魏書

卷30 王建 安同 樓伏連 丘堆 娥清 劉尼 奚眷 車伊洛等

卷30 王建 安同 樓伏連 丘堆 娥清 劉尼 奚眷 車伊洛等

王建

原文王建

王建は広寧の人である。祖父の妹が平文后となり、昭成皇帝を生んだ。伯父の王豊は帝の舅として貴重とされた。豊の子の王支は昭成皇帝の娘を娶り、甚だ親しく遇された。建は若くして公主を娶った。登国の初め、外朝大人となり、和跋ら十三人と交代で諸事を掌り、計謀に参与した。太祖が濡源に行幸した時、建を使者として慕容垂に遣わすと、言辞と態度が高く昂り、垂はこれを壮とした。帰還して左大夫となった。建の兄の王回は、諸子の多くが法に従わず、建は詳しくその状況を上聞し、回父子は誅殺された。その謹直さはこのようなものであった。諸国の征伐に従い、二十余部を破り、功により奴婢数十口、雑畜数千を賜り、衛辰征伐に従ってこれを破り、僮隸五千戸を賜り、中部大人となった。

原文王建,廣寧人也。祖姑為平文后,生昭成皇帝。伯祖豐,以帝舅貴重。豐子支,尚昭成女,甚見親待。建少尚公主。登國初,為外朝大人,與和跋等十三人迭典庶事,參與計謀。太祖幸濡源,遣建使慕容垂,辭色高亢,垂壯之。還為左大夫。建兄回,諸子多不順法,建具以狀聞,回父子伏誅。其謹直如此。從征伐諸國,破二十餘部,以功賜奴婢數十口,雜畜數千,從征衞辰,破之,賜僮隸五千戶,為中部大人。

参合陂で慕容宝を破るのに従った。太祖は勝に乗じて南夏を席卷せんとし、ここに捕虜の衆を選別し、才能ある者は留め、その余は悉く衣糧を与えて帰そうとし、中州の民に恩徳を知らしめようとした。そこで群臣を召してこれを議した。建は言う、「慕容宝はここで覆敗し、国内は空虚で、これを図るのは容易です。今捕らえて帰すのは、不可ではないでしょうか。かつ敵を放てば患いを生じます。殺すに如かず」。太祖は諸将に言う、「もし建の言に従えば、後世の南人が創傷を受け、その向化の心を絶つことを恐れる。罪を伐ち民を弔う義ではない」。諸将は皆、建の言を正しいとしたが、建はまた固執したので、ついにこれを坑った。太祖は後にこれを悔いた。

原文從破慕容寶於參合陂。太祖乘勝將席卷南夏,於是簡擇俘眾,有才能者留之,其餘欲悉給衣糧遣歸,令中州之民咸知恩德。乃召羣臣議之。建曰:「慕容寶覆敗於此,國內虛空,圖之為易。今獲而歸之,無乃不可乎?且縱敵生患,不如殺之。」太祖謂諸將曰:「若從建言,吾恐後南人創乂,絕其向化之心,非伐罪弔民之義。」諸將咸以建言為然,建又固執,乃坑之。太祖既而悔焉。

後に慕容宝征伐に従い、冠軍将軍に拝された。并州が平定されると、車駕は東に出て井陘を経、建に五万騎を率いて先駆けし道を開かせた。車駕が常山に駐ると、諸郡は皆降ったが、ただ中山・鄴・信都の三城だけが下らなかった。そこで衛王儀を遣わして南の鄴を攻めさせ、建に信都を攻めさせた。各々五万の兵であった。建らは城を六十余日攻めても陥とせず、士卒に傷み多かった。太祖は自ら中山から信都に行幸し、慕容宝の冀州刺史慕容鳳が夜に城を越えて逃げ、信都は降った。車駕は鉅鹿に行幸し、柏肆塢で慕容宝を破り、ついに進んで中山を包囲した。宝は城を棄て和龍に逃げ、城内には主なく、百姓は惶惑し、東門は閉ざされなかった。太祖は夜に入って城に乗り、その門を占拠せんとした。建は貪欲で謀がなく、虜獲を意とし、士卒が掠奪をほしいままにし、府庫を盗み乱すことを恐れ、天明を待つよう請うたので、太祖はやめた。その夜、徒河人が共に慕容普驎を立てて主とし、ついに門を閉じて固守した。太祖は衆を悉くしてこれを攻めたが、連日陥とせず。人を遣わして巣車に登らせ城に臨み、その衆を招いて言う、「慕容宝は城を棄て奔走した。汝ら百姓は誰のために守るのか。天命を識らず、死亡を取るのか」。皆言う、「群小は無知ですが、ただまた参合の衆のようになることを恐れ、故に月日の命を全うしようと求めるだけです」。太祖はこれを聞き、顧みて建を見つめ、その顔に唾した。中山が平定され、建に爵を濮陽公と賜った。烏丸の庫傉官鳴が党を聚めて寇となったので、詔して建に討平させた。太僕に遷り、真定公に徙封され、散騎常侍・冀青二州刺史を加えられた。卒し、金陵に陪葬された。

原文後從征慕容寶,拜冠軍將軍。并州既平,車駕東出井陘,命建率五萬騎先驅啟路。車駕次常山,諸郡皆降,惟中山、鄴、信都三城不下。乃遣衞王儀南攻鄴,建攻信都,眾各五萬。建等攻城六十餘日不能克,士卒多傷。太祖乃自中山幸信都,慕容寶冀州刺史慕容鳳夜踰城走,信都降。車駕幸鉅鹿,破慕容寶於栢肆塢,遂進圍中山。寶棄城走和龍,城內無主,百姓惶惑,東門不閉。太祖將夜入乘城,據守其門。建貪而無謀,意在虜獲,恐士卒肆掠,盜亂府庫,請俟天明,太祖乃止。是夜,徒河人共立慕容普驎為主,遂閉門固守。太祖乃悉眾攻之,連日不拔。使人登巢車臨城,招其眾曰:「慕容寶捐城奔走,汝曹百姓將為誰守?何不識天命,取死亡也?」皆曰:「羣小無知,但復恐如參合之眾,故求全月日之命耳。」太祖聞之,顧視建而唾其面。中山平,賜建爵濮陽公。烏丸庫傉官鳴聚黨為寇,詔建討平之。遷太僕,徙為真定公,加散騎常侍、冀青二州刺史。卒,陪葬金陵。

初め、建の兄の豆居は建の功により爵を即丘侯と賜ったが、子がなく、建は子の斤に兄の爵を襲がせた。太宗の初め、給事中となり、職に任じ事を用いた。大長秋に転じた。世祖が赫連昌を征する時、斤に部して攻具を造らせた。爵を淮南公に進め、平北将軍を加えられた。時に并州の胡酋田卜が謀反して誅され、余衆が不安となり、斤を慮虒に鎮めてこれを撫慰させた。斤は胡・魏を綏静し、甚だ名声を収めた。劉義隆が将の到彦之を遣わして河南を寇すと、世祖は赫連定を西征し、斤を衛兵将軍とし、蒲坂に鎮させた。関隴が平定され、斤は長安に移鎮し、仮節・鎮西将軍となった。斤はついに驕り高ぶり、法度に従わず、左右を信用し、百姓に調役を課し、民はこれに堪えず、南に漢川に奔る者数千家あった。そして罪を雍州刺史陽文祖・秦州刺史任延明に委ねた。世祖は二人を召して問うと、各々状況を以て答えた。世祖は斤に誣えられたことを知り、宜陽公伏樹を遣わして虚実を覆按させ、数十事を得た。ついに斤を斬って示しとした。

原文初,建兄豆居以建功賜爵即丘侯,無子,建以子斤襲兄爵。太宗初,給事中,任職用事。轉大長秋。世祖征赫連昌,遣斤部造攻具。進爵淮南公,加平北將軍。時并州胡酋田卜謀反誅,餘眾不安,遣斤鎮慮虒以撫慰之。斤綏靜胡魏,甚收聲稱。劉義隆遣將到彥之寇河南,世祖西征赫連定,以斤為衞兵將軍,鎮蒲坂。關隴平,斤徙鎮長安,假節、鎮西將軍。斤遂驕矜,不順法度,信用左右,調役百姓,民不堪之,南奔漢川者數千家。而委罪於雍州刺史陽文祖、秦州刺史任延明。世祖召問二人,各以狀對。世祖知為斤所誣,遣宜陽公伏樹覆按虛實,得數十事。遂斬斤以徇。

建の孫の度は、太宗の時に虎牢鎮監軍となった。世祖が即位すると、徴されて殿中給事に拝され、尚書に遷った。赫連昌征伐に従い、蠕蠕を討ち、ともに功があり、爵を済陽公と賜り、散騎常侍・平南将軍を加えられた。詔して度に五千騎を率いて叔孫建と合し、劉義隆の兗州刺史竺霊秀を湖陸で撃たせ、大破した。後に出て長安を鎮め、仮節し、秦・涇・梁・益・雍五州諸軍事を都督し、開府した。卒し、諡して莊といった。

原文建孫度,太宗時為虎牢鎮監軍。世祖即位,徵拜殿中給事,遷尚書。從征赫連昌,討蠕蠕,並有功,賜爵濟陽公,加散騎常侍,平南將軍。詔度率五千騎與叔孫建合擊劉義隆兗州刺史竺靈秀於湖陸,大破之。後出鎮長安,假節,都督秦、涇、梁、益、雍五州諸軍事,開府。卒,諡曰莊。

子の安都が襲封し、爵を降格して侯となった。世祖は太子庶子に拝し、出て鄯善鎮将となった。高宗の時、内都大官となった。卒し、子の買得が襲封した。

原文子安都,襲,降爵為侯。世祖拜為太子庶子,出為鄯善鎮將。高宗時,為內都大官。卒,子買得襲。

建の曾孫の樹は、善射をもって顕祖に寵愛され、内侍長となった。次第に尚書に遷り、爵を歴陽侯と賜り、龍驤将軍・員外常侍を加えられた。出て平西将軍・涇州刺史となった。卒した。

原文建曾孫樹,以善射有寵於顯祖,為內侍長。稍遷尚書,賜爵歷陽侯,加龍驤將軍、員外常侍。出為平西將軍、涇州刺史。卒。

安同

原文安同

安同は遼東の胡人である。その先祖は世高といい、漢の時に安息王の侍子として洛陽に入った。魏から晋に歴り、乱を避けて遼東に至り、ついにそこに家を定めた。父の屈は慕容暐に仕え、殿中郎将となった。苻堅が暐を滅ぼすと、屈の友人公孫眷の妹が苻氏の宮に入り、出されて劉庫仁に賜り妻となった。庫仁はこれを貴び寵愛した。同は眷に従って商販し、太祖に済世の才あるを見て、ついに留まって奉侍した。性質は端厳で明恵、長者の言を好んだ。

原文安同,遼東胡人也。其先祖曰世高,漢時以安息王侍子入洛。歷魏至晉,避亂遼東,遂家焉。父屈,仕慕容暐,為殿中郎將。苻堅滅暐,屈友人公孫眷之妹沒入苻氏宮,出賜劉庫仁為妻。庫仁貴寵之。同因隨眷商販,見太祖有濟世之才,遂留奉侍。性端嚴明惠,好長者之言。

登国の初め、太祖が慕容垂に徴兵した(事は窟咄伝にある)。同は頻りに使して旨に称し、ついに寵異を見、外朝大人とされ、和跋らと禁中に出入りし、交代で諸事を掌った。太祖が功臣に班賜する時、同は使功が多いことを以て、妻妾及び隷戸三十、馬二匹、羊五十口を賜り、広武将軍を加えられた。

原文登國初,太祖徵兵於慕容垂,事在窟咄傳。同頻使稱旨,遂見寵異,以為外朝大人,與和跋等出入禁中,迭典庶事,太祖班賜功臣,同以使功居多,賜以妻妾及隸戶三十,馬二匹,羊五十口,加廣武將軍。

柴壁で姚平を征するのに従った。姚興が衆を悉くして平を救うと、太祖は重囲を増築して興を拒ごうとした。同は進み計を立てて言う、「臣は遣わされて絳に租を督しに行き、汾東に蒙坑があるのを見ました。東西三百余里、径路通ぜず。姚興が来るには必ず汾西から、高きに乗り下に臨み、直ちに柴壁に至るでしょう。このようであれば、寇は内外で勢い接し、重囲は固め難く、制することできません。宜しく汾の曲を截って南北の浮橋とし、西岸に乗じて囲いを築くべきです。西囲が既に固まれば、賊は至ってもその智力を施す所がありません」。これに従った。興は果たして平が屠滅されるのを見て救うことができなかった。謀功により、爵を北新侯と賜り、安遠将軍を加えられた。詔して同に姚興の将越騎校尉唐小方らを長安に送らせた。

原文從征姚平於柴壁,姚興悉眾救平,太祖乃增築重圍以拒興。同進計曰:「臣受遣詣絳督租,見汾東有蒙坑,東西三百餘里,徑路不通。姚興來,必從汾西,乘高臨下,直至柴壁。如此,則寇內外勢接,重圍難固,不可制也。宜截汾曲為南北浮橋,乘西岸築圍。西圍既固,賊至無所施其智力矣。」從之。興果視平屠滅而不能救。以謀功,賜爵北新侯,加安遠將軍。詔同送姚興將越騎校尉唐小方等於長安。

清河王拓跋紹の乱の時、太宗(明元帝)は外におり、夜間に安同に告げて、百工伎巧を収集させると、衆は皆応じて奉迎した。太宗が即位すると、安同に南平公長孫嵩と共に民の訴訟を処理させた。また詔して肥如侯賀護と共に節を持ち、并州・定州二州及び諸山に住む雑胡・丁零を巡視させ、詔を宣べて慰撫し、その疾苦を問い、守宰の不法を糾挙させた。安同は并州に至り、上表して言うには、「ひそかに見るに、并州の管下の守宰は、多く法を奉じない。また刺史は勝手に御府の鍼工古彤を用いて晋陽令とし、財賄を通じ、共に姦利をなしている。律に照らして罪を治めることを請う」と。太宗はこれに従い、ここに郡国は粛然とした。安同は東に出て井陘を経て鉅鹿に至り、四戸に一人の衆を徴発し、大嶺山を治め、天門関を通じようとし、また宋子に塢を築き、以て郡県を鎮静させようとした。賀護は安同が衆心を得ることを憎み、これにより人をして安同が城を築き衆を集め、大事を図らんとしていると告げさせた。太宗は安同が外で勝手に徴発したとして、檻車で徴還し、群官を召してその罪を議させた。皆が言うには、「安同は勝手に事役を興し、百姓を労擾した。厳しく治めて、来たる犯を粛すべきである」と。太宗は安同が専命ではあるが、本意は公のためであり、意に不善はないとして、これを釈放した。

原文清河王紹之亂,太宗在外,使夜告同,令收合百工伎巧,眾皆響應奉迎。太宗即位,命同與南平公長孫嵩並理民訟。又詔與肥如侯賀護持節循察并定二州及諸山居雜胡、丁零,宣詔撫慰,問其疾苦,糾舉守宰不法。同至并州,表曰:「竊見并州所部守宰,多不奉法。又刺史擅用御府鍼工古彤為晉陽令,交通財賄,共為姦利。請案律治罪。」太宗從之,於是郡國肅然。同東出井陘,至鉅鹿,發眾四戶一人,欲治大嶺山,通天門關,又築塢於宋子,以鎮靜郡縣。護疾同得眾心,因此使人告同築城聚眾,欲圖大事。太宗以同擅徵發於外,檻車徵還,召羣官議其罪。皆曰:「同擅興事役,勞擾百姓,宜應窮治,以肅來犯。」太宗以同雖專命,而本在為公,意無不善,釋之。

世祖(太武帝)が監国として臨朝聴政するに当たり、安同を左輔とした。太宗が河南を征した時、安同を右光禄大夫に拝した。世祖が北境を鎮守するため出ると、安同は安定王拓跋弥と共に京師に留まって鎮守した。世祖が即位すると、爵を高陽公に進め、光禄勲を拝した。まもなく征東大将軍・冀青二州刺史を除かれた。安同の長子安屈は、太宗の時に太倉の事を管掌し、官の粳米数石を盗んで親を養おうとした。安同は大いに怒り、安屈を誅戮することを奏請し、自ら子を訓えられなかったことを劾して罪を請うた。太宗はこれを嘉して許し、遂に詔して安同に粳米を長く給することとした。その公清で法を奉ずることは、皆この類である。

原文世祖監國,臨朝聽政,以同為左輔。太宗征河南,拜同右光祿大夫。世祖出鎮北境,同與安定王彌留鎮京師。世祖即位,進爵高陽公,拜光祿勳。尋除征東大將軍、冀青二州刺史。同長子屈,太宗時典太倉事,盜官粳米數石,欲以養親。同大怒,奏求戮屈,自劾不能訓子,請罪。太宗嘉而恕之,遂詔長給同粳米。其公清奉法,皆此類也。

安同は官にあって明察であり、校練に長け、家法は修整されて、世に称された。冀州に在った時は、年老いて、財貨を殖やすこと頗る多く、寺塔を大いに興して、百姓に苦しめられた。神䴥二年に卒した。高陽王を追贈され、諡して恭恵といった。

原文同在官明察,長於校練,家法修整,為世所稱。及在冀州,年老,頗殖財貨,大興寺塔,為百姓所苦。神䴥二年卒。追贈高陽王,諡曰恭惠。

安屈の子安陽烈は、散騎侍郎となり、爵を北新子に賜った。

原文屈子陽烈,散騎侍郎,賜爵北新子。

安屈の弟安原は、雅性で矜厳であり、沈勇で智略多かった。太宗の時に獵郎となり、出て雲中の軍事を監した。時に赫連屈丐が河西を犯すと、安原は数十騎を率いてこれを撃ち、十余人を殺した。太宗は安原が軽敵し、節度に違ったとして、その罪責を加えた。しかし安原の驍勇を知り、遂に将として任用し、雲中を鎮守させた。寛和で下を愛し、甚だ衆心を得た。蠕蠕が屡々塞を犯すと、安原は輒ちこれを摧破した。功により爵を武原侯に賜り、魯兵将軍を加えられた。

原文屈弟原,雅性矜嚴,沉勇多智略。太宗時為獵郎,出監雲中軍事。時赫連屈丐犯河西,原以數十騎擊之,殺十餘人。太宗以原輕敵,違節度,加其罪責。然知原驍勇,遂任以為將,鎮守雲中。寬和愛下,甚得眾心。蠕蠕屢犯塞,原輒摧破之。以功賜爵武原侯,加魯兵將軍。

世祖が即位すると、徴されて駕部尚書を拝した。車駕が蠕蠕の大檀を征する時、軍を五道に分けて並進すると、大檀は驚駭して北に遁走した。尚書左僕射、河間公に遷り、侍中・征南大将軍を加えられた。赫連昌を征するに従い、その城に入って還った。車駕が北伐すると、蠕蠕は遁走した。世祖は東部高車が巳尼陂におり、人畜甚だ衆多であると聞き、襲撃を遣わそうとした。諸将は皆難しと為したが、世祖は従わなかった。安原と侍中古弼に万騎を率いて討たせ、大いに獲て還った。車駕が昌黎を征する時、安原は建寧王拓跋崇と共に漠南に屯して蠕蠕に備えた。

原文世祖即位,徵拜駕部尚書。車駕征蠕蠕大檀,分軍五道並進,大檀驚駭北遁。遷尚書左僕射,河間公,加侍中、征南大將軍。從征赫連昌,入其城而還。車駕北伐,蠕蠕遁走。世祖聞東部高車在巳尼陂,人畜甚眾,將遣襲之。諸將皆以為難,世祖不從。遣原與侍中古弼率萬騎討之,大獲而還。車駕征昌黎,原與建寧王崇屯于漠南以備蠕蠕。

安原は朝に在って比周することはなかったが、寵を恃んで驕恣し、多く排抑した。子のために襄城公盧魯元の女を求めると、盧魯元は許さなかった。安原はその罪状を告げ、事が相連なって逮えられ、時を経ても決しなかった。安原は勝たぬことを懼れ、遂に逆を謀り、事が洩れて誅された。臨刑に上疏して言うには、「臣聞く、聖は独り明らかで治まることなく、鼎は単足で立たず、ここをもって螢火の光も、なお日月の曜りを増すと。先臣安同は、往時に聖運に因り、太祖に帰身し、誠を竭くし力を勠して、険難の中に効を立てた。臣は頑闇をもって、股肱に忝く備わる。陛下の恩育により、朝政を委ねられ、微誠を展べ、恩沢に報いんと思う。しかるに盧魯元姦佞にして、貝錦を構成し、天威遂に加わり、合門俱に戮せられる。これは命なり、臣の枉ちにあらず。但だ盧魯元は外は忠貞に類し、内に姦詐を懐き、しかるに陛下は腹心として任用される。恐らくは釁は肘腋より発せん。臣と盧魯元は生を怨人とし、死を讎鬼とす。私故をもってするにあらず、盧魯元を謗毀する。復た眷眷せず、誠款を披露す」と。

原文原在朝無所比周,然恃寵驕恣,多所排抑。為子求襄城公盧魯元女,魯元不許。原告其罪狀,事相連逮,歷時不決。原懼不勝,遂謀為逆,事洩伏誅。臨刑上疏曰:「臣聞聖不獨明而治,鼎不單足而立,是以熒火之光,猶增日月之曜。先臣同,往因聖運,歸身太祖,竭誠勠力,立効於險難之中。臣以頑闇,忝備股肱。陛下恩育,委以朝政,思展微誠,仰報恩澤。而魯元姦佞,構成貝錦,天威遂加,合門俱戮。此乃命也,非臣之枉。但魯元外類忠貞,內懷姦詐,而陛下任以腹心,恐釁發肘腋。臣與魯元生為怨人,死為讎鬼,非以私故,謗毀魯元。不復眷眷,披露誠款。」

安原の弟安頡、安頡の弟安聡は、内侍となった。安聡の弟安蕯は、龍驤将軍・給事黄門侍郎となり、爵を広宗侯に賜った。安原兄弟は外は節倹であるが、内実は積聚し、誅された後、その財を籍没すると数万に至った。

原文原弟頡,頡弟聰,為內侍。聰弟蕯,為龍驤將軍、給事黃門侍郎,賜爵廣宗侯。原兄弟外節儉,而內實積聚,及誅後,籍其財至數萬。

安頡は、弁慧で策略多く、最も父の風があった。太宗の初め、内侍長となり、百僚を察挙させた。姦慝を糾刺し、回避すること無かった。嘗て父の陰事を告げ、太宗は忠と為し、特に親寵した。

原文頡,辯慧多策略,最有父風。太宗初,為內侍長,令察舉百僚。糾刺姦慝,無所回避。嘗告其父陰事,太宗以為忠,特親寵之。

宜城王奚斤が、長安より赫連昌を追撃し、安定に至ると、安頡は監軍侍御史であった。奚斤は馬多く疫死し、士衆糧乏しいため、深く壘を築いて自ら固めた。太僕丘堆らを遣わして民間に租を督させると、赫連昌に敗れた。赫連昌は遂に驕矜し、日々来たり侵掠し、芻牧する者出で得ず、士卒これを患った。安頡が進み計らうには、「本来詔を奉じて賊を誅すべきところ、今は退き窮城を守る。もし賊に殺されなければ、法をもって誅せられるべきである。進退いずくに生路あらんや。しかるに王公諸将、晏然として謀無し。将に何をもって恩に報い責を塞がんや」と。奚斤は言う、「今もし出戦すれば、則ち馬力足らず、歩をもって騎を撃てば、終に捷理無し。まさに京師の救騎至るを須ち、然る後に歩陳は内にて撃ち、騎兵は其の外を襲うべし。所謂万全の計なり」と。安頡は言う、「今猛寇は外に遊逸し、而して吾らは兵疲れ力屈し、士に飢色あり。一たび決戦せずんば、則ち死は旦夕にあり、何の救兵か待つべきや。等しく死すべくんば、まさに戦死すべし。寧んぞ坐して困を受くべきや」と。奚斤はなお馬を以て言い訳とした。安頡は言う、「今兵は馬無きも、但だ将帥の乗ずる所、足るを得て二百騎あり。安頡、壮勇を募り出撃することを請う。就能わずんば、以て其の鋭を折るべし。且つ赫連昌は狷にして謀無く、毎たび挑戰を好み、衆皆これを識る。もし伏兵して奄かに撃てば、赫連昌は擒うべし」と。奚斤はなお難しとした。安頡は乃ち密かに尉眷らと謀り、騎を選んで待った。赫連昌が来たりて壘を攻めると、安頡は出てこれに応じた。赫連昌は陳前において自ら接戦し、軍士は赫連昌を識り、争いて赴いた。会天大風塵を揚げ、昼昏く、衆乱れ、赫連昌退く。安頡らは追撃し、赫連昌の馬蹶いて墜ちた。安頡は赫連昌を擒え、京師に送った。世祖は大いに悦び、安頡を建節将軍に拝し、爵を西平公に賜り、丘堆に代わって諸軍を統摂させた。奚斤は功己に在らずを恥じ、軽々しく赫連昌の弟赫連定を平涼に追い、敗績した。赫連定は復た長安に入らんとし、詔して安頡に蒲坂を鎮守させてこれを拒がせた。

原文宜城王奚斤,自長安追擊赫連昌,至于安定,頡為監軍侍御史。斤以馬多疫死,士眾乏糧,乃深壘自固。遣太僕丘堆等督租於民間,為昌所敗。昌遂驕矜,日來侵掠,芻牧者不得出,士卒患之。頡進計曰:「本奉詔誅賊,今乃退守窮城,若不為賊殺,當以法誅。進退安有生路?而王公諸將,晏然無謀,將何以報恩塞責。」斤曰:「今若出戰,則馬力不足,以步擊騎,終無捷理。當須京師救騎至,然後步陳擊於內,騎兵襲其外。所謂萬全之計也。」頡曰:「今猛寇遊逸於外,而吾等兵疲力屈,士有飢色,不一決戰,則死在旦夕,何救兵之可待也!等死,當戰死,寧可坐受困乎?」斤猶以馬為辭。頡曰:「今兵雖無馬,但將帥所乘,足得二百騎。頡請募壯勇出擊之,就不能破,可以折其銳。且昌狷而無謀,每好挑戰,眾皆識之。若伏兵奄擊,昌可擒也。」斤猶難之。頡乃陰與尉眷等謀,選騎待焉。昌來攻壘,頡出應之。昌於陳前自接戰,軍士識昌,爭往赴之。會天大風揚塵,晝昏,眾亂,昌退。頡等追擊,昌馬蹶而墜。頡擒昌,送於京師。世祖大悅,拜頡建節將軍,賜爵西平公,代堆統攝諸軍。斤耻功不在己,輕追昌弟定於平涼,敗績。定將復入長安,詔頡鎮蒲坂以拒之。

劉義隆が将到彦之を遣わして衆を率いて河南を寇し、以て赫連定を援けようとした。世祖は兵少ないため、乃ち河南三鎮を摂して北に渡った。到彦之は遂に南岸に列守し、衡関に至った。世祖は西征して赫連定を討つ。安頡を冠軍将軍とし、諸軍を督して到彦之を撃たせた。到彦之は将姚縦夫を遣わして河を渡り冶坂を攻めさせると、安頡は諸軍を督してこれを撃ち、首級三千余を斬り、水に投ずる者甚だ衆かった。遂に河を済み、洛陽を攻め、これを抜き、劉義隆の将二十余人を擒え、首級五千を斬った。虎牢を進攻すると、虎牢潰え、劉義隆の司州刺史尹沖は城より墜ちて死んだ。また琅邪王司馬楚之と共に滑臺を平らげ、劉義隆の将朱脩之・李元德及び東郡太守申謨を擒え、俘獲万余りを得た。乃ち旅を振るって京師に還った。

原文劉義隆遣將到彥之率眾寇河南,以援赫連定。世祖以兵少,乃攝河南三鎮北渡。彥之遂列守南岸,至于衡關。世祖西征赫連定。以頡為冠軍將軍,督諸軍擊彥之。彥之遣將姚縱夫渡河攻冶坂,頡督諸軍擊之,斬首三千餘級,投水者甚眾。遂濟河,攻洛陽,拔之,擒義隆將二十餘人,斬首五千級。進攻虎牢,虎牢潰,義隆司州刺史尹沖墜城死。又與琅邪王司馬楚之平滑臺,擒義隆將朱脩之、李元德及東郡太守申謨,俘獲萬餘人。乃振旅還京師。

神䴥四年に卒した。征南大将軍・儀同三司を追贈され、爵を王に進められ、諡して襄といった。安頡は将として、士衆を綏撫するに善く、卒するに及んで、劉義隆の士卒降る者、歎惜せざるは無かった。

原文神䴥四年卒。贈征南大將軍、儀同三司,進爵為王,諡曰襄。頡為將,善綏士眾,及卒,義隆士卒降者,無不歎惜。

同弟の䐗は、太宗の時に楽陵太守となった。卒した。

原文同弟䐗,太宗時為樂陵太守。卒。

長子の国は、位は冠軍将軍に至り、爵を北平侯に賜り、杏城鎮将となった。

原文長子國,位至冠軍將軍,賜爵北平侯,杏城鎮將。

国の弟の難は、巧みな思慮があった。陽平王杜超が諸将を督して劉義隆を撃つに当たり、難は征南軍事に参じ、功により表されて清河太守となった。世祖の時、諸将が頻りに和龍を征したが、皆難を長史とした。山を穿ち谷を埋め、力を省き功を兼ねた。給事中に遷った。駕に従い南征し、河に浮橋を造り、功により爵を清河子に賜った。卒した。

原文國弟難,有巧思。陽平王杜超督諸將擊劉義隆,難參征南軍事,以功表為清河太守。世祖時,諸將頻征和龍,皆以難為長史。鑿山堙谷,省力兼功。遷給事中。從駕南征,造浮橋於河,以功賜爵清河子。卒。

子の平城は、爵を襲った。官は虞曹令に至った。乙渾に殺された。

原文子平城,襲爵。官至虞曹令。為乙渾所殺。

楼伏連

原文樓伏連

楼伏連は、代の人である。代々酋帥を為した。伏連は忠厚にして器量有り、年十三にして父の位を襲い、部落を領した。太祖の初め、賀蘭部を破るに従った。また中山を平らげるに従い、太守となり、逆賊張翹を斬った。柴壁にて姚平を征するに従い、功により爵を安邑侯に賜った。太祖の時、晋兵将軍・并州刺史となった。伏連は西河の胡曹成ら七十余人を招誘し、赫連屈孑の吐京護軍及びその守士三百余人を襲撃して殺し、併せて叛胡の阿度支ら二百余家を擒えた。太宗はこれを嘉し、成らを将軍に拝し、爵を列侯に賜った。伏連を徴して内都大官とした。世祖即位すると、広陵公に進み、衛尉に転じ、光禄勲に徙った。世祖が蠕蠕を征するに当たり、伏連は京師に留まって鎮し、王に進爵し、平南大将軍を加えられた。また仮節・河西諸軍を督す・鎮西大将軍を除かれ、出て統万を鎮した。真君十年に薨じ、諡して恭王と曰う。

原文樓伏連,代人也。世為酋帥。伏連忠厚有器量,年十三,襲父位,領部落。太祖初,從破賀蘭部。又從平中山,為太守,斬逆賊張翹。從征姚平於柴壁,以功賜爵安邑侯。太祖時,為晉兵將軍、并州刺史。伏連招誘西河胡曹成等七十餘人,襲殺赫連屈孑吐京護軍及其守士三百餘人,并擒叛胡阿度支等二百餘家。太宗嘉之,拜成等將軍,賜爵列侯。徵伏連為內都大官。世祖即位,進為廣陵公,轉衞尉,徙光祿勳。世祖征蠕蠕,伏連留鎮京師,進爵為王,加平南大將軍。又除假節、督河西諸軍、鎮西大將軍,出鎮統萬。真君十年薨,諡曰恭王。

子の真は、襲い、爵を公に降された。世祖の征伐に従い功有り、官は散騎常侍・尚書・安北将軍に至った。湘東公に徙った。涼州を征するに従い、還る途中で卒した。諡して荘公と曰う。

原文子真,襲,降爵為公。從世祖征伐有功,官至散騎常侍、尚書、安北將軍。徙為湘東公。從征涼州,還,卒於路。諡曰莊公。

子の干は、襲い、爵を侯に降された。

原文子干,襲,降爵為侯。

真の次弟の大抜は、歴任して尚書・散騎常侍・征西将軍となり、爵を永平侯に賜った。高祖の初め、中都大官となった。卒し、平東将軍・定州刺史を追贈され、諡して康と曰う。

原文真次弟大拔,歷位尚書、散騎常侍、征西將軍,賜爵永平侯。高祖初,為中都大官。卒,贈平東將軍、定州刺史,諡曰康。

子の稟、字は法生、襲いだ。太子宮門大夫に拝され、稍く趙郡太守に遷った。更任満了して京に還り、冠軍将軍・城門校尉を除かれた。出て征虜将軍・平城鎮将となった。朔州刺史に遷り、仍って本将軍のまま。入って衛尉少卿となった。卒し、年五十八。撫軍将軍・恒州刺史を追贈された。

原文子禀,字法生,襲。拜太子宮門大夫,稍遷趙郡太守。更滿還京,除冠軍將軍、城門校尉。出為征虜將軍、平城鎮將。遷朔州刺史,仍本將軍。入為衞尉少卿。卒,年五十八。贈撫軍將軍、恒州刺史。

子の貴宗は、武定年中、伏波将軍・開府水曹参軍となった。

原文子貴宗,武定中,伏波將軍、開府水曹參軍。

伏連の兄の孫の安文。平涼を征するに従い功有り、爵を覇城男に賜り、虎威将軍を加えられた。後に三郎幢将に遷った。卒した。高祖の初め、その子の毅が貴んだことを以て、安東将軍・冀州刺史・陽平公を追贈され、諡して定と曰う。

原文伏連兄孫安文。從征平涼有功,賜爵覇城男,加虎威將軍。後遷三郎幢將。卒。高祖初,以其子毅貴,追贈安東將軍、冀州刺史、陽平公,諡曰定。

毅は、内外の官を歴任し、稍く殿中尚書・散騎常侍に遷り、爵を常山公に賜り、安南将軍を加えられた。尚書右僕射に遷った。反人梁衆保を擒えたことを以て、侍中を加えられ、本官のまま。後に例に従い侯に降された。出て使持節・鎮東将軍・定州刺史を除かれた。

原文毅,歷位內外,稍遷殿中尚書、散騎常侍,賜爵常山公,加安南將軍。遷尚書右僕射。以擒反人梁眾保,加侍中,本官如故。後例降為侯。出除使持節、鎮東將軍、定州刺史。

時に太極殿が成り、将に考室の礼を行わんとし、群臣を引集したが、雪のため饗することができなかった。高祖曰く、「朕は正殿を経始し、功構初めて成り、将に百僚を集め、大礼を行わんとす。然るに同雲仍って結び、霏雪驟ち零る。寡昧なるが故に、能く天心に仰答せざるに由らん。此の不徳、咎竟に焉んぞ在る。卿等宜しく各おの懐く所を陳べて、以て不逮を匡うべし」。毅稽首して対えて曰く、「雪霜風雨は、天地の常なり。夏の霂、冬の霰は、四時の恒節なり。今隆冬雪降るは、固より其の時なり。又礼に云う、『雨服を沾し容を失すれば、則ち廃す』と。礼は古より然り、以て異と為すに足らず」。高祖曰く、「昔劉秀将に済らんとし、呼沱之が為に冰合せり。但だ朕の徳は古人に謝し、能く天意を仰感せざる故なり」。

原文時太極殿成,將行考室之禮,引集羣臣,而雪不克饗。高祖曰:「朕經始正殿,功構初成,將集百僚,考行大禮。然同雲仍結,霏雪驟零,將由寡昧,未能仰答天心。此之不德,咎竟焉在?卿等宜各陳所懷,以匡不逮。」毅稽首對曰:「雪霜風雨,天地之常;夏霂冬霰,四時恒節。今隆冬雪降,固是其時。又禮云:『雨沾服失容,則廢』,禮自古而然,不足為異。」高祖曰:「昔劉秀將濟,呼沱為之冰合。但朕德謝古人,不能仰感天意故也。」

後に都督涼河二州・鄯善鎮諸軍事、涼州刺史に転じた。車駕南伐するに当たり、毅表を上て諫めて曰く、「伏して承るに、六軍雲の如く動き、荊揚に問罪し、民を淮表に弔い、甌越と一に同ぜんとす。但だ臣の愚見、私に窃かに未だ安からず。何となれば、京邑新たに遷り、百姓業を易え、公私草創し、生途索然たり。兼ねて往歳稔らず、民多く飢饉す。二三の際、嗟惋易く興る。天道悠長なり、宜しく養晦を遵うべし。願わくは赫斯を抑え、以て後日を待たん」。詔して曰く、「時は自ら来らず、人に因りて則ち合す。今年の人事、殊に昔歳に非ず。守株の唱え、便ち停むべし。陽九利渉は、豈に卿の知る所ならんや」。

原文後轉都督涼河二州、鄯善鎮諸軍事,涼州刺史。車駕南伐,毅表諫曰:「伏承六軍雲動,問罪荊揚,弔民淮表,一同甌越。但臣愚見,私竊未安。何者?京邑新遷,百姓易業,公私草創,生途索然。兼往歲弗稔,民多飢饉,二三之際,嗟惋易興。天道悠長,宜遵養時晦,願抑赫斯,以待後日。」詔曰:「時不自來,因人則合。今年人事,殊非昔歲。守株之唱,便可停也。陽九利涉,豈卿所知也。」

太和二十一年に卒す。錢二十萬、布二百匹を賜う。

原文太和二十一年卒。賜錢二十萬,布二百匹。

丘堆

原文丘堆

丘堆は代の人なり、容儀美しく、忠謹をもって親しく侍す。太宗即位し、左右に拾遺し、稍く散騎常侍に遷る。叔孫建らと共に山胡を討滅す。劉裕が河西を溯り西伐すと、詔して堆に建と共に河内より枋頭に次ぎて寇盗に備えしむ。姚泓既に滅び、堆は并州に留鎮す。赫連屈孑が三千騎を遣わし河西を寇すと、堆は自ら并州より游撃将軍王洛生と共にこれを撃走す。功により爵を侯に賜う。世祖が国を監し朝に臨むと、堆は太尉穆観らと共に右弼となる。世祖即位し、爵を進めて臨淮公とし、鎮西将軍を加う。太僕に徙る。

原文丘堆,代人也,美容儀,以忠謹親侍。太宗即位,拾遺左右,稍遷散騎常侍。與叔孫建等討滅山胡。劉裕泝河西伐,詔堆與建自河內次枋頭以備寇盜。姚泓既滅,堆留鎮并州。赫連屈孑遣三千騎寇河西,堆自并州與游擊將軍王洛生擊走之。以功賜爵為侯。世祖監國臨朝,堆與太尉穆觀等為右弼。世祖即位,進爵臨淮公,加鎮西將軍。徙為太僕。

世祖が赫連昌を征すに、堆は常山王素と共に歩兵三万人を督し後継と為る。昌戦いに敗れ南奔す。世祖は堆と宗正娥清に五千騎を率い関右の地を略せしむ。昌の貳城守将は堅守して下らざるも、堆と清はこれを攻め抜く。詔して堆に班師せしむるも、宜城王奚斤が表して堆らを留め進めて昌を平らげんことを請う。許す。堆・斤は軍を合わせ昌と相拒撃す。士馬糧に乏しく、堆は義兵将軍封礼と共に民間に租を督す。士卒暴掠し、昌に襲われて敗績す。堆は数百騎を将いて城に還る。斤は赫連定を追撃し、堆に輜重を守らしむ。斤は定に擒えらる。堆聞きて甲を棄て長安に走り、また高涼王礼を将いて守りを棄て東に蒲坂へ走る。世祖大いに怒り、西平公安頡を遣わし堆を斬る。延和初、詔して曰く「堆は国の肺腑、勲は先朝に著る。西征に師を喪い、遂に軍法に従う。国除き祀絶ゆ。朕甚だこれを愍む。その子跋に爵を淮陵侯と賜い、安遠将軍を加うべし」と。後に蓋呉を征し、戦没す。

原文世祖征赫連昌,堆與常山王素督步兵三萬人為後繼。昌戰敗南奔,世祖遣堆與宗正娥清率五千騎略地關右。昌貳城守將堅守不下,堆與清攻拔之。詔堆班師,宜城王奚斤表留堆等進平昌,許之。堆、斤合軍與昌相拒擊。士馬乏糧,堆與義兵將軍封禮督租於民間,士卒暴掠,為昌所襲,敗績。堆將數百騎還城。斤追擊赫連定,留堆守輜重。斤為定所擒,堆聞而棄甲走長安,復將高涼王禮棄守東走蒲坂。世祖大怒,遣西平公安頡斬堆。延和初,詔曰:「堆,國之肺腑,勳著先朝,西征喪師,遂從軍法。國除祀絕,朕甚愍之。可賜其子跋爵淮陵侯,加安遠將軍。」後征蓋吳,戰沒。

子麟、爵を襲ぐ。位を歴て駕部令となる。出でて瑕丘鎮将・仮平南将軍・東海公と為る。東兗州刺史に遷り、官に卒す。

原文子麟,襲爵。歷位駕部令。出為瑕丘鎮將、假平南將軍、東海公。遷東兗州刺史,卒官。

娥清

原文娥清

娥清は代の人なり。少より将略有り、累ね戦功を著す。稍く振威将軍に遷る。劉裕が将朱超石を遣わし平原を寇し、畔城に至りて遁還す。清は長孫道生とこれを追い、河に至り、その将楊豊を獲る。還りて給事黄門侍郎を拝す。先に徒河の民三州に散居し、頗る民害と為る。詔して清にこれを平城に徙らしむ。清は綏撫に善くし、徙る者は帰するが如し。太宗南巡し鄴に幸す。清を中領軍将軍と為し、宋兵将軍周幾らと共に河を渡り地を略す。湖陸に至る。高平の民は林藪に屯聚し、官軍を拒射す。清ら因りて数千家を誅し、虜獲万余口。爵を須昌侯と賜う。清は幾らと遂に枋頭を鎮す。世祖初、清は枋頭より京師に還り、仮征南将軍と為り、進みて東平公と為る。蠕蠕の大檀が漠南に徙居す。清は平陽王長孫翰と共に東道より出で長川を経てこれを討ち、大いに獲て還る。宗正卿に転ず。尋いで蠕蠕征に従う。また統万平に従い、遂に奚斤と共に赫連昌を安定まで追う。昌と相持す。安頡が昌を擒えるに及び、昌の弟定は西走す。斤これを追う。清は水を尋ねて往かんと欲すも、斤従わず。遂に斤と共に定に擒えらる。世祖平涼を克つに及び、乃ち還るを得。後に詔して清に并州を鎮せしめ、西河にて山胡の白龍を討つ。白龍の父及びその将帥を斬り、遂にその城を屠る。平東将軍に遷り、古弼らと共に東に馮文通を討つ。急戦せざるを以て、文通は高麗に奔る。檻車に徴し、門卒に黜す。遂に家に卒す。

原文娥清,代人也。少有將略,累著戰功。稍遷振威將軍。劉裕遣將朱超石寇平原,至畔城遁還。清與長孫道生追之,至河,獲其將楊豐。還,拜給事黃門侍郎。先是,徒河民散居三州,頗為民害。詔清徙之平城。清善綏撫,徙者如歸。太宗南巡幸鄴,以清為中領軍將軍,與宋兵將軍周幾等渡河略地。至湖陸,高平民屯聚林藪,拒射官軍,清等因誅數千家,虜獲萬餘口。賜爵須昌侯。清與幾等遂鎮枋頭。世祖初,清自枋頭還京師,假征南將軍,進為東平公。蠕蠕大檀徙居漠南,清與平陽王長孫翰從東道出長川討之,大獲而還。轉宗正卿。尋從征蠕蠕。又從平統萬,遂與奚斤追赫連昌至安定,與昌相持。及安頡擒昌,昌弟定西走,斤追之。清欲尋水而往,斤不從,遂與斤俱為定所擒。世祖克平涼,乃得還。後詔清鎮并州,討山胡白龍於西河,斬白龍父及其將帥,遂屠其城。遷平東將軍,與古弼等東討馮文通。以不急戰,文通奔高麗,檻車徵,黜為門卒。遂卒於家。

子延、官は員外散騎常侍に至り、爵を南平公と賜う。

原文子延,官至員外散騎常侍,賜爵南平公。

劉尼

原文劉尼

劉尼は代の人なり。本姓は獨孤氏。曾祖敦は太祖に功有り、方面大人と為る。父婁は冠軍将軍、卒して并州刺史を贈らる。尼は少より壮健、膂力有り、勇果にして射を善くす。世祖見てこれを善しとし、羽林中郎を拝し、爵を昌国子と賜い、振威将軍を加う。

原文劉尼,代人也。本姓獨孤氏。曾祖敦,有功於太祖,為方面大人。父婁,冠軍將軍,卒贈并州刺史。尼少壯健,有膂力,勇果善射,世祖見而善之,拜羽林中郎,賜爵昌國子,加振威將軍。

宗愛が既に東廟にて南安王余を殺し、これを秘す。惟だ尼のみ状を知る。尼は愛に高宗を立てんことを勧む。愛は自ら景穆に負罪有りとし、聞きて驚きて曰く「君は大いなる癡人なり。皇孫若し立てば、豈に正平の時事を忘れんや」と。尼曰く「若し爾らば、今誰を立てんと欲するか」と。愛曰く「宮に還りを待ち、諸王子の賢なる者を擢げてこれを立てん」と。尼はその変有らんことを懼れ、密かに状を殿中尚書源賀に告ぐ。賀は時に尼と共に兵を典し宿衛す。仍いで南部尚書陸麗と共に謀りて曰く「宗愛は既に南安を立て、還りて復たこれを殺す。今皇孫を奉戴して以て民望に順わずんば、社稷危うし。将に如何にせんと欲するか」と。麗曰く「唯だ密かに皇孫を奉ずるのみ」と。ここにおいて賀は尚書長孫渇侯と共に兵を厳しくして守衛し、尼は麗と共に苑中にて高宗を迎う。麗は高宗を馬上に抱き、京城に入る。尼は馳せて東廟に還り、大呼して曰く「宗愛は南安王を殺し、大逆無道なり。皇孫既に大位に登る。詔有り、宿衛の士は皆宮に還るべし」と。衆咸に万歳を唱う。賀及び渇侯は登りて宗愛・賈周らを執り、兵を勒して入り、宮門外にて高宗を奉じ、入りて永安殿に登る。尼を内行長と為し、爵を進めて建昌侯とす。散騎常侍・安南将軍に遷る。また爵を進めて東安公とす。尋いで尚書右僕射に遷り、侍中を加え、進みて王に封ぜらる。

原文宗愛既殺南安王余於東廟,祕之,惟尼知狀。尼勸愛立高宗。愛自以負罪於景穆,聞而驚曰:「君大癡人,皇孫若立,豈忘正平時事乎?」尼曰:「若爾,今欲立誰?」愛曰:「待還宮,擢諸王子賢者而立之。」尼懼其有變,密以狀告殿中尚書源賀,賀時與尼俱典兵宿衞。仍共南部尚書陸麗謀曰:「宗愛既立南安,還復殺之。今不能奉戴皇孫,以順民望,社稷危矣。將欲如何?」麗曰:「唯有密奉皇孫耳。」於是賀與尚書長孫渴侯嚴兵守衞,尼與麗迎高宗於苑中。麗抱高宗於馬上,入京城。尼馳還東廟,大呼曰:「宗愛殺南安王,大逆不道。皇孫已登大位,有詔,宿衞之士皆可還宮。」眾咸唱萬歲。賀及渴侯登執宗愛、賈周等,勒兵而入,奉高宗於宮門外,入登永安殿。以尼為內行長,進爵建昌侯。遷散騎常侍、安南將軍。又進爵東安公。尋遷尚書右僕射,加侍中,進封為王。

出でて征南将軍・定州刺史と為る。州に在りて清慎なり。然れども率ねく酒に酔い、治むる日甚だ少なし。徴されて殿中尚書と為り、侍中・特進を加う。高宗の末、司徒に遷る。顕祖即位し、尼が先朝に大功有るを以て、弥く尊重を加え、別戸三十を賜う。皇興四年、車駕北征す。帝親しく衆に誓う。而るに尼昏酔し、兵陣整わず。顕祖はその功重きを以て、特しくこれを恕し、官を免するのみ。延興四年に薨ず。

原文出為征南將軍、定州刺史。在州清慎,然率多酒醉,治日甚少。徵為殿中尚書,加侍中、特進。高宗末,遷司徒。顯祖即位,以尼有大功於先朝,彌加尊重,賜別戶三十。皇興四年,車駕北征,帝親誓眾,而尼昏醉,兵陳不整。顯祖以其功重,特恕之,免官而已。延興四年薨。

子社生、爵を襲ぐ。世宗の時、寧朔将軍・歩兵校尉。熙平初に卒す。龍驤将軍・朔州刺史を贈られ、諡して克と曰う。

原文子社生,襲爵。世宗時,寧朔將軍、步兵校尉。熙平初卒。贈龍驤將軍、朔州刺史,諡曰克。

奚眷

原文奚眷

奚眷は代の人なり。少より将略有り。太祖の時戦功有り。太宗の時、尚書・仮安南将軍・虎牢鎮将と為り、寇に憚らしむ。世祖初、中軍・都曹尚書と為り、復た虎牢を鎮め、爵を南陽公と賜い、使持節・侍中・都督豫洛二州河内諸軍事・鎮南将軍・開府を加う。尋いで長安に徙鎮す。世祖美稷に幸す。眷は詔を受けて諸軍を督し、共に西河にて山胡の白龍を討ち、これを破り、その城を屠り、数千級を斬首し、その妻子を虜して還る。世祖姑臧を平ぐ。眷を遣わし沮渠牧犍の弟、私署の張掖太守宜得を討たしむ。宜得は酒泉に奔る。酒泉太守無諱は宜得と共に高昌に奔る。その二城を獲る。後に沮渠天周復た酒泉を拠す。眷これを討平し、男女四千余人を虜う。世祖蠕蠕を征す。眷を尚書と為し、偏将を督して別道より出で、詔して鹿渾海に会せしむ。眷は中山王辰ら諸大将と共に皆後期し、都の南にて斬らる。爵除かる。

原文奚眷,代人也。少有將略。太祖時有戰功。太宗時為尚書、假安南將軍、虎牢鎮將,為寇所憚。世祖初,為中軍、都曹尚書,復鎮虎牢,賜爵南陽公,加使持節、侍中、都督豫洛二州河內諸軍事、鎮南將軍、開府。尋徙鎮長安。世祖幸美稷,眷受詔督諸軍,共討山胡白龍于西河,破之,屠其城,斬首數千級,虜其妻子而還。世祖平姑臧,遣眷討沮渠牧犍弟私署張掖太守宜得。宜得奔酒泉,酒泉太守無諱與宜得奔高昌。獲其二城。後沮渠天周復據酒泉,眷討平之,虜男女四千餘人。世祖征蠕蠕,以眷為尚書,督偏將出別道,詔會鹿渾海。眷與中山王辰等諸大將俱後期,斬于都南。爵除。

車伊洛

原文車伊洛

車伊洛は焉耆の胡人である。代々東方の境域の部落の帥となり、常に職貢を修めた。世祖はその誠実な志を記録し、延和年間に伊洛を平西将軍に任じ、前部王に封じ、絹百匹、綿百斤、繡衣一具、金帯・靴・帽を賜った。伊洛は大いに喜び、帰闕することを企図した。沮渠無諱が道路を遮断したので、伊洛は無諱と連戦してこれを撃破した。時に無諱が卒し、その弟の天周が無諱の子の乾寿の兵を奪い、部曲を統率しようと企てた。伊洛は前後して使者を遣わし招諭し、乾寿らは五百余戸を率いて来奔し、伊洛は彼らを京師に送った。また李宝の弟の欽ら五十余人を招諭し、敦煌に送り届けた。伊洛はさらに部衆二千余人を率いて高昌を討伐し、焉耆の東関七城を討ち破り、男女二百人、駱駝千頭、馬千匹を虜獲した。金百斤を以て奉献した。

原文車伊洛,焉耆胡也。世為東境部落帥,恒修職貢。世祖錄其誠款,延和中授伊洛平西將軍,封前部王,賜絹一百匹,綿一百斤,繡衣一具,金帶靴帽。伊洛大悅,規欲歸闕。沮渠無諱斷路,伊洛與無諱連戰,破之。時無諱卒,其弟天周奪無諱子乾壽兵,規領部曲。伊洛前後遣使招喻,乾壽等率戶五百餘家來奔,伊洛送之京師。又招喻李寶弟欽等五十餘人,送詣敦煌。伊洛又率部眾二千餘人伐高昌,討破焉耆東關七城,虜獲男女二百人,駝千頭,馬千匹。以金一百斤奉獻。

先に、伊洛が焉耆を征討した際、その子の歇に城を守らせたが、安周が虚に乗じて蠕蠕を引き入れ三道より歇を包囲し、併せて使者を遣わし歇に謂って曰く、「爾が父は既に大魏に投じた。爾は速やかに帰順せよ、当に爾に爵号を賜わん」と。歇は固く守り、連戦した。久しくして、外に救援なく、安周に陥落せられ、走って伊洛に奔った。伊洛は遺散の者一千余家を収集し、焉耆鎮に帰った。世祖はこれを嘉した。正平元年、詔して伊洛に曰く、「歇は年尚幼きも、能く城邑を固守し、忠節顕著なり、朕甚だ之を嘉す。可に歇を遣わして闕に詣らしめよ」と。伊洛は歇に命じ、弟の波利ら十余人を率いて都に赴かせた。

原文先是,伊洛征焉耆,留其子歇守城,而安周乘虛引蠕蠕三道圍歇,并遣使謂歇曰:「爾父已投大魏,爾速歸首,當賜爾爵號。」歇固守,連戰。久之,外無救援,為安周所陷,走奔伊洛。伊洛收集遺散一千餘家,歸焉耆鎮。世祖嘉之。正平元年,詔伊洛曰:「歇年尚幼,能固守城邑,忠節顯著,朕甚嘉之。可遣歇詣闕。」伊洛令歇將弟波利等十餘人赴都。

正平二年、伊洛は京師に朝し、妻妾・奴婢・田宅・牛羊を賜わり、上將軍に拝され、王は元の如し。興安二年に卒す。鎮西大将軍・秦州刺史を追贈され、諡して康王と曰う。綿絹雑綵五百匹、衣二十七襲を賜う。葬禮は盧魯元の故事に依る。

原文正平二年,伊洛朝京師,賜以妻妾、奴婢、田宅、牛羊,拜上將軍,王如故。興安二年卒。贈鎮西大將軍、秦州刺史,諡曰康王。賜綿絹雜綵五百匹,衣二十七襲。葬禮依盧魯元故事。

歇は爵を襲ぐ。皇興末、使持節・平西将軍・豫州刺史に拝される。延興三年に卒し、子の伯主が爵を襲ぐ。

原文歇襲爵。皇興末,拜使持節、平西將軍、豫州刺史。延興三年卒,子伯主襲爵。

波利は、天安二年に立節将軍・楽官侯に拝される。皇興三年に卒し、兄の子の洛都が爵を襲ぐ。

原文波利,天安二年拜立節將軍,樂官侯。皇興三年卒,兄子洛都襲爵。

宿石

原文宿石

宿石は朔方の人、赫連屈孑の弟の文陳の曾孫である。天興二年、文陳父子は帰闕し、太祖は之を嘉し、宗女を以て妻と為し、奴婢数十口を賜い、上將軍に拝した。祖の若豆根は、太宗の時に宿氏の姓を賜い、上將軍を襲ぐ。父の沓干は、世祖の時に虎賁幢将。平涼征討に従軍して功有り、虎威将軍・侍御郎に拝され、漢安男の爵を賜う。中散に転じ、給事に遷り、兼ねて工曹を領す。和龍討伐に従駕し、功により奴婢十七戸を賜う。真君四年、蠕蠕討伐に従駕し、戦没す。世祖は之を悼惜し、詔して沓干の子を求む。時に石は年甫十一、引見され、幼少を以て帰ることを聴す。年十三、爵を襲ぎ、中散に抜擢される。江への従駕に至り、宣威将軍に拝される。興光中、侍御史に遷り、中壘将軍に拝され、爵を進めて蔡陽子と為し、宜官曹を典す。内行令に遷る。苑内に従幸し、遊猟す。石は高宗の前を走馬し、道険しく、馬倒れて殞絶し、久しくして乃ち蘇る。これにより御馬は制を得たり。高宗は之を嘉し、綿百斤、帛五十匹、駿馬一匹を賜い、爵を改めて義陽子と為す。嘗て猟に従い、高宗親ら虎を射んと欲す。石は馬を叩いて諫め、高宗を高原の上に導く。後に虎騰躍して人を殺す。詔して曰く、「石は忠臣たり、馬を鞚ぎ切に諫め、虎の害を免る。後に罪有るも、宥して坐せざれ」と。駿馬一匹を賜う。上谷公主を尚し、駙馬都尉に拝される。天安初、散騎常侍・吏部尚書に遷り、爵を進めて太山公と為し、北中道都大将と為る。延興元年に卒す。太原王を追贈され、諡して康と曰う。葬禮は盧魯元の故事に依る。太和初、子の倪が爵を襲ぐ。比部侍御。

原文宿石,朔方人也,赫連屈孑弟文陳之曾孫也。天興二年,文陳父子歸闕,太祖嘉之,以宗女妻焉,賜奴婢數十口,拜為上將軍。祖若豆根,太宗時賜姓宿氏,襲上將軍。父沓干,世祖時虎賁幢將。從征平涼有功,拜虎威將軍、侍御郎,賜爵漢安男。轉中散,遷給事,兼領工曹。從駕討和龍,以功賜奴婢十七戶。真君四年,從駕討蠕蠕,戰沒。世祖悼惜之,詔求沓干子。時石年甫十一,引見,以幼聽歸。年十三,襲爵,擢為中散。從駕至江,拜宣威將軍。興光中,遷侍御史,拜中壘將軍,進爵蔡陽子,典宜官曹。遷內行令。從幸苑內,遊獵,石於高宗前走馬,道峻,馬倒殞絕,久之乃蘇。由是御馬得制。高宗嘉之,賜綿一百斤,帛五十匹,駿馬一匹,改爵義陽子。嘗從獵,高宗親欲射虎。石叩馬而諫,引高宗至高原上。後虎騰躍殺人。詔曰:「石為忠臣,鞚馬切諫,免虎之害。後有犯罪,宥而勿坐。」賜駿馬一匹。尚上谷公主,拜駙馬都尉。天安初,遷散騎常侍、吏部尚書,進爵太山公,為北中道都大將。延興元年卒。追贈太原王,諡曰康。葬禮依盧魯元故事。太和初,子倪襲爵。比部侍御。

来大千

原文來大千

来大千は代の人。父の初真は、太祖に従い叱候山に避難し、創業の功に参じ、官は後将軍・武原侯に至り、八議に与る。大千は驍果にして騎射に善く、騎都尉と為る。永興初、爵を襲ぎ、中散に遷る。朝賀の日に至っては、大千は常に御鎧を着し、殿前で馬を盤め、朝臣嗟歎せざる者無し。内幢将に遷り、宿衛禁旅を典す。大千は用法厳明にして上下斉粛たり。嘗て太宗に従い校猟し、虎が高巖の上に在るを見て、大千は矟を把り直前に進みて之を刺し、手に応じて死す。太宗は其の勇壮を嘉し、また殿中給事と為す。

原文來大千,代人也。父初真,從太祖避難叱候山,參創業之功,官至後將軍,武原侯,與在八議。大千驍果,善騎射,為騎都尉。永興初,襲爵,遷中散。至於朝賀之日,大千常著御鎧,盤馬殿前,朝臣莫不嗟歎。遷內幢將,典宿衞禁旅。大千用法嚴明,上下齊肅。嘗從太宗校獵,見虎在高巖上,大千持矟直前刺之,應手而死。太宗嘉其勇壯,又為殿中給事。

世祖践祚し、襄城公盧魯元ら七人と倶に常侍と為り、仗を持ち侍衛し、昼夜左右を離れず。赫連昌討伐に従い、長孫道生と共に賊と交戦す。道生の馬倒れ、賊に撃たれんとす。大千馳せて救い、賊衆散走す。大千は道生を扶けて馬上に上らせ、遂に免るるを得たり。蠕蠕討伐に従い、戦功多くを占む。征北大将軍に遷り、廬陵公の爵を賜い、雲中に鎮し、兼ねて白道の軍事を統ぶ。〈闕〉賊北に叛く。大千は前後して追撃し、平殄せざる莫し。延和初、車駕北伐し、大千は前鋒と為り、大いに虜軍を破る。世祖は其の壮勇、数々の戦功有るを以て、兼ねて北境の険要に悉くすを詔し、大千に六鎮を巡撫せしめ、寇虜を防がしむ。経略布置、甚だ事宜を得たり。後に吐京胡反す。大千を都以て将と為し討平す。吐京に在りて卒す。喪還り、平城南に停む。世祖出で、還り、之を見て問う。左右以て対す。世祖悼歎すること良久し。詔して曰く、「大千は忠勇節を尽くし、功嘉す可し。今喪の城内に入り殯ることを聴す」と。司空を贈られ、諡して莊公と曰う。

原文世祖踐祚,與襄城公盧魯元等七人俱為常侍,持仗侍衞,晝夜不離左右。從討赫連昌,共長孫道生與賊交戰。道生馬倒,為賊所擊,大千馳救,賊眾散走。大千扶道生上馬,遂得免。從討蠕蠕,戰功居多。遷征北大將軍,賜爵廬陵公,鎮雲中,兼統白道軍事。〈闕〉賊北叛,大千前後追擊,莫不平殄。延和初,車駕北伐,大千為前鋒,大破虜軍。世祖以其壯勇,數有戰功,兼悉北境險要,詔大千巡撫六鎮,以防寇虜。經略布置,甚得事宜。後吐京胡反,以大千為都將討平之。在吐京卒,喪還,停於平城南。世祖出,還,見而問之,左右以對,世祖悼歎者良久。詔曰:「大千忠勇盡節,功在可嘉,今聽喪入殯城內。」贈司空,諡曰莊公。

子の丘頽、爵を襲ぐ。降って晉興侯と為る。安遠将軍に拝される。江への従駕に至り、右将軍に進む。和平中、中散に遷り、相曹都典奉事に転ず。皇興四年に卒す。寧南将軍・陳留公を追贈され、諡して簡と曰う。子の蕇、爵を襲ぐ。

原文子丘頹,襲爵。降為晉興侯。拜安遠將軍。從駕到江,進右將軍。和平中,遷中散,轉相曹都典奉事。皇興四年卒。贈寧南將軍、陳留公,諡曰簡。子蕇襲爵。

丘頽の弟の提、官は監御曹給事・冠軍将軍・兗州刺史・濮陽侯に至る。太和十年に卒す。

原文丘頹弟提,官至監御曹給事,冠軍將軍,兗州刺史,濮陽侯。太和十年卒。

周幾

原文周幾

周幾は代の人。父の千は、太祖の世に功有り、順陽侯の爵を賜う。事に坐して死す。幾は少より善く騎射を以て獵郎と為る。太宗即位し、殿中侍御史と為り、宿衛禁兵を掌り、断決称職たり。左民尚書に遷る。神瑞中、并州の飢民山東に遊食す。詔して幾に衆を領し博陵の魯口に鎮し以て之を安集せしむ。泰常初、白澗・行唐の民数千家、嶮を負いて輸税を供せず。幾は安康子の長孫道生と禍福を宣示し、逃民遂に還る。時に郡県、叛胡の翟猛雀を林慮山に斬る。猛雀の遺種、行唐及び襄国に竄る。幾追討し、尽く之を誅す。後に寧朔将軍と為り、南に於て司馬德宗の将劉裕を拒ぎ、土楼に於て毛德祖を破る。功により交阯侯の爵を賜う。世祖は幾に智勇有るを以て、河南に鎮せしめ、威信外境に著わる。幾は常に奚斤らの関中綏撫の失和を嫌い、百姓附かざるを嫌う。毎に言論に至りては、形声色に現る。斤ら之を憚る。号を進めて宋兵将軍と為す。洛州刺史の于栗磾を率い万人を以て陝城を襲う。軍中に卒す。軍人歎惜せざる者無し。帰葬して京師す。交阯公を追贈され、諡して桓と曰う。

原文周幾,代人也。父千,有功太祖之世,賜爵順陽侯。坐事死。幾少以善騎射為獵郎。太宗即位,為殿中侍御史,掌宿衞禁兵,斷決稱職。遷左民尚書。神瑞中,并州飢民遊食山東,詔幾領眾鎮博陵之魯口以安集之。泰常初,白澗、行唐民數千家負嶮不供輸稅,幾與安康子長孫道生宣示禍福,逃民遂還。于時郡縣斬叛胡翟猛雀於林慮山,猛雀遺種竄於行唐及襄國。幾追討,盡誅之。後為寧朔將軍,拒司馬德宗將劉裕於南,破毛德祖於土樓。以功賜爵交阯侯。世祖以幾有智勇,遣鎮河南,威信著于外境。幾常嫌奚斤等綏撫關中失和,百姓不附。每至言論,形於聲色。斤等憚焉。進號宋兵將軍。率洛州刺史于栗磾以萬人襲陝城,卒于軍,軍人無不歎惜之。歸葬京師。追贈交阯公,諡曰桓。

子の歩は爵位を襲った。卒去した。

原文子步,襲爵。卒。

子の安国は爵位を襲った。太和年間、蠕蠕を討伐したが、戦いに敗れ、法により処刑された。爵位は除かれた。

原文子安國,襲爵。太和中,討蠕蠕,失利,伏法。爵除。

豆代田

原文豆代田

豆代田は代の人である。太宗の時に騎射に優れていたため内細射となった。虎牢攻めに従い、詔により代田は楼閣に登って賊を射たが、矢は虚しく発せられることがなかった。奚斤の先鋒と共に先に入城し、劉義隆の将毛徳祖および長史・司馬の三人を生け捕りにした。功により内三郎に遷った。赫連昌討伐に従い、勝に乗じて賊を追撃し、その宮門に入ったが、門は閉ざされ、代田は宮を越えて脱出した。世祖はこれを壮とし、勇武将軍に任じた。後に平昌に従駕し、戦功により奴婢十五口、黄金百斤、銀百斤を賜った。神䴥年間、蠕蠕を討伐し、関中侯の爵を賜った。平涼討伐に従い、赫連定を撃破し、奚斤らを得た。世祖は定の妻を代田に賜い、斤に詔して膝行して代田に酒を授けさせた。斤に勅して曰く、「汝の身命を全うさせたのは、代田の功である」と。爵を井陘侯に改め、散騎常侍・右衛将軍・領内都幢将を加えられた。和龍討伐に従い、戦功が多く、殿中尚書に遷り、奴婢六十口を賜った。前後の軍功により、長広公に爵を進め、平東将軍を加えられた。南討に従駕した。太子太保に転じた。出て統万鎮大将となった。興安年間に卒去した。侍中・安東大将軍・長広王を追贈され、諡して恭といった。

原文豆代田,代人也。太宗時以善騎射為內細射。從攻虎牢,詔代田登樓射賊,矢不虛發。與奚斤前鋒先入,擒劉義隆將毛德祖并長史、司馬三人。以功遷內三郎。從討赫連昌,乘勝追賊,入其宮門,門閉,代田踰宮而出。世祖壯之,拜勇武將軍。後從駕平昌,以戰功賜奴婢十五口,黃金百斤,銀百斤。神䴥中,討蠕蠕,賜爵關中侯。從討平涼,擊破赫連定,得奚斤等。世祖以定妻賜之,詔斤膝行授酒於代田。敕斤曰:「全爾身命者,代田功也。」改爵井陘侯,加散騎常侍、右衞將軍、領內都幢將。從討和龍,戰功居多,遷殿中尚書,賜奴婢六十口。以前後軍功,進爵長廣公,加平東將軍。從駕南討。轉太子太保。出為統萬鎮大將。興安中卒。贈侍中、安東大將軍、長廣王,諡曰恭。

子の求周は内三郎となった。江に従駕し、五等子の爵を賜った。また侯に爵を進めた。後に父の爵を襲った。吏部尚書となった。皇興二年に卒去した。征北大将軍・長広王を追贈され、諡して簡といった。子の多侯が爵を襲った。

原文子求周,為內三郎。從駕到江,賜爵五等子。又進爵為侯。後襲父爵。為吏部尚書。皇興二年卒。贈征北大將軍、長廣王,諡曰簡。子多侯襲爵。

周観

原文周觀

周観は代の人である。驍勇で膂力があり、常に軍陣において、必ず募に応じて先に登った。功により軍将長史に進み、まもなく軍将に転じた。赫連屈丐を撃って功があり、安川子の爵を賜り、北鎮軍将に遷った。世祖が即位すると、蠕蠕討伐に従った。軍功により都副将に進み、雲中を鎮守した。神䴥年間、また蠕蠕を討伐し、大いに獲るところがあり、爵を侯に増した。平涼征伐に従い、金城公に爵を進め、都将に遷った。離石胡を破るのに従い、散騎常侍を加えられた。高平鎮将に転じた。観は士卒をよく撫で、威名があると称された。真君初年、詔により観は五軍を統率して西の張掖において禿髪保周を討伐した。その民数百家を移し、京師に置こうとしたが、武威に至り、諸将と私的にこれを分けた。世祖は大いに怒り、観を金城侯に貶し、内都大官に改めて授けた。出て平南将軍・秦州刺史を除され、再び金城公の爵位に復した。撫馭に和を失い、民の薛永宗が汾曲に衆を集めて叛いた。観は永宗を討伐したが、流れ矢に当たった。世祖が蒲坂に幸したとき、観は帝の到着を聞き、驚き恐れて起き上がり、創が重く遂に卒去した。世祖は怒り、その爵を絶った。

原文周觀,代人也。驍勇有膂力,每在軍陳,必應募先登。以功進為軍將長史,尋轉軍將。擊赫連屈丐有功,賜爵安川子,遷北鎮軍將。世祖即位,從討蠕蠕。以軍功進為都副將,鎮雲中。神䴥中,又討蠕蠕,大獲,增爵為侯。從征平涼,進爵金城公,遷為都將。從破離石胡,加散騎常侍。轉高平鎮將。觀善撫士卒,號有威名。真君初,詔觀統五軍西討禿髮保周於張掖。徙其民數百家,將置於京師,至武威,輒與諸將私分之。世祖大怒,黜觀為金城侯,改授內都大官。出除平南將軍、秦州刺史,復爵金城公。撫馭失和,民薛永宗聚眾於汾曲以叛。觀討永宗,為流矢所中。世祖幸蒲坂,觀聞帝至,驚怖而起,瘡重遂卒。世祖怒,絕其爵。

子の豆は初め三郎となり、軍将に遷った。長楽太守の任で卒去した。

原文子豆,初為三郎,遷軍將。卒于長樂太守。

閭大肥

原文閭大肥

閭大肥は蠕蠕の人である。太祖の時、弟の大埿倍頤と共に宗族を率いて帰国した。太祖はこれを善しとし、華陰公主を娶らせ、其思子の爵を賜い、弟と共に上賓とし、八議に入れた。太宗が即位すると、大肥を内都大官に進め、爵を侯に増した。神瑞年間、都将となり、跋那山において越勒部を討伐し、大いにこれを破った。泰常初年、また都将となり、禁兵を率いて蠕蠕を討伐し、その大将莫孤渾を獲た。宜城王奚斤が虎牢を攻めたとき、大肥は娥清と共に十二軍を率いて中道より出で、高平・金郷の地を略し、東は泰山に至った。大肥に仮に使持節・安陽公を授け、陳汝を鎮撫させた。世祖の初年、また奚斤と共に雲中白道より出でて大檀を討伐し、これを破った。還って内都大官となった。出て使持節・冀青二州刺史を除され、仮に滎陽公を授かった。まもなく召還され、位は特進となった。再び出て冀青二州刺史となった。まもなく入朝して内都大官となった。赫連昌討伐に従い、功により滎陽公を授かった。公主が薨じたので、再び濩沢公主を娶った。また都将となり、大檀を撃ち、大いにこれを破った。還って渇侯山に至り、遂に巳尼陂において東部高車を討伐した。また平涼を征し、共に功があった。世祖は大肥を王に封じようとしたが、病に遇い卒去した。中山王を追贈された。子の賀は早くに卒去した。

原文閭大肥,蠕蠕人也。太祖時,與其弟大埿倍頤率宗族歸國。太祖善之,尚華陰公主,賜爵其思子,與其弟並為上賓,入八議。太宗即位,進大肥為內都大官,增爵為侯。神瑞中,為都將,討越勒部於跋那山,大破之。泰常初,復為都將,領禁兵討蠕蠕,獲其大將莫孤渾。宜城王奚斤之攻虎牢也,大肥與娥清領十二軍出中道,略地高平、金鄉,東至泰山。假大肥使持節、安陽公,鎮撫陳汝。世祖初,復與奚斤出雲中白道討大檀,破之。還為內都大官。出除使持節、冀青二州刺史,假滎陽公。尋徵還,位特進。復出為冀青二州刺史。尋入為內都大官。從討赫連昌,以功授滎陽公。公主薨,復尚濩澤公主。又為都將,擊大檀,大破之。還至渴侯山,遂討東部高車於巳尼陂。又征平涼,並有功。世祖將拜大肥為王,遇疾卒。追贈中山王。子賀,早卒。

大肥の弟の驎が爵を襲った。出て仇池鎮将となった。卒去し、子がなかった。

原文大肥弟驎,襲爵。出為仇池鎮將。卒,無子。

弟の鳳が爵を襲った。高宗の時に内都大官となり、出て鎮南将軍・肆州刺史となった。卒去し、子がなく、爵は除かれた。

原文弟鳳,襲爵。高宗時為內都大官,出為鎮南將軍、肆州刺史。卒,無子,爵除。

尉撥

原文尉撥

尉撥は代の人である。父の那は濮陽太守であった。撥は太学生となり、募に応じて兗州刺史羅忸に従い陳汝において賊を撃ち、功があり、介休男の爵を賜った。和龍討伐に従い、虎賁帥に遷り、千人軍将に転じた。また楽平王丕に従い和龍を討伐した。涼州軍将を除され、吐谷渾を撃ち、その人一千余落を獲た。後に吐谷渾の小将が三百余落を率いて来降したが、まもなくまた亡叛したので、撥は騎兵を率いてこれを追い、ことごとく獲て還った。功により爵を子に進めた。晋昌鎮将に遷り、辺民を綏撫懐柔し、甚だ称すべき績を著した。入朝して知臣監となった。出て杏城鎮将となり、在任九年、民の和を大いに収め、山民一千余家・上郡の徒各・盧水胡八百余落がことごとく付いて民となった。高宗は撥が清平で恵みの績があるとして、衣服を賜った。顕祖が即位すると、北征都将となった。また都将となり、南の懸瓠を攻め、劉彧の将朱湛の水軍三千人を破り、懸瓠鎮将に任じられ、員外散騎常侍を加えられ、安城侯に爵を進めた。顕祖はその名声と功績を嘉し、また衣服を賜った。平南将軍・北豫州刺史に転じた。後に洛州の民田智度が徒党を集めて謀叛を企てた。詔により撥は伝車に乗り豫州兵を発し、洛州刺史丘頓と共にこれを撃ち、智度を獲て京師に送った。撥が卒去すると、冠軍将軍を追贈され、諡して敬侯といった。

原文尉撥,代人也。父那,濮陽太守。撥為太學生,募從兗州刺史羅忸擊賊於陳汝,有功,賜爵介休男。從討和龍,遷虎賁帥,轉千人軍將。又從樂平王丕討和龍。除涼州軍將,擊吐谷渾,獲其人一千餘落。後吐谷渾小將率三百餘落來降,尋復亡叛,撥率騎追之,盡獲而還。以功進爵為子。遷晉昌鎮將,綏懷邊民,甚著稱績。入為知臣監。出為杏城鎮將,在任九年,大收民和,山民一千餘家、上郡徒各、盧水胡八百餘落,盡附為民。高宗以撥清平有惠績,賜以衣服。顯祖即位,為北征都將。復為都將,南攻懸瓠,破劉彧將朱湛之水軍三千人,拜懸瓠鎮將,加員外散騎常侍,進爵安城侯。顯祖嘉其聲效,復賜衣服。轉平南將軍、北豫州刺史。後洛州民田智度聚黨謀逆。詔撥乘傳發豫州兵與洛州刺史丘頓擊之,獲智度,送京師。撥卒,贈冠軍將軍,諡敬侯。

陸真

原文陸真

陸真は代の人である。父の洛侯は秦州長史であった。真は若くして騎射に長じた。世祖の初年、真が膂力人に過ぐるを以て、内三郎に拝された。数たび征伐に従い、所在に鋒を摧き陳を陥し、前後功を以て賞賜を屡く受けた。

原文陸真,代人也。父洛侯,秦州長史。真少善騎射。世祖初,以真膂力過人,拜內三郎。數從征伐,所在摧鋒陷陳,前後以功屢受賞賜。

真君の中、蠕蠕を討つに従い、功を以て関内侯の爵を賜う。後に懸瓠を攻め、楼に登り城中に臨んで射れば、弦虚しく発することなし。劉義隆の将王玄謨、衆数万人を率いて滑台を寇す。真は世祖に従いてこれを討つ。夜、数人と小船に乗り玄謨の軍を突き、城に入り撫慰し、城に登り、賊の営中を巡行し、乃ち還って河を渡る。明け方に至り、玄謨敗走す。駕に従いて江に至り、真再び賊軍を破り、建武将軍・石城子に拝される。還って盱眙を攻むるに、真の功居多し。給事中に遷り、太倉の事を典す。

原文真君中,從討蠕蠕,以功賜爵關內侯。後攻懸瓠,登樓臨射城中,弦不虛發。劉義隆將王玄謨眾數萬人寇滑臺,真從世祖討之。夜與數人乘小船突玄謨軍,入城撫慰,登城,巡行賊營中,乃還渡河。至明,玄謨敗走。從駕至江,真再破賊軍,拜建武將軍、石城子。還攻盱眙,真功居多,遷給事中,典太倉事。

高宗即位し、冠軍将軍に拝し、都昌侯に爵を進む。散騎常侍に遷り、選部尚書となる。時に丁零数千家、并・定を寇窃す。真は并州刺史乞伏成龍と共に楽平より東に入り、定州刺史許崇之と併力して討滅す。駕に従い東海を巡り、真を寧西将軍と為す。尋いで安西将軍・長安鎮将に遷り、建平公を仮す。胡賊の帥賀略孫、衆千余人を聚めて石楼に叛く。真これを撃破し、五百余人を殺す。是の時、初めて長蛇鎮を置く。真衆を率いて城を築く。未だ訖らざるに、氐の豪仇傉檀等反叛し、氐民皆応じ、その衆甚だ盛んなり。真これを撃ち平げ、四千余人を殺し、遂に長蛇を城して還る。

原文高宗即位,拜冠軍將軍,進爵都昌侯。遷散騎常侍,選部尚書。時丁零數千家寇竊并定,真與并州刺史乞伏成龍自樂平東入,與定州刺史許崇之併力討滅。從駕巡東海,以真為寧西將軍。尋遷安西將軍、長安鎮將,假建平公。胡賊帥賀略孫聚眾千餘人叛于石樓。真擊破之,殺五百餘人。是時,初置長蛇鎮,真率眾築城,未訖,而氐豪仇傉檀等反叛,氐民咸應,其眾甚盛。真擊平之,殺四千餘人,卒城長蛇而還。

東平王道符、長安に反し、雍州刺史魚玄明を殺し、関中草草たり。真を長安鎮将と為し、河南公の爵を賜う。長安の兵民、素より威信に伏す。真到りて之を撫慰すれば、皆怡然として安静なり。咸陽の民趙昌、劉彧に署せられて龍驤将軍となり、鄠・𥂕厔の二県を扇動し、党数百人を聚めて赤谷に拠りて叛く。真は雍州刺史劉邈と共にこれを討平し、昌単騎走りて免る。後に鄠県の民王稚兄弟、二千余人を聚め、趙昌を招引す。始平・石安・池陽・霊武の四県の人皆これに応じ、衆五千に至り、治谷堡に拠る。時に詔して南郡王李惠等に歩騎六千を領せしめて昌を討たしむ。真は大軍未だ至らざるを以て、昌の滋蔓を慮り、雍州刺史劉邈と共に昌を討つ。昌出営して拒戦す。真これを撃破し、昌及び賊首三千余級を斬り、首を京師に伝え、并せてその党与七百余人を誅し、男女一千余口を獲る。雍州の民夷、震伏せざるは莫し。鎮に在ること数年、威称甚だ著し。延興二年卒す。京師に帰葬し、諡して烈と曰う。

原文東平王道符反于長安,殺雍州刺史魚玄明,關中草草。以真為長安鎮將,賜爵河南公。長安兵民,素伏威信,真到,撫慰之,皆怡然安靜。咸陽民趙昌受劉彧署龍驤將軍,扇動鄠、𥂕厔二縣,聚黨數百人據赤谷以叛。真與雍州刺史劉邈討平之,昌單騎走免。後鄠縣民王稚兄弟,聚二千餘人,招引趙昌。始平、石安、池陽、靈武四縣人皆應之,眾至五千,據治谷堡。時詔南郡王李惠等領步騎六千討昌。真以大軍未至,慮昌滋蔓,與雍州刺史劉邈討昌。昌出營拒戰,真擊破之,斬昌及賊首三千餘級,傳首京師,并誅其黨與七百餘人,獲男女一千餘口。雍州民夷,莫不震伏。在鎮數年,甚著威稱。延興二年卒。歸葬京師,諡曰烈。

子の延、字は契胡提、頗る気幹有り、河南公の爵を襲ぐ。累遷して歴任し長安鎮将となり、安南将軍・済州刺史に拝される。例に降り、汝陽侯に改封さる。京兆王愉、徐州刺史と為り、延を愉の府司馬と為し、彭城内史を帯ぶ。正始の初、武川鎮将を除く。入りて太僕卿を除く。沃野・武川・懐朔の三鎮諸軍事を都督し、安北将軍・懐朔鎮大将、散騎常侍を加えらる。正光の初、金紫光禄大夫に拝し、復た太僕卿を除く。使を受け秀容を綏慰す。牧子の為に害せらる。

原文子延,字契胡提,頗有氣幹,襲爵河南公。累遷歷長安鎮將,拜安南將軍、濟州刺史。例降,改封汝陽侯。京兆王愉為徐州刺史,以延為愉府司馬,帶彭城內史。正始初,除武川鎮將。入除太僕卿。都督沃野、武川、懷朔三鎮諸軍事、安北將軍、懷朔鎮大將,加散騎常侍。正光初,拜金紫光祿大夫,復除太僕卿。受使綏慰秀容,為牧子所害。

弟の什夤、太府卿・平東将軍・光禄大夫。建義の初、都官尚書に拝す。平南将軍・光禄大夫にて卒す。

原文弟什夤,太府卿、平東將軍、光祿大夫。建義初,拜都官尚書。卒於平南將軍、光祿大夫。

呂洛拔

原文呂洛拔

呂洛拔は代の人である。曾祖の渴侯、昭成の時に戸五千を率いて帰国す。祖の肥、濮陽太守。父の匹知、世祖の時に西部長・滎陽公と為る。洛拔は壮勇を以て知名なり。高宗の末、平原鎮都将と為る。劉彧の徐州刺史薛安都帰誠し、援を請う。詔して尉元に衆を率いしめてこれを救わしむ。洛拔は元に随い彭城に入る。彧の将張永、将の王茂之に兵五千を領せしめて武原に向かわしめ、その運車を援けしむ。元は洛拔に騎を率いしめて武原に詣りてこれを撃たしむ。格戦すること二日、手ずから九人を殺す。賊の運車二百余乗、牛二百五十頭を奪う。乃ち共に張永を撃ち、これを大敗せしむ。成武侯の爵を賜い、建義将軍を加えらる。年五十六、卒す。

原文呂洛拔,代人也。曾祖渴侯,昭成時率戶五千歸國。祖肥,濮陽太守。父匹知,世祖時為西部長、滎陽公。洛拔以壯勇知名,高宗末為平原鎮都將。劉彧徐州刺史薛安都歸誠,請援。詔遣尉元率眾救之,洛拔隨元入彭城。彧將張永遣將王茂之領兵五千向武原,援其運車。元遣洛拔率騎詣武原擊之。格戰二日,手殺九人。奪賊運車二百餘乘,牛二百五十頭。仍共擊張永,大敗之。賜爵成武侯,加建義將軍。年五十六,卒。