王建
王建は広寧の人である。祖父の妹が平文后となり、昭成皇帝を生んだ。伯父の王豊は帝の舅として貴重とされた。豊の子の王支は昭成皇帝の娘を娶り、甚だ親しく遇された。建は若くして公主を娶った。登国の初め、外朝大人となり、和跋ら十三人と交代で諸事を掌り、計謀に参与した。太祖が濡源に行幸した時、建を使者として 慕容 垂に遣わすと、言辞と態度が高く昂り、垂はこれを壮とした。帰還して左大夫となった。建の兄の王回は、諸子の多くが法に従わず、建は詳しくその状況を上聞し、回父子は誅殺された。その謹直さはこのようなものであった。諸国の征伐に従い、二十余部を破り、功により奴婢数十口、雑畜数千を賜り、衛辰征伐に従ってこれを破り、僮隸五千戸を賜り、中部大人となった。
参合陂で慕容宝を破るのに従った。太祖は勝に乗じて南夏を席卷せんとし、ここに捕虜の衆を選別し、才能ある者は留め、その余は悉く衣糧を与えて帰そうとし、中州の民に恩徳を知らしめようとした。そこで群臣を召してこれを議した。建は言う、「慕容宝はここで覆敗し、国内は空虚で、これを図るのは容易です。今捕らえて帰すのは、不可ではないでしょうか。かつ敵を放てば患いを生じます。殺すに如かず」。太祖は諸将に言う、「もし建の言に従えば、後世の南人が創傷を受け、その向化の心を絶つことを恐れる。罪を伐ち民を弔う義ではない」。諸将は皆、建の言を正しいとしたが、建はまた固執したので、ついにこれを坑った。太祖は後にこれを悔いた。
後に慕容宝征伐に従い、冠軍将軍に拝された。 并州 が平定されると、車駕は東に出て井陘を経、建に五万騎を率いて先駆けし道を開かせた。車駕が常山に駐ると、諸郡は皆降ったが、ただ中山・ 鄴 ・信都の三城だけが下らなかった。そこで衛王儀を遣わして南の鄴を攻めさせ、建に信都を攻めさせた。各々五万の兵であった。建らは城を六十余日攻めても陥とせず、士卒に傷み多かった。太祖は自ら中山から信都に行幸し、慕容宝の冀州 刺史 慕容鳳が夜に城を越えて逃げ、信都は降った。車駕は鉅鹿に行幸し、柏肆塢で慕容宝を破り、ついに進んで中山を包囲した。宝は城を棄て和龍に逃げ、城内には主なく、百姓は惶惑し、東門は閉ざされなかった。太祖は夜に入って城に乗り、その門を占拠せんとした。建は貪欲で謀がなく、虜獲を意とし、士卒が掠奪をほしいままにし、府庫を盗み乱すことを恐れ、天明を待つよう請うたので、太祖はやめた。その夜、徒河人が共に慕容普驎を立てて主とし、ついに門を閉じて固守した。太祖は衆を悉くしてこれを攻めたが、連日陥とせず。人を遣わして巣車に登らせ城に臨み、その衆を招いて言う、「慕容宝は城を棄て奔走した。汝ら百姓は誰のために守るのか。 天命 を識らず、死亡を取るのか」。皆言う、「群小は無知ですが、ただまた参合の衆のようになることを恐れ、故に月日の命を全うしようと求めるだけです」。太祖はこれを聞き、顧みて建を見つめ、その顔に唾した。中山が平定され、建に爵を濮陽公と賜った。烏丸の庫傉官鳴が党を聚めて寇となったので、詔して建に討平させた。太僕に遷り、真定公に徙封され、 散騎常侍 ・冀青二州刺史を加えられた。卒し、金陵に陪葬された。
初め、建の兄の豆居は建の功により爵を即丘侯と賜ったが、子がなく、建は子の斤に兄の爵を襲がせた。太宗の初め、給事中となり、職に任じ事を用いた。大長秋に転じた。世祖が 赫連 昌を征する時、斤に部して攻具を造らせた。爵を淮南公に進め、平北将軍を加えられた。時に 并 州の胡酋田卜が謀反して誅され、余衆が不安となり、斤を慮虒に鎮めてこれを撫慰させた。斤は胡・魏を綏静し、甚だ名声を収めた。劉義隆が将の到彦之を遣わして河南を寇すと、世祖は赫連定を西征し、斤を衛兵将軍とし、蒲坂に鎮させた。関隴が平定され、斤は 長安 に移鎮し、仮節・鎮西将軍となった。斤はついに驕り高ぶり、法度に従わず、左右を信用し、百姓に調役を課し、民はこれに堪えず、南に漢川に奔る者数千家あった。そして罪を雍州刺史陽文祖・秦州刺史任延明に委ねた。世祖は二人を召して問うと、各々状況を以て答えた。世祖は斤に誣えられたことを知り、宜陽公伏樹を遣わして虚実を覆按させ、数十事を得た。ついに斤を斬って示しとした。
建の孫の度は、太宗の時に虎牢鎮監軍となった。世祖が即位すると、徴されて殿中給事に拝され、 尚書 に遷った。赫連昌征伐に従い、 蠕蠕 を討ち、ともに功があり、爵を済陽公と賜り、 散騎常侍 ・平南将軍を加えられた。詔して度に五千騎を率いて叔孫建と合し、劉義隆の兗州刺史竺霊秀を湖陸で撃たせ、大破した。後に出て長安を鎮め、仮節し、秦・涇・梁・益・雍五州諸軍事を 都督 し、開府した。卒し、 諡 して莊といった。
子の安都が襲封し、爵を降格して侯となった。世祖は太子庶子に拝し、出て鄯善鎮将となった。高宗の時、内都大官となった。卒し、子の買得が襲封した。
建の曾孫の樹は、善射をもって顕祖に寵愛され、内侍長となった。次第に尚書に遷り、爵を歴陽侯と賜り、龍驤将軍・員外常侍を加えられた。出て平西将軍・涇州刺史となった。卒した。
安同
安同は遼東の胡人である。その先祖は世高といい、漢の時に安息王の侍子として 洛陽 に入った。魏から晋に歴り、乱を避けて遼東に至り、ついにそこに家を定めた。父の屈は慕容暐に仕え、殿中郎将となった。苻堅が暐を滅ぼすと、屈の友人公孫眷の妹が苻氏の宮に入り、出されて 劉庫仁 に賜り妻となった。庫仁はこれを貴び寵愛した。同は眷に従って商販し、太祖に済世の才あるを見て、ついに留まって奉侍した。性質は端厳で明恵、長者の言を好んだ。
登国の初め、太祖が慕容垂に徴兵した(事は窟咄伝にある)。同は頻りに使して旨に称し、ついに寵異を見、外朝大人とされ、和跋らと禁中に出入りし、交代で諸事を掌った。太祖が功臣に班賜する時、同は使功が多いことを以て、妻妾及び隷戸三十、馬二匹、羊五十口を賜り、広武将軍を加えられた。
柴壁で姚平を征するのに従った。姚興が衆を悉くして平を救うと、太祖は重囲を増築して興を拒ごうとした。同は進み計を立てて言う、「臣は遣わされて絳に租を督しに行き、汾東に蒙坑があるのを見ました。東西三百余里、径路通ぜず。姚興が来るには必ず汾西から、高きに乗り下に臨み、直ちに柴壁に至るでしょう。このようであれば、寇は内外で勢い接し、重囲は固め難く、制することできません。宜しく汾の曲を截って南北の浮橋とし、西岸に乗じて囲いを築くべきです。西囲が既に固まれば、賊は至ってもその智力を施す所がありません」。これに従った。興は果たして平が屠滅されるのを見て救うことができなかった。謀功により、爵を北新侯と賜り、安遠将軍を加えられた。詔して同に姚興の将越騎 校尉 唐小方らを長安に送らせた。
清河王 拓跋 紹の乱の時、太宗(明元帝)は外におり、夜間に安同に告げて、百工伎巧を収集させると、衆は皆応じて奉迎した。太宗が即位すると、安同に南平公長孫嵩と共に民の訴訟を処理させた。また詔して肥如侯賀護と共に節を持ち、 并 州・定州二州及び諸山に住む雑胡・丁零を巡視させ、詔を宣べて慰撫し、その疾苦を問い、守宰の不法を糾挙させた。安同は 并 州に至り、上表して言うには、「ひそかに見るに、 并 州の管下の守宰は、多く法を奉じない。また刺史は勝手に御府の鍼工古彤を用いて 晋陽 令とし、財賄を通じ、共に姦利をなしている。律に照らして罪を治めることを請う」と。太宗はこれに従い、ここに郡国は粛然とした。安同は東に出て井陘を経て鉅鹿に至り、四戸に一人の衆を徴発し、大嶺山を治め、天門関を通じようとし、また宋子に塢を築き、以て郡県を鎮静させようとした。賀護は安同が衆心を得ることを憎み、これにより人をして安同が城を築き衆を集め、大事を図らんとしていると告げさせた。太宗は安同が外で勝手に徴発したとして、檻車で徴還し、群官を召してその罪を議させた。皆が言うには、「安同は勝手に事役を興し、百姓を労擾した。厳しく治めて、来たる犯を粛すべきである」と。太宗は安同が専命ではあるが、本意は公のためであり、意に不善はないとして、これを釈放した。
世祖(太武帝)が監国として臨朝聴政するに当たり、安同を左輔とした。太宗が河南を征した時、安同を右光禄大夫に拝した。世祖が北境を鎮守するため出ると、安同は安定王拓跋弥と共に京師に留まって鎮守した。世祖が即位すると、爵を高陽公に進め、光禄勲を拝した。まもなく征東大将軍・冀青二州刺史を除かれた。安同の長子安屈は、太宗の時に太倉の事を管掌し、官の粳米数石を盗んで親を養おうとした。安同は大いに怒り、安屈を誅戮することを奏請し、自ら子を訓えられなかったことを劾して罪を請うた。太宗はこれを嘉して許し、遂に詔して安同に粳米を長く給することとした。その公清で法を奉ずることは、皆この類である。
安同は官にあって明察であり、校練に長け、家法は修整されて、世に称された。冀州に在った時は、年老いて、財貨を殖やすこと頗る多く、寺塔を大いに興して、百姓に苦しめられた。神䴥二年に卒した。高陽王を追贈され、諡して恭恵といった。
安屈の子安陽烈は、散騎侍郎となり、爵を北新子に賜った。
安屈の弟安原は、雅性で矜厳であり、沈勇で智略多かった。太宗の時に獵郎となり、出て雲中の軍事を監した。時に赫連屈丐が河西を犯すと、安原は数十騎を率いてこれを撃ち、十余人を殺した。太宗は安原が軽敵し、節度に違ったとして、その罪責を加えた。しかし安原の 驍 勇を知り、遂に将として任用し、雲中を鎮守させた。寛和で下を愛し、甚だ衆心を得た。蠕蠕が屡々塞を犯すと、安原は輒ちこれを摧破した。功により爵を武原侯に賜り、魯兵将軍を加えられた。
世祖が即位すると、徴されて駕部尚書を拝した。車駕が蠕蠕の大檀を征する時、軍を五道に分けて並進すると、大檀は驚駭して北に遁走した。尚書左 僕射 、河間公に遷り、 侍中 ・征南大将軍を加えられた。赫連昌を征するに従い、その城に入って還った。車駕が北伐すると、蠕蠕は遁走した。世祖は東部 高車 が巳尼陂におり、人畜甚だ衆多であると聞き、襲撃を遣わそうとした。諸将は皆難しと為したが、世祖は従わなかった。安原と侍中古弼に万騎を率いて討たせ、大いに獲て還った。車駕が昌黎を征する時、安原は建寧王拓跋崇と共に漠南に屯して蠕蠕に備えた。
安原は朝に在って比周することはなかったが、寵を恃んで驕恣し、多く排抑した。子のために襄城公盧魯元の女を求めると、盧魯元は許さなかった。安原はその罪状を告げ、事が相連なって逮えられ、時を経ても決しなかった。安原は勝たぬことを懼れ、遂に逆を謀り、事が洩れて誅された。臨刑に上疏して言うには、「臣聞く、聖は独り明らかで治まることなく、鼎は単足で立たず、ここをもって螢火の光も、なお日月の曜りを増すと。先臣安同は、往時に聖運に因り、太祖に帰身し、誠を竭くし力を勠して、険難の中に効を立てた。臣は頑闇をもって、股肱に忝く備わる。陛下の恩育により、朝政を委ねられ、微誠を展べ、恩沢に報いんと思う。しかるに盧魯元姦佞にして、貝錦を構成し、天威遂に加わり、合門俱に戮せられる。これは命なり、臣の枉ちにあらず。但だ盧魯元は外は忠貞に類し、内に姦詐を懐き、しかるに陛下は腹心として任用される。恐らくは釁は肘腋より発せん。臣と盧魯元は生を怨人とし、死を讎鬼とす。私故をもってするにあらず、盧魯元を謗毀する。復た眷眷せず、誠款を披露す」と。
安原の弟安頡、安頡の弟安聡は、内侍となった。安聡の弟安蕯は、龍驤将軍・給事黄門侍郎となり、爵を広宗侯に賜った。安原兄弟は外は節倹であるが、内実は積聚し、誅された後、その財を籍没すると数万に至った。
安頡は、弁慧で策略多く、最も父の風があった。太宗の初め、内侍長となり、百僚を察挙させた。姦慝を糾刺し、回避すること無かった。嘗て父の陰事を告げ、太宗は忠と為し、特に親寵した。
宜城王奚斤が、長安より赫連昌を追撃し、安定に至ると、安頡は監軍侍御史であった。奚斤は馬多く疫死し、士衆糧乏しいため、深く壘を築いて自ら固めた。太僕丘堆らを遣わして民間に租を督させると、赫連昌に敗れた。赫連昌は遂に驕矜し、日々来たり侵掠し、芻牧する者出で得ず、士卒これを患った。安頡が進み計らうには、「本来詔を奉じて賊を誅すべきところ、今は退き窮城を守る。もし賊に殺されなければ、法をもって誅せられるべきである。進退いずくに生路あらんや。しかるに王公諸将、晏然として謀無し。将に何をもって恩に報い責を塞がんや」と。奚斤は言う、「今もし出戦すれば、則ち馬力足らず、歩をもって騎を撃てば、終に捷理無し。まさに京師の救騎至るを須ち、然る後に歩陳は内にて撃ち、騎兵は其の外を襲うべし。所謂万全の計なり」と。安頡は言う、「今猛寇は外に遊逸し、而して吾らは兵疲れ力屈し、士に飢色あり。一たび決戦せずんば、則ち死は旦夕にあり、何の救兵か待つべきや。等しく死すべくんば、まさに戦死すべし。寧んぞ坐して困を受くべきや」と。奚斤はなお馬を以て言い訳とした。安頡は言う、「今兵は馬無きも、但だ将帥の乗ずる所、足るを得て二百騎あり。安頡、壮勇を募り出撃することを請う。就能わずんば、以て其の鋭を折るべし。且つ赫連昌は狷にして謀無く、毎たび挑戰を好み、衆皆これを識る。もし伏兵して奄かに撃てば、赫連昌は擒うべし」と。奚斤はなお難しとした。安頡は乃ち密かに尉眷らと謀り、騎を選んで待った。赫連昌が来たりて壘を攻めると、安頡は出てこれに応じた。赫連昌は陳前において自ら接戦し、軍士は赫連昌を識り、争いて赴いた。会天大風塵を揚げ、昼昏く、衆乱れ、赫連昌退く。安頡らは追撃し、赫連昌の馬蹶いて墜ちた。安頡は赫連昌を擒え、京師に送った。世祖は大いに悦び、安頡を建節将軍に拝し、爵を西平公に賜り、丘堆に代わって諸軍を統摂させた。奚斤は功己に在らずを恥じ、軽々しく赫連昌の弟赫連定を平涼に追い、敗績した。赫連定は復た長安に入らんとし、詔して安頡に蒲坂を鎮守させてこれを拒がせた。
劉義隆が将到彦之を遣わして衆を率いて河南を寇し、以て赫連定を援けようとした。世祖は兵少ないため、乃ち河南三鎮を摂して北に渡った。到彦之は遂に南岸に列守し、衡関に至った。世祖は西征して赫連定を討つ。安頡を冠軍将軍とし、諸軍を督して到彦之を撃たせた。到彦之は将姚縦夫を遣わして河を渡り冶坂を攻めさせると、安頡は諸軍を督してこれを撃ち、首級三千余を斬り、水に投ずる者甚だ衆かった。遂に河を済み、洛陽を攻め、これを抜き、劉義隆の将二十余人を擒え、首級五千を斬った。虎牢を進攻すると、虎牢潰え、劉義隆の司州刺史尹沖は城より墜ちて死んだ。また琅邪王司馬楚之と共に滑臺を平らげ、劉義隆の将朱脩之・李元德及び東郡太守申謨を擒え、俘獲万余りを得た。乃ち旅を振るって京師に還った。
神䴥四年に卒した。征南大将軍・儀同三司を追贈され、爵を王に進められ、諡して襄といった。安頡は将として、士衆を綏撫するに善く、卒するに及んで、劉義隆の士卒降る者、歎惜せざるは無かった。
同弟の䐗は、太宗の時に楽陵太守となった。卒した。
長子の国は、位は冠軍将軍に至り、爵を北平侯に賜り、杏城鎮将となった。
国の弟の難は、巧みな思慮があった。陽平王杜超が諸将を督して劉義隆を撃つに当たり、難は征南軍事に参じ、功により表されて清河太守となった。世祖の時、諸将が頻りに和龍を征したが、皆難を長史とした。山を穿ち谷を埋め、力を省き功を兼ねた。給事中に遷った。駕に従い南征し、河に浮橋を造り、功により爵を清河子に賜った。卒した。
子の 平城 は、爵を襲った。官は虞曹令に至った。乙渾に殺された。
楼伏連
楼伏連は、代の人である。代々酋帥を為した。伏連は忠厚にして器量有り、年十三にして父の位を襲い、部落を領した。太祖の初め、 賀蘭部 を破るに従った。また中山を平らげるに従い、太守となり、逆賊張翹を斬った。柴壁にて姚平を征するに従い、功により爵を安邑侯に賜った。太祖の時、晋兵将軍・ 并 州刺史となった。伏連は西河の胡曹成ら七十余人を招誘し、赫連屈孑の吐京護軍及びその守士三百余人を襲撃して殺し、併せて叛胡の阿度支ら二百余家を擒えた。太宗はこれを嘉し、成らを将軍に拝し、爵を列侯に賜った。伏連を徴して内都大官とした。世祖即位すると、広陵公に進み、衛尉に転じ、光禄勲に徙った。世祖が蠕蠕を征するに当たり、伏連は京師に留まって鎮し、王に進爵し、平南大将軍を加えられた。また仮節・河西諸軍を督す・鎮西大将軍を除かれ、出て統万を鎮した。真君十年に薨じ、諡して恭王と曰う。
子の真は、襲い、爵を公に降された。世祖の征伐に従い功有り、官は 散騎常侍 ・尚書・安北将軍に至った。湘東公に徙った。涼州を征するに従い、還る途中で卒した。諡して荘公と曰う。
子の干は、襲い、爵を侯に降された。
真の次弟の大抜は、歴任して尚書・ 散騎常侍 ・征西将軍となり、爵を永平侯に賜った。高祖の初め、中都大官となった。卒し、平東将軍・定州刺史を追贈され、諡して康と曰う。
子の稟、 字 は法生、襲いだ。太子宮門大夫に拝され、稍く趙郡太守に遷った。更任満了して京に還り、冠軍将軍・城門 校尉 を除かれた。出て征虜将軍・平城鎮将となった。朔州刺史に遷り、仍って本将軍のまま。入って衛尉少卿となった。卒し、年五十八。撫軍将軍・恒州刺史を追贈された。
子の貴宗は、武定年中、伏波将軍・開府水曹参軍となった。
伏連の兄の孫の安文。平涼を征するに従い功有り、爵を覇城男に賜り、虎威将軍を加えられた。後に三郎幢将に遷った。卒した。高祖の初め、その子の毅が貴んだことを以て、安東将軍・冀州刺史・陽平公を追贈され、諡して定と曰う。
毅は、内外の官を歴任し、稍く殿中尚書・ 散騎常侍 に遷り、爵を常山公に賜り、安南将軍を加えられた。尚書右僕射に遷った。反人梁衆保を擒えたことを以て、侍中を加えられ、本官のまま。後に例に従い侯に降された。出て使持節・鎮東将軍・定州刺史を除かれた。
時に太極殿が成り、将に考室の礼を行わんとし、群臣を引集したが、雪のため饗することができなかった。高祖曰く、「朕は正殿を経始し、功構初めて成り、将に百僚を集め、大礼を行わんとす。然るに同雲仍って結び、霏雪驟ち零る。寡昧なるが故に、能く天心に仰答せざるに由らん。此の不徳、咎竟に焉んぞ在る。卿等宜しく各おの懐く所を陳べて、以て不逮を匡うべし」。毅稽首して対えて曰く、「雪霜風雨は、天地の常なり。夏の霂、冬の霰は、四時の恒節なり。今隆冬雪降るは、固より其の時なり。又礼に云う、『雨服を沾し容を失すれば、則ち廃す』と。礼は古より然り、以て異と為すに足らず」。高祖曰く、「昔劉秀将に済らんとし、呼沱之が為に冰合せり。但だ朕の徳は古人に謝し、能く天意を仰感せざる故なり」。
後に 都督 涼河二州・鄯善鎮諸軍事、涼州刺史に転じた。車駕南伐するに当たり、毅表を上て諫めて曰く、「伏して承るに、六軍雲の如く動き、荊揚に問罪し、民を淮表に弔い、甌越と一に同ぜんとす。但だ臣の愚見、私に窃かに未だ安からず。何となれば、京邑新たに遷り、百姓業を易え、公私草創し、生途索然たり。兼ねて往歳稔らず、民多く飢饉す。二三の際、嗟惋易く興る。天道悠長なり、宜しく養晦を遵うべし。願わくは赫斯を抑え、以て後日を待たん」。詔して曰く、「時は自ら来らず、人に因りて則ち合す。今年の人事、殊に昔歳に非ず。守株の唱え、便ち停むべし。陽九利渉は、豈に卿の知る所ならんや」。
太和二十一年に卒す。錢二十萬、布二百匹を賜う。
丘堆
丘堆は代の人なり、容儀美しく、忠謹をもって親しく侍す。太宗即位し、左右に拾遺し、稍く 散騎常侍 に遷る。叔孫建らと共に山胡を討滅す。劉裕が河西を溯り西伐すと、詔して堆に建と共に河内より枋頭に次ぎて寇盗に備えしむ。姚泓既に滅び、堆は 并 州に留鎮す。赫連屈孑が三千騎を遣わし河西を寇すと、堆は自ら 并 州より游撃将軍王洛生と共にこれを撃走す。功により爵を侯に賜う。世祖が国を監し朝に臨むと、堆は 太尉 穆観らと共に右弼となる。世祖即位し、爵を進めて臨淮公とし、鎮西将軍を加う。太僕に徙る。
世祖が赫連昌を征すに、堆は常山王素と共に歩兵三万人を督し後継と為る。昌戦いに敗れ南奔す。世祖は堆と宗正娥清に五千騎を率い関右の地を略せしむ。昌の貳城守将は堅守して下らざるも、堆と清はこれを攻め抜く。詔して堆に班師せしむるも、宜城王奚斤が表して堆らを留め進めて昌を平らげんことを請う。許す。堆・斤は軍を合わせ昌と相拒撃す。士馬糧に乏しく、堆は義兵将軍封礼と共に民間に租を督す。士卒暴掠し、昌に襲われて敗績す。堆は数百騎を将いて城に還る。斤は赫連定を追撃し、堆に輜重を守らしむ。斤は定に擒えらる。堆聞きて甲を棄て長安に走り、また高涼王礼を将いて守りを棄て東に蒲坂へ走る。世祖大いに怒り、西平公安頡を遣わし堆を斬る。延和初、詔して曰く「堆は国の肺腑、勲は先朝に著る。西征に師を喪い、遂に軍法に従う。国除き祀絶ゆ。朕甚だこれを愍む。その子跋に爵を淮陵侯と賜い、安遠将軍を加うべし」と。後に蓋呉を征し、戦没す。
子麟、爵を襲ぐ。位を歴て駕部令となる。出でて瑕丘鎮将・仮平南将軍・東海公と為る。東兗州刺史に遷り、官に卒す。
娥清
娥清は代の人なり。少より将略有り、累ね戦功を著す。稍く振威将軍に遷る。劉裕が将朱超石を遣わし平原を寇し、畔城に至りて遁還す。清は長孫道生とこれを追い、河に至り、その将楊豊を獲る。還りて給事黄門侍郎を拝す。先に徒河の民三州に散居し、頗る民害と為る。詔して清にこれを平城に徙らしむ。清は綏撫に善くし、徙る者は帰するが如し。太宗南巡し鄴に幸す。清を中領軍将軍と為し、宋兵将軍周幾らと共に河を渡り地を略す。湖陸に至る。高平の民は林藪に屯聚し、官軍を拒射す。清ら因りて数千家を誅し、虜獲万余口。爵を須昌侯と賜う。清は幾らと遂に枋頭を鎮す。世祖初、清は枋頭より京師に還り、仮征南将軍と為り、進みて東平公と為る。蠕蠕の大檀が漠南に徙居す。清は平陽王長孫翰と共に東道より出で長川を経てこれを討ち、大いに獲て還る。宗正卿に転ず。尋いで蠕蠕征に従う。また統万平に従い、遂に奚斤と共に赫連昌を安定まで追う。昌と相持す。安頡が昌を擒えるに及び、昌の弟定は西走す。斤これを追う。清は水を尋ねて往かんと欲すも、斤従わず。遂に斤と共に定に擒えらる。世祖平涼を克つに及び、乃ち還るを得。後に詔して清に 并 州を鎮せしめ、西河にて山胡の白龍を討つ。白龍の父及びその将帥を斬り、遂にその城を屠る。平東将軍に遷り、古弼らと共に東に馮文通を討つ。急戦せざるを以て、文通は高麗に奔る。檻車に徴し、門卒に黜す。遂に家に卒す。
子延、官は員外 散騎常侍 に至り、爵を南平公と賜う。
劉尼
劉尼は代の人なり。本姓は獨孤氏。曾祖敦は太祖に功有り、方面大人と為る。父婁は冠軍将軍、卒して 并 州刺史を贈らる。尼は少より壮健、膂力有り、勇果にして射を善くす。世祖見てこれを善しとし、羽林中郎を拝し、爵を昌国子と賜い、振威将軍を加う。
宗愛が既に東廟にて南安王余を殺し、これを秘す。惟だ尼のみ状を知る。尼は愛に高宗を立てんことを勧む。愛は自ら景穆に負罪有りとし、聞きて驚きて曰く「君は大いなる癡人なり。皇孫若し立てば、豈に正平の時事を忘れんや」と。尼曰く「若し爾らば、今誰を立てんと欲するか」と。愛曰く「宮に還りを待ち、諸王子の賢なる者を擢げてこれを立てん」と。尼はその変有らんことを懼れ、密かに状を殿中尚書源賀に告ぐ。賀は時に尼と共に兵を典し宿衛す。仍いで南部尚書陸麗と共に謀りて曰く「宗愛は既に南安を立て、還りて復たこれを殺す。今皇孫を奉戴して以て民望に順わずんば、 社稷 危うし。将に如何にせんと欲するか」と。麗曰く「唯だ密かに皇孫を奉ずるのみ」と。ここにおいて賀は尚書長孫渇侯と共に兵を厳しくして守衛し、尼は麗と共に苑中にて高宗を迎う。麗は高宗を馬上に抱き、京城に入る。尼は馳せて東廟に還り、大呼して曰く「宗愛は南安王を殺し、大逆無道なり。皇孫既に大位に登る。詔有り、宿衛の士は皆宮に還るべし」と。衆咸に万歳を唱う。賀及び渇侯は登りて宗愛・賈周らを執り、兵を勒して入り、宮門外にて高宗を奉じ、入りて永安殿に登る。尼を内行長と為し、爵を進めて建昌侯とす。 散騎常侍 ・安南将軍に遷る。また爵を進めて東安公とす。尋いで尚書右僕射に遷り、侍中を加え、進みて王に封ぜらる。
出でて征南将軍・定州刺史と為る。州に在りて清慎なり。然れども率ねく酒に酔い、治むる日甚だ少なし。徴されて殿中尚書と為り、侍中・特進を加う。高宗の末、 司徒 に遷る。顕祖即位し、尼が先朝に大功有るを以て、弥く尊重を加え、別戸三十を賜う。皇興四年、車駕北征す。帝親しく衆に誓う。而るに尼昏酔し、兵陣整わず。顕祖はその功重きを以て、特しくこれを恕し、官を免するのみ。延興四年に薨ず。
子社生、爵を襲ぐ。世宗の時、寧朔将軍・歩兵 校尉 。熙平初に卒す。龍驤将軍・朔州刺史を贈られ、諡して克と曰う。
奚眷
奚眷は代の人なり。少より将略有り。太祖の時戦功有り。太宗の時、尚書・仮安南将軍・虎牢鎮将と為り、寇に憚らしむ。世祖初、中軍・都曹尚書と為り、復た虎牢を鎮め、爵を南陽公と賜い、使持節・侍中・ 都督 豫 洛二州河内諸軍事・鎮南将軍・開府を加う。尋いで長安に徙鎮す。世祖美稷に幸す。眷は詔を受けて諸軍を督し、共に西河にて山胡の白龍を討ち、これを破り、その城を屠り、数千級を斬首し、その妻子を虜して還る。世祖姑臧を平ぐ。眷を遣わし沮渠牧犍の弟、私署の張掖太守宜得を討たしむ。宜得は酒泉に奔る。酒泉太守無 諱 は宜得と共に高昌に奔る。その二城を獲る。後に沮渠天周復た酒泉を拠す。眷これを討平し、男女四千余人を虜う。世祖蠕蠕を征す。眷を尚書と為し、偏将を督して別道より出で、詔して鹿渾海に会せしむ。眷は中山王辰ら諸大将と共に皆後期し、都の南にて斬らる。爵除かる。
車伊洛
車伊洛は焉耆の胡人である。代々東方の境域の部落の帥となり、常に職貢を修めた。世祖はその誠実な志を記録し、延和年間に伊洛を平西将軍に任じ、前部王に封じ、絹百匹、綿百斤、繡衣一具、金帯・靴・帽を賜った。伊洛は大いに喜び、帰闕することを企図した。沮渠無諱が道路を遮断したので、伊洛は無諱と連戦してこれを撃破した。時に無諱が卒し、その弟の天周が無諱の子の乾寿の兵を奪い、部曲を統率しようと企てた。伊洛は前後して使者を遣わし招諭し、乾寿らは五百余戸を率いて来奔し、伊洛は彼らを京師に送った。また李宝の弟の欽ら五十余人を招諭し、敦煌に送り届けた。伊洛はさらに部衆二千余人を率いて高昌を討伐し、焉耆の東関七城を討ち破り、男女二百人、駱駝千頭、馬千匹を虜獲した。金百斤を以て奉献した。
先に、伊洛が焉耆を征討した際、その子の歇に城を守らせたが、安周が虚に乗じて蠕蠕を引き入れ三道より歇を包囲し、併せて使者を遣わし歇に謂って曰く、「爾が父は既に大魏に投じた。爾は速やかに帰順せよ、当に爾に爵号を賜わん」と。歇は固く守り、連戦した。久しくして、外に救援なく、安周に陥落せられ、走って伊洛に奔った。伊洛は遺散の者一千余家を収集し、焉耆鎮に帰った。世祖はこれを嘉した。正平元年、詔して伊洛に曰く、「歇は年尚幼きも、能く城邑を固守し、忠節顕著なり、朕甚だ之を嘉す。可に歇を遣わして闕に詣らしめよ」と。伊洛は歇に命じ、弟の波利ら十余人を率いて都に赴かせた。
正平二年、伊洛は京師に朝し、妻妾・奴婢・田宅・牛羊を賜わり、上將軍に拝され、王は元の如し。興安二年に卒す。鎮西大将軍・秦州刺史を追贈され、諡して康王と曰う。綿絹雑綵五百匹、衣二十七襲を賜う。葬禮は盧魯元の故事に依る。
歇は爵を襲ぐ。皇興末、使持節・平西将軍・ 豫 州刺史に拝される。延興三年に卒し、子の伯主が爵を襲ぐ。
波利は、天安二年に立節将軍・楽官侯に拝される。皇興三年に卒し、兄の子の洛都が爵を襲ぐ。
宿石
宿石は朔方の人、赫連屈孑の弟の文陳の曾孫である。天興二年、文陳父子は帰闕し、太祖は之を嘉し、宗女を以て妻と為し、奴婢数十口を賜い、上將軍に拝した。祖の若豆根は、太宗の時に宿氏の姓を賜い、上將軍を襲ぐ。父の沓干は、世祖の時に虎賁幢将。平涼征討に従軍して功有り、虎威将軍・侍御郎に拝され、漢安男の爵を賜う。中散に転じ、給事に遷り、兼ねて工曹を領す。和龍討伐に従駕し、功により奴婢十七戸を賜う。真君四年、蠕蠕討伐に従駕し、戦没す。世祖は之を悼惜し、詔して沓干の子を求む。時に石は年甫十一、引見され、幼少を以て帰ることを聴す。年十三、爵を襲ぎ、中散に抜擢される。江への従駕に至り、宣威将軍に拝される。興光中、侍御史に遷り、中壘将軍に拝され、爵を進めて蔡陽子と為し、宜官曹を典す。内行令に遷る。苑内に従幸し、遊猟す。石は高宗の前を走馬し、道険しく、馬倒れて殞絶し、久しくして乃ち蘇る。これにより御馬は制を得たり。高宗は之を嘉し、綿百斤、帛五十匹、駿馬一匹を賜い、爵を改めて義陽子と為す。嘗て猟に従い、高宗親ら虎を射んと欲す。石は馬を叩いて諫め、高宗を高原の上に導く。後に虎騰躍して人を殺す。詔して曰く、「石は忠臣たり、馬を鞚ぎ切に諫め、虎の害を免る。後に罪有るも、宥して坐せざれ」と。駿馬一匹を賜う。上谷公主を尚し、駙馬都尉に拝される。天安初、 散騎常侍 ・吏部尚書に遷り、爵を進めて太山公と為し、北中道都大将と為る。延興元年に卒す。太原王を追贈され、諡して康と曰う。葬禮は盧魯元の故事に依る。太和初、子の倪が爵を襲ぐ。比部侍御。
来大千
来大千は代の人。父の初真は、太祖に従い叱候山に避難し、創業の功に参じ、官は後将軍・武原侯に至り、八議に与る。大千は 驍 果にして騎射に善く、騎都尉と為る。永興初、爵を襲ぎ、中散に遷る。朝賀の日に至っては、大千は常に御鎧を着し、殿前で馬を盤め、朝臣嗟歎せざる者無し。内幢将に遷り、宿衛禁旅を典す。大千は用法厳明にして上下斉粛たり。嘗て太宗に従い校猟し、虎が高巖の上に在るを見て、大千は矟を把り直前に進みて之を刺し、手に応じて死す。太宗は其の勇壮を嘉し、また殿中給事と為す。
世祖 践祚 し、襄城公盧魯元ら七人と倶に常侍と為り、仗を持ち侍衛し、昼夜左右を離れず。赫連昌討伐に従い、長孫道生と共に賊と交戦す。道生の馬倒れ、賊に撃たれんとす。大千馳せて救い、賊衆散走す。大千は道生を扶けて馬上に上らせ、遂に免るるを得たり。蠕蠕討伐に従い、戦功多くを占む。征北大将軍に遷り、廬陵公の爵を賜い、雲中に鎮し、兼ねて白道の軍事を統ぶ。〈闕〉賊北に叛く。大千は前後して追撃し、平殄せざる莫し。延和初、車駕北伐し、大千は前鋒と為り、大いに虜軍を破る。世祖は其の壮勇、数々の戦功有るを以て、兼ねて北境の険要に悉くすを詔し、大千に六鎮を巡撫せしめ、寇虜を防がしむ。経略布置、甚だ事宜を得たり。後に吐京胡反す。大千を都以て将と為し討平す。吐京に在りて卒す。喪還り、平城南に停む。世祖出で、還り、之を見て問う。左右以て対す。世祖悼歎すること良久し。詔して曰く、「大千は忠勇節を尽くし、功嘉す可し。今喪の城内に入り殯ることを聴す」と。 司空 を贈られ、諡して莊公と曰う。
子の丘頽、爵を襲ぐ。降って 晉 興侯と為る。安遠将軍に拝される。江への従駕に至り、右将軍に進む。和平中、中散に遷り、相曹都典奉事に転ず。皇興四年に卒す。寧南将軍・陳留公を追贈され、諡して簡と曰う。子の蕇、爵を襲ぐ。
丘頽の弟の提、官は監御曹給事・冠軍将軍・兗州刺史・濮陽侯に至る。太和十年に卒す。
周幾
周幾は代の人。父の千は、太祖の世に功有り、順陽侯の爵を賜う。事に坐して死す。幾は少より善く騎射を以て獵郎と為る。太宗即位し、殿中侍御史と為り、宿衛禁兵を掌り、断決称職たり。左民尚書に遷る。神瑞中、 并 州の飢民山東に遊食す。詔して幾に衆を領し博陵の魯口に鎮し以て之を安集せしむ。泰常初、白澗・行唐の民数千家、嶮を負いて輸税を供せず。幾は安康子の長孫道生と禍福を宣示し、逃民遂に還る。時に郡県、叛胡の翟猛雀を林慮山に斬る。猛雀の遺種、行唐及び襄国に竄る。幾追討し、尽く之を誅す。後に寧朔将軍と為り、南に於て司馬德宗の将劉裕を拒ぎ、土楼に於て毛德祖を破る。功により交阯侯の爵を賜う。世祖は幾に智勇有るを以て、河南に鎮せしめ、威信外境に著わる。幾は常に奚斤らの関中綏撫の失和を嫌い、百姓附かざるを嫌う。毎に言論に至りては、形声色に現る。斤ら之を憚る。号を進めて宋兵将軍と為す。洛州刺史の于栗磾を率い万人を以て陝城を襲う。軍中に卒す。軍人歎惜せざる者無し。帰葬して京師す。交阯公を追贈され、諡して桓と曰う。
子の歩は爵位を襲った。卒去した。
子の安国は爵位を襲った。太和年間、蠕蠕を討伐したが、戦いに敗れ、法により処刑された。爵位は除かれた。
豆代田
豆代田は代の人である。太宗の時に騎射に優れていたため内細射となった。虎牢攻めに従い、詔により代田は楼閣に登って賊を射たが、矢は虚しく発せられることがなかった。奚斤の先鋒と共に先に入城し、劉義隆の将毛徳祖および長史・司馬の三人を生け捕りにした。功により内三郎に遷った。赫連昌討伐に従い、勝に乗じて賊を追撃し、その宮門に入ったが、門は閉ざされ、代田は宮を越えて脱出した。世祖はこれを壮とし、勇武将軍に任じた。後に平昌に従駕し、戦功により奴婢十五口、黄金百斤、銀百斤を賜った。神䴥年間、蠕蠕を討伐し、関中侯の爵を賜った。平涼討伐に従い、赫連定を撃破し、奚斤らを得た。世祖は定の妻を代田に賜い、斤に詔して膝行して代田に酒を授けさせた。斤に勅して曰く、「汝の身命を全うさせたのは、代田の功である」と。爵を井陘侯に改め、 散騎常侍 ・右衛将軍・領内都幢将を加えられた。和龍討伐に従い、戦功が多く、殿中尚書に遷り、奴婢六十口を賜った。前後の軍功により、長広公に爵を進め、平東将軍を加えられた。南討に従駕した。太子 太保 に転じた。出て統万鎮大将となった。興安年間に卒去した。侍中・安東大将軍・長広王を追贈され、諡して恭といった。
子の求周は内三郎となった。江に従駕し、五等子の爵を賜った。また侯に爵を進めた。後に父の爵を襲った。吏部尚書となった。皇興二年に卒去した。征北大将軍・長広王を追贈され、諡して簡といった。子の多侯が爵を襲った。
周観
周観は代の人である。 驍 勇で膂力があり、常に軍陣において、必ず募に応じて先に登った。功により軍将長史に進み、まもなく軍将に転じた。赫連屈丐を撃って功があり、安川子の爵を賜り、北鎮軍将に遷った。世祖が即位すると、蠕蠕討伐に従った。軍功により都副将に進み、雲中を鎮守した。神䴥年間、また蠕蠕を討伐し、大いに獲るところがあり、爵を侯に増した。平涼征伐に従い、金城公に爵を進め、都将に遷った。離石胡を破るのに従い、 散騎常侍 を加えられた。高平鎮将に転じた。観は士卒をよく撫で、威名があると称された。真君初年、詔により観は五軍を統率して西の張掖において禿髪保周を討伐した。その民数百家を移し、京師に置こうとしたが、武威に至り、諸将と私的にこれを分けた。世祖は大いに怒り、観を金城侯に貶し、内都大官に改めて授けた。出て平南将軍・秦州刺史を除され、再び金城公の爵位に復した。撫馭に和を失い、民の薛永宗が汾曲に衆を集めて叛いた。観は永宗を討伐したが、流れ矢に当たった。世祖が蒲坂に幸したとき、観は帝の到着を聞き、驚き恐れて起き上がり、創が重く遂に卒去した。世祖は怒り、その爵を絶った。
子の豆は初め三郎となり、軍将に遷った。長楽太守の任で卒去した。
閭大肥
閭大肥は蠕蠕の人である。太祖の時、弟の大埿倍頤と共に宗族を率いて帰国した。太祖はこれを善しとし、華陰公主を娶らせ、其思子の爵を賜い、弟と共に上賓とし、八議に入れた。太宗が即位すると、大肥を内都大官に進め、爵を侯に増した。神瑞年間、都将となり、跋那山において越勒部を討伐し、大いにこれを破った。泰常初年、また都将となり、禁兵を率いて蠕蠕を討伐し、その大将莫孤渾を獲た。宜城王奚斤が虎牢を攻めたとき、大肥は娥清と共に十二軍を率いて中道より出で、高平・金郷の地を略し、東は泰山に至った。大肥に仮に使持節・安陽公を授け、陳汝を鎮撫させた。世祖の初年、また奚斤と共に雲中白道より出でて大檀を討伐し、これを破った。還って内都大官となった。出て使持節・冀青二州刺史を除され、仮に 滎陽 公を授かった。まもなく召還され、位は特進となった。再び出て冀青二州刺史となった。まもなく入朝して内都大官となった。赫連昌討伐に従い、功により 滎陽 公を授かった。公主が薨じたので、再び濩沢公主を娶った。また都将となり、大檀を撃ち、大いにこれを破った。還って渇侯山に至り、遂に巳尼陂において東部高車を討伐した。また平涼を征し、共に功があった。世祖は大肥を王に封じようとしたが、病に遇い卒去した。中山王を追贈された。子の賀は早くに卒去した。
大肥の弟の驎が爵を襲った。出て仇池鎮将となった。卒去し、子がなかった。
弟の鳳が爵を襲った。高宗の時に内都大官となり、出て鎮南将軍・肆州刺史となった。卒去し、子がなく、爵は除かれた。
尉撥
尉撥は代の人である。父の那は濮陽太守であった。撥は太学生となり、募に応じて兗州刺史羅忸に従い陳汝において賊を撃ち、功があり、介休男の爵を賜った。和龍討伐に従い、虎賁帥に遷り、千人軍将に転じた。また楽平王丕に従い和龍を討伐した。涼州軍将を除され、吐谷渾を撃ち、その人一千余落を獲た。後に吐谷渾の小将が三百余落を率いて来降したが、まもなくまた亡叛したので、撥は騎兵を率いてこれを追い、ことごとく獲て還った。功により爵を子に進めた。晋昌鎮将に遷り、辺民を綏撫懐柔し、甚だ称すべき績を著した。入朝して知臣監となった。出て杏城鎮将となり、在任九年、民の和を大いに収め、山民一千余家・上郡の徒各・盧水胡八百余落がことごとく付いて民となった。高宗は撥が清平で恵みの績があるとして、衣服を賜った。顕祖が即位すると、北征都将となった。また都将となり、南の懸瓠を攻め、劉彧の将朱湛の水軍三千人を破り、懸瓠鎮将に任じられ、員外 散騎常侍 を加えられ、安城侯に爵を進めた。顕祖はその名声と功績を嘉し、また衣服を賜った。平南将軍・北 豫 州刺史に転じた。後に洛州の民田智度が徒党を集めて謀叛を企てた。詔により撥は伝車に乗り 豫 州兵を発し、洛州刺史丘頓と共にこれを撃ち、智度を獲て京師に送った。撥が卒去すると、冠軍将軍を追贈され、諡して敬侯といった。
陸真
陸真は代の人である。父の洛侯は秦州長史であった。真は若くして騎射に長じた。世祖の初年、真が膂力人に過ぐるを以て、内三郎に拝された。数たび征伐に従い、所在に鋒を摧き陳を陥し、前後功を以て賞賜を屡く受けた。
真君の中、蠕蠕を討つに従い、功を以て関内侯の爵を賜う。後に懸瓠を攻め、楼に登り城中に臨んで射れば、弦虚しく発することなし。劉義隆の将王玄謨、衆数万人を率いて滑台を寇す。真は世祖に従いてこれを討つ。夜、数人と小船に乗り玄謨の軍を突き、城に入り撫慰し、城に登り、賊の営中を巡行し、乃ち還って河を渡る。明け方に至り、玄謨敗走す。駕に従いて江に至り、真再び賊軍を破り、建武将軍・石城子に拝される。還って盱眙を攻むるに、真の功居多し。給事中に遷り、太倉の事を典す。
高宗即位し、冠軍将軍に拝し、都昌侯に爵を進む。 散騎常侍 に遷り、選部尚書となる。時に丁零数千家、 并 ・定を寇窃す。真は 并 州刺史乞伏成龍と共に楽平より東に入り、定州刺史許崇之と併力して討滅す。駕に従い東海を巡り、真を寧西将軍と為す。尋いで安西将軍・長安鎮将に遷り、建平公を仮す。胡賊の帥賀略孫、衆千余人を聚めて石楼に叛く。真これを撃破し、五百余人を殺す。是の時、初めて長蛇鎮を置く。真衆を率いて城を築く。未だ訖らざるに、 氐 の豪仇傉檀等反叛し、氐民皆応じ、その衆甚だ盛んなり。真これを撃ち平げ、四千余人を殺し、遂に長蛇を城して還る。
東平王道符、長安に反し、雍州刺史魚玄明を殺し、関中草草たり。真を長安鎮将と為し、河南公の爵を賜う。長安の兵民、素より威信に伏す。真到りて之を撫慰すれば、皆怡然として安静なり。咸陽の民趙昌、劉彧に署せられて龍驤将軍となり、鄠・𥂕厔の二県を扇動し、党数百人を聚めて赤谷に拠りて叛く。真は雍州刺史劉邈と共にこれを討平し、昌単騎走りて免る。後に鄠県の民王稚兄弟、二千余人を聚め、趙昌を招引す。始平・石安・池陽・霊武の四県の人皆これに応じ、衆五千に至り、治谷堡に拠る。時に詔して南郡王李惠等に歩騎六千を領せしめて昌を討たしむ。真は大軍未だ至らざるを以て、昌の滋蔓を慮り、雍州刺史劉邈と共に昌を討つ。昌出営して拒戦す。真これを撃破し、昌及び賊首三千余級を斬り、首を京師に伝え、 并 せてその党与七百余人を誅し、男女一千余口を獲る。雍州の民夷、震伏せざるは莫し。鎮に在ること数年、威称甚だ著し。延興二年卒す。京師に帰葬し、諡して烈と曰う。
子の延、字は契胡提、頗る気幹有り、河南公の爵を襲ぐ。累遷して歴任し長安鎮将となり、安南将軍・済州刺史に拝される。例に降り、汝陽侯に改封さる。京兆王愉、徐州刺史と為り、延を愉の府司馬と為し、彭城内史を帯ぶ。正始の初、武川鎮将を除く。入りて太僕卿を除く。沃野・武川・懐朔の三鎮諸軍事を 都督 し、安北将軍・懐朔鎮大将、 散騎常侍 を加えらる。正光の初、金紫光禄大夫に拝し、復た太僕卿を除く。使を受け秀容を綏慰す。牧子の為に害せらる。
弟の什夤、太府卿・平東将軍・光禄大夫。建義の初、都官尚書に拝す。平南将軍・光禄大夫にて卒す。
呂洛拔
呂洛拔は代の人である。曾祖の渴侯、昭成の時に戸五千を率いて帰国す。祖の肥、濮陽太守。父の匹知、世祖の時に西部長・ 滎陽 公と為る。洛拔は壮勇を以て知名なり。高宗の末、平原鎮都将と為る。劉彧の徐州刺史薛安都帰誠し、援を請う。詔して尉元に衆を率いしめてこれを救わしむ。洛拔は元に随い彭城に入る。彧の将張永、将の王茂之に兵五千を領せしめて武原に向かわしめ、その運車を援けしむ。元は洛拔に騎を率いしめて武原に詣りてこれを撃たしむ。格戦すること二日、手ずから九人を殺す。賊の運車二百余乗、牛二百五十頭を奪う。乃ち共に張永を撃ち、これを大敗せしむ。成武侯の爵を賜い、建義将軍を加えらる。年五十六、卒す。
長子の文祖、顕祖その勲臣の子を以て、龍牧曹奏事中散に補す。牧産滋ならざるを以て、坐し武川鎮に徙さる。後に文祖、旧語を以て皇誥を訳注し、辞義通弁なり。超授して陽平太守と為す。未だ拝せざるに、転じて外都曹奏事中散と為る。後に事に坐し伏法す。
史臣曰く、仁人の言は必ず博く利あるなり。参合の役、威罰実に行わる、蓋し王建の罪か。安同は異類の人なり、智識用いに入り、任時俊に等しきは、当に由有るかな。頡は赫連昌を擒にし、義隆の衆を摧き、遂に名将と為る、軽くすべからざるなり。楼伏連・丘堆・娥清、倶に壮勇を以て、征伐四克す。劉尼は国に忠く主を翼け、豈徒に 驍 猛の用のみならんや。奚眷は将略を以て位に致るも、功名を以て自ら終わる能わず。車伊洛は遠より自ら心を宅す、凡戎に異なるかな。宿石等並びに忠勤勇略有り、将帥の才あり、自ら青雲に致る、豈徒然ならんや。
校勘記