渾曰:「公事無所不從,我請公主,不應何意?」秀慷慨大言,對曰:「公主之稱,王姬之號,尊寵之極,非庶族所宜。若假竊此號,當必自咎。秀寧死於今朝,不取笑於後日。」渾左右莫不失色,為之震懼,而秀神色自若。渾夫妻默然含忿。他日,乃書太醫給事楊惠富臂作「老奴官慳」字,令以示秀。渾每欲伺隙陷之,會渾伏誅,遂得免難。秀執正守志,皆此類也。

時に秀と中書令勃海の高允と俱に儒旧として時に重んぜられ、皆方岳に擬せられんとす。以て詢訪見留められ、各々長子の出でて郡守となることを聴す。秀辞して言うには、「爰に愚微よりし、累紀を承乏し、少にして恩を受け、老いて成效無し。先ず草露を恐れ、殊私に報ゆること無からん。豈直に功無きの子、先達に超斉せんや。仰いで聖慈を感ずと雖も、俯して深く驚懼す。成命を収め、以て微臣を安んぜんことを乞う」と。遂に固く譲りて受けず。

原文時秀與中書令勃海高允俱以儒舊見重於時,皆選擬方岳,以詢訪見留,各聽長子出為郡守。秀辭曰:「爰自愚微,承乏累紀,少而受恩,老無成效,恐先草露,無報殊私。豈直無功之子,超齊先達。雖仰感聖慈,而俯深驚懼。乞收成命,以安微臣。」遂固讓不受。

始めより終わりに及び、五帝に歴奉す。大官に至らざる雖も、常に機要を掌る。而して廉清儉約、資産を営まず。年七十三、疾に遇う。医薬を給し、几杖を賜う。時に朝廷の挙動及び大事決せざる毎に、尚書・高平公李敷を遣わし、就第して訪決せしむ。皇興三年卒す。本将軍・冀州刺史・武邑公を贈り、諡して簡といった。

原文自始及終,歷奉五帝,雖不至大官,常掌機要。而廉清儉約,不營資產。年七十三,遇疾,給醫藥,賜几杖。時朝廷舉動及大事不決,每遣尚書、高平公李敷就第訪決。皇興三年卒。贈本將軍、冀州刺史、武邑公,諡曰簡。

子の儁は、字を異隣といい、爵を襲う。秘書中散・軍曹令に拝される。出でて顕武将軍・荊州刺史となる。例により爵を降りて伯となる。先に、上洛に荊州を置き、後に洛州と改めたが、重山の中にあり、民は学を知らなかった。儁は学官を置くことを上表し、聡悟なる者を選んでこれを教えた。州に在ること五載、清靖にして事少なく、吏民もまた安んず。遷都の後、儁は京師に朝し、素帛を以て賞せられる。景明の初めに卒す。本将軍・光州刺史を贈られる。

原文子儁,字異隣,襲爵。拜祕書中散、軍曹令。出為顯武將軍、荊州刺史。依例降爵為伯。先是,上洛置荊州,後改為洛州,在重山中,民不知學。儁乃表置學官,選聰悟者以教之。在州五載,清靖寡事,吏民亦安。遷洛後,儁朝京師,賞以素帛。景明初卒。贈本將軍、光州刺史。

子の叔休は、爵を襲う。給事中に除される。卒す。

原文子叔休,襲爵。除給事中。卒。

子の興は、爵を襲う。

原文子興,襲爵。

興の弟の賓は、尚書郎を歴任し、清素を以て称せられる。出でて黎陽太守となり、官に卒す。

原文興弟賓,歷尚書郎,以清素稱。出為黎陽太守,卒官。

潤の曾孫の禎は、字を叔願という。学は経史に渉り、喪に居て孝を以て聞こえる。太和の中、中書博士となり、中書侍郎高聰に副えて江左に使す。還りて、母老いて患いあるを以て、輒ち家を過ぎて定省し、坐して官を免ぜられる。久しくして、京兆王愉の郎中令に徴され、行洛陽令となる。治書侍御史・国子博士に転じ、威遠将軍を加えられ、行魯陽太守となる。清素にして、撫接を善くし、百姓の情を得る。稍く司徒諮議参軍・通直散騎常侍に遷り、冠軍将軍を加えられる。正光の中に卒す。平北将軍・齊州刺史を贈られる。

原文潤曾孫禎,字叔願。學涉經史,居喪以孝聞。太和中,為中書博士,副中書侍郎高聰使於江左。還,以母老患,輒過家定省,坐免官。久之,徵為京兆王愉郎中令,行洛陽令。轉治書侍御史、國子博士,加威遠將軍,行魯陽太守。清素,善撫接,得百姓情。稍遷司徒諮議參軍、通直散騎常侍,加冠軍將軍。正光中卒。贈平北將軍、齊州刺史。

子の子儒は、司空田曹参軍となる。

原文子子儒,司空田曹參軍。

禎の兄の子の景儁もまた、学識を以て知名たり、奉朝請となる。京兆王愉の府の外兵参軍に遷る。愉が冀州にて逆を起こし、将にその官を授けんとすれども、景儁は受けず、愉これを殺す。永平の中、東清河太守を贈られ、諡して貞という。

原文禎兄子景儁,亦以學識知名,奉朝請。遷京兆王愉府外兵參軍。愉起逆於冀州,將授其官,景儁不受,愉殺之。永平中,贈東清河太守,諡曰貞。

景儁の弟の景興。清峻にして鯁直なり。少くして州の主簿となり、遂に栖遅して仕えず。後に葛榮が冀州を陥とし、榮の虜と為り、疾を称して拝せず。景興は毎に膝を捫りて言う、「吾は汝に負わず」と。葛榮を拝せざる故なり。

原文景儁弟景興。清峻鯁正。少為州主簿,遂栖遲不仕。後葛榮陷冀州,為榮所虜,稱疾不拜。景興每捫膝而言曰:「吾不負汝。」以不拜葛榮故也。

薛提は、太原の人なり。皇始の中、太学生を補し、侍御史に拝される。累遷して散騎常侍・太子太保となり、爵を歴陽侯に賜り、晉兵将軍を加えられる。出でて鎮東大将軍・冀州刺史となり、爵を進めて太原公となる。所在に声績あり。侍中に徴され、都曹事を治む。世祖崩じ、喪を秘して発せず。尚書左僕射蘭延・侍中和匹ら議して、皇孫幼沖なるを以て、長君を立てるべしとし、秦王翰を徴して秘室に置かんとす。提曰く、「皇孫は世嫡の重きあり、民望の係る所なり。春秋少なきといえども、令問天下に聞こえ、成王・孝昭の周漢を隆くする所以なり。立つべき所を廃し、更に君を求むるは、必ず不可なり」と。延ら猶予して未だ決せず。中常侍宗愛その謀を知り、皇后の令を矯って提らを徴し入れて、遂にこれを殺す。

原文薛提,太原人也。皇始中,補太學生,拜侍御史。累遷散騎常侍、太子太保,賜爵歷陽侯,加晉兵將軍。出為鎮東大將軍、冀州刺史,進爵太原公。所在有聲績。徵為侍中,治都曹事。世祖崩,秘不發喪。尚書左僕射蘭延、侍中和匹等議,以為皇孫幼冲,宜立長君,徵秦王翰置之祕室。提曰:「皇孫有世嫡之重,民望所係。春秋雖少,令問聞於天下,成王、孝昭所以隆周漢。廢所宜立,而更求君,必不可。」延等猶豫未決。中常侍宗愛知其謀,矯皇后令徵提等入,遂殺之。

提の弟の浮子。高宗即位し、提に謀りて立つるの誠有りしを以て、詔して兄の爵太原公を襲わしむ。有司奏して侯に降す。皇興元年卒す。

原文提弟浮子。高宗即位,以提有謀立之誠,詔襲兄爵太原公,有司奏降為侯。皇興元年卒。