長孫肥
長孫肥は 代郡 の人である。昭成帝の時、十三歳で選ばれて内侍となった。若くして雅量があり、果断にして寡黙であった。太祖が獨孤部及び 賀蘭部 に在った時、肥は常に侍従し、左右を守護して侮りを防ぎ、太祖は深く信頼し頼りとした。
登国初年、莫題らと共に大将となり、劉顕を征討するに従い、濡源より庫莫奚を撃ち、賀蘭部を討ち、いずれも戦功があった。太祖が 蠕蠕 を征し、これを大破した時、肥はその主匹候跋を降した。事は蠕蠕伝に詳しい。また衛辰及び薛干部を征討するに従い、これを破滅させた。蠕蠕の別主縕紇提の子曷多汗らが部落を率いて父を棄て西走したので、肥は軽騎をもって上郡まで追撃し、これを斬った。
後に中山征討に従い、中領軍将軍に任ぜられた。車駕が 晋陽 に駐屯した時、 慕容 宝の 并州 刺史 ・遼西王農は城を棄て夜遁したので、肥はこれを蒲泉まで追撃し、その妻子を捕らえた。太祖が中山を囲まんとした時、慕容宝は城を棄て和龍に奔った。肥は左将軍李栗と三千騎でこれを追い、范陽に至ったが、及ばずして還った。遂にその研城戍を破り、千余人を俘虜とした。中山城内の人は慕容普隣を立てて主としたので、太祖はこれを包囲した。普隣は歩卒千余人を出し、隙を窺って包囲を破らんとした。太祖は肥に命じて挑戦させ、偽って退却すると、普隣の兵は肥を追い、太祖はその背後を断ち、ことごとくこれを捕らえ斬った。時に兵馬が少なく糧食も乏しかったので、中山の包囲を解き、河間に赴いて食糧を調達した。慕容賀隣が普隣を殺して自立した。車駕が魯口に駐屯した時、肥に七千騎を率いさせて中山を襲撃させ、その外城に入って還った。賀隣は歩騎四千で肥を泒水まで追撃したので、肥は魏昌よりこれを撃ち、鎧騎二百を捕らえた。肥は流れ矢に当たり、傷が重かったので、乃ち還った。中山が平定され、功により爵を琅邪公と賜った。衛尉卿に遷り、爵を盧郷公に改めた。
時に中山太守仇儒は内徙を好まず、趙郡に亡匿し、群盗趙准を推して主とした。妄りに妖言を造り、「燕東傾き、趙継ぐべし、其の名を知らんと欲せば、淮水足らず」と言った。准は喜んでこれに従い、自ら使持節・征西大将軍・青冀二州牧・鉅鹿公と号し、儒を長史とし、二千余の徒党を集め、関城を占拠し、丁零を連絡し、長吏を殺害し、常山・鉅鹿・広平諸郡を扇動した。肥に三千騎を率いさせてこれを討たせ、九門において准を破り、仇儒を斬り、准を生け捕りにした。詔して儒の肉を食わせ、准は京師に送られ、市で轘刑に処せられ、その族は滅ぼされた。
肥を鎮遠将軍・兗州刺史に任じ、歩騎二万を与え、南に許昌を巡り、地を略して彭城に至った。司馬徳宗の将劉該が使者を肥に遣わして降伏を請い、その地方の産物を貢いだ。姚平が平陽を寇したので、太祖はこれを討たんとし、諸将の中で肥に勝る者なしと選び、乃ち京師に召還し、肥と毗陵王順らに六万騎を率いさせて前鋒とした。車駕が永安に駐屯した時、平は勇将を募り、精騎二百を率いて軍情を窺わせたので、肥は迎え撃ってこれを捕らえ、一騎も返さなかった。平は柴壁に退いて守りを固めたので、太祖は進攻してこれを屠った。肥を遣わして還らせ、兗州を鎮守させた。
肥は河南を撫慰し、吏民の心を得て、威信は淮泗に著しかった。策謀に長け、勇気は諸将に冠たり、戦う毎に常に士卒の先頭に立ち、前後征討して未だ敗北したことがなかった。故に大難がある毎に、肥にこれを当たらせた。南は 中原 を平定し、西は 羌 寇を摧破するに、肥の功績が多かった。奴婢数百口と、畜産物品数千を賞賜された。後に爵を降られて藍田侯となった。天賜五年に卒去し、 諡 して武と言い、金陵に陪葬された。子の翰が爵を襲った。
翰は、若くして父の風範があった。太祖の時、騎射に優れていたため、獵郎となった。太宗が外に在った時、翰は元磨渾らと密かに謀り奉迎した。太宗が即位すると、 散騎常侍 に遷り、磨渾らと共に左右で遺漏を補った。功により平南将軍に遷った。衆を率いて北境を鎮守し、威名甚だ著しく、蠕蠕はこれを畏れた。後に 都督 北部諸軍事・平北将軍・真定侯となり、殿中細拾隊を与えられ、旌旗鼓吹を加えられた。蠕蠕が毎度塞を犯すと、翰は拒撃して功績があり、爵を公に進めた。世祖が即位すると、京師に召還され、平陽王に封ぜられ、安集将軍を加えられた。
蠕蠕の大檀が雲中に侵入した時、世祖は親征し、翰に北部諸将尉眷を率いさせ、参合より北へ、柞山において大檀の別帥阿伏干を撃ち、数千級を斬首し、馬万余匹を獲た。また東平公娥青と共に長川より出て大檀を討った。大檀の衆は北へ遁走したので、追撃し、勝利して獲るところありて還った。間もなく 司徒 に遷った。 赫連 昌を襲撃し、これを破った。世祖が再び昌を征した時、翰は廷尉道生・宗正娥清と共に騎三万を率いて前駆となった。昌は戦いに敗れ、上邽に奔ったので、翰は八千騎でこれを追い、高平に至ったが、及ばずして還った。蠕蠕襲撃に従い、車駕が漠を渡ると、大檀は奔走した。その弟匹黎が衆を率いてこれに赴き、翰と遭遇して交戦したが、匹黎の衆は潰走し、その渠帥数百人を斬った。
翰は清正厳明で、将士をよく撫で、太祖は甚だこれを重んじた。神䴥三年に薨じ、深く悼惜され、そのために涙を流し、自らその喪に臨み、礼は安城王叔孫俊の故事に依り、賻賜を加増した。諡して威と言い、金陵に陪葬された。
子の平成が爵を襲い、公に降された。平成は、若くして父の任により中散となり、累遷して南部 尚書 となった。卒去し、金陵に陪葬された。
子の渾が爵を襲った。渾は、初め中散となり、久しくして彭城鎮将となった。太和年間に卒去した。子の盛が爵を襲った。
翰の弟に受興がいる。世祖の時、平涼征討に従い、功により爵を長進子と賜り、河間太守に任ぜられた。卒去した。
子の安都が爵を襲った。顕祖の時、典馬令となった。
受興の弟に陳がいる。世祖の時、羽林郎となった。和龍を征した時、賊が西門より出て外囲を犯さんとしたので、陳はこれを撃退し、長城下まで追撃して斬った。功により爵を五等男と賜った。また涼州征討に従い、都將領となった。内官に入り、殿中給事中に遷り、爵を子に進め、駕部尚書に遷った。再び出て北鎮都將となった。陳は性質寛厚で、学を好み士を愛し、歴任した地では常に人々に追慕された。高宗が即位すると、爵を呉郡公に進め、安東将軍を加えられた。興光二年に卒去した。 散騎常侍 ・呉郡王を追贈され、諡して恭と言い、金陵に陪葬された。
子の頭は爵位を襲封した。高宗の時、中散となり、内行長に遷り、龍牧曹を管掌した。天安初年に卒去した。子の抜が爵位を襲封した。
陳の弟の蘭。世祖の初め、中散となった。常に征伐に従い、御兵器を管掌し、賞賜は甚だ厚かった。後に平涼を破った功により、爵位を睢陽子と賜り、奮武將軍を加えられた。 散騎常侍 ・北部尚書に遷った。後に 豫 州刺史を除された。卒去した。
子の烏孤、爵位を襲封した。高祖の初め、出て武都鎮将となり、入って散令となった。
子の樂、孝靜帝の時、金紫光禄大夫となった。
肥の弟の亦干、太祖の初め、羽林郎となった。中原平定に従い、広平太守を除された。卒去した。
子の石洛、世祖の初め、羽林郎となり、稍々遷って 散騎常侍 となった。赫連昌征討に従い、都將となり、功により楽部尚書に拝され、爵位を臨淮公と賜り、寧西將軍を加えられた。神䴥年間に卒去し、諡して簡といった。
子の真、少時に父の任により中散となった。平涼征討に従い、功により爵位を臨城子と賜り、員外散騎侍郎・広武將軍に拝された。父の爵位を襲封し、降って建義將軍・臨淮侯となった。司 衞 監に遷った。蓋呉を征討した。殿中尚書に遷り、 散騎常侍 を加えられた。劉義隆征討に車駕に従い、江に至った。爵位を南康公に進め、冠軍將軍を加えられた。軍中に卒去した。
子の呉兒、爵位を襲封した。高祖の初め、中散・武川鎮将となった。太和初年、卒去し、恒州刺史を追贈された。
子の長樂、襲封した。事に坐して爵位を除かれた。後に陵江將軍・羽林監を歴任した。
子の榮族、武定年間、征西將軍・繁昌男となった。
呉兒の弟の突、朔州長史となった。
子の元慶、平州倉曹参軍となった。
尉古真
尉古真は代の人である。太祖が賀蘭部におられた時、賀染干が侯引乙突らを行宮に遣わし、将に逆を肆わんとした。古真はこれを知り、密かに馳せて告げたので、侯引らは敢えて発しなかった。染干は古真がその謀を洩らしたと疑い、乃ちこれを執り拷問し、両車の軸でその頭を押さえ、一目を傷つけたが、服さず、乃ちこれを免じた。登国初年、庫莫奚及び叱突隣の征討に従い、並びに功があった。また賀蘭救援に従い、 衞 辰の子の直力鞮を破り、また参合陂において慕容宝を撃った。また中原平定に従い、功により爵位を束州侯と賜り、建節將軍を加えられた。太宗の初め、鴻飛將軍となり、衆五千を率い、大洛城を鎮守した。太宗が西巡された時、古真は奚斤らと共に前軍を率いて越勒部を討ち、これを大破し、馬五万匹、牛羊二十万頭を獲、二万余家を掠めて西還した。泰常三年、定州刺史を除された。卒去し、子の億万が襲封した。卒去し、子の盛が襲封した。
古真の弟の太真、太宗の初め、平南將軍・相州刺史となった。
太真の弟の諾は、幼少より太祖に仕え、忠謹をもって称された。中山包囲に従い、諾は先鋒として登城し、一目を傷つけた。太祖は嘆じて言うには、「諾兄弟ともにその目を毀して功績を立てるとは、誠に嘉すべきである」と。寵遇は次第に厚くなり、平東将軍に任じられ、安楽子の爵位を賜った。姚平討伐に従い、帰還すると国部大人に任じられた。太宗の初め、幽州刺史となり、東統将軍を加えられ、侯に爵位を進めた。長孫道生が馮跋を討つにあたり、諾は 驍 騎将軍延普とともに軍を率いて遼西に駐屯した。寧東将軍に転じ、武陵公に爵位を進めた。諾が州に在任中は善政があり、民と官吏は彼を追慕した。世祖の時、薊の張広達ら二百余人が宮門に赴いて彼を請い、再び安東将軍・幽州刺史に任じられ、封邑を遼西公に改めた。兄弟ともに方伯となり、当世の人々はこれを栄誉とした。燕の地は乱が長く、民戸は散亡していたが、諾は州に前後十数年おり、帰農する者は一万余家に及んだ。延和年間に卒去した。
第八子の観が爵位を継いだ。卒去し、子の崘が継いだ。
諾の長子の眷は、忠謹にして父の風があった。太宗の時、左右に執事し、大官令となった。時に侍臣の受斤が蠕蠕に亡命したので、詔により眷がこれを追い、ついに虜庭に至った。大檀がその理由を問うと、眷は言うには、「受斤は天子に罪を負い、ここに逃刑している。直ちに捕らえて送らぬゆえ、取りに来たのである」と。眷は大檀の面前で受斤を捕らえた。左右がこれを救おうとしたが、果たせなかった。これにより、 驍 烈をもって知られるようになった。司衛監に遷った。太宗が幽州に行幸した際、詔により眷は世祖の留守を補佐した。後に河南を征し、 高車 騎を督して、陣に臨んで突撃し、向かうところ敵なく、賊はこれを恐れた。世祖が即位すると、眷に命じて 散騎常侍 劉庫仁 ら八人とともに四部を分掌させ、機密を掌握して奏上させた。山桑侯の爵位を賜り、陳兵将軍を加えられた。
また安北将軍となり、出鎮して北境を守った。平陽王長孫翰とともに祚山で蠕蠕の別帥阿伏干を撃ち、軍を率いて歌刪山に至り、蠕蠕の別帥便度の弟庫仁直を撃ち、軍を率いて北進した。蠕蠕の部帥莫孤が高車騎五千乗を率いて迎撃してきたが、眷はこれを撃破し、千余級を斬首した。また蠕蠕征討に従軍した。眷は白漠と黒漠の間から出撃し、その東部を撃ち、大いに捕獲して帰還した。また赫連昌征討に従い、眷は南道から出撃し、上邽で昌を撃った。兵士らが食糧に窮し、臨淮公丘堆らが郡県で租税を督収していたが、昌に敗れた。昌は勝ちに乗じて略奪し、諸将はこれを憂えた。眷は侍御史安頡と謀り、伏兵を設けて邀撃し、昌を生け捕りにした。功により寧北将軍に任じられ、 散騎常侍 を加えられ、漁陽公に爵位を進めた。後に和龍征討に従い、眷は一万騎を督いて先鋒となり、降伏を慰諭して二千余戸を得た。まもなく仮節を加えられ、 侍中 を加えられ、 豫 洛二州及び河内諸軍事・安南将軍・開府を 都督 し、虎牢に鎮した。張掖王禿髪保周が反乱すると、眷を召し永昌王健らとともに軍を率いて討伐させ、番禾で保周を破った。保周は逃げ走り、眷は騎兵を率いてこれを追い、保周は窮迫して自殺した。詔により眷は涼州に留鎮し、涼沙河三州諸軍事・安西将軍の 都督 を加えられ、護羌戎 校尉 を領した。敦煌鎮将に転じた。また吐谷渾を撃破し、三千余口を捕虜とした。眷は四つの辺境を歴鎮し、威名ともに著しかった。
高宗の時、軍を率いて北の伊吾を撃ち、その城を陥落させ、大いに捕獲して帰還した。まもなく侍中・ 太尉 に任じられ、王に爵位を進めた。太宰常英らとともに尚書の事を評議した。高宗が北巡した際、寒雪が降り始めたので、還都を議した。眷は諫めて言うには、「今大衆を動かして北敵を威圧するのに、都から遠くないところで軽々しく車駕を返せば、虜は必ず我が内難ありと疑うでしょう。たとえ寒雪が降ろうとも、兵士は労苦するが、経略の大計からすれば、進むべきです」と。高宗はこれに従い、ついに漠を渡って帰還した。眷が元老であることから、杖と履を賜り殿上に上ることを許された。和平四年に卒去した。高宗は悼惜し、大将軍を追贈し、諡して莊といった。
子の多侯が爵位を継いだ。多侯は若くして武幹があり、顕祖の時、仮節・征西将軍・護羌戎 校尉 領・敦煌鎮将となった。鎮に着くと、上表して軽騎五千を率い、西進して于闐に入り、兼ねて諸国を平定し、敵の資財を取って平定の効果としたいと求めた。許されなかった。高祖の初め、蠕蠕の部帥旡盧真が三万騎を率いて塞内に入り鎮を包囲したが、多侯はこれを撃退し、功により征西大将軍の号を進めた。後に多侯が南山で狩猟していると、蠕蠕が部帥度拔を遣わして敦煌を包囲し、その帰路を断った。多侯は進みながら戦い、ついに包囲を突破して入城した。衆を率いて出戦し、これを大破し、北に数十里追撃して千余級を斬首した。そこで上疏して北進して伊吾を奪い、蠕蠕の西域への通路を断つことを求めた。高祖はその計略を良しとしたが、春の農作業が始まる時期であったため、実行を難とした。太和元年、妻の元氏に害された。
子の建が爵位を継いだ。給事中を歴任した。卒去し、子がなかった。
建の弟の那が爵位を継いだ。卒去した。
子の範が継いだ。
範の弟の顕業は、 散騎常侍 であった。太原公主と姦通し、子の彦を生んだ。武定年間、衛将軍・南営州刺史となった。
多侯の弟の子の慶賓は、騎射に優れ、将略があった。高祖の時、員外散騎侍郎として初任し、次第に左将軍・太中大夫に遷った。粛宗の時、蠕蠕の主阿那瓌を帰国させようと議したが、慶賓は上表して強く反対したが、聞き入れられなかった。後に蠕蠕は行臺の元孚を捕らえ、北境を大いに掠めた。詔により 尚書令 李崇がこれを討ち、慶賓は別将として李崇に隷属し、塞外に出たが帰還した。元法僧が外叛すると、蕭衍がその 豫 章王蕭綜を遣わして徐州を鎮守させたので、また詔により慶賓を別将として安豊王延明に隷属させてこれを討たせた。まもなく後将軍・肆州刺史に任じられた。時に尒朱栄の兵威が次第に盛んとなり、かつて肆州を通過したが、慶賓はこれを畏れ憎み、城を拠って出なかった。栄は慶賓を恨み、挙兵して襲撃した。慶賓の別駕姚和が内応し、栄はついに慶賓の僚属を害し、慶賓を拘束して秀容に連れ帰り、仮父と呼んだ。後に母の喪で都に帰り、まもなく起用されて平東将軍・光禄大夫・ 都督 となり、汝陰に鎮した。朝廷に帰り、永安二年に卒去した。車騎将軍・雍州刺史を追贈され、さらに侍中・ 司空 公を追加追贈された。
慶賓の子の豹は、員外郎として初任した。粛宗の時、潁州の事務を行い、蕭衍の将裴之礼と戦って戦死した。
豹の弟の瑾は、武定年間、東平太守となった。
眷の弟の地干は、機知に悟り才芸があり、馬を馳せて立ちながら五つの的を射ることを得意とし、当時の人で及ぶ者はいなかった。太宗の時、左機令となった。世祖は幼少より彼を好み、即位すると、庫部尚書に抜擢し、 散騎常侍 ・左光禄大夫を加えられ、侍輦郎を領した。地干は主上に仕えて忠謹であり、特に嘲笑を得意とした。世祖は彼が人の挙措を真似るのを見て、喜びを抑えられなかった。非常に親愛され、軍国大謀に参与した。世祖が平涼を征討しようとした時、衝車を試すために塚を攻撃させたところ、地干は索に引っかかり、脇骨を折って卒去した。世祖は自ら臨んで慰撫し、非常に慟哭した。中領軍将軍・燕郡公を追贈し、諡して惠といい、贈り物は豊かであった。
子の長寿は、幼くして 散騎常侍 に任じられ、殿中右曹尚書に遷り、引き続き 散騎常侍 を加えられた。劉義隆征討に従い、江まで至った。会稽公の爵位を賜り、冠軍将軍を加えられた。高宗の時、涇州刺史に任じられた。和平五年に卒去した。
子の彌真は爵位を襲った。彌真が卒すると、子がなかった。弟の狀德が爵位を襲った。
地干の弟の侯頭は、地干の職を襲い、庫部尚書となった。
侯頭の弟の力斤もまた、忠謹をもって知られた。御史中尉・ 并 州刺史を歴任し、政績があった。冠軍將軍を加えられ、 晉 陽侯の爵を賜った。卒し、平南將軍を追贈された。
力斤の弟の焉陳は、尚書・安樂侯である。
古真の族玄孫の聿は、 字 は成興、性質は耿介であった。肅宗の時、武 衞 將軍となった。この時、領軍の元叉が権を執り、百官はみな敬禮を致さぬ者はなかったが、聿のみは長揖して拝礼しなかった。まもなく出て平西將軍・東涼州刺史となった。涼州の緋色は天下第一であり、元叉は白綾二千匹を送り、聿に染めさせようとしたが、拒んで許さなかった。元叉は御史に諷してこれを弾劾させ、駅伝で京師に召し出した。覆驗して罪状なく、任に還った。まもなく州において卒し、時に五十歳であった。安北將軍・朔州刺史を追贈された。
子の儉。武定年間、開府祭酒。
【史評】
史臣曰く、長孫肥は結髮して内侍し、雄烈をもって名を知られ、軍鋒の指すところ、奔散せざるはなく、関羽・張飛の萬人に敵するも、多くは未だ足らざるなり。翰は父の風あり、先構を隕さず、喪に臨みて禮を加うるは、抑も由あるかな。尉真兄弟は、忠勇奮發し、義をもって生を忘る。眷は威略時に著しく、家業を増隆し、青紫麾旄も亦其れ宜なるかな。
校勘記