巻19中

任城王

任城王 拓跋 たくばつ 雲は、五歳の時に恭宗が 崩御 ほうぎょ すると、声を絶やさず号泣した。世祖(太武帝)はこれを聞き、呼び寄せて抱きしめ涙を流して言った、「お前は何を知って、大人のような志があるのか」。和平五年(464年)に封を受け、使持節・ 侍中 じちゅう ・征東大将軍・和龍鎮都大将に任じられた。顕祖(献文帝)の時、 都督 ととく 中外諸軍事・中都坐大官に任じられ、民の訴訟を聴き理め、当時の名声を大いに集めた。

延興年間(471-476年)、顕祖は群臣を集め、京兆王拓跋子推に譲位しようとした。王公卿士は、誰も敢えて先に発言する者はいなかった。拓跋雲が進み出て言った、「陛下は今まさに太平を隆盛とし、四海を覆い臨もうとしておられるのに、どうして上は宗廟に背き、下は兆民を見捨てることができましょうか。父子が相伝えることは、その来り久しく、皇魏の興隆以来、これを改めたことはありません。皇太子は正統であり、聖徳は早くから顕れております。陛下がもし必ずや俗務を断ち切り、清曠な境地で精神を養おうとされるならば、太子に副うことを託し、 宝暦 ほうれき を継がせるべきです。もし太子を捨てて、軽々しく宸極(帝位)を移されるならば、先聖の御心に背き、人の情を駭動させる恐れがあります。また、天下は祖宗の天下であり、陛下が神器を改められれば、上は七廟の霊に背き、下は奸乱の道を長じさせることになり、これこそ禍福の分かれる所です。深く考え慎重になさるよう願います」。 太尉 たいい 源賀もまた進み出て言った、「陛下が今、諸王の中から外に選んで皇叔に譲位されようとするのは、臣は恐れます。春秋の蒸嘗(祭祀)の際、昭穆の序が乱れ、もし万世の後、必ずや逆饗(順序を誤った祭祀)の誹りを受けることになりましょう。深く任城王の言葉をお考えくださるよう願います」。東陽公拓跋丕らが進み出て言った、「皇太子は聖徳が早くから顕れてはいますが、実際にはまだ幼少です。陛下は御年若く、機政を め始められ、普天が景仰し、率土が心を待ち望んでおります。独り善がりを隆んじ、万物を意に介さないとすれば、宗廟はどうなりますか、億兆の民はどうなりますか」。顕祖は言った、「儲宮(太子)は正統であり、文祖(先祖)より終わり(帝位)を受ける。群公がこれを補佐するならば、何の不可があろうか」。かくして高祖(孝文帝)に位を伝えた。

後に 蠕蠕 じゅんじゅん が塞を犯すと、拓跋雲は中軍大 都督 ととく となり、顕祖に従って討伐し、大磧で遭遇した。事柄は蠕蠕伝に詳しい。後に仇池の てい が反乱を起こすと、拓跋雲を征西大将軍として討伐平定させた。 都督 ととく 徐兗二州縁淮諸軍事・征東大将軍・開府・徐州 刺史 しし に任じられた。拓跋雲は太妃蓋氏が薨じたため、上表して任を解くことを請うたが、顕祖は許さず、拓跋雲は悲号して病に動き、ようやく許された。性質は撫綏を善くし、徐州の人心を得て、百姓に追慕された。送られてくる金銭や物品は、一切受け取らなかった。顕祖はこれを聞いて賞賛した。再び侍中・中都大官に任じ、帛千匹・羊千頭を賜った。冀州刺史として出 さき し、もとの将軍号のままとした。拓跋雲は政事に心を留め、下情をよく得たため、合州の民が戸ごとに絹五尺・粟五升を輸納して拓跋雲の恩に報いようと請うた。高祖はこれを嘉し、使持節・ 都督 ととく 陝西諸軍事・征南大将軍・ 長安 ちょうあん 鎮都大将・雍州刺史に遷した。拓跋雲は廉潔謹直に自ら修め、諸々の獄訟に心を留め、豪強を挫き抑え、群盗は止み、州民で彼を称える者は千余人に及んだ。文明太后はこれを嘉し、帛千匹を賜った。太和五年(481年)、州において薨じた。遺言は薄葬とし、賵禭(葬儀の贈り物)を受け取るなと命じた。諸子はその旨を奉じて遵った。喪が京師に至ると、車駕(帝)が自ら臨み、哀慟の涙を流し、生前の官職を追贈し、 おくりな して康といった。雲中の金陵に陪葬された。

長子 澄

拓跋雲の長子の澄は、 あざな を道鎮といい、幼少より学問を好んだ。康王(拓跋雲)が薨じると、澄は喪に服し孝行で知られた。封を襲ぎ、征北大将軍を加えられた。高祖の時、蠕蠕が塞を犯すと、澄に使持節・ 都督 ととく 北討諸軍事を加えてこれを討伐させた。蠕蠕は遁走し、また氐・ きょう が反叛したため、 都督 ととく 梁益荊三州諸軍事・征南大将軍・梁州刺史に任じられた。文明太后は澄を引見し、戒め励まして、 中書 ちゅうしょ 令李沖を顧みて言った、「この児は風神が吐発し、徳音が閑婉である。宗室の領袖となるべき者だ。今回の使いは必ずや我が意に叶うであろう。卿はただ記しておくがよい。私は妄りに人物を論じることはない」。梁州の氐の帥、楊仲顯・婆羅・楊卜兄弟および符叱盤らは、辺境の険地に居て、代々山の狡徒であることを自任していた。澄が州に至ると、彼らの風俗を量り、誘導して懐き帰附させた。上表して婆羅を送り、仲顯には循城鎮副将を、楊卜には広業太守を、叱盤には固道鎮副将を授け、その他の首帥も、それぞれ才能に応じて用い、誠実に帰附した者は賞し、命令に背いた者は誅した。かくして仇池は平然とし、西南は誠実に順った。侍中を加えられ、衣一襲・乗馬一匹を賜り、その才能を表彰された。

後に征東大将軍・開府・徐州刺史に転じ、名声と実績が大いにあった。京師に朝し、皇信堂で引見された。高祖は澄に詔して言った、「昔、鄭の子産が刑書を鋳たが、晋の叔向はこれを非とした。この二人は皆賢士であるが、得失は結局どちらか」。澄は答えて言った、「鄭国は寡弱で、強隣に脅かされ、民情の去就は、刑罰でなければ制することができなかった。故に刑書を鋳て威を示したのであります。古式には背きますが、今の権道には合致し、時勢に応じて世を済す点では、子産が得ております。叔向が譏議したのは、古を忘れないことを示したもので、道を論じることはできても、権を語ることはできません」。高祖は言った、「任城は魏の子産となろうとするのか」。澄は言った、「子産の道は当時に合致し、その名声は竹帛に流れております。臣は庸近な身であり、どうして こいねが 幾(及ぼう)などと申せましょう。今、陛下は四海を家とされ、文徳を宣べて天下を懐かしめようとしておられます。しかし江外(江南)は尚お阻まれており、車書(制度)は未だ一ではなく、末世の民は、威をもって伏せるのは易く、礼をもって治めるのは難しい。愚考しますに、子産の法は、なお暫く用いるべきであり、大同の後になって、初めて道をもってこれを化すべきであります」。高祖は心まさに変革を図っており、その答えを深く善しとし、笑って言った、「任城でなければ、変化の体(本質)を識ることはできまい。朕は今まさに朝制を創改しようとしている。任城と共に万世の功を成さんとするものだ」。

後に中書令に徴され、改めて 尚書 しょうしょ 令に任じられた。蕭賾(南斉の武帝)が使節の庾蓽を来朝させた。蓽は澄の音韻が遒勁雅やかで、風儀が秀逸であるのを見て、主客郎の張彝に言った、「かつて魏の任城王(拓跋雲)は武をもって著称したが、今の魏の任城王(拓跋澄)は文をもって美と見られる」。時に詔して四廟(高祖以下四代の廟)の子孫を招き、玄孫の裔に至るまで、皇信堂で宗宴を開き、爵秩を以て列とせず、全て昭穆の順序を以て次第とし、家人の礼を用いた。高祖は言った、「礼を行い終えた。宗室の者に各々その志を言わせたい。賦詩を率いるがよい」。特に澄に命じて七言連韻を作らせ、高祖と往復して賭け競い、遂に極めて歓び、夜に及んでようやく罷めた。

後に高祖は外には南征を示し、内には遷都を謀り、明堂の左个に斎戒し、太常卿王諶に詔して、自ら亀卜を命じ、易筮により南伐の事を占わせたところ、その兆は革の卦に遇った。高祖は言った、「これは湯武革命、天に順い人に応ずる卦である」。群臣は敢えて言う者なし。元澄が進み出て言った、「易に革と言うは更えるなり。将に天に応じ人に順わんと欲し、君臣の命を革めんとするもの、湯武は之を得て吉と為す。陛下は天下を帝有し、重光累葉(代々の帝業)を継がれる。今、征を卜するは、叛を伐つのみ可なり、革命と云うべからず。これは君人の卦に非ず、全く吉と為すべからず」。高祖は声を はげ して言った、「象に『大人虎変す』と云う、何ぞ不吉と言わんや」。澄は言った、「陛下の龍興既に久し、豈に方に虎変と同じくせんや」。高祖は勃然として色を変え言った、「 社稷 しゃしょく は我が社稷なり、任城(元澄)は衆を沮まんと欲するか」。澄は言った、「社稷は誠に陛下の社稷と知る、然れども臣は社稷の臣子、顧問に預かりて敢えて愚衷を尽くす」。高祖は既に鋭意必行とし、澄のこの対を悪み、久しくして乃ち解け、言った、「各々其の志を言う、亦た復た何ぞ傷けん」。車駕宮に還り、便ち澄を召し、階に昇るに及ばず、遥かに謂って言った、「向の革卦、今更に之を論ぜんと欲す。明堂の忿りは、衆人の競いて言うを懼れ、我が大計を阻まんとし、故に厲色して文武を怖しめたるのみ、朕が意を解せんことを想う」。乃ち独り澄に謂って言った、「今日の行い、誠に不易なるを知る。但し国家は北土より興り、 平城 へいじょう に徙居す、四海を富むと雖も、文軌未だ一ならず、此の間は用武の地、文治に可ならず、風を移し俗を易うるは、信じ難きに甚だし。崤函は帝宅、河洛は王里、此れに因りて大挙し、 中原 ちゅうげん に光宅せんとす、任城の意は何如と為す」。澄は言った、「伊洛は中区、天下の均しく据うる所、陛下華夏を制御し、九服を輯平せば、蒼生此れを聞き、応に大慶すべし」。高祖は言った、「北人は本を恋い、忽ち将に移らんと聞けば、驚擾せざるを得ざるなり」。澄は言った、「此れ既に非常の事、当に常人に知らしむべからず、唯だ聖懐に決するを須う、此の輩亦た何ぞ能く為さんや」。高祖は言った、「任城は便ち我が子房なり」。撫軍大將軍・太子少保を加え、又た尚書左 僕射 ぼくや を兼ねしむ。

及んで代に幸し、車駕北巡し、澄を留めて旧臣を銓簡せしむ。初め、魏は公侯以下より選臣に至るまで、動もすれば万数有り、冗散にして事無し。澄は三等に品し、其の優劣を量り、其の能否の用を尽くし、咸く怨むる者無し。駕洛京に還り、復た右僕射を兼ねしむ。

高祖北邙に至り、遂に洪池に幸し、澄に命じて龍舟に昇り侍らしめ、因りて詩を賦して懐を序せしむ。高祖は言った、「朕昨夜一の老公を夢み、頭鬢皓白にして、正に冠服を理め、路左に拝立す。朕怪しみて之を問うに、自ら云う、晋の侍中嵇紹なり、故に此れを奉迎すと。神爽卑懼し、求むる有るに似たり」。澄対えて言った、「晋世の乱、嵇紹は身を以て主を えい い、命を殞すこと御側に在り、亦是れ晋の忠臣なり。比干は紂の兇虐に遭い、忠諫して心を剖かる、殷の良士と謂う可し。二人倶に王事に死し、墳塋並びに道周に在り。然れども陛下徙御して殷墟を経て比干を弔い、 洛陽 らくよう に至りて嵇紹を遺る、当に恩を希いて夢を感ずるなり」。高祖は言った、「朕何の徳か有りて、能く幽感して達士に達せん。然れども実に先賢を追礼し、忠懿を標揚せんと思う。比干・嵇紹皆是れ古の誠烈、而して朕の務め比干に濃く、礼嵇紹に略す、情愧然たり。既に此の夢有り、或いは任城の言う如し」。是に ああ て其の兆域を求め、使いを遣わして弔祭せしむ。

蕭鸞が蕭昭業を殺して自立すると、昭業の雍州刺史曹虎が襄陽を内附させたいと請うた。諸将を分遣し、車駕(天子の行幸)は自ら赴こうとした。 州からまた上表があり、虎が誠意を奉じた使者は再び来ないとあった。高祖(孝文帝)は澄及び咸陽王禧・彭城王勰・ 司徒 しと 馮誕・ 司空 しくう 穆亮・鎮南将軍李沖らを召してこれを議した。高祖は言った、「近頃辺州の上表によれば、襄陽は教化を慕い、朕は江沔に鑾駕を鳴らし、彼らの声勢となろうとする。今また上表して称するには、後日の確約は更にないという。行幸と留まることの計について、結局どうしようというのか」。禧らは或いは行くべしと言い、或いは留まるべしと言った。高祖は言った、「衆人紛紜として意見等しからず、朕は何に従うべきか知らない。必ずや行留の情勢を尽くし、言う道理も共に暢かならしめんと欲すれば、客と主とありて、共に起発すべきである。任城王(澄)と鎮南将軍(李沖)は留まるべきとの議を為せ。朕は行くべしとの論を為さん。諸公は皆座して得失を聴き、長者に従え」。そこで高祖は言った、「二賢は試みに留まる計を言え」。沖は答えて言った、「臣らは正に徒御(軍勢)が草創であり、人々は安楽を楽しみ、内応する者は未だ審らかでないので、軽々しく動発すべきでないと考えるのです」。高祖は言った、「襄陽の款問(誠意ある申し出)は、虚偽であるように思われる。また初めて遷った民衆を労役させるのは宜しくないことも知っている。もし帰誠が事実であれば、即ちその悦び附くに乗じ、遠くは会稽の会(禹の会盟)の如く、近くは江北を略定すべきである。もしその送款(誠意を送る)が虚偽であれば、しばらく淮楚を遊巡し、民の瘼(苦しみ)を問い、あの土地の蒼生に君徳の在る所を知らしめよ。また何の損があってこの一挙を惜しむことがあろうか。もし降問(降伏の申し出)が事実であるのに、停まって撫接しなければ、款誠を稽阻(滞らせ阻む)し、朕の大略を毀つことにもならないか」。澄は言った、「降問もし審らかならば、表と質(人質)があるべきである。しかるに使者が一度返ったきり、静かに音問がない。その詐りであることは見える。今、代(平城)から遷った衆は、人々は故地を恋い慕い、細やかな累(家族や荷物)を携え、始めて洛邑に就いたばかりである。住むには一椽の室もなく、家には儋石の糧も欠いている。しかるに怨苦して即戎(兵役に就かせ)、白刃に当たって泣かせようとは、恐らく歌舞の師(喜んで従う軍)ではないであろう。今、区宇(天下)は初めて構えられ、また東作(春の耕作)が方に興らんとしている。正に子来(民が喜んで来る)して百堵(多くの家屋)を築く日、農夫が力を肆(尽)くす秋である。宜しくあの逋誅(逃れて誅を免れた者)を寛め、この民庶に恵みを施すべきである。かつ三軍は既に援(引き上げ)られており、赴いて接することを稽(留)める理由はない。もしその款実であれば、力は納撫するに足り、襄沔を克平するを待って、然る後に駕を動かすべきである。今、故なくして労して跋渉し、空しく往復するは、恐らく天威を挫損し、更に賊の胆を成すことになろう。願わくは上は盤庚の始めて遷った艱難を 、下は詩人の由庚(万物が道に従う)の至詠を あわれ み、新邑を輯寧(安ん)じ、億兆に恵み康らかにせられんことを」。しかし 司空 しくう 穆亮は行くべしと為し、公卿は皆これに同じた。澄は亮に謂って言った、「公は外で見るに旌鉞既に張られており、憂色を帯び、毎に談論を聞けば、この行を願わず。何ぞ聖顔に対して更に斯の如きの語を為すを得んや。面と背とが同じからず、事は欺佞に渉る。所謂論道の徳に非ず、更に国士の体を失う。或いは傾側(不正)あらんには、当に公輩の佞臣によるべし」。李沖は言った、「任城王は社稷に忠なりと謂うべし。願わくは陛下深くその言を察せられんことを。臣ら外に在る者は、皆征行を憚る。ただ貴と賤と、謀らずして同じく辞す。仰いで願わくは聖心その可否を裁かれんことを」。高祖は言った、「任城は恰も公らが朕に従うこと、この如き論があるからである。朕に従わない者は、必ずしも皆忠にして安危を通識するとは限らぬ。小忠は大忠の賊である。 無乃諸 これ に似たりとや」。澄は言った、「臣は既に愚闇にして、大理を識らず。言うべきことは、小忠に渉るとは雖も、要は微款(微かな誠意)を竭き尽くすことである。大忠なる者は竟に何を拠り所とするのか知らない」。高祖は言った、「任城もし台鼎の任に居らば、大忠を己に在らしめんと欲するであろう」。澄は言った、「臣は誠に才は台弼(三公や輔弼)に非ず、智は和鼎(鼎を和らげる=政務を調和させる)に欠く。もし濫りに公鉉(三公の位)に居るを得ば、 こいねが わくは官に当たりて行い、愚志に負かざらんことを」。高祖は大笑した。澄はまた亮に謂って言った、「昔、汲黯が漢武帝の前で公孫弘の食する脱粟飯、臥す布被を面折し、その詐りであると言った。時に公孫弘は謙譲してこれに下った。武帝は汲黯の至忠を歎じ、公孫を長者とし、二人を賢と称した。公は既に昔の士に道均しい。願わくは長者の言を思え」。高祖は笑って言った、「任城は自ら汲黯に比せんと欲するか。且つ言うところは公(公正)である。未だ得失の在る所を知らず、何ぞ便ち 司空 しくう に謝せん」。駕は遂に南伐した。

五等(爵)が開建され、食邑一千戸を賜う。後に征戦に従って懸瓠に至り、篤疾により京に還る。駕(天子)は汝濆でこれを餞別し、詩を賦して別れた。車駕が洛に還ると、王公侍臣を清徽堂に引見した。高祖は言った、「この堂が成って以来、未だ王公と宴楽の礼を行わなかった。後、東閤の廡堂が粗く始めて就いたので、今諸賢と高きに昇らずといふことなく、小きに入らずといふことなからんと欲する」。因って流化渠に至る。高祖は言った、「この曲水も亦その義あり。乾道曲成し、万物滞ること無きを取る」。次いで洗煩池に至る。高祖は言った、「この池中にも嘉魚あり」。澄は言った、「これは所謂『魚在り在り藻に、 ふさ ふる其の首』である」。高祖は言った、「且つ『王在り霊沼に、 ああ つ魚躍る』を取れ」。次いで観徳殿に至る。高祖は言った、「射をもって徳を観る。故に遂に之を命ず」。次いで凝閑堂に至る。高祖は言った、「名目には其の義有るべし。これは蓋し夫子の閑居の義を取る。奢りに ほしいまま にして倹を忘れ、自ら安んじて危を忘るべからず。故にこの堂の後に茅茨堂を作る」。李沖に謂って言った、「この東を歩元廡と曰い、西を遊凱廡と曰う。この堂には唐堯の君無しと雖も、卿等は元・凱に愧じること無かるべし」。沖は答えて言った、「臣は既に唐堯の君に遭い、敢えて元・凱の誉れを辞せず」。高祖は言った、「光景垂れ落ちんとす。朕、宗と同ずる則ち載考(夜の宴会)の義有り。卿等将に出でて遠からんとす。何ぞ黙爾として、徳音を示さざるを得ん」。即ち黄門侍郎崔光・郭祚、通直郎邢巒・崔休等に命じて詩を賦せしめ志を言わしめた。燭至ると、公卿は辞退した。李沖は再拝して千万歳の寿を上る。高祖は言った、「卿、 さき に燭至りて辞を致し、復た千万の寿を献ず。朕は卿に南山の詩を以て報いん」。高祖は言った、「燭至りて辞退するは、庶姓の礼なり。夜に在りて載考するは、宗族の義なり。卿等は且つ還れ。朕は諸王宗室と、この夜飲を成さんと欲する」。

また ぎょう に行幸に従った。洛陽に帰還すると、出納の労により、封邑を五百戸増やされた。公事の罪により官を免ぜられた。まもなく吏部尚書を兼ねた。恒州刺史穆泰が州において謀反を企て、朔州刺史陽平王元頤を主君に推戴した。元頤はその状況を上表した。高祖(孝文帝)は元澄を召して凝閑堂に入れて謁見させ、言った、「ちょうど陽平王の上表を得たところによれば、穆泰が不軌を謀り、宗室を招き誘っているという。もし万一そうであるならば、遷都して間もないことであり、北人は旧都を恋しがり、南北が紛擾するならば、朕は洛陽に都を立てられないであろう。この事は任城王でなければ処理できぬ。我のために病をおして北へ行ってくれ。もし彼らが弱ければ、直ちに進んで捕らえ討伐せよ。もしその勢いが強ければ、制を承って 并州 へいしゅう ・肆州の兵を発してこれを殲滅せよ。王が病んでいることは知っているが、これが国家の大事である以上、辞退は許されぬ」。元澄は言った、「穆泰らは愚かで惑っており、ただ故地を恋しがってこれを為すのであり、遠大な計画があるわけではございません。臣は確かに病弱ではありますが、この輩を恐れてはおりません。たとえ病が重くとも、どうして辞退できましょうか。謹んで心力を尽くし、死をもって継ぎ、陛下に憂いなからんことを願います」。高祖は笑って言った、「任城王がこれを行ってくれれば、朕はまた何を憂えようか」。そこで節、銅虎符、竹使符、御仗、左右の者を授け、引き続き恒州の事務を行わせた。雁門まで行き着くと、太守が夜に報告してきた、穆泰がすでに兵を掌握して西へ向かい陽平王に就き、城下に集結しているが、見えるのは弓や仗ばかりであると。元澄はこれを聞くと直ちに速やかに進軍した。その時、右丞の孟斌が言った、「事態は測りがたく、勅命に依って へい 州・肆州の兵を召集し、その後ゆっくり動くべきです」。元澄は言った、「穆泰がすでに逆を構えたならば、堅城を拠るべきであるのに、かえって陽平王を迎えている。その行いを推し量ると、どうやら勢いが弱いようだ。穆泰がすでに抵抗しないのであれば、理由なく兵を発するのは適切ではない。ただ速やかに赴いて鎮めれば、民心はおのずと定まるであろう」。そこで倍の速さで昼夜兼行し、その不意を衝いた。また治書侍御史の李煥を先に派遣して赴かせると、到着するやただちに穆泰を捕らえ、民情は穏やかであった。その党与をことごとく追及し、罪人はすべて捕らえられ、鉅鹿公の陸叡、安楽侯の元隆ら百余人をみな獄に禁じた。詳細な状況を上表して奏聞すると、高祖は上表を覧て大いに喜び、公卿以下を召集してその上表を示し、言った、「我が任城王はまさに社稷の臣と言えよう。その罪状を尋ね見れば、たとえ臯陶が獄を断じても、どうしてこれを超えられようか」。咸陽王らを顧みて言った、「汝らがもしその場に当たったとしても、このことを処理できなかったであろう」。まもなく車駕は平城に行幸し、元澄を労って言った、「任城王のこの行いは、遠方への委任に深く副った」。元澄は答えて言った、「陛下の威霊が遠くまで及び、罪人は刑罰を逃れるところがありません。臣に何の功労がありましょうか」。逆徒を引見すると、一人として冤罪を称する者はなく、当時の人々はこれを嘆じない者はなかった。高祖は左右を顧みて言った、「昔、仲尼は言った、『訴訟を聴くことにおいて私は人と同じである。必ずや訴訟なからしめんことを』と。しかし聖人の訴訟を聴くことは、およそ常人には及ばぬ。必ずや訴訟がなくなるというのは、今日これを見た」。元澄を正尚書とした。

車駕が南征するにあたり、元澄を留めて留守を守らせ、また右僕射を兼ねさせた。元澄は上表して、国の歳入である一年分の租税・布帛を軍資の供給に充てることを請うたが、詔によりその半分を受け取ることとなった。高祖が鄴に行幸した時、 高車 こうしゃ の樹者が反乱を起こし、車駕が自ら討伐しようとした。元澄は上表して親征すべきでないと諫めた。ちょうど江陽王元継がこれを平定したので、やめて止んだ。高祖が洛陽に帰還し、公卿を引見した。高祖は言った、「国家を営む根本は、礼教を先とすべきである。朕が京邑を離れて以来、礼教は日々新たになったか」。元澄は答えて言った、「臣は日々新たになったと存じます」。高祖は言った、「朕は昨日城に入った時、車上の婦人が冠帽をかぶり小襦襖を着ているのを見た。もしこのようであるならば、尚書はなぜ察しないのか」。元澄は言った、「着ている者はまだ着ていない者より少ないのです」。高祖は言った、「実に怪しむべきことだ。任城王は全員に着せようというのか。一言で国を喪うというのは、このことを言うのではないか。史官に命じてこれを記させよ」。また言った、「王者は蒼天から補佐を降すのではなく、みな才能を抜擢して用いるのである。朕は人を挙げることに失敗し、一群の婦人たちに奇異なことをさせてしまった。改めて選び直すべきである。任城王が尚書省におり、天下の綱紀を挙げているのか、それともただ事務を処理しているだけなのか」。元澄は言った、「臣は実に事務を処理しているだけです」。高祖は言った、「それならば一介の令史で十分ではないか。どうして任城王を待つ必要があろう」。また言った、「朕が舍人に詔を宣べさせたのに、なぜ小人にこれを聞かせたのか」。元澄は言った、「その時には幹事の吏がおりましたが、掲示板からも遠く離れておりました」。高祖は言った、「遠ければ聞こえぬ。聞こえたなら遠くはない。すでに詔を聞いたのであれば、道理は当然知りうる」。そこで留守の群臣は冠を脱いで謝罪した。まもなく尚書右僕射に任じられた。

蕭宝巻がその太尉陳顕達を派遣して漢陽に侵入させた。この時、高祖は御不例であり、元澄を召して清徽堂に入れて謁見させた。詔して言った、「陳顕達が侵乱し、沔陽が安らかでない。朕が親征しなければ、この賊を攘うことはできぬ。朕の疾患は長年に及び、気力は衰え弱っている。もし万一のことがあれば、任城王に大事を委任する。この度は任城王は必ず朕に従え」。元澄は涙を流して答えて言った、「臣は謹んで股肱の力を尽くし、命をもって上に報います」。そこで車駕に従って南征した。高祖が崩御すると、元澄は顧命を受けた。

世宗(宣武帝)の初め、降人である厳叔懋が告発した、 尚書令 しょうしょれい の王粛が孔思達を遣わしてひそかに蕭宝巻と通じ、叛逆を図っていると。蕭宝巻は俞公喜を遣わして王粛に勅書を送り、公喜が南に帰還する際、王粛は裴叔業に馬を与えて証とした。元澄はこれを信じ、王粛が反逆しようとしていると上表し、ただちに禁止(拘禁)を下した。咸陽王と北海王の二王が、元澄が宰輔を擅に禁じたと上奏したため、元澄は官を免ぜられて邸に帰った。

まもなく平西将軍・梁州刺史として出向したが、母が老齢であることを理由に辞退した。安東将軍・相州刺史に任じられたが、また固く辞退した。安西将軍・雍州刺史に改めて任じられた。まもなく季秋の講武に赴くよう召喚された。 都督 ととく 淮南諸軍事・鎮南大将軍・開府・揚州刺史に任じられた。任地に着くとすぐに孫叔敖の墓を封じ、蒋子文の廟を破壊した。たびたび南征を上表したが、世宗は許さなかった。また母の老齢を理由に州の任を解くことを乞うたが、そのまま放置されて返答がなかった。 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

元澄は上表して言った、「臣は先朝に参じて訓示を受け、規矩に接して日が浅からず、先人の言葉や旧来の軌範を、かなり聞き及んでおります。また昔、恒州・代州におりました時、皇族の方々に親しく習い、秘閣や学庠に欠ける日はありませんでした。臣が侍坐するたびに、先帝は常に書典を懐にし、礼経を事とされ、周旋の礼儀は、時に絶えることがありませんでした。鳳凰が中京に飛び立って以来、礼教が盛んになり、宗室の模範として、しばしば委任を受け、四門の選抜においては、銓衡の任を負っておりました。先帝が昇遐されて以来、修復や著述に遑がなく、学宮は虚しく四門の名を負い、宗人は四時の学業を欠き、青衿の学統は、ここに廃れようとしております。臣はその事を思うたびに、ひそかに心を傷めております。伏して考えますに、聖略は宏遠で、四方に煩わしい政務は少なく、安楽な時は、まさに今でございます。どうして太平の世に、子衿の嘆きが起こりましょうか。聖明の日に、宗人の訓えが欠けましょうか。愚考しますに、有司に命じて、皇宗の学を修復し、四門の教えを開き興し、衰えようとする一族が、日に日に、月に月に進歩するようにすべきでございます」。詔して言った、「冑子が学業を尊ぶことは、古来からの盛んな典制であり、国家を均しくする訓えは、長く廃されるべきではない。尚書はさらに適宜を量って修復設立せよ」。元澄はまた母の病気を理由に州の任を解くことを上表したが、聞き入れられなかった。

蕭衍の将張囂之が夷陵戍を寇掠して陥落させると、澄は輔国将軍成興に歩騎を率いて赴かせて討伐させ、大いにこれを破り、夷陵を回復した。囂之は遁走した。また長風戍主の奇道顕を遣わして蕭衍の陰山戍を攻撃させ、これを破り、その戍主である龍驤将軍・都亭侯の梅興祖を斬った。引き続いて白槀戍を攻撃し、またこれを破り、その寧朔将軍・関内侯の呉道爽を斬った。澄は上表して言うには、「蕭衍は頻繁に東関を断ち切り、巣湖を氾濫させようとしている。湖の周囲は四百余里あり、東関が江と合流する地点の広さは数十歩に過ぎない。もし賊の計略が成就すれば、大湖が傾き注ぐこととなり、淮南の諸戍は必ずや 晋陽 しんよう の故事のごとき事態となるでしょう。また、呉楚の地は水に便があり、灌漑しつつ掠奪し、淮南の地は国が所有するものではなくなります。寿陽は江から五百余里離れているが、民衆は惶々として、皆水害を恐れている。もし民の願いに乗じ、敵の虚を攻め、あらかじめ諸州に命じて兵馬を集めさせ、初秋に大集結すれば、南の瀆は飲馬の渡し場となり、霍嶺は必ずや遊覧の地となるでしょう。事は機に応ずることを貴び、経略は早く行う必要がある。たとえ天下統一が必ずしも成就しなくとも、江西はこれにより憂いなくなる。もし躊躇して緩やかに図り、討伐を加えなければ、関塞が既に完成し、襄陵の水害が及ぼうとして、平原の民と戍は確実に魚の餌食となるでしょう」。詔により冀・定・瀛・相・ へい ・済の六州から二万人、馬一千五百匹を発し、仲秋の中旬までに淮南に集結させ、寿陽の先兵三万と合わせて、澄に経略を委ねた。

先に朝廷の議論に南伐の意思があり、蕭宝夤を東揚州刺史として東城に据え、陳伯之を江州刺史として陽石に戍らせ、澄に二鎮を総督させ、節度を授けていた。ここに至り兵を率いて進軍討伐した。東関は水の要衝、大峴は険要の地であり、東関で水を放てば、陽石・合肥は危急の切迫した事態となる。大峴を図らなければ、歴陽が険要に乗じて援軍を出すであろう。淮陵の陸路、九山の水路、いずれも経略すべきである。そこで統軍の傅豎眼・王神念らを遣わして進軍させ、大峴・東関・九山・淮陵に駐屯させ、諸将を分派して倍速でこれを占拠させ、大軍を総統率し、連絡を絶やさなかった。そして神念はその関要・潁川の二城を攻略し、衍の軍主費尼を斬った。しかし寧朔将軍の韋恵・龍驤将軍の李伯由は依然として大峴を固守した。澄は統軍の党法宗・傅豎眼らを遣わして進軍させてこれを攻略し、ついに白塔・牽城を包囲した。数日の間に、たちまち逃げ崩れた。衍の清溪戍は風の便りを聞いて散り散りに逃走した。衍の徐州刺史司馬明素は三千の兵を率いて九山を救援しようとし、徐州長史の潘伯隣は淮陵を固守しようと図り、寧朔将軍の王燮は険阻な焦城に拠った。法宗は進軍して焦城を攻略し、淮陵を破り、明素を生け捕りにし、伯隣を斬った。その済陰太守の王厚強・廬江太守の裴邃もまたすぐに敗走退却した。詔が澄に下り、「将軍は文徳を内に輝かせ、武功を外に暢やかにし、大略を奮い揚げて江呉を掃蕩せんとしている。長い旌旗が初めて翻り、賊徒は気を呑まれ、鋭い軍旅がまさに駆け巡れば、東関は巻き取られる。江湖の波が静まるのも、旦夕のうちであろう。送られてきた首級と捕虜については、すでに聞き知った」。

初め、澄が出征した後、衍の将姜慶真が寿春の外郭を襲撃して占拠したが、斉王蕭宝夤がこれを撃退した。長史の韋纘は連座して官を免ぜられたが、澄は外に在ったため連座しなかった。ついに鍾離を攻撃した。また詔が下り、「鍾離はもし食糧が尽きれば、三月以前には確かに攻略できるであろう。四月に至れば、淮水が氾濫して増水し、舟行に支障なく、よく考慮すべきである。先の事が成功したのは、これ実に将軍の経略によるものであり、勲功は常道にかなっている。もし水勢が盛んで攻略が難しいならば、万全の計とすることもでき、利に目がくらんで無成に終わり、後悔を残すべきではない」。蕭衍の冠軍将軍張恵紹、遊撃将軍殷暹、 ぎょう 騎将軍趙景悦、龍驤将軍張景仁らが五千の兵を率いて鍾離に糧食を送った。澄は統軍の王足・劉思祖らを遣わして恵紹らを邀撃させ、大いにこれを破った。恵紹・殷暹・景仁およびその屯騎 校尉 こうい 史文淵ら軍主以上の二十七人を捕獲した。やがて雨に遭い、淮水が急激に増水したため、兵を引き返して寿春に帰還した。帰還の途は狼狽し、四千余人の兵を失った。頻繁に州の任を解くことを上表したが、世宗は許さなかった。有司が軍が帰還する際に道を誤ったことを奏上し、その開府の位を剥奪し、さらに三階降格した。時に蕭衍から書簡が届き、張恵紹の交換を求めてきた。澄は上表して許すべきでないと請い、詔により八座に会議させた。 尚書令 しょうしょれい ・広陽王の嘉らは返還すべきであると奏上し、詔によりついに返還を聴許した。後に果たして再び辺境を寇掠した。

澄を鎮北大将軍・定州刺史に転任させた。初め、民間ではしばしば不当な徴発があり、百姓は煩わしく苦しんでいたが、前後の牧守はこれを除去できなかった。澄は多くを省き減らし、民は喜び頼りとした。また、黜陟賞罰の法を明らかにし、公園の地を減らして無業の貧民に与えることを上表し、衣料に耐えない布絹の製造を禁じた。母の孟太妃が 薨去 こうきょ し、喪に服して身体を損ない痩せ衰え、当世に称えられた。喪が明けると、太子 太保 たいほう に任ぜられた。

当時、高肇が朝廷の権力を握り、賢才や皇族を猜疑し忌み嫌った。澄は高肇の間に入って讒言され、常に身の安全を保てないことを恐れ、終日昏く酒を飲み、荒廃した様子を示した。その行いは奇矯で常軌を逸し、当時は狂人と呼ばれた。

世宗が夜に崩御し、事態は倉卒であった。高肇は外で兵を擁し、粛宗は幼沖であり、朝野は不安であった。澄は疎外されて機要に参与せず、しかし朝廷の声望が帰するところとなり、領軍の于忠・侍中の崔光らが澄を 尚書令 しょうしょれい とするよう奏上した。そこで衆人の心は喜び服した。また 散騎常侍 さんきじょうじ ・驃騎大将軍を加えられ、まもなく 司空 しくう に遷り、侍中を加えられ、やがて詔により 尚書令 しょうしょれい を領することを命ぜられた。

初めに、正始の末年に、詔を下して百官に一律一級を昇進させたが、執事者が旨意を理解せず、刺史・太守・県令は制限されて恩恵に及ばなかった。元澄が上奏して言うには、「臣はひそかに思うに、雲のごとき高殿が鬱然と立ち上がり、恩沢は百官に及び、春を待ち栄えを望み、内外ともに慶賀する。賞賜と昇進において、守宰に及ばないのは、この十年以来、冤罪の訴えが絶えない。封回は鎮遠将軍・安州から入朝して太尉長史となり、元匡は征虜将軍・恒州から入朝して宗正卿となったが、二人の昇進はいずれも先の詔の範囲内である。恩恵を受けるべき道理は、ここに備わっている。また州の属官で私事のために職を離れていた者や、陪臣たる郡丞の例でさえ、なお天の恩沢が下り、当時に栄えを与えられた。しかし参佐の官が来るのは、皆府主によるものであり、今府主が恩恵に浴さず、佐官のみが預かるのは、本を棄てて末を賞するもので、愚かであるが妥当でないと思う。今、刺史・太守・県宰の官について、封回・元匡の例に準じ、すべて広範な制限と同じくし、上は当初の旨である百官への詔に合致させ、下は訴える者たちの民の心を覆うことを請う」と。詔して言うには、「今後より、内外の事柄で、先朝を経たものは、重ねて聞くことはできない」と。元澄が上奏して言うには、「臣は聞く、堯は諫諍の鼓を懸け、舜は誹謗の木を置いたと。これらは皆、草莽の者から耳目を広げ、天下に四方の聡明さを通じさせるためである。伏して思うに、太祖が基を開き、教化は遠くから盛んとなり、累代の聖帝が相継ぎ、今に九帝に至る。重光が照らし重なり、盛衰は必ず同じくし、与奪は時に随い、道は恒常の体ではない。過ちを思うことは渇の如く、言は千金に重い。故に いみな なき朝と称え、三皇五帝の跡を踏む。高祖は幼年にして帝位を継ぎ、文明太后が統治に協力し、官を変え律を易えたが、典に違うものではなかった。そして慈聖(文明太后)が朝に臨み、母儀として天下にあり、慈愛ある令を発し、滞った獄事に心を垂れ、深く冤罪を被った者は九泉の下で日月を仰ぎ、わずかに屈した者は盆の下で曲がりくねった光を望んだ。今、先朝によって規制し、一例によって制限するのは、誠に詔を奉遵する本心ではあるが、実に民の至大な希望には背く。謙虚に控えることにおいて、旧典に背いている。謹んで尋ねるに、冤罪を抱えて公正を求めることは、あるいは累朝を経ることもある。毫厘の差は、正すべきは速やかであるべきであり、誤りが千里に及べば、駟馬も追いつかない。故に礼には損益があり、事には可否があり、父には諫める子があり、君には諫める臣があり、琴瑟が調わなければ、理に応じて改作すべきである。それ故に川を防ぐ議論は、小さく決壊すれば通じ、郷校の言論は、塞げば国を敗る。ましてや陳べられた冤屈を、先朝によって抑えつけることができようか。かつ先朝が屈したのは、故意に屈したのではなく、あるいは役人の愛憎によるか、あるいは執事者の濁りや偏りによるか、空文によって法を致し、視聴を誤らせたのである。このような冤罪の塞がりは、ますます哀れむべきである。僭越と濫用とを比べれば、むしろ経典に従わないことを失うべきであり、今の旨を収め、前の詔に還って依ることを乞う」と。詔して言うには、「上奏を省みるに、輔佐の情を深く体する。三皇は軌を異にし、五代は風を殊にする。一時の制度を、どうして必ずしも改めなければならないか。必ずや虚文が旨を設け、道理において申し開きができるというなら、どうして来たる執務と異なることを許容できようか。往時の制に依ることを可とする」と。

元澄は表を上して皇誥宗制と訓詁各一卷を献上し、皇太后がこれを覧て、戒めと益を思うことを意図した。また、国に利し民を済すために振り興すべき十条を奏上した。第一は律度量衡が公私で異なり、統一すべきであること。第二は学校を興し、黜陟の法を明らかにすべきこと。第三は滅んだ家を興し絶えた家を継がせ、各々知る者を挙げるべきこと。第四は五調の外に、一切民を煩わせず、民の力を任せるのは三日を超えないこと。第五は民に臨む官は皆黜陟を行い、賞罰を表彰すべきこと。第六は逃亡して代わりに輸納する者で、去来の年久しい者は、伎作でなければ、そのまま住むことを任せて聞くこと。第七は辺境の兵士が逃走し、あるいは実際に陷没した者は、皆精査すべきであり、三長及び近親が実際に隠したならば、その代わりに輸納を徴収し、隠さなければ論じないこと。第八は工商の世業の戸は、租調を再び徴収され、堪え済むことができないので、今これを免じ、その業に専念させることを請うこと。第九は三長が姦を禁じるのに、隔越して相領してはならず、戸が満たない者は近くに随って併合すること。第十は羽林虎賁は、辺境に事あれば暫く戦いに赴くことができるが、常時の戍守は蕃兵を遣わして代わるべきこと。霊太后はその奏を下し、百官に議させたが、事柄に同意するものとしないものとがあった。

当時、四中郎将の兵数は寡弱で、京師を襟帯するには足りず、元澄は東中郎将に 滎陽 けいよう 郡を帯させ、南中郎将に魯陽郡を帯させ、西中郎将に恒農郡を帯させ、北中郎将に河内郡を帯させ、二品・三品の親賢で兼ねて称えられる者を選んでこれに居らせ、急でない工事を省き、強兵を配するのがよいと奏上した。そうすれば深根固本・強幹弱枝の義となる。霊太后は初めこれに従おうとしたが、後に議する者が異なり、やめてしまった。元澄は重ねて奏上して言うには、「本を固めるには強くすべきであり、微を防ぐには予め備えるにある。故に文事があっても、武事を忘れない。まして今、南蛮はなおも獰猛で、北の妖賊は頻りに結び、来るべき事は図り難く、勢いは往時の変と同様である。もし暴勃が忽ち起こり、関畿を振動させれば、四府の羸弱な兵卒では、どうして防ぎ擬えることができよう。平康の世には、安泰を寄せることができるが、長く遺しておけば、恐らく善策ではない。臣の愚見によれば、郎将が兵を領し、兼ねて民職を総べ、官を省き禄を実にするのは、ここにある。前のように兵を増やし号を益すことに還って求め、将位が既に重ければ、報いることを思うことも深く、軍と郡が相依れば、表裏ともに済い、朝廷には四顧の憂いがなく、姦宄は窺覦の望みを絶つであろう」と。結局採用されなかった。また、流民が初めて遠鎮に至り、衣食の資がなく、多く死者が出るので、その妻子に一年分の糧を与えるよう奏上し、従われた。まもなく疾患により、任を解くことを求めたが、許されなかった。

蕭衍が浮山で淮水を断ち堰とし、寿春を灌漑しようとしたので、元澄を使持節・大将軍・大 都督 ととく ・南討諸軍事に任じ、十万の兵を率いさせ、彭城・宋に出ようとしたが、まもなく淮堰が自ら壊れたので、行かなかった。

元澄は北辺の鎮将の選挙がますます軽んじられていることを憂い、賊虜が辺境を窺い、山陵が危うく迫ることを恐れ、鎮将の選任を重んじるよう求め、警備の厳しさを修めるよう奏上したが、詔は従わなかった。賊虜が侵入し、旧都に至り、鎮将は多くその人に非ざる者で、所在で叛乱し、山陵を犯し逼ったことは、元澄が慮った通りであった。元澄は都の城や府寺がまだ周到でないと奏上し、今軍旅が初めて寧まるので、衆を発するには宜しくなく、諸職人及び司州郡県で十杖以上百鞭以下の罪を犯し収贖した物、絹一匹につき磚二百を輸納させ、漸次修造することを請うた。詔はこれに従った。 太傅 たいふ ・清河王元懌が表を上してこの事を奏上したので、遂に止んで行われなかった。

元澄はまた奏上して言うには、「臣は聞く、賞は必ず道によって行い、淫人の姦を防ぎ、罰は濫りに及ばず、良士の困窮を戒める。刑とは、形を正すものである。常に三宥を垂れ、律を秉り請い執り、已むを得ずしてこれを用いる。それ故に大小の獄は、情をもってこれを察し、一人が呼び嗟けば、あるいは王道を損なう。刑罰の得失は、興廃の由る所である。窃かに聞く、司州牧・高陽王臣元雍が奉朝請韓元昭・前門下録事姚敬賢を拷打ち殺したと。公事によるとはいえ、理は実に尽くされていない。何となれば、太平の世には、草を横に伐たず、行葦の感は、事が隆周を験する。もし昭らの罪状が明らかで、死罪が定まったなら、応に都市で刑し、衆とともにこれを棄てるべきである。もし疑い似て分かず、情理が未だ究められていないなら、三清九流の官を杖の下で即死させ、民命を軽々しく絶ち、理を傷つけ法を敗るべきではない。往年、州が大市で五人を鞭打ち殺したが、贓物の状を検査すると、全く寸尺もなかった。今また酷害が、このように至っている。朝野云云として、皆驚愕を懐いている。もし殺生が下にあり、虐りが臣に専らなら、人君の権は、どこに復用されようか。開闢以来、明らかなる世に、この比を聞いたことがない。武王は言う、『吾は一人の命をもって天下を易えず』と。民命を重んじるためである。請う、見事を以て廷尉に付して推究させ、その劫を為した状を験し、その拷打ち殺した理を察し、是非を分明にし、幽魂に雪ぐを得させんことを」と。詔はこれに従った。

王澄は官職に当たって行動し、回避することはなかった。また、墾田の授受に関する制度八条を奏上し、綱紀がよく整い、当時に大いに便益をもたらした。以前より尚書の文書簿冊は、諸曹が必要とするときは貸し出していた。当時、公車署は冤罪処理の重要性を理由に、原本の案文の借用を奏請した。王澄は執奏して、尚書は政務の根本であり、特に慎重を期すべきであるとし、これまで奏上する事柄はすべて閣道を通じており、機密重要の切実さからその漏洩を防いでいた。古制が重んじたものを、今になって軽んじ、内ではなお禁令を設けているのに、外ではかえって緩めることがあろうか。事柄の趣旨を書き写して公車署に交付すべきであると述べた。詔はこれに従った。西域の嚈噠・波斯などの諸国はそれぞれ公使を通じて、王澄に駿馬一匹を贈った。王澄は太僕に交付して国厩に充てるよう請うた。詔は「王の廉潔忠貞の徳は楚の相に勝る。厩に交付するよう命じ、君子の大いなる美を成すべし」と言った。

御史中尉の東平王元匡は、景明元年以来の内外の考課簿・吏部の除書・中兵の勲功案および諸々の殿最を取り寄せ、階級を窃み官職を盗んだ者を調査しようと奏請し、霊太后はこれを許した。王澄は上表して言った。

霊太后はこれを受け入れ、やめた。

後に 司徒 しと 公に遷り、侍中・ 尚書令 しょうしょれい はもとの通りであった。王澄はまた上表して言った。

霊太后は土木造営に熱心で、京師では永寧寺・太上公寺などの仏寺を建立し、工費は少なくなく、外州ではそれぞれ五重の仏塔を造り、またしばしば一切の斎会を開き、施し物は万単位に及んだ。百姓は土木工事に疲弊し、金銀の価格はそれによって高騰し、百官の労力を削奪し、庫蔵を費損させ、さらに側近に曲げて賜与し、日に数千に及んだ。王澄はこのような上表をしたのである。ついに従わなかったが、常に丁重に答礼した。政事の大小にかかわらず、みな参画させて決裁した。王澄もまた心を尽くして補佐し、民に不都合な事があれば必ず諫争し、用いられなくても懇ろにやめず、内外ともにみな敬い畏れた。

神亀二年に薨去した。五十三歳。賻として布一千二百匹・銭六十万・蠟四百斤を賜り、東園の温明祕器・朝服一具・衣一襲を給され、大鴻臚が喪事を監護し、詔して百官に会葬させた。仮黄鉞・使持節・ 都督 ととく 中外諸軍事・太傅を追贈され、太尉公を領し、殊礼を加えられ、九錫を備え、晋の大司馬・斉王司馬攸の故事に依った。諡して文宣王と言う。王澄の葬儀は、凶礼の装飾が非常に盛大であった。霊太后は自ら郊外まで見送り、輿を停めて悲泣し、その哀しみは左右を動かした。百官の会葬者は千余人に及び、すすり泣かない者はなかった。当時、哀栄の極みとされた。第四子の王彝が襲封した。

王彝は字を子倫といい、継室の 馮氏 ふうし が生んだ子で、父の風采をよく備えていた。通直 散騎常侍 さんきじょうじ に拝された。元叉が権力を専断すると、王彝は付き従うことを恥じたので、顕職にはつけなかった。孝荘帝の初め、河陰で害に遭い、車騎将軍・儀同三司・青州刺史を追贈された。諡して文と言う。

子の王度世が襲封した。武定年間、金紫光禄大夫となった。北斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。

王彝の兄 王順

王彝の兄の王順は、字を子和という。九歳で楽安の陳豊に師事し、初め王羲之の『小学篇』数千言を書き写し、昼夜これを誦し、十五日でことごとく通徹した。陳豊はこれを奇異に思い、王澄に告げて「豊は十五歳で師事してから白髪頭になるまで、耳目で経てきた中で、このような比類を見たことがありません。江夏の黄童(黄香)でも、無双とは言えません」と言った。王澄は笑って「藍田は玉を生む。どうしてそうでないことがあろうか」と言った。十六歳で杜預の『春秋経伝集解』を通じ、常に門生を集めて異同を討論した。当時は四方に事なく、国は富み民は安んじ、豪貴の子弟はおおむね仲間と遊ぶことを楽しみとしていたが、王順は帷を下ろして読書に励み、志を篤くして古を愛した。性は諤諤として直言し、栄利に淡泊で、酒を好み、琴を弾くことを解し、長吟永歎し、虚室で吒詠することができた。世宗(宣武帝)の時、『魏頌』を上ったが、文は多く載せない。

給事中として起家した。当時、 尚書令 しょうしょれい の高肇は帝の舅として権勢が重く、天下の人士は塵を望んで拝伏した。王順はかつて名刺を懐にして高肇の門を訪れたが、門番は彼が年少であるとして、「座中には大いに貴客がおります」と答え、取り次ごうとしなかった。王順はこれを叱って「任城王の子が、賤しいというのか!」と言った。会見すると、まっすぐに進んで牀に登り、手を捧げて対等の礼をとり、王公の先達たちはみな怪しみ恐れたが、王順の言葉遣いは傲然として、何も見ていないようであった。高肇は賓客たちに言った。「この児はまだこのような豪気である。ましてその父においておや!」出るとき、高肇は敬意を加えて見送った。王澄はこれを聞いて大いに怒り、数十回杖で打った。後に越階して中書侍郎に転じ、まもなく太常少卿に遷った。父の喪で職を去り、哭泣して血を嘔き、自ら土を背負った。当時二十五歳で、すでに白髪があり、喪が明けて抜くと、再び生えることはなく、世人は孝思の致すところと考えた。

まもなく給事黄門侍郎に除された。当時、領軍の元叉の威勢が特に盛んで、昇進任官のある者はみなその門を造訪して謝謁した。王順は上表するだけで、かつて元叉を訪ねることはなかった。元叉は王順に言った。「卿はどうして少しも私に会わないのか?」王順は顔色を正して言った。「天子は春秋に富み、政務を宗族の補佐に委ねておられる。叔父は至公を心とし、士を挙げて国に報いるべきです。どうして恩を売り、人に私的な感謝を求められましょうか。それは望むところではありません。」朝廷の議論の得失については、王順は常に鯁直な言葉で正論を述べ、かつておもねって旨に従うことはなく、これによって畏れられた。平北将軍・恒州刺史として出された。王順は元叉に言った。「北鎮は紛紜として、まさに国の障害となっています。桑乾の旧都は根本の繫がるところです。 都督 ととく を仮授けられ、国の防壁とならせてください。」元叉は内心難しく思い、兵権を与えたくなかったので、王順に言った。「これは朝廷のことであって、私が裁くところではない。」王順は言った。「叔父はすでに国権を握り、生殺与奪は己に由ります。天の歴数は我が身に応ずるとおっしゃるのに、どうしてまた朝廷があるなどと言えましょうか!」元叉はますます憤り畏れた。安東将軍・斉州刺史に転じた。王順は自ら才能があると自負し、内に居られないことを、常に鬱怏として思い、言葉や顔色に表し、ついに酒を縦にして歓楽にふけり、政事に親しまなかった。元叉が領軍を解かれると、給事黄門侍郎に徴された。親友が郊外に出迎え、内に入れたことを祝った。王順は言った。「入られないことを憂えるのではなく、正に入ってまた出ることを恐れるだけだ。」まもなく殿中尚書を兼ね、侍中に転じた。初め、中山王元熙が兵を起こして元叉を討ったが、果たせず誅殺され、霊太后が政権に返り咲いて初めて改葬できた。王順が西遊園で侍坐したとき、太后に奏上して言った。「臣は昨日中山王の家の葬儀を見に行きましたが、宗親がその冤酷を哀しむだけでなく、行き交う士女も、その一家七喪を見て、みな涙を流し、酸鼻しない者はありませんでした。」元叉の妻が当時太后の側にいたので、王順は彼女を指して言った。「陛下はどうして一妹のゆえに、元叉の罪を伏せ、天下に冤を懐かせておられるのですか!」太后は黙然として語らなかった。

就徳興が営州で反乱を起こし、尚書の盧同を派遣して討たせたが、大敗して返った。たまたま侍中の穆紹と王順が侍坐し、盧同の罪について論じた。盧同は以前に近くの邸宅を穆紹に貸しており、穆紹はかなり彼のために弁護しようとした。王順は勃然として言った。「盧同は結局無罪になるでしょう!」太后は言った。「どうして侍中の言うようになるのか?」王順は言った。「盧同は良い邸宅を要職の侍中に与えました。どうして罪を慮ることがありましょうか。」穆紹は慚じて、再び言わなかった。霊太后はかなり化粧を凝らし、しばしば出遊した。王順は面と向かって諫めて言った。「礼によれば、婦人は夫に喪あるとき、自ら未亡人と称し、頭から珠玉を除き、衣に彩りをまとわないものです。陛下は天下の母として臨み、年は不惑に垂れんとしているのに、過度に修飾なさるのは、どうして後世に示されましょうか。」霊太后は慚じて出なかった。宮中に戻ると、王順を責めて言った。「千里も招き寄せたのに、どうして大勢の中で辱めを受けさせようとするのか!」王順は言った。「陛下は盛装して容姿を誇示し、天下の笑いを畏れないのに、どうして臣の一言を恥じられるのですか?」

初めに、城陽王元徽は元順の才名を慕い、特に結び交わした。しかし広陽王元淵が元徽の妻于氏と姦通し、大いに不和となった。やがて元淵が定州から召還され、入朝して吏部尚書兼中領軍となった時、元順が詔書を作成し、その文辞は甚だ優美であった。元徽は元順が元淵の側近となったと疑い、これにより徐紇と共に霊太后に元順を讒言し、元順を護軍将軍・太常卿として出させた。元順が西遊園で辞去の挨拶をした時、元徽と徐紇が側に侍っていた。元順は彼らを指して霊太后に言うには、「この者どもは魏の宰嚭(讒言する者)であり、魏国が滅びない限り、ついに死ぬことはないでしょう。」徐紇は肩をすくめて退出した。元順は遂に声を張り上げて彼を叱責し、「お前は刀筆の小人に過ぎず、ただ机の上の吏となるに相応しいだけで、どうしてこの戟を執る官に辱しくも任じられ、我が彝倫(人倫の道)を損なうことができようか!」と言い、衣を振るって立ち上がった。霊太后は黙して言わなかった。時に元順の父が先帝の顧託(遺託)の功績を追論され、任城王元彝の封邑二千戸を増やし、また元彝の封邑五百戸を分けて元順を封じ、東阿県開国公とした。

元順は元徽らが自分を離間したことを憎み、遂に『蠅賦』を作って曰く、

遂に病を患って家に引き籠もり、慶弔の往来を絶った。

後に吏部尚書兼右僕射に任ぜられた。尚書省に上った時、階段を登って榻(腰掛け)に向かうと、その榻が甚だ古びているのを見て、都令史の徐仵起に尋ねた。仵起は言った、「この榻はかつて先王(任城王元澄)が座られたものです。」元順は即座に喉が詰まり、涙が流れ落ち、長く言葉が出ず、遂にこれを取り換えさせた。時に三公曹令史の朱暉は、平素より録尚書事の高陽王元雍に仕えており、元雍は彼を廷尉評にしようと、度々元順に請託したが、元順は用いなかった。元雍は遂に命令を下して彼を用いようとしたが、元順はその命令書を地に投げ捨てた。元雍はこれを聞いて大いに怒り、夜明け前に都庁に座り、尚書及び丞郎をことごとく召集し、元順が到着するのを待って、衆人の前で彼を挫こうとした。元順は日が高くなってからようやく到着した。元雍は袖をまくり上げて机を叩きながら言った、「わが身は天子の子、天子の弟、天子の叔父、天子の宰相であり、四海の内で、親族として尊い者は二つとない。元順は何者か、わが身の成した命令を、地に投げ棄てるとは!」元順は鬚と鬢を逆立て、顔を上げて屋根裏を見つめ、憤りの気が奔流し、長く嘆息して言わなかった。しばらくして、白羽扇をひと振りし、ゆっくりと元雍に言った、「高祖(孝文帝)が都を中土に遷し、九品官人法を創定され、官職の清濁を定め、その軌儀は万古にわたるものでした。ところが朱暉のような小輩が、省の吏の身でありながら、どうして廷尉の清官に相応しいことがありましょうか!殿下は先皇の同母弟であられ、成された旨に従うべきであり、自ら短い垣根を設けながら、またそれを乗り越えるようなことをなさるのです。」元雍は言った、「わが身が丞相・録尚書事であるのに、どうして一人の官を用いることができないのか。」元順は言った、「料理人はたとえ料理をしなくとも、尸祝(祭主)は越えて樽俎(祭器)の代わりをすることはできません。別の旨があって殿下に選事に参与せよと命じたとは聞いておりません。」元順はまた声を はげ しくして言った、「殿下が必ずこのようにされるなら、元順は事に依って奏上いたします!」元雍は遂に笑って言った、「どうして朱暉のような小人のために、互いに恨みを抱くことができようか。」そして立ち上がり、元順を室に呼び入れ、彼と大いに酒を飲んだ。元順の剛直で屈しない様は、皆このようなものであった。

後に征南将軍・右光禄大夫に任ぜられ、転じて左僕射を兼ねた。尓朱栄が孝荘帝を奉じた時、百官をことごとく河陰に召し寄せたが、平素より元順が数々諫諍したことを聞き、その忠直さを惜しみ、朱瑞に言った、「元僕射に伝えるがよい、ただ省におればよく、来るには及ばない、と。」元順はその意図を理解せず、士大夫が害されたと聞き、遂に逃げ出し、陵戸の鮮于康奴に害された。家には壁ばかりが立ち並び、屍を収める物もなく、ただ数千巻の書物があるのみであった。門下通事令史の王才達が衣を裂いてこれを覆った。孝荘帝が宮中に還ると、黄門侍郎の山偉を遣わして京邑を巡行させ慰諭した。山偉は元順の喪に臨み、悲しみ慟哭してやまなかった。帰還後、孝荘帝は怪しんで尋ねた、「黄門侍郎はなぜ声がかすれているのか。」山偉が状況を答えた。孝荘帝は侍中の元祉に勅して言った、「宗室の喪亡は一つではなく、全てを周り行き渡らせることはできない。元僕射の清苦な節操は、死してますます顕わになった。特に絹百匹を贈り、他の者はこの例に倣わせないように。」驃騎大将軍・ 尚書令 しょうしょれい 司徒 しと 公・定州刺史を追贈し、諡して文烈といった。元順は『帝録』二十巻を撰し、詩賦表頌数十篇を作ったが、今は多く散逸している。

長子の元朗は、時に十七歳であった。戈を枕にして数年潜伏し、遂に自ら康奴を手刃し、その首を元順の墓に供えて祭り、その後、宮闕に赴いて罪を請うた。朝廷はこれを嘉して問わなかった。元朗は書記の職を歴任し、 司徒 しと 属となった。天平年間、奴僕に害された。 都督 ととく 瀛冀二州諸軍事・□□将軍・尚書右僕射・冀州刺史を追贈された。

元順の弟に元淑、元淑の弟に元悲がおり、共に早世した。

元悲の弟に元紀、字は子綱。永熙年間、給事黄門侍郎。出帝に従い、関中で没した。

元澄の弟 元嵩

元澄の弟の元嵩、字は道岳。高祖(孝文帝)の時、中大夫から員外常侍に遷り、転じて歩兵 校尉 こうい となった。大司馬・安定王元休が薨じ、卒哭(百日祭)に及ばないうちに、元嵩は遊猟に出た。高祖はこれを聞いて大いに怒り、詔して曰く、「元嵩は己に克ち礼に復することを能わず、典憲(法度)を心に企てない。大司馬が薨じたばかりなのに、早くも鷹や鷂で自ら楽しむ。父を失う痛みがありながら、猶子(甥)としての情けが無く、心を棄て礼を損なうこと、何と甚だ速やかなことか!直ちに免官とするがよい。」後に沔北平定に従い、累ねて戦功があり、左中郎将兼武衛将軍に任ぜられた。

高祖が南伐した時、蕭宝巻の将軍陳顕達が軍勢を率いて防戦した。元嵩は自ら三種の武器を備え、冑を脱いでまっしぐらに進み、将士がこれに従ったので、顕達は敗走し、斬首捕虜は万を数えた。元嵩はこの日の勇猛は三軍に冠たるものであった。高祖は大いに喜んで言った、「任城康王は大いに福徳があり、文武の才が にわか にその門から出た。」功績により高平県侯の爵位を賜り、帛二千五百匹を賜った。

初め、高祖が洛陽を発つ時、馮皇后は罪により宮中に幽閉されていた。顕達を平定した後、帰還して穀唐原に駐屯した時、高祖の病は重くなり、皇后に死を賜ろうとして言った、「使者を得るのは容易ではない。」任城王元澄を顧みて言った、「任城王は必ずや我に背かず、元嵩もまた任城王に背かないであろう。元嵩を使うがよい。」そこで元嵩を内に引き入れ、自ら詔してこれを遣わした。

世宗(宣武帝)が即位すると、武衛将軍兼侍中とし、出して平南将軍・荊州刺史とした。元嵩は上表して曰く、「蕭宝巻は骨肉相い傷つけ、忠良の臣を先ず戮し、臣下は騒然として、離反しない者はなく、君臣は心を携えず、干戈は日々繰り返されております。流聞するところでは、宝巻の雍州刺史蕭衍の兄の蕭懿が建業で兵を阻み、宝巻と相対峙しており、荊州・郢州の二刺史は共に宝巻の弟であり、必ずや蕭衍を図る志があるでしょう。臣がもし書を遣わして意を通じ、その本謀(本来の計画)を迎え入れ、同心を得て、力を合わせて蕭衍を除くことができれば幸いです。蕭衍を平定した後、彼らは必ずや軍を返して丹陽の救援に向かい、もはや国境を経営し、襄沔を全うして固めることはできないでしょう。臣の軍威が既に臨んで占拠すれば、沔南の地は一挙に収めることができます。漢水に沿って兵を輝かせ、威徳を示し、有道の者に帰順を思う者があれば引き入れて受け入れ、疑いを受けて危険を告げる者があれば援け接応します。兵を総べ鋭気を蓄え、隙を観て機を伺い、もしその零落の形が既に顕わになり、怠懈の勢いが既に著しくなれば、すなわち流れに順って鋒を摧き、長駆して席捲することができます。」詔して曰く、「陳べる嘉謀は、深く良計である。もし機形に当たり進むべき時節があれば、将軍の裁量に任せる。」既にして蕭衍が間もなく建業を攻克したので、この計画は止んだ。平北将軍・恒州刺史に任ぜられ、転じて平東将軍・徐州刺史となった。また転じて安南将軍・揚州刺史となった。

蕭衍の湘州刺史楊公則は二万の兵を率いて洛口に軍を駐屯させ、姜慶真は五千の兵卒を領して首陂を占拠し、またその左軍将軍騫小眼、軍主何天祚・張俊興らに七千の兵を率いさせて陸城を攻囲させた。嵩はそこで統軍封邁・王会らに歩騎八千を率いてこれを討たせた。邁が陸城に到着すると、賊は皆夜中に逃げ去り、追撃してこれを破り、数千を斬り捕らえた。公則・慶真は馬頭に退却した。衍の徐州刺史昌義之は高皇に屯して占拠し、三軍を遣わして陰陵を密かに侵し、淮水が浅く枯れて船艦が通じないため、馬頭に屯した。衍の将田道龍・何景先らは三千の兵卒を率いて既に衡山に至り、陸城を侵そうと図った。賊は一斉に迫った。嵩は兼統軍李叔仁らを遣わして合肥・小峴・楊石を救援させ、頻りに戦ってこれを破った。衍の征虜将軍趙草は黄口に屯した。嵩は軍司趙熾らを遣わしてこれを討たせ、先に統軍安伯醜に密かに軍を率いて夜中に渡河させ、下蔡に伏兵を置いた。草は四千の兵卒を率いて逆らい来て防戦したが、伯醜は下蔡の戍主王虎らと前後から挟撃し、これを大いに破り、捕虜・斬首・溺死者は四千余人に及んだ。統軍李叔仁らは夜中に硤石の賊を襲撃し、またこれを破った。衍の将姜慶真は専ら肥汭を占拠し、冠軍将軍曹天宝は鷄口に屯し、軍主尹明世は東硤石に屯した。嵩は別将羊引を遣わして淮西に駐屯させ、賊の営から十里の地点とし、司馬趙熾に一万の兵を率いさせて内外に呼応する勢いを示させた。諸軍が既に集結すると、賊の四つの塁を分かれて攻撃した。四塁の賊は戦いに敗れて逃走し、数千を斬り捕らえ、溺死者は万を数えた。統軍牛敬賓が硤石を攻撃すると、明世は夜中に逃げ去った。慶真は残った兵を集めて淮水を下り、下蔡の戍主王略が流れを遮ってこれを撃ち、大半を捕虜・斬首した。ここにおいて威名は大いに振るった。

後に蒼頭の李太伯らが共謀して嵩を害し、妻の穆氏及び子の世賢も共に殺害した。世宗は東堂において嵩のために哀悼の礼を挙げ、絹一千匹を贈り、車騎将軍・領軍を追贈し、諡して剛侯といった。

第二子の世儁は、頗る才幹があり用いられたが、品行はなかった。爵を襲い、給事中・東宮舎人に任ぜられた。伯父の澄が上表して階位を転じてこれを授けるよう求めたため、ここにおいて員外 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられた。粛宗の時、嵩の勲功を追論し、世儁を衛県開国男に封じ、食邑二百戸を与えた。冠軍将軍・宗正少卿に遷り、また 散騎常侍 さんきじょうじ ・安南将軍・武衛将軍・河南尹となった。まもなく鎮東将軍・青州刺史に任ぜられ、征東将軍に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。邢杲の乱の時、州城を包囲して逼迫したが、世儁は城に拠って防ぎ守り、遂に保全を得た。孝荘の時、衛将軍・吏部尚書に任ぜられた。尒朱兆が京師を侵した時、詔により世儁は本官のまま 都督 ととく とされ、河橋を防守した。兆が河に至ると、世儁は初め防ぎ守る意志がなく、ただちに対岸から遙かに拝礼したため、当時の論者はこれを憎んだ。前廃帝の世、驃騎将軍となり、なお尚書を加えられ、特に尒朱世隆に親しまれた。出帝の初め、儀同三司を加えられ、武陽県開国子に改封され、食邑五百戸を与えられた。世儁は選曹(吏部)に在って、心を励ますことができず、多くを受け取り収め、中尉に弾劾糾挙され、官を免ぜられた罪に坐した。まもなく本来の職務に復した。孝静の初め、侍中・尚書右僕射を加えられ、 尚書令 しょうしょれい に遷った。世儁は軽薄で、去就を好み、詔により晋陽に送られた。興和年間に薨去した。侍中・ 都督 ととく 冀定瀛殷四州諸軍事・驃騎大将軍・太傅・定州刺史を追贈され、 尚書令 しょうしょれい ・開国公はもとの通りとされ、諡して躁戾といった。子の景遠が襲封し、散騎侍郎となった。

世賢の弟の世哲は、武定年間に吏部郎となった。

嵩の弟の贍は、字を道周という。高祖の時、□大夫から次第に宗正少卿・龍驤将軍・光州刺史・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・左将軍に遷り、平東将軍・兗州刺史に遷った。頗る書史を愛好したが、貪暴で殺戮を好んだ。澄は深くこれを恥じ憤り、彼との往来を絶った。四人の子があった。長子の遠は尚書郎となった。

【論】

史臣が曰く、顕祖が禅譲を行わんとしたことは、まさに国の大節というべきである。康王が毅然として朝廷で諫め、その徳の言葉は甚だ明らかであり、一言で国を興すとは、まさにこのことを言うのであろうか。文宣は貞固で俊遠、盛んに宗族の傑出者となり、身は累朝に仕えて、艱難を安んじ救い、既に社稷を任とし、それは梁棟としての声望である。順は謇諤で俶儻、汲黯の風があり、時に用いられず、横に非命を招き、惜しいことである。嵩には行陣の気概があり、儁は冠を裂く(君主に背く)徒輩であろうか。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻19中