魏書

卷21上 獻文六王上

卷21上 獻文六王上

献文皇帝に七人の男子あり。李思皇后は孝文皇帝を生む。封昭儀は咸陽王禧を生む。韓貴人は趙郡霊王幹、高陽文穆王雍を生む。孟椒房は広陵恵王羽を生む。潘貴人は彭城武宣王勰を生む。高椒房は北海平王詳を生む。勰は別に伝あり。

原文獻文皇帝七男:李思皇后生孝文皇帝。封昭儀生咸陽王禧。韓貴人生趙郡靈王幹、高陽文穆王雍。孟椒房生廣陵惠王羽。潘貴人生彭城武宣王勰。高椒房生北海平王詳。勰別有傳。

咸陽王

原文咸陽王

咸陽王禧は、字を永壽という。太和九年に封ぜられ、侍中・驃騎大将軍・中都大官を加えられる。文明太后は令して曰く、「生まれながらに知るものでなければ、皆学び教えによる。皇子皇孫、訓教が立たず、故きを温ね新しきを求むるに、欠けるところあらん。閑静の所に於いて、別に学館を置き、忠信博聞の士を選びて師傅と為し、以てこれを匠成すべし」と。高祖は諸弟に三都を典せしめ、禧らを誡めて曰く、「汝らは国の至親、皆幼年にして重任を負う。三都の獄を断ずるに、特に心を用いるべし。未だ刀を操る能わずして錦を割かしむるは、錦を傷つけること尤もらしからず、実に刀を授くる者の責なり。皆修身慎行し、乖爽あることなかれ」と。文明太后もまた禧らを誡めて曰く、「汝の兄は先業を継ぎ、万機を統御し、戦戦兢兢として、常に称わざるを恐る。汝の治むる所は小なれども、亦よく念うべし」と。高祖また曰く、「周の文王は小心翼翼として、多く福を懐く。もし周公の才ありとも、驕り且つ吝くば、その余は観るに足らず。汝らは小心畏慎し、自ら驕り怠ることなかれ」と。出でて使持節・開府・冀州刺史と為り、高祖は南郊にて餞別す。また済陰王鬱が枉法により賜死せしめたる事を以て、使者を遣わし禧に告げ、因りてこれを誡む。

原文咸陽王禧,字永壽。太和九年封,加侍中、驃騎大將軍、中都大官。文明太后令曰:「自非生知,皆由學誨,皇子皇孫,訓教不立,溫故求新,蓋有闕矣。可於閒靜之所,別置學舘,選忠信博聞之士為之師傅,以匠成之。」高祖以諸弟典三都,誡禧等曰:「汝等國之至親,皆幼年任重,三都折獄,特宜用心。夫未能操刀而使割錦,非傷錦之尤,實授刀之責。皆可修身慎行,勿有乖爽。」文明太后亦誡禧等曰:「汝兄繼承先業,統御萬機,戰戰兢兢,恒恐不稱。汝所治雖小,亦宜克念。」高祖又曰:「周文王小心翼翼,聿懷多福。如有周公之才,使驕且吝,其餘不足觀。汝等宜小心畏慎,勿自驕怠。」出為使持節、開府、冀州刺史,高祖餞於南郊。又以濟陰王鬱枉法賜死之事,遣使告禧,因而誡之。

後に禧が京師に朝す。高祖は王公に謂いて曰く、「皇太后は平素より朝儀の闕然たるを以て、遂に百官に命じて更に撰緝せんと欲す。今将に遺志を畢修せんとす。卿らは行うべきと謂わざるか。各々尽く対え、面従することなかれ」と。禧対えて曰く、「儀制の事は、用捨各々その時に随う。而して民はこれに由らしむべく、知らしむべからず。臣は元の志を述べ、朝式を行い備うべしと謂う」と。高祖然りとす。詔して曰く、「仲尼は郷党に在りて、猶尚お恂恂たり。周の文王は世子として、身を卑しめて道を求む。禧らは宸暉に連蕚すと雖も、師傅を尊尚せざるを得んや。故にこれを置き、以て令徳を加う。廷尉卿李沖を以て咸陽王の師とすべし」と。禧将に州に還らんとす。高祖親しくこれを餞り、詩を賦して意を叙し、禧に都督冀・相・兗・東兗・南豫・東荊六州諸軍事を加う。

原文後禧朝京師,高祖謂王公曰:「皇太后平日以朝儀闕然,遂命百官更欲撰緝,今將畢修遺志,卿等謂可行不?當各盡對,無以面從。」禧對曰:「儀制之事,用捨各隨其時,而民可使由之,不可使知之。臣謂宜述元志,備行朝式。」高祖然之。詔曰:「仲尼在鄉黨,猶尚恂恂,周文王為世子,卑躬求道,禧等雖連蕚宸暉,得不尊尚師傅也?故為置之,以加令德。廷尉卿李沖可咸陽王師。」禧將還州,高祖親餞之,賦詩叙意,加禧都督冀、相、兗、東兗、南豫東荊六州諸軍事。

時に、王国の舍人は応に八族及び清修の門を取るべし。禧は任城王の隷戸を取りてこれと為す。深く高祖に責めらる。

原文於時,王國舍人應取八族及清修之門,禧取任城王隸戶為之,深為高祖所責。

詔して曰く、「夫れ婚姻の義は、曩葉の崇ぶ所。賢を求めて偶を択ぶは、緜代の慎む所。故に剛柔は易経に著わり、鵲巣は詩典に載る。夫婦の道を重んじ、尸鳩の徳を美とし、君子に配し、後昆に芳を流さんとする所以なり。然らば則ち婚とは、二姓の好を合わし、他族の親を結び、上は宗廟に事え、下は後世を継ぐ。必ず敬慎重正にして後にこれを親しましむ。夫婦既に親しみ、然る後に父子君臣、礼義忠孝、ここに備わる。太祖、龍飛して九五に即き、始めて遠則を稽え、撥乱創業す。日昃にして暇あらず。諸王の娉合の儀、宗室の婚姻の戒に至りては、或いは賢淑を得、或いは好逑に乖く。これより以後、その風漸く缺け、皆人窈窕に乏しく、族百両に非ず。匹を擬するに卑濫、舅氏軽微、典に違い俗に滞る。深く用いて歎ず。皇子茂年にして、宜しく令正を簡ぶべし。前者の納むる所は、妾媵と為すべし。この年を以て六弟の娉室と為さんとす。長弟咸陽王禧は故潁川太守隴西李輔の女を娉すべし。次弟河南王幹は故中散代郡穆明楽の女を娉すべし。次弟広陵王羽は驃騎諮議参軍滎陽鄭平城の女を娉すべし。次弟潁川王雍は故中書博士范陽盧神宝の女を娉すべし。次弟始平王勰は廷尉卿隴西李沖の女を娉すべし。季弟北海王詳は吏部郎中滎陽鄭懿の女を娉すべし」と。

原文詔曰:「夫婚姻之義,曩葉攸崇,求賢擇偶,緜代斯慎,故剛柔著於易經,鵲巢載于詩典,所以重夫婦之道,美尸鳩之德,作配君子,流芳後昆者也。然則婚者,合二姓之好,結他族之親,上以事宗廟,下以繼後世,必敬慎重正而後親之。夫婦既親,然後父子君臣、禮義忠孝,於斯備矣。太祖龍飛九五,始稽遠則,而撥亂創業,日昃不暇。至於諸王娉合之儀,宗室婚姻之戒,或得賢淑,或乖好逑。自茲以後,其風漸缺,皆人乏窈窕,族非百兩,擬匹卑濫,舅氏輕微,違典滯俗,深用為歎。以皇子茂年,宜簡令正,前者所納,可為妾媵。將以此年為六弟娉室。長弟咸陽王禧可娉故潁川太守隴西李輔女,次弟河南王幹可娉故中散代郡穆明樂女,次弟廣陵王羽可娉驃騎諮議參軍滎陽鄭平城女,次弟潁川王雍可娉故中書博士范陽盧神寶女,次弟始平王勰可娉廷尉卿隴西李沖女,季弟北海王詳可娉吏部郎中滎陽鄭懿女。」

有司奏す、冀州の人蘇僧瓘ら三千人、禧は清明にして恵政ありと称し、冀州を世に胙せんことを請う。詔して曰く、「利建は古しと雖も、必ずしも今に宜しからず。経野は君に由り、理は下の請う所に非ず。邑采の封は、自ら別式あり」と。入りて司州牧・都督司豫荊郢洛東荊六州諸軍事を除かれ、開府は故の如し。帛二千匹・粟五千斛を賜う。詔して禧を元弟の重きを以て、食邑三千戸とし、自余の五王は皆食邑二千戸とす。

原文有司奏冀州人蘇僧瓘等三千人,稱禧清明有惠政,請世胙冀州。詔曰:「利建雖古,未必今宜;經野由君,理非下請。邑采之封,自有別式。」入除司州牧、都督司豫荊郢洛東荊六州諸軍事,開府如故,賜帛二千匹、粟五千斛。詔以禧元弟之重,食邑三千戶,自餘五王皆食邑二千戶。

高祖は朝臣を引見し、詔して曰く、「卿らは魏朝をして殷周に斉美せしめんと欲するか、漢晉をして独り上代に擅わしめんと欲するか」と。禧曰く、「陛下聖明として運を御し、実に前王の迹を邁ならんことを願う」と。高祖曰く、「若し然らば、将に何事を以てこれを致さんとするか。修身改俗を為さんと欲するか、仍って前事に染まらんと欲するか」と。禧対えて曰く、「宜しく旧を改め、以て日新の美を成すべし」と。高祖曰く、「一身に止まらんと欲するか、子孫に伝えんと欲するか」と。禧対えて曰く、「既に世の霊長を卜し、来葉に伝えんことを願う」と。高祖曰く、「若し然らば、必ず改作すべし。卿ら当に各々これに従うべく、違うこと得べからず」と。禧対えて曰く、「上命下従、風の草を靡かすが如し」と。高祖曰く、「上古以来及び諸経籍に、焉ぞ先ず名を正さずして、礼を行い得ん。今諸北語を断ち、一に正音に従わんと欲す。年三十以上は、習性已久しく、容或いは卒革すべからず。三十以下、朝廷に在る人の見る所、語音は旧に仍ることを聴かず。若し故為する有らば、当に爵を降し官を黜すべし。各々宜しく深く戒むべし。此の如く漸く習わば、風化新たにすべし。若し旧俗に仍らば、数世の後、伊洛の下復た被髪の人と成らんことを恐る。王公卿士、皆以て然りとせざるか」と。禧対えて曰く、「実に聖旨の如し、宜しく改易すべし」と。高祖曰く、「朕嘗て李沖と此れを論ず。沖言う、『四方の語、竟に誰か是なるかを知らん。帝者の言う、即ち正と為る。何ぞ必ずしも旧を改めて新に従わん』と。沖の此言は、応に死罪に合う」と。乃ち沖に謂いて曰く、「卿は実に社稷に負う。御史を合わせて牽き下らしむべし」と。沖は冠を免じて陳謝す。また王公卿士を引見し、京に留まる官を責めて曰く、「昨、婦女の服を望見するに、仍って夾領小袖たり。我は東山に徂き、三年とせずと雖も、既に寒暑を離る。卿ら何を為して前詔に違うか」と。禧対えて曰く、「陛下は堯舜に過ぎ、光化中原す。臣は仰いで明規を禀くも、毎事乖互す。将に何を以て皇経を宣布し、帝則を敷賛せん。舛違の罪は、実に刑憲に合う」と。高祖曰く、「若し朕の言非ならば、卿ら当に須らく庭論すべし。如何ぞ入りては旨に順い、退きて従わざる有らん。昔、舜、禹に語りて曰く、汝面従すること無かれ、退きて後言有ること無かれ、と。其れ卿らの謂う所か」と。

原文高祖引見朝臣,詔之曰:「卿等欲令魏朝齊美於殷周,為令漢晉獨擅於上代?」禧曰:「陛下聖明御運,實願邁迹前王。」高祖曰:「若然,將以何事致之?為欲修身改俗,為欲仍染前事?」禧對曰:「宜應改舊,以成日新之美。」高祖曰:「為欲止在一身,為欲傳之子孫?」禧對曰:「既卜世靈長,願欲傳之來葉。」高祖曰:「若然,必須改作,卿等當各從之,不得違也。」禧對曰:「上命下從,如風靡草。」高祖曰:「自上古以來及諸經籍,焉有不先正名,而得行禮乎?今欲斷諸北語,一從正音。年三十以上,習性已久,容或不可卒革;三十以下,見在朝廷之人,語音不聽仍舊。若有故為,當降爵黜官。各宜深戒。如此漸習,風化可新。若仍舊俗,恐數世之後,伊洛之下復成被髮之人。王公卿士,咸以然不?」禧對曰:「實如聖旨,宜應改易。」高祖曰:「朕嘗與李沖論此,沖言:『四方之語,竟知誰是?帝者言之,即為正矣,何必改舊從新。』沖之此言,應合死罪。」乃謂沖曰:「卿實負社稷,合令御史牽下。」沖免冠陳謝。又引見王公卿士,責留京之官曰:「昨望見婦女之服,仍為夾領小袖。我徂東山,雖不三年,既離寒暑,卿等何為而違前詔?」禧對曰:「陛下聖過堯舜,光化中原,臣雖仰禀明規,每事乖互,將何以宣布皇經,敷贊帝則。舛違之罪,實合刑憲。」高祖曰:「若朕言非,卿等當須庭論,如何入則順旨,退有不從。昔舜語禹,汝無面從,退有後言,其卿等之謂乎?」

尋いで禧を長兼太尉公と為す。後、高祖禧の第に幸す。司空穆亮・僕射李沖に謂いて曰く、「既に天地有り、又君臣有り。太尉は台鉉の位に居り、冢宰の上に在り。三槐九棘、久しく空しくすべからず。元弟禧は事に在りて長からずと雖も、皇極に戚連し、且つ長兼太尉として、以て鼎を和餁す。朕は常に君の空授の名有るを恐れ、臣の彼己の刺を貽すを恐る。今その宅に幸すも、徒らに二賓を屈するのみ。良く以て愧と為す」と。

原文尋以禧長兼太尉公。後高祖幸禧第,謂司空穆亮、僕射李沖曰:「既有天地,又有君臣,太尉位居臺鉉,在冢宰之上,三槐九棘,不可久空。元弟禧雖在事不長,而戚連皇極,且長兼太尉,以和餁鼎。朕常恐君有空授之名,臣貽彼己之刺,今幸其宅,徒屈二賓,良以為愧。」

高祖が方沢で祭祀を行った際、夜明けに、群臣が起居を尋ねた。高祖は言った、「昨日の方沢は、殊に暑さが厳しく、天の雲が密かに陰り、行人はかろうじて弊害なく過ごせた。」禧が答えて言った、「陛下の徳は天地に感応し、故に雲物が彩りを凝らし、たとえ雨師が掃き清め、風伯が塵を払うとも、これに過ぎることはないでしょう。」高祖は言った、「伊洛は南北の中にあり、これは天地の気がこもり、陰陽風雨の交わる所であり、自然の応報であって、寡徳の身がこれをもたらせるものではない。」

原文高祖有事於方澤,質明,羣臣問起居。高祖曰:「昨日方澤,殊自大暑,遇天雲蔭密,行人差得無弊。」禧對曰:「陛下德感天地,故雲物凝彩,雖復雨師灑掃,風伯清塵,豈過於此。」高祖曰:「伊洛南北之中,此乃天地氤氳,陰陽風雨之所交會,自然之應,非寡德所能致此。」

高祖は兄弟に篤く、禧が次兄であることを以て、礼遇は優れて厚かったが、しかしまたその性の貪婪なるを知り、常に厳しく戒めた。当時はこれに従ったが、終に操行を改めることはなかった。禧が上表して言った、「国朝は武を偃(や)げ文を崇(たっと)び、州鎮の兵士は、あるいは雄勇であれど、武芸に熟達せず。今、歳暮の暇と番上の日を取って、兵法を訓え、弓矢と干矟(かんさく)を三分して並びに教え、人をしてその能に習熟せしめ、事に臨んで欠けることなからしめん。」詔して言った、「武を教うとは云え、その方策は未だ練られず、既に北行に迫り、急に教武を聞けば、群惑を生ずる恐れがある。暫くこれを停めよ。」後に漢陽平定に従い、南陽を克った功績により、侍中を加えられ、太尉を正任された。

原文高祖篤於兄弟,以禧次長,禮遇優隆,然亦知其性貪,每加切誡,雖當時遵奉,而終不改操。禧表曰:「國朝偃武崇文,偏捨來久,州鎮兵人,或有雄勇,不閑武藝。今取歲暮之暇,番上之日,訓其兵法。弓矢干矟,三分並教,使人閑其能,臨事無闕。」詔曰:「雖云教武,未練其方,既逼北行,卒聞教武,脫生羣惑。且可停之。」後從平漢陽,以克南陽之勳,加侍中,正太尉。

高祖が崩御すると、禧は遺命を受けて政を輔けた。宰輔の首班ではあったが、悠揚として責任を推し委ね、是非を論ずることもなく、ひそかに賄賂を受け、陰に威福を振るう者の中では、禧が特に甚だしかった。この年、八座が邑千戸を増やすよう上奏し、世宗はこれに従ったが、固辞して受けなかった。禧の性は驕奢で、財色を貪り淫し、姫妾数十人いても尚飽き足らず、衣被は繍綺をまとい、車乗は鮮麗であり、遠方にまで簡娉を求め、その情を恣にした。これにより貨賄を貪り求め、奴婢は数千に及び、田業塩鉄は遠近に遍く、臣吏や僮隷が相継いで経営した。世宗はこれを頗る憎んだ。

原文及高祖崩,禧受遺輔政。雖為宰輔之首,而從容推委,無所是非,而潛受賄賂,陰為威惠者,禧特甚焉。是年,八座奏增邑千戶,世宗從之,固辭不受。禧性驕奢,貪淫財色,姬妾數十,意尚不已,衣被繡綺,車乘鮮麗,猶遠有簡娉,以恣其情,由是昧求貨賄,奴婢千數,田業鹽鐵徧於遠近,臣吏僮隸,相繼經營。世宗頗惡之。

景明二年春、禧らが将礿祭のために斎に入った時、世宗は詔して領軍の于烈に、左右を率いて禧らを光極殿に召し入れるよう命じた。詔して言った、「恪(世宗)は寡昧ながらも、宝曆を忝(かたじけな)く承け、比来病に纏われ、実に諸父に憑り、視息を苟(いやしく)も延ばし、忽ち三年に及んだ。父たちは退くことを懇ろにし、今より親しく百揆を摂り、暫く府司に還り、別に処分せん。」間もなく詔して言った、「朕は寡昧にして、早く閔凶に罹り、憂煢として疚(やま)しきに在り、如何にすべきか知らず。実に先帝の聖徳と遺沢の及ぶところに頼り、宰輔の忠賢が王室に労し、上下を撫和し、内外を粛清するに用いることができた。乃ち式に復子の礼に遵い、政を帰し退位を告げるに、辞理懇到にして、遥かに奪い難し。便ち当にこの空乏を励まし、機務を親覧すべし。王(禧)は惟れ元叔にして、道性は淵凝、太保に進位し、太尉を領すべし。司空北海王は季父にして英明、声略は茂挙、大将軍・録尚書事とすべし。」

原文景明二年春,禧等為將礿祭入齋,世宗詔領軍于烈,率左右召禧等入於光極殿。詔曰:「恪雖寡昧,忝承寶曆,比纒尫疹,實憑諸父,苟延視息,奄涉三齡。父等歸遜殷勤,今便親攝百揆,且還府司,當別處分。」尋詔曰:「朕以寡昧,夙罹閔凶,憂煢在疚,罔知攸濟。實賴先帝聖德,遺澤所覃,宰輔忠賢,劬勞王室,用能撫和上下,肅清內外。乃式遵復子,歸政告遜,辭理懇至,邈然難奪。便當勵茲空乏,親覽機務。王尊惟元叔,道性淵凝,可進位太保,領太尉;司空北海王季父英明,聲略茂舉,可大將軍、錄尚書事。」

世宗が政を覧るようになると、禧は心中安からず。その国の斎帥劉小苟が、常に左右の者が禧を誅そうとしていると言った。禧は聞いて嘆いて言った、「我は心に負うところなし、天家(皇室)がかくあるべきか!」これにより常に憂懼を懐いた。これに趙脩の専寵が加わり、王公は進見を得ることが稀であった。禧は遂にその妃の兄で兼給事黄門侍郎の李伯尚と謀反を企てた。時に世宗は小平津に行幸し、禧は城西の小宅にいた。初め兵を率いて直ちに金墉城に入ろうとしたが、衆は沮み異を懐き、禧の心もまた緩んだ。朝から夕方まで達し、決断できず、遂に秘密を漏らさぬことを約して散った。武興王楊集始は出るや否や馳せ告げたが、禧は疑わなかった。乃ち臣妾と共に洪池の別墅に向かい、小苟に啓を奉らせ、「田牧を検行す」と云わせた。小苟が邙嶺に至ると、既に軍人に出逢い、小苟の赤衣を怪しんで殺害しようとした。小苟は困窮し、謀反を告げようとすると言い、ようやく緩められた。禧はその夜洪池に宿したが、大風暴雨で樹を抜き木を折った。禧は事が露顕したことを知らなかった。その夜、或る者が禧に言った、「殿下は衆を集めて事を図りながら、意を見て停まり、必ず漏洩する恐れがあります。今夕どうして自ら安んじていられましょう。危禍将に至らんとしています。」禧は言った、「この身命あれば、自ら惜しむべきを知る、どうして人の言を待たんや。」また説いて言った、「殿下の兒婦(息子の嫁)は既に河を渡り、両頭相知らず、今眉を俯せて自ら安んずるは、危うからずや!」禧は言った、「初め遣わした日に、行人の如く河を渡り、我が動静を聴けと命じた。我は久しく人を遣わして追わせた、今頃は戻ったであろう。」しかし尹仵期は禧の長子の通と既に河内郡に入り、兵仗を列ね、囚徒を放った。而して将士は所在で禧を追った。

原文世宗既覽政,禧意不安。而其國齋帥劉小苟,每稱左右言欲誅禧。禧聞而歎曰:「我不負心,天家豈應如此!」由是常懷憂懼。加以趙脩專寵,王公罕得進見。禧遂與其妃兄兼給事黃門侍郎李伯尚謀反。時世宗幸小平津,禧在城西小宅。初欲勒兵直入金墉,眾懷沮異,禧心因緩。自旦達晡,計不能決,遂約不洩而散。武興王楊集始出便馳告,而禧意不疑。乃與臣妾向洪池別墅,遣小苟奉啟,云「檢行田牧」。小苟至邙嶺,已逢軍人,怪小苟赤衣,將欲殺害。小苟困迫,言欲告反,乃緩之。禧是夜宿於洪池,大風暴雨,拔樹折木。禧不知事露。其夜,或說禧曰:「殿下集眾圖事,見意而停,恐必漏洩,今夕何宜自寬。恐危禍將至。」禧曰:「有此軀命,應知自惜,豈待人言。」又說曰:「殿下兒婦已渡河,兩頭不相知,今俛眉自安,不其危乎!」禧曰:「初遣去日,令如行人渡河,聽我動靜。我久已遣人追之,計今應還。」而尹仵期與禧長子通已入河內郡,列兵仗,放囚徒。而將士所在追禧。

禧は洪池から東南へ走り、僮僕は数人に過ぎず、左右で禧に従った者は、兼防閤の尹龍虎のみであった。禧は憂懼して為すべきを知らず、龍虎に言った、「我は憒憒として堪え難し、試みに一謎を作り、解き思うて、毒悶を釋さん。」龍虎は忽ち旧謎を思い出して言った、「眠れば倶に眠り、起これば倶に起き、貪ること豺狼の如く、贓は己に入らず。」全く規諫する心はなかった。禧もまた己を諷したとは思わず、解いて言った、「これは眼である。」しかし龍虎はこれは箸(はし)であると言った。洛水を渡り、栢谷塢に至り、従う者は唯禧の二人の舅と龍虎のみであった。顧みて龍虎に言った、「凡夫ですら尚節義あり、相為に死を取る。汝は心を勉め、太尉公(禧)と共に死する計らいをせよ。」龍虎は言った、「龍虎は東野の常人、殿下の寛明に遭い、左右に接処せしめられました。今危難に属し、遠計なくして聖躬を匡済できぬことを恨みます。若し殿下と同命ならば、死すとも猶生きるが如し。」間もなく禧は擒えられ、華林都亭に送られた。世宗は親しく事の根源を問い、千斤の鎖を以て龍虎を拘束し、羽林がこれを掌衞した。

原文禧自洪池東南走,僮僕不過數人,左右從禧者,唯兼防閤尹龍虎。禧憂迫不知所為,謂龍虎曰:「吾憒憒不能堪,試作一謎,當思解之,以釋毒悶。」龍虎欻憶舊謎云:「眠則俱眠,起則俱起,貪如豺狼,贓不入己。」都不有心於規刺也。禧亦不以為諷己,因解之曰:「此是眼也。」而龍虎謂之是箸。渡洛水,至栢谷塢,從者唯禧二舅及龍虎而已。顧謂龍虎曰:「凡夫尚有節義,相為取死,汝可勉心,作與太尉公同死計。」龍虎曰:「龍虎東野常人,遭殿下寬明,接處左右。今屬危難,恨無遠計,匡濟聖躬,若與殿下同命,雖死猶生。」俄而禧被擒獲,送華林都亭。世宗親問事源,著千斤鎖格龍虎,羽林掌衞之。

初め、高祖が閑宴の際、禧らに悠揚として言った、「我が後の子孫、邂逅(めぐりあい)して及ばざる時は、汝らは観望して輔け取る理を、他人に有らしめるなかれ。」禧は臨終に際し、言葉は順序だっていなかったが、尚も泣き涕し、先の旨を追述した。しかし畏迫して志を喪い、慷慨して感激する所あらしめることはできなかった。諸妹の公主らと訣別するに及び、一二の愛妾のことに言及した。公主は泣きながら罵って言った、「多くこの婢輩を取ったために、財物を貪り逐い、罪を畏れて反逆を為し、今日の事を致したのに、どうしてまたこの等を嘱問するのか!」禧は慚愧して言葉なく、遂に私第で死を賜った。その宮人は歌った、「憐れむべし咸陽王、奈何(いかん)ぞ事を為すに誤る。金床玉几眠ること能わず、夜に霜と露を蹋む。洛水湛湛として岸長く彌(わた)り、行人那(いずく)んぞ得て渡らん。」その歌は遂に江表(江南)に流れ、南に在る北人は、富貴なる者も、絃管でこれを奏すれば、涙を灑(そそ)がぬ者はなかった。同謀の者は数十人誅斬され、禧は密かに北邙に葬られた。その諸子の属籍(皇族籍)は絶たれた。禧の諸女には、僅かに資産奴婢を与え、その余の家財は悉く高肇・趙脩の二家に分け与えられた。その余は内外の百官に賜い、流外に逮るまで、多い者は百余匹、下は十匹であった。その後、禧の諸子は常に衣食に乏しく、独り彭城王勰が年中再三これを賑給した。禧には子八人があった。

原文初,高祖閑宴,從容言於禧等:「我後子孫,邂逅不逮,汝等觀望輔取之理,無令他人有也。」禧臨盡,雖言不次第,猶尚泣涕,追述先旨,然畏迫喪志,不能慷慨有所感激也。及與諸妹公主等訣,言及一二愛妾。公主哭且罵之云:「坐多取此婢輩,貪逐財物,畏罪作反,致今日之事,何復囑問此等!」禧愧而無言,遂賜死私第。其宮人歌曰:「可憐咸陽王,奈何作事誤。金床玉几不能眠,夜蹋霜與露。洛水湛湛彌岸長,行人那得渡。」其歌遂流至江表,北人在南者,雖富貴,絃管奏之,莫不灑泣。同謀誅斬者數十人,潛瘞禧於北邙。絕其諸子屬籍。禧之諸女,微給資產奴婢,自餘家財,悉以分賚高肇、趙脩二家。其餘賜內外百官,逮于流外,多者百餘匹,下至十匹。於後,禧諸子每乏衣食,獨彭城王勰歲中再三賑給之。禧有子八人。

長子の通、字は曇和。密かに河内に入り、太守の陸琇は初め通と情を通じていたが、禧の敗北を聞くと、乃ちこれを殺した。

原文長子通,字曇和。竊入河內,太守陸琇初與通情,既聞禧敗,乃殺之。

通の弟の翼、字は仲和。後に赦令に会い、闕に詣でて上書し、その父を葬ることを求めた。頻年にわたり泣いて請うたが、世宗は許さなかった。翼は乃ち弟の昌・曄と共に蕭衍に奔った。翼と昌は申屠氏の出である。曄は李妃の生んだ子である。翼は容貌魁偉で、風制観るべく、衍は甚だこれを重んじ、咸陽王に封じた。翼は嫡弟の曄に譲ろうとしたが、衍は許さなかった。後に信武將軍・青冀二州刺史とし、郁州に鎮させた。翼は州を挙げて国(北魏)に入らんと謀ったが、衍によって移された。昌は衍の直閤將軍となった。

原文通弟翼,字仲和。後會赦,詣闕上書,求葬其父。頻年泣請,世宗不許。翼乃與弟昌、曄奔於蕭衍。翼與昌,申屠氏出。曄,李妃所生也。翼容貌魁壯,風制可觀,衍甚重之,封為咸陽王。翼讓其嫡弟曄,衍不許。後以為信武將軍、青冀二州刺史,鎮郁州。翼謀舉州入國,為衍所移。昌為衍直閤將軍。

翼の弟の顯和、昌の弟の樹も、後に蕭衍に奔った。顯和は江南で卒した。

原文翼弟顯和,昌弟樹,後亦奔於衍。顯和卒於江南。

元樹は、字を秀和という。容姿が美しく、吐納(呼吸法)を善くし、兼ねて将帥の才略を有していた。蕭衍は特に彼を重んじ、魏郡王に封じ、後に鄴王に改封し、数度にわたり将領として辺境を窺わせた。時に揚州が蕭衍に降り、兵士が既に多かったが、蕭衍の将湛僧珍は、彼らが裏切ることを慮り、皆殺しにしようとした。元樹は家国(北魏)のため、遂に皆を帰還させることを許した。蕭衍は元樹を鎮西将軍・郢州刺史とした。

原文樹,字秀和。美姿貌,善吐納,兼有將略。衍尤器之,封為魏郡王,後改封鄴王,數為將領,窺覦邊服。時揚州降衍,兵武既眾,衍將湛僧珍,慮其翻異,盡欲殺之。樹以家國,遂皆聽還。衍以樹為鎮西將軍、郢州刺史。

尒朱栄が百官を害した時、元樹はこれを聞き、蕭衍に請うて尒朱栄を討たせた。蕭衍はそこで兵馬を資し、境上を侵擾させた。前廃帝の時、譙城を窃かに占拠した。出帝の初め、詔して御史中尉樊子鵠を行台とし、徐州刺史・大都督杜徳を率いさせてこれを討たせた。元樹は城を守って下らず、子鵠は金紫光禄大夫張安期を遣わして説得させたところ、元樹は城を委ねて南に帰ることを請うたので、子鵠はこれを許した。元樹は誓約を恃み、戦備をしなかったが、杜徳が襲撃し、元樹を擒らえて京師に送り、永寧仏寺に禁錮した。間もなく賜死した。

原文尒朱榮之害百官也,樹聞之,乃請衍討榮。衍乃資其士馬,侵擾境上。前廢帝時,竊據譙城。出帝初,詔御史中尉樊子鵠為行臺,率徐州刺史、大都督杜德以討之。樹城守不下,子鵠使金紫光祿大夫張安期往說之,樹乃請委城還南,子鵠許之。樹恃誓約,不為戰備,杜德襲擊之,擒樹送京師,禁於永寧佛寺,未幾賜死。

孝静帝の時、その子の元貞が建業から鄴に赴き、元樹の葬儀を求める上奏をしたので、許された。詔して元樹に侍中・都督青徐兗揚豫五州諸軍事・太師・司徒公・尚書令・揚州刺史を追贈した。元貞が葬り終えると、江南に還った。

原文孝靜時,其子貞,自建業赴鄴,啟求葬樹,許之。詔贈樹侍中、都督青徐兗揚豫五州諸軍事、太師、司徒公、尚書令、揚州刺史。貞既葬,還於江南。

元曄は、字を世茂という。蕭衍により桑乾王に封じられ、散騎常侍に拝された。秣陵で卒した。

原文曄,字世茂。衍封為桑乾王,拜散騎常侍。卒於秣陵。

初め、正光年間に詔して曰く、「周の徳は厚く崇く、蔡仲は国を享けた。漢の道は仁恕であり、淮南王は王たることを終えた。皆、恩を懿戚に申し、旧い瑕を蕩除する所以であり、義は昔の世に顕れ、前史に詠い流れた。頃者、咸陽王・京兆王は自ら禍敗を招いたが、事は讒言と惑乱によるもので、猶いまだ矜れむべきところがある。両家の諸子は、皆、附して属籍に載せることを聴すべし」。後に元禧の王爵を復し、王の礼をもって葬った。詔して元曄の弟の元坦に襲封させ、敷城王に改封し、邑八百戸を与えた。元坦は傲慢で凶暴粗暴であり、従叔父の安豊王元延明がこれを責めて曰く、「汝の凶悖な性分は身と共に長じた。昔、宋の東海王劉禕は志性が凡劣で、当時の人は『驢王』と号した。我が汝の行いを熟視するに、亦た驢の号を免れぬことを恐れる」。孝荘帝の初め、本封に還復した。武定年間、太師となった。斉が禅を受けると、爵は例により降格した。

原文初,正光中詔曰:「周德崇厚,蔡仲享國;漢道仁恕,淮南畢王。皆所以申恩懿戚,蠲盪舊釁,義彰曩葉,詠流前史。頃者,咸陽、京兆王自貽禍敗,事由間惑,猶有可矜。兩門諸子,並可聽附屬籍。」後復禧王爵,葬以王禮。詔曄弟坦襲,改封敷城王,邑八百戶。坦傲佷兇粗,從叔安豐王延明責之曰:「汝兇悖性與身而長,昔有宋東海王禕志性凡劣,時人號曰『驢王』,我熟觀汝所作,亦恐不免驢號。」莊帝初,還復本封。武定中,為太師。齊受禪,爵例降。

元坦の弟の元昶は、初め通直散騎常侍・琅邪県開国公に起家し、邑五百戸を与えられた。孝荘帝の初め、特に太原王に封じられた。累遷して鴻臚卿となり、超拜されて車騎大将軍・儀同三司となった。天平二年に薨じ、太尉公を追贈された。

原文坦弟昶,起家通直散騎常侍、琅邪縣開國公,邑五百戶。莊帝初,特封太原王。累遷鴻臚卿,超拜車騎大將軍、儀同三司。天平二年薨,贈太尉公。

子の元善慧が襲封した。斉が禅を受けると、爵は例により降格した。

原文子善慧,襲。齊受禪,爵例降。

趙郡王

原文趙郡王

趙郡王元幹は、字を思直という。太和九年、河南王に封じられ、衞大将軍を加えられ、侍中・中都大官に除された。まもなく車騎将軍・左光禄大夫を授けられ、吏部尚書を領した。

原文趙郡王幹,字思直。太和九年,封河南王,加衞大將軍,除侍中、中都大官。尋授車騎將軍、左光祿大夫,領吏部尚書。

生母が薨じた。高祖(孝文帝)は詔して曰く、「太妃韓氏が薨逝し、情、傷慟に堪えぬ。太妃は先朝の世、位は九嬪に擬し、班列に豫して上族たり、我が同気(兄弟)を誕生せしめた。この孤稚を念うに、但だ感惻を用いる。明日、暫く往きて臨哭すべし。勅して外に備えさせよ」。侍御史に仮節を与えて喪事を監護させ、綵八百匹を追贈した。詔して曰く、「季世は多務にして、情は理に縁りて奪わる。元幹は既に要任に居り、銓衡を荷う。豈にその私志を遂げさせ、司る所を曠からしめんや。黄門郎を遣わして敦諭し、王事に勉め従わしめよ。朕は尋いで当に之と相見えん」。使持節・都督南豫郢東荊三州諸軍事・征南大将軍・開府・豫州刺史に拝した。

原文所生母薨。高祖詔曰:「太妃韓氏薨逝,情以傷慟。太妃先朝之世,位擬九嬪,豫班上族,誕我同氣。念此孤稚,但用感惻,明當暫往臨哭,可勅外備辦。」遣侍御史假節監護喪事,贈綵八百匹。詔曰:「季世多務,情緣理奪。幹既居要任,銓衡是荷,豈容遂其私志,致曠所司。可遣黃門郎敦諭,令勉從王事,朕尋當與之相見。」拜使持節、都督南豫郢東荊三州諸軍事、征南大將軍、開府、豫州刺史。

車駕が南伐するに及び、元幹を使持節・車騎大将軍・都督関右諸軍事とし、銅虎符十を給し、別に詩書を賜った。高祖は諸弟を篤く愛し、元幹が別道の軍を総べるにあたり、戒めて曰く、「司空穆亮は年器以て師とすべく、散騎常侍盧淵は才以て詢訪に堪う。汝其れ之を師とせよ」。まもなく蕭賾が死んだため、班師した。

原文及車駕南伐,以幹為使持節、車騎大將軍、都督關右諸軍事,給銅虎符十,別賜詩書。高祖篤愛諸弟,以幹總戎別道,誡之曰:「司空穆亮年器可師,散騎常侍盧淵才堪詢訪,汝其師之。」尋以蕭賾死,班師。

洛陽に遷都し、趙郡王に改封し、都督冀定瀛三州諸軍事・征東大将軍・冀州刺史に除され、開府は元の如く、雑物五百段を賜り、又密かに黄金十斤を賜った。高祖は近郊で親しく餞別し、元幹に詔して曰く、「夫れ刑獄の理は、先哲も難しとする所なり。然れども既に邦国あれば、自ら励まざるを得ざるなり。汝は我が懿弟なり。当に厥の徳を聿修し、有魏を光崇し、深く思い遠く図り、深淵に臨み薄氷を履むが如くすべし。若し親重を恃み、世政に務めざれば、国に常憲あり、方に悲感を増さん」。高祖は詔して李憑を長史とし、唐茂を司馬とし、盧尚之を諮議参軍として、之を匡弼させた。然るに李憑等が諫諍しても、元幹は甚だ納れなかった。州が表して盗馬人を斬るとしたが、律に照らして過重であり、尚書は元幹が初めて臨んだことを理由に、放任して弾劾しなかった。詔して曰く、「夫れ刑は以て人を節し、罪は必ず濫れざるべし。故に刑罰中らざれば、民足を措く所なし。若し必ず威殺を以て良しと為すならば、則ち応に汎く衆牧に通ずべし。苟くも禁ずる所あらば、何ぞ正典に稽えざらん。又、律令の条憲には、新たな君が加戮するの文を聴かず。典礼の旧章には、始めて臨みて専ら威を示すの美を著さず。尚書は朕の意に曲阿し、実に皇度を傷つく。元幹は治理に暗く、律外の重刑を行った。並びに推問すべし」。

原文遷洛,改封趙郡王,除都督冀定瀛三州諸軍事、征東大將軍、冀州刺史,開府如故,賜雜物五百段,又密賜黃金十斤。高祖親餞於近郊,詔幹曰:「夫刑獄之理,先哲所難,然既有邦國,得不自勵也。汝,我之懿弟,當聿修厥德,光崇有魏,深思遠圖,如臨深履薄。若恃親重,不務世政,國有常憲,方增悲感。」高祖詔以李憑為長史,唐茂為司馬,盧尚之為諮議參軍以匡弼之。而憑等諫諍,幹殊不納。州表斬盜馬人,於律過重,而尚書以幹初臨,縱而不劾。詔曰:「夫刑以節人,罪必無濫,故刑罰不中,民無措足。若必以威殺為良,則應汎通眾牧。苟須有禁,何得不稽之正典?又律令條憲,無聽新君加戮之文;典禮舊章,不著始臨專威之美。尚書曲阿朕意,實傷皇度。幹闇於治理,律外重刑,並可推聞。」

後に特進・司州牧に転じた。車駕が南討するに当たり、詔して元幹に都督中外諸軍事を命じ、鼓吹一部、甲士三百人を給し、殿門に出入りさせた。元幹は貪淫で典法に遵わず、御史中尉李彪が糾弾しようとした。尚書の下舎で元幹に遇い、左右を屏いて元幹に謂って曰く、「殿下、比来風聞有り、即ち起ちて弾劾せんとす。聖明の委託の旨を損なうを恐る。若し往きを改め来を修めば、彪は当に言わざらん。脱いで悛い改めざれば、夕に聞きて朝に発せん」。然るに元幹は悠然として意に介さず、李彪は乃ち上表して弾劾した。高祖は之を省みて忿惋し、詔して元幹と北海王元詳とを、俱に太子に随って行在所に詣らせた。既に至ると、元詳のみが朝見を得たが、元幹は引接を蒙らなかった。密かに左右に命じてその意色を察させ、憂悔なきを知ると、乃ち親しくその過ちを数え、杖一百を加え、居官を免じ、王として邸に還した。

原文後轉特進、司州牧。車駕南討,詔幹都督中外諸軍事,給鼓吹一部,甲士三百人,出入殿門。幹貪淫不遵典法,御史中尉李彪將糾劾之。會遇幹於尚書下舍,因屏左右而謂幹曰:「殿下,比有風聞,即欲起彈,恐損聖明委託之旨,若改往修來,彪當不言,脫不悛改,夕聞旦發。」而幹悠然不以為意,彪乃表彈之。高祖省之忿惋,詔幹與北海王詳,俱隨太子詣行在所。既至,詳獨得朝見,幹不蒙引接。密令左右察其意色,知無憂悔,乃親數其過,杖之一百,免所居官,以王還第。

太和二十三年に薨じ、年三十一。東園の秘器・斂服十五称を給し、賵帛三千匹を賜り、諡して霊王と曰い、長陵に陪葬した。

原文二十三年薨,年三十一。給東園祕器、斂服十五稱,賵帛三千匹,諡曰靈王,陪葬長陵。

子の元謐は、世宗(宣武帝)の初めに襲封した。元幹の妃穆氏が上表して、元謐の母趙氏らが礼に悖り常を愆り、不遜日増しに甚だしく、尊卑の義阻まれ、母子の道絶えたと訴えた。詔して曰く、「妾の女君に対するは、猶お婦人の舅姑に事えるが如く、君臣の礼、義に乖くこと二つなし。妾の子の君母に対するは、礼、子の恭しきに加う。何ぞ我が風政を黷すを得ん。宗正に付し、礼に依りて罪を治めよ」。元謐は母の喪中に、音声を聴き飲み戯れ、御史中尉李平に弾劾された。赦令に遇い、封を復した。通直散騎常侍に除され、龍驤将軍を加えられ、太子中庶子に遷り、出でて冠軍将軍・岐州刺史となった。

原文子謐,世宗初襲封。幹妃穆氏表謐母趙等悖禮愆常,不遜日甚,尊卑義阻,母子道絕。詔曰:「妾之於女君,猶婦人事舅姑,君臣之禮,義無乖二。妾子之於君母,禮加如子之恭,何得黷我風政!可付宗正,依禮治罪。」謐在母喪,聽音聲飲戲,為御史中尉李平所彈。遇赦,復封。除通直散騎常侍,加龍驤將軍,遷太子中庶子,出為冠軍將軍、岐州刺史。

謐は性質が厳しく、下の者に対して暴虐であった。肅宗の初め、臺使の元延がその州の境界に到着した。駅逓の巡邏に兵士がいないため、帥を摂して検覈した。隊主の高保願が列挙して言うには、所有する兵士は、王が皆私的に使役しているという。謐はこれを聞いて大いに怒り、保願ら五人をそれぞれ二百回鞭打った。数日のうちに、謐は近州の夫を召集し、城の四門を閉ざし、内外を厳重に固め、城中を捜索して掩い、鞭打ちの刑をことごとく加えた。また、事もないのに六人を斬った。城中はみな凶暴に恐れ、ついに大衆が門に屯して大声をあげた。謐は怖れ、楼に登って梯子を壊し自らを固めた。土人は散り散りに逃げ、城人は四門を分かって守った。霊太后は游撃将軍の王靖を駅逓で馳せさせて諭させた。城人は既に靖が到着するのを見て、門を開き謝罪し、管鑰を奉送した。そこで謐を州から罷免した。還って、大司農卿に除された。また散騎常侍・平北将軍・幽州刺史に除された。謐の妃の胡氏は、霊太后の従女である。出発せず、その妃を殴打した罪で免官となった。後に都官尚書に除され、安南将軍を加えられた。

原文謐性嚴,暴虐下人。肅宗初,臺使元延到其州界。以驛邏無兵,攝帥檢覈。隊主高保願列言所有之兵,王皆私役。謐聞而大怒,鞭保願等五人各二百。數日之間,謐召近州夫,閉城四門,內外嚴固,搜掩城中,楚掠備至。又無事而斬六人。合城兇懼,眾遂大呼屯門。謐怖,登樓毀梯以自固。土人散走,城人分守四門。靈太后遣游擊將軍王靖馳驛諭之。城人既見靖至,開門謝罪,奉送管籥。乃罷謐州。還,除大司農卿。又除散騎尚侍、平北將軍、幽州刺史。謐妃胡氏,靈太后從女也。未發,坐毆其妃免官。後除都官尚書,加安南將軍。

正光四年に薨去した。東園の秘器・朝服一具・衣一襲を給し、賻帛五百匹を賜った。高陽王の元雍は、幹の同母弟であり、謐について上奏して論じたので、超えて仮侍中・征南将軍・司州牧を追贈され、諡して貞景といった。

原文正光四年薨。給東園祕器、朝服一具、衣一襲,賵帛五百匹。高陽王雍,幹之母弟,啟論謐,故超贈假侍中、征南將軍、司州牧,諡曰貞景。

子の毓は、字を子春といい、襲封した。荘帝の初め、河陰で害に遇い、衛大将軍・儀同三司・青州刺史を追贈され、諡して宣恭といった。子がなく、詔して謐の弟の讞の子の寘(字は景融)を後継ぎとし、爵を襲わせた。後に寘の伯父の諶が趙郡王に復封されると、改めて平昌王に封ぜられた。斉が禅譲を受けると、爵は例によって降格された。

原文子毓,字子春,襲。莊帝初,河陰遇害,贈衞大將軍、儀同三司、青州刺史,諡曰宣恭。無子,詔以謐弟讞子寘字景融為後,襲爵。及寘伯諶復封趙郡,改封平昌王。齊受禪,爵例降。

謐の兄の諶は、字を興伯といい、性質は平穏温和であった。通直正員郎から、太子庶子・司空司馬・鴻臚少卿に遷った。後将軍・肆州刺史に遷ったが、固辞して拝命しなかった。改めて平南将軍・光禄少卿を授けられた。黄門侍郎に転じ、安南将軍・光禄大夫の号を進められた。散騎常侍・中軍将軍・相州刺史として出た。州を罷め、宗正卿・都官尚書に除された。親族の例によって上蔡県開国公に封ぜられ、食邑四百戸を与えられたが、譲って受けなかった。荘帝の初め、車騎将軍・儀同三司・尚書左僕射に拝され、魏郡王に封ぜられ、食邑一千戸を与えられた。また侍中を加えられた。諶は本来年長であり、王封を襲ぐべきであったが、その父の霊王は弟の謐を寵愛し、世子とした。荘帝の詔により諶は趙郡王に復封された。驃騎大将軍の号を進められ、開府を加えられ、司空公に遷った。出帝の時、太保・司州牧・太尉公に転じ、また太師、録尚書事に遷った。孝静帝の初め、大司馬となり、三年に薨去した。仮黄鉞・侍中・都督・冀州刺史を追贈され、諡して孝懿といった。諶には他に才識がなく、歴任した官位は重かったが、当時の人々には軽んじられた。

原文謐兄諶,字興伯,性平和。自通直正員郎,遷太子庶子、司空司馬、鴻臚少卿。遷後將軍、肆州刺史,固辭不拜。改授平南將軍、光祿少卿。轉黃門侍郎,進號安南將軍、光祿大夫。出為散騎常侍、中軍將軍、相州刺史。罷州,除宗正卿、都官尚書。以親例封上蔡縣開國公,食邑四百戶,讓而不受。莊帝初,拜車騎將軍、儀同三司、尚書左僕射;封魏郡王,食邑一千戶。又加侍中。諶本年長,應襲王封,其父靈王寵愛其弟謐,以為世子。莊帝詔復諶封趙郡王。進號驃騎大將軍,加開府,遷司空公。出帝時,轉太保、司州牧、太尉公,又遷太師,錄尚書事。孝靜初,為大司馬,三年薨,贈假黃鉞、侍中、都督、冀州刺史,諡曰孝懿。諶無他才識,歷位雖重,時人忽之。

子の煒が襲封した。斉が禅譲を受けると、爵は例によって降格された。

原文子煒,襲。齊受禪,爵例降。

謐の弟の譚は、頗る強く自立し、若くして宗室から推挙敬愛された。羽林監から出て高陽太守となり、政治は厳格果断で、豪族は彼を畏れた。肅宗の初め、入朝して直閤将軍となり、太僕・宗正少卿を歴任し、冠軍将軍を加えられた。元法僧が外で叛くと、詔して譚を持節・仮左将軍・別将としてこれを討たせた。徐州が平定されると、光禄少卿・行南兗州事・征虜将軍・涇州刺史に遷った。入朝して武衛将軍となった。まもなく詔して譚を都督として杜洛周を討たせ、軍都に駐屯したが、洛周に敗れた。還って、安西将軍・秦州刺史に除された。卒すると、撫軍将軍・儀同三司・青州刺史を追贈された。

原文謐弟譚,頗強立,少為宗室所推敬。自羽林監出為高陽太守,為政嚴斷,豪右畏之。肅宗初,入為直閤將軍,歷太僕、宗正少卿,加冠軍將軍。元法僧外叛,詔譚為持節、假左將軍、別將以討之。徐州平,遷光祿少卿、行南兗州事、征虜將軍、涇州刺史。入為武衞將軍。尋詔譚為都督以討杜洛周,次於軍都,為洛周所敗。還,除安西將軍、秦州刺史。卒,贈撫軍將軍、儀同三司、青州刺史。

諶の弟の讞は、人となり貪婪で暴虐無礼であり、羽林監から司徒主簿に遷った。肅宗の時、正員郎に除され、次第に左将軍・太中大夫に遷り、平郷県開国男に封ぜられ、邑二百戸を与えられた。荘帝の初め、河陰で害に遇った。車騎大将軍・儀同三司・定州刺史を追贈された。

原文諶弟讞,為人貪暴無禮,自羽林監遷司徒主簿。肅宗時,除正員郎,稍遷左將軍、太中大夫;封平鄉縣開國男,邑二百戶。莊帝初,河陰遇害。贈車騎大將軍、儀同三司、定州刺史。

子の景暄は、直閤将軍であった。出帝に従って関西で没した。

原文子景暄,直閤將軍。從出帝沒於關西。

讞の弟の譿は、羽林監・直閤将軍であった。早くに卒し、賻帛五百匹を賜り、鎮遠将軍・恒州刺史を追贈された。

原文讞弟譿,羽林監、直閤將軍。早卒,賵帛五百匹,贈鎮遠將軍、恒州刺史。

広陵王

原文廣陵王

広陵王の元羽は、字を叔翻という。太和九年に封ぜられ、侍中・征東大将軍を加えられ、外都大官となった。羽は若くして聡明で慧く、訴訟を裁く名声があった。後に三都が廃止されると、羽は大理となり、衛将軍を加えられ、京師の獄訟を裁決し、少し声望があった。特進・尚書左僕射に遷り、また太子太保・録尚書事となった。

原文廣陵王羽,字叔翻。太和九年封,加侍中、征東大將軍,為外都大官。羽少而聰慧,有斷獄之稱。後罷三都,羽為大理,加衞將軍,典決京師獄訟,微有聲譽。遷特進、尚書左僕射,又為太子太保、錄尚書事。

高祖が南征しようとすると、羽を持節として六鎮を安撫させ、その突騎を徴発し、夷人は安堵喜んだ。還って廷尉卿を領した。車駕が出発すると、羽は太尉の元丕と共に留守を守り、使持節を加えられた。詳細は丕の伝にある。高祖は諸弟を友愛し、別れようとする時、早く分かれるに忍びず、詔して羽を雁門まで従わせ、それから羽に帰還を命じた。その功績を期待し、故に如意を賜って心を表した。

原文高祖將南討,遣羽持節安撫六鎮,發其突騎,夷人寧悅。還領廷尉卿。車駕既發,羽與太尉丕留守,加使持節,語在丕傳。高祖友愛諸弟,及將別,不忍早分,詔羽從至雁門,乃令羽歸。望其稱効,故賜如意以表心。

遷都の議が定まると、詔して羽に太尉を兼ねさせ、廟社に告げさせた。遷京の後、北蕃の人夷には未だ悟らない者が多かった。羽が代京を鎮撫すると、内外が粛然とし、高祖はこれを賞賛した。十八年春、羽は上表して廷尉の職を辞したが、許されなかった。

原文遷都議定,詔羽兼太尉,告于廟社。遷京之後,北蕃人夷多有未悟。羽鎮撫代京,內外肅然,高祖嘉之。十八年春,羽表辭廷尉,不許。

羽は上奏した。「外考の令文によれば、毎年終わりに、州鎮は牧守の治績を列挙する。再考に至れば、その品第に従って、陟黜を明らかにする。去る十五年中、在京の百官は、既に全て考課されて三等となっている。この年はすなわち三載であり、外には成令があるが、内令はまだ頒布されていない。内外の考察は、理において同等であるべきです。臣は敢えて外考を推し準えて、京官の治行を定めたい。」詔して曰く。「内考は未だ宣べられていないが、績は既に久しく著しい。故に明堂・月令には公卿大夫が属官の治績を論考することを載せ、職務は区別して著しい。三公(疑)尚書の三載に殿最の義がある。これをもって内を考課することは、既に明らかである。ただ論考の事は、理において軽からず、績を問う方法は、朕の聴くべきに関わる。軽々しく発することは、甚だ躁急である。毎考の義は、年終にあるべきであり、既にこの年と言うなら、どうして春の初めであろうか。今は夏の始めである。暫く秋後まで待て。」

原文羽奏:「外考令文,每歲終,州鎮列牧守治狀。及至再考,隨其品第,以彰黜陟。去十五年中,在京百僚,盡已經考為三等。此年便是三載,雖外有成令,而內令未班。內外考察,理應同等。臣輒推準外考,以定京官治行。」詔曰:「雖內考未宣,績已久著,故明堂、月令載公卿大夫論考屬官之治,職區分著。三公。〈疑〉尚書三載殿最之義,此之考內,已為明矣。但論考之事,理在不輕,問績之方,應關朕聽,輒爾輕發,殊為躁也。每考之義,應在年終,既云此年,何得春初也!今始維夏,且待至秋後。」

高祖が朝堂で政事を議し、羽に言った。「洛陽に遷都することは、天地に格る大事である。ただ汝の迷いは、ただ未だ沈んだ障壁が開かれぬだけだ。朕は家に四海を持ち、往来何ぞ難きことがあろう。朕が洛陽を発つ時、永寿に教示したが、皆別れを告げた。近頃自ら来て以来、諸処分の事は、既に前の勅令と異なっている。今大功を挙げるのに、どうして虚費とせんや。かつ朕には周の周公・召公のような弟はおらず、どうして安逸に日を過ごすことを許せようか。今すぐに北巡し、遷留の事は、朕の思いに叶うようにせよ。」

原文高祖臨朝堂議政事,謂羽曰:「遷都洛陽,事格天地,但汝之迷,徒未開沉鄣耳。朕家有四海,往來何難。朕初發洛陽,教示永壽,皆謂分別。比自來後,諸處分之事,已差前敕。今舉大功,寧為虛費?且朕無周召之弟,豈容晏安日逸。今便北巡,遷留之事,當稱朕懷。」