巻18

晋王

晋王伏羅は、真君三年に封ぜられ、車騎大将軍を加えられた。後に高平・涼州の諸軍を督して吐谷渾の慕利延を討った。軍が楽都に至ると、諸将に言うには、「もし正道から進めば、軍の声威が先に振るい、必ず遠く遁走するであろう。もし密かに軍を進めてその不意を衝けば、これこそ鄧艾が蜀を擒にした計略である」と。諸将は皆これを難じたが、伏羅は言うには、「将軍たるもの、万里を制勝するには、利を択び、専断すべきである」と。かくて間道を行った。大母橋に至ると、慕利延の衆は驚いて白蘭に奔り、慕利延の兄の子拾寅は河曲に走った。五千余級を斬首し、その一万余落を降した。八年に薨じた。子がなく、国は除かれた。

東平王

東平王翰は、真君三年に秦王に封ぜられ、 侍中 じちゅう ・中軍大将軍に拝され、都曹事に参典した。忠貞で雅正であり、百官は彼を畏れた。 太傅 たいふ 高允は翰が年少であることを以て、諸侯箴を作ってこれを贈ると、翰はこれを見て大いに喜んだ。後に枹罕を鎮め、信と恵みをもって衆を撫で、 きょう 戎は敬服した。東平王に改封された。世祖が 崩御 ほうぎょ すると、諸大臣らは議して翰を立てようとしたが、中常侍宗愛は翰と協わず、太后の令を偽って南安王余を立て、遂に翰を殺した。

子の道符は爵を襲い、中軍大将軍となった。顕祖が 践祚 せんそ すると、 長安 ちょうあん 鎮都大将に拝された。皇興元年、謀反を企て、司馬段太陽が討ってこれを斬り、首を京師に伝えた。

臨淮王

臨淮王譚は、真君三年に燕王に封ぜられ、侍中に拝され、都曹事に参じた。後に臨淮王に改封された。世祖が南討するに当たり、中軍大将軍を授けられた。先に、劉義隆は鄒山が険固であり、栄胡家があるのを以て、糧を積んで守禦の備えとした。譚は衆を率いてこれを攻め、米三十万を獲て軍儲に供した。義隆は淮の険阻を恃み、平素より設備しなかった。譚は筏数十を造り、密かに軍を進めて渡河すると、賊衆は驚いて潰走し、遂にその将胡崇を斬り、賊首一万余級を得た。薨じ、宣王と おくりな された。

子の提は爵を襲い、梁州 刺史 しし となったが、貪欲で放縦であったため官爵を削除され、罰を加えられ、北鎮に徙配された。久しくして、提の子の員外郎穎が冠を免じて自らの官を解き、父に代わって辺戍に就くことを請うたが、高祖は許さなかった。後に詔して提を従駕して南伐させ、 洛陽 らくよう に至り、遷都の議に参じて定めた。まもなく卒した。遷都の功に預かったことを以て、長郷県侯を追封された。世宗の時、雍州刺史を贈られ、懿と諡された。

提の子の昌は、 あざな は法顯。文学を好み、父母の喪に居るに当たり、哀号して孺慕し、悲しみが行人をも感動させた。世宗の時、再び臨淮王に封ぜられたが、拝されないうちに薨じた。齊州刺史を贈られ、康王と諡され、済南を追封された。

子の彧は、字は文若、封を継いだ。彧は若くして才学があり、当時の称賛は甚だ美しかった。侍中崔光は彧に会い、退いて人に言うには、「黒頭の三公は、この人に当たるであろう」と。

若い時、従兄の安豊王延明・中山王熙と共に宗室の博古文学をもって斉名し、当時の人はその優劣を定めることができなかった。 尚書 しょうしょ 郎范陽の盧道将が吏部清河の崔休に言うには、「三人の才学に優劣はないが、しかし安豊は造次に欠け、中山は皂白が多すぎる。済南の風流沈雅には及ばない」と。当時の人はこのために語って言うには、「三王楚琳琅、未だ済南の円方を備うるに若かず」と。彧は姿態に閑裕があり、吐発は流靡であった。琅邪の王誦は有名な人物であるが、彼に会うと心を酔わせ疲れを忘れないことはなかった。前軍将軍・ 中書 ちゅうしょ 侍郎に拝された。郊廟歌辞を奏上し、当時その美を称えられた。給事黄門侍郎に除かれた。彧は本名を亮、字を仕明といったが、時に侍中穆紹と彧は同じ官署にあり、紹の父の いみな を避けて、改名を請うた。詔して言うには、「仕明は風神運吐があり、常に自ら荀文若に比している。名を彧とすべし、以って定体相倫の美を取る」と。彧は本封の復活を求め、詔は許し、再び臨淮に封じ、相州魏郡に寄食した。また長兼御史中尉となり、彧は倫序によって得たものと思い、謝礼しなかった。領軍于忠は憤り、朝廷に言うには、「臨淮は再び風流可観ではあるが、骨鯁の操りがなく、中尉の任は、恐らく堪えるところではない」と。遂に威儀を去り、単車で還り、朝流はこのために嘆息した。累遷して侍中・ えい 将軍・左光禄大夫・兼尚書左 僕射 ぼくや となり、選を摂った。

この時、蕭衍が将を遣わして温湯を囲逼したので、彧を本官のまま東道行臺とした。尒朱栄が洛に入り、元氏を殺害するに及んで、彧は胸を撫でて慟哭し、遂に蕭衍に奔った。衍はその舎人陳建孫を遣わして迎接させ、併せて彧の人となりを観察させた。建孫が還って報告し、彧の風神が閑儁であると称した。衍も先に名を聞いており、深く器待し、楽遊園で彧に会い、因って宴楽を設けた。彧は楽声を聞き、歔欷して涕涙交下し、悲しみが傍ら人を感動させ、衍はこのために楽しまなかった。前後して奔叛した者は皆、旨に希って魏を偽りと称したが、唯彧のみが上表啓するに常に魏の臨淮王と云った。衍は彧の雅性を体して、これを責めとしなかった。及びて莊帝が践祚したことを知ると、彧は母が老いていることを以て還ることを請い、辞旨は懇切であった。衍はその人才を惜しみ、またその意に違い難く、その僕射徐勉を遣わして密かに彧を勧めて言うには、「昔、王陵は漢に在り、姜維は蜀に相たり、在所に名を成す、何ぞ必ずしも本土を要せん」と。彧は言うには、「死すら猶お北を願う、況んや生きておるにおいてをや」と。衍は乃ち礼を以て遣わした。彧は性、至孝であり、父母に事えるに礼を尽くし、離別して以来、酒肉を進まず、容貌は憔悴し、見る者を傷ませた。累除して位は 尚書令 しょうしょれい ・大司馬・兼録尚書となった。

莊帝は武宣王を追崇して文穆皇帝とし、廟号を肅祖とし、母の李妃を文穆皇后とし、神主を太廟に遷そうとし、高祖を伯考とした。彧は表を上って諫めて言うには、「漢祖が創業し、香街に太上の廟有り;光武が中興し、南頓に舂陵の寢を立つ。元帝の光武に対するは、疏にして絶服であるが、猶お身を以て子の道を奉じ、入って大宗を継いだ。高祖の聖躬に対するは、親にして猶子である。陛下は既に洪緒を纂ぐ、何ぞ宜しく伯考の名を加えんや?且つ漢宣の孝昭を継ぐは、これ上って叔祖を後とするもの、宗を承け考妣を忘れんとするにあらず、大義を以ってこれを奪うが故なり。及びて金徳将に興らんとし、宣王寄せを受く、これより降りて、世に威権を秉る。景王は冕を毀さんと意を存し、文王は冠を裂かんと心に規す、祭りは則ち魏主と雖も、権は晋室に帰し、昆と季と、実に曹氏を傾けたり。且つ子元は、宣王の冢胤にして、文王その大業を成す。故に晋武は文祖宣を継ぎ、景王に伯考の称有り。今を以って古に類すれば、恐らくは儔に非ざるか。又た臣子一例、義は旧典に彰れり、禘祫序を失い、前経に譏りを著す。高祖の徳は寰中に溢れ、道は無外を超ゆ。肅祖は勲宇宙に格つと雖も、猶お曾て贄を奉じて臣と称せり。穆皇后は徳を坤元に稟け、復た将に乾位に配享せんとす、これは君臣並筵、嫂叔同室、歴観墳籍、未だ其の事有らず」と。

当時、荘帝の意気は鋭く、朝臣で敢えて言う者はなかったが、ただ元彧と吏部尚書の李神儁のみが共に上表して奏聞した。詔で答えて曰く、「文穆皇帝の勲功は四方に及び、道は百王を超えている。これにより旧軌を考循し、謹んで尊号を上る。王の表に云う、漢の太上は香街に、南頓は舂陵にあると。漢の高祖は瓜瓞の緒によらず、光武帝もまた世及の徳なく、皆みずから符命を受け、父祖によらず、別廟異寢としたが、理に何の差があろうか。文穆皇帝は天の眷顧により人に宅し、歴数は帰すところあり。朕は下武を忝くし承け、遂に神器を主とす。既に帝業に統有り、漢氏は倫ならず。もし昔を以て今に況えば、寢を移すべからずとすれば、則ち魏の太祖、晋の景帝は、王跡既に顕われたれども、皆人臣として終わり、豈に余帝と別廟し、余序に闕くを得んや。漢の郡国に廟を立てたるは、高祖の徳を尊び、饗を天下に遍からしめんと欲するに過ぎず、太廟の神主に関わることなく、独り外祠に薦むるのみ。漢の宣帝の父もまた勲徳の出ずる所にあらず、追尊せざるも、また可ならずや。伯考の名は、自ら尊卑の称なり、何ぞ必ずしも古に準えて非類を言わん。また云う、君臣同列、嫂叔共室と。文穆皇帝が昔臣道を遂げたるを以て、これを疑うと為すべし。礼に『天子の元子は猶お士のごとし』と。禘祫豈に同室を得ざらんや。且つ晋の文、景は共に一代と為し、議者云う、世は七を限り、主に定数なしと。昭穆既に同じければ、明らかに共室の理有り。礼に既に祔有り、嫂叔何の嫌いか。礼に、士は祖禰一廟とす、豈に婦舅共室無からんや。若し専ら共室を以て疑うと為すは、容更に遷毀を議すべし」。荘帝は既に諸妹の請に逼られ、この辞意は黄門侍郎常景、中書侍郎邢子才の替わりに成したる所なり。

また兄の彭城王を追尊して孝宣皇帝と為す。元彧また面諫して曰く、「陛下の中興、意は前古に憲章せんと欲す。作りて法せざれば、後世何をか観ん。歴に書籍を尋ぬるに、未だ其の事有らず。願わくは友于の情を割き、名器爽い無からしめよ」。帝従わず。神主が廟に入るに及び、また百官に悉く陪従せしめ、一に乗輿の式に依らしむ。元彧上表し、中古より爰り、下葉に至るまで、君親を崇尚し、功懿を褒明し、乃ち皇号有りと為し、終に帝名無しと為す。今若し帝を去り、直に皇名を留むれば、古義に求めれば、少しく依準有りと為す。また納れず。

尒朱栄死す。元彧を除して 司徒 しと 公と為す。尒朱世隆部を率いて北に叛く。詔して元彧に河陰を防がしむ。尒朱兆衆を率いて奄に至るに及び、元彧東掖門より出で、賊の為に獲らる。兆を見て、辞色屈せず、群胡の為に毆られて薨ず。出帝、太師、 太尉 たいい 公、雍州刺史を贈る。

元彧は風韻美しく、進止を善くし、衣冠の下、雅に容則有り。群書を博覧し、章句を為さず。著す所の文藻多くは亡失すと雖も、猶お世に伝わる者あり。然れども官に居りて清白ならず、進挙する所は親婭に止まり、識者の譏る所と為る。子無し。

弟孝友、少時に時誉有り、爵を襲いて淮陽王と為り、累遷して滄州刺史と為る。政を為すに温和にして、小恵を行なうを好み、清白ならざれども、侵犯する所無く、百姓もまた此れを以て便とす。孝静帝、斉の文襄王を華林園に宴す。孝友酔いに因りて自ら誉め、又云く陛下臣に能を賜うと許すと。帝笑いて曰く、「朕恒に王の自ら清を道うを聞く」。文襄曰く、「臨淮王雅旨を以て罪を捨つ」。ここに於て君臣俱に笑いて罪せず。

孝友は政理に明らかにして、嘗て表を奏して曰く、

詔して有司に付して議せしむ。奏すれども同じからず。

孝友また言う、「今人生きては皁隸と為り、葬りては王侯に擬す。存没異途にして、復た節制無く、丘壠を崇壮にし、祭儀を盛飾し、隣里相い栄し、至孝と称す。また夫婦の始めは、王化の先にする所、共に食い合瓢するは、以て礼を成すに足る。而るに今の富者は弥く奢り、同牢の設け、祭槃に甚だし。魚を累ねて山と成し、山に林木有り、林木の上に、鸞鳳斯に存す。徒に煩労有るのみにて、終に委棄と成る。天意を仰ぎ惟うに、其れ或は然らず。請う、此れより以後、若し婚葬礼を過ぐる者は、以て旨に違うと論じ、官司糾劾を加えざれば、即ち与に同罪とせよ」。

孝友は尹に積年あり、法を以て自ら守り、甚だ声称著し。然れども性骨鯁無く、善く権勢に事え、正直者の譏る所と為る。斉、禅を受く。爵例に降る。

元昌の弟元孚、字は秀和。少時に令誉有り。侍中游肇、 并州 へいしゅう 刺史高聰、 司徒 しと 崔光等、元孚を見て、咸く曰く、「此の子は当に準的人物と為るべし。吾徒の衰暮を恨む、及ばずして見ざるを」。累遷して兼尚書右丞と為る。霊太后朝に臨み、宦者政に干る。元孚乃ち古今の名妃賢后を総括し、凡そ四巻と為し、之を奏す。左丞に遷る。

蠕蠕 じゅんじゅん 王阿那瓌既に国に返り得て、其の人大いに飢え、相率いて塞に入る。阿那瓌表を上りて台に賑給を請う。詔して元孚を北道行台と為し、彼に詣りて賑恤せしむ。元孚便宜を陳べ、表して曰く、

又云く、

又云く、

朝廷許さず。

元孚、白虎幡を持ちて阿那瓌を柔玄、懐荒の二鎮の間に労う。阿那瓌の衆号三十万、陰に異意有り、遂に元孚を拘留し、轀車に載せ、日に酪一升、肉一段を給す。毎に其の衆を集め、元孚を東廂に坐せしめ、行台と称し、甚だ礼敬を加う。阿那瓌遂に南過して旧京に至る。後、元孚等を還し遣わし、因りて表を上りて謝罪す。有司、元孚の事を以て廷尉に下す。丞高謙之、元孚命を辱しむと云い、元孚を流罪に処す。

後に冀州刺史に拝せられ、孚は農桑を勧め課し、境内においては慈父と称され、隣州では神君と号された。先に、州人張孟都・張洪建・馬潘・崔獨憐・張叔緒・崔醜・張天宜・崔思哲等の八家は、皆林野に屯保し、王命に臣従せず、州郡では八王と号していた。孚が到着すると、皆入城を請い、死を願って効力しようとした。後に葛栄に陥落され、栄に捕らえられた。兄の祐は防城 都督 ととく 、兄の子の子礼は録事参軍であり、栄は先に子礼を害そうとしたが、孚は先に死んで子礼を贖わんことを請い、頭を叩いて血を流したので、栄はようやくこれを赦した。また大いに将士を集めてその死罪を議したが、孚兄弟は各々己を誣って過ちを引き受け、争って死のうとした。また孟都・潘・紹等数百人も皆頭を叩いて法に就き、使君を生かしてほしいと請うた。栄は「これらは魏の誠臣義士なり」と言い、同禁の五百人すべてが免れることができた。栄が平定され、帰還し、冀州刺史を除された。

元顥が洛に入ると、孚に東道行臺・彭城郡王を授けたが、孚は顥の逆書を封じて朝廷に送り、天子はこれを嘉した。顥が平定され、孚を万年郷男に封じた。

永安の末、楽器が残欠し、荘帝は孚に儀注を監せしめた。孚は上表して言うには、「昔、太和の中、 中書監 ちゅうしょかん 高閭・太楽令公孫崇が金石を修造し、数十年の間を経て、ようやく成功を奏した。時に大いに儒生を集め、その得失を考した。太常卿劉芳は別に営造を請い、久しくしてようやく成就した。再び公卿を召して合否を量校させると、論者沸騰し、従うべきところがなかった。登で旨勅を受け、並びに施用を見た。往年、大軍が洛に入り、戎馬交馳し、所有の楽器は亡失して垂尽した。臣が太楽署に至り、太楽令張乾亀等に問うと、承前以来、宮懸四箱、簨簴六架を置くという。東北の架には黄鍾の磬十四を編し、器の名は黄鍾と雖も、声は実に夷則であり、音制を考うるに、甚だ韻に諧わず。姑洗は東北に懸け、太蔟は西北に編し、蕤賓は西南に列し、並びに皆器象位を差し、調律和せず。また儀鍾十四あり、虚しく架首に懸け、初めより叩撃せず、今便ち刪廃し、以て正則に従わんとす。臣今、周礼の鳧氏修広の規、磬氏倨句の法に拠り、律を吹いて声を求め、鍾を叩いて音を求め、繁雑を損除し、実録を討論し、十二月に依って十二宮と為し、各辰次に準じ、当位に懸設し、月声既に備わり、用に随って撃奏すれば、則ち会して相為宮の義に還り、また律呂相生の体を得ん。今、鍾磬の数を量り、各十二架を以て定と為さん」と。奏は可とされた。時に搢紳の士は、皆往きて観聴し、諮嗟歎服して返らざるはなかった。太傅・録尚書長孫承業は声律を妙解し、特によく称善した。

後に出帝に従って関に入る。

広陽王

広陽王建は、真君三年に楚王に封ぜられ、後に改めて広陽王に封ぜられた。薨じ、諡して簡王という。

子の石侯、襲封す。薨じ、諡して哀王という。

子の遺興、襲封す。薨じ、諡して定王という。子なし。

石侯の弟嘉は、少より沈敏にして、喜慍色に形せず、兼ねて武略あり。高祖の初め、徐州刺史に拝せられ、甚だ威恵あり。後に広陽王に封ぜられ、以て建の後を紹ぐ。高祖南伐し、詔して嘉に均口を断たしむ。嘉は指授に違失し、賊を免れしむ。帝怒り、これを責めて曰く、「叔祖は定んで世孫に非ず、何ぞ甚だ上類せざるや」と。将に大漸せんとするに及び、遺詔して嘉を尚書左僕射と為し、咸陽王禧等と政を輔けしむ。司州牧に遷り、嘉は表して京の四面に、坊三百二十を築き、各周囲一千二百歩とし、三正復丁を発して以てこの役に充てんことを請う。暫しの労は有れども、姦盗永く止まんと。詔してこれに従う。衛大将軍・ 尚書令 しょうしょれい に拝し、儀同三司を除される。

嘉は酒を飲むことを好み、或いは深く酔い、世宗の前で言笑自得し、顧みる所忌憚なし。帝はその属尊年老なるを以て、常に優容した。彭城・北海・高陽諸王と毎に入り宴集し、極めて歓び夜に弥き、数え加うるに賞賜を加えた。帝も時にその第に幸する。性、儀飾を好み、車服鮮華にして、既に儀同に居り、また端首に任じ、出入りの容衛、道路これを栄しむ。後に 司空 しくう に遷り、 司徒 しと に転ず。

嘉は功名を立てることを好み、公私に益あり、多く敷奏し、帝は雅にこれを委付した。人物を愛敬し、後に来たりて才俊なるも未だ時に知られざる者、侍坐の次に、転じて談引を加え、時人はこれをもってこれを称した。薨じ、遺命して薄葬せしむ。世宗これを悼惜し、侍中・ 太保 たいほう を贈り、諡して懿烈という。

嘉の後妃は、宜都王穆寿の孫女、 司空 しくう の従妹なり、聡明なる婦人なり。嘉の妃となるに及び、多く匡賛し、家道を光益す。

子の深、字は智遠、爵を襲ぐ。粛宗の初め、肆州刺史に拝せられる。恩信を行い、胡人これを便とし、劫盗止息す。後に恒州刺史となるが、州において多く受け納れ、政は賄をもって成り、私家に馬千匹ある者は必ず百匹を取る、これを以て恒とす。累遷して殿中尚書となるも、拝せられず、城陽王徽の妃于氏を淫した罪に坐し、徽の表訟により、詔して丞相高陽王雍等の宗室に付してその罪を議決せしめ、王として第に還らしむ。

沃野鎮人破六韓抜陵の反叛に及び、臨淮王彧これを討つも、利を得ず、詔して深を北道大 都督 ととく と為し、 尚書令 しょうしょれい 李崇の節度を受く。時に東道 都督 ととく 崔暹は白道に敗れ、深は上書して曰く。

時にその策を納れず。東西部の敕勒の叛に及び、朝議は更に深の言を思い、兼黄門侍郎酈道元を大使として遣わし、鎮を州に復して以て人望に順わんと欲す。会に六鎮尽く叛し、施行を得ず。深後に上言して、「今六鎮俱に叛き、二部の 高車 こうしゃ も亦悪党に同じ、疲兵を以てこれを討つも、必ずしも敵を制せず。請う、兵を簡選し、或いは恒州の要処に留め守り、更に後図を為さん」と。

李崇が召還されると、深が専ら軍政を総括した。抜陵は蠕蠕を避けて南に移り黄河を渡った。先に、別将の李叔仁が抜陵の来襲に迫られ、迎撃の援軍を求めたので、深はこれに赴き、前後して降伏帰順する者二十万人を得た。深は行臺の元纂とともに上表して恒州の北に別に郡県を立て、降伏民を安置し、時宜に応じて救済を与え、その乱心を鎮めることを求めた。聞き入れられず、詔により黄門郎の楊昱を派遣し、彼らを冀・定・瀛の三州に分散させて食に就かせた。深は元纂に言った、「この連中はまた乞活となるであろう、禍乱はここから起こるだろう。」やがて鮮于脩礼が定州で叛き、杜洛周が幽州で反旗を翻すと、残りの降伏民はなお恒州におり、ついに深を推戴して主としようとした。深はそこで上書して京師への帰還を乞い、左衛将軍の楊津に深に代わって 都督 ととく とさせ、深を侍中・右衛将軍・定州刺史とした。時に中山太守の趙叔隆と別駕の崔融が賊を討って失敗し、朝廷の使者劉審が審査していたが、完了しないうちに、賊が中山に迫ったので、深は趙叔隆に防衛させた。劉審は駅伝を飛ばして京に戻り、深が勝手に放免したと報告した。城陽王の元徽は深と不和があり、このことを利用して讒言し、深を吏部尚書兼中領軍として召還した。深が都に至ると、粛宗は元徽と深が互いに恨み合うことを望まず、宴会の機会に和解させるよう命じた。元徽は恨みを抱き続けた。

後に河間王の元琛らが鮮于脩礼に敗れると、深を儀同三司・大 都督 ととく とし、章武王の元融を左 都督 ととく 、裴衍を右 都督 ととく とし、ともに深の指揮下に置いた。元徽は霊太后に奏上して深を讒言した、「広陽王(深)は愛子が外で兵権を握っており、測りがたいものです。」そこで章武王らに密かに備えるよう命じた。元融はその命令を深に見せたので、深は恐れ、事の大小を問わず、自ら決断することができなくなった。霊太后はこれを聞き、使者を遣わして深の心中を尋ねさせた。深は詳しく述べて言った。

深は兵士が頻繁に退却散乱し、人々に戦う気概がなく、陣営を連ね柵を移しながら、一日に十里を行軍した。交津に到着し、川を隔てて陣を布いた。賊の脩礼は常に葛栄と謀っていたが、後に次第に朔州人の毛普賢を信じるようになり、葛栄は常にこれを恨んでいた。普賢はかつて深の統軍であり、交津にいた時、深は人を遣わして諭すと、普賢は降伏の意思を持つようになった。また、録事参軍の元晏を遣わして賊の程殺鬼を説得させると、果たして互いに猜疑心を抱き、葛栄はついに普賢と脩礼を殺して自立した。葛栄は新たに大衆を得たばかりで、上下の心がまだ安定していなかったので、北へ瀛州を渡り、深はただちに軍勢を率いて北へ転進した。葛栄は東へ進んで章武王の元融を攻め、白牛邏で戦って敗れた。深はそこで退却し、定州へ向かった。刺史の楊津が自分に異心ありと疑っていると聞き、州の南の仏寺に留まった。三日三夜滞在した後、 都督 ととく の毛諡ら六七人を召し、腕と肩を合わせて誓約を結び、危難の際には互いに救い助け合うことを約束した。毛諡は深の意図が怪しいと疑い、密かに楊津に告げて言った、深は謀反を企てていると。楊津は毛諡に深を討たせ、深は逃げ出し、毛諡は叫び声をあげて追跡した。深は側近とともに博陵郡の境界まで行き、賊の遊騎に出会い、そこで葛栄のもとに引き出された。賊徒は深を見て、喜ぶ者も多かった。葛栄は新たに自立したばかりで、内心深を憎んでおり、ついに深を殺害した。荘帝は王爵を追復し、 司徒 しと 公を追贈し、諡を忠武とした。

子の湛は、字を士深といい、若い頃から風格があった。荘帝の初め、封を襲いだ。孝静帝の初め、累進して冀州刺史となり、任地で収奪を重ね、風教と政治を立てなかった。入朝して侍中となり、後に司州牧を代行した。時に斉の献武王( 高歓 こうかん )が宰相となり、湛にかなりの器量と声望があるとして、上奏して超拜して太尉公とした。薨じ、仮黄鉞・大司馬・ 尚書令 しょうしょれい を追贈され、諡を文献といった。初め、湛は名声と地位が次第に重くなり、声色に耽溺し、初めは婢の紫光を尚書郎中の宋遊道に与えたが、後に私的に寵愛し、冀州に出る際、密かに連れ去った。遊道は大いに騒ぎ立て、紫光は湛の父が寵愛したもので、湛の母が自分に与えたものだと主張し、公文書で争おうとした。長い間やっと収まったが、論者は双方を非難した。

湛の弟の瑾は、尚書祠部郎であった。後に斉の文襄(高澄)を殺害しようと謀ったが、事が漏れ、一族ことごとく処刑された。

湛の子の法輪は、紫光が生んだ子である。斉王(高洋)は湛の滅亡を哀れみ、上奏してこれを赦し、その爵位と封土を回復させた。

南安王

南安王の余は、真君三年に呉王に封ぜられ、後に南安王に改封された。世祖が急逝すると、中常侍の宗愛が皇太后の令を偽って余を迎え立て、その後で喪を発した。大赦を行い、年号を永平と改めた。余は順序を越えて立ったことを自覚し、臣下に厚く賞を与え、大衆の歓心を買おうとした。長夜の飲宴を行い、音楽を絶やさず、一ヶ月ほどの間に国庫は空になった。特に狩猟を好み、出入りに節度がなく、辺境が危急を告げても余は顧みず、百姓は憤慨したが、余は平然としていた。宗愛の権勢の横暴は日増しに甚だしく、朝廷内外は恐れた。余は宗愛が変事を謀ろうとしていると疑い、その権力を奪おうとしたので、宗愛は怒り、余が宗廟を祭った際、夜に余を殺害した。高宗は王の礼で葬り、諡を隠といった。

【論】

論じて言う、太武帝の子たちは、秦(南安王余)・晋(広陽王深)ともに才能賢明であった。しかし翰の遇いは残酷であり、禍福は測りがたいものである。臨淮王( 拓跋 たくばつ 譚)の後裔では、彧が盛んな徳を示し;広陽王(拓跋建)の家系では、嘉が実に美しく、深が元徽に憎まれたのは、いわゆる盗人が憎むという道理である。作(南安王余)が殺されたのは、晩年を築くことができなかったということか。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻18