魏書

卷32 高湖 崔逞 封懿

卷32 高湖 崔逞 封懿

高湖

原文高湖

高湖、字は大淵、勃海郡蓨県の人である。漢の太傅高裒の後裔。祖父の慶は、慕容垂の司空。父の泰は、吏部尚書。湖は幼少より機敏にして器量あり、兄の韜とともに当時に知名で、殊に郷人崔逞に敬重された。若くして顕職を歴任し、散騎常侍となる。登国十年、垂がその太子宝を遣わして来伐した時、湖は垂に言うには、「魏は燕の与国なり。彼に内難あれば、こちらは赴きてこれを助け、こちらに求めあれば、彼は違うことなし。和好多年、使者相継ぐ。往きて馬を求め得ず、遂にその弟を留めしは、曲はこちらにあり、彼の失にあらず。まさに旧好を修め、国家を安寧すべきに、また太子に率衆して遠征せしむ。しかも魏主は雄略あり、兵馬精強にして、険阻艱難を備嘗せり。太子は春秋に富み、意果にして心鋭く、敵を軽んじ勝ちを好む、独行は難し。兵は凶器、戦は危うし、深慮を以てせんことを願う」と。言甚だ切厲なり。垂怒り、湖の官を免ず。既にして宝は果たして参合にて敗れたり。宝が立つと、乃ち湖を起用して征虜将軍・燕郡太守となす。宝が和龍に走ると、兄弟交争し、湖はその衰乱を見て、遂に戸三千を率いて帰国す。太祖、爵を東阿侯と賜い、右将軍を加え、代東諸部を総べしむ。世祖の時、寧西将軍・涼州鎮都大将を除かれ、姑臧を鎮め、甚だ恵政あり。年七十にして卒す。鎮西将軍・秦州刺史を贈られ、諡して敬と曰う。四子あり。

原文高湖,字大淵,勃海蓨人也。漢太傅裒之後。祖慶,慕容垂司空。父泰,吏部尚書。湖少機敏,有器度,與兄韜俱知名於時,雅為鄉人崔逞所敬異。少歷顯職,為散騎常侍。登國十年,垂遣其太子寶來伐也,湖言於垂曰:「魏,燕之與國。彼有內難,此遣赴之;此有所求,彼無違者。和好多年,行人相繼。往求馬不得,遂留其弟,曲在於此,非彼之失。政當敦修舊好,乂寧國家,而復令太子率眾遠伐。且魏主雄略,兵馬精強,險阻艱難,備嘗之矣。太子富於春秋,意果心銳,輕敵好勝,難可獨行。兵凶戰危,願以深慮。」言頗切厲。垂怒,免湖官。既而寶果敗於參合。寶立,乃起湖為征虜將軍、燕郡太守。寶走和龍,兄弟交爭,湖見其衰亂,遂率戶三千歸國。太祖賜爵東阿侯,加右將軍,總代東諸部。世祖時,除寧西將軍、涼州鎮都大將,鎮姑臧,甚有惠政。年七十,卒。贈鎮西將軍、秦州刺史,諡曰敬。有四子。

高謐

原文高謐

第三子の謐、字は安平、文武の才度あり。天安年中、功臣の子として禁中に召し入れられ、中散を除かれ、専ら秘閣を典す。粛勤倦まず、高宗深くこれを重んじ、秘書郎を拝す。謐は墳典の残缺を以て、広く群書を訪ね、大いに繕写を加うることを奏請す。これにより代京の図籍、審正せざるは莫し。顕祖が寧光宮に御する時、謐は常に侍講読し、蘭臺御史を拝す。尋いで治書に転じ、内外を掌摂し、非法を弾糾し、官に当たりて行い、畏避すること無く、甚だ称賞せらる。延興二年九月卒す、時に年四十五。太昌初め、使持節・侍中・都督青徐齊濟兗五州諸軍事・驃騎大将軍・太尉公・青州刺史を追贈され、諡して武貞公と曰う。妻は叔孫氏、陳留郡君。

原文第三子謐,字安平,有文武才度。天安中,以功臣子召入禁中,除中散,專典秘閣。肅勤不倦,高宗深重之,拜祕書郎。謐以墳典殘缺,奏請廣訪羣書,大加繕寫。由是代京圖籍,莫不審正。顯祖之御寧光宮也,謐恒侍講讀,拜蘭臺御史。尋轉治書,掌攝內外,彈糾非法,當官而行,無所畏避,甚見稱賞。延興二年九月卒,時年四十五。太昌初,追贈使持節、侍中、都督青徐齊濟兗五州諸軍事、驃騎大將軍、太尉公,青州刺史,諡武貞公。妻叔孫氏,陳留郡君。

長子の樹生。性質通達、節義を重んじ、英雄と交結し、生産に事とせず、識有る者皆これを宗奇す。蠕蠕の侵掠に、高祖詔して懐朔鎮将陽平王頤に衆を率いてこれを討たしむ。頤、樹生に鎮遠将軍・都将を仮し、先駆して功あり。樹生は気侠を尚び、意は浮沈自適に在り、職位を願わず、賞を受くるを辞し、論者これを高しとす。居宅に数たび赤光紫気の異有り、隣伍驚恐し、皆怪変と謂い、宅は居るべからずとす。樹生曰く、「何れの往くところか善からざらん」と。安んじて自若たり。雅く音律を好み、常に絲竹を以て自ら娯しむ。孝昌初め、北州大乱し、詔して衆軍を発し、広く募賞を開く。樹生に威略有るを以て、大都督を授け、勁勇を率い、旧蕃を鎮捍せしむ。二年に卒す、時に年五十五。太昌初め、使持節・都督冀相滄瀛殷定六州諸軍事・大将軍・太師・録尚書事・冀州刺史を追贈され、勃海王を追封され、諡して文穆と曰う。妻韓氏は、勃海王国王太妃となる。永熙年中、後に仮黄鉞・侍中・都督中外諸軍事を贈られ、後部羽葆鼓吹を加えられ、余は故の如し。長子は即ち齊獻武王なり。

原文長子樹生。性通達,重節義,交結英雄,不事生產,有識者並宗奇之。蠕蠕侵掠,高祖詔懷朔鎮將陽平王頤率眾討之,頤假樹生鎮遠將軍、都將,先驅有功。樹生尚氣俠,意在浮沉自適,不願職位,辭不受賞,論者高之。居宅數有赤光紫氣之異,鄰伍驚恐,僉謂怪變,宅不可居。樹生曰:「何往非善。」安之自若。雅好音律,常以絲竹自娛。孝昌初,北州大亂,詔發眾軍,廣開募賞。以樹生有威略,授以大都督,令率勁勇,鎮捍舊蕃。二年卒,時年五十五。太昌初,追贈使持節、都督冀相滄瀛殷定六州諸軍事、大將軍、太師、錄尚書事、冀州刺史,追封勃海王,諡曰文穆,妻韓氏,為勃海王國太妃。永熙中,後贈假黃鉞、侍中、都督中外諸軍事,加後部羽葆鼓吹,餘如故,長子即齊獻武王也。

王の弟の琛、字は永宝。天平年中、驃騎大将軍・開府儀同三司・御史中尉・南趙郡開国公。

原文王弟琛,字永寶。天平中,驃騎大將軍、開府儀同三司、御史中尉、南趙郡開國公。

子の叡、襲ぐ。武定末、太子庶子。

原文子叡,襲。武定末,太子庶子。

樹生の弟の翻、字は飛雀、亦た器度を以て知名。侍御中散にて卒す。元象年中、仮黄鉞・使持節・侍中・都督冀定洛瀛并肆燕恒雲朔十州諸軍事・大将軍・太傅・太尉公・録尚書事・冀州刺史を贈られ、諡して孝宣と曰う。

原文樹生弟翻,字飛雀,亦以器度知名。卒於侍御中散。元象中,贈假黃鉞、使持節、侍中、都督冀定洛瀛并肆燕恒雲朔十州諸軍事、大將軍、太傅、太尉公、錄尚書事、冀州刺史,諡曰孝宣。

子の嶽、武定末、侍中・太傅公・清河郡開国公。

原文子嶽,武定末,侍中、太傅公、清河郡開國公。

高真

原文高真

謐の長兄の真、志行あり。兄弟皆至孝にして、父亡き後、喪を墓次に治むるに、甘露白雉降り集う。有司以て聞こえ、詔して閭里に標す。涇州別駕より、稍く安定太守に遷り、甚だ声績著し。卒し、龍驤将軍・涇州刺史を贈られる。

原文謐長兄真,有志行。兄弟俱至孝,父亡,治喪墓次,甘露白雉降集焉,有司以聞,詔標閭里。自涇州別駕,稍遷安定太守,甚著聲績。卒,贈龍驤將軍、涇州刺史。

(闕)帯金城太守。神亀初めに卒す。太昌元年、使持節・侍中・都督定相殷三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・定州刺史を贈られ、諡して武康と曰う。

原文〈闕〉帶金城太守。神龜初卒。太昌元年,贈使持節、侍中、都督定相殷三州諸軍事、驃騎大將軍、儀同三司、定州刺史,諡曰武康。

子の仁、正光年中、河州別駕にて卒す。太昌初め、使持節・侍中・都督青齊濟三州諸軍事・儀同三司・青州刺史を贈られ、諡して明穆と曰う。

原文子仁,正光中,卒於河州別駕。太昌初,贈使持節、侍中、都督青齊濟三州諸軍事、儀同三司、青州刺史,諡曰明穆。

子の貫、字は小胡。永興末、通直散騎常侍・金紫光禄大夫・尚食典御。

原文子貫,字小胡。永興末,通直散騎常侍、金紫光祿大夫、尚食典御。

拔の弟の䐗児、容貌美しく、膂力人に過ぎ、尤も弓馬を善くす。顕祖の時、羽林幢将。皇興年中、主仗令。高祖の初め、給事中、累遷して散騎常侍・内侍長。事に坐して死す。

原文拔弟䐗兒,美容貌,膂力過人,尤善弓馬。顯祖時,羽林幢將。皇興中,主仗令。高祖初,給事中,累遷散騎常侍、內侍長。坐事死。

子の昋は、字を明珍といい、器量と志操があった。初め侍御史に任ぜられ、奉朝請・員外散騎侍郎を拝命した。叔父の徽と共に西域に使いし、帰途、河州に至り、賊の攻囲に遭い、城が陥落して害された。太昌の初め、使持節・都督冀滄二州諸軍事・征東将軍・冀州刺史を追贈された。永熙年中、重ねて侍中・都督青徐光三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・青州刺史を追贈され、諡して文景といった。

原文子昋,字明珍,有器尚。初除侍御史,拜奉朝請、員外散騎侍郎。與叔徽俱使西域,還至河州,遇賊攻圍,城陷見害。太昌初,贈使持節、都督冀滄二州諸軍事、征東將軍、冀州刺史。永熙中,重贈侍中、都督青徐光三州諸軍事、驃騎大將軍、儀同三司、青州刺史,諡曰文景。

子の永楽は、興和年中、驃騎大将軍・儀同三司・済州刺史・陽川県開国公となった。

原文子永樂,興和中,驃騎大將軍、儀同三司、濟州刺史、陽川縣開國公。

永楽の弟の弼は、武定年中、安西将軍・営州刺史・安陵県開国男となった。

原文永樂弟弼,武定中,安西將軍、營州刺史、安陵縣開國男。

䐗児の弟の徽は、字を栄顕といい、小字を苟児といった。聡明で気概と才幹があり、任城王澄に知られ賞された。景明年中、奉朝請として起家した。延昌年中、員外散騎常侍を仮官とし、嚈噠に使いし、西域諸国はみな敬い畏れた。破洛侯・烏孫はこれによって名馬を献上した。帰還し、冗従僕射を拝命した。神亀年中、射声校尉・左中郎将・游撃将軍に遷った。また平西将軍・員外散騎常侍を仮官とし、嚈噠に使いした。帰途、枹罕に至り、時に莫折念生が秦隴で反乱を起こした。河州刺史の元祚が前刺史の梁釗の息子の景進らに招かれ、念生を引き入れて河州を攻め、祚は憂い死した。長史の元永平・治中の孟賓・台使の元湛が共に徽を推して河州の事務を行わせた。徽は安撫接遇に方策があり、兵士は命を用いた。別駕の乞伏世則がひそかに景進と通じたので、徽はこれを殺した。吐谷渾に徴兵を求めると、吐谷渾は衆を率いてこれを救った。景進は敗れ、退走して秦州に奔った。景進はまもなく羌夷を率いて再び攻め逼った。徽は統軍の六景相を遣わし、馳せて上表して援軍を請うた。詔により徽は引き続き河州の事務を行った。久しく援軍なく、力尽きて城は陥落し、賊のために害された。永熙年中、喪は洛陽に還った。使持節・侍中・都督冀定相瀛滄五州諸軍事・司徒公・冀州刺史を追贈され、諡して文宣といった。

原文䐗兒弟徽,字榮顯,小字苟兒。聰敏有氣幹,為任城王澄所知賞。景明中,起家奉朝請。延昌中,假員外散騎常侍,使於嚈噠,西域諸國莫不敬憚之,破洛侯、烏孫並因之以獻名馬。還,拜冗從僕射。神龜中,遷射聲校尉、左中郎將、游擊將軍。又假平西將軍、員外散騎常侍,使嚈噠。還至枹罕,屬莫折念生反於秦隴。時河州刺史元祚為前刺史梁釗息景進等招引念生攻河州,祚以憂死。長史元永平、治中孟賓、臺使元湛,共推徽行河州事,綏接有方,兵士用命。別駕乞伏世則潛通景進,徽殺之。徵兵於吐谷渾,吐谷渾率眾救之。景進敗,退走,奔秦州。景進尋率羌夷復來攻逼,徽遣統軍六景相馳表請師,詔徽仍行河州事。久無援救,力屈城陷,為賊所害。永熙中,喪還洛陽。贈使持節、侍中、都督冀定相瀛滄五州諸軍事、司徒公、冀州刺史,諡曰文宣。

子の帰義は、志操と烈々たる気概があった。初め奉朝請に任ぜられ、威烈将軍を加えられた。父の徽と共に西域に使いした。都に還り、次第に龍驤将軍・中散大夫・西征都督に遷り、しばしば戦功を挙げた。後に陣中で没した。太昌の初め、侍中・驃騎大将軍・儀同三司・雍州刺史を追贈され、諡して孝貞といった。

原文子歸義,有志烈。初除奉朝請,加威烈將軍。與父徽俱使西域。還都,稍遷龍驤將軍、中散大夫、西征都督,每有戰功。後沒於陣。太昌初,贈侍中、驃騎大將軍、儀同三司、雍州刺史,諡曰孝貞。

子の普は、武定の末、安南将軍・太子左衛率となった。

原文子普,武定末,安南將軍、太子左衞率。

帰義の弟の帰彦は、武定の末、驃騎大将軍・開府儀同三司・徐州刺史・安喜県開国男となった。

原文歸義弟歸彥,武定末,驃騎大將軍、開府儀同三司、徐州刺史、安喜縣開國男。

高各拔

原文高各拔

真の弟の各拔は、広昌鎮将であった。卒し、燕州刺史を追贈された。

原文真弟各拔,廣昌鎮將。卒,贈燕州刺史。

子の猛虎は、鄯善鎮の録事であった。喪に服するに及び、至性をもって称され、ついに官途への情を絶った。

原文子猛虎,鄯善鎮錄事。及居喪,以至性稱,遂絕宦情。

子の元国は、早く卒した。

原文子元國,早卒。

次男の顕国は、武定の末、撫軍将軍・汶陽男となった。

原文次顯國,武定末,撫軍將軍、汶陽男。

顕国の弟の達は、武定年中、驃騎将軍・行滄州事となった。

原文顯國弟達,武定中,驃騎將軍、行滄州事。

達の弟の永国は、征虜将軍・中散大夫となった。

原文達弟永國,征虜將軍、中散大夫。

永国の弟の子国は、武衛将軍となった。

原文永國弟子國,武衞將軍。

各抜の末子の盛は、天平年間に侍中・太尉公・広平郡開国公となった。

原文各拔少子盛,天平中,侍中、太尉公、廣平郡開國公。

子の子瑗は、武定末年、武衛将軍を兼ねた。

原文子子瑗,武定末,兼武衞將軍。

高稚

原文高稚

謐の弟の稚は、字を幼寧という。薄骨律鎮将、営州刺史となった。

原文謐弟稚,字幼寧。薄骨律鎮將,營州刺史。

子の陀は、字を難陀という。沃野鎮長となった。卒し、琅邪太守を追贈された。

原文子陀,字難陀。沃野鎮長。卒,贈琅邪太守。

子の雍は、字を景雲といい、司徒従事となった。後に末子の思義とともに蕭衍に奔り、江南で卒した。元象初年、喪が還り、特使持節・散騎常侍・都督冀定瀛滄幽五州諸軍事・驃騎大将軍・尚書令・司徒公・冀州刺史を追贈された。

原文子雍,字景雲,司徒從事。後與少子思義俱奔蕭衍,卒於江南。元象初,喪還,特贈使持節、散騎常侍、都督冀定瀛滄幽五州諸軍事、驃騎大將軍、尚書令、司徒公、冀州刺史。

子の思宗は、武定末年、中軍将軍・儀同三司・兗州刺史・上洛郡開国男となった。思義には、特使持節・散騎常侍・都督青兗斉三州諸軍事・車騎大将軍・尚書僕射・儀同三司・青州刺史を追贈された。

原文子思宗,武定末,中軍將軍、儀同三司、兗州刺史、上洛郡開國男。思義,特贈使持節、散騎常侍、都督青兗齊三州諸軍事、車騎大將軍、尚書僕射、儀同三司、青州刺史。

陀の弟の興は、早くに卒した。興の子の貴孫は、晋州刺史となった。

原文陀弟興,早卒。興子貴孫,晉州刺史。

高恒

原文高恒

湖の弟の恒は、字を叔宗といい、慕容垂の鉅鹿太守となった。太祖の時、郡を率いて降り、涇県侯の爵を賜り、龍驤将軍を加えられ、引き続き鉅鹿を守った。卒し、安東将軍・幽州刺史を追贈され、諡して恵といった。

原文湖弟恒,字叔宗,慕容垂鉅鹿太守。太祖時,率郡降,賜爵涇縣侯,加龍驤將軍,仍守鉅鹿。卒,贈安東將軍、幽州刺史,諡曰惠。

子の道は、字を始愔といい、爵を襲った。都牧令に拝され、鎮南将軍・相州刺史に遷った。職に就くに及ばず卒した。なおもってこれを贈官とし、諡して荘といった。

原文子道,字始愔,襲爵。拜都牧令,遷鎮南將軍、相州刺史。未及之職,卒。仍以為贈,諡曰莊。

子の幹は、字を干奴という。学問を好み、寛厚にして雅量があった。涇県侯の爵を襲い、後に例により伯に降格された。南青州征虜府司馬・威遠将軍・鄯善鎮遠府長史を歴任した。引き続き汾州後軍府長史・白水太守に転じた。在任する所、廉平をもって称された。太昌初年、卒した。使持節・都督秦雍二州諸軍事・車騎大将軍・司空公・雍州刺史を追贈され、諡して孝穆といった。

原文子幹,字干奴。好學,寬厚有雅度。襲爵涇縣侯,後例降為伯。歷南青州征虜府司馬、威遠將軍、鄯善鎮遠府長史。仍轉汾州後軍府長史、白水太守。所在以廉平著稱。太昌初,卒。贈使持節、都督秦雍二州諸軍事、車騎大將軍、司空公、雍州刺史,諡曰孝穆。

子の侃は、字を伯欣といい、爵を襲った。南秦州長史に除された。卒し、輔国将軍・涼州刺史を追贈され、諡して宣といった。

原文子侃,字伯欣,襲。除南秦州長史。卒,贈輔國將軍、涼州刺史,諡曰宣。

子の紹は、字を広祖といい、爵を襲った。興和初年、征虜将軍・滄州刺史となった。

原文子紹,字廣祖,襲爵。興和初,征虜將軍、滄州刺史。

侃の弟の騰は、字を伏興という。安東将軍・光州刺史・襄城県開国公の任に在りて卒した。

原文侃弟騰,字伏興。卒於安東將軍、光州刺史、襄城縣開國公。

子の陟は、字を祖遷という。司空中郎・太尉主簿を務めた。

原文子陟,字祖遷。司空中郎、太尉主簿。

陟の弟の憬は、通直郎となった。憬の弟の翽は、父の爵位を襲い継いだ。

原文陟弟憬,通直郎。憬弟翽,襲父爵。

騰の弟の隆之は、武定の末年に、太保・尚書令・平原郡開國公となった。

原文騰弟隆之,武定末,太保、尚書令、平原郡開國公。

崔逞

原文崔逞

崔逞は、字を叔祖といい、清河郡東武城の人である。魏の中尉崔琰の六世の孫である。曾祖父の諒は、晋の中書令であった。祖父の遇は、石虎に仕え、特進となった。父の瑜は、黄門郎であった。

原文崔逞,字叔祖,清河東武城人也,魏中尉琰之六世孫。曾祖諒,晉中書令。祖遇,仕石虎,為特進。父瑜,黃門郎。

逞は若くして学問を好み、文才があった。乱世に遭い、孤貧となり、自ら野で耕作しながらも、講義と誦読を怠らなかった。慕容暐の時代、郡が上計掾に推挙し、著作郎に補され、『燕記』を撰した。黄門侍郎に遷った。苻堅が慕容暐を併合すると、斉郡太守に任じられた。苻堅が敗れると、司馬昌明は逞を清河・平原二郡太守とした。翟遼に捕らえられ、中書令に任じられた。慕容垂が翟釗を滅ぼすと、秘書監に任じられた。慕容宝が東へ和龍に走ると、留臺吏部尚書となった。慕容驎が立つと、逞は妻子を連れて太祖(北魏道武帝)のもとに亡命して帰順した。張袞が先に逞を称賛していたので、太祖は会見すると、礼遇を非常に重くした。尚書に拝し、政事を任せ、三十六曹を管轄させ、別に吏属を与え、門下省に居住させた。まもなく御史中丞に除された。

原文逞少好學,有文才。遭亂,孤貧,躬耕于野,而講誦不廢。慕容暐時,郡舉上計掾,補著作郎,撰燕記。遷黃門侍郎。及苻堅并慕容暐,以為齊郡太守。堅敗,司馬昌明以逞為清河、平原二郡太守。為翟遼所虜,授以中書令。慕容垂滅翟釗,以為祕書監。慕容寶東走和龍,為留臺吏部尚書。及慕容驎立,逞攜妻子亡歸太祖。張袞先稱美逞,及見,禮遇甚重。拜為尚書,任以政事,錄三十六曹,別給吏屬,居門下省。尋除御史中丞。

太祖が中山を攻めて未だに落とせず、六軍が食糧に乏しく、民は多く穀物を隠匿した。群臣に粟を取る方略を問うた。逞は言った。「桑の実を取れば糧食の助けとすることができます。故に飛鴞(ふきょう)は桑の実を食って音を改めるということで、詩がその事を称えています。」太祖はその侮慢を心に留めながらも、兵は既に食糧を必要としていたので、桑の実を租税に当てることを聞き入れた。逞はまた言った。「軍人に時を逃さず自ら取らせることができます。時を過ぎれば全て落ちてしまいます。」太祖は怒って言った。「内賊(中山)が未だ平定されていないのに、兵士がどうして甲冑を解き武器を持って林野に入り桑の実を収穫できようか。これは何たる言葉か。」中山が未だ陥落していなかったので、罪を加えなかった。天興の初め、姚興が司馬徳宗の襄陽の戍を侵すと、戍将の郗恢が使者を馳せて常山王拓跋遵に援軍を請い、遵がこれを上聞した。太祖は詔して逞と張袞に遵の書状を作らせて返答させた。初め、恢が遵に送った書状に「賢兄は中原を虎歩す」とあった。太祖はその言葉が君臣の体を悖るとし、逞と袞に命じて、その主君の称号を貶めて返答させた。逞と袞は「貴主」と書いた。太祖は怒って言った。「汝らにその主を貶めて返答させたのに、『貴主』などと称するとは、『賢兄』とどう違うというのか。」遂に賜死させた。後に、司馬徳宗の荊州刺史司馬休之ら数十人が桓玄に追われ、皆将来奔するはずであったが、陳留の南に至り、二組に分かれた。一つは長安に奔り、一つは広固に帰った。太祖は初め休之らが降ると聞き、大いに喜んだが、後になって彼らが来ないのを怪しみ、詔して兗州に尋ね探させた。その従者を捕らえ、理由を問うと、皆言った。「国家の威声が遠くまで及んでいるので、休之らは皆朝廷に帰りたいと思っていましたが、崔逞が殺されたと聞き、故に二つの地に奔ったのです。」太祖は深くこれを後悔した。これより以後、士人に過ちある者は、多く寛大に扱われるようになった。

原文太祖攻中山未克,六軍乏糧,民多匿穀,問羣臣以取粟方略。逞曰:「取椹可以助糧。故飛鴞食椹而改音,詩稱其事。」太祖雖銜其侮慢,然兵既須食,乃聽以椹當租。逞又曰:「可使軍人及時自取,過時則落盡。」太祖怒曰:「內賊未平,兵人安可解甲仗入林野而收椹乎?是何言歟!」以中山未拔,故不加罪。天興初,姚興侵司馬德宗襄陽戍,戍將郗恢馳使乞師於常山王遵,遵以聞。太祖詔逞與張袞為遵書以答。初,恢與遵書云:「賢兄虎步中原」,太祖以言悖君臣之體,敕逞、袞亦貶其主號以報之。逞、袞乃云「貴主」。太祖怒曰:「使汝貶其主以答,乃稱貴主,何若賢兄也!」遂賜死。後司馬德宗荊州刺史司馬休之等數十人為桓玄所逐,皆將來奔,至陳留南,分為二輩:一奔長安,一歸廣固。太祖初聞休之等降,大悅,後怪其不至,詔兗州尋訪,獲其從者,問故,皆曰:「國家威聲遠被,是以休之等咸欲歸闕,及聞崔逞被殺,故奔二處。」太祖深悔之。自是士人有過者,多見優容。

逞には七人の子があったが、二人の子は早く亡くなった。第三子は義、義の弟は諲、諲の弟は禕、禕の弟は厳、厳の弟は賾である。逞が(平城に)内徙した時、結局は免れられぬと考え、その妻張氏と四人の子を冀州に留め、慕容徳のもとに帰らせ、遂に広固に奔らせた。逞はただ末子の賾と平城に在った。逞が死んだ時も、このことを以て責められた。

原文逞七子,二子早亡,第三子義,義弟諲,諲弟禕,禕弟嚴,嚴弟賾。逞之內徙也,終慮不免,乃使其妻張氏與四子留冀州,令歸慕容德,遂奔廣固。逞獨與小子賾在平城。及逞之死,亦以此為譴。

崔賾

原文崔賾

賾は、字を泰沖という。初め太子洗馬となり、後、次第に散騎常侍に遷り、清河侯の爵位を賜った。後、世祖(太武帝)が劉義隆が諲を冀州刺史に任じたと聞き、言った。「義隆はその兄を用いることを知っている。我に冀州がないわけではあるまい。」乃ち賾を平東将軍・冀州刺史とした。また大鴻臚となり、節を持ち詔策を奉じて楊難当を南秦王に拝した。使命を奉じて数度往復し、朝廷の命令を光揚したので、世祖はこれを良しとした。驃騎大将軍・楽平王拓跋丕らが諸軍を督して上邽を取る時、賾に詔を持たせて丕の前で難当に詔を奉ずるよう諭させた。後に方士の韋文秀と共に王屋山に赴き金丹を造ったが、成就しなかった。真君の初年に卒去した。賾には五人の子があった。

原文賾,字泰沖。初為太子洗馬,後稍遷散騎常侍,賜爵清河侯,後世祖聞劉義隆以諲為冀州刺史,乃曰:「義隆知用其兄,我豈無冀州也。」乃以賾為平東將軍、冀州刺史。又為大鴻臚,持節策拜楊難當為南秦王。奉使數返,光揚朝命,世祖善之。及驃騎大將軍、樂平王丕等督諸軍取上邽,使賾齎詔於丕前喻難當奉詔。後與方士韋文秀詣王屋山造金丹,不就。真君初卒。賾五子。

長子の秉は、字を公礼という。早くに終わり、子がなかった。

原文長子秉,字公禮。早終,無子。

秉の弟の広は、字を公淵といい、爵位を襲い継いだ。平東将軍に拝された。子の法度は早くに終わった。

原文秉弟廣,字公淵,襲爵。拜平東將軍。子法度,早終。

広の弟の軌は、字を公則という。太子中舎人・鎮南司馬となった。

原文廣弟軌,字公則。太子中舍人、鎮南司馬。

軌の弟の穆は、字を公和という。早くに終わった。

原文軌弟穆,字公和。早終。

穆の弟の叡は、字を哲といい、小字を男季という。高祖(孝文帝)の初年、境外との交通の罪により誅殺された。従兄の景真がその子の思叔を叡の後継ぎとした。

原文穆弟叡,字哲,小字男季。高祖初,以交通境外伏誅。從兄景真以子思叔繼叡。

思叔は、若くして中書學生となり、中書博士に遷った。世宗の時、上黨・鉅鹿の太守を歴任した。逞の死から叡の誅殺に至るまで、三代にわたり五十餘年を経て、北に在った一門は尽く滅んだ。

原文思叔,少為中書學生,遷中書博士。世宗時,歷上黨,鉅鹿太守。自逞之死至叡之誅,三世積五十餘年而在北一門盡矣。

初め、三齊が平定された時、禕の孫の相如が國に入り、才學をもって知名であった。冀州の秀才に挙げられたが、早世した。相如の弟の彧は、〈術藝傳〉にある。

原文初,三齊平,禕孫相如入國,以才學知名。舉冀州秀才,早卒。相如弟彧,在〈術藝傳〉。

崔適

原文崔適

逞の兄の適は、字を寧祖といい、また当時に有名であった。慕容垂の尚書左丞、范陽・昌黎の二郡太守を務めた。

原文逞兄適,字寧祖,亦有名於時。慕容垂尚書左丞,范陽、昌黎二郡太守。

適の曾孫の延壽は、冀州主簿となった。財を軽んじ施しを好み、甚だ郷里の称譽を得た。

原文適曾孫延壽,冀州主簿。輕財好施,甚收鄉曲之譽。

延壽の子の隆宗は、簡素で率直、友を愛し、喪に服して孝行をもって知られた。冀州別駕、蘭陵・燕郡の二郡太守、司空諮議參軍、冀州中正、中軍大將軍府長史を歴任した。物に接して仁信、至誠より出で、故に世に重んぜられた。卒し、前將軍を追贈された。齊州刺史、諡は孝といった。

原文延壽子隆宗,簡率愛友,居喪以孝聞。歷位冀州別駕,蘭陵、燕郡二郡太守,司空諮議參軍,冀州中正,中軍大將軍府長史。仁信待物,出於至誠,故見重於世。卒,贈前將軍。齊州刺史,諡曰孝。

子の敬保は、員外散騎侍郎・冀州儀同府從事中郎となった。卒し、冀州刺史を追贈された。

原文子敬保,員外散騎侍郎、冀州儀同府從事中郎。卒,贈冀州刺史。

子の子恒は、官は征虜將軍・魯郡太守に至った。早世した。

原文子子恒,官至征虜將軍、魯郡太守。早卒。

子恒の弟の子安は、冠軍將軍・西兗州司馬となった。

原文子恒弟子安,冠軍將軍、西兗州司馬。

子安の弟の子昇は、開府參軍となった。武定年中、元瑾の事に連座し、兄弟ともに誅殺された。

原文子安弟子昇,開府參軍。武定中,坐連元瑾事,兄弟並伏法。

封懿

原文封懿

封懿は、字を處德といい、勃海郡蓨縣の人である。曾祖父の釋は、晉の東夷校尉であった。父の放は、慕容暐の吏部尚書であった。兄の孚は、慕容超の太尉であった。懿は儁偉にして才氣あり、文を綴ることができ、孚とは器量・行いに長短あるも、名位はほぼ同じであった。慕容寶に仕え、位は中書令・民部尚書に至った。寶が敗れると、闕に帰順し、給事黃門侍郎・都坐大官・寧朔將軍・章安子に任ぜられた。太祖はしばしば引見し、慕容氏の旧事を問うた。懿の応対が疎慢であったため、免官されて家に還された。太宗の初め、再び召されて都坐大官に任ぜられ、爵を侯に進めた。泰常二年に卒した。懿が撰した『燕書』は、頗る世に行われた。

原文封懿,字處德,勃海蓨人也。曾祖釋,晉東夷校尉。父放,慕容暐吏部尚書。兄孚,慕容超太尉。懿儁偉有才氣,能屬文,與孚雖器行有長短,然名位略齊。仕慕容寶,位至中書令、民部尚書。寶敗,歸闕,除給事黃門侍郎、都坐大官、寧朔將軍、章安子。太祖數引見,問以慕容舊事。懿應對疏慢,廢還家。太宗初,復徵拜都坐大官,進爵為侯。泰常二年卒。懿撰燕書,頗行於世。

子の玄之は、司馬國璠・溫楷らと謀乱を企てた罪に連座し、誅殺された。刑に臨み、太宗は彼に言った、「決して汝の種を絶やさぬ、爾の一子を宥そう」。玄之は請うて言った、「弟の虔之の子の磨奴、字は君明、早く孤となりました。その命を全うさせて下さい」。そこで玄之の四子を殺し、磨奴を赦した。

原文子玄之,坐與司馬國璠、溫楷等謀亂,伏誅。臨刑,太宗謂之曰:「終不令絕汝種也,將宥爾一子。」玄之請曰:「弟虔之子磨奴,字君明,早孤,乞全其命。」乃殺玄之四子,而赦磨奴。

磨奴は刑せられて宦人となった。崔浩が誅殺された時、世祖は磨奴に言った、「汝は本来全うすべきであったが、刑に至ったのは、事が浩に由る故である」。後に中曹監となり、西に張掖に使いし、富城子の爵を賜り、建威將軍・給事中を加えられた。久しくして、出て冠軍將軍・懷州刺史となった。太和七年に卒した。平東將軍・冀州刺史・勃海公を追贈され、諡を定といった。族子の叔念を後嗣とし、高祖は名を回と賜った。

原文磨奴被刑為宦人。崔浩之誅也,世祖謂磨奴曰:「汝本應全,所以致刑者,事由浩之故。」後為中曹監,西使張掖,賜爵富城子,加建威將軍、給事中。久之,出為冠軍將軍、懷州刺史。太和七年卒。贈平東將軍、冀州刺史、勃海公,諡曰定。以族子叔念為後,高祖賜名回。

封回

原文封回

回の父は鑒であり、すなわち慕容暐の太尉弈の後裔である。回は、皇興の初年に中書学生となり、富城子の爵位を襲い、累進して太子家令となった。世宗が即位すると、回を行華州事とした。回は州において中散大夫党智孫を鞭打ち、尚書左丞韋績に糾弾上奏され、免官となった。まもなく鎮遠将軍・安州刺史に任じられた。山の民は質朴で、父子や賓客が同じ一室に寝ていた。回が着任すると、別々の場所に寝るよう命じ、その風俗は改まった。太尉長史に召され、頻繁に定州・徐州の事務を代行し、まもなく後将軍・汾州刺史に任じられた。

原文回父鑒,即慕容暐太尉弈之後也。回,皇興初為中書學生。襲爵富城子,累遷太子家令。世宗即位,以回行華州事。回在州鞭中散大夫党智孫,為尚書左丞韋績糾奏,免。尋除鎮遠將軍、安州刺史。山民愿朴,父子賓旅,同寢一室。回下車,勒令別處,其俗遂改。徵為太尉長史,頻行定州、徐州事,尋除後將軍、汾州刺史。

粛宗の初め、涼州刺史に転じ、右将軍を加えられたが、固辞して受けず、平北将軍・瀛州刺史を授けられた。当時は大乗の寇乱の後で、水害も加わり、百姓は困窮していた。回は上表して救済を求め、兵役の徴発を免じたので、州内は大いに頼りとした。また度支尚書となった。まもなく都官尚書に転じ、冀州大中正となった。滎陽の鄭雲が長秋卿劉騰に諂い、劉騰に紫纈四百匹を賄賂して、安州刺史を得た。任官の書が朝に出され、夕方に回を訪ね、座につくや否や、回に言った。「私が安州になったが、卿は知っているか?あの土地で生計を立てるには、何が便利か?」回はこれに答えて言った。「卿は国の寵愛を受け、方伯の位に至った。園の葵を抜き、織婦を去らせる(清廉を守る)ことはできなくとも、百姓を救う方策を考えるべきである。どうして訪ねてきて生計のことを問うのか。封回は商売をしない。何を教えようというのか。」雲は恥じて顔色を失った。

原文肅宗初,轉涼州刺史,加右將軍,固辭不拜,仍授平北將軍、瀛州刺史。時大乘寇亂之後,加以水潦,百姓困乏。回表求賑恤,免其兵調,州內甚賴之。又為度支尚書。尋轉都官尚書,冀州大中正。滎陽鄭雲諂事長秋卿劉騰,貨騰紫纈四百匹,得為安州刺史。除書旦出,暮往詣回,坐未定,謂回曰:「我為安州,卿知之否?彼土治生,何事為便?」回答之曰:「卿荷國寵靈,位至方伯,雖不能拔園葵,去織婦,宜思方略以濟百姓,如何見造而問治生乎?封回不為商賈,何以相示。」雲慚媿失色。

霊太后が臨朝すると、百官を召して得失を問い、群臣は敢えて言う者はいなかった。回が答えて言った。「昔、孔丘が司寇となって十日で少正卯を誅し、魯国は粛然として、欺瞞巧みな行いは自然に止んだ。姬旦(周公旦)が刑戮を行い、兄弟をも避けず、周の道は隆盛となった。徐偃が専ら仁義を行い、その国は滅んだ。古より今に至るまで、威刑を厳しくせずに治められたことはない。近ごろは、長吏の寛怠により、百姓を侵し剥ぎ、盗賊が群れをなして起こっている。刑書を厳しくして、未だ犯さざる者を戒めんことを請う。」太后はその意見を容れたが、用いることはできなかった。七兵尚書に転じ、御史中尉を兼ねた。尚書右僕射元欽が従父の兄の麗の妻崔氏と姦通したので、回はこれを弾劾上奏し、当時の人に称えられた。鎮東将軍・冀州刺史に任じられた。

原文靈太后臨朝,召百官問得失,羣臣莫敢言。回對曰:「昔孔丘為司寇,十日而誅少正卯,魯國肅然,欺巧自息。姬旦行戮,不避兄弟,周道用隆。徐偃專行仁義,其國乃滅。自古及今,未有不厲威刑而能治者。頃來頗由長吏寬怠,侵剝百姓,盜賊羣起。請肅刑書,以懲未犯。」太后意納之,而不能用。轉為七兵尚書,領御史中尉。尚書右僕射元欽與從父兄麗妻崔氏姦通,回乃劾奏,時人稱之。除鎮東將軍、冀州刺史。

粛宗の末、殿中尚書に召されたが、頻繁に上表して職を辞し、右光禄大夫とされた。荘帝の初め、河陰において害に遇い、時に七十七歳であった。侍中・車騎大将軍・司空公・定州刺史を追贈され、諡して孝宣といった。

原文肅宗末,徵為殿中尚書,頻表遜職,以為右光祿大夫。莊帝初,遇害於河陰,時年七十七。贈侍中、車騎大將軍、司空公、定州刺史,諡曰孝宣。

長子の隆之は、武定年間に、開府儀同三司・斉州刺史・安德郡開国公となった。

原文長子隆之,武定中,開府儀同三司、齊州刺史、安德郡開國公。

子の子絵は、武定年間に、勃海太守となった。

原文子子繪,武定中,勃海太守。

隆之の弟の興之は、字を祖冑という。経学に明るく行いを修め、恬淡で清浄であった。初め太学博士、員外郎に起用され、出て瀛冀二州平北府長史となり、歴任した官において職務に適う称賛があった。孝昌年間に卒した。天平年間に、散騎常侍・撫軍将軍・雍州刺史を追贈された。まもなく重ねて殿中尚書を追贈され、諡して文といった。

原文隆之弟興之,字祖冑。經明行修,恬素清靜。起家太學博士,員外郎。出為瀛冀二州平北府長史,所歷有當官之譽。孝昌中卒。天平中,追贈散騎常侍、撫軍將軍、雍州刺史。尋重贈殿中尚書,諡曰文。

子の孝琬は、字を子倩という。武定の末、開府中郎となった。

原文子孝琬,字子倩。武定末,開府中郎。

孝琬の弟の孝琰は、秘書郎となった。

原文孝琬弟孝琰,祕書郎。

興之の弟の延之は、字を祖業という。天平年間に、驃騎大将軍・青州刺史・剡県開国子となった。

原文興之弟延之,字祖業。天平中,驃騎大將軍、青州刺史、剡縣開國子。

磨奴は既に回を後嗣としたので、顕祖に請い、鑒に寧遠将軍・滄水太守を追贈した。

原文磨奴既以回為後,請於顯祖,贈鑒寧遠將軍、滄水太守。

封琳

原文封琳

鑒の長子の琳は、字を彦宝という。顕祖の末、本州が表を奉って推挙し、中書博士に任じられた。高祖の初め、大軍が南征した時、琳は鎮南軍事に参じた。後に河南七州大使となった。帰還し、中書侍郎に任じられ、侍中・南平王馮誕らと律令を議定し、布帛六百匹・粟六百石・馬牛各一頭を賜った。太尉長史に遷り、司宗下大夫に転じ、長者の称があった。東兗州の事務を代行し、百官が改定されると、司空長史に任じられた。出て立忠将軍・南青州刺史・兼散騎常侍・持節・西道大使となった。帰還して長兼太中大夫となり、広平内史に転じ、また光禄大夫となった。世宗の末、後将軍・夏州刺史に任じられた。安東将軍・光禄大夫に召された。神龟二年に卒した。使持節・撫軍将軍・相州刺史を追贈された。

原文鑒長子琳,字彥寶。顯祖末,本州表貢,拜中書博士。高祖初,大軍南討,琳參鎮南軍事。後為河南七州大使。還,拜中書侍郎,與侍中、南平王馮誕等議定律令,賜布帛六百匹、粟六百石、馬牛各一。遷太尉長史,轉司宗下大夫,有長者之稱。行東兗州事。及改定百官,除司空長史。出為立忠將軍、南青州刺史、兼散騎常侍、持節、西道大使。還為長兼太中大夫,轉廣平內史,又為光祿大夫。世宗末,除後將軍、夏州刺史。徵為安東將軍、光祿大夫。神龜二年卒。贈使持節、撫軍將軍、相州刺史。

子の元称、元称の弟の子盛は、ともに早くに卒した。

原文子元稱,元稱弟子盛,並早卒。

子盛の弟の子施は、武定の末、沛郡太守となった。

原文子盛弟子施,武定末,沛郡太守。

封琳の子は封肅であり、文苑伝に載せられている。

原文琳子肅,在文苑傳。

封凱

原文封凱

封懿の従兄の子に封愷がおり、字は思悌、封弈の孫である。父の封勧は、慕容垂の侍中・太常卿となった。封愷は、給事黄門侍郎・散騎常侍となった。後に代都に入り、その名声は封懿の子の封玄よりも上であり、ともに司馬氏の事件に連座して死んだ。封愷の妻は、盧玄の姉である。封愷の子の封伯達は母と妻の李氏を棄てて南に奔り河表に至り、房氏と改めて婚姻した。顕祖の末年に、封伯達の子の封休傑が内国に入った時、祖母の盧氏はなお存命で、百歳に近かったが、李氏はすでに死んでいた。封休傑は、高祖の時に帰国の功績により河間太守となり、兼ねて冀州咸陽王府諮議参軍を務めた。

原文懿從兄子愷,字思悌,弈之孫也。父勸,慕容垂侍中、太常卿。愷,給事黃門侍郎、散騎常侍。後入代都,名出懿子玄之右,俱坐司馬氏事死。愷妻,盧玄姊也。愷子伯達棄母及妻李氏南奔河表,改婚房氏。顯祖末,伯達子休傑內入,祖母盧猶存,垂百歲矣,而李已死。休傑,高祖時以歸國勳為河間太守,兼冀州咸陽王府諮議參軍。

封休傑の従弟に封霊祐がおり、劉義隆に仕えて青州治中・勃海太守となった。慕容白曜が三斉を平定すると、封霊祐は二百人を率いて白曜のもとに赴き降伏し、下密子の爵位を賜った。後に建威将軍・勃海太守に任じられた。死去した。

原文休傑從弟靈祐,仕劉義隆為青州治中、勃海太守。慕容白曜平三齊,靈祐率二百人詣白曜降,賜爵下密子。後除建威將軍、勃海太守。卒。

子の封進寿は爵位を継いだ。粛宗の時、揚州治中となり、義州を失った罪で刺史の元志に殺害された。事績は志伝に詳しい。

原文子進壽,襲爵。肅宗時,為揚州治中,以失義州為刺史元志所殺。事具志傳。

子の封子游は、武定年間に、開府中兵参軍となった。

原文子子游,武定中,開府中兵參軍。

封進寿の弟の封蚌は、冀州別駕の任で死去した。

原文進壽弟蚌,卒於冀州別駕。

封蚌の弟の封粲は、初め荊州長流参軍に起家した。司空水曹参軍・殿中侍御史を歴任した。累進して征東将軍・広州長史となった。帰還後、光禄大夫に任じられた。死去し、衛将軍・冀州刺史を追贈された。

原文蚌弟粲,起家荊州長流參軍。司空水曹參軍、殿中侍御史。累遷征東將軍、廣州長史。還,除光祿大夫。卒,贈衞將軍、冀州刺史。

封軌

原文封軌

封回の族叔である封軌は、字を広度という。沈着で謹厳、学問を好み、経書と伝注に広く通じた。光禄大夫の武邑の人孫恵蔚とは志を同じくして親しく交わり、恵蔚はしばしば封軌を推して言った。「封生の経義に対する理解は、単に章句に優れるだけでなく、その綱領を明らかにし、大要を統括する点において、私の及ばないところが多い。」自らを修め清潔であることを善しとし、儀容は甚だ立派であった。ある者が言った。「学士は身なりを飾らないものだが、この賢人はどうして特にこうなのか。」封軌はこれを聞き、笑って言った。「君子はその衣冠を整え、その瞻視を尊ぶものであって、どうして蓬髪垢面でなければ賢人たり得ようか。」言った者は恥じて退いた。

原文回族叔軌,字廣度。沉謹好學,博通經傳。與光祿大夫武邑孫惠蔚同志友善,惠蔚每推軌曰:「封生之於經義,非但章句可奇,其標明綱格,統括大歸,吾所弗如者多矣。」善自修潔,儀容甚偉。或曰:「學士不事修飾,此賢何獨如此?」軌聞,笑曰:「君子整其衣冠,尊其瞻視,何必蓬頭垢面,然後為賢。」言者慚退。

太和年間、著作佐郎に任じられ、やがて尚書儀曹郎中に転じた。兼員外散騎常侍として、高麗に使命を帯びて赴いた。高麗王の雲はその偏遠を恃み、病と称して自ら詔書を受けようとしなかった。封軌は厳しい表情でこれを詰問し、大義を説くと、雲はついに北面して詔書を受けた。先に、契丹が辺境の民六十余人を虜掠し、さらに高麗がこれを擁して東に帰らせたことがあった。封軌はその状況を詳しく聞き、文書を送ってこれを徴し、雲はすべて物資を与えて送り返した。有司が上奏して、封軌が遠く絶域に使いし、朝命を辱めず、権宜をもって慰撫し、辺民を蘇らせた功績を賞すべきであるとした。世宗は詔して言った。「権宜をもって人口を徴したのは、使者の常としての務めである。ただし、光揚した称えがあるゆえ、一階を賞するのがよい。」考功郎中に転じ、本郡の中正を兼ねた。勃海太守の崔休が吏部郎として入朝した時、兄の考課の事で封軌に干渉した。封軌は言った。「法は天下の公平であって、旧君の故をもってこれを損なうことはできない。」崔休はその公正を守ることを歎じた。封軌は尚書省にあって、儒雅と称された。四門博士で明経の学者を派遣し、諸州の学生を検試するよう奏請した。詔してこれに従った。まもなく国子博士に任じられ、揚武将軍を加えられた。仮の通直散騎常侍として、汾州の山胡を慰労した。

原文太和中,拜著作佐郎,稍遷尚書儀曹郎中。兼員外散騎常侍,銜命高麗。高麗王雲恃其偏遠,稱疾不親受詔。軌正色詰之,喻以大義,雲乃北面受詔。先是,契丹虜掠邊民六十餘口,又為高麗擁掠東歸。軌具聞其狀,移書徵之,雲悉資給遣還。有司奏軌遠使絕域,不辱朝命,權宜曉慰,邊民來蘇,宜加爵賞。世宗詔曰:「權宜徵口,使人常體,但光揚有稱,宜賞一階。」轉考功郎中,除本郡中正。勃海太守崔休入為吏部郎,以兄考事干軌。軌曰:「法者,天下之平,不可以舊君故虧之也。」休歎其守正。軌在臺中,稱為儒雅。奏請遣四門博士明經學者,檢試諸州學生。詔從之。尋除國子博士,加揚武將軍。假通直散騎常侍,慰勞汾州山胡。

司空・清河王元懌が明堂と辟雍を修築するよう上表すると、詔して百官を集めて議させた。封軌は議して言った。「明堂とは、政を布く宮殿であり、国の南にあり、父を厳しくして天に配し、朔を聴き教えを設けるもので、その経構の様式は、すでに古くから尊ばれてきた。ゆえに周官の匠人の職に云う、夏后氏は世室、殷人は重屋、周人は明堂、五室・九階・四戸・八窓と。鄭玄は言う、『あるいは宗廟を挙げ、あるいは王の寝殿を挙げ、あるいは明堂を挙げ、互いに同じ制度であることを示す』と。されば三代の明堂は、その制度は一つである。案ずるに周と夏殷では、損益が異なるが、明堂に至っては、これに因って改めず、五室の意義を明らかにし、天の数に合致している。ゆえに鄭玄はまた言う、五室は五行を象る、と。されば九階は九土に法り、四戸は四時に達し、八窓は八風を通す。誠に不易の大範、国を有する恒式である。もしその上円下方をもって天地に則り、水を通して宮を環らし観る者を節し、茅で葺き白く塗ることをその質飾とし、赤い綴り白い綴りをもってその戸牖とするのは、皆典籍に具わって載せられ、制度の明らかな意義である。秦の世においては、五典を焚滅し、三代を毀黜し、先聖を変更し、旧憲に依らなかった。ゆえに呂氏の月令に九室の義が見え、大戴の礼に十二堂の論が著わされている。漢は秦の法を承け、また改めることができず、東西の二京ともに九室であった。ゆえに黄図・白虎通、蔡邕・応劭らは、皆九室をもって九州を象り、十二堂をもって十二辰を象ると称した。室は天を祭るため、堂は政を布くためである。天に依って祭るゆえ、室は五を過ぎず、時に依って政を布くゆえ、堂は四を踰えぬ。州と辰とは、法とすべきものではなく、九と十二とは、その用いるところどこにあろうか。今、聖朝は道を尊び民を訓え、礼を備えて物を化そうと欲するならば、五室に則り、以て永制とすべきである。廟学の嫌疑、台沼の雑多については、袁準の徒がすでに論正しており、遺論が具在するので、再び載せる必要はない。」

原文司空、清河王懌表修明堂辟雍,詔百僚集議。軌議曰:「明堂者,布政之宮,在國之陽,所以嚴父配天,聽朔設教,其經構之式,蓋已尚矣。故周官匠人職云:夏后氏世室,殷人重屋,周人明堂,五室、九階、四戶、八窗。鄭玄曰:『或舉宗廟,或舉王寢,或舉明堂,互之以見同制。』然則三代明堂,其制一也。案周與夏殷,損益不同,至於明堂,因而弗革,明五室之義,得天數矣。是以鄭玄又曰:五室者,象五行也。然則九階者,法九土;四戶者,達四時;八窗者,通八風。誠不易之大範,有國之恒式。若其上圓下方以則天地,通水環宮以節觀者,茅蓋白盛為之質飾,赤綴白綴為之戶牖,皆典籍所具載,制度之明義也。在秦之世,焚滅五典,毀黜三代,變更先聖,不依舊憲。故呂氏月令見九室之義,大戴之禮著十二堂之論。漢承秦法,亦未能改,東西二京,俱為九室。是以黃圖、白虎通,蔡邕、應劭等,咸稱九室以象九州,十二堂以象十二辰。夫室以祭天,堂以布政。依天而祭,故室不過五;依時布政,故堂不踰四。州之與辰,非所可法,九與十二,其用安在?今聖朝欲尊道訓民,備禮化物,宜則五室,以為永制。至如廟學之嫌,臺沼之雜,袁準之徒已論正矣,遺論具在,不復須載。」

まもなく本官のまま東郡太守を代行した。前軍将軍に遷り、夏州の事務を代行した。条教を立てることを好み、任地ごとに実績があった。太子僕に転じ、廷尉少卿に遷り、征虜将軍を加えられた。死去し、右将軍・済州刺史を追贈された。

原文尋以本官行東郡太守。遷前軍將軍、行夏州事。好立條教,所在有績。轉太子僕,遷廷尉少卿,加征虜將軍。卒,贈右將軍、濟州刺史。

初め、封軌は深く郭祚に知られており、郭祚は常に子の景尚に言った。「封軌と高綽の二人は、ともに国を治める才能があり、必ずや遠大なところに至るであろう。私は平生妄りに進挙することはないが、しばしばこの二公を推薦するのは、ただ国に賢を進めるためだけでなく、また汝らの将来の津梁とするためである。」そのように重んじられたのである。封軌は方正剛直をもって自ら務め、高綽もまた風概をもって名を立てた。尚書令の高肇が司徒に拝された時、高綽は送迎に往来したが、封軌はついに詣でなかった。高綽は顧みて封軌を見ず、急いで帰って言った。「私は一生、規矩に過ちなしと自負していたが、今日の挙措は、封生には遠く及ばない。」封軌は、徳を務め言を慎むことが修身の根本であり、姦回で讒佞なる者は世の大害であると考え、そこで務徳・慎言・遠佞・防姦の四戒を作ったが、文は多く載せない。

原文初,軌深為郭祚所知,祚常謂子景尚曰:「封軌、高綽二人,並幹國之才,必應遠至。吾平生不妄進舉,而每薦此二公,非直為國進賢,亦為汝等將來之津梁也。」其見重如此。軌既以方直自業,高綽亦以風概立名。尚書令高肇拜司徒,綽送迎往來,軌竟不詣。綽顧不見軌,乃遽歸,曰:「吾一生自謂無愆規矩,今日舉措,不如封生遠矣。」軌以務德慎言,修身之本,姦回讒佞,世之巨害,乃為務德、慎言、遠佞、防姦四戒,文多不載。

封軌の長子の封偉伯は、字を君良という。博学で才思があり、弱冠にして太学博士に任じられ、朝廷の大議があるごとに、偉伯は皆これに参与した。太保の崔光・僕射の游肇に特に知遇と賞賛を受けた。太尉・清河王元懌が参軍事に辟召し、元懌は自ら孝経解詁を著し、偉伯に難例九条を作るよう命じたが、いずれも隠れた漏れを発起した。偉伯はまた礼・伝・詩・易の疑事数十条について討論し、儒者は皆これを称えた。まもなく明堂の経始にあたり、儒学を広く集めてその制度を議した。九五の論は、久しく定まらなかった。偉伯は経緯を捜索し、明堂図説六巻を上った。正光の末、尚書僕射の蕭宝夤が関西行臺郎に任じた。宝夤が叛逆を為すに及んで、偉伯は南平王元冏とともに密かに関中の豪族韋子粲らと結び、義兵を挙げることを謀った。事が発覚して殺害され、三十六歳であった。当時の人はこれを惜しんだ。永安年間、散騎常侍・征虜将軍・瀛州刺史を追贈され、一子に出身を許された。偉伯には子がなく、第三弟の封翼に転授された。偉伯は封氏本録六巻を撰し、併せて詩賦碑誄雑文数十篇があった。

原文軌長子偉伯,字君良。博學有才思,弱冠除太學博士,每朝廷大議,偉伯皆預焉。雅為太保崔光、僕射游肇所知賞。太尉、清河王懌辟參軍事,懌親為孝經解詁,命偉伯為難例九條,皆發起隱漏。偉伯又討論禮、傳、詩、易疑事數十條,儒者咸稱之。尋將經始明堂,廣集儒學,議其制度。九五之論,久而不定。偉伯乃搜檢經緯,上明堂圖說六卷。正光末,尚書僕射蕭寶夤以為關西行臺郎。及寶夤為逆,偉伯乃與南平王冏潛結關中豪右韋子粲等謀舉義兵。事發見殺,年三十六,時人惜之。永安中,追贈散騎常侍、征虜將軍、瀛州刺史,聽一子出身。偉伯無子,轉授第三弟翼。偉伯撰封氏本錄六卷,并詩賦碑誄雜文數十篇。

偉伯の弟の業は、字を君脩という。奉朝請を拝命し、殿中侍御史を兼任した。早世した。

原文偉伯弟業,字君脩。奉朝請,領殿中侍御史。早卒。

業の弟の翼は、字を君贊という。容貌が美しく、腰帯は十圍あった。兄の偉伯が節を立てた功績により、給事中に任ぜられた。後に揚烈将軍を加えられた。武定の初年に卒した。

原文業弟翼,字君贊。美容貌,腰帶十圍。以兄偉伯立節之勳,除給事中。後加揚烈將軍。武定初卒。

翼の弟の述は、字を君義という。武定の末年に、廷尉少卿であった。

原文翼弟述,字君義。武定末,廷尉少卿。

述の弟の詢は、字を景文という。尚書起部郎であった。

原文述弟詢,字景文。尚書起部郎。