長孫嵩
長孫嵩は代の人であり、太祖(道武帝)が名を賜うた。父の仁は、昭成帝( 拓跋 什翼犍)の時に南部大人となった。嵩は寛雅にして器量があり、十四歳の時、父に代わって軍を統率した。昭成帝の末年、諸部が乱れ、苻堅が 劉庫仁 に国事を摂行させると、嵩は元他らと部衆を率いてこれに帰順した。
劉顯が難を謀った時、嵩は旧人及び郷邑七百余家を率いて劉顯に背き逃走し、五原に至らんとした。時に寔君の子もまた衆を集めて自立しており、嵩はこれに帰そうとした。于烏渥に会うと、彼は「逆父の子である」と言い、嵩に太祖に帰順するよう勧めた。嵩は未だ決めかねていたが、烏渥がその牛の首を回すと、嵩はやむなくこれに従った。三漢亭において太祖に謁見した。太祖が大統を継ぐと、再び南部大人とした。累ねて軍功を顕著にした。後に中山征伐に従い、冀州 刺史 に任じられ、爵を鉅鹿公と賜うた。 侍中 、 司徒 、相州刺史を歴任し、南平公に封ぜられ、在任する所で称賛された。太宗(明元帝)が即位すると、山陽侯奚斤、北新侯安同、白馬侯崔宏ら八人と共に、止車門の右に座し、万機を聴理したので、世に八公と号した。
晋の将軍劉裕が姚泓を伐つに当たり、太宗は嵩に節を仮し、山東諸軍事を督させ、詔を伝えて平原に詣らしめ、河北岸に沿って軍を列ね、畔城に駐屯させた。軍はやや失利した。詔して劉裕に道を仮すことを許し、裕は舟中より嵩の麾蓋を望み、酃酒及び江南の食物を贈ったが、嵩はこれを全て京師に送った。詔して嵩に厚く答礼させた。また勅して精兵を選び戦備と為し、もし裕が西に過ぎるならば、便ち精鋭を率いて南より彭沛に出で、もし時に過ぎざれば、ただ軍を率いてこれに随うべしと。彼が崤陝の間に至れば、必ず姚泓と相対峙し、一死一傷、衆力疲弊す。秋月に及ぶを待ち、徐ろにこれに乗ずれば、則ち裕の首は戦わずして懸くべしと。ここにおいて叔孫建らは河を尋ねて洛に趣き、遂に関中に入った。嵩は建らと自成皐より南に渡り、晋の諸屯戍は皆塵を見て奔潰した。裕が 長安 を克つと、嵩は乃ち軍を返した。
太宗が病臥し、嵩に後事を問うと、嵩は言う、「長を立てれば則ち順なり、徳を以てすれば則ち人服す。今、長皇子は賢にして世の嫡、天の命ずる所なり。立てんことを請う」と。乃ち禁中に於いて策を定めた。ここにおいて詔して世祖(太武帝)をして臨朝監国せしめ、嵩を左輔とした。世祖が即位すると、爵を進めて北平王とし、司州中正とした。詔して公卿に問う、 赫連 、 蠕蠕 の征討は何を先とすべきかと。嵩は平陽王長孫翰、 司空 奚斤らと曰く、「赫連は土に居り、未だ患いと為す能わず。蠕蠕は世々辺害と為り、宜しく先ず大檀を討つべし。及べば則ち其の畜産を収め、以て国を富ますに足り、及ばざれば則ち陰山に校猟し、多く禽獣を殺し、皮肉筋角を以て軍実を充たすも、亦た一小国を破るに愈れり」と。太常崔浩は曰く、「大檀は遷徙して鳥の如く逝く。疾く追えば則ち久しきを経るに足らず、大衆を以てすれば則ちこれに及ぶ能わず。赫連屈丐は、土宇千里を過ぎず、其の刑政残虐、人神の棄つる所、宜しく先ずこれを討つべし」と。 尚書 劉潔、武京侯安原は先ず馮跋を平らげんことを請うた。帝は黙然とし、遂に西に巡狩した。後に屈丐の死を聞き、関中大乱すと、征伐を議わんとした。嵩らは曰く、「彼若し城を守らば、逸を以て労に代う。大檀これを聞き、虚に乗じて寇すは、危き道なり」と。帝は乃ち天師寇謙之に幽微を問うと、謙之は行くことを勧めた。杜超之これを賛成し、崔浩また西伐の利を言う。嵩らは固く諫めて不可とす。帝は大いに怒り、嵩が在官貪汚なることを責め、武士をして頓辱せしめた。尋いで 太尉 に遷す。久しくして、柱国大将軍を加う。
これより、輿駕の征伐するに、嵩は元老として多く留まって京師を鎮め、朝堂に坐し、刑獄を平断した。薨ず、年八十。 諡 して宣王と曰う。後、高祖(孝文帝)が先朝の功臣を追録し、嵩を以て廟庭に配饗せしめた。
子の頹は、騎射に優れ、弓を三百斤彎げた。爵を襲い、侍中、征南大将軍を加えられた。罪有りて、戍兵に貶せられたが、後に復爵した。薨じ、諡して安王と曰う。
子の敦は、 字 を孝友と云い、位は北鎮都將に至る。貨を黷する罪に坐し、公に降格された。高宗(文成帝)の時、自ら先世の勲重を称え、その王爵を復した。薨じ、諡して簡王と曰う。
子の道は、字を念僧と云い、爵を襲う。久しくして、例に随い公に降格され、位は右 衞 將軍に至る。卒し、諡して慎と曰う。
子の悦は、爵を襲う。建義の初め、本の王爵に復し、尋いで公に降格された。位は光祿少卿に至る。卒し、 司空 を贈られた。
長孫道生
長孫道生は、嵩の従子である。忠厚廉謹にして、太祖は其の慎重を愛し、機密を掌らせ、賀毗ら四人と内侍左右として、詔命に出入りせしめた。太宗が即位すると、南統將軍、冀州刺史に任じられた。後、人の美女を取って太宗に献じたが、厳しく責められ、旧臣なるを以て罪を加え貶さず。
世祖が即位すると、爵を進めて汝陰公とし、廷尉卿に遷す。蠕蠕征伐に従い、尉眷らと衆を率いて白黒両漠の間より出で、大捷して還った。世祖が赫連昌を征するに、道生は 司徒 長孫翰、宗正娥青と前駆となり、遂に其の国を平定した。昌の弟定は平涼に走り保つ。劉義隆が将の到彦之、王仲德を遣わして河南を寇し以て定を救わしむ。詔して道生と丹陽王太之をして河上に屯し以てこれを防がしむ。遂に義隆の将檀道済を誘い、其の前後を邀え、歴城に追い至って還った。 司空 に任じられ、侍中を加えられ、上黨王に進封された。薨ず、年八十二。太尉を贈られ、諡して靖と曰う。
道生は廉約にして、身は三司たりながら、衣は華飾せず、食は兼味せず。一つの熊皮の鄣泥を、数十年易えず、時に人これを晏嬰に比す。第宅は卑陋、出鎮の後、其の子弟頗る修繕を加え、堂廡を起こす。道生還りて歎じて曰く、「昔、霍去病は 匈奴 未滅、家為す無用と為し、今、強寇尚ほ遊魂漠北す。吾豈に安んぞ華美に坐せんや」と。乃ち子弟を切責し、宅を毀たしむ。其の恭謹此の如し。世祖の世、在任する所で績を著し、大議を建つる毎に、多く時機に合う。将として権略有り、士衆を善く遇す。帝は歌工を命じ群臣を歴頌せしめ、「智は崔浩の如く、廉は道生の如し」と曰わしむ。年老いて、頗る其の妻孟氏に惑い、此を以て譏られたり。従父の嵩と俱に三公となり、当世以て栄えと為す。
子の抗は、位は少卿に至り、早卒す。
抗の子の観は、若くして壮勇をもって知られ、後に祖父の爵位上党王を襲った。当時、異姓の諸王は爵位を襲うと多く公に降格されたが、帝はその祖父の道生が先朝の創業を輔けたことを以て、特に降格させなかった。征西大将軍・仮の 司空 ・河西七鎮諸軍を督し、吐谷渾を討った。部帥の拾寅は逃げ隠れ、その居住する城邑を焼いて帰還した。高祖の初め、殿中尚書・侍中に拝された。吐谷渾がまた侵逼してきたので、再び観に 司空 を仮授して討伐させ降伏させた。後に征南大将軍となった。薨じ、諡して定といった。葬儀はその祖父の靖王の故事に依り、雲中の金陵に陪葬された。
子の冀帰は、六歳で爵位を襲い、公に降格された。高祖はその幼くして家業を継ぐことを以て、名を稚と賜い、字を承業といった。稚は聡明で才芸があり、虚心に士を愛した。前将軍となり、高祖に従って南征し、七兵尚書・太常卿・右将軍を授けられた。
世宗の時、侯剛の子の淵は、稚の女婿であった。剛は元叉に厚遇されていたので、稚は急に転進を得た。出て撫軍大将軍となり、揚州刺史を領し、仮に鎮南大将軍、淮南諸軍事を 都督 した。蕭衍の将の裴邃・虞鴻が寿春を襲撃占拠したので、稚の諸子は 驍 果であり、邃は大いに難儀し、「鉄小児」と号した。詔して河間王の琛に総衆してこれを援けさせた。琛は決戦しようとしたが、稚は雨が長く続いていることを以て、更に持重を要すとした。琛は従わず、遂に戦い、賊の乗ずるところとなり、稚は後殿した。初め、稚は強兵を総べながら、久しく決戦せず、議者は異図を疑った。朝廷は重ねて河間王の琛及び臨淮王の彧・尚書の李憲ら三 都督 を遣わし、外には稚を助けると声をかけ、内実はこれを防いだ。
時に鮮于脩礼が中山で反乱を起こしたので、稚を大 都督 として北討させた。まもなく本使として 鄴 城に至った。詔して稚に行台を解かせ、大使を罷め、河間王の琛を大 都督 とし、酈道元を行台とした。稚は子の子裕を遣わして表を奉り、琛と共に淮南におり、ともに国難に当たったが、琛は敗れ臣は全うし、遂に私隙を生じたと称した。かつ臨機に帥を奪うは、計略の長ずるところではないと述べた。書が奏上されたが、容れられなかった。琛と稚は先に呼沱に到ったが、稚は戦おうとせず、琛は従わなかった。五鹿に行き至り、脩礼に邀撃され、琛はこれに赴かなかった。賊が総至し、遂に大敗し、稚と琛はともに除名された。
まもなく正平郡の蜀が反乱し、再び稚に鎮西将軍・討蜀 都督 を仮授し、頻りに戦って功があり、平東将軍に除され、本爵を回復した。後に尚書右 僕射 に除された。間もなく、雍州刺史の蕭宝夤が州を拠って反乱したので、再び稚を行台としてこれを討たせた。稚は当時背中の癰がまだ癒えておらず、霊太后はこれを労って言った、「卿の病源がこのようであるのに、朕は留めようと思うが、他に寄せるべき者がいない。どうしたものか」。稚は答えて言った、「死して後已む、敢えて自ら力を尽くさざらんや」。時に子彦もまた脚の痺れを患い、杖を支えて入り辞した。尚書僕射の元順は顧みて互いに言った、「吾らは大臣の位を備え、各々寵位に居る。危難の日に、病める者先に行く、これは不可ではないか」。答える者なかった。時に薛鳳賢が正平で反乱し、薛脩義が河東に屯聚し、塩池を分拠し、蒲坂を攻囲し、東西連結して宝夤に応じた。稚はすなわち河東を拠った。
時に詔して塩池の税を廃するとあったので、稚は上表して言った、「塩池は天が資する賄貨であり、京畿に密邇している。ただ宝としてこれを護り、理をもって均しく贍うべきである。今、四境多虞で、府蔵は罄竭している。しかるに冀・定二州は且つ亡び且つ乱れ、常調の絹は、もはや収めることができない。府庫を仰ぎ見るに、出るありて入るなく、必ず経綸し、出入相補わねばならない。塩税を略論すれば、一年のうち、絹を基準として言えば、なお三十万匹を減ずべからざるものであり、これはすなわち冀・定二州を畿甸に移すようなものである。今もしこれを廃すれば、事は再失と同じである。臣が前に厳旨に違え、先に関中の賊を討たずして河東を解いたのは、長安を閑にして蒲坂を急にしたのではない。蒲坂が一旦陥落すれば、塩池を失い、三軍の口命、済贍の理が絶える。天が大魏を助け、この計は爽わなかった。昔、高祖の昇平の年、乏少する所なく、なお塩官を創置して典護を加えたのは、物のために利を競うのではなく、利によって俗を乱すを恐れたからである。況んや今、王公は素餐し、百官は尸祿し、租は六年の粟を徴し、調は来歳の資を折る。これらは皆、人の私財を出し、人の膂力を奪うものである。豈に願って言うところであろうか、事已むを得ざるのである。臣は輒ち司監の将尉に符して還り率いしめ、部を率いて常に依りて税を収め、更に後の敕を聴く」。
稚は宝夤の将の侯終徳を克ち、宝夤は出走し、雍州は平定された。雍州刺史に除された。
荘帝の初め、上党王に封ぜられ、まもなく馮翊王に改められ、後に郡公に降格された。 司徒 公に遷り、侍中を加えられ、 尚書令 ・大行台を兼ね、なお長安に鎮した。前廃帝が立つと、太尉公に遷り、録尚書事となった。韓陵の敗戦の時、斛斯椿が先に河橋を占拠し、尒朱氏誅殺を謀った。稚をして洛に入らせ、帝に世隆兄弟誅殺の意を啓させた。出帝の初め、 太傅 に転じ、録尚書事となった。定策の功により、更に開国子に封ぜられた。稚は表を上ってその姨兄の廷尉卿元洪超の次子の惲に回授することを請うた。初め、稚は生まれて母が亡くなり、洪超の母に養育されたので、譲りを求めたのであり、許された。出帝が関中に入ると、稚は当時虎牢に鎮していたが、また従って長安に赴いた。
稚の妻の張氏は、二子、子彦・子裕を生んだ。後に羅氏と私通し、遂にその夫を殺し、張を棄てて羅を納れた。羅は稚より十余歳年上で、嫉妬深く防限した。稚は大いに相愛敬し、傍らに姻妾なく、僮侍のうち、嫌疑によって死に致した者は、数四あった。羅は三子、紹遠・士亮・季亮を生み、兄弟は皆廉武であった。稚は若い頃軽侠で、闘鶏走馬し、力を争って人を殺し、亡命して龍門の将陳興徳の家に抵ったが、赦に会って免れた。後に妻の羅の前夫の女の呂氏を、興徳の兄の興恩に妻わせてこれに報いた。
子彦は、本名を儁といい、膂力があった。累ねて父に従い征討した功により、槐里県子に封ぜられた。出帝が斉献武王と隙を構えると、子彦に中軍大 都督 ・行台僕射を加え、弘農に鎮させ、心膂とした。後に帝に従って関中に入った。子彦は若い頃、馬から墜ちて腕を折り、肘の上の骨が一寸余り突起した。そこで肉を開き骨を鋸ることを命じ、数升の血を流したが、談笑自若であった。当時、関羽を踰えるとされた。
子裕は、位は衛尉少卿に至った。
校勘記