穆崇
穆崇は代の人である。その祖先は神元帝・桓帝・穆帝の時代に忠節を尽くした。崇は機敏で弁が立ち、若い頃は窃盗を業としていた。太祖が獨孤部に居住していた時、崇は常に往来して物資を供給し、当時の人で彼に及ぶ者はなかった。後に劉顯が謀逆を企てた時、平文皇帝の外孫である梁眷がこれを知り、密かに崇を遣わして太祖に告げさせた。眷は崇に言った、「顕がもし知ってお前に尋ねたならば、丈夫たる者は節に死すべきであり、たとえ刀剣で切り刻まれても、決して漏らしてはならない」と。そこで寵愛する妻と乗っていた良馬を崇に託して言った、「事が発覚したら、私はこれをもって自らの潔白を明らかにしよう」。崇が来て危難を告げると、太祖は急いで 賀蘭部 へと向かった。顕は果たして眷が謀を漏らしたのではないかと疑い、彼を囚えようとした。崇はそこで大声で言った、「梁眷は恩義を顧みず、劉顕を助けて逆を為した。今、私は彼の妻と馬を掠め取った。これで憤りを晴らすに足る」と。顕はこれを聞いて信じた。窟咄の難の時、崇の甥の于桓らが太祖を捕らえて窟咄に応じようと謀り、崇に告げて言った、「今、窟咄は既に立っており、人々は皆帰順している。富貴を逃すべきではない。舅上、どうか図ってほしい」。崇は夜中に太祖に告げ、太祖は桓らを誅し、北へ陰山を越え、再び賀蘭部に身を寄せた。崇は大いに寵遇された。
太祖が魏王となると、崇を征虜将軍に任じた。 中原 平定に従い、爵を歴陽公、 散騎常侍 を賜った。後に 太尉 に遷り、 侍中 を加えられ、安邑公に徙封された。また 高車 征伐に従い、大勝して帰還した。姚興が 洛陽 を包囲し、司馬徳宗の将軍辛恭靖が救援を請うと、太祖は崇に六千騎を率いて赴かせた。到着しないうちに恭靖は敗れ、詔により崇は直ちに野王に鎮し、 豫 州 刺史 に任じられ、もとの将軍号のままとした。召されて太尉となり、また宜都公に徙封された。天賜三年に 薨去 した。先に、 衞 王の儀が謀逆を企てた時、崇もこれに関与していたが、太祖はその功績を惜しんで秘匿した。有司が 諡 を奏上した時、太祖自ら諡法を覧て、義を述べて成さざるを「丁」とするところに至った。太祖は言った、「これは当たっている」。そこで諡して丁公とした。
初め、太祖が窟咄の難を避けた時、崇を遣わして人心を探らせた。崇は夜中に民衆の中に至り、馬を従者に預け、微服でその陣営に入った。折しも火の光があり、搗き女に顔を見知られ、賊は皆驚いて起き上がった。崇は従者を見つけられず、坑の中に隠れ、ゆっくりと馬を盗んで逃走した。大沢で宿をとると、白狼が崇に向かって号いたので、崇は悟り、馬を走らせて狼に従って行った。ちょうど去った後、賊党の追手が既に至り、こうして難を免れた。太祖はこれを奇異とし、崇に祀を立てさせ、子孫代々これを奉じさせた。太和年中、功臣を追録し、崇を配饗した。
長子 穆遂留
崇の長子の遂留は、顕官を歴任した。 蠕蠕 討伐に功があり、爵を零陵侯と賜った。後に罪により廃された。
長子 穆乙九
子の乙九は、内実は長者の風格があった。功により爵を富城公と賜り、建忠将軍を加えられ、 散騎常侍 ・内乗黄令・侍中に遷った。卒し、諡して静といった。
子 穆真
子の真は、中散より起家し、転じて東宮に侍し、長城公主を 尚 り、駙馬都尉に任じられた。後に勅命により離婚し、文明太后の姉を娶った。まもなく南部 尚書 ・侍中に任じられた。卒し、諡して宣といった。高祖は崇の勲功を追懐し、著作郎の韓顯宗に命じて真と共に碑文を撰定させ、白登山に建立した。
子 穆泰
真の子の泰は、本名は石洛といい、高祖が名を賜ったものである。功臣の子孫として、章武長公主を尚り、駙馬都尉に任じられ、羽獵四曹事を管掌し、爵を馮翊侯と賜った。殿中尚書に遷り、 散騎常侍 ・安西将軍を加えられた。爵を公に進めた。出仕して鎮南将軍・洛州刺史となった。例により侯に降格された。まもなく召されて右光禄大夫・尚書右 僕射 となった。また出仕して使持節・鎮北将軍・定州刺史となった。馮翊県開国侯に改封され、食邑五百戸を与えられた。征北将軍に進んだ。
初め、文明太后が高祖を別室に幽閉し、廃立を謀ろうとした時、泰が切諫してやめさせた。高祖はその徳を感じ、山河を賜るほど寵遇は厚かった。泰は長く病んでいることを申し出て、恒州を乞うたので、陸叡を定州に転じ、泰を代わりに任じた。泰は遷都を望まず、叡がまだ出発しないうちに泰は既に到着し、密かに扇動し誘い合って、反逆を図った。そこで叡及び安楽侯の元隆、撫冥鎮将・魯郡侯の元業、 驍 騎将軍の元超、陽平侯の賀頭、射声 校尉 の元楽平、前彭城鎮将の元抜、 代郡 太守の元珍、鎮北将軍・楽陵王の思誉らと謀り、朔州刺史の陽平王の頤を推戴して主としようとした。頤は従わず、偽って承諾して彼らを安心させ、密かにその事を上表した。高祖は任城王の澄を遣わし、 并州 ・肆州の兵を率いて討伐させた。澄は先に治書侍御史の李煥を単車で代に遣わし、不意を突いたので、泰らは驚愕し、計略を失った。煥は逆徒を諭し、禍福を示したので、凶党は離心し、彼らのために尽くす者はなくなった。泰は必ず敗れると覚悟し、麾下数百人を率いて煥の城門を攻め、一勝を望んだ。成功せず、単騎で城西に逃げ出し、人に捕らえられて送られた。澄もまもなく到着し、党与を徹底的に取り調べた。高祖は代に行幸し、自ら罪人と会い、反逆の状況を問うと、泰らは誅殺された。
子 穆伯智
子の伯智は、八歳で東宮に侍学し、十歳で太子洗馬・散騎侍郎に任じられた。饒陽公主を尚り、駙馬都尉に任じられた。早世した。子は喈。
長子の長子の子(次子)は穆士儒である。
伯智の弟の士儒は、 字 を叔賢という。涼州に移されたが、後に帰還を許された。太尉参軍事となった。
長子の長子の子の次子の子は穆容である。
子容は、武定年間に汲郡太守となった。
長子の次子は穆忸頭である。
乙九の弟の忸頭は、侍中・北部尚書となった。没後、 司空 公を追贈され、諡を敬といった。
長子の次子の子は穆蒲坂である。
子蒲坂は、虞曹尚書・征虜将軍・涇州刺史となった。没後、征西将軍・雍州刺史を追贈され、諡を昭といった。
長子の次子の子の子は穆韶である。
子韶は、字を伏興といい、員外散騎侍郎・代郡太守・征東将軍・金紫光禄大夫となった。没後、使持節・ 都督 冀相殷三州諸軍事・驃騎大将軍・冀州刺史を追贈され、諡を文といった。
長子の次子の子の子の子は穆遵伯である。
子遵伯は、幽州司馬となった。
次子は穆観である。
遂留の弟の観は、字を闥抜といい、穆崇の爵位を継いだ。若くして文芸で名を知られ、選ばれて内侍に充てられ、太祖に重んじられた。太宗が即位すると、左衛将軍となり、門下・ 中書 を管轄して詔命の出納を司った。旧事を尋ねられても、何一つ遺漏することがなく、太宗はこれを奇異とした。宜陽公主を娶り、駙馬都尉に任じられ、次第に太尉に昇進した。世祖が国政を監理した時、観は右弼となり、外に出れば朝政を統轄し、内に入れば左右に応対し、事の大小を問わず、すべてに関して決裁した。終日和やかで、喜びや怒りの色を見せなかった。労を厭わず謙虚で、よく人を導き、富貴を以て人に驕ることがなかった。泰常八年、急病で苑内にて薨去した。時に三十五歳。太宗は自らその喪に臨み、左右の者を悲しませ慟哭させた。全身に浮き彫りの金飾を施した棺を賜り、喪礼はすべて安城王叔孫俊の先例に依った。宜都王を追贈され、諡を文成といった。世祖が即位すると、群臣と談笑宴飲する度に、必ず嘆息して懇ろに惜しみ、泰常以来、 天命 を助けた勲臣で文武に優れ、彼に及ぶ者はいないとし、このように称えられた。
次子の長子は穆寿である。
子の寿は爵位を襲い、幼少より父の任により選ばれて東宮に侍した。楽陵公主を 尚 り、駙馬都尉に拝された。明敏にして父の風あり、世祖はこれを愛重し、下大夫に抜擢した。敷奏は機弁に富み、内外に名声があった。侍中・ 中書監 に遷り、南部尚書を領し、宜都王に爵を進められ、征東大将軍を加えられた。寿は辞して言う、「臣の祖父崇は、先皇の世、艱難危険の時に遭遇し、幸いに天が梁眷を助け、誠心を密かに告げたので、前朝に功を効し、後世に福を流すことができました。昔、陳平は賞を受けて、その功を無知に帰しました。今、眷の元勲はまだ記録されていないのに、臣のみが代々栄誉を受けるのは、ただ古の賢人を仰いで愧じるのみならず、また国典を損なうものであります」と。世祖はこれを嘉した。そこで眷の後を求め、その孫を得て、郡公の爵を賜った。
輿駕が涼州を征するに当たり、寿に恭宗を輔佐させ、要機を総録させ、内外はこれに聴いた。雲中に進み、河を渡らんとするに及び、諸将を宮中で宴した。世祖は別に静室に御し、寿及び 司徒 崔浩・尚書李順を召し、世祖は寿に言う、「蠕蠕の呉提は牧犍と連和し、今朕が涼州を征するを聞けば、必ず塞を犯して来るであろう。もし伏兵を漠南に置き、これを殄滅すれば容易である。朕は故に壮兵肥馬を留め、卿に太子を輔佐させよう。収田が既に終われば、すなわち要害に分かれて伏し、虜の至るを待ち、これを深く引き入れ、然る後にこれを撃てば、必ずこれを 擒 えるであろう。涼州は路遠く、朕は救うことができない。卿もし朕の指授に違い、虜に侵害されることがあれば、朕は還って卿を斬るであろう。崔浩・李順が証である。虚言ではない」と。寿は頓首して詔を受けた。寿は卜筮の言を信じ、賊は来ないと言い、ついに設備しなかった。すると呉提は果たして至り、善無に侵攻し、京師は大いに駭いた。寿は為すところを知らず、西郭門を築き、恭宗に南山に避けて保つことを請おうとした。恵太后は聴かず、やめて止んだ。 司空 長孫道生らを遣わしてこれを撃退させた。世祖は還り、大なる損傷がなかったので、故に追咎しなかった。
恭宗が国を監するに当たり、寿は崔浩らとともに政を輔けた。人皆浩を敬したが、寿のみはこれを凌いだ。また自ら位任を恃み、人己に及ぶ者なしと思った。その子師に言う、「ただ我が児及び我が足れりとして人に勝つべし、苦しく教うるに須いない」と。諸父兄弟に遇すること僕隷の如くし、夫妻並び坐して共に食し、諸父に餕餘(残り物)を食わせた。その自矜無礼、この如きものあり、当時の人に鄙笑された。真君八年に薨じた。太尉を贈られ、諡して文宣と言う。
次子の長子の長子、穆平国。
子の平国は爵位を襲い、城陽長公主を尚り、駙馬都尉・侍中・ 中書監 に拝され、太子四輔となった。正平元年に卒した。
次子の長子の長子の長子、穆伏干。
子の伏干は爵位を襲い、済北公主を尚り、駙馬都尉に拝された。和平二年に卒した。諡して康と言う。子無し。
次子の長子の長子の次子、穆羆。
伏干の弟羆は爵位を襲い、新平長公主を尚り、駙馬都尉に拝された。また虎牢鎮将に除され、頻りに不法により罪を得た。高祖はその勲徳の冑(ちょう、子孫)なるを以て、譲ってこれを赦した。
転じて征東将軍・吐京鎮将となった。羆は善を賞し悪を罰し、深く自ら克勵した。時に西河の胡が叛き、羆はこれを討たんとしたが、離石都将郭洛頭が拒違して従わなかった。羆は遂に上表して自らを劾し、威をもって下を摂することができず、刑戮に就くことを請うた。高祖は乃ち洛頭の官を免じた。山胡の劉什婆が郡県を寇掠したので、羆はこれを討滅した。ここより部内粛然として、敬憚せざる者無し。後に吐京鎮を汾州と改め、 仍 羆を刺史とした。前吐京太守劉升は、郡において甚だ威恵あり、任期満了して都に還るに当たり、胡民八百余人が羆のもとに詣でてこれを請うた。前定陽令呉平仁もまた恩信あり、戸数数倍に増えた。羆は吏民がこれを懐くを以て、並びに表して請うた。高祖は皆これに従った。羆は既に頻りに升らを推薦したので、所部の守令は皆自ら砥礪し、威化大いに行われ、百姓これを安んじた。州民李軌・郭及祖ら七百余人が、闕に詣でて羆の恩徳を頌した。高祖は羆の政和み民悦ぶを以て、秩を増し任期を延ばした。
後に徴されて光禄勲となった。例に随い王を降じて魏郡開国公とし、邑五百戸を賜った。また鎮北将軍・燕州刺史に除され、広寧を鎮めた。尋いで 都督 夏州・高平鎮諸軍事、本将軍、夏州刺史に遷り、統万を鎮めた。また侍中・ 中書監 に除された。穆泰の反乱に、羆は潜かに通じ、赦後に事発し、封を削られて民とされた。家に卒した。世宗の時、鎮北将軍・恒州刺史を追贈された。
次子の長子の長子の次子の長子、穆建。
子の建は、字は晚興、性質通率にして、頗る文史を好んだ。秘書郎より起家し、 稍 く直閤将軍に遷り、武衛を兼ねた。建の妻は尒朱栄の妹であり、建は常に栄に依附した。栄が洛に入った後、鎮東将軍・金紫光禄大夫・征北将軍に除され、済北郡開国公に封ぜられた。後に 散騎常侍 ・車騎大将軍・左光禄大夫・尚書兼官・北道行臺・ 并 州事に遷った。元曄が立つと、建は尚書右僕射を兼ね、 俄 に侍中・驃騎大将軍に転じた。出帝の末、本将軍・儀同三司・洛州刺史となった。天平年中、事に坐し五原城北で自殺した。
次子の長子の長子の次子の長子の子、穆千牙。
子の千牙は、武定年中、開府祭酒となった。
次男の長男、長男の次男、次男の次男は穆衍である。
穆建の弟の穆衍は、字を進興という。員外郎として初めて官途につき、新興県開国子に封ぜられ、やがて通直常侍に昇進し、雲州の事務を代行した。
次男の長男、長男の三男は穆亮である。
穆羆の弟の穆亮は、字を幼輔といい、初めの字は老生であった。早くから風格があった。顕祖の時、侍御中散として仕官を始めた。中山長公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられ、趙郡王に封ぜられ、侍中・征南大将軍を加えられた。後に長楽王に封ぜられた。高祖の初年、使持節・秦州刺史に任ぜられた。州に着任して一年にも満たないうちに、名声が大いに高まった。召し出されて殿中尚書となった。さらに使持節・征西大将軍・西戎 校尉 ・敦煌鎮都大将に転じた。政治は寛大で簡素なことを尊び、貧窮者を救済した。召し出されて朝廷に戻ると、民衆は彼を追慕した。
都督 秦梁益三州諸軍事・征南大将軍を任ぜられ、護西戎 校尉 ・仇池鎮将を兼ねた。当時、宕昌王の梁弥機が死去し、子の弥博が立ったが、吐谷渾に追われて仇池に逃げてきた。穆亮は、弥機が以前から朝貢して忠誠を厚く示していたことを考慮し、その滅亡を哀れんだ。弥博は凶暴で道理に背き、 氐 や 羌 に見放されていた。弥機の兄の子である弥承は、戎民に帰順され慕われていたので、上表して彼を受け入れるよう請願した。高祖はこれに従った。そこで騎兵三万を率いて龍鵠に駐屯し、吐谷渾を撃退して弥承を立てて帰還した。この時、階陵比谷の羌の董耕奴・斯卑らが数千の兵を率いて仇池を寇し、陽遐嶺に駐屯したが、穆亮の副将の楊霊珍が騎兵を率いてこれを撃退した。氐の豪族の楊卜は、延興年間以来、軍に従って征伐に参加し、二十一度の戦いに臨み、以前の鎮将はこれを抑えて上聞に達しなかった。穆亮は上表して楊卜を広業太守とし、豪族たちは皆喜び、境内は大いに安寧となった。
召し出されて侍中・尚書右僕射となった。この時、司州が再び設置された。高祖は言った。「司州が設立されたばかりで、官僚がまだいない。中正を立てて選挙を定めねばならない。しかし中正の任は、必ず徳望を兼ね備えた者でなければならない。世祖の時、崔浩が冀州中正となり、長孫嵩が司州中正となったのは、適材を得たと言えよう。公卿らは自ら互いに推挙すべきであり、必ず適任と認められる者を挙げよ。」尚書の陸叡が穆亮を司州大中正に推挙した。
当時、蕭賾が将軍の陳顕達を派遣して醴陽を陥落させたので、穆亮に使持節・征南大将軍を加え、 都督 懐・洛・南・北 豫 ・徐・兗六州諸軍事としてこれを討伐させた。顕達は逃走し、穆亮は帰還した。まもなく 司空 に転じ、律令の制定に参与した。定例により爵位は公に降格された。
当時、文明太后が 崩御 し、すでに喪期を過ぎていたが、高祖の哀毀はなお甚だしかった。穆亮は上表して言った。「王者は極位にあり、至って尊く重い存在であり、天を父とし地を母として、百霊を懐柔する。それゆえ古の哲王は、礼を制定して事を成し遂げた。政を施し治を立てるには、必ず天に順って後に行動し、憲を宣べ範を垂れるには、必ず典拠に依って後に実行する。これによって四季に誤りがなく、陰陽が和らぎ調うのである。もし過ちがあれば、災いの兆しは必ず集まる。故に大舜は慕情が極みに達したが、その事は納麓(政務を執ること)の前にある。孔子は至聖であっても、喪に服して瘠せることを過ぎることは記録されていない。堯の書には古を稽える美事は記されても、喪服を着ける痛みは記されていない。礼は諸侯の喪を備えているが、天子の様式はない。上に達する言葉はあっても、居喪の典拠は見られない。しかしながら、位の重い者は世のために己を屈し、聖なる位にある者は命に達して情を忘れる。伏して考えるに、陛下の至徳は二儀(天地)に並び、恵沢は河海にまで及んでいる。礼を宣べ刑を明らかにし、行動は古の様式に従っている。至孝の痛みをもって、期年の喪に服し、練祭の事が終わっても、号泣して慕うことは初めのようである。重極の尊位を統べながら、衆庶の制と同じくし、越紼(葬送の礼)の大敬を廃し、宗祀の旧軌を欠いている。誠に文明太皇太后の聖略は古を超え、恵訓は深く至っているため、報いんとするその徳は、昊天のように果てしなく、前代と比べても、悲しみは過ぎている。これはいわゆる帝の則に順い、己を約して衆に随う者と言えようか。陛下は既に天地の子であり、また万民の父母である。子が過度に哀しめば、父はそれによって惨悴し、父が過度に悲しめば、子はそれによって憂傷する。近ごろ接見を蒙り、咫尺の間に旒冕を拝し、聖なる御容が哀毀しているのを見て、驚き感じることを止められない。ましてや神祇は至霊であるのに、久しく和気を損ない、微かに風旱を招かないであろうか。書経に『一人に慶びあれば、兆民これに頼る』とある。今、一人が過度に哀しめば、黎元(民)は何に頼るというのか。群官が倒れんばかりに震え恐れ、率土(天下)が危うく惶れ慄くのは、百姓は何を仰いで憂えずにおられようか、嘉禾は何によって播殖されようか。願わくは陛下、上は金冊の遺訓を承け、下は億兆の心に称し、時に軽服を襲い、しばしば常膳を御し、郊祀を修め崇めて、恵みを垂れて皆に秩序を与え、輿駕を時折動かして憂煩を解き、広く採り諮って性気を導き、無益な恋慕を止め、利見の徳を行えば、吉兆は招来され、嘉応は必ず至り、礼教は共に宣揚され、孝慈は兼ね備わり、普天が蒙り頼り、含生(生きとし生けるもの)は幸甚であろう。」詔して言った。「もし孝悌が至れば、通じないところはない。今、飄風や亢旱があり、時雨が降らないのは、実に誠慕がまだ濃厚でなく、幽顕(陰陽)に感応がないからである。過度の哀しみによる咎めと言うが、誠に衷心から出たものではない。啓を省みてますます悲しみ慚愧を増す。」
まもなく太子 太傅 を兼ねた。当時、太極殿を建てようとし、群臣を太華殿に引見した。高祖は言った。「朕は先帝の意向を仰ぎ尊び、殿宇を営もうとしている。役夫は既に到着し、工事を始める日もある。今、永楽に移り住んで、喧騒と塵埃を避けたいと思う。土木は心がないとはいえ、これを壊すのに悲しみを覚えぬわけにはいかない。今、敢えて卿らに対面し、これと別れを取る。この殿は高宗が造ったもので、顕祖の代を経て、朕が幼年の時、ここで位を受けた。しかし事が迫って情を奪い、改めて造ることになる。昔を仰ぎ思うと、深く悲しみを感じる。」穆亮は叩頭して答えた。「臣は聞く、卜筮によって稽えることは、典経に載せられ、占いによって疑いを決することは、古今ともに尊ばれている。興建の功業は、事として容易ではない。願わくは陛下、蓍亀に訊ねて、可否を定められたい。また、昨年の工事は、功績が甚だ多く、太廟と明堂は一年で完成した。もし毎年頻繁に興すならば、民力が疲弊する恐れがある。また、材木は新たに伐ったばかりでは、功業が堅固ではない。一年を過ごして、百姓を少し安らかにしてからと願う。」高祖は言った。「もし結局造らないのであれば、卿の言う通りでよい。後に必ず造るのであれば、一年過ごしても何の益があろう。朕は遠く前代の王者を観るに、造営しない者はなかった。故に周が創業する時、霊台を経営して建てた。洪大な漢が天命を受けた時、未央宮が作られた。草創の初めでさえ、なおこのようであった。ましてや朕は累代の聖王の運を承け、太平の基に属している。かつ今、八方は清く安らかで、年穀もまた豊かである。この時に及んで、大功を成し遂げるのである。人生の定分、寿命の長短は天命である。蓍亀は智恵があっても、これをどうすることもできまい。大分(天命)に委ねるべきであり、どうして卜筮を借りる必要があろうか。」遂に永楽宮に移り住んだ。
後に高祖が朝堂に臨み、穆亮に言った。「三代の礼では、日出ずる時に朝を見る。漢魏以来、礼儀は次第に簡略化された。晋の令には、朔望に公卿を朝堂に集めて政事を論じるとあるが、天子が親臨する条文はない。今、卿らが日中に集まるのに因んで、午前中は卿ら自ら政事を論じ、午後は朕が卿らと共に可否を議する。」そこで奏案を読ませ、高祖自ら決裁した。また穆亮に言った。「徐州が上表して、帰化人に食糧を給することを請うている。王者は民の父母であるから、誠に許すべきである。しかし今、荊揚は服従せず、書軌(文字と車軌)は未だ統一されていない。まさに親しく六師を御し、江介に罪を問おうとしているところである。一万戸が帰化したと計算すれば、一年の食糧は百万である。もしその給与を許せば、蓄えは空しく尽きる。たとえ千万戸を得ても、なお一つの天下を成すには至らない。かつ、貧しさに随って賑恤したいと思うが、卿の意見はどうか。」穆亮は答えて言った。「お考えは遠大であり、実に聖旨の通りです。」車駕が南遷するに及び、穆亮は武衛大将軍に転じ、本官のまま中軍事を監督・摂行した。
高祖が南征した際、亮に尚書事を録させ、洛陽に留まって鎮守させた。後に高祖が自ら小平から船に乗り石済に行幸しようとしたとき、亮は諫めて言った、「臣は聞く、垂堂の誨えは、古より成規となり、安きにありて危うきを思うことは、周易に著されている。それゆえ、険阻を恃んで防がざれば、没して弔わざるなり。匹夫の賤しきも、なお自ら軽んぜず、まして万乗の尊き、生あるものの仰ぐところにして、忽せにできようか。それゆえ、居るときは深宮広厦、行くときは万騎千乗なり。昔、漢帝が舟に乗って渭水を渡らんとしたとき、広徳は首の血をもって車輪を汚さんとし、帝はついに感応して橋を就いた。一渡の小水ですら、なおかくのごとくである。まして洪河の浩瀚たるや、測りがたき慮いあり。しかも車乗は人によるといえども、なお奔逸して敗を致す害あり。まして水の緩急は人の制するにあらず。もしも慮いの表に難が生ずれば、宗廟をいかんせん」。高祖は言った、「 司空 の言う通りである」。
亮の兄の羆が穆泰の反乱に加わったとき、亮は府の事務を司馬の 慕容 契に託し、上表して自らを弾劾した。高祖は優詔をもって許さず、かえって職務を摂行するよう命じた。亮はたびたび固く請い、久しくしてようやく許された。まもなく使持節・征北大将軍・開府・儀同三司・冀州刺史に任じられた。頓丘郡開国公に封を移し、食邑五百戸を与えられ、崇の爵を継承させた。
世宗が即位すると、定州刺史に転じ、まもなく驃騎大将軍・ 尚書令 に任じられ、ほどなく 司空 公に転じた。景明三年に薨去した。時に五十二歳。東園の温明秘器・朝服一具・衣一襲、銭四十万・布七百匹・蠟二百斤を賜った。世宗は自ら小斂に臨んだ。太尉公を追贈され、司州牧を兼ね、諡は匡といった。
次男、長男、長男の三男の子は穆紹。
子の紹は、字を永業という。高祖は彼が貴臣の世冑であることを重んじて、顧みられた。九歳で員外郎に任じられ、東宮に侍学し、太子舎人に転じた。十一歳で琅邪長公主に尚し、駙馬都尉・散騎侍郎に拝され、京兆王愉の文学を領した。世宗の初め、通直 散騎常侍 ・高陽王雍の友となった。父の喪に遭い、詔により爵を襲い、 散騎常侍 、主衣都統を領するよう命じられた。秘書監・侍中・金紫光禄大夫・光禄卿に遷り、さらに衛将軍・太常卿に遷った。まもなく使持節・ 都督 冀瀛二州諸軍事・本将軍・冀州刺史に任じられたが、母が老齢であることを理由に固辞し、旨に逆らって免官された。中書令に任じられ、七兵尚書に転じ、殿中尚書に移った。実母の喪に遭い免官され、喪に服して孝行で知られた。また衛大将軍・左光禄大夫・ 中書監 に任じられ、ふたたび侍中となり、本邑中正を領した。
紹には他の才能はなかったが、資性は方正で重厚であり、賓客と接することは稀で、人の門をたずねることも少なかった。領軍の元叉が権勢を振るっていたとき、かつて紹を訪問したが、紹は階を下りて迎え送っただけであった。当時の人はこれを称賛した。霊太后が元叉を廃そうとして、ためらって決断できなかったとき、紹はこれを支持した。功により特進を加えられ、またその次男の巌を給事中に任じた。まもなく儀同三司を加えられ、左右を領した。時に侍中の元順が紹とともに宿直していたが、順はかつて酔って紹の寝所に入ったことがあった。紹は布団を抱えて起き上がり、厳しい顔色で順を責めて言った、「私は二十年侍中を務め、卿の先君とたびたび職事を共にした。たとえ卿が後進であっても、どうしてこのように突き飛ばすようなことがあろうか」。ついに職事を辞して家に帰った。詔により慰諭され、久しくしてようやく出仕した。車騎大将軍・開府・定州刺史に任じられたが、固辞して拝命しなかった。また侍中に任じられたが、病気を理由に出仕しなかった。河陰の変の際、このため害を免れることができた。
荘帝が立つと、尒朱栄が人を遣わして紹を召し出した。紹は必ず死ぬものと思い、家廟に別れを哭した。邙山で尒朱栄に会いに行き、手を捧げて拝礼しなかった。栄もまた心を偽って礼を尽くし、人を顧みて言った、「穆紹は大家の子に恥じない」。車駕が宮中に入ると、まもなく 尚書令 ・ 司空 公を授けられ、爵を王に進められ、班剣四十人を与えられ、さらに侍中を加えられた。時に河南尹の李奬が紹を訪ねた。奬は紹が自らの郡の民であるから、必ず敬いを加えるだろうと思い、紹もまた封邑を恃み、この奬が自らの国の主であるとして、彼を迎えるのに膝を動かさなかった。奬はその地位と声望を憚り、拝礼して帰った。議論する者は両者をともに譏った。
尒朱栄が葛栄を討伐したとき、詔により上党王天穆を前鋒とし、懐県に駐屯させた。 司徒 公楊椿を右軍とし、紹を後継とした。出発しないうちに、葛栄が捕らえられたので中止した。まもなく、王の爵を降格され、もとの爵に戻った。元顥が洛陽に入ると、紹を兗州刺史とした。東郡に到着したとき、元顥が敗れたので帰還した。
普泰元年、 都督 青斉兗光四州諸軍事・驃騎大将軍・開府・青州刺史に任じられた。赴任しないうちに、その年の九月に薨去した。時に五十二歳。侍中・ 都督 冀相殷三州諸軍事・大将軍・ 尚書令 ・ 太保 ・冀州刺史を追贈され、諡は文献といった。
次男、長男、長男の三男の子の子は穆長嵩。
子の長嵩は、字を子岳という。初め通直郎に任じられ、再び 散騎常侍 に遷った。爵を襲い、鎮東将軍・光禄少卿に転じた。興和年間に卒去し、 都督 冀滄二州諸軍事・征東将軍・冀州刺史を追贈された。
次男、長男、長男の三男の子の子の子は穆巌。
子の巌は、武定年間に 司徒 諮議参軍であった。
次男、長男の次男は穆相国。
平国の弟の相国は、安東将軍・済州刺史・上洛公に至った。
次男の長男、三男は穆正國である。
相國の弟の正國は、長樂公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられた。
次男の長男、三男の長男は穆 平城 である。
子の平城は、早世した。高祖の時、始平公主が宮中で薨去し、平城を追贈して駙馬都尉とし、公主と合葬させた。
次男の長男、三男の次男は穆長城である。
平城の弟の長城は、 司徒 左長史であった。
次男の長男、三男の次男の子は穆世恭である。
子の世恭は、武定年間に、朱衣直閤となった。
次男の長男、三男の三男は穆彧である。
長城の弟の彧は、符璽郎中であった。卒去した。
次男の長男、三男の三男の子は穆永延である。
子の永延は、尚書騎兵郎、青州征東司馬となった。
次男の長男、四男は穆應國である。
正國の弟の應國は、征西將軍、張掖公となった。
次男の長男、四男の子は穆度孤である。
子の度孤、爵を襲う。平南将軍・梁城鎮将となる。
次子の長子四子の子は穆清休。
子の清休、将略頗る有り。司農少卿・武衛将軍・左光禄大夫。出でて驃騎大将軍・夏州刺史となる。
次子の長子四子の子の子は穆鉄槌。
子の鉄槌、秘書郎。
次子の長子五子は穆安国。
応国の弟安国、金部長・殿中尚書を歴任し、右衛将軍を加えられ、爵を新平子に賜う。乙渾に殺され、征虜将軍を追贈される。
次子の長子五子の子は穆吐万。
子の吐万、爵を襲う。襄城鎮将となる。
次子の長子五子の子の子は穆金宝。
子の金宝、秘書郎。
次子の次子は穆伏真。
寿の弟伏真、高宗の世に、稍々尚書に遷り、爵を任城侯に賜う。出でて兗州刺史・仮寧東将軍・濮陽公となる。
次子の次子の子は穆常貴。
子の常貴、南陽太守となる。
次子(三男)は穆多侯である。
伏真の弟の多侯は、殿中給事・左將軍を歴任し、長寧子の爵位を賜った。司 衞 監に遷った。高宗が崩御すると、乙渾が権力を専らにした。時に 司徒 の陸麗は代郡の溫湯で病気を療養していたが、渾は彼を忌み嫌い、多侯を遣わして麗を追わせた。多侯は麗に言うには、「渾には君主を無視する心があり、大王は衆望の寄せ所です。去れば必ず危険です。ゆっくりと帰還してこれを図るべきです」と。麗は従わず、ついに渾に害され、多侯もまた殺された。諡して烈という。子の胡兒が爵位を襲った。
三男(穆翰)は、
觀の弟の翰は、平原鎮將・西海王となった。薨去した。
子の龍仁は、
子の龍仁は爵位を襲い、公に降格された。卒去した。
子の長男(豐國)は、
子の豐國は爵位を襲った。
豐國の弟の子(弼)は、
豐國の弟の子の弼は風格があり、自らの位置をよくわきまえた。経史に広く通じ、長孫稚・陸希道らと世に並び称されたが、己を誇り人を侮る傾向があり、それによってかなり損なわれた。高祖が初めて氏族を定めようとした時、弼を国子助教にしようとした。弼は辞して言うには、「先臣以来、累世にわたり恩寵を蒙りました。徒流の者と比べ合わせるのは、実に慚愧に耐えません」と。高祖は言う、「朕は冑子(貴族子弟)を励まそうと思う故に、卿の光を屈するのだ。白玉を泥に投げても、どうして汚せようか」と。弼は言う、「既に明時(聖明な時代)に遇いながら、泥滓に沈むことを恥じます」と。折しも司州牧・咸陽王の禧が入ってきたので、高祖は禧に言う、「朕が卿と州都となり、一人の主簿を推挙しよう」と。即座に弼に謁見させた。これによって高祖に知られることとなった。輿駕が南征する時、特に詔勅により随従した。世宗の初め、尚書郎に除され、選ばれて広平王懐の国郎中令となった。幾度か匡正諫言する益があった。世宗はこれを良しとした。中書舍人に除され、転じて司州治中・別駕となり、歴任した官職で称賛された。肅宗の時、河州の羌の却鉄怱が反乱を起こすと、詔勅により黄門を兼ね、怱を慰撫し諭した。功により前將軍を加えられ、錢帛を賜った。まもなく本將軍のまま揚州の事務を行い、追って平西將軍・華州刺史に拝された。州において卒去した。時に五十一歳。使持節・征北將軍・定州刺史を追贈され、諡して懿といった。
子の季齊は、
子の季齊は、初め 司徒 參軍事・開府騎兵參軍に任じられた。
四男(穆顗)は、
翰の弟の顗は、忠実で慎み深く、才幹と武力があった。太宗の時に中散となり、侍御郎に転じた。世祖に従って 赫連 昌を征討し、その勇気は一時に冠たり、世祖はこれを賞賛した。侍輦郎・殿中將軍に遷り、泥陽子の爵位を賜った。和龍征討に従軍し、その功績は諸将を超え、司 衞 監に拝され、龍驤將軍を加えられ、長樂侯に爵位を進めた。
かつて世祖に従って崞山で狩猟した時、虎が突然飛び出したが、顗はこれを組み伏せて捕らえた。世祖は嘆じて言う、「詩にいう『有力如虎』とは、顗はそれを超えている」と。後に従駕して西は白龍を征討し、北は蠕蠕を討伐し、功により 散騎常侍 ・鎮北將軍を加えられ、建安公に爵位を進めた。出て北鎮都將となり、召されて殿中尚書に拝された。出て涼州を鎮守し、在任地で名声を上げた。還って 散騎常侍 を加えられ、太倉尚書を領した。
高宗の時、征西大将軍・諸軍事を督し、西征して吐谷渾を討ち、南道より出撃した。賊を撃たずして進まざる罪に坐し、官爵を免ぜられ辺境に徙された。高祖また顗が前朝に勲功を著したことを以て、内都大官として召し出された。天安元年に卒す。征西大将軍・建安王を追贈され、諡して康といった。
四子、長子は穆の寄生。
子の寄生、襲封す。
四子、次子は穆の栗。
寄生の弟の栗、涼州鎮将・安南公。
四子、次子の子は穆の祁。
子の祁、字は願徳。通直常侍・上谷河内二郡太守・司州治中・太子右衛率。卒し、齊州刺史を追贈された。
四子、次子の子の子は穆の景相。
子の景相、字は霸都。中書舎人・上党太守。
四子、三子は穆の泥乾。
栗の弟の泥乾、羽林中郎となり、臨安男の爵を賜う。後に次第に顕職を歴任し、冀州刺史に除され、安南将軍・鉅鹿公を仮授された。卒す。
四子、三子の子は穆の渾。
子の渾、爵を襲ぐ。秘書中散。
四子、三子の子は穆の令宣。
子の令宣、通直常侍。
同族の穆醜善
崇の同族の醜善は、太祖(道武帝)の初年に部族を率いて帰順し、崇と心を一つにして力を尽くし、左右で侮りを防いだ。窟咄・劉顯を征討し、これを撃破平定した。また賀蘭部を撃ち、庫莫奚を平定した。天部大人に任じられ、東蕃に居住した。死去。
醜善の子 穆莫提
子の莫提は、中原平定に従い、中山太守となった。寧南将軍・相州刺史を拝命し、陽陵侯を仮受した。死去。
醜善の子の子 穆吐
子の吐は、太宗(明元帝)の世に 散騎常侍 となった。侍中・鎮東将軍の任にて死去。
醜善の子の子の子 穆敦
子の敦は、輔国将軍・西部都将となった。富平子の爵位を賜った。死去。
醜善の子の子の子の長子 穆純
子の純は、爵位を継承した。 散騎常侍 ・光禄勲を歴任した。高祖(孝文帝)の時、右衛将軍となり、まもなく右将軍・河州刺史を拝命した。死去し、鎮北将軍・ 并 州刺史を追贈された。
醜善の子の子の子の長子の長子 穆盛
子の盛は、爵位を継承した。直閤将軍。
醜善の子の子の子の長子の長子 穆裕
盛の弟の裕は、輔国将軍・中散大夫。
醜善の子の子の子の長子の長子の長子 穆礼
穆裕の子の穆禮は、東牟太守であった。
穆醜善の子の子の長子の長子の次子は穆略である。
穆禮の弟の穆略は、武定末年(東魏の年号)に魏尹丞となった。
穆醜善の子の子の次子は穆鑖である。
穆純の弟の穆鑖は、東宮庶子・汲郡太守を歴任した。世宗(宣武帝)の時、懐朔鎮将、東中郎将・北中郎将、豳州・幽州・涼州の三州刺史となった。肅宗(孝明帝)の世、平北将軍・ 并 州刺史・金紫光禄大夫に任ぜられた。公務において威猛をもって知られた。七十四歳で卒去し、 散騎常侍 ・征東将軍・相州刺史を追贈され、諡は安といった。
穆醜善の子の子の次子の長子は穆顕寿である。
子の穆顕寿は、長水 校尉 となった。
穆醜善の子の子の次子の次子は穆顕業である。
穆顕寿の弟の穆顕業は、散騎侍郎の任で卒去した。
穆醜善の子の子の子の次子の長子は穆子琳である。
子の穆子琳は、秀才に挙げられ、安戎県令となり、頗る吏幹があった。長孫稚に従って蜀を征討し功績があり、尚書屯田郎中に任ぜられた。出帝(孝武帝)が即位すると、儀曹事を摂行し、高唐県開国男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。孝静帝の初め、鎮東将軍・司州別駕となったが、民田を占奪した罪により官爵を免ぜられた。久しくして、阿至羅国の国主副羅越居が蠕蠕に撃破され、その子の去賓が来奔した。斉献武王( 高歓 )が去賓を安北将軍・肆州刺史とし、高車王に封じて夷虜を招慰することを上奏し、穆子琳を去賓の長史とし、以前の封爵を回復することを上表した。まもなく儀同開府長史・斉献武王丞相司馬に遷った。五十三歳で卒去し、驃騎大将軍・都官尚書・瀛州刺史を追贈された。
穆醜善の子の子の子の次子の長子の子は穆伯昱である。
子は穆伯昱。弟の穆朏は、武定年間(東魏の年号)に開府中兵参軍となった。
穆醜善の子の子の子の次子の次子は穆良である。
穆子琳の弟の穆良は、字を先徳という。 司空 行参軍・将作丞・ 司徒 祭酒・安東将軍・南鉅鹿太守を歴任した。民衆の評判が頗る良かった。召されて 司徒 司馬・大将軍従事中郎・中書舎人となった。武定六年に卒去した。征東将軍・徐州刺史を追贈された。
評
史臣が曰く、穆崇は夙に龍顔に奉じ、早くより誠節を著わし、遂に寵眷を膺け、位は台鼎に極まる。至りては身逆謀に預かり、卒に全護を蒙る。明主の労臣に於ける、亦厚からずや。廟庭に従享するは、抑も尚功の義なり。観は少にして公輔の任に当たり、業器其れ優れるか。顗は壮烈にして顕達し、亮は寛厚にして位に致り、紹は虚簡の操を立て、弼は風格の名有り。世載りて隕たず、青紫兼ねて列す、盛んなり。至りては寿は貴を以て終わり、羆は止むるに削廢を以てす。人の礼無きは、幸と為る蓋し多し。醜の子孫、名位に乏しからず、亦人あるかな。
校勘記