魏書

卷15 昭成子孫

卷15 昭成子孫

昭成皇帝の子孫

原文昭成子孫

拓跋寔君

原文拓跋寔君

寔君は、昭成皇帝の庶長子である。性質は愚かで頑な、残忍で仁愛に欠けていた。昭成皇帝の末年、苻堅がその行唐公苻洛らを遣わして南境を侵してきたので、昭成は劉庫仁を派遣して石子嶺で迎え撃たせた。昭成は当時病に臥せっており、自ら諸軍を統率することができず、諸部を率いて陰山に避難し、漠北を渡った。高車が四方から略奪を働いたので、再び漠南を渡った。苻洛の軍が退くと、雲中に帰還した。

原文寔君者,昭成皇帝之庶長子也。性愚戇,安忍不仁。昭成季年,苻堅遣其行唐公苻洛等來寇南境,昭成遣劉庫仁逆戰於石子嶺。昭成時不勝,不能親勒眾軍,乃率諸部避難陰山,度漠北。高車四面寇抄,復度漠南。苻洛軍退,乃還雲中。

初め、昭成皇帝は弟の孤に国を譲ったため、半部を孤に授けた。孤が没すると、その子の斤は職を失い怨みを抱き、隙をうかがって乱を起こそうとした。この時、献明皇帝および秦明王翰はいずれも先に亡くなっており、太祖は六歳、昭成は病に伏せり、慕容后の子の閼婆らは年長ではあったが、国の継承者は定まっていなかった。斤はこれに乗じて寔君に言った、「帝は慕容の生んだ子を立てようとしており、汝が変事を起こすことを恐れ、先に汝を殺そうとしている。このためここ数日来、諸皇子は戎服を着て夜な夜な武器を持ち、汝の住居を巡り、機会をうかがって発動しようとしている。私は哀れに思い、お前に告げるのだ」。当時、苻洛らの軍はなお君子津におり、夜は常に警戒を厳重にし、諸皇子は武器を携えて住居の間を徘徊していた。寔君が観察すると、斤の言葉を真実と信じ、配下を率いて諸皇子をことごとく害し、昭成もまた急死した。その夜、諸皇子の妃や宮人たちが苻洛の軍に駆け込み告げたので、苻堅の将である李柔・張蚝が兵を率いて内に迫り、部衆は離散した。苻堅はこれを聞き、燕鳳を召してその理由を問うと、状況を答えた。堅は言った、「天下の悪は一つである」。そこで寔君と斤を捕らえ、長安の西市で車裂きの刑に処した。

原文初,昭成以弟孤讓國,乃以半部授孤。孤卒,子斤失職懷怨,欲伺隙為亂。是時,獻明皇帝及秦明王翰皆先終,太祖年六歲,昭成不豫,慕容后子閼婆等雖長,而國統未定。斤因是說寔君曰:「帝將立慕容所生,而懼汝為變,欲先殺汝,是以頃日以來,諸子戎服,夜持兵仗,遶汝廬舍,伺便將發,吾愍而相告。」時苻洛等軍猶在君子津,夜常警備,諸皇子挾仗徬徨廬舍之間。寔君視察,以斤言為信,乃率其屬盡害諸皇子,昭成亦暴崩。其夜,諸皇子婦及宮人奔告苻洛軍,堅將李柔、張蚝勒兵內逼,部眾離散。苻堅聞之,召燕鳳問其故,以狀對。堅曰:「天下之惡一也。」乃執寔君及斤,轘之於長安西市。

寔君の孫の勿期は、定州刺史の位にあり、林慮侯の爵を賜った。没した。

原文寔君孫勿期,位定州刺史,賜爵林慮侯。卒。

子の六状は、真定侯である。

原文子六狀,真定侯。

秦明王

原文秦明王

秦明王翰は、昭成皇帝の第三子である。幼少より気概が高く、十五歳で早くも騎兵を率いて征討することを請うた。帝はその勇壮さを認め、二千騎を率いさせた。成長して兵を統べると、号令は厳正で信頼され、あちこち征討し、多く勝利を収めた。建国十年に没した。太祖が即位すると、秦王を追贈され、諡を明といった。

原文秦明王翰,昭成皇帝第三子。少有高氣,年十五便請率騎征討,帝壯之,使領二千騎。及長統兵,號令嚴信,周旋征討,多有克捷。建國十年卒。太祖即位,追贈秦王,諡曰明。

子の儀は、身長七尺五寸、容貌は甚だ魁偉で、美しい鬚髯をたくわえ、計略があり、幼少より剣舞ができ、騎射は人に抜きん出ていた。太祖が賀蘭部に行幸した際、侍従として出入りした。登国の初め、九原公の爵を賜った。諸部を破ることに従い、謀略と戦功があった。

原文子儀,長七尺五寸,容貌甚偉,美鬚髯,有算略,少能舞劍,騎射絕人。太祖幸賀蘭部,侍從出入。登國初,賜爵九原公。從破諸部,有謀戰功。

太祖が慕容垂を図ろうとした時、儀を派遣して隙をうかがわせた。垂が儀に太祖が自ら来ない理由を問うと、儀は言った、「先代以来、代々北土を拠点とし、子孫相承け、その旧を失いませんでした。そちらの祖は晋の正朔を受け、爵は代王と称し、東の燕とは代々兄弟の関係にありました。儀が命を受けて参りましたのは、道理に外れぬことと思われます」。垂はその答えに感心し、戯れて言った、「我が威は四海に及び、卿の主君は自ら我に会おうとしない。どうして道理に外れぬと言えようか」。儀は言った、「燕がもし文徳を修めず、兵威をもって自ら強くなろうと欲するならば、これは本朝の将帥の務めであり、儀の知るところではありません」。帰還して報告すると、「垂が死ねば図ることができますが、今はまだできません」。太祖は顔色を変えて問いただした。儀は言った、「垂は年も老いており、その子の宝は弱くて威がなく、謀も決断できません。慕容徳は自ら才気に任せており、弱い主君の臣下となる者ではありません。隙は内から起こるでしょう。これを計ることができます」。太祖はもっともだと思った。後に平原公に改封された。

原文及太祖將圖慕容垂,遣儀觀釁。垂問儀太祖不自來之意,儀曰:「先人以來,世據北土,子孫相承,不失其舊。乃祖受晉正朔,爵稱代王,東與燕世為兄弟。儀之奉命,理謂非失。」垂壯其對,因戲曰:「吾威加四海,卿主不自見吾,云何非失?」儀曰:「燕若不修文德,欲以兵威自強,此乃本朝將帥之事,非儀所知也。」及還,報曰:「垂死乃可圖,今則未可。」太祖作色問之。儀曰:「垂年已暮,其子寶弱而無威,謀不能決。慕容德自負才氣,非弱主之臣。釁將內起,是可計之。」太祖以為然。後改封平原公。

太祖が衞辰を征討した時、儀は別の道から出撃し、衞辰の死体を獲得し、その首を行宮に伝送した。太祖は大いに喜び、東平公に転封した。河北に屯田を監督することを命じられ、五原から棝楊塞外まで、農耕を分担させ、大いに人心を得た。慕容宝が五原を侵した時、儀は朔方を押さえてその帰路を遮った。并州が平定されると、儀の功績が多く、尚書令に昇進した。中山包囲に従軍した。慕容徳が敗れた時、太祖は普驎の妻の周氏を儀に賜い、その僮僕財物も合わせて与えた。まもなく都督中外諸軍事・左丞相に昇進し、衞王に進封された。中山が平定されると、再び儀を派遣して鄴を討伐させ、平定した。太祖が代都に帰還しようとした時、中山に行臺を設置し、詔で儀に尚書令を守らせてこれを鎮めさせると、遠近の者が帰順した。まもなく儀を召還して丞相として輔佐に入らせた。また高車征討に従軍した。儀は別働隊で西北からその別部を破った。また姚平討伐に従い、功績があり、絹・布・綿・牛・馬・羊などを賜った。儀は膂力が人に優れ、弓の力は十石に近く、陳留公の虔は矟が大きくて異様であった。当時の人は言った、「衞王の弓、桓王の矟」。

原文太祖征衞辰,儀出別道,獲衞辰尸,傳首行宮。太祖大喜,徙封東平公。命督屯田於河北,自五原至棝楊塞外,分農稼,大得人心。慕容寶之寇五原,儀攝據朔方,要其還路。及并州平,儀功多,遷尚書令。從圍中山。慕容德之敗也,太祖以普驎妻周氏賜儀,并其僮僕財物。尋遷都督中外諸軍事、左丞相,進封衞王。中山平,復遣儀討鄴,平之。太祖將還代都,置中山行臺,詔儀守尚書令以鎮之,遠近懷附。尋徵儀以丞相入輔。又從征高車。儀別從西北破其別部。又從討姚平,有功,賜以絹布綿牛馬羊等。儀膂力過人,弓力將十石;陳留公虔,矟大稱異。時人云:「衞王弓,桓王矟。」

世祖が初めて誕生した時、太祖は喜び、夜に儀を召し入れた。太祖は言った、「卿は夜に呼び出されても、怪しみ恐れないのか」。儀は言った、「臣は誠を推して陛下に仕えており、陛下が明察であられるので、臣は常に安んじております。突然夜の詔を奉じ、怪しいと思うことはありますが、恐れることはまったくありません」。太祖は世祖の誕生を告げると、儀は起きて拝礼し歌舞し、夜明けまで対飲した。群臣を召し入れ、儀に御馬・御帯・縑錦などを賜った。

原文世祖之初育也,太祖喜,夜召儀入。太祖曰:「卿聞夜喚,乃不怪懼乎?」儀曰:「臣推誠以事陛下,陛下明察,臣輒自安。忽奉夜詔,怪有之,懼實無也。」太祖告以世祖生,儀起拜而歌舞,遂對飲申旦。召羣臣入,賜儀御馬、御帶、縑錦等。

これより先、上谷の侯岌・張兗、代郡の許謙らは当時名を知られ、学問は古今に博く、初めて国に入った時、儀が士を待遇すると聞き、まず儀のもとに赴いた。儀は彼らをともに礼遇し、共に当世の事務を談じ、山河を指画し、城邑を分別し、成敗の要害を、即座にことごとく挙げた。謙らは感服し、互いに言った、「平原公は世に並ぶ者のない大才と謀略をお持ちだ。我々はその末尾に付き従うべきである」。

原文先是,上谷侯岌、張兗,代郡許謙等有名于時,學博今古,初來入國,聞儀待士,先就儀。儀並禮之,共談當世之務,指畫山河,分別城邑,成敗要害,造次備舉。謙等歎服,相謂曰:「平原公有大才不世之略,吾等當附其尾。」

太祖は儀の器量と声望を重んじ、特に厚く待遇し、しばしばその邸宅に行幸し、家族の礼のようにした。儀は功を誇り寵を恃み、宜都公の穆崇と謀って乱を起こし、武士を潜ませて太祖をうかがい、逆をなそうとした。崇の子の遂留が潜んでいた武士の中にいたが、太祖が彼を召し、何か用事をさせようとした。遂留は召されたと聞き、発覚を恐れ、塀を越えて状況を告げた。太祖は秘密にし彼を許した。天賜六年、天文に多く変化があり、占者は「逆臣があり、死体が横たわり血が流れるであろう」と言った。太祖はこれを憎み、公卿を多く殺し、天災を鎮めようとした。儀は内心安からず、単騎で逃げ出した。太祖は人をやって追わせ捕らえさせ、ついに死を賜い、庶人の礼で葬った。儀には十五人の子があった。

原文太祖以儀器望,待之尤重,數幸其第,如家人禮。儀矜功恃寵,遂與宜都公穆崇謀為亂,伏武士伺太祖,欲為逆。崇子遂留在伏士中,太祖召之,將有所使。遂留聞召,恐發,踰牆告狀,太祖祕而恕之。天賜六年,天文多變,占者云「當有逆臣伏尸流血」。太祖惡之,頗殺公卿,欲以厭當天災。儀內不自安,單騎遁走。太祖使人追執之,遂賜死,葬以庶人禮。儀十五子。

子の纂は、五歳の時、太祖が命じて宮中で養育させた。幼少より聡明で機敏、動作や立ち居振る舞いに礼があり、太祖はこれを愛し、恩寵は諸皇子と同じであった。世祖が践祚すると、定州刺史に任じ、中山公に封じられ、さらに王に進爵し、歩挽几を賜って優遇した。纂は酒を好み佞臣を愛し、政治は賄賂によって成り立ち、世祖はその寵愛する側近を殺した。後に過ちを悔い謹みを修め、内大將軍に拝された。官に在っては清廉で倹約、簡素で慎重であり、一層廉潔公平と称された。纂は宗族の中で最も年長であり、宗室に事があると、皆彼に諮問した。薨じ、諡を簡といった。

原文子纂,五歲,太祖命養於宮中。少明敏,動止有禮,太祖愛之,恩與諸皇子同。世祖踐阼,除定州刺史,封中山公,進爵為王,賜步挽几以優異之。纂好酒愛佞,政以賄成,世祖殺其親嬖人。後悔過修謹,拜內大將軍。居官清約簡慎,更稱廉平。纂於宗屬最長,宗室有事,咸就諮焉。薨,諡曰簡。

纂の弟の良は、性質が忠実篤実であった。太宗は儀の功績を追録し、南陽王に封じて儀の後を継がせた。

原文纂弟良,性忠篤。太宗追錄儀功,封南陽王以紹儀後。

良の弟の幹は、機知に富み沈着で勇猛、弓馬をよくし、若くして父の風があった。太宗が即位すると、内将軍・都將に任じられ、禁中に入って守備した。太宗が白登の東北に出遊したとき、幹は騎兵を率いて従った。二羽の鳶が飛び鳴きながら上を過ぎたので、太宗は左右の者に射させたが、誰も当てられなかった。鳶が旋回してやや高く飛ぶと、幹は自ら射ることを請い、二本の矢で二羽の鳶を落とした。太宗はこれを賞賛し、御馬・弓矢・金帯一を賜ってその才能を顕彰した。軍中ではこれより「射鳶都將」と号した。世祖の南巡に従い、爵を進めて新蔡公となった。高宗が即位すると、都官尚書に任じられた。卒し、諡して昭といった。

原文良弟幹,機悟沉勇,善弓馬,少有父風。太宗即位,拜內將軍、都將,入備禁中。太宗出遊於白登之東北,幹以騎從。有雙鴟飛鳴於上,太宗命左右射之,莫能中。鴟旋飛稍高,幹自請射之,以二箭下雙鴟。太宗嘉之,賜御馬弓矢金帶一,以旌其能,軍中於是號曰「射鴟都將」。從世祖南巡,進爵新蔡公。高宗即位,拜都官尚書。卒,諡曰昭。

子の禎は、諸方の言語に通解し、騎射に長じた。世祖のとき、司衞監となった。蠕蠕征討に従軍し、突然賊の別部と遭遇したが、多寡敵せず、禎は山に就いて鞍を解き馬を放ち、伏兵があることを示した。賊は果たして疑って避けた。

原文子禎,通解諸方之語,便騎射。世祖時,為司衞監。從征蠕蠕,忽遇賊別部,多少不敵,禎乃就山解鞍放馬,以示有伏,賊果疑而避之。

高祖の初め、沛郡公の爵を賜った。後に南豫州刺史に任じられた。大胡山の蛮がしばしば掠奪を働き、前後の守牧は多く羈縻するのみであった。禎は策を設け、新蔡・襄城の蛮の首魁三十余人を召し、禎は武裝を整え、州の西で酒宴を設け、彼らに射技を見せた。まず左右の能射の者二十余人を選び、禎自ら数箭を放って皆命中させ、それから左右の者に順次射させ、ことごとく命中した。先に死罪の囚人一人を出し、軍服を着せて射の列に加えさせ、射て命中しなかったので、禎はただちに責めて斬った。蛮の首魁らはその技に伏し威を畏れ、互いに見合わせて股が慄いた。またあらかじめ左右の者に教えて死囚十人を連れて来させ、皆蛮の衣服を着せ、掠奪賊であると偽った。禎は座に臨み、偽って目を挙げて天を眺め、微かに風が動くと、禎は蛮らに言った。「風気が少し荒れているようだ。掠奪賊が境内に入ったようで、十人を超えず、西南五十里ばかりにあるだろう。」即ち騎兵を命じて追撃させ、果たして十人を縛って送って来た。禎は諸蛮に告げて言った。「お前たちの郷里の者がこのように賊を働くのは、死罪に当たるか?」蛮らは皆叩頭して言った。「万死に当たります。」禎は即座に彼らを斬った。そして蛮らを帰し、併せて慰諭を加えた。諸蛮は大いに服し、これより境内に暴掠はなく、淮南の人々が相率いて投附した者は三千余家に及び、城東の汝水の側に置いて、帰義坊と名付けた。

原文高祖初,賜爵沛郡公。後拜南豫州刺史。大胡山蠻時時鈔掠,前後守牧多羈縻而已。禎乃設畫,召新蔡、襄城蠻魁三十餘人,禎盛武裝,於州西為置酒,使之觀射。先選左右能射者二十餘人,禎自發數箭皆中,然後命左右以次而射,並中。先出一囚犯死罪者,使服軍衣,亦參射限,命射不中,禎即責而斬之。蠻魁等伏伎畏威,相視股慄。又預教左右取死囚十人,皆著蠻衣,云是鈔賊。禎乃臨坐,偽舉目瞻天,微有風動,禎謂蠻曰:「風氣少暴,似有鈔賊入境,不過十人,當在西南五十里許。」即命騎追掩,果縛送十人。禎告諸蠻曰:「爾鄉里作賊如此,合死以不?」蠻等皆叩頭曰:「合萬死。」禎即斬之。乃遣蠻還,并加慰諭。諸蠻大服,自是境無暴掠,淮南之人相率投附者三千餘家,置之城東汝水之側,名曰歸義坊。

初め、豫州城の豪族胡丘生はしばしば外部と通じていた。禎が刺史となると、丘生はかつて罪を犯し、恨みを抱いて不軌を図り、婚姻を詐って城中の人に告げて言った。「刺史は城中の大家を移住させ、代に送ろうとしている。」共に城を覆そうと謀った。城中の者石道起が事を密かに禎に告げ、速やかに丘生及び諸々の謀に預かった者を捕らえるよう勧めた。禎は言った。「私は人に背かない。人がどうして叛くことがあろうか。ただ丘生が誑かしているだけだ。もし即座に捕らえれば、人々は必ず大いに恐れる。私は静かに待とう。間もなく自ら悔いて服するだろう。」言葉が終わらないうちに、城中の三百人が自ら縛られて州の門に至り、丘生の欺誑の罪を陳述した。丘生は単騎で逃走した。禎はこれを許して問わなかった。

原文初,豫州城豪胡丘生數與外交通。及禎為刺史,丘生嘗有犯,懷恨圖為不軌,詐以婚進城人告云:「刺史欲遷城中大家,送之向代。」共謀翻城。城人石道起以事密告禎,速掩丘生并諸預謀者。禎曰:「吾不負人,人何以叛,但丘生誑誤。若即收掩,眾必大懼。吾靜以待之,不久自當悔服。」語未訖,而城中三百人自縛詣州門,陳丘生譎誑之罪。丘生單騎逃走。禎恕而不問。

後に召されて都牧尚書となった。薨じ、侍中・儀同三司を追贈され、諡して簡公といった。八人の子があった。

原文後徵為都牧尚書。薨,贈侍中、儀同三司,諡簡公。有八子。

第五子は瑞である。初め瑞の母の尹氏は、妊娠中に傷ついた。後に昼寝をしていると、一人の老翁が衣冠を整えて告げる夢を見た。「私は汝に一子を授けよう。心配するな。」目覚めてひそかに喜んだ。また筮者に問うと、筮者は言った。「大吉である。」間もなく瑞が生まれたので、禎は夢に符合すると考え、よって名を瑞とし、字を天賜とした。位は太中大夫に至った。卒し、太常卿を追贈された。

原文第五子瑞。初瑞母尹氏,有娠致傷。後畫寢,夢一老翁具衣冠告之曰:「吾賜汝一子,汝勿憂之。」寤而私喜。又問筮者,筮者曰:「大吉。」未幾而生瑞,禎以為協夢,故名瑞,字天賜。位太中大夫。卒,贈太常卿。

儀の弟の烈は、剛武で智略があった。元紹の逆乱のとき、百官は声をあげる者もなかったが、ただ烈だけが外に出て行き、偽って紹に附き太宗を捕らえることを募った。紹はこれを信じ、自ら延秋門から出て、遂に太宗を迎え立てた。功により爵を進めて陰平王となった。薨じ、諡して熹といった。子の裘が襲封した。

原文儀弟烈,剛武有智略。元紹之逆,百僚莫敢有聲,惟烈行出外,詐附紹募執太宗。紹信之,自延秋門出,遂迎立太宗。以功進爵陰平王。薨,諡曰熹。子裘襲。

烈の弟の觚は、勇略があり胆気があり、若くして兄の儀と共に太祖に従い、侍衞して左右に仕えた。慕容垂に使いしたが、垂の末年、政は群下にあり、遂に觚を留めて賂を求めた。太祖はこれと絶交した。觚は左右の数十騎を率い、その衞将を殺して走り帰った。慕容宝に捕らえられ、中山に帰され、垂はますます厚く遇した。觚はここにおいて学業に心を留め、経書を数十万言誦読し、垂の国の人々は皆これを称え重んじた。太祖が中山を討ったとき、慕容普驎が既に自立し、遂に觚を害して衆心を固めようとした。太祖はこれを聞いて哀慟した。中山が平定されると、普驎の柩を発き、その尸を斬り、觚を害することを議した高霸・程同等を捕らえ、皆五族を誅し、大刃で剉き殺した。そして觚を改葬し、秦愍王と追諡し、子の夔を豫章王に封じて觚の後を継がせた。

原文烈弟觚,勇略有膽氣,少與兄儀從太祖,侍衞左右。使於慕容垂,垂末年,政在羣下,遂止觚以求賂。太祖絕之。觚率左右數十騎,殺其衞將走歸。為慕容寶所執,歸中山,垂待之逾厚。觚因留心學業,誦讀經書數十萬言,垂之國人咸稱重之。太祖之討中山,慕容普驎既自立,遂害觚以固眾心,太祖聞之哀慟。及平中山,發普驎柩,斬其尸,收議害觚者高霸、程同等,皆夷五族,以大刃剉殺之。乃改葬觚,追諡秦愍王,封子夔為豫章王以紹觚。

常山王

原文常山王

常山王遵は、昭成帝の子の寿鳩の子である。若くして壮勇で、小節に拘らなかった。太祖の初め、佐命の勲があり、略陽公の爵を賜った。慕容宝が敗れたとき、別に騎兵七百を率いてその帰路を遮り、これによって参合の捷を得た。中山が平定されると、尚書左僕射に任じられ、侍中を加えられ、勃海の合口を領した。博陵・勃海で群盗が起こると、遵はこれを討平した。州牧に遷り、常山王に封じられた。遵は酒を好み、天賜四年、酔って乱れ太原公主に失礼した罪により、死を賜い、庶人の礼で葬られた。

原文常山王遵,昭成子壽鳩之子也。少而壯勇,不拘小節。太祖初,有佐命勳,賜爵略陽公。慕容寶之敗也,別率騎七百邀其歸路,由是有參合之捷。及平中山,拜尚書左僕射,加侍中,領勃海之合口。及博陵、勃海羣盜起,遵討平之。遷州牧,封常山王。遵好酒,天賜四年,坐醉亂失禮於太原公主,賜死,葬以庶人禮。

子の素は、太宗の従母(母の姉妹)が生んだ子で、特に親愛寵遇された。若くして内侍に引き入れられ、頻りに顕官を歴任し、尚安公の爵を賜り、外都大官に任じられた。世祖の初め、再び爵を襲いだ。休屠郁原らが叛くと、素はこれを討ち、渠率を斬り、千余家を涿鹿の陽に移し、平原郡を立てて彼らを処置した。統万が平定されると、素に威懐の略があるとして、仮節・征西大将軍に任じてこれを鎮守させた。後に内都大官に任じられた。高宗が即位すると、寛征を崇めることに務め、諸々の雑調を罷めた。有司が国用不足を奏上し、固くその復活を請うたが、ただ素が言った。「臣は聞く、『百姓足らざれば、君孰れと足らん』と。」帝は善しとしてこれに従った。詔して群臣に皇子の名を議定させると、素及び司徒の陸麗が議して言った。「古の帝王の名を制する体には五つあります。信あり、義あり、象あり、仮あり、類あり。伏して惟うに、陛下は盛明の運に当たり、昌発の期に応じ、皇子を誕生させられました。宜しく徳をもって命ずべきです。」高宗はこれに従った。素は宗属の美であり、また年老いていたので、帝はしばしば引き入れて、治国の政事を訪ねた。固く病を辞して邸に帰った。雅性方正で、官に居ること五十載、終始一貫し、時の論はこれを賢とした。薨じ、諡して康といい、金陵に陪葬され、廟庭に配饗された。

原文子素,太宗從母所生,特見親寵。少引內侍,頻歷顯官,賜爵尚安公,拜外都大官。世祖初,復襲爵。休屠郁原等叛,素討之,斬渠率,徙千餘家於涿鹿之陽,立平原郡以處之。及平統萬,以素有威懷之略,拜假節、征西大將軍以鎮之。後拜內都大官。高宗即位,務崇寬征,罷諸雜調。有司奏國用不足,固請復之,惟素曰:「臣聞『百姓不足,君孰與足。』」帝善而從之。詔羣臣議定皇子名,素及司徒陸麗議曰:「古帝王之制名,其體有五:有信,有義,有象,有假,有類。伏惟陛下當盛明之運,應昌發之期,誕生皇子,宜以德命。」高宗從之。素宗屬之懿,又年老,帝每引入,訪以治國政事。固辭疾歸第。雅性方正,居官五十載,終始如一,時論賢之。薨,諡曰康,陪葬金陵,配饗廟庭。

長子の可悉陵は、十七歳のとき、世祖の狩猟に従い、一頭の猛虎に遇うと、陵は遂に空手でこれを搏って献じた。世祖は言った。「汝の才力は人に絶する。国に事を立てるべきである。このようなことをするな。」即座に内行阿干に任じた。また涼州平定に従った。沮渠茂虔が一騎の驍将をして陵と相撃たせると、両方の槊が皆折れた。陵は箭を抽いてこれを射ると、馬から墜ちた。陵はその救援が来るのを恐れ、剣を抜く暇もなく、刀子でその頸を戾し、身首を異処にさせた。世祖はその勇壮を称え、即日に都幢将に任じ、暨陽子に封じた。中軍都將の任で卒した。

原文長子可悉陵,年十七,從世祖獵,遇一猛虎,陵遂空手搏之以獻。世祖曰:「汝才力絕人,當為國立事,勿如此也。」即拜內行阿干。又從平涼州。沮渠茂虔令一驍將與陵相擊,兩槊皆折。陵抽箭射之,墜馬,陵恐其救至,未及拔劍,以刀子戾其頸,使身首異處。世祖壯之,即日拜都幢將,封暨陽子。卒于中軍都將。

弟の陪斤が爵を襲ったが、事に坐して封国を除かれた。

原文弟陪斤,襲爵,坐事國除。

陪斤の子の昭は、字を阿倪といい、尚書の張彝が引いて殿中郎を兼ねさせた。高祖が斉郡王簡のために哀悼の礼を挙げようとしたとき、昭は宮懸(天子の楽器)を作った。高祖は大いに怒り、詔して曰く、「阿倪は愚かで痴れている。誰が郎に引いたのか」と。ここにおいて彝を白衣のまま尚書を守らせて罷免し、昭は遂に停廃された。世宗の時、昭の従弟の暉が親寵されて権勢を握り、昭は次第に左丞に昇進した。世宗が崩御すると、于忠が政権を握り、昭は黄門郎となり、また曲げて彼に仕えた。忠が専権を振るい威を擅にする中、忠賢を枉げて陥れること多く、昭の指導による所が多かった。霊太后が臨朝すると、尚書・河南尹となった。耳が聞こえず、頑なで残忍で、事務の処理が峻烈で性急であり、任地では人々に恐れられた。まもなく雍州刺史として出向し、州では貪欲で暴虐であり、人々に大きな害を与えた。後に召されて尚書となり、劉騰に諂い仕えて、征西将軍の号を進めた。卒去し、尚書左僕射を追贈された。元叉に賄賂を贈ったため、贈礼が優越していた。

原文陪斤子昭,小字阿倪,尚書張彝引兼殿中郎。高祖將為齊郡王簡舉哀,而昭乃作宮懸。高祖大怒,詔曰:「阿倪愚騃,誰引為郎!」於是黜彝白衣守尚書,昭遂停廢。世宗時,昭從弟暉親寵用事,稍遷左丞。世宗崩,于忠執政,昭為黃門郎,又曲事之。忠專權擅威,枉陷忠賢,多昭所指導也。靈太后臨朝,為尚書、河南尹。聾而佷戾,理務峭急,所在患之。尋出為雍州刺史,在州貪虐,大為人害。後入為尚書,諂事劉騰,進號征西將軍。卒,贈尚書左僕射。納貨元叉,所以贈禮優越。

昭の子の玄は、字を彦道といい、節倹をもって知られた。荘帝の時、洛陽令となった。前廃帝が即位すると、玄は上表して荘帝の葬儀を乞い、当時の議論はこれを良しとした。後に尚書左丞に任じられた。出帝が即位すると、孫騰を左僕射とした。騰は即ち斉献武王の腹心である。仗(儀仗)を従えて省(尚書省)に入ると、玄は法に基づいて弾劾した。当時の人々は皆、玄のことを恐れたが、出帝はその強直な正しさを重んじ、臨淄県子に封じた。後に帝に従って関中に入った。

原文昭子玄,字彥道,以節儉知名。莊帝時,為洛陽令。及前廢帝即位,玄上表乞葬莊帝,時議善之。後除尚書左丞。出帝即位,以孫騰為左僕射,騰即齊獻武王心膂。仗入省,玄依法舉劾,當時咸為玄懼,出帝重其強正,封臨淄縣子。後從帝入關。

昭の弟の紹は、字を醜倫という。幼少より聡明で慧くあった。尚書右丞に遷った。紹の裁断は強権を避けなかった。世宗が詔して趙脩の獄を検察させると、紹は脩が佞幸であるため、これによって杖罰を加え、死に至らしめた。帝は紹に重ねて上奏しなかったことを責めた。紹は曰く、「脩の奸佞は董賢よりも甚だしい。臣がもし機会を捉えてこれを除かなければ、陛下が再び哀帝の名を被られることを恐れます」と。その言葉が正しいため、遂に罪を問わなかった。退出するとき、広平王の懐が紹に拝礼し、賀して曰く、「阿翁はまさに皇家の正直であり、朱雲や汲黯とてどうしてこれを超えられようか」と。紹は曰く、「ただこれを殺すのがやや遅かったことを恨み、愧じるのみである」と。涼州刺史の任で卒去した。

原文昭弟紹,字醜倫。少聰慧。遷尚書右丞。紹斷決不避強禦。世宗詔令檢趙脩獄,以脩佞幸,因此遂加杖罰,令其致死。帝責紹不重聞。紹曰:「脩姦佞甚於董賢,臣若不因釁除之,恐陛下復被哀帝之名。」以其言正,遂不罪焉。及出,廣平王懷拜紹,賀曰:「阿翁乃皇家之正直,雖朱雲、汲黯何以仰過。」紹曰:「但恨戮之稍晚,以為愧耳。」卒於涼州刺史。

陪斤の弟の忠は、字を仙徳という。若い頃から沈着で篤実であり、忠実で謹直であることで知られた。高祖の時、累進して右僕射となり、城陽公の爵を賜り、侍中・鎮西将軍を加えられ、補佐の功労があり、百官皆これを敬った。太和四年、病が篤く辞退し、高柳で療養した。車駕は自ら都門の外まで見送り、雑綵二百匹を賜い、群僚侍臣で別れを告げる者、涙を流さない者はなかった。卒去すると、皆これを悼み惜しんだ。諡して宣といい、有司に命じて碑銘を立てさせた。十七人の子があった。

原文陪斤弟忠,字仙德。少沉厚,以忠謹聞。高祖時,累遷右僕射,賜爵城陽公,加侍中、鎮西將軍,有翼贊之勤,百僚咸敬之。太和四年,病篤辭退,養疾於高柳。輿駕親送都門之外,賜雜綵二百匹,羣僚侍臣執別者,莫不涕泣。及卒,皆悼惜之。諡曰宣,命有司為立碑銘。有十七子。

子の盛は、字を始興といい、爵を襲い、謁者僕射の位に至った。卒去した。

原文子盛,字始興,襲爵,位謁者僕射。卒。

盛の弟の寿興は、若い頃から聡明で慧く、学問を好んだ。世宗の初め、徐州刺史となり、官にあって貪欲で暴虐であり、人心を失った。その従兄の侍中暉は、その才能を深く妬み、帝に讒言した。詔して尚書の崔亮を駅馬で急行させ検察させた。亮が出発する日、暉の意を受けて、遂に三人の寡婦を鞭打ち、自らを誣告させ、寿興が己を圧迫して婢にしたと称させた。寿興はついに免れられないことを恐れ、その外弟の中兵参軍薛脩義に車十乗を率いさせ、小麦を運んでその禁制の傍を通らせた。寿興はこれに乗じて塀を越えて脱出した。脩義は大木の箱に寿興を収め、その上に麦を載せて運び出した。遂に河東に至り、脩義の家に匿われた。赦令に逢い、ようやく出て世宗に拝謁し、自ら暉に讒言されたことを陳述した。世宗もまたこれ以上責めることはなかった。

原文盛弟壽興,少聰慧好學。世宗初,為徐州刺史,在官貪虐,失於人心。其從兄侍中暉,深害其能,因譖之於帝,詔尚書崔亮馳驛檢覆。亮發日,受暉旨,遂鞭撻三寡婦,令其自誣,稱壽興壓己為婢。壽興終恐不免,乃令其外弟中兵參軍薛脩義將車十乘,運小麥經其禁之旁。壽興因踰牆出。脩義以大木函盛壽興,其上加麥,載之而出。遂至河東,匿脩義家。逢赦,乃出見世宗,自陳為暉所譖,世宗亦更無所責。

初め、寿興が中庶子であった時、王顕が東宮にいて身分が低く、公事によって寿興が彼を三十回杖打った。顕が寵愛を受けて御史中尉となると、寿興が家でしばしば怨言を吐き、朝廷を誹謗していると上奏した。帝が酒に酔って何も覚醒していない時に、遂にその事を上奏し、帝に注可(裁可の署名)を命じ、直接寿興に下して賜死させた。帝の書いた字は半分も字になっていなかった。当時見た者も本心でないことを知っていたが、ただ暉らの威勢を恐れ、敢えて救い出そうとはしなかった。刑が執行される日、顕は自ら見に行った。寿興は筆を命じて自ら墓誌銘を作り、「洛陽の男子、姓は元、名は景、道はあれども時にあわず、その年永からず」と記した。その他の文は多く記載されない。その子を顧みて言った、「我が棺の中に百枚の紙と筆二本を入れよ。我は地下で顕を訴えたい。もし高祖の霊に知るところあれば、百日の内に必ず顕を取るであろう。もし遂に知るところがなければ、また何を恋しむことがあろうか」と。世宗が崩御すると、顕はまもなく殺された。寿興の死は、当時の論議も前任の中尉が高〈闕〉を弾劾した讒言と諷刺によるものとされた。霊太后が臨朝すると、三公郎中の崔鴻が上疏して寿興の無実を訴え、詔して追って雪冤し、豫州刺史を追贈し、諡して庄といった。寿興の弟の益生は、若くして亡くなった。

原文初,壽興為中庶子時,王顯在東官,賤,因公事壽興杖之三十。及顯有寵,為御史中尉,奏壽興在家每有怨言,誹謗朝廷。因帝極飲無所覺悟,遂奏其事,命帝注可,直付壽興賜死。帝書半不成字,當時見者亦知非本心,但懼暉等威,不敢申拔。及行刑日,顯自往看之。壽興命筆自作墓誌銘曰:「洛陽男子,姓元名景,有道無時,其年不永。」餘文多不載。顧謂其子曰:「我棺中可著百張紙,筆兩枚,吾欲訟顯於地下。若高祖之靈有知,百日內必取顯,如遂無知,亦何足戀。」及世宗崩,顯尋被殺。壽興之死,時論亦以為前任中尉彈高〈闕〉讒諷所致。靈太后臨朝,三公郎中崔鴻上疏理壽興,詔追雪,贈豫州刺史,諡曰莊。壽興弟益生,少亡。

忠の弟の徳は、河間公に封じられた。鎮南将軍の任で卒去し、曹州刺史を追贈された。

原文忠弟德,封河間公。卒於鎮南將軍,贈曹州刺史。

徳の子の悝は、潁川太守となった。光州刺史の任で卒去し、諡して恭といった。

原文德子悝,潁川太守。卒於光州刺史,諡曰恭。

子の嶷は、字を子仲という。出帝の初め、兗州刺史を授かった。当時、城の住民の王奉伯らが相扇いで謀反を企てた。(嶷は)城を棄てて逃走し、懸門(跳ね上げ門)が作動して嶷の腰を〈闕〉断ち切って出た。詔して斉州刺史の尉景と本州刺史の蔡儁に、それぞれ州の兵士を率いて討伐に向かわせた。嶷は戻り、再び任に就いた。濮陽県伯に封じられた。孝静帝の時、尚書令に転じ、選部を管轄した。嶷は重任に居ながらも、時流に従うのみであった。瀛州刺史の任で薨去し、司徒公を追贈され、諡して靖懿といった。

原文子嶷,字子仲。出帝初,授兗州刺史。于時城人王奉伯等相扇謀逆。棄城出走,懸門發斷嶷要〈闕〉而出。詔齊州刺史尉景、本州刺史蔡儁各部在州士往討之,嶷返,復任。封濮陽縣伯。孝靜時,轉尚書令,攝選部。嶷雖居重任,隨時而已。薨於瀛州刺史,贈司徒公,諡曰靖懿。

忠の子の暉は、字を景襲という。若い頃から沈着で聡明で、広く文史に通じていた。世宗が即位すると、尚書主客郎に任じられた。風俗を巡視し、戻って奏上した事が旨に適い、給事黄門侍郎となった。

原文忠子暉,字景襲。少沉敏,頗涉文史。世宗即位,拜尚書主客郎。巡省風俗,還,奏事稱旨,為給事黃門侍郎。

初め、高祖が洛陽に遷都した時、在位の旧貴族は皆移徙を難しがり、当時は衆情を和合させようとし、遂に冬は南(洛陽)に居り、夏は北(平城)に居ることを許した。世宗は左右の言葉に惑わされ、外の人々には遂に北に還るという噂が立ち、田宅を売り払い、その居所を安んじない者まで出た。暉は機会を請うて事を言上した。世宗は曰く、「先皇が遷都された日、本来は冬は南、夏は北と期していた。朕は成詔に従おうと欲する故に、外の人々の論があるのだ」と。暉は曰く、「先皇が都を移されたのは、百姓が土地を恋しむためであり、故に冬夏二居の詔を発し、一時的に物情を安んじたに過ぎません。これは当時の言葉であって、実は先皇の深いお考えではありません。かつ北から遷って来た人々は、安住すること久しく、公私の生計も立ち、再び還る気はありません。陛下は高祖の定鼎の業を終えさせ、邪な臣下の根拠なき説を信じられませんように」と。世宗はこれに従った。

原文初,高祖遷洛,而在位舊貴皆難於移徙,時欲和合眾情,遂許冬則居南,夏便居北。世宗頗惑左右之言,外人遂有還北之問,至乃牓賣田宅,不安其居。暉乃請間言事。世宗曰:「先皇遷都之日,本期冬南夏北,朕欲聿遵成詔,故有外人之論。」暉曰:「先皇移都,為百姓戀土,故發冬夏二居之詔,權寧物意耳。乃是當時之言,實非先皇深意。且北來遷人,安居歲久,公私計立,無復還情。陛下終高祖定鼎之業,勿信邪臣不然之說。」世宗從之。

再び侍中に遷り、右衛将軍を兼任した。補益するところは無かったが、深く親寵を受けた。禁中における要密の事柄は全て、暉が別に奉旨を受けて櫃に蔵め、暉だけが入って開くことができ、その他の侍中・黄門で知る者はなかった。侍中の盧昶もまた恩寵を受けたので、当時の人々は「餓虎将軍、飢鷹侍中」と号した。

原文再遷侍中,領右衞將軍,雖無補益,深被親寵。凡在禁中要密之事,暉別奉旨藏之於櫃,唯暉入乃開,其餘侍中、黃門莫有知者。侍中盧昶亦蒙恩眄,故時人號曰「餓虎將軍,飢鷹侍中」。

吏部尚書に遷ると、賄賂によって官職を用い、全て定価があり、大郡は二千匹、次郡は一千匹、下郡は五百匹、その他の職を受けるにもそれぞれ差があり、天下は「市曹」と号した。冀州刺史として出向し、州を去る日、車を連ねて物を載せ、信都を発ち、湯陰の間に至るまで、首尾相継ぎ、道路が絶えなかった。その車に脂や角が少ないと、すぐに道上で出会った牛から、生きながら角を切り取って用を充てた。暉は丁戸を検括し、自首することを許し、調絹五万匹を徴発した。しかし聚斂は極まりなく、百姓はこれを患った。

原文遷吏部尚書,納貨用官,皆有定價,大郡二千匹,次郡一千匹,下郡五百匹,其餘受職各有差,天下號曰「市曹」。出為冀州刺史,下州之日,連車載物,發信都,至湯陰間,首尾相繼,道路不斷。其車少脂角,即於道上所逢之牛,生截取角以充其用。暉檢括丁戶,聽其歸首,出調絹五萬匹。然聚斂無極,百姓患之。

粛宗の初め、召されて尚書左僕射に任じられ、詔により吏部の選事を摂行する。上疏して曰く、「臣は聞く、人を治める根本は、実に牧守の官に委ねるにある。その才を得れば政は平らかで物は理に適い、その人を失えば訟は起こり怨みは結ぶ。善悪を察訪し、明らかに貶賞を加えずして、何をもってかかの貪怠を退け、この清勤を進めようか。ひそかに思うに、大使が巡省すれば、必ず迎送の費を広くし、御史が馳せて糾せば、頗る威濫の刑を回らす。かつ暫し往還するのみでは、理として委細に及ばず、仮に簡挙するも、良く平当ならざるべし。愚かには謂う、三司・八座・侍中・黄門に命じ、各々耳目を布かしめ、外に州鎮の牧将の治人、守令の能・不を訪わしむべきなり。若し徳教に方あり、清白独り著しき者は、宜しく名を聞かせ、即ち褒陟を加うべし。若し治績効なく、貪暴遠く聞こゆる者は、また便ち牒を示し、登時に貶退を加うべし。かくの如くすれば庭戸を出でずして、坐して四方を知り、端委垂拱し、明らかに賞し審らかに罰せん」と。また表して「御史の職は、鷹鸇の任たり、必ず爪牙を逞しくし、噬搏する所あらんことを要す。若し後生年少・血気方剛の者を選べば、その軽肆勁直、物を傷つけ処広きを恐る。愚かには謂う、宜しく宿官経事・忠良平慎の者を簡びてこれとなすべし」と。詔して外に付し、これに依り施行す。

原文肅宗初,徵拜尚書左僕射,詔攝吏部選事。上疏曰:「臣聞治人之本,實委牧守之官。得其才則政平物理,失其人則訟興怨結。自非察訪善惡,明加貶賞,將何以黜彼貪怠,陟此清勤也。竊以大使巡省,必廣迎送之費;御史馳糾,頗回威濫之刑。且暫爾往還,理不委悉,縱有簡舉,良未平當。愚謂宜令三司、八座、侍中、黃門,各布耳目,外訪州鎮牧將治人,守令能不。若德教有方,清白獨著,宜以名聞,即加褒陟。若治績無効,貪暴遠聞,亦便示牒,登加貶退。如此則不出庭戶,坐知四方,端委垂拱,明賞審罰矣。」又表以「御史之職,鷹鸇是任,必逞爪牙,有所噬搏。若選後生年少、血氣方剛者,恐其輕肆勁直,傷物處廣。愚謂宜簡宿官經事、忠良平慎者為之。」詔付外,依此施行。

後に詔して暉に任城王澄・京兆王愉・東平王匡と共に門下の大事を決せしむ。暉また上書して政要を論ず。「その一は曰く、御史の職は、務めて賢を得しめ、必ずその人を得、階秩に拘わらず、その事に久しくし、その成功を責むべし。その二は曰く、人を安んじ辺を寧んずるは、時に観て動くべし。頃来辺将は、遠大の略を亡くし、万一の功を貪り、楚梁の好は未だ聞こえず、而して蠶婦の怨みは屡々結ぶ。これ乃ち庸人の為す所、姦利に鋭きに致るなり。呉を平らげるの計は、自ら良図あり、一城一戍に在らず。また河北数州は、国の基本たり。飢荒多年、戸口流散す。方今境上の兵復た徴発せらる。即ちこの日の如く、何ぞ挙動し易からん。愚かには謂う、数年已来、唯だ辺を静めて以て占役を息め、人を安んじ農を勧め、この中夏に恵むべし。請う、厳しく辺将に勅し、今より賊戍内附を求むる者あれば、輒ち援接を遣わすことを聴かず、皆須らく表聞すべし。違う者は功有りと雖も、請う違詔書を以て論ずべし。三は曰く、国の資儲は、唯だ河北に藉る。飢饉積年、戸口逃散し、姦詐を生長し、因って隠匿を生じ、老小を出縮し、妄りに死失を注す。人の租調を収め、己に割き入る。人は下に困しみ、官は上に損ず。自ら権制を更に立て、善く検括を加えざれば、損耗の来たる、方に未だ已まざるべし。請うその議を求め、条格を明らかに宣すべし」と。帝これを受け入れる。

原文後詔暉與任城王澄、京兆王愉、東平王匡共決門下大事。暉又上書論政要:「其一曰:御史之職,務使得賢,必得其人,不拘階秩,久於其事,責其成功。其二曰:安人寧邊,觀時而動,頃來邊將,亡遠大之略,貪萬一之功,楚梁之好未聞,而蠶婦之怨屢結,斯乃庸人所為,銳於姦利之所致也。平吳之計,自有良圖,不在於一城一戍也。又河北數州,國之基本,飢荒多年,戶口流散。方今境上兵復徵發,即如此日,何易舉動。愚謂數年以來,唯宜靜邊以息占役,安人勸農,惠此中夏。請嚴勅邊將,自今有賊戍求內附者,不聽輒遣援接,皆須表聞,違者雖有功,請以違詔書論。三曰:國之資儲,唯藉河北。飢饉積年,戶口逃散,生長姦詐,因生隱藏,出縮老小,妄注死失。收人租調,割入於己。人困於下,官損於上。自非更立權制,善加檢括,損耗之來,方在未已。請求其議,明宣條格。」帝納之。

暉は頗る文学を愛し、儒士崔鴻等を招集し百家の要事を撰録し、類を以て相従え、名づけて科録と為し、凡そ二百七十巻、上は伏羲に起こり、晋・宋に迄り、凡そ十四代。暉疾篤く、表してこれを上ぐ。神龜元年卒す。東園の秘器を賜い、使持節・都督中外諸軍事・司空公を贈り、諡して文憲と曰う。葬らんとす、羽葆・班剣・鼓吹二十人、羽林百二十人を給う。

原文暉頗愛文學,招集儒士崔鴻等撰錄百家要事,以類相從,名為科錄,凡二百七十卷,上起伏羲,迄於晉、宋,凡十四代。暉疾篤,表上之。神龜元年卒,賜東園祕器,贈使持節、都督中外諸軍事、司空公,諡曰文憲。將葬,給羽葆、班劍、鼓吹二十人,羽林百二十人。

陳留王

原文陳留王

陳留王虔は、昭成の子紇根の子なり。少より壮勇を以て知られたり。登国の初め、爵を陳留公に賜う。衛王儀と共に黜弗部を破る。従って衛辰を攻む。慕容宝来寇す、虔その左翼を絶つ。宝敗れ、垂恚憤して桑乾に来る。虔勇にして敵を軽んじ、陳に於いて戦没す。

原文陳留王虔,昭成子紇根之子也。少以壯勇知名。登國初,賜爵陳留公。與衞王儀破黜弗部。從攻衞辰。慕容寶來寇,虔絕其左翼。寶敗,垂恚憤來桑乾。虔勇而輕敵,於陳戰沒。

虔姿貌魁傑、武力絶倫。常に常の矟細短きを以て、大いにこれを作すも猶その軽きを患い、復た鈴を刃下に綴る。その弓力常人に倍加す。その殊異世に於けるを以て、代京の武庫常に存してこれを志す。虔常に臨陣し、矟を以て人を刺し、遂に貫きて高く挙ぐ。また嘗て一手を以て矟を地に頓ち、馬を馳せて偽り退き、敵人は争って取り、引きて出でず、虔弓を引きてこれを射れば、一箭に二三人を殺し、矟を揺するの徒亡魂して散じ、徐かに乃ち人をして矟を取らしめて去る。毎に征討に従い、常に先んじて登り陳を陥れ、勇当時に冠たり。敵衆寡無く、その前に抗するを敢えてせざる者なし。及び薨ずれば、国を挙げて悲歎し、これが為に流涕す。太祖追惜し、傷慟すること数たびなり。追諡して陳留桓王と為し、廟庭に配饗し、その子悦を朱提王に封ず。

原文虔姿貌魁傑,武力絕倫。每以常矟細短,大作之猶患其輕,復綴鈴於刃下。其弓力倍加常人。以其殊異於世,代京武庫常存而志之。虔常臨陣,以矟剌人,遂貫而高舉。又嘗以一手頓矟於地,馳馬偽退,敵人爭取,引不能出,虔引弓射之,一箭殺二三人,搖矟之徒亡魂而散,徐乃令人取矟而去。每從征討,常先登陷陳,勇冠當時,敵無眾寡,莫敢抗其前者。及薨,舉國悲歎,為之流涕。太祖追惜,傷慟者數焉。追諡陳留桓王,配饗廟庭,封其子悅為朱提王。

悦は外和して内佷し。太祖常に桓王の王事に死するを以て、特ちに親寵を加う。左将軍と為り、封を襲う。後に宗師と為る。悦寵を恃み驕矜し、毎に親しむ所の王洛生の徒に言いて曰く、「一旦宮車晏駕せば、吾は止だ衛公を避け、これを除きて誰か吾が前に在らん」と。衛王儀は美髯、内外に重んぜらる。悦故に云う。初め、姚興の狄伯支を贖わんとするに、悦これを送り、路雁門に由る。悦因って背き誘い姦豪し、以てその意を取らんとす。後に事に遇い譴られ、逃亡し、雁門に投じ、規りて豪傑を収め、不軌を為さんと欲す。土人に執られて送られ、太祖これを恕して罪せず。太宗即位し、悦を引いて入侍せしむ。仍って姦計を懐き、帝に説いて云く、「京師の雑人は保信すべからず、宜しくその非類の者を誅すべし。また雁門人は多く詐り、並びにこれを誅すべし」と。以てその私忿を雪がんと欲す。太宗従わず。悦内に自ら疑懼し、刀を懐いて入侍し、大逆を謀る。叔孫俊これを疑い、窃かにその懐を視れば、刀有り。執いて賜死せしむ。

原文悅外和內佷。太祖常以桓王死王事,特加親寵。為左將軍,襲封。後為宗師。悅恃寵驕矜,每謂所親王洛生之徒言曰:「一旦宮車晏駕,吾止避衞公,除此誰在吾前?」衞王儀,美髯,為內外所重,悅故云。初,姚興之贖狄伯支,悅送之,路由雁門,悅因背誘姦豪,以取其意。後遇事譴,逃亡,投雁門,規收豪傑,欲為不軌,為土人執送,太祖恕而不罪。太宗即位,引悅入侍,仍懷姦計,說帝云:「京師雜人,不可保信,宜誅其非類者。又雁門人多詐,并可誅之。」欲以雪其私忿。太宗不從。悅內自疑懼,懷刀入侍,謀為大逆。叔孫俊疑之,竊視其懷,有刀,執而賜死。

弟崇、世祖詔して桓王の爵を襲わしむ。崇性沈厚。初め、衛王死したる後、太祖宗親の義を敦んぜんと欲し、詔して諸王の子弟を引いて宴に入らしむ。常山王素等三十余人皆衛王と相坐すと謂い、疑懼し、皆出で逃遁し、将に蠕蠕に奔らんとす。唯だ崇独り至る。太祖これを見て甚だ悦び、厚く礼賜を加え、遂に寵敬す。素等ここに於いても亦安んず。久しくして并州刺史に拝せられ、政績有り。蠕蠕を征討に従い、別に諸軍を督して大沢より出で、涿邪山を越え、漠北を威懾す。薨じ、諡して景王と曰う。

原文弟崇,世祖詔令襲桓王爵。崇性沉厚。初,衞王死後,太祖欲敦宗親之義,詔引諸王子弟入宴。常山王素等三十餘人咸謂與衞王相坐,疑懼,皆出逃遁,將奔蠕蠕,唯崇獨至。太祖見之甚悅,厚加禮賜,遂寵敬之,素等於是亦安。久之,拜并州刺史,有政績。從征蠕蠕,別督諸軍出大澤,越涿邪山,威懾漠北。薨,諡曰景王。

子建、襲い、爵を降して公と為る。位は鎮北将軍・懐荒鎮大将。卒す。

原文子建,襲,降爵為公。位鎮北將軍、懷荒鎮大將。卒。

建の子琛、位は恒朔二州刺史。

原文建子琛,位恒朔二州刺史。

琛の子翌、尚書左僕射。

原文琛子翌,尚書左僕射。

虔の兄顗、性厳重にして言少なく、太祖常にこれを敬う。雅に謀策有り、中山を平らぐるに従い、功を以て爵を蒲城侯・平盧太守に賜い、特ちに寵厚を見、鼓吹羽儀を給し、礼岳牧に同じ。政に莅むに威信を以て著わる。官に居ること七年、乃ち元易干を以て顗に代わりて郡と為す。時に易干の子万言、太祖に寵を得たり。易干その子を恃み、顗に軽忽し、その状を告げず、軽騎卒然として至り、顗を排して牀より墜ちしめ、顗の坐を拠る。顗代わるを知らず、罪を以て捕えらるると謂い、既にしてこれを知り、その侮慢を恥じ、易干に謂いて曰く、「我が更満して代えらるるは常なり。汝礼無くして辱め見る、豈に容るべけんや」と。遂に搏ってこれを殺し、状を以て具に聞かす。太祖これを壮とす。万言累ねて訴請す。乃ち詔して顗に贖を輸せしむ。顗乃ち自ら罪を請う。太祖これを赦し、復たその贖を免す。病卒す。

原文虔兄顗,性嚴重少言,太祖常敬之。雅有謀策,從平中山,以功賜爵蒲城侯、平盧太守,特見寵厚,給鼓吹羽儀,禮同岳牧。莅政以威信著稱。居官七年,乃以元易干代顗為郡。時易干子萬言得寵於太祖,易干恃其子,輕忽於顗,不告其狀,輕騎卒至,排顗墜牀而據顗坐。顗不知代己,謂以罪見捕,既而知之,耻其侮慢,謂易干曰:「我更滿被代,常也;汝無禮見辱,豈可容哉!」遂搏而殺之,以狀具聞。太祖壯之。萬言累以訴請,乃詔顗輸贖。顗乃自請罪,太祖赦之,復免其贖。病卒。

子崘、世祖の時父の爵を襲い、功を以て統万鎮将を除く。後に永昌王仁に従い南征し、別に汝陰に出づ。淮を済い、劉義隆の将劉康祖慰武亭に屯して軍路を邀う。師人これを患う。崘曰く、「今大風既に勁し。若し草車を推して方軌並進せしめ、風に乗じて煙火を縱ち、精兵を以て後よりこれを乗ずれば、これを破る必ずなり」と。これに従う。康祖を斬り、首を行宮に伝う。高宗即位し、秦州刺史を除き、爵を進めて隴西公と為す。卒し、諡して定公と曰う。子琛爵を襲ぐ。

原文子崘,世祖時襲父爵,以功除統萬鎮將。後從永昌王仁南征,別出汝陰。濟淮,劉義隆將劉康祖屯於慰武亭以邀軍路,師人患之。崘曰:「今大風既勁,若令推草車方軌並進,乘風縱煙火,以精兵自後乘之,破之必矣。」從之。斬康祖,傳首行宮。高宗即位,除秦州刺史,進爵隴西公。卒,諡定公。子琛襲爵。

毗陵王

原文毗陵王

毗陵王拓跋順は、昭成帝の子の拓跋地干の子である。性質は粗略で強情であった。登国初年、南安公の爵位を賜った。太祖が中山を討つにあたり、拓跋順を留めて京師を守らせた。柏肆での敗戦の際、軍人で逃亡して帰ってくる者がおり、大軍が奔散し、太祖の所在がわからないと述べた。拓跋順はこれを聞き、自立しようとしたが、莫題の諫めを容れて止めた。時に賀力眷らが陰館で徒党を集めて乱を起こしたので、拓跋順はこれを討ったが勝てず、留宮に従って白登から南に入り繁畤の故城に至り、灅水を阻んで守りを固め、人心を安んじた。太祖はこれを良しとし、王に進封し、司隸校尉の位に就けた。太祖は黄老を好み、しばしば諸王や朝臣を召して自らその説を語ったが、座にいる者は皆恭しく粛然とする中、拓跋順のみは座ったまま居眠りして欠伸をし、顧みることなく唾を吐いた。太祖は怒り、彼を廃した。王として家で没した。

原文毗陵王順,昭成子地干之子也。性疏佷。登國初,賜爵南安公。及太祖討中山,留順守京師。栢肆之敗,軍人有亡歸者,言大軍奔散,不知太祖所在。順聞之,欲自立,納莫題諫,乃止。時賀力眷等聚眾作亂於陰館,順討之不克,乃從留宮自白登南入繁畤故城,阻灅水為固,以寧人心。太祖善之,進封為王,位司隸校尉。太祖好黃老,數召諸王及朝臣親為說之,在坐莫不祗肅,順獨坐寐欠伸,不顧而唾。太祖怒,廢之。以王薨於家。

遼西公

原文遼西公

遼西公拓跋意烈は、昭成帝の子の拓跋力真の子である。先に慕容垂のもとに没していたが、太祖が中山を征した時、妻子を棄てて井陘で迎えた。中原平定後、戦功があり、遼西公の爵位を賜り、広平太守に任じられた。時に和跋が鄴の行臺であったが、意烈の性質は雄健で耿直であり、帝室の一族であることを自負して、和跋の下にいることを恥じ、ひそかに徒党を結んで鄴を襲おうとしたが、発覚して賜死された。

原文遼西公意烈,昭成子力真之子也。先沒於慕容垂,太祖征中山,棄妻子迎於井陘。及平中原,有戰獲勳,賜爵遼西公,除廣平太守。時和跋為鄴行臺,意烈性雄耿,自以帝屬,耻居跋下,遂陰結徒黨,將襲鄴,發覺賜死。

子の拓跋抜干は、古今に通じ博識であった。父は罪を得たが、太祖は抜干が宗親であることを以て、心腹として委ねた。計略があり、たびたび忠勤を尽くした。太宗が即位すると、勃海太守に任じられ、吏民はこれを喜んだ。武遂子の爵位を賜った。平原鎮将に転じ、将士の心を得た。卒し、霊公と諡された。

原文子拔干,博知古今。父雖有罪,太祖以拔干宗親,委之心腹。有計略,屢效忠勤。太宗踐阼,除勃海太守,吏人樂之。賜爵武遂子。轉平原鎮將,得將士心。卒,諡曰靈公。

子の拓跋受洛が襲封し、武邑公に爵位を進めた。卒した。

原文子受洛,襲,進爵武邑公。卒。

子の拓跋叱奴は、武川鎮将となった。

原文子叱奴,武川鎮將。

叱奴の子の拓跋洪超は、学問に広く通じていた。大乗の賊の乱の後、詔により洪超は節を持ち黄門侍郎を兼ねて冀州を綏撫慰問した。帰還し、上言して言うには、「冀州の土地は広大で、州境から州治まで六七百里離れており、海に面して険遠である。一州を分置して、海辺を鎮圧すべきである」。朝議はこれに従い、後に遂に滄州が立てられた。北軍将軍・光禄大夫の任で卒した。

原文叱奴子洪超,頗有學涉。大乘賊亂之後,詔洪超持節兼黃門侍郎綏慰冀部。還,上言:「冀土寬廣,界去州六七百里,負海險遠,宜分置一州,鎮遏海曲。」朝議從之,後遂立滄州。卒於北軍將、光祿大夫。

意烈の弟の拓跋勃は、弓馬に優れ、功績により彭城公の爵位を賜った。卒し、金陵に陪葬された。

原文意烈弟勃,善射御,以勳賜爵彭城公。卒,陪葬金陵。

長子の拓跋粟が襲封した。世祖の時、諸軍を督いて漠南に駐屯した。蠕蠕が〈欠字〉表を奉って聞かせた。拓跋粟は明るく正直で、衆を統率するのに優れ、将士を撫恤し、必ず彼らと労逸を共にした。和龍を征し、功により王に進封された。薨じ、金陵に陪葬された。

原文長子粟,襲。世祖時,督諸軍屯漠南。蠕蠕〈闕〉表聞。粟亮直,善馭眾,撫恤將士,必與之同勞逸。征和龍,以功進封為王。薨,陪葬金陵。

拓跋粟の弟の拓跋渾は、若い頃から弓馬に優れ、世祖に称賛された。時に諸方からの使者の命があり、拓跋渾が獣三頭を射て、発する矢は皆命中し、座中の者全てが善しとした。宰官尚書となってからは、驕り放縦であることを過失とし、事に坐して免官された。長社に移され、人に害された。

原文粟弟渾,少善弓馬,世祖嘉之。會有諸方使命,渾射獸三頭,發皆中之,舉坐咸以為善。及為宰官尚書,頗以驕縱為失,坐事免。徙長社,為人所害。

子の拓跋庫汗は、羽林中郎将となった。北巡に従い、兎が乗輿の前に飛び出したので、命を受けてこれを射ると、弦に応じて倒れた。世祖は喜び、一つの金の兎を賜ってその才能を表彰した。高宗のために恭宗の廟を建てた時、陽豊侯の爵位を賜った。顕祖が即位し、再び高宗の廟を造営した時、殿中給事に任じられ、公に爵位を進めた。庫汗は裁断に明るく、毎回使節として奉じて州鎮を巡察し、情実に基づいて獄を裁き、歴任した地で皆称賛された。秦州の父老が宮闕に赴き庫汗を刺史として乞うた者は前後千余人に及び、朝廷はこれを許した。派遣される前に、病に遭って卒した。子の拓跋古辰が襲封した。

原文子庫汗,為羽林中郎將。從北巡,有兔起乘輿前,命庫汗射之,應絃而斃。世祖悅,賜一金兔以旌其能。高宗起恭宗廟,賜爵陽豐侯。顯祖即位,復造高宗廟,拜殿中給事,進爵為公。庫汗明於斷決,每奉使察行州鎮,折獄以情,所歷皆稱之。秦州父老詣闕乞庫汗為刺史者前後千餘人,朝廷許之。未及遣,遇病卒。子古辰襲。

拓跋窟咄

原文拓跋窟咄

昭成帝の子の窟咄である。昭成帝が崩御した後、苻洛はその年長であることを以て、長安に強制移住させ、苻堅は礼遇し、書学を教えた。乱に乗じて慕容永に従い東遷し、永は新興太守とした。

原文昭成子窟咄。昭成崩後,苻洛以其年長,逼徙長安,苻堅禮之,教以書學。因亂隨慕容永東遷,永以為新興太守。