魏書

卷24 燕鳳 許謙 張衮 崔玄伯 鄧淵

卷24 燕鳳 許謙 張衮 崔玄伯 鄧淵

燕鳳

原文燕鳳

燕鳳、字は子章、代の人である。学問を好み、経書や史書を広く総合し、陰陽や讖緯の学に明るく習熟していた。昭成帝はかねてよりその名を聞き、人を遣わして礼を尽くして迎え招いた。鳳は招聘に応じなかった。そこで諸軍に命じて代城を包囲させ、城中の者に告げて言うには、「燕鳳が来なければ、お前たちを皆殺しにする」と。代の人々は恐れ、鳳を送り出した。昭成帝は彼と語り合い、大いに喜び、賓客の礼をもって遇した。後に代王の左長史に任じられ、国事の参決に与った。また経書を献明帝に授けた。

原文燕鳳,字子章,代人也。好學,博綜經史,明習陰陽讖緯。昭成素聞其名,使人以禮迎致之。鳳不應聘。乃命諸軍圍代城,謂城人曰:「燕鳳不來,吾將屠汝。」代人懼,送鳳。昭成與語,大悅,待以賓禮。後拜代王左長史,參決國事。又以經授獻明帝。

苻堅が使者の牛恬を遣わして朝貢させた。鳳に命じてこれに報いさせた。堅が鳳に問う、「代王はどのような人物か」。鳳が答えて言うには、「寛容で温和、仁愛に満ち、経略は高遠であり、一世の雄主で、常に天下を併呑しようとする志を持っている」と。堅が言う、「卿たち北人は、鋼の鎧や鋭利な武器がなく、敵が弱ければ進み、強ければすぐに退き逃げる。どうして併呑できようか」。鳳が言う、「北人は壮健で勇猛、馬に乗れば三種の武器を持ち、駆け巡ること飛ぶが如しである。主上は雄大で優れ、北方の地を率いて服従させ、弓を引く者は百万、号令は一つである。軍には輜重や薪を集め炊事する苦労がなく、軽装で迅速に行動し、敵に因って資材を取る。これが南方の疲弊する所以であり、北方の常に勝つ所以である」。堅が言う、「その国の人馬は、実際どれほどいるのか」。鳳が言う、「弓を引く士は数十万、馬は百万匹である」。堅が言う、「卿が言う人の多さはともかく、馬が多すぎると言うのは、虚言であろう」。鳳が言う、「雲中川は東の山から西の河まで二百里、北の山から南の山まで百余里あり、毎年孟秋になると、馬が常に大いに集まり、ほぼ川を満たすほどである。これによって推し量れば、私の言葉でさえ、まだ尽くしていないであろう」。鳳が帰還すると、堅は厚く贈り物を加えた。

原文苻堅遣使牛恬朝貢。令鳳報之。堅問鳳:「代王何如人?」鳳對曰:「寬和仁愛,經略高遠,一時之雄主,常有并吞天下之志。」堅曰:「卿輩北人,無鋼甲利器,敵弱則進,強即退走,安能并兼?」鳳曰:「北人壯悍,上馬持三仗,驅馳若飛。主上雄雋,率服北土,控弦百萬,號令若一。軍無輜重樵爨之苦,輕行速捷,因敵取資。此南方所以疲弊,而北方之所常勝也。」堅曰:「彼國人馬,實為多少?」鳳曰:「控弦之士數十萬,馬百萬匹。」堅曰:「卿言人眾可爾,說馬太多,是虛辭耳。」鳳曰:「雲中川自東山至西河二百里,北山至南山百有餘里,每歲孟秋,馬常大集,略為滿川。以此推之,使人之言,猶當未盡。」鳳還,堅厚加贈遺。

昭成帝が崩御すると、太祖は長安に移ろうとした。鳳は太祖が幼弱であることを理由に、苻堅に固く請うて言うには、「代の主が初めて崩御し、臣下や子は逃亡・反乱し、遺された孫は幼く、これを輔け立てる者がない。その別部の大人である劉庫仁は勇猛で智謀があり、鉄弗の衞辰は狡猾で変化が多い。いずれも単独で任せることはできない。諸部を二つに分け、この二人に統率させよ。二人は平素から深い仇があり、その勢いでは先に動くことを敢えてしないであろう。これは辺境を防ぐ良策である。その孫が成長するのを待ち、存続させて立てるならば、これは陛下が亡国に大いなる恵みを施すことになる」。堅はこれに従った。鳳はまもなく東に帰還した。

原文及昭成崩,太祖將遷長安。鳳以太祖幼弱,固請於苻堅曰:「代主初崩,臣子亡叛,遺孫沖幼,莫相輔立。其別部大人劉庫仁勇而有智,鐵弗衞辰狡猾多變,皆不可獨任。宜分諸部為二,令此兩人統之。兩人素有深讎,其勢莫敢先發。此禦邊之良策。待其孫長,乃存而立之,是陛下施大惠於亡國也。」堅從之。鳳尋東還。

太祖が即位すると、吏部郎、給事黄門侍郎、行臺尚書を歴任し、大いに礼遇され重んじられた。太宗の世には、崔玄伯、封懿、梁越らと共に内では経伝を講じ、外では朝政を議した。世祖の初め、旧勲により平舒侯の爵を賜り、鎮遠将軍を加えられた。神䴥元年に卒去した。

原文太祖即位,歷吏部郎、給事黃門侍郎、行臺尚書,甚見禮重。太宗世,與崔玄伯、封懿、梁越等入講經傳,出議朝政。世祖初,以舊勳賜爵平舒侯,加鎮遠將軍。神䴥元年卒。

子 燕才

原文子 燕才

子の才が襲爵した。散騎常侍、平遠将軍となった。卒去した。

原文子才,襲。散騎常侍、平遠將軍。卒。

孫 燕元孫

原文孫 燕元孫

子の元孫が襲爵した。官は博陵太守に至った。卒去した。子の世宗が襲爵した。

原文子元孫,襲。官至博陵太守。卒。子世宗,襲。

許謙

原文許謙

許謙、字は元遜、代の人である。若い時から文才があり、天文や図讖の学に長じていた。建国の時、家族を率いて帰順し、昭成帝はこれを嘉し、代王の郎中令に抜擢し、文書記録の執掌を兼ねさせた。燕鳳と共に献明帝に経書を授けた。衞辰征伐に従軍し、功により僮隷三十戸を賜った。昭成帝崩御の後、謙は長安に移った。苻堅の従弟の行唐公洛が和龍を鎮守し、謙をその鎮に招請した。間もなく、継母が老齢であることを理由に辞して帰還した。

原文許謙,字元遜,代人也。少有文才,善天文圖讖之學。建國時,將家歸附,昭成嘉之,擢為代王郎中令,兼掌文記。與燕鳳俱授獻明帝經。從征衞辰,以功賜僮隸三十戶。昭成崩後,謙徙長安。苻堅從弟行唐公洛鎮和龍,請謙之鎮。未幾,以繼母老辭還。

登国の初め、ついに太祖に帰順した。太祖は喜び、右司馬とし、張袞らと共に創業の基を参画補佐させた。慕容宝が侵攻して来た時、太祖は謙を使者として姚興に難を告げさせた。興は将軍の楊仏嵩を遣わして兵を率いて来援させたが、仏嵩は遅滞した。太祖は謙に命じて書を作り仏嵩に送らせて言うには、「順に杖りて残敵を討ち、義に乗じて暗愚を攻むるは、その運なくして功を顕わし、その時なくして業を著すものなし。慕容は無道にして、我が疆埸を侵し、師は老い兵は疲れ、天の滅ぼす期至れり。ここに命を遣わして軍に告げ、必ずや赴くことを望む。将軍は方邵の任を拠り、熊虎の師を総べ、事は機会と与にす。今その時なり。これに因りて挙げば、役は再び駕すことなく、千載の勲は一朝に立つべし。然る後に雲中に高会し、三魏に進師し、觴を挙げて寿を称うるも、亦た綽ならずや」。仏嵩はこれにより道を倍して兼行した。太祖は大いに喜び、謙に関内侯の爵を賜った。重ねて謙を遣わし仏嵩と盟約させて言うには、「昔、殷の湯には鳴条の誓いがあり、周の武には河陽の盟あり。これをもって神霊を藉り、忠信を昭かにす。親仁善隣は古の美しき軌範、牲を割き血を歃って永き穆を敦くす。今既に盟してのちは、言をその好に帰し、災を分かち患を恤み、休戚を同じくす。この盟に違うことあらば、神祇これに殛せん」。宝が敗れると、仏嵩は帰還した。

原文登國初,遂歸太祖。太祖悅,以為右司馬,與張袞等參贊初基。慕容寶來寇也,太祖使謙告難於姚興。興遣將楊佛嵩率眾來援,而佛嵩稽緩。太祖命謙為書以遺佛嵩曰:「夫杖順以翦遺,乘義而攻昧,未有非其運而顯功,無其時而著業。慕容無道,侵我疆埸,師老兵疲,天亡期至,是以遣使命軍,必望克赴。將軍據方邵之任,總熊虎之師,事與機會,今其時也。因此而舉,役不再駕,千載之勳,一朝可立。然後高會雲中,進師三魏,舉觴稱壽,不亦綽乎。」佛嵩乃倍道兼行。太祖大悅,賜謙爵關內侯。重遣謙與佛嵩盟曰:「昔殷湯有鳴條之誓,周武有河陽之盟,所以藉神靈,昭忠信,夫親仁善隣,古之令軌,歃血割牲,以敦永穆。今既盟之後,言歸其好,分災恤患,休戚是同。有違此盟,神祗斯殛。」寶敗,佛嵩乃還。

翌年、慕容垂が再び侵攻して来た。太祖は謙に言う、「今事は急である。卿でなければ再び姚の師を招致できまい。卿は行け」。謙が未だ出発せぬうちに垂が退いたので、やめた。垂の死を聞くと、謙は上書して進むことを勧めた。太祖はこれを良しとした。

原文明年,慕容垂復來寇。太祖謂謙曰:「今事急矣,非卿豈能復致姚師,卿其行也。」謙未發而垂退,乃止。及聞垂死,謙上書勸進。太祖善之。

并州が平定されると、謙を陽曲護軍とし、平舒侯の爵、安遠将軍を賜った。皇始元年、官のまま卒去した。時に六十三歳。平東将軍、左光禄大夫、幽州刺史、高陽公を追贈され、諡して文といった。

原文并州平,以謙為陽曲護軍,賜爵平舒侯、安遠將軍。皇始元年卒官,時年六十三。贈平東將軍、左光祿大夫、幽州刺史、高陽公,諡曰文。

長子 許洛陽

原文長子 許洛陽

子の洛陽は、爵位を襲い、慕容宝の征討に従い、冠軍司馬となった。後に祁県令となった。太宗は謙の功績を追録し、洛陽を雁門太守とした。洛陽の家の田に三度嘉禾が生じ、皆異なる畝から合穎したので、世祖はこれを善しとした。爵位を進めて北地公とし、鎮南将軍を加えられた。出て明壘鎮将となり、八年の間在任し、卒した。諡して恭という。

原文子洛陽,襲。從征慕容寶,為冠軍司馬。後為祁令。太宗追錄謙功,以洛陽為雁門太守。洛陽家田三生嘉禾,皆異壟合穎,世祖善之。進爵北地公,加鎮南將軍。出為明壘鎮將,居八年,卒。諡曰恭。

長子の子は、許寄生である。

原文長子子 許寄生

子の寄生は爵位を襲い、侯に降格された。皇興元年に卒した。

原文子寄生,襲爵,降為侯。皇興元年卒。

次子は、許安国である。

原文次子 許安國

洛陽の弟の安国は、中山太守となった。

原文洛陽弟安國,中山太守。

三子は、許安都である。

原文三子 許安都

安国の弟の安都は、広寧・滄水の二郡太守となり、揚威将軍を加えられ、東光子の爵位を賜った。天安初年に卒した。平遠将軍・冀州刺史・東光侯を追贈され、諡して烈という。

原文安國弟安都,廣寧、滄水二郡太守。加揚威將軍。賜爵東光子。天安初卒。贈平遠將軍、冀州刺史、東光侯,諡曰烈。

三子の子は、許白虎である。

原文三子子 許白虎

子の白虎は爵位を襲い、侍御中散となった。後に罪により官を免ぜられ、爵位を奪われた。

原文子白虎,襲爵。為侍御中散。後以罪免官,奪爵。

張袞

原文張袞

張袞は、字を洪龍といい、上谷郡沮陽県の人である。祖父の翼は遼東太守、父の卓は昌黎太守であった。袞は初め郡の五官掾となり、純朴で篤実、学問を好み、文才があった。太祖が代王となった時、左長史に選ばれた。

原文張袞,字洪龍,上谷沮陽人也。祖翼,遼東太守。父卓,昌黎太守。袞初為郡五官掾,純厚篤實,好學,有文才。太祖為代王,選為左長史。

太祖に従って蠕蠕を征討した。蠕蠕は遁走し、これを五六百里追撃した。諸部の帥は袞を通じて太祖に言上した。「今、賊は遠く糧は尽きております。深入りすべきではなく、速やかに軍を還すことを請います。」太祖は袞に命じて諸部の帥に問わせた。「副馬を殺せば、三日分の食糧に足りるか。」皆が足りると答えた。太祖はそこで倍道で追撃し、広漠の赤地南床山の下で追いつき、これを大破した。後に太祖が袞に問うた。「卿ら外の者は、私が先に三日分の糧を問うた意図を知っているか。」答えて言うには、「皆、知りません。」太祖は言った。「これは容易に知り得ることだ。蠕蠕は数日奔走し、畜産の残りは、水辺に至れば必ず留まる。その道程を計算すれば、三日で十分に追いつける。軽騎が突然至れば、その不意を衝き、彼らは必ず驚いて散る。その勢い必然である。」袞は太祖の言葉を出して部帥たちに告げると、皆が言った。「聖なる策謀は長遠で、愚かで近視的な我々の及ぶところではありません。」

原文從太祖征蠕蠕。蠕蠕遁走,追之五六百里。諸部帥因袞言於太祖曰:「今賊遠糧盡,不宜深入,請速還軍。」太祖令袞問諸部帥,若殺副馬,足三日食否。皆言足也。太祖乃倍道追之,及於廣漠赤地南床山下,大破之。既而太祖問袞:「卿曹外人知我前問三日糧意乎?」對曰:「皆莫知也。」太祖曰:「此易知耳。蠕蠕奔走數日,畜產之餘,至水必留。計其道程,三日足及。輕騎卒至,出其不意,彼必驚散,其勢然矣。」袞以太祖言出告部帥,咸曰:「聖策長遠,非愚近所及也。」

袞は常に大謀に参与し、帷幄の中で決策し、太祖は彼を重んじ、礼遇は優厚であった。袞は常に人に告げて言った。「昔、楽毅は燕の昭王に策を杖し、公達(荀攸)は魏の武帝に身を委ねた。蓋し命世の才は期し難く、千載に一度も容易に遇えぬもの。主上は天姿傑邁、逸志は凌霄し、必ずや六合を囊括し、四海を混一されよう。風雲の会に遭いながら、騰躍の功を建てぬ者は、人豪ではない。」遂に名を策し、質を委ね、誠を竭くして伏して事えた。

原文袞常參大謀,決策幃幄,太祖器之,禮遇優厚。袞每告人曰:「昔樂毅杖策於燕昭,公達委身於魏武,蓋命世難可期,千載不易遇。主上天姿傑邁,逸志凌霄,必能囊括六合,混一四海。夫遭風雲之會,不建騰躍之功者,非人豪也。」遂策名委質,竭誠伏事。

時に劉顕は地広く兵強く、朔方の辺境を跨ぎ有していたが、その兄弟が乖離し、互いに疑い阻むことになった。袞は太祖に言上した。「顕は志大にして意高く、非望を希冀し、参天貳地し、宇宙を籠罩する規模さえ有しております。呉が越を併せざれば、後患となるでしょう。今、その内訌に乗じ、速やかにこれを討つべきです。もし軽師を以て独り進むならば、あるいは越境して逃れる恐れがあります。使者を遣わして慕容垂に告げ、共に声援し、東西ともに挙兵すれば、勢い必ずこれを擒にできます。然る後に英雄を総括し、遠近を撫懐すれば、これは千載一時の機会で、失うべきではありません。」太祖はこれに従い、遂に劉顕を破って敗走させた。また賀訥を破るのに従い、遂に群官を命じて勿居山に登らせ、終日遊宴した。従官及び諸部の大人が石を聚めて峰とし、以て功德を記すことを請うたので、袞に命じて文を作らせた。

原文時劉顯地廣兵強,跨有朔裔,會其兄弟乖離,共相疑阻。袞言於太祖曰:「顯志大意高,希冀非望,乃有參天貳地,籠罩宇宙之規。吳不并越,將為後患。今因其內釁,宜速乘之。若輕師獨進,或恐越逸。可遣使告慕容垂,共相聲援,東西俱舉,勢必擒之。然後總括英雄,撫懷遐邇,此千載一時,不可失也。」太祖從之,遂破走顯。又從破賀訥,遂命羣官登勿居山,遊宴終日。從官及諸部大人請聚石為峰,以記功德,命袞為文。

慕容宝が来寇した時、袞は太祖に言上した。「宝は滑台の功に乗じ、長子の捷に因り、資を傾け力を竭くして来ます。これと鋒を争うは難し。愚考しますに、宜しく羸師として甲を巻き、以てその心を侈らすべきです。」太祖はこれに従い、果たして参合陂でこれを破った。

原文慕容寶之來寇也,袞言於太祖曰:「寶乘滑臺之功,因長子之捷,傾資竭力,難與爭鋒。愚以為宜羸師卷甲,以侈其心。」太祖從之,果破之參合。

皇始の初め、給事黄門侍郎に遷る。太祖南伐し、師は中山に次ぐ。袞、太祖に言う、「宝は三世の資を憑み、城池の固きを恃み、皇威震赫するといえども、必ずや擒殄すべき勢いなり。然れども窮兵極武は、王者の宜しくする所にあらず。昔、酈生一説して田横委質し、魯連飛書して聊将授首す。臣、誠に徳は古人に非ず、略に奇策無しと雖も、仰ぎて霊威を憑み、庶幾くは必ず感有らん」。太祖之に従う。袞、宝に書を遺し、成敗を諭す。宝、書を見て大いに懼れ、遂に和龍に奔る。既に中山を克つや、八議に入るを聴き、袞を奮武将軍・幽州刺史に拝し、爵を臨渭侯に賜う。袞は清儉にして寡欲、農桑を勧課し、百姓之に安んず。

原文皇始初,遷給事黃門侍郎。太祖南伐,師次中山。袞言於太祖曰:「寶憑三世之資,城池之固,雖皇威震赫,勢必擒殄,然窮兵極武,非王者所宜。昔酈生一說,田橫委質;魯連飛書,聊將授首。臣誠德非古人,略無奇策,仰憑靈威,庶必有感。」太祖從之。袞遺寶書。喻以成敗。寶見書大懼,遂奔和龍。既克中山,聽入八議,拜袞奮武將軍、幽州刺史,賜爵臨渭侯。袞清儉寡欲,勸課農桑,百姓安之。

天興の初め、徴されて京師に還る。後に崔逞と共に司馬徳宗の将郗恢に答える書、旨を失う。袞を黜して尚書令史と為す。袞は創業の始めに遇い、才謨有るを以て見任され、率心して上に奉じ、嫌疑を顧みず。太祖嘗て南州の人を袞に問う。袞は盧溥と州里にして、数え談じて之を薦む。又、袞は未だ嘗て崔逞と相見えずと雖も、風を聞きて称美す。中山平らぎ、盧溥党を聚めて逆を為し、崔逞の答書允ならず、並びに本言に乖くに及び、故に之を忿る。

原文天興初,徵還京師。後與崔逞答司馬德宗將郗恢書失旨,黜袞為尚書令史。袞遇創業之始,以有才謨見任,率心奉上,不顧嫌疑。太祖曾問南州人於袞。袞與盧溥州里,數談薦之。又袞未嘗與崔逞相見,聞風稱美。及中山平,盧溥聚黨為逆,崔逞答書不允,並乖本言,故忿之。

袞、年七十を過ぎ、闔門して静を守り、手に経書を執り、乖失を刊定し、人物を愛好し、善く誘いて倦むこと無し。士類、此を以て之を高しとす。永興二年、疾篤く、疏を上りて曰く、「臣既に庸人、志に殊操無く、値う所に太祖期運を誕膺し、天地始めて開く。戎の氛霧の初めに参じ、革命の会に馳駆し、翼を鄧林に託し、鱗を溟海に寄す。遂に恩寵を荷い、栄兼ねて出内す。陛下、龍飛して九五に在り、仍参して顧問す。曾て微誠無く、塵山露海す。今、旧疾弥留し、気力虚頓す。天、罪有るを罰し、将に溝壑に填らんとす。然れども犬馬主を恋う、敢えて言を尽くさざらんや。方今、中夏平らぐと雖も、九域未だ一ならず。西に賓せざるの羌有り、南に命に逆うの虜有り。岷蜀は風殊なり、遼海は教異なり。天、明聖を挺て、乱を撥き時に乗ずと雖も、幾に因り会を撫するは、実に経略を須う。介焉として失い易く、功は人謀に在り。伏して願わくは叡道を恢崇し、徳心を克広くし、揖譲をして干戈と並び陳しめ、文徳をして武功と俱に運らしめば、則ち太平の化、康哉の美、今に復隆し、前世に独りならざらん。昔、子囊将に終らんとし、言を寄せて城郢せしめ、荀偃唅を辞し、遺恨を斉に在りし。臣、闇劣と雖も、敢えて前志を忘れず。魂有りて霊有らば、草を結びて泉壤せん」。後数日にして卒す。年七十二。後、世祖旧勳を追録し、大鴻臚を遣わし、即ち墓に策を贈りて太保と為し、諡して文康公と曰う。

原文袞年過七十,闔門守靜,手執經書,刊定乖失,愛好人物,善誘無倦,士類以此高之。永興二年疾篤,上疏曰:「臣既庸人,志無殊操,值太祖誕膺期運,天地始開,參戎氛霧之初,馳驅革命之會,託翼鄧林,寄鱗溟海,遂荷恩寵,榮兼出內。陛下龍飛九五,仍參顧問,曾無微誠,塵山露海。今舊疾彌留,氣力虛頓,天罰有罪,將填溝壑。然犬馬戀主,敢不盡言。方今中夏雖平,九域未一,西有不賓之羌,南有逆命之虜,岷蜀殊風,遼海異教。雖天挺明聖,撥亂乘時,而因幾撫會,實須經略。介焉易失,功在人謀。伏願恢崇叡道,克廣德心,使揖讓與干戈並陳,文德與武功俱運,則太平之化,康哉之美,復隆於今,不獨前世。昔子囊將終,寄言城郢;荀偃辭唅,遺恨在齊。臣雖闇劣,敢忘前志,魂而有靈,結草泉壤。」後數日卒,年七十二。後世祖追錄舊勳,遣大鴻臚即墓策贈太保,諡曰文康公。

長子 張温

原文長子 張溫

子の温は、外都大官・広寧太守。卒す。

原文子溫,外都大官、廣寧太守。卒。

長子の子 張貳興

原文長子子 張貳興

子の貳興は、昌黎太守。

原文子貳興,昌黎太守。

三子 張楷

原文三子 張楷

温の弟の楷は、州主簿。

原文溫弟楷,州主簿。

三子の子 張誕

原文三子子 張誕

子の誕は、学尚有り、性は尤も雅直なり。初め高允と同時に徴され、後に中書侍郎・通直散騎常侍・建威将軍を除く。爵を容城子に賜う。

原文子誕,有學尚,性尤雅直。初與高允同時被徵,後除中書侍郎、通直散騎常侍、建威將軍。賜爵容城子。

次子 張度

原文次子 張度

袞の次子の度は、少より志尚有り、爵を襲いて臨渭侯と為る。上谷太守、入りて武昌王師と為る。散騎常侍を加え、使持節を除き、都督幽州広陽・安楽二郡諸軍事、平東将軍、崎城鎮都大将、又転じて和龍鎮都大将と為り、所在に称される。朝に還りて中都大官と為る。卒し、征東大将軍・冀州刺史を贈られ、諡して康侯と曰う。

原文袞次子度,少有志尚,襲爵臨渭侯。上谷太守,入為武昌王師。加散騎常侍,除使持節,都督幽州廣陽、安樂二郡諸軍事,平東將軍,崎城鎮都大將,又轉和龍鎮都大將,所在著稱。還朝為中都大官。卒,贈征東大將軍、冀州刺史,諡康侯。

次子の長子 張陵

原文次子長子 張陵

子の陵は、爵を襲ぐ。後に赤城典作都将と為る。卒す。

原文子陵,襲爵。後為赤城典作都將。卒。

次男の長男の子は張狀である。

原文次子長子子 張狀

子の狀は、爵を襲った。中散となった。卒した。

原文子狀,襲。為中散。卒。

次男の長男の子の子は張法である。

原文次子長子子子 張法

子の法は、爵を襲った。太和年間、例により伯に降格された。世宗の時、除せられて懷荒鎮金城戍將となった。

原文子法,襲。太和中,例降為伯。世宗時,除懷荒鎮金城戍將。

次男の次男は張延である。

原文次子次子 張延

陵の弟の延は、散騎常侍・左將軍・庫部尚書となった。永寧侯の爵を賜った。

原文陵弟延,散騎常侍、左將軍、庫部尚書。賜爵永寧侯。

次男の三男は張白澤である。

原文次子三子 張白澤

延の弟の白澤は、十一歳の時、母の憂いに遭い、喪に服して孝行で知られた。世祖はこれを聞いて嘉した。成長して学を好み広く通じ、当世に敏であった。高宗の初め、除せられて中散となり、殿中曹給事中に遷り、甚だ寵任され、機密に参与した。

原文延弟白澤,年十一,遭母憂,居喪以孝聞。世祖聞而嘉之。長而好學博通,敏於當世。高宗初,除中散,遷殿中曹給事中,甚見寵任,參預機密。

後に蠕蠕が塞を犯すと、顯祖は群臣を引見してこれを議した。尚書僕射の元目辰が進み出て言うには、「もし車駕が親征されれば、恐らく京師は危惧するでしょう。持重して固守し自ら安んずるに如かず。虜は懸軍深入し、糧食の継運がありません。臣が量るに、自ずから退くのは久しくないでしょう。将を遣わして追撃すれば、必ずこれを破るでしょう」と。白澤は言うには、「陛下は欽明にして天に則り、前聖の跡を比べられます。しかるに蠢爾たる荒愚の輩が、軽々しく王略を犯します。寇は遠図に顛沛し、我は近毒に宴安せんとする。仰ぎ惟うに神略は、然らずと存じます。今もし鑾輿が親動されれば、賊は必ず麾を見て崩散するでしょう。どうして仰ぎ神兵を挫き、坐して敵を縱すことがありましょうか。萬乗の尊が、城に嬰って自ら守り、進んでは乗ずべき機を失い、退いては前に非ざるの義となります。惟うに陛下には留神あらんことを」と。顯祖はこれに従い、遂に虜の衆を大破した。

原文後蠕蠕犯塞,顯祖引見羣臣議之。尚書僕射元目辰進曰:「若車駕親行,恐京師危懼,不如持重,固守自安。虜懸軍深入,糧無繼運,以臣量之,自退不久,遣將追擊,破之必矣。」白澤曰:「陛下欽明則天,比蹤前聖,而蠢爾荒愚,輕犯王略。寇乃顛沛於遠圖,我將宴安於近毒,仰惟神略,則不然矣。今若鑾輿親動,賊必望麾崩散,寧容仰挫神兵,坐而縱敵。萬乘之尊,嬰城自守,進失可乘之機,退非無前之義,惟陛下留神。」顯祖從之,遂大破虜眾。

白澤は本字を鍾葵といったが、顯祖が名を白澤と賜い、その女を納れて嬪とした。出て雍州刺史となり、心を清くし欲を少なくし、吏民はこれを安んじた。顯祖は諸監臨の官に詔して、監治する所で羊一口・酒一斛を受ける者は、罪は大辟に至り、与える者は従坐の論に処すとした。糾告して尚書以下の罪状を得た者は、それぞれ糾った官の軽重に随ってこれを授けるとした。白澤は上表して諫めて言うには、「伏して詔書を拝見しますに、尚書以下が礼を受ける者を禁じて刑身とし、これを糾す者に代職を授けるとあります。伏して惟うに、三載の考績、幽明を黜陟するは、これ不易の令軌、百王の通式であります。今の都曹は、古の公卿であり、皆萬幾を翊扶し、百揆を讚徽し、風化はこれによって平らぎ、治道は茲より穆となります。かつ周の下士でさえ、なお代耕あり、況んや皇朝の貴仕において、服勤して報い無きは、豈に所謂堯舜を祖襲し、文武を憲章するというものでありましょうか。羊酒の罰が、もし行なわれて已まざれば、臣は奸人の闚望を恐れ、忠臣の節を懈かせんとします。しかして事を静め民を安んじ、治を清くし務を簡にせんと欲し、委任責成に至っては、下民は弁じ難いでしょう。臣の愚量する如く、律令の旧法に依り、前典に稽え同うて、祿を班し廉に酬い、まず乱羣を去り、常刑に赦無からしめられたい。苟くも能く此くの如くならば、則ち升平の軌は期月にして望むべく、刑措の風は三年にして必ず致すでしょう」と。顯祖はこれを納れた。

原文白澤本字鍾葵,顯祖賜名白澤,納其女為嬪。出行雍州刺史,清心少欲,吏民安之。顯祖詔諸監臨之官,所監治受羊一口、酒一斛者,罪至大辟,與者以從坐論。糾告得尚書已下罪狀者,各隨所糾官輕重而授之。白澤上表諫曰:「伏見詔書,禁尚書以下受禮者刑身,糾之者代職。伏惟三載考績,黜陟幽明,斯乃不易之令軌,百王之通式。今之都曹,古之公卿也,皆翊扶萬幾,讚徽百揆,風化藉此而平,治道由茲而穆。且周之下士,尚有代耕,況皇朝貴仕,而服勤無報,豈所謂祖襲堯舜,憲章文武者乎?羊酒之罰,若行不已,臣恐姦人闚望,忠臣懈節。而欲使事靜民安,治清務簡,至於委任責成,下民難辯。如臣愚量,請依律令舊法,稽同前典,班祿酬廉,首去亂羣,常刑無赦。苟能如此,則升平之軌,期月可望,刑措之風,三年必致矣。」顯祖納之。

太和の初め、懷州の民の伊祁苟初ら三十余人が謀反し、刺史を殺さんとした。文明太后は一城の民を尽く誅さんとされた。白澤が諫めて言うには、「臣は聞く、上天は物の生を愛し、明王は民の命を重んずる。故に一人を殺して天下を取ることは、仁者は為さない。かつ周書に父子兄弟は罪相及ばずとあります。今、群凶が肆虐し、轘裂誅尽されるに、合城の無辜を、奈何ぞ極辟せんとするのですか。十室を誣うることなく、況んや一州においてをや。或いは忠なる者あり、或いは仁なる者あり、若し淫刑濫く及び、忠と仁とを殺すことは、これ乃ち西伯が九侯に歎息し、孔子が河上に輪を回した所以であります。伏して惟うに聖徳は殷鑒に昭明、前禮に水鏡し、迅烈の怒りを止め、雷霆の威を抑えられれば、則ち溥天幸いを知るでしょう。昔、厲王は民の口を防いで、卒に宗姬を滅ぼし、文王は輿頌を聴いて、終に強楚を摧きました。願わくは人を以て言を廃せず、留神して省察あらんことを」と。太后はこれに従われた。散騎常侍に転じ、殿中尚書に遷った。

原文太和初,懷州民伊祁苟初三十餘人謀反,將殺刺史。文明太后欲盡誅一城之民。白澤諫曰:「臣聞上天愛物之生,明王重民之命,故殺一人而取天下,仁者不為。且周書父子兄弟,罪不相及,今羣凶肆虐,轘裂誅盡,合城無辜,奈何極辟。不誣十室,而況一州,或有忠焉,或有仁者,若淫刑濫及,殺忠與仁,斯乃西伯所以歎息於九侯,孔子所以回輪於河上。伏惟聖德昭明殷鑒,水鏡前禮,止迅烈之怒,抑雷霆之威,則溥天知幸矣。昔厲防民口,卒滅宗姬;文聽輿頌,終摧強楚。願不以人廢言,留神省察。」太后從之。轉散騎常侍,遷殿中尚書。

太和五年に卒した。詔して帛一千匹・粟三千石を賜い、侍御史を遣わして喪事を營護させ、冊贈して鎮南將軍・相州刺史・廣平公とし、諡して簡といった。

原文太和五年卒,詔賜帛一千匹、粟三千石,遣侍御史營護喪事,冊贈鎮南將軍、相州刺史、廣平公,諡曰簡。

次男の三男の長男は張倫である。

原文次子三子長子 張倫

長子の倫は、字を天念という。十余歳の時、入って左右に侍した。稍く遷って護軍長史・員外常侍となり、転じて大司農少卿・燕州大中正となった。

原文長子倫,字天念。年十餘歲,入侍左右。稍遷護軍長史、員外常侍,轉大司農少卿、燕州大中正。

熙平年間、蠕蠕の主の醜奴が使を遣わして来朝したが、敵国の書を抗し、臣としての敬を修めなかった。朝議は漢が匈奴に答えた故事に依って、使を遣わしてこれに報いようとした。倫が上表して言うには、

原文熙平中,蠕蠕主醜奴遣使來朝,抗敵國之書,不修臣敬。朝議將依漢答匈奴故事,遣使報之。倫表曰:

従わなかった。

原文(段落全体)出為後將軍、肆州刺史。還朝,除燕州大中正。孝莊初,遷太常少卿,不拜,轉大司農卿。卒官。

後将軍・肆州刺史として出向した。朝廷に戻り、燕州大中正に任ぜられた。孝莊帝の初め、太常少卿に転じたが拝命せず、大司農卿に転じた。任官中に死去した。

原文(段落全体)出為後將軍、肆州刺史。還朝,除燕州大中正。孝莊初,遷太常少卿,不拜,轉大司農卿。卒官。

次子(三男)は張恩。

原文次子三子次子 張恩

張倫の弟の張恩は、奉朝請、員外郎となった。

原文倫弟恩,奉朝請,員外郎。

次子(四男)は張庫。

原文次子四子 張庫

張白澤の弟の張庫は、瀛州刺史・宜陽侯となった。

原文白澤弟庫,瀛州刺史、宜陽侯。

次子(四男の長男)は張蘭。

原文次子四子長子 張蘭

張庫の長男の張蘭は、累進して龍驤将軍となり、光州の事務を代行した。

原文庫長子蘭,累遷龍驤將軍,行光州事。

次子(四男の次男)は張修虎。

原文次子四子次子 張修虎

張蘭の弟の張修虎は、都牧・駕部の二曹の給事中、上谷公、司農少卿となった。柔玄に使者として赴き、民の苦しみを視察した。平北将軍・燕州刺史に転じた。

原文蘭弟修虎,都牧、駕部二曹給事中,上谷公,司農少卿。奉使柔玄,察民疾苦。遷平北將軍、燕州刺史。

四男は張太。

原文四子 張太

張度の弟の張太は、平西将軍・荊州刺史・俎陽侯となった。

原文度弟太,平西將軍、荊州刺史、俎陽侯。

五男は張那。

原文五子 張那

張太の弟の張那は、寧遠将軍・雍城鎮将となった。

原文太弟那,寧遠將軍、雍城鎮將。

崔玄伯(崔宏)。

原文崔玄伯(崔宏)

崔玄伯は、清河郡東武城県の人であり、名は高祖(道武帝)の廟諱に触れるため、魏の司空崔林の六世の孫である。祖父の崔悦は石虎に仕え、司徒左長史・関内侯に至った。父の崔潜は慕容暐に仕え、黄門侍郎となり、ともに才学の称があった。玄伯は若くして俊才があり、冀州の神童と号された。

原文崔玄伯,清河東武城人也,名犯高祖廟諱,魏司空林六世孫也。祖悅,仕石虎,官至司徒左長史、關內侯。父潛,仕慕容暐,為黃門侍郎,並有才學之稱。玄伯少有儁才,號曰冀州神童。

苻融が冀州を牧すると、虚心に礼敬し、陽平公侍郎に拝し、冀州従事を領し、征東記室を管掌した。外に出ては諸事を総べ、内に入っては賓友となり、多くの事務を整え、処断に滞りがなかった。苻堅はこれを聞いて奇とし、太子舎人に徴したが、母の病を理由に辞して就かず、著作佐郎に左遷された。苻丕が冀州を牧すると、征東功曹となった。太原の郝軒は、世に人を知る者として名高く、玄伯に王佐の才があると称え、近代に未だかつてないものとした。堅が滅ぶと、斉魯の間に避難し、丁零の翟釗および司馬昌明の叛将張願に留め捕らえられた。郝軒は嘆いて言う、「この人にしてこの時に遇い、扶揺の勢いに乗らず、鷃雀とともに飛び沈むとは、惜しむべきことではないか」。慕容垂は吏部郎・尚書左丞・高陽内史とした。歴任した所で称賛され、立身は雅正で、世と群れず、兵乱の中にあってもなお志を励まし学に篤く、資産を意とせず、妻子は飢寒を免れなかった。

原文苻融牧冀州,虛心禮敬,拜陽平公侍郎,領冀州從事,管征東記室。出總庶事,入為賓友,眾務修理,處斷無滯。苻堅聞而奇之,徵為太子舍人,辭以母疾不就,左遷著作佐郎。苻丕牧冀州,為征東功曹。太原郝軒,世名知人,稱玄伯有王佐之才,近代所未有也。堅亡,避難於齊魯之間,為丁零翟釗及司馬昌明叛將張願所留縶。郝軒歎曰:「斯人而遇斯時,不因扶搖之勢,而與鷃雀飛沉,豈不惜哉!」慕容垂以為吏部郎、尚書左丞、高陽內史。所歷著稱,立身雅正,與世不羣,雖在兵亂,猶勵志篤學,不以資產為意,妻子不免飢寒。

太祖(道武帝)が慕容宝を征伐し、常山に駐屯した時、玄伯は郡を棄て、東に海浜へ走った。太祖は平素よりその名を聞き、騎兵を遣わして追求させ、軍門に捕らえて送らせ、引見して語らうと、これを悦び、黄門侍郎とし、張袞とともに機要を対総し、制度を草創させた。時に司馬徳宗が使を遣わして来朝したので、太祖がこれに報いようとし、詔して有司に国号を博議させた。玄伯が議して言う、「三皇五帝の立号は、あるいは生まれた土地により、あるいは封国の名による。故に虞・夏・商・周は始め皆諸侯であり、聖徳が既に隆盛となり、万国が宗戴すると、称号は本に随い、再び改めて立てない。ただ商人は屡々遷り、号を殷と改めたが、なお兼ねて行い、始めの基の称を廃さなかった。故に詩に『殷商の旅』と云い、また『天命玄鳥、降りて商を生み、殷土茫茫に宅す』と云う。これがその義である。昔、漢の高祖は漢王として三秦を定め、強楚を滅ぼした故、遂に漢を号とした。国家は北方の広漠の土を統べるも、陛下に至り、応運して龍飛し、旧邦とはいえ、命を受けて惟新である。これにより登国の初めに、代を改めて魏とした。また慕容永もまた魏土を奉進した。『魏』とは大名であり、神州の上国である。これこそ革命の徴験、利見の玄符である。臣愚かには魏と号すべきと考える」。太祖はこれに従った。ここにおいて四方の賓王の貢は、皆大魏と称することとなった。

原文太祖征慕容寶,次於常山,玄伯棄郡,東走海濱。太祖素聞其名,遣騎追求,執送於軍門,引見與語,悅之,以為黃門侍郎,與張袞對總機要,草創制度。時司馬德宗遣使來朝,太祖將報之,詔有司博議國號。玄伯議曰:「三皇五帝之立號也,或因所生之土,或即封國之名。故虞夏商周始皆諸侯,及聖德既隆,萬國宗戴,稱號隨本,不復更立。唯商人屢徙,改號曰殷,然猶兼行,不廢始基之稱。故詩云『殷商之旅』,又云『天命玄鳥,降而生商,宅殷土茫茫』。此其義也。昔漢高祖以漢王定三秦,滅強楚,故遂以漢為號。國家雖統北方廣漠之土,逮于陛下,應運龍飛,雖曰舊邦,受命惟新,是以登國之初,改代曰魏。又慕容永亦奉進魏土。夫『魏』者大名,神州之上國,斯乃革命之徵驗,利見之玄符也。臣愚以為宜號為魏。」太祖從之。於是四方賓王之貢,咸稱大魏矣。

太祖が鄴に幸すると、故事を歴問したが、玄伯の応対は流れるが如く、太祖はこれを善とした。車駕が京師に還る時、恒嶺に駐まった。太祖自ら山頂に登り、新民を撫慰したが、ちょうど玄伯が老母を扶けて嶺に登るのに遇い、太祖はこれを嘉し、牛と米を賜った。これにより詔して、徙人で自ら進めない者には車牛を与えた。吏部尚書に遷った。有司に命じて官爵を制定し、朝儀を撰し、音楽を協和し、律令を定め、科禁を申し立てさせ、玄伯が総べてこれを裁断し、永式とした。八部大夫を置いて八坐に擬すると、玄伯は三十六曹を通署し、令・僕のごとく事を統べ、深く太祖に信任された。勢いは朝廷を傾けた。しかし儉約を自らとし、産業を営まず、家は徒らに四壁あるのみ。出るに車乗なく、朝晩歩いて上る。母は七十歳で、供養に重膳なし。太祖はかつて人を密かに遣わして察させ、聞いてますますこれを重んじ、厚く饋賜を加えた。時人もまたその過約を譏る者もあったが、玄伯はますます甚だしくした。

原文太祖幸鄴,歷問故事於玄伯,應對若流,太祖善之。及車駕還京師,次於恒嶺。太祖親登山頂,撫慰新民,適遇玄伯扶老母登嶺,太祖嘉之,賜以牛米。因詔諸徙人不能自進者,給以車牛。遷吏部尚書。命有司制官爵,撰朝儀,協音樂,定律令,申科禁,玄伯總而裁之,以為永式。及置八部大夫以擬八坐,玄伯通署三十六曹,如令僕統事,深為太祖所任。勢傾朝廷。而儉約自居,不營產業,家徒四壁;出無車乘,朝晡步上;母年七十,供養無重膳。太祖嘗使人密察,聞而益重之,厚加饋賜。時人亦或譏其過約,而玄伯為之踰甚。

太祖は常に引いて古今の旧事、王者の制度、治世の則を問うた。玄伯は古人の制作の体、および明君賢臣、往代の廃興の由を陳べ、上意に甚だ合った。未だかつて謇諤として旨に忤わず、また諂諛して苟くも容れられることもなかった。太祖の末年、大臣多く威怒に犯される中、玄伯のみ譴責を受けなかったのは、これによるものである。太祖はかつて玄伯を引いて漢書を講ぜしめ、婁敬が漢祖に魯元公主を以て匈奴に妻せんと説くところに至り、これを善とし、嗟歎すること久しかった。これにより諸公主は皆賓附の国に釐降し、朝臣の子弟は、名族美彦といえども尚することは得なかった。尚書の職を罷め、玄伯に爵を白馬侯と賜い、周兵将軍を加え、旧功臣の庾岳・奚斤らと同班としたが、信寵は彼らを超えた。

原文太祖常引問古今舊事,王者制度,治世之則。玄伯陳古人制作之體,及明君賢臣,往代廢興之由,甚合上意。未嘗謇諤忤旨,亦不諂諛苟容。及太祖季年,大臣多犯威怒,玄伯獨無譴者,由於此也。太祖曾引玄伯講漢書,至婁敬說漢祖欲以魯元公主妻匈奴,善之,嗟歎者良久。是以諸公主皆釐降于賓附之國,朝臣子弟,雖名族美彥,不得尚焉。尚書職罷,賜玄伯爵白馬侯,加周兵將軍,與舊功臣庾岳、奚斤等同班,而信寵過之。

太祖が崩じ、太宗(明元帝)が未だ即位せず、清河王拓跋紹が人心の安からざるを聞き、大いに財帛を出して朝士に班賜した。玄伯のみ受けなかった。太宗が即位すると、玄伯を門下に居らせ、虚己して訪問し、紹の財帛を受けなかったことを以て、特に帛二百匹を賜った。長孫嵩以下皆愧じた。詔して使者を遣わし郡国を巡行し、守宰で法に如かざる者を糾察させ、玄伯と宜都公穆観らにこれを按じさせ、太宗はその平当を称えた。また詔して玄伯と長孫嵩らを朝堂に坐らせ、刑獄を決断させた。

原文太祖崩,太宗未即位,清河王紹聞人心不安,大出財帛班賜朝士。玄伯獨不受。太宗即位,命玄伯居門下,虛己訪問,以不受紹財帛,特賜帛二百匹。長孫嵩已下咸愧焉。詔遣使者巡行郡國,糾察守宰不如法者,令玄伯與宜都公穆觀等按之,太宗稱其平當。又詔玄伯與長孫嵩等坐朝堂,決刑獄。

太宗は郡国の豪右が大いに民の蠹となっているとして、優詔を以てこれを徴したが、民多く本郷を恋い、長吏が逼遣した。ここにおいて軽薄の少年が相い扇動し、所在で聚結した。西河・建興で盗賊並び起こり、守宰がこれを討つも禁じ得なかった。太宗は玄伯および北新侯安同・寿光侯叔孫建・元城侯元屈らを引いて問うて言う、「以前、兇侠が民を乱す故、京師に徴したが、守宰が綏撫を失い、逃竄する者を生じさせた。今犯す者既に多く、悉く誅することはできぬ。朕は大赦を以てこれを紓えんと欲するが、卿らはどう思うか」。屈が対えて言う、「民が逃げて罪とせず、かえってこれを赦すのは、下に求めるがあるかのようである。首悪を先に誅し、その党類を赦すに如かず」。玄伯が言う、「王者が天下を治めるには、民を安んずるを本とす。どうして小さな曲直を顧みられようか。譬えば琴瑟調わざれば必ず改めて更に張る。法度平らかでなければ、また須らく蕩して更に制すべきである。赦は正道ではないが、権として行うことができる。秦漢以来、相踵いで行わないことはない。屈が言う先に誅し後に赦すのは、両方を去ることができないことに会する。一行して定めるに如くはない。もし赦して改めざる者は、誅するも遅くはない」。太宗はこれに従った。

原文太宗以郡國豪右,大為民蠹,乃優詔徵之,民多戀本,而長吏逼遣。於是輕薄少年,因相扇動,所在聚結。西河、建興盜賊並起,守宰討之不能禁。太宗乃引玄伯及北新侯安同、壽光侯叔孫建、元城侯元屈等問曰:「前以兇俠亂民,故徵之京師,而守宰失於綏撫,令有逃竄。今犯者已多,不可悉誅,朕欲大赦以紓之,卿等以為何如?」屈對曰:「民逃不罪而反赦之,似若有求於下,不如先誅首惡,赦其黨類。」玄伯曰:「王者治天下,以安民為本,何能顧小曲直也。譬琴瑟不調,必改而更張;法度不平,亦須蕩而更制。夫赦雖非正道,而可以權行,自秦漢以來,莫不相踵。屈言先誅後赦,會於不能兩去,孰與一行便定。若其赦而不改者,誅之不晚。」太宗從之。

神瑞の初め、詔して玄伯と南平公長孫嵩らを止車門の右に坐らせ、万機の事を聴理させた。并州の胡数万家が南に河内を掠め、将軍公孫表らに師を率いて討たせたが、敗績した。太宗は群臣に問うて言う、「胡寇が暴を恣にし、人衆少なくない。表らは既に制することができぬ。早く誅さねば、良民大いにその禍を受ける。今既に盛秋であり、この小盗のために再び衆を興して民業を廃すことはできない。どうしたらよいか」。玄伯が対えて言う、「表ら諸軍は不足ではないが、処分を失った故、小盗に仮息させたのである。胡衆は盛んといえども、猛健な主将がなく、いわゆる千奴一胆である。胡に服信される大将軍を得て、数百騎を将い、表の軍を就いて摂め討たせるべきである。賊これを聞けば、必ず風を望んで震怖するであろう。寿光侯叔孫建は以前并州におり、威猛と号され、胡醜畏服し、諸将及ぶ者なし」。太宗はこれに従い、遂に胡寇を平定した。まもなく天部大人に拝し、爵を公に進めた。

原文神瑞初,詔玄伯與南平公嵩等坐止車門右,聽理萬機事。并州胡數萬家南掠河內,遣將軍公孫表等率師討之,敗績。太宗問羣臣曰:「胡寇縱暴,人眾不少,表等已不能制。若不早誅,則良民大受其禍。今既盛秋,不可為此小盜,而復興眾以廢民業。將若之何?」玄伯對曰:「表等諸軍,不為不足,但失於處分,故使小盜假息耳。胡眾雖盛,而無猛健主將,所謂千奴共一膽也。宜得大將軍為胡所服信者,將數百騎,就攝表軍以討之,賊聞之,必望風震怖。壽光侯建,前在并州,號為威猛,胡醜畏服,諸將莫及。」太宗從之,遂平胡寇。尋拜天部大人,進爵為公。

泰常三年夏、玄伯が病篤くなると、太宗は侍中宜都公穆観を遣わして就き遺言を受けさせ、更に侍臣を遣わして病を問わせ、一夜に数度返らせた。卒すると、詔を下して痛惜し、司空を贈り、諡して文貞公とした。喪礼は一切安城王叔孫俊の故事に依った。詔して群臣および附国の渠帥を皆会葬させ、親王以外は、尽く拝送せしめた。太和の中、高祖(孝文帝)が先朝の功臣を追録し、玄伯を以て廟庭に配饗した。

原文泰常三年夏,玄伯病篤,太宗遣侍中宜都公穆觀就受遺言,更遣侍臣問疾,一夜數返。及卒,下詔痛惜,贈司空,諡文貞公。喪禮一依安城王叔孫俊故事。詔羣臣及附國渠帥皆會葬,自親王以外,盡令拜送。太和中,高祖追錄先朝功臣,以玄伯配饗廟庭。

玄伯は朝廷の文誥や四方の書檄でなければ、初めから筆を染めなかったので、世に遺文はない。特に草隸行押の書に優れ、世の模範とされた。玄伯の祖父崔悅は范陽の盧諶と共に博藝で著名であった。盧諶は鍾繇の法を、崔悅は衞瓘の法を学び、ともに索靖の草書を習い、皆その妙を極めた。盧諶は子の盧偃に伝え、盧偃は子の盧邈に伝えた。崔悅は子の崔潛に伝え、崔潛は玄伯に伝えた。代々その業を絶やさなかった。故に魏の初めは崔氏と盧氏の書を重んじた。また玄伯の行押は特に精巧を極めたが、遺迹は見られない。子の崔浩は爵を襲ぎ、別に伝がある。

原文玄伯自非朝廷文誥,四方書檄,初不染翰,故世無遺文。尤善草隸行押之書,為世摹楷。玄伯祖悅與范陽盧諶,並以博藝著名。諶法鍾繇,悅法衞瓘,而俱習索靖之草,皆盡其妙。諶傳子偃,偃傳子邈;悅傳子潛,潛傳玄伯。世不替業。故魏初重崔盧之書。又玄伯之行押,特盡精巧,而不見遺迹。子浩,襲爵,別有傳。

次子は崔簡である。

原文次子 崔簡

次子の崔簡は、字を沖亮といい、一名は覽である。学問を好み、若くして書に巧みで知られた。太祖の初年、中書侍郎・征虜将軍を歴任し、爵は五等侯となり、著作事に参与した。卒去した。

原文次子簡,字沖亮,一名覽。好學,少以善書知名。太祖初,歷位中書侍郎、征虜將軍,爵五等侯,參著作事。卒。

三子は崔恬である。

原文三子 崔恬

崔簡の弟の崔恬は、字を叔玄といい、小名は白である。給事中を歴任し、爵を繹幕子に賜った。出て上党太守・平南将軍・豫州刺史となった。爵を進めて陽武侯となった。崔浩の罪に連坐して誅殺された。

原文簡弟恬,字叔玄,小名白。歷給事中,賜爵繹幕子。出為上黨太守、平南將軍、豫州刺史。進爵陽武侯。坐浩伏誅。

初め玄伯は苻堅の乱に際し、江南に避地しようとしたが、泰山で張願に捕らえられ、本来の図らず、詩を作って自らを傷んだが、当時は世に行わず、恐らく罪を恐れたためであろう。崔浩が誅殺された時、中書侍郎高允が勅命を受けて崔浩の家を収め、初めてこの詩を見た。高允はその意を知り、高允の孫の高綽が高允の集に録した。初め玄伯の父崔潛が兄の崔渾のために誄の手筆草本を作ったが、延昌の初め、著作佐郎王遵業が市で書を買い求め、偶然これを得た。誄を作ってから今日まで、ほぼ二百年になるが、その書迹を宝とし、深く蔵して秘した。武定年間、王遵業の子の王松年がこれを黄門郎崔季舒に贈ると、多くの人が模写した。左光禄大夫姚元標は当時書に巧みで知られていたが、崔潛の書を見て、己よりも優れていると言った。

原文始玄伯因苻堅亂,欲避地江南,於泰山為張願所獲,本圖不遂,乃作詩以自傷,而不行於時,蓋懼罪也。及浩誅,中書侍郎高允受敕收浩家,始見此詩。允知其意,允孫綽錄於允集。始玄伯父潛為兄渾誄手筆草本,延昌初,著作佐郎王遵業買書於市而遇得之。計誄至今,將二百載,寶其書迹,深藏祕之。武定中,遵業子松年以遺黃門郎崔季舒,人多摹搨之。左光祿大夫姚元標以工書知名於時,見潛書,謂為過於己也。

弟は崔徽である。

原文弟 崔徽

玄伯の弟の崔徽は、字を玄猷という。若くして文才があり、勃海の高演と共に知名であった。初め相州別駕・中書侍郎に徴され、次第に秘書監に昇進し、爵を貝丘侯に賜り、龍驤将軍を加えられた。楽安王拓跋範が長安を鎮守した時、世祖は拓跋範が年少であり、三秦の民夷が険阻を恃んで変が多いことを考慮し、忠清で旧徳のある士を選んで拓跋範と共に鎮守させた。崔徽を散騎常侍・雍涇梁秦四州諸軍事都督・平西将軍・副将とし、楽安王傅を代行させ、爵を進めて済南公とした。崔徽は政務において大綱を重んじ、小事には親しまなかった。性来、人倫を好み、賓客を引き接しては、平生を語り、あるいは道義を講論し、後進を誨誘して、終日やまなかった。病気のため京師に召還された。真君四年に卒去し、諡を元公という。士類は皆歎惜した。

原文玄伯弟徽,字玄猷。少有文才,與勃海高演俱知名。初徵相州別駕、中書侍郎,稍遷祕書監,賜爵貝丘侯,加龍驤將軍。樂安王範鎮長安,世祖以範年少,而三秦民夷,恃險多變,乃選忠清舊德之士,與範俱鎮。以徽為散騎常侍、督雍涇梁秦四州諸軍事、平西將軍、副將,行樂安王傅,進爵濟南公。徽為政務存大體,不親小事。性好人倫。引接賓客,或談及平生,或講論道義,誨誘後進,終日不止。以疾徵還京師。真君四年卒,諡曰元公。士類無不歎惜。

宗族に崔寬がいる。

原文宗族 崔寬

時に清河の崔寬は、字を景仁という。祖父の崔彤は、晋の南陽王司馬保に従って隴右に避地し、遂に沮渠氏や李暠に仕えた。父の崔剖は、字を伯宗といい、常に慷慨して東土を懐かしみ、しばしば歎じて言った、「風雨晦冥の時、鶏鳴やまず、我が庶幾いずくにかあらん」。世祖が西巡した時、崔剖は同義の者を総率し、崔寬をして帰順の意を伝えさせた。世祖はこれを嘉し、崔寬を威遠将軍・岐陽令に任じ、爵を沂水男に賜った。使者を崔寬と共に西に向かわせ、初めて帰附した者を撫慰させた。崔剖を京師に徴したが、到着せずに病没した。高宗は崔剖の誠意が先朝に顕著であったとして、散騎常侍・鎮西将軍・涼州刺史・武陵公を追贈し、諡を元といった。

原文時清河崔寬,字景仁。祖彤,隨晉南陽王保避地隴右,遂仕於沮渠、李暠。父剖,字伯宗,每慷慨有懷東土,常歎曰:「風雨如晦,鷄鳴不已,吾所庶幾。」及世祖西巡,剖乃總率同義,使寬送款。世祖嘉之,拜寬威遠將軍、岐陽令,賜爵沂水男。遣使與寬俱西,撫慰初附。徵剖詣京師,未至,病卒。高宗以剖誠著先朝,贈散騎常侍、鎮西將軍、涼州刺史、武陵公,諡曰元。

崔寬は京に戻り、散騎侍郎・寧朔将軍・安国子に任じられた。間もなく出て弘農太守となった。初め、崔寬が帰順した時、司徒崔浩に面会した。崔浩は彼と年齢順に席次を定め、厚く慰撫した。崔浩が誅殺された時、遠来の疎族であったため、ただ一人連坐を免れた。遂に武城に家を構え、司空林の旧墟に住み、一子を崔浩の弟崔覧の妻封氏の後継ぎとし、親のように仕えさせた。崔寬は後に爵の武陵公・鎮西将軍を襲い、陝城鎮将に任じられた。二崤の地は険阻で、民は多く寇盗を働いた。崔寬は性来滑稽で、豪族や宿盗の首領を誘い接し、彼らと交結し、襟を傾けて待遇し、些細なことにも逆らわなかった。それ故に民衆の歓心を得て、その意気に感じない者はなかった。当時、官には禄力がなく、ただ民から取って給していた。崔寬は撫納に巧みで、礼遺を招致し、多くを受け取ったが、与える者に恨みはなかった。また弘農は漆・蠟・竹・木が豊富で、南への通路もあり、販貿が往来した。家産は豊かになり、百姓もこれを喜んだ。諸鎮の中で、能政と称された。鎮を解かれて京に戻る時、民は多く追慕し、闕に上章した者が三百余人もいた。上奏文が奏上されると、高祖はこれを嘉した。延興二年に卒去し、六十三歳であった。遺命は薄葬で、時服で斂めた。

原文寬還京,拜散騎侍郎、寧朔將軍、安國子。未幾,出為弘農太守。初,寬之通款也,見司徒浩。浩與相齒次,厚存撫之。及浩誅,以遠來疏族,獨得不坐。遂家于武城,居司空林舊墟,以一子繼浩弟覽妻封氏,相奉如親。寬後襲爵武陵公、鎮西將軍,拜陝城鎮將。二崤地嶮,民多寇劫。寬性滑稽,誘接豪右、宿盜魁帥,與相交結,傾衿待遇,不逆微細。是以能得民庶忻心,莫不感其意氣。時官無祿力,唯取給於民。寬善撫納,招致禮遺,大有受取,而與之者無恨。又弘農出漆蠟竹木之饒,路與南通,販貿來往。家產豐富,而百姓樂之。諸鎮之中,號為能政。及解鎮還京,民多追戀,詣闕上章者三百餘人。書奏,高祖嘉之。延興二年卒,年六十三,遺命薄葬,斂以時服。

崔寬の長子は崔衡である。

原文崔寬長子 崔衡

長子の崔衡は、字を伯玉といい、若くして孝行で著名であった。崔浩の書を学び、よく似ていた。天安元年、内秘書中散に抜擢され、詔命の下達や御覧の書の多くは彼の筆跡であった。崔衡は李沖・李元愷・程駿らを推挙し、彼らは終に名器となり、世はこれをもって崔衡を称えた。承明元年、内都坐令に転じ、獄事の裁断に巧みで、高祖に嘉された。太和二年、爵の武陵公・鎮西将軍を襲い、給事中に転じた。車駕が巡狩する時、崔衡を大都督長史とした。崔衡は書史に渉猟し、防備の方法や便国利民の策、凡そ五十余条を上陳した。本将軍のまま泰州刺史に任じられ、爵を斉郡公に移封された。先に、河東は凶作が続き、劫盗が大いに起こったが、崔衡が着任すると、龔遂の法を修め、農桑を勧課し、一年の間に寇盗は止息した。十二年に卒去し、五十四歳であった。散騎常侍・左光禄大夫・本将軍・冀州刺史を追贈し、帛一千匹・穀一千斛を賜り、諡を恵公といった。崔衡には五子があった。

原文長子衡,字伯玉,少以孝行著稱。學崔浩書,頗亦類焉。天安元年,擢為內祕書中散,班下詔命及御所覽書,多其迹也。衡舉李沖、李元愷、程駿等,終為名器,世以是稱之。承明元年,遷內都坐令,善折獄,高祖嘉之。太和二年,襲爵武陵公,鎮西將軍。遷給事中。車駕巡狩,以衡為大都督長史。衡涉獵書史,陳備禦之方,便國利民之策,凡五十餘條。以本將軍除泰州刺史,徙爵齊郡公。先是,河東年饑,劫盜大起,衡至,修龔遂之法,勸課農桑,周年之間,寇盜止息。十二年卒,年五十四。贈散騎常侍、左光祿大夫、本將軍、冀州刺史,帛一千匹、穀一千斛,諡曰惠公。衡有五子。

崔寬の長子の長子は崔敞である。

原文崔寬長子長子 崔敞

長子の崔敞は、字を公世といい、爵を襲い、例により侯に降格された。謁者僕射から出て平原相となった。崔敞は性来狷急で、刺史の楊椿と互いに上表して非難し合い、崔敞は免官に処された。世宗の初年、鉅鹿太守となった。弟の崔朏が叛逆した時、崔敞は黄木軍主の韓文殊に匿われた。その家は全て籍没されたが、ただ崔敞の妻李氏だけは、公主の甥であったため、従っていた奴婢と田宅二百余口が免れた。正光年間、禁錮が広く解除されると、崔敞は再び斉郡侯の爵位を回復し、龍驤将軍・中散大夫に任じられた。孝昌年間、趙郡太守となった。卒去した。

原文長子敞,字公世,襲爵,例降為侯。自謁者僕射,出為平原相。敞性狷急,與刺史楊椿迭相表列,敞坐免官。世宗初,為鉅鹿太守。弟朏之逆,敞為黃木軍主韓文殊所藏。其家悉見籍沒,唯敞妻李氏,以公主之甥,自隨奴婢田宅二百餘口得免。正光中,普釋禁錮,敞復爵齊郡侯,拜龍驤將軍、中散大夫。孝昌中,趙郡太守。卒。

崔寛の長子の次子は崔鍾である。

原文崔寬長子次子 崔鍾

敞の弟の鍾は、字を公祿といい、奉朝請を務めた。弟の朏が謀反を起こした際、出後(他家へ養子に出ていた)であったため罪を赦された。尚書郎・国子博士・司徒右長史・征北将軍・金紫光禄大夫・冀州大中正を歴任した。敞が亡くなった後、鍾はその財物を貪り、敞の実子の積ら三人を誣告し、兄の胤ではないと訴え、数年にもわたって訴訟を起こしたため、人士はこれを憎んだ。尒朱世隆が尚書令となった時、その官を除くことを上奏し、終身にわたり登用されなかった。

原文敞弟鍾,字公祿,奉朝請。弟朏之逆,以出後被原。歷尚書郎、國子博士、司徒右長史、征北將軍、金紫光祿大夫、冀州大中正。敞亡後,鍾貪其財物,誣敞息子積等三人,非兄之胤,辭訴累歲,人士嫉之。尒朱世隆為尚書令,奏除其官,終身不齒。

崔寛の長子の三子は崔朏である。

原文崔寬長子三子 崔朏

朏は学問を好み、文才があった。治書侍御史・京兆王愉の録事参軍を歴任した。愉とともに謀反を起こし、処刑された。

原文朏好學,有文才。歷治書侍御史、京兆王愉錄事參軍。與愉同逆,伏法。

崔寛の次子は崔恕である。

原文崔寬次子 崔恕

衡の弟の恕は、尚書郎を務めた。

原文衡弟恕,尚書郎。

宗族として崔模がいる。

原文宗族 崔模

また崔模という者がいた。字は思範といい、魏の中尉崔琰の兄である崔霸の子孫である。父の遵は、慕容垂の少府卿であった。叔父の整は、広川太守であった。模は、慕容熙の末年に南へ渡って河外に至り、劉裕の滎陽太守となり、虎牢を守備した。神䴥年間に、滑臺が平定されると、模は帰順した。後に武陵男の爵位を賜り、寧遠将軍を加えられた。

原文又有崔模,字思範,魏中尉崔琰兄霸後也。父遵,慕容垂少府卿。叔父整,廣川太守。模,慕容熙末南渡河外,為劉裕滎陽太守,戍虎牢。神䴥中,平滑臺,模歸降。後賜爵武陵男,加寧遠將軍。

初め模が南朝にいた時、妻の張氏がおり、二人の子、沖智と季柔がいた。模が京師に至ると、妻として金氏を賜り、子の幼度を生んだ。沖智らは父が遠く隔てられているのを思い、財貨を集め、密かに国境を託けて、模を贖い帰らせようと図った。その母の張氏は常に彼らに言った。「汝の父の性質は思いやり深く、もともと決断力に乏しい。必ずや来ることはできまい。」使者は遂に財賄を携えて都に至り、密かに模を連れ戻そうとした。模は果たして幼度らのことを顧み、幼度を指して使者に言った。「どうしてこの者らを捨てて、刑罰や辱めに遭わせることができようか。お前たちのために一人を連れて行かせよう。その名位は私に劣らぬ者だ。」そこで申謨を授けた。謨は、劉義隆の東郡太守で、朱脩之とともに滑臺を守っていたが、神䴥年間に捕らえられて北朝に入り、共に妻を賜り、子の霊度を生んでいた。申謨はこのことを聞くと、妻子を棄てて逃走し、江外に帰った。霊度は刑罰を受けて宦官とされた。

原文始模在南妻張氏,有二子,沖智、季柔。模至京師,賜妻金氏,生子幼度。沖智等以父隔遠,乃聚貨物,間託關境,規贖模歸。其母張氏每謂之曰:「汝父性懷,本自無決,必不能來也。」行人遂以財賄至都,當竊模還。模果顧念幼度等,指幼度謂行人曰:「吾何忍捨此輩,令坐致刑辱,當為爾取一人,使名位不減於我。」乃授以申謨。謨,劉義隆東郡太守,與朱脩之守滑臺,神䴥中,被執入國,俱得賜妻,生子靈度。申謨聞此,乃棄妻子,走還江外。靈度刑為閹人。

模は長者で篤実敦厚であり、栄利を営まず、崔浩からはかなり軽侮されたが、志を守って確然としており、浩に屈しなかった。崔賾と親しくし、往来は家のようであった。和平年間に卒去した。

原文模長者篤厚,不營榮利,頗為崔浩輕侮,而守志確然,不為浩屈。與崔賾相親,往來如家。和平中卒。

皇興の初め、幼度は慕容白曜に従って将軍となった。時に季柔は崔道固の長史となり、済南太守を兼ねていた。城が降伏しようとする時、先に馬を馳せて白曜の軍に赴いたが、幼度もまたあらかじめ左右に迎えを探らせていた。しかし互いにすれ違い、会うことができず、幼度は乱兵に害された。

原文皇興初,幼度隨慕容白曜為將。時季柔為崔道固長史,帶濟南太守。城將降,先馳馬赴白曜軍,幼度亦豫令左右覘迎之,而差互不相值,為亂兵所害。

初め、真君の末年、車駕が南征して鄒山を攻克した時、模の兄の協の子である邪利が、劉義隆の魯郡太守としており、郡を挙げて降伏した。臨淄子の爵位を賜り、広寧太守に任じられ、郡において卒去した。邪利には二人の子があった。懐順は父が北朝に入ったため、仕官しなかった。国家が青州を攻克すると、懐順は邪利の喪を迎え、青州に還葬した。次子の恩は、累ねて州の主簿となり、刺史の陸龍成の時に至り謀反を企て、城北の高柳村に集結し、州城を攻めようとしたが、龍成に討たれて斬られた。懐順は沖智の子の徽伯らとともに江外へ奔った。

原文初,真君末,車駕南克鄒山,模兄協子邪利為劉義隆魯郡太守,以郡降,賜爵臨淄子,拜廣寧太守,卒於郡。邪利二子。懷順以父入國,故不出仕。及國家克青州,懷順迎邪利喪,還葬青州。次恩,累政州主簿,至刺史陸龍成時謀叛,聚城北高柳村,將攻州城,龍成討斬之。懷順與冲智子徽伯等俱奔江外。

初め邪利は二人の娘とともに北朝に入った。一人の娘は張氏の妻となり、もう一人の娘は劉休賓の妻となり、子の文華を生んだ。邪利は後に庶子の法始を生んだ。邪利が亡くなった後、二人の娘は法始が庶子であることを侮り、常に文華に外祖父の爵位である臨淄子を継がせようとした。法始は恨み憤り、あらゆることを行った。後に懐順が帰化して喪を迎え、初めて法始と相見えた。間もなく、法始は爵位を継ぐことを得て、孫の延族に伝わり、正光年間に冠軍将軍・中散大夫となった。

原文始邪利與二女俱入國,一女為張氏婦,一女為劉休賓妻,生子文華。邪利後生庶子法始。邪利亡後,二女侮法始庶孽,常欲令文華襲外祖爵臨淄子。法始恨忿,無所不為。後懷順歸化迎喪,始與法始相見。未幾,法始得襲爵,傳至孫延族,正光中,為冠軍將軍、中散大夫。

崔模の次子の子の子は崔睦である。

原文崔模次子子子 崔睦

季柔の孫の睦は、正光三年に、郁州より帰順した。

原文季柔孫睦,正光三年,自郁州歸降。

崔模の子の子の子、崔景茂。

原文崔模□子子子 崔景茂

崔模の孫の景茂は、冀州別駕・青州長史・隨郡太守・武城男となった。

原文模孫景茂,冀州別駕、青州長史、隨郡太守、武城男。

崔模の子の子の子の子、崔彥遠。

原文崔模□子子子子 崔彥遠

景茂の子の彥遠は、爵位を襲い、武定年間に北徐州司馬となった。

原文景茂子彥遠,襲。武定中,北徐州司馬。

始睦が降伏して来た時、高陵の張炅・郭縕と共に至った。張陵は、蕭寶夤が西征した際に開府西閣祭酒となり、宝夤が反乱すると、その黄門侍郎となった。関中平定後、洛陽に帰還し、尚書郎・定州別駕を歴任した。斉の文襄王が宰相となると、張陵は頗る文学があったので、賓客として招かれた。征南将軍・司空長史の任で没し、驃騎大将軍・大司農卿を追贈された。

原文始睦來降也,與高陵張炅、郭縕俱至。陵,蕭寶夤西討開府西閣祭酒,寶夤反,陵其黃門侍郎。關中平,還洛,歷尚書郎、定州別駕。齊文襄王作相,以陵頗有文學,引參賓客。終於征南將軍、司空長史。贈驃騎大將軍、大司農卿。

宗族、崔道固。

原文宗族 崔道固

顕祖の時、崔道固という者がいた。字は季堅、崔琰の八世の孫である。祖父の瓊は、慕容垂の車騎属であった。父の輯は、南に移って青州に至り、泰山太守となった。道固は庶子であったため、嫡母の兄の攸之・目連らに軽侮された。輯は攸之に言った、「この児の姿と識見はこのようである。あるいは家門を興すことができるかもしれぬ。汝らはどうして軽んずるのか」と。攸之らは彼をますます薄遇し、兄弟の礼を全く尽くさなかった。

原文顯祖時,有崔道固,字季堅,琰八世孫也。祖瓊,慕容垂車騎屬。父輯,南徙青州,為泰山太守。道固賤出,嫡母兄攸之、目連等輕侮之。輯謂攸之曰:「此兒姿識如此,或能興人門戶,汝等何以輕之?」攸之等遇之彌薄,略無兄弟之禮。

当時、劉義隆の子の駿が徐兗二州刺史となっており、他州の民を辟召して従事とすることができた。輯は道固に資金を与え、南に仕官させた。彭城に到着すると、駿は彼を従事とした。道固は容貌が美しく、挙措が優れ、弓馬に巧みで、武事を好んだので、駿は次第に彼を嘉した。ちょうど青州刺史が新任され、彭城を通り過ぎた時、駿は刺史に言った、「崔道固の人物はこのようである。どうして寒士のままで老いることができようか。世の人は彼が庶子であるため、便りに陵侮する。嘆かわしいことである」と。青州刺史は州に着くと、彼を主簿に辟召し、後に治中に転じた。後に義隆の諸子の参軍事となり、青州に派遣されて人を募った。長史以下は皆道固を訪れたが、道固の諸兄らは道固の実母に迫り、自ら客の前で酒食を運ばせた。道固は驚いて立ち上がり受け取ると、客に言った、「家に人手がなく、老いた母自らが労苦を執っている」と。諸客は皆、これが兄弟の仕業であると知り、皆立ち上がってその母に拝謝した。母は道固に言った、「私は賤しい身で貴賓に報いるに足りない。汝が答拝すべきである」と。諸客は皆道固母子を嘆美し、その諸兄を軽蔑した。

原文時劉義隆子駿為徐兗二州刺史,得辟他州民為從事。輯乃資給道固,令其南仕。既至彭城,駿以為從事。道固美形容,善舉止,便弓馬,好武事,駿稍嘉之。會青州刺史新除,過彭城,駿謂之曰:「崔道固人身如此,豈可為寒士至老乎?而世人以其偏庶,便相陵侮,可為歎息。」青州刺史至州,辟為主簿,轉治中。後為義隆諸子參軍事,被遣向青州募人。長史已下皆詣道固,道固諸兄等逼道固所生母自致酒炙於客前。道固驚起接取,謂客曰:「家無人力,老親自執劬勞。」諸客皆知其兄弟所作,咸起拜謝其母。母謂道固曰:「我賤不足以報貴賓,汝宜答拜。」諸客皆歎美道固母子,賤其諸兄。

後に寧朔将軍・冀州刺史となり、鎮所を歴城に移した。劉彧が子業を殺して自立すると、徐州刺史薛安都と道固らは兵を挙げて子業の弟の子勛を推戴した。子勛が敗れると、表を遣わして帰順を申し出たので、顕祖は彼を安南将軍・南冀州刺史・清河公とした。劉彧は使者を遣わして道固を説得し、前将軍・徐州刺史とした。道固は再び叛いて彧の命を受けた。

原文後為寧朔將軍、冀州刺史,移鎮歷城。劉彧既殺子業自立,徐州刺史薛安都與道固等舉兵推立子業弟子勛。子勛敗,乃遣表歸誠,顯祖以為安南將軍、南冀州刺史、清河公。劉彧遣說道固,以為前將軍、徐州刺史。復叛受彧命。

皇興初年、顕祖は征南大将軍慕容白曜に詔して長囲を築いて守らせた。白曜が城の東郭を攻撃すると、道固は面縛して罪を請い、上表して言った、「臣は南境に生まれ育ち、大化(北魏の教化)と隔たっておりました。本朝(宋)は臣を卑末とせず、藩任を委ねられました。しかし劉氏に蕭牆の内訌があり、大戮を招くことを恐れ、以前に崔啓之を遣わして表を奉り帰順を申し上げました。幸い陛下が過分に哀れみ受け入れられ、爵位と寵愛を賜り、慶びは極まりなく、朝廷に馳せ参ずべきでありました。しかし劉彧が直ちに使者を続けて遣わし、臣の百死を赦しました。愚かにも、代々劉氏に仕えてきたことを思い、深く罪を赦されたのに、もしなお背くならば、それは本朝に不忠でありながら、大魏に忠を求めようとするものです。生き延びたいとは言え、大魏が許されないことを恐れました。このため迷い、天子の恩に背き、万死の艱難を冒して、固く拒んで守りました。僕臣の白曜が威霊を振るい、二年を経て、大将が城に臨み、今月十四日、臣の東郭が陥落し、臣の劉彧に対する誠意は、大魏において明らかになったことでしょう。臣は勢い尽き力屈し、十七日に面縛して罪を請いました。白曜は皇恩を宣べ、臣の生命を赦されました。これはまさに陛下が臣の死屍を起こし、朽ちた骨に肉を与えられたことであり、天地の造物主でさえ行えないことを、陛下は育ててくださったのです。虞舜が有苗を赦し、周の文王が崇侯を赦したことと比べても、聖なる恩沢には及びません。まだ朝廷のご旨を奉じておらず、自ら道路を馳せ参ずる由もありません。謹んで長子の景徽を遣わし、骸を束ねて宮闕に帰し、刑罰をお受けするのを伏して待ちます」と。

原文皇興初,顯祖詔征南大將軍慕容白曜固築長圍以守之。及白曜攻其城東郭,道固面縛請罪,表曰:「臣資生南境,限隔大化,本朝不以卑末,委授藩任。而劉氏蕭牆內侮,懼貽大戮,前遣崔啟之奉表歸誠,幸蒙陛下過垂矜納,并賜爵寵,慶佩罔極,應奔闕庭。但劉彧尋續遣使,恕臣百死。愚以世奉劉氏,深愆蒙宥,若猶違背,則是不忠於本朝,而欲求忠於大魏。雖曰希生,懼大魏之所不許。是用迷回,孤負天日,冒萬死之艱,固執拒守。僕臣白曜,振曜威靈,漸經二載,大將臨城,以今月十四日,臣東郭失守,於臣款彧之誠,庶可以彰於大魏矣。臣勢窮力屈,以十七日面縛請罪,白曜奉宣皇恩,恕臣生命。斯實陛下起臣死尸,肉臣朽骨,天地造物所不能行,而陛下育之。雖虞舜之貸有苗,姬文之宥崇壘,方之聖澤,未足以喻。既未奉朝旨,無由親馳道路,謹遣大息景徽,束骸歸闕,伏聽刑斧。」

やがて白曜は道固を都に送った。有司が取り調べて弾劾し、上奏すると、詔してその死を赦した。そこで青斉の士望で道固と共に城を守った数百家を桑乾に移し、平城の西北、北新城に平斉郡を立てた。道固を太守とし、臨淄子の爵位を賜い、寧朔将軍を加えた。まもなく郡治を京城の西南二百余里、旧陰館の西に移した。この時、連年凶作が続き、郡内は飢え疲弊した。道固は在任多年であったが、撫慰が行き届かず、そのため怨み叛く者が多かった。延興年間に卒し、五十歳であった。

原文既而白曜送道固赴都,有司案劾,奏聞,詔恕其死。乃徙青齊士望共道固守城者數百家於桑乾,立平齊郡於平城西北北新城。以道固為太守,賜爵臨淄子,加寧朔將軍。尋徙治京城西南二百餘里舊陰館之西。是時,頻歲不登,郡內飢弊,道固雖在任積年,撫慰未能周盡,是以多有怨叛。延興中卒,年五十。

初め、道固が客邸にいた時、薛安都・畢衆敬と隣り合う館舎に住み、時に朝集で互いに会った。元々共に武勲で出世したので、旧僚として親しく交わった。当時、安都は志すところは既に衰え、道固への情は疎遠であったが、衆敬は常に殷勤を尽くした。道固は劉休賓・房法壽に言った、「古人が『我が族類でなければ、その心は必ず異なる』と言ったが、確かに虚言ではない。安都は人を見るに甚だ冷淡であるが、畢捺(衆敬)はやはり懐かしむ思いがある」と。

原文初,道固之在客邸,與薛安都畢眾敬隣館,時以朝集相見,本既同由武達,頗結僚舊。時安都志已衰朽,於道固情乃疏略,而眾敬每盡殷勤。道固謂劉休賓、房法壽曰:「古人云『非我族類,其心必異』,信不虛也。安都視人殊自蕭索,畢捺固依依也。」

崔道固の長子、崔景徽。

原文崔道固長子 崔景徽

子の景徽は、字を文叡といい、父の爵位臨淄子を襲ぎ、寧朔将軍を加えられた。出て青州の広陵王元羽の征東府司馬・大鴻臚少卿となった。出て龍驤将軍・平州刺史に任ぜられた。卒すると、本官の将軍・南青州刺史を追贈され、諡を定といった。子の休纂が爵位を襲いだ。

原文子景徽,字文叡,襲父爵臨淄子,加寧朔將軍。出為青州廣陵王羽征東府司馬、大鴻臚少卿。出除龍驤將軍、平州刺史。卒,贈本將軍、南青州刺史,諡曰定。子休纂襲爵。

崔道固の次子、崔景業。

原文崔道固次子 崔景業

景徽の弟景業、字は文季。別に功績があり、太和年間に昌國子の爵位を賜り、建威將軍を加えられた。没す。子の休緒が爵位を襲い、員外郎となった。

原文景徽弟景業,字文季。別有功,太和中,賜爵昌國子,加建威將軍。卒。子休緒襲爵,員外郎。

崔道固の三子、崔景淵。

原文崔道固三子 崔景淵

景業の弟景淵もまた別に功績があり、武城男の爵位を賜った。鷹揚將軍・平齊太守。郡において没した。

原文景業弟景淵,亦有別功,賜爵武城男。鷹揚將軍、平齊太守。卒於郡。

崔道固の従長子、崔僧祐。

原文崔道固従長子 崔僧祐

道固の兄目連の子僧祐。白曜が歴城を包囲したとき、僧祐の母明氏と弟僧淵はともに城内にいた。劉彧は僧祐に輔國將軍を授け、数千の兵を率いさせ、青州・齊州の家眷が歴城・梁鄒にある者である明同慶・明菩薩らを将佐として、淮海から救援の声を揚げて進軍させた。不其に至らんとしたとき、道固がすでに敗れ、母と弟が魏に入ったと聞き、徘徊して進まなかった。白曜が東陽を包囲したとき、上表して景徽を遣わし僧祐を諭させたところ、ついに帰降した。白曜は彼を送り、客として数年を過ごし、層城侯の爵位を賜った。房法壽・畢薩ら諸人とは皆和合しなかった。法壽らは彼が帰国に誠意がないと訴え、一年余り拘束したが、赦令によって釈放された。後に沙門法秀の謀反に連座し、刑に伏した。

原文道固兄目連子僧祐。白曜之圍歷城也,僧祐母明氏、弟僧淵並在城內。劉彧授僧祐輔國將軍,領眾數千,與青齊人家口在歷城、梁鄒者明同慶、明菩薩等為將佐,從淮海揚聲救援。將至不其,聞道固已敗,母弟入國,徘徊不進。白曜圍東陽時,表請景徽往喻僧祐,乃歸降。白曜送之,在客數載,賜爵層城侯。與房法壽、畢薩諸人皆不穆。法壽等訟其歸國無誠,拘之歲餘,因赦乃釋。後坐與沙門法秀謀反,伏法。

崔道固の従長子の子、崔道寧。

原文崔道固従長子子 崔道寧

子の道寧、給事中。

原文子道寧,給事中。

崔道固の従次子、崔僧淵。

原文崔道固従次子 崔僧淵

僧淵は魏に入り、兄弟に連座して薄骨律鎮に移されたが、太和初年に帰還を得た。高祖は彼に文学があると聞き、また仏経について問い、談論を善くするので、詔して白衣の身で褠幘を賜い、永楽経武殿に入って聴講させた。後に僧淵を尚書儀曹郎とした。洛陽遷都の後、青州中正となった。まもなく出て征東大将軍・広陵王元羽の諮議参軍となり、顕武將軍を加えられ、黄郭において海賊を討ち、これを大破した。蕭鸞はその族兄の恵景を遣わして僧淵に書を送り、魏に入った屈辱を説き、図りを改めるよう勧めた。僧淵は返書して言うには:

原文僧淵入國,坐兄弟徙於薄骨律鎮,太和初得還。高祖聞其有文學,又問佛經,善談論,敕以白衣賜褠幘,入聽于永樂經武殿。後以僧淵為尚書儀曹郎。遷洛之後,為青州中正。尋出為征東大將軍、廣陵王羽諮議參軍,加顯武將軍,討海賊於黃郭,大破之。蕭鸞乃遣其族兄惠景遺僧淵書,說以入國之屈,規令改圖。僧淵復書曰:

龍驤將軍・南青州刺史として出された。久しくして、根拠なく師を出した罪に坐し、取り調べられ幽閉されたが、後にようやく免ぜられた。

原文出除龍驤將軍、南青州刺史。久之,坐擅出師無據,檢覈幽禁,後乃獲免。

僧淵の元妻房氏は二子、伯驎・伯驥を生んだ。後に房氏を疎んじ、さらに平原の杜氏を娶った。僧淵が移されたとき、杜氏とともに去り、四子、伯鳳・祖龍・祖螭・祖虬を生んだ。帰還を得た後、房氏を棄て絶ち、ついに杜氏および四子とともに青州に家を構えた。伯驥は母房氏とともに冀州に住み、父のもとへ往来はしたが、心は母方にあり、孝慈の道は、たちまち一門に阻まれた。僧淵は没し、年七十余り。伯驎は駆けつけたが、家に入ることを敢えず、沙門寺で哭した。

原文僧淵元妻房氏生二子伯驎、伯驥。後薄房氏,更納平原杜氏。僧淵之徙也,與杜俱去,生四子,伯鳳、祖龍、祖螭、祖虬。得還之後,棄絕房氏,遂與杜氏及四子家于青州。伯驥與母房氏居于冀州,雖往來父間,而心存母氏,孝慈之道,頓阻一門。僧淵卒,年七十餘。伯驎雖往奔赴,不敢入家,哭沙門寺。

崔道固の従次子の長子、崔伯驎。

原文崔道固従次子長子 崔伯驎

伯驎は、奉朝請より始まり、次第に昇進して歩兵校尉・楽陵太守となり、中堅將軍を加えられた。後に冀州長史を兼ねた。大乗の賊が起こると、伯驎は州軍を率いて煮棗城においてこれを討ち、賊のために殺された。龍驤將軍・洛州刺史を追贈された。

原文伯驎,自奉朝請,稍遷步兵校尉、樂陵太守,加中堅將軍。後兼冀州長史。大乘賊起,伯驎率州軍討之於煮棗城,為賊所殺,贈龍驤將軍、洛州刺史。

崔道固の従次子の次子、崔伯驎。

原文崔道固従次子次子 崔伯驥

伯驎は、京兆王元愉の法曹参軍となった。元愉が反乱すると、伯驎は従わず、害された。詔して東海太守を追贈された。

原文伯驥,為京兆王愉法曹參軍。愉反,伯驥不從,見害,詔贈東海太守。

崔道固の従次子の三子、崔伯鳳。

原文崔道固従次子三子 崔伯鳳

伯鳳は、幼少より弓馬に親しみ、壮年には勇猛で膂力があった。奉朝請・員外郎を経て、次第に鎮遠将軍・前将軍に昇進し、数度将帥を務めた。永安の末、都督の源子恭とともに丹谷を守り、戦死した。

原文伯鳳,少便弓馬,壯勇有膂力。自奉朝請、員外郎,稍遷鎮遠將軍、前將軍,數為將帥。永安末,與都督源子恭守丹谷,戰歿。

崔道固の従次子の四子、崔祖龍。

原文崔道固従次子四子 崔祖龍

祖龍は、司空行参軍であった。性質は剛直で躁急、父の死後、兄の伯驎と嫡庶を争って訴訟し、互いに刀剣で身を守り、まるで仇敵のようであった。

原文祖龍,司空行參軍。性剛躁,父亡後,與兄伯驎訟競嫡庶,並以刀劍自衞,若怨讎焉。

崔道固の従次子の五子、崔祖螭。

原文崔道固従次子五子 崔祖螭

祖螭は、小字を社客といい、粗暴で武勇があり気力があった。刺史の元羅が板授により兼統軍とし、兵を率いて海賊を討伐させた。普泰の初め、張僧皓とともに反乱を起こし、青州を包囲した。尒朱仲遠が将を派遣してこれを討ち平らげ、その首を京師に伝送した。

原文祖螭,小字社客,粗武有氣力。刺史元羅板為兼統軍,率眾討海賊。普泰初,與張僧皓俱反,圍青州。尒朱仲遠遣將討平之,傳首京師。

崔道固の従次子の六子、崔祖虬。

原文崔道固従次子六子 崔祖虬

祖虬は、若くして学問を好み、帷を下ろして書を誦し、当世の駆け競いには加わらなかった。秀才に推挙されたが就任しなかった。

原文祖虬,少而好學,下帷誦書,不驅競當世。舉秀才不就。

崔僧淵の従弟、崔和。

原文崔僧淵從弟 崔和

僧淵の従弟の和は、平昌太守であった。家は巨富であったが、性質は吝嗇で、銭を数百斛も埋めていた。その母の李が春に堇を欲しがったが、惜しんで買わなかった。

原文僧淵從弟和,平昌太守。家巨富,而性吝嗇,埋錢數百斛。其母李春思堇,惜錢不買。

崔僧淵の従弟の子、崔軌。

原文崔僧淵從弟子 崔軌

子の軌は、字を啓則といい、銭百万を盗み、和のもとを背いて逃亡した。後に儀同開府鎧曹参軍となり、貪汙の罪に坐し、晋陽で死んだ。

原文子軌,字啟則,盜錢百萬,背和亡走。後為儀同開府鎧曹參軍,坐貪汙,死於晉陽。

董謐。

原文董謐

玄伯の同郡の董謐。謐の父の京は、同郡の崔康時・広陽の霍原らとともに、碩学をもって遼海に名声を広めた。謐は学問を好み、父の業を伝えた。中山が平定されると、朝廷に入り、儀曹郎に任じられ、朝覲・饗宴・郊廟・社稷の儀礼を撰述した。

原文玄伯同郡董謐。謐父京,與同郡崔康時、廣陽霍原等,俱以碩學播名遼海。謐好學,傳父業。中山平,入朝,拜儀曹郎,撰朝覲饗宴郊廟社稷之儀。

鄧淵。

原文鄧淵

鄧淵、字は彦海、安定の人である。祖父の羌は、苻堅の車騎将軍であった。父の翼は、河間の相であった。慕容垂が鄴を包囲したとき、翼を後将軍・冀州刺史・真定侯に任じようとした。翼は使者に対し涙ながらに言った。「先君は秦室に忠誠を尽くしました。翼がどうして先に叛くことができましょうか。忠臣は二君に仕えず、これは古来からの通義であり、命に従うことはできません。」垂は使者を遣わして諭して言った。「我は車騎将軍(鄧羌)と異姓の兄弟の契りを結んだ。卿もまた我が子弟のようなものだ。どうして辞退できようか。」翼は言った。「冀州は親族か賢者を任ずべきです。翼は他の役目で命を尽くさせてください。」垂はそこで建武将軍・河間太守・尚書左丞に任用し、いずれも名声があった。趙郡内史の任で没した。

原文鄧淵,字彥海,安定人也。祖羌,苻堅車騎將軍。父翼,河間相。慕容垂之圍鄴,以翼為後將軍、冀州刺史、真定侯。翼泣對使者曰:「先君忠于秦室,翼豈可先叛乎!忠臣不事二主,自古通義,未敢聞命。」垂遣使喻之曰:「吾與車騎結異姓兄弟,卿亦猶吾之子弟,安得辭乎?」翼曰:「冀州宜任親賢,翼請他役效命。」垂乃用為建武將軍、河間太守、尚書左丞,皆有聲稱。卒於趙郡內史。

淵は性質が貞実で素朴であり、言行は信頼に足り、経書を広く読み、易の占いに長じていた。太祖が中原を平定すると、著作郎に抜擢された。出向して蒲丘県令となり、姦猾の徒を誅伐し、盗賊を粛清した。内遷して尚書吏部郎となった。淵は制度に明るく、旧事を多く識っており、尚書の崔玄伯とともに朝儀・律令・音楽を参定し、軍国文記や詔策の多くは淵の手によるものであった。平陽征討に従軍し、功により爵位を漢昌子に賜り、後に下博子に改め、中壘将軍を加えられた。太祖は淵に詔して国記を撰述させた。淵は十余巻を作成したが、ただ年月と起居行事を記すのみで、まだ体例がなかった。淵は朝事に謹んで、一度も旨に逆らうことはなかった。

原文淵性貞素,言行可復,博覽經書,長於易筮。太祖定中原,擢為著作郎。出為蒲丘令,誅剪姦猾,盜賊肅清。入為尚書吏部郎。淵明解制度,多識舊事,與尚書崔玄伯參定朝儀、律令、音樂,及軍國文記詔策,多淵所為。從征平陽,以功賜爵漢昌子,改下博子,加中壘將軍。太祖詔淵撰國記,淵造十餘卷,惟次年月起居行事而已,未有體例。淵謹於朝事,未嘗忤旨。

その従父弟の暉は尚書郎であったが、凶暴で任侠を好み、定陵侯の和跋と親しくしていた。跋が罪を得て誅されると、その子弟は長安に奔った。ある者が暉が彼らを送り出そうとしていると告げた。これにより太祖は淵が事情を知っているのではないかと疑い、ついに淵に死を賜ったが、後にこれを悔いた。当時の人々は皆、淵を哀れみ惜しんだ。

原文其從父弟暉為尚書郎,兇俠好奇,與定陵侯和跋厚善。跋有罪誅,其子弟奔長安,或告暉將送出之。由是太祖疑淵知情,遂賜淵死,既而恨之。時人咸愍惜焉。

長子は鄧潁である。

原文長子 鄧潁

子の潁は爵位を襲った。太学生となり、やがて中書侍郎に昇進した。世祖は太常の崔浩に詔して諸文学を集め、国書を撰述させた。潁は浩の弟の覧らとともに著作の事に参与した。皇帝が漠南に行幸したとき、高車の莫弗(部族長)の庫若干が数万騎を率い、百余万頭の鹿を駆って行在所に詣でた。詔により潁が文章を作り、漠南に銘を刻んで、その功德を記念した。散騎常侍を兼ね、劉義隆(宋の文帝)のもとに使節として赴いた。爵位を侯に進め、龍驤将軍を加えられた。延和三年、胡賊の白龍征討に従軍した。帰還の途上で没した。諡して文恭といった。

原文子潁,襲爵。為太學生,稍遷中書侍郎。世祖詔太常崔浩集諸文學,撰述國書,潁與浩弟覽等俱參著作事。駕幸漠南,高車莫弗庫若干率騎數萬餘,驅鹿百餘萬,詣行在所。詔潁為文,銘于漠南,以紀功德。兼散騎常侍,使於劉義隆。進爵為侯,加龍驤將軍。延和三年,從征胡賊白龍。還,卒於路。諡曰文恭。

長子は鄧怡である。

原文長子長子 鄧怡

子の怡は爵位を襲った。官は荊州刺史・仮の寧南将軍に至った。爵位を南陽公に賜った。和平年間に没した。

原文子怡,襲爵。官至荊州刺史、假寧南將軍。賜爵南陽公。和平中卒。

長子は鄧良奴である。

原文長子長子長子 鄧良奴

長子の良奴は爵位を襲った。良奴の弟は高祖に仕え、名を述と賜った。吏職を歴任し、貞実で謹直であると称された。中大夫に昇進し、廷尉少卿を守った。出向して建忠将軍・斉州刺史となった。初めて百官を改置したとき、公府の元佐(上佐官)を重んじ始めた。時に太傅の元丕が出向して并州刺史となると、述を太傅長史とし、太原太守を帯びさせた。まもなく司空長史に召され、官のまま没した。詔により銭十万・布五十匹を賜り、諡して貞といった。

原文長子良奴,襲爵。良奴弟侍高祖,賜名述。歷吏職,以貞謹見稱。遷中大夫,守廷尉少卿。出為建忠將軍、齊州刺史。初改置百官,始重公府元佐。時太傅元丕出為并州刺史,以述為太傅長史,帶太原太守。尋徵為司空長史,卒官。詔賜錢十萬、布五十匹,諡曰貞。

長子は鄧纂である。

原文長子長子長子長子 鄧纂

長子の纂は奉朝請となり、累進して中散大夫に至った。

原文長子纂,奉朝請,累遷中散大夫。

次子は鄧献である。

原文長子長子長子次子 鄧獻

纂の弟の献は、奉朝請・司空西閤祭酒・員外常侍・河陰県令となった。まもなく鎮遠将軍・諫議大夫に昇進した。粛宗(孝明帝)の末、冠軍将軍・潁州刺史に任じられた。建義初年、尒朱栄が洛陽に入り、朝士が害されたと聞くと、蕭衍のもとに奔った。

原文纂弟獻,奉朝請、司空西閤祭酒、員外常侍、河陰令。尋遷鎮遠將軍、諫議大夫。肅宗末,除冠軍將軍、潁州刺史。建義初,聞尒朱榮入洛,朝士見害,遂奔蕭衍。

次子は鄧宗慶である。

原文長子次子 鄧宗慶

怡の弟の宗慶は、中書学生として出仕し、内遷して中散となった。やがて尚書に昇進し、散騎常侍を加えられ、爵位を定安侯に賜った。典南部に転じた。宗慶は南部に長年在任し、多くの上奏を行い、州鎮の者たちは彼を畏れ、称職と号された。爵位を南陽公に進め、安南将軍・涇州刺史に任じられ、後に趙郡公に移封された。宗慶は州にあって、民に訴訟された。取り調べて実情を得たが、上下の関係は大いにうまくいかなかった。徐州刺史に転じ、将軍号はもとのままとした。間もなく、妻の韓が巫蠱を行った罪に連座して誅殺された。

原文怡弟宗慶,以中書學生,入為中散。稍遷尚書,加散騎常侍,賜爵定安侯。轉典南部。宗慶在南部積年,多所敷奏,州鎮憚之,號為稱職。進爵南陽公,除安南將軍、涇州刺史,徙趙郡公。宗慶在州,為民所訟,雖訊鞫獲情,上下大不相得。轉徐州刺史,仍本將軍。未幾,坐妻韓巫蠱,伏誅。

長子の次子の子は鄧伯忻である。

原文長子次子子 鄧伯忻

宗慶の子伯忻は、父とともに死す。

原文宗慶子伯忻,與父俱死。

長子の次子の子の子は鄧儼である。

原文長子次子子子 鄧儼

伯忻の子儼は、逃れて越地に至り、難を免れる。後に尚書郎を歴任し、常山太守に任ぜられ、安南将軍・光禄大夫・持節・兼尚書左丞・郢州行臺に転じ、さらに撫軍将軍を加えられる。卒し、鎮南将軍・荊州刺史を追贈される。

原文伯忻子儼,逃越得免。後歷尚書郎,除常山太守,轉安南將軍、光祿大夫、持節、兼尚書左丞、郢州行臺,又加撫軍將軍。卒,贈鎮南將軍、荊州刺史。

次子は鄧権である。

原文次子 鄧權

穎の弟権は、世祖に従い征伐し、官は龍驤将軍・豫州刺史に至り、新野侯の爵を賜う。蠕蠕征伐に従い、法に坐して死す。

原文穎弟權,從世祖征伐,官至龍驤將軍、豫州刺史,賜爵新野侯。從征蠕蠕,坐法死。

三子は鄧顥である。

原文三子 鄧顥

弟顥は、中書侍郎の任にて卒す。

原文弟顥,卒於中書侍郎。

三子の長子は鄧霊珍である。

原文三子長子 鄧靈珍

顥の長子霊珍は、中書学生・秘書中散となる。卒し、員外散騎常侍を追贈される。

原文顥長子靈珍,中書學生、祕書中散。卒,贈員外散騎常侍。

三子の長子の子は鄧羨である。

原文三子長子子 鄧羨

子羨は、中書学生・侍御史を歴任し、明察謹直をもって知られる。出でて斉州武昌王征虜長史となる。後に李元護が斉州となると、引き続き長史となり、東魏郡太守を帯びる。治所に十年在り、三刺史を経て、清廉勤勉をもって称される。斉の人はその恩徳を懐き、良二千石と号す。交代して帰還する際、民や旧知から多くの贈り物を受け、これにより評判をやや損なう。中山王英が義陽を攻めると、羨は軍司となる。罷免後、諫議大夫に任ぜられ、兼給事黄門侍郎となり、侍中游肇の副使として畿内大使を務める。後に録尚書・北海王詳に賄賂を行い、大司農少卿に転じる。荊州の事務を行い、征虜将軍・郢州刺史に転じ、義陽を鎮守する。州にあっては聚斂に鋭意であった。また于忠に賄賂を納め、給事黄門侍郎に徴される。まもなく後将軍・河南尹を加えられ、黄門侍郎はもとのまま。拝命せず、霊太后が臨朝すると、元昭を河南尹とし、羨は依然として黄門侍郎のままで平南将軍を加えられる。羨は義陽軍司としての功績により、安陽県開国子に封ぜられ、邑三百戸を賜う。羨は左右に曲げて附いたため、封を得たのである。時に幽・瀛・滄・冀の諸州に大水があり、頻りに寇難を経て、民は飢えた。詔により羨は尚書を兼ね、仮の散騎常侍を授かり、節を持って諸州に詣で、状況に応じて賑恤し、多くを救済した。神龜初年、疽を発して卒す。享年五十四。詔により帛三百匹・朝服一襲を賻し、鎮東将軍・青州刺史を追贈し、諡して恭という。

原文子羨,歷中書學生、侍御史,以明謹見知。出為齊州武昌王征虜長史。後李元護之為齊州,仍為長史,帶東魏郡太守。在治十年,經三刺史,以清勤著稱。齊人懷其恩德,號曰良二千石。及代還,大受民故送遺,頗以此為損。中山王英攻義陽,羨為軍司。罷,除諫議大夫,兼給事黃門侍郎,副侍中游肇為畿內大使。後行貨於錄尚書、北海王詳,轉大司農少卿。出行荊州事,轉征虜將軍、郢州刺史,鎮義陽。在州銳於聚斂。又納賄於于忠,徵為給事黃門侍郎。尋加後將軍、河南尹,黃門如故。未拜,而靈太后臨朝,以元昭為河南尹,羨仍黃門,加平南將軍。羨以義陽軍司之勳,封安陽縣開國子,邑三百戶。羨曲附左右,故獲封焉。時幽、瀛、滄、冀大水,頻經寇難,民飢。詔羨兼尚書、假散騎常侍,持節詣州,隨方賑恤,多有所濟。神龜初,發疽卒,年五十四。詔賻帛三百匹、朝服一襲,贈鎮東將軍、青州刺史,諡曰恭。

三子の長子の子の子は鄧躋である。

原文三子長子子子 鄧躋

長子躋は、字を伯昇といい、大いに志操があった。秘書郎となる。朝議は、羨が本来山河の賞(世襲封爵)に合わないとして、躋の襲封を許さなかった。躋は長く訴訟し、ようやく封を継ぐことを聴される。やがて前将軍・太中大夫・梁州開府長史に遷る。刺史元羅とともに蕭衍に陥落し、江南にて卒す。

原文長子躋,字伯昇,頗有意尚。祕書郎。朝議以羨本不合山河之賞,故不許躋襲。躋訴訟久之,始聽紹封。稍遷前將軍、太中大夫、梁州開府長史。與刺史元羅同陷蕭衍,卒於江南。

三子の長子の子の子の子は鄧孝緒である。

原文三子長子子子子 鄧孝緒

子の孝緒は、元象年間(538–539)に、柩を携えて国に帰還した。興和年間(539–542)に、爵位を襲封した。北斉が禅譲を受けると、例により爵位を降格された。

原文子孝緒,元象中,以躋柩還國。興和中,襲爵。齊受禪,例降。

三男の次子は鄧霊奇である。

原文三子次子 鄧靈奇

霊珍の弟の霊奇は、立忠将軍・済州刺史となった。進んで冠軍将軍の号を加えられ、昌国侯の爵位を賜った。政治は清廉簡素で、威厳と恩恵があった。

原文靈珍弟靈奇,立忠將軍、齊州刺史。進號冠軍將軍,賜爵昌國侯。為政清簡,有威惠。

三男の次子の子は鄧恭伯である。

原文三子次子子 鄧恭伯

子の恭伯は、右光禄大夫となった。

原文子恭伯,右光祿大夫。