魏書

卷28 和跋 奚牧 莫題 庾業延 賀狄乾 李栗 劉潔 古弼 張黎

卷28 和跋 奚牧 莫題 庾業延 賀狄乾 李栗 劉潔 古弼 張黎

和跋

原文和跋

和跋は代の人であり、代々部落を統領し、国の附臣となった。跋は才弁をもって知られ、太祖は彼を抜擢して外朝大人とし、軍国の大謀に参与させた。雅に智算があった。しばしば使命を果たして旨にかなったため、龍驤将軍に任ぜられた。まもなく、爵を日南公と賜った。中原平定に従い、功により尚書に進み、鄴を鎮守した。

原文和跋,代人也,世領部落,為國附臣。跋以才辯知名,太祖擢為外朝大人,參軍國大謀,雅有智算。頻使稱旨,拜龍驤將軍。未幾,賜爵日南公。從平中原,以功進為尚書,鎮鄴。

慕容徳が兄の和を滑台に守らせたところ、和の長史李辨が和を殺し、跋に援軍を求めた。跋は軽騎を率いて赴いた。到着すると、辨は後悔し、門を閉ざして守備した。跋は尚書郎鄧暉を遣わして説得させると、辨は門を開いた。跋は入城し、その府庫の蔵を収めた。徳はこれを聞き、将を遣わして三千騎を率いさせ、跋を撃った。跋は迎撃し、これを大破し、その将士千余人を捕らえて帰還した。ここにおいて陳潁の民は多く来て帰化した。定陵公に改封された。常山王遵と共に五万の衆を率い、賀蘭部の別帥木易于を討ち、これを破った。平原太守として出向した。

原文慕容德使兄子和守滑臺,和長史李辨殺和,求援於跋。跋率輕騎赴之。既至,辨悔,閉門拒守。跋使尚書郎鄧暉說之,辨乃開門。跋入,收其府藏。德聞之,遣將率三千騎,擊跋。跋逆擊,大破之,擒其將士千餘人而還。於是陳潁之民,多來向化。改封定陵公。與常山王遵率眾五萬,討賀蘭部別帥木易于,破之。出為平原太守。

太祖は跋を寵遇し、諸将の中で最も優れたものとした。時に群臣は皆恭儉を重んじたが、跋は虚誉を修めることを好み、時に眩曜し、性は特に奢侈で淫らであった。太祖はこれを戒めたが、改めなかった。後に車駕が北に狩りに出て豺山に至り、跋を捕らえ、路傍で刑に処した。妻の劉氏は自殺して従った。初め、跋を刑に処そうとした時、太祖はその諸弟の毗らに訣別を見させた。跋は毗に言うには、「灅北の地は瘠せている。水の南に住み、良田に就いて耕し、広く産業を為し、各々相勉励し、務めて自ら纂修せよ。」と。彼らに背を向けさせて言うには、「汝らはどうしてわが死を見るに忍びるか。」毗らはその微意を解し、使者を詐称し、長安に奔ったと云い、追っても及ばなかった。太祖は怒り、遂にその家を誅した。後、世祖が西に巡り五原に至り、帰途に豺山に幸して校猟したところ、突然暴風に遇い、雲霧が四方を塞いだ。世祖は怪しんで問うと、群下は皆、跋が代々この地に住み、祠と塚がなお存すると言い、あるいはこれがこの変を致すことができるかと。帝は建興公古弼を遣わし、三牲をもって祭祀させると、霧はただちに除散した。後、世祖が蒐狩する日には、毎回先にこれを祭った。

原文太祖寵遇跋,冠於諸將。時羣臣皆敦尚恭儉,而跋好修虛譽,眩曜於時,性尤奢淫,太祖戒之,弗革。後車駕北狩豺山,收跋,刑之路側。妻劉氏自殺以從。初,將刑跋,太祖命其諸弟毗等視訣,跋謂毗曰:「灅北地瘠,可居水南,就耕良田,廣為產業,各相勉勵,務自纂修。」令之背己曰:「汝曹何忍視吾之死也!」毗等解其微意,詐稱使者,云奔長安,追之不及。太祖怒,遂誅其家。後世祖西巡五原,回幸犲山校獵,忽遇暴風,雲霧四塞。世祖怪而問之,羣下僉言跋世居此土,祠冢猶存,其或者能致斯變。帝遣建興公古弼祭以三牲,霧即除散。後世祖蒐狩之日,每先祭之。

末子の帰は、赫連昌征伐に従い功があり、統万将軍に任ぜられ、爵を成皐男と賜った。西平公安頡と共に虎牢を攻め、これを抜いた。爵を高陽侯に進めた。後に罪により涼州に徙配され庶民となった。蓋呉が関中で乱を起こすと、再び帰を龍驤将軍に任じて討伐に向かわせた。帰還し、使持節・冠軍将軍・雍城鎮都大将・高陽侯に任ぜられた。卒した。

原文少子歸,從征赫連昌有功,拜統萬將軍,賜爵成皐男。與西平公安頡攻虎牢,拔之。進爵高陽侯。後以罪徙配涼州為民。蓋吳作亂於關中,復拜歸龍驤將軍往討之。還,拜使持節、冠軍將軍、雍城鎮都大將、高陽侯。卒。

子の度は爵を襲った。尚書都官郎・昌平太守となった。卒した。

原文子度,襲爵。尚書都官郎、昌平太守。卒。

度の子の延穆は、司州部郡従事となり、早世した。

原文度子延穆,司州部郡從事,早卒。

子の安は、武定末年に給事黄門侍郎となった。

原文子安,武定末,給事黃門侍郎。

奚牧

原文奚牧

奚牧は代の人であり、重厚で智謀があった。太祖は彼を寵遇し、仲兄と称した。初め、劉顕が太祖を害そうと謀った時、梁眷はその謀を知り、密かに牧と穆崇を七介山に遣わして告げさせた。詳細は崇伝にある。太祖は先帝の旧臣を記録し、また牧が顕の謀を告げた功により、治民長に任じ、政事を敷奏させ、計謀に参与させた。

原文奚牧,代人也,重厚有智謀。太祖寵遇之,稱之曰仲兄。初,劉顯謀害太祖,梁眷知其謀,潛使牧與穆崇至七介山以告,語在崇傳。太祖錄先帝舊臣,又以牧告顯之功,拜為治民長,敷奏政事,參與計謀。

太祖が慕容宝を征した時、輔国将軍を加えられ、晋川の地を攻略し、平陶において宝の丹陽王買得及び離石護軍高秀和を捕らえた。軍功により并州刺史に任ぜられ、爵を任城公と賜った。州は姚興と境界を接し、興はしばしば辺境を侵した。牧はそこで興に書を送り、頓首と称し、鈞礼をもって抗し、興の辺境侵犯の不当を責めた。興は国と通和していたので、これを恨んだ。ある者が太祖に言上し、太祖は牧を誅した。

原文太祖征慕容寶,加輔國將軍,略地晉川,獲寶丹陽王買得及離石護軍高秀和於平陶。以軍功拜并州刺史,賜爵任城公。州與姚興接界,興頗寇邊,牧乃與興書,稱頓首,鈞禮抗之,責興侵邊不直之意。興以與國通和,恨之。有言於太祖,太祖戮之。

莫題

原文莫題

莫題は代の人であり、智謀多く才用があった。初め幢将となり、禁兵を領した。太祖が慕容宝を征した時、宝が夜来て営を犯し、兵士は驚駭した。そこで京師に逃亡して帰還する者がおり、官軍が栢肆で敗れたと云い、京師は不安となった。南安公元順はこれに乗じて国事を摂ろうとした。題は順に言うには、「これは大事である。軽々しくすべきではない。後の要を審らかに待つべきである。さもなければ禍が及ぼう。」順はそこで止めた。功により平遠将軍に任ぜられ、爵を扶柳公と賜い、左将軍の号を進められ、高邑公に改められた。中山太守として出向し、司州の山東七郡の事を督した。

原文莫題,代人也,多智有才用。初為幢將,領禁兵。太祖之征慕容寶也,寶夜來犯營,車人驚駭。遂有亡還京師者,言官軍敗於栢肆,京師不安。南安公元順因之欲攝國事。題謂順曰:「此大事,不可輕爾,宜審待後要,不然禍將及矣。」順乃止。以功拜平遠將軍,賜爵扶柳公,進號左將軍,改為高邑公。出除中山太守,督司州之山東七郡事。

車駕が姚興を征し、晋陽に駐屯した時、上党の群盗秦頗・丁零の翟都らが壷関に衆を集めた。詔により題は三千の衆を率いてこれを討った。上党太守が頗を捕らえ、斬った。都は林慮に逃れた。詔により題は山を捜索し窮めて討伐し、ことごとく平定した。

原文車駕征姚興,次於晉陽,而上黨羣盜秦頗、丁零翟都等聚眾於壺關,詔題帥眾三千以討之。上黨太守捕頗,斬之。都走林慮。詔題搜山窮討,盡平之。

初め、昭成帝の末、太祖の季父窟咄は長安に徙った。苻堅が敗れると、慕容永に従って東遷した。永が自立すると、窟咄を新興太守とした。登国初年、劉顕が弟の亢埿らを遣わして窟咄を迎え、南部を侵した。題は当時太祖に二心を抱き、窟咄に矢を贈り、これに言うには「三歳の犢、豈に重載に勝たんや」と。窟咄は年長で太祖は年少であることを言ったのである。太祖は既にこれを恨んでいた。天賜五年、題の居処が倨傲で、人主に擬していると告げる者があった。太祖はそこで人を遣わして彼に矢を示し、告げて言うには、「三歳の犢は、重載に勝つことができるか。」題は詔を奉じ、父子で対泣し、翌朝になって刑に処された。

原文初,昭成末,太祖季父窟咄徙于長安。苻堅敗,從慕容永東遷。及永自立,以窟咄為新興太守。登國初,劉顯遣弟亢埿等迎窟咄,寇南鄙。題時貳於太祖,遺箭於窟咄,謂之曰「三歲犢豈勝重載」,言窟咄長而太祖少也。太祖既銜之。天賜五年,有告題居處倨傲,擬則人主。太祖乃使人示之箭,告之曰:「三歲犢,能勝重載不?」題奉詔,父子對泣,詰朝乃刑之。

庾業延

原文庾業延

庾業延は代の人であり、後に岳の名を賜った。その父と兄の和辰は、代々牧畜を管轄した。やがて中部大人に転じた。昭成帝が崩御すると、氐寇が内に侮りをなした。事変の間、畜産を収斂し、その富は国君に比した。劉顯が謀逆を企てた時、太祖は外に幸し、和辰は献明太后を奉じて太祖に帰し、またその資用を得た。和辰を内侍長とした。和辰が公私の旧畜を分別したが、甚だ旨に合わず、太祖はこれによって彼を恨んだ。岳は独り恭慎にして修謹、危難の間を善く処し、太祖はこれを喜んだ。王建らとともに外朝大人となり、軍国に参預した。

原文庾業延,代人也,後賜名岳。其父及兄和辰,世典畜牧。稍轉中部大人。昭成崩,氐寇內侮。事難之間,收斂畜產,富擬國君。劉顯謀逆,太祖外幸,和辰奉獻明太后歸太祖,又得其資用。以和辰為內侍長。和辰分別公私舊畜,頗不會旨,太祖由是恨之。岳獨恭慎修謹,善處危難之間,太祖喜之。與王建等俱為外朝大人,參預軍國。

太祖が慕容垂と絶交した後、岳を大人とし、慕容永のもとに遣わした。永はその言辞と道理に服した。垂が長子において永を包囲すると、永は急を告げて救援を求め、岳は陳留王虔とともに五万騎を率いて東に河を渡りこれを救い、秀容に駐屯し、山胡部の高車門らを破り、その部落を移した。会に永が滅びたので、乃ち軍を返した。中原平定に従い、安遠将軍に拝された。

原文太祖既絕慕容垂,以岳為大人,使詣慕容永。永服其辭義。垂圍永於長子,永告急求援,岳與陳留王虔以五萬騎東渡河救之,次於秀容,破山胡部高車門等,徙其部落。會永滅,乃班師。從平中原,拜安遠將軍。

官軍が栢肆において驚いた時、賀蘭部の帥附力眷・紇突隣部の帥匿物尼・紇奚部の帥叱奴根らがこれを聞き、党を聚めて陰館で反した。南安公元順がこれを討ったが、克たず、死者数千人に及んだ。太祖がこれを聞き、詔して岳に万騎を率い、還って叱奴根らを討たせ、殄滅し、百姓は乃ち安んじた。離石胡の帥呼延鉄・西河胡の帥張崇らは内徙を喜ばず、党を聚めて反叛した。岳は騎三千を率い、これを討ち破り、鉄を斬り崇を擒らえ、山を捜索して窮討し、その余党を散じた。功により爵を西昌公と賜り、征虜将軍の号を進めた。また反人張超・清河太守傅世を討ち、ともに破り平げた。岳を鄴行臺とした。

原文官軍之驚於栢肆也,賀蘭部帥附力眷、紇突隣部帥匿物尼、紇奚部帥叱奴根等聞之,聚黨反於陰館。南安公元順討之,不克,死者數千人。太祖聞之,詔岳率萬騎,還討叱奴根等,殄之,百姓乃安。離石胡帥呼延鐵、西河胡帥張崇等不樂內徙,聚黨反叛。岳率騎三千,討破之,斬鐵擒崇,搜山窮討,散其餘黨。以功賜爵西昌公,進號征虜將軍。又討反人張超、清河太守傅世,並破平。以岳為鄴行臺。

岳は将として謀略あり、軍を治めるに清整で、常に少をもって多を撃ち、士衆はその智勇に服し、名は諸将に冠した。鄴行臺が罷められた時、統べる六郡を以て相州を置き、即時に岳を刺史に拝した。公廉平当にして、百姓これを称えた。旧に園池あり、時果が初めて熟した時、丞吏がこれを送ったが、岳は受けず、曰く「果物は未だ御前に進んでいない、吾どうして先に食せんや」と。その謹みこの如しであった。後に司空に遷った。岳の兄の子の路が罪あり、諸父兄弟悉く誅せられたが、特に岳父子を赦した。

原文岳為將有謀略,治軍清整,常以少擊多,士眾服其智勇,名冠諸將。及罷鄴行臺,以所統六郡置相州,即拜岳為刺史。公廉平當,百姓稱之。舊有園池,時果初熟,丞吏送之,岳不受,曰:「果未進御,吾何得先食?」其謹如此。後遷司空。岳兄子路有罪,諸父兄弟悉誅,特赦岳父子。

天賜四年、詔して岳に南宮に舍地を賜い、岳は家僮を将いてこれを治めた。候官が岳の衣服鮮麗、行止風采が人君の儀に擬すと告げた。太祖は時に既に不豫であり、多く猜悪したところがあり、遂にこれを誅した。時人は皆冤み惜しんだ。岳は代西の善無の界に葬られた。後、世祖が赫連氏を討つに当たり、その墓宅を経て、愴然として容を動かし、遂に詔を下して廟を立てさせ、一州の民に四時の祭りを致させた。その子孫で将帥に任ずべき者を求め、その子の陵を得た。征に従い功あり、爵を襲うことを聴された。

原文天賜四年,詔賜岳舍地於南宮,岳將家僮治之。候官告岳衣服鮮麗,行止風采,擬儀人君。太祖時既不豫,多所猜惡,遂誅之。時人咸冤惜焉。岳葬在代西善無之界。後世祖討赫連氏,經其墓宅,愴然動容,遂下詔為立廟,令一州之民,四時致祭。求其子孫任為將帥者,得其子陵。從征有功,聽襲爵。

路は、皇始の初め、慕容宝征伐に従い、城門校尉となった。司隸校尉に遷った。爵は高平公であったが誅された。

原文路,皇始初,從征慕容寶,為城門校尉。遷司隸校尉。爵高平公而誅。

賀狄干

原文賀狄干

賀狄干は代の人である。家は元来小族であったが、代々忠厚で、将として平当と称された。やがて北部大人に遷った。登国の初め、長孫嵩と対をなし、聴察に明るく、人に愛敬された。

原文賀狄干,代人也。家本小族,世忠厚,為將以平當稱。稍遷北部大人。登國初,與長孫嵩為對,明於聽察,為人愛敬。

太祖は狄干を遣わして馬千匹を致し、姚萇と婚姻を結ぼうとした。会に萇が死に興が立ったため、狄干を止めて婚姻を絶った。興の弟の平が衆を率いて平陽を寇し、太祖がこれを討ち平げ、その将の狄伯支・唐小方ら三十余人を擒らえた。天賜の中、詔して北新侯安同に唐小方を長安に送らせた。後、蠕蠕の社崘が興と和親し、馬八千匹を送った。始めて河を渡ろうとした時、赫連屈孑が興が国と交好するのを忿り、乃ち興に叛き、社崘の馬を邀え留めた。興は乃ち使者を遣わし、駿馬千匹を以て伯支を贖い、狄干を還すことを請うた。太祖の意は二寇を離間することに在り、ここにおいてこれを許した。

原文太祖遣狄干致馬千匹,結婚於姚萇。會萇死興立,因止狄干而絕婚。興弟平率眾寇平陽,太祖討平之,擒其將狄伯支、唐小方等三十餘人。天賜中,詔北新侯安同送唐小方於長安。後蠕蠕社崘與興和親,送馬八千匹。始濟河,赫連屈孑忿興與國交好,乃叛興,邀留社崘馬。興乃遣使,請以駿馬千匹贖伯支而遣狄干還。太祖意在離間二寇,於是許之。

狄干は長安に幽閉され、ここにおいて書史を習読し、論語・尚書諸経に通じ、挙止風流、儒者の似る所があった。初め、太祖が功臣を普く封じた時、狄干は姚興に留められていたが、遥かに爵を襄武侯と賜り、秦兵将軍を加えられた。狄干が至った時、太祖はその言語衣服が羌俗に類するのを見て、慕ってこれを習ったものと思い、故に忿り、既にしてこれを殺した。

原文狄干在長安幽閉,因習讀書史,通論語、尚書諸經,舉止風流,有似儒者。初,太祖普封功臣,狄干雖為姚興所留,遙賜爵襄武侯,加秦兵將軍。及狄干至,太祖見其言語衣服,有類羌俗,以為慕而習之,故忿焉,既而殺之。

弟の帰もまた剛直方雅であった。狄干とともに死んだ。

原文弟歸,亦剛直方雅。與狄干俱死。

李栗

原文李栗

李栗は雁門の人である。昭成帝の時、父祖が国に入った。少より弁捷で、才能あり、兼ねて将略を有した。初め太祖に従って賀蘭部に幸し、元従二十一人の中に在った。太祖はその芸能を愛した。時に王業草創、爪牙心腹は多く親近を任じたが、唯栗のみは一介の遠寄にして、兼ねて戚旧にあらず、当世これを栄とした。数々戦功あり、左軍将軍に拝された。太祖が慕容宝を征した時、栗は五万騎を督して前駆となり、軍の至る所、降らざるはなかった。左将軍に遷った。慕容宝が中山を棄て東走した時、栗は軽騎を以てこれを追ったが、及ばずして還った。

原文李栗,雁門人也。昭成時,父祖入國。少辯捷,有才能,兼有將略。初隨太祖幸賀蘭部,在元從二十一人中。太祖愛其藝能。時王業草創,爪牙心腹,多任親近,唯栗一介遠寄,兼非戚舊,當世榮之。數有戰功,拜左軍將軍。太祖征慕容寶,栗督五萬騎為前驅,軍之所至,莫不降下。遷左將軍。慕容寶棄中山東走也,栗以輕騎追之,不及而還。

栗は性簡慢で、寵を矜り、礼度に率わず、毎に太祖の前で舒放倨傲、自ら祗肅せず、咳唾任情であった。太祖はその宿過を積み、天興三年遂にこれを誅した。ここにおいて威厳始めて厲しく、制勒して羣下に尽く卑謙の礼を取らせたのは、栗より始まったのである。

原文栗性簡慢,矜寵,不率禮度,每在太祖前舒放倨傲,不自祗肅,咳唾任情。太祖積其宿過,天興三年遂誅之。於是威嚴始厲,制勒羣下盡卑謙之禮,自栗始也。

劉潔

原文劉潔

劉潔は長楽信都の人である。祖父の生は、卜筮をよく理解していた。昭成帝の時、慕容氏が娘を献上してきた際、公主の家臣となり、これに従って入朝した。妻を与えられ、子を生んだ。父の提は、太祖の時、官は楽陵太守に至り、信都男の爵位を賜った。没した。

原文劉潔,長樂信都人也。祖父生,頗解卜筮。昭成時,慕容氏來獻女,為公主家臣,仍隨入朝。賜以妻,生子。父提,太祖時,官至樂陵太守,賜爵信都男。卒。

潔は性質が強力で智謀多く、しばしば征討に従って功績があり、会稽公に爵位を進めた。河西の胡人張外・建興王紹らが徒党を集めて叛逆したので、潔は永安侯魏勤と共に三千の兵を率い、西河に駐屯してこれを鎮撫した。また勤及び功労将軍元屈らと共に吐京の叛胡を撃った。時に離石の胡人出以眷が屈丐の騎兵を引き連れ、山嶺を断ち切って潔を邀撃し、潔は馬を失い、山に登って力戦し、矢も刃も尽き、胡人に捕らえられ、屈丐のもとに送られた。潔は声と気概を屈せず、その字を呼んでこれと語り、神色自若であった。屈丐はその壮挙を認めて釈放した。後に帰国し、東部の事務を掌った。

原文潔性強力多智,數從征討有功,進爵會稽公。河西胡張外、建興王紹等聚黨為逆,潔與永安侯魏勤率眾三千人,屯于西河以鎮撫之。又與勤及功勞將軍元屈等擊吐京叛胡。時離石胡出以眷引屈丐騎,斷截山嶺邀潔,潔失馬,登山力戰,矢刃俱盡,為胡所執,送詣屈丐。潔聲氣不撓,呼其字而與之言,神色自若。屈丐壯而釋之。後得還國,典東部事。

太宗が病に臥せられ、世祖が国政を監理すると、潔は古弼らと共に東宮に侍るよう選ばれ、機密要務に対処し、百官の奏上を取り次いだ。世祖が即位すると、反逆者を告発し、また直言を献じて、その言うところがみな意に適い、柱石の用をなす者としてその才能を奇異とし、大任を委ねた。軍国を議するに及んでは、朝臣みなその才能を推した。ここにおいて尚書令に超遷し、鉅鹿公に改封された。

原文太宗寢疾,世祖監國,潔與古弼等選侍東宮,對綜機要,敷奏百揆。世祖即位,以告反者,又獻直言,所在合旨,奇其有柱石之用,委以大任。及議軍國,朝臣咸推其能。於是超遷尚書令,改為鉅鹿公。

世祖が雲中において蠕蠕の大檀を破ると、潔は世祖に言上した。「大檀はその衆を恃み、胆を破られて敗走したとはいえ、往時の敗北を恐れず、再び死を求めて来るでしょう。田畑の収穫を終えた後、再び大規模に出撃し、東西から並進して二道よりこれを討つことを請います。」世祖はその言をよしとした。後に征討を大いに議し、潔はまず馮跋を平定すべきと進言したが、世祖は従わなかった。敕勒の新民が将吏の侵奪により、みな怨言を発し、牛馬が草を飽く頃合いを見て漠北へ赴こうと期していた。潔と左僕射安原が上奏し、黄河の氷が解けないうちに彼らを河西に移し、氷解の後は北へ逃げられないようにしたいと願った。世祖は言った。「そうではない。この者らの習俗は、放散して久しく、園中の鹿のようである。急せば衝突し、緩やかにすれば落ち着く。我自ら処するに道あり、移す煩わしさはない。」潔らが固執したので、ついに三万あまりの落(集落)を河西に分け移すことを聴き入れ、西は白塩池に至った。新民は驚き恐れ、皆言った。「我らを河西の中に囲い込むのは、我らを殺そうとするのだ」と、西の涼州へ走ろうとした。潔は侍中古弼と共に五原の河北に駐屯し、左僕射安原は悦抜城の北に駐屯して、これを備えた。やがて新民数千騎が北へ逃走したので、潔はこれを追討した。逃走した者は食糧が尽き、互いに枕を重ねて死んだ。

原文世祖破蠕蠕大檀于雲中,潔言於世祖曰:「大檀恃眾,雖破膽奔北,恐不懼往敗,將復送死。請收田訖,復一大舉,東西並進,為二道討之。」世祖然其言。後大議征討,潔言宜先平馮跋,世祖不從。敕勒新民以將吏侵奪,咸出怨言,期牛馬飽草,當赴漠北。潔與左僕射安原奏,欲及河冰未解,徙之河西,冰解之後,不得北遁。世祖曰:「不然。此等習俗,放散日久,有似園中之鹿,急則衝突,緩之則定。吾自處之有道,不煩徙也。」潔等固執,乃聽分徙三萬餘落於河西,西至白鹽池。新民驚駭,皆曰:「圈我於河西之中,是將殺我也」,欲西走涼州。潔與侍中古弼屯五原河北,左僕射安原屯悅拔城北,備之。既而新民數千騎北走,潔追討之。走者糧絕,相枕而死。

時に南州に大水があり、百姓は飢餓に苦しんだ。潔は上奏して言った。「臣は聞く、天地は至って公平であるゆえに万物は皆育ち、帝王に私心がなければ黎民はこれに頼る、と。伏して考えるに、陛下は神武の資質をもって重光の統を継ぎ、大業を恢隆し、群生を育み救っておられます。威の振るうところ、服さざるなく、恩沢の及ぶところ、懐かざる遠きなく、太平の治はここにあります。近頃より辺寇が内に侵し、戎車がしばしば出動しましたが、天が授けた聖明により、出動する先々でこれを殄滅されました。方難が既に平らぎ、皆が恩賞を蒙り、勲功高い者は爵を受け、功の卑しい者は賞を得、寵賜は優渥で、古義を超えるものがあります。しかし郡国の民は、征討に加わらなくとも、農桑に勤しんで軍国に供給し、実に経世の大本であり、府庫の資するところです。山以東では、偏って水害に遇い、連年収穫なく、他所に食を求めております。臣は聞く、率土の濱、王臣ならざるはなし、と。哀れみを加え、広く覆い育むべきです。今、南では強寇を摧き、西では醜虜を敗り、四海は安らかで、人神ともに暢やかです。もし兆民と共にその福を享けば、恩恵が和気を感応させ、蒼生は悦び楽しむでしょう。」世祖はこれに従い、ここにおいて天下の一年分の租賦を免除した。

原文時南州大水,百姓阻飢。潔奏曰:「臣聞天地至公,故萬物咸育;帝王無私,而黎民戴賴。伏惟陛下以神武之姿,紹重光之緒,恢隆大業,育濟羣生。威之所振,無思不服,澤之所洽,無遠不懷,太平之治,於是而在。自頃邊寇內侵,戎車屢駕,天資聖明,所在克殄。方難既平,皆蒙酬錫,勳高者受爵,功卑者獲賞,寵賜優崇,有過古義。而郡國之民,雖不征討,服勤農桑,以供軍國,實經世之大本,府庫之所資。自山以東,偏遇水害,頻年不收,就食他所。臣聞率土之濱,莫非王臣,應加哀矜,以鴻覆育。今南摧強寇,西敗醜虜,四海晏如,人神協暢,若與兆民共饗其福。則惠感和氣,蒼生悅樂矣。」世祖從之,於是復天下一歲租賦。

潔は楽平王丕と共に諸軍を督して上邽を取った。軍が啓陽に至ると、百姓は争って牛や酒を贈った。潔が上邽に至ると、諸将は皆その豪帥を斬って王威を示そうとしたが、潔は聞き入れなかった。秦隴を撫慰し、秋毫も犯さず、人々は皆安んじて生業についた。世祖が隴右の騎卒を発して東の高麗を伐とうとすると、潔は進言した。「隴土の新民は、大化に染まり始めたばかりです。優復(租税免除)を賜って豊かに実らせるべきです。兵馬が食に足りて、その後用いることができます。」世祖は深くこれを採用した。車駕が西征するに当たり、潔は前鋒となった。沮渠牧犍の弟董来が一万余りを率いて城南で防戦した。潔は卜者の言を信じ、日辰が合わないとして、鼓を打って陣を退き、故に後軍は進まず、董来は城に入ることができた。世祖はこれを少し不満に思った。後に潔は建寧王崇と共に諸軍を督し、三城の胡部の中から六千の兵を選抜し、もって姑臧を戍ろうとした。胡は命令に従わず、千余人が叛いて逃走した。潔と崇はこれを撃ち誅し、男女数千人を虜にした。

原文潔與樂平王丕督諸軍取上邽。軍至啟陽,百姓爭致牛酒。潔至上邽,諸將咸欲斬其豪帥以示王威,潔不聽。撫慰秦隴,秋毫無犯,人皆安業。世祖將發隴右騎卒東伐高麗。潔進曰:「隴土新民,始染大化,宜賜優復以饒實之。兵馬足食,然後可用。」世祖深納之。車駕西伐,潔為前鋒。沮渠牧犍弟董來率萬餘人拒戰於城南。潔信卜者之言,日辰不協,擊鼓却陳,故後軍不進,董來得入城。世祖微嫌之。後潔與建寧王崇督諸軍,於三城胡部中簡兵六千,將以戍姑臧。胡不從命,千餘人叛走。潔與崇擊誅之,虜男女數千人。

潔は朝夕枢密にあり、深く信任されたが、性質が剛直であり、寵を恃んで専断した。世祖の心は次第に不平となった。時に蠕蠕征伐を議し、潔はそれを望まず、世祖に言った。「虜には邑居がなく、遷徙常なく、以前出軍したが、何も捕獲できませんでした。広く農耕し穀物を蓄積して、その来襲を待つに如かず。」群臣は皆その議に従った。世祖は実行を決意し、崔浩に問うたところ、浩は固く伐つべきと主張した。世祖は浩の議に従った。出撃した後、諸将と鹿渾谷で期会することになった。しかし潔は自分の計略が用いられなかったことを恨み、諸将を沮そうとして、詔を偽って期日を変更したので、諸将は到着しなかった。時に虜の衆は大いに乱れ、恭宗はこれを撃とうとしたが、潔は固執して不可とした。詳細は帝紀にある。鹿渾谷に六日間留まったが、諸将はなお進まなかった。賊は既に遠く遁走し、石水まで追ったが及ばずに還った。軍は漠中に駐屯したが、食糧が尽き、士卒の多くが死んだ。潔は密かに人を遣わして軍を驚かせ、世祖に軍を棄てて軽装で帰還するよう勧めたが、世祖は従わなかった。潔は軍行が功なく、崔浩に罪を帰するよう上奏した。世祖は言った。「諸将が後期し、賊を撃たなかった罪は諸将にある。どうして浩にあることがあろうか。」浩はまた潔が詔を偽ったことを言上し、事は遂に発覚した。輿駕が五原に至り、潔を収監して幽閉した。

原文潔朝夕在樞密,深見委任,性既剛直,恃寵自專。世祖心稍不平。時議伐蠕蠕,潔意不欲,言於世祖曰:「虜非有邑居,遷徙無常,前來出軍,無所擒獲,不如廣農積穀,以待其來。」羣臣皆從其議。世祖決行,乃問於崔浩,浩固言可伐。世祖從浩議。既出,與諸將期會鹿渾谷。而潔恨其計不用,欲沮諸將,乃矯詔更期,故諸將不至。時虜眾大亂,恭宗欲擊之,潔執不可,語在帝紀。停鹿渾谷六日,諸將猶不進。賊已遠遁,追至石水,不及而還。師次漠中,糧盡,士卒多死。潔陰使人驚軍,勸世祖棄軍輕還,世祖不從。潔以軍行無功,奏歸罪於崔浩。世祖曰:「諸將後期,及賊不擊,罪在諸將,豈在於浩。」浩又言潔矯詔,事遂發。輿駕至五原,收潔幽之。

世祖の征伐に際し、潔は密かに親しい者に言った。「もし軍が出て功なく、車駕が返らぬことがあれば、我は楽平王を立てよう。」潔はまた右丞張嵩に図讖を求めさせ、「劉氏が王となるべきで、国家の後を継ぐ。我に確かに姓名があるか?」と問わせた。嵩は答えて言った。「姓はあるが名はない。」厳しく取り調べて自白させ、嵩の家を捜索したところ、果たして讖書を得た。潔と南康公狄隣及び嵩らは、皆三族に処せられ、死者は百余人に及んだ。

原文世祖之征也,潔私謂親人曰:「若軍出無功,車駕不返者,吾當立樂平王。」潔又使右丞張嵩求圖讖,問:「劉氏應王,繼國家後,我審有名姓否?」嵩對曰:「有姓而無名。」窮治款引,搜嵩家,果得讖書。潔與南康公狄隣及嵩等,皆夷三族,死者百餘人。

潔は勢要の地位に居り、威福を擅にし、諸々阿附する者は登用され、逆らう者は罷免され、内外これをおそれ、側目して見た。城を抜き国を破った者は、財貨を聚斂し、潔とこれを分け合った。その家産を没収すると、財は巨万に盈ちた。世祖は後になってこれを憤り、言うごとに歯ぎしりした。

原文潔既居勢要,擅作威福,諸阿附者登進,忤恨者黜免,內外憚之,側目而視。拔城破國者,聚斂財貨,與潔分之。籍其家產,財盈巨萬。世祖追忿,言則切齒。

古弼

原文古弼

古弼は代の人である。若い頃より忠実で謹厳、読書を好み、また騎射に長じていた。初め獵郎となり、長安に使いし、意に適い、門下奏事に転じ、敏速で公正であることで著名であった。太宗はこれを賞賛し、筆という名を賜り、その直(すぐ)にして有用なることを取り、後に弼と改名し、その輔佐の材であることを言った。弼に西部を掌らせ、劉潔らと分かって機要を管轄し、百官の奏上を取り次がせた。

原文古弼,代人也。少忠謹,好讀書,又善騎射。初為獵郎,使長安,稱旨,轉門下奏事,以敏正著稱。太宗嘉之,賜名曰筆,取其直而有用,後改名弼,言其輔佐材也。令弼典西部,與劉潔等分綰機要,敷奏百揆。

世祖が即位すると、功により立節将軍に任じられ、霊寿侯の爵位を賜った。并州の叛胡を征討した。還って、侍中・吏部尚書に進み、南部の奏事を掌った。安原と共に巳尼陂において東部高車を降した。また劉潔と共に五原の河北に駐屯し、叛民に備えた。安西将軍に任じられ、赫連定征伐に従った。車駕が平涼に至り、涇南に駐屯した。弼と侍中張黎を遣わして平涼を撃たせた。赫連定が安定より歩騎二万を率いて来援し、弼らと遭遇したので、弼は偽って退却してこれを誘った。世祖は高車敕勒に命じて定を馳撃させ、数千級を斬首した。弼は勝に乗じて安定を取った。

原文世祖即位,以功拜立節將軍,賜爵靈壽侯。征并州叛胡。還,進為侍中、吏部尚書,典南部奏事。與安原降東部高車於巳尼陂。又與劉潔屯五原河北,以備叛民。拜安西將軍,從征赫連定。駕至平涼,次于涇南。遣弼與侍中張黎擊平涼。赫連定自安定率步騎二萬來救,與弼等相遇,弼偽退以誘之。世祖使高車敕勒馳擊定,斬首數千級。弼乘勝取安定。

また永昌王拓跋健らとともに馮文通を討伐した。文通は城に拠って堅く守り、弼はその禾を刈り取って帰還した。後にまた文通を征討すると、文通は高句麗に救援を求めた。高句麗の援軍が到着し、文通が東へ逃れようとしたとき、民衆の多くはこれを難儀とした。その大臣の古埿は、民心が従わないのを利用して、ついに衆を率いて文通を攻撃し、城門を開いて官軍を引き入れた。弼は古埿が詭詐を用いていると疑い、城に入らなかった。高句麗軍が到着すると、文通はこれに従った。文通が逃亡する際、婦人に甲冑を着せて中央に置き、その精鋭の兵卒と高句麗軍を外に陣取らせた。弼の部将の高苟子が騎兵を率いて賊軍を衝撃しようとしたが、弼は酒に酔って刀を抜きこれを制止したため、文通は東へ逃れることができた。将士は皆、弼が撃たなかったことを怨んだ。世祖は大いに怒り、弼を召還して広夏門の兵卒に貶した。

原文又與永昌王健等討馮文通。文通嬰城固守,弼芟其禾而還。後又征文通,文通求救於高麗。高麗救至,文通將東奔,民多難之。其大臣古埿,因民心之不欲,遂率眾攻文通,開城門以引官軍。弼疑古埿譎詐,不入城。高麗軍至,文通乃隨之。文通之奔也,令婦人被甲居中,其精卒及高麗陳兵於外。弼部將高苟子率騎衝擊賊軍,弼酒醉,拔刀止之,故文通得東奔。將士皆怨弼不擊。世祖大怒,徵還,黜為廣夏門卒。

まもなくまた侍中となり、尚書の李順とともに涼州に使した。安西将軍に拝され、建興公の爵を賜り、長安を鎮守し、威名は大いに著しかった。涼州征討が議せられたとき、弼と李順はともに涼州は水草に乏しく、軍を進めるに適さないと述べた。世祖は聞き入れなかった。姑臧を平定した後、世祖は弼らを少し疎んじたが、その将略があるため、とがめはしなかった。

原文尋復為侍中,與尚書李順使于涼州。拜安西將軍,賜爵建興公,鎮長安,甚著威名。及議征涼州,弼與順咸言涼州乏水草,不宜行師。世祖不從。既克姑臧,微嫌之,以其有將略,故弗之責也。

劉義隆が将軍の裴方明らを派遣して南秦王の楊難当を撃つと、難当は使者を遣わして救兵を請うた。救兵が到着する前に、難当は上邽に奔り、方明は仇池を攻略し、楊玄の庶子の保熾を立てた。ここにおいて弼に節を仮授し、隴右諸軍を督させた。義隆はその秦州刺史の胡崇之を仇池に駐屯させたが、弼は平西将軍の元斉とともに濁水で崇之を邀撃し、陣前でこれを生け捕りにした。その衆は漢中へ逃げ帰った。弼らは祥郊山の南から侵入し、東道の将軍の皮豹子らとともに仇池を討伐し、永安侯の賀純を派遣して義隆を攻撃し、狭道を塞いだ。守将の姜道祖は狭亭に退いて守った。諸将は山道が険峻で、時に雪も深く、馬を使うのに不便なため、皆、遅滞して進まなかった。弼はただ独り進軍し、元斉・賀純らに狭亭を攻撃させると、道祖は南へ逃走し、仇池は平定された。間もなく、諸氐は再び楊文徳を主に推戴して仇池を包囲した。弼は上邽・高平・汧城の諸軍を発してこれを討伐し、仇池の包囲は解け、文徳は漢川へ逃走した。時に豹子は関中の諸軍を督率して下弁に駐屯していたが、仇池の包囲が解けたと聞き、軍を還そうと議した。弼は使者を遣わして豹子に言わせた。「近頃連続して賊軍を破ったが、彼らの君臣が大義をまだ体得しておらず、敗北を恥じて、あるいは報復に来るかもしれない。もし軍を返せば、賊の衆が再び至り、後日の挙兵が困難となろう。兵を繕い甲を練り、力を蓄えて彼らを待つに如くはない。秋冬を出ずして、南寇は必ず来るであろう。逸を以て労を待てば、百勝の策である。」豹子はやめて止まった。世祖はこれを聞いて言った。「弼の言は、長策である。南秦を制するにあたり、弼の謀は多い。」

原文劉義隆遣將裴方明等擊南秦王楊難當,難當遣使請救兵。未至,難當奔上邽,方明克仇池,立楊玄庶子保熾。於是假弼節,督隴右諸軍。義隆遣其秦州刺史胡崇之屯仇池,弼與平西將軍元齊邀崇之於濁水,臨陣擒之,其眾走還漢中。弼等從祥郊山南入,與東道將皮豹子等討仇池,遣永安侯賀純攻義隆,塞狹道。守將姜道祖退守狹亭。諸將以山道嶮峻,時又雪深,用馬不便,皆遲留不進。弼獨進軍,使元齊、賀純等擊狹亭,道祖南走,仇池平。未幾,諸氐復推楊文德為主,圍仇池。弼發上邽、高平、汧城諸軍討之,仇池圍解,文德走漢川。時豹子督關中諸軍次於下辨,聞仇池圍解,議欲還軍。弼使謂豹子曰:「比連破賊軍,恐彼君臣未體大分,耻其負敗,或來報復。若其班師,寇眾復至,後舉為難。不如繕兵練甲,蓄力待之。不出秋冬,南寇必來,以逸待勞,百勝之策。」豹子乃止。世祖聞之,曰:「弼之言,長策也。制南秦,弼謀多矣。」

恭宗が万機を総摂すると、弼を徴して東宮四輔とし、宜都王の穆寿らとともに政事に参与させた。詔して、弼が東宮を保傅し、老成の勤めがあるとして、帛千匹・綿千斤を賜った。尚書令に遷った。弼は事務が殷賑であるにもかかわらず、読書を絶やさず、端謹慎密で、禁中の事を口にせず、功名は張黎と等しかったが、廉潔さは及ばなかった。

原文恭宗總攝萬幾,徵為東宮四輔,與宜都王穆壽等並參政事。詔以弼保傅東宮,有老成之勤,賜帛千匹、綿千斤。遷尚書令。弼雖事務殷湊,而讀書不輟,端謹慎密,口不言禁中之事,功名等於張黎而廉不及也。

上谷の民が上書し、苑囿が過度で、民に田業がなく、その大半を減らして貧しい者に賜わるよう乞うた。弼はこれを見て、入朝して奏上しようとしたが、世祖が給事中の劉樹と碁を打っており、政事を聞く気がないのに出会った。弼は侍坐すること久しく、申し聞けることができなかった。そこで立ち上がり、世祖の前で樹の頭を掴み、床から引きずり下ろし、手でその耳を掴み、拳でその背を殴って言った。「朝廷が治まらないのは、実に汝の罪である!」世祖は顔色を失って碁を放り出し言った。「奏事を聞かないのは、実に朕自身にある。樹に何の罪があろうか。放せ!」弼は詳しく状況を奏上した。世祖は弼の公直さを奇とし、その奏上を全て許可し、百姓に与えた。弼は言った。「臣として君前でその志を逞しくするのは、罪がないわけではない。」そこで公車に赴き、冠を免じ徒跣して、自らを弾劾し罪を請うた。世祖は使者を遣わして召した。到着すると、世祖は言った。「卿は冠履を着けよ。社を築く役事では、足を引きずりながら築き、端冕を着けてこれを祀れば、神は福を与えると聞く。それでは卿に何の罪があろうか。今より以後、苟くも社稷に利し、国を益し民に便なることあれば、たとえ転倒急遽であろうとも、卿はこれを行え。顧みることはない。」

原文上谷民上書,言苑囿過度,民無田業,乞減太半,以賜貧人。弼覽見之,入欲陳奏,遇世祖與給事中劉樹碁,志不聽事。弼侍坐良久,不獲申聞。乃起,於世祖前捽樹頭,掣下床,以手搏其耳,以拳毆其背曰:「朝廷不治,實爾之罪!」世祖失容放碁曰:「不聽奏事,實在朕躬,樹何罪?置之!」弼具狀以聞。世祖奇弼公直,皆可其所奏,以丐百姓。弼曰:「為臣而逞其志於君前者,非無罪也。」乃詣公車,免冠徒跣,自劾請罪。世祖遣使者召之。及至,世祖曰:「卿其冠履。吾聞築社之役,蹇蹷而築之,端冕而事之,神與之福。然則卿有何罪?自今以後,苟利社稷,益國便民者,雖復顛沛造次,卿則為之,無所顧也。」

世祖が大閲兵を行い、河西で狩猟しようとした。弼は留守を命じられ、詔して肥えた馬を騎兵に給うよう命じたが、弼は弱い馬を給うよう命じた。世祖は大いに怒って言った。「尖頭の奴、敢えて朕を裁量するか!朕が台に還れば、まずこの奴を斬る。」弼の頭は尖っており、世祖は常に筆頭と呼んでいたので、当時の人は筆公と呼んだ。弼の属官は恐れ慄いて誅殺を恐れた。弼は彼らに告げて言った。「私は、君に仕えて狩猟を遊楽に適さないようにすることが、罪は小さいと考えた。不測の事に備えず、戎寇をして恣に逸らせることこそ、罪は大きいのである。今、北狄は甚だ熾んじ、南虜は未だ滅びず、狡猾なる志を持って辺境を窺っている。これが私の憂いである。故に肥えた馬を選んで軍実に備え、不測の事に対する遠慮としたのである。苟くも国家に利あらば、私はどうして死を避けようか!明主には理をもって干すことができる。これは自ら私の罪であって、卿らの咎ではない。」世祖はこれを聞いて嘆じて言った。「かくの如き臣あり、国の宝である!」衣服一襲・馬二匹・鹿十頭を賜った。後に車駕が山北で狩猟し、麋鹿数千頭を大いに獲たとき、詔して尚書に車牛五百乗を発してこれを運ばせた。世祖はやがて従者に言った。「筆公は必ず与えまい。お前たちは馬で運ぶ速さには及ぶまい。」そこで帰還した。百余里を行ったところで弼の上表が到着し、言うには、「今秋の穀物は黄に懸かり、麻や菽が野に満ちているが、猪や鹿が窃かに食い、鳥や雁が侵して費やし、風波による消耗は朝夕に数倍する。哀れみ緩やかに賜わり、収穫・積載させてください。」世祖は左右に言った。「筆公は果たして朕の占った通りであった。社稷の臣と言えよう。」

原文世祖大閱,將校獵於河西。弼留守,詔以肥馬給騎人,弼命給弱者。世祖大怒曰:「尖頭奴,敢裁量朕也!朕還臺,先斬此奴。」弼頭尖,世祖常名之曰筆頭,是以時人呼為筆公。弼屬官惶怖懼誅。弼告之曰:「吾以為事君使畋獵不適盤遊,其罪小也。不備不虞,使戎寇恣逸,其罪大也。今北狄孔熾,南虜未滅,狡焉之志,窺伺邊境,是吾憂也。故選肥馬備軍實,為不虞之遠慮。苟使國家有利,吾何避死乎!明主可以理干,此自吾罪,非卿等之咎。」世祖聞而歎曰:「有臣如此,國之寶也!」賜衣一襲、馬二匹、鹿十頭。後車駕畋於山北,大獲麋鹿數千頭,詔尚書發車牛五百乘以運之。世祖尋謂從者曰:「筆公必不與我,汝輩不如馬運之速。」遂還。行百餘里而弼表至,曰:「今秋穀懸黃,麻菽布野,猪鹿竊食,鳥雁侵費,風波所耗,朝夕參倍,乞賜矜緩,使得收載。」世祖謂左右曰:「筆公果如朕所卜,可謂社稷之臣。」

初め、楊難当が来朝したとき、詔して弼にその子弟を悉く京師に送らせた。楊玄の末子の文徳が黄金四十斤を弼に賄賂し、弼は金を受け取り、文徳を留め置いて無礼に遇したため、文徳は逃亡して劉義隆に入った。世祖は弼が正直で戦功があるため、罪責を加えなかった。

原文初,楊難當之來也,詔弼悉送其子弟於京師。楊玄小子文德,以黃金四十斤賂弼,弼受金,留文德而遇之無禮,文德亡入劉義隆。世祖以其正直有戰功,弗加罪責也。

世祖が崩御し、呉王が立つと、弼を司徒とした。高宗が即位すると、張黎とともに議が旨に合わないとして坐し、ともに免官され、怨み誹謗の言葉があった。その家人が巫蠱を告発し、ともに法に伏し、当時の人は冤罪とした。

原文世祖崩,吳王立,以弼為司徒。高宗即位,與張黎並坐議不合旨,俱免,有怨謗之言。其家人告巫蠱,俱伏法,時人冤之。

張黎

原文張黎

張黎は、雁門郡平原県の人である。書計に巧みで、太祖に知遇を受けた。太宗はその忠亮を重んじ、広平公の爵を賜り、機要を管綜させた。

原文張黎,雁門平原人也。善書計,太祖知待之。太宗器其忠亮,賜爵廣平公,管綜機要。

世祖はその功労と旧知により、輔弼の任に当たらせ、大司農卿を除し、軍国の大議に黎は常に参与した。鎮北将軍を加えられた。赫連定を征討した功により、征北大将軍の号を進めた。楽安王の拓跋範・済南公の崔徽とともに長安を鎮守し、清廉で公平であり、名声は大いに著しかった。代わる時には、家に余財がなかった。世祖は詔して黎に兵一万二千人を率いさせ、莎泉道を通じさせた。車駕が涼州を征討したとき、蠕蠕の呉提が虚に乗じて侵入したが、黎は司空の長孫道生とともにこれを拒撃した。恭宗が初めて百揆を総摂すると、黎は東郡公の崔浩らとともに政を輔け、上に奉ずることに忠実で、公事でなければ言わなかった。詔して言うには、「侍中広平公の黎・東郡公の浩らは、東宮を保傅し、老成の勤めがあり、朕は甚だ嘉する。布帛各千匹を賜い、旧勲を褒めよ。」恭宗が東宮で薨じると、黎は太尉を兼ね、節を持ち策を奉じて諡を贈った。

原文世祖以其功舊,任以輔弼,除大司農卿,軍國大議,黎常與焉。加鎮北將軍。以征赫連定功,進號征北大將軍。與樂安王範、濟南公崔徽鎮長安,清約公平,甚著聲稱。代下之日,家無餘財。世祖詔黎領兵一萬二千人,通莎泉道。車駕征涼州,蠕蠕吳提乘虛入寇,黎與司空道生拒擊之。恭宗初總百揆,黎與東郡公崔浩等輔政,忠於奉上,非公事不言。詔曰:「侍中廣平公黎、東郡公浩等,保傅東宮,有老成之勤,朕甚嘉焉。其賜布帛各千匹,以褒舊勳。」恭宗薨於東宮,黎兼太尉,持節奉策諡焉。