昭成皇帝の子孫
拓跋 寔君
寔君は、昭成皇帝の庶長子である。性質は愚かで頑な、残忍で仁愛に欠けていた。昭成皇帝の末年、苻堅がその行唐公苻洛らを遣わして南境を侵してきたので、昭成は 劉庫仁 を派遣して石子嶺で迎え撃たせた。昭成は当時病に臥せっており、自ら諸軍を統率することができず、諸部を率いて陰山に避難し、漠北を渡った。 高車 が四方から略奪を働いたので、再び漠南を渡った。苻洛の軍が退くと、雲中に帰還した。
初め、昭成皇帝は弟の孤に国を譲ったため、半部を孤に授けた。孤が没すると、その子の斤は職を失い怨みを抱き、隙をうかがって乱を起こそうとした。この時、献明皇帝および秦明王翰はいずれも先に亡くなっており、太祖は六歳、昭成は病に伏せり、 慕容 后の子の閼婆らは年長ではあったが、国の継承者は定まっていなかった。斤はこれに乗じて寔君に言った、「帝は慕容の生んだ子を立てようとしており、汝が変事を起こすことを恐れ、先に汝を殺そうとしている。このためここ数日来、諸皇子は戎服を着て夜な夜な武器を持ち、汝の住居を巡り、機会をうかがって発動しようとしている。私は哀れに思い、お前に告げるのだ」。当時、苻洛らの軍はなお君子津におり、夜は常に警戒を厳重にし、諸皇子は武器を携えて住居の間を徘徊していた。寔君が観察すると、斤の言葉を真実と信じ、配下を率いて諸皇子をことごとく害し、昭成もまた急死した。その夜、諸皇子の妃や宮人たちが苻洛の軍に駆け込み告げたので、苻堅の将である李柔・張蚝が兵を率いて内に迫り、部衆は離散した。苻堅はこれを聞き、燕鳳を召してその理由を問うと、状況を答えた。堅は言った、「天下の悪は一つである」。そこで寔君と斤を捕らえ、 長安 の西市で車裂きの刑に処した。
寔君の孫の勿期は、定州 刺史 の位にあり、林慮侯の爵を賜った。没した。
子の六状は、真定侯である。
秦明王
秦明王翰は、昭成皇帝の第三子である。幼少より気概が高く、十五歳で早くも騎兵を率いて征討することを請うた。帝はその勇壮さを認め、二千騎を率いさせた。成長して兵を統べると、号令は厳正で信頼され、あちこち征討し、多く勝利を収めた。建国十年に没した。太祖が即位すると、秦王を追贈され、 諡 を明といった。
子の儀は、身長七尺五寸、容貌は甚だ魁偉で、美しい鬚髯をたくわえ、計略があり、幼少より剣舞ができ、騎射は人に抜きん出ていた。太祖が 賀蘭部 に行幸した際、侍従として出入りした。登国の初め、九原公の爵を賜った。諸部を破ることに従い、謀略と戦功があった。
太祖が慕容垂を図ろうとした時、儀を派遣して隙をうかがわせた。垂が儀に太祖が自ら来ない理由を問うと、儀は言った、「先代以来、代々北土を拠点とし、子孫相承け、その旧を失いませんでした。そちらの祖は晋の 正朔 を受け、爵は代王と称し、東の燕とは代々兄弟の関係にありました。儀が命を受けて参りましたのは、道理に外れぬことと思われます」。垂はその答えに感心し、戯れて言った、「我が威は四海に及び、卿の主君は自ら我に会おうとしない。どうして道理に外れぬと言えようか」。儀は言った、「燕がもし文徳を修めず、兵威をもって自ら強くなろうと欲するならば、これは本朝の将帥の務めであり、儀の知るところではありません」。帰還して報告すると、「垂が死ねば図ることができますが、今はまだできません」。太祖は顔色を変えて問いただした。儀は言った、「垂は年も老いており、その子の宝は弱くて威がなく、謀も決断できません。慕容徳は自ら才気に任せており、弱い主君の臣下となる者ではありません。隙は内から起こるでしょう。これを計ることができます」。太祖はもっともだと思った。後に平原公に改封された。
太祖が 衞 辰を征討した時、儀は別の道から出撃し、 衞 辰の死体を獲得し、その首を行宮に伝送した。太祖は大いに喜び、東平公に転封した。河北に屯田を監督することを命じられ、五原から棝楊塞外まで、農耕を分担させ、大いに人心を得た。慕容宝が五原を侵した時、儀は朔方を押さえてその帰路を遮った。 并州 が平定されると、儀の功績が多く、 尚書 令に昇進した。中山包囲に従軍した。慕容徳が敗れた時、太祖は普驎の妻の周氏を儀に賜い、その僮僕財物も合わせて与えた。まもなく 都督 中外諸軍事・左丞相に昇進し、 衞 王に進封された。中山が平定されると、再び儀を派遣して 鄴 を討伐させ、平定した。太祖が代都に帰還しようとした時、中山に行臺を設置し、詔で儀に 尚書令 を守らせてこれを鎮めさせると、遠近の者が帰順した。まもなく儀を召還して丞相として輔佐に入らせた。また高車征討に従軍した。儀は別働隊で西北からその別部を破った。また姚平討伐に従い、功績があり、絹・布・綿・牛・馬・羊などを賜った。儀は膂力が人に優れ、弓の力は十石に近く、陳留公の虔は矟が大きくて異様であった。当時の人は言った、「 衞 王の弓、桓王の矟」。
世祖が初めて誕生した時、太祖は喜び、夜に儀を召し入れた。太祖は言った、「卿は夜に呼び出されても、怪しみ恐れないのか」。儀は言った、「臣は誠を推して陛下に仕えており、陛下が明察であられるので、臣は常に安んじております。突然夜の詔を奉じ、怪しいと思うことはありますが、恐れることはまったくありません」。太祖は世祖の誕生を告げると、儀は起きて拝礼し歌舞し、夜明けまで対飲した。群臣を召し入れ、儀に御馬・御帯・縑錦などを賜った。
これより先、上谷の侯岌・張兗、 代郡 の許謙らは当時名を知られ、学問は古今に博く、初めて国に入った時、儀が士を待遇すると聞き、まず儀のもとに赴いた。儀は彼らをともに礼遇し、共に当世の事務を談じ、山河を指画し、城邑を分別し、成敗の要害を、即座にことごとく挙げた。謙らは感服し、互いに言った、「平原公は世に並ぶ者のない大才と謀略をお持ちだ。我々はその末尾に付き従うべきである」。
太祖は儀の器量と声望を重んじ、特に厚く待遇し、しばしばその邸宅に行幸し、家族の礼のようにした。儀は功を誇り寵を恃み、宜都公の穆崇と謀って乱を起こし、武士を潜ませて太祖をうかがい、逆をなそうとした。崇の子の遂留が潜んでいた武士の中にいたが、太祖が彼を召し、何か用事をさせようとした。遂留は召されたと聞き、発覚を恐れ、塀を越えて状況を告げた。太祖は秘密にし彼を許した。天賜六年、天文に多く変化があり、占者は「逆臣があり、死体が横たわり血が流れるであろう」と言った。太祖はこれを憎み、公卿を多く殺し、天災を鎮めようとした。儀は内心安からず、単騎で逃げ出した。太祖は人をやって追わせ捕らえさせ、ついに死を賜い、庶人の礼で葬った。儀には十五人の子があった。
子の纂は、五歳の時、太祖が命じて宮中で養育させた。幼少より聡明で機敏、動作や立ち居振る舞いに礼があり、太祖はこれを愛し、恩寵は諸皇子と同じであった。世祖が 践祚 すると、定州刺史に任じ、中山公に封じられ、さらに王に進爵し、歩挽几を賜って優遇した。纂は酒を好み佞臣を愛し、政治は賄賂によって成り立ち、世祖はその寵愛する側近を殺した。後に過ちを悔い謹みを修め、内大將軍に拝された。官に在っては清廉で倹約、簡素で慎重であり、一層廉潔公平と称された。纂は宗族の中で最も年長であり、宗室に事があると、皆彼に諮問した。薨じ、諡を簡といった。
纂の弟の良は、性質が忠実篤実であった。太宗は儀の功績を追録し、南陽王に封じて儀の後を継がせた。
良の弟の幹は、機知に富み沈着で勇猛、弓馬をよくし、若くして父の風があった。太宗が即位すると、内将軍・都將に任じられ、禁中に入って守備した。太宗が白登の東北に出遊したとき、幹は騎兵を率いて従った。二羽の鳶が飛び鳴きながら上を過ぎたので、太宗は左右の者に射させたが、誰も当てられなかった。鳶が旋回してやや高く飛ぶと、幹は自ら射ることを請い、二本の矢で二羽の鳶を落とした。太宗はこれを賞賛し、御馬・弓矢・金帯一を賜ってその才能を顕彰した。軍中ではこれより「射鳶都將」と号した。世祖の南巡に従い、爵を進めて新蔡公となった。高宗が即位すると、都官尚書に任じられた。卒し、諡して昭といった。
子の禎は、諸方の言語に通解し、騎射に長じた。世祖のとき、司 衞 監となった。 蠕蠕 征討に従軍し、突然賊の別部と遭遇したが、多寡敵せず、禎は山に就いて鞍を解き馬を放ち、伏兵があることを示した。賊は果たして疑って避けた。
高祖の初め、沛郡公の爵を賜った。後に南 豫 州刺史に任じられた。大胡山の蛮がしばしば掠奪を働き、前後の守牧は多く羈縻するのみであった。禎は策を設け、新蔡・襄城の蛮の首魁三十余人を召し、禎は武裝を整え、州の西で酒宴を設け、彼らに射技を見せた。まず左右の能射の者二十余人を選び、禎自ら数箭を放って皆命中させ、それから左右の者に順次射させ、ことごとく命中した。先に死罪の囚人一人を出し、軍服を着せて射の列に加えさせ、射て命中しなかったので、禎はただちに責めて斬った。蛮の首魁らはその技に伏し威を畏れ、互いに見合わせて股が慄いた。またあらかじめ左右の者に教えて死囚十人を連れて来させ、皆蛮の衣服を着せ、掠奪賊であると偽った。禎は座に臨み、偽って目を挙げて天を眺め、微かに風が動くと、禎は蛮らに言った。「風気が少し荒れているようだ。掠奪賊が境内に入ったようで、十人を超えず、西南五十里ばかりにあるだろう。」即ち騎兵を命じて追撃させ、果たして十人を縛って送って来た。禎は諸蛮に告げて言った。「お前たちの郷里の者がこのように賊を働くのは、死罪に当たるか?」蛮らは皆叩頭して言った。「万死に当たります。」禎は即座に彼らを斬った。そして蛮らを帰し、併せて慰諭を加えた。諸蛮は大いに服し、これより境内に暴掠はなく、淮南の人々が相率いて投附した者は三千余家に及び、城東の汝水の側に置いて、帰義坊と名付けた。
初め、 豫 州城の豪族胡丘生はしばしば外部と通じていた。禎が刺史となると、丘生はかつて罪を犯し、恨みを抱いて不軌を図り、婚姻を詐って城中の人に告げて言った。「刺史は城中の大家を移住させ、代に送ろうとしている。」共に城を覆そうと謀った。城中の者石道起が事を密かに禎に告げ、速やかに丘生及び諸々の謀に預かった者を捕らえるよう勧めた。禎は言った。「私は人に背かない。人がどうして叛くことがあろうか。ただ丘生が誑かしているだけだ。もし即座に捕らえれば、人々は必ず大いに恐れる。私は静かに待とう。間もなく自ら悔いて服するだろう。」言葉が終わらないうちに、城中の三百人が自ら縛られて州の門に至り、丘生の欺誑の罪を陳述した。丘生は単騎で逃走した。禎はこれを許して問わなかった。
後に召されて都牧尚書となった。薨じ、 侍中 ・儀同三司を追贈され、諡して簡公といった。八人の子があった。
第五子は瑞である。初め瑞の母の尹氏は、妊娠中に傷ついた。後に昼寝をしていると、一人の老翁が衣冠を整えて告げる夢を見た。「私は汝に一子を授けよう。心配するな。」目覚めてひそかに喜んだ。また筮者に問うと、筮者は言った。「大吉である。」間もなく瑞が生まれたので、禎は夢に符合すると考え、よって名を瑞とし、 字 を天賜とした。位は太中大夫に至った。卒し、太常卿を追贈された。
儀の弟の烈は、剛武で智略があった。元紹の逆乱のとき、百官は声をあげる者もなかったが、ただ烈だけが外に出て行き、偽って紹に附き太宗を捕らえることを募った。紹はこれを信じ、自ら延秋門から出て、遂に太宗を迎え立てた。功により爵を進めて陰平王となった。薨じ、諡して熹といった。子の裘が襲封した。
烈の弟の觚は、勇略があり胆気があり、若くして兄の儀と共に太祖に従い、侍 衞 して左右に仕えた。慕容垂に使いしたが、垂の末年、政は群下にあり、遂に觚を留めて賂を求めた。太祖はこれと絶交した。觚は左右の数十騎を率い、その 衞 将を殺して走り帰った。慕容宝に捕らえられ、中山に帰され、垂はますます厚く遇した。觚はここにおいて学業に心を留め、経書を数十万言誦読し、垂の国の人々は皆これを称え重んじた。太祖が中山を討ったとき、慕容普驎が既に自立し、遂に觚を害して衆心を固めようとした。太祖はこれを聞いて哀慟した。中山が平定されると、普驎の柩を発き、その尸を斬り、觚を害することを議した高霸・程同等を捕らえ、皆五族を誅し、大刃で剉き殺した。そして觚を改葬し、秦愍王と追諡し、子の夔を 豫 章王に封じて觚の後を継がせた。
常山王
常山王遵は、昭成帝の子の寿鳩の子である。若くして壮勇で、小節に拘らなかった。太祖の初め、佐命の勲があり、略陽公の爵を賜った。慕容宝が敗れたとき、別に騎兵七百を率いてその帰路を遮り、これによって参合の捷を得た。中山が平定されると、尚書左 僕射 に任じられ、侍中を加えられ、勃海の合口を領した。博陵・勃海で群盗が起こると、遵はこれを討平した。州牧に遷り、常山王に封じられた。遵は酒を好み、天賜四年、酔って乱れ太原公主に失礼した罪により、死を賜い、庶人の礼で葬られた。
子の素は、太宗の従母(母の姉妹)が生んだ子で、特に親愛寵遇された。若くして内侍に引き入れられ、頻りに顕官を歴任し、尚安公の爵を賜り、外都大官に任じられた。世祖の初め、再び爵を襲いだ。休屠郁原らが叛くと、素はこれを討ち、渠率を斬り、千余家を涿鹿の陽に移し、平原郡を立てて彼らを処置した。統万が平定されると、素に威懐の略があるとして、仮節・征西大将軍に任じてこれを鎮守させた。後に内都大官に任じられた。高宗が即位すると、寛征を崇めることに務め、諸々の雑調を罷めた。有司が国用不足を奏上し、固くその復活を請うたが、ただ素が言った。「臣は聞く、『百姓足らざれば、君孰れと足らん』と。」帝は善しとしてこれに従った。詔して群臣に皇子の名を議定させると、素及び 司徒 の陸麗が議して言った。「古の帝王の名を制する体には五つあります。信あり、義あり、象あり、仮あり、類あり。伏して惟うに、陛下は盛明の運に当たり、昌発の期に応じ、皇子を誕生させられました。宜しく徳をもって命ずべきです。」高宗はこれに従った。素は宗属の美であり、また年老いていたので、帝はしばしば引き入れて、治国の政事を訪ねた。固く病を辞して邸に帰った。雅性方正で、官に居ること五十載、終始一貫し、時の論はこれを賢とした。薨じ、諡して康といい、金陵に陪葬され、廟庭に配饗された。
長子の可悉陵は、十七歳のとき、世祖の狩猟に従い、一頭の猛虎に遇うと、陵は遂に空手でこれを搏って献じた。世祖は言った。「汝の才力は人に絶する。国に事を立てるべきである。このようなことをするな。」即座に内行阿干に任じた。また涼州平定に従った。沮渠茂虔が一騎の 驍 将をして陵と相撃たせると、両方の槊が皆折れた。陵は箭を抽いてこれを射ると、馬から墜ちた。陵はその救援が来るのを恐れ、剣を抜く暇もなく、刀子でその頸を戾し、身首を異処にさせた。世祖はその勇壮を称え、即日に都幢将に任じ、暨陽子に封じた。中軍都將の任で卒した。
弟の陪斤が爵を襲ったが、事に坐して封国を除かれた。
陪斤の子の昭は、字を阿倪といい、尚書の張彝が引いて殿中郎を兼ねさせた。高祖が斉郡王簡のために哀悼の礼を挙げようとしたとき、昭は宮懸(天子の楽器)を作った。高祖は大いに怒り、詔して曰く、「阿倪は愚かで痴れている。誰が郎に引いたのか」と。ここにおいて彝を白衣のまま尚書を守らせて罷免し、昭は遂に停廃された。世宗の時、昭の従弟の暉が親寵されて権勢を握り、昭は次第に左丞に昇進した。世宗が 崩御 すると、于忠が政権を握り、昭は黄門郎となり、また曲げて彼に仕えた。忠が専権を振るい威を擅にする中、忠賢を枉げて陥れること多く、昭の指導による所が多かった。霊太后が臨朝すると、尚書・河南尹となった。耳が聞こえず、頑なで残忍で、事務の処理が峻烈で性急であり、任地では人々に恐れられた。まもなく雍州刺史として出向し、州では貪欲で暴虐であり、人々に大きな害を与えた。後に召されて尚書となり、劉騰に諂い仕えて、征西将軍の号を進めた。卒去し、尚書左僕射を追贈された。元叉に賄賂を贈ったため、贈礼が優越していた。
昭の子の玄は、字を彦道といい、節倹をもって知られた。荘帝の時、 洛陽 令となった。前廃帝が即位すると、玄は上表して荘帝の葬儀を乞い、当時の議論はこれを良しとした。後に尚書左丞に任じられた。出帝が即位すると、孫騰を左僕射とした。騰は即ち斉献武王の腹心である。仗(儀仗)を従えて省(尚書省)に入ると、玄は法に基づいて弾劾した。当時の人々は皆、玄のことを恐れたが、出帝はその強直な正しさを重んじ、臨淄県子に封じた。後に帝に従って関中に入った。
昭の弟の紹は、字を醜倫という。幼少より聡明で慧くあった。尚書右丞に遷った。紹の裁断は強権を避けなかった。世宗が詔して趙脩の獄を検察させると、紹は脩が佞幸であるため、これによって杖罰を加え、死に至らしめた。帝は紹に重ねて上奏しなかったことを責めた。紹は曰く、「脩の奸佞は董賢よりも甚だしい。臣がもし機会を捉えてこれを除かなければ、陛下が再び哀帝の名を被られることを恐れます」と。その言葉が正しいため、遂に罪を問わなかった。退出するとき、広平王の懐が紹に拝礼し、賀して曰く、「阿翁はまさに皇家の正直であり、朱雲や汲黯とてどうしてこれを超えられようか」と。紹は曰く、「ただこれを殺すのがやや遅かったことを恨み、愧じるのみである」と。涼州刺史の任で卒去した。
陪斤の弟の忠は、字を仙徳という。若い頃から沈着で篤実であり、忠実で謹直であることで知られた。高祖の時、累進して右僕射となり、城陽公の爵を賜り、侍中・鎮西将軍を加えられ、補佐の功労があり、百官皆これを敬った。太和四年、病が篤く辞退し、高柳で療養した。車駕は自ら都門の外まで見送り、雑綵二百匹を賜い、群僚侍臣で別れを告げる者、涙を流さない者はなかった。卒去すると、皆これを悼み惜しんだ。諡して宣といい、有司に命じて碑銘を立てさせた。十七人の子があった。
子の盛は、字を始興といい、爵を襲い、謁者僕射の位に至った。卒去した。
盛の弟の寿興は、若い頃から聡明で慧く、学問を好んだ。世宗の初め、徐州刺史となり、官にあって貪欲で暴虐であり、人心を失った。その従兄の侍中暉は、その才能を深く妬み、帝に讒言した。詔して尚書の崔亮を駅馬で急行させ検察させた。亮が出発する日、暉の意を受けて、遂に三人の寡婦を鞭打ち、自らを誣告させ、寿興が己を圧迫して婢にしたと称させた。寿興はついに免れられないことを恐れ、その外弟の中兵参軍薛脩義に車十乗を率いさせ、小麦を運んでその禁制の傍を通らせた。寿興はこれに乗じて塀を越えて脱出した。脩義は大木の箱に寿興を収め、その上に麦を載せて運び出した。遂に河東に至り、脩義の家に匿われた。赦令に逢い、ようやく出て世宗に拝謁し、自ら暉に讒言されたことを陳述した。世宗もまたこれ以上責めることはなかった。
初め、寿興が中庶子であった時、王顕が東宮にいて身分が低く、公事によって寿興が彼を三十回杖打った。顕が寵愛を受けて御史中尉となると、寿興が家でしばしば怨言を吐き、朝廷を誹謗していると上奏した。帝が酒に酔って何も覚醒していない時に、遂にその事を上奏し、帝に注可(裁可の署名)を命じ、直接寿興に下して賜死させた。帝の書いた字は半分も字になっていなかった。当時見た者も本心でないことを知っていたが、ただ暉らの威勢を恐れ、敢えて救い出そうとはしなかった。刑が執行される日、顕は自ら見に行った。寿興は筆を命じて自ら墓誌銘を作り、「洛陽の男子、姓は元、名は景、道はあれども時にあわず、その年永からず」と記した。その他の文は多く記載されない。その子を顧みて言った、「我が棺の中に百枚の紙と筆二本を入れよ。我は地下で顕を訴えたい。もし高祖の霊に知るところあれば、百日の内に必ず顕を取るであろう。もし遂に知るところがなければ、また何を恋しむことがあろうか」と。世宗が崩御すると、顕はまもなく殺された。寿興の死は、当時の論議も前任の中尉が高〈闕〉を弾劾した讒言と諷刺によるものとされた。霊太后が臨朝すると、三公郎中の崔鴻が上疏して寿興の無実を訴え、詔して追って雪冤し、 豫 州刺史を追贈し、諡して庄といった。寿興の弟の益生は、若くして亡くなった。
忠の弟の徳は、河間公に封じられた。鎮南将軍の任で卒去し、曹州刺史を追贈された。
徳の子の悝は、潁川太守となった。光州刺史の任で卒去し、諡して恭といった。
子の嶷は、字を子仲という。出帝の初め、兗州刺史を授かった。当時、城の住民の王奉伯らが相扇いで謀反を企てた。(嶷は)城を棄てて逃走し、懸門(跳ね上げ門)が作動して嶷の腰を〈闕〉断ち切って出た。詔して斉州刺史の尉景と本州刺史の蔡儁に、それぞれ州の兵士を率いて討伐に向かわせた。嶷は戻り、再び任に就いた。濮陽県伯に封じられた。孝静帝の時、 尚書令 に転じ、選部を管轄した。嶷は重任に居ながらも、時流に従うのみであった。瀛州刺史の任で 薨去 し、 司徒 公を追贈され、諡して靖懿といった。
忠の子の暉は、字を景襲という。若い頃から沈着で聡明で、広く文史に通じていた。世宗が即位すると、尚書主客郎に任じられた。風俗を巡視し、戻って奏上した事が旨に適い、給事黄門侍郎となった。
初め、高祖が洛陽に遷都した時、在位の旧貴族は皆移徙を難しがり、当時は衆情を和合させようとし、遂に冬は南(洛陽)に居り、夏は北( 平城 )に居ることを許した。世宗は左右の言葉に惑わされ、外の人々には遂に北に還るという噂が立ち、田宅を売り払い、その居所を安んじない者まで出た。暉は機会を請うて事を言上した。世宗は曰く、「先皇が遷都された日、本来は冬は南、夏は北と期していた。朕は成詔に従おうと欲する故に、外の人々の論があるのだ」と。暉は曰く、「先皇が都を移されたのは、百姓が土地を恋しむためであり、故に冬夏二居の詔を発し、一時的に物情を安んじたに過ぎません。これは当時の言葉であって、実は先皇の深いお考えではありません。かつ北から遷って来た人々は、安住すること久しく、公私の生計も立ち、再び還る気はありません。陛下は高祖の定鼎の業を終えさせ、邪な臣下の根拠なき説を信じられませんように」と。世宗はこれに従った。
再び侍中に遷り、右衛将軍を兼任した。補益するところは無かったが、深く親寵を受けた。禁中における要密の事柄は全て、暉が別に奉旨を受けて櫃に蔵め、暉だけが入って開くことができ、その他の侍中・黄門で知る者はなかった。侍中の盧昶もまた恩寵を受けたので、当時の人々は「餓虎将軍、飢鷹侍中」と号した。
吏部尚書に遷ると、賄賂によって官職を用い、全て定価があり、大郡は二千匹、次郡は一千匹、下郡は五百匹、その他の職を受けるにもそれぞれ差があり、天下は「市曹」と号した。冀州刺史として出向し、州を去る日、車を連ねて物を載せ、信都を発ち、湯陰の間に至るまで、首尾相継ぎ、道路が絶えなかった。その車に脂や角が少ないと、すぐに道上で出会った牛から、生きながら角を切り取って用を充てた。暉は丁戸を検括し、自首することを許し、調絹五万匹を徴発した。しかし聚斂は極まりなく、百姓はこれを患った。
粛宗の初め、召されて尚書左僕射に任じられ、詔により吏部の選事を摂行する。上疏して曰く、「臣は聞く、人を治める根本は、実に牧守の官に委ねるにある。その才を得れば政は平らかで物は理に適い、その人を失えば訟は起こり怨みは結ぶ。善悪を察訪し、明らかに貶賞を加えずして、何をもってかかの貪怠を退け、この清勤を進めようか。ひそかに思うに、大使が巡省すれば、必ず迎送の費を広くし、御史が馳せて糾せば、頗る威濫の刑を回らす。かつ暫し往還するのみでは、理として委細に及ばず、仮に簡挙するも、良く平当ならざるべし。愚かには謂う、三司・八座・侍中・黄門に命じ、各々耳目を布かしめ、外に州鎮の牧将の治人、守令の能・不を訪わしむべきなり。若し徳教に方あり、清白独り著しき者は、宜しく名を聞かせ、即ち褒陟を加うべし。若し治績効なく、貪暴遠く聞こゆる者は、また便ち牒を示し、登時に貶退を加うべし。かくの如くすれば庭戸を出でずして、坐して四方を知り、端委垂拱し、明らかに賞し審らかに罰せん」と。また表して「御史の職は、鷹鸇の任たり、必ず爪牙を逞しくし、 噬 搏する所あらんことを要す。若し後生年少・血気方剛の者を選べば、その軽肆勁直、物を傷つけ処広きを恐る。愚かには謂う、宜しく宿官経事・忠良平慎の者を簡びてこれとなすべし」と。詔して外に付し、これに依り施行す。
後に詔して暉に任城王澄・京兆王愉・東平王匡と共に門下の大事を決せしむ。暉また上書して政要を論ず。「その一は曰く、御史の職は、務めて賢を得しめ、必ずその人を得、階秩に拘わらず、その事に久しくし、その成功を責むべし。その二は曰く、人を安んじ辺を寧んずるは、時に観て動くべし。頃来辺将は、遠大の略を亡くし、万一の功を貪り、楚梁の好は未だ聞こえず、而して蠶婦の怨みは屡々結ぶ。これ乃ち庸人の為す所、姦利に鋭きに致るなり。呉を平らげるの計は、自ら良図あり、一城一戍に在らず。また河北数州は、国の基本たり。飢荒多年、戸口流散す。方今境上の兵復た徴発せらる。即ちこの日の如く、何ぞ挙動し易からん。愚かには謂う、数年已来、唯だ辺を静めて以て占役を息め、人を安んじ農を勧め、この中夏に恵むべし。請う、厳しく辺将に勅し、今より賊戍内附を求むる者あれば、輒ち援接を遣わすことを聴かず、皆須らく表聞すべし。違う者は功有りと雖も、請う違詔書を以て論ずべし。三は曰く、国の資儲は、唯だ河北に藉る。飢饉積年、戸口逃散し、姦詐を生長し、因って隠匿を生じ、老小を出縮し、妄りに死失を注す。人の租調を収め、己に割き入る。人は下に困しみ、官は上に損ず。自ら権制を更に立て、善く検括を加えざれば、損耗の来たる、方に未だ已まざるべし。請うその議を求め、条格を明らかに宣すべし」と。帝これを受け入れる。
暉は頗る文学を愛し、儒士崔鴻等を招集し百家の要事を撰録し、類を以て相従え、名づけて科録と為し、凡そ二百七十巻、上は伏羲に起こり、晋・宋に迄り、凡そ十四代。暉疾篤く、表してこれを上ぐ。神龜元年卒す。東園の秘器を賜い、使持節・ 都督 中外諸軍事・ 司空 公を贈り、諡して文憲と曰う。葬らんとす、羽葆・班剣・鼓吹二十人、羽林百二十人を給う。
陳留王
陳留王虔は、昭成の子紇根の子なり。少より壮勇を以て知られたり。登国の初め、爵を陳留公に賜う。衛王儀と共に黜弗部を破る。従って衛辰を攻む。慕容宝来寇す、虔その左翼を絶つ。宝敗れ、垂恚憤して桑乾に来る。虔勇にして敵を軽んじ、陳に於いて戦没す。
虔姿貌魁傑、武力絶倫。常に常の矟細短きを以て、大いにこれを作すも猶その軽きを患い、復た鈴を刃下に綴る。その弓力常人に倍加す。その殊異世に於けるを以て、代京の武庫常に存してこれを志す。虔常に臨陣し、矟を以て人を刺し、遂に貫きて高く挙ぐ。また嘗て一手を以て矟を地に頓ち、馬を馳せて偽り退き、敵人は争って取り、引きて出でず、虔弓を引きてこれを射れば、一箭に二三人を殺し、矟を揺するの徒亡魂して散じ、徐かに乃ち人をして矟を取らしめて去る。毎に征討に従い、常に先んじて登り陳を陥れ、勇当時に冠たり。敵衆寡無く、その前に抗するを敢えてせざる者なし。及び薨ずれば、国を挙げて悲歎し、これが為に流涕す。太祖追惜し、傷慟すること数たびなり。追諡して陳留桓王と為し、廟庭に配饗し、その子悦を朱提王に封ず。
悦は外和して内佷し。太祖常に桓王の王事に死するを以て、特ちに親寵を加う。左将軍と為り、封を襲う。後に宗師と為る。悦寵を恃み驕矜し、毎に親しむ所の王洛生の徒に言いて曰く、「一旦宮車晏駕せば、吾は止だ衛公を避け、これを除きて誰か吾が前に在らん」と。衛王儀は美髯、内外に重んぜらる。悦故に云う。初め、姚興の狄伯支を贖わんとするに、悦これを送り、路雁門に由る。悦因って背き誘い姦豪し、以てその意を取らんとす。後に事に遇い譴られ、逃亡し、雁門に投じ、規りて豪傑を収め、不軌を為さんと欲す。土人に執られて送られ、太祖これを恕して罪せず。太宗即位し、悦を引いて入侍せしむ。仍って姦計を懐き、帝に説いて云く、「京師の雑人は保信すべからず、宜しくその非類の者を誅すべし。また雁門人は多く詐り、並びにこれを誅すべし」と。以てその私忿を雪がんと欲す。太宗従わず。悦内に自ら疑懼し、刀を懐いて入侍し、大逆を謀る。叔孫俊これを疑い、窃かにその懐を視れば、刀有り。執いて賜死せしむ。
弟崇、世祖詔して桓王の爵を襲わしむ。崇性沈厚。初め、衛王死したる後、太祖宗親の義を敦んぜんと欲し、詔して諸王の子弟を引いて宴に入らしむ。常山王素等三十余人皆衛王と相坐すと謂い、疑懼し、皆出で逃遁し、将に蠕蠕に奔らんとす。唯だ崇独り至る。太祖これを見て甚だ悦び、厚く礼賜を加え、遂に寵敬す。素等ここに於いても亦安んず。久しくして 并 州刺史に拝せられ、政績有り。蠕蠕を征討に従い、別に諸軍を督して大沢より出で、涿邪山を越え、漠北を威懾す。薨じ、諡して景王と曰う。
子建、襲い、爵を降して公と為る。位は鎮北将軍・懐荒鎮大将。卒す。
建の子琛、位は恒朔二州刺史。
琛の子翌、尚書左僕射。
虔の兄顗、性厳重にして言少なく、太祖常にこれを敬う。雅に謀策有り、中山を平らぐるに従い、功を以て爵を蒲城侯・平盧太守に賜い、特ちに寵厚を見、鼓吹羽儀を給し、礼岳牧に同じ。政に莅むに威信を以て著わる。官に居ること七年、乃ち元易干を以て顗に代わりて郡と為す。時に易干の子万言、太祖に寵を得たり。易干その子を恃み、顗に軽忽し、その状を告げず、軽騎卒然として至り、顗を排して牀より墜ちしめ、顗の坐を拠る。顗代わるを知らず、罪を以て捕えらるると謂い、既にしてこれを知り、その侮慢を恥じ、易干に謂いて曰く、「我が更満して代えらるるは常なり。汝礼無くして辱め見る、豈に容るべけんや」と。遂に搏ってこれを殺し、状を以て具に聞かす。太祖これを壮とす。万言累ねて訴請す。乃ち詔して顗に贖を輸せしむ。顗乃ち自ら罪を請う。太祖これを赦し、復たその贖を免す。病卒す。
子崘、世祖の時父の爵を襲い、功を以て統万鎮将を除く。後に永昌王仁に従い南征し、別に汝陰に出づ。淮を済い、劉義隆の将劉康祖慰武亭に屯して軍路を邀う。師人これを患う。崘曰く、「今大風既に勁し。若し草車を推して方軌並進せしめ、風に乗じて煙火を縱ち、精兵を以て後よりこれを乗ずれば、これを破る必ずなり」と。これに従う。康祖を斬り、首を行宮に伝う。高宗即位し、秦州刺史を除き、爵を進めて隴西公と為す。卒し、諡して定公と曰う。子琛爵を襲ぐ。
毗陵王
毗陵王拓跋順は、昭成帝の子の拓跋地干の子である。性質は粗略で強情であった。登国初年、南安公の爵位を賜った。太祖が中山を討つにあたり、拓跋順を留めて京師を守らせた。柏肆での敗戦の際、軍人で逃亡して帰ってくる者がおり、大軍が奔散し、太祖の所在がわからないと述べた。拓跋順はこれを聞き、自立しようとしたが、莫題の諫めを容れて止めた。時に賀力眷らが陰館で徒党を集めて乱を起こしたので、拓跋順はこれを討ったが勝てず、留宮に従って白登から南に入り繁畤の故城に至り、灅水を阻んで守りを固め、人心を安んじた。太祖はこれを良しとし、王に進封し、司隸 校尉 の位に就けた。太祖は黄老を好み、しばしば諸王や朝臣を召して自らその説を語ったが、座にいる者は皆恭しく粛然とする中、拓跋順のみは座ったまま居眠りして欠伸をし、顧みることなく唾を吐いた。太祖は怒り、彼を廃した。王として家で没した。
遼西公
遼西公拓跋意烈は、昭成帝の子の拓跋力真の子である。先に慕容垂のもとに没していたが、太祖が中山を征した時、妻子を棄てて井陘で迎えた。 中原 平定後、戦功があり、遼西公の爵位を賜り、広平太守に任じられた。時に和跋が鄴の行臺であったが、意烈の性質は雄健で耿直であり、帝室の一族であることを自負して、和跋の下にいることを恥じ、ひそかに徒党を結んで鄴を襲おうとしたが、発覚して賜死された。
子の拓跋抜干は、古今に通じ博識であった。父は罪を得たが、太祖は抜干が宗親であることを以て、心腹として委ねた。計略があり、たびたび忠勤を尽くした。太宗が即位すると、勃海太守に任じられ、吏民はこれを喜んだ。武遂子の爵位を賜った。平原鎮将に転じ、将士の心を得た。卒し、霊公と諡された。
子の拓跋受洛が襲封し、武邑公に爵位を進めた。卒した。
子の拓跋叱奴は、武川鎮将となった。
叱奴の子の拓跋洪超は、学問に広く通じていた。大乗の賊の乱の後、詔により洪超は節を持ち黄門侍郎を兼ねて冀州を綏撫慰問した。帰還し、上言して言うには、「冀州の土地は広大で、州境から州治まで六七百里離れており、海に面して険遠である。一州を分置して、海辺を鎮圧すべきである」。朝議はこれに従い、後に遂に滄州が立てられた。北軍将軍・光禄大夫の任で卒した。
意烈の弟の拓跋勃は、弓馬に優れ、功績により彭城公の爵位を賜った。卒し、金陵に陪葬された。
長子の拓跋粟が襲封した。世祖の時、諸軍を督いて漠南に駐屯した。蠕蠕が〈欠字〉表を奉って聞かせた。拓跋粟は明るく正直で、衆を統率するのに優れ、将士を撫恤し、必ず彼らと労逸を共にした。和龍を征し、功により王に進封された。薨じ、金陵に陪葬された。
拓跋粟の弟の拓跋渾は、若い頃から弓馬に優れ、世祖に称賛された。時に諸方からの使者の命があり、拓跋渾が獣三頭を射て、発する矢は皆命中し、座中の者全てが善しとした。宰官尚書となってからは、驕り放縦であることを過失とし、事に坐して免官された。長社に移され、人に害された。
子の拓跋庫汗は、羽林中郎将となった。北巡に従い、兎が乗輿の前に飛び出したので、命を受けてこれを射ると、弦に応じて倒れた。世祖は喜び、一つの金の兎を賜ってその才能を表彰した。高宗のために恭宗の廟を建てた時、陽豊侯の爵位を賜った。顕祖が即位し、再び高宗の廟を造営した時、殿中給事に任じられ、公に爵位を進めた。庫汗は裁断に明るく、毎回使節として奉じて州鎮を巡察し、情実に基づいて獄を裁き、歴任した地で皆称賛された。秦州の父老が宮闕に赴き庫汗を刺史として乞うた者は前後千余人に及び、朝廷はこれを許した。派遣される前に、病に遭って卒した。子の拓跋古辰が襲封した。
拓跋窟咄
昭成帝の子の窟咄である。昭成帝が崩御した後、苻洛はその年長であることを以て、長安に強制移住させ、苻堅は礼遇し、書学を教えた。乱に乗じて慕容永に従い東遷し、永は新興太守とした。
劉顯が敗れた時、弟の亢埿らを遣わして窟咄を迎えさせ、遂に南境に迫った。ここにおいて諸部は騒動した。太祖の側近の于桓らがこれに応じようと謀り、同謀者の単烏干が告発した。太祖は人心を驚かすことを慮り、沈吟して発動しなかった。三日後、于桓がその謀りを舅の穆崇に告げ、崇もまたこれを告げた。太祖は乃ち于桓ら五人を誅し、残りの莫題ら七姓は、全て許して問わなかった。太祖は内難を慮り、乃ち北に陰山を越え、賀蘭部に行幸し、安同と長孫賀を遣わして慕容垂に援兵を求めた。長孫賀は逃亡して窟咄に奔り、安同は間道を行き遂に中山に到達した。慕容垂は子の賀驎に歩騎六千を率いさせてこれに随行させた。安同は垂の使者の蘭紇と共に還り、牛川に達したが、窟咄の兄の子の意烈がこれを阻止した。安同は乃ち商人の袋の中に隠れ、日暮れになってから空井戸に入り、難を免れ、そのまま賀驎のもとに奔った。軍は未だ到着せず、窟咄軍は次第に前進して逼迫した。賀染干はひそかに異心を抱き、乃ち窟咄のために来て北部を侵した。人々は皆驚き恐れ、固守する意志を持つ者はなかった。ここにおいて北部大人の叔孫普洛節および諸烏丸は逃亡して 衞 辰に奔った。賀驎はこれを聞き、急いで安同・朱譚らを遣わして来させた。賀驎の軍が近いことを知ると、衆はようやく少し落ち着いた。
太祖は弩山から牛川に行幸した。窟咄は進んで高柳に駐屯した。太祖は再び安同を賀驎のもとに遣わし、期日を定めて会合することとした。安同が還ると、太祖は参合を越え、代北から出て賀驎と高柳で会合した。窟咄は困窮追い詰められ、旗を見て逃走し、遂に 衞 辰に殺された。帝はその衆を全て収めた。賀驎は帝と別れ、中山に帰った。
校勘記