安楽王
安楽王長楽は、皇興四年に建昌王に封ぜられ、後に安楽王に改封された。長楽は性格が重厚であり、顕祖は彼を器重して愛した。承明元年に 太尉 に任ぜられ、定州 刺史 として出向した。豪族を鞭打ち、士大夫を辱め、多くは法を遵守せず、人々に恐れられた。百姓が朝廷に赴きその過ちを訴えた。高祖は杖三十の罰を下した。貪欲で暴虐な行いはますます甚だしく、罪により京師に召還された。後に内行長の乙肆虎と謀り不軌を企てたが、事が発覚し、家で死を賜った。王の礼をもって葬り、 諡 して厲といった。
子の詮は、 字 を捜賢といい、爵を襲った。世宗の初め、涼州刺史となった。州にあっては貪欲で穢れ、政治は賄賂によって成り立った。後に定州刺史に任ぜられた。京兆王愉が反乱を起こした時、国に変事ありと偽って言った。北方の州鎮では、皆朝廷に亀裂があるのではないかと疑い、使者を遣わして詮の動静をうかがった。詮は詳しく状況を報告し、州鎮は平穏であった。愉が信都に奔ると、詮は李平・高殖らとともに四方から攻め焼き、愉は門を突破して出奔した。まもなく 侍中 に任ぜられ、首謀者を告げた功績により、 尚書 左 僕射 に任ぜられた。薨じ、諡して武康といった。
子の鑒は、字を長文といい、爵を襲った。後に相州刺史・北討大 都督 となり、葛栄を討った。引き続き尚書右僕射・北道行臺・ 尚書令 を兼ね、 都督 裴衍とともに信都を救援した。鑒は凡庸な才能であり、諸弟は粗暴で、天下に多事を見るや、謀反を企て、葛栄に降伏し従った。 都督 源子邕が裴衍とともに鑒を包囲し、首を斬って 洛陽 に伝送し、詔によりその姓を元氏に改めさせた。荘帝の初め、本来の宗族に復することを許し、また特に鑒の王爵を復し、 司空 を追贈した。
鑒の弟斌之は、字を子爽という。性格は邪険で品行がなく、鑒とともに反乱を起こし、敗れて葛栄に奔った。栄が滅びると、帰還することができた。出帝の時、潁川郡王に封ぜられ、腹心の任を委ねられた。帝が関中に入ると、斌之は蕭衍に奔り、後に 長安 に帰還した。
広川王
広川王略は、延興二年に封ぜられた。中都大官の位にあり、性格は聡明で機敏であり、獄事を審理して公平と称された。太和四年に薨じ、諡して荘といった。
子の諧は、字を仲和といい、爵を襲った。十九年に薨じた。詔して言う、「朕の宗室には不幸が多く、従弟の諧が逝去し、悲痛の念が心を切り裂き、やむことができない。古より、大臣の喪には三臨の礼あり、これは三公以上に対してであろう。卿司以下に対しては、本来行うべきである。漢代以降、多くこの礼がない。朕は古典に従い、哀悼の情に感じ、尊卑の差により礼を減じるとしても、私の悲しみはどうして和らげられようか。諸王で期親の者がいる者は三臨を行い、大功の親族は再臨を行い、小功・緦麻の親族は一臨を行うようにしたい。広川王は朕にとって大功の親族であるから、必ず再臨を行いたい。再臨とは、大殮の日に、親しく臨んで哀悼の情を尽くし、喪服を着けた後、緦衰をもって弔問することをいう。殯の後の緦麻の礼は、理に疑いないが、大殮の時の臨喪は、適当かどうか。喪の初めに柩を撫でるべきか、あるいは棺を閉じる時に哀悼を尽くすべきか。早晚の適宜を、その中から選びたい。」黄門侍郎崔光・宋弁、通直常侍劉芳、典命下大夫李元凱、 中書 侍郎高聰らが議して言う、「三臨の事は、古来の礼であり、漢魏に至っても、行う者は稀である。陛下は至聖で慈仁であり、前の軌範に従おうとされ、志は必ず喪を哀しみ、慮いは寧戚と同じくされる。臣らは、期親には三臨、大功には再臨が相応しいと考える。喪の初めは、哀悼の極みであり、既に情により礼を減じるのであれば、喪の初めに従うべきである。大殮の臨喪については、聖旨の通りと存じる。」詔して言う、「魏晋以来、親臨は多く欠け、戚臣に対しては、必ず東堂で哭した。近ごろ大司馬・安定王が薨じた時、朕は臨喪した後、さらに東堂で慰めを受けた。今日の事については、再び哭すべきか。」光らが議して言う、「東堂での哭は、臨喪しないことによるものである。今、陛下みずから親しく撫で視られ、群臣が従駕しております。臣らが参議するに、再び哭すべきではないと考えます。」詔して言う、「大司馬は戚臣として尊く位も重いから、必ず東堂で哭したのであろう。広川王は諸王の子であり、また年齢も位もまだ幼い。卿らが議せよ。朕は異論はない。」諧が大殮されようとする時、高祖は素服に深衣を着けてこれを哭し、室に入り、哀慟し、屍を撫でて出た。有司が奏上した、広川王妃が代京で薨じたが、新しい尊貴な者(諧)が卑旧の地(代京)に従うべきか、卑旧の者が新たな尊貴な者(洛陽)のもとに来るべきか。詔して言う、「洛陽に遷った者は、これ以降、皆その骸を邙嶺に帰すべく、恒代の塋域に就くことは許されない。夫が先に北(代)に葬られ、妻が今南(洛)で喪に服す場合は、婦人は夫に従うのが道理であるから、代に帰って葬るべきである。父を母のもとに移したい場合も、これを任せる。妻の墳墓が恒代にあり、夫が洛陽で死んだ場合は、尊をもって卑に就くことはできない。母を父のもとに移したい場合も、これに従うべきである。別々に葬ることもこれに従う。葬制の限りにない者で、身が代で喪に服す場合は、葬る場所はどちらでも任せる。戸籍が恒燕に属し、身は官として京洛にある者は、去就の宜しきは、また各自の選択に従う。諸州に属する者も、それぞれ任意とする。」詔して諧に武衛将軍を追贈し、諡して剛といった。葬儀の時、高祖は親しく臨んで送った。
子の霊道が爵を襲った。卒し、諡して悼王といった。
斉郡王
斉郡王簡は、字を叔亮という。太和五年に封ぜられ、中都大官の位にあった。簡の母は、沮渠牧犍の娘である。簡の性格と容貌は特に外祖父に似ていた。後に内都大官となった。高祖はかつて簡とともに皇信堂で文明太后に朝したことがあり、簡は帝の右に居り、家人の礼を行った。 太保 に遷った。高祖は仁孝であり、諸父が零落し、存命しているのは簡のみであった。会うたびに、立って彼を待ち、座るのを待って、起居を敬って問い、簡の拝伏を止めさせた。簡は酒を好む性分で、公私の事を処理することができなかった。妻の常氏は、燕郡公常喜の娘であり、文明太后が簡に賜ったものである。性格は家事をよく取り仕切り、簡の酒をかなり節制し断たせたが、ついには盗みを働き、婢や侍従を求め乞うことさえあり、ついに禁じることができなかった。二十三年に薨じた。時に高祖は病気であり、詔して言う、「叔父が逝去し、痛み慕い心が引き裂かれ、自ら耐えることができない。ただ虚しく床枕に伏し、赴くに堪えず、力を病に疾んで哀悼の意を表す。」諡して霊王といった。世宗の時、諡を順に改めた。
子の祐は、字を伯授といい、爵を襲った。母の常氏は、高祖が礼をもって娶らなかったため、その妃たることを許さなかった。世宗は母が子の貴さに従うとして、詔して特に斉国太妃に拝することを許した。祐は涇州刺史の位にあった。薨じ、諡して敬といった。
河間王
河間王若は、字を叔儒という。十六歳で、未だ封ぜられずに薨じ、河間王を追封し、諡して孝といった。詔して京兆康王の子の太安を後嗣とした。太安は若にとって従弟であり、相続の義に合わないため、これを廃し、斉郡王の子の琛を継がせた。
琛は字を曇寶といい、幼少より聡明で、高祖(孝文帝)に寵愛された。世宗(宣武帝)の時、定州刺史に任ぜられた。琛の妃は世宗の母方の従妹、高皇后の妹である。琛は内外の縁故を恃み、多くを受け取り、貪婪の極みであった。朝廷に還ると、霊太后は詔して曰く、「琛は定州にあって、ただ中山宮を持ち来たさず、その他はことごとく取り尽くした。どうして再び叙用できようか」と。これにより遂に家に廃された。琛は粛宗(孝明帝)が学問を始めるに当たり、金字の孝経を献上した。また自ら進む道がなく、劉騰に養子となり、騰に金宝を巨万の計で賄賂した。騰がしばしば彼のために言上し、兼都官尚書となり、出て秦州刺史となった。州にあっては収奪を重ね、百姓は嘆いた。東益・南秦の二州の 氐 が反乱するに及び、詔して琛を行臺とし、 都督 を兼ね、州の事務を摂らせた。琛の性質は貪暴で、軍政を総べるや、欲求に飽くことなく、百姓は患害を受け、狼虎よりも甚だしかった。氐・ 羌 を討伐するに進み、大いに破られ、士卒の死者は千数に及び、衆を率いて走り還った。内には劉騰を恃み、畏れるところなく、中尉に糾弾されたが、赦令に会い、除名されて民となった。まもなく王爵を回復し、後に鮮于脩礼を討つも敗れ、官爵を免ぜられた。後に汾晋の胡・蜀を討ち、軍中に卒し、王爵を追復された。
安豊王
安豊王猛は、字を季烈という。太和五年に封ぜられ、侍中を加えられた。出て和龍鎮都大将・営州刺史となった。猛は寛仁で雄毅、甚だ威略があり、戎夷は畏れ愛した。州において薨じた。太尉を追贈され、諡して匡といった。
子の延明が襲封した。世宗の時、太中大夫を授けられた。延昌の初め、大飢饉があり、延明は家財を減じて、賓客数十人を救い、併せてその家を養った。粛宗の初めに至り、 豫 州刺史となり、甚だ政績があり、累遷して給事黄門侍郎となった。
延明は既に群書を博く極め、文藻を兼ね、図籍を鳩集すること一万余巻に及んだ。性質は清儉で、産業を営まなかった。中山王熙及び弟の臨淮王彧らと、共に才学と令望をもって世に名を知られた。風流造次においては熙・彧に及ばないが、古を稽え淳篤なる点では彼らを超えていた。まもなく侍中に遷った。詔して侍中崔光と共に服制を撰定せしめられた。後に尚書右僕射を兼ねた。延明の博識多聞を以て、勅して金石の事を監せしめられた。
元法僧が反すると、詔して東道行臺・徐州大 都督 とし、諸軍事を節度し、 都督 臨淮王彧・尚書李憲らと共に法僧を討たせた。蕭衍はその 豫 章王綜を遣わして徐州を鎮守させた。延明は先に徐州を治め、民誉甚だ高く、旧土を招懐し、遠近これに帰した。綜が降ると、延明は軍を以てこれに乗じ、東南の境を回復し、宿 豫 に至って還った。 都督 ・徐州刺史に遷った。頻りに師旅を経て、人物凋弊していたが、延明は新旧を招き携え、人皆安んじて業に従い、百姓悉く帰附した。
荘帝の時、 尚書令 ・大司馬を兼ねた。元顥が洛に入ると、延明は顥の委寄を受け、衆を率いて河橋を守った。顥が敗れると、妻子を将いて蕭衍に奔り、江南にて死んだ。荘帝の末、喪が還された。出帝の初め、太保を追贈され、王は元の如く、諡して文宣といった。著した詩賦讃頌銘誄三百余篇、また『五経宗略』『詩礼別義』を撰し、『帝王世紀』及び『列仙伝』に注を施した。また河間の人信都芳が算術に巧みなのを以て、館に引き入れた。その撰する古今楽事九章十二図、また集めた器準九篇は、芳が別にこれに注を為し、皆世に行われた。
論ずるに、
論じて曰く、文成五王の中、安豊王は特に令望を標した。延明は学業該贍、雅談の美を加え、永安に至り、運跡は戎に冠たるも、卒に奔亡を致すは、亦た其の命なり。
校勘記