燕鳳
燕鳳、 字 は子章、代の人である。学問を好み、経書や史書を広く総合し、陰陽や讖緯の学に明るく習熟していた。昭成帝はかねてよりその名を聞き、人を遣わして礼を尽くして迎え招いた。鳳は招聘に応じなかった。そこで諸軍に命じて代城を包囲させ、城中の者に告げて言うには、「燕鳳が来なければ、お前たちを皆殺しにする」と。代の人々は恐れ、鳳を送り出した。昭成帝は彼と語り合い、大いに喜び、賓客の礼をもって遇した。後に代王の左長史に任じられ、国事の参決に与った。また経書を献明帝に授けた。
苻堅が使者の牛恬を遣わして朝貢させた。鳳に命じてこれに報いさせた。堅が鳳に問う、「代王はどのような人物か」。鳳が答えて言うには、「寛容で温和、仁愛に満ち、経略は高遠であり、一世の雄主で、常に天下を併呑しようとする志を持っている」と。堅が言う、「卿たち北人は、鋼の鎧や鋭利な武器がなく、敵が弱ければ進み、強ければすぐに退き逃げる。どうして併呑できようか」。鳳が言う、「北人は壮健で勇猛、馬に乗れば三種の武器を持ち、駆け巡ること飛ぶが如しである。主上は雄大で優れ、北方の地を率いて服従させ、弓を引く者は百万、号令は一つである。軍には輜重や薪を集め炊事する苦労がなく、軽装で迅速に行動し、敵に因って資材を取る。これが南方の疲弊する所以であり、北方の常に勝つ所以である」。堅が言う、「その国の人馬は、実際どれほどいるのか」。鳳が言う、「弓を引く士は数十万、馬は百万匹である」。堅が言う、「卿が言う人の多さはともかく、馬が多すぎると言うのは、虚言であろう」。鳳が言う、「雲中川は東の山から西の河まで二百里、北の山から南の山まで百余里あり、毎年孟秋になると、馬が常に大いに集まり、ほぼ川を満たすほどである。これによって推し量れば、私の言葉でさえ、まだ尽くしていないであろう」。鳳が帰還すると、堅は厚く贈り物を加えた。
昭成帝が 崩御 すると、太祖は 長安 に移ろうとした。鳳は太祖が幼弱であることを理由に、苻堅に固く請うて言うには、「代の主が初めて崩御し、臣下や子は逃亡・反乱し、遺された孫は幼く、これを輔け立てる者がない。その別部の大人である 劉庫仁 は勇猛で智謀があり、鉄弗の 衞 辰は狡猾で変化が多い。いずれも単独で任せることはできない。諸部を二つに分け、この二人に統率させよ。二人は平素から深い仇があり、その勢いでは先に動くことを敢えてしないであろう。これは辺境を防ぐ良策である。その孫が成長するのを待ち、存続させて立てるならば、これは陛下が亡国に大いなる恵みを施すことになる」。堅はこれに従った。鳳はまもなく東に帰還した。
太祖が即位すると、吏部郎、給事黄門侍郎、行臺 尚書 を歴任し、大いに礼遇され重んじられた。太宗の世には、崔玄伯、封懿、梁越らと共に内では経伝を講じ、外では朝政を議した。世祖の初め、旧勲により平舒侯の爵を賜り、鎮遠将軍を加えられた。神䴥元年に卒去した。
子 燕才
子の才が襲爵した。 散騎常侍 、平遠将軍となった。卒去した。
孫 燕元孫
子の元孫が襲爵した。官は博陵太守に至った。卒去した。子の世宗が襲爵した。
許謙
許謙、字は元遜、代の人である。若い時から文才があり、天文や図讖の学に長じていた。建国の時、家族を率いて帰順し、昭成帝はこれを嘉し、代王の郎中令に抜擢し、文書記録の執掌を兼ねさせた。燕鳳と共に献明帝に経書を授けた。 衞 辰征伐に従軍し、功により僮隷三十戸を賜った。昭成帝崩御の後、謙は長安に移った。苻堅の従弟の行唐公洛が和龍を鎮守し、謙をその鎮に招請した。間もなく、継母が老齢であることを理由に辞して帰還した。
登国の初め、ついに太祖に帰順した。太祖は喜び、右司馬とし、張袞らと共に創業の基を参画補佐させた。 慕容 宝が侵攻して来た時、太祖は謙を使者として姚興に難を告げさせた。興は将軍の楊仏嵩を遣わして兵を率いて来援させたが、仏嵩は遅滞した。太祖は謙に命じて書を作り仏嵩に送らせて言うには、「順に杖りて残敵を討ち、義に乗じて暗愚を攻むるは、その運なくして功を顕わし、その時なくして業を著すものなし。慕容は無道にして、我が疆埸を侵し、師は老い兵は疲れ、天の滅ぼす期至れり。ここに命を遣わして軍に告げ、必ずや赴くことを望む。将軍は方邵の任を拠り、熊虎の師を総べ、事は機会と与にす。今その時なり。これに因りて挙げば、役は再び駕すことなく、千載の勲は一朝に立つべし。然る後に雲中に高会し、三魏に進師し、觴を挙げて寿を称うるも、亦た綽ならずや」。仏嵩はこれにより道を倍して兼行した。太祖は大いに喜び、謙に関内侯の爵を賜った。重ねて謙を遣わし仏嵩と盟約させて言うには、「昔、殷の湯には鳴条の誓いがあり、周の武には河陽の盟あり。これをもって神霊を藉り、忠信を昭かにす。親仁善隣は古の美しき軌範、牲を割き血を歃って永き穆を敦くす。今既に盟してのちは、言をその好に帰し、災を分かち患を恤み、休戚を同じくす。この盟に違うことあらば、神祇これに殛せん」。宝が敗れると、仏嵩は帰還した。
翌年、慕容垂が再び侵攻して来た。太祖は謙に言う、「今事は急である。卿でなければ再び姚の師を招致できまい。卿は行け」。謙が未だ出発せぬうちに垂が退いたので、やめた。垂の死を聞くと、謙は上書して進むことを勧めた。太祖はこれを良しとした。
并州 が平定されると、謙を陽曲護軍とし、平舒侯の爵、安遠将軍を賜った。皇始元年、官のまま卒去した。時に六十三歳。平東将軍、左光禄大夫、幽州 刺史 、高陽公を追贈され、 諡 して文といった。
長子 許 洛陽
子の洛陽は、爵位を襲い、慕容宝の征討に従い、冠軍司馬となった。後に祁県令となった。太宗は謙の功績を追録し、洛陽を雁門太守とした。洛陽の家の田に三度嘉禾が生じ、皆異なる畝から合穎したので、世祖はこれを善しとした。爵位を進めて北地公とし、鎮南将軍を加えられた。出て明壘鎮将となり、八年の間在任し、卒した。諡して恭という。
長子の子は、許寄生である。
子の寄生は爵位を襲い、侯に降格された。皇興元年に卒した。
次子は、許安国である。
洛陽の弟の安国は、中山太守となった。
三子は、許安都である。
安国の弟の安都は、広寧・滄水の二郡太守となり、揚威将軍を加えられ、東光子の爵位を賜った。天安初年に卒した。平遠将軍・冀州刺史・東光侯を追贈され、諡して烈という。
三子の子は、許白虎である。
子の白虎は爵位を襲い、侍御中散となった。後に罪により官を免ぜられ、爵位を奪われた。
張袞
張袞は、字を洪龍といい、上谷郡沮陽県の人である。祖父の翼は遼東太守、父の卓は昌黎太守であった。袞は初め郡の五官掾となり、純朴で篤実、学問を好み、文才があった。太祖が代王となった時、左長史に選ばれた。
太祖に従って 蠕蠕 を征討した。蠕蠕は遁走し、これを五六百里追撃した。諸部の帥は袞を通じて太祖に言上した。「今、賊は遠く糧は尽きております。深入りすべきではなく、速やかに軍を還すことを請います。」太祖は袞に命じて諸部の帥に問わせた。「副馬を殺せば、三日分の食糧に足りるか。」皆が足りると答えた。太祖はそこで倍道で追撃し、広漠の赤地南床山の下で追いつき、これを大破した。後に太祖が袞に問うた。「卿ら外の者は、私が先に三日分の糧を問うた意図を知っているか。」答えて言うには、「皆、知りません。」太祖は言った。「これは容易に知り得ることだ。蠕蠕は数日奔走し、畜産の残りは、水辺に至れば必ず留まる。その道程を計算すれば、三日で十分に追いつける。軽騎が突然至れば、その不意を衝き、彼らは必ず驚いて散る。その勢い必然である。」袞は太祖の言葉を出して部帥たちに告げると、皆が言った。「聖なる策謀は長遠で、愚かで近視的な我々の及ぶところではありません。」
袞は常に大謀に参与し、帷幄の中で決策し、太祖は彼を重んじ、礼遇は優厚であった。袞は常に人に告げて言った。「昔、楽毅は燕の昭王に策を杖し、公達(荀攸)は魏の武帝に身を委ねた。蓋し命世の才は期し難く、千載に一度も容易に遇えぬもの。主上は天姿傑邁、逸志は凌霄し、必ずや六合を囊括し、四海を混一されよう。風雲の会に遭いながら、騰躍の功を建てぬ者は、人豪ではない。」遂に名を策し、質を委ね、誠を竭くして伏して事えた。
時に劉顕は地広く兵強く、朔方の辺境を跨ぎ有していたが、その兄弟が乖離し、互いに疑い阻むことになった。袞は太祖に言上した。「顕は志大にして意高く、非望を希冀し、参天貳地し、宇宙を籠罩する規模さえ有しております。呉が越を併せざれば、後患となるでしょう。今、その内訌に乗じ、速やかにこれを討つべきです。もし軽師を以て独り進むならば、あるいは越境して逃れる恐れがあります。使者を遣わして慕容垂に告げ、共に声援し、東西ともに挙兵すれば、勢い必ずこれを擒にできます。然る後に英雄を総括し、遠近を撫懐すれば、これは千載一時の機会で、失うべきではありません。」太祖はこれに従い、遂に劉顕を破って敗走させた。また賀訥を破るのに従い、遂に群官を命じて勿居山に登らせ、終日遊宴した。従官及び諸部の大人が石を聚めて峰とし、以て功德を記すことを請うたので、袞に命じて文を作らせた。
慕容宝が来寇した時、袞は太祖に言上した。「宝は滑台の功に乗じ、長子の捷に因り、資を傾け力を竭くして来ます。これと鋒を争うは難し。愚考しますに、宜しく羸師として甲を巻き、以てその心を侈らすべきです。」太祖はこれに従い、果たして参合陂でこれを破った。
皇始の初め、給事黄門侍郎に遷る。太祖南伐し、師は中山に次ぐ。袞、太祖に言う、「宝は三世の資を憑み、城池の固きを恃み、皇威震赫するといえども、必ずや擒殄すべき勢いなり。然れども窮兵極武は、王者の宜しくする所にあらず。昔、酈生一説して田横委質し、魯連飛書して聊将授首す。臣、誠に徳は古人に非ず、略に奇策無しと雖も、仰ぎて霊威を憑み、庶幾くは必ず感有らん」。太祖之に従う。袞、宝に書を遺し、成敗を諭す。宝、書を見て大いに懼れ、遂に和龍に奔る。既に中山を克つや、八議に入るを聴き、袞を奮武将軍・幽州刺史に拝し、爵を臨渭侯に賜う。袞は清儉にして寡欲、農桑を勧課し、百姓之に安んず。
天興の初め、徴されて京師に還る。後に崔逞と共に司馬徳宗の将郗恢に答える書、旨を失う。袞を黜して 尚書令 史と為す。袞は創業の始めに遇い、才謨有るを以て見任され、率心して上に奉じ、嫌疑を顧みず。太祖嘗て南州の人を袞に問う。袞は盧溥と州里にして、数え談じて之を薦む。又、袞は未だ嘗て崔逞と相見えずと雖も、風を聞きて称美す。中山平らぎ、盧溥党を聚めて逆を為し、崔逞の答書允ならず、並びに本言に乖くに及び、故に之を忿る。
袞、年七十を過ぎ、闔門して静を守り、手に経書を執り、乖失を刊定し、人物を愛好し、善く誘いて倦むこと無し。士類、此を以て之を高しとす。永興二年、疾篤く、疏を上りて曰く、「臣既に庸人、志に殊操無く、値う所に太祖期運を誕膺し、天地始めて開く。戎の氛霧の初めに参じ、革命の会に馳駆し、翼を鄧林に託し、鱗を溟海に寄す。遂に恩寵を荷い、栄兼ねて出内す。陛下、龍飛して九五に在り、仍参して顧問す。曾て微誠無く、塵山露海す。今、旧疾弥留し、気力虚頓す。天、罪有るを罰し、将に溝壑に填らんとす。然れども犬馬主を恋う、敢えて言を尽くさざらんや。方今、中夏平らぐと雖も、九域未だ一ならず。西に賓せざるの 羌 有り、南に命に逆うの虜有り。岷蜀は風殊なり、遼海は教異なり。天、明聖を挺て、乱を撥き時に乗ずと雖も、幾に因り会を撫するは、実に経略を須う。介焉として失い易く、功は人謀に在り。伏して願わくは叡道を恢崇し、徳心を克広くし、揖譲をして干戈と並び陳しめ、文徳をして武功と俱に運らしめば、則ち太平の化、康哉の美、今に復隆し、前世に独りならざらん。昔、子囊将に終らんとし、言を寄せて城郢せしめ、荀偃唅を辞し、遺恨を斉に在りし。臣、闇劣と雖も、敢えて前志を忘れず。魂有りて霊有らば、草を結びて泉壤せん」。後数日にして卒す。年七十二。後、世祖旧勳を追録し、大鴻臚を遣わし、即ち墓に策を贈りて 太保 と為し、諡して文康公と曰う。
長子 張温
子の温は、外都大官・広寧太守。卒す。
長子の子 張貳興
子の貳興は、昌黎太守。
三子 張楷
温の弟の楷は、州主簿。
三子の子 張誕
子の誕は、学尚有り、性は尤も雅直なり。初め高允と同時に徴され、後に 中書 侍郎・通直 散騎常侍 ・建威将軍を除く。爵を容城子に賜う。
次子 張度
袞の次子の度は、少より志尚有り、爵を襲いて臨渭侯と為る。上谷太守、入りて武昌王師と為る。 散騎常侍 を加え、使持節を除き、 都督 幽州広陽・安楽二郡諸軍事、平東将軍、崎城鎮都大将、又転じて和龍鎮都大将と為り、所在に称される。朝に還りて中都大官と為る。卒し、征東大将軍・冀州刺史を贈られ、諡して康侯と曰う。
次子の長子 張陵
子の陵は、爵を襲ぐ。後に赤城典作都将と為る。卒す。
次男の長男の子は張狀である。
子の狀は、爵を襲った。中散となった。卒した。
次男の長男の子の子は張法である。
子の法は、爵を襲った。太和年間、例により伯に降格された。世宗の時、除せられて懷荒鎮金城戍將となった。
次男の次男は張延である。
陵の弟の延は、 散騎常侍 ・左將軍・庫部尚書となった。永寧侯の爵を賜った。
次男の三男は張白澤である。
延の弟の白澤は、十一歳の時、母の憂いに遭い、喪に服して孝行で知られた。世祖はこれを聞いて嘉した。成長して学を好み広く通じ、当世に敏であった。高宗の初め、除せられて中散となり、殿中曹給事中に遷り、甚だ寵任され、機密に参与した。
後に蠕蠕が塞を犯すと、顯祖は群臣を引見してこれを議した。尚書 僕射 の元目辰が進み出て言うには、「もし車駕が親征されれば、恐らく京師は危惧するでしょう。持重して固守し自ら安んずるに如かず。虜は懸軍深入し、糧食の継運がありません。臣が量るに、自ずから退くのは久しくないでしょう。将を遣わして追撃すれば、必ずこれを破るでしょう」と。白澤は言うには、「陛下は欽明にして天に則り、前聖の跡を比べられます。しかるに蠢爾たる荒愚の輩が、軽々しく王略を犯します。寇は遠図に顛沛し、我は近毒に宴安せんとする。仰ぎ惟うに神略は、然らずと存じます。今もし鑾輿が親動されれば、賊は必ず麾を見て崩散するでしょう。どうして仰ぎ神兵を挫き、坐して敵を縱すことがありましょうか。萬乗の尊が、城に嬰って自ら守り、進んでは乗ずべき機を失い、退いては前に非ざるの義となります。惟うに陛下には留神あらんことを」と。顯祖はこれに従い、遂に虜の衆を大破した。
白澤は本字を鍾葵といったが、顯祖が名を白澤と賜い、その女を納れて嬪とした。出て雍州刺史となり、心を清くし欲を少なくし、吏民はこれを安んじた。顯祖は諸監臨の官に詔して、監治する所で羊一口・酒一斛を受ける者は、罪は大辟に至り、与える者は従坐の論に処すとした。糾告して尚書以下の罪状を得た者は、それぞれ糾った官の軽重に随ってこれを授けるとした。白澤は上表して諫めて言うには、「伏して詔書を拝見しますに、尚書以下が礼を受ける者を禁じて刑身とし、これを糾す者に代職を授けるとあります。伏して惟うに、三載の考績、幽明を黜陟するは、これ不易の令軌、百王の通式であります。今の都曹は、古の公卿であり、皆萬幾を翊扶し、百揆を讚徽し、風化はこれによって平らぎ、治道は茲より穆となります。かつ周の下士でさえ、なお代耕あり、況んや皇朝の貴仕において、服勤して報い無きは、豈に所謂堯舜を祖襲し、文武を憲章するというものでありましょうか。羊酒の罰が、もし行なわれて已まざれば、臣は奸人の闚望を恐れ、忠臣の節を懈かせんとします。しかして事を静め民を安んじ、治を清くし務を簡にせんと欲し、委任責成に至っては、下民は弁じ難いでしょう。臣の愚量する如く、律令の旧法に依り、前典に稽え同うて、祿を班し廉に酬い、まず乱羣を去り、常刑に赦無からしめられたい。苟くも能く此くの如くならば、則ち升平の軌は期月にして望むべく、刑措の風は三年にして必ず致すでしょう」と。顯祖はこれを納れた。
太和の初め、懷州の民の伊祁苟初ら三十余人が謀反し、刺史を殺さんとした。文明太后は一城の民を尽く誅さんとされた。白澤が諫めて言うには、「臣は聞く、上天は物の生を愛し、明王は民の命を重んずる。故に一人を殺して天下を取ることは、仁者は為さない。かつ周書に父子兄弟は罪相及ばずとあります。今、群凶が肆虐し、轘裂誅尽されるに、合城の無辜を、奈何ぞ極辟せんとするのですか。十室を誣うることなく、況んや一州においてをや。或いは忠なる者あり、或いは仁なる者あり、若し淫刑濫く及び、忠と仁とを殺すことは、これ乃ち西伯が九侯に歎息し、孔子が河上に輪を回した所以であります。伏して惟うに聖徳は殷鑒に昭明、前禮に水鏡し、迅烈の怒りを止め、雷霆の威を抑えられれば、則ち溥天幸いを知るでしょう。昔、厲王は民の口を防いで、卒に宗姬を滅ぼし、文王は輿頌を聴いて、終に強楚を摧きました。願わくは人を以て言を廃せず、留神して省察あらんことを」と。太后はこれに従われた。 散騎常侍 に転じ、殿中尚書に遷った。
太和五年に卒した。詔して帛一千匹・粟三千石を賜い、侍御史を遣わして喪事を營護させ、冊贈して鎮南將軍・相州刺史・廣平公とし、諡して簡といった。
次男の三男の長男は張倫である。
長子の倫は、字を天念という。十余歳の時、入って左右に侍した。稍く遷って護軍長史・員外常侍となり、転じて大司農少卿・燕州大中正となった。
熙平年間、蠕蠕の主の醜奴が使を遣わして来朝したが、敵国の書を抗し、臣としての敬を修めなかった。朝議は漢が 匈奴 に答えた故事に依って、使を遣わしてこれに報いようとした。倫が上表して言うには、
従わなかった。
後将軍・肆州刺史として出向した。朝廷に戻り、燕州大中正に任ぜられた。孝莊帝の初め、太常少卿に転じたが拝命せず、大司農卿に転じた。任官中に死去した。
次子(三男)は張恩。
張倫の弟の張恩は、奉朝請、員外郎となった。
次子(四男)は張庫。
張白澤の弟の張庫は、瀛州刺史・宜陽侯となった。
次子(四男の長男)は張蘭。
張庫の長男の張蘭は、累進して龍驤将軍となり、光州の事務を代行した。
次子(四男の次男)は張修虎。
張蘭の弟の張修虎は、都牧・駕部の二曹の給事中、上谷公、司農少卿となった。柔玄に使者として赴き、民の苦しみを視察した。平北将軍・燕州刺史に転じた。
四男は張太。
張度の弟の張太は、平西将軍・荊州刺史・俎陽侯となった。
五男は張那。
張太の弟の張那は、寧遠将軍・雍城鎮将となった。
崔玄伯(崔宏)。
崔玄伯は、清河郡東武城県の人であり、名は高祖(道武帝)の廟 諱 に触れるため、魏の 司空 崔林の六世の孫である。祖父の崔悦は石虎に仕え、 司徒 左長史・関内侯に至った。父の崔潜は慕容暐に仕え、黄門侍郎となり、ともに才学の称があった。玄伯は若くして俊才があり、冀州の神童と号された。
苻融が冀州を牧すると、虚心に礼敬し、陽平公侍郎に拝し、冀州従事を領し、征東記室を管掌した。外に出ては諸事を総べ、内に入っては賓友となり、多くの事務を整え、処断に滞りがなかった。苻堅はこれを聞いて奇とし、太子舎人に徴したが、母の病を理由に辞して就かず、著作佐郎に左遷された。苻丕が冀州を牧すると、征東功曹となった。太原の郝軒は、世に人を知る者として名高く、玄伯に王佐の才があると称え、近代に未だかつてないものとした。堅が滅ぶと、斉魯の間に避難し、丁零の翟釗および司馬昌明の叛将張願に留め捕らえられた。郝軒は嘆いて言う、「この人にしてこの時に遇い、扶揺の勢いに乗らず、鷃雀とともに飛び沈むとは、惜しむべきことではないか」。慕容垂は吏部郎・尚書左丞・高陽内史とした。歴任した所で称賛され、立身は雅正で、世と群れず、兵乱の中にあってもなお志を励まし学に篤く、資産を意とせず、妻子は飢寒を免れなかった。
太祖(道武帝)が慕容宝を征伐し、常山に駐屯した時、玄伯は郡を棄て、東に海浜へ走った。太祖は平素よりその名を聞き、騎兵を遣わして追求させ、軍門に捕らえて送らせ、引見して語らうと、これを悦び、黄門侍郎とし、張袞とともに機要を対総し、制度を草創させた。時に司馬徳宗が使を遣わして来朝したので、太祖がこれに報いようとし、詔して有司に国号を博議させた。玄伯が議して言う、「三皇五帝の立号は、あるいは生まれた土地により、あるいは封国の名による。故に虞・夏・商・周は始め皆諸侯であり、聖徳が既に隆盛となり、万国が宗戴すると、称号は本に随い、再び改めて立てない。ただ商人は屡々遷り、号を殷と改めたが、なお兼ねて行い、始めの基の称を廃さなかった。故に詩に『殷商の旅』と云い、また『 天命 玄鳥、降りて商を生み、殷土茫茫に宅す』と云う。これがその義である。昔、漢の高祖は漢王として三秦を定め、強楚を滅ぼした故、遂に漢を号とした。国家は北方の広漠の土を統べるも、陛下に至り、応運して龍飛し、旧邦とはいえ、命を受けて惟新である。これにより登国の初めに、代を改めて魏とした。また慕容永もまた魏土を奉進した。『魏』とは大名であり、神州の上国である。これこそ革命の徴験、利見の玄符である。臣愚かには魏と号すべきと考える」。太祖はこれに従った。ここにおいて四方の賓王の貢は、皆大魏と称することとなった。
太祖が 鄴 に幸すると、故事を歴問したが、玄伯の応対は流れるが如く、太祖はこれを善とした。車駕が京師に還る時、恒嶺に駐まった。太祖自ら山頂に登り、新民を撫慰したが、ちょうど玄伯が老母を扶けて嶺に登るのに遇い、太祖はこれを嘉し、牛と米を賜った。これにより詔して、徙人で自ら進めない者には車牛を与えた。吏部尚書に遷った。有司に命じて官爵を制定し、朝儀を撰し、音楽を協和し、律令を定め、科禁を申し立てさせ、玄伯が総べてこれを裁断し、永式とした。八部大夫を置いて八坐に擬すると、玄伯は三十六曹を通署し、令・僕のごとく事を統べ、深く太祖に信任された。勢いは朝廷を傾けた。しかし儉約を自らとし、産業を営まず、家は徒らに四壁あるのみ。出るに車乗なく、朝晩歩いて上る。母は七十歳で、供養に重膳なし。太祖はかつて人を密かに遣わして察させ、聞いてますますこれを重んじ、厚く饋賜を加えた。時人もまたその過約を譏る者もあったが、玄伯はますます甚だしくした。
太祖は常に引いて古今の旧事、王者の制度、治世の則を問うた。玄伯は古人の制作の体、および明君賢臣、往代の廃興の由を陳べ、上意に甚だ合った。未だかつて謇諤として旨に忤わず、また諂諛して苟くも容れられることもなかった。太祖の末年、大臣多く威怒に犯される中、玄伯のみ譴責を受けなかったのは、これによるものである。太祖はかつて玄伯を引いて漢書を講ぜしめ、婁敬が漢祖に魯元公主を以て匈奴に妻せんと説くところに至り、これを善とし、嗟歎すること久しかった。これにより諸公主は皆賓附の国に釐降し、朝臣の子弟は、名族美彦といえども尚することは得なかった。尚書の職を罷め、玄伯に爵を白馬侯と賜い、周兵将軍を加え、旧功臣の庾岳・奚斤らと同班としたが、信寵は彼らを超えた。
太祖が崩じ、太宗(明元帝)が未だ即位せず、清河王 拓跋 紹が人心の安からざるを聞き、大いに財帛を出して朝士に班賜した。玄伯のみ受けなかった。太宗が即位すると、玄伯を門下に居らせ、虚己して訪問し、紹の財帛を受けなかったことを以て、特に帛二百匹を賜った。長孫嵩以下皆愧じた。詔して使者を遣わし郡国を巡行し、守宰で法に如かざる者を糾察させ、玄伯と宜都公穆観らにこれを按じさせ、太宗はその平当を称えた。また詔して玄伯と長孫嵩らを朝堂に坐らせ、刑獄を決断させた。
太宗は郡国の豪右が大いに民の蠹となっているとして、優詔を以てこれを徴したが、民多く本郷を恋い、長吏が逼遣した。ここにおいて軽薄の少年が相い扇動し、所在で聚結した。西河・建興で盗賊並び起こり、守宰がこれを討つも禁じ得なかった。太宗は玄伯および北新侯安同・寿光侯叔孫建・元城侯元屈らを引いて問うて言う、「以前、兇侠が民を乱す故、京師に徴したが、守宰が綏撫を失い、逃竄する者を生じさせた。今犯す者既に多く、悉く誅することはできぬ。朕は大赦を以てこれを紓えんと欲するが、卿らはどう思うか」。屈が対えて言う、「民が逃げて罪とせず、かえってこれを赦すのは、下に求めるがあるかのようである。首悪を先に誅し、その党類を赦すに如かず」。玄伯が言う、「王者が天下を治めるには、民を安んずるを本とす。どうして小さな曲直を顧みられようか。譬えば琴瑟調わざれば必ず改めて更に張る。法度平らかでなければ、また須らく蕩して更に制すべきである。赦は正道ではないが、権として行うことができる。秦漢以来、相踵いで行わないことはない。屈が言う先に誅し後に赦すのは、両方を去ることができないことに会する。一行して定めるに如くはない。もし赦して改めざる者は、誅するも遅くはない」。太宗はこれに従った。
神瑞の初め、詔して玄伯と南平公長孫嵩らを止車門の右に坐らせ、万機の事を聴理させた。 并 州の胡数万家が南に河内を掠め、将軍公孫表らに師を率いて討たせたが、敗績した。太宗は群臣に問うて言う、「胡寇が暴を恣にし、人衆少なくない。表らは既に制することができぬ。早く誅さねば、良民大いにその禍を受ける。今既に盛秋であり、この小盗のために再び衆を興して民業を廃すことはできない。どうしたらよいか」。玄伯が対えて言う、「表ら諸軍は不足ではないが、処分を失った故、小盗に仮息させたのである。胡衆は盛んといえども、猛健な主将がなく、いわゆる千奴一胆である。胡に服信される大将軍を得て、数百騎を将い、表の軍を就いて摂め討たせるべきである。賊これを聞けば、必ず風を望んで震怖するであろう。寿光侯叔孫建は以前 并 州におり、威猛と号され、胡醜畏服し、諸将及ぶ者なし」。太宗はこれに従い、遂に胡寇を平定した。まもなく天部大人に拝し、爵を公に進めた。
泰常三年夏、玄伯が病篤くなると、太宗は 侍中 宜都公穆観を遣わして就き遺言を受けさせ、更に侍臣を遣わして病を問わせ、一夜に数度返らせた。卒すると、詔を下して痛惜し、 司空 を贈り、諡して文貞公とした。喪礼は一切安城王叔孫俊の故事に依った。詔して群臣および附国の渠帥を皆会葬させ、親王以外は、尽く拝送せしめた。太和の中、高祖(孝文帝)が先朝の功臣を追録し、玄伯を以て廟庭に配饗した。
玄伯は朝廷の文誥や四方の書檄でなければ、初めから筆を染めなかったので、世に遺文はない。特に草隸行押の書に優れ、世の模範とされた。玄伯の祖父崔悅は范陽の盧諶と共に博藝で著名であった。盧諶は鍾繇の法を、崔悅は 衞 瓘の法を学び、ともに索靖の草書を習い、皆その妙を極めた。盧諶は子の盧偃に伝え、盧偃は子の盧邈に伝えた。崔悅は子の崔潛に伝え、崔潛は玄伯に伝えた。代々その業を絶やさなかった。故に魏の初めは崔氏と盧氏の書を重んじた。また玄伯の行押は特に精巧を極めたが、遺迹は見られない。子の崔浩は爵を襲ぎ、別に伝がある。
次子は崔簡である。
次子の崔簡は、字を沖亮といい、一名は覽である。学問を好み、若くして書に巧みで知られた。太祖の初年、中書侍郎・征虜将軍を歴任し、爵は五等侯となり、著作事に参与した。卒去した。
三子は崔恬である。
崔簡の弟の崔恬は、字を叔玄といい、小名は白である。給事中を歴任し、爵を繹幕子に賜った。出て上党太守・平南将軍・ 豫 州刺史となった。爵を進めて陽武侯となった。崔浩の罪に連坐して誅殺された。
初め玄伯は苻堅の乱に際し、江南に避地しようとしたが、泰山で張願に捕らえられ、本来の図らず、詩を作って自らを傷んだが、当時は世に行わず、恐らく罪を恐れたためであろう。崔浩が誅殺された時、中書侍郎高允が勅命を受けて崔浩の家を収め、初めてこの詩を見た。高允はその意を知り、高允の孫の高綽が高允の集に録した。初め玄伯の父崔潛が兄の崔渾のために誄の手筆草本を作ったが、延昌の初め、著作佐郎王遵業が市で書を買い求め、偶然これを得た。誄を作ってから今日まで、ほぼ二百年になるが、その書迹を宝とし、深く蔵して秘した。武定年間、王遵業の子の王松年がこれを黄門郎崔季舒に贈ると、多くの人が模写した。左光禄大夫姚元標は当時書に巧みで知られていたが、崔潛の書を見て、己よりも優れていると言った。
弟は崔徽である。
玄伯の弟の崔徽は、字を玄猷という。若くして文才があり、勃海の高演と共に知名であった。初め相州別駕・中書侍郎に徴され、次第に秘書監に昇進し、爵を貝丘侯に賜り、龍驤将軍を加えられた。楽安王拓跋範が長安を鎮守した時、世祖は拓跋範が年少であり、三秦の民夷が険阻を恃んで変が多いことを考慮し、忠清で旧徳のある士を選んで拓跋範と共に鎮守させた。崔徽を 散騎常侍 ・雍涇梁秦四州諸軍事 都督 ・平西将軍・副将とし、楽安王傅を代行させ、爵を進めて済南公とした。崔徽は政務において大綱を重んじ、小事には親しまなかった。性来、人倫を好み、賓客を引き接しては、平生を語り、あるいは道義を講論し、後進を誨誘して、終日やまなかった。病気のため京師に召還された。真君四年に卒去し、諡を元公という。士類は皆歎惜した。
宗族に崔寬がいる。
時に清河の崔寬は、字を景仁という。祖父の崔彤は、晋の南陽王司馬保に従って隴右に避地し、遂に沮渠氏や李暠に仕えた。父の崔剖は、字を伯宗といい、常に慷慨して東土を懐かしみ、しばしば歎じて言った、「風雨晦冥の時、鶏鳴やまず、我が庶幾いずくにかあらん」。世祖が西巡した時、崔剖は同義の者を総率し、崔寬をして帰順の意を伝えさせた。世祖はこれを嘉し、崔寬を威遠将軍・岐陽令に任じ、爵を沂水男に賜った。使者を崔寬と共に西に向かわせ、初めて帰附した者を撫慰させた。崔剖を京師に徴したが、到着せずに病没した。高宗は崔剖の誠意が先朝に顕著であったとして、 散騎常侍 ・鎮西将軍・涼州刺史・武陵公を追贈し、諡を元といった。
崔寬は京に戻り、散騎侍郎・寧朔将軍・安国子に任じられた。間もなく出て弘農太守となった。初め、崔寬が帰順した時、 司徒 崔浩に面会した。崔浩は彼と年齢順に席次を定め、厚く慰撫した。崔浩が誅殺された時、遠来の疎族であったため、ただ一人連坐を免れた。遂に武城に家を構え、 司空 林の旧墟に住み、一子を崔浩の弟崔覧の妻封氏の後継ぎとし、親のように仕えさせた。崔寬は後に爵の武陵公・鎮西将軍を襲い、陝城鎮将に任じられた。二崤の地は険阻で、民は多く寇盗を働いた。崔寬は性来滑稽で、豪族や宿盗の首領を誘い接し、彼らと交結し、襟を傾けて待遇し、些細なことにも逆らわなかった。それ故に民衆の歓心を得て、その意気に感じない者はなかった。当時、官には禄力がなく、ただ民から取って給していた。崔寬は撫納に巧みで、礼遺を招致し、多くを受け取ったが、与える者に恨みはなかった。また弘農は漆・蠟・竹・木が豊富で、南への通路もあり、販貿が往来した。家産は豊かになり、百姓もこれを喜んだ。諸鎮の中で、能政と称された。鎮を解かれて京に戻る時、民は多く追慕し、闕に上章した者が三百余人もいた。上奏文が奏上されると、高祖はこれを嘉した。延興二年に卒去し、六十三歳であった。遺命は薄葬で、時服で斂めた。
崔寬の長子は崔衡である。
長子の崔衡は、字を伯玉といい、若くして孝行で著名であった。崔浩の書を学び、よく似ていた。天安元年、内秘書中散に抜擢され、詔命の下達や御覧の書の多くは彼の筆跡であった。崔衡は李沖・李元愷・程駿らを推挙し、彼らは終に名器となり、世はこれをもって崔衡を称えた。承明元年、内都坐令に転じ、獄事の裁断に巧みで、高祖に嘉された。太和二年、爵の武陵公・鎮西将軍を襲い、給事中に転じた。車駕が巡狩する時、崔衡を大 都督 長史とした。崔衡は書史に渉猟し、防備の方法や便国利民の策、凡そ五十余条を上陳した。本将軍のまま泰州刺史に任じられ、爵を斉郡公に移封された。先に、河東は凶作が続き、劫盗が大いに起こったが、崔衡が着任すると、龔遂の法を修め、農桑を勧課し、一年の間に寇盗は止息した。十二年に卒去し、五十四歳であった。 散騎常侍 ・左光禄大夫・本将軍・冀州刺史を追贈し、帛一千匹・穀一千斛を賜り、諡を恵公といった。崔衡には五子があった。
崔寬の長子の長子は崔敞である。
長子の崔敞は、字を公世といい、爵を襲い、例により侯に降格された。謁者僕射から出て平原相となった。崔敞は性来狷急で、刺史の楊椿と互いに上表して非難し合い、崔敞は免官に処された。世宗の初年、鉅鹿太守となった。弟の崔朏が叛逆した時、崔敞は黄木軍主の韓文殊に匿われた。その家は全て籍没されたが、ただ崔敞の妻李氏だけは、公主の甥であったため、従っていた奴婢と田宅二百余口が免れた。正光年間、禁錮が広く解除されると、崔敞は再び斉郡侯の爵位を回復し、龍驤将軍・中散大夫に任じられた。孝昌年間、趙郡太守となった。卒去した。
崔寛の長子の次子は崔鍾である。
敞の弟の鍾は、字を公祿といい、奉朝請を務めた。弟の朏が謀反を起こした際、出後(他家へ養子に出ていた)であったため罪を赦された。尚書郎・国子博士・ 司徒 右長史・征北将軍・金紫光禄大夫・冀州大中正を歴任した。敞が亡くなった後、鍾はその財物を貪り、敞の実子の積ら三人を誣告し、兄の胤ではないと訴え、数年にもわたって訴訟を起こしたため、人士はこれを憎んだ。尒朱世隆が 尚書令 となった時、その官を除くことを上奏し、終身にわたり登用されなかった。
崔寛の長子の三子は崔朏である。
朏は学問を好み、文才があった。治書侍御史・京兆王愉の録事参軍を歴任した。愉とともに謀反を起こし、処刑された。
崔寛の次子は崔恕である。
衡の弟の恕は、尚書郎を務めた。
宗族として崔模がいる。
また崔模という者がいた。字は思範といい、魏の中尉崔琰の兄である崔霸の子孫である。父の遵は、慕容垂の少府卿であった。叔父の整は、広川太守であった。模は、慕容熙の末年に南へ渡って河外に至り、劉裕の 滎陽 太守となり、虎牢を守備した。神䴥年間に、滑臺が平定されると、模は帰順した。後に武陵男の爵位を賜り、寧遠将軍を加えられた。
初め模が南朝にいた時、妻の張氏がおり、二人の子、沖智と季柔がいた。模が京師に至ると、妻として金氏を賜り、子の幼度を生んだ。沖智らは父が遠く隔てられているのを思い、財貨を集め、密かに国境を託けて、模を贖い帰らせようと図った。その母の張氏は常に彼らに言った。「汝の父の性質は思いやり深く、もともと決断力に乏しい。必ずや来ることはできまい。」使者は遂に財賄を携えて都に至り、密かに模を連れ戻そうとした。模は果たして幼度らのことを顧み、幼度を指して使者に言った。「どうしてこの者らを捨てて、刑罰や辱めに遭わせることができようか。お前たちのために一人を連れて行かせよう。その名位は私に劣らぬ者だ。」そこで申謨を授けた。謨は、劉義隆の東郡太守で、朱脩之とともに滑臺を守っていたが、神䴥年間に捕らえられて北朝に入り、共に妻を賜り、子の霊度を生んでいた。申謨はこのことを聞くと、妻子を棄てて逃走し、江外に帰った。霊度は刑罰を受けて宦官とされた。
模は長者で篤実敦厚であり、栄利を営まず、崔浩からはかなり軽侮されたが、志を守って確然としており、浩に屈しなかった。崔賾と親しくし、往来は家のようであった。和平年間に卒去した。
皇興の初め、幼度は慕容白曜に従って将軍となった。時に季柔は崔道固の長史となり、済南太守を兼ねていた。城が降伏しようとする時、先に馬を馳せて白曜の軍に赴いたが、幼度もまたあらかじめ左右に迎えを探らせていた。しかし互いにすれ違い、会うことができず、幼度は乱兵に害された。
初め、真君の末年、車駕が南征して鄒山を攻克した時、模の兄の協の子である邪利が、劉義隆の魯郡太守としており、郡を挙げて降伏した。臨淄子の爵位を賜り、広寧太守に任じられ、郡において卒去した。邪利には二人の子があった。懐順は父が北朝に入ったため、仕官しなかった。国家が青州を攻克すると、懐順は邪利の喪を迎え、青州に還葬した。次子の恩は、累ねて州の主簿となり、刺史の陸龍成の時に至り謀反を企て、城北の高柳村に集結し、州城を攻めようとしたが、龍成に討たれて斬られた。懐順は沖智の子の徽伯らとともに江外へ奔った。
初め邪利は二人の娘とともに北朝に入った。一人の娘は張氏の妻となり、もう一人の娘は劉休賓の妻となり、子の文華を生んだ。邪利は後に庶子の法始を生んだ。邪利が亡くなった後、二人の娘は法始が庶子であることを侮り、常に文華に外祖父の爵位である臨淄子を継がせようとした。法始は恨み憤り、あらゆることを行った。後に懐順が帰化して喪を迎え、初めて法始と相見えた。間もなく、法始は爵位を継ぐことを得て、孫の延族に伝わり、正光年間に冠軍将軍・中散大夫となった。
崔模の次子の子の子は崔睦である。
季柔の孫の睦は、正光三年に、郁州より帰順した。
崔模の子の子の子、崔景茂。
崔模の孫の景茂は、冀州別駕・青州長史・隨郡太守・武城男となった。
崔模の子の子の子の子、崔彥遠。
景茂の子の彥遠は、爵位を襲い、武定年間に北徐州司馬となった。
始睦が降伏して来た時、高陵の張炅・郭縕と共に至った。張陵は、蕭寶夤が西征した際に開府西閣祭酒となり、宝夤が反乱すると、その黄門侍郎となった。関中平定後、洛陽に帰還し、尚書郎・定州別駕を歴任した。斉の文襄王が宰相となると、張陵は頗る文学があったので、賓客として招かれた。征南将軍・ 司空 長史の任で没し、驃騎大将軍・大司農卿を追贈された。
宗族、崔道固。
顕祖の時、崔道固という者がいた。字は季堅、崔琰の八世の孫である。祖父の瓊は、慕容垂の車騎属であった。父の輯は、南に移って青州に至り、泰山太守となった。道固は庶子であったため、嫡母の兄の攸之・目連らに軽侮された。輯は攸之に言った、「この児の姿と識見はこのようである。あるいは家門を興すことができるかもしれぬ。汝らはどうして軽んずるのか」と。攸之らは彼をますます薄遇し、兄弟の礼を全く尽くさなかった。
当時、劉義隆の子の駿が徐兗二州刺史となっており、他州の民を辟召して従事とすることができた。輯は道固に資金を与え、南に仕官させた。彭城に到着すると、駿は彼を従事とした。道固は容貌が美しく、挙措が優れ、弓馬に巧みで、武事を好んだので、駿は次第に彼を嘉した。ちょうど青州刺史が新任され、彭城を通り過ぎた時、駿は刺史に言った、「崔道固の人物はこのようである。どうして寒士のままで老いることができようか。世の人は彼が庶子であるため、便りに陵侮する。嘆かわしいことである」と。青州刺史は州に着くと、彼を主簿に辟召し、後に治中に転じた。後に義隆の諸子の参軍事となり、青州に派遣されて人を募った。長史以下は皆道固を訪れたが、道固の諸兄らは道固の実母に迫り、自ら客の前で酒食を運ばせた。道固は驚いて立ち上がり受け取ると、客に言った、「家に人手がなく、老いた母自らが労苦を執っている」と。諸客は皆、これが兄弟の仕業であると知り、皆立ち上がってその母に拝謝した。母は道固に言った、「私は賤しい身で貴賓に報いるに足りない。汝が答拝すべきである」と。諸客は皆道固母子を嘆美し、その諸兄を軽蔑した。
後に寧朔将軍・冀州刺史となり、鎮所を歴城に移した。劉彧が子業を殺して自立すると、徐州刺史薛安都と道固らは兵を挙げて子業の弟の子勛を推戴した。子勛が敗れると、表を遣わして帰順を申し出たので、顕祖は彼を安南将軍・南冀州刺史・清河公とした。劉彧は使者を遣わして道固を説得し、前将軍・徐州刺史とした。道固は再び叛いて彧の命を受けた。
皇興初年、顕祖は征南大将軍慕容白曜に詔して長囲を築いて守らせた。白曜が城の東郭を攻撃すると、道固は面縛して罪を請い、上表して言った、「臣は南境に生まれ育ち、大化(北魏の教化)と隔たっておりました。本朝(宋)は臣を卑末とせず、藩任を委ねられました。しかし劉氏に蕭牆の内訌があり、大戮を招くことを恐れ、以前に崔啓之を遣わして表を奉り帰順を申し上げました。幸い陛下が過分に哀れみ受け入れられ、爵位と寵愛を賜り、慶びは極まりなく、朝廷に馳せ参ずべきでありました。しかし劉彧が直ちに使者を続けて遣わし、臣の百死を赦しました。愚かにも、代々劉氏に仕えてきたことを思い、深く罪を赦されたのに、もしなお背くならば、それは本朝に不忠でありながら、大魏に忠を求めようとするものです。生き延びたいとは言え、大魏が許されないことを恐れました。このため迷い、天子の恩に背き、万死の艱難を冒して、固く拒んで守りました。僕臣の白曜が威霊を振るい、二年を経て、大将が城に臨み、今月十四日、臣の東郭が陥落し、臣の劉彧に対する誠意は、大魏において明らかになったことでしょう。臣は勢い尽き力屈し、十七日に面縛して罪を請いました。白曜は皇恩を宣べ、臣の生命を赦されました。これはまさに陛下が臣の死屍を起こし、朽ちた骨に肉を与えられたことであり、天地の造物主でさえ行えないことを、陛下は育ててくださったのです。虞舜が有苗を赦し、周の文王が崇侯を赦したことと比べても、聖なる恩沢には及びません。まだ朝廷のご旨を奉じておらず、自ら道路を馳せ参ずる由もありません。謹んで長子の景徽を遣わし、骸を束ねて宮闕に帰し、刑罰をお受けするのを伏して待ちます」と。
やがて白曜は道固を都に送った。有司が取り調べて弾劾し、上奏すると、詔してその死を赦した。そこで青斉の士望で道固と共に城を守った数百家を桑乾に移し、 平城 の西北、北新城に平斉郡を立てた。道固を太守とし、臨淄子の爵位を賜い、寧朔将軍を加えた。まもなく郡治を京城の西南二百余里、旧陰館の西に移した。この時、連年凶作が続き、郡内は飢え疲弊した。道固は在任多年であったが、撫慰が行き届かず、そのため怨み叛く者が多かった。延興年間に卒し、五十歳であった。
初め、道固が客邸にいた時、薛安都・畢衆敬と隣り合う館舎に住み、時に朝集で互いに会った。元々共に武勲で出世したので、旧僚として親しく交わった。当時、安都は志すところは既に衰え、道固への情は疎遠であったが、衆敬は常に殷勤を尽くした。道固は劉休賓・房法壽に言った、「古人が『我が族類でなければ、その心は必ず異なる』と言ったが、確かに虚言ではない。安都は人を見るに甚だ冷淡であるが、畢捺(衆敬)はやはり懐かしむ思いがある」と。
崔道固の長子、崔景徽。
子の景徽は、字を文叡といい、父の爵位臨淄子を襲ぎ、寧朔将軍を加えられた。出て青州の広陵王元羽の征東府司馬・大鴻臚少卿となった。出て龍驤将軍・平州刺史に任ぜられた。卒すると、本官の将軍・南青州刺史を追贈され、諡を定といった。子の休纂が爵位を襲いだ。
崔道固の次子、崔景業。
景徽の弟景業、字は文季。別に功績があり、太和年間に昌國子の爵位を賜り、建威將軍を加えられた。没す。子の休緒が爵位を襲い、員外郎となった。
崔道固の三子、崔景淵。
景業の弟景淵もまた別に功績があり、武城男の爵位を賜った。鷹揚將軍・平齊太守。郡において没した。
崔道固の従長子、崔僧祐。
道固の兄目連の子僧祐。白曜が歴城を包囲したとき、僧祐の母明氏と弟僧淵はともに城内にいた。劉彧は僧祐に輔國將軍を授け、数千の兵を率いさせ、青州・齊州の家眷が歴城・梁鄒にある者である明同慶・明菩薩らを将佐として、淮海から救援の声を揚げて進軍させた。不其に至らんとしたとき、道固がすでに敗れ、母と弟が魏に入ったと聞き、徘徊して進まなかった。白曜が東陽を包囲したとき、上表して景徽を遣わし僧祐を諭させたところ、ついに帰降した。白曜は彼を送り、客として数年を過ごし、層城侯の爵位を賜った。房法壽・畢薩ら諸人とは皆和合しなかった。法壽らは彼が帰国に誠意がないと訴え、一年余り拘束したが、赦令によって釈放された。後に沙門法秀の謀反に連座し、刑に伏した。
崔道固の従長子の子、崔道寧。
子の道寧、給事中。
崔道固の従次子、崔僧淵。
僧淵は魏に入り、兄弟に連座して薄骨律鎮に移されたが、太和初年に帰還を得た。高祖は彼に文学があると聞き、また仏経について問い、談論を善くするので、詔して白衣の身で褠幘を賜い、永楽経武殿に入って聴講させた。後に僧淵を尚書儀曹郎とした。洛陽遷都の後、青州中正となった。まもなく出て征東大将軍・広陵王元羽の諮議参軍となり、顕武將軍を加えられ、黄郭において海賊を討ち、これを大破した。蕭鸞はその族兄の恵景を遣わして僧淵に書を送り、魏に入った屈辱を説き、図りを改めるよう勧めた。僧淵は返書して言うには:
龍驤將軍・南青州刺史として出された。久しくして、根拠なく師を出した罪に坐し、取り調べられ幽閉されたが、後にようやく免ぜられた。
僧淵の元妻房氏は二子、伯驎・伯驥を生んだ。後に房氏を疎んじ、さらに平原の杜氏を娶った。僧淵が移されたとき、杜氏とともに去り、四子、伯鳳・祖龍・祖螭・祖虬を生んだ。帰還を得た後、房氏を棄て絶ち、ついに杜氏および四子とともに青州に家を構えた。伯驥は母房氏とともに冀州に住み、父のもとへ往来はしたが、心は母方にあり、孝慈の道は、たちまち一門に阻まれた。僧淵は没し、年七十余り。伯驎は駆けつけたが、家に入ることを敢えず、沙門寺で哭した。
崔道固の従次子の長子、崔伯驎。
伯驎は、奉朝請より始まり、次第に昇進して歩兵 校尉 ・楽陵太守となり、中堅將軍を加えられた。後に冀州長史を兼ねた。大乗の賊が起こると、伯驎は州軍を率いて煮棗城においてこれを討ち、賊のために殺された。龍驤將軍・洛州刺史を追贈された。
崔道固の従次子の次子、崔伯驎。
伯驎は、京兆王元愉の法曹参軍となった。元愉が反乱すると、伯驎は従わず、害された。詔して東海太守を追贈された。
崔道固の従次子の三子、崔伯鳳。
伯鳳は、幼少より弓馬に親しみ、壮年には勇猛で膂力があった。奉朝請・員外郎を経て、次第に鎮遠将軍・前将軍に昇進し、数度将帥を務めた。永安の末、 都督 の源子恭とともに丹谷を守り、戦死した。
崔道固の従次子の四子、崔祖龍。
祖龍は、 司空 行参軍であった。性質は剛直で躁急、父の死後、兄の伯驎と嫡庶を争って訴訟し、互いに刀剣で身を守り、まるで仇敵のようであった。
崔道固の従次子の五子、崔祖螭。
祖螭は、小字を社客といい、粗暴で武勇があり気力があった。刺史の元羅が板授により兼統軍とし、兵を率いて海賊を討伐させた。普泰の初め、張僧皓とともに反乱を起こし、青州を包囲した。尒朱仲遠が将を派遣してこれを討ち平らげ、その首を京師に伝送した。
崔道固の従次子の六子、崔祖虬。
祖虬は、若くして学問を好み、帷を下ろして書を誦し、当世の駆け競いには加わらなかった。秀才に推挙されたが就任しなかった。
崔僧淵の従弟、崔和。
僧淵の従弟の和は、平昌太守であった。家は巨富であったが、性質は吝嗇で、銭を数百斛も埋めていた。その母の李が春に堇を欲しがったが、惜しんで買わなかった。
崔僧淵の従弟の子、崔軌。
子の軌は、字を啓則といい、銭百万を盗み、和のもとを背いて逃亡した。後に儀同開府鎧曹参軍となり、貪汙の罪に坐し、 晋陽 で死んだ。
董謐。
玄伯の同郡の董謐。謐の父の京は、同郡の崔康時・広陽の霍原らとともに、碩学をもって遼海に名声を広めた。謐は学問を好み、父の業を伝えた。中山が平定されると、朝廷に入り、儀曹郎に任じられ、朝覲・饗宴・郊廟・ 社稷 の儀礼を撰述した。
鄧淵。
鄧淵、字は彦海、安定の人である。祖父の羌は、苻堅の車騎将軍であった。父の翼は、河間の相であった。慕容垂が鄴を包囲したとき、翼を後将軍・冀州刺史・真定侯に任じようとした。翼は使者に対し涙ながらに言った。「先君は秦室に忠誠を尽くしました。翼がどうして先に叛くことができましょうか。忠臣は二君に仕えず、これは古来からの通義であり、命に従うことはできません。」垂は使者を遣わして諭して言った。「我は車騎将軍(鄧羌)と異姓の兄弟の契りを結んだ。卿もまた我が子弟のようなものだ。どうして辞退できようか。」翼は言った。「冀州は親族か賢者を任ずべきです。翼は他の役目で命を尽くさせてください。」垂はそこで建武将軍・河間太守・尚書左丞に任用し、いずれも名声があった。趙郡内史の任で没した。
淵は性質が貞実で素朴であり、言行は信頼に足り、経書を広く読み、易の占いに長じていた。太祖が 中原 を平定すると、著作郎に抜擢された。出向して蒲丘県令となり、姦猾の徒を誅伐し、盗賊を粛清した。内遷して尚書吏部郎となった。淵は制度に明るく、旧事を多く識っており、尚書の崔玄伯とともに朝儀・律令・音楽を参定し、軍国文記や詔策の多くは淵の手によるものであった。平陽征討に従軍し、功により爵位を漢昌子に賜り、後に下博子に改め、中壘将軍を加えられた。太祖は淵に詔して国記を撰述させた。淵は十余巻を作成したが、ただ年月と起居行事を記すのみで、まだ体例がなかった。淵は朝事に謹んで、一度も旨に逆らうことはなかった。
その従父弟の暉は尚書郎であったが、凶暴で任侠を好み、定陵侯の和跋と親しくしていた。跋が罪を得て誅されると、その子弟は長安に奔った。ある者が暉が彼らを送り出そうとしていると告げた。これにより太祖は淵が事情を知っているのではないかと疑い、ついに淵に死を賜ったが、後にこれを悔いた。当時の人々は皆、淵を哀れみ惜しんだ。
長子は鄧潁である。
子の潁は爵位を襲った。太学生となり、やがて中書侍郎に昇進した。世祖は太常の崔浩に詔して諸文学を集め、国書を撰述させた。潁は浩の弟の覧らとともに著作の事に参与した。皇帝が漠南に行幸したとき、 高車 の莫弗(部族長)の庫若干が数万騎を率い、百余万頭の鹿を駆って行在所に詣でた。詔により潁が文章を作り、漠南に銘を刻んで、その功德を記念した。 散騎常侍 を兼ね、劉義隆(宋の文帝)のもとに使節として赴いた。爵位を侯に進め、龍驤将軍を加えられた。延和三年、胡賊の白龍征討に従軍した。帰還の途上で没した。諡して文恭といった。
長子は鄧怡である。
子の怡は爵位を襲った。官は荊州刺史・仮の寧南将軍に至った。爵位を南陽公に賜った。和平年間に没した。
長子は鄧良奴である。
長子の良奴は爵位を襲った。良奴の弟は高祖に仕え、名を述と賜った。吏職を歴任し、貞実で謹直であると称された。中大夫に昇進し、廷尉少卿を守った。出向して建忠将軍・斉州刺史となった。初めて百官を改置したとき、公府の元佐(上佐官)を重んじ始めた。時に 太傅 の元丕が出向して 并 州刺史となると、述を太傅長史とし、太原太守を帯びさせた。まもなく 司空 長史に召され、官のまま没した。詔により銭十万・布五十匹を賜り、諡して貞といった。
長子は鄧纂である。
長子の纂は奉朝請となり、累進して中散大夫に至った。
次子は鄧献である。
纂の弟の献は、奉朝請・ 司空 西閤祭酒・員外常侍・河陰県令となった。まもなく鎮遠将軍・諫議大夫に昇進した。粛宗(孝明帝)の末、冠軍将軍・潁州刺史に任じられた。建義初年、尒朱栄が洛陽に入り、朝士が害されたと聞くと、蕭衍のもとに奔った。
次子は鄧宗慶である。
怡の弟の宗慶は、中書学生として出仕し、内遷して中散となった。やがて尚書に昇進し、 散騎常侍 を加えられ、爵位を定安侯に賜った。典南部に転じた。宗慶は南部に長年在任し、多くの上奏を行い、州鎮の者たちは彼を畏れ、称職と号された。爵位を南陽公に進め、安南将軍・涇州刺史に任じられ、後に趙郡公に移封された。宗慶は州にあって、民に訴訟された。取り調べて実情を得たが、上下の関係は大いにうまくいかなかった。徐州刺史に転じ、将軍号はもとのままとした。間もなく、妻の韓が巫蠱を行った罪に連座して誅殺された。
長子の次子の子は鄧伯忻である。
宗慶の子伯忻は、父とともに死す。
長子の次子の子の子は鄧儼である。
伯忻の子儼は、逃れて越地に至り、難を免れる。後に尚書郎を歴任し、常山太守に任ぜられ、安南将軍・光禄大夫・持節・兼尚書左丞・郢州行臺に転じ、さらに撫軍将軍を加えられる。卒し、鎮南将軍・荊州刺史を追贈される。
次子は鄧権である。
穎の弟権は、世祖に従い征伐し、官は龍驤将軍・ 豫 州刺史に至り、新野侯の爵を賜う。蠕蠕征伐に従い、法に坐して死す。
三子は鄧顥である。
弟顥は、中書侍郎の任にて卒す。
三子の長子は鄧霊珍である。
顥の長子霊珍は、中書学生・秘書中散となる。卒し、員外 散騎常侍 を追贈される。
三子の長子の子は鄧羨である。
子羨は、中書学生・侍御史を歴任し、明察謹直をもって知られる。出でて斉州武昌王征虜長史となる。後に李元護が斉州となると、引き続き長史となり、東魏郡太守を帯びる。治所に十年在り、三刺史を経て、清廉勤勉をもって称される。斉の人はその恩徳を懐き、良二千石と号す。交代して帰還する際、民や旧知から多くの贈り物を受け、これにより評判をやや損なう。中山王英が義陽を攻めると、羨は軍司となる。罷免後、諫議大夫に任ぜられ、兼給事黄門侍郎となり、侍中游肇の副使として畿内大使を務める。後に録尚書・北海王詳に賄賂を行い、大司農少卿に転じる。荊州の事務を行い、征虜将軍・郢州刺史に転じ、義陽を鎮守する。州にあっては聚斂に鋭意であった。また于忠に賄賂を納め、給事黄門侍郎に徴される。まもなく後将軍・河南尹を加えられ、黄門侍郎はもとのまま。拝命せず、霊太后が臨朝すると、元昭を河南尹とし、羨は依然として黄門侍郎のままで平南将軍を加えられる。羨は義陽軍司としての功績により、安陽県開国子に封ぜられ、邑三百戸を賜う。羨は左右に曲げて附いたため、封を得たのである。時に幽・瀛・滄・冀の諸州に大水があり、頻りに寇難を経て、民は飢えた。詔により羨は尚書を兼ね、仮の 散騎常侍 を授かり、節を持って諸州に詣で、状況に応じて賑恤し、多くを救済した。神龜初年、疽を発して卒す。享年五十四。詔により帛三百匹・朝服一襲を賻し、鎮東将軍・青州刺史を追贈し、諡して恭という。
三子の長子の子の子は鄧躋である。
長子躋は、字を伯昇といい、大いに志操があった。秘書郎となる。朝議は、羨が本来山河の賞(世襲封爵)に合わないとして、躋の襲封を許さなかった。躋は長く訴訟し、ようやく封を継ぐことを聴される。やがて前将軍・太中大夫・梁州開府長史に遷る。刺史元羅とともに蕭衍に陥落し、江南にて卒す。
三子の長子の子の子の子は鄧孝緒である。
子の孝緒は、元象年間(538–539)に、柩を携えて国に帰還した。興和年間(539–542)に、爵位を襲封した。北斉が禅譲を受けると、例により爵位を降格された。
三男の次子は鄧霊奇である。
霊珍の弟の霊奇は、立忠将軍・済州刺史となった。進んで冠軍将軍の号を加えられ、昌国侯の爵位を賜った。政治は清廉簡素で、威厳と恩恵があった。
三男の次子の子は鄧恭伯である。
子の恭伯は、右光禄大夫となった。
史評
史臣が曰く、国を治めて民を統べるには、文武の道を兼ねて運用しないものはない。燕鳳は博識多聞をもって、昭成帝に礼遇され、隣国と和し国を存続させた。賢者の効果であろうか。許謙は才術ともに優れ、艱難の時に奔走し、機微を観て独り勧め、事は冥々の符契に合った。張袞は才策をもって知られ、早くから恩遇を受け、時に寛政がなく、その言葉が咎を招いた。玄伯(崔宏)は家柄が傑出して偉大で、なお権輿(創業の始め)に属し、機要を総べ重任を担い、正道を守って事を成し、礼は清廟(宗廟)に従った。これもまた宜しいことではなかったか。寛(崔寛)と模(崔模)はともに機を見て動くことができ、道が窮まった時に身を委ねた。鄧淵は貞白で事を 幹 め、才業をもって筆を執った。禍はその罪によるものではなく、悲しいことである。
校勘記