巻32

高湖

高湖、 あざな は大淵、勃海郡蓨県の人である。漢の 太傅 たいふ 高裒の後裔。祖父の慶は、 慕容 ぼよう 垂の 司空 しくう 。父の泰は、吏部 尚書 しょうしょ 。湖は幼少より機敏にして器量あり、兄の韜とともに当時に知名で、殊に郷人崔逞に敬重された。若くして顕職を歴任し、 散騎常侍 さんきじょうじ となる。登国十年、垂がその太子宝を遣わして来伐した時、湖は垂に言うには、「魏は燕の与国なり。彼に内難あれば、こちらは赴きてこれを助け、こちらに求めあれば、彼は違うことなし。和好多年、使者相継ぐ。往きて馬を求め得ず、遂にその弟を留めしは、曲はこちらにあり、彼の失にあらず。まさに旧好を修め、国家を安寧すべきに、また太子に率衆して遠征せしむ。しかも魏主は雄略あり、兵馬精強にして、険阻艱難を備嘗せり。太子は春秋に富み、意果にして心鋭く、敵を軽んじ勝ちを好む、独行は難し。兵は凶器、戦は危うし、深慮を以てせんことを願う」と。言甚だ切厲なり。垂怒り、湖の官を免ず。既にして宝は果たして参合にて敗れたり。宝が立つと、乃ち湖を起用して征虜将軍・燕郡太守となす。宝が和龍に走ると、兄弟交争し、湖はその衰乱を見て、遂に戸三千を率いて帰国す。太祖、爵を東阿侯と賜い、右将軍を加え、代東諸部を総べしむ。世祖の時、寧西将軍・涼州鎮都大将を除かれ、姑臧を鎮め、甚だ恵政あり。年七十にして卒す。鎮西将軍・秦州 刺史 しし を贈られ、 おくりな して敬と曰う。四子あり。

高謐

第三子の謐、字は安平、文武の才度あり。天安年中、功臣の子として禁中に召し入れられ、中散を除かれ、専ら秘閣を典す。粛勤倦まず、高宗深くこれを重んじ、秘書郎を拝す。謐は墳典の残缺を以て、広く群書を訪ね、大いに繕写を加うることを奏請す。これにより代京の図籍、審正せざるは莫し。顕祖が寧光宮に御する時、謐は常に侍講読し、蘭臺御史を拝す。尋いで治書に転じ、内外を掌摂し、非法を弾糾し、官に当たりて行い、畏避すること無く、甚だ称賞せらる。延興二年九月卒す、時に年四十五。太昌初め、使持節・ 侍中 じちゅう 都督 ととく 青徐齊濟兗五州諸軍事・驃騎大将軍・ 太尉 たいい 公・青州刺史を追贈され、諡して武貞公と曰う。妻は叔孫氏、陳留郡君。

長子の樹生。性質通達、節義を重んじ、英雄と交結し、生産に事とせず、識有る者皆これを宗奇す。 蠕蠕 じゅんじゅん の侵掠に、高祖詔して懐朔鎮将陽平王頤に衆を率いてこれを討たしむ。頤、樹生に鎮遠将軍・都将を仮し、先駆して功あり。樹生は気侠を尚び、意は浮沈自適に在り、職位を願わず、賞を受くるを辞し、論者これを高しとす。居宅に数たび赤光紫気の異有り、隣伍驚恐し、皆怪変と謂い、宅は居るべからずとす。樹生曰く、「何れの往くところか善からざらん」と。安んじて自若たり。雅く音律を好み、常に絲竹を以て自ら娯しむ。孝昌初め、北州大乱し、詔して衆軍を発し、広く募賞を開く。樹生に威略有るを以て、大 都督 ととく を授け、勁勇を率い、旧蕃を鎮捍せしむ。二年に卒す、時に年五十五。太昌初め、使持節・ 都督 ととく 冀相滄瀛殷定六州諸軍事・大将軍・太師・録尚書事・冀州刺史を追贈され、勃海王を追封され、諡して文穆と曰う。妻韓氏は、勃海王国王太妃となる。永熙年中、後に仮黄鉞・侍中・ 都督 ととく 中外諸軍事を贈られ、後部羽葆鼓吹を加えられ、余は故の如し。長子は即ち齊獻武王なり。

王の弟の琛、字は永宝。天平年中、驃騎大将軍・開府儀同三司・御史中尉・南趙郡開国公。

子の叡、襲ぐ。武定末、太子庶子。

樹生の弟の翻、字は飛雀、亦た器度を以て知名。侍御中散にて卒す。元象年中、仮黄鉞・使持節・侍中・ 都督 ととく 冀定洛瀛 へい 肆燕恒雲朔十州諸軍事・大将軍・太傅・太尉公・録尚書事・冀州刺史を贈られ、諡して孝宣と曰う。

子の嶽、武定末、侍中・太傅公・清河郡開国公。

高真

謐の長兄の真、志行あり。兄弟皆至孝にして、父亡き後、喪を墓次に治むるに、甘露白雉降り集う。有司以て聞こえ、詔して閭里に標す。涇州別駕より、稍く安定太守に遷り、甚だ声績著し。卒し、龍驤将軍・涇州刺史を贈られる。

(闕)帯金城太守。神亀初めに卒す。太昌元年、使持節・侍中・ 都督 ととく 定相殷三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・定州刺史を贈られ、諡して武康と曰う。

子の仁、正光年中、河州別駕にて卒す。太昌初め、使持節・侍中・ 都督 ととく 青齊濟三州諸軍事・儀同三司・青州刺史を贈られ、諡して明穆と曰う。

子の貫、字は小胡。永興末、通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・金紫光禄大夫・尚食典御。

拔の弟の䐗児、容貌美しく、膂力人に過ぎ、尤も弓馬を善くす。顕祖の時、羽林幢将。皇興年中、主仗令。高祖の初め、給事中、累遷して 散騎常侍 さんきじょうじ ・内侍長。事に坐して死す。

子の昋は、字を明珍といい、器量と志操があった。初め侍御史に任ぜられ、奉朝請・員外散騎侍郎を拝命した。叔父の徽と共に西域に使いし、帰途、河州に至り、賊の攻囲に遭い、城が陥落して害された。太昌の初め、使持節・ 都督 ととく 冀滄二州諸軍事・征東将軍・冀州刺史を追贈された。永熙年中、重ねて侍中・ 都督 ととく 青徐光三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・青州刺史を追贈され、諡して文景といった。

子の永楽は、興和年中、驃騎大将軍・儀同三司・済州刺史・陽川県開国公となった。

永楽の弟の弼は、武定年中、安西将軍・営州刺史・安陵県開国男となった。

䐗児の弟の徽は、字を栄顕といい、小字を苟児といった。聡明で気概と才幹があり、任城王澄に知られ賞された。景明年中、奉朝請として起家した。延昌年中、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を仮官とし、嚈噠に使いし、西域諸国はみな敬い畏れた。破洛侯・烏孫はこれによって名馬を献上した。帰還し、冗従 僕射 ぼくや を拝命した。神亀年中、射声 校尉 こうい ・左中郎将・游撃将軍に遷った。また平西将軍・員外 散騎常侍 さんきじょうじ を仮官とし、嚈噠に使いした。帰途、枹罕に至り、時に莫折念生が秦隴で反乱を起こした。河州刺史の元祚が前刺史の梁釗の息子の景進らに招かれ、念生を引き入れて河州を攻め、祚は憂い死した。長史の元永平・治中の孟賓・台使の元湛が共に徽を推して河州の事務を行わせた。徽は安撫接遇に方策があり、兵士は命を用いた。別駕の乞伏世則がひそかに景進と通じたので、徽はこれを殺した。吐谷渾に徴兵を求めると、吐谷渾は衆を率いてこれを救った。景進は敗れ、退走して秦州に奔った。景進はまもなく きょう 夷を率いて再び攻め逼った。徽は統軍の六景相を遣わし、馳せて上表して援軍を請うた。詔により徽は引き続き河州の事務を行った。久しく援軍なく、力尽きて城は陥落し、賊のために害された。永熙年中、喪は 洛陽 らくよう に還った。使持節・侍中・ 都督 ととく 冀定相瀛滄五州諸軍事・ 司徒 しと 公・冀州刺史を追贈され、諡して文宣といった。

子の帰義は、志操と烈々たる気概があった。初め奉朝請に任ぜられ、威烈将軍を加えられた。父の徽と共に西域に使いした。都に還り、次第に龍驤将軍・中散大夫・西征 都督 ととく に遷り、しばしば戦功を挙げた。後に陣中で没した。太昌の初め、侍中・驃騎大将軍・儀同三司・雍州刺史を追贈され、諡して孝貞といった。

子の普は、武定の末、安南将軍・太子左衛率となった。

帰義の弟の帰彦は、武定の末、驃騎大将軍・開府儀同三司・徐州刺史・安喜県開国男となった。

高各拔

真の弟の各拔は、広昌鎮将であった。卒し、燕州刺史を追贈された。

子の猛虎は、鄯善鎮の録事であった。喪に服するに及び、至性をもって称され、ついに官途への情を絶った。

子の元国は、早く卒した。

次男の顕国は、武定の末、撫軍将軍・汶陽男となった。

顕国の弟の達は、武定年中、驃騎将軍・行滄州事となった。

達の弟の永国は、征虜将軍・中散大夫となった。

永国の弟の子国は、武衛将軍となった。

各抜の末子の盛は、天平年間に侍中・太尉公・広平郡開国公となった。

子の子瑗は、武定末年、武衛将軍を兼ねた。

高稚

謐の弟の稚は、字を幼寧という。薄骨律鎮将、営州刺史となった。

子の陀は、字を難陀という。沃野鎮長となった。卒し、琅邪太守を追贈された。

子の雍は、字を景雲といい、 司徒 しと 従事となった。後に末子の思義とともに蕭衍に奔り、江南で卒した。元象初年、喪が還り、特使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 冀定瀛滄幽五州諸軍事・驃騎大将軍・ 尚書令 しょうしょれい 司徒 しと 公・冀州刺史を追贈された。

子の思宗は、武定末年、中軍将軍・儀同三司・兗州刺史・上洛郡開国男となった。思義には、特使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 青兗斉三州諸軍事・車騎大将軍・尚書僕射・儀同三司・青州刺史を追贈された。

陀の弟の興は、早くに卒した。興の子の貴孫は、晋州刺史となった。

高恒

湖の弟の恒は、字を叔宗といい、慕容垂の鉅鹿太守となった。太祖の時、郡を率いて降り、涇県侯の爵を賜り、龍驤将軍を加えられ、引き続き鉅鹿を守った。卒し、安東将軍・幽州刺史を追贈され、諡して恵といった。

子の道は、字を始愔といい、爵を襲った。都牧令に拝され、鎮南将軍・相州刺史に遷った。職に就くに及ばず卒した。なおもってこれを贈官とし、諡して荘といった。

子の幹は、字を干奴という。学問を好み、寛厚にして雅量があった。涇県侯の爵を襲い、後に例により伯に降格された。南青州征虜府司馬・威遠将軍・鄯善鎮遠府長史を歴任した。引き続き汾州後軍府長史・白水太守に転じた。在任する所、廉平をもって称された。太昌初年、卒した。使持節・ 都督 ととく 秦雍二州諸軍事・車騎大将軍・ 司空 しくう 公・雍州刺史を追贈され、諡して孝穆といった。

子の侃は、字を伯欣といい、爵を襲った。南秦州長史に除された。卒し、輔国将軍・涼州刺史を追贈され、諡して宣といった。

子の紹は、字を広祖といい、爵を襲った。興和初年、征虜将軍・滄州刺史となった。

侃の弟の騰は、字を伏興という。安東将軍・光州刺史・襄城県開国公の任に在りて卒した。

子の陟は、字を祖遷という。 司空 しくう 中郎・太尉主簿を務めた。

陟の弟の憬は、通直郎となった。憬の弟の翽は、父の爵位を襲い継いだ。

騰の弟の隆之は、武定の末年に、 太保 たいほう 尚書令 しょうしょれい ・平原郡開國公となった。

崔逞

崔逞は、字を叔祖といい、清河郡東武城の人である。魏の中尉崔琰の六世の孫である。曾祖父の諒は、晋の 中書 ちゅうしょ 令であった。祖父の遇は、石虎に仕え、特進となった。父の瑜は、黄門郎であった。

逞は若くして学問を好み、文才があった。乱世に遭い、孤貧となり、自ら野で耕作しながらも、講義と誦読を怠らなかった。慕容暐の時代、郡が上計掾に推挙し、著作郎に補され、『燕記』を撰した。黄門侍郎に遷った。苻堅が慕容暐を併合すると、斉郡太守に任じられた。苻堅が敗れると、司馬昌明は逞を清河・平原二郡太守とした。翟遼に捕らえられ、中書令に任じられた。慕容垂が翟釗を滅ぼすと、秘書監に任じられた。慕容宝が東へ和龍に走ると、留臺吏部尚書となった。慕容驎が立つと、逞は妻子を連れて太祖(北魏道武帝)のもとに亡命して帰順した。張袞が先に逞を称賛していたので、太祖は会見すると、礼遇を非常に重くした。尚書に拝し、政事を任せ、三十六曹を管轄させ、別に吏属を与え、門下省に居住させた。まもなく御史中丞に除された。

太祖が中山を攻めて未だに落とせず、六軍が食糧に乏しく、民は多く穀物を隠匿した。群臣に粟を取る方略を問うた。逞は言った。「桑の実を取れば糧食の助けとすることができます。故に 飛鴞 ふきょう は桑の実を食って音を改めるということで、詩がその事を称えています。」太祖はその侮慢を心に留めながらも、兵は既に食糧を必要としていたので、桑の実を租税に当てることを聞き入れた。逞はまた言った。「軍人に時を逃さず自ら取らせることができます。時を過ぎれば全て落ちてしまいます。」太祖は怒って言った。「内賊(中山)が未だ平定されていないのに、兵士がどうして甲冑を解き武器を持って林野に入り桑の実を収穫できようか。これは何たる言葉か。」中山が未だ陥落していなかったので、罪を加えなかった。天興の初め、姚興が司馬徳宗の襄陽の戍を侵すと、戍将の郗恢が使者を馳せて常山王 拓跋 たくばつ 遵に援軍を請い、遵がこれを上聞した。太祖は詔して逞と張袞に遵の書状を作らせて返答させた。初め、恢が遵に送った書状に「賢兄は 中原 ちゅうげん を虎歩す」とあった。太祖はその言葉が君臣の体を悖るとし、逞と袞に命じて、その主君の称号を貶めて返答させた。逞と袞は「貴主」と書いた。太祖は怒って言った。「汝らにその主を貶めて返答させたのに、『貴主』などと称するとは、『賢兄』とどう違うというのか。」遂に賜死させた。後に、司馬徳宗の荊州刺史司馬休之ら数十人が桓玄に追われ、皆将来奔するはずであったが、陳留の南に至り、二組に分かれた。一つは 長安 ちょうあん に奔り、一つは広固に帰った。太祖は初め休之らが降ると聞き、大いに喜んだが、後になって彼らが来ないのを怪しみ、詔して兗州に尋ね探させた。その従者を捕らえ、理由を問うと、皆言った。「国家の威声が遠くまで及んでいるので、休之らは皆朝廷に帰りたいと思っていましたが、崔逞が殺されたと聞き、故に二つの地に奔ったのです。」太祖は深くこれを後悔した。これより以後、士人に過ちある者は、多く寛大に扱われるようになった。

逞には七人の子があったが、二人の子は早く亡くなった。第三子は義、義の弟は諲、諲の弟は禕、禕の弟は厳、厳の弟は賾である。逞が( 平城 へいじょう に)内徙した時、結局は免れられぬと考え、その妻張氏と四人の子を冀州に留め、慕容徳のもとに帰らせ、遂に広固に奔らせた。逞はただ末子の賾と平城に在った。逞が死んだ時も、このことを以て責められた。

崔賾

賾は、字を泰沖という。初め太子洗馬となり、後、次第に 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、清河侯の爵位を賜った。後、世祖(太武帝)が劉義隆が諲を冀州刺史に任じたと聞き、言った。「義隆はその兄を用いることを知っている。我に冀州がないわけではあるまい。」乃ち賾を平東将軍・冀州刺史とした。また大鴻臚となり、節を持ち詔策を奉じて楊難当を南秦王に拝した。使命を奉じて数度往復し、朝廷の命令を光揚したので、世祖はこれを良しとした。驃騎大将軍・楽平王拓跋丕らが諸軍を督して上邽を取る時、賾に詔を持たせて丕の前で難当に詔を奉ずるよう諭させた。後に方士の韋文秀と共に王屋山に赴き金丹を造ったが、成就しなかった。真君の初年に卒去した。賾には五人の子があった。

長子の秉は、字を公礼という。早くに終わり、子がなかった。

秉の弟の広は、字を公淵といい、爵位を襲い継いだ。平東将軍に拝された。子の法度は早くに終わった。

広の弟の軌は、字を公則という。太子中舎人・鎮南司馬となった。

軌の弟の穆は、字を公和という。早くに終わった。

穆の弟の叡は、字を哲といい、小字を男季という。高祖(孝文帝)の初年、境外との交通の罪により誅殺された。従兄の景真がその子の思叔を叡の後継ぎとした。

思叔は、若くして中書學生となり、中書博士に遷った。世宗の時、上黨・鉅鹿の太守を歴任した。逞の死から叡の誅殺に至るまで、三代にわたり五十餘年を経て、北に在った一門は尽く滅んだ。

初め、三齊が平定された時、禕の孫の相如が國に入り、才學をもって知名であった。冀州の秀才に挙げられたが、早世した。相如の弟の彧は、〈術藝傳〉にある。

崔適

逞の兄の適は、字を寧祖といい、また当時に有名であった。慕容垂の尚書左丞、范陽・昌黎の二郡太守を務めた。

適の曾孫の延壽は、冀州主簿となった。財を軽んじ施しを好み、甚だ郷里の称譽を得た。

延壽の子の隆宗は、簡素で率直、友を愛し、喪に服して孝行をもって知られた。冀州別駕、蘭陵・燕郡の二郡太守、 司空 しくう 諮議參軍、冀州中正、中軍大將軍府長史を歴任した。物に接して仁信、至誠より出で、故に世に重んぜられた。卒し、前將軍を追贈された。齊州刺史、諡は孝といった。

子の敬保は、員外散騎侍郎・冀州儀同府從事中郎となった。卒し、冀州刺史を追贈された。

子の子恒は、官は征虜將軍・魯郡太守に至った。早世した。

子恒の弟の子安は、冠軍將軍・西兗州司馬となった。

子安の弟の子昇は、開府參軍となった。武定年中、元瑾の事に連座し、兄弟ともに誅殺された。

封懿

封懿は、字を處德といい、勃海郡蓨縣の人である。曾祖父の釋は、 しん の東夷 校尉 こうい であった。父の放は、慕容暐の吏部尚書であった。兄の孚は、慕容超の太尉であった。懿は儁偉にして才氣あり、文を綴ることができ、孚とは器量・行いに長短あるも、名位はほぼ同じであった。慕容寶に仕え、位は中書令・民部尚書に至った。寶が敗れると、闕に帰順し、給事黃門侍郎・都坐大官・寧朔將軍・章安子に任ぜられた。太祖はしばしば引見し、慕容氏の旧事を問うた。懿の応対が疎慢であったため、免官されて家に還された。太宗の初め、再び召されて都坐大官に任ぜられ、爵を侯に進めた。泰常二年に卒した。懿が撰した『燕書』は、頗る世に行われた。

子の玄之は、司馬國璠・溫楷らと謀乱を企てた罪に連座し、誅殺された。刑に臨み、太宗は彼に言った、「決して汝の種を絶やさぬ、爾の一子を宥そう」。玄之は請うて言った、「弟の虔之の子の磨奴、字は君明、早く孤となりました。その命を全うさせて下さい」。そこで玄之の四子を殺し、磨奴を赦した。

磨奴は刑せられて宦人となった。崔浩が誅殺された時、世祖は磨奴に言った、「汝は本来全うすべきであったが、刑に至ったのは、事が浩に由る故である」。後に中曹監となり、西に張掖に使いし、富城子の爵を賜り、建威將軍・給事中を加えられた。久しくして、出て冠軍將軍・懷州刺史となった。太和七年に卒した。平東將軍・冀州刺史・勃海公を追贈され、諡を定といった。族子の叔念を後嗣とし、高祖は名を回と賜った。

封回

回の父は鑒であり、すなわち慕容暐の太尉弈の後裔である。回は、皇興の初年に中書学生となり、富城子の爵位を襲い、累進して太子家令となった。世宗が即位すると、回を行華州事とした。回は州において中散大夫党智孫を鞭打ち、尚書左丞韋績に糾弾上奏され、免官となった。まもなく鎮遠将軍・安州刺史に任じられた。山の民は質朴で、父子や賓客が同じ一室に寝ていた。回が着任すると、別々の場所に寝るよう命じ、その風俗は改まった。太尉長史に召され、頻繁に定州・徐州の事務を代行し、まもなく後将軍・汾州刺史に任じられた。

粛宗の初め、涼州刺史に転じ、右将軍を加えられたが、固辞して受けず、平北将軍・瀛州刺史を授けられた。当時は大乗の寇乱の後で、水害も加わり、百姓は困窮していた。回は上表して救済を求め、兵役の徴発を免じたので、州内は大いに頼りとした。また度支尚書となった。まもなく都官尚書に転じ、冀州大中正となった。 滎陽 けいよう の鄭雲が長秋卿劉騰に諂い、劉騰に紫纈四百匹を賄賂して、安州刺史を得た。任官の書が朝に出され、夕方に回を訪ね、座につくや否や、回に言った。「私が安州になったが、卿は知っているか?あの土地で生計を立てるには、何が便利か?」回はこれに答えて言った。「卿は国の寵愛を受け、方伯の位に至った。園の葵を抜き、織婦を去らせる(清廉を守る)ことはできなくとも、百姓を救う方策を考えるべきである。どうして訪ねてきて生計のことを問うのか。封回は商売をしない。何を教えようというのか。」雲は恥じて顔色を失った。

霊太后が臨朝すると、百官を召して得失を問い、群臣は敢えて言う者はいなかった。回が答えて言った。「昔、孔丘が司寇となって十日で少正卯を誅し、魯国は粛然として、欺瞞巧みな行いは自然に止んだ。姬旦(周公旦)が刑戮を行い、兄弟をも避けず、周の道は隆盛となった。徐偃が専ら仁義を行い、その国は滅んだ。古より今に至るまで、威刑を厳しくせずに治められたことはない。近ごろは、長吏の寛怠により、百姓を侵し剥ぎ、盗賊が群れをなして起こっている。刑書を厳しくして、未だ犯さざる者を戒めんことを請う。」太后はその意見を容れたが、用いることはできなかった。七兵尚書に転じ、御史中尉を兼ねた。尚書右僕射元欽が従父の兄の麗の妻崔氏と姦通したので、回はこれを弾劾上奏し、当時の人に称えられた。鎮東将軍・冀州刺史に任じられた。

粛宗の末、殿中尚書に召されたが、頻繁に上表して職を辞し、右光禄大夫とされた。荘帝の初め、河陰において害に遇い、時に七十七歳であった。侍中・車騎大将軍・ 司空 しくう 公・定州刺史を追贈され、諡して孝宣といった。

長子の隆之は、武定年間に、開府儀同三司・斉州刺史・安德郡開国公となった。

子の子絵は、武定年間に、勃海太守となった。

隆之の弟の興之は、字を祖冑という。経学に明るく行いを修め、恬淡で清浄であった。初め太学博士、員外郎に起用され、出て瀛冀二州平北府長史となり、歴任した官において職務に適う称賛があった。孝昌年間に卒した。天平年間に、 散騎常侍 さんきじょうじ ・撫軍将軍・雍州刺史を追贈された。まもなく重ねて殿中尚書を追贈され、諡して文といった。

子の孝琬は、字を子倩という。武定の末、開府中郎となった。

孝琬の弟の孝琰は、秘書郎となった。

興之の弟の延之は、字を祖業という。天平年間に、驃騎大将軍・青州刺史・剡県開国子となった。

磨奴は既に回を後嗣としたので、顕祖に請い、鑒に寧遠将軍・滄水太守を追贈した。

封琳

鑒の長子の琳は、字を彦宝という。顕祖の末、本州が表を奉って推挙し、中書博士に任じられた。高祖の初め、大軍が南征した時、琳は鎮南軍事に参じた。後に河南七州大使となった。帰還し、中書侍郎に任じられ、侍中・南平王馮誕らと律令を議定し、布帛六百匹・粟六百石・馬牛各一頭を賜った。太尉長史に遷り、司宗下大夫に転じ、長者の称があった。東兗州の事務を代行し、百官が改定されると、 司空 しくう 長史に任じられた。出て立忠将軍・南青州刺史・兼 散騎常侍 さんきじょうじ ・持節・西道大使となった。帰還して長兼太中大夫となり、広平内史に転じ、また光禄大夫となった。世宗の末、後将軍・夏州刺史に任じられた。安東将軍・光禄大夫に召された。神龟二年に卒した。使持節・撫軍将軍・相州刺史を追贈された。

子の元称、元称の弟の子盛は、ともに早くに卒した。

子盛の弟の子施は、武定の末、沛郡太守となった。

封琳の子は封肅であり、文苑伝に載せられている。

封凱

封懿の従兄の子に封愷がおり、字は思悌、封弈の孫である。父の封勧は、慕容垂の侍中・太常卿となった。封愷は、給事黄門侍郎・ 散騎常侍 さんきじょうじ となった。後に代都に入り、その名声は封懿の子の封玄よりも上であり、ともに司馬氏の事件に連座して死んだ。封愷の妻は、盧玄の姉である。封愷の子の封伯達は母と妻の李氏を棄てて南に奔り河表に至り、房氏と改めて婚姻した。顕祖の末年に、封伯達の子の封休傑が内国に入った時、祖母の盧氏はなお存命で、百歳に近かったが、李氏はすでに死んでいた。封休傑は、高祖の時に帰国の功績により河間太守となり、兼ねて冀州咸陽王府諮議参軍を務めた。

封休傑の従弟に封霊祐がおり、劉義隆に仕えて青州治中・勃海太守となった。慕容白曜が三斉を平定すると、封霊祐は二百人を率いて白曜のもとに赴き降伏し、下密子の爵位を賜った。後に建威将軍・勃海太守に任じられた。死去した。

子の封進寿は爵位を継いだ。粛宗の時、揚州治中となり、義州を失った罪で刺史の元志に殺害された。事績は志伝に詳しい。

子の封子游は、武定年間に、開府中兵参軍となった。

封進寿の弟の封蚌は、冀州別駕の任で死去した。

封蚌の弟の封粲は、初め荊州長流参軍に起家した。 司空 しくう 水曹参軍・殿中侍御史を歴任した。累進して征東将軍・広州長史となった。帰還後、光禄大夫に任じられた。死去し、衛将軍・冀州刺史を追贈された。

封軌

封回の族叔である封軌は、字を広度という。沈着で謹厳、学問を好み、経書と伝注に広く通じた。光禄大夫の武邑の人孫恵蔚とは志を同じくして親しく交わり、恵蔚はしばしば封軌を推して言った。「封生の経義に対する理解は、単に章句に優れるだけでなく、その綱領を明らかにし、大要を統括する点において、私の及ばないところが多い。」自らを修め清潔であることを善しとし、儀容は甚だ立派であった。ある者が言った。「学士は身なりを飾らないものだが、この賢人はどうして特にこうなのか。」封軌はこれを聞き、笑って言った。「君子はその衣冠を整え、その瞻視を尊ぶものであって、どうして蓬髪垢面でなければ賢人たり得ようか。」言った者は恥じて退いた。

太和年間、著作佐郎に任じられ、やがて尚書儀曹郎中に転じた。兼員外 散騎常侍 さんきじょうじ として、高麗に使命を帯びて赴いた。高麗王の雲はその偏遠を恃み、病と称して自ら詔書を受けようとしなかった。封軌は厳しい表情でこれを詰問し、大義を説くと、雲はついに北面して詔書を受けた。先に、契丹が辺境の民六十余人を虜掠し、さらに高麗がこれを擁して東に帰らせたことがあった。封軌はその状況を詳しく聞き、文書を送ってこれを徴し、雲はすべて物資を与えて送り返した。有司が上奏して、封軌が遠く絶域に使いし、朝命を辱めず、権宜をもって慰撫し、辺民を蘇らせた功績を賞すべきであるとした。世宗は詔して言った。「権宜をもって人口を徴したのは、使者の常としての務めである。ただし、光揚した称えがあるゆえ、一階を賞するのがよい。」考功郎中に転じ、本郡の中正を兼ねた。勃海太守の崔休が吏部郎として入朝した時、兄の考課の事で封軌に干渉した。封軌は言った。「法は天下の公平であって、旧君の故をもってこれを損なうことはできない。」崔休はその公正を守ることを歎じた。封軌は尚書省にあって、儒雅と称された。四門博士で明経の学者を派遣し、諸州の学生を検試するよう奏請した。詔してこれに従った。まもなく国子博士に任じられ、揚武将軍を加えられた。仮の通直 散騎常侍 さんきじょうじ として、汾州の山胡を慰労した。

司空 しくう ・清河王元懌が明堂と辟雍を修築するよう上表すると、詔して百官を集めて議させた。封軌は議して言った。「明堂とは、政を布く宮殿であり、国の南にあり、父を厳しくして天に配し、朔を聴き教えを設けるもので、その経構の様式は、すでに古くから尊ばれてきた。ゆえに周官の匠人の職に云う、夏后氏は世室、殷人は重屋、周人は明堂、五室・九階・四戸・八窓と。鄭玄は言う、『あるいは宗廟を挙げ、あるいは王の寝殿を挙げ、あるいは明堂を挙げ、互いに同じ制度であることを示す』と。されば三代の明堂は、その制度は一つである。案ずるに周と夏殷では、損益が異なるが、明堂に至っては、これに因って改めず、五室の意義を明らかにし、天の数に合致している。ゆえに鄭玄はまた言う、五室は五行を象る、と。されば九階は九土に法り、四戸は四時に達し、八窓は八風を通す。誠に不易の大範、国を有する恒式である。もしその上円下方をもって天地に則り、水を通して宮を環らし観る者を節し、茅で葺き白く塗ることをその質飾とし、赤い綴り白い綴りをもってその戸牖とするのは、皆典籍に具わって載せられ、制度の明らかな意義である。秦の世においては、五典を焚滅し、三代を毀黜し、先聖を変更し、旧憲に依らなかった。ゆえに呂氏の月令に九室の義が見え、大戴の礼に十二堂の論が著わされている。漢は秦の法を承け、また改めることができず、東西の二京ともに九室であった。ゆえに黄図・白虎通、蔡邕・応劭らは、皆九室をもって九州を象り、十二堂をもって十二辰を象ると称した。室は天を祭るため、堂は政を布くためである。天に依って祭るゆえ、室は五を過ぎず、時に依って政を布くゆえ、堂は四を踰えぬ。州と辰とは、法とすべきものではなく、九と十二とは、その用いるところどこにあろうか。今、聖朝は道を尊び民を訓え、礼を備えて物を化そうと欲するならば、五室に則り、以て永制とすべきである。廟学の嫌疑、台沼の雑多については、袁準の徒がすでに論正しており、遺論が具在するので、再び載せる必要はない。」

まもなく本官のまま東郡太守を代行した。前軍将軍に遷り、夏州の事務を代行した。条教を立てることを好み、任地ごとに実績があった。太子僕に転じ、廷尉少卿に遷り、征虜将軍を加えられた。死去し、右将軍・済州刺史を追贈された。

初め、封軌は深く郭祚に知られており、郭祚は常に子の景尚に言った。「封軌と高綽の二人は、ともに国を治める才能があり、必ずや遠大なところに至るであろう。私は平生妄りに進挙することはないが、しばしばこの二公を推薦するのは、ただ国に賢を進めるためだけでなく、また汝らの将来の津梁とするためである。」そのように重んじられたのである。封軌は方正剛直をもって自ら務め、高綽もまた風概をもって名を立てた。 尚書令 しょうしょれい の高肇が 司徒 しと に拝された時、高綽は送迎に往来したが、封軌はついに詣でなかった。高綽は顧みて封軌を見ず、急いで帰って言った。「私は一生、規矩に過ちなしと自負していたが、今日の挙措は、封生には遠く及ばない。」封軌は、徳を務め言を慎むことが修身の根本であり、姦回で讒佞なる者は世の大害であると考え、そこで務徳・慎言・遠佞・防姦の四戒を作ったが、文は多く載せない。

封軌の長子の封偉伯は、字を君良という。博学で才思があり、弱冠にして太学博士に任じられ、朝廷の大議があるごとに、偉伯は皆これに参与した。太保の崔光・僕射の游肇に特に知遇と賞賛を受けた。太尉・清河王元懌が参軍事に辟召し、元懌は自ら孝経解詁を著し、偉伯に難例九条を作るよう命じたが、いずれも隠れた漏れを発起した。偉伯はまた礼・伝・詩・易の疑事数十条について討論し、儒者は皆これを称えた。まもなく明堂の経始にあたり、儒学を広く集めてその制度を議した。九五の論は、久しく定まらなかった。偉伯は経緯を捜索し、明堂図説六巻を上った。正光の末、尚書僕射の蕭宝夤が関西行臺郎に任じた。宝夤が叛逆を為すに及んで、偉伯は南平王元冏とともに密かに関中の豪族韋子粲らと結び、義兵を挙げることを謀った。事が発覚して殺害され、三十六歳であった。当時の人はこれを惜しんだ。永安年間、 散騎常侍 さんきじょうじ ・征虜将軍・瀛州刺史を追贈され、一子に出身を許された。偉伯には子がなく、第三弟の封翼に転授された。偉伯は封氏本録六巻を撰し、併せて詩賦碑誄雑文数十篇があった。

偉伯の弟の業は、字を君脩という。奉朝請を拝命し、殿中侍御史を兼任した。早世した。

業の弟の翼は、字を君贊という。容貌が美しく、腰帯は十圍あった。兄の偉伯が節を立てた功績により、給事中に任ぜられた。後に揚烈将軍を加えられた。武定の初年に卒した。

翼の弟の述は、字を君義という。武定の末年に、廷尉少卿であった。

述の弟の詢は、字を景文という。尚書起部郎であった。

史評

史臣が曰く、高敬侯(高湖)は才識と見識が明らかで遠大であり、機を見て行動し、身も名もともに栄え、代々にわたり人傑を輩出した。これは天の助けによるものである。崔逞は文学と器量・識見に優れ、当時の俊英であったが、遠慮深く些細なことを軽んじたため、ともに禍となった。賾(崔賾)はこのような美しい功業があったが、その世は長く続かなかった。封懿は全うされたことを幸いとし、回(封回)はかえって家を光栄させた。世に人材が乏しくなることはなかった。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻32