魏書

卷20 文成五王

卷20 文成五王

安楽王

原文安樂王

安楽王長楽は、皇興四年に建昌王に封ぜられ、後に安楽王に改封された。長楽は性格が重厚であり、顕祖は彼を器重して愛した。承明元年に太尉に任ぜられ、定州刺史として出向した。豪族を鞭打ち、士大夫を辱め、多くは法を遵守せず、人々に恐れられた。百姓が朝廷に赴きその過ちを訴えた。高祖は杖三十の罰を下した。貪欲で暴虐な行いはますます甚だしく、罪により京師に召還された。後に内行長の乙肆虎と謀り不軌を企てたが、事が発覚し、家で死を賜った。王の礼をもって葬り、諡して厲といった。

原文安樂王長樂,皇興四年封建昌王,後改封安樂王。長樂性凝重,顯祖器愛之。承明元年拜太尉,出為定州刺史。鞭撻豪右,頓辱衣冠,多不奉法,為人所患。百姓詣闕訟其過。高祖罰杖三十。貪暴彌甚,以罪徵詣京師。後與內行長乙肆虎謀為不軌,事發,賜死於家。葬以王禮,諡曰厲。

子の詮は、字を捜賢といい、爵を襲った。世宗の初め、涼州刺史となった。州にあっては貪欲で穢れ、政治は賄賂によって成り立った。後に定州刺史に任ぜられた。京兆王愉が反乱を起こした時、国に変事ありと偽って言った。北方の州鎮では、皆朝廷に亀裂があるのではないかと疑い、使者を遣わして詮の動静をうかがった。詮は詳しく状況を報告し、州鎮は平穏であった。愉が信都に奔ると、詮は李平・高殖らとともに四方から攻め焼き、愉は門を突破して出奔した。まもなく侍中に任ぜられ、首謀者を告げた功績により、尚書左僕射に任ぜられた。薨じ、諡して武康といった。

原文子詮,字搜賢,襲。世宗初,為涼州刺史。在州貪穢,政以賄成。後除定州刺史。及京兆王愉之反,詐言國變。在北州鎮,咸疑朝廷有釁,遣使觀詮動靜。詮具以狀告,州鎮帖然。愉奔信都,詮與李平、高殖等四面攻燒,愉突門而出。尋除侍中,兼以首告之功,除尚書左僕射。薨,諡曰武康。

子の鑒は、字を長文といい、爵を襲った。後に相州刺史・北討大都督となり、葛栄を討った。引き続き尚書右僕射・北道行臺・尚書令を兼ね、都督裴衍とともに信都を救援した。鑒は凡庸な才能であり、諸弟は粗暴で、天下に多事を見るや、謀反を企て、葛栄に降伏し従った。都督源子邕が裴衍とともに鑒を包囲し、首を斬って洛陽に伝送し、詔によりその姓を元氏に改めさせた。荘帝の初め、本来の宗族に復することを許し、また特に鑒の王爵を復し、司空を追贈した。

原文子鑒,字長文,襲。後除相州刺史、北討大都督,討葛榮。仍兼尚書右僕射、北道行臺、尚書令,與都督裴衍共救信都。鑒既庸才,諸弟粗暴,見天下多事,遂謀反,降附葛榮。都督源子邕與裴衍合圍鑒,斬首傳洛,詔改其元氏。莊帝初,許復本族,又特復鑒王爵,贈司空。

鑒の弟斌之は、字を子爽という。性格は邪険で品行がなく、鑒とともに反乱を起こし、敗れて葛栄に奔った。栄が滅びると、帰還することができた。出帝の時、潁川郡王に封ぜられ、腹心の任を委ねられた。帝が関中に入ると、斌之は蕭衍に奔り、後に長安に帰還した。

原文鑒弟斌之,字子爽。性險無行,及與鑒反,敗,遂奔葛榮。榮滅,得還。出帝時,封潁川郡王,委以腹心之任。帝入關,斌之奔蕭衍,後還長安。

広川王

原文廣川王

広川王略は、延興二年に封ぜられた。中都大官の位にあり、性格は聡明で機敏であり、獄事を審理して公平と称された。太和四年に薨じ、諡して荘といった。

原文廣川王略,延興二年封。位中都大官,性明敏,鞫獄稱平。太和四年薨,諡曰莊。

子の諧は、字を仲和といい、爵を襲った。十九年に薨じた。詔して言う、「朕の宗室には不幸が多く、従弟の諧が逝去し、悲痛の念が心を切り裂き、やむことができない。古より、大臣の喪には三臨の礼あり、これは三公以上に対してであろう。卿司以下に対しては、本来行うべきである。漢代以降、多くこの礼がない。朕は古典に従い、哀悼の情に感じ、尊卑の差により礼を減じるとしても、私の悲しみはどうして和らげられようか。諸王で期親の者がいる者は三臨を行い、大功の親族は再臨を行い、小功・緦麻の親族は一臨を行うようにしたい。広川王は朕にとって大功の親族であるから、必ず再臨を行いたい。再臨とは、大殮の日に、親しく臨んで哀悼の情を尽くし、喪服を着けた後、緦衰をもって弔問することをいう。殯の後の緦麻の礼は、理に疑いないが、大殮の時の臨喪は、適当かどうか。喪の初めに柩を撫でるべきか、あるいは棺を閉じる時に哀悼を尽くすべきか。早晚の適宜を、その中から選びたい。」黄門侍郎崔光・宋弁、通直常侍劉芳、典命下大夫李元凱、中書侍郎高聰らが議して言う、「三臨の事は、古来の礼であり、漢魏に至っても、行う者は稀である。陛下は至聖で慈仁であり、前の軌範に従おうとされ、志は必ず喪を哀しみ、慮いは寧戚と同じくされる。臣らは、期親には三臨、大功には再臨が相応しいと考える。喪の初めは、哀悼の極みであり、既に情により礼を減じるのであれば、喪の初めに従うべきである。大殮の臨喪については、聖旨の通りと存じる。」詔して言う、「魏晋以来、親臨は多く欠け、戚臣に対しては、必ず東堂で哭した。近ごろ大司馬・安定王が薨じた時、朕は臨喪した後、さらに東堂で慰めを受けた。今日の事については、再び哭すべきか。」光らが議して言う、「東堂での哭は、臨喪しないことによるものである。今、陛下みずから親しく撫で視られ、群臣が従駕しております。臣らが参議するに、再び哭すべきではないと考えます。」詔して言う、「大司馬は戚臣として尊く位も重いから、必ず東堂で哭したのであろう。広川王は諸王の子であり、また年齢も位もまだ幼い。卿らが議せよ。朕は異論はない。」諧が大殮されようとする時、高祖は素服に深衣を着けてこれを哭し、室に入り、哀慟し、屍を撫でて出た。有司が奏上した、広川王妃が代京で薨じたが、新しい尊貴な者(諧)が卑旧の地(代京)に従うべきか、卑旧の者が新たな尊貴な者(洛陽)のもとに来るべきか。詔して言う、「洛陽に遷った者は、これ以降、皆その骸を邙嶺に帰すべく、恒代の塋域に就くことは許されない。夫が先に北(代)に葬られ、妻が今南(洛)で喪に服す場合は、婦人は夫に従うのが道理であるから、代に帰って葬るべきである。父を母のもとに移したい場合も、これを任せる。妻の墳墓が恒代にあり、夫が洛陽で死んだ場合は、尊をもって卑に就くことはできない。母を父のもとに移したい場合も、これに従うべきである。別々に葬ることもこれに従う。葬制の限りにない者で、身が代で喪に服す場合は、葬る場所はどちらでも任せる。戸籍が恒燕に属し、身は官として京洛にある者は、去就の宜しきは、また各自の選択に従う。諸州に属する者も、それぞれ任意とする。」詔して諧に武衛将軍を追贈し、諡して剛といった。葬儀の時、高祖は親しく臨んで送った。

原文子諧,字仲和,襲。十九年薨。詔曰:「朕宗室多故,從弟諧喪逝,悲痛摧割,不能已已。古者,大臣之喪,有三臨之禮,此蓋三公已上。至於卿司已下,故應。闕自漢已降,多無此禮。朕欲遵古典,哀感從情,雖以尊降伏,私痛寧爽。欲令諸王有期親者為之三臨,大功之親者為之再臨,小功緦麻為之一臨。廣川王於朕大功,必欲再臨。再臨者,欲於大殮之日,親臨盡哀,成服之後,緦衰而弔。既殯之緦麻,理在無疑,大殮之臨,當否如何?為須撫柩於始喪,為應盡哀於闔棺?早晚之宜,擇其厥中。」黃門侍郎崔光、宋弁,通直常侍劉芳,典命下大夫李元凱,中書侍郎高聰等議曰:「三臨之事,乃自古禮,爰及漢魏,行之者稀。陛下至聖慈仁,方遵前軌,志必哀喪,慮同寧戚。臣等以為若期親三臨,大功宜再。始喪之初,哀之至極,既以情降,宜從始喪。大殮之臨,伏如聖旨。」詔曰:「魏晉已來,親臨多闕,至於戚臣,必於東堂哭之。頃大司馬、安定王薨,朕既臨之後,復更受慰於東堂,今日之事,應更哭否?」光等議曰:「東堂之哭,蓋以不臨之故。今陛下躬親撫視,羣臣從駕,臣等參議,以為不宜復哭。」詔曰:「若大司馬戚尊位重,必哭於東堂,而廣川既是諸王之子,又年位尚幼,卿等議之,朕無異焉。」諧將大殮,高祖素服深衣哭之,入室,哀慟,撫尸而出。有司奏,廣川王妃薨於代京,未審以新尊從於卑舊,為宜卑舊來就新尊。詔曰:「遷洛之人,自茲厥後,悉可歸骸邙嶺,皆不得就塋恒代。其有夫先葬在北,婦今喪在南,婦人從夫,宜還代葬;若欲移父就母,亦得任之。其有妻墳於恒代,夫死於洛,不得以尊就卑;欲移母就父,宜亦從之;若異葬亦從之。若不在葬限,身在代喪,葬之彼此,皆得任之。其戶屬恒燕,身官京洛,去留之宜,亦從所擇。其屬諸州者,各得任意。」詔贈諧武衞將軍,諡曰剛。及葬,高祖親臨送之。

子の霊道が爵を襲った。卒し、諡して悼王といった。

原文子靈道,襲。卒,諡悼王。

斉郡王

原文齊郡王

斉郡王簡は、字を叔亮という。太和五年に封ぜられ、中都大官の位にあった。簡の母は、沮渠牧犍の娘である。簡の性格と容貌は特に外祖父に似ていた。後に内都大官となった。高祖はかつて簡とともに皇信堂で文明太后に朝したことがあり、簡は帝の右に居り、家人の礼を行った。太保に遷った。高祖は仁孝であり、諸父が零落し、存命しているのは簡のみであった。会うたびに、立って彼を待ち、座るのを待って、起居を敬って問い、簡の拝伏を止めさせた。簡は酒を好む性分で、公私の事を処理することができなかった。妻の常氏は、燕郡公常喜の娘であり、文明太后が簡に賜ったものである。性格は家事をよく取り仕切り、簡の酒をかなり節制し断たせたが、ついには盗みを働き、婢や侍従を求め乞うことさえあり、ついに禁じることができなかった。二十三年に薨じた。時に高祖は病気であり、詔して言う、「叔父が逝去し、痛み慕い心が引き裂かれ、自ら耐えることができない。ただ虚しく床枕に伏し、赴くに堪えず、力を病に疾んで哀悼の意を表す。」諡して霊王といった。世宗の時、諡を順に改めた。

原文齊郡王簡,字叔亮。太和五年封,位中都大官。簡母,沮渠牧犍女也。簡性貌特類外祖。後為內都大官。高祖嘗與簡俱朝文明太后於皇信堂,簡居帝之右,行家人禮。遷太保。高祖仁孝,以諸父零落,存者唯簡。每見,立以待之,俟坐,致敬問起居,停簡拜伏。簡性好酒,不能理公私之事。妻常氏,燕郡公常喜女也,文明太后以賜簡。性幹綜家事,頗節斷簡酒,乃至盜竊,求乞婢侍,卒不能禁。二十三年薨。時高祖不豫,詔曰:「叔父薨背,痛慕摧絕,不自勝任,但虛頓床枕,未堪奉赴,當力疾發哀。」諡曰靈王。世宗時,改諡曰順。

子の祐は、字を伯授といい、爵を襲った。母の常氏は、高祖が礼をもって娶らなかったため、その妃たることを許さなかった。世宗は母が子の貴さに従うとして、詔して特に斉国太妃に拝することを許した。祐は涇州刺史の位にあった。薨じ、諡して敬といった。

原文子祐,字伯授,襲。母常氏,高祖以納不以禮,不許其為妃。世宗以母從子貴,詔特拜為齊國太妃。祐位涇州刺史。薨,諡曰敬。

河間王

原文河間王

河間王若は、字を叔儒という。十六歳で、未だ封ぜられずに薨じ、河間王を追封し、諡して孝といった。詔して京兆康王の子の太安を後嗣とした。太安は若にとって従弟であり、相続の義に合わないため、これを廃し、斉郡王の子の琛を継がせた。

原文河間王若,字叔儒。年十六,未封而薨,追封河間,諡曰孝。詔京兆康王子太安為後。太安於若為從弟,非相後之義,廢之,以齊郡王子琛繼。

琛は字を曇寶といい、幼少より聡明で、高祖(孝文帝)に寵愛された。世宗(宣武帝)の時、定州刺史に任ぜられた。琛の妃は世宗の母方の従妹、高皇后の妹である。琛は内外の縁故を恃み、多くを受け取り、貪婪の極みであった。朝廷に還ると、霊太后は詔して曰く、「琛は定州にあって、ただ中山宮を持ち来たさず、その他はことごとく取り尽くした。どうして再び叙用できようか」と。これにより遂に家に廃された。琛は粛宗(孝明帝)が学問を始めるに当たり、金字の孝経を献上した。また自ら進む道がなく、劉騰に養子となり、騰に金宝を巨万の計で賄賂した。騰がしばしば彼のために言上し、兼都官尚書となり、出て秦州刺史となった。州にあっては収奪を重ね、百姓は嘆いた。東益・南秦の二州の氐が反乱するに及び、詔して琛を行臺とし、都督を兼ね、州の事務を摂らせた。琛の性質は貪暴で、軍政を総べるや、欲求に飽くことなく、百姓は患害を受け、狼虎よりも甚だしかった。氐・羌を討伐するに進み、大いに破られ、士卒の死者は千数に及び、衆を率いて走り還った。内には劉騰を恃み、畏れるところなく、中尉に糾弾されたが、赦令に会い、除名されて民となった。まもなく王爵を回復し、後に鮮于脩礼を討つも敗れ、官爵を免ぜられた。後に汾晋の胡・蜀を討ち、軍中に卒し、王爵を追復された。

原文琛字曇寶,幼而敏慧,高祖愛之。世宗時,拜定州刺史。琛妃,世宗舅女,高皇后妹。琛憑恃內外,多所受納,貪惏之極。及還朝,靈太后詔曰:「琛在定州,惟不將中山宮來,自餘無所不致,何可更復敍用。」由是遂廢于家。琛以肅宗始學,獻金字孝經。又無方自達,乃與劉騰為養息,賂騰金寶巨萬計。騰屢為之言,乃得兼都官尚書,出為秦州刺史。在州聚斂,百姓吁嗟。屬東益、南秦二州氐反,詔琛為行臺,仍充都督,還攝州事。琛性貪暴,既總軍省,求欲無厭,百姓患害,有甚狼虎。進討氐羌,大被摧破,士卒死者千數,率眾走還。內恃劉騰,無所畏憚,為中尉糾彈,會赦,除名為民。尋復王爵,後討鮮于脩禮,敗,免官爵。後討汾晉胡、蜀,卒於軍,追復王爵。

安豊王

原文安豐王

安豊王猛は、字を季烈という。太和五年に封ぜられ、侍中を加えられた。出て和龍鎮都大将・営州刺史となった。猛は寛仁で雄毅、甚だ威略があり、戎夷は畏れ愛した。州において薨じた。太尉を追贈され、諡して匡といった。

原文安豐王猛,字季烈。太和五年封,加侍中。出為和龍鎮都大將、營州刺史。猛寬仁雄毅,甚有威略,戎夷畏愛之。薨于州。贈太尉,諡曰匡。

子の延明が襲封した。世宗の時、太中大夫を授けられた。延昌の初め、大飢饉があり、延明は家財を減じて、賓客数十人を救い、併せてその家を養った。粛宗の初めに至り、豫州刺史となり、甚だ政績があり、累遷して給事黄門侍郎となった。

原文子延明,襲。世宗時,授太中大夫。延昌初,歲大飢,延明乃減家財,以拯賓客數十人,并贍其家。至肅宗初,為豫州刺史,甚有政績,累遷給事黃門侍郎。

延明は既に群書を博く極め、文藻を兼ね、図籍を鳩集すること一万余巻に及んだ。性質は清儉で、産業を営まなかった。中山王熙及び弟の臨淮王彧らと、共に才学と令望をもって世に名を知られた。風流造次においては熙・彧に及ばないが、古を稽え淳篤なる点では彼らを超えていた。まもなく侍中に遷った。詔して侍中崔光と共に服制を撰定せしめられた。後に尚書右僕射を兼ねた。延明の博識多聞を以て、勅して金石の事を監せしめられた。

原文延明既博極羣書,兼有文藻,鳩集圖籍萬有餘卷。性清儉,不營產業。與中山王熙及弟臨淮王彧等,並以才學令望有名於世。雖風流造次不及熙、彧,而稽古淳篤過之。尋遷侍中。詔與侍中崔光撰定服制。後兼尚書右僕射。以延明博識多聞,敕監金石事。

元法僧が反すると、詔して東道行臺・徐州大都督とし、諸軍事を節度し、都督臨淮王彧・尚書李憲らと共に法僧を討たせた。蕭衍はその豫章王綜を遣わして徐州を鎮守させた。延明は先に徐州を治め、民誉甚だ高く、旧土を招懐し、遠近これに帰した。綜が降ると、延明は軍を以てこれに乗じ、東南の境を回復し、宿豫に至って還った。都督・徐州刺史に遷った。頻りに師旅を経て、人物凋弊していたが、延明は新旧を招き携え、人皆安んじて業に従い、百姓悉く帰附した。

原文及元法僧反,詔為東道行臺、徐州大都督,節度諸軍事,與都督臨淮王彧、尚書李憲等討法僧。蕭衍遣其豫章王綜鎮徐州。延明先牧徐方,甚得民譽,招懷舊土,遠近歸之。綜既降,延明因以軍乘之,復東南之境,至宿豫而還。遷都督、徐州刺史。頻經師旅,人物凋弊,延明招攜新故,人悉安業,百姓咸附。

荘帝の時、尚書令・大司馬を兼ねた。元顥が洛に入ると、延明は顥の委寄を受け、衆を率いて河橋を守った。顥が敗れると、妻子を将いて蕭衍に奔り、江南にて死んだ。荘帝の末、喪が還された。出帝の初め、太保を追贈され、王は元の如く、諡して文宣といった。著した詩賦讃頌銘誄三百余篇、また『五経宗略』『詩礼別義』を撰し、『帝王世紀』及び『列仙伝』に注を施した。また河間の人信都芳が算術に巧みなのを以て、館に引き入れた。その撰する古今楽事九章十二図、また集めた器準九篇は、芳が別にこれに注を為し、皆世に行われた。

原文莊帝時,兼尚書令、大司馬。及元顥入洛,延明受顥委寄,率眾守河橋。顥敗,遂將妻子奔蕭衍,死於江南。莊帝末,喪還。出帝初,贈太保,王如故,諡曰文宣。所著詩賦讚頌銘誄三百餘篇,又撰五經宗略、詩禮別義,注《帝王世紀》及《列仙傳》。又以河間人信都芳工算術,引之在館。其撰古今樂事九章十二圖,又集器準九篇,芳別為之注,皆行於世。