楽平王
楽平王丕は、若くして才幹があり、世に称せられた。太宗は丕が年長であることから、その器量を愛し、特に優遇した。泰常七年に封ぜられ、車騎大將軍に拝された。後に河西・高平の諸軍を督して南秦王楊難當を討ち、軍は略陽に至り、禁令は斉しく厳粛で、通過する所で私利を図らず、百姓は争って牛酒を献じた。難當は恐れ、仇池に還った。しかし諸将が議して言うには、「もし豪帥を誅さなければ、軍が還った後、必ず集まって寇となるであろう」と。また大軍が遠く出ているのに、掠奪する所がなければ、軍実を充たし、将士を賞することができないとも言った。将はこれに従おうとした。時に 中書 侍郎高允が丕の軍事に参じ、諫めて言うには、「今もし彼らを誅すれば、これはその帰順の心を傷つけることになり、恐らく大軍が一旦還れば、乱を起こすことは必ず速やかであろう」と。丕はこれを然りとし、そこで初めて帰附した者を安撫し、秋毫も犯さなかった。初め、馮弘が高麗に奔った時、世祖は詔を下してこれを送還するよう命じたが、高麗は送還せず、世祖は怒り、討伐しようとした。丕が上疏し、和龍は新たに平定されたばかりであるから、優遇して復興させ、農耕を広く修めさせて軍実を豊かにし、その後で進んで図れば、一挙にして滅ぼすことができると論じた。帝はこれを容れ、やめた。後に劉潔の事件に連座し、憂いて薨じた。事は〈潔伝〉にある。 諡 して戾王という。
子の拔は、爵を襲った。後に事件に連座して死を賜り、封国は除かれた。
丕の 薨去 及び日者董道秀の死について、高允は遂に筮論を著して言うには、「昔、明元帝の末に白臺を築き、その高さは二十余丈であった。楽平王はかつて夢にその上に登り、四方を望んでも何も見えなかった。王が日者董道秀に問うと、筮って言うには、『大吉である』と。王は黙って喜色を帯びた。後に事件が起こり、王は遂に憂いて死に、道秀は棄市に処せられた。道秀もし六爻を推して王に対し、『易に「亢龍悔い有り」と称す。高きに窮するを亢といい、高くして民無ければ、善からざるなり』と言ったならば、そのようにすれば、上は王のために安寧となり、下は己のために保たれ、福禄がまさに至ろう。どうして禍があろうか。今、本を捨ててその末に従ったのであるから、咎と禍いが至るのは、また宜しいことではないか」と。
安定王
安定王彌は、泰常七年に封ぜられた。太宗が滑臺を討つ時、京師を留守した。薨じ、諡して殤王という。子がなく、封国は除かれた。
楽安王
楽安王範は、泰常七年に封ぜられた。雅びな性質は沈着で重厚、寛和で仁恕であった。世祖は 長安 の形勝の地は、範でなければ任に堪えられないと考え、範を 都督 五州諸軍事・ 衞 大将軍・開府儀同三司・長安鎮都大将に拝し、才能を高く選んで僚佐とした。範は謙恭で下に恵み、誠心を推して撫育し、百姓に称えられた。時に秦の地は新たに寇賊に罹り、流亡する者が相次いだので、範は簡易な治め方を尊ぶよう請うた。帝はこれを容れた。そこで遂に徭役を寛め、民に休息を与えた。後に劉潔の謀議について、範は聞きながら告げなかった。事件が発覚し、病により急に薨じた。
長子は良である。世祖にはまだ子がなく、かつて「兄弟の子は猶子の如し」と言い、親しく養育した。成長して壮勇で知謀多く、常に軍国大計に参じた。高宗の時、王を襲った。長安鎮都大将・雍州 刺史 に拝され、内都大官となった。薨じ、諡して簡王という。
永昌王
永昌王健は、泰常七年に封ぜられた。健は姿貌魁偉で壮健、弓馬に巧みで、兵法に通じ、征戦する所では常に大功があった。才芸は陳留桓王に比べ、智略はこれを超えていた。世祖に従って 赫連 昌を破り、遂に西に略して木根山に至った。和龍を討つ時、健は別に建徳を攻め落とした。後に西河において叛胡白龍の余党を平定した。世祖が 蠕蠕 を襲撃した時、涿邪山を越えた。車駕が還る時、詔して健に殿軍を命じた。蠕蠕の万騎がこれを追ったが、健は数十騎と共にこれを撃ち、矢は虚しく発することなく、当たる者は皆弦に応じて斃れたので、遂に退いた。威は漠北に震った。まもなく涼州平定に従い、健の功績が多かった。また禿髪保周を討ち破り、保周は自殺し、首級は京師に伝えられた。さらに沮渠無 諱 を降した。病なくして薨じ、諡して莊王という。
子の仁は、爵を襲った。仁もまた 驍 勇で、父の風があり、世祖はこれを奇とした。後に濮陽王閭若文と謀り、不軌を図ったが、発覚し、死を賜り、封国は除かれた。
建寧王
建寧王崇は、泰常七年に封ぜられ、輔国將軍に拝された。北虜討伐に従って功績があった。高宗の時、崇の子麗を済南王に封じた。後に京兆王杜元宝と謀逆し、父子ともに死を賜った。
新興王
新興王 拓跋 俊は、泰常七年に封ぜられ、鎮東大将軍に拝された。若くして騎射に長じ、多才多芸であった。法に坐して爵を削られ公となった。俊は酒色を好み、法度を越えることが多かった。また母が先に罪に遇って死し、己は貶削されたため、常に怨望を抱き、頗る悖心があった。後に事が発覚し、死を賜い、国は除かれた。
【論】
論ずるに、楽平王・楽安王ともに将領として自ら効し、竟に憂迫によって逝き、終わりを全うすることの鮮少なるを験す。莊王の才力智謀は、一時の傑であり、建寧王・新興王と同日に論ずるべきではない。
校勘記