魏書

卷29 奚斤 叔孫建

卷29 奚斤 叔孫建

奚斤

原文奚斤

奚斤は代の人であり、代々馬牧を司った。父の簞は、昭成皇帝に寵愛された。当時、国に良馬があり「騧騮」と称したが、ある夜忽然と失せ、求めても得られなかった。後に南部大人の劉庫仁が盗み、窟室で飼っていたことを知った。簞はこれを聞き、馳せ往って馬を取ろうとした。庫仁は国甥として寵を恃み、恥じて簞を迎え撃った。簞はその髪を掴んで引き落とし、その一方の乳房を傷つけた。苻堅が庫仁と衞辰に国部を分領させると、簞は恐れ、家族を率いて民間に逃げ隠れた。庫仁が激しく求めたため、簞は遂に西に奔って衞辰に身を寄せた。太祖が衞辰を滅ぼすと、簞は遅れてようやく帰還したので、故に名位は旧臣より後となった。

原文奚斤,代人也,世典馬牧。父簞,有寵於昭成皇帝。時國有良馬曰「騧騮」,一夜忽失,求之不得。後知南部大人劉庫仁所盜,養於窟室。簞聞而馳往取馬,庫仁以國甥恃寵,慚而逆擊簞。簞捽其髮落,傷其一乳。及苻堅使庫仁與衞辰分領國部,簞懼,將家竄於民間。庫仁求之急,簞遂西奔衞辰。及太祖滅衞辰,簞晚乃得歸,故名位後於舊臣。

斤は機敏にして識度があった。登国の初め、長孫肥らと共に禁兵を統率した。後に斤を侍郎とし、左右に親近させた。参合において慕容宝を破るに従う。皇始の初め、中原征伐に従い、斤を征東長史とし、越騎校尉を拝し、宿衛禁旅を司った。車駕が京師に還ると、博陵・勃海・章武の諸郡に群盗が並び起こり、所在に屯聚し、長吏を拒害した。斤は略陽公元遵らと山東諸軍を率いてこれを討平した。高車諸部を征伐し、大いにこれを破った。また厙狄・宥連部を破り、その別部諸落を塞南に移した。さらに侯莫陳部を進撃し、俘虜と雑畜十余万を獲、大峨谷に至り、戍を置いて還った。都水使者に遷り、出て晋兵将軍・幽州刺史となり、山陽侯の爵を賜った。

原文斤機敏,有識度。登國初,與長孫肥等俱統禁兵。後以斤為侍郎,親近左右。從破慕容寶於參合。皇始初,從征中原,以斤為征東長史,拜越騎校尉,典宿衞禁旅。車駕還京師,博陵、勃海、章武諸郡,羣盜並起,所在屯聚,拒害長吏。斤與略陽公元遵等率山東諸軍討平之。從征高車諸部,大破之。又破厙狄、宥連部,徙其別部諸落於塞南。又進擊侯莫陳部,俘虜獲雜畜十餘萬,至大峨谷,置戍而還。遷都水使者,出為晉兵將軍,幽州刺史,賜爵山陽侯。

太宗が即位すると、鄭兵将軍となり、州郡を巡行し、民の疾苦を問うた。章武の民劉牙が党を聚めて乱を為すと、斤がこれを討平した。詔して斤の世の忠孝を以て、その父簞に長寧子を追贈した。太宗が雲中に幸すると、斤は京師を留守した。昌黎王慕容伯兒が軽侠失志の徒李沈ら三百余人を収合して謀反を企てた。斤はこれを聞き、伯児を召して天文殿東廡の下に入れ、窮問して款引させ、その党を悉く収めて誅した。詔して南平公長孫嵩らと共に朝堂に坐し、囚徒の決断を録す。太宗が東郊で大閲し、兵を治め武を講じ、斤を行左丞相とした。石会山で大蒐を行う。車駕が西巡し、詔して斤を先駆とし、鹿那山において越勒部を討ち、大いにこれを破り、馬五万匹、牛羊二十万頭を獲、二万余家を移して還った。また詔して斤と長孫嵩ら八人に、止車門の右に坐し、万機を聴理させた。蠕蠕が塞を犯すと、斤らにこれを追わせた。事は蠕蠕伝に具わる。天部大人を拝し、爵を公に進め、斤に軺軒に乗り出入りし、威儀導従を備えさせることを命じた。世祖が皇太子となり、朝に臨んで政を聴くに当たり、斤を左輔とした。

原文太宗即位,為鄭兵將軍,循行州郡,問民疾苦。章武民劉牙聚黨為亂,斤討平之。詔以斤世忠孝,贈其父簞為長寧子。太宗幸雲中,斤留守京師。昌黎王慕容伯兒收合輕俠失志之徒李沈等三百餘人謀反,斤聞而召伯兒入天文殿東廡下,窮問款引,悉收其黨誅之。詔與南平公長孫嵩等俱坐朝堂,錄決囚徒。太宗大閱于東郊,治兵講武,以斤行左丞相。大蒐於石會山。車駕西巡,詔斤為先驅,討越勒部於鹿那山,大破之,獲馬五萬匹,牛羊二十萬頭,徙二萬餘家而還。又詔斤與長孫嵩等八人,坐止車門右,聽理萬機。蠕蠕犯塞,令斤等追之。事具蠕蠕傳。拜天部大人,進爵為公,命斤出入乘軺軒,備威儀導從。世祖之為皇太子,臨朝聽政,以斤為左輔。

劉義符が立つと、その大臣は附かず、国内は離阻した。そこで斤を遣わして劉裕が以前侵した河南の地を収めさせ、斤に節を仮し、都督前鋒諸軍事・司空公・晋兵大将軍・行揚州刺史とし、呉兵将軍公孫表らを率いて南征させた。表の計を用いて滑台を攻めるも、抜けず、援軍を求めた。太宗はその先に地を略さなかったことを怒り、厳しく責めた。そこで自ら南巡し、中山に次いだ。義符の東郡太守王景度が城を棄てて遁走し、司馬楚之らは並び使を遣わして斤に降った。斤は滑台より洛陽に向かい、義符の虎牢守将毛徳祖がその司馬翟広・将軍姚勇錯・竇霸らに五千人を率いさせて土楼を占拠し斤を拒がせた。斤は進撃してこれを破った。広らは単騎で走り免れ、その衆を尽く殪した。斤は長駆して虎牢に至り、汜東に軍した。表に輜重を守らせ、自ら軽兵を率いて河南・潁川・陳郡以南を巡下し、百姓は帰附しない者無かった。義符の陳留太守厳稜は郡を以て降った。斤は遂に兗・豫の諸郡を平定し、還って虎牢を囲んだ。徳祖は拒守して下らなかった。虎牢が潰えると、斤は守宰を置いてこれを撫した。魏初以来、大将が行師するに、長孫嵩が劉裕を拒いだ時と、斤が河南を征した時のみ、漏刻及び十二牙旗を給した。太宗が崩ずると、斤は班師した。

原文劉義符立,其大臣不附,國內離阻。乃遣斤收劉裕前侵河南地,假斤節,都督前鋒諸軍事、司空公、晉兵大將軍、行揚州刺史,率吳兵將軍公孫表等南征。用表計攻滑臺,不拔,求濟師。太宗怒其不先略地,切責之。乃親南巡,次中山。義符東郡太守王景度捐城遁走,司馬楚之等並遣使詣斤降。斤自滑臺趣洛陽,義符虎牢守將毛德祖遣其司馬翟廣、將軍姚勇錯、竇霸等率五千人據土樓以拒斤,斤進擊,破之。廣等單馬走免,盡殪其眾。斤長驅至虎牢,軍於汜東。留表守輜重,自率輕兵徇下河南、穎川、陳郡以南,百姓無不歸附。義符陳留太守嚴稜以郡降。斤遂平兗豫諸郡,還圍虎牢。德祖拒守不下。及虎牢潰,斤置守宰以撫之。自魏初,大將行師,唯長孫嵩拒劉裕,斤征河南,獨給漏刻及十二牙旗。太宗崩,斤乃班師。

世祖が即位すると、爵を宜城王に進め、仍って司空とした。世祖が赫連昌を征するに、斤を遣わして義兵将軍封礼らに四万五千人を督させて蒲坂を襲わせた。昌の守将赫連乙升は斤の将到るを聞き、使を遣わして昌に告げた。使が統万に至ると、大軍が既にその城を囲んでいるのを見て、還って乙升に告げて言うには、「昌は既に敗れた」と。乙升は懼れ、蒲坂を棄てて西走した。斤は追撃してこれを破り、乙升は遂に長安に奔った。斤は蒲坂に入り、その資器を収め、百姓は安堵した。昌の弟助興は先に長安を守っていたが、乙升が至ると、また助興と共に長安を棄て、西走して安定に至り、斤はまた西進して長安を占拠した。ここにおいて秦・雍の氐・羌は皆来て帰附した。赫連定と相持し、累戦して定を破った。定は昌の敗れたを聞き、遂に上邽に走り、斤はこれを追い、雍に至ったが、及ばずして還った。詔して斤に班師せしめると、斤は上疏して言うには、「赫連昌は上邽に亡保し、余燼を鳩合しているが、盤拠の資は未だ無し。今その危きに因りて滅ぼすは易し。鎧馬を益すことを請い、昌を平らげて還らん」と。世祖は言うには、「昌は亡国の叛夫なり、これを撃てば将士を労傷す。且く兵を息め、これを取るは遅からず」と。斤は表を抗して固執したので、遂にこれを許し、斤に万人を給し、将軍劉抜を遣わして馬三千匹を斤に送らせた。斤は進んで安定を討ち、昌は退いて平涼を保った。斤は安定に屯軍したが、糧尽き馬死し、遂に深く壘を築いて自固した。監軍侍御史安頡が昌を撃ち、これを擒にした。語は頡伝にある。

原文世祖即位,進爵宜城王,仍為司空。世祖征赫連昌,遣斤率義兵將軍封禮等督四萬五千人襲蒲坂。昌守將赫連乙升聞斤將至,遣使告昌。使至統萬,見大軍已圍其城,還告乙升曰:「昌已敗矣。」乙升懼,棄蒲坂西走。斤追敗之,乙升遂奔長安。斤入蒲坂,收其資器,百姓安業。昌弟助興,先守長安,乙升至,復與助興棄長安,西走安定,斤又西據長安。於是秦雍氐羌皆來歸附。與赫連定相持,累戰破定。定聞昌敗,遂走上邽,斤追之,至雍,不及而還。詔斤班師,斤上疏曰:「赫連昌亡保上邽,鳩合餘燼,未有盤據之資。今因其危,滅之為易。請益鎧馬,平昌而還。」世祖曰:「昌亡國叛夫,擊之勞傷將士,且可息兵,取之不晚。」斤抗表固執,乃許之,給斤萬人,遣將軍劉拔送馬三千匹與斤。斤進討安定,昌退保平涼。斤屯軍安定,以糧竭馬死,遂深壘自固。監軍侍御史安頡擊昌,擒之。語在頡傳。

昌の衆は復た昌の弟定を立てて主とし、平涼を守った。斤は自ら元帥としながら、昌を擒にした功が更に己に在らず、深くこれを恥じた。そこで輜重を捨て、軽く三日分の糧を齎し、平涼において定を追った。娥清は水を尋ねて往かんとしたが、斤は従わず、自ら北道よりその走路を邀えんとした。定の衆が将に出んとするに、一人の小将が罪有って賊に亡入りし、その実を具に告げた。定は斤の軍に糧無く水乏しきを知り、乃ち斤の前後を邀えた。斤の衆は大潰し、斤及び娥清・劉抜は定に擒にされ、士卒の死者六七千人に及んだ。後、世祖が平涼を克つと、斤らは帰還を得た。宰人に免じ、酒食を負わせて車駕に従い京師に還り、以てこれを辱めた。

原文昌眾復立昌弟定為主,守平涼。斤自以元帥,而擒昌之功,更不在己,深耻之。乃舍輜重,輕齎三日糧,追定於平涼。娥清欲尋水而往,斤不從,自北道邀其走路。定眾將出,會一小將有罪亡入賊,具告其實。定知斤軍無糧乏水,乃邀斤前後。斤眾大潰,斤及娥清、劉拔為定所擒,士卒死者六七千人。後世祖克平涼,斤等得歸。免為宰人,使負酒食從駕還京師以辱之。

尋いで安東将軍を拝し、爵を公に降した。車駕が将に馮文通を討たんとし、詔して斤に幽州の民及び密雲の丁零一万余人を発し、攻具を運ばせて南道より出させた。太延の初め、衛尉となり、弘農王に改め、征南大将軍を加えられた。後に万騎大将軍となった。

原文尋拜安東將軍,降爵為公。車駕將討馮文通,詔斤發幽州民及密雲丁零萬餘人,運攻具出南道。太延初,為衞尉,改為弘農王,加征南大將軍。後為萬騎大將軍。

世祖が群臣を西堂に大集し、涼州を伐つことを議した。斤ら三十余人は議して言うには、「河西王牧犍は、西垂の下国なり。内には純臣ならずとも、外には職貢を修めたり。寛宥を加え、その微愆を恕すべし。去歳新たに征し、士馬疲弊す。大挙すべからず、且く覊縻すべし。その地は鹵薄にして、水草略無し。大軍既に到れば、久停を得ず。彼軍来るを聞けば、必ず城に嬰り固守せん。攻むれば則ち抜き難く、野に掠むる所無く、終に克獲無からん」と。世祖は従わず、これを征した。涼州が平らぐと、戦功を以て僮隷七十戸を賜った。斤が元老であることを以て、安車を賜い、刑獄を平決し、朝政を諮訪させた。

原文世祖大集羣臣於西堂,議伐涼州。斤等三十餘人議曰:「河西王牧犍,西垂下國,雖內不純臣,而外修職貢,宜加寬宥,恕其微愆。去歲新征,士馬疲弊,未可大舉,宜且覊縻。其地鹵薄,略無水草,大軍既到,不得久停。彼聞軍來,必嬰城固守。攻則難拔,野無所掠,終無克獲。」世祖不從,征之。涼州平,以戰功賜僮隸七十戶。以斤元老,賜安車,平決刑獄,諮訪朝政。

斤は聡明弁舌にして強記、談論を善くし、遠く先朝の故事を説く。全て正しからずとも、時に得る所があった。聴く者はこれを歎美した。大政を議する毎に、多く従用され、朝廷に称された。真君九年に薨じ、時に八十歳。世祖は親臨して哀慟し、諡して昭王と曰う。斤には数十の婦があり、子男二十余人。

原文斤聰辯強識,善於談論,遠說先朝故事,雖未皆是,時有所得。聽者歎美之。每議大政,多見從用,朝廷稱焉。真君九年薨,時年八十。世祖親臨哀慟,諡曰昭王。斤有數十婦,子男二十餘人。

子 他観

原文子 他觀

長子の他観が爵位を襲封した。世祖は言う、「斤の関西での敗戦は、国に常刑がある。彼が先朝を佐命したことを以て、故にその爵秩を復し、孟明の効を収めんとした。今、斤は天年を終え、君臣の分は全うされた。」ここにおいて他観の爵位を公に降格し、広平太守を除した。後に都將となり、懸瓠を征し、軍中に卒した。

原文長子他觀襲爵。世祖曰:「斤關西之敗,國有常刑。以其佐命先朝,故復其爵秩,將收孟明之效。今斤終其天年,君臣之分全矣。」於是降他觀爵為公,除廣平太守。後為都將,征懸瓠,卒於軍。

子の延、爵位を襲封した。出でて瓦城鎮将となった。卒した。

原文子延,襲爵。出為瓦城鎮將。卒。

子の緒、爵位を襲封した。初め散令となり、後に太中大夫となり、左將軍を加えられた。五等の制を開建するに及び、弘農郡開國侯に封ぜられ、食邑三百戸を賜った。後に例に従って縣に降格し、改めて澄城縣開國侯に封ぜられ、邑九百戸を増加された。卒した。

原文子緒,襲爵。初為散令,後為太中大夫,加左將軍。開建五等,封弘農郡開國侯,食邑三百戶。後例降為縣,改封澄城縣開國侯,增邑九百戶。卒。

子の遵、封を襲いだ。卒し、鎮遠將軍・洛州刺史を追贈され、諡して哀侯といった。子なく、国は除かれた。太和の中、高祖は先朝の功臣を追録し、斤を以て廟庭に配食せしめた。世宗は絶世を継ぎ、詔して緒の弟子の鑒を特に立ててその後を紹がしめ、封邑を承けしめた。鑒は中堅將軍・司徒從事中郎の任に卒した。龍驤將軍・肆州刺史を追贈された。

原文子遵,襲封。卒,贈鎮遠將軍、洛州刺史,諡曰哀侯。無子,國除。太和中,高祖追錄先朝功臣,以斤配食廟庭。世宗繼絕世,詔以緒弟子鑒特紹其後,以承封邑。鑒卒於中堅將軍、司徒從事中郎。贈龍驤將軍、肆州刺史。

子の紹宗、武定の中、開府田曹參軍となった。

原文子紹宗,武定中,開府田曹參軍。

子 和観

原文子 和觀

他観の弟の和観は、太祖の時に内侍左右となった。太宗はその家が代々戎御を典ねたことを以て、遂に典御都尉に拝し、爵位広興子を賜い、建威將軍となった。まもなく宜陽侯に進み、龍驤將軍を加えられ、牧官中郎将を領した。出でて冀青二州刺史となった。卒した。

原文他觀弟和觀,太祖時內侍左右。太宗以其世典戎御,遂拜典御都尉,賜爵廣興子,建威將軍。尋進為宜陽侯,加龍驤將軍,領牧官中郎將。出為冀青二州刺史。卒。

子の冀州、爵位を襲封した。

原文子冀州,襲爵。

冀州の弟の受真は、中散となった。高宗が即位すると、龍驤將軍に拝され、爵位成都侯を賜った。給事中に遷り、出でて離石鎮将となった。

原文冀州弟受真,為中散。高宗即位,拜龍驤將軍,賜爵成都侯。遷給事中,出為離石鎮將。

子 拔

原文子 拔

和観の弟の拔は、太宗の時に内侍左右となった。世祖が即位すると、次第に侍中・選部尚書・鎮南將軍に遷り、爵位楽陵公を賜った。後に罪により辺境に徙された。散騎常侍に徴された。蠕蠕征討に従い、戦没した。

原文和觀弟拔,太宗時內侍左右。世祖即位,稍遷侍中、選部尚書、鎮南將軍,賜爵樂陵公。後以罪徙邊。徵為散騎常侍。從征蠕蠕,戰沒。

子の買奴は、顕祖に寵愛され、官は神部長に至った。安成王の万安国と不和であり、安国は詔を矯って買奴を苑内で殺した。高祖は安国に死を賜い、買奴を并州刺史・新興公に追贈した。

原文子買奴,有寵於顯祖,官至神部長。與安成王萬安國不平,安國矯詔殺買奴於苑內。高祖賜安國死,追贈買奴為并州刺史、新興公。

斤の弟 普回

原文斤弟 普回

斤の弟の普回は、陽曲護軍であった。

原文斤弟普回,陽曲護軍。

普回の子の烏侯は、世祖の時に治書御史・建義將軍に拝され、爵位夷餘侯を賜った。蠕蠕及び赫連昌征討に従い、功により爵位を城陽公に進め、員外散騎常侍を加えられ、出でて虎牢鎮将となった。興光の中に卒し、喪礼はその伯父の弘農王の故事に依った。金陵に陪葬された。

原文普回子烏侯,世祖時拜治書御史,建義將軍,賜爵夷餘侯。從征蠕蠕及赫連昌,以功進爵城陽公,加員外散騎常侍,出為虎牢鎮將。興光中卒,喪禮依其伯父弘農王故事。陪葬金陵。

烏侯の子の兠は、世祖の時に親しく左右に侍し、征討に従い、常に御剣を保持した。後に罪を得て龍城に移された。まもなく召されて知臣監となった。出て薄骨律鎮将となり、仮に鎮遠将軍を授けられ、富城侯の爵位を賜った。時に高車が叛き、鎮城を包囲した。兠はこれを撃破し、千余級を斬首した。延興年間に卒した。

原文烏侯子兠,世祖時親侍左右,隨從征討,常持御劍。後以罪徙龍城。尋徵為知臣監。出為薄骨律鎮將,假鎮遠將軍,賜爵富城侯。時高車叛,圍鎮城。兠擊破之,斬首千餘級。延興中卒。

叔孫建

原文叔孫建

叔孫建は代の人である。父の骨は、昭成帝の母の王太后に養われ、皇子と同列にあった。建は若くして智勇をもって著名であった。太祖が賀蘭部に行幸した際、建は常に左右に従った。登国の初め、建を外朝大人とし、安同ら十三人と交代で庶事を司り、軍国の謀議に参与した。秦王の觚に従って慕容垂のもとに使いし、六年を経てようやく帰還した。後将軍に任ぜられた。まもなく、都水使者、中領軍となり、安平公の爵位を賜り、龍驤将軍を加えられた。出て并州刺史となった。後に公事により免官され、鄴城の園を守った。

原文叔孫建,代人也。父骨,為昭成母王太后所養,與皇子同列。建少以智勇著稱。太祖之幸賀蘭部,建常從左右。登國初,以建為外朝大人,與安同等十三人迭典庶事,參軍國之謀。隨秦王觚使慕容垂,歷六載乃還。拜後將軍。頃之,為都水使者,中領軍,賜爵安平公,加龍驤將軍。出為并州刺史。後以公事免,守鄴城園。

太宗が即位すると、建の前功を思い、建を正直将軍、相州刺史とした。飢胡の劉虎らが徒党を結んで反逆し、公孫表らが劉虎に敗れた。太宗は建に前の号である安平公を仮授し、表らを督して劉虎を討たせ、万余級を斬首した。残党は奔走し、沁水に投身して死に、水は流れを止め、その衆十万余口を捕虜とした。

原文太宗即位,念建前功,乃以建為正直將軍,相州刺史。飢胡劉虎等聚黨反叛,公孫表等為虎所敗。太宗假建前號安平公,督表等以討虎,斬首萬餘級。餘眾奔走,投沁而死,水為不流,虜其眾十萬餘口。

司馬徳宗の将軍劉裕が姚泓を伐つにあたり、その部将王仲徳を前鋒とし、滑臺に迫らんとした。兗州刺史尉建は配下を率いて城を棄てて河を渡り、仲徳はついに滑臺に入った。そこで宣言して言うには、「晋の本意は、布帛七万匹をもって魏に道を借りようとしたのであり、魏の守将がこのように城を棄てるとは思わなかった」と。太宗はこれを聞き、詔して建に河内より枋頭に向かいその情勢を観察させた。仲徳が滑臺に入って一月余り、また詔して建に河を渡って威を示させ、尉建を斬り、その屍を河に投げ入れた。仲徳の軍人を呼んで語り、その境を侵す意図を詰問した。仲徳は司馬竺和之を遣わし、建は公孫表に命じてこれと語らせた。和之は言う、「王征虜(仲徳)は劉太尉(裕)に遣わされ、河西に入り西行し、洛城を取らんとし、山陵の寇を掃討するのであり、敢えて魏の境を侵犯するものではない。太尉自ら使者を遣わして魏帝に請い、道を借りることを述べた。しかし魏の兗州刺史がこれを理解せず、風を見て棄て去ったため、空城によって入ったのであり、戦攻によって迫ったのではない。魏晋の和好の義は前にも廃されていない」と。表は言う、「尉建の失守の罪は、自ら常刑があり、将に良き牧を更に遣わさん。彼の軍は西に向かうべきであり、さもなくば小事が大事を引き起こし和好の体を損なうであろう」と。和之は言う、「王征虜はここに仮に留まり、衆軍の集結を待つのであり、やがて西に過ぎる時には、滑臺は再び魏の有するところとなり、どうして旗鼓を建てて威武を耀かす必要があろうか」と。仲徳は言葉を卑しくし、常に大魏と対抗するなど敢えてしないと自称したが、建はこれを制することができなかった。太宗は建に劉裕と通じさせ、その意図を観察させた。裕は答えて言う、「洛は晋の旧都であり、羌の姚氏がこれを占拠している。晋は山陵を修復する計画を久しく抱いていたが、内難が屡々起こり、経営する暇がなかった。司馬休之、魯宗之父子、司馬国璠兄弟、諸桓の宗族らは、皆晋の蠹害であるが、姚氏はこれらを集め、晋を図らんとしている。ゆえにこれを伐つのである。道は魏を通るため、軍を挙げる初め、重い幣をもって道を借りようとした。たまたまそちらの辺鎮が守りを棄てて去ったので、晋の前軍が西進することができたのであり、敢えて魏の境を侵すものではない」と。裕は官軍が河南にいるのを恐れ、その前路を断たれることを憂い、軍を率いて北に寇すことを命じたが、班師するに及んで止んだ。語るところは帝紀にある。建と南平公長孫嵩は各々精兵二千を選び、劉裕の事勢を観察した。語るところは嵩伝にある。

原文司馬德宗將劉裕伐姚泓,令其部將王仲德為前鋒,將逼滑臺。兗州刺史尉建率所部棄城濟河,仲德遂入滑臺。乃宣言曰:「晉本意欲以布帛七萬匹假道於魏,不謂魏之守將便爾棄城。」太宗聞之,詔建自河內向枋頭以觀其勢。仲德入滑臺月餘,又詔建渡河曜威,斬尉建,投其屍於河。呼仲德軍人與語,詰其侵境之意。仲德遣司馬竺和之,建命公孫表與言。和之曰:「王征虜為劉太尉所遣,入河西行,將取洛城,掃山陵之寇,非敢侵犯魏境。太尉自遣使請魏帝,陳將假道。而魏兗州刺史不相體解,望風捐去,因空城而入,非戰攻相逼也。魏晉和好之義不廢於前。」表曰:「尉建失守之罪,自有常刑,將更遣良牧。彼軍宜西,不然將以小致大乖和好之體。」和之曰:「王征虜權住於此,以待眾軍之集,比當西過,滑臺還為魏有,何必建旗鼓以耀威武乎?」仲德卑辭,常自言不敢與大魏抗衡,建不能制之。太宗令建與劉裕相聞,以觀其意。裕答言:「洛是晉之舊京,而羌姚據之。晉欲修復山陵之計久矣,而內難屢興,不暇經營。司馬休之、魯宗之父子、司馬國璠兄弟、諸桓宗屬,皆晉之蠹也,而姚氏收集此等,欲以圖晉,是以伐之。道由於魏,軍之初舉,將以重幣假途。會彼邊鎮棄守而去,故晉前軍得以西進,非敢憑陵魏境。」裕以官軍在河南,恐斷其前路,乃命引軍北寇,及班師,乃止。語在帝紀。建與南平公長孫嵩各簡精兵二千,觀劉裕事勢。語在嵩傳。

広阿鎮将に遷り、群盗は跡を潜め、威名は大いに震った。久しくして、使持節・都督前鋒諸軍事・楚兵将軍・徐州刺史を除かれ、衆を率いて平原より河を渡り、青・兗諸郡を巡って降した。建が河を渡ると、劉裕の兗州刺史徐琰は彭城に奔り、建はついに東に入って青州に入った。司馬受之、秀之は先に済東で徒党を集めていたが、皆衆を率いて降った。建は臨淄に入った。劉義符の前東牟太守清河の張幸は先に孤山に匿れていたが、建の到着を聞き、二千人を率いて女水で建を迎え、ついに義符の青州刺史竺夔を東陽城に包囲した。義符は将軍檀道済、王仲徳を遣わして夔を救わせたが、建は勝てずに還った。建は功により寿光侯の爵位を賜り、鎮南将軍を加えられた。

原文遷廣阿鎮將,羣盜斂跡,威名甚震。久之,除使持節、都督前鋒諸軍事、楚兵將軍、徐州刺史,率眾自平原濟河,徇下青兗諸郡。建濟河,劉裕兗州刺史徐琰奔彭城,建遂東入青州。司馬受之、秀之先聚黨於濟東,皆率眾降。建入臨淄。劉義符前東牟太守清河張幸先匿孤山,聞建至,率二千人迎建於女水,遂圍義符青州刺史竺夔於東陽城。義符遣將檀道濟、王仲德救夔,建不克而還。建以功賜爵壽光侯,加鎮南將軍。

建は上表して言う、「臣が先に沙門の僧護を彭城に遣わした。僧護が還って称するには、賊が軍を発して北に向かい、前鋒の将徐卓之はすでに彭城に至り、大将軍到彦之の軍は泗口におり、馬を発して戒厳し、必ずや挙斧の志があるという。臣は聞く、国を治める道は、存する時に亡きを忘れざるにあると。甲兵を繕い、屯戍を増益し、先んじてその備えをなし、その来るを待つべきである。もし予め設けなければ、卒然として擒え殄滅することは難しい。かつ呉越の衆は、舟楫に便であるが、今北土に至り、その長所を捨てている。逆順既に異なり、労逸等しからず、寇を平らげ功を定めるは、この日にあり。臣は衰弊しているが、謀略は寡浅であり、過分に殊寵を蒙り、忝くも重任を荷い、寇暴を討ち除くは、臣の志である。ゆえに馬に秣をやり戈を枕にし、微節を効さんと思う。願わくは陛下、南境を以て憂いとされないように」と。世祖は優詔をもって答え、衣馬を賜った。

原文建表曰:「臣前遣沙門僧護詣彭城。僧護還稱,賊發軍向北,前鋒將徐卓之已至彭城,大將軍到彥之軍在泗口,發馬戒嚴,必有舉斧之志。臣聞為國之道,存不忘亡。宜繕甲兵,增益屯戍,先為之備,以待其來。若不豫設,卒難擒殄。且吳越之眾,便於舟檝,今至北土,舍其所長。逆順既殊,勞逸不等,平寇定功,在於此日。臣雖衰弊,謀略寡淺,過蒙殊寵,忝荷重任,討除寇暴,臣之志也。是以秣馬枕戈,思效微節。願陛下不以南境為憂。」世祖優詔答之,賜以衣馬。

建と汝陰公長孫道生は河を渡って南に進み、彦之、仲徳らは清より済に入り、東に走って青州に向かった。劉義隆の兗州刺史竺霊秀は須昌を棄て、南に奔って湖陸に至った。建は追撃し、これを大破し、五千余級を斬首し、ついに鄒魯に至った。還って范城に屯した。世祖は建の威名が南に震い、義隆に畏れられているとして、平原鎮大将とし、丹陽王に封じ、征南大将軍・都督冀青徐済四州諸軍事を加えた。先に、幽州以南の戍兵を選んで河上に集め、一路は洛陽を討ち、一路は滑臺を攻めた。義隆の将軍檀道済、王仲徳が滑臺を救うと、建と汝陰公道生はこれを拒撃した。建は軍を分けて挟み撃ちにし、軽騎を放ってその前後を遮り、穀草を焼き払い、その糧道を絶った。道済の兵は飢え、叛く者が相次ぎ、これによって安頡らが滑臺を抜くことができた。

原文建與汝陰公長孫道生濟河而南,彥之、仲德等自清入濟,東走青州。劉義隆兗州刺史竺靈秀棄須昌,南奔湖陸,建追擊,大破之,斬首五千餘級,遂至鄒魯。還屯范城。世祖以建威名南震,為義隆所憚,除平原鎮大將,封丹陽王,加征南大將軍、都督冀青徐濟四州諸軍事。先是,簡幽州以南戍兵集于河上,一道討洛陽,一道攻滑臺。義隆將檀道濟、王仲德救滑臺,建與汝陰公道生拒擊之。建分軍挾戰,縱輕騎邀其前後,焚燒穀草,以絕其糧道。道濟兵飢,叛者相繼,由是安頡等得拔滑臺。

建は沈着で機敏で智謀多く、東西を征伐するに、常に謀主となった。軍を治めること清く整い、号令は厳明であった。また人倫を雅に尚び、賢を礼し士を愛した。平原に十余年いて、内外を綏撫懐柔し、甚だ辺境の称えを得、魏初の名将でこれに及ぶ者は少なかった。南方はその威略を畏れ、青・兗はしばしば寇すことがなかった。太延三年に薨じ、時に七十三歳であった。世祖は悼み惜しんだ。諡して襄王とし、金陵に葬ることを賜った。

原文建沉敏多智,東西征伐,常為謀主。治軍清整,號令嚴明。又雅尚人倫,禮賢愛士。在平原十餘年,綏懷內外,甚得邊稱,魏初名將尠有及之。南方憚其威略,青兗輒不為寇。太延三年薨,時年七十三。世祖悼惜之。諡曰襄王,賜葬金陵。

長子の俊は、字を醜帰といい、若くして聡明であった。十五歳で、内侍として左右に仕えた。性質は謹密で、初め過ち行いがなかった。弓馬に巧みなため、転じて獵郎となった。太祖が崩御し、清河王紹が宮門を閉ざした時、太宗は外にあった。紹は俊を脅迫して己の援けとさせた。俊は外見は紹に従ったが、内心は実に忠誠であり、元磨渾らと共に紹を説き、太宗のもとに帰ることができた。事は磨渾伝にある。この時、太宗の左右には、車路頭、王洛児らがいたが、俊らを得て大いに喜び、爪牙とした。

原文長子俊,字醜歸,少聰敏。年十五,內侍左右。性謹密,初無過行。以便弓馬,轉為獵郎。太祖崩,清河王紹閉宮門,太宗在外。紹逼俊以為己援。俊外雖從紹,內實忠款,仍與元磨渾等說紹,得歸太宗。事在磨渾傳。是時太宗左右,唯車路頭、王洛兒等,及得俊等,大悅,以為爪牙。

太宗が即位すると、俊に命じて磨渾らと共に左右で遺漏を拾わせた。衛将軍に遷り、安城公の爵位を賜った。朱提王の悦が刃を懐にして禁中に入り、大逆を為さんとした。俊は悦の挙動に異なるものがあるのを覚え、手を引いてこれを掣き、悦の懐中より両刃の匕首を得たので、ついにこれを殺した。太宗は俊の前後の功績が重いとして、軍国の大計を一任し、群官の上奏する事柄は、先ず俊が銓衡校閲し、その後奏聞した。

原文太宗即位,命俊與磨渾等拾遺左右。遷衞將軍,賜爵安城公。朱提王悅懷刃入禁中,將為大逆。俊覺悅舉動有異,便引手掣之,乃於悅懷中得兩刃匕首,遂殺之。太宗以俊前後功重,軍國大計一以委之,群官上事,先由俊銓校,然後奏聞。

性質は平正で柔和であり、喜怒の色を見せたことがなかった。忠実で篤実、愛厚く、上に諂うことなく下を抑えることもなかった。詔を奉じて外に宣べるたびに、必ず懇ろに告げ示し、事を受ける者は皆満足して退き、密事については倍の熱心さで繰り返し伝えた。このため上下ともに賞賛し嘆息した。泰常元年に卒去、時に年二十八、太宗は大いに痛悼し、自ら臨んで哀慟した。朝野ともに追惜しない者はなかった。侍中・司空・安城王を追贈し、諡して孝元といった。温明祕器を賜り、轀輬車に載せ、衛士が導従し、金陵に陪葬した。子の蒲が爵を襲いだ。後に大功ある者や寵幸を受けた貴臣が薨じた際の賻送と終礼は、皆俊の故事に依り、これを踰える者はなかった。初め、俊が卒すると、太宗はその妻桓氏に命じて曰く、「夫は生きては既に共に栄え、没しては宜しく同穴すべし、殉葬し得る者は任意にせよ」と。桓氏は乃ち縊死し、遂に合葬された。

原文性平正柔和,未嘗有喜怒之色。忠篤愛厚,不諂上抑下。每奉詔宣外,必告示殷勤,受事者皆飽之而退,事密者倍至蒸仍。是以上下嘉歎。泰常元年卒,時年二十八,太宗甚痛悼之,親臨哀慟。朝野無不追惜。贈侍中、司空、安城王,諡孝元。賜溫明祕器,載以轀輬車,衞士導從,陪葬金陵。子蒲,襲爵。後有大功及寵幸貴臣薨,賻送終禮,皆依俊故事,無得踰之者。初,俊既卒,太宗命其妻桓氏曰:「夫生既共榮,沒宜同穴,能殉葬者可任意。」桓氏乃縊而死,遂合葬焉。

俊が安城王となると、俊の弟の隣が公爵を襲い、丹陽公に降格された。少時より聡慧で知られていた。次第に北部尚書に遷り、官に当たる称があった。尚書令に転じた。出て涼州鎮大将となり、鎮西将軍を加えられた。隣は鎮副将の奚牧と共に、貴戚の子弟として、競って財貨を貪り、専ら威福をなした。遂に互いに糾発し合い、誅に伏せられた。

原文俊既為安城王,俊弟隣襲公爵,降為丹陽公。少聰慧知名。稍遷北部尚書,有當官之稱。轉尚書令。出為涼州鎮大將,加鎮西將軍。隣與鎮副將奚牧,並以貴戚子弟,競貪財貨,專作威福。遂相糾發,坐伏誅。