魏書

卷22 孝文五王

卷22 孝文五王

廃太子

原文廢太子

廃太子庶人恂は、字を元道という。生まれて母が死に、文明太后が養育し、常に側に置いた。四歳の時、太皇太后が自ら名を恂、字を元道と定め、この時大赦を行った。太和十七年七月癸丑、恂を皇太子に立てた。廟で冠礼を行った時、高祖は光極東堂に臨み、恂を引き入れて謁見させ、冠礼の意義を戒めて言った。「冠礼は百代に示すもので、容体を正し、顔色を整え、辞令を順にする所以である。容体が正しく、顔色が整い、辞令が順であれば、故に君臣を正し、父子を親しくし、長幼を和することができる。然し母に会えば必ず拝し、兄弟には必ず敬い、成人の礼を以て責める。汝に元道と字するは、託すところ軽からず。汝は名を尋ねて義を求め、我が旨に順うべきである。」二十年、字を宣道と改めた。

原文廢太子庶人恂,字元道。生而母死,文明太后撫視之,常置左右。年四歲,太皇太后親為立名恂,字元道,於是大赦。太和十七年七月癸丑,立恂為皇太子。及冠恂於廟,高祖臨光極東堂,引恂入見,誡以冠義曰:「夫冠禮表之百代,所以正容體,齊顏色,順辭令。容體正,顏色齊,辭令順;故能正君臣,親父子,和長幼。然母見必拜,兄弟必敬,責以成人之禮。字汝元道,所寄不輕。汝當尋名求義,以順吾旨。」二十年,改字宣道。

洛陽に遷都し、詔して恂を代都に赴かせた。その進退の儀礼は、高祖が全て定めた。恂が入って辞する時、高祖は言った。「今汝は代に向かうべきではないが、ただ太師が恒壤に薨じ、朕は既に皇極の重きに居り、軽々しく舅氏の喪に赴くことは許されず、汝に舅氏への哀悼を展べさせ、汝の母の墓を拝させ、子としての情を一通り表したい。汝が彼の地に至り、太師の事が終わった後日、宜しく山陵を一拝すべし。拝し終われば、汝の族祖南安に一通り問訊すべし。途上では、経籍を温読すべし。今日は我に親しく会ったのである。」その後、高祖が毎年出征・行幸する度、恂は常に留守を守り、廟祀を主宰した。

原文遷洛,詔恂詣代都。其進止儀禮,高祖皆為定。及恂入辭,高祖曰:「今汝不應向代,但太師薨於恒壤,朕既居皇極之重,不容輕赴舅氏之喪,欲使汝展哀舅氏,拜汝母墓,一寫為子之情。汝至彼,太師事畢後日,宜一拜山陵。拜訖,汝族祖南安可一就問訊。在途,當溫讀經籍。今日親見吾也。」後高祖每歲征幸,恂常留守,主執廟祀。

恂は書物を学ぶことを好まず、体貌は肥大で、河洛の暑熱を深く忌み嫌い、心は常に北方の楽しみを追い求めていた。中庶子高道悦が幾度も苦言を以て諫めたが、恂はこれを甚だ恨んだ。高祖が崧岳に行幸した時、恂は金墉に留守し、西掖門内で左右と謀り、牧馬の軽騎を召して代に奔らせようとし、禁中で道悦を手ずから斬った。領軍元儼が門を統制して防ぎ止め、夜は寧静を得た。その翌朝、尚書陸琇が南で高祖に馳せて啓上した。高祖はこれを聞いて驚き嘆き、外では事を秘め、汴口に至ってから還った。恂を引き出して数々の罪を問い、咸陽王禧らと共に親しく恂を杖で打ち、また禧らに代わる代わる打たせ、百余りに及び、引きずり出して外に出し、起き上がれないこと一ヶ月余りに及んだ。城西の別館に拘禁した。清徽堂で群臣を引見し、廃することを議した。司空・太子太傅穆亮、尚書僕射・少保李沖は、共に冠を免じて稽首して謝した。高祖は言った。「卿らが謝するのは私事である。我が議するのは国事である。古人に言う、大義は親を滅す、と。今、恂は父に背き尊に逆らい、恒朔を跨ぎ据えんとしている。天下に父無き国はなく、何とその包蔵する心は身と倶にあることか。この小児を今日滅さざれば、乃ち国家の大禍である。もし我が後を待たずして、恐らく永嘉の乱の有らん。」乃ち庶人に廃し、河陽に置き、兵をもって守らせ、衣服食物の供給は、粗く飢寒を免れるのみとした。恂は困窮の中、頗る過ちを悔いることを知り、常に仏経を読み、礼拝して善に心を帰した。

原文恂不好書學,體貌肥大,深忌河洛暑熱,意每追樂北方。中庶子高道悅數苦言致諫,恂甚銜之。高祖幸崧岳,恂留守金墉,於西掖門內與左右謀,欲召牧馬輕騎奔代,手刃道悅於禁中。領軍元儼勒門防遏,夜得寧靜。厥明,尚書陸琇馳啟高祖於南,高祖聞之駭惋,外寢其事,仍至汴口而還。引恂數罪,與咸陽王禧等親杖恂,又令禧等更代,百餘下,扶曳出外,不起者月餘。拘於城西別館。引見羣臣於清徽堂,議廢之。司空、太子太傅穆亮,尚書僕射、少保李沖,並免冠稽首而謝。高祖曰:「卿所謝者私也,我所議者國也。古人有言,大義滅親。今恂欲違父背尊,跨據恒朔。天下未有無父國,何其包藏,心與身俱。此小兒今日不滅,乃是國家之大禍,脫待我無後,恐有永嘉之亂。」乃廢為庶人,置之河陽,以兵守之,服食所供,粗免飢寒而已。恂在困躓,頗知咎悔,恒讀佛經,禮拜歸心於善。

高祖が代に行幸し、遂に長安に至った。中尉李彪が隙に乗じて密かに上表し、恂が再び左右と謀反を図ったと告げた。高祖は長安におり、中書侍郎邢巒と咸陽王禧を使わし、詔を奉じて椒酒を齎し河陽に赴き、恂に死を賜った。時に十五歳。粗末な棺と常服で殮り、河陽城に葬った。二十二年冬、御史臺令史龍文観が法に坐して死に当たり、廷尉に告げて、恂が以前左右に摂められた日、手書で自ら理を述べ知らぬ旨の状があったが、中尉李彪・侍御史賈尚がこれを聞かせなかったと称した。賈尚は坐して廷尉に繫がれた。時に李彪は免職で帰っており、高祖は鄴におり、尚書が表を上って李彪を収めて洛に赴かせようとしたが、赦に会い、遂にその本末を窮めなかった。賈尚は繫がれたまま出て、急病で数日後に死んだ。

原文高祖幸代,遂如長安。中尉李彪承間密表,告恂復與左右謀逆。高祖在長安,使中書侍郎邢巒與咸陽王禧,奉詔齎椒酒詣河陽,賜恂死,時年十五。殮以粗棺常服,瘞於河陽城。二十二年冬,御史臺令史龍文觀坐法當死,告廷尉,稱恂前被攝左右之日,有手書自理不知狀,而中尉李彪、侍御史賈尚寢不為聞。賈坐繫廷尉。時彪免歸,高祖在鄴,尚書表收彪赴洛,會赦,遂不窮其本末。賈尚出繫,暴病數日死。

初め、高祖は恂のために司徒馮誕の長女を娶らせようとしたが、女が幼いため、年長を待った。先に彭城劉長文・滎陽鄭懿の娘を左右孺子として娉いだ。時に恂は十三、四歳であった。高祖が天淵池で舟を浮かべ、郭祚・崔光・宋弁に言った。「人生は自ら放つべきで、終日読書してはならない。我は恂に朝に出て経伝を省覧させ、食後は内に還り、晡時に再び出て、日暮れに罷めさせたい。卿らはどう思うか。」崔光は言った。「孔子は『血気未だ定まらず、之を戒むるは色に在り』と称し、伝に『昼は以て事を訪ね、夜は以て身を安んず』と曰います。太子が幼年に学に渉る日、正昼の時に書を捨てて内に御するは宜しからず、また柔弱の体を安んじ、永年の命を固くする所以ではありません。」高祖は崔光の言を然りとし、乃ち恂に昼に内に入ることを命じなかった。子無し。

原文初,高祖將為恂娶司徒馮誕長女,以女幼,待年長。先為娉彭城劉長文、滎陽鄭懿女為左右孺子,時恂年十三四。高祖泛舟天淵池,謂郭祚、崔光、宋弁曰:「人生須自放,不可終朝讀書。我欲使恂旦出省經傳,食後還內,晡時復出,日夕而罷。卿等以為何如?」光曰:「孔子稱:『血氣未定,戒之在色』,傳曰:『晝以訪事,夜以安身』。太子以幼年涉學之日,不宜於正晝之時,捨書御內,又非所以安柔弱之體,固永年之命。」高祖以光言為然,乃不令恂晝入內。無子。

京兆王

原文京兆王

京兆王愉は、字を宣德という。太和二十一年に封ぜられた。都督・徐州刺史に拝され、彭城王中軍府長史盧陽烏を兼長史とし、州の事大小、陽烏に委ねた。世宗の初め、護軍將軍となった。世宗は諸弟を愛し留め、愉らは常に宮掖に出入りし、朝晩寝起きするも、家人の如くであった。世宗は毎日華林で戯れ射て、衣衫騎従、往来に間隔無し。中書監に遷った。

原文京兆王愉,字宣德。太和二十一年封。拜都督、徐州刺史,以彭城王中軍府長史盧陽烏兼長史,州事巨細,委之陽烏。世宗初,為護軍將軍。世宗留愛諸弟,愉等常出入宮掖,晨昏寢處,若家人焉。世宗每日華林戲射,衣衫騎從,往來無間。遷中書監。

世宗が順皇后の妹を納れて妃としたが、礼遇されなかった。愉は徐州におり、妾の李氏を納れた。本姓は楊、東郡の人で、夜その歌を聞き、悦び、遂に寵愛された。州を罷めて京に還り、貴ばせようとし、右中郎将趙郡李恃顯に託してその養父とし、彼のもとで礼を以て迎え、子宝月を産んだ。順皇后は李を宮中に召し、毀ち撃ち、強いて内で尼とさせ、子を妃に付けて養わせた。一年余り後、后の父于勁が、后が久しく産むところ無きを以て、乃ち表を上って嬪侍を広くするよう勧めた。因って后に李を愉に帰させ、旧愛は更に甚だしくなった。

原文世宗為納順皇后妹為妃,而不見禮答。愉在徐州,納妾李氏,本姓楊,東郡人,夜聞其歌,悅之,遂被寵嬖。罷州還京,欲進貴之,託右中郎將趙郡李恃顯為之養父,就之禮逆,產子寶月。順皇后召李入宮,毀擊之,強令為尼於內,以子付妃養之。歲餘,后父于勁,以后久無所誕,乃上表勸廣嬪侍。因令后歸李於愉,舊愛更甚。

愉は文章を好み、頗る詩賦を著した。時に才人宋世景・李神儁・祖瑩・邢晏・王遵業・張始均らを引き連れて共に宴喜を尽くし、四方の儒学賓客厳懐真ら数十人を招き、館して礼遇した。得た穀帛は、多く散施した。また仏道を崇信し、費用は常に続かなくなった。弟の広平王懐と互いに誇り競い、奢麗を慕い競い、貪欲で放縦、法に背いた。ここにおいて世宗は愉を禁中に摂めて推問し、愉を五十回杖打ち、冀州刺史として出させた。

原文愉好文章,頗著詩賦。時引才人宋世景、李神儁、祖瑩、邢晏、王遵業、張始均等共申宴喜,招四方儒學賓客嚴懷真等數十人,館而禮之。所得穀帛,率多散施。又崇信佛道,用度常至不接。與弟廣平王懷頗相夸尚,競慕奢麗,貪縱不法。於是世宗攝愉禁中推案,杖愉五十,出為冀州刺史。

初め愉は職を以て侍従の要職を求めたが、既に勢いは二弟に劣り、密かに愧恨を懐き、頗る言色に現れた。また幸いなる妾が屡々辱められたため、内外で離反し抑圧された。及び州において謀反を図り、愉は遂に長史羊霊引及び司馬李遵を殺し、清河王の密疏を得たと称し、高肇が主上を謀殺しようとしていると言った。ここにおいて信都の南に壇を設け、柴を焚いて天に告げ、即ち皇帝の位に即いた。天下に赦し、号して建平元年とし、李氏を皇后に立てた。世宗は詔して尚書李平に愉を討たせた。愉は出て王師を拒んだが、頻りに敗れ、遂に城に拠って自ら守った。愉は事窮まるを知り、李及び四子を伴い数十騎で門を出たが、諸軍がこれを追い、捕らえられて送られた。詔して京師に赴くよう召し、家人の訓戒を加えた。愉は毎夜宿駅に止まる度、必ず李の手を携え、その私情を尽くした。鎖で繋がれている中でも、飲食は自若とし、少しも愧懼の色が無かった。野王に至り、愉は人に語って言った。「主上は慈愛深く、我を殺すに忍びないとしても、我また何の面目あって至尊に見えようか。」ここにおいて歔欷して涙を流し、絶息して死んだ。二十一歳。或いは高肇が人を使ってこれを殺したという。小棺に収め、葬った。諸子は洛に至り、皆赦された。後、霊太后は愉の四子を皆属籍に附することを命じ、愉を追封して臨洮王とした。子宝月が襲封した。乃ち父母を改葬し、三年の喪服を追って服した。

原文始愉自以職求侍要,既勢劣二弟,潛懷愧恨,頗見言色。又以幸妾屢被頓辱,內外離抑。及在州謀逆,愉遂殺長史羊靈引及司馬李遵,稱得清河王密疏,云高肇謀殺害主上。於是遂為壇於信都之南,柴燎告天,即皇帝位。赦天下,號建平元年,立李氏為皇后。世宗詔尚書李平討愉。愉出拒王師,頻敗,遂嬰城自守。愉知事窮,攜李及四子數十騎出門,諸軍追之,見執以送。詔徵赴京師,申以家人之訓。愉每止宿亭傳,必攜李手,盡其私情。雖鎖縶之中,飲食自若,略無愧懼之色。至野王,愉語人曰:「雖主上慈深,不忍殺我,吾亦何面目見於至尊!」於是歔欷流涕,絕氣而死,年二十一。或云高肇令人殺之。斂以小棺,瘞之。諸子至洛,皆赦之。後靈太后令愉之四子皆附屬籍,追封愉臨洮王。子寶月襲。乃改葬父母,追服三年。

宝月の弟宝炬は、軽躁で薄行、淫らに耽り酒色にふけった。孝莊の時、特旨にて南陽王に封ぜられた。出帝に従って関西に没した。宇文黒獺が出帝を害すると、宝炬は乃ち大号を僭称した。

原文寶月弟寶炬,輕躁薄行,耽淫酒色。孝莊時,特封南陽王。從出帝沒於關西。宇文黑獺害出帝,寶炬乃僭大號。

清河王

原文清河王

清河王元懌は、字を宣仁という。幼少より聡明で、容姿端麗であり、高祖(孝文帝)に寵愛された。彭城王元勰は彼を特に器重し、『この子は風采が外に優れ、内には徳を湛えている。もし天が年を授けられれば、周公・召公の二南に比肩するであろう』と評した。経史に広く通じ、諸子百家の言説を総合し、文才があり、道理を談ずることに長け、寛仁で度量が広く、喜怒を顔色に表さなかった。太和二十一年(497年)に封を受けた。世宗(宣武帝)の初め、侍中に任ぜられ、後に尚書僕射に転じた。

原文清河王懌,字宣仁。幼而敏惠,美姿貌,高祖愛之。彭城王勰甚器異之,並曰:「此兒風神外偉,黃中內潤,若天假之年,比二南矣。」博涉經史,兼綜羣言,有文才,善談理,寬仁容裕,喜怒不形於色。太和二十一年封。世宗初,拜侍中,轉尚書僕射。

元懌は政務を執る才能に長け、判断・決断に明るく、多くの事務を裁断し、非常に名声があった。司空の高肇は帝の舅として寵愛され権勢を握り、既に威権を専らにし、良き宗室を除こうと謀り、しばしば元懌や元愉らを讒言した。元愉はその憤りに耐えかね、ついに冀州で反逆を起こした。元愉の反逆を機に、高肇はさらに元勰を陥れて殺害した。元懌は禍を免れぬことを恐れた。高肇はまた囚徒を調査して恩赦を行い、私的な恩恵を立てようとした。元懌は侍宴の席で酒が酣になった時、高肇に向かって言った。『天子の兄弟は、果たして幾人いるというのか、それなのに(讒言の)炎が絶えない。昔、王莽は頭が禿げ上がり、また渭陽(舅)の資質を借りて、遂に漢室を簒奪した。今、君には曲がった形相が現れている。恐らく再び乱の階梯を成すことになるであろう』。また世宗に言上して曰く、『臣は聞く、器(礼器)と名(爵位)のみは、人に仮すべからずと。それ故に季氏が泰山に旅したことを、宣尼(孔子)は深く譏った。仲叔(衛の大夫)が軒懸の楽を用いたことを、丘明(左丘明)は至極の戒めとした。思うに、天は尊く地は卑く、君臣の道は別である。漸(ようやく)を杜ぎ萌(きざし)を防ぎ、互いに僭越すべきではない。膳を減らし囚徒を録する(恩赦する)ことは、人君の事である。今、司徒(高肇)がこれを行っている。果たして人臣の義であろうか。かつ陛下が政教を修め、獄訟を解けば、時に雨は降り、玉燭(四季の調和)は和らぐことを知る。どうして明君が上でこれを失い、奸臣が下でこれを窃むことをさせようとするのか。長き乱の基は、ここにある』。世宗は笑って応じなかった。

原文懌才長從政,明於斷決,割判眾務,甚有聲名。司空高肇以帝舅寵任,既擅威權,謀去良宗,屢譖懌及愉等。愉不勝其忿怒,遂舉逆冀州。因愉之逆,又構殺勰。懌恐不免。肇又錄囚徒,以立私惠。懌因侍宴酒酣,乃謂肇曰:「天子兄弟,詎有幾人,而炎炎不息。昔王莽頭禿,亦藉渭陽之資,遂篡漢室,今君曲形見矣,恐復終成亂階。」又言於世宗曰:「臣聞唯器與名,不可以假人。是故季氏旅泰,宣尼以為深譏;仲叔軒懸,丘明以為至誡。諒以天尊地卑,君臣道別,宜杜漸防萌,無相僭越。至於減膳錄囚,人君之事,今乃司徒行之,詎是人臣之義?且陛下修政教,解獄訟,則時雨可降,玉燭知和,何使明君失之於上,姦臣竊之於下。長亂之基,於此在矣。」世宗笑而不應。

肅宗(孝明帝)の初め、太尉に遷り、侍中は元の通りであった。詔により元懌は門下省の事務を裁決した。また経義の注釈を司った。時に沙門の恵憐という者がおり、自ら水に呪文を唱えて人に飲ませれば、諸病を癒すことができると称した。病人が彼の元に赴く者は、日に千数を数えた。霊太后は詔して衣食を与え、労役者を優遇して厚くし、城西の南にて百姓の病気を治療させた。元懌は上表して諫めて曰く、『臣は聞く、律には衆を惑わすことの科条が深く、礼には妖淫を絶つ禁令がある。これらは皆、大いに正道を明らかにし、奸邪を防ぎ止めるためのものである。昔、漢末に張角という者がおり、またこの術をもって当時を熒惑(惑わ)した。その行いを論ずれば、今と異ならない。遂に生ける人を誑かし誘い、黄巾の禍を招き、天下が塗炭の苦しみを受けた数十年間は、張角に由るのである。昔、新垣平の奸は明堂に登らず、五利将軍の僥倖は終に顕戮に嬰(かか)った』。

原文肅宗初,遷太尉,侍中如故。詔懌裁門下之事。又典經義注。時有沙門惠憐者,自云呪水飲人,能差諸病。病人就之者,日有千數。靈太后詔給衣食,事力優重,使於城西之南,治療百姓病。懌表諫曰:「臣聞律深惑眾之科,禮絕妖淫之禁,皆所以大明居正,防遏姦邪。昔在漢末,有張角者,亦以此術熒惑當時。論其所行,與今不異。遂能詃誘生人,致黃巾之禍,天下塗炭數十年間,角之由也。昔新垣姦,不登於明堂;五利僥,終嬰於顯戮。」

霊太后は元懌が肅宗の懿叔(良き叔父)であり、徳望が先んじて衆人の瞻望(敬慕)の的であるとして、朝政を委ね、その扱いは周公・霍光のごとくであった。元懌は力を尽くして輔弼し、天下を己が任とした。領軍の元叉は、太后の妹婿であり、寵を恃んで驕り高ぶっていた。元懌は法をもって彼を裁き、しばしば抑え退けたため、元叉に憎まれた。元叉の党与である通直郎の宋維は元叉の意を迎え、元懌が謀反を企てていると告発し、元懌を門下省に監禁し、左右の者や朝貴を取り調べたが、貴人(身分の高い人、ここではおそらく証人)がはっきりと(無実を)証言したため、ようやく冤罪が晴れた。元懌は忠でありながら誹謗を受けたため、かつての忠烈の士を鳩集(集め)して『顕忠録』二十巻を著し、己が意を表した。

原文靈太后以懌肅宗懿叔,德先具瞻,委以朝政,事擬周霍。懌竭力匡輔,以天下為己任。領軍元叉,太后之妹夫也,恃寵驕盈。懌裁之以法,每抑黜之,為叉所疾。叉黨人通直郎宋維希叉旨,告懌謀反,禁懌門下,訊問左右及朝貴,貴人分明,乃得雪釋焉。懌以忠而獲謗,乃鳩集昔忠烈之士,為《顯忠錄》二十卷,以見意焉。

正光元年(520年)七月、元叉と劉騰は肅宗を顕陽殿に逼り、霊太后を後宮に閉じ込め、元懌を門下省に囚え、元懌に罪状を着せ、遂に害した。時に三十四歳であった。朝野の貴賤を問わず、知る者も知らぬ者も、悲しみを胸に抱き意気消沈し、その驚きは遠近に振るわった。京にいる夷人や帰国する者が、元懌の喪を聞き、そのために顔を劈(つら)いた者は数百人に及んだ。

原文正光元年七月,叉與劉騰逼肅宗於顯陽殿,閉靈太后於後宮,囚懌於門下省,誣懌罪狀,遂害之,時年三十四。朝野貴賤,知與不知,含悲喪氣,驚振遠近。夷人在京及歸,聞懌之喪,為之劈面者數百人。

広平王。

原文廣平王

広平王元懐。(欠文)魏の諸王。華林別館に召し入れられ、出入りを禁じられ、四門博士の董徴に命じて経伝を授けさせた。世宗が崩御して初めて帰ることができた。

原文廣平王懷。〈闕〉有魏諸王。召入華林別館,禁其出入,令四門博士董徵,授以經傳。世宗崩,乃得歸。

汝南王。

原文汝南王

汝南王元悦は、仏経を読み、書史を覧ることを好んだ。性質は人並み外れ、洒脱で測り難かった。元悦の妃の閭氏は、即ち東海公の娘である。一子を生んだが、礼遇されなかった。崔延夏という者がおり、左道(邪術)をもって元悦と交遊し、共に仙薬の松朮の類を服用した。時に軽率に外出して芝を採り、城外の小人(身分の低い者)の家に宿泊した。遂に酒肉や粟米・稲米を断ち、麦飯のみを食した。また房中術を絶ち、さらに男色を好むようになった。軽々しく妃妾に憤り、殴打を加えるに至り、婢女同然に扱った。元悦が外出する時は、妃は別邸に住まわせた。霊太后は検査して問いただすよう命じ、妃を引見し、元悦の事の次第を徹底的に尋ねた。妃は杖の傷で床に伏し、創はまだ癒えていなかった。太后は元悦が妃を殴打したことを理由に、令を下してこれを禁断した。諸親王及び三蕃(宗室・外戚・功臣)に対し、正妃が疾患して百日以上に及ぶ場合は、皆奏聞させることとした。もしなお殴打を行う者がいれば、封位を削ぐこととした。

原文汝南王悅,好讀佛經,覽書史。為性不倫,俶儻難測。悅妃閭氏,即東海公之女也,生一子,不見禮答。有崔延夏者,以左道與悅遊,合服仙藥松朮之屬。時輕與出採芝,宿於城外小人之所。遂斷酒肉粟稻,唯食麥飯。又絕房中而更好男色。輕忿妃妾,至加捶撻,同之婢使。悅之出也,妃住於別第。靈太后敕檢問之,引入,窮悅事故。妃病杖伏床蓐,瘡尚未愈。太后因悅之杖妃,乃下令禁斷。令諸親王及三蕃,其有正妃疾患百日已上,皆遣奏聞。若有猶行捶撻,就削封位。

そして清河王元懌が元叉に害されると、元悦は少しも仇討ちや恨みの意がなく、かえって桑落酒を用いて元叉の機嫌を伺い、その私的な諂いに尽くした。元叉は大いに喜び、元悦を侍中・太尉に任じた。拝命の日に臨み、元懌の子の元亶の元に赴き、元懌の服玩の物を求め、その場で旨に叶わなかった。そこで元亶を召し出し、百回杖打った。元亶は喪に服する廬に居り、未だ葬っておらず、身体は弱っていたが、突然に威嚇的な鞭打ちを加えられ、ほとんど危篤に陥った。(欠文)それでもなお阿児と呼び、自ら撫で回した。(欠文)元悦は大きな剉碓(罪人の手足を切断する刑具)を州門に設置し、盗人を見つけ次第その手を斬ろうとした。当時の人々はその無常を恐れ、異様な事を行い得るとし、奸盗は彼を畏れて一時的に息を潜めた。

原文及清河王懌為元叉所害,悅了無讎恨之意,乃以桑落酒候伺之,盡其私佞。叉大喜,以悅為侍中、太尉。臨拜日,就懌子亶求懌服玩之物,不時稱旨。乃召亶,杖之百下。亶居廬未葬,形氣羸弱,暴加威撻,殆至不濟。〈闕〉仍呼阿兒,親自循撫。〈闕〉悅為大剉碓置於州門,盜者便欲斬其手。時人懼其無常,能行異事,姦偷畏之而暫息。

そして尒朱栄が兵を挙げて洛陽に向かうと、既に(元悦は)民間に入り込んでいた。(疑文)やがて尒朱栄が河陰で暴虐を働いたと聞き、遂に南へ奔って蕭衍に身を寄せた。蕭衍は彼を魏主として立て、年号を更興とした。蕭衍はその将軍の王弁を遣わして国境の上に送り置き、侵逼を窺わせた。

原文及尒朱榮舉兵向洛。既憶入間。〈疑〉俄而聞榮肆毒於河陰,遂南奔蕭衍。衍立為魏主,號年更興。衍遣其將軍王辯送置於境上,以覬侵逼。

そして斉献武王(高歓)が尒朱栄を誅殺すると、元悦が高祖(孝文帝)の子であるとして、大業を継ぐべきであると考え、人を遣わしてその旨を示した。元悦が到着すると、清狂(奇行)は以前と変わらず、行動は罪過であり、扶持することができなかったため、取りやめとした。出帝(孝武帝)の初め、大司馬に任ぜられた。卒去した。

原文及齊獻武王既誅榮,以悅高祖子,宜承大業,乃令人示意。悅既至,清狂如故,動為罪失,不可扶持,乃止。出帝初,除大司馬。卒。