巻16

清河王

清河王 拓跋 たくばつ 紹は、天興六年に封ぜられた。凶暴で残忍、邪悪で道理に悖り、教訓に従わなかった。軽率に里巷を遊び歩き、通行人を脅して掠奪し、犬や豚を斬り射って、これを戯れ楽しみとした。太祖(道武帝)はかつて彼を怒り、逆さ吊りにして井戸の中に垂らし、死にかけてから引き上げた。太宗(明元帝)は常に正しい道をもって彼を責めたので、遂に不仲となり、常に彼が変事を起こすことを恐れた。時に紹の母の夫人賀氏が咎めを受け、太祖は彼女を宮中に幽閉し、殺そうとした。日が暮れたため、決断がつかなかった。賀氏は密かに紹に告げて言う、「汝はどうやって我を救うつもりか」。紹は夜に帳下の者及び宦官数人と共に、宮を越えて禁制を犯した。左右の侍御が叫んで言う、「賊が来た」。太祖は驚いて起き上がり、弓や刀を求めたが見つからず、遂に突然 崩御 ほうぎょ した。翌日、宮門は正午になっても開かず、紹は詔を称して百官を西宮の端門の前で北面して立たせ、紹は門扉の間から群臣に向かって言う、「我に父あり、また兄あり、公卿は誰に従おうとするか」。王公以下は皆驚愕して顔色を失い、答える者はいなかった。しばらくして、南平公長孫嵩が言う、「王に従います」。群臣はようやく宮車(帝の乗り物)が晏駕(帝の崩御)したことを知ったが、登遐(崩御)の状況は詳らかでなく、ただ陰平公元烈のみが泣きながら去った。ここにおいて朝野は騒然とし、人々は異心を抱いた。肥如侯賀護が安陽城の北で烽火を上げると、かつての 賀蘭部 がらんぶ の人々は皆これに赴き、その他の旧部も子弟を率いて族人を招き集め、あちこちで集結した。紹は人心が不安であると聞き、布帛を出して王公以下に班賜し、上は数百匹、下は十匹を与えた。

先に、太宗(明元帝)は外におり、変事を聞いて帰還し、山中に潜み、人を遣わして夜に北新侯安同に告げると、衆は皆これに応じた。太宗が城西に至ると、衛士が紹を捕らえて送ってきた。ここにおいて紹母子に死を賜い、帳下の宦官や宮人で内応した者十数人を誅し、先に乗輿(帝の車)を犯した者については、群臣が城南の都街で生きながら細かく切り刻んで食べた。紹は時に十六歳であった。紹の母は即ち献明皇后の妹であり、美しく麗しかった。初め太祖が賀蘭部に行き、彼女を見て悦び、献明后に告げて、娶りたいと請うた。后は言う、「いけない。これは美しすぎて善からず、しかも既に夫がある」。太祖は密かに人に命じてその夫を殺して娶り、紹を生んだが、終に大逆に至ったのである。

陽平王

陽平王拓跋熙は、天興六年に封ぜられた。聡明で物事に通じ、高雅な操行を持ち、宗族から欽慕され重んじられた。太宗が東部で兵を治めると、詔して熙に十二軍の校閲を監督させたが、軍儀をよく心得ており、太宗はこれを嘉し、賞賜は厚かった。後に西部の越勤を討ち、功績があった。泰常六年に薨じ、時に二十三歳。太宗は哀慟して止まず、温明祕器(副葬品の漆器)を賜い、礼物を整えた。熙に七子があった。

長子の拓跋他は、爵を襲った。身長八尺、姿形美しく、性質は謹み厚く、武芸は人に優れていた。世祖(太武帝)に従って西河で山胡の白龍を討ち、その城を屠り、別に余党を破り、数千級を斬首した。臨淮王に改封され、鎮東将軍に任ぜられた。まもなく淮南王に改封され、使持節・ 都督 ととく 洛河南諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司を除かれ、虎牢を鎮守した。威名は甚だ著しかった。後に武昌王拓跋提と共に 并州 へいしゅう 諸軍を率いて河西で吐京の叛胡曹僕渾を討ち、これを平定した。使持節・前鋒大将軍・ 都督 ととく 諸軍事に任ぜられ、北へ 蠕蠕 じゅんじゅん を討ち、これを破り、軍需物資を比干城に運んだ。劉義隆(宋の文帝)が将を遣わして辺境を侵すと、彼は懸瓠での征討に従い、これを破った。使持節・ 都督 ととく 雍秦二州諸軍事・鎮西大将軍・開府儀同三司・雍州 刺史 しし に任ぜられ、 長安 ちょうあん を鎮守した。秦の地を綏撫し、民夷の心を得た。時に義隆が南辺を侵したため、彼の威信が平素より著しいとして、再び虎牢鎮都大将となった。高宗(文成帝)の時、使持節・ 都督 ととく 涼州諸軍事・鎮西大将軍に転じ、儀同は元の通り。高祖(孝文帝)の初め、入朝して中都大官となり、 侍中 じちゅう に任ぜられ、征西大将軍に転じ、 司徒 しと に遷った。安車と几杖を賜り、朝に入るに趨走しなかった。太和十二年に薨じ、七十三歳。時に高祖は宗廟の祭祀を行おうとしており、初めて供物を薦げようとした時、 薨去 こうきょ を聞き、このために祭祀を中止した。輿駕自ら臨み、哀慟し、詔して有司に喪事を監護させ、礼と賵(贈り物)を加増した。平東大将軍・定州牧を追贈され、 司徒 しと は元の通り。 おくりな して靖王という。彼に三子があった。

世子の吐萬は、早世し、冠軍将軍・ へい 州刺史・ しん 陽順侯を追贈された。

子の拓跋顯は、祖父の爵を襲った。薨じ、諡して僖王という。

子の世遵が襲封した。世宗(宣武帝)の時、前軍将軍・行幽州事・兼西中郎将に任ぜられ、また行青州事を兼ねた。まもなく ぎょう 騎将軍に遷った。出て征虜将軍・幽州刺史となった。世遵の性質は清らかで温和、誠意を推し及ぼして教化導き、百姓はこれを喜んだ。肅宗(孝明帝)の時、本官の将軍として荊州刺史となった。まもなく前将軍を加えられた。初め漢陽にいた時は、また名声と事績があったが、後にはかなり賄賂を行い、辺境の備蓄を浪費したため、これによって声望を損なった。沔南の蛮の首長及び襄陽の民望が密書を送って世遵を誘い、襄陽を以て内附することを請うた。世遵は表を上って応援に赴くことを求め、朝議はこれに従い、詔して世遵に持節・ 都督 ととく 荊州及沔南諸軍事・平南将軍を加え、 散騎常侍 さんきじょうじ を加え、その他は元の通りとした。洛州刺史伊瓫生、冠軍将軍・魯陽太守崔模を別将として遣わし、歩騎二万を率いて世遵の節度を受けた。軍が漢水に至ると、模らは皆渡河を疑ってためらった。世遵は怒り、兵を以て臨むと、模はようやく渡河した。しかし内応者の謀略が漏れ、蕭衍(梁の武帝)の雍州刺史に殺され、城門を築いて自らを固めた。模は襄陽の邑郭を焼き、数万口を焼き殺した。ちょうどその夜は大風雨雪となり、模らは軍を返し、士卒の凍死者は十二三に及んだ。世遵及び瓫生、模は共に連座して免官された。後に 散騎常侍 さんきじょうじ ・平北将軍・定州刺史を除かれ、百姓はこれを安んじた。孝昌元年、州において薨じた。 散騎常侍 さんきじょうじ ・征西将軍・雍州刺史を追贈され、諡して康王という。

子の敬先が襲封した。諫議大夫・ 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任し、主衣都統を領した。元顥が 洛陽 らくよう に入り、莊帝が北巡した時、敬先は叔父の均らと河梁で義兵を起こしたが、顥のために害された。侍中・車騎大将軍・ 太尉 たいい 公・定州刺史を追贈された。

子の宣洪が襲封した。諫議大夫・光祿少卿を歴任した。武定年中、元瑾と謀反を図り、誅殺され、封国は除かれた。

世遵の弟の均、 あざな は世平。累遷して通直常侍・征虜将軍となった。河梁で義兵を立てた功績により、安康県開国伯に封ぜられ、食邑五百戸を賜り、 散騎常侍 さんきじょうじ ・平東将軍を除かれた。卒し、使持節・征東将軍・青州刺史を追贈された。出帝(孝武帝)の時、再び驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈された。均に六子があった。

長子の忻之は、性質が粗野で武骨、幼少より気力があった。初官は定州平北府中兵参軍、次第に 尚書 しょうしょ 右中兵郎に遷った。河渚で義兵を起こした勲功により、東阿侯の爵を賜った。初め、孝莊帝が尒朱栄と元天穆を除こうと図った時、忻之は密かに上啓し、事の起こる日に、侍立することを得て、自ら二人を斬りたいと乞うた。栄が死んだ時、百官が入朝して祝賀したが、忻之だけは特に労問を受けた。莊帝が しん 陽で崩御すると、忻之は内心恐れた。斉献武王( 高歓 こうかん )が河北で義兵を起こすと、忻之はこれに奔赴した。後廃帝(廃帝元朗)の時、 散騎常侍 さんきじょうじ ・大丞相右長史を除かれた。出帝(孝武帝)の初め、先の封である安康県開国伯を襲封し、撫軍将軍・北徐州刺史を除かれた。便道で州に赴く途中、樊子鵠が瑕丘に拠って反したため、遂に中途で害された。王事のために死んだとして、使持節・ 都督 ととく 定殷二州諸軍事・驃騎大将軍・ 司空 しくう 公・定州刺史を追贈され、諡して文貞という。

忻の弟慶鸞は、武定末年に 司徒 しと 諮議参軍となった。

慶鸞の弟慶哲は、司農少卿の任で終わり、中軍将軍・済州刺史を追贈された。

均の弟禹は、容貌魁偉であった。 司空 しくう 参軍として起家し、符璽郎・太常丞・鎮遠将軍・東海太守(峒峿戍主を兼帯)に転じた。禹は内学を好み、しばしば晋の地に福ありと云い、孝昌末年に遂に尒朱栄のもとに赴いた。建義元年、栄とともに洛陽に入る。中軍将軍・金紫光禄大夫に除され、鄄城県開国伯に封ぜられ、邑五百戸を賜り、 へい 州東面大 都督 ととく となり、楽平を鎮守した。栄の死後、土民の王悪氈が義兵を起こしてこれを殺した。後に征西将軍・雍州刺史を追贈された。

子の長淵は爵を襲った。武定年間、南青州長史となった。斉が禅を受けると、爵は例により降格された。

禹の弟菩薩は、給事中となった。卒し、済南太守を追贈された。

吐萬の弟鍾葵は、早世した。

長子の法寿は、侍御中散となり、累遷して中散大夫となった。出て龍驤将軍・安州刺史に除された。法寿は先に親しい者に微服で境に入らせ、風俗を観察させ、下車早々大いに賞罰を行い、これにより境内は粛然とした。任期満了して朝廷に還ると、吏民が宮闕に詣で訴えて留任を乞い、粛宗はこれを嘉し、詔して州の任に復させた。後に太中大夫に徴され、左将軍を加えられた。平東将軍・光禄大夫に遷った。建義初年、河陰において害に遇い、車騎将軍・相州刺史を追贈された。

子の慶始は、大司農丞となった。父と同時に害に遇った。前将軍・広州刺史を追贈された。

慶始の弟慶遵は、武定末年に瀛州騎府司馬となった。

慶遵の弟慶智は、容貌美しく、机案の才(文書処理の才)があった。著作佐郎・ 司徒 しと 中兵参軍となった。太尉主簿の任で卒した。

法寿の弟法僧は、太尉行参軍より次第に転じて通直郎、寧遠将軍、 司徒 しと ・司馬掾、龍驤将軍、益州刺史となった。元来治績の才幹なく、これに貪虐を加え、殺戮を己の任とし、威怒常ならず。王・賈などの諸姓、州内の人士を、法僧は皆卒伍(兵卒)として召し、少しも寛容を加えなかった。ここにおいて合境皆反し、外寇を招き入れた。蕭衍は将の張斉を遣わし衆を率いて攻め逼り、城門は昼も閉ざされ、行旅通ぜず。法僧は上表して曰く、「臣は遠方を守るに忝くし、変は慮外に生じ、賊衆は侜張し、所在強盛なり。統内の城戍は悉く既に陥没し、近州の民も亦皆擾乱し叛く。ただ州治のみ僅かに存するのみ。亡滅の期は、旦かならずば夕べならん。臣自ら思忖するに、必ずや死人とならん。ただ罪を闕庭に謝し得ざるを恐るるのみ。既に宗枝に忝くし、累辱浅からず。若し死して鬼とならば、永く天顔を曠うし、九泉の下、実に深く重恨なり。今、使者を募り間行せしめ、路を潜り奔り告げしむ。若し台軍速やかに至らば、猶全保を希わん。使者を送りて哭し、言う所を知らず」。粛宗は詔して曰く、「比来傅竪眼に倍道兼行を勅したるも、未だ達せず。更に尚書郎の幹事に堪える者一人を遣わし馳驛して催遣せしむべし。庶幾くは彼の倒懸を抜き、茲の危急を救わん」。竪眼は頻りに張斉を破り、ここにおいて全きを得た。光禄大夫に徴され、出でて平東将軍・兗州刺史となり、転じて安東将軍・徐州刺史となった。孝昌元年、法僧は行台の高諒を殺し、彭城において反し、自ら尊号を称し、年号を天啓と号した。大軍討伐に至り、法僧は諸子を携え、城内及び文武の官を擁掠して、南奔して蕭衍に奔った。

鍾葵の弟篤は、字を阿成という。太子右率・北中郎将・撫冥鎮将・光禄卿となった。出でて平北将軍・幽州刺史に除された。卒し、諡して貞といった。

長子の浩は、字を洪達という。太尉長史となった。

他の弟渾は、叔父の広平王連の後を継いだ。

渾の弟比陵は、太延五年に 司空 しくう となり、䍧牱公の爵を賜った。安遠将軍・懐荒鎮大将に除された。卒した。

子の天琚は爵を襲い、高祖の時に征虜将軍・青州刺史となった。従駕して南征し、後将軍に拝され、まもなく公から侯に降格され、西中郎将を除された。世祖の時、征虜将軍・夏州刺史となった。卒し、本官の将軍・済州刺史を追贈された。子の延伯が襲爵した。卒した。

河南王

河南王の曜は、天興六年に封ぜられた。五歳の時、太祖の前で雀を射て、これを射当て、太祖は驚嘆した。成長すると、武芸は人に絶し、陽平王の熙らと共に諸軍を督して武を講じ、人々は皆その勇を服した。泰常七年に薨じ、時に二十二歳であった。七人の子があった。

長子の提は、 ぎょう 烈にして父の風あり。世祖の時、爵を襲い、潁川王に改封された。塞北より昭儀を迎え、時に十六歳、夙成の器量あり、異域もこれを敬った。後に武昌に改封された。使持節・鎮東大将軍・平原鎮都大将に拝された。在任十年、大いに威名を著した。後に淮南王の他と共に吐京の叛胡を討平し、使持節・車騎大将軍・統万鎮都大将に遷り、馬百匹、羊千口を賜り、甚だ寵待された。太安元年に薨じ、四十七歳、諡して成王という。

長子の平原は爵を襲い、忠果にして智略あり。顕祖の時、蠕蠕が塞を犯すと、従駕してこれを撃ち、平原の戦功が多かった。仮節・ 都督 ととく 斉兗二州諸軍事・鎮南将軍・斉州刺史に拝され、懐撫に善くし、辺民で帰附するもの千余家余りあった。

高祖の時、妖賊の司馬小君が、自ら晋の後裔を称し、党三千余人を聚め、平陵に屯聚し、年号を聖君と号した。郡県を攻破し、長吏を殺害した。平原は自ら討撃し、七人を殺し、小君を擒らえ、京師に送って斬った。また妖人の劉挙が、自ら天子を称し、百姓を扇惑した。再びこれを討ち斬った。時に穀物が登らず、斉の民は飢饉に陥り、平原は私米三千余斛をもって粥とし、もって民命を全うした。北州の戍卒一千余人、還る者には皆路糧を与えた。百姓は皆これを称詠した。州民の韓凝之ら千余人が、闕に詣でてこれを頌し、高祖は覧て嘉嘆した。

京師に還ると、毎年諸軍を率いて漠南に屯し、蠕蠕に備えた。 都督 ととく 雍秦梁益四州諸軍事・征南大将軍・開府・雍州刺史に遷り、長安を鎮めた。太和十一年に薨じ、本官を以て追贈し、羽葆・鼓吹を加え、諡して簡王という。五人の子があり、長子の和は沙門となり、その子の顕を捨て、爵を次弟の鑒に譲った。鑒は固く辞したが、詔して鑒の身終わった後に、顕に爵を襲わせることを許し、鑒は乃ちこれを受けた。

鑒は、字を紹達という。少くして父の風あり、頗る書伝を覧る。沈重にして寡言、寛和にして士を好む。通直 散騎常侍 さんきじょうじ に拝され、まもなく冠軍将軍を加えられ、河南尹を守った。車駕が南伐するに、鑒を平南将軍とし、還ると、左衛将軍を除し、出でて征虜将軍・斉州刺史となった。時は革変の始め、百度惟新、鑒は上は高祖の旨に遵い、下は斉の旧風を採り、軌制は粲然として、皆規矩に合った。高祖はその上るところを覧て、嗟美すること久しく、侍臣を顧みて曰く、「諸州刺史皆能く此くの如くならば、風を変え俗を易えること、更に何か難からん」と。詔を下して褒美し、天下に班し、一に鑒の上るところの如くせしめた。斉人は愛詠し、皆耳目新たなりと曰う。高祖崩御の後、和は沙門を罷めて俗に帰り、その妻子を棄て、寡婦の曹氏一人を納れて妻とした。曹氏は年歯既に長じ、男女五人を携えて鑒に随い歴城に至り、政事に干乱した。和と曹及び五人の子は七箇所で受納し、鑒は皆その意に順い、言うこと従わざるはなかった。ここに於いて獄は賄を以て成り、取受狼籍し、斉人はこれを苦しみ、鑒の治名は大いに損なわれた。

世宗の初め、本官の将軍を以て転じて徐州刺史となった。時に徐兗は大水に属し、民多く飢饉に陥り、鑒は表して賑恤を加えることを請い、民はこれに頼って救済された。先に、京兆王の愉が徐州に在った時、王は既に年少で、長史の盧淵は寛を以て下を馭し、郡県多く法を奉じなかった。鑒は表して曰く、「梁郡太守の程霊虬は、唯酒に耽り、貪財を事とし、虐政は民を残し、寇盗並び起こり、黷音悖響、道路に盈ち、部境は呼嗟し、僉に焉んぞ怨酷せざる。梁郡は偽畿に密邇し、醜声は布き易く、直ちに清風を点ずるのみならず、臣は荒遠に嗤を取らんことを恐る。請う、居る官を免じ、以て刑憲を明らかにせん」と。詔して霊虬の郡を免じ、京師に徴還し、ここに於いて徐の境は肅然とした。

蕭衍の角城戍主の柴慶宗が、城を以て内附したので、鑒は淮陽太守の呉秦生に兵千余を率いて赴かせた。衍の淮陰援軍は既に来たりて路を断ったが、秦生は屡戦してこれを破り、勝に乗じて進み、遂に角城を克った。世宗は鑒に詔して曰く、「角城を摧くを知り、威謀展称し、良に欣然たり。此の城は淮滸を襟帯し、川路衝要、昔より経算し、能くこれを克つこと能わず、蟻固積紀、毎に辺害を成す。将軍淵規潜運し、妙略克宣し、境を闢き城を克ち、功著わして日を俟たず、要を据え喉を扼し、津径勢阻、勲高く三捷すと謂うべく、朕甚だ嘉とす。守御の諸宜、善く量度を以てし、矜慰の使は、尋いで別に遣わさん」と。年四十二で薨じ、衛大将軍・斉州刺史を追贈し、王は故の如く、諡して悼王という。

長子の伯宗は員外郎、次子の仲淵は蘭陵太守。共に早卒した。仲淵の弟の季偉は、武定中、太尉中兵参軍となった。

和は、字を善意という。鑒の薨じた後、鑒の子の伯宗と競って承襲を求めた。 尚書令 しょうしょれい の肇が奏して曰く、「和は太和中に出でて沙門となり、爵を鑒に譲る。鑒は後に和の子の顕が弱冠の年に在り、宜しく基緒を承くべしとして、王爵を遜り正胤に帰せんことを求む。先朝は詔して鑒の身終わるを聴き、その請いの如くせしむ。鑒既に薨逝し、和は襲封を求む。謹んで詔旨を尋ぬるに、子の顕に伝うるを聴き、その身を許さず。和は先に譲り後に求め、道素に乖く。請う、伯宗に承襲せしめん」と。世宗は詔して曰く、「和初めに鑒に譲り、而して鑒は還ってその子に譲る。交譲の道、ここに於いて著わる。その子早く終わる。和の襲うを聴くべし」と。まもなく諫議大夫・兼太子率更令に拝され、転じて通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・兼東中郎将となった。粛宗の時、出でて輔国将軍・涼州刺史となったが、事に坐して免ぜられた。久しくして、東郡太守を除された。正光四年に薨じ、安東将軍・相州刺史を追贈された。

子の謙は、字を思義といい、爵を襲いだ。後に前軍将軍・征蛮 都督 ととく に拝された。荘帝の初め、河陰に於いて害に遇った。 散騎常侍 さんきじょうじ ・征東大将軍・儀同三司・相州刺史を追贈された。子の棽が襲爵した。斉が禅を受けると、爵は例により降格された。

鑒の弟の栄は、字を瓫生という。高祖の時、直寢となり、従駕して新野を征した。羽林監に終わった。

栄の弟の亮は、字を辟邪という。威遠将軍・羽林監となった。卒し、河間太守を追贈された。

亮の弟の馗は、字は道明である。太尉府行参軍・ 司徒 しと 掾・鎮遠将軍・太僕少卿を歴任した。外任として安西将軍・東秦州刺史に任ぜられた。建義の初め、州において卒去し、征東将軍・青州刺史を追贈された。

河間王

河間王の脩は、天賜四年に封ぜられた。泰常元年に薨去し、子がなかった。

世祖は絶えた家系を継承せしめ、詔して河南王曜の子の けつ 児に脩の爵を襲封させ、略陽に改封した。後に永昌王健とともに諸軍を督して番和において禿髪保周を討ち、張掖の民数百家を武威に移住させたが、諸将とともに私的にこれを没収した。貪暴の罪により坐し、爵を降格されて公となった。後に河西諸軍を統率して蠕蠕を襲撃し、漠南に至った。やがて王爵を回復し、征西大将軍を加えられた。正平の初め、罪有りて死を賜り、爵は除かれた。

長楽王

長楽王の処文は、天賜四年に封ぜられた。聡明で弁舌に優れ、早くから成器であった。十四歳の時、泰常元年に薨去し、太宗はこれを悼み傷み、小斂から葬儀に至るまで、常に自ら臨んで哀慟した。金陵に陪葬された。子がなく、爵は除かれた。

広平王

広平王の連は、天賜四年に封ぜられた。始光四年に薨去し、子がなかった。

世祖は絶えた家系を継承せしめ、陽平王熙の第二子の渾を南平王とし、連の後を継がせ、平西将軍を加えた。渾は弓馬を好み、鳥を射れば必ず飛翔中にこれを殺し、当時の人々は皆嘆異した。世祖はかつて左右の者に分かれて射させ、勝者が的に中れば籌が満ち、詔して渾にこれを解かせたところ、三発とも命中し、世祖は大いに喜んだ。その技芸才能を重んじ、常に侍らせて左右に引き、馬百匹、僮僕数十人を賜った。後に仮節・ 都督 ととく 平州諸軍事・領護東夷 校尉 こうい ・鎮東大将軍・儀同三司・平州刺史に任ぜられ、和龍に鎮した。州にあっては綏撫導引に方策有り、民夷これを悦んだ。涼州鎮将・ 都督 ととく 西戎諸軍事・領護西域 校尉 こうい に転じ、御馬二匹を賜った。鎮守に臨んで清廉謹慎であり、恩恵は涼土に著しかった。任期満了して還京する際、父老は皆涕泣して追送し、親しい者と別れるが如かった。太和十一年、車駕に従って方山を巡幸し、途中で薨去した。

子の飛龍が襲封し、後に名を霄と賜った。身長九尺、腰帯十囲、容貌魁偉であった。風儀に優れ、貞白にして卓然としており、直言正諫を好み、朝臣はこれを憚った。高祖は特に欽重を垂れ、宗正卿・右光禄大夫に任じ、詔して曰く「今より奏事においては、諸臣が互いに称するには姓名を云うべし。ただ南平王一人のみ、その封を直言すべし」と。左光禄大夫に遷った。太和十七年に薨去し、朝服一具・衣一襲・東園第一秘器・絹千匹を賜った。高祖は緦衰して霄の喪に臨み、左右を哀慟させ、宴席では楽を挙げさせなかった。衛将軍・定州刺史を追贈し、帛五百匹を賜った。諡して安王といった。

子の纂が襲封した。纂もまた当時に誉れ有り、恢武将軍に任ぜられ、平西将軍に進み、西中郎将を領し、外任として安北将軍・平州刺史となった。景明元年、 平城 へいじょう において薨去した。

子の伯和が襲封した。永平三年に薨去し、散騎侍郎を追贈され、諡して哀王といった。

(欠落)統が卒し、涼州刺史を追贈された。

子の思略は、武定末年に瀛州治中であった。

思略の弟の叔略は、武定年間に太尉主簿であった。

京兆王

京兆王拓跋黎は、天賜四年に封ぜられ、神䴥元年に薨去した。

子の拓跋根は襲封し、江陽王に改封され、平北将軍を加えられた。薨去し、子がなく、顕祖(文成帝)は南平王拓跋霄の第二子を以て拓跋根の後を継がせた。

拓跋継は、字を世仁という。江陽王を襲封し、平北将軍を加えられた。高祖(孝文帝)の時、使持節・安北将軍・撫冥鎮都大将に任ぜられ、 都督 ととく 柔玄・撫冥・懐荒三鎮諸軍事・鎮北将軍・柔玄鎮大将に転じた。内に入って左衛将軍となり、侍中を兼ね、また中領軍を兼ね、洛京を留守した。まもなく持節・平北将軍に任ぜられ、旧都を鎮撫した。

高車 こうしゃ の酋帥樹者が部民を擁して反乱を起こすと、詔により拓跋継は 都督 ととく 北討諸軍事とされ、懐朔より以東はすべて拓跋継の節度に従うこととなった。拓跋継は上表して言うには、「高車の頑迷な徒党は、威厳と法度を識らず、軽率に集結し、役務を背いて逃亡帰還しております。その凶悪な行状を考えれば、事は窮極に至るべきですが、すべてを追捕して誅戮すれば、かえって擾乱を招く恐れがあります。使者を派遣して鎮ごとに別に推問調査させ、罪過の首謀者一人を斬り、残りは慰撫して諭し、悔い悟って役務に従う者があれば、ただちに軍に赴かせるよう請います。」詔はこれに従った。ここにおいて反乱の徒は次々と帰順した。高祖はこれを良しとし、侍臣を顧みて言った、「江陽王はまことに大任に足る人物である。」車駕が北巡し、 ぎょう に至ると高車はすべて降伏し、恒州・朔州は平定された。拓跋継は高車の擾乱反叛の責任をとり、頻繁に上表して罪を請うたが、高祖は優詔を下して諭した。

世宗(宣武帝)の時、征虜将軍・青州刺史に任ぜられ、平北将軍・恒州刺史に転じ、内に入って度支尚書となった。拓跋継が青州にいた頃、民は飢餓に苦しんでいたが、家の僮僕に民の娘を娶らせて妾とさせ、また良民を婢とするなどし、御史の弾劾を受け、官爵を免ぜられた。後に大将軍高肇が蜀を征伐する際、世宗は拓跋継を平東将軍とし、徐州・揚州を鎮圧させた。世宗が崩御すると、軍を返した。

霊太后が臨朝すると、拓跋継の子の元叉が先に太后の妹を娶っていたため、拓跋継は尚書・本来の封爵を回復され、まもなく侍中・領軍将軍に任ぜられた。さらに特進・驃騎将軍に任ぜられ、侍中・領軍はもとのままとした。拓跋継は頻繁に上表して固辞したので、許された。また詔により以前の授与に戻すよう命じられた。太師高陽王元雍、 太傅 たいふ 清河王元懌、 太保 たいほう 広平王元懐および門下八座は、上奏して拓跋継の太和年間における高車の慰撫、四鎮の安輯の功績を追論し、封邑一千五百戸を増やすよう請うた。拓跋継はまた上表して辞退を陳べたので、詔は五百戸を減ずることを聴許した。霊太后は子の元叉が姻戚であるため、しばしば粛宗(孝明帝)とともに拓跋継の邸宅に行幸し、酒宴を設けて盛会とし、下賜を加えた。まもなく侍中・驃騎大将軍・儀同三司を加えられ、特進・領軍はもとのままとした。京兆王に転封された。拓跋継は多年にわたり病を患い、家で療養していたが、霊太后と粛宗が外に遊幸するたびに、時に命じて扶け入れさせ、禁中に留まって守らせた。節慶の宴饗の際には、皆、病をおして参加した。 司空 しくう 公に遷り、侍中はもとのままとした。寛和で度量が広く、長者と称された。

神亀の末、子の元叉が権勢を得ると、 司徒 しと 公に転じ、引き続き侍中を加えられた。拓跋継は藩王として、宿宦の旧貴であり、高祖の時に内外の顕職を歴任し、待遇はすでに厚かった。霊太后が臨朝すると、心膂として内に入り、門下に兼ねて処し、台司を歴転し、元叉もまた権勢の地位にあり、一世を栄華で赫奕とさせた。拓跋継は頻繁に上表して退位を請い、 司徒 しと を崔光に授けるよう乞うた。詔は侍中安豊王元延明、給事黄門侍郎盧同を派遣して敦め勧めさせた。拓跋継はまた啓上して固く辞退し、太保に転じ、侍中はもとのままとし、後部鼓吹を加えられた。頻繁に上表して辞退を陳べたが、許されなかった。詔に曰く、「佳節良辰には、礼に朝賀があり、親族の尊長や戚族の長老には、理に優遇すべきである。王は位高く年長の宿老であるから、斉郡王元簡の故事に依り、朝賀の後、座に引き入れ、拝伏を免ぜよ。」太傅に転じ、侍中はもとのままとした。頻繁に辞退したが許されず、また使者を派遣して敦め勧めさせ、ようやくこれを受けた。当時、元叉は生殺与奪の権を握り、威福を己れのものとし、門生故吏が省闥に遍くおり、拝受の日には、見送りの者が朝廷を傾け、当世はこれを栄誉とし、識者はこれに危惧を抱いた。太官が酒食を供給し、賓客をもてなした。また詔により歩輓に乗って殿庭に至ることを許し、二人が扶侍し、礼秩は丞相高陽王と同等であった。後に使持節・侍中・太師・大将軍・録尚書事・大 都督 ととく に任ぜられ、西道諸軍を節度した。出師の日に際しては、車駕が臨んで餞別し、朝廷を挙げて路次で送り、下賜は万を数えた。太尉公に転じ、侍中・太師・録尚書・ 都督 ととく はすべてもとのままとした。まもなく詔により軍を返した。拓跋継は啓上して江陽王に復することを求め、詔はこれに従った。

拓跋継は晩年ますます貪婪となり、聚斂をやめなかった。牧守令長で新たに任官に赴く者は、賄賂を受け取らずに託付する者はなかった。妻子もそれぞれ別に請託し、ついには郡県の微吏に至るまで、公平な選挙もできなくなった。元叉の威勢を頼み、法官も糾弾摘発できず、天下はこれを患った。元叉が罷免されると、拓跋継は家に廃された。初め、尒朱栄が直寝であった時、しばしば名馬を元叉に献上し、元叉は恩意をもって接したので、尒朱栄は大いにその恩を感じていた。建義の初め、再び拓跋継を太師・司州牧とした。永安二年に薨去し、仮黄鉞・ 都督 ととく 雍華涇邠秦岐河梁益九州諸軍事・大将軍・録尚書・大丞相・雍州刺史を追贈され、王はもとのままとした。諡して武烈といった。

元叉は、拓跋継の長子で、字は伯儁、小字は夜叉という。世宗の時、員外郎に任ぜられた。霊太后が臨朝すると、元叉が妹婿であるため、通直散騎侍郎に任ぜられた。元叉の妻は新平郡君に封ぜられ、後に 馮翊郡 ひょうよくぐん 君に遷り、女侍中に任ぜられた。元叉はこれにより威勢が日増しに盛んとなり、まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ 、光禄少卿に遷り、嘗食典御を領し、光禄卿に転じた。元叉の娘が夭折すると、霊太后は詔して曰く、「元叉の長女は、年齢は弱笄に垂れんとしていたが、急に夭喪した。悼み思いを兼ねるので、郷主を贈るべし。」まもなく侍中に遷り、その他の官はもとのままとし、領軍将軍を加えられた。門下に在り、禁兵を総べるにつけ、深く霊太后に信任委任された。

太傅清河王元懌は、親族の賢者として政を輔け、機密の事を参決したが、元叉が寵を恃んで驕慢で、欲望に限りがないのを、元懌は法をもって裁いた。元叉はその人となりを軽んじ、しばしばこれを排斥罷免しようとした。元叉はついに通直郎宋維に命じて、司染都尉韓文殊が謀反して元懌を立てようとしていると告発させ、元懌は罪に坐して拘禁された。後に徹底的に調査したが事実がなく、元懌は免ぜられたものの、なお兵衛を以て宮西の別館を守らせた。久しくして、元叉は元懌がついに己の害となると恐れ、侍中劉騰と密謀した。霊太后は当時嘉福殿におり、前殿に出御していなかった。劉騰は主食中黄門の胡玄度・胡定列を詐って取り、元懌を誣告させた。すなわち、胡玄度らに金帛を与え、毒薬を御食の中に置いて帝を害させ、自ら帝となることを望み、胡玄度兄弟に富貴を約束したというのである。劉騰はこれを詳細に奏上し、粛宗は聞いてこれを信じ、顕陽殿に出御した。劉騰は永巷門を閉ざし、霊太后は出ることができなかった。元懌が入ると、含章殿の後で元叉に出会い、徽章東閤に入ろうとしたが、元叉は声を厲して聴かなかった。元懌が「汝は謀反を企てるのか」と言うと、元叉は「元叉は謀反せず、ただ謀反人を縛ろうとするだけだ」と言った。元叉は宗士および直斎ら三十人に命じて元懌の衣袂を執らせ、含章東省に入れさせ、数十人に守らせた。劉騰は詔を称して公卿を召集し、大逆の罪に論ずることを議したが、皆元叉を畏憚し、異を唱える者はなかった。ただ 僕射 ぼくや 游肇のみが執意して同意しなかった。その言葉は彼の伝にある。元叉・劉騰は公卿の議を奉じて入奏し、間もなく事が許可され、夜中に元懌を殺した。ここにおいて霊太后の辞退を願う詔を偽造した。元叉はついに太師高陽王元雍らとともに政を輔け、常に禁中に直し、粛宗は姨父と呼んだ。

その後、専ら機密の要務を総括し、大小事を決裁し、その威勢は内外に振るい、百官はその足跡を重んじた。相州刺史・中山王元熙が表を抗して義兵を起こし、元叉を討つことを名目としたが、果たせず、誅殺された。元叉はまもなく衛将軍に遷り、その他の官職はもとのままとした。後に霊太后と粛宗が西林園で宴を催し、日暮れに宮殿に還ると、右衛将軍奚康生がまた元叉を図ろうとしたが、成らずして誅殺された。その話は彼の伝にある。この後、粛宗は徽音殿に移り住み、元叉もまた殿の右に居を構えた。すでに密接な近くにあり、巧みに諂い媚びを尽くして、上の意を承け、ついに寵信を受けた。禁中に出入りし、常に勇士に刀剣を持たせて自らの前後に従わせ、公私の行動には、ますます威厳と防備を加えた。元叉は千秋門外の広場に木の欄干を設け、時に出入りしては、その中で休息し、腹心の者に守らせ、ひそかな発動に備え、人物が面会を求める者は、遠くから対面するのみであった。そこでその子元亮を平原郡開国公に封じ、食邑一千戸を与えた。拝命の際には、粛宗が南門に臨んで観覧し、併せて御馬と帛千匹を賜った。

初め、元叉が政権を専断した時は、感情を偽り自らを飾り、労を厭わず謙虚に士人を待遇し、時事の得失にも、かなり関心を示したが、才能と術策は空しく浅く、ついに遠大な志を成すことはなかった。志を得た後は、驕り高ぶって剛愎となり、酒と女色に耽り、与奪を気ままに行った。そこで禁中に別の倉庫を自ら造って掌握し、宝物を満ち溢れさせた。またかつて婦人を食輿に臥せさせ、布で覆い、人に輿に乗せて禁内に入らせ、出る時も同様にし、直衛の者らは知っていても、敢えて言う者はなかった。軽薄で勢いに趨る者どもは、酒色をもって彼に仕え、姑や姉妹、婦女らと、朋党を組んで淫らに交わり、区別がなかった。政事は怠惰となり、綱紀は挙がらず、州鎮の守宰は、多く適任者ではなかった。ここにおいて天下はついに乱れたのである。

劉騰が死んでから後、防衛はやや緩み、元叉もまたかなり自ら寛ぎ、時に外に宿泊し、毎日出遊して、他の邑に留まり耽った。霊太后は密かにこれを察知した。元叉は積み重なった習慣が常となり、再び憂慮することはなかった。その親しい者が元叉を諫めたが、元叉はまた受け入れなかった。正光五年の秋、霊太后は粛宗に対して群臣に言った、「私と子を隔絶し、私が子の間を行き来するのを聞き入れないなら、さらに私を何に用いるのか。私を出家させよ、私は永遠に人間界を絶ち、嵩高の閑居寺で修道する。先帝の聖なる鑑は、未然に鑑み、もとよりこの寺を営んだのは正に私の今日のためであった。」自ら髪を下ろそうとした。粛宗と群臣は大いに恐れ、頭を叩き涕を流し、懇ろに苦しく請願した。霊太后の声色は甚だ厳しく、その意志はまったく戻らなかった。粛宗はそこで嘉福殿に宿泊し、数日を経て、遂に太后と密かに元叉を図る謀議をした。粛宗は内ではこれを図りながらも、外見はますます密にし、霊太后の怒りを含んだ言葉や、顕陽殿に行き来したいという意向を、すべて元叉に告げた。また元叉に対して涕を流し、太后が出家を望み、憂い怖れる心を述べた。このような密言は、日に数度あった。元叉はまったく疑わず、かえって粛宗に太后の意に従うよう勧めた。ここにおいて太后はたびたび顕陽殿に臨み、二宮には再び禁制や障礙がなくなった。

元叉はその親族の元法僧を徐州刺史に推挙したが、法僧は州を拠って反逆した。霊太后はたびたびこのことを言上し、元叉は深く恥じ悔いた。丞相・高陽王元雍は、元叉よりも位は重かったが、甚だ畏れ憚り、粛宗に進言しようとしたが、事の契機がなかった。たまたま太后と粛宗が洛水に南遊する際、元雍が招待し、車駕はそこで元雍の邸宅に行幸した。日が暮れて、粛宗と太后が元雍の内室に入ると、従者は誰も入ることができず、そこで元叉を図る計略を定めた。後に元雍が粛宗に従って太后に朝見した時、進言して言った、「臣は天下の諸賊を慮りませんが、ただ元叉を慮ります。なぜか。元叉は禁旅を総握し、兵は皆これに属しています。父は百万の衆を率い、京西を虎視しています。弟は 都督 ととく として、三斉の衆を総べています。元叉に異心がなければよいが、もし異心があれば、聖朝は何をもって抗うのでしょうか。元叉は反逆しないと言いますが、誰がその心を見たでしょうか。恐れずにはいられません。」太后は言った、「その通りである。元郎がもし朝廷に忠誠で反逆の心がなければ、なぜこの領軍の職を去り、他の官職で政を輔けないのか。」元叉はこれを聞き、甚だ恐れ、冠を免じて解任を求めた。そこで元叉を驃騎大将軍・儀同三司・ 尚書令 しょうしょれい ・侍中・領左右とした。元叉は兵権を去ったが、なお内外の任を総べ、まったく罷免されることを慮らなかった。後に元叉が外に出て宿泊した時、その侍中の職を解かれた。朝になって宮殿に入ろうとしたが、門番は受け入れなかった。まもなく除名されて民とされた。

初め、咸陽王元禧が逆罪により誅殺された時、その子元樹は蕭衍に奔り、蕭衍は彼を鄴王に封じた。法僧の反逆の後、元樹は公卿百官に書を送り言った。

元叉は遠近からこのように憎まれたのである。

その後、霊太后は顧みて侍臣に言った、「劉騰と元叉はかつて朕に鉄券を求め、死なずに済むことを望んだが、朕は与えずに済んだ。」 中書 ちゅうしょ 舎人韓子熙が言った、「事は殺活に関わります。与えるか否かを計るべきでしょうか。陛下は昔与えられなかったとしても、どうして今日殺さないことを解するのでしょうか。」霊太后は憮然とした。まもなく、ある者が元叉とその弟元爪が謀反を企て、その党に近京の諸県を攻撃させ、市を破り邑郭を焼いて内外を驚動させようとし、先にその従弟の洪業に六鎮の降戸を率いさせて定州で反乱を起こさせ、また人をやって魯陽の諸蛮に伊闕を侵擾させ、元叉兄弟が内応する、と告げた。挙兵する日取りもあり、その手書を得た。霊太后は妹の夫であることを理由に、すぐに決断するに忍びなかった。黄門侍郎李琰之が言った、「元叉の罪は、遠近に明らかです。どうして再び留めて、視聴を惑わすことを許せましょうか。」黄門徐紇が進み出て諫めようとしたが、逡巡して敢えてしなかった。群臣が固執してやまず、粛宗もまた言上したので、太后はついにこれに従った。ここにおいて元叉と弟の爪はともに家で賜死された。太后はなお妹の縁故により、さらに元叉を追贈して侍中・驃騎大将軍・儀同三司・ 尚書令 しょうしょれい ・冀州刺史とした。

元叉の子元亮は、祖父の爵位を襲いだ。斉が禅譲を受けると、例によって降格された。

元叉の庶長子元稚は、秘書郎中であった。元叉が死んだ後、ついに逃亡して蕭衍に奔った。

元叉の弟元羅は、字を仲綱といい、倹素をもって著名であった。初め 司空 しくう 参軍事に起家し、転じて 司徒 しと 主簿となり、嘗食典御・散騎侍郎・ 散騎常侍 さんきじょうじ を領した。父兄が貴盛であったが、己を虚しくして謙退し、恭しく人と接した。平東将軍・青州刺史に遷った。元叉が朝政を専断した時、元羅の声望は四海に傾き、当時の才名ある士人王元景・邢子才・李奬らが皆その賓客となり、青土に従って遊んだ。時に蕭衍が将を遣わして辺境を寇したため、元羅を行撫軍将軍とし、青・光・南青三州諸軍事を 都督 ととく した。州を罷めると、入朝して宗正卿となった。孝庄帝の初め、尚書右僕射・東道大使に除された。出帝の時、 尚書令 しょうしょれい に遷り、まもなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・梁州刺史に除された。元羅はすでに懦怯であり、孝静帝の初め、蕭衍が将を遣わして包囲逼迫すると、元羅は州を挙げて降伏した。元叉が死んだ後、元羅は元叉の妻を逼迫し、当時の人はこれを穢らわしいとした。あるいはこれが救命の計略であったともいう。

元羅の弟元爽は、字を景喆という。幼少より機警で、特に父に寵愛された。初め秘書郎に解褐し、やがて給事黄門侍郎・金紫光禄大夫に遷った。永熙二年に卒し、使持節・ 都督 ととく 涇岐秦三州諸軍事・衛将軍・尚書左僕射・秦州刺史を追贈され、諡を懿といった。

元爽の子元徳隆は、武定末年に太子中庶子となった。

元爽の弟元蛮は、武定末年に光禄卿となった。

元爪は字を景邕といい、給事中であった。兄の元叉とともに罪により誅殺された。

元継の弟の羅侯は、洛陽遷都の際、墳陵が北にあることを理由に、ついに燕州の昌平郡に家を構えた。内には資産を豊かにし、ただ己の意を得ることを適とし、京師には入らなかった。賓客が往来する者は、必ず厚く礼遇して送り、北方に豪勢を据え、甚だ名声があった。元叉が権力を握ると、羅侯が仕官を好まないので、そのまま昌平太守に拝した。正光末年に、逆賊の大俄仏保が郡を陥落させ、害された。

子の景遵は、直寢となり、太常丞となった。

【論】

史臣が曰く、梟鏡というものは、天が実にこれを生み、母を知って父を忘れる、これもまた禽獣である。元紹という人物は、これに及ばないであろうか。陽平以下は、天年夭折し、英才武略は、時に顕れなかった。静・簡の二王は、時に首として称えられた。鑒は既に名声があり、渾もまた器量を見出された。霄は高祖の知遇を受け、継いで太和に任を受けた。もしその才がなければ、名位は徒らに及ぶことがあろうか。叉は寵私に縁って階位を得、智は小さく謀は大きく、任は重く才は弱く、遂に天下を乱し、身を殺して祀を全うした。これもまた幸いではなかったか。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻16