献文皇帝に七人の男子あり。李思皇后は孝文皇帝を生む。封昭儀は咸陽王禧を生む。韓貴人は趙郡霊王幹、高陽文穆王雍を生む。孟椒房は広陵恵王羽を生む。潘貴人は彭城武宣王勰を生む。高椒房は北海平王詳を生む。勰は別に伝あり。
咸陽王
咸陽王禧は、 字 を永壽という。太和九年に封ぜられ、 侍中 ・驃騎大将軍・中都大官を加えられる。文明太后は令して曰く、「生まれながらに知るものでなければ、皆学び教えによる。皇子皇孫、訓教が立たず、故きを温ね新しきを求むるに、欠けるところあらん。閑静の所に於いて、別に学館を置き、忠信博聞の士を選びて師傅と為し、以てこれを匠成すべし」と。高祖は諸弟に三都を典せしめ、禧らを誡めて曰く、「汝らは国の至親、皆幼年にして重任を負う。三都の獄を断ずるに、特に心を用いるべし。未だ刀を操る能わずして錦を割かしむるは、錦を傷つけること尤もらしからず、実に刀を授くる者の責なり。皆修身慎行し、乖爽あることなかれ」と。文明太后もまた禧らを誡めて曰く、「汝の兄は先業を継ぎ、万機を統御し、戦戦兢兢として、常に称わざるを恐る。汝の治むる所は小なれども、亦よく念うべし」と。高祖また曰く、「周の文王は小心翼翼として、多く福を懐く。もし周公の才ありとも、驕り且つ吝くば、その余は観るに足らず。汝らは小心畏慎し、自ら驕り怠ることなかれ」と。出でて使持節・開府・冀州 刺史 と為り、高祖は南郊にて餞別す。また済陰王鬱が枉法により賜死せしめたる事を以て、使者を遣わし禧に告げ、因りてこれを誡む。
後に禧が京師に朝す。高祖は王公に謂いて曰く、「皇太后は平素より朝儀の闕然たるを以て、遂に百官に命じて更に撰緝せんと欲す。今将に遺志を畢修せんとす。卿らは行うべきと謂わざるか。各々尽く対え、面従することなかれ」と。禧対えて曰く、「儀制の事は、用捨各々その時に随う。而して民はこれに由らしむべく、知らしむべからず。臣は元の志を述べ、朝式を行い備うべしと謂う」と。高祖然りとす。詔して曰く、「仲尼は郷党に在りて、猶尚お恂恂たり。周の文王は世子として、身を卑しめて道を求む。禧らは宸暉に連蕚すと雖も、師傅を尊尚せざるを得んや。故にこれを置き、以て令徳を加う。廷尉卿李沖を以て咸陽王の師とすべし」と。禧将に州に還らんとす。高祖親しくこれを餞り、詩を賦して意を叙し、禧に 都督 冀・相・兗・東兗・南 豫 ・東荊六州諸軍事を加う。
時に、王国の舍人は応に八族及び清修の門を取るべし。禧は任城王の隷戸を取りてこれと為す。深く高祖に責めらる。
詔して曰く、「夫れ婚姻の義は、曩葉の 崇 ぶ所。賢を求めて偶を択ぶは、緜代の慎む所。故に剛柔は易経に著わり、鵲巣は詩典に載る。夫婦の道を重んじ、尸鳩の徳を美とし、君子に配し、後昆に芳を流さんとする所以なり。然らば則ち婚とは、二姓の好を合わし、他族の親を結び、上は宗廟に事え、下は後世を継ぐ。必ず敬慎重正にして後にこれを親しましむ。夫婦既に親しみ、然る後に父子君臣、礼義忠孝、ここに備わる。太祖、龍飛して九五に即き、始めて遠則を稽え、撥乱創業す。日昃にして暇あらず。諸王の娉合の儀、宗室の婚姻の戒に至りては、或いは賢淑を得、或いは好逑に乖く。これより以後、その風漸く缺け、皆人窈窕に乏しく、族百両に非ず。匹を擬するに卑濫、舅氏軽微、典に違い俗に滞る。深く用いて歎ず。皇子茂年にして、宜しく令正を簡ぶべし。前者の納むる所は、妾媵と為すべし。この年を以て六弟の娉室と為さんとす。長弟咸陽王禧は故潁川太守隴西李輔の女を娉すべし。次弟河南王幹は故中散 代郡 穆明楽の女を娉すべし。次弟広陵王羽は驃騎諮議参軍 滎陽 鄭 平城 の女を娉すべし。次弟潁川王雍は故 中書 博士范陽盧神宝の女を娉すべし。次弟始平王勰は廷尉卿隴西李沖の女を娉すべし。季弟北海王詳は吏部郎中 滎陽 鄭懿の女を娉すべし」と。
有司奏す、冀州の人蘇僧瓘ら三千人、禧は清明にして恵政ありと称し、冀州を世に胙せんことを請う。詔して曰く、「利建は古しと雖も、必ずしも今に宜しからず。経野は君に由り、理は下の請う所に非ず。邑采の封は、自ら別式あり」と。入りて司州牧・ 都督 司 豫 荊郢洛東荊六州諸軍事を除かれ、開府は故の如し。帛二千匹・粟五千斛を賜う。詔して禧を元弟の重きを以て、食邑三千戸とし、自余の五王は皆食邑二千戸とす。
高祖は朝臣を引見し、詔して曰く、「卿らは魏朝をして殷周に斉美せしめんと欲するか、漢 晉 をして独り上代に擅わしめんと欲するか」と。禧曰く、「陛下聖明として運を御し、実に前王の迹を邁ならんことを願う」と。高祖曰く、「若し然らば、将に何事を以てこれを致さんとするか。修身改俗を為さんと欲するか、仍って前事に染まらんと欲するか」と。禧対えて曰く、「宜しく旧を改め、以て日新の美を成すべし」と。高祖曰く、「一身に止まらんと欲するか、子孫に伝えんと欲するか」と。禧対えて曰く、「既に世の霊長を卜し、来葉に伝えんことを願う」と。高祖曰く、「若し然らば、必ず改作すべし。卿ら当に各々これに従うべく、違うこと得べからず」と。禧対えて曰く、「上命下従、風の草を靡かすが如し」と。高祖曰く、「上古以来及び諸経籍に、焉ぞ先ず名を正さずして、礼を行い得ん。今諸北語を断ち、一に正音に従わんと欲す。年三十以上は、習性已久しく、容或いは卒革すべからず。三十以下、朝廷に在る人の見る所、語音は旧に仍ることを聴かず。若し故為する有らば、当に爵を降し官を黜すべし。各々宜しく深く戒むべし。此の如く漸く習わば、風化新たにすべし。若し旧俗に仍らば、数世の後、伊洛の下復た被髪の人と成らんことを恐る。王公卿士、皆以て然りとせざるか」と。禧対えて曰く、「実に聖旨の如し、宜しく改易すべし」と。高祖曰く、「朕嘗て李沖と此れを論ず。沖言う、『四方の語、竟に誰か是なるかを知らん。帝者の言う、即ち正と為る。何ぞ必ずしも旧を改めて新に従わん』と。沖の此言は、応に死罪に合う」と。乃ち沖に謂いて曰く、「卿は実に 社稷 に負う。御史を合わせて牽き下らしむべし」と。沖は冠を免じて陳謝す。また王公卿士を引見し、京に留まる官を責めて曰く、「昨、婦女の服を望見するに、仍って夾領小袖たり。我は東山に徂き、三年とせずと雖も、既に寒暑を離る。卿ら何を為して前詔に違うか」と。禧対えて曰く、「陛下は堯舜に過ぎ、光化 中原 す。臣は仰いで明規を禀くも、毎事乖互す。将に何を以て皇経を宣布し、帝則を敷賛せん。舛違の罪は、実に刑憲に合う」と。高祖曰く、「若し朕の言非ならば、卿ら当に須らく庭論すべし。如何ぞ入りては旨に順い、退きて従わざる有らん。昔、舜、禹に語りて曰く、汝面従すること無かれ、退きて後言有ること無かれ、と。其れ卿らの謂う所か」と。
尋いで禧を長兼 太尉 公と為す。後、高祖禧の第に幸す。 司空 穆亮・ 僕射 李沖に謂いて曰く、「既に天地有り、又君臣有り。太尉は台鉉の位に居り、冢宰の上に在り。三槐九棘、久しく空しくすべからず。元弟禧は事に在りて長からずと雖も、皇極に戚連し、且つ長兼太尉として、以て鼎を和餁す。朕は常に君の空授の名有るを恐れ、臣の彼己の刺を貽すを恐る。今その宅に幸すも、徒らに二賓を屈するのみ。良く以て愧と為す」と。
高祖が方沢で祭祀を行った際、夜明けに、群臣が起居を尋ねた。高祖は言った、「昨日の方沢は、殊に暑さが厳しく、天の雲が密かに陰り、行人はかろうじて弊害なく過ごせた。」禧が答えて言った、「陛下の徳は天地に感応し、故に雲物が彩りを凝らし、たとえ雨師が掃き清め、風伯が塵を払うとも、これに過ぎることはないでしょう。」高祖は言った、「伊洛は南北の中にあり、これは天地の気がこもり、陰陽風雨の交わる所であり、自然の応報であって、寡徳の身がこれをもたらせるものではない。」
高祖は兄弟に篤く、禧が次兄であることを以て、礼遇は優れて厚かったが、しかしまたその性の貪婪なるを知り、常に厳しく戒めた。当時はこれに従ったが、終に操行を改めることはなかった。禧が上表して言った、「国朝は武を 偃 げ文を 崇 び、州鎮の兵士は、あるいは雄勇であれど、武芸に熟達せず。今、歳暮の暇と番上の日を取って、兵法を訓え、弓矢と 干矟 を三分して並びに教え、人をしてその能に習熟せしめ、事に臨んで欠けることなからしめん。」詔して言った、「武を教うとは云え、その方策は未だ練られず、既に北行に迫り、急に教武を聞けば、群惑を生ずる恐れがある。暫くこれを停めよ。」後に漢陽平定に従い、南陽を克った功績により、侍中を加えられ、太尉を正任された。
高祖が 崩御 すると、禧は遺命を受けて政を輔けた。宰輔の首班ではあったが、悠揚として責任を推し委ね、是非を論ずることもなく、ひそかに賄賂を受け、陰に威福を振るう者の中では、禧が特に甚だしかった。この年、八座が邑千戸を増やすよう上奏し、世宗はこれに従ったが、固辞して受けなかった。禧の性は驕奢で、財色を貪り淫し、姫妾数十人いても尚飽き足らず、衣被は繍綺をまとい、車乗は鮮麗であり、遠方にまで簡娉を求め、その情を恣にした。これにより貨賄を貪り求め、奴婢は数千に及び、田業塩鉄は遠近に遍く、臣吏や僮隷が相継いで経営した。世宗はこれを頗る憎んだ。
景明二年春、禧らが将礿祭のために斎に入った時、世宗は詔して領軍の于烈に、左右を率いて禧らを光極殿に召し入れるよう命じた。詔して言った、「恪(世宗)は寡昧ながらも、宝曆を 忝 く承け、比来病に纏われ、実に諸父に憑り、視息を 苟 も延ばし、忽ち三年に及んだ。父たちは退くことを懇ろにし、今より親しく百揆を摂り、暫く府司に還り、別に処分せん。」間もなく詔して言った、「朕は寡昧にして、早く閔凶に罹り、憂煢として 疚 しきに在り、如何にすべきか知らず。実に先帝の聖徳と遺沢の及ぶところに頼り、宰輔の忠賢が王室に労し、上下を撫和し、内外を粛清するに用いることができた。乃ち式に復子の礼に遵い、政を帰し退位を告げるに、辞理懇到にして、遥かに奪い難し。便ち当にこの空乏を励まし、機務を親覧すべし。王(禧)は惟れ元叔にして、道性は淵凝、 太保 に進位し、太尉を領すべし。 司空 北海王は季父にして英明、声略は茂挙、大将軍・録 尚書 事とすべし。」
世宗が政を覧るようになると、禧は心中安からず。その国の斎帥劉小苟が、常に左右の者が禧を誅そうとしていると言った。禧は聞いて嘆いて言った、「我は心に負うところなし、天家(皇室)がかくあるべきか!」これにより常に憂懼を懐いた。これに趙脩の専寵が加わり、王公は進見を得ることが稀であった。禧は遂にその妃の兄で兼給事黄門侍郎の李伯尚と謀反を企てた。時に世宗は小平津に行幸し、禧は城西の小宅にいた。初め兵を率いて直ちに金墉城に入ろうとしたが、衆は沮み異を懐き、禧の心もまた緩んだ。朝から夕方まで達し、決断できず、遂に秘密を漏らさぬことを約して散った。武興王楊集始は出るや否や馳せ告げたが、禧は疑わなかった。乃ち臣妾と共に洪池の別墅に向かい、小苟に啓を奉らせ、「田牧を検行す」と云わせた。小苟が邙嶺に至ると、既に軍人に出逢い、小苟の赤衣を怪しんで殺害しようとした。小苟は困窮し、謀反を告げようとすると言い、ようやく緩められた。禧はその夜洪池に宿したが、大風暴雨で樹を抜き木を折った。禧は事が露顕したことを知らなかった。その夜、或る者が禧に言った、「殿下は衆を集めて事を図りながら、意を見て停まり、必ず漏洩する恐れがあります。今夕どうして自ら安んじていられましょう。危禍将に至らんとしています。」禧は言った、「この身命あれば、自ら惜しむべきを知る、どうして人の言を待たんや。」また説いて言った、「殿下の兒婦(息子の嫁)は既に河を渡り、両頭相知らず、今眉を俯せて自ら安んずるは、危うからずや!」禧は言った、「初め遣わした日に、行人の如く河を渡り、我が動静を聴けと命じた。我は久しく人を遣わして追わせた、今頃は戻ったであろう。」しかし尹仵期は禧の長子の通と既に河内郡に入り、兵仗を列ね、囚徒を放った。而して将士は所在で禧を追った。
禧は洪池から東南へ走り、僮僕は数人に過ぎず、左右で禧に従った者は、兼防閤の尹龍虎のみであった。禧は憂懼して為すべきを知らず、龍虎に言った、「我は憒憒として堪え難し、試みに一謎を作り、解き思うて、毒悶を釋さん。」龍虎は忽ち旧謎を思い出して言った、「眠れば倶に眠り、起これば倶に起き、貪ること豺狼の如く、贓は己に入らず。」全く規諫する心はなかった。禧もまた己を諷したとは思わず、解いて言った、「これは眼である。」しかし龍虎はこれは 箸 であると言った。洛水を渡り、栢谷塢に至り、従う者は唯禧の二人の舅と龍虎のみであった。顧みて龍虎に言った、「凡夫ですら尚節義あり、相為に死を取る。汝は心を勉め、太尉公(禧)と共に死する計らいをせよ。」龍虎は言った、「龍虎は東野の常人、殿下の寛明に遭い、左右に接処せしめられました。今危難に属し、遠計なくして聖躬を匡済できぬことを恨みます。若し殿下と同命ならば、死すとも猶生きるが如し。」間もなく禧は擒えられ、華林都亭に送られた。世宗は親しく事の根源を問い、千斤の鎖を以て龍虎を拘束し、羽林がこれを掌 衞 した。
初め、高祖が閑宴の際、禧らに悠揚として言った、「我が後の子孫、 邂逅 して及ばざる時は、汝らは観望して輔け取る理を、他人に有らしめるなかれ。」禧は臨終に際し、言葉は順序だっていなかったが、尚も泣き涕し、先の旨を追述した。しかし畏迫して志を喪い、慷慨して感激する所あらしめることはできなかった。諸妹の公主らと訣別するに及び、一二の愛妾のことに言及した。公主は泣きながら罵って言った、「多くこの婢輩を取ったために、財物を貪り逐い、罪を畏れて反逆を為し、今日の事を致したのに、どうしてまたこの等を嘱問するのか!」禧は慚愧して言葉なく、遂に私第で死を賜った。その宮人は歌った、「憐れむべし咸陽王、 奈何 ぞ事を為すに誤る。金床玉几眠ること能わず、夜に霜と露を蹋む。洛水湛湛として岸長く 彌 り、 行人那 んぞ得て渡らん。」その歌は遂に江表(江南)に流れ、南に在る北人は、富貴なる者も、絃管でこれを奏すれば、涙を 灑 がぬ者はなかった。同謀の者は数十人誅斬され、禧は密かに北邙に葬られた。その諸子の属籍(皇族籍)は絶たれた。禧の諸女には、僅かに資産奴婢を与え、その余の家財は悉く高肇・趙脩の二家に分け与えられた。その余は内外の百官に賜い、流外に逮るまで、多い者は百余匹、下は十匹であった。その後、禧の諸子は常に衣食に乏しく、独り彭城王勰が年中再三これを賑給した。禧には子八人があった。
長子の通、字は曇和。密かに河内に入り、太守の陸琇は初め通と情を通じていたが、禧の敗北を聞くと、乃ちこれを殺した。
通の弟の翼、字は仲和。後に赦令に会い、闕に詣でて上書し、その父を葬ることを求めた。頻年にわたり泣いて請うたが、世宗は許さなかった。翼は乃ち弟の昌・曄と共に蕭衍に奔った。翼と昌は申屠氏の出である。曄は李妃の生んだ子である。翼は容貌魁偉で、風制観るべく、衍は甚だこれを重んじ、咸陽王に封じた。翼は嫡弟の曄に譲ろうとしたが、衍は許さなかった。後に信武將軍・青冀二州刺史とし、郁州に鎮させた。翼は州を挙げて国(北魏)に入らんと謀ったが、衍によって移された。昌は衍の直閤將軍となった。
翼の弟の顯和、昌の弟の樹も、後に蕭衍に奔った。顯和は江南で卒した。
元樹は、字を秀和という。容姿が美しく、吐納(呼吸法)を善くし、兼ねて将帥の才略を有していた。蕭衍は特に彼を重んじ、魏郡王に封じ、後に 鄴 王に改封し、数度にわたり将領として辺境を窺わせた。時に揚州が蕭衍に降り、兵士が既に多かったが、蕭衍の将湛僧珍は、彼らが裏切ることを慮り、皆殺しにしようとした。元樹は家国(北魏)のため、遂に皆を帰還させることを許した。蕭衍は元樹を鎮西将軍・郢州刺史とした。
尒朱栄が百官を害した時、元樹はこれを聞き、蕭衍に請うて尒朱栄を討たせた。蕭衍はそこで兵馬を資し、境上を侵擾させた。前廃帝の時、譙城を窃かに占拠した。出帝の初め、詔して御史中尉樊子鵠を行台とし、徐州刺史・大 都督 杜徳を率いさせてこれを討たせた。元樹は城を守って下らず、子鵠は金紫光禄大夫張安期を遣わして説得させたところ、元樹は城を委ねて南に帰ることを請うたので、子鵠はこれを許した。元樹は誓約を恃み、戦備をしなかったが、杜徳が襲撃し、元樹を擒らえて京師に送り、永寧仏寺に禁錮した。間もなく賜死した。
孝静帝の時、その子の元貞が建業から鄴に赴き、元樹の葬儀を求める上奏をしたので、許された。詔して元樹に侍中・ 都督 青徐兗揚 豫 五州諸軍事・太師・ 司徒 公・ 尚書令 ・揚州刺史を追贈した。元貞が葬り終えると、江南に還った。
元曄は、字を世茂という。蕭衍により桑乾王に封じられ、 散騎常侍 に拝された。秣陵で卒した。
初め、正光年間に詔して曰く、「周の徳は厚く崇く、蔡仲は国を享けた。漢の道は仁恕であり、淮南王は王たることを終えた。皆、恩を懿戚に申し、旧い瑕を蕩除する所以であり、義は昔の世に顕れ、前史に詠い流れた。頃者、咸陽王・京兆王は自ら禍敗を招いたが、事は讒言と惑乱によるもので、猶いまだ矜れむべきところがある。両家の諸子は、皆、附して属籍に載せることを聴すべし」。後に元禧の王爵を復し、王の礼をもって葬った。詔して元曄の弟の元坦に襲封させ、敷城王に改封し、邑八百戸を与えた。元坦は傲慢で凶暴粗暴であり、従叔父の安豊王元延明がこれを責めて曰く、「汝の凶悖な性分は身と共に長じた。昔、宋の東海王劉禕は志性が凡劣で、当時の人は『驢王』と号した。我が汝の行いを熟視するに、亦た驢の号を免れぬことを恐れる」。孝荘帝の初め、本封に還復した。武定年間、太師となった。斉が禅を受けると、爵は例により降格した。
元坦の弟の元昶は、初め通直 散騎常侍 ・琅邪県開国公に起家し、邑五百戸を与えられた。孝荘帝の初め、特に太原王に封じられた。累遷して鴻臚卿となり、超拜されて車騎大将軍・儀同三司となった。天平二年に薨じ、太尉公を追贈された。
子の元善慧が襲封した。斉が禅を受けると、爵は例により降格した。
趙郡王
趙郡王元幹は、字を思直という。太和九年、河南王に封じられ、 衞 大将軍を加えられ、侍中・中都大官に除された。まもなく車騎将軍・左光禄大夫を授けられ、吏部尚書を領した。
生母が薨じた。高祖(孝文帝)は詔して曰く、「太妃韓氏が薨逝し、情、傷慟に堪えぬ。太妃は先朝の世、位は九嬪に擬し、班列に 豫 して上族たり、我が同気(兄弟)を誕生せしめた。この孤稚を念うに、但だ感惻を用いる。明日、暫く往きて臨哭すべし。勅して外に備えさせよ」。侍御史に仮節を与えて喪事を監護させ、綵八百匹を追贈した。詔して曰く、「季世は多務にして、情は理に縁りて奪わる。元幹は既に要任に居り、銓衡を荷う。豈にその私志を遂げさせ、司る所を曠からしめんや。黄門郎を遣わして敦諭し、王事に勉め従わしめよ。朕は尋いで当に之と相見えん」。使持節・ 都督 南 豫 郢東荊三州諸軍事・征南大将軍・開府・ 豫 州刺史に拝した。
車駕が南伐するに及び、元幹を使持節・車騎大将軍・ 都督 関右諸軍事とし、銅虎符十を給し、別に詩書を賜った。高祖は諸弟を篤く愛し、元幹が別道の軍を総べるにあたり、戒めて曰く、「 司空 穆亮は年器以て師とすべく、 散騎常侍 盧淵は才以て詢訪に堪う。汝其れ之を師とせよ」。まもなく蕭賾が死んだため、班師した。
洛陽 に遷都し、趙郡王に改封し、 都督 冀定瀛三州諸軍事・征東大将軍・冀州刺史に除され、開府は元の如く、雑物五百段を賜り、又密かに黄金十斤を賜った。高祖は近郊で親しく餞別し、元幹に詔して曰く、「夫れ刑獄の理は、先哲も難しとする所なり。然れども既に邦国あれば、自ら励まざるを得ざるなり。汝は我が懿弟なり。当に厥の徳を聿修し、有魏を光崇し、深く思い遠く図り、深淵に臨み薄氷を履むが如くすべし。若し親重を恃み、世政に務めざれば、国に常憲あり、方に悲感を増さん」。高祖は詔して李憑を長史とし、唐茂を司馬とし、盧尚之を諮議参軍として、之を匡弼させた。然るに李憑等が諫諍しても、元幹は甚だ納れなかった。州が表して盗馬人を斬るとしたが、律に照らして過重であり、尚書は元幹が初めて臨んだことを理由に、放任して弾劾しなかった。詔して曰く、「夫れ刑は以て人を節し、罪は必ず濫れざるべし。故に刑罰中らざれば、民足を措く所なし。若し必ず威殺を以て良しと為すならば、則ち応に汎く衆牧に通ずべし。苟くも禁ずる所あらば、何ぞ正典に稽えざらん。又、律令の条憲には、新たな君が加戮するの文を聴かず。典礼の旧章には、始めて臨みて専ら威を示すの美を著さず。尚書は朕の意に曲阿し、実に皇度を傷つく。元幹は治理に暗く、律外の重刑を行った。並びに推問すべし」。
後に特進・司州牧に転じた。車駕が南討するに当たり、詔して元幹に 都督 中外諸軍事を命じ、鼓吹一部、甲士三百人を給し、殿門に出入りさせた。元幹は貪淫で典法に遵わず、御史中尉李彪が糾弾しようとした。尚書の下舎で元幹に遇い、左右を屏いて元幹に謂って曰く、「殿下、比来風聞有り、即ち起ちて弾劾せんとす。聖明の委託の旨を損なうを恐る。若し往きを改め来を修めば、彪は当に言わざらん。脱いで悛い改めざれば、夕に聞きて朝に発せん」。然るに元幹は悠然として意に介さず、李彪は乃ち上表して弾劾した。高祖は之を省みて忿惋し、詔して元幹と北海王元詳とを、俱に太子に随って行在所に詣らせた。既に至ると、元詳のみが朝見を得たが、元幹は引接を蒙らなかった。密かに左右に命じてその意色を察させ、憂悔なきを知ると、乃ち親しくその過ちを数え、杖一百を加え、居官を免じ、王として邸に還した。
太和二十三年に薨じ、年三十一。東園の秘器・斂服十五称を給し、賵帛三千匹を賜り、 諡 して霊王と曰い、長陵に陪葬した。
子の元謐は、世宗(宣武帝)の初めに襲封した。元幹の妃穆氏が上表して、元謐の母趙氏らが礼に悖り常を愆り、不遜日増しに甚だしく、尊卑の義阻まれ、母子の道絶えたと訴えた。詔して曰く、「妾の女君に対するは、猶お婦人の舅姑に事えるが如く、君臣の礼、義に乖くこと二つなし。妾の子の君母に対するは、礼、子の恭しきに加う。何ぞ我が風政を黷すを得ん。宗正に付し、礼に依りて罪を治めよ」。元謐は母の喪中に、音声を聴き飲み戯れ、御史中尉李平に弾劾された。赦令に遇い、封を復した。通直 散騎常侍 に除され、龍驤将軍を加えられ、太子中庶子に遷り、出でて冠軍将軍・岐州刺史となった。
謐は性質が厳しく、下の者に対して暴虐であった。肅宗の初め、臺使の元延がその州の境界に到着した。駅逓の巡邏に兵士がいないため、帥を摂して検覈した。隊主の高保願が列挙して言うには、所有する兵士は、王が皆私的に使役しているという。謐はこれを聞いて大いに怒り、保願ら五人をそれぞれ二百回鞭打った。数日のうちに、謐は近州の夫を召集し、城の四門を閉ざし、内外を厳重に固め、城中を捜索して掩い、鞭打ちの刑をことごとく加えた。また、事もないのに六人を斬った。城中はみな凶暴に恐れ、ついに大衆が門に屯して大声をあげた。謐は怖れ、楼に登って梯子を壊し自らを固めた。土人は散り散りに逃げ、城人は四門を分かって守った。霊太后は游撃将軍の王靖を駅逓で馳せさせて諭させた。城人は既に靖が到着するのを見て、門を開き謝罪し、管鑰を奉送した。そこで謐を州から罷免した。還って、大司農卿に除された。また 散騎常侍 ・平北将軍・幽州刺史に除された。謐の妃の胡氏は、霊太后の従女である。出発せず、その妃を殴打した罪で免官となった。後に都官尚書に除され、安南将軍を加えられた。
正光四年に 薨去 した。東園の秘器・朝服一具・衣一襲を給し、賻帛五百匹を賜った。高陽王の元雍は、幹の同母弟であり、謐について上奏して論じたので、超えて仮侍中・征南将軍・司州牧を追贈され、諡して貞景といった。
子の毓は、字を子春といい、襲封した。荘帝の初め、河陰で害に遇い、衛大将軍・儀同三司・青州刺史を追贈され、諡して宣恭といった。子がなく、詔して謐の弟の讞の子の寘(字は景融)を後継ぎとし、爵を襲わせた。後に寘の伯父の諶が趙郡王に復封されると、改めて平昌王に封ぜられた。斉が禅譲を受けると、爵は例によって降格された。
謐の兄の諶は、字を興伯といい、性質は平穏温和であった。通直正員郎から、太子庶子・ 司空 司馬・鴻臚少卿に遷った。後将軍・肆州刺史に遷ったが、固辞して拝命しなかった。改めて平南将軍・光禄少卿を授けられた。黄門侍郎に転じ、安南将軍・光禄大夫の号を進められた。 散騎常侍 ・中軍将軍・相州刺史として出た。州を罷め、宗正卿・都官尚書に除された。親族の例によって上蔡県開国公に封ぜられ、食邑四百戸を与えられたが、譲って受けなかった。荘帝の初め、車騎将軍・儀同三司・尚書左僕射に拝され、魏郡王に封ぜられ、食邑一千戸を与えられた。また侍中を加えられた。諶は本来年長であり、王封を襲ぐべきであったが、その父の霊王は弟の謐を寵愛し、世子とした。荘帝の詔により諶は趙郡王に復封された。驃騎大将軍の号を進められ、開府を加えられ、 司空 公に遷った。出帝の時、太保・司州牧・太尉公に転じ、また太師、録尚書事に遷った。孝静帝の初め、大司馬となり、三年に薨去した。仮黄鉞・侍中・ 都督 ・冀州刺史を追贈され、諡して孝懿といった。諶には他に才識がなく、歴任した官位は重かったが、当時の人々には軽んじられた。
子の煒が襲封した。斉が禅譲を受けると、爵は例によって降格された。
謐の弟の譚は、頗る強く自立し、若くして宗室から推挙敬愛された。羽林監から出て高陽太守となり、政治は厳格果断で、豪族は彼を畏れた。肅宗の初め、入朝して直閤将軍となり、太僕・宗正少卿を歴任し、冠軍将軍を加えられた。元法僧が外で叛くと、詔して譚を持節・仮左将軍・別将としてこれを討たせた。徐州が平定されると、光禄少卿・行南兗州事・征虜将軍・涇州刺史に遷った。入朝して武衛将軍となった。まもなく詔して譚を 都督 として杜洛周を討たせ、軍都に駐屯したが、洛周に敗れた。還って、安西将軍・秦州刺史に除された。卒すると、撫軍将軍・儀同三司・青州刺史を追贈された。
諶の弟の讞は、人となり貪婪で暴虐無礼であり、羽林監から 司徒 主簿に遷った。肅宗の時、正員郎に除され、次第に左将軍・太中大夫に遷り、平郷県開国男に封ぜられ、邑二百戸を与えられた。荘帝の初め、河陰で害に遇った。車騎大将軍・儀同三司・定州刺史を追贈された。
子の景暄は、直閤将軍であった。出帝に従って関西で没した。
讞の弟の譿は、羽林監・直閤将軍であった。早くに卒し、賻帛五百匹を賜り、鎮遠将軍・恒州刺史を追贈された。
広陵王
広陵王の元羽は、字を叔翻という。太和九年に封ぜられ、侍中・征東大将軍を加えられ、外都大官となった。羽は若くして聡明で慧く、訴訟を裁く名声があった。後に三都が廃止されると、羽は大理となり、衛将軍を加えられ、京師の獄訟を裁決し、少し声望があった。特進・尚書左僕射に遷り、また太子太保・録尚書事となった。
高祖が南征しようとすると、羽を持節として六鎮を安撫させ、その突騎を徴発し、夷人は安堵喜んだ。還って廷尉卿を領した。車駕が出発すると、羽は太尉の元丕と共に留守を守り、使持節を加えられた。詳細は丕の伝にある。高祖は諸弟を友愛し、別れようとする時、早く分かれるに忍びず、詔して羽を雁門まで従わせ、それから羽に帰還を命じた。その功績を期待し、故に如意を賜って心を表した。
遷都の議が定まると、詔して羽に太尉を兼ねさせ、廟社に告げさせた。遷京の後、北蕃の人夷には未だ悟らない者が多かった。羽が代京を鎮撫すると、内外が粛然とし、高祖はこれを賞賛した。十八年春、羽は上表して廷尉の職を辞したが、許されなかった。
羽は上奏した。「外考の令文によれば、毎年終わりに、州鎮は牧守の治績を列挙する。再考に至れば、その品第に従って、陟黜を明らかにする。去る十五年中、在京の百官は、既に全て考課されて三等となっている。この年はすなわち三載であり、外には成令があるが、内令はまだ頒布されていない。内外の考察は、理において同等であるべきです。臣は敢えて外考を推し準えて、京官の治行を定めたい。」詔して曰く。「内考は未だ宣べられていないが、績は既に久しく著しい。故に明堂・月令には公卿大夫が属官の治績を論考することを載せ、職務は区別して著しい。三公(疑)尚書の三載に殿最の義がある。これをもって内を考課することは、既に明らかである。ただ論考の事は、理において軽からず、績を問う方法は、朕の聴くべきに関わる。軽々しく発することは、甚だ躁急である。毎考の義は、年終にあるべきであり、既にこの年と言うなら、どうして春の初めであろうか。今は夏の始めである。暫く秋後まで待て。」
高祖が朝堂で政事を議し、羽に言った。「洛陽に遷都することは、天地に格る大事である。ただ汝の迷いは、ただ未だ沈んだ障壁が開かれぬだけだ。朕は家に四海を持ち、往来何ぞ難きことがあろう。朕が洛陽を発つ時、永寿に教示したが、皆別れを告げた。近頃自ら来て以来、諸処分の事は、既に前の勅令と異なっている。今大功を挙げるのに、どうして虚費とせんや。かつ朕には周の周公・召公のような弟はおらず、どうして安逸に日を過ごすことを許せようか。今すぐに北巡し、遷留の事は、朕の思いに叶うようにせよ。」
後に高祖が朝堂に臨み、群臣に向かって言うには、「天地が開闢して以来、人はその間に生まれ、故に上天は言葉を発さず、君主を立てて代わりとさせる。それゆえ書経には三考の績を称え、礼記には考成の章が説かれる。皇王以来、この道は変わらない。朕は寡徳をもって、大業を辱く担い、百官と共に、万務を正しく治めんと考える。しかし朕は人を知る識見に乏しく、朝廷に素餐の誹りを絶たしめ、野に考盤の刺を無くすことができず、日夜寝ても覚めても、慎み恐れる思いを抱いている。卿らは皆、朝の賢人、国の俊才であり、補佐を託す者である。各々その心を尽くし、考績の意義を顕彰せよ。もし忠正に背くならば、国には常刑がある。賢者は疎遠であっても必ず登用し、不肖者は親しい者でも必ず退ける。」と。そして羽に向かって言うには、「上下の二等は三品とし、中等はただ一品とする。そうする所以は、上下は黜陟の科条であり、故に毫髪の美を顕彰し、中等は本分を守り、事は大いに通ずるからである。」
羽は先に廷尉五局の司直を提出した。高祖は言う、「刑獄の難しさは、実に古来よりのものであり、必ずや訴訟を断ずることは、夫子(孔子)が称えたところである。しかし五局の司する所は、専ら刑獄を主とし、近頃風聞するに、多く五局が精しくないと論じている。人を知ることの難しさは、朕一人で決するものではなく、まさに群臣と共にすべきである。卿らは各々聞く所を陳べよ。」高祖は羽と少卿の鄧述に向かって言う、「五局の司直について、卿らは何を以て品等とするか。」羽は答えて言う、「諸司直は皆、聖心によって選ばれました。以前、百官が初めて置かれた時、獄官に抜擢され、訴訟を聴き、言辞を察するに、大きな過誤はありませんでした。それで二等とした所以は、ある者は職務に就いたばかりであり、ある者は機を見るのに遅速があったためで、朝廷に既に九品の制度があるので、その毫髪の差を計って、品第としたのです。総じて得るところを論ずれば、大いに相似ています。」高祖は言う、「朕は近年、その人の識見が取るに足ると考え、故に獄官に選んだ。小さな優劣は差とすべきではない。しかし廷尉の司る所は、人命の根本事であり、心平らかで性正しく、強きを抑え弱きを哀れみ、貴勢を避けず、真情を以て獄を断ずる者を上等とすべきである。今まさに風謡を聴き採ろうとすれば、虚実を悉くすることは難しい。採らないとすれば、事の拠り所が無い。しかし人の言う悪は必ずしも悪ではなく、善を言う者は必ずしも善ではない。そうなる所以は、ある者は訴訟を断ずるに豪貴を避けず、故に人が悪と為す。ある者は勢いを以て賤しき者を抑え、貴人は好しと為す。しかし朕の耳に入るものは、皆貴人の言葉である。それゆえに躊躇し再三考えるのは、まさにこのためである。局の事は氷の如く清く玉の如く潔く、褒貶を明らかに揚げねばならぬ。卿らは既に親しくこれを掌っているので、邪正得失、悉くこれを具えている。精しく弁別して聞かせよ。」鄧述は答えて言う、「陛下が賞を行い人を得れば、残りの者は甘心します。もし賞が能を尽くさなければ、勧励する術がありません。臣の愚見によれば、賞を行わないことを願います。」高祖は言う、「朕が昔この官を置いた時、三年の考績を許し、必ず賞罰を行うと約した。既に今の考課を経て、もし黜陟が無ければ、恐らく正直な者は肯いて心を用いず、邪曲な者は改めて粛正されることが無いであろう。公の場でこれを解き明かさなければ、どうしてその至理を尽くすことができようか。微細な点まで精しくすることはできなくとも、粗ながら殿最(最下等と最上等)があることを望む。諸尚書は更に群官と善く量り、その所以を定めよ。」