巻28

和跋

和跋は代の人であり、代々部落を統領し、国の附臣となった。跋は才弁をもって知られ、太祖は彼を抜擢して外朝大人とし、軍国の大謀に参与させた。雅に智算があった。しばしば使命を果たして旨にかなったため、龍驤将軍に任ぜられた。まもなく、爵を日南公と賜った。 中原 ちゅうげん 平定に従い、功により 尚書 しょうしょ に進み、 ぎょう を鎮守した。

慕容 ぼよう 徳が兄の和を滑台に守らせたところ、和の長史李辨が和を殺し、跋に援軍を求めた。跋は軽騎を率いて赴いた。到着すると、辨は後悔し、門を閉ざして守備した。跋は尚書郎鄧暉を遣わして説得させると、辨は門を開いた。跋は入城し、その府庫の蔵を収めた。徳はこれを聞き、将を遣わして三千騎を率いさせ、跋を撃った。跋は迎撃し、これを大破し、その将士千余人を捕らえて帰還した。ここにおいて陳潁の民は多く来て帰化した。定陵公に改封された。常山王遵と共に五万の衆を率い、 賀蘭部 がらんぶ の別帥木易于を討ち、これを破った。平原太守として出向した。

太祖は跋を寵遇し、諸将の中で最も優れたものとした。時に群臣は皆恭儉を重んじたが、跋は虚誉を修めることを好み、時に眩曜し、性は特に奢侈で淫らであった。太祖はこれを戒めたが、改めなかった。後に車駕が北に狩りに出て豺山に至り、跋を捕らえ、路傍で刑に処した。妻の劉氏は自殺して従った。初め、跋を刑に処そうとした時、太祖はその諸弟の毗らに訣別を見させた。跋は毗に言うには、「灅北の地は瘠せている。水の南に住み、良田に就いて耕し、広く産業を為し、各々相勉励し、務めて自ら纂修せよ。」と。彼らに背を向けさせて言うには、「汝らはどうしてわが死を見るに忍びるか。」毗らはその微意を解し、使者を詐称し、 長安 ちょうあん に奔ったと云い、追っても及ばなかった。太祖は怒り、遂にその家を誅した。後、世祖が西に巡り五原に至り、帰途に豺山に幸して校猟したところ、突然暴風に遇い、雲霧が四方を塞いだ。世祖は怪しんで問うと、群下は皆、跋が代々この地に住み、祠と塚がなお存すると言い、あるいはこれがこの変を致すことができるかと。帝は建興公古弼を遣わし、三牲をもって祭祀させると、霧はただちに除散した。後、世祖が蒐狩する日には、毎回先にこれを祭った。

末子の帰は、 赫連 かくれん 昌征伐に従い功があり、統万将軍に任ぜられ、爵を成皐男と賜った。西平公安頡と共に虎牢を攻め、これを抜いた。爵を高陽侯に進めた。後に罪により涼州に徙配され庶民となった。蓋呉が関中で乱を起こすと、再び帰を龍驤将軍に任じて討伐に向かわせた。帰還し、使持節・冠軍将軍・雍城鎮都大将・高陽侯に任ぜられた。卒した。

子の度は爵を襲った。尚書都官郎・昌平太守となった。卒した。

度の子の延穆は、司州部郡従事となり、早世した。

子の安は、武定末年に給事黄門侍郎となった。

奚牧

奚牧は代の人であり、重厚で智謀があった。太祖は彼を寵遇し、仲兄と称した。初め、劉顕が太祖を害そうと謀った時、梁眷はその謀を知り、密かに牧と穆崇を七介山に遣わして告げさせた。詳細は崇伝にある。太祖は先帝の旧臣を記録し、また牧が顕の謀を告げた功により、治民長に任じ、政事を敷奏させ、計謀に参与させた。

太祖が慕容宝を征した時、輔国将軍を加えられ、晋川の地を攻略し、平陶において宝の丹陽王買得及び離石護軍高秀和を捕らえた。軍功により 并州 へいしゅう 刺史 しし に任ぜられ、爵を任城公と賜った。州は姚興と境界を接し、興はしばしば辺境を侵した。牧はそこで興に書を送り、頓首と称し、鈞礼をもって抗し、興の辺境侵犯の不当を責めた。興は国と通和していたので、これを恨んだ。ある者が太祖に言上し、太祖は牧を誅した。

莫題

莫題は代の人であり、智謀多く才用があった。初め幢将となり、禁兵を領した。太祖が慕容宝を征した時、宝が夜来て営を犯し、兵士は驚駭した。そこで京師に逃亡して帰還する者がおり、官軍が栢肆で敗れたと云い、京師は不安となった。南安公元順はこれに乗じて国事を摂ろうとした。題は順に言うには、「これは大事である。軽々しくすべきではない。後の要を審らかに待つべきである。さもなければ禍が及ぼう。」順はそこで止めた。功により平遠将軍に任ぜられ、爵を扶柳公と賜い、左将軍の号を進められ、高邑公に改められた。中山太守として出向し、司州の山東七郡の事を督した。

車駕が姚興を征し、 晋陽 しんよう に駐屯した時、上党の群盗秦頗・丁零の翟都らが壷関に衆を集めた。詔により題は三千の衆を率いてこれを討った。上党太守が頗を捕らえ、斬った。都は林慮に逃れた。詔により題は山を捜索し窮めて討伐し、ことごとく平定した。

初め、昭成帝の末、太祖の季父窟咄は長安に徙った。苻堅が敗れると、慕容永に従って東遷した。永が自立すると、窟咄を新興太守とした。登国初年、劉顕が弟の亢埿らを遣わして窟咄を迎え、南部を侵した。題は当時太祖に二心を抱き、窟咄に矢を贈り、これに言うには「三歳の犢、豈に重載に勝たんや」と。窟咄は年長で太祖は年少であることを言ったのである。太祖は既にこれを恨んでいた。天賜五年、題の居処が倨傲で、人主に擬していると告げる者があった。太祖はそこで人を遣わして彼に矢を示し、告げて言うには、「三歳の犢は、重載に勝つことができるか。」題は詔を奉じ、父子で対泣し、翌朝になって刑に処された。

庾業延

庾業延は代の人であり、後に岳の名を賜った。その父と兄の和辰は、代々牧畜を管轄した。やがて中部大人に転じた。昭成帝が 崩御 ほうぎょ すると、 てい 寇が内に侮りをなした。事変の間、畜産を収斂し、その富は国君に比した。劉顯が謀逆を企てた時、太祖は外に幸し、和辰は献明太后を奉じて太祖に帰し、またその資用を得た。和辰を内侍長とした。和辰が公私の旧畜を分別したが、甚だ旨に合わず、太祖はこれによって彼を恨んだ。岳は独り恭慎にして修謹、危難の間を善く処し、太祖はこれを喜んだ。王建らとともに外朝大人となり、軍国に参預した。

太祖が慕容垂と絶交した後、岳を大人とし、慕容永のもとに遣わした。永はその言辞と道理に服した。垂が長子において永を包囲すると、永は急を告げて救援を求め、岳は陳留王虔とともに五万騎を率いて東に河を渡りこれを救い、秀容に駐屯し、山胡部の 高車 こうしゃ 門らを破り、その部落を移した。会に永が滅びたので、乃ち軍を返した。中原平定に従い、安遠将軍に拝された。

官軍が栢肆において驚いた時、賀蘭部の帥附力眷・紇突隣部の帥匿物尼・紇奚部の帥叱奴根らがこれを聞き、党を聚めて陰館で反した。南安公元順がこれを討ったが、克たず、死者数千人に及んだ。太祖がこれを聞き、詔して岳に万騎を率い、還って叱奴根らを討たせ、殄滅し、百姓は乃ち安んじた。離石胡の帥呼延鉄・西河胡の帥張崇らは内徙を喜ばず、党を聚めて反叛した。岳は騎三千を率い、これを討ち破り、鉄を斬り崇を擒らえ、山を捜索して窮討し、その余党を散じた。功により爵を西昌公と賜り、征虜将軍の号を進めた。また反人張超・清河太守傅世を討ち、ともに破り平げた。岳を鄴行臺とした。

岳は将として謀略あり、軍を治めるに清整で、常に少をもって多を撃ち、士衆はその智勇に服し、名は諸将に冠した。鄴行臺が罷められた時、統べる六郡を以て相州を置き、即時に岳を刺史に拝した。公廉平当にして、百姓これを称えた。旧に園池あり、時果が初めて熟した時、丞吏がこれを送ったが、岳は受けず、曰く「果物は未だ御前に進んでいない、吾どうして先に食せんや」と。その謹みこの如しであった。後に 司空 しくう に遷った。岳の兄の子の路が罪あり、諸父兄弟悉く誅せられたが、特に岳父子を赦した。

天賜四年、詔して岳に南宮に舍地を賜い、岳は家僮を将いてこれを治めた。候官が岳の衣服鮮麗、行止風采が人君の儀に擬すと告げた。太祖は時に既に不 であり、多く猜悪したところがあり、遂にこれを誅した。時人は皆冤み惜しんだ。岳は代西の善無の界に葬られた。後、世祖が赫連氏を討つに当たり、その墓宅を経て、愴然として容を動かし、遂に詔を下して廟を立てさせ、一州の民に四時の祭りを致させた。その子孫で将帥に任ずべき者を求め、その子の陵を得た。征に従い功あり、爵を襲うことを聴された。

路は、皇始の初め、慕容宝征伐に従い、城門 校尉 こうい となった。司隸 校尉 こうい に遷った。爵は高平公であったが誅された。

賀狄干

賀狄干は代の人である。家は元来小族であったが、代々忠厚で、将として平当と称された。やがて北部大人に遷った。登国の初め、長孫嵩と対をなし、聴察に明るく、人に愛敬された。

太祖は狄干を遣わして馬千匹を致し、姚萇と婚姻を結ぼうとした。会に萇が死に興が立ったため、狄干を止めて婚姻を絶った。興の弟の平が衆を率いて平陽を寇し、太祖がこれを討ち平げ、その将の狄伯支・唐小方ら三十余人を擒らえた。天賜の中、詔して北新侯安同に唐小方を長安に送らせた。後、 蠕蠕 じゅんじゅん の社崘が興と和親し、馬八千匹を送った。始めて河を渡ろうとした時、赫連屈孑が興が国と交好するのを忿り、乃ち興に叛き、社崘の馬を邀え留めた。興は乃ち使者を遣わし、駿馬千匹を以て伯支を贖い、狄干を還すことを請うた。太祖の意は二寇を離間することに在り、ここにおいてこれを許した。

狄干は長安に幽閉され、ここにおいて書史を習読し、論語・尚書諸経に通じ、挙止風流、儒者の似る所があった。初め、太祖が功臣を普く封じた時、狄干は姚興に留められていたが、遥かに爵を襄武侯と賜り、秦兵将軍を加えられた。狄干が至った時、太祖はその言語衣服が きょう 俗に類するのを見て、慕ってこれを習ったものと思い、故に忿り、既にしてこれを殺した。

弟の帰もまた剛 すぐ 方雅であった。狄干とともに死んだ。

李栗

李栗は雁門の人である。昭成帝の時、父祖が国に入った。少より弁捷で、才能あり、兼ねて将略を有した。初め太祖に従って賀蘭部に幸し、元従二十一人の中に在った。太祖はその芸能を愛した。時に王業草創、爪牙心腹は多く親近を任じたが、唯栗のみは一介の遠寄にして、兼ねて戚旧にあらず、当世これを栄とした。数々戦功あり、左軍将軍に拝された。太祖が慕容宝を征した時、栗は五万騎を督して前駆となり、軍の至る所、降らざるはなかった。左将軍に遷った。慕容宝が中山を棄て東走した時、栗は軽騎を以てこれを追ったが、及ばずして還った。

栗は性簡慢で、寵を矜り、礼度に率わず、毎に太祖の前で舒放倨傲、自ら祗肅せず、咳唾任情であった。太祖はその宿過を積み、天興三年遂にこれを誅した。ここにおいて威厳始めて厲しく、制勒して羣下に尽く卑謙の礼を取らせたのは、栗より始まったのである。

劉潔

劉潔は長楽信都の人である。祖父の生は、卜筮をよく理解していた。昭成帝の時、慕容氏が娘を献上してきた際、公主の家臣となり、これに従って入朝した。妻を与えられ、子を生んだ。父の提は、太祖の時、官は楽陵太守に至り、信都男の爵位を賜った。没した。

潔は性質が強力で智謀多く、しばしば征討に従って功績があり、会稽公に爵位を進めた。河西の胡人張外・建興王紹らが徒党を集めて叛逆したので、潔は永安侯魏勤と共に三千の兵を率い、西河に駐屯してこれを鎮撫した。また勤及び功労将軍元屈らと共に吐京の叛胡を撃った。時に離石の胡人出以眷が屈丐の騎兵を引き連れ、山嶺を断ち切って潔を邀撃し、潔は馬を失い、山に登って力戦し、矢も刃も尽き、胡人に捕らえられ、屈丐のもとに送られた。潔は声と気概を屈せず、その あざな を呼んでこれと語り、神色自若であった。屈丐はその壮挙を認めて釈放した。後に帰国し、東部の事務を掌った。

太宗が病に臥せられ、世祖が国政を監理すると、潔は古弼らと共に東宮に侍るよう選ばれ、機密要務に対処し、百官の奏上を取り次いだ。世祖が即位すると、反逆者を告発し、また直言を献じて、その言うところがみな意に適い、柱石の用をなす者としてその才能を奇異とし、大任を委ねた。軍国を議するに及んでは、朝臣みなその才能を推した。ここにおいて 尚書令 しょうしょれい に超遷し、鉅鹿公に改封された。

世祖が雲中において蠕蠕の大檀を破ると、潔は世祖に言上した。「大檀はその衆を恃み、胆を破られて敗走したとはいえ、往時の敗北を恐れず、再び死を求めて来るでしょう。田畑の収穫を終えた後、再び大規模に出撃し、東西から並進して二道よりこれを討つことを請います。」世祖はその言をよしとした。後に征討を大いに議し、潔はまず馮跋を平定すべきと進言したが、世祖は従わなかった。敕勒の新民が将吏の侵奪により、みな怨言を発し、牛馬が草を飽く頃合いを見て漠北へ赴こうと期していた。潔と左 僕射 ぼくや 安原が上奏し、黄河の氷が解けないうちに彼らを河西に移し、氷解の後は北へ逃げられないようにしたいと願った。世祖は言った。「そうではない。この者らの習俗は、放散して久しく、園中の鹿のようである。急せば衝突し、緩やかにすれば落ち着く。我自ら処するに道あり、移す煩わしさはない。」潔らが固執したので、ついに三万あまりの落(集落)を河西に分け移すことを聴き入れ、西は白塩池に至った。新民は驚き恐れ、皆言った。「我らを河西の中に囲い込むのは、我らを殺そうとするのだ」と、西の涼州へ走ろうとした。潔は 侍中 じちゅう 古弼と共に五原の河北に駐屯し、左僕射安原は悦抜城の北に駐屯して、これを備えた。やがて新民数千騎が北へ逃走したので、潔はこれを追討した。逃走した者は食糧が尽き、互いに枕を重ねて死んだ。

時に南州に大水があり、百姓は飢餓に苦しんだ。潔は上奏して言った。「臣は聞く、天地は至って公平であるゆえに万物は皆育ち、帝王に私心がなければ黎民はこれに頼る、と。伏して考えるに、陛下は神武の資質をもって重光の統を継ぎ、大業を恢隆し、群生を育み救っておられます。威の振るうところ、服さざるなく、恩沢の及ぶところ、懐かざる遠きなく、太平の治はここにあります。近頃より辺寇が内に侵し、戎車がしばしば出動しましたが、天が授けた聖明により、出動する先々でこれを殄滅されました。方難が既に平らぎ、皆が恩賞を蒙り、勲功高い者は爵を受け、功の卑しい者は賞を得、寵賜は優渥で、古義を超えるものがあります。しかし郡国の民は、征討に加わらなくとも、農桑に勤しんで軍国に供給し、実に経世の大本であり、府庫の資するところです。山以東では、偏って水害に遇い、連年収穫なく、他所に食を求めております。臣は聞く、率土の濱、王臣ならざるはなし、と。哀れみを加え、広く覆い育むべきです。今、南では強寇を摧き、西では醜虜を敗り、四海は安らかで、人神ともに暢やかです。もし兆民と共にその福を享けば、恩恵が和気を感応させ、蒼生は悦び楽しむでしょう。」世祖はこれに従い、ここにおいて天下の一年分の租賦を免除した。

潔は楽平王丕と共に諸軍を督して上邽を取った。軍が啓陽に至ると、百姓は争って牛や酒を贈った。潔が上邽に至ると、諸将は皆その豪帥を斬って王威を示そうとしたが、潔は聞き入れなかった。秦隴を撫慰し、秋毫も犯さず、人々は皆安んじて生業についた。世祖が隴右の騎卒を発して東の高麗を伐とうとすると、潔は進言した。「隴土の新民は、大化に染まり始めたばかりです。優復(租税免除)を賜って豊かに実らせるべきです。兵馬が食に足りて、その後用いることができます。」世祖は深くこれを採用した。車駕が西征するに当たり、潔は前鋒となった。沮渠牧犍の弟董来が一万余りを率いて城南で防戦した。潔は卜者の言を信じ、日辰が合わないとして、鼓を打って陣を退き、故に後軍は進まず、董来は城に入ることができた。世祖はこれを少し不満に思った。後に潔は建寧王崇と共に諸軍を督し、三城の胡部の中から六千の兵を選抜し、もって姑臧を戍ろうとした。胡は命令に従わず、千余人が叛いて逃走した。潔と崇はこれを撃ち誅し、男女数千人を虜にした。

潔は朝夕枢密にあり、深く信任されたが、性質が剛直であり、寵を恃んで専断した。世祖の心は次第に不平となった。時に蠕蠕征伐を議し、潔はそれを望まず、世祖に言った。「虜には邑居がなく、遷徙常なく、以前出軍したが、何も捕獲できませんでした。広く農耕し穀物を蓄積して、その来襲を待つに如かず。」群臣は皆その議に従った。世祖は実行を決意し、崔浩に問うたところ、浩は固く伐つべきと主張した。世祖は浩の議に従った。出撃した後、諸将と鹿渾谷で期会することになった。しかし潔は自分の計略が用いられなかったことを恨み、諸将を沮そうとして、詔を偽って期日を変更したので、諸将は到着しなかった。時に虜の衆は大いに乱れ、恭宗はこれを撃とうとしたが、潔は固執して不可とした。詳細は帝紀にある。鹿渾谷に六日間留まったが、諸将はなお進まなかった。賊は既に遠く遁走し、石水まで追ったが及ばずに還った。軍は漠中に駐屯したが、食糧が尽き、士卒の多くが死んだ。潔は密かに人を遣わして軍を驚かせ、世祖に軍を棄てて軽装で帰還するよう勧めたが、世祖は従わなかった。潔は軍行が功なく、崔浩に罪を帰するよう上奏した。世祖は言った。「諸将が後期し、賊を撃たなかった罪は諸将にある。どうして浩にあることがあろうか。」浩はまた潔が詔を偽ったことを言上し、事は遂に発覚した。輿駕が五原に至り、潔を収監して幽閉した。

世祖の征伐に際し、潔は密かに親しい者に言った。「もし軍が出て功なく、車駕が返らぬことがあれば、我は楽平王を立てよう。」潔はまた右丞張嵩に図讖を求めさせ、「劉氏が王となるべきで、国家の後を継ぐ。我に確かに姓名があるか?」と問わせた。嵩は答えて言った。「姓はあるが名はない。」厳しく取り調べて自白させ、嵩の家を捜索したところ、果たして讖書を得た。潔と南康公狄隣及び嵩らは、皆三族に処せられ、死者は百余人に及んだ。

潔は勢要の地位に居り、威福を擅にし、諸々阿附する者は登用され、逆らう者は罷免され、内外これをおそれ、側目して見た。城を抜き国を破った者は、財貨を聚斂し、潔とこれを分け合った。その家産を没収すると、財は巨万に盈ちた。世祖は後になってこれを憤り、言うごとに歯ぎしりした。

古弼

古弼は代の人である。若い頃より忠実で謹厳、読書を好み、また騎射に長じていた。初め獵郎となり、長安に使いし、意に適い、門下奏事に転じ、敏速で公正であることで著名であった。太宗はこれを賞賛し、筆という名を賜り、その すぐ にして有用なることを取り、後に弼と改名し、その輔佐の材であることを言った。弼に西部を掌らせ、劉潔らと分かって機要を管轄し、百官の奏上を取り次がせた。

世祖が即位すると、功により立節将軍に任じられ、霊寿侯の爵位を賜った。 へい 州の叛胡を征討した。還って、侍中・吏部尚書に進み、南部の奏事を掌った。安原と共に巳尼陂において東部高車を降した。また劉潔と共に五原の河北に駐屯し、叛民に備えた。安西将軍に任じられ、赫連定征伐に従った。車駕が平涼に至り、涇南に駐屯した。弼と侍中張黎を遣わして平涼を撃たせた。赫連定が安定より歩騎二万を率いて来援し、弼らと遭遇したので、弼は偽って退却してこれを誘った。世祖は高車敕勒に命じて定を馳撃させ、数千級を斬首した。弼は勝に乗じて安定を取った。

また永昌王 拓跋 たくばつ 健らとともに馮文通を討伐した。文通は城に拠って堅く守り、弼はその禾を刈り取って帰還した。後にまた文通を征討すると、文通は高句麗に救援を求めた。高句麗の援軍が到着し、文通が東へ逃れようとしたとき、民衆の多くはこれを難儀とした。その大臣の古埿は、民心が従わないのを利用して、ついに衆を率いて文通を攻撃し、城門を開いて官軍を引き入れた。弼は古埿が詭詐を用いていると疑い、城に入らなかった。高句麗軍が到着すると、文通はこれに従った。文通が逃亡する際、婦人に甲冑を着せて中央に置き、その精鋭の兵卒と高句麗軍を外に陣取らせた。弼の部将の高苟子が騎兵を率いて賊軍を衝撃しようとしたが、弼は酒に酔って刀を抜きこれを制止したため、文通は東へ逃れることができた。将士は皆、弼が撃たなかったことを怨んだ。世祖は大いに怒り、弼を召還して広夏門の兵卒に貶した。

まもなくまた侍中となり、尚書の李順とともに涼州に使した。安西将軍に拝され、建興公の爵を賜り、長安を鎮守し、威名は大いに著しかった。涼州征討が議せられたとき、弼と李順はともに涼州は水草に乏しく、軍を進めるに適さないと述べた。世祖は聞き入れなかった。姑臧を平定した後、世祖は弼らを少し疎んじたが、その将略があるため、とがめはしなかった。

劉義隆が将軍の裴方明らを派遣して南秦王の楊難当を撃つと、難当は使者を遣わして救兵を請うた。救兵が到着する前に、難当は上邽に奔り、方明は仇池を攻略し、楊玄の庶子の保熾を立てた。ここにおいて弼に節を仮授し、隴右諸軍を督させた。義隆はその秦州刺史の胡崇之を仇池に駐屯させたが、弼は平西将軍の元斉とともに濁水で崇之を邀撃し、陣前でこれを生け捕りにした。その衆は漢中へ逃げ帰った。弼らは祥郊山の南から侵入し、東道の将軍の皮豹子らとともに仇池を討伐し、永安侯の賀純を派遣して義隆を攻撃し、狭道を塞いだ。守将の姜道祖は狭亭に退いて守った。諸将は山道が険峻で、時に雪も深く、馬を使うのに不便なため、皆、遅滞して進まなかった。弼はただ独り進軍し、元斉・賀純らに狭亭を攻撃させると、道祖は南へ逃走し、仇池は平定された。間もなく、諸氐は再び楊文徳を主に推戴して仇池を包囲した。弼は上邽・高平・汧城の諸軍を発してこれを討伐し、仇池の包囲は解け、文徳は漢川へ逃走した。時に豹子は関中の諸軍を督率して下弁に駐屯していたが、仇池の包囲が解けたと聞き、軍を還そうと議した。弼は使者を遣わして豹子に言わせた。「近頃連続して賊軍を破ったが、彼らの君臣が大義をまだ体得しておらず、敗北を恥じて、あるいは報復に来るかもしれない。もし軍を返せば、賊の衆が再び至り、後日の挙兵が困難となろう。兵を繕い甲を練り、力を蓄えて彼らを待つに如くはない。秋冬を出ずして、南寇は必ず来るであろう。逸を以て労を待てば、百勝の策である。」豹子はやめて止まった。世祖はこれを聞いて言った。「弼の言は、長策である。南秦を制するにあたり、弼の謀は多い。」

恭宗が万機を総摂すると、弼を徴して東宮四輔とし、宜都王の穆寿らとともに政事に参与させた。詔して、弼が東宮を保傅し、老成の勤めがあるとして、帛千匹・綿千斤を賜った。 尚書令 しょうしょれい に遷った。弼は事務が殷賑であるにもかかわらず、読書を絶やさず、端謹慎密で、禁中の事を口にせず、功名は張黎と等しかったが、廉潔さは及ばなかった。

上谷の民が上書し、苑囿が過度で、民に田業がなく、その大半を減らして貧しい者に賜わるよう乞うた。弼はこれを見て、入朝して奏上しようとしたが、世祖が給事中の劉樹と碁を打っており、政事を聞く気がないのに出会った。弼は侍坐すること久しく、申し聞けることができなかった。そこで立ち上がり、世祖の前で樹の頭を掴み、床から引きずり下ろし、手でその耳を掴み、拳でその背を殴って言った。「朝廷が治まらないのは、実に汝の罪である!」世祖は顔色を失って碁を放り出し言った。「奏事を聞かないのは、実に朕自身にある。樹に何の罪があろうか。放せ!」弼は詳しく状況を奏上した。世祖は弼の公直さを奇とし、その奏上を全て許可し、百姓に与えた。弼は言った。「臣として君前でその志を逞しくするのは、罪がないわけではない。」そこで公車に赴き、冠を免じ徒跣して、自らを弾劾し罪を請うた。世祖は使者を遣わして召した。到着すると、世祖は言った。「卿は冠履を着けよ。社を築く役事では、足を引きずりながら築き、端冕を着けてこれを祀れば、神は福を与えると聞く。それでは卿に何の罪があろうか。今より以後、苟くも 社稷 しゃしょく に利し、国を益し民に便なることあれば、たとえ転倒急遽であろうとも、卿はこれを行え。顧みることはない。」

世祖が大閲兵を行い、河西で狩猟しようとした。弼は留守を命じられ、詔して肥えた馬を騎兵に給うよう命じたが、弼は弱い馬を給うよう命じた。世祖は大いに怒って言った。「尖頭の奴、敢えて朕を裁量するか!朕が台に還れば、まずこの奴を斬る。」弼の頭は尖っており、世祖は常に筆頭と呼んでいたので、当時の人は筆公と呼んだ。弼の属官は恐れ慄いて誅殺を恐れた。弼は彼らに告げて言った。「私は、君に仕えて狩猟を遊楽に適さないようにすることが、罪は小さいと考えた。不測の事に備えず、戎寇をして恣に逸らせることこそ、罪は大きいのである。今、北狄は甚だ熾んじ、南虜は未だ滅びず、狡猾なる志を持って辺境を窺っている。これが私の憂いである。故に肥えた馬を選んで軍実に備え、不測の事に対する遠慮としたのである。苟くも国家に利あらば、私はどうして死を避けようか!明主には理をもって干すことができる。これは自ら私の罪であって、卿らの咎ではない。」世祖はこれを聞いて嘆じて言った。「かくの如き臣あり、国の宝である!」衣服一襲・馬二匹・鹿十頭を賜った。後に車駕が山北で狩猟し、麋鹿数千頭を大いに獲たとき、詔して尚書に車牛五百乗を発してこれを運ばせた。世祖はやがて従者に言った。「筆公は必ず与えまい。お前たちは馬で運ぶ速さには及ぶまい。」そこで帰還した。百余里を行ったところで弼の上表が到着し、言うには、「今秋の穀物は黄に懸かり、麻や菽が野に満ちているが、猪や鹿が窃かに食い、鳥や雁が侵して費やし、風波による消耗は朝夕に数倍する。哀れみ緩やかに賜わり、収穫・積載させてください。」世祖は左右に言った。「筆公は果たして朕の占った通りであった。社稷の臣と言えよう。」

初め、楊難当が来朝したとき、詔して弼にその子弟を悉く京師に送らせた。楊玄の末子の文徳が黄金四十斤を弼に賄賂し、弼は金を受け取り、文徳を留め置いて無礼に遇したため、文徳は逃亡して劉義隆に入った。世祖は弼が正直で戦功があるため、罪責を加えなかった。

世祖が崩御し、呉王が立つと、弼を 司徒 しと とした。高宗が即位すると、張黎とともに議が旨に合わないとして坐し、ともに免官され、怨み誹謗の言葉があった。その家人が巫蠱を告発し、ともに法に伏し、当時の人は冤罪とした。

張黎

張黎は、雁門郡平原県の人である。書計に巧みで、太祖に知遇を受けた。太宗はその忠亮を重んじ、広平公の爵を賜り、機要を管綜させた。

世祖はその功労と旧知により、輔弼の任に当たらせ、大司農卿を除し、軍国の大議に黎は常に参与した。鎮北将軍を加えられた。赫連定を征討した功により、征北大将軍の号を進めた。楽安王の拓跋範・済南公の崔徽とともに長安を鎮守し、清廉で公平であり、名声は大いに著しかった。代わる時には、家に余財がなかった。世祖は詔して黎に兵一万二千人を率いさせ、莎泉道を通じさせた。車駕が涼州を征討したとき、蠕蠕の呉提が虚に乗じて侵入したが、黎は 司空 しくう の長孫道生とともにこれを拒撃した。恭宗が初めて百揆を総摂すると、黎は東郡公の崔浩らとともに政を輔け、上に奉ずることに忠実で、公事でなければ言わなかった。詔して言うには、「侍中広平公の黎・東郡公の浩らは、東宮を保傅し、老成の勤めがあり、朕は甚だ嘉する。布帛各千匹を賜い、旧勲を褒めよ。」恭宗が東宮で薨じると、黎は 太尉 たいい を兼ね、節を持ち策を奉じて おくりな を贈った。

呉王の拓跋余が立つと、黎を太尉とした。後に議が旨に合わないとして免官された。やがて古弼とともに誅殺された。

史臣が曰く、和跋・奚牧・莫題・賀狄干・李栗・劉潔らは、皆、忠勤と征伐の功績があり、任用と待遇はなお優れていたが、いずれも誅滅に至った。岳は危難の中に身を置き、草創の際に事を受け、智勇を既に発揮し、功名は特に顕著であった。まさに良将の材である。弼は軍を謀り国を輔け、遠略と正しい情に、柱石の器量があった。張黎は誠実謹直で兼ねて方策を有し、功労と旧誼によって重んじられた。わずかな隙の間に、一朝にして殞ち覆えり、宥しが十世に及ぶとは、ただ言葉だけのことであろうか、惜しいことである。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻28