于栗磾は代の人である。左右に騎射をよくし、武芸は人に優れていた。登国の年中、冠軍将軍に拝され、新安子を仮授された。後に寧朔将軍公孫蘭と共に歩騎二万を率い、密かに太原より韓信の故道に従い井陘の路を開き、中山において 慕容 宝を襲撃した。やがて車駕が後から到着し、道路が整備されているのを見て大いに喜び、直ちにその名馬を賜った。趙魏が平定されると、太祖は酒宴を設けて盛会を催し、栗磾に言うには、「卿は即ち我が黥彭である」と。金帛を大いに賜り、新安公に進めて仮授された。太祖が白登山で狩りをし、熊が数頭の子を連れているのを見て、栗磾を顧みて言うには、「卿の勇猛剛健はこのようであるが、果たしてこれを搏つことができようか」と。これに対し、「天地の性、人を貴しとす。もし搏って勝たなければ、豈に虚しく一壮士を斃さざらんや。自らこれを御前に駆り致し、坐してこれを制すべきなり」と答えた。間もなく皆擒獲した。太祖は顧みてこれを謝した。永興年中、関東の群盗が大いに起こり、西河が反叛した。栗磾は命を受けて征伐し、向かう所皆平定し、即ち本号をもって平陽に留鎮した。鎮遠将軍に転じ、河内鎮将となり、新城男の爵を賜った。栗磾は新たな邦を撫導し、甚だ威恵があった。
劉裕が姚泓を伐つに当たり、栗磾はその北擾を慮り、遂に河上に塁を築き、自ら守った。禁防は厳密で、斥候も通じなかった。裕はこれを甚だ憚り、前進を敢えてしなかった。裕は栗磾に書を遺し、遠く孫権が関羽を討つことを求めた故事を引き、西上への仮道を請い、書に題して「黒矟公の麾下」と記した。栗磾は状況を表して上聞し、太宗はこれを許し、因って黒矟将軍を授けた。栗磾は黒矟を好んで持ち自ら標とし、裕はこれを見て異とし、故にこの言葉があったのである。奚斤が虎牢を征するに当たり、栗磾は別に率いる所の部を率いて金墉において徳宗(東晋安帝)の河南太守王涓之を攻め、涓之は城を棄て遁走した。 豫 州 刺史 に遷り、将軍は元の如く、新安侯に爵を進めた。 洛陽 は歴代の都たりしも、久しく辺裔たり、城闕は蕭條として、野に煙火無し。栗磾は榛荒を刊闢し、労来安集した。徳刑既に設けられ、甚だ百姓の心を得た。太宗が南幸して盟津に至り、栗磾に言うには、「河に橋をかけることはできようか」と。栗磾は言う、「杜預が橋を造りし遺事、想い得べし」と。乃ち大船を編次し、冶坂に橋を構えた。六軍既に済り、太宗は深くこれを歎美した。
世祖が 赫連 昌を征するに当たり、栗磾に勅して宋兵将軍・交趾侯周幾と共に陝城を襲撃させた。昌の弘農太守曹達は戦わずして走った。勝に乗じて長駆し、仍って三輔に至った。爵を公に進め、安南将軍を加えられた。統万を平らげ、蒲坂鎮将に遷った。時に弘農・河内・上党の三郡に賊が起こり、栗磾はこれを討った。虎牢鎮大将に転じ、河内軍の督を加えられた。尋ねて使持節・ 都督 兗相二州諸軍事・鎮南将軍・枋頭都将に遷った。又、外都大官となり、刑を平らげ獄を折り、甚だ声稱があった。卒す、年七十五。東園祕器・朝服一具・衣一襲を賜う。 太尉 公を贈られた。
栗磾は少より戎を治め、白首に至るまで、事に臨んで善く断じ、向かう所前に敵無し。加之、謙虚に士に下り、刑罰を濫らず。世祖は甚だこれを悼惜した。
子の洛拔、爵を襲ぐ。少にして功臣の子として、侍御中散に拝された。姿容有り、応対を善くし、恭慎小心たり。世祖は甚だ愛寵を加え、因って名を賜う。車駕が征討する時は、常に侍 衞 に在り、監御曹事を領することを擢げられた。涼州征討に従い、既に平定し、奴婢四十口を賜い、監御曹令に転じた。恭宗が東宮に在りし時、厚く礼遇を加えられたが、洛拔は恭宗は儲君たりといえども、宜しく逆に自ら結納すべからずとし、常に畏避屏退し、左遷されて候宮曹事を領した。間もなく、爵を襲ぐ。出でて使持節・ 散騎常侍 ・寧東将軍・和龍鎮都大将・営州刺史となる。治めに能名有りて、安東将軍に号を進められた。又、外都大官となる。会に隴西屠各の王景文等が険を恃み命を窃かにし、私に王侯を署す。高宗詔して洛拔に南陽王恵寿と共に四州の衆を督してこれを討平せしめ、その悪党三千余家を趙魏に徙す。転じて 侍中 ・殿中 尚書 に拝される。 尚書令 に遷り、侍中は元の如し。朝に在りて祗肅、百僚これを憚る。太安四年に卒す、時に年四十四。洛拔に六子有り。
長子の烈、射を善くし、言少なく、犯すべからざる色有り。少にして羽林中郎に拝され、羽林中郎将に遷る。延興初め、勅せられて寧光宮の宿 衞 事を領す。屯田給納に遷る。
太和初め、秦州刺史尉洛侯、雍州刺史・宜都王目辰、 長安 鎮将陳提等、貪残にして法に背く。烈は詔を受けて案験し、皆贓罪を獲、洛侯・目辰等は皆大辟に致され、提は辺に徙すに坐す。仍って本官をもって秦雍二州の事を行ふ。司 衞 監に遷り、禁旅を総督す。中山への行幸に従い、車駕還りて肆州に次す。 司空 苟頹、表して沙門法秀が百姓を詃惑し、潜かに不軌を謀るという。詔して烈と吏部尚書〈闕〉丞祖に馳驛してこれを討たしむ。会に秀は既に平らげられ、左 衞 将軍に転じ、昌国子の爵を賜う。殿中尚書に遷り、帛三千匹を賜う。時に高祖幼冲、文明太后称制、烈と元丕・陸叡・李沖等は各々金策を賜わり、罪有りとも死せざることを許される。 散騎常侍 を加えられ、前将軍に遷り、洛陽侯に爵を進む。尋ねて 衞 尉卿に転ず。駕に従い南征し、鎮南将軍を加えられる。
洛陽に遷都せんとするや、人情本を恋い、多く異議有り。高祖、烈に問うて曰く、「卿の意は云何」と。烈曰く、「陛下の聖略淵遠、愚管の測る所に非ず。若し心を隠して言わば、遷を楽むのと旧を恋うるとは、唯だ中半のみ」と。高祖曰く、「卿既に異を唱えず、即ち是れ同なり、言わざるの益を深く感ず。宜しく且く旧都に還り、以て代邑を鎮むべし」と。勅して留臺の庶政を、一に相参委す。車駕代に幸し、烈の手を執りて曰く、「宗廟は至重、翼 衞 は軽からず、卿まさに霊駕を祗奉し、時に洛邑に遷すべし。朕この事を以て卿に託顧す、重からざるに非ず」と。烈は高陽王雍と共に神主を洛陽に奉遷し、高祖その勳誠を嘉し、光祿卿に遷す。
十九年、百僚を大選し、烈の子登は例を引いて進を求む。烈表して曰く、「臣は上には或いは近臣たり、下には一人を決して引かず、〈疑〉にして恩は分外に出ず、栄祿を荷うことを冀う。当今聖明の朝、理応に謙譲すべく、然るに臣子登は人を引いて進を求む、是れ臣素より教訓無きなり、請うて黜落を乞う」と。高祖曰く、「此れ乃ち有識の言なり、烈の能く此れを弁ずるを謂わざりき」と。乃ち登を引見し、詔して曰く、「朕今新邑に礼を創し、天下に明揚す。卿が父は乃ち謙譲の表を行い、而して直士の風有り、故に卿を進めて太子翊軍 校尉 と為す」と。又た烈に 散騎常侍 を加え、聊城県開国子に封じ、食邑二百戸。
穆泰・陸叡が旧京にて謀反せんとするや、高祖代に幸し、泰等は法に伏す。烈及び李沖に璽書を賜い、金策の意を述ぶ。語は陸叡伝に在り。是の逆に、代郷の旧族、同悪する者多し、唯だ烈の一宗のみ、染預する所無し。高祖その忠操を嘉し、益々これを器重す。歎じて曰く、「元儼は威恩を決断し、深く自ら悪しからずとす、然れども臣として忠を尽くし猛決するは、烈に如かず。爾の日烈が代都に在らば、必ず即ち其の五三元首を斬らん。烈の節概、金日磾に謝せず」と。
詔を下して領軍将軍を兼ねさせた。本官のまま荊沔の征討に従い、鼓吹一部を加えられた。高祖は彭城王元勰に言った、「烈は先朝の旧徳であり、智勇兼備し、軍の大計は共に参決すべきである」と。宛鄧が平定されると、車駕は洛陽に還り、功績を論じて 散騎常侍 ・金紫光禄大夫を加えた。二十三年、蕭宝巻がその太尉陳顕達を派遣して馬圏に侵入させた。高祖は病躯を押してこれに赴き、烈の手を執って言った、「都邑は空虚であり、防衛は重んずべきである。二宮を鎮衛し、遠近の望みを安んぜよ」と。顕達が敗走し、高祖は行宮で 崩御 した。彭城王元勰が六軍を総べ、凶事を秘して帰還し、詔を称して世宗を魯陽で車駕に会わせようとした。烈に留守の重任を託し、密かに凶報を伝えた。烈は行留を処分し、神色を変えなかった。
世宗が即位すると、寵任は以前の通りであった。咸陽王元禧が宰輔となり、当時権勢が重かった。かつて家僮を遣わして烈に伝言させた、「旧来の羽林虎賁に仗を執らせて出入りさせたいので、領軍は差配してほしい」と。烈は言った、「天子は諒闇中であり、政事は宰輔に帰する。領軍は宿衛を典掌するのみを知り、詔があれば敢えて違わないが、私的に与える道理はない」と。奴は茫然として帰り、烈の言葉を伝えて禧に報告した。禧は再び烈に謂って言った、「我は天子の子、天子の叔父であり、元輔の命令は詔とどう違うのか」と。烈は厳しい顔色で答えて言った、「先ほども王が天子の子・叔父でないとは言わなかった。もし詔であるなら、官人を遣わすべきである。私奴を遣わして官家の羽林を求めることなど、烈の首は得られようが、羽林は得られない」と。禧は烈の剛直を憎み、ついに彼を外すことを議し、使持節・ 散騎常侍 ・征北将軍・恒州刺史を授けた。烈は藩鎮への任命を望まず、頻りに上表して停止を乞うたが、常に優れた返答で許さなかった。烈はついに彭城王元勰に言った、「殿下は先帝の南陽の詔を忘れたのか。老夫を逼ってここに至らせるとは」と。そこで病気を理由に固辞した。
世宗は禧らの専横を憎み、密かに彼らを廃そうと謀った。ちょうど二年正月の礿祭の時、三公は皆廟で斎戒していた。世宗は夜に烈の子の忠を召して言った、「卿の父は忠允貞固にして、 社稷 の臣である。明朝早く入朝せよ、処分があるであろう」と。忠は詔を奉じて退出した。夜明けに、烈が到着すると、世宗は詔して言った、「諸父は怠慢で、次第に任に堪えなくなった。今、卿に兵を率いて彼らを召させたいが、卿は行くか」と。烈は答えて言った、「老臣は累朝に仕え、やや幹勇をもって認められてきた。今日の事は、敢えて辞する所ではない」と。そこで直閤以下六十余人を率い、旨を宣して咸陽王元禧・彭城王元勰・北海王元詳を召し、護衛して帝の前に送った。諸公は各々稽首して政権を返上した。烈を 散騎常侍 ・車騎大将軍・領軍とし、爵を侯に進め、邑三百戸を増やし、前の分と合わせて五百戸とした。これより長く禁中に直し、機密の大事は皆参与した。
太尉・咸陽王元禧が謀反を企てた時、武興王楊集始が北邙に馳せて告げた。当時、世宗は野で狩猟しており、左右は分散し、直衛は僅かで、倉卒の際、計略の出所を知る者がなかった。そこで烈の子の忠に馳せて虚実を探らせた。烈は当時留守をしており、既に処分して備えがあった。忠の奏上を通じて言った、「臣は朽ち果てているが、心力はまだ保っている。このような猖狂な輩は、慮うに足りません。どうか車駕を緩やかに徐行して還られ、人々の望みを安んじてください」と。世宗はこれを聞き、大いに慰悦した。車駕が宮に還ると、禧は既に逃亡していた。詔して烈に直閤の叔孫侯に虎賁三百人を率いさせて追捕させた。
順后が立つと、世父としての重みから、ますます優礼を受けた。八月、急病で卒去した。時に六十五歳。世宗は朝堂で哀悼し、東園第一の秘器、朝服一具、衣一襲を給し、銭二百万、布五百匹を賜った。使持節・侍中・大将軍・太尉公・雍州刺史を追贈し、鉅鹿郡開国公を追封し、邑五百戸を増やし、前の分と合わせて千戸とした。烈には五子があった。
長子の祚、 字 は万年。太和年間、中散となり、次第に恒州別駕に遷った。父の爵を襲った。仮節・振威将軍・沃野鎮将を拝命したが、貪残で多くの収賄を受けた。官を免ぜられ、公の爵位のまま邸に戻った。卒去し、平州刺史を追贈された。
祚の子の若、爵を襲った。酒の過ちが多く、叔父の景に殴り殺された。子の順が襲った。卒去し、子の馥が襲った。
祚の弟の忠、字は思賢、本字は千年。弱冠で侍御中散に拝された。文明太后が臨朝すると、刑政は頗る峻烈で、侍臣左右は、多く微細な過失で罪を得た。忠は朴直で言葉少なく、終始過誤が無かった。太和年間、武騎侍郎を授かり、名を登と賜った。太子翊軍 校尉 に転じた。
世宗が即位すると、長水 校尉 に遷った。まもなく左右郎将を拝し、直寝を兼ねた。元禧が乱を謀った時、車駕は外におり、変事は倉卒に起こり、行くべき所を知らなかった。忠が進言して言った、「臣は代々殊寵を受け、心は王室に在ります。臣の父領軍は、留守の重責を託され、防遏の策は既にあり、必ず慮う所はありません」と。世宗は直ちに忠に馳せて視察させたが、烈は兵を分けて厳重に備え、果たして忠の推量の通りであった。世宗が宮に還ると、背中を撫でて言った、「卿はやや人意に強いる所がある」と。帛五百匹を賜った。また言った、「先帝は卿に名を登と賜ったが、誠に美称である。朕は卿の忠款を嘉し、今卿の名を忠と改める。貞固の誠を表すと共に、名実相副わせる所以でもある」と。
父の喪で職を去った。間もなく、本官に復帰した。 司空 長史に遷った。当時、 太傅 ・録尚書・北海王元詳は親貴で権勢が重く、将作大匠の王遇は多く詳の欲する所に従って物資を供給した。後にある公事の際、忠は詳の前で王遇に言った、「殿下は国の周公であり、王室を阿衡なさるお方です。必要な材用は、自ら旨に関わるべきであり、どうして阿諛して勢いに附き、公を損ない私を恵むことがありましょうか」と。遇は落ち着かず、詳もまた慚じて謝した。征虜将軍に遷り、その他の官は元の通りであった。元禧平定の功により、魏郡開国公に封ぜられ、食邑九百戸を与えられた。まもなく 散騎常侍 に遷り、武衛将軍を兼ねた。常に鯁直な気性と正しい言論をもって、北海王元詳の憤りを買い、面と向かって忠を責めて言った、「我は前にて汝の死を見ることを憂え、汝が我の死を見る時を憂えぬ」と。忠は言った、「人は世に生まれる以上、自ら定分がある。もし王の手にて死すべきなら、避けても免れない。もしそうでなければ、王は殺せない」と。詳は忠が上表して爵位を譲ろうとした際、密かに世宗に勧めて忠を列卿とし、左右の職を解かせ、その爵位譲りを聴き届けさせた。そこで詔してその封を停め、優遇して太府卿に進めた。
正始二年(505年)の秋、詔により于忠は本官のまま使持節・兼侍中とされ、西道大使となり、刺史や鎮将で贓罪が顕著な者は、その状況を上申して報告させ、守令以下の者は即座に処断する権限を与えられた。撫軍将軍・尚書の李崇と分かれて二道に出使した。于忠は 并州 刺史の高聡の贓罪二百余条を弾劾し、大辟の刑に処するよう論じた。帰還後、平西将軍・華州刺史に任じられたが、継母の喪に遭い、赴任しなかった。喪が明けると、安北将軍・相州刺史を授けられた。さらに衛尉卿、河南邑中正となった。詔により于忠は吏部尚書の元暉・度支尚書の元匡・河南尹の元萇らと共に、代の方姓族(代北の氏族)を評定した。高肇はその人となりを忌み、密かに中央から出そうと考え、世宗(宣武帝)に進言して、中山は要鎮であり、防衛には人材が必要であり、于忠の器量才能をもってすれば、その地位にふさわしいと称した。そこで于忠は安北将軍・定州刺史として出されることとなった。世宗はその後これを悔い、再び衛尉卿とし、左衛将軍・恒州大中正を兼任させた。密かに中使を遣わし詔して言うには、「近頃股肱の臣を失い、心膂を託すべき者がいない。地方の重任は重いとはいえ、これ(中央の職務)に比べれば軽い。故に外任を止め、内務を委ねる。夙夜怠ることなく勤め、朕の期待に応えよ」と。延昌初年(512年)、都官尚書に任じられ、平南将軍を加えられ、左衛将軍・中正の兼任はもとのままとした。さらに 散騎常侍 を加えられた。かつて侍宴の際、剣と杖を賜り、酒を挙げて于忠に告げて言うには、「卿は代々貞節を保ってきた故に、常に禁衛を任せてきた。かつて卿が忠を行うとして、名を忠と賜った。今、卿の才が侮りを防ぐに堪えるとして、朕が用いる剣杖を賜る。名に循り義を取れば、その意は軽からぬものがある。出入りし周旋する際、常に自らを防衛せよ」と。于忠は頓首して謝した。侍中・領軍将軍に遷ると、于忠は面と向かって辞退を申し出て言うには、「臣に学識がなく、文武の任を兼ねるには堪えません」と。世宗は言った、「当今、学識があり文才のある者は少なくないが、心の直さでは卿に及ぶ者はいない。卿に下で労苦をさせよう、我は上で憂いなきを得るのだ」と。
世宗が崩御すると、夜中に侍中の崔光と共に右衛将軍の侯剛を遣わし、東宮で粛宗(孝明帝)を迎えて即位させた。于忠は門下省で議し、粛宗が幼年で、まだ機政に親しまないため、太尉・高陽王元雍は尊属で声望が重いので、西柏堂に入って庶政を省み決裁すべきであり、任城王元澄は明徳があり親族として優れているので、 尚書令 とし、百揆を総摂させるべきであるとした。奏上して中宮(霊太后)に請い、即時に勅授するよう求めた。御史中尉の王顕は奸計を逞しくしようとし、中常侍・給事中の孫伏連らと共に厳しい顔色で聞き入れず、門下省の奏を留めた。宮中の侍中・黄門らは、ただ六輔(輔政大臣)の姓名を記した文書を持参させた。孫伏連らは密かに太后の令を偽造しようとし、高肇に録尚書事をさせ、王顕と高猛を侍中にしようとした。于忠は即座に殿中で王顕を捕らえて殺した。
于忠は門下省に居るとともに、禁衛を総管したため、遂に朝政を執り、権勢は一時に傾いた。初め、太和年間(477-499年)は軍国多事であり、高祖(孝文帝)は用度不足のため、百官の禄を四分の一減らした。于忠は権を擅にした後、恩恵をもって自らの地位を固めようとし、減らされた禄を全て元に戻し、職人には位一級を進めた。旧制では、天下の民は絹布一匹の他に、それぞれ綿麻八両を納めていたが、于忠はこれを全て免除した。于忠は高陽王元雍に申し出て、世宗が本来優れた転任を約束していたと自称した。元雍は于忠の威権を恐れ、その意に従い、于忠に車騎大将軍を加えた。于忠は新旧の君主の交替の際に、社稷を安定させる功績があったと自任し、百官をほのめかし動かして、自分への恩賞を加えさせた。そこで太尉の元雍・清河王元懌・広平王元懐はその意に逆らい難く、于忠を常山郡開国公に封じ、食邑二千戸とすることを議した。百官は皆これを当然とした。于忠はまた独りで受けることを難しく思い、朝廷をほのめかして、同じく門下省にいた者皆に封邑を加えさせた。尚書左 僕射 の郭祚と尚書の裴植は于忠の権勢が日増しに盛んになるのを見て、元雍に于忠を外すよう勧めた。于忠はこれを聞き、役人に迫って彼らの罪を誣告させた。郭祚には師傅の旧恩があり、裴植は領地を携えて国(北魏)に帰順した者であったが、于忠はともに詔を偽って彼らを殺した。朝野は憤り怨み、歯ぎしりしない者はなく、王公以下、その影にすら恐れをなした。さらに高陽王元雍を殺そうとしたが、侍中の崔光が固く執り成したため、止め、元雍の太尉を免じて王爵のまま邸宅に帰らせた。この後より、詔命や生殺の権は、全て于忠から出るようになった。
霊太后を皇太后と尊び、崇訓宮に住まわせると、于忠は儀同三司・ 尚書令 ・崇訓衛尉を兼任し、侍中・領軍将軍はもとのままとした。霊太后が臨朝すると、于忠の侍中・領軍将軍・崇訓衛尉を解き、儀同三司・ 尚書令 のみとし、侍中を加えた。于忠が 尚書令 となって十余日後、霊太后は門下省の侍官を崇訓宮に引き入れ、問うて言った、「于忠は 尚書令 の要職にあるが、その評判はどうか」と。皆が言うには、「その位にふさわしくありません」と。そこで于忠を使持節・ 都督 冀定瀛三州諸軍事・征北大将軍・冀州刺史として出した。太傅の清河王元懌らが上奏して言うには、「窃かに思うに、先帝が崩御された初め、皇上が即位された始め、四海は静謐であり、宇内は平穏清寧であった。乗輿を奉迎し、省闥を侍衛したことは、これ臣子の常節、職司の恒理であり、これをもって功とし、妄りに封邑を開くことは許されない。臣らが前に広く茅土を建てることを議したのは、正に威権を畏れ迫られ、暴戾を苟くも免れようとした故である。そこで内議の際、十三日の夜に宮中に入ったことは功とは認められないとした。ただ偽りの令に拒み違い、奸回の者を抑え黜けたことのみ、微かに褒め記すに値する。以前、侍中の臣于忠が文武を総摂し、侍中の臣崔光が久しく枢密に在ってその意に賛同した故に、唯この二人を賞したのである。今、尚書の臣元昭らが際限なく上訴し、勅を奉じて重ねて議する。案ずるに、王顕は陰に奸徒と結び、不逞を志し、高肇は遠く凶逆と同調し、遥かに禍端を構えた。無将の罪は、事汚戮に合う。然るに于忠らが罪を問うたのは、ただその身のみであり、妻子まで戮するには至らず、また罪人を出し、窮めて治めることを尽くさなかった。律に準え憲を案ずれば、事軽からざるに在る。また皇上が曆を纂ぎ、聖后が別宮にあって、母子が隔絶し、温清の道が絶えたことは、皆于忠らの咎である。過失はその勲功に比べ、功は微かで罪は重い。さらに于忠が専権した後、枢納(枢機近臣)を擅に殺し、宰輔を輒くも廃し、朝野をして心を駭かせ、遠近をして怪愕させた。功過相い除けば、悉く賞に合わず。請う、悉く追奪せられんことを」と。霊太后はこれに従った。
熙平元年の春、御史中尉の元匡が上奏して言うには、「臣は聞く、主君に仕える者は幽貞をもって心を改めず、上に奉ずる者は𧼈捨をもって節を損なわずと。これにより秦の宮に倚って慟哭し、楚を復する功は既に多し。盧龍に陟りて勤を樹て、魏を広むる勲は浅からず。しかるに申包は賞を避け、君子ここにおいて之を義とす。田疇は命を拒み、良史これによりて美を称す。窃かに思うに、宮車晏駕し、天人位易るは、正に忠臣孝子が節を致す秋なり。前領軍将軍の臣忠は名行を砥礪し、自ら多福を求むる能わず、方に矯制に因り、擅に相除假し、清官顕職、歳月隆崇す。臣ら藩に在るの時、乃ち心家国にあり、書誚往来し、憤気疚を成す。礼を傷け徳を敗るは、臣忠即ち主なり。謹んで案ずるに、臣忠は世に鴻勳盛徳を以て、累朝に遇を受け、出入承明し、左右機近す。幸いに国大災に遭い、其の愚戇を肆し、朝命を専擅し、人臣の心無し。裴郭は既往に冤を受け、宰輔は明世に黜辱せらる。又自ら矯旨して儀同三司・ 尚書令 ・崇訓 衞 尉を領と為し、其の此の意を原れば、便ち上無く自ら処せんと欲す。既に事は恩後に在り、宜しく顕戮を加うべし。御史一人、令史一人を請い、州に就きて行決せしめよ。崔光は忠と雖も同召を受け、而して光は既に儒望、朝の礼宗、心を摂し虚遠に在り、世務に関せずと謂う。但し忠は光の意望崇重を以て光を逼り、光若し同ぜずんば、又危禍有らん。伏して度るに、二聖欽明、深く昭恕を垂れたまえり。而して去歳正月十三日世宗晏駕以後、八月一日皇太后未だ親覧せざる以前、諸に階級に由らずして権臣命を用い、或は門下詔書を発し、或は 中書 宣勅に由り、擅に相拜授する者は、既に恩宥を経たり、正に其の叨竊の罪を免ずるに可し。既に時望に非ず、朝野知る所、階を冒して進む者は、並びに追奪を求むべし」。霊太后令して曰く、「直繩の糾す所、実に朝憲に允ず。但し忠の事は肆宥を経、又特原を蒙り、追罪すべからず。余は奏の如し」。又詔して曰く、「忠は往年大 諱 の際、邑土を開崇せり。然れども庸を酬いる理乖れ、有司執り奪う。豈に一謬を以て、其の余勲を棄つべけんや。但し忠其の任禁要に在り、誠節皎然たり、宜しく山河を褒錫し、以て其の望を安んずべし。霊寿県開国公と為し、邑五百戸を賜うべし」。
初め、世宗崩御の後、高太后将に霊太后を害せんとす。劉騰以て侯剛に告ぐ。剛以て忠に告ぐ。忠計を崔光に請う、光曰く、「宜しく胡嬪を別所に置き、厳しく守 衞 を加うべし、理必ず万全、計の上なる者なり」。忠等之に従い、具に此の意を以て霊太后に啓す、太后意乃ち安んず。故に太后深く騰等四人を徳とし、並びに寵授有り。忠は之を毀る者多きを以て、禍を免れざるを懼る。京師に還らんことを願い、自ら営救せんと欲す。霊太后許さず。二年四月、尚書右僕射を除き、侍中を加え、将軍は旧に如し。
神亀元年三月、復た儀同三司と為す、疾病にて未だ拝せず、裴郭の祟り為るを見る。忠自ら必ず死すべきを知り、表して曰く、「先帝臣が父子一介の誠を録し、臣が家世奉公の節を昭かにし、故に之に婚姻を以て申し、之に爵祿を以て重くし、乃ち位は三槐に亜ぎ、秩は九命に班すに至る。大明利見の始より、百官総己の初めより、臣復た猥りに禁戎を摂し、内外を緝寧するを得たり、斯れ誠に社稷の霊、兆民の福、臣何の力か之有らん。但し陛下叡明を以て宇を御し、皇太后聖善を以て朝に臨み、衽席遺さず、簪屨棄てず、復た乃ち寵は出内に窮まり、栄は宮闈に遍く、外に両河を牧し、内に百揆に参ず。顧みて服すれば妖を知り、躬を省みて戾を識る。而して臣将に慎む方靡く、茲の痾疚を致す。去秋より痢に苦しみ、纏綿して今に至り、薬石備嘗し、日増して損無し。又今年已来、力候転悪し、微喘緒息し、振復良く難し。鴻慈未だ酬いず、枕に伏して涕咽す。臣薄福にして男無く、遺体嗣ぐ莫く、余生に貪り及び、謹んで宿抱を陳ず。臣先に亡き第四弟第二子の 司徒 掾永超を養いて子と為す、猶子の念実に心に切なり、立って嫡と為し、此の山河を伝えんことを乞う」。霊太后令して曰く、「于忠の表此の如し。既に誠勳録むべく、又子無くして矜むべし。臨危の祈る所、致奪を容れず、特に請の如く聴き、以て殊効を彰すべし」。忠薨ず、年五十七。東園祕器・朝服一具・衣一襲・銭二十万・布七百匹・蠟三百斤を給し、侍中・ 司空 公を贈る。有司奏す、「太常少卿元端議す、忠剛直猛暴、専戇にして殺を好む、 諡 法を案ずるに剛強理直を『武』と曰い、威を怙て肆行を『醜』と曰う、宜しく武醜公と諡すべし。太常卿元脩義議す、忠尽心して上に奉じ、凶逆を剪除す、諡法に依れば偽を除き真を寧ぐを『武』と曰い、夙夜恭事を『敬』と曰う、武敬公と諡すべし。二卿同じからず」。事奏す、霊太后令して曰く、「正卿の議に依るべし」。
于氏は曾祖より四世貴盛、一皇后、四贈三公、領軍・ 尚書令 、三開国公。忠の性多く猜忌、勝己と交わらず、唯だ直閤将軍章初瓌・千牛備身楊保元と断金の交わりを為す。李世哲忠に寵を求め、私に金帛宝貨を以て初瓌・保元に事え、初瓌・保元之を談じ、遂に賞愛被り、腹心と為して引かる。忠権を擅にし昧進するは、崇訓の由る所、皆世哲の計なり。忠の後妻は中山王尼須の女、微かに詩書を解し、霊太后朝に臨み、引いて女侍中と為し、号を范陽郡君と賜う。
永超は名を翻と曰い、爵を襲う。尋いで卒す。
子世衡、襲う。斉禅を受け、例に降る。
忠の弟景、字は百年。司州従事より、稍く遷りて歩兵 校尉 ・寧朔将軍・高平鎮将。貪残受納に坐し、御史中尉王顯の弾する所と為り、赦に会い免る。忠薨ずる後、景は武 衞 将軍と為る。元叉を廃せんと謀り、叉之を黜して征虜将軍・懐荒鎮将と為す。及び 蠕蠕 の主阿那瓌叛亂するに及び、鎮民固より糧廩を請う、而して景与えず。鎮民其の忿に勝えず、遂に反叛す。景及び其の妻を執縛し、別室に拘守し、皆其の衣服を去り、景に皮裘を著せしめ、妻に故絳襖を著せしむ。其の毀辱被る此の如し。月余りにして、乃ち之を殺す。
烈の弟敦、中散より遷りて 驍 騎将軍。景明中、節を仮し、 并 州事を行い、征虜将軍・恒州刺史を除く。官に卒し、使持節・平北将軍・恒州刺史を贈る。
子昕、員外郎、直後、主衣都統、揚烈将軍、懐朔・武川鎮将、中散大夫。孝昌中、蠕蠕に使いし、阿那瓌と逆賊破洛汗聽明・出六斤等を擒う。転じて輔国将軍・北中郎将・恒州大中正。又遷りて撫軍将軍・ 衞 尉卿。出でて鎮東将軍、殷・恒州刺史と為る。還りて征東将軍を拝し、左右を領す。天平中卒す。 都督 冀定州諸軍事・ 衞 将軍・尚書僕射・儀同三司を贈り、諡して文恭と曰う。
長子揚仁。武定中、勃海太守。
揚仁の弟叉羅、字は仲綱。中軍将軍・光州刺史。
叉羅の弟子栄、魯郡太守。
敦の弟果、厳毅直亮、父兄の風有り。中散より稍く遷りて光禄大夫、尚書を守り、爵を武城子と賜う。太和中、朔・華・ 并 ・恒の四州刺史を歴任す。
子の礫は、爵を襲う。太子舎人、通直 散騎常侍 となる。卒し、右将軍・洛州刺史を追贈され、諡して哀という。
子の暉は、征東将軍・金紫光禄大夫となる。
暉の弟の道揚は、儀同開府諮議参軍となる。
礫の弟の祇は、 司徒 掾の任にて卒す。鎮遠将軍・朔州刺史を追贈され、諡して悼という。
祇の子の元伯は、中散大夫となる。
果の弟の勁は、事績は外戚伝にある。
勁の弟の須は、中散となる。長水 校尉 に遷り、やがて武衛将軍・太府卿・鎮南将軍・肆州刺史に遷る。卒し、侍中・車騎大将軍・尚書右僕射・儀同三司を追贈される。(闕)冀州長史となる。卒し、征南将軍・燕州刺史を追贈され、諡して武という。
子の翊は、太尉従事中郎・燕州刺史となる。
子の長文は、字は士端。武定年間、尚書考功郎となる。
須の弟の文仁は、太中大夫となる。
史臣が曰く、魏が 中原 を定めたのは、于栗磾が三世にわたって武功を立てたことによる。兼ねて虚心で人に接し、罰を濫りに加えなかったことも、これまた諸将の希うところであった。于拔は内外の職を兼任し、能ある名を顕わす。于烈の気概は沈着にして遠大、艱難危険の際に任を受け、柱石の質あり、まさに侮を禦ぐの臣である。于忠は剛直朴訥をもって親しまれたが、その拠るべきでない地位に乗じ、遂に威権を擅にし、生殺を己に任せた。苟くも女主の世でなければ、何をもってその門族を全うし得たであろうか。その誅滅されざるは、抑も天の幸いというべきか。
校勘記