魏書

卷26 長孫肥 尉古真

卷26 長孫肥 尉古真

長孫肥

原文長孫肥

長孫肥は代郡の人である。昭成帝の時、十三歳で選ばれて内侍となった。若くして雅量があり、果断にして寡黙であった。太祖が獨孤部及び賀蘭部に在った時、肥は常に侍従し、左右を守護して侮りを防ぎ、太祖は深く信頼し頼りとした。

原文長孫肥,代人也。昭成時,年十三,以選內侍。少有雅度,果毅少言。太祖之在獨孤及賀蘭部,肥常侍從,禦侮左右,太祖深信仗之。

登国初年、莫題らと共に大将となり、劉顕を征討するに従い、濡源より庫莫奚を撃ち、賀蘭部を討ち、いずれも戦功があった。太祖が蠕蠕を征し、これを大破した時、肥はその主匹候跋を降した。事は蠕蠕伝に詳しい。また衛辰及び薛干部を征討するに従い、これを破滅させた。蠕蠕の別主縕紇提の子曷多汗らが部落を率いて父を棄て西走したので、肥は軽騎をもって上郡まで追撃し、これを斬った。

原文登國初,與莫題等俱為大將,從征劉顯,自濡源擊庫莫奚,討賀蘭部,並有戰功。太祖征蠕蠕,大破之,肥降其主匹候跋,事具蠕蠕傳。又從征衞辰及薛干部,破滅之。蠕蠕別主縕紇提子曷多汗等率部落棄父西走,肥以輕騎追至上郡,斬之。

後に中山征討に従い、中領軍将軍に任ぜられた。車駕が晋陽に駐屯した時、慕容宝の并州刺史・遼西王農は城を棄て夜遁したので、肥はこれを蒲泉まで追撃し、その妻子を捕らえた。太祖が中山を囲まんとした時、慕容宝は城を棄て和龍に奔った。肥は左将軍李栗と三千騎でこれを追い、范陽に至ったが、及ばずして還った。遂にその研城戍を破り、千余人を俘虜とした。中山城内の人は慕容普隣を立てて主としたので、太祖はこれを包囲した。普隣は歩卒千余人を出し、隙を窺って包囲を破らんとした。太祖は肥に命じて挑戦させ、偽って退却すると、普隣の兵は肥を追い、太祖はその背後を断ち、ことごとくこれを捕らえ斬った。時に兵馬が少なく糧食も乏しかったので、中山の包囲を解き、河間に赴いて食糧を調達した。慕容賀隣が普隣を殺して自立した。車駕が魯口に駐屯した時、肥に七千騎を率いさせて中山を襲撃させ、その外城に入って還った。賀隣は歩騎四千で肥を泒水まで追撃したので、肥は魏昌よりこれを撃ち、鎧騎二百を捕らえた。肥は流れ矢に当たり、傷が重かったので、乃ち還った。中山が平定され、功により爵を琅邪公と賜った。衛尉卿に遷り、爵を盧郷公に改めた。

原文後從征中山,拜中領軍將軍。車駕次晉陽,慕容寶并州刺史、遼西王農棄城宵遁,肥追之至蒲泉,獲其妻子。太祖將圍中山,慕容寶棄城奔和龍。肥與左將軍李栗三千騎追之,至范陽,不及而還。遂破其研城戍,俘千餘人。中山城內人立慕容普隣為主,太祖圍之。普隣乃出步卒千餘人,欲伺間犯圍。太祖命肥挑戰,偽退,普隣眾追肥,太祖截其後,盡擒斬之。時以士馬少糧,遂罷中山之圍,就穀河間。慕容賀隣殺普隣而自立。車駕次魯口,遣肥帥七千騎襲中山,入其郛而還。賀隣以步騎四千追肥至泒水,肥自魏昌擊之,獲鎧騎二百。肥中流矢,瘡重,乃還。中山平,以功賜爵琅邪公。遷衞尉卿,改爵盧鄉。

時に中山太守仇儒は内徙を好まず、趙郡に亡匿し、群盗趙准を推して主とした。妄りに妖言を造り、「燕東傾き、趙継ぐべし、其の名を知らんと欲せば、淮水足らず」と言った。准は喜んでこれに従い、自ら使持節・征西大将軍・青冀二州牧・鉅鹿公と号し、儒を長史とし、二千余の徒党を集め、関城を占拠し、丁零を連絡し、長吏を殺害し、常山・鉅鹿・広平諸郡を扇動した。肥に三千騎を率いさせてこれを討たせ、九門において准を破り、仇儒を斬り、准を生け捕りにした。詔して儒の肉を食わせ、准は京師に送られ、市で轘刑に処せられ、その族は滅ぼされた。

原文時中山太守仇儒不樂內徙,亡匿趙郡,推羣盜趙准為主。妄造妖言云:「燕東傾,趙當續,欲知其名,淮水不足。」准喜而從之,自號使持節、征西大將軍、青冀二州牧、鉅鹿公,儒為長史,聚黨二千餘人,據關城,連引丁零,殺害長吏,扇動常山、鉅鹿、廣平諸郡。遣肥率三千騎討之,破准於九門,斬仇儒,生擒准。詔以儒肉食,准傳送京師,轘之於市,夷其族。

肥を鎮遠将軍・兗州刺史に任じ、歩騎二万を与え、南に許昌を巡り、地を略して彭城に至った。司馬徳宗の将劉該が使者を肥に遣わして降伏を請い、その地方の産物を貢いだ。姚平が平陽を寇したので、太祖はこれを討たんとし、諸将の中で肥に勝る者なしと選び、乃ち京師に召還し、肥と毗陵王順らに六万騎を率いさせて前鋒とした。車駕が永安に駐屯した時、平は勇将を募り、精騎二百を率いて軍情を窺わせたので、肥は迎え撃ってこれを捕らえ、一騎も返さなかった。平は柴壁に退いて守りを固めたので、太祖は進攻してこれを屠った。肥を遣わして還らせ、兗州を鎮守させた。

原文除肥鎮遠將軍、兗州刺史,給步騎二萬,南徇許昌,略地至彭城。司馬德宗將劉該遣使詣肥請降,貢其方物。姚平之寇平陽,太祖將討之,選諸將無加肥者,乃徵還京師,遣肥與毗陵王順等六萬騎為前鋒。車駕次永安,平募遣勇將,率精騎二百闚軍,肥逆擊擒之,匹馬不返。平退保柴壁,太祖進攻屠之。遣肥還鎮兗州。

肥は河南を撫慰し、吏民の心を得て、威信は淮泗に著しかった。策謀に長け、勇気は諸将に冠たり、戦う毎に常に士卒の先頭に立ち、前後征討して未だ敗北したことがなかった。故に大難がある毎に、肥にこれを当たらせた。南は中原を平定し、西は羌寇を摧破するに、肥の功績が多かった。奴婢数百口と、畜産物品数千を賞賜された。後に爵を降られて藍田侯となった。天賜五年に卒去し、諡して武と言い、金陵に陪葬された。子の翰が爵を襲った。

原文肥撫慰河南,得吏民心,威信著於淮泗。善策謀,勇冠諸將,每戰常為士卒先,前後征討,未嘗失敗,故每有大難,令肥當之。南平中原,西摧羌寇,肥功居多,賞賜奴婢數百口,畜物以千計。後降爵為藍田侯。天賜五年卒,諡曰武,陪葬金陵。子翰襲爵。

翰は、若くして父の風範があった。太祖の時、騎射に優れていたため、獵郎となった。太宗が外に在った時、翰は元磨渾らと密かに謀り奉迎した。太宗が即位すると、散騎常侍に遷り、磨渾らと共に左右で遺漏を補った。功により平南将軍に遷った。衆を率いて北境を鎮守し、威名甚だ著しく、蠕蠕はこれを畏れた。後に都督北部諸軍事・平北将軍・真定侯となり、殿中細拾隊を与えられ、旌旗鼓吹を加えられた。蠕蠕が毎度塞を犯すと、翰は拒撃して功績があり、爵を公に進めた。世祖が即位すると、京師に召還され、平陽王に封ぜられ、安集将軍を加えられた。

原文翰,少有父風。太祖時,以善騎射,為獵郎。太宗之在外,翰與元磨渾等潛謀奉迎。太宗即位,遷散騎常侍,與磨渾等拾遺左右。以功遷平南將軍。率眾鎮北境,威名甚著,蠕蠕憚之。後為都督北部諸軍事、平北將軍、真定侯,給殿中細拾隊,加旌旗鼓吹。蠕蠕每犯塞,翰拒擊有功,進爵為公。世祖即位,徵還京師,進封平陽王,加安集將軍。

蠕蠕の大檀が雲中に侵入した時、世祖は親征し、翰に北部諸将尉眷を率いさせ、参合より北へ、柞山において大檀の別帥阿伏干を撃ち、数千級を斬首し、馬万余匹を獲た。また東平公娥青と共に長川より出て大檀を討った。大檀の衆は北へ遁走したので、追撃し、勝利して獲るところありて還った。間もなく司徒に遷った。赫連昌を襲撃し、これを破った。世祖が再び昌を征した時、翰は廷尉道生・宗正娥清と共に騎三万を率いて前駆となった。昌は戦いに敗れ、上邽に奔ったので、翰は八千騎でこれを追い、高平に至ったが、及ばずして還った。蠕蠕襲撃に従い、車駕が漠を渡ると、大檀は奔走した。その弟匹黎が衆を率いてこれに赴き、翰と遭遇して交戦したが、匹黎の衆は潰走し、その渠帥数百人を斬った。

原文蠕蠕大檀之入寇雲中,世祖親征之,遣翰率北部諸將尉眷,自參合以北,擊大檀別帥阿伏干於柞山,斬首數千級,獲馬萬餘匹。又與東平公娥青出長川以討大檀。大檀眾北遁,追擊,克獲而還。尋遷司徒。襲赫連昌,破之。世祖復征昌,翰與廷尉道生、宗正娥清率騎三萬為前驅。昌戰敗,奔上邽,翰以八千騎追之,至高平,不及而還。從襲蠕蠕,車駕度漠,大檀奔走。其弟匹黎率眾赴之,遇翰交戰,匹黎眾潰走,斬其渠帥數百人。

翰は清正厳明で、将士をよく撫で、太祖は甚だこれを重んじた。神䴥三年に薨じ、深く悼惜され、そのために涙を流し、自らその喪に臨み、礼は安城王叔孫俊の故事に依り、賻賜を加増した。諡して威と言い、金陵に陪葬された。

原文翰清正嚴明,善撫將士,太祖甚重之。神䴥三年薨,深見悼惜,為之流涕,親臨其喪,禮依安城王叔孫俊故事,賻賜有加。諡曰威,陪葬金陵。

子の平成が爵を襲い、公に降された。平成は、若くして父の任により中散となり、累遷して南部尚書となった。卒去し、金陵に陪葬された。

原文子平成,襲爵,降為公。平成,少以父任為中散,累遷南部尚書。卒,陪葬金陵。

子の渾が爵を襲った。渾は、初め中散となり、久しくして彭城鎮将となった。太和年間に卒去した。子の盛が爵を襲った。

原文子渾,襲爵。渾,初為中散,久之為彭城鎮將。太和中卒。子盛襲爵。

翰の弟に受興がいる。世祖の時、平涼征討に従い、功により爵を長進子と賜り、河間太守に任ぜられた。卒去した。

原文翰弟受興。世祖時,從征平涼,以功賜爵長進子,除河間太守。卒。

子の安都が爵を襲った。顕祖の時、典馬令となった。

原文子安都,襲爵。顯祖時,為典馬令。

受興の弟に陳がいる。世祖の時、羽林郎となった。和龍を征した時、賊が西門より出て外囲を犯さんとしたので、陳はこれを撃退し、長城下まで追撃して斬った。功により爵を五等男と賜った。また涼州征討に従い、都將領となった。内官に入り、殿中給事中に遷り、爵を子に進め、駕部尚書に遷った。再び出て北鎮都將となった。陳は性質寛厚で、学を好み士を愛し、歴任した地では常に人々に追慕された。高宗が即位すると、爵を呉郡公に進め、安東将軍を加えられた。興光二年に卒去した。散騎常侍・呉郡王を追贈され、諡して恭と言い、金陵に陪葬された。

原文受興弟陳,世祖時為羽林郎。征和龍,賊自西門出,將犯外圍,陳擊退之,追斬至長城下。以功賜爵五等男。又從征涼州,為都將領。入官,遷殿中給事中,進爵為子,遷駕部尚書。復出為北鎮都將。陳性寬厚,好學愛士,所歷輒為人追思之。高宗即位,進爵吳郡公,加安東將軍。興光二年卒。贈散騎常侍、吳郡王,諡曰恭,陪葬金陵。

子の頭は爵位を襲封した。高宗の時、中散となり、内行長に遷り、龍牧曹を管掌した。天安初年に卒去した。子の抜が爵位を襲封した。

原文子頭,襲爵。高宗時,為中散,遷內行長,典龍牧曹。天安初卒。子拔襲爵。

陳の弟の蘭。世祖の初め、中散となった。常に征伐に従い、御兵器を管掌し、賞賜は甚だ厚かった。後に平涼を破った功により、爵位を睢陽子と賜り、奮武將軍を加えられた。散騎常侍・北部尚書に遷った。後に豫州刺史を除された。卒去した。

原文陳弟蘭。世祖初,為中散。常從征伐,典御兵器,賞賜甚厚。後以破平涼功,賜爵睢陽子,加奮武將軍。遷散騎常侍、北部尚書。後除豫州刺史。卒。

子の烏孤、爵位を襲封した。高祖の初め、出て武都鎮将となり、入って散令となった。

原文子烏孤,襲爵。高祖初,出為武都鎮將,入為散令。

子の樂、孝靜帝の時、金紫光禄大夫となった。

原文子樂,孝靜時,金紫光祿大夫。

肥の弟の亦干、太祖の初め、羽林郎となった。中原平定に従い、広平太守を除された。卒去した。

原文肥弟亦干,太祖初,為羽林郎。從平中原,除廣平太守。卒。

子の石洛、世祖の初め、羽林郎となり、稍々遷って散騎常侍となった。赫連昌征討に従い、都將となり、功により楽部尚書に拝され、爵位を臨淮公と賜り、寧西將軍を加えられた。神䴥年間に卒去し、諡して簡といった。

原文子石洛,世祖初,為羽林郎,稍遷散騎常侍。從征赫連昌,為都將,以功拜樂部尚書,賜爵臨淮公,加寧西將軍。神䴥中卒,諡曰簡。

子の真、少時に父の任により中散となった。平涼征討に従い、功により爵位を臨城子と賜り、員外散騎侍郎・広武將軍に拝された。父の爵位を襲封し、降って建義將軍・臨淮侯となった。司衞監に遷った。蓋呉を征討した。殿中尚書に遷り、散騎常侍を加えられた。劉義隆征討に車駕に従い、江に至った。爵位を南康公に進め、冠軍將軍を加えられた。軍中に卒去した。

原文子真,少以父任為中散。從征平涼,以功賜爵臨城子,拜員外散騎侍郎、廣武將軍。襲父爵,降為建義將軍、臨淮侯。遷司衞監。征蓋吳。遷殿中尚書,加散騎常侍。從駕征劉義隆,至江。進爵南康公,加冠軍將軍,卒於軍。

子の呉兒、爵位を襲封した。高祖の初め、中散・武川鎮将となった。太和初年、卒去し、恒州刺史を追贈された。

原文子吳兒,襲爵。高祖初,為中散、武川鎮將。太和初,卒,贈恒州刺史。

子の長樂、襲封した。事に坐して爵位を除かれた。後に陵江將軍・羽林監を歴任した。

原文子長樂,襲。坐事爵除。後歷陵江將軍、羽林監。

子の榮族、武定年間、征西將軍・繁昌男となった。

原文子榮族,武定中,征西將軍、繁昌男。

呉兒の弟の突、朔州長史となった。

原文吳兒弟突,朔州長史。

子の元慶、平州倉曹参軍となった。

原文子元慶,平州倉曹參軍。

尉古真

原文尉古真

尉古真は代の人である。太祖が賀蘭部におられた時、賀染干が侯引乙突らを行宮に遣わし、将に逆を肆わんとした。古真はこれを知り、密かに馳せて告げたので、侯引らは敢えて発しなかった。染干は古真がその謀を洩らしたと疑い、乃ちこれを執り拷問し、両車の軸でその頭を押さえ、一目を傷つけたが、服さず、乃ちこれを免じた。登国初年、庫莫奚及び叱突隣の征討に従い、並びに功があった。また賀蘭救援に従い、衞辰の子の直力鞮を破り、また参合陂において慕容宝を撃った。また中原平定に従い、功により爵位を束州侯と賜り、建節將軍を加えられた。太宗の初め、鴻飛將軍となり、衆五千を率い、大洛城を鎮守した。太宗が西巡された時、古真は奚斤らと共に前軍を率いて越勒部を討ち、これを大破し、馬五万匹、牛羊二十万頭を獲、二万余家を掠めて西還した。泰常三年、定州刺史を除された。卒去し、子の億万が襲封した。卒去し、子の盛が襲封した。

原文尉古真,代人也。太祖之在賀蘭部,賀染干遣侯引乙突等詣行宮,將肆逆。古真知之,密以馳告,侯引等不敢發。染干疑古真泄其謀,乃執栲之,以兩車軸押其頭,傷一目,不伏,乃免之。登國初,從征庫莫奚及叱突隣,並有功。又從救賀蘭,破衞辰子直力鞮,復擊慕容寶於參合陂。又從平中原,以功賜爵束州侯,加建節將軍。太宗初,為鴻飛將軍,率眾五千,鎮大洛城。太宗西巡,古真與奚斤等率前軍討越勒部,大破之,獲馬五萬匹,牛羊二十萬頭,掠二萬餘家西還。泰常三年,除定州刺史。卒,子億萬襲。卒,子盛襲。

古真の弟の太真、太宗の初め、平南將軍・相州刺史となった。

原文古真弟太真,太宗初,為平南將軍、相州刺史。

太真の弟の諾は、幼少より太祖に仕え、忠謹をもって称された。中山包囲に従い、諾は先鋒として登城し、一目を傷つけた。太祖は嘆じて言うには、「諾兄弟ともにその目を毀して功績を立てるとは、誠に嘉すべきである」と。寵遇は次第に厚くなり、平東将軍に任じられ、安楽子の爵位を賜った。姚平討伐に従い、帰還すると国部大人に任じられた。太宗の初め、幽州刺史となり、東統将軍を加えられ、侯に爵位を進めた。長孫道生が馮跋を討つにあたり、諾は驍騎将軍延普とともに軍を率いて遼西に駐屯した。寧東将軍に転じ、武陵公に爵位を進めた。諾が州に在任中は善政があり、民と官吏は彼を追慕した。世祖の時、薊の張広達ら二百余人が宮門に赴いて彼を請い、再び安東将軍・幽州刺史に任じられ、封邑を遼西公に改めた。兄弟ともに方伯となり、当世の人々はこれを栄誉とした。燕の地は乱が長く、民戸は散亡していたが、諾は州に前後十数年おり、帰農する者は一万余家に及んだ。延和年間に卒去した。

原文太真弟諾,少侍太祖,以忠謹著稱。從圍中山,諾先登,傷一目。太祖歎曰:「諾兄弟並毀其目,以建功效,誠可嘉也。」寵待遂隆。除平東將軍,賜爵安樂子。從討姚平,還,拜國部大人。太宗初,為幽州刺史,加東統將軍,進爵為侯。長孫道生之討馮跋也,諾與驍騎將軍延普率師次遼西。轉寧東將軍,進爵武陵公。諾之在州,有惠政,民吏追思之。世祖時,薊人張廣達等二百餘人詣闕請之,復除安東將軍、幽州刺史,改邑遼西公。兄弟並為方伯,當世榮之。燕土亂久,民戶凋散,諾在州前後十數年,還業者萬餘家。延和中卒。

第八子の観が爵位を継いだ。卒去し、子の崘が継いだ。

原文第八子觀,襲爵。卒,子崘襲。

諾の長子の眷は、忠謹にして父の風があった。太宗の時、左右に執事し、大官令となった。時に侍臣の受斤が蠕蠕に亡命したので、詔により眷がこれを追い、ついに虜庭に至った。大檀がその理由を問うと、眷は言うには、「受斤は天子に罪を負い、ここに逃刑している。直ちに捕らえて送らぬゆえ、取りに来たのである」と。眷は大檀の面前で受斤を捕らえた。左右がこれを救おうとしたが、果たせなかった。これにより、驍烈をもって知られるようになった。司衛監に遷った。太宗が幽州に行幸した際、詔により眷は世祖の留守を補佐した。後に河南を征し、高車騎を督して、陣に臨んで突撃し、向かうところ敵なく、賊はこれを恐れた。世祖が即位すると、眷に命じて散騎常侍劉庫仁ら八人とともに四部を分掌させ、機密を掌握して奏上させた。山桑侯の爵位を賜り、陳兵将軍を加えられた。

原文諾長子眷,忠謹有父風。太宗時,執事左右,為大官令。時侍臣受斤亡入蠕蠕,詔眷追之,遂至虜庭。大檀問其故,眷曰:「受斤負罪天子,逃刑在此,不時執送,是以來取。」眷遂擒受斤於大檀前。左右救之,乃免。由是,以驍烈聞。遷司衞監。太宗幸幽州,詔眷輔世祖居守。後征河南,督高車騎,臨陣衝突,所向無前,賊憚之。世祖即位,命眷與散騎常侍劉庫仁等八人分典四部,綰奏機要。賜爵山桑侯,加陳兵將軍。

また安北将軍となり、出鎮して北境を守った。平陽王長孫翰とともに祚山で蠕蠕の別帥阿伏干を撃ち、軍を率いて歌刪山に至り、蠕蠕の別帥便度の弟庫仁直を撃ち、軍を率いて北進した。蠕蠕の部帥莫孤が高車騎五千乗を率いて迎撃してきたが、眷はこれを撃破し、千余級を斬首した。また蠕蠕征討に従軍した。眷は白漠と黒漠の間から出撃し、その東部を撃ち、大いに捕獲して帰還した。また赫連昌征討に従い、眷は南道から出撃し、上邽で昌を撃った。兵士らが食糧に窮し、臨淮公丘堆らが郡県で租税を督収していたが、昌に敗れた。昌は勝ちに乗じて略奪し、諸将はこれを憂えた。眷は侍御史安頡と謀り、伏兵を設けて邀撃し、昌を生け捕りにした。功により寧北将軍に任じられ、散騎常侍を加えられ、漁陽公に爵位を進めた。後に和龍征討に従い、眷は一万騎を督いて先鋒となり、降伏を慰諭して二千余戸を得た。まもなく仮節を加えられ、侍中を加えられ、豫洛二州及び河内諸軍事・安南将軍・開府を都督し、虎牢に鎮した。張掖王禿髪保周が反乱すると、眷を召し永昌王健らとともに軍を率いて討伐させ、番禾で保周を破った。保周は逃げ走り、眷は騎兵を率いてこれを追い、保周は窮迫して自殺した。詔により眷は涼州に留鎮し、涼沙河三州諸軍事・安西将軍の都督を加えられ、護羌戎校尉を領した。敦煌鎮将に転じた。また吐谷渾を撃破し、三千余口を捕虜とした。眷は四つの辺境を歴鎮し、威名ともに著しかった。

原文又為安北將軍,出鎮北境。與平陽王長孫翰擊蠕蠕別帥阿伏干於祚山,率師至歌刪山,擊蠕蠕別帥便度弟庫仁直,引師而北。蠕蠕部帥莫孤率高車騎五千乘來逆,眷擊破之,斬首千餘級。又從征蠕蠕。眷出白、黑兩漠之間,擊其東部,大獲而還。又從征赫連昌,眷出南道,擊昌於上邽。士眾乏糧,臨淮公丘堆等督租於郡縣,為昌所敗。昌乘勝抄掠,諸將患之。眷與侍御史安頡陰謀設伏,邀擊擒昌。以功拜寧北將軍,加散騎常侍,進爵漁陽公。後從征和龍,眷督萬騎前驅,慰喻降二千餘戶。尋為假節,加侍中,都督豫洛二州及河內諸軍事、安南將軍、開府,鎮虎牢。張掖王禿髮保周之反也,徵眷與永昌王健等率師討之,破保周於番禾。保周遁走,眷率騎追之,保周窮迫自殺。詔眷留鎮涼州,加都督涼沙河三州諸軍事、安西將軍,領護羌戎校尉。轉敦煌鎮將。又擊破吐谷渾,俘三千餘口。眷歷鎮四蕃,威名並著。

高宗の時、軍を率いて北の伊吾を撃ち、その城を陥落させ、大いに捕獲して帰還した。まもなく侍中・太尉に任じられ、王に爵位を進めた。太宰常英らとともに尚書の事を評議した。高宗が北巡した際、寒雪が降り始めたので、還都を議した。眷は諫めて言うには、「今大衆を動かして北敵を威圧するのに、都から遠くないところで軽々しく車駕を返せば、虜は必ず我が内難ありと疑うでしょう。たとえ寒雪が降ろうとも、兵士は労苦するが、経略の大計からすれば、進むべきです」と。高宗はこれに従い、ついに漠を渡って帰還した。眷が元老であることから、杖と履を賜り殿上に上ることを許された。和平四年に卒去した。高宗は悼惜し、大将軍を追贈し、諡して莊といった。

原文高宗時,率師北擊伊吾,克其城,大獲而還。尋拜侍中、太尉,進爵為王。與太宰常英等評尚書事。高宗北巡狩,以寒雪方降,議還。眷諫曰:「今動大眾,以威北敵,去都不遠,而便旋駕,虜必疑我有內難。雖方寒雪,兵人勞苦,以經略大體,宜便前進。」高宗從之,遂渡漠而還。以眷元老,賜杖履上殿。和平四年薨。高宗悼惜之,贈大將軍,諡曰莊。

子の多侯が爵位を継いだ。多侯は若くして武幹があり、顕祖の時、仮節・征西将軍・護羌戎校尉領・敦煌鎮将となった。鎮に着くと、上表して軽騎五千を率い、西進して于闐に入り、兼ねて諸国を平定し、敵の資財を取って平定の効果としたいと求めた。許されなかった。高祖の初め、蠕蠕の部帥旡盧真が三万騎を率いて塞内に入り鎮を包囲したが、多侯はこれを撃退し、功により征西大将軍の号を進めた。後に多侯が南山で狩猟していると、蠕蠕が部帥度拔を遣わして敦煌を包囲し、その帰路を断った。多侯は進みながら戦い、ついに包囲を突破して入城した。衆を率いて出戦し、これを大破し、北に数十里追撃して千余級を斬首した。そこで上疏して北進して伊吾を奪い、蠕蠕の西域への通路を断つことを求めた。高祖はその計略を良しとしたが、春の農作業が始まる時期であったため、実行を難とした。太和元年、妻の元氏に害された。

原文子多侯,襲爵。多侯少有武幹,顯祖時,為假節、征西將軍、領護羌戎校尉、敦煌鎮將。至鎮,上表求率輕騎五千,西入于闐,兼平諸國,因敵取資,平定為效。弗許。高祖初,蠕蠕部帥旡盧真率三萬騎入塞圍鎮,多侯擊之走,以功進號征西大將軍。後多侯獵于南山,蠕蠕遣部帥度拔入圍敦煌,斷其還路。多侯且前且戰,遂衝圍而入。率眾出戰,大破之,追北數十里,斬首千餘級。因上疏求北取伊吾,斷蠕蠕通西域之路。高祖善其計,以東作方興,難之。太和元年,為妻元氏所害。

子の建が爵位を継いだ。給事中を歴任した。卒去し、子がなかった。

原文子建,襲爵。歷位給事中。卒,無子。

建の弟の那が爵位を継いだ。卒去した。

原文建弟那,襲爵。卒。

子の範が継いだ。

原文子範,襲。

範の弟の顕業は、散騎常侍であった。太原公主と姦通し、子の彦を生んだ。武定年間、衛将軍・南営州刺史となった。

原文範弟顯業,散騎常侍。與太原公主姦通,生子彥。武定中,衞將軍、南營州刺史。

多侯の弟の子の慶賓は、騎射に優れ、将略があった。高祖の時、員外散騎侍郎として初任し、次第に左将軍・太中大夫に遷った。粛宗の時、蠕蠕の主阿那瓌を帰国させようと議したが、慶賓は上表して強く反対したが、聞き入れられなかった。後に蠕蠕は行臺の元孚を捕らえ、北境を大いに掠めた。詔により尚書令李崇がこれを討ち、慶賓は別将として李崇に隷属し、塞外に出たが帰還した。元法僧が外叛すると、蕭衍がその豫章王蕭綜を遣わして徐州を鎮守させたので、また詔により慶賓を別将として安豊王延明に隷属させてこれを討たせた。まもなく後将軍・肆州刺史に任じられた。時に尒朱栄の兵威が次第に盛んとなり、かつて肆州を通過したが、慶賓はこれを畏れ憎み、城を拠って出なかった。栄は慶賓を恨み、挙兵して襲撃した。慶賓の別駕姚和が内応し、栄はついに慶賓の僚属を害し、慶賓を拘束して秀容に連れ帰り、仮父と呼んだ。後に母の喪で都に帰り、まもなく起用されて平東将軍・光禄大夫・都督となり、汝陰に鎮した。朝廷に帰り、永安二年に卒去した。車騎将軍・雍州刺史を追贈され、さらに侍中・司空公を追加追贈された。

原文多侯弟子慶賓,善騎射,有將略。高祖時,釋褐員外散騎侍郎,稍遷左將軍、太中大夫。肅宗時,議欲送蠕蠕主阿那瓌還國,慶賓上表固爭,不從。後蠕蠕遂執行臺元孚,大掠北境。詔尚書令李崇討之,慶賓別將隸崇,出塞而返。元法僧之外叛,蕭衍遣其豫章王蕭綜鎮徐州,又詔慶賓為別將隸安豐王延明討之。尋除後將軍、肆州刺史。時尒朱榮兵威漸盛,曾經肆州,慶賓畏惡之,據城不出。榮恨慶賓,舉兵襲之。慶賓別駕姚和內應,榮遂害慶賓僚屬,拘慶賓還秀容,呼為假父。後以母憂還都,尋起為平東將軍、光祿大夫、都督,鎮汝陰。還朝,永安二年卒。贈車騎將軍、雍州刺史,又追加侍中、司空公。

慶賓の子の豹は、員外郎として初任した。粛宗の時、潁州の事務を行い、蕭衍の将裴之礼と戦って戦死した。

原文慶賓子豹,起家員外郎。肅宗時,行潁州事,與蕭衍將裴之禮戰歿。

豹の弟の瑾は、武定年間、東平太守となった。

原文豹弟瑾,武定中,東平太守。

眷の弟の地干は、機知に悟り才芸があり、馬を馳せて立ちながら五つの的を射ることを得意とし、当時の人で及ぶ者はいなかった。太宗の時、左機令となった。世祖は幼少より彼を好み、即位すると、庫部尚書に抜擢し、散騎常侍・左光禄大夫を加えられ、侍輦郎を領した。地干は主上に仕えて忠謹であり、特に嘲笑を得意とした。世祖は彼が人の挙措を真似るのを見て、喜びを抑えられなかった。非常に親愛され、軍国大謀に参与した。世祖が平涼を征討しようとした時、衝車を試すために塚を攻撃させたところ、地干は索に引っかかり、脇骨を折って卒去した。世祖は自ら臨んで慰撫し、非常に慟哭した。中領軍将軍・燕郡公を追贈し、諡して惠といい、贈り物は豊かであった。

原文眷弟地干,機悟有才藝,馳馬立射五的,時人莫能及。太宗時,為左機令。世祖少而善之,即位,擢為庫部尚書,加散騎常侍、左光祿大夫,領侍輦郎。地干奉上忠謹,尤善嘲笑。世祖見其效人舉措,忻悅不能自勝。甚見親愛,參軍國大謀。世祖將征平涼,試衝車以攻冢,地干為索所罥,折脅而卒。世祖親往臨撫,哭之甚慟。贈中領軍將軍、燕郡公,諡曰惠,贈賜豐厚。

子の長寿は、幼くして散騎常侍に任じられ、殿中右曹尚書に遷り、引き続き散騎常侍を加えられた。劉義隆征討に従い、江まで至った。会稽公の爵位を賜り、冠軍将軍を加えられた。高宗の時、涇州刺史に任じられた。和平五年に卒去した。

原文子長壽,幼拜散騎常侍,遷殿中右曹尚書,仍加散騎常侍。從征劉義隆,至江。賜爵會稽公,加冠軍將軍。高宗時,除涇州刺史。和平五年卒。

子の彌真は爵位を襲った。彌真が卒すると、子がなかった。弟の狀德が爵位を襲った。

原文子彌真,襲爵。彌真卒,無子。弟狀德,襲爵。

地干の弟の侯頭は、地干の職を襲い、庫部尚書となった。

原文地干弟侯頭,襲地干職,為庫部尚書。

侯頭の弟の力斤もまた、忠謹をもって知られた。御史中尉・并州刺史を歴任し、政績があった。冠軍將軍を加えられ、晉陽侯の爵を賜った。卒し、平南將軍を追贈された。

原文侯頭弟力斤,亦以忠謹聞。歷位御史中尉、并州刺史,有政績。加冠軍將軍,賜爵晉陽侯。卒,贈平南將軍。

力斤の弟の焉陳は、尚書・安樂侯である。

原文力斤弟焉陳,尚書、安樂侯。

古真の族玄孫の聿は、字は成興、性質は耿介であった。肅宗の時、武衞將軍となった。この時、領軍の元叉が権を執り、百官はみな敬禮を致さぬ者はなかったが、聿のみは長揖して拝礼しなかった。まもなく出て平西將軍・東涼州刺史となった。涼州の緋色は天下第一であり、元叉は白綾二千匹を送り、聿に染めさせようとしたが、拒んで許さなかった。元叉は御史に諷してこれを弾劾させ、駅伝で京師に召し出した。覆驗して罪状なく、任に還った。まもなく州において卒し、時に五十歳であった。安北將軍・朔州刺史を追贈された。

原文古真族玄孫聿,字成興,性耿介。肅宗時,為武衞將軍。是時,領軍元叉秉權,百僚莫不致敬,而聿獨長揖不拜。尋出為平西將軍、東涼州刺史。涼州緋色,天下之最,叉送白綾二千匹,令聿染,拒而不許。叉諷御史劾之,驛徵至京。覆驗無狀,還復任。尋卒於州,時年五十。贈安北將軍、朔州刺史。

子の儉。武定年間、開府祭酒。

原文子儉。武定中,開府祭酒。