魏書

卷19下 景穆十二王下

卷19下 景穆十二王下

南安恵王元楨

原文南安惠王楨

南安王元楨は、皇興二年に封ぜられ、征南大将軍・中都大官を加えられ、まもなく内都大官に転じた。高祖が即位すると、涼州鎮都大将に任ぜられた。まもなく綏撫に能力ありとして、都督西戎諸軍事・征西大将軍・領護西域校尉・儀同三司・涼州刺史を加えられた。召されて内都大官となり、出仕して使持節・侍中・本将軍・開府・長安鎮都大将・雍州刺史となった。元楨は忠実で慎み深い性格であり、母に仕える孝行で知られ、これを褒めて帛千匹を賜った。

原文南安王楨,皇興二年封,加征南大將軍、中都大官,尋遷內都大官。高祖即位,除涼州鎮都大將。尋以綏撫有能,加都督西戎諸軍事、征西大將軍、領護西域校尉、儀同三司、涼州刺史。徵為內都大官,出為使持節、侍中、本將軍、開府、長安鎮都大將、雍州刺史。楨性忠謹,事母以孝聞,賜帛千匹以褒之。

講武に赴くよう召され、高祖は皇信堂で引見し、戒めて言った。「翁の孝行は私庭において顕著であり、善い評判は国中に知れ渡っている。常にその忠誠と美徳を敬い、一言会って心を開きたいと思っていたので、講武に因み、遠くから宮廷に召し出した。仁慈を仰ぎ慕う気持ちは、まだ尽きてはいない。しかし長安鎮は凶作で民は貧しく、理として綏撫が必要であり、長く留まることは許されない。翁は今州に戻るが、民の苦しみを労り慈しむことに努め、境内に飢えた民を出さぬようにせよ。翁は既に国の懿親であるから、貧賤の憂いは終にない。慎むべきことは、およそ三つある。一つは、親族であることを恃んで驕り高ぶり、礼に背き分を越えること。二つは、傲慢で貪欲・奢侈に走り、政事を顧みないこと。三つは、酒を飲み遊びふけり、交友を選ばないこと。この三つを除かねば、禍いが生じるであろう。ただこのことを慎めば、身を全うし害を遠ざけ、国を輝かせ家を栄えさせ、終始を全うする徳が成るのである。」しかし元楨はこれに従わず、後に財貨を収奪し欲望のままに振る舞った。文明太后と高祖は共に皇信堂に臨み、王公を引見した。太后が命じて言った。「汝陰王元天賜と南安王元楨は法度に従わず、汚職して財貨を収奪した。犯した罪により処罰すれば、不測の事態に至るであろう。卿らは親族を存続させて法令を毀るべきか、それとも親族を滅ぼして法を明らかにすべきか。」群臣は皆、二王は先帝の御子であるから、哀れみ許されるべきだと述べた。太后は答えなかった。高祖は詔して言った。「南安王元楨は懿戚としての貴き身でありながら、関右の鎮守を任じられ、己を清くして公に奉ずることができず、皇度の宣揚を助けず、かえって貪欲をほしいままにし、私庭に財貨を殖やし、姦悪な囚人を放縦し、訴訟を遮断し、諸々の使者に賄賂を贈り、虚偽の称賛を求めた。これらの行状は、いずれも刑書に触れるものである。昔、魏の武帝は自らの髪を切って軍の規律を整え、叔向は弟を誅して法を明らかにした。己を制し親族を忍び、天下の模範となったのである。どうして本心からそうしたわけではなかったが、為すべきことがあったからこそ然るのである。今犯した罪は、過去の事例よりも重く、古えの刑罰を推し量れば、実に許し難い。皇太后は天のごとき慈愛に満ち寛大で篤く、国属を哀れみ恩赦される。たびたび高宗(文成帝)が兄弟を懐かしむ近しい情を思い起こされ、言葉を発するにも詰まり、胸に悲しみ慟哭される。また、南安王の孝養の名声が内外に聞こえていることから、特に一度だけ原宥し、封爵を削除して庶人とし邸宅に帰らせ、終身禁錮とする。」

原文徵赴講武,高祖引見於皇信堂,戒之曰:「翁孝行著於私庭,令問彰於邦國,每欽忠懿,思一言展,故因講武,遠徵赴闕。仰戀仁慈,情在未已。但長安鎮年飢民儉,理須綏撫,不容久留,翁今還州,其勤隱恤,無令境內有飢餒之民。翁既國之懿親,終無貧賤之慮。所宜慎者,略有三事:一者,恃親驕矜,違禮僭度;二者,傲慢貪奢,不恤政事;三者,飲酒遊逸,不擇交友。三者不去,患禍將生,但能慎此,足以全身遠害,光國榮家,終始之德成矣。」而楨不能遵奉,後乃聚斂肆情。文明太后、高祖並臨皇信堂,引見王公,太后令曰:「汝陰王天賜、南安王楨不順法度,黷貨聚斂,依犯論坐,將至不測。卿等為當存親以毀令,為欲滅親以明法?」羣臣咸以二王託體先皇,宜蒙矜恕。太后不答。高祖乃詔曰:「南安王楨以懿戚之貴,作鎮關右,不能潔己奉公,助宣皇度,方肆貪欲,殖貨私庭,放縱姦囚,壅絕訴訟,貨遺諸使,邀求虛稱,二三之狀,皆犯刑書。昔魏武翦髮以齊眾,叔向戮弟以明法,克己忍親,以率天下。夫豈不懷,有為而然耳。今者所犯,事重疇日,循古推刑,實在難恕。皇太后天慈寬篤,恩矜國屬,每一尋惟高宗孔懷之近,發言哽塞,悲慟于懷;且以南安王孝養之名,聞於內外;特一原恕,削除封爵,以庶人歸第,禁錮終身。」

後に高祖が南征した時、元楨は従って洛陽に至り、遷都の議に際しては、いち早く大計に従ったので、高祖は大いに喜んだ。元楨の母の劉太妃が薨去すると、高祖は自ら臨んで慰めた。葬儀の際には、布帛・綵五百段を贈った。また元楨が遷都を議定した功により、再び南安王に封ぜられ、食邑一千戸を与えられた。出仕して鎮北大将軍・相州刺史となった。高祖は華林都亭で元楨の餞別を行った。詔して言った。「従祖である南安王が、任地に赴くことになり、千里も隔たってしまうことを予め思い、惘然とした別れを惜しむ。しかし今日の集いは、別れとは言え、実は曲宴であり、共に詩を賦して意を述べることができる。射る者はその徳を見ることができ、詩を賦することができない者は、射ることを聴いてよい。武士には弓を引き絞らせ、文人には筆を執らせよ。」高祖は元楨を階下まで見送り、涙を流して別れた。

原文後高祖南伐,楨從至洛,及議遷都,首從大計,高祖甚悅。楨母劉太妃薨,高祖親幸臨慰。及葬,贈布帛綵五百段。又以楨議定遷都,復封南安王,食邑一千戶。出為鎮北大將軍、相州刺史。高祖餞楨於華林都亭。詔曰:「從祖南安,既之蕃任,將曠違千里,豫懷惘戀。然今者之集,雖曰分歧,實為曲宴,並可賦詩申意。射者可以觀德,不能賦詩者,可聽射也。當使武士彎弓,文人下筆。」高祖送楨於階下,流涕而別。

太和二十年五月に鄴に到着し、政務を始めた日、暴風雨があり、凍死者が十数人出た。元楨はまた旱魃のため諸神に雨乞いをした。鄴城には石虎の廟があり、人々が祀っていた。元楨は虎の神像に告げて言った。「三日以内に雨が降らなければ、鞭打ちの罰を加える。」雨乞いが効験なく、遂に像を百回鞭打った。この月、背中に癰ができて薨去した。諡して恵と言い、帛一千匹を贈られ、葬儀の際にはまた帛千匹を賜り、黄門郎が喪事を監護した。恒州刺史穆泰が謀反を企てた時、元楨は知りながら告げず、薨去後であっても、なお爵位と封土を追奪され、封国は除かれた。五人の子があった。

原文太和二十年五月至鄴,入治日,暴風大雨,凍死者十數人。楨又以旱祈雨于羣神。鄴城有石虎廟,人奉祀之。楨告虎神像云:「三日不雨,當加鞭罰。」請雨不驗,遂鞭像一百。是月疽發背,薨。諡曰惠,贈帛一千匹,及葬,又賜帛千匹,遣黃門郎監護喪事。及恒州刺史穆泰謀反,楨知而不告,雖薨,猶追奪爵封,國除。有五子。

中山献武王元英

原文中山獻武王英

子の元英、字は虎児。性質は聡明で機敏、博聞強記であり、弓馬に巧みで、笛を吹くことを解し、わずかに医術を心得ていた。高祖の時、平北将軍・武川鎮都大将・仮の魏公となった。まもなく都督梁益寧三州諸軍事・安南将軍・領護西戎校尉・仇池鎮都大将・梁州刺史に転じた。

原文子英,字虎兒。性識聰敏,博聞強記,便弓馬,解吹笛,微曉醫術。高祖時,為平北將軍、武川鎮都大將、假魏公。未幾,遷都督梁益寧三州諸軍事、安南將軍、領護西戎校尉、仇池鎮都大將、梁州刺史。

高祖が南征した時、梁漢別道都将となった。後に大駕が鍾離に臨むと、詔により元英は賊の侵攻に備えて境上に軍を率いた。元英は大駕が親征され、その勢いが東南を傾けると、漢中に乗ずべき機会ありとして、上表して進討を求め、高祖はこれを許した。軍は沮水に駐屯した。蕭鸞の将軍蕭懿が、部将の尹紹祖・梁季羣らに兵二万を率いさせ、山に沿って柵を築き、数か所に分かれ、高みに立って下方を見下ろし、川を隔てて陣営を構えさせた。元英は謀って言った。「彼らの将帥は身分が低く民は侮り、互いに服従することができず、兵は多いが統率者がなく、何に従うべきか知らない。もし精兵を選び、一つの陣営を集中攻撃すれば、彼らは互いに救援せず、我らが必ず勝利するであろう。もし一軍を撃破すれば、他の四つの陣営は自ずから敗走する。」そこで兵を選び三面から駆け登らせたところ、果たして互いに救援しなかった。一か所を破ると、四つの陣営は共に潰走し、梁季羣を生け捕りにし、三千余の首級を斬り、七百人を捕虜とした。蕭鸞の白馬戍の将はその夜に逃げ潰れた。乗勝して長駆し、南鄭に迫らんとしたので、漢川の民は神の如しと思い、相次いで帰順した。

原文高祖南伐,為梁漢別道都將。後大駕臨鍾離,詔英率眾備寇境上。英以大駕親動,勢傾東南,漢中有可乘之會,表求進討,高祖許之。師次沮水,蕭鸞將蕭懿遣將尹紹祖、梁季羣等領眾二萬,徼山立柵,分為數處,居高視下,隔水為營。英乃謀曰:「彼帥賤民慢,莫能相服,眾而無上,罔知適從。若選精卒,并攻一營,彼不相救,我克必矣。若克一軍,四營自拔。」於是簡兵三面騰上,果不相救。既破一處,四營俱潰,生擒梁季羣,斬三千餘級,俘七百人。鸞白馬戍將其夜逃潰。乘勝長驅,將逼南鄭,漢川之民,以為神也,相率歸附。

梁州の民の李天幹らが元英のもとに降伏を請うたので、国士の礼をもって待遇した。天幹らの家は南鄭の西にあり、軍を派遣して迎えを請うたので、元英は迎えの兵を派遣した。蕭懿はこれを聞き、部将の姜脩に兵を率いさせ追撃させた。夜に至って交戦し、かなりの死傷者が出た。姜脩は後にたびたび敗れ、さらに軍勢を請うた。蕭懿は兵を派遣してこれに赴かせたので、迎えの兵は危急を告げた。元英は騎兵一千を率い、道を倍して救援に赴いた。到着する前に、賊は既に退却していた。元英は賊が城に入るのを恐れ、別に統軍の元抜を派遣してその背後につかせ、元英はその前方を遮り、挟撃して、その兵をことごとく捕虜とした。蕭懿が続けて軍を派遣すると、元英は賊の到来を予期せず、かつ軍の力は既に疲弊し、兵は少なく人々は恐れ、皆逃げ出そうとした。元英はゆっくりと馬を進め、神色自若として、高みに登って賊を望み、東西に指麾し、あたかも処分を下すかのような様子を見せ、それから隊列を整えて前進した。賊は伏兵があると思った。間もなく賊は退き、その勢いに乗って追撃殲滅し、遂に南鄭を包囲した。三軍に禁令を出し、少しも犯すことなく、遠近の民は皆租税の輸送を供した。

原文梁州民李天幹等詣英降,待以國士之禮。天幹等家在南鄭之西,請師迎接,英遣迎之。蕭懿聞而遣將姜脩率眾追襲,逮夜交戰,頗有殺傷。脩後屢敗,復更請軍。懿遣眾赴之,迎者告急。英率騎一千,倍道赴救。未至,賊已退還。英恐其入城,別遣統軍元拔以隨其後,英徼其前,合擊之,盡俘其眾。懿續遣軍,英不虞賊至,且眾力已疲,軍少人懼,咸欲奔走。英乃緩騎徐行,神色自若,登高望賊,東西指麾,狀似處分,然後整列而前。賊謂有伏兵。俄然賊退,乘勢追殄,遂圍南鄭。禁止三軍,一無所犯,遠近皆供租運。

先に、元英が到着する前に、蕭懿は軍主の范潔に三千余りの兵を率いさせて獠を討伐させていた。范潔は大軍が城を包囲したと聞き、戻って救援しようとした。元英は統軍の李平敵・李鉄騎らに命じ、巴西・晋寿の土着の民を集結させ、その退路を断たせた。范潔は死を決して戦い、遂に平敵の軍を破った。元英は彼らがやや近づくのを待ち、奇兵をもって襲撃し、ことごとく捕虜とした。攻囲すること九十余日、戦えば必ず勝利した。勅命により帰還することとなった。元英はそこでまず老弱者を先発させ、自らは精兵を率いて後衛となり、使者を遣わして蕭懿に別れを告げた。蕭懿はこれを欺瞞と思い、元英が帰還して一日経っても、なお城門を開かなかった。二日後になって、蕭懿はようやく将を派遣して元英を追撃させた。元英は自ら殿軍となり、士卒と共に下馬して交戦し、賊の兵は敢えて近づく者はいなかった。四日四夜の後、賊は退き、全軍は無事に帰還した。山の氐族が一斉に反乱し、元英の帰路を断った。元英は兵を率いて奮撃し、戦いながら進み、流れ矢に当たったが、兵士たちは誰も知る者はなかった。功により安南大将軍に転じ、広武伯の爵位を賜った。仇池において六年間、大いに威厳と恩恵の名声があった。父の喪に服し、任を解かれた。

原文先是,英未至也,蕭懿遣軍主范潔領三千餘人伐獠。潔聞大軍圍城,欲還救援。英遣統軍李平敵、李鐵騎等收合巴西、晉壽土人,以斷其路。潔以死決戰,遂敗平敵之軍。英候其稍近,以奇兵掩之,盡皆擒獲。攻圍九十餘日,戰無不克。被敕班師。英於是先遣老弱,身勒精卒留後,遣使與懿告別。懿以為詐也,英還一日,猶閉門不開。二日之後,懿乃遣將追英。英親自殿後,與士卒下馬交戰,賊眾莫敢逼之。四日四夜,然後賊退,全軍而還。會山氐並反,斷英歸路。英勒眾奮擊,且戰且行,為流矢所中,軍人莫有知者。以功遷安南大將軍,賜爵廣武伯。在仇池六載,甚有威惠之稱。父憂,解任。

高祖(孝文帝)が漢陽を討伐した際、元英を左衛将軍に任じ、前将軍を加え、まもなく大宗正に転じ、さらに尚書に転任させ、もとの将軍のまま荊州を鎮守させた。蕭宝巻の将軍陳顕達らが荊州を侵すと、元英は連戦して敗北した。車駕(皇帝)が南陽に至ると、元英の官爵を免じた。世宗(宣武帝)が即位すると、徐州を管轄し、後に尚書・広武伯に復帰した。蕭宝巻が将軍陳伯之を派遣して淮南を侵すと、司徒・彭城王元勰が寿春を鎮守し、元英を鎮南将軍として軍勢を率いて討伐させた。元英が到着する前に、賊はすでに退却していた。元勰が帰還すると、詔により元英が揚州を管轄した。

原文高祖討漢陽,起英為左衞將軍,加前將軍,尋遷大宗正,又轉尚書,仍本將軍,鎮荊州。蕭寶卷將陳顯達等寇荊州,英連戰失利。車駕至南陽,免英官爵。世宗即位,行徐州,還復尚書、廣武伯。蕭寶卷遣將軍陳伯之寇淮南,司徒、彭城王勰鎮壽春,以英為鎮南將軍,率眾討之。英未至,賊已引退。勰還,詔英行揚州。

後に元英が京師に帰還し、上表して言うには、「臣は聞く、乱を取って亡びるを悔いるは、国を有つ者の常道なり。師を陳ね旅を鞠(つく)すは、機に因りて発するを致すと。窃かに思うに、区区たる宝巻は、天常を顧みず、山河に憑り恃み、敢えて中国に抗う。今、妖逆は数え亡び、驕縱は日を追って甚だしく、五行を威侮し、三正を怠棄し、淫刑を以て逞しゅうし、無辜を虐害す。その雍州刺史蕭衍は東伐して秣陵を征し、土を掃い兵を興し、流れに順って下り、孤城あるのみで、重なる衛り無し。これ則ち皇天我に授くるの日、曠載一逢の秋、事は走丸の如く易く、理は芥を拾うに同じ。此れに乗ぜずして、将に何をか待たんとする。臣は躬を率い歩騎三万を乞い、直ちに沔陰を指し、襄陽の城に拠り、黒水の路を断たん。昏虐の君臣は自ら魚肉す。我れ上流に居り、威は遐邇に震い、長駆して南に出で、進みて江陵を抜かん。その路既に近く、五百を盈たず、則ち三楚の地は一朝に収むべく、岷蜀の道は自ずから断絶せん。又た揚・徐二州に命じ、声言して俱に挙げ、江に縁って焚毀し、遺す所無からしめん。建業は窮蹙し、魚釜の内に遊ぶ。士治の師再び興り、孫皓の縛重ねて至らん。文軌を斉(ととの)えて大同し、天地を混ぜて一と為さん。伏して惟うに、陛下暫く旒纊を闢き、少しく聴覧を垂れ、独り聖心を決し、疑議を取らざらんことを。この期もし爽(たが)わば、併呑の日無からん」。事は寝て報いられず。元英はまた上奏して言う、「臣は聞く、虚に乗じて弱を討つは、事は速挙に在り。危に因りて昧を攻むるは、捷を徼(もと)むる可し。今、宝巻は常を乱し、骨肉相賊い、蕃戍は鼎立し、帰する所を知らず。義陽は孤絶し、密邇天境、外には糧援の期無く、内には兵儲の固き無し。これ乃ち焚かんとする鳥、薪を去るべからず。首を授くるの寇、何ぞ斧を緩くすを容れん。もしこの行果たし有らば、則ち江右の地はこれ経略の基と為らん。もし否やならば、直ちに後挙図り難きのみならず、また或いは安きに居りて疾を生ぜん。今、豫州刺史司馬悦は既に戒厳して邁(ゆ)かんと垂れ、而して東豫州刺史田益宗は方に三関を守らんと擬す。軍司を遣わして之が節度と為さんことを請う」。世宗は直寝羊霊引を軍司として派遣した。軍功により吏部尚書に任じ、前後の軍功により爵を進めて常山侯とした。

原文後英還京師,上表曰:「臣聞取亂悔亡,有國之常道;陳師鞠旅,因機而致發。竊以區區寶卷,罔顧天常,憑恃山河,敢抗中國。今妖逆數亡,驕縱日甚,威侮五行,怠棄三正,淫刑以逞,虐害無辜。其雍州刺史蕭衍東伐秣陵,掃土興兵,順流而下,唯有孤城,更無重衞。此則皇天授我之日,曠載一逢之秋,事易走丸,理同拾芥,此而不乘,將欲何待。臣乞躬率步騎三萬,直指沔陰,據襄陽之城,斷黑水之路。昏虐君臣,自相魚肉。我居上流,威震遐邇,長驅南出,進拔江陵。其路既近,不盈五百,則三楚之地,一朝可收,岷蜀之道,自成斷絕。又命揚徐二州,聲言俱舉,緣江焚毀,靡使所遺。建業窮蹙,魚遊釜內。士治之師再興,孫皓之縛重至,齊文軌而大同,混天地而為一。伏惟陛下暫闢旒纊,少垂聽覽,獨決聖心,無取疑議,此期脫爽,并吞未日。」事寢不報。英又奏曰:「臣聞乘虛討弱,事在速舉,因危攻昧,徼捷可期。今寶卷亂常,骨肉相賊,蕃戍鼎立,莫知所歸。義陽孤絕,密邇天境,外靡糧援之期,內無兵儲之固。此乃臨焚之鳥,不可去薪;授首之寇,何容緩斧。若此行有果,則江右之地,斯為經略之基;如脫否也,非直後舉難圖,亦或居安生疾。今豫州刺史司馬悅已戒嚴垂邁,而東豫州刺史田益宗方擬守三關,請遣軍司為之節度。」世宗遣直寢羊靈引為軍司。以軍功拜吏部尚書,以前後軍功進爵常山侯。

元英が上奏した、「謹んで学令を案ずるに、諸州郡の学生は三年に一度、通じた経書の数を校べ、正使に因ってこれを列し、然る後に使を遣わして郡に就き練考す、と。臣は伏して惟うに、聖明は道を崇え成均の風を顕わし、義を蘊(つ)み膠序の美を光らす。是を以て太学の館は久しく下国に置かれ、四門の教は方に京瀍に構えらる。習訓淹年を計り、聴受累紀す。然れども儁造の流は応に魏闕に問うべく、革めざるの輩は宜しく斉民に返すべし。郡に就きて練考せしめ、その最殿を覈(ただ)すべし。頃、皇都遷構に以て、江揚未だ一ならず、故に郷校の訓は、正試に遑(いとま)無し。致して薰蕕の質を均しく学庭に誨い、蘭蕭の体を等しく文肆に教う。今、外宰京官の銓考は向こうに訖(お)わり、四門博士にして五経に明通する者を遣わし、道別に校練せしめ、令に依りて黜陟せんことを求む」。詔して曰く、「学業墮廃すること、日の久しきに為り、一使の能く勧むるに非ず、比(近く)別に勅すべし」。

原文英奏:「謹案學令:諸州郡學生,三年一校所通經數,因正使列之,然後遣使就郡練考。臣伏惟聖明,崇道顯成均之風,蘊義光膠序之美,是以太學之館久置於下國,四門之教方構於京瀍。計習訓淹年,聽受累紀,然儁造之流應問於魏闕,不革之輩宜返於齊民,使就郡練考,覈其最殿。頃以皇都遷構,江揚未一,故鄉校之訓,弗遑正試。致使薰蕕之質,均誨學庭;蘭蕭之體,等教文肆。今外宰京官,銓考向訖,求遣四門博士明通五經者,道別校練,依令黜陟。」詔曰:「學業墮廢,為日已久,非一使能勸,比當別敕。」

まもなく詔して元英を使持節・仮鎮南将軍・都督征義陽諸軍事とし、軍勢を率いて南征させた。蕭衍の司州刺史蔡道恭は元英が来ると聞き、その驍騎将軍楊由に城外の居民三千余家を率いさせ、城の西南十里の賢首山において嶺に即き三つの柵を築き、表裏の勢いを作らせた。元英は諸軍を勒して賢首の塁を囲み、その柵門を焼いた。楊由は水牛を駆り立て、営より出で、兵を以てこれに継いだ。軍人は牛を避け、師は遂に退下した。まもなく兵を分けて囲み守った。その夜、柵の民任馬駒が楊由を斬って降伏した。三軍は館穀し、降民は安堵した。蕭衍はその平西将軍曹景宗・後将軍王僧炳らに歩騎三万を率いさせて義陽を救援させた。王僧炳は衆二万を統べて鑿峴を占拠し、曹景宗は一万を率いて後に続いた。元英は冠軍将軍元逞・揚烈将軍曹文敬を派遣し、樊城を進んで占拠させてこれに抗した。元英は将士を部勒し、掎角してこれを討ち、王僧炳軍を大破し、四千余人を俘斬した。元英はまた士雅山に塁を結び、曹景宗と相抗し、諸統を分遣して四山に伏せ、弱きを示した。蕭衍の将軍馬仙琕は衆一万余を率い、来たりて元英の営を掩おうとした。元英は諸軍に命じて偽りに敗北しこれを誘い、既に平地に至ると、統軍傅永ら三軍がこれを撃ち、賊は奔退した。進撃してこれを潰し、二千三百級を斬首し、賊の羽林監軍鄧終年を斬った。馬仙琕はまた一万余人を率い、重ねて決戦を挑んだ。元英は諸将を勒し、便に随い分撃し、またこれを破り、さらに賊将陳秀之を斬った。統軍王買奴は別に東嶺の陣を破り、五百を斬首した。蔡道恭は憂死し、驍騎将軍・行州事蔡霊恩はまた窮城に憑り、短兵日に接した。曹景宗・馬仙琕は城が将に抜かんとするを知り、鋭を尽くして決戦し、一日に三度交戦したが、皆大敗して返った。蔡霊恩は勢い窘まり、遂に降伏した。三関の戍はこれを聞き、また城を棄てて走った。詔して曰く、「賊城已に下り、また三関を克したるを知る。威を展べ境を闢き、声略宣振し、公私称泰す。良に欣然たり。将軍淵規内に断じ、忠謨外に挙げ、律を受け旌を揚げ、克く廟算を申す。方叔の蛮荊を制し、邵虎の淮浦を掃うも、これに匹するは蔑如たり。新州初めて附く、宜しく経略を広くすべし。善く検督を加え、必ず周固ならしめ、委付する所有りて、然る後に凱旋せんことを想う」。初め、高祖が漢陽を平定した際、元英に戦功有り、その封を復することを許したが、かえって陳顕達に敗れ、遂に寝ていた。この役に、世宗は大いに悦び、乃ちこれを復し、中山王に改封し、食邑一千戸とし、大使・鴻臚少卿睦延吉を使持節として派遣し就いて拝せしめた。元英は蔡霊恩および蕭衍の尚書郎蔡僧勰・前軍将軍・義陽太守馮道要、游撃将軍鮑懐慎、天門太守王承伯、平北府司馬宗象、平北府諮議参軍伏粲、給事中・寧朔将軍蔡道基、中兵参軍龐脩ら数十人を送った。詔して曰く、「江南を平らぐるに会えば、此等便ち放帰すべし」。元英が既に帰還すると、世宗は引見し、深く嘉し労い、後に封を増して一千戸とした。

原文尋詔英使持節、假鎮南將軍、都督征義陽諸軍事,率眾南討。蕭衍司州刺史蔡道恭聞英將至,遣其驍騎將軍楊由率城外居民三千餘家,於城西南十里賢首山即嶺為三柵,作表裏之勢。英勒諸軍圍賢首壘,焚其柵門。楊由乃驅水牛,從營而出,繼之以兵。軍人避牛,師遂退下。尋分兵圍守。其夜,柵民任馬駒斬由以降。三軍館穀,降民安堵。蕭衍遣其平西將軍曹景宗、後將軍王僧炳等率步騎三萬來救義陽。僧炳統眾二萬據鑿峴,景宗率一萬繼後。英遣冠軍將軍元逞、揚烈將軍曹文敬進據樊城以抗之。英部勒將士,掎角討之,大破僧炳軍,俘斬四千餘人。英又於士雅山結壘,與景宗相抗,分遣諸統,伏於四山,示之以弱。衍將馬仙琕率眾萬餘,來掩英營。英命諸軍偽北誘之,既至平地,統軍傅永等三軍擊之,賊便奔退。進擊潰之,斬首二千三百級,斬賊羽林監軍鄧終年。仙琕又率一萬餘人,重來決戰。英勒諸將,隨便分擊,又破之,復斬賊將陳秀之。統軍王買奴別破東嶺之陣,斬首五百。道恭憂死,驍騎將軍、行州事蔡靈恩復憑窮城,短兵日接。景宗、仙琕知城將拔,盡銳決戰,一日三交,皆大敗而返。靈恩勢窘,遂降。三關戍聞之,亦棄城而走。詔曰:「知賊城已下,復克三關,展威闢境,聲略宣振,公私稱泰,良以欣然。將軍淵規內斷,忠謨外舉,受律揚旌,克申廟算,雖方叔之制蠻荊,邵虎之掃淮浦,匹茲蔑如也。新州初附,宜廣經略,想善加檢督,必令周固,有所委付,然後凱旋耳。」初,高祖之平漢陽,英有戰功,許復其封,反為顯達所敗,遂寢。是役也,世宗大悅,乃復之,改封中山王,食邑一千戶,遣大使、鴻臚少卿睦延吉持節就拜。英送蔡靈恩及衍尚書郎蔡僧勰、前軍將軍、義陽太守馮道要,游擊將軍鮑懷慎,天門太守王承伯,平北府司馬宗象,平北府諮議參軍伏粲,給事中、寧朔將軍蔡道基,中兵參軍龐脩等數十人。詔曰:「會平江南,此等便可放歸也。」英既還,世宗引見,深嘉勞之,後增封一千戶。

蕭衍が将軍を派遣して肥梁を寇掠すると、詔により元英は使持節を拝命し、散騎常侍・征南将軍を加えられ、揚徐二道諸軍事を都督し、十万の兵を率いてこれを討ち、所在においては皆便宜を以て事に従うことを許された。詔は元英に曰く、「賊の勢いはますます甚だしく、肥梁を囲み逼り、辺境の将軍が後手に回り、ここに至った。故にこの挙兵あり、必ず勝捷を期すべきところ、出軍が滞り、肥梁は既に陥落した。これを聞きて惋懣、実に本図に乖く。今、諸軍雲集し、十五万に及ぶ。進取の方略、その算は何に在るか?殄滅する期、また遠近如何?果たして幾日で賊の地に至り得るか?必勝の規、何を以て先とすべきか?故に歩兵校尉・領中書舎人王雲を遣わし、機要を指取せしむ。」元英は表を上って事機を陳述した。かくて陰陵を撃破し、蕭衍の将二十五人を斬り、虜首五千余級を獲た。また梁城において賊軍を頻りに破り、その支将四十二人を斬り、殺獲及び溺死者は五万に及んだ。蕭衍の中軍大将軍・臨川王蕭宏、尚書右僕射柳惔ら大将五人らは淮に沿って南へ逃走し、凡そ米三十万石を収めた。詔して元英を労うに曰く、「大いに鯨寇を摧き、威南海に振い、江浦に塵無く、三楚は壒を巻き、声は荒隅に被わり、同軌これ始まることを知る。公私慶慰、まことに朕が懐に副う。便ち当に威に乗り響に藉り、長駆して呉会に至り、遺燼を翦拉し、彼の東南を截つべし。」

原文蕭衍遣將軍寇肥梁,詔英使持節,加散騎常侍、征南將軍、都督揚徐二道諸軍事,率眾十萬討之,所在皆以便宜從事。詔英曰:「賊勢滋甚,圍逼肥梁,邊將後規,以至於此。故有斯舉,必期勝捷,而出軍淹滯,肥梁已陷。聞之惋懣,實乖本圖。今眾軍雲集,十有五萬,進取之方,其算安在?克殄之期,復當遠近?竟以幾日可至賊?所必勝之規,何者為先?故遣步兵校尉、領中書舍人王雲指取機要。」英表陳事機。乃擊破陰陵,斬衍將二十五人及虜首五千餘級。又頻破賊軍於梁城,斬其支將四十二人,殺獲及溺死者將五萬。衍中軍大將軍、臨川王蕭宏,尚書右僕射柳惔等大將五人沿淮南走,凡收米三十萬石。詔勞英曰:「知大摧鯨寇,威振南海,江浦無塵,三楚卷壒,聲被荒隅,同軌斯始,公私慶慰,良副朕懷。便當乘威藉響,長驅吳會,翦拉遺燼,截彼東南也。」

元英は馬頭まで追撃し、蕭衍の馬頭戍主は城を棄てて遁走した。かくて鍾離を包囲した。詔して曰く、「師行已久しく、士馬疲瘠え、賊城は険固にして、卒に攻屠し難し。冬春の交、稍々勝便に非ず。十万の衆、日費貲すべからず。方に後挙を図り、今事を待たず。且つ密かに装いを整え徐々に厳にし、振旅の意と為し、疆を整え土を完うし、威略を示すべし。左右の蛮楚は、素より逃亡に応じ、或いは山湖に竄れ、或いは制掠し難し。若し凶渠黠党、翦除すべき有らば、便ち撲掃して以て疆界を清むべし。其の強狡にして阻みに憑る、未だ易く力を致し難き者は、また兵を肆うるに煩わさず。凱旋の遅近、復た委曲せず。」元英は表して曰く、「臣は辞を奉じて罪を伐ち、志は逋寇を殄さんことを思い、敵を量り攻を図り、期は二月の末三月の初に至らんとし、理は必克に在り。但し、この月一日以来、霖雨連併す。天が人願に違うと謂うべし。然れども王者の師を行わしむるは、挙動易からず。少しく睽淹を致すを以て、便ち異議を生ずべからず。臣もまた諦かに思う。若し三月以後に入り、天晴れ地燥すれば、憑陵は是れ常なり。其の連雨仍接し、進攻を得ざるあらば、臣は既に更に邵陽の橋を高くし、其の汎突を防ぐ。意外の洪長、其の橋を破らんことを慮り、臣もまた部分して造船し、復た鍾離城の水狭き処に随い、浮橋を営造す。三月中旬に至れば、橋必ず克成せん。晴れば則ち攻騰し、雨れば則ち囲守す。水陸二図、得るを以て限とす。実に朝廷が遠略を特開し、少しく復た寛を賜い、日月を仮し、山を為すの功、中途にして廃せしめざらんことを願う。」詔して曰く、「大軍野次し、既に労久を成す。攻守の方、理は豫め見るべし。比頻りに啓を得るに、制勝は暮春を過ぎず。及び後表を省みるに、復た孟夏の末を期す。彼の土は蒸濘し、久淹に宜しからず。勢いは必取と雖も、乃ち将軍の深計なり。兵久しく力殆くすは、亦朝廷の憂うる所なり。故に主書曹道を遣わして軍勢を観せしめ、使の還るに及び、一一具に聞かしむ。」曹道の還るに及び、元英は猶表して「克つべし」と云う。

原文英追至于馬頭,衍馬頭戍主委城遁走,遂圍鍾離。詔曰:「師行已久,士馬疲瘠,賊城險固,卒難攻屠。冬春之交,稍非勝便,十萬之眾,日費無貲。方圖後舉,不待今事。且可密裝徐嚴,為振旅之意,整疆完土,開示威略。左右蠻楚,素應逃亡,或竄山湖,或難制掠。若凶渠黠黨,有須翦除者,便可撲掃,以清疆界。如其強狡憑阻,未易致力者,亦不煩肆兵。凱旋遲近,不復委曲。」英表曰:「臣奉辭伐罪,志殄逋寇,想敵量攻,期至二月將末三月之初,理在必克。但自此月一日以來,霖雨連併,可謂天違人願。然王者行師,舉動不易,不可以少致睽淹,便生異議。臣亦諦思。若入三月已後,天晴地燥,憑陵是常。如其連雨仍接,不得進攻者,臣已更高邵陽之橋,防其汎突。意外洪長,慮其破橋,臣亦部分造船,復於鍾離城隨水狹處,營造浮橋,至三月中旬,橋必克成。晴則攻騰,雨則圍守,水陸二圖,以得為限。實願朝廷特開遠略,少復賜寬,假以日月,無使為山之功,中途而廢。」詔曰:「大軍野次,已成勞久,攻守之方,理可豫見。比頻得啟,制勝不過暮春,及省後表,復期孟夏之末。彼土蒸濘,無宜久淹。勢雖必取,乃將軍之深計;兵久力殆,亦朝廷之所憂。故遣主書曹道往觀軍勢,使還,一一具聞。」及道還,英猶表云「可克」。

四月、水盛んにして橋を破り、元英及び諸将は狼狽して奔走し、士衆の没する者十に五、六有り。元英は揚州に至り、使いを遣わして節及び衣冠・貂蟬・章綬を送らしめた。詔してこれを典に付す。有司、元英が経算図を失いしを奏し、案劾して死を処すべしとす。詔して死を恕して民と為す。

原文四月,水盛破橋,英及諸將狼狽奔走,士眾沒者十有五六。英至揚州,遣使送節及衣冠、貂蟬、章綬。詔以付典。有司奏英經算失圖,案劾處死,詔恕死為民。

後、京兆王愉が反す。元英は復た王封を賜い、邑一千戸、使持節を除し、仮に征東将軍・都督冀州諸軍事を拝す。元英未だ発せずして冀州は既に平らぐ。時に郢州治中督栄祖が密かに蕭衍の軍を引き入れ、義陽を以てこれに応じ、三関の戍は並びに城を拠りて蕭衍に降る。郢州刺史婁悦は城を嬰して自ら守る。懸瓠城の民白早生らが豫州刺史司馬悦を殺し、城を拠りて南に叛く。蕭衍の将斉苟仁が衆を率いて懸瓠を守る。悦の子は華陽公主を尚し、併せて劫掠せらる。詔して元英に使持節・都督南征諸軍事を拝し、仮に征南将軍と為し、汝南より出づ。世宗、元英を引いて之に謂いて曰く、「婁悦は綏御に和を失い、銓衡は簡授に闇し、故に郢民をして寇を引き、関戍をして外奔せしめ、義陽は孤窘、倒懸の切有り。王国の邵虎、威名宿に震い、故に王を屈して親しく元戎を総べ、氛穢を掃清せしむ。昔、衛霍は匈奴の故を以て、居に寧歳無く、今南疆靖まらず、王は屡労を以て辞と為すを得ず。」元英対えて曰く、「臣が才は韓白に非ず、識は孫呉に闇し。徒に宗室の長を以て、頻りに推轂の寄を荷う。規略浅短、律を失い師を喪い、宜しく子反之戮を章し、以て天下に謝すべし。陛下は慈深く屨を念い、愛は鍾牛に等しく、臣をして荀伯に同じくせしめ、明世に再生せしむ。誓って孟氏を追い、以て復讐を期とす。関郢の微寇、何ぞ平殄に足らん。賊を滅ぼす方略は、既に臣が目中に在り。願わくは陛下、聖慮を労さざらんことを。」世宗曰く、「彼の東南を截ち、再び随楚を清むるは、将軍に望む所なり。鍾離の一眚、豈に大徳を損ずるに足らんや。今、王彼の三軍を董むれば、朕憂い無し。」

原文後京兆王愉反,英復王封,邑一千戶,除使持節,假征東將軍、都督冀州諸軍事。英未發而冀州已平。時郢州治中督榮祖潛引蕭衍軍,以義陽應之,三關之戍,並據城降衍。郢州刺史婁悅嬰城自守。懸瓠城民白早生等殺豫州刺史司馬悅,據城南叛。衍將齊苟仁率眾守懸瓠。悅子尚華陽公主,并為所劫。詔英使持節、都督南征諸軍事、假征南將軍,出自汝南。世宗引英謂之曰:「婁悅綏御失和,銓衡闇於簡授,故使郢民引寇,關戍外奔,義陽孤窘,有倒懸之切。王國之邵虎,威名宿震,故屈王親總元戎,掃清氛穢。昔衞霍以匈奴之故,居無寧歲,今南疆不靖,王不得以屢勞為辭也。」英對曰:「臣才非韓白,識闇孫吳,徒以宗室之長,頻荷推轂之寄。規略淺短,失律喪師,宜章子反之戮,以謝天下。陛下慈深念屨,愛等鍾牛,使臣得同荀伯,再生明世,誓追孟氏,以報復為期。關郢微寇,何足平殄,滅賊方略,已在臣目中,願陛下勿勞聖慮也。」世宗曰:「截彼東南,再清隨楚,所望於將軍。鍾離一眚,豈足以損大德。今王董彼三軍,朕無憂矣。」

世宗、邢巒が頻りに早生を破るを以て、詔して元英をして南に赴き義陽に至らしむ。元英は衆少を以て、累表して軍を請うも、世宗許さず。而して元英は輒ち邢巒と分兵して共に懸瓠を攻め、これを克ち、乃ち軍を引いて進む。初め、苟仁の懸瓠を拠るや、蕭衍の寧朔将軍張道凝らが衆を率いて楚城を拠る。元英将に至らんとするを聞き、城を棄てて南走す。元英追撃し、道凝及び蕭衍の虎賁中郎曹苦生を斬り、其の衆を尽く俘虜す。既に義陽に次ぎ、将に三関を取らんとす。元英之を策して曰く、「三関は相須ること左右の手の如し。若し一関を克せば、両関は攻を待たずして定まる。難を攻むるは易を攻むるに如かず。東関は攻め易し。宜しく先ず取り須うべし。即ち黄石公の所謂、戦は風発の如く、攻は河決の如し。」元英は其の力を東に併せんことを恐れ、乃ち長史李華に五統を率いさせ西関に向かわしめ、其の兵勢を分かたしむ。身は諸軍を督して東関に向かう。先に、馬仙琕が雲騎将軍馬広に衆を率いさせ長薄に拒み屯せしめ、軍主胡文超は別に松峴に屯す。元英、長薄に至る。馬広は夜遁して武陽に入る。元英は師を進めてこれを攻む。蕭衍が其の冠軍将軍彭瓫生・驃騎将軍徐超秀を遣わして武陽を援けしむを聞く。元英は乃ち軍を緩めて曰く、「之を縦してこの城に入らしめよ。吾先ず曾て其の形勢を観る。攻め易きのみ。吾之を取ること遺を拾うが如し。」諸将未だ之を信ぜず。瓫生ら既に武陽に入る。元英は促して囲みこれを攻め、六日にして馬広ら降る。ここにおいて進みて黄峴を撃つ。蕭衍の太子左衛率李元履は城を棄てて奔竄す。又西関を討つ。蕭衍の司州刺史馬仙琕も即ち退走す。果たして元英の策の如し。凡そ其の大将六人、支将二十人を擒え、卒七千、米四十万石、軍資は是に称う。

原文世宗以邢巒頻破早生,詔英南赴義陽。英以眾少,累表請軍,世宗弗許。而英輒與邢巒分兵共攻懸瓠,克之,乃引軍而進。初苟仁之據懸瓠,衍寧朔將軍張道凝等率眾據楚城,聞英將至,棄城南走。英追擊,斬道凝及衍虎賁中郎曹苦生,盡俘其眾。既次義陽,將取三關,英策之曰:「三關相須如左右手,若克一關,兩關不待攻而定。攻難不如攻易,東關易攻,宜須先取,即黃石公所謂戰如風發,攻如河決。」英恐其并力於東,乃使長史李華率五統向西關,分其兵勢。身督諸軍向東關。先是,馬仙琕使雲騎將軍馬廣率眾拒屯於長薄,軍主胡文超別屯松峴。英至長薄,馬廣夜遁入於武陽,英進師攻之。聞衍遣其冠軍將軍彭瓫生、驃騎將軍徐超秀援武陽。英乃緩軍,曰:「縱之使入此城,吾先曾觀其形勢,易攻耳,吾取之如拾遺也。」諸將未之信。瓫生等既入武陽,英促圍攻之,六日而廣等降。於是進擊黃峴,衍太子左衞率李元履棄城奔竄。又討西關,衍司州刺史馬仙琕亦即退走,果如英策。凡擒其大將六人,支將二十人,卒七千,米四十萬石,軍資稱是。

朝に還り、尚書僕射を除す。永平三年、元英薨ず。東園秘器・朝服一具・帛七百匹を給し、司徒公を贈り、諡して献武王と曰う。元英に五子有り。

原文還朝,除尚書僕射。永平三年,英薨,給東園祕器、朝服一具、帛七百匹,贈司徒公,諡曰獻武王。英五子。

元英の子、元攸。

原文英 子 攸

元攸、字は玄興、東宮洗馬。早卒す。散騎侍郎を贈らる。

原文攸,字玄興,東宮洗馬。早卒,贈散騎侍郎。

元攸の弟、中山文荘王熙(附すに子、景献・仲献・叔献・叔仁/叔仁の子、琳)。

原文攸 弟 中山文莊王熙 (附子 景獻 仲獻 叔獻 叔仁 / 叔仁 子 琳)

攸の弟の熙は、字を真興という。学問を好み、才知に富み文才があり、名声は世に知られていたが、軽率で浮ついたところがあった。英は深く慮って、家を保つ主君ではないと考え、常に彼を廃して第四子の略を世子に立てようとしたが、一族の議論は聞き入れず、略もまた固く辞退したので、やめた。秘書郎として出仕し、延昌二年に封を襲い、累進して将作大匠を兼ね、太常少卿・給事黄門侍郎に任ぜられ、まもなく光禄勲に転じた。当時、領軍の于忠が政権を執っていた。熙は、忠の婿であったので、一年のうちに急激に昇進した。まもなく平西将軍・東秦州刺史に任ぜられ、安西将軍の号を加えられ、秘書監となった。まもなく本官の将軍のまま相州刺史に任ぜられた。熙が七月に任地に赴いたその日、大風と寒雨があり、凍死者は二十余人、驢馬数十匹に及んだ。熙はその祖父の前例を聞き、心に嫌った。また蛆がその庭に生じた。

原文攸弟熙,字真興。好學,俊爽有文才,聲著於世,然輕躁浮動。英深慮非保家之主,常欲廢之,立第四子略為世子,宗議不聽,略又固請,乃止。起家祕書郎,延昌二年襲封,累遷兼將作大匠,拜太常少卿、給事黃門侍郎,尋轉光祿勳。時領軍于忠執政。熙,忠之壻也,故歲中驟遷。尋除平西將軍、東秦州刺史,進號安西將軍,祕書監。尋以本將軍授相州刺史。熙以七月入治,其日大風寒雨,凍死者二十餘人,驢馬數十匹。熙聞其祖父前事,心惡之。又有蛆生其庭。

初め、熙の兄弟はともに清河王懌に親しまれていたが、劉騰と元叉が両宮を隔絶し、詔を偽って懌を殺害すると、熙は兵を挙げ、上表して言った。「臣は聞く、安危は常ならず、時に休否ありと。臣は早く休明に属し、晩く多難に逢う。皇基が綿茂となり、九葉が光を承けてより、高祖・世宗は徽明相襲い、皇太后は聖敬天より出で、徳は馬鄧に同じくし、至尊は神叡をもって御し、神鑒遠くを照らす。四海晏如、八表帰化す。しかるに領軍将軍元叉は外戚の寵を藉り、左右に栄を叨り、豺狼を心とし、飽けば便ち反嚙す。遂に二宮を阻隔し、温凊の礼を闕き、また太傅清河王は横に屠害を被る。忠臣烈士をして喪気闕庭せしめ、親賢宗戚をして憤恨内外に満たしむ。妄りに鹿を馬と指す、孰か能く之を踰えん。王董の権逼、此に方べて譬えに非ず。臣仰いで雲闕を瞻れば、泣血して生く。細草除かざれば、将に爛漫たらんとす。況んや叉の悖逆此の如き、孰か之を忍びん。臣は枝蕚を忝くし、力命を尽くさんと思い、首を碎き肝を屠り、之を甘んじて薺の若し。今輒ち義兵を起こし、実に甲八万、大徒既に進み、文武争いて先んず。并州刺史城陽王徽、恒州刺史広陽王淵、徐州刺史斉王蕭宝夤等と、同じく今月十四日をもって俱に発す。庶幾くは祖宗の霊を仰ぎ憑り、義夫の命を俯して罄くし、兇醜を掃翦し、更に京邑を清めん。臣親しく三軍を総べ、星邁して難に赴き、兵を温城に置き、伏して天旨を聴く。王公宰輔、或いは世に忠烈を著し、或いは宿に恩顧を佩ぶ、力を同じくして元叉を翦除し、太后至尊をして忻然として奉対せしむることを能くせば、臣は即ち甲を解き兵を散じ、朝闕に赴きて謝せん。臣は才昔人に乖くといえども、蕃屏の位に居る。豈に坐して姦醜を観、虚しく栄祿を受くるを容れんや。」熙の挙兵は始めて十日にして、その長史柳元章・別駕游荊・魏郡太守李孝怡が諸城の人を率い、鼓譟して入り、熙の左右四十余人を殺し、熙を捕らえて高楼に置き、その子弟とともにした。叉は尚書左丞盧同を遣わして鄴の街でこれを斬り、首を京師に伝えた。

原文初,熙兄弟並為清河王懌所昵,及劉騰、元叉隔絕二宮,矯詔殺懌,熙乃起兵,上表曰:「臣聞安危無常,時有休否。臣早屬休明,晚逢多難。自皇基綿茂,九葉承光,高祖、世宗,徽明相襲。皇太后聖敬自天,德同馬鄧;至尊神叡纂御,神鑒燭遠。四海晏如,八表歸化。而領軍將軍元叉寵藉外親,叨榮左右,豺狼為心,飽便反嚙。遂使二宮阻隔,溫凊闕禮,又太傅清河王橫被屠害。致使忠臣烈士,喪氣闕庭;親賢宗戚,憤恨內外。妄指鹿馬,孰能踰之;王董權逼,方此非譬。臣仰瞻雲闕,泣血而生,以細草不除,將為爛漫,況叉悖逆如此,孰可忍之!臣忝籍枝蕚,思盡力命,碎首屠肝,甘之若薺。今輒起義兵,實甲八萬,大徒既進,文武爭先,與并州刺史、城陽王徽,恒州刺史、廣陽王淵,徐州刺史、齊王蕭寶夤等,同以今月十四日俱發。庶仰憑祖宗之靈,俯罄義夫之命,掃翦兇醜,更清京邑。臣親總三軍,星邁赴難,置兵溫城,伏聽天旨。王公宰輔,或世著忠烈,或宿佩恩顧,如能同力,翦除元叉,使太后至尊忻然奉對者,臣即解甲散兵,赴謝朝闕。臣雖才乖昔人,位居蕃屏,寧容坐觀姦醜,虛受榮祿哉!」熙兵起甫十日,為其長史柳元章、別駕游荊、魏郡太守李孝怡率諸城人,鼓譟而入,殺熙左右四十餘人,執熙,置之高樓,并其子弟。叉遣尚書左丞盧同斬之於鄴街,傳首京師。

初め、熙の妃于氏は熙が必ず敗れることを知り、その謀に従わず、初めから哭泣絶えず、熙の死に至った。熙は刑に臨んで五言詩を作り、その僚吏に示して言った。「義は実に君子を動かし、主辱れて忠臣死す。何を以てか是の節を明らかにせん、将に七尺の身を解かんとす。」知友と別れて言った。「平生方寸の心、殷勤知己に属す。今より一たび銷化せば、悲傷極まり無し。」

原文始熙妃于氏知熙必敗,不從其謀,自初哭泣不絕,至於熙死。熙臨刑為五言詩,示其僚吏曰:「義實動君子,主辱死忠臣。何以明是節,將解七尺身。」與知友別曰:「平生方寸心,殷勤屬知己。從今一銷化,悲傷無極已。」

熙は既に蕃王の貴きにあり、文学を加え、奇を好み異を愛し、偉俊と交結し、風気甚だ高く、名は当世に美しく、先達後進多く其の門を造る。初め熙が鄴に鎮した時、知友才学の士袁翻・李琰・李神儁・王誦兄弟・裴敬憲等は咸く河梁で餞別し、詩を賦して別れた。熙の将に死せんとするに及び、また故知に書をして言った。「吾と弟は並びに皇太后の知遇を蒙り、兄は大州に拠り、弟は則ち入侍し、殷勤言色、恩慈母に同じ。今皇太后は北宮に廃せられ、太傅清河王は横に屠酷を受け、主上年幼、独り前殿に在り。君親此の如し、自ら安んずる無し。故に兵民を率いて大義を天下に建つ。但だ智力浅短、旋って囚執を見、上は朝廷に慚じ、下は相知に愧ず。本より名義を以て心に干し、已むを得ずして爾るのみ。流腸碎首、復何をか言わん。昔李斯は上蔡の黄犬を憶い、陸機は華亭の鶴唳を想う。豈に恍惚として際無く、一去して還らざるを以てせざらんや。今秋月に対し、春風に臨み、芳草を藉り、花樹に蔭り、広く名勝を召し、詩を賦して洛濱にす、其れ得可けんや。凡百君子、各おの爾が宜を敬い、国の為め身の為め、善く名節を勗め、功を立て事を立つるは、身の為めのみ。吾何をか言わん。」時に人これを憐れんだ。

原文熙既蕃王之貴,加有文學,好奇愛異,交結偉俊,風氣甚高,名美當世,先達後進,多造其門。始熙之鎮鄴也,知友才學之士袁翻、李琰、李神儁、王誦兄弟、裴敬憲等咸餞於河梁,賦詩告別。及熙將死,復與知故書曰:「吾與弟並蒙皇太后知遇,兄據大州,弟則入侍,殷勤言色,恩同慈母。今皇太后見廢北宮,太傅清河王橫受屠酷,主上幼年,獨在前殿。君親如此,無以自安,故率兵民建大義於天下。但智力淺短,旋見囚執,上慚朝廷,下愧相知。本以名義干心,不得不爾,流腸碎首,復何言哉!昔李斯憶上蔡黃犬,陸機想華亭鶴唳,豈不以恍惚無際,一去不還者乎?今欲對秋月,臨春風,藉芳草,蔭花樹,廣召名勝,賦詩洛濱,其可得乎?凡百君子,各敬爾宜,為國為身,善勗名節,立功立事,為身而已,吾何言哉!」時人憐之。

また熙は任城王澄の薨ずる前に、夢に人が告げて言うのを見た。「任城は当に死す。死して二百日外、君も亦免れず。若し其れ信ぜずば、試みに任城の家を見よ。」熙は夢中に顧みて任城の第舎を見れば、四面の牆崩れ、遺堵無し。熙はこれを悪み、覚めて以て親しい者に告げた。熙の死に至り、果たして夢の如し。兄弟三人、毎に英に従って征伐し、軍中に貪暴にして、或いは迎降逐北に因り、至っては無辜を斬殺し、多く首級を増し、以て功状と為すことあり。また于忠が郭祚・裴植を誣うるに、忠は未だ之を害するを決せず、熙の勧奬に由り、遂に極法に至り、世以て冤と為す。熙の禍に及び、議者は報応有りと為す。

原文又熙於任城王澄薨前,夢有人告之曰:「任城當死。死後二百日外,君亦不免。若其不信,試看任城家。」熙夢中顧瞻任城第舍,四面牆崩,無遺堵焉。熙惡之,覺而以告所親。及熙之死也,果如所夢。兄弟三人,每從英征伐,在軍貪暴,或因迎降逐北,至有斬殺無辜,多增首級,以為功狀。又于忠之誣郭祚、裴植也,忠意未決害之,由熙勸奬,遂至極法,世以為冤。及熙之禍,議者以為有報應焉。

霊太后が政に反り、使持節・都督冀定瀛相幽五州諸軍事・大将軍・太尉公・冀州刺史を追贈し、本封一千戸を増し、諡して文荘王と曰う。

原文靈太后反政,贈使持節、都督冀定瀛相幽五州諸軍事、大將軍、太尉公、冀州刺史,增本封一千戶,諡曰文莊王。

長子景献、次に仲献、次に叔献、並びに熙と同しく被害に遭う。後、景献に中軍将軍・青州刺史を追贈し、王礼を以て葬る。仲献に左将軍・兗州刺史、叔献に右将軍・斉州刺史を追贈す。

原文長子景獻,次仲獻,次叔獻,並與熙同被害。後贈景獻中軍將軍、青州刺史,葬以王禮;仲獻左將軍、兗州刺史;叔獻右將軍、齊州刺史。

叔献の弟叔仁は、年幼を以て全うされ、母于氏とともに朔州に徙る。孝昌初め、霊太后詔して叔仁を京師に帰らしめ、其の財宅を還し、先爵を襲わしむ。征虜将軍・通直散騎常侍を除す。孝荘初め、河陰にて害に遇い、衞大将軍・儀同三司・并州刺史を追贈す。

原文叔獻弟叔仁,以年幼獲全,與母于氏徙朔州。孝昌初,靈太后詔叔仁歸京師,還其財宅,襲先爵。除征虜將軍、通直散騎常侍。孝莊初,遇害於河陰,贈衞大將軍、儀同三司、并州刺史。

子琳、襲封す。斉の禅を受け、爵例に降る。

原文子琳,襲。齊受禪,爵例降。

熙の弟、誘(附す 子 始伯)

原文熙 弟 誘 (附子 始伯)

熙の弟の誘は、字を恵興という。員外郎より稍く遷りて通直郎・太子中庶子・征虜将軍・衞尉少卿となり、出でて右将軍・南秦州刺史となる。叉、岐州にて之を斬る。妻子は坐せられず。車騎大将軍・雍州刺史を追贈し、後、儀同三司を贈り、都昌県開国伯を追封し、食邑八百戸、諡して恭と曰う。

原文熙弟誘,字惠興。自員外郎稍遷通直郎、太子中庶子、征虜將軍、衞尉少卿,出為右將軍、南秦州刺史。叉斬之於岐州,妻子得不坐。追贈車騎大將軍、雍州刺史,後贈儀同三司,追封都昌縣開國伯,食邑八百戶,諡曰恭。

子始伯、襲封す。給事中。斉の禅を受け、爵例に降る。

原文子始伯,襲。給事中。齊受禪,爵例降。

誘の弟、東平文貞王略(附す 子 景式)

原文誘 弟 東平文貞王略 (附子 景式)

誘の弟の略は、字を儁興という。才気は熙に劣るが、和邃の誉れ有り。員外郎より稍く遷りて羽林監・通直散騎常侍・冠軍将軍・給事黄門侍郎となる。

原文誘弟略,字儁興。才氣劣於熙,而有和邃之譽。自員外郎稍遷羽林監、通直散騎常侍、冠軍將軍、給事黃門侍郎。

清河王元懌が死んだ後、元叉は元略を左遷して懐朔鎮の副将とした。赴任する前に、ちょうど元熙が兵を挙げ、元略と書簡を往来した。まもなく元熙が敗れたため、元略はひそかに逃亡し、旧知の河内の司馬始賓に身を寄せた。始賓は葦の筏を用意し、夜に元略とともに盟津を渡り、上党の屯留県の栗法光のもとに赴いた。法光はもとより信義に厚く、喜んで受け入れた。元略の旧知の刁雙が当時西河太守であったので、元略は再び彼のもとに身を寄せた。一年余り滞在した後、刁雙は甥の刁昌に命じて元略をひそかに江左に逃がした。蕭衍は大いに礼遇し、元略を中山王に封じ、邑一千戸を与え、宣城太守とした。

原文清河王懌死後,叉黜略為懷朔鎮副將。未及赴任,會熙起兵,與略書來去。尋值熙敗,略遂潛行,自託舊識河內司馬始賓。始賓便為荻筏,夜與略俱渡盟津,詣上黨屯留縣栗法光。法光素敦信義,忻而納之。略舊識刁雙時為西河太守,略復歸之。停止經年,雙乃令從子昌送略潛遁江左。蕭衍甚禮敬之,封略為中山王,邑一千戶,宣城太守。

まもなく徐州刺史の元法僧が城を拠りて南に叛き、州内の士庶は皆法僧に脅迫された。蕭衍は元略を大都督とし、彭城に赴かせて、新たに帰順した者を慰撫させた。元略が到着し、黄河の南に駐屯したが、安楽王元鑒に撃破され、元略はわずか数十騎で城内に入った。蕭衍はすぐに豫章王蕭綜を派遣して徐州を鎮守させ、元略と法僧をともに召還した。元略は江南にあっても、自らの家の災禍を思い、昼夜泣き、喪に服しているかのようであった。また法僧の人柄を嫌い、法僧と話しても一度も笑わなかった。蕭衍はさらに元略を衡州刺史に任じたが、赴任しなかった。ちょうど蕭綜が城を挙げて国(北魏)に帰順し、綜の長史江革・司馬祖暅・将士五千人全員が捕虜となった。粛宗(孝明帝)は役所に命じて江革らをすべて南に送還させ、それに乗じて元略を召還した。蕭衍は礼を尽くして彼を送り出した。

原文俄而徐州刺史元法僧據城南叛,州內士庶皆為法僧擁逼。衍乃以略為大都督,令詣彭城,接誘初附。略至,屯於河南,為安樂王鑒所破,略唯數十騎入城。衍尋遣其豫章王綜鎮徐州,徵略與法僧同還。略雖在江南,自以家禍,晨夜哭泣,身若居喪。又惡法僧為人,與法僧言,未嘗一笑。衍復除略衡州刺史,未行。會綜以城歸國,綜長史江革、司馬祖暅、將士五千人悉見擒虜。肅宗敕有司悉遣革等還南,因以徵略。衍乃備禮遣之。

元略が帰還しようとするとき、蕭衍は酒宴を設けて別れを告げ、金銀百斤を賜り、蕭衍の百官は皆江辺で見送り、右衞の徐確に百余りを率いて京師まで送らせた。粛宗は光禄大夫の刁雙に命じて国境で出迎え慰労させ、また徐州に命じて絹と布をそれぞれ一千匹賜った。元略を侍中・義陽王に任じ、食邑一千戸を与えた。石人驛亭に到着すると、詔により宗室・親族・内外の百官で以前に面識のある者は、近郊で出迎えることを許された。帛三千匹・邸宅一区・粟五千石・奴婢三十人を賜った。その司馬始賓は給事中・領直後に任じ、栗法光は本県の県令とし、刁昌は東平太守とし、刁雙は西兗州刺史とした。元略が立ち寄った一食一宿の場所でも、恩賞に与らぬ者はなかった。

原文略之將還也,衍為置酒餞別,賜金銀百斤,衍之百官,悉送別江上,遣其右衞徐確率百餘人送至京師。肅宗詔光祿大夫刁雙境首勞問,又敕徐州賜絹布各一千匹。除略侍中、義陽王,食邑一千戶。還達石人驛亭,詔宗室、親黨、內外百官先相識者,聽迎之近郊。賜帛三千匹,宅一區,粟五千石,奴婢三十人。其司馬始賓除給事中、領直後,栗法光本縣令,刁昌東平太守,刁雙西兗州刺史。其略所至,一餐一宿之處,無不霑賞。

まもなく東平王に改封され、さらに車騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司・領左衞将軍に任じられ、侍中はもとのままとした。また本官のまま国子祭酒を兼ね、大将軍・尚書令に昇進した。霊太后は大いに寵愛信任し、その信任ぶりは元徽とほぼ同等であった。当時は天下多事で軍国の事務は極めて多かったが、元略は常道を守って自らを保つだけで、他に益するところはなく、唯々諾々たる具臣に過ぎなかった。

原文尋改封東平王,又拜車騎大將軍、左光祿大夫、儀同三司、領左衞將軍,侍中如故。又本官領國子祭酒,遷大將軍、尚書令。靈太后甚寵任之,其見委信,殆與元徽相埒。於時天下多事,軍國萬端,略守常自保,無他裨益,唯唯具臣而已。

尒朱栄は元略の姑の夫であるが、元略は平素より軽んじていた。また元略は鄭儼・徐紇と結託していたので、栄はこれを併せて恨んだ。栄が洛陽に入ったとき、元略は河陰で殺害された。本官を追贈され、太保・司空・徐州刺史を加贈され、諡して文貞といった。

原文尒朱榮,略之姑夫,略素所輕忽,略又黨於鄭儼、徐紇,榮兼銜之。榮入洛也,見害於河陰。贈以本官,加太保、司空、徐州刺史,諡曰文貞。

子の景式が襲封した。武定年間、北広平太守となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例により降格された。

原文子景式,襲。武定中,北廣平太守。齊受禪,爵例降。

元略の弟 元纂 (付記:子の子献)

原文略 弟 纂 (附子 子獻)

元略の弟の元纂は、字を紹興といい、かなり将帥の才略があった。司徒祭酒となった。元熙が挙兵したと聞き、逃れて鄴に奔ったが、到着するとすぐに捕らえられ、元熙とともに死んだ。北平県公を追封され、安北将軍・恒州刺史を追贈され、後に高唐県開国侯に改封され、食邑八百戸を与えられた。

原文略弟纂,字紹興,頗有將略。為司徒祭酒。聞熙舉兵,因逃奔於鄴,至即見擒,與熙俱死。追封北平縣公,贈安北將軍、恒州刺史,改封高唐縣開國侯,食邑八百戶。

子の子献が襲封した。涇州司馬の任で死去した。

原文子子獻,襲。卒於涇州司馬。

元熙の異母弟 武邑王 元義興 (付記:子の元述)

原文熙 異母弟 武邑王義興 (附子 述)

元熙の異母弟の義興は、叔父の元並洛の後を継いだ。粛宗の初め、員外散騎侍郎に任じられた。元熙が殺害されたとき、義興は別の家系を継いでいたため、連座を免れた。次第に輔国将軍・通直散騎常侍に昇進した。孝莊帝の初め、河陰で殺害された。中軍将軍・瀛州刺史を追贈された。後に散騎常侍・征東将軍を追贈され、その他の官爵はもとのままとした。義興の妻は趙郡の李氏である。李はかなり婦人の仕事に巧みで、尒朱栄の妻に親しまれた。永安年間、義興を燕郡王に追封し、邑五百戸を与え、まもなく鉅鹿王に改封し、さらに武邑王に改封した。

原文熙異母弟義興,出後叔父並洛。肅宗初,除員外散騎侍郎。及熙之遇害也,義興以別後,故得不坐。稍遷輔國將軍、通直散騎常侍。孝莊初,於河陰遇害。贈中軍將軍、瀛州刺史。後贈散騎常侍、征東將軍,餘如故。義興妻,趙郡李氏。李頗有婦工,為尒朱榮妻所親昵。永安中,追封義興燕郡王,邑五百戶,尋改封鉅鹿王,又改封武邑王。

子の元述が襲封した。天平年間、通直郎となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例により降格された。

原文子述,襲。天平中,通直郎。齊受禪,爵例降。

扶風王 元怡

原文扶風王怡

元英の弟の元怡は、初め歩兵校尉に任じられ、城門校尉に転じ、鄯善鎮将に昇進した。任地で貪欲で暴虐であり、役所に糾弾されたが、逃亡して免れた。延昌年間に死去した。荘帝の初め、尒朱栄の妻の兄であることから、格別に驃騎大将軍・太尉公・雍州刺史・扶風王を追贈された。

原文英弟怡,起家步兵校尉,轉城門校尉,遷鄯善鎮將。所在貪暴,為有司所糾,逃竄得免。延昌中,卒。莊帝初,以尒朱榮婦兄,超贈驃騎大將軍、太尉公、雍州刺史、扶風王。

子 魯郡王 元肅 (付記:子の道與)

原文子 魯郡王肅 (附子 道與)

長子の蕭は、員外散騎侍郎より起家し、直寢に転じた。莊帝の初め、蕭を魯郡王に封じ、邑千戸を賜う。散騎常侍を除され、後将軍・広州刺史として出向した。後に衛将軍・肆州刺史を除された。その弟の曄が僭立すると、蕭を侍中・太師・録尚書事に拝した。まもなく使持節・都督青膠光齊南青五州諸軍事・驃騎大将軍・東南道大行臺・青州刺史に改めて除されたが、赴任しなかった。永熙二年に薨じた。使持節・侍中・都督并恒二州諸軍事・本将軍・司徒公・并州刺史を追贈された。

原文長子肅,起家員外散騎侍郎,轉直寢。莊帝初,封肅魯郡王,邑千戶。除散騎常侍,出為後將軍、廣州刺史。後除衞將軍、肆州刺史。其弟曄僭立,拜肅侍中、太師、錄尚書事。尋改除使持節、都督青膠光齊南青五州諸軍事、驃騎大將軍、東南道大行臺、青州刺史,不行。永熙二年薨。贈使持節、侍中、都督并恒二州諸軍事、本將軍、司徒公、并州刺史。

子の道與が襲封した。前将軍を除された。斉が禅譲を受けると、爵位は例により降格された。

原文子道與,襲。除前將軍。齊受禪,爵例降。

東海王 曄

原文東海王曄

曄は字を華興といい、小字を盆子という。性質は軽躁で、膂力があった。秘書郎より起家し、やがて通直散騎常侍に遷った。莊帝の初め、長広王に封じられ、邑一千戸を賜う。太原太守として出向し、并州の事務を行った。尒朱榮の死に際し、世隆らは并州に奔還し、尒朱兆と建興で会し、曄を主に推戴し、その部衆に大赦を行い、建明と号した。まもなく世隆らによって廃された。前廃帝が立つと、曄を東海王に封じ、邑一万戸を賜う。出帝の初め、事に坐して邸で賜死された。子がなく、爵位は除かれた。

原文曄字華興,小字盆子。性輕躁,有膂力。起家祕書郎,稍遷通直散騎常侍。莊帝初,封長廣王,邑一千戶。出為太原太守,行并州事。尒朱榮之死也,世隆等奔還并州,與尒朱兆會於建興,乃推曄為主,大赦所部,號年建明。尋為世隆等所廢。前廢帝立,封曄為東海王,邑萬戶。出帝初,坐事賜死於第。無子,爵除。

城陽康王 長寿

原文城陽康王長壽

城陽王の長寿は、皇興二年に封じられ、征西大将軍・外都大官に拝された。沃野鎮都大将として出向した。性質は聡明で、撫接に長け、鎮において甚だ威名があった。延興五年に薨じ、諡して康王という。

原文城陽王長壽,皇興二年封,拜征西大將軍、外都大官。出為沃野鎮都大將。性聰惠,善撫接,在鎮甚有威名。延興五年薨,諡康王。

長子 多侯

原文長子 多侯

長子の多侯は、早世した。

原文長子多侯,早卒。

次子 城陽懐王 鸞

原文次子 城陽懷王鸞

次子の鸞は、字を宣明という。初め叔父の章武敬王を継ぎ、兄の死後、父の爵位を襲封した。身長八尺、腰帯十圍あり、武芸をもって著名であった。頻繁に北都大将を務めた。高祖の時、外都大官に拝され、また持節・都督河西諸軍事・征西大将軍・領護西戎校尉・涼州鎮都大将として出向した。鎮を改めて州を立て、鸞を涼州刺史・姑臧鎮都大将とし、その他の官はもとのままとした。

原文次子鸞,字宣明。始繼叔章武敬王,及兄卒,還襲父爵。身長八尺,腰帶十圍,以武藝著稱。頻為北都大將。高祖時,拜外都大官,又出為持節、都督河西諸軍事、征西大將軍、領護西戎校尉、涼州鎮都大將。改鎮立州,以鸞為涼州刺史,姑臧鎮都大將,餘如故。

後に京師に朝した。車駕が南征するに際し、鎮軍将軍を領した。洛陽に都を定め、高祖が鄴に幸した時、詔して鸞に留守を命じた。ここにおいて五等を開建し、食邑一千戸を賜う。使持節・征南大将軍・都督豫荊郢三州河内山陽東郡諸軍事を除され、安南将軍の盧淵・李佐とともに赭陽を攻めたが、陥せず、敗退して還った。時に高祖は瑕丘に幸しており、鸞は行宮に詣でて罪を請うた。高祖は鸞らを引見し、責めて言うには、「卿らは総じて戎徒を率い、節を奮うべき義があるのに、進んでは賊城を夷抜できず、退いてはこの小寇を殄滅できず、王威を虧損した。罪は大辟に応ずる。朕は革変の始め、事は寛貸に従う。今卿らの死罪を赦し、城陽王を定襄県王に降格し、戸五百を削る。古より、軍行には必ず廟社の主を載せる。その威恵が各々帰する所あることを示すためである。今卿らの敗軍の罪を社主の前で徴し、その咎を彰かにする」と。後に留守の功により、本封に復し、邑二百戸を増やされた。冠軍将軍・河内太守を除され、并州刺史に転じた。世宗の初め、平東将軍・青州刺史を除された。後に安北将軍・定州刺史に転じた。

原文後朝于京師。會車駕南討,領鎮軍將軍。定都洛陽,高祖幸鄴,詔鸞留守。乃開建五等,食邑一千戶。除使持節,征南大將軍,都督豫荊郢三州、河內山陽東郡諸軍事,與安南將軍盧淵、李佐攻赭陽,不克,敗退而還。時高祖幸瑕丘,鸞請罪行宮。高祖引見鸞等,責之曰:「卿等總率戎徒,義應奮節,而進不能夷拔賊城,退不能殄茲小寇,虧損王威,罪應大辟。朕革變之始,事從寬貸,今捨卿等死罪,城陽降為定襄縣王,削戶五百。古者,軍行必載廟社之主,所以示其威惠各有攸歸,今徵卿等敗軍之罪於社主之前,以彰厥咎。」後以留守之功,還復本封,增邑二百戶。除冠軍將軍、河內太守,轉并州刺史。世宗初,除平東將軍、青州刺史。後轉安北將軍、定州刺史。

鸞は仏道を愛楽し、五戒を修持し、酒を飲まず肉を食わず、長年にわたり斎戒を続けた。仏寺を繕い起こし、百姓を勧め率いて、共に土木の労に従事させ、公私に費やし煩わせ、甚だ民の患いとなった。世宗はこれを聞き、詔して言うには、「鸞は親しく唯宗懿たり、大州の牧となり、民物殷繁にして、綏寧すべき所である。宜しく己を克し誠を励まし、清を崇め恵を樹つべきである。しかるに乃ち驟に相徴発し、専ら煩擾を為し、編戸嗷嗷として、家ごとに嗟怨を懐く。北州は土広く、姦乱はこれより由る。法に準じて愆を尋ぬれば、応に粛黜を加うべし。鸞を以て戚属たり、情に未だ忍びざる有り。使者を遣わし、義を以て督責し、祿一周を奪い、微かに威罰を示すべし」と。

原文鸞愛樂佛道,修持五戒,不飲酒食肉,積歲長齋。繕起佛寺,勸率百姓,共為土木之勞,公私費擾,頗為民患。世宗聞而詔曰:「鸞親唯宗懿,作牧大州,民物殷繁,綏寧所屬,宜克己厲誠,崇清樹惠,而乃驟相徵發,專為煩擾,編戶嗷嗷,家懷嗟怨。北州土廣,姦亂是由,準法尋愆,應加肅黜。以鸞戚屬,情有未忍,可遣使者,以義督責,奪祿一周,微示威罰也。」

正始二年に薨じ、時に年三十八。帛六百匹を贈られ、詔して中書舎人王雲に旨を宣し臨弔せしめ、鎮北将軍・冀州刺史を追贈し、諡して懐王という。

原文正始二年薨,時年三十八。贈帛六百匹,詔中書舍人王雲宣旨臨弔,贈鎮北將軍、冀州刺史,諡懷王。

子の徽は、字を顯順という。粗く書史に渉猟し、頗る吏才があった。世宗の時、封を襲い、游撃将軍を除され、河内太守として出向した。郡において清整で、民の誉れがあった。召されて長兼散騎常侍に拝された。

原文子徽,字顯順。粗涉書史,頗有吏才。世宗時,襲封。除游擊將軍,出為河內太守。在郡清整,有民譽。徵拜長兼散騎常侍。

粛宗の時、右将軍・涼州刺史に任ぜられた。徽は道途が険遠であることを理由に、固く辞して赴任せず、散騎常侍に任ぜられた。その年、後将軍・并州刺史に任ぜられた。先に州内に夏の霜害があり、禾稼が実らず、民衆は逃散し、安穏に生業に従う者は少なかった。徽は直ちに倉を開いて賑済したが、文武の官は皆諫めて止めさせようとした。徽は言った、「昔、汲長孺は郡守に過ぎなかったが、尚も倉を開いて民の災害を救った。ましてや我は皇家の近親として、大藩に委任されている。どうして法に拘って民の困窮を救わないことがあろうか」と。先に給付し、後に上表した。粛宗はこれを嘉して、安北将軍を加えた。後に安西将軍・秦州刺史に任ぜられた。詔書が朝に届くと夕には出発した。徽は秦州に赴くにあたり、闕に詣でて恭しく授かることを請い、なお表啓を上して固く陳情し、その職に就かないことを請うた。輔国将軍に改めて任ぜられ、度支尚書を加えられ、鎮軍将軍の号を進められた。当時、戎馬が郊外にあり、王師は屡々敗れた。徽は軍旅の費用として、国封の絹二千匹・粟一万石を上って軍用を助けた。粛宗は受け取らなかった。また本官のまま吏部尚書を兼ね、侍中・征東将軍を加えられ、衛将軍・右光禄大夫に遷った。尚書左僕射に任ぜられ、車騎将軍・儀同三司に転じたが、固く辞して受けず、侍中の解任を聴許されてから詔を受けた。まもなく尚書令に任ぜられ、開府・西道行臺を加えられたが、赴任しなかった。

原文肅宗時,除右將軍、涼州刺史。徽以徑途阻遠,固請不行。除散騎常侍。其年,除後將軍、并州刺史。先是,州界夏霜,禾稼不熟,民庶逃散,安業者少。徽輒開倉賑之,文武咸共諫止。徽曰:「昔汲長孺,郡守耳,尚輒開倉,救民災弊,況我皇家親近,受委大藩,豈可拘法而不救民困也。」先給後表。肅宗嘉之。加安北將軍。後拜安西將軍、秦州刺史。詔書旦至夕發。徽以將之秦部,請詣闕恭授,仍表啟固陳,請不之職。改授輔國將軍,加度支尚書,進號鎮軍將軍。于時,戎馬在郊,王師屢敗,徽以軍旅之費,上國封絹二千匹、粟一萬石以助軍用。肅宗不納。又以本官兼吏部尚書,加侍中、征東將軍,遷衞將軍、右光祿大夫。拜尚書左僕射,轉車騎將軍、儀同三司,固辭不拜,聽解侍中,然後受詔。尋除尚書令,加開府、西道行臺,不行。

当時、霊太后が専制し、朝綱は廃弛していた。徽は既に寵任に居りながら、匡弼する所なく、鄭儼の徒と互いに阿党した。外見は柔和で謹直であるようであったが、内には猜忌が多く、睚眦の怨みも必ず報復しようと考えた。識者はこれを憎んだ。またその妻于氏を防閑することができず、遂に広陽王淵と姦通した。淵が軍府の任を受けると、表啓を上す毎に徽の罪過を論じ、誣毀に渉る所もあったが、頗る実状もあった。

原文時靈太后專制,朝綱頹褫。徽既居寵任,無所匡弼,與鄭儼之徒,更相阿黨。外似柔謹,內多猜忌,睚眦之忿,必思報復。識者嫉之。又不能防閑其妻于氏,遂與廣陽王淵姦通。及淵受任軍府,每有表啟,論徽罪過,雖涉誣毀,頗亦實焉。

荘帝が践祚すると、司州牧に任ぜられ、まもなく司徒となり、仍って牧を領した。元顥が洛陽に入ると、徽は荘帝に従って北巡し、車駕が宮に還ると、謀議に参与した功により、侍中・大司馬・太尉公に任ぜられ、羽葆・鼓吹を加えられ、封邑を増やして前と合わせて二万戸とし、その他の官は元の如くであった。徽は官封を辞する表を上し、前後屡々上奏した。また啓して云う、「河上の功は将士の力によるものであり、封を受けた所を回して諸の勳義に加えたい」と。徽は荘帝に親しく遇されていたが、内には栄寵を恐れ、故にこのような辞をして、外議を防ごうとした。荘帝はその意を識り、封を辞することを聴許したが、官を譲ることは許さなかった。

原文莊帝踐阼,拜司州牧,尋除司徒,仍領牧。元顥入洛,徽從莊帝北巡,及車駕還宮,以與謀之功,除侍中、大司馬、太尉公,加羽葆、鼓吹,增邑通前二萬戶,餘官如故。徽表辭官封,前後屢上。又啟云:「河上之功,將士之力,求回所封,加諸勳義。」徽為莊帝親待,內懼榮寵,故有此辭,以防外議。莊帝識其意,聽其辭封,不許讓官。

徽の後妻は、荘帝の舅の娘である。侍中李彧は帝の姉婿である。徽の性質は佞媚で、自ら取容することを善くし、内外の意を挟んで、宗室親戚の中に比べる者もなかった。遂に彧らと共に帝を勧めて栄を図らせたが、荘帝も先にその意があった。栄が死ぬと、世隆らが屯拠して解かなかった。徽を太保に任じ、仍って大司馬・宗師・録尚書事とし、内外を総統させた。徽の本意は、栄が死ねば枝葉は自ずから散亡すると思っていた。及んで尓朱宗族が聚結して難を謀ると、徽は算略が出ず、憂怖するばかりであった。性質は嫉妬が多く、人が己の前に居ることを欲しなかった。参内して謀議する毎に、独り帝と決断した。朝臣で軍国の籌策を上奏する者があれば、皆帝に勧めて受け入れさせず、小賊は何ぞ除かざるを慮れんと云った。また財用を吝惜し、自家から国に及んだ。ここにおいて賞賜を行うと、皆薄少を出し、或いは多くても途中で減らし、与えてまた追い戻した。徒らに糜費するだけで、恩は物を感ぜしめなかった。荘帝は元来より約狹であったが、特に徽が賛成した所でもあった。太府少卿李苗は、徽が司徒であった時の司馬であり、徽は彼を頗る厚く遇した。苗は毎に忠言を致したが、徽は自ら得志してからは、多く採納しなかった。苗は人に謂って云う、「城陽王は元より蜂目であり、而して豺声もまた将に露わんとしている」と。

原文徽後妻,莊帝舅女。侍中李彧,帝之姊婿。徽性佞媚,善自取容,挾內外之意,宗室親戚莫與比焉。遂與彧等勸帝圖榮,莊帝亦先有意。榮死,世隆等屯據不解。除徽太保,仍大司馬、宗師、錄尚書事,總統內外。徽本意謂榮死後,枝葉自應散亡。及尒朱宗族,聚結謀難,徽算略無出,憂怖而已。性多嫉妬,不欲人居其前。每入參謀議,獨與帝決。朝臣有上軍國籌策者,並勸帝不納,乃云小賊何慮不除。又吝惜財用,自家及國。於是有所賞錫,咸出薄少,或多而中減,與而復追。徒有糜費,恩不感物。莊帝雅自約狹,尤亦徽所贊成。太府少卿李苗,徽司徒時司馬也,徽待之頗厚。苗每致忠言,徽自得志,多不採納。苗謂人曰:「城陽本自蜂目,而豺聲復將露也。」

尓朱兆が入洛すると、禁衛は奔散し、荘帝は歩いて雲龍門を出た。徽は馬に乗って奔り去り、帝は頻りに呼んだが、徽は顧みずして去った。遂に山南に走り、故吏の寇弥の宅に至った。弥は外見は容納したが、内心安からず、乃ち徽を怖して云う、官の捕り手が将に至ると、彼に他の所に避けるよう命じた。人を遣わして路上で邀撃して害し、屍を尓朱兆に送った。

原文及尒朱兆之入,禁衞奔散,莊帝步出雲龍門。徽乘馬奔度,帝頻呼之,徽不顧而去。遂走山南,至故吏寇彌宅。彌外雖容納,內不自安,乃怖徽云,官捕將至,令其避他所。使人於路邀害,送屍於尒朱兆。

出帝の初め、使持節・侍中・太師・大司馬・録尚書事・司州牧を追贈され、諡して文献と曰う。

原文出帝初,贈使持節、侍中、太師、大司馬、錄尚書事、司州牧,諡曰文獻。

子の延は爵を襲い、武定末に官は太子中庶子に至った。斉が禅を受けると、爵は例によって降格された。

原文子延,襲爵。武定末,官至太子中庶子。齊受禪,爵例降。

徽の長兄は顕魏。

原文徽 長兄 顯魏

徽の兄の顕魏は、給事中・司徒掾であった。卒し、輔国将軍・東豫州刺史を追贈された。

原文徽兄顯魏,給事中、司徒掾。卒,贈輔國將軍、東豫州刺史。

徽の次兄は顕恭(附子 彦昭)。

原文徽 次兄 顯恭 (附子 彦昭)

徽の次兄の顕恭は、字を懐忠という。揚州別駕となり、軍功により平陽県開国子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。孝荘帝の初め、北中郎将に任ぜられ、左将軍・東徐州刺史に遷った。入朝して安東将軍・大司農卿となった。まもなく中軍将軍・荊州刺史に任ぜられた。荘帝が尓朱栄を殺すと、乃ち顕恭を使持節・都督晉建南汾三州諸軍事・鎮西将軍・兼尚書左僕射・西北道行臺・晉州刺史に任じた。尓朱兆が洛陽に入った後、晉陽で死んだ。出帝の初め、衛大将軍・并州刺史を追贈され、重ねて車騎大将軍・儀同三司を追贈された。

原文徽次兄顯恭,字懷忠。揚州別駕,以軍功封平陽縣開國子,邑三百戶。孝莊初,除北中郎將,遷左將軍、東徐州刺史。入為安東將軍、大司農卿。尋除中軍將軍、荊州刺史。莊帝既殺尒朱榮,乃除顯恭使持節、都督晉建南汾三州諸軍事、鎮西將軍、兼尚書左僕射、西北道行臺、晉州刺史。尒朱兆入洛後,死於晉陽。出帝初,贈衞大將軍、并州刺史,重贈車騎大將軍、儀同三司。

子の彦昭は爵を襲い、武定中に漁陽太守となった。斉が禅を受けると、爵は例によって降格された。

原文子彥昭,襲。武定中,漁陽太守。齊受禪,爵例降。

顕恭の弟は襄城郡王旭。

原文顯恭 弟 襄城郡王旭

顕恭の弟の旭は、字を顕和という。荘帝の時、襄城郡王に封ぜられ、邑一千戸を賜った。武定末、位は大司馬に至った。斉が禅を受けると、爵は例によって降格された。

原文顯恭弟旭,字顯和。莊帝時,封襄城郡王,邑一千戶。武定末,位至大司馬。齊受禪,爵例降。

章武敬王太洛。

原文章武敬王太洛

章武王の太洛は、皇興二年に薨去した。征北大将軍・章武郡王を追贈され、諡を敬といった。子がなかった。高祖の初め、南安恵王の第二子の彬を後嗣とした。

原文章武王太洛,皇興二年薨。追贈征北大將軍、章武郡王,諡曰敬。無子。高祖初,以南安惠王第二子彬為後。

嗣子は彬である。

原文嗣子 彬

彬は、字を豹児といい、爵を襲った。勇健で武用があった。出仕して使持節・都督東秦豳夏三州諸軍事・鎮西大将軍・西戎校尉・統万鎮都大将・朔州刺史となった。貪婪のゆえに封を削られた。この時、吐京胡が反乱を起こし、詔により彬は持節を帯び、仮に平北将軍となり、汾州事を行い、并州・肆州の兵を率いて討伐に向かい、胡を平定した。やがて征虜将軍・汾州刺史に任じられた。胡民の去居ら六百余人が、険要な地に拠って謀反を企て、徒類を扇動した。彬は二万の兵を請うたが、有司が上奏して許そうとした。高祖は大いに怒って言った。「どうして兵馬を動かす道理があろうか!適宜に粛清鎮撫すべきであり、もし権宜の方法で静謐にできず、必ず大軍を要するというならば、まず刺史を斬り、それから兵を発するのだ。」彬は詔を奉じて大いに恐れ、州兵を率い、自ら将士に先んじて胡を討ち平定した。太和二十三年に卒した。銭十万・絹二百匹を賜り、本官をもって贈られ、散騎常侍を加えられた。彬には五子があった。

原文彬,字豹兒,襲爵。勇健有武用。出為使持節、都督東秦豳夏三州諸軍事、鎮西大將軍、西戎校尉、統萬鎮都大將、朔州刺史。以貪惏削封。是時吐京胡反,詔彬持節,假平北將軍,行汾州事,率并肆之眾往討之,胡平,仍除征虜將軍、汾州刺史。胡民去居等六百餘人,保險謀反,扇動徒類。彬請兵二萬,有司奏許之。高祖大怒曰:「何有動兵馬理也!可隨宜肅治若不能權方靜帖,必須大眾者,則先斬刺史,然後發兵。」彬奉詔大懼,而率州兵,身先將士,討胡平之。太和二十三年卒。賜錢十萬、絹二百匹,贈以本官,加散騎常侍。彬有五子。

長子は章武荘武王の融である(附すに子の景哲・朗・黄頭あり)。

原文長子 章武莊武王融 (附子 景哲、朗、黃頭)

長子の融は、字を永興という。儀容は壮麗で、衣冠は甚だ立派であり、性質は通率で豪気があった。高祖の時、秘書郎に拝された。世宗の初め、先の爵を回復し、驍騎将軍に任じられた。

原文長子融,字永興。儀貌壯麗,衣冠甚偉,性通率,有豪氣。高祖時,拜祕書郎。世宗初,復先爵,除驍騎將軍。

蕭衍が将を遣わし、淮陽を侵逼し、梁城が陥落した。詔により融は仮節・征虜将軍・別将として南討し、賊衆を大いに摧破し、梁城を回復した。この時、揚州刺史の元嵩が奴に害されたため、勅により融が揚州事を行った。まもなく仮節・征虜将軍・并州刺史に任じられた。

原文蕭衍遣將,寇逼淮陽,梁城陷沒,詔融假節、征虜將軍、別將南討,大摧賊眾,還復梁城。于時,揚州刺史元嵩為奴所害,敕融行揚州事。尋除假節、征虜將軍、并州刺史。

世宗が崩ずると、司空を兼ね、景陵の陪陵を営んだ。宗正卿に拝され、本官のまま瀛州事を行ったが、疾に遇って行かなかった。間もなく散騎常侍・平東将軍・青州刺史に任じられた。還って秘書監となり、中護軍に遷り、撫軍将軍の号を進められ、河南尹を領し、征東将軍を加えられた。性質は特に貪残で、恣情に聚斂し、中尉に糾弾され、官爵を削除された。汾州・夏州の山胡が叛逆し、正平・平陽と連結した。詔により融の前の封を回復し、征東将軍・持節・都督としてこれを討たせた。融は経略に乏しく、胡に敗れた。久しくして散騎常侍・衛将軍・左光禄大夫を加えられた。

原文及世宗崩,兼司空,營陪景陵。拜宗正卿,以本官行瀛州事,遇疾不行。未幾,除散騎常侍、平東將軍、青州刺史。還為祕書監,遷中護軍,進號撫軍將軍,領河南尹,加征東將軍。性尤貪殘,恣情聚斂,為中尉糾彈,削除官爵。汾夏山胡叛逆,連結正平、平陽,詔復融前封,征東將軍、持節、都督以討之。融寡於經略,為胡所敗。久之,加散騎常侍、衞將軍、左光祿大夫。

後に賊帥の鮮于脩礼が瀛州・定州を寇暴し、長孫稚らがこれを討ったが、失利した。融を車騎将軍とし、前駆左軍都督とし、広陽王の淵らと共に脩礼を討たせた。軍が交津を渡ると、葛栄が脩礼を殺して自立した。転営して白牛邏に至り、軽騎で融を撃った。融は終日苦戦したが、外援がなく、遂に大いに奔敗し、陣中で見殺された。粛宗は東堂で哀を挙げ、東園の秘器・朝服一具・綵二千八百段を賜り、侍中・都督雍華岐三州諸軍事・本将軍・司空・雍州刺史を贈られた。まもなく融が王事に死したことにより、司徒を進めて贈り、前後部鼓吹を加えた。諡して荘武といった。

原文後賊帥鮮于脩禮寇暴瀛定二州,長孫稚等討之,失利。除融車騎將軍,為前驅左軍都督,與廣陽王淵等共討脩禮。師渡交津,葛榮殺脩禮而自立。轉營至白牛邏,輕騎擊融。融苦戰終日,更無外援,遂大奔敗,於陳見殺。肅宗為舉哀於東堂,賜東園祕器、朝服一具、綵二千八百段,贈侍中、都督雍華岐三州諸軍事、本將軍、司空、雍州刺史。尋以融死王事,進贈司徒,加前後部鼓吹。諡曰莊武。

子の景哲は襲封した。武定年間、開府・儀同三司となった。斉が禅を受けると、爵は例により降格した。

原文子景哲,襲。武定中,開府、儀同三司。齊受禪,爵例降。

景哲の弟の朗は、すなわち後廃帝であり、その語は帝紀にある。

原文景哲弟朗,即後廢帝,語在帝紀。

子の黄頭は襲封した。安定王に封ぜられ、安平王に改封された。斉が禅を受けると、爵は例により降格した。

原文子黃頭,襲。封安定王,改封安平王。齊受禪,爵例降。

融の弟は東安王の凝である(附すに子の彦友あり)。

原文融 弟 東安王凝 (附子 彦友)

融の弟の凝は、字を定興という。恒州征虜録事参軍より起家し、累遷して護軍長史となった。凝の姑は、尒朱栄の妻である。荘帝の初め、東安王に封ぜられ、食邑五百戸を与えられた。持節・安東将軍・兗州刺史に任じられ、済州刺史に転じ、もとの将軍のままとした。永熙二年に薨じ、持節・都督滄瀛冀三州諸軍事・驃騎大将軍・冀州刺史を贈られた。

原文融弟凝,字定興。起家恒州征虜錄事參軍,累遷護軍長史。凝姑,尒朱榮妻。莊帝初,封東安王,食邑五百戶。除持節、安東將軍、兗州刺史,轉濟州刺史,仍本將軍。永熙二年薨,贈持節、都督滄瀛冀三州諸軍事、驃騎大將軍、冀州刺史。

子の彦友は襲封した。武定年間、光禄大夫となった。斉が禅を受けると、爵は例により降格した。

原文子彥友,襲。武定中,光祿大夫。齊受禪,爵例降。

凝の弟は漁陽王の湛である(附すに子の俊あり)。

原文凝 弟 漁陽王湛 (附子 俊)

凝の弟湛、字は鎮興。初め祕書郎に起家し、尚書左司郎中に転じ、廷尉少卿に遷る。莊帝の初め、河陰において害に遇う。征東將軍・青州刺史を追贈され、漁陽王に追封され、食邑五百戸を賜る。

原文凝弟湛,字鎮興。起家祕書郎,轉尚書左司郎中,遷廷尉少卿。莊帝初,遇害河陰。贈征東將軍、青州刺史、追封漁陽王,食邑五百戶。

子の俊、襲封す。齊が禪を受けると、爵は例により降格される。

原文子俊,襲。齊受禪,爵例降。

凝 弟 晏

原文凝 弟 晏

湛の弟晏、字は俊興。祕書丞の任に在りて卒す。平東將軍・祕書監・豫州刺史を追贈される。

原文湛弟晏,字俊興。卒於祕書丞。贈平東將軍、祕書監、豫州刺史。

樂陵康王胡兒

原文樂陵康王胡兒

樂陵王胡兒、和平四年に薨ず。樂陵王に追封され、征北大將軍を追贈され、諡して康と曰う。

原文樂陵王胡兒,和平四年薨。追封樂陵王,贈征北大將軍,諡曰康。

嗣子 樂陵密王思譽

原文嗣子 樂陵密王思譽

子無し。顯祖、詔して胡兒の兄汝陰王天賜の第二子永全をして後を嗣がしめ、封を襲わしむ。後に名を改めて思譽と為す。高祖の初め、蠕蠕が塞を犯す。思譽を以て鎮北大將軍・北征大都将と為す。後に使持節・本將軍・領護匈奴校尉・都督・中軍都将を除く。出でて使持節・鎮東大將軍・和龍鎮都大将・營州刺史と為り、領護東夷校尉を加えられ、鎮北將軍に転じ、行鎮北大將軍を兼ねる。高祖、百官を光極堂に引見し、思譽に謂いて曰く、「恒代の路は懸遠なり、旧都の意重し。故に叔父を屈して遠く此の任に臨ましむ。敬慎して臨む所を為さざるべからず、以て朕が望みに副わんことを」と。穆泰の陰謀不軌に及び、思譽は知りながら告げず。死を恕し、封を削られて庶人と為る。太和の末、還たその王封を復す。正始四年に薨ず。光州刺史を贈られ、諡して密王と曰う。

原文無子。顯祖詔胡兒兄汝陰王天賜之第二子永全後之,襲封,後改名思譽。高祖初,蠕蠕犯塞,以思譽為鎮北大將軍、北征大都將。後除使持節、本將軍、領護匈奴校尉、都督、中軍都將。出為使持節、鎮東大將軍、和龍鎮都大將、營州刺史,加領護東夷校尉,轉為鎮北將軍,行鎮北大將軍。高祖引見百官於光極堂,謂思譽曰:「恒代路懸,舊都意重,故屈叔父遠臨此任,不可不敬慎所臨,以副朕望。」及穆泰陰謀不軌,思譽知而不告,恕死,削封為庶人。太和末,還復其王封。正始四年薨。贈光州刺史,諡曰密王。

子景略、字は世彥。世宗の時、封を襲う。驍騎將軍に拝され、持節・冠軍將軍・幽州刺史を除く。熙平元年に薨ず。本將軍・豫州刺史を贈られ、帛四百匹を賜り、諡して惠王と曰う。

原文子景略,字世彥。世宗時,襲封。拜驍騎將軍,除持節、冠軍將軍、幽州刺史。熙平元年薨。贈本將軍、豫州刺史,賜帛四百匹,諡曰惠王。

子の霸、字は休邦、襲封す。武定中、鉅鹿太守。齊が禪を受けると、爵は例により降格される。

原文子霸,字休邦,襲。武定中,鉅鹿太守。齊受禪,爵例降。

景略の弟慶略、散騎侍郎。

原文景略弟慶略,散騎侍郎。

子の子政、通直散騎常侍。

原文子子政,通直散騎常侍。

慶略 弟 洪略

原文慶略 弟 洪略

慶略の弟洪略は、恒農太守・中軍将軍・行東雍州刺史であった。

原文慶略弟洪略,恒農太守、中軍將軍、行東雍州刺史。

洪略の弟の子業、

原文洪略 弟 子業

洪略の弟の子業は、平原太守であった。

原文洪略弟子業,平原太守。

安定靖王 休

原文安定靖王休

安定王 休は、皇興二年に封ぜられ、征南大将軍・外都大官に任ぜられた。休は幼少より聡明で、政務の裁断に定評があった。

原文安定王休,皇興二年封,拜征南大將軍、外都大官。休少而聰慧,治斷有稱。

高祖の初年、庫莫奚が辺境を侵したため、休を使持節・侍中・都督諸軍事・征東大将軍・領護東夷校尉・儀同三司・和龍鎮将に任じた。休は慰撫と防備に方策があり、賊はついに帰順した。都に入って中都大官となった。蠕蠕が塞を侵犯すると、出仕して使持節・征北大将軍・撫冥鎮大将となった。休は自ら将士に先立ち、虜を撃退した。都に入って内都大官となり、太傅に昇進した。五等爵が制定されると、食邑二千戸を与えられた。

原文高祖初,庫莫奚寇邊,以休為使持節、侍中、都督諸軍事、征東大將軍、領護東夷校尉、儀同三司、和龍鎮將。休撫防有方,賊乃款附。入為中都大官。蠕蠕犯塞,出為使持節、征北大將軍、撫冥鎮大將。休身先將士,擊虜退之。入為內都大官,遷太傅。及開建五等,食邑二千戶。

車駕が南征するに当たり、大司馬を兼任した。高祖が自ら諸軍を巡行した際、休が三人の盗賊を捕らえて六軍の前で示し、斬ろうとしたところ、詔により赦免された。休は執拗に言上して、「陛下は遠く衡霍を清めようとされているので、自ら六師を統御し、野営地を跋渉なさっています。軍の行動が始まったばかりで、すでに姦窃の輩がおります。これを斬らなければ、どうして盗賊を鎮めましょうか。必ず刑を執行し、姦悪を粛清するようお願いします」と言った。詔して言うには、「大司馬が法を執り行うのは、まことにこの通りであるべきだ。しかし機会に因って、朕は聞く、王者の体たるものは、時に非常の恩沢もあると。軍法には違うが、特にこれを許す」と。休はそこで詔を奉じた。高祖は司徒の馮誕に言った、「大司馬は厳格に法を守る。諸軍は慎重でなければならない」と。これにより六軍は粛然とした。洛邑に都を定め、休は車駕に従って鄴に行幸した。休に命じて従駕の文武官を率いさせ、平城の家族を迎えさせた。高祖は自ら漳水の北で休を見送った。

原文車駕南伐,領大司馬。高祖親行諸軍,遇休以三盜人徇於六軍,將斬之,有詔赦之。休執曰:「陛下將遠清衡霍,故親御六師,跋涉野次,軍行始爾,已有姦竊,如其不斬,何以息盜,請必行刑,以肅姦慝。」詔曰:「大司馬執憲,誠應如是。但因緣會,朕聞王者之體,亦時有非常之澤,雖違軍法,可特原之。」休乃奉詔。高祖謂司徒馮誕曰:「大司馬嚴而秉法,諸軍不可不慎。」於是六軍肅然。定都洛邑,休從駕幸鄴。命休率從駕文武,迎家于平城。高祖親餞休於漳水之北。

十八年、休が病臥すると、高祖はその邸に臨幸し、涙を流して病状を問い、宮中の使者や医薬の者が道に相望んだ。薨去すると、賻として帛三千匹を賜った。薨去から殯に至るまで、車駕は三度臨んだ。高祖はその門に至り、喪服を改めて錫衰とし、素弁に絰を加えた。皇太子・百官は皆、従って弔礼を行った。葬送に際しては、さらに布帛二千匹を贈り、諡して靖王といった。詔して黄鉞を仮授し、羽葆・鼓吹・虎賁・班剣六十三人を加え、すべて三老尉元の儀礼に準じた。高祖は自ら郊外まで見送り、慟哭して還った。諸王の中で恩礼はこれに比べるものはなかった。世宗の代、廟庭に配饗された。

原文十八年,休寢疾,高祖幸其第,流涕問疾,中使醫藥,相望於路。薨,賵帛三千匹。自薨至殯,車駕三臨。高祖至其門,改服錫衰,素弁加絰。皇太子、百官皆從行弔禮。及將葬,又贈布帛二千匹,諡曰靖王。詔假黃鉞,加羽葆、鼓吹、虎賁、班劍六十三人,悉準三老尉元之儀。高祖親送出郊,慟哭而返,諸王恩禮莫比焉。世宗世,配饗廟庭。

長子 安

原文長子 安

長子の安は、幼年にして早世した。

原文長子安,幼年早卒。

次子 燮

原文次子 燮

次子の燮は、下大夫に任ぜられた。世宗の初年、襲封して太中大夫に任ぜられ、征虜将軍・華州刺史に任ぜられた。燮は上表して言った、「謹んで考えるに、州治の李潤堡は、少梁の旧地ではあるが、晉や芮が封土とした地でありながら、胡夷が内附して以来、戎の集落となっております。城は旧邑の先代の名に非ず、国初より、護羌の小なる戍に過ぎませんでした。鎮を改め郡を立て、山岳に依って州を立てるに及び、倉庫や府庫の籍をそのまま用いたため、名実が定まっておりません。ひそかに拝見しますに、馮翊の古城は、羌と魏の両民の交わる所、許洛の水陸の要衝、先漢の左輔、皇魏の右翼であり、形勝の名都、まことに西蕃の奥深き府であります。今の州の所在地は、旧地に非ずというのみならず、丘に居り澗の水を飲み、井戸や谷は汚れ雑然とし、登り降りは苦労多く、往還数里に及びます。朝暮の挨拶にも、礼教を損なうところがあります。馮翊には及びません。馮翊は華山と渭水に面し、原野と沢を包み、井戸は浅く池は平らで、樵採と牧畜に広く恵まれています。材木を華陰で採れば、陸路七十里で運べ、龍門で木を伐れば、流れに沿って下れます。旧い城壁を補修するのは、功省くして力易く、人各々己のためにするので、労とは感じません。昔、宋の民に井戸がなく、井戸を穿って人を得たことを喜んだ。ましてや城全体に水がなければ、水を得て家ごとに慶ばないことがあろうか。ひそかに聞くところでは、前任の刺史たちも、意がなかったわけではなく、あるいは兵事に当たり、あるいは凶年に遇い、これによって隔たりが生じ、延び延びになって今日に至ったのです。去歳は豊作で、秋には大いに収穫があり、四境は安泰、京師には事がありません。丁男に十銭の費用もかけず、人に八十日の労役も課さずに済みます。軽きを損ない重きを益することを、どうか明らかにお察しください」と。そこで詔して言うには、「一労永逸であるならば、移転を許可する」と。後に征虜将軍・豳州刺史に任ぜられた。延昌四年に薨じた。本将軍・朔州刺史を追贈された。

原文次子燮,除下大夫。世宗初,襲拜太中大夫,除征虜將軍、華州刺史。燮表曰:「謹惟州治李潤堡,雖是少梁舊地,晉、芮錫壤,然胡夷內附,遂為戎落。城非舊邑先代之名,爰自國初,護羌小戍。及改鎮立郡,依岳立州,因籍倉府,未刊名實。竊見馮翊古城,羌魏兩民之交,許洛水陸之際,先漢之左輔,皇魏之右翼,形勝名都,實惟西蕃奧府。今州之所在,豈唯非舊,至乃居岡飲澗,井谷穢雜,昇降劬勞,往還數里。譐誻明昏,有虧禮教。未若馮翊,面華渭,包原澤,井淺池平,樵牧饒廣。採材華陰,陸運七十;伐木龍門,順流而下。陪削舊雉,功省力易,人各為己,不以為勞。昔宋民無井,穿井而忻得人;況合城無水,得水而不家慶。竊聞前政刺史,非是無意,或值兵舉,或遇年災,緣此契闊,稽延至此。去歲已熟,秋方大登,四境晏安,京師無事。丁不十錢之費,人無八旬之勤。損輕益重,乞垂昭鑒。」遂詔曰:「一勞永逸,便可聽移。」後除征虜將軍、豳州刺史。延昌四年薨。贈本將軍、朔州刺史。

子の超は、字を化生という。肅宗の初年、襲封した。時に胡国珍が安定公に封ぜられたため、北平王に改封された。城門校尉・通直散騎常侍・東中郎将に任ぜられた。まもなく光禄大夫に任ぜられ、将作大匠を兼任した。後に本来の封爵に復した。尒朱栄が洛陽に入った時、超は洛南に避難したが、賊に遇い害された。莊帝の初年、車騎大将軍・儀同三司・岐州刺史を追贈された。

原文子超,字化生。肅宗初,襲。時以胡國珍封安定公,改封北平王。拜城門校尉、通直散騎常侍、東中郎將。尋除光祿大夫,領將作大匠。後復本封。尒朱榮之入洛,超避難洛南,遇寇見害。莊帝初,贈車騎大將軍、儀同三司、岐州刺史。

子の孝景が襲封した。武定年間、通直郎であった。斉が禅譲を受けると、爵位は例により降格された。

原文子孝景,襲。武定中,通直郎。齊受禪,爵例降。

燮の弟、願平。

原文燮 弟 願平

燮の弟、願平は、清狂にして行いがなく、高祖(孝文帝)の末年、員外郎に任ぜられた。世宗(宣武帝)の初年、給事中に遷った。悖逆悪辣の度合いが日増しに甚だしく、人を殺し、盗みを働き、公私ともに患いとなった。世宗は彼が近親であることをもって、法に照らして処断するに忍びず、官を免じて別館に禁錮した。館の名を愁思堂といい、彼が反省することを期待したのである。世宗が崩御すると、願平はようやく外に出ることができた。霊太后が臨朝すると、その暴乱を改めないとして、詔して言うには、「願平は志行が軽薄で、常に法規に背いている。別館に還して、前の通り禁錮せよ」と。長い時を経て、禁錮を解かれ家に還され、師に付けて厳しく教誨戒飭させた。後に通直散騎常侍・前將軍に任ぜられた。その妻王氏を子女の前で裸にするなどし、また妻の妹を妻の母の側で強姦した罪に坐した。御史中丞侯剛が不道の罪として取り調べ、死刑(絞刑)に処すべきところ、赦令に会って免ぜられ、員外常侍に貶黜された。孝昌年間に卒去した。

原文燮弟願平,清狂無行。高祖末,拜員外郎。世宗初,遷給事中。悖惡日甚,殺人劫盜,公私成患。世宗以其戚近,未忍致之於法,乃免官,禁之別館。館名愁思堂,冀其克念。世宗崩,願平乃得出。靈太后臨朝,以其暴亂不悛,詔曰:「願平志行輕疏,每乖憲典,可還於別館,依前禁錮。」久之,解禁還家,付師嚴加誨奬。後拜通直散騎常侍、前將軍。坐裸其妻王氏於其男女之前,又強姦妻妹於妻母之側。御史中丞侯剛案以不道,處死,絞刑,會赦免,黜為員外常侍。孝昌中,卒。

子に緒(附すに子、南郡王長春を以てす)。

原文子 緒 (附子 南郡王長春)

子の緒は、幽州安西府功曹参軍となった。荘帝の初年、直閤將軍となった。まもなく持節・兼武衞將軍・關右慰勞十二州大使となり、ついに吐谷渾に没した。

原文子緒,幽州安西府功曹參軍。莊帝初,直閤將軍。尋為持節、兼武衞將軍、關右慰勞十二州大使,遂沒吐谷渾。

子の長春は、員外散騎侍郎となった。武定の初年、南郡王に封ぜられ、邑五百戸を賜った。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。

原文子長春,員外散騎侍郎。武定初,封南郡王,邑五百戶。齊受禪,爵例降。

願平の弟、永平。

原文願平 弟 永平

願平の弟、永平は、征虜將軍・南州刺史となった。城民の華延明に害された。太昌の初年、使持節・侍中・都督定瀛幽三州諸軍事・衞將軍・定州刺史を追贈された。

原文願平弟永平,征虜將軍、南州刺史。為城民華延明所害。太昌初,追贈使持節、侍中、都督定瀛幽三州諸軍事、衞將軍、定州刺史。

永平の弟、珍平。

原文永平 弟 珍平

永平の弟、珍平は、司州治中となった。

原文永平弟珍平,司州治中。

子に叔遵。

原文子 叔遵

子の叔遵は、員外散騎常侍となった。

原文子叔遵,員外散騎常侍。

珍平の弟、貴平。

原文珍平 弟 貴平

珍平の弟、貴平は、羽林監となり、射聲校尉に転じた。荘帝の初年、散騎常侍・宗正少卿に任ぜられ、東萊王に封ぜられ、邑百戸を賜った。平北將軍・南相州刺史に任ぜられた。荘帝が尒朱栄を誅殺すると、武衞將軍を加えられ、侍中を兼ね、河北・山東慰勞大使となった。定州の東北に至り、幽州大都督侯淵に捕らえられ、晉陽に送られた。後に洛陽に還った。

原文珍平弟貴平,羽林監、轉射聲校尉。莊帝初,除散騎常侍、宗正少卿,封東萊王,邑百戶。除平北將軍、南相州刺史。莊帝既殺尒朱榮,加武衞將軍,兼侍中,為河北、山東慰勞大使。至定州東北,為幽州大都督侯淵所執,送於晉陽。後還洛。

前廃帝の時、本官のまま青州の事務を行い、土民の崔祖螭が叛逆を起こした際、賊徒の勢いが甚だ盛んで、東陽城を百余日にわたって包囲攻撃した。貴平は城民を率いて堅く守り、また将士に命じて城門を開いて交戦させた。大軍の救援が到着し、ついに祖螭らを擒らえて斬った。還って、車騎將軍に任ぜられ、散騎常侍を加えられ、左衞將軍・宗師に遷り、さらに車騎大將軍・左光禄大夫・儀同三司に遷った。

原文前廢帝時,以本官行青州事,屬土民崔祖螭作逆,賊徒甚盛,圍逼東陽一百餘日。貴平率城民固守,又令將士開門交戰。大軍救至,遂擒祖螭等,斬之。還,除車騎將軍,加散騎常侍,遷左衞將軍、宗師,又遷車騎大將軍、左光祿大夫、儀同三司。

貴平は人柄が邪険で浅薄であったが、出帝に信任された。外任として青州刺史となり、さらに驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられたが、幽州大都督侯淵に害された。

原文貴平人才險薄,為出帝所信。出為青州刺史,又加驃騎大將軍、開府儀同三司,為幽州大都督侯淵所害。