巻21下

彭城王

彭城王元勰、 あざな は彦和。幼少より聡明で、風采・性質は群を抜いていた。太和九年、始平王に封ぜられ、 侍中 じちゅう ・征西大将軍を加えられた。元勰は生まれて母の潘氏が亡くなり、その年に顕祖が 崩御 ほうぎょ した。物心がつくと、追服を求めて上奏した。文明太后は許さず、そこで三年間憔悴し、吉慶の行事に参加しなかった。高祖は大いにこれを奇異とした。聡敏で学問に耽り、昼夜を分かたず、経史を広く総合し、殊に文章を好んだ。

高祖が創業にあたり、侍中・将軍を解かれ、光禄大夫に任ぜられた。再び侍中に任ぜられ、禁中に常駐し、軍国大政に参画し決断し、万機の事、預からざるはなかった。車駕が南征するに及び、元勰を行撫軍将軍とし、宗子軍を率いさせ、左右を宿衛させた。五等爵制を開建し、食邑二千戸を与えられ、 中書 ちゅうしょ 令に転じ、侍中はもとのままとし、彭城王に改封された。

高祖が侍臣と共に金墉城に登り、堂の後の梧桐と竹を見て言われた。「鳳凰は梧桐でなければ棲まず、竹の実でなければ食わない。今、梧桐と竹が共に茂っているが、どうして鳳凰を降ろすことができようか。」元勰が答えて言った。「鳳凰は徳に応じて来るもので、どうして竹や梧桐が降ろせましょうか。」高祖が言われた。「どうしてそう言うのか。」元勰が言った。「昔、虞舜の時に、鳳凰が来て儀容を示しました。周の興隆の時には、鸑鷟が岐山で鳴きました。梧桐に降り竹を食うと聞いたことはありません。」高祖は笑って言われた。「朕もまた降ることを望んではいない。」後に清徽堂で侍臣を宴した。日が暮れ、流化池の芳林の下に移った。高祖は言われた。「先ほど宴の始めは、君臣粛然としていたが、終わりに近づくにつれ、杯の情がようやく暢び、流れる光景もやがて衰えようとしているのに、ついに十分に楽しむことができず、名残惜しい余光である。故に重ねて卿らを引き留めるのだ。」そこで桐の葉の茂りを仰ぎ見て言われた。「『その桐その椅、その実離離たり、愷悌君子、儀を令さざるは莫し』。今、林下の諸賢は、十分に歌詠に値する。」そこで黄門侍郎の崔光に命じて、暮春に群臣が詔に応じて作った詩を読ませた。元勰の詩に至ると、高祖はなおもその一字を改め、言われた。「昔、祁奚が子を推挙し、天下は至公であると言った。今、元勰の詩を見て、始めて中書令の推挙が私心でないことを知った。」元勰が答えて言った。「臣がこの拙い詩を露わにしたのは、まさに聖朝の私心(=特別なご配慮)を見るためであり、幸いにも神筆をもって賜り刊正され、良い評判を得ることができました。」高祖は言われた。「一字を琢くといえども、なお玉の本体である。」元勰が言った。「臣は聞きます、詩三百篇は一言で要約できると。今、陛下が一字を賜り刊正されることは、連城の璧に等しい価値があります。」

元勰が侍中の解任を上表すると、詔して言われた。「蝉の冠と貂の尾の美しさは、汝によって輝く。人材の乏しいこの時に、どうして退くことを許せようか。聖人たることを思い努めよ、おそらく必ず資するところがあろう。」後に代都に行幸し、上党の銅鞮山に滞在した。路傍に大松の木が十数本あった。時に高祖は傘を進められ、歩きながら詩を賦し、人に命じて元勰に示して言われた。「朕がこの詩を作り始めたのは、七歩とはいわぬまでも、遠くもない。汝も作れ。朕の所に至るまでに、完成させよ。」時に元勰は帝から十余歩離れており、そこで歩きながら作り、帝の所に至らないうちに完成した。詩に曰く、「松林に問う、松林は幾冬を経たる。山川は昔の如く何ぞ、風雲は古と同じ。」高祖は大笑いして言われた。「汝のこの詩もまた、朕をからかっているのだな。」詔して言われた。「弟の元勰の生母の潘は若くして世を去り、顕彰された称号が加えられていない。元勰の悲しみは身と共にあり、痛みは形と共に起こる。今、その思いを伸べるに足り、悲しみ憐れむに足る。彭城国太妃を追贈して、存亡を慰めよ。」また 中書監 ちゅうしょかん に任ぜられ、侍中はもとのままとされた。

高祖が漢陽を南討するに際し、元勰を中軍大将軍とし、鼓吹一部を加えられた。元勰は寵愛を受けることが頻繁であることを以て、面と向かって陳べた。「臣は聞きます、親疏を兼ねて両とし、異同を並べて建てることを。これは既に昔に成文となっており、臣は後世にこれを誦したいと願います。陳思王(曹植)は求めても許されず、愚臣は請わずして得ます。ただ今と古が異なるだけでなく、遇われるか否かも大きく異なり、ただ曹植が遠く臣を羨むばかりでなく、これもまた陛下が魏の文帝(曹丕)の行いを踏まえられず顧みられないからです。」高祖は大笑いし、元勰の手を執って言われた。「二曹(曹丕・曹植)は才名を以て互いに妬んだ。朕と汝は道徳を以て親しむ。この縁故によって言えば、前の優れた者に恥じることはない。汝はただ己に克ち礼に復ることを努めよ、さらに何を多く言わんや。」

高祖が清徽堂で自ら喪服について講義され、従容として群臣に言われた。「彦和(元勰)や季 (元彧)らは年は幼く、早くから官位に登り、父の教え(過庭の訓)を失い、共に礼を習っておらず、常に朕に喪服を解釈させようとしている。自ら考えてみると、義解は浮き疏らであり、抑えて許さなかった。先ほど酒に酔って座っていた折、ふと口から出てしまい、故に朝の俊英を屈して、遂に親しく説き伝えた。講坐に臨もうとして、慚愧と戦きが交じる。」御史中尉の李彪が答えて言った。「古より今に至るまで、天子が礼を講じたことはありません。陛下は聖明で淵深く明らかであり、事は百代を超えております。臣が親しく音旨を承ることができるのは、千載一遇の時でございます。」

沔北に従征し、帛三千匹を賜う。使持節・ 都督 ととく 南征諸軍事・中軍大将軍・開府に任ぜられる。また詔して言われた。「明朝には敵と交戦する。将士に命じて軍儀を粛然とさせよ。」元勰はそこで自ら大衆を統率した。しばらくして、二羽の大鳥が南から来て、一羽は行宮に向かい、一羽は府幕に向かい、それぞれ人の捕らえるところとなった。元勰が高祖に言った。「初め一羽の鳥が、旗を見て倒れ伏しました。臣は大吉であると言います。」高祖は冗談を言われた。「鳥が威を畏れるのは、ただ中軍の謀略だけによるものか、朕もまたその一羽を分けたのだ。これは大いに善いことで、兵法も皆そう説いている。」明朝になると、たちまち崔慧景・蕭衍を大破した。その夜は大雨であった。高祖は言われた。「昔聞く、国軍が勝利を得る時は、毎度雲雨に逢うと。今、新野・南陽を破り、この賊を摧くに及び、果たして時に応じて潤いが降った。誠にこの言葉の通りだ。」元勰が答えて言った。「水徳の応は、遠く天心に称します。」高祖は元勰に露布を作るよう命じられた。元勰は辞して言った。「臣は聞きます、露布とは、四海に布き、耳目に露わすもので、必ず威略を宣揚し、以て天下に示さねばなりません。臣は小才であり、どうして大用に足りましょう。」高祖は言われた。「汝はただ朕の親族であるだけでなく、また才に達している。ただそれを作れ。」完成すると、特に帝の文に似ており、これを見た者は皆、御筆であると言った。高祖は言われた。「汝の作ったものは、人が朕の作ったものだと言う。兄でなければ弟だ、誰が弁別できようか。」元勰が答えて言った。「子夏は先聖(孔子)に笑われ、臣はまた来たる今に責めを負います。」

州に至ると、高祖は家族としての手紙を元勰に書き送られた。「教化の風は密かで微かであり、礼政は厳かである。もし深く心を用いて日々勧めなければ、どうしてこれらを敬うことができようか。常に一つの宗師を立てて、我が元族を粛正したいと思っている。汝は親としては天子の位に近く、位は中監にあり、風標と才器は、実に師範とするに足る。屡々口頭で勅したが、なお謙遜を執って、清らかな辞退に逆らい難く、今日まで延び延びとなってしまった。宗制の重責は、汝を置いて他に誰に託せようか。ただちに宗儀を委ね、その責を汝の身に成し遂げさせる。教典に従わない者があれば、事に随って聞かせよ。朕が別に粛正して治める。もし宗室に過ちがあって、隠して挙げなければ、罰は汝の身に及ぶ。綱紀を以て互いに励まし、おそらく勧め改めることがあろう。朕は朝に聞いて夕に逝くとも、恨みとはしない。」元勰は翌日面と向かって陳べた。「詔を奉じて専ら宗制を主とし、非違を糾挙するよう命じられました。臣は聞きます、『その身正しければ令せずして行わる。その身正しからざれば令すと雖も従わず』と。臣は宗族においては長幼の順序に乏しく、物に接するには国士の礼がありません。毎度啓請する度に、既に哀れみをお借りしています。今の詔が、終に憐れんで免じてくださらないとは思いませんでした。なお聖慈を願い、賜わり免じて遂げさせてくださいますよう。」高祖は言われた。「汝は適任だ。往って慎め。」元勰は一年分の国秩・職俸・親恤を以て軍国を補うことを上表した。詔して言われた。「身を割いて国を存するは、理としては遠大である。しかし汝は朕の親族であることを以て、己を減じて国を助ける。職俸はただちに停止せよ。親恤と国秩の二事は、三分の一を受けることを聴す。」

高祖(孝文帝)が病に伏せると、元勰は内では医薬の世話をし、外では軍国事務を総括し、遠近粛然として、異議を唱える者はいなかった。徐謇は当世第一の名医であったが、先に仮帰して 洛陽 らくよう におり、召し出されて到着すると、元勰は彼を別室に引き入れ、涙を流して手を握りながら言った。「貴公は今世の華佗である。至尊(皇帝)の気力が危うく衰えている。どうか心を尽くし、専ら治療の方策を考えてほしい。もし聖体が日に日に康らかになり、天下が頼りとするところとなれば、思いがけない恩賞を得るであろう。さもなければ、測りがたい誅罰があることになる。栄辱のみならず、存亡もこれにかかっている。どうか努めてほしい。」左右で見ていた者は、みな涙を流さぬ者はいなかった。引き入れられると、徐謇はすぐに治療を進めようとした。元勰は高祖の神気体力が虚弱であるとして、ただ食餌で養生させるように命じた。元勰は密かに汝水のほとりに壇を築き、周公の故事に倣い、天地と顕祖(献文帝)に命乞いをし、自らの身をもって代わることを乞うた。高祖は翌日には病状が軽減した。懸瓠から ぎょう に行幸する際、元勰は常に輿輦に侍して座り、昼夜を問わず側を離れず、飲食は必ず自ら先に味見し、それから手ずから進上した。

車駕が都に戻ると、宣極堂で百官を集め、飲至の礼と策勲の礼を行った。舍人に命じて旨を宣べさせた。「元勰は六軍を輔弼し、荊楚の軍務を継ぎ、沔北の勲功は、常に朝廷の謀略に参与した。新野討伐に従い、城を落とす謀略があり、鄧城で命を受け、大勝の効果をもたらした。功績は諸将の中で最も優れている。別途に恩賞を授け、その功績に替えることはない。」高祖は元勰に言った。「我と汝らは早くに艱苦に遭い、中頃には離別もあり、情義は事に従って薄れるものと思っていた。近年病に纏わりつかれ、寒葉のごとく危うかったが、汝の深い兄弟愛、忠孝に篤い情がなければ、誰が自ら動き止まり、必ず先に薬膳を進めることができようか。このことを思うごとに、感慨と恩愛ははるかに深い。」元勰は悲しみ泣いて答えた。「臣らは昔より天寿を全うせず、長く世にあることを酷く恨んでおりましたが、陛下の撫育により、人の列に加わることができました。どうして上天が鑑みず、再び聖体を病ませようとは、万国の懸念するところ、蒼生の気を繋ぐものでございます。起居の労など、苦難の比ではありません。」慧景らを破った功績により、封邑を五百戸増やされた。また詔して言った。「朕は幼少の頃から体を疲れさせ、長年にわたり心を労し、積もる思いが病となり、汝潁の地で突然発症した。第六弟の元勰は、孝行は周公の弟に均しく、感応は姬旦に等しく、食事を忘れ寝る間も惜しみ、動静には必ず自ら関わり、医を励まし膳を勧め、誠意と力をともに尽くし、この康らかさを保たしめたのは、実に同気(兄弟)に頼るものである。また政務を執り締め、百官はこれに依拠し、綱紀を折衷し、万機はことごとく成し遂げられた。霖雨の時に軍を慰撫し、逼迫する日に兵を処した。外を安んじ内を静め、功績は大道である。侍省の功績は、兄弟愛ゆえに褒め称える必要はないが、輔弼の勤めは、実に 社稷 しゃしょく に功績を残すものである。報酬と恩賞を与え、国の功績を顕彰すべきである。封邑を一千戸増やすことを許す。」元勰は辞退して言った。「臣が遇を受けるのは親族縁故によるもので、栄枯は事柄と等しく、これによって賞を受けるのは、甚だ本意に反します。どうか成命を取り下げ、誹謗の言葉を止めさせてください。」詔して言った。「汝は私においては孝行でき、公においては必ず忠誠を尽くし、近頃の勤労と憂慮は、朝廷と民間に十分に知れ渡っている。ただ謹んで受けよ。」まもなく元勰を 司徒 しと ・太子 太傅 たいふ とし、侍中はもとの通りとした。

やがて蕭寶卷の将陳顯達が内寇すると、高祖は再び親征した。詔して元勰を使持節・ 都督 ととく 中外諸軍事とし、六軍を総摂させた。この時、高祖は病に伏せっていた。元勰は辞退して言った。「臣は侍疾に暇がなく、六軍は委託すべきところが必要です。二つの事は同時に興せず、情も力もまた尽きています。どうか別の王をお一人、軍の要務を総括させてください。」高祖は言った。「軍務も、侍疾も、ともに汝に依る。病を引きずってこのようでは、私はとても成し遂げられないと深く憂えている。六軍を安んじ、社稷を保つ者は、汝を置いて他に誰がいるのか。どうして都合よく人を請い、心からの委託に背くことができようか。宗廟社稷の頼るところは、ただ汝にある。諸葛孔明や霍子孟は異姓で託されたが、まして汝はどうだ。」行軍して淯陽に至った時、高祖は元勰に言った。「私の病状は悪化した。汝は努めよ。」車駕が馬圈に至り、賊の陣営から数里のところで、陳顯達らが出戦し、諸将はこれを大破した。元勰は諸軍を部署し、賊の堡塁を攻めようとしたが、その夜に賊は敗走した。高祖の病状は甚だ重く、元勰に言った。「寿命の長短は 天命 てんめい であり、死生は大きな分かれ目である。今、私の気力は危うく衰え、おそらく助からないであろう。陳顯達を敗ったとはいえ、国家の安危はこの一挙にかかっており、社稷の頼るところは、ただ汝の一身にある。霍子孟は異姓で託されたが、まして汝は親族で賢才である。努めぬことがあろうか。」元勰は泣いて言った。「士たる者、布衣の時でさえ知己のために命を尽くすのに、まして臣は先皇の霊を託され、陛下と光を連ねております。誠に股肱の力を尽くし、忠貞を加えるべきです。しかし臣は喉と脊骨(枢要)のごとき地位に出入りし、常に時勢の要を跨ぎ、寵愛と栄光が輝かしく、その名は遠近に聞こえております。さらに宰相の任に参画し、機密政務はすべて帰するところとなり、主君を震わせる名声は、必ずや忌避されるでしょう。これこそ周旦が逃れ、成王が疑惑した所以であり、陛下が臣を愛するも、終始美を尽くさぬこととなります。臣が華を厭い勢いを捨てるのは、勤めを辞し安逸を請うためではなく、ただ上は陛下の日鏡のごとき明察を仰ぎ成し遂げられんことを希い、下は愚臣の退くことを忘れた禍を思うがゆえです。」高祖はしばらくして言った。「汝の言葉を考えてみると、道理は実に奪いがたい。」そこで手詔を世宗(宣武帝)に与えて言った。「汝の第六叔父の元勰は、清らかな規矩と盛んな賞誉は白雲とともに潔く、栄誉を厭い印綬を捨て、松竹を心とする。私は幼少より親密に交わり、道と趣を提携した。彼は常に朝服を解き、丘壑に真の恬淡を求めたが、私は長兄としての重みから、遠ざけるに忍びなかった。どうしてなお素業を屈し、長く世の網に絡め取られていようか。私が百年の後、元勰が蝉冠を辞し冕を捨て、その沖虚謙譲の本性に従うことを聴け。成王の朝が、翻って姬旦の聖を疑うことのないようにするのは、また善いことではないか。汝は孝子であるから、私の勅に背いてはならない。」

高祖が行宮で崩御すると、喪を秘し、ただ右 僕射 ぼくや ・任城王元澄と左右数人と計らい、高祖を安車の中に奉遷し、元勰らは平常通り出入りし、病を見舞い食事を進め、外からの上奏を裁決した。数日かけて宛城に到着し、夜に郡の庁事に安車を進め、ようやく棺に納めることができ、臥輿に載せて戻った。六軍の内外で知る者はなかった。中書舍人張儒を遣わし、詔を奉じて世宗を召し、車駕に会わせた。梓宮が魯陽に至り、ようやく喪を発し服喪した。

世宗が即位すると、元勰は跪いて高祖の遺勅数紙を授けた。咸陽王元禧は元勰に変事があると疑い、魯陽郡外に留まり、久しくしてから入った。元勰に言った。「汝はただ辛勤であっただけでなく、また極めて危険であった。」元勰はこれを恨み、答えて言った。「兄上は識見高く年長ゆえ、夷険があることをご存知です。彦和(元勰の字)は蛇を握り虎に騎り、艱難を覚えませんでした。」元禧は言った。「汝は私が後から来たことを恨んでいるのだろう。」高祖が病に伏せて以来、元勰は常に宮中におり、親しく医薬の世話をし、昼夜を問わず左右を離れず、衣帯を解くことも稀で、髪は乱れ顔は垢にまみれていた。帝(世宗)は病が長引いて忿ることが多く、それによって遷怒した。元勰はしばしば譏り罵られ、言葉は甚だ厳しく激しく、近侍を威嚇して責め、動けば誅斬しようとした。元勰は顔色に従い心を尽くし、多くを匡正し救済した。高祖が崩御し、陳顯達が敗走したばかりで、凶報が漏洩し逼迫を招くことを慮った。元勰は内では悲慟したが、外では吉相を示し、出入りや俯仰も、神態容貌に異状はなかった。魯陽に至ると、東宮の官属は多く元勰に異志があると疑い、密かに防備と畏懼を抱いた。しかし元勰は誠意を推し尽くし礼を尽くし、ついに微塵の隔てもなかった。元勰は高祖の おくりな 号について上議した。「謹んで諡法を案ずるに、時に協い始めて享けるを『孝』と曰い、五宗これを安んずるを『孝』と曰い、道徳博く聞こゆるを『文』と曰い、経緯天地するを『文』と曰う。仰ぎ惟うに大行皇帝は、その義実にこれを該当する。よって上って尊号を孝文皇帝とし、廟を高祖とし、陵を長陵とするのが宜しい。」世宗はこれに従った。

葬儀が終わると、世宗(宣武帝)は固く勰を宰輔(宰相)としようとした。勰はたびたび口頭で先帝の遺旨を述べ、平素の志を遂げさせてほしいと請うた。世宗は勰に対し悲しみ慟哭し、そのたびに許さなかった。勰は煩わしいほど頻繁に上表して奏聞し、その言葉と内容は懇切であった。世宗は遺勅に背くことを難しく思い、ついにその高雅な心情を容れ、なお外任で迫る形とし、勰を使持節・侍中・ 都督 ととく 冀定幽瀛営安平七州諸軍事・驃騎大将軍・開府・定州 刺史 しし とした。勰はなおも辞退を述べ、また面会して前の意向を申し立てたが、世宗は固く執して許さず、勰は職務に就いた。

尚書 しょうしょ 令の王肅らが上奏した。「臣らは聞く、功を顕彰し徳を表すことは、道として前代の王者を貴び、勲功を任用し親族を親しむことは、義として盛大な典範を高しとすると。これゆえに姫旦(周公旦)は周を輔翼し、その光は曲阜に満ち、東平王(劉蒼)は漢を宰領し、その寵は諸侯の中で絶頂であった。彭城王勰は、優れた思慮が内に輝き、英邁な風采が外に現れ、天地の規矩を協和し廓清し、漢水・沔水の地の妖気を掃討された。先帝がご在位の折には、鳳凰の旌旗を翻して凱旋し、六軍を静謐統一し、南方を粛然と平定された。聖皇(世宗)を天子の道に登らせ、魏朝の霊なる福祐を開き、朝廷の中心で道を論じ、王者の謀猷を和らげ、七徳を大いに宣べ、九功を詠じられた。臣らが参酌して考えるに、邑を一千五百戸増やすのが妥当である。」詔して曰く。「奏上を覧るにつけ、崩れ絶える思いが倍増する。まだ勲功と徳行に十分に報いるには足りないが、しばらく奏上の通りとしてよい。」勰は頻繁に上表して固く辞退したので、世宗はそれを許した。世宗は勰に書を送って言った。「(朕が父王に)別れを告げてから今に至るまで、悲しみ慕って声を詰まらせている。月日は容易に過ぎ去り、早くも暮冬が迫っている。常に父王の教えを聞き、その風教を奉じ承りたいと念う。父が既に栄誉を辞して外の閑静な地におられるとはいえ、至徳に頓に背くことは許されない。藩国に出てから幾月も経ち、疎遠なままでいるのは実に心苦しい。今、主書の劉道斌を遣わして悲しみ慕う思いを奉り宣べる。父が来朝され、必ずや京師に至られることを願う。哀窮の情を展べ洩らすこと、指を屈するほどの遠さではない。」勰はそこで京師に参朝した。

景明(宣武帝の年号)の初め、蕭宝巻(南斉の東昏侯)の 州刺史裴叔業が寿春を以て内属した。詔して勰に 都督 ととく 南征諸軍事を命じ、その他の官は元の通りとし、 尚書令 しょうしょれい の王肅と共に寿春を迎え入れさせた。詔して曰く。「五教(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の道)を治める枢機は、古来その人選が難しく、親族であり賢者であることを兼ねて切実でなければ、この任に応じられない。王(彭城王勰)は明徳を以て親族の中でも功績大きく、保傅(太子の師傅)の任に属し、出ては藩屏の要地に居り、入っては袞章(三公の礼服)を御し、内外よく調和し、民と神の属するところとなっている。今、軍麾を統率するにあたり、威儀と称号は重くあるべきである。再び 司徒 しと を授け、声望と実質を輝かせるがよい。」また詔して、勰に本官のまま揚州刺史を兼任させた。勰は刑罰を簡素にし礼を導き、民を休養生息させたので、州内は憂いなく、遠近ともに安静であった。揚州の管轄下にある建安戍の主将胡景略がなおも宝巻に与して守りを降さなかったので、勰は水陸両軍でこれを討ち、景略は縄を背負って出降した。勰が寿春に至ってから、東は城戍を平定して陽石に至り、西は建安を降し、山の蛮族は命令に従い、斬首し捕虜とした者は数万に及んだ。位を進めて大司馬とし、 司徒 しと を兼任させ、その他は元の通りとした。邑を八百戸増やした。また宝巻が将軍の陳伯之を肥口に駐屯させ、胡松がまた梁城を占拠し、水軍が二百余里にわたって相継いだ。勰は将士を部署分けし、諸営を分かれて攻撃させた。伯之と胡松が衆を率いて出戦したので、諸将がこれを撃ち、九千を斬首し、一万人を俘獲した。伯之らはただ身一つで免れ、烽火に屯した。勰はまた諸将に命じて頻繁に戦わせ、伯之は計略尽きて夜遁した。淮南が平定されると、詔して曰く。「王は尊貴な上輔であり、徳勲に並ぶ者なく、朕の孤陋な心識は、訓育と保傅のよりどころである。先ごろ寿春が初めて開かれた折、鎮圧の任が重かったゆえ、王に親しく元戎を統率させ、遠く淮水の外を撫でしめた。この炎熱蒸し暑さの中を冒し、車蓋を揺らしながら、経略すること時を過ぎ、必ずやご負担があったであろう。長らく拝謁を妨げ、日夜心にかかっている。また勝ちを制し規矩を宣べ、威勢と効果ともに顕著であり、公私ともに称えられ、義として欽み嘉すべきである。凱旋の期はあるとはいえ、引き留め属することを申し述べることはできない。給事黄門侍郎の鄭道昭を遣わし、そちらで謹んで労をねぎらわせる。」勰を召し還して朝廷に帰らせた。

勰の政治は寛容を尊び、絲毫も犯さず、淮南の士人庶民はその残る恵みを追慕し、今に至るまで彼を思っている。初め、勰が寿春を平定した時、蕭宝巻の汝陰太守王果、 州治中の庾禝ら数人を捕らえた。勰は襟を開いて礼遇し、常に座席に陪席させた。王果は隙を見て進み出て言った。「果らは平生離散し、白髪頭で流浪し、西に沈む夕日を顧みれば、残る光は幾ばくもありません。今、聖なる教化に遭い、まさにこの愚かな老体を励まし、わずかな力を伸ばし示すべき時ですが、ただ江南に百人の家族がおり、生死を分かれて離散しております。江外(江南)に還ることを乞い、以て殿下の徳沢を申し広めたい。」勰は哀れんでこれを許した。王果はまた謝して言った。「殿下が処遇して下さったことは、国士(一国の傑士)に対するものを超えております。果らが今帰りますのは、慈しみの恩沢に背くことになります。どうか仁駕が軍を整えて凱旋され、江外に帰られる跡に従わせて下さい。」ここに至ってようやく帰還した。そのように遠方の人々に懐かれたのである。

勰が京師に至ると、世宗は東堂に臨んで引見し、勰に詔して言った。「近ごろ鳳凰(吉祥の鳥、賢者の喩え)が未だ至らず、蒼生(民)と黎民(民)が二つの教化(に従う状態)にあるので、尊い謀猷を仰いで屈していただき、辺境の帰附者を安んじ懐柔していただいた。しかし賊徒は昏迷し、あえて淮楚の地で戦いを挑んだ。叔父は英略高明で、機に応じて殄滅平定し、凱旋の今日、伏して悲しみ待ち侘びる思いを慰める。」勰は謝して言った。「臣が辱くも戍帥(守備軍の将帥)の任を充たし、新旧の民を撫で安んじながら、武威を宣べ恩徳を導くことができず、威光と懐柔を遠近に及ぼすことができませんでした。小輩の伯之をして、蟻のごとき徒党を駆り率いさせ、辺境の堡塁を侵擾させしめました。ただ天顔(天子)を仰いで慚じるのみならず、実に朝廷の列位に対しても俯いて愧じます。春秋の義は将帥を責めます。臣こそがまさにその責めを負うべきです。陛下の慈愛深く過失を赦して下さるゆえに、愚臣は罪責を免れることができました。」勰は頻繁に上表して大司馬・ 司徒 しと 兼任および増封された邑を辞し、中山に還ることを乞うた。詔があって許さなかった。そこで録尚書・侍中を除き(任命し)、 司徒 しと は元の通りとした。固く辞したが免れなかった。勰は風雅で恬淡素朴を好み、勢利をもって心を煩わせなかった。高祖(孝文帝)はその事務能力を重んじ、繋ぎ留めて許さなかった。臨終の遺詔においても、また世宗が引き留められたので、常に心情に背くこととなった。常に悽然として嘆息し、詔旨が懇ろであるゆえに、努力して命令に応じた。

時に咸陽王禧が次第に驕慢になり、甚だ不法なことがあった。北海王詳が密かに世宗に言上し、世宗は深くこれを忌み嫌った。また、勰が大いに人心を得ているので、久しく宰輔の位にあるのは宜しくなく、世宗に高祖の遺勅に従うよう勧めた。禧らはまた領軍の于烈を恒州に出そうとしたが、于烈の本意ではなく、固く強いたので、于烈は深く憤った。于烈の子の忠は常に世宗の側近に仕えていたので、密かに忠に命じて世宗に言わせた。「諸王らの意向は測りがたく、廃すべきです。早くご自身で政務を覧られるようにすべきです。」時に礿祭(夏の祭礼)を行おうとしており、王公たちは皆、宗廟の東坊で斎戒していた。世宗は于烈に宿衛の壮士六十余人を率いさせて禧・勰・詳らを召し出し、引き入れて光極殿で謁見させた。世宗は勰に言った。「近ごろ南北の政務が殷盛で、父王の謙虚な操りを仰いで遂げる余裕がなかった。恪(世宗の名)は何者ぞや、敢えて久しく先帝の勅に背き、今ようやく叔父の高蹈(隠遁)の御意志を遂げる。」勰は謝して言った。「先帝は臣の虚薄をもってせず、曲りなりにも尽きることのない恩沢を垂れ、出入りに密接に関わり、公私にわたって見捨てられませんでした。陛下が天子の位に即位されてから、屡々官職を解くことを請いましたが、宰輔に抑えられたばかりでなく、陛下にも許されませんでした。一昨年の夏中、重ねて天聴を汚し、その時は優れた配慮を蒙り、定州に出ることができました。去年洛陽に還り、淮水・肥水で軍を総括するよう勅され、功績はなかったものの、幸い罪を免れました。帰還して間もないのに、また臣に非分の任を委ねられました。臣は煩わしいほど頻繁に干渉しお願いし、ことごとく聖聴に達しました。陛下は孝心深く(先帝の意志を)改めず、仰いで先帝の詔に従い、上は叡明の美を成し、下は微臣の志を遂げ、今を思い往時を感ずれば、悲喜こもごも深く交わります。」そこで詔して曰く。「王は平素より閑静を尊び、世務を捨てる志があり、先帝はこれを愛し明らかにする極みに至り、この心情を奪わず、遺勅は炳然として、謙退を遂げることを許された。高雅な操りは変わらず、朕も敢えて違背し奪うことはしなかった。今、位を解いて邸宅に帰り、丘園を営まんとされる。高尚なる節操は確固として貞固であり、賁(春秋の柳下恵)や履(後漢の厳光)の操りも、はるかに及ばない。しかし王の邸宅は築き始めたばかりで、財力多く欠け、完成の期は、歳月を要して成就しないであろう。工役を量って遣わし、材木と瓦を分け与え、王の好みに従い、速やかに造営させよ。務めて簡素に従い、以て王の心に称えよ。」勰はこれによって『蠅賦』を作って心情を諭し、讒言による構えを憎んだのである。

また勰を太師としようとしたが、勰は固く辞退した。詔して曰く、「そもそも天地が分かれて象を成し、君臣の位が形づくられる。上下の位が定まれば、唱和の義が生ずる。古より天位を統べ主となる者は、いずれも明師に頼り、賢輔を杖とし、しかる後に陰陽を調和し、民物の倫を整えてきた。往きて返らざる者は、先民にも確かにいたが、これはいわゆる独り身を善くして大倫を乱す、山林の士に過ぎぬ。賢人君子は然らず。己を屈して民を安んじ、身を艱しくして物を済わす、いわゆる先に知るをもって後に知る者を覚まし、塵に同じて天下とともに潔くする者である。朕は幼少の身をもって、あやうく 宝暦 ほうれき を継ぎ臨むにあたり、実に叔父の匡済の功に頼る。誠に永く将相を兼ね、内外を綱維すべきである。しかし先の旨を奪うことを憚り、謙退を犯すことを恐れ、志を俯せ心を割き、以て高潔な素志を遂げようとする。近ごろ水旱が調和を失い、陰陽が秩序を乱しているため、王を屈して論道させ、この玉燭を調和させんと庶幾する。かつ師宰は従容として、清高な志を廃することなく、故に周公旦は復辟してその位に居り、尚父は期頤まで終始その位にあった。王の義は家国を兼ね、理として独り高くあるべきではない。侍中を遣わして敦諭すべし」。世宗はまた家人の書を修めて勰に告げて曰く、「恪が言う。還って告げを承るに、なお謙退を執することを聞く。恪は実に暗愚で、政術に多くの秕が多い。匡弼の寄託は、親尊に仰ぎ属する。父の徳望は兼ねて重く、師訓の帰する所である。どうして近く家国を遺り、遠く清高を崇められようか。願わくは降臨され、時に傾注の心に副わんことを」。勰は已むを得ずして命に応じた。

世宗は後にしばしば勰の邸宅に行幸した。京兆王愉と広平王懐が暴虐で法に背いたとき、詔して宿衛の隊主に羽林虎賁を率いさせ、諸王をその邸宅に幽閉させた。勰は上表して切に諫めたが、世宗は聞き入れなかった。勰は山水を楽しむこともできず、知己と交遊することも絶え、ただ妻子に対するのみで、鬱々として楽しまなかった。律令を議定するにあたり、勰は高陽王雍や八座、朝士の才学ある者と五日に一度集まり、軌制の応否について参論した。勰は夙に高祖に侍し、兼ねて聡明で博聞であり、裁決する所は凡て、時の俊秀が帰仰した。容貌が美しく、風儀に優れ、端厳として神の如く、立ち振る舞いは法度に合い、出入りし言笑するのを見る者は疲れを忘れた。また侍中を加えられた。勰は文史を尊尚し、事務の暇に披覧を絶やさなかった。古の帝王賢達から魏の世子孫に至るまでを撰し、三十巻とし、名づけて『要略』といった。小心謹慎で、初め過失がなく、閑居宴処するときも、怠慢な色や惰慢な容色はなかった。儒彦を愛敬し、心を傾けて礼遇した。清正で倹素であり、門に私的な謁見はなかった。

性質は仁孝であり、朝廷に言上して、その舅の潘僧固を冀州楽陵太守とした。京兆王愉が逆を構えたとき、僧固は逼迫されてこれに従った。 尚書令 しょうしょれい の高肇は性質が凶愎で、賢俊を賊害した。また肇の兄の娘が宮中に入って夫人となり、順皇后が崩じると、世宗は彼女を皇后にしようとしたが、勰は固く執して不可とした。肇はそこでしばしば世宗に勰を讒言したが、世宗は聞き入れなかった。僧固が愉の逆に同調したことを因として、肇は勰を誣い、北では愉と通じ、南では蛮賊を招いたと讒言した。勰の国の郎中令魏偃と前防閤の高祖珍は肇の提携を希い、この事をでっち上げた。肇は初め侍中元暉に命じて世宗に奏上させようとしたが、暉は従わず、左衛の元珍に言わせた。世宗が暉に問うと、暉は勰にこのようなことはないと明言した。世宗がさらに肇に問うと、肇は魏偃と祖珍を証人としたので、世宗はついにこれを信じた。

永平元年九月、勰と高陽王雍、広陽王嘉、清河王懌、広平王懐および高肇らを召し入れた。時に勰の妃がちょうど出産中であったので、勰は固く辞して赴かなかった。中使が相次いで来たため、已むを得ず車を命じることにし、心中甚だ憂懼し、妃と訣別して車に登った。東掖門に入り、小さな橋を渡ろうとしたが、牛が進もうとせず、遂にこれを打ったが、長い間動かなかった。さらに使者が来て勰の来遅きを責め、牛を外させ、人に引かせて進ませ、禁中で宴を催した。夜になると皆酔い、それぞれ別の所で休んだ。間もなく元珍が武士を率いて毒酒を持って来た。勰は言った、「私は朝廷に忠である。何の罪があって殺されるのか。一度至尊にお目にかかり、死んでも恨みはない」。珍は言った、「至尊にはもう会えませぬ。王はただ酒を飲まれよ」。勰は言った、「至尊は聖明である。事もなく私を殺すはずがない。私の罪を告げる者と一対して曲直を求めたい」。武士が刀の鐶で勰を二度突いた。勰は大声で言った、「皇天よ。忠にして殺されるとは」。武士がまた刀の鐶で勰を突いた。勰はついに毒酒を飲み、武士が就いてこれを殺した。夜明け前に、褥で屍を包み、輿に乗せて屏門から出し、屍を載せて邸宅に帰り、王は飲んで薨じたと云った。勰の妃李氏は、 司空 しくう 李沖の娘である。号哭して大声で言った、「高肇は理を枉げて人を殺す。天道に霊あらば、汝もまた悪死すべきである」。後に肇が罪によって殺されると、論ずる者は報応があると知った。世宗は東堂で哀悼の礼を挙げ、東園の第一秘器、朝服一襲、賻銭八十万、布二千匹、蠟五百斤を給し、大鴻臚に喪事を護らせた。

勰は既に国に対して大功があり、無罪で害せられたので、百姓はこれを冤んだ。行路の士女は涙を流して言った、「高令公はかくの如き賢王を枉げて殺した」。朝廷の貴賤を問わず、気を喪う者はいなかった。仮黄鉞、使持節、 都督 ととく 中外諸軍事を追贈し、 司徒 しと 公、侍中、太師、王はもとの如くとした。鑾輅九旒、虎賁班剣百人、前後部の羽葆鼓吹、轀輬車を給した。有司が奏上し、太常卿劉芳が勰の諡を議して曰く、「王は弱齢にして徳を挺で、至孝の資を誕し、睿性人に過ぎ、学んで師の授けるところなく。卓爾たる操は天然より発し、群を抜く美は幼くして独り出づ。参じて政務に預かるに及び、綸綍光あり。爰に中鉉に登り、五教を敷き明らかにす。漢北危きを告ぐると、皇赫として罪を問う。王は内に薬膳を親しみ、外に六師を総べる。宮車晏駕するに及び、上下哀惨たり。猛きを奮い戚を銜み、英略潜かに通じ、霊輿を翼衛し、戎を整え斾を振う。宛・謝に歴次し、魯陽に至るまで、往くを送り居るを奉り、周霍に慚じず、遺命を禀きて輔と作り、遠く至り近く安んず。陝を分かち恒方を治め、詠は燕趙に流れ、江西を廓靖し、威は南越に懾く。入りて百揆を釐め、庶績咸く熙く。勤めを履みて憚らず、功に在りて愈々挹す。温恭愷悌、忠雅寬仁、興居度有り、善終篤始す。厥の心を高尚にし、功成り身退く。義は聖衷に亮く、美は世典に光る。諡法に依れば、大を保ち功を定むるを『武』と曰い、善く問い周達するを『宣』と曰う。諡して武宣王とす」。荘帝が即位すると、文穆皇帝と追号し、妃李氏を文穆皇后とし、神主を太廟に遷し、廟号を肅祖と称した。語りは臨淮王彧伝にある。前廃帝の時、その神主を除いた。

嫡子の劭は、字を子訥といい、封を襲いだ。武芸に優れ、若くして気節があった。肅宗の初め、蕭衍が将を遣わして辺境を侵犯すると、劭は上表して言うには、「偽りの賊徒が遊魂のごとく、辺境を窺い、兵を労して時を費やし、日に千金の費えがあります。臣は仰いで先人の資産を頼み、厚い禄を継いで享受しております。埃塵のごとき微力をもって、山海のごとき大業を補いたく存じます。臣の封国は徐州にあり、軍に比較的近く、謹んで粟九千斛、絹六百匹、国吏二百人を奉り、もって軍用に充てます」。霊太后はその誠意を嘉したが、許さなかった。起家して宗正少卿となる。また使持節・仮 散騎常侍 さんきじょうじ ・平東将軍・青州刺史に除せられた。当時、斉州の民劉均・房頃らが三斉を扇動した。蕭衍が将の彭群・王弁らを遣わして辺境を騒がせると、劭はたびたび防衛の功績があった。孝昌の末、霊太后が徳を失い、四方が紛擾すると、劭はついに異志を抱いた。安豊王延明に啓されたため、召し出されて御史中尉となった。荘帝が即位すると、無上王として尊ばれた。まもなく河陰で害に遇う。追諡して孝宣皇帝といい、妻の李氏を文恭皇后とした。二子があった。

韶は字を世冑といい、封を襲いだ。武定の末、司州牧となる。斉が禅を受けると、爵は例により降格された。

韶の弟の襲は、字を世紹という。武定の初め、武安王に封ぜられ、邑一千戸を賜う。武定の末、中書侍郎となる。斉が禅を受けると、爵は例により降格された。

劭の兄の子の直は、字を方言という。若くして名を知られ、清河文獻王に賞愛された。起家して散騎侍郎に除せられ、中書侍郎に転じた。後に通直 散騎常侍 さんきじょうじ に除せられ、給事黄門侍郎に遷った。霊太后の詔に曰く、「故太師・彭城武宣王は道が隆く徳が盛んで、功は管仲よりも高く、先朝に協力し、末命を導き揚げた。病を扶け難を済し、漢の北の誠を効し、往くを送り居るを奉り、魯の南の節を尽くした。宗社はこれにより安んじ、皇基はこれにより永固となった。しかるに謙光して約を守り、たびたび増邑の賞を撝け、辞多く受け少なく、終に初錫の封を保った。これは旧を追い恩に報い、勲を念い徳に酬いるというべきではない。前後封ぜられた戸をもって、別に三子を県公に封じ、食邑各一千戸とせよ。これをもって仁魂を少し慰め、朝典を微かに申し述べるものとする」。子の直は真定県開国公に封ぜられた。出でて冠軍将軍・梁州刺史となる。まもなく患いに遇い、南鄭に優遊し、他に政績はなかった。召還されて京師に至り、病没した。 散騎常侍 さんきじょうじ ・安南将軍・都官尚書・冀州刺史を追贈された。孝荘が 践祚 せんそ すると、陳留王に追封され、邑二千戸を賜い、仮黄鉞・太師・大司馬・ 太尉 たいい を追贈され、前後部の羽葆鼓吹を加えられた。

子の寛は、字を思猛といい、王爵を襲いだ。 散騎常侍 さんきじょうじ ・平南将軍に除せられた。まもなく侍中・撫軍将軍に除せられた。永安三年、尒朱兆が 晋陽 しんよう においてこれを害した。後嗣なく、国は除かれた。出帝の初め、使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 青斉済三州諸軍事・ えい 大将軍・青州刺史を追贈され、重ねて 司徒 しと 公を追贈された。

弟の剛は、字を金明という。荘帝の初め、浮陽王に封ぜられ、邑千戸を賜う。武定の末、宗正少卿となる。斉が禅を受けると、爵は例により降格された。

剛の弟の質は、荘帝の初め、林慮王に封ぜられ、邑千戸を賜う。永安三年に薨ず。出帝の時、車騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司を追贈された。

劭の弟の子の正は、容貌美しく、性質寛和であった。肅宗の初め、霸城県公に封ぜられ、邑一千戸を賜う。散騎侍郎・太常少卿を歴任した。荘帝が即位すると、 尚書令 しょうしょれい に除せられ、始平王に封ぜられた。兄の劭とともに害に遇う。仮黄鉞・侍中・ 都督 ととく 中外諸軍事・大将軍・録尚書事・相を追贈され、王はもとの如く、鸞輅九旒・黄屋左纛・前後部羽葆鼓吹・虎賁班剣一百人を賜い、諡して貞といった。

子の欽は、字を世道といい、封を襲いだ。武定年中、散騎侍郎となる。斉が禅を受けると、爵は例により降格された。

【論】

史臣が曰く、武宣王は孝を以て質とし、忠を以て行いを樹て、文謀武略、自ら懐抱を得、太和の世に綢繆した。豈に徒然ならんや。安に在りて危を処するの操、往くを送り居るを事とするの節、周旦の他ならざるの義、霍光の異姓の誠、事これを兼ねたり。功高くして主を震わし、徳隆くして俗を動かす。間言ひとたび入りて、ついに志を全うせず。嗚呼、周成・漢昭もまた容易に遇い難きものなり。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻21下