巻14

神元皇帝の子孫

上谷公

上谷公の紇羅は、神元皇帝の曾孫である。初め、太祖に従って獨孤から 賀蘭部 がらんぶ へ赴き、旧来の戸口を招集して三百家を得、弟の建と共に賀訥を勧めて太祖を主君に推戴させた。太祖が王位に即くと、紇羅は常に左右を翼衛した。また征伐に従い、大功があった。紇羅には援立の謀があり、特に優れた賞賜を受けた。帝位に即くと、弟の建と同日に爵を賜り公となった。卒去。

子の題は、若くして雄武をもって知られ、爵を賜り襄城公となった。中山征伐に従い、詔を受けて諸郡を巡行し下し、新城を撫慰して、皆安んじて化を受け業を楽しんだ。爵を進めて王となった。義臺において 慕容 ぼよう 驎を撃つとき、流れ矢に当たり 薨去 こうきょ 。帝は太醫令の陰光が治療の術を尽くさなかったとして、これを処刑した。

子の悉が襲爵し、爵を降格されて襄城公となった。卒去し、襄城王を追贈された。

建德公

建德公の嬰文は、神元皇帝の後裔である。若くして明辯で決断力があり、太宗に重んじられた。出納詔命を司り、常に機要を執った。世祖が 践祚 せんそ すると、護東夷 校尉 こうい に任じられ、爵を進めて建德公となり、遼西を鎮守した。卒去。

真定侯

真定侯の陸は、神元皇帝の後裔である。世祖の時、武功によって頗る恩遇を受け、 散騎常侍 さんきじょうじ に任じられ、爵を賜り真定侯となった。卒去。

陸の曾孫の軌は、 あざな を法寄といい、次第に昇進して 洛陽 らくよう 令となった。当時天下は多事であり、軌はただ厳酷な扱いをもって下に臨み、死者多く酷く濫り、識者はこれを非とした。孝靜帝の時、 ぎょう 宮の創建に当たり、軌を営構使とした。徐州 刺史 しし に任じられた。軌は風望が既に卑しく、また学術もなく、名位を歴任したが、当時の人に軽んじられた。州において卒去。

武陵侯

武陵侯の因は、章帝の後裔である。太祖に従って 中原 ちゅうげん を平定し、功により曲逆侯に封ぜられた。世祖の時、爵を改めて武陵となった。

長楽王

長楽王の壽樂は、章帝の後裔である。選部 尚書 しょうしょ 、南安王の位にあり、改めて長楽王に封ぜられた。高宗が即位すると、壽樂には援立の功があり、太宰・大 都督 ととく ・中外諸軍・録尚書事に任じられた。功を誇り、 尚書令 しょうしょれい の長孫渴侯と権力を争い、共に処刑された。

望都公

望都公の 拓跋 たくばつ 頹は、昭帝の後裔である。太祖に従って中原を平定し、望都侯の爵位を賜った。世祖は頹の容姿端麗、立ち居振る舞いの見事さを認め、 蠕蠕 じゅんじゅん 柔然 じゅうぜん )から左昭儀を迎える使者とし、爵位を公に進めた。没した。

曲陽侯

曲陽侯の拓跋素延は、桓帝の後裔である。小統として太祖に従い諸部を征討し、 并州 へいしゅう が初めて平定されると刺史となった。太祖が栢肆で危険に陥った時、 へい 州の守将封竇真が謀反を起こしたが、素延はこれを斬った。当時、太祖は新たに帰順した者を慰撫し、参合陂での誅罰を悔やんでいたが、素延の殺戮が過多であったため、罪に坐して官を免ぜられた。中山が平定されると、幽州刺史に任ぜられた。豪奢で放逸であったため、左遷されて上谷太守となった。後に曲陽侯の爵位を賜った。当時、太祖は黄老の道に心を留め、純朴な風俗で教化しようとし、天子の車駕や衣服に至るまで全て彫飾を省き、質素倹約を尊んだが、素延の奢侈は度を過ぎており、太祖は深くこれを恨んだ。その過失を積み重ね、召還の上、罪に坐して死を賜った。

順陽公

順陽公の拓跋郁は、桓帝の後裔である。若い頃より忠義で剛直であった。初め羽林中郎として内廷に仕え、勤勉で有能と称された。高宗の時、殿中尚書の位に至った。高宗に従って東巡し海に臨み、功労により順陽公の爵位を賜った。高宗が 崩御 ほうぎょ すると、乙渾が権力を専断し、内外を隔絶させたため、百官は震え恐れ、どうすべきか分からなかった。郁は殿中の衛士数百人を率いて順徳門から入り、渾を誅殺しようとした。渾は恐れ、出迎えて郁に問うた、「君が入ってくるのはどういうつもりか」。郁は答えた、「天子に拝謁できず、群臣は憂慮し恐れている。主上にお目通りしたいのである」。渾は窮地に陥り、郁に言った、「今、大行皇帝(高宗)が殯宮にあり、天子(顕祖)は諒闇(喪中)にある。故にまだ百官に接していないのであって、諸君は何を疑うのか」。そして遂に顕祖を奉じて朝政に臨ませた。後に渾は乱を企てる心を抱き、朝臣は側目して見た。郁は再び渾を謀殺しようとしたが、渾に誅殺された。顕祖は郁の忠義剛直を記録し、死後順陽王を追贈し、 おくりな を簡といった。

宜都王

宜都王の拓跋目辰は、桓帝の後裔である。初め羽林郎として太祖に従い、南伐して長江に至った。高宗が即位すると、功労により累進して 侍中 じちゅう ・尚書左 僕射 ぼくや となり、南平公に封ぜられた。乙渾が乱を謀った時、目辰は兄の郁と共に渾を殺そうと謀議したが、事が漏れて誅殺され、目辰は逃れて潜伏し難を免れた。顕祖が位を伝えるに当たり、策定の功績があった。高祖が即位すると、 司徒 しと に遷り、宜都王に封ぜられ、雍州刺史を拝命し、 長安 ちょうあん を鎮守した。目辰の性質は剛直で耿介、朋党を結ばず、朝臣は皆これを畏れた。しかし財利を好み、州にあっては、賄賂によって政事が行われた。罪を得て法に伏し、爵位は除かれた。

拓跋六脩

穆帝の長子の六脩は、幼少より凶暴で道理に悖っていた。穆帝五年、六脩を前鋒として派遣し、輔相の衛雄・范班および姫澹らと共に劉琨を救援させた。帝みずから大軍を統率し後詰めとした。劉粲は恐れ、輜重を焼き払い、包囲を突破して逃走した。騎兵を放ってこれを追撃し、甚だ多くの殺傷を加えた。帝は寿陽山で大規模な狩猟を行い、獣の皮肉を陳列して閲兵すると、山が赤く変わるほどであった。晋の懐帝が劉聰に捕らえられた時、穆帝は六脩と桓帝の子の普根に精鋭の騎兵を率いさせ、劉琨を援助させた。初め、穆帝の末子の比延が寵愛され、後継者に立てようとした。六脩は新 平城 へいじょう に出て居住し、その母は廃された。六脩には驊騮という駿馬があり、一日に五百里を走ったが、穆帝はこれを取り上げて比延に与えようとした。後に六脩が朝参に来た時、穆帝はまた比延に拝礼するよう命じたが、六脩は従わなかった。穆帝はそこで比延を自分の乗る歩輦に座らせ、人に先導・従衛させて出遊させた。六脩が遠くから見て、穆帝だと思い、道の左に平伏して拝謁したが、到着してみると、それは比延であった。六脩は恥じ怒って去った。召し返しても戻らなかった。穆帝は怒り、兵を率いてこれを討伐した。帝の軍は利あらず、六脩は比延を殺した。帝は服装を変えて民間に潜行したが、卑しい婦人が帝と気づき、遂に突然崩御した。普根は先に外で守備していたが、難を聞き、兵を率いて駆けつけた。六脩を攻撃し、これを滅ぼした。

吉陽男

吉陽男の拓跋比干は、太祖の族弟である。司衛監として白澗の丁零を討伐し功績があり、吉陽男の爵位を賜った。後に南道都将となり、戦死した。

江夏公

江夏公の拓跋呂は、太祖の族弟である。世祖に従って涼州を平定し功績があり、江夏公に封ぜられ、外都大官の位に至り、朝政を委ねられ、大いに尊重された。没し、江夏王を追贈され、金陵に陪葬された。

平文子孫

高涼王

高涼王拓跋孤は、平文皇帝の第四子である。多才で技芸に長け、志略を有していた。烈帝の前元年、国に内難があり、昭成帝は襄国に赴いた。後に烈帝が臨終に際し、遺命して昭成帝を迎えて即位させれば、 社稷 しゃしょく は安泰であろうと言った。崩御すると、群臣は皆、新たに大喪があり、内外未だ安からず、昭成帝は南に在り、来るかどうか定かでなく、到着までの間に、恐らく変詐が生じるだろうから、長君を立てて衆望を鎮めるべきであると考えた。次弟の拓跋屈は、剛猛で変わりやすく、拓跋孤の寛和で柔順なのに及ばない。そこで大人の梁蓋らは拓跋屈を殺し、共に拓跋孤を推した。拓跋孤は言った。「我が兄は長子であり、自ら位を継ぐべきである。我どうして順序を越えて大業に処することができようか。」そこで自ら鄴に赴き奉迎し、身を留めて人質となることを請うた。石虎はその義を認めてこれに従った。昭成帝が即位すると、国の半分を分けて彼に与えた。薨去した。

子の拓跋斤は、職を失い怒りを抱き、拓跋寔君をそそのかして逆を為らせ、長安で死んだ。太祖の時、拓跋孤の勲功が高いことを以て、高涼王を追封し、諡して神武といった。

拓跋斤の子の拓跋楽真は、しばしば戦功があり、後に祖父の封を襲った。太宗の初め、平陽王に改封された。薨去した。

子の拓跋礼は、本来の爵である高涼王を襲封した。薨去し、諡して懿王といった。

子の拓跋那は、爵を襲った。中都大官に任ぜられた。 ぎょう 猛で攻戦に長けた。正平の初め、事に坐して法に伏した。顕祖が即位すると、拓跋那の功績を追念し、命じて子の拓跋紇に封を継がせた。薨去した。

子の拓跋大曹は、性質が謹直で素直であった。高祖の時、諸王で太祖の子孫でない者は、例によって爵を降格して公とされた。拓跋大曹の先世が国を譲った功績が重く、曾祖父の拓跋楽真の勲功が前朝に顕著であったことを以て、太原郡公に改封された。卒し、子がなく、国は除かれた。世宗はまた、拓跋大曹の従兄の子の拓跋洪威に継がせた。恭謙で学問を好み、潁川太守となり、政績があった。孝静帝の初め、潁川で衆を集めて関西に応じ、斉の献武王が将を遣わして討ち平らげた。

拓跋礼の弟の拓跋陵は、世祖より爵を賜わり襄邑男となった。爵を進めて子となった。卒した。

子の拓跋瓌は、柔玄鎮司馬の位に至った。

拓跋瓌の子の拓跋鷙は、字を孔雀という。容貌は魁偉で壮健、腰帯は十囲あった。羽林隊仗副となった。高祖の末、征討の功により、爵を賜わり しん 陽男となった。累遷して領軍、畿部 都督 ととく となった。

武泰元年、尒朱栄が河陰に至り、朝士を殺戮した。拓跋鷙は尒朱栄と共に高い塚に登り、俯してこれを見下ろし、この後より尒朱栄と合流した。元顥が逼迫した時、拓跋鷙は車駕に従って北に迎えに出た。河内に到着し、城に入ろうとした時、拓跋鷙は奏上して言った。「河内は昼は門を閉ざし、夜に車駕を引き入れる。この意図は、測りがたい。本来の図謀があるのでしょう。願わくは直ちに出発なさいますように。」帝はこれに従い、前に進んで長子に至り、尒朱栄が救援に赴いたことを以て、拓跋鷙を車騎将軍とし、華山王に封じた。荘帝が尒朱栄を殺すと、尒朱栄の従子の尒朱兆が乱を起こした。帝は諸軍を率いて親征しようとしたが、拓跋鷙は尒朱兆と内通し、帝を諫めて言った。「黄河は万仞の深さ、どうして急に渡れましょうか。」帝は遂に自ら安んじた。尒朱兆が殿中に入ると、拓跋鷙はまた衛兵を制止するよう約束した。帝が逼迫され、京邑が破られたのは、皆拓跋鷙の謀によるものであった。孝静帝の初め、入朝して大司馬となり、侍中を加えられた。

拓跋鷙は武芸を有し、木訥で言葉少なく、性質は方正で篤実、毎回直省闥に宿直する時は、暑い月でも衣冠を解かなかった。かつて侍中高岳の宴席で、咸陽王元坦が力を恃んで酒を振る舞い、一座を陵辱した。皆は彼に屈服し、敢えて応答しなかった。元坦が拓跋鷙に言った。「孔雀(拓跋鷙)は老いた武官だ。どうして王位を得たのか。」拓跋鷙は即座に答えて言った。「反逆者元禧の首を斬ったから、これによって得たのだ。」皆は顔色を失ったが、拓跋鷙は怡然として平素の如くであった。興和三年に薨じ、仮黄鉞・ 尚書令 しょうしょれい 司徒 しと 公を追贈された。

子の拓跋大器は、爵を襲った。後に元瑾と謀り斉の文襄王を害そうとして、害された。

拓跋孤の孫の拓跋度は、太祖の初めに爵を賜わり松滋侯となり、比部尚書の位に至った。卒した。

子の拓跋乙斤は、爵を襲い襄陽侯となった。顕祖は旧臣を尊び、外都大官に任じ、大いに優遇され重んじられた。卒した。

子の拓跋平は、字を楚国といい、世襲の爵である松滋侯を襲った。軍功により艾陵男を賜わった。卒した。

子の萇は、高祖の時に、松滋侯の爵を襲い、例により侯に降格し、艾陵伯を賜う。萇の性質は剛毅であり、吉慶の事があっても、口を開いて笑うことはなかった。高祖が都を遷すと、萇は代尹として留鎮した。懐朔鎮都大将に任じられ、別に萇に酒を賜うと、拝して飲むものの、顔色は泰然としなかった。高祖は言う、「公が一生笑わぬと聞く。今は山を隔てているが、朕のために笑ってみよ」と。ついに得ることができなかった。高祖は言う、「五行の気は、偏って入らざる所あり。六合の間にも、何事かあらざるものがあろうか」と。左右に見る者は、みな手を扼んで大笑した。世宗の時、北中郎将となり、河内太守を帯びた。萇は河橋の船の綱の道が狭く、行旅に不便であり、また秋の水が漲り、毎年破損するのを以て、船路を造り、広く空車で京を出る者を募り、率いて石一双を輸させ、累ねて岸と為した。橋は広く、往来便利となり、橋に近い諸郡は、再び労擾することなく、公私これに頼った。歴任して度支尚書・侍中・雍州刺史となった。卒し、諡して成と曰う。萇は中年以後、官位が微かに達し、自ら尊大に倨り、閨門に礼なく、兄弟仲睦まじからず、性質また貪虐であり、論ずる者はこれを鄙んだ。

萇の子の子華は、字を伏栄と為し、爵を襲ぐ。孝庄帝の初め、斉州刺史に任じられる。先に、州境は数度反逆を経て、邢杲の乱では、人は自ら保つことができなかった。而して子華は豪右を撫で集め、これに管籥を委ね、衆はみな感悦し、境内は帖然とした。而して性質は甚だ褊急であり、その急ぐ時には、口は言を択ばず、手ずから捶撃した。長史の鄭子湛は、子華の親友であったが、侮罵されるを見て、すなわち去った。子華は自ら悔い励むも、終いに改めることができなかった。官にあって矯潔の行いを為さず、凡そ饋贈する者があれば、辞多くして受け少なく、故に人はその取ることを厭わなかった。獄を鞠て囚を訊くに、務めて仁恕を加えた。斉人は碑を樹てて徳を頌した。

後に済州刺史に任じられる。尒朱兆の洛陽に入るに及び、斉州城人の趙洛周が刺史の丹陽王蕭賛を逐い、済南太守の房士達を行州事に摂することを表した。洛周の子の元顕は先に子華に従って済州におり、路を邀えて表を改め、子華を再び斉州刺史と為すことを請うた。子華の母の房氏は、かつて親人の飲食に就き、夜に還って大いに吐き、人は中毒と以為い、甚だ憂懼した。子華はすなわち吐物を掬って尽く噉み、その母は乃ち安んじた。尋いで母憂により都に還る。

孝静帝の初め、南兗州刺史に任じられる。弟の子思が関西に使いし、朝廷は右衛将軍の郭瓊にこれを収めさせた。子思は瓊の僕に謂う、「速やかに殺されるべし、何ぞ久しく国士を執するや」と。子華は子思に謂う、「汝の粗疏によりて、我をして此くの如くせしむ」と。頭を以て牀に叩き、涕泣して自勝えず。子思は手を以て鬚を捋で、顧みて子華に謂う、「君は体気を悪む」と。尋いで子思とともに門下外省にて死す。

子思は、字を衆念と為し、性質剛暴にして、常に忠烈を以て自ら許す。元天穆が朝権を当にし、親従を以て御史中尉に薦む。先に、兼尚書僕射の元順が奏し、尚書は百揆の本と為し、公事に至っては、御史に送るべからずと為す。子思に至り、奏して曰く。

詔して曰く、「国は政を異にす、古事に拠るべからず。司に付して高祖の旧格を検し、得失を推処して聞かしめよ」と。尋いで子思の奏に従う。仍って元天穆の忿るところと為り、遂に停む。元顥の敗れに及び、安定県子を封ぜらる。孝静帝の時、侍中の位にて死す。

萇の弟の珍は字を金雀と為し、艾陵男の爵を襲ぐ。世宗の時、曲って高肇に事え、遂に帝の寵昵と為る。彭城王勰の死に、珍は壮士を率いてこれを害す。後に尚書左僕射にて卒す。

平の弟の長生は、游撃将軍・騎撃将軍の位に至る。卒す。孝庄帝の時、子の天穆の貴盛を以て、 司空 しくう を贈られる。

天穆は、性質和厚にして、形貌美しく、射を善くし、能名有り。二十歳にして、員外郎より起家す。六鎮の乱に、 尚書令 しょうしょれい の李崇・広陽王の深が北討し、天穆は奉使して諸軍を慰労す。路は秀容に出で、尒朱栄はその法令斉整にして、将領の気有るを見て、深く結託し、兄弟と約す。未だ幾ばくもせず、栄は天穆を行台と為すことを請う。朝廷は許さず、別将に改めて授け、秀容に赴かしむ。是の時、北鎮紛乱し、所在蜂起し、六鎮蕩然として、再び蕃捍無く、惟だ栄のみ職路の衝に当たり、散亡を招聚す。天穆は栄の腹心と為り、 へい 州刺史に任じられる。

栄の洛陽に赴くに及び、天穆はその始謀に参じ、乃ち天穆に留後を令し、これが継援と為す。庄帝践祚し、天穆は栄の眷昵を以て、特ら 太尉 たいい に任じ、上党王に封ぜられ、京師に徴赴す。栄の葛栄を討つに、詔して天穆を前軍 都督 ととく と為し、京師の衆を率いてこれに赴かしむ。栄が葛栄を擒えると、天穆は封を増され、前に通じて三万户と為る。尋いで国史を監し、尚書事を録し、開府し、世襲して へい 州刺史と為る。

初め、杜洛周・鮮于脩礼が寇と為り、瀛・冀諸州の人は多く乱を避けて南に向かう。幽州前北平府主簿の河間の邢杲は、部曲を擁率し、鄚城に屯拠して、洛周・葛栄を拒ぎ、将に三載に垂んとす。広陽王の深等の敗れたる後、杲は南渡して青州北海の界に居す。霊太后は詔して流人の所在に皆命属郡県を置き、豪右を選んで守令と為し以てこれを撫鎮せしむ。時に青州刺史の元世儁は表して新安郡を置き、杲を太守と為さんとす。未だ報ぜず。会に台が授くる所の郡県を汰簡するを申し、杲の従子の子瑤が資蔭にて前に居するを以て、乃ち河間太守を授く。杲は深く耻恨し、ここに於いて遂に反す。所在の流人は先に土人に凌忽せられ、杲の逆を起こすを聞き、率いてこれに従う。旬朔の間に、衆は十万を踰ゆ。村塢を劫掠し、民人を毒害し、斉人はこれを「𦧟榆賊」と号す。先に、河南人は常に河北人の榆葉を好んで食するを笑う、故に因って以てこれが号と為す。杲は東に光州を掠め、海に尽きて還る。又 都督 ととく の李叔仁の軍を破る。詔して天穆と斉献武王にこれを討たしめ大いに破る。杲は乃ち降を請い、伝送して京師に至り、これを斬る。天穆の邑を一万戸増す。

時に元顥が虚に乗じて 滎陽 けいよう を陥す。天穆は庄帝の北巡を聞き、畢公壘より北渡し、車駕に会すこと河内に於いてす。尒朱栄は天時の炎熱を以て、師を還さんと欲す。天穆は苦しく執りて不可と為し、栄は乃ちこれに従う。庄帝還宮し、太宰を加えられ、羽葆・鼓吹を賜う。邑を増し、前に通じて七万户と為る。

天穆は疏属を以て、本より徳望無く、尒朱に憑藉し、爵位隆極し、当時に燻灼し、朝野傾悚し、王公以下毎旦門に盈ち、財貨を受け納れ、珍宝充積す。而して寛柔に物を容れ、甚だ時に疾まれるを見ず。庄帝はその栄の党を以て、外に寵敬を示し、詔して天穆に車馬に乗じて大司馬門を出入せしむ。天穆は栄と相倚り、情寄特甚だし。栄は常に兄の礼を以てこれに事え、而して尒朱世隆等は栄の子姪と雖も、位遇已に重く、天穆を畏憚し、俯仰承迎す。天穆は曾て世隆の失を言うと、栄は即ち杖を加え、その相親任すること此くの如し。庄帝は内にこれを畏悪し、栄と同時に見殺さる。前廃帝の初め、丞相・柱国大将軍・雍州刺史を贈られ、黄鉞を仮し、諡して武昭と曰う。

子の儼は爵を襲ぎ、才貌美し。都官尚書の位に至る。斉の禅を受けるに及び、勅召を聞き、病を仮り、遂に怖れて卒す。

西河公

西河公の拓跋敦は、平文帝の曾孫である。太祖の初年、征討に従い、堅い鎧を着て鋭い武器を執り、その名声は諸将の中で最も高かった。後に中山征討に従い、向かうところ敵なく進んだ。太宗の時、中都大官に任ぜられた。世祖の時、爵位を進めて西河公とされ、寵遇はますます厚かった。没し、子の拓跋撥が襲封した。

拓跋石

司徒 しと の拓跋石は、平文帝の玄孫である。忠勇にして胆略があり、特に騎射を得意とした。世祖に従って南征し、瓜歩に至った。位は 尚書令 しょうしょれい 、雍州刺史に至る。比部侍郎、華州刺史を歴任し、累進して征南大将軍となった。没し、 司徒 しと 公を追贈された。

拓跋謂

武衛将軍の拓跋謂は、烈帝の第四子である。寛雅にして将略があり、常に太祖に従って征討し功績があり、武衛将軍に任ぜられた。後に老齢を理由に帰家し、顕祖は礼遇を厚くし、几杖や衣服器物を賜い、邸宅に御膳を届けさせた。没し、秘器を賜った。

子の拓跋烏真は、膂力が人に絶していた。太祖に従って征伐し、しばしば戦功を立て、官は鉅鹿太守に至った。

子の拓跋興都は、聡明で剛毅であった。高宗の時、河間太守となり、爵位を楽城子と賜った。政治は厳猛で、百姓はこれを畏れた。顕祖の初年、子の拓跋丕が貴重な地位にあることを理由に、爵位を進めて楽城侯とした。老齢を理由に帰家し、顕祖はますます礼を厚くし、几杖や衣服器物を賜い、邸宅に御膳を届けさせた。その妻婁氏は、東陽王の太妃となった。没し、定州刺史、河間公を追贈され、諡を宣といった。

子の拓跋提は、父の侯爵を襲封した。

拓跋提の弟の拓跋丕は、世祖に抜擢されて羽林中郎に任ぜられた。帝の車駕に従って長江に臨み、爵位を興平子と賜った。顕祖が即位すると、累進して侍中となった。丞相乙渾が謀反を企てると、拓跋丕はこれを上奏して聞かせた。詔により拓跋丕は元賀、牛益得を率いて乙渾を捕らえ、これを誅殺し、 尚書令 しょうしょれい に転じ、東陽公に改封された。

高祖の時、東陽王に封ぜられ、侍中、 司徒 しと 公に任ぜられた。当時、疑わしい事柄三百余条があり、勅命により拓跋丕が裁決を定めたが、おおむね公平妥当であった。拓跋丕の子の超が生まれると、帝自らその邸宅に行幸し、特に賞賜を加えた。心を一にして二つでないことを理由に、詔して拓跋丕に八議に入ることを許し、子孫に伝え示し、罪が百に至っても、責め立てる数を聞き入れこれを赦すこととした。また、その同籍の丁口の雑使役や租調を免除し、永く復除を受けることとした。もし姦邪の者が巧みに讒言し誹謗する者がいれば、ただちに斬戮を加えることとした。まもなく太尉、録尚書事に転じた。当時、淮南王の拓跋他、淮陽王の尉元、河東王の苟頹はともに旧臣の長老として礼遇され、大事があるごとに禁中に引き入れられ、歩挽車に乗り、朝廷で杖をつき、進退ともにお互いに従った。拓跋丕、拓跋他、尉元の三人は、いずれも容貌が雄壮で偉大、腰帯は十囲、耳は大きく眉は秀麗、鬚や鬢は斑白であり、百官がこれを仰ぎ見て、畏敬しない者はなかった。ただ苟頹だけは少し背が低く劣り、風貌も及ばなかった。高祖と文明太后は年長者を重んじ旧臣を敬い、慰問して行き届き、珍宝を賜った。拓跋丕は声が高く朗らかで、国事を広く記憶し、饗宴の際には常に上座に居て、必ず声を張り上げて大いに語り、過去の成敗を列挙して述べた。帝と后はこれを敬って受け入れた。しかし、権力者に諂い事え、驕って侮り軽んじ、王叡や苻承祖に会うたびに、常に身をかがめてその下に立った。

当時、文明太后が王叡のために邸宅を造営したので、同じく拓跋丕のために第一等の邸宅を造った。邸宅が完成すると、帝と后が自ら行幸し、文武百官を率いて落成の宴を催した。 尚書令 しょうしょれい の王叡に詔を宣べさせ、拓跋丕に金印一紐を賜った。太后は自ら勧戒の歌辞を作って群官に賜い、拓跋丕は上疏して感謝を称えた。太后は令して言った、「臣よ隣よ、隣よ臣よ。君は上に安逸を忘れず、臣は下に薄氷を踏む思いで仕えよ。もしこのようであれば、太平などどうして難しいことがあろうか」。また、拓跋丕の妻の段氏が没すると、諡して恭妃といった。さらに特に拓跋丕に金券を賜った。

高祖と文明太后が皇信堂で公卿を引見し、太后は言った、「今、京師は旱魃で凶作であり、飢え貧しい人々に関所を出て食を求めることを許そうと思う。もし過所(通行証)を与えようとすれば、日時が遅延することを恐れ、災難と困窮を救えない。もし自由に外出させれば、また姦悪な者と善良な者を見分けがたいことを憂慮する。卿らは適切な方法を議論せよ」。拓跋丕は議して言った、「諸曹の下大夫以上の者に、それぞれ二人の吏を率いさせ、別に過所を与えることを掌らせ、州郡も同様にすれば、三日を過ぎずに与えることが完了し、何の難しいことがありましょうか」。高祖はこれに従い、四日で完了した。拓跋丕が東宮(皇太子)の設立を請うと、詔して言った、「年齢はまだ幼少である。何が急なのか」。拓跋丕は言った、「臣の年は夕日に迫っております。盛大な礼儀を見たいと思い、臣にとっては実に急務でございます」。許されなかった。後に例により王爵を降格され、平陽郡公に封ぜられた。致仕を求めたが、詔して許さなかった。

帝の車駕が南伐するに及び、拓跋丕は広陵王の拓跋羽とともに京師を留守し、ともに使持節を加えられた。詔して拓跋丕と拓跋羽に言った、「留守は賢者でなければ務まらない。太尉(拓跋丕)は年長で徳が重く、位は阿衡(宰相)を総べる。拓跋羽は朕の良き弟で、温和で明断である。故に二人に京邑の留守を任せ、二つの節を授け、賞罰をその手に握らせる。よく法に従って事を成し、朕の心にかなえよ」。拓跋丕は答えて言った、「謹んで命に従って死を奉じます」。拓跋羽は答えて言った、「太尉が専ら節度すべきであり、臣はただ副えるのみです」。高祖は言った、「老者の智、少者の決断、どうして辞退できようか」。高祖が平城に還ると、拓跋丕が歌を作ることを請うたので、詔してこれを許した。歌が終わると、高祖は言った、「公は朕の還車を促したので、親しく歌って志を述べさせた。今、経営構築に既に順序がついたので、暫く旧京に還る。願わくは後日も同じくこの地に赴かんことを」。

高祖が遷都を欲し、太極殿に臨み、留守の官を引見して大いに議した時に至る。乃ち詔して丕らに、もし懐く所あれば、各々その志を陳べよとせしむ。燕州刺史穆羆進みて曰く、「都を移すは事大なり、臣の愚見の如きは、未だ可ならずと謂う」と。高祖曰く、「卿便ちに不可の理を言え」と。羆曰く、「北に獫狁の寇あり、南に荊揚未だ賓せず、西に吐谷渾の阻あり、東に高句麗の難あり。四方未だ平らかならず、九区未だ定まらず。これを以て推すに、不可と謂う。征伐の挙は、要須戎馬なり、もし其の馬無くば、事克つ可からず」と。高祖曰く、「卿の馬無しと言うは、此の理粗可なり。馬は常に北方に出ず、廄を此に置く、卿何ぞ馬無きを慮るや?今代は恒山の北に在り、九州の外たり、是の故を以て、中原に遷る」と。羆曰く、「臣聞く、黄帝は涿鹿に都すと。此を以て言えば、古昔の聖王必ずしも悉く中原に居らず」と。高祖曰く、「黄帝は天下未だ定まらざるを以て、涿鹿に居り、既に定まった後に、亦た河南に遷る」と。尚書于果曰く、「臣誠に古事を識らず、百姓の言を聞くに、先皇此に都を建て、何ぞ移さんと欲するや、以て不可と為す。中原其れ是の如き所由擬す。数に篡奪有り。邑を平城に建つる以来、天地と並びに固く、日月と斉しく明らかなり。臣管見膚浅と雖も、性昭達ならず、終に恒代の地を以て、伊洛の美を擬せず。但だ安土重遷は、物の常性、一旦南に移らば、楽しまざるを懼るるなり」と。丕曰く、「陛下去歳親しく六軍を御して蕭氏を討ち、洛に至り、任城王澄に旨を宣せしめ、臣等に都洛を議せしめ給う。初め恩旨を奉ずるや、心情惶越す。凡そ遷移せんと欲すれば、当に之を卜筮に訊ね、吉否を審定し、然る後に可なり」と。高祖丕に謂いて曰く、「往くに鄴中に在りし時、 司徒 しと 公誕・咸陽王禧・尚書李沖等皆龜を請いて洛に移るの吉凶の事を占わんと欲す。朕時に誕等に謂いて曰く、昔周邵伊洛に宅を卜し、乃ち至兆を識る。今斯の如きの人無くば、卜も亦た益無し。然れども卜者は以て疑を決する所以なり、此れ既に疑わず、何ぞ卜を須いん。昔軒轅卜兆し龜焦ぐ、卜者請う諸の賢哲に訪わんと、軒轅乃ち天老に問う、天老善しと謂う。遂に其の言に従い、終に昌吉を致す。然らば則ち至人の量未然、龜に審かなり。朕既に四海を家と為す、或いは南或いは北、遅速常無し。南に移るの民は、朕自ら倉儲を多く積み、窘乏せしめず」と。丕曰く、「臣仰ぎて慈詔を奉じ、喜舞に勝えず」と。高祖詔して羣官に曰く、「卿等或いは朕の移徙を為さずと謂うか。昔平文皇帝率土を棄背し、昭成 盛楽 せいらく に営居す;太祖道武皇帝神武天に応じ、平城に遷居す。朕虚寡と雖も、幸いに勝残の運に属す、故に中原に宅を移し、皇宇を肇成す。卿等当に先君の令徳を奉じ、洪規の迹を光くべし」と。前懷州刺史青龍、前秦州刺史呂受恩等仍って愚固を守る、帝皆撫でて之に答え、辞屈して退く。

帝又た将に北巡せんとす、丕は 太傅 たいふ ・録尚書事に遷る。頻りに表して固く譲る、詔して表啓を断ち、家に就きて拜授す。及び車駕代を発つ、丕は留守し、詔して曰く、「中原始めて構う、朕の営視を須う、代に在るの事は、一に太傅に委ぬ」と。上乗の車馬を賜い、府省に往来せしむ。

丕は雅に本風を愛し、新式に達せず、俗を変え洛に遷り、官を改め服を制し、旧言を禁絶するに至るまで、皆願わざる所なり。高祖其の此の如きを知り、亦た之を逼らず、但だ大理を誘示し、其の同異を生ぜしめざらしむ。衣冕已に行わるるに至り、朱服位を列ねるも、而るに丕は猶常服を以て坐隅に列す。晩に乃ち稍く弁帯を加うるも、而して容儀を修飾する能わず。高祖は丕の年衰え体重きを以て、亦た強いて責めず。及び太祖の子孫に非ざる者及び異姓の王を罷降するに及び、公爵に較ぶるも、而して封邑を享くる利あれども、亦た快からず。

高祖南征す、丕は表して少しく留まり、更に後の挙を図らんことを乞う。会うに 司徒 しと 馮誕薨ず、詔して六軍を反斾す。丕又た熙が代都に於いて薨ずるを以て、表して鑾駕の親臨を求む。詔して曰く、「今洛邑肇構し、跂望成労す、開闢より今に至るまで、豈に天子の重を以て、遠く舅国の喪に赴くこと有らんや?朕縦え孝たらんと欲すとも、其れ大孝を如何せん?縦え義たらんと欲すとも、其れ大義を如何せん?天下至重、君臣の道懸けたり、豈に苟も相誘引し、君を不徳に陷るべけんや。令・僕已下は法官に付して之を貶すべし」と。又た詔して丕を以て 都督 ととく と為し、 へい 州刺史を領せしむ。後詔して平陽は畿甸なるを以て、新興公に改封す。

初め、李沖は又た徳望の所属する所、既に当時の貴要たり、杖情有り、遂に子超をして沖の兄の女を娶らしむ、即ち伯尚の妹なり。丕の前妻の子隆は同産数人、皆と別居す。後宮人を得、生む所は同宅共産す。父子の情此に因りて偏す。

丕父子は大意遷洛を楽しまず。高祖の平城を発つに当たり、太子恂は旧京に留まり、及び将に洛に還らんとするに、隆と超等は密かに恂を留め、因りて兵を挙げ関を断ち、規として陘北に据えんと謀る。時に丕は老いて へい 州に居り、其の始計に預からざるも、而して隆・超皆以て丕に告ぐ。丕は外に成らざるを慮り、口は雖も難を致すも、心は頗る之を然りとす。及び高祖平城に幸す、穆泰等の首謀を推すに、隆兄弟並びに是れ党なり。丕も亦た駕に随いて平城に至り、毎に測問するに、丕をして坐観せしむ。隆・超と元業等兄弟並びに謀逆を以て誅せらる。有司奏して孥戮を処せんとす、詔して丕は連坐に応ずるも、但だ先に不死の詔を許したるを以て、躬は逆に染むるの身に非ざれば、死を免するを聴し、仍って太原の百姓と為し、其の後妻の二子は随うを聴す。隆・超の母弟及び余の庶兄弟は、皆敦煌に徙す。丕は時に年垂八十、猶自ら平城より力を載せ、駕に随いて洛陽に至る。高祖毎に左右を遣わして之を慰勉し、乃ち 晋陽 しんよう に還る。

高祖崩ず、丕は へい 州より来り赴き、世宗之を引見す。丕の旧老を以て、礼に加うる所有り。尋いで勅して洛陽に留まらしむ。後華林都亭に宴し、特ちに二子をして坐起を扶侍せしむ。丕は仕えて六世に歴り、垂七十年、位公輔に極むるも、而して還りて民庶と為るも、然れども猶心京邑を恋い、自ら人事を絶つ能わず。尋いで詔して丕を以て三老と為す。景明四年薨ず、年八十二。詔して左光禄大夫・冀州刺史を贈り、諡して平と曰う。

長子隆は、先に反を以て誅さる。隆の弟乙升・超も、亦た同く誅さる。超の弟儁・邕は、並びに軍功有り。儁は新安県男に封ぜられ、邕は涇県男に封ぜらる。

淮陵侯

淮陵侯大頭は、烈帝の曾孫なり。騎射に善く、擢て内三郎と為る。世祖に従いて戦功有り、爵を賜う。高宗の初め、淮陵に封ぜらる。性謹密、帝甚だ之を重んず。位は寧北將軍に至り、右將軍に遷る。卒し、高平公を贈られ、諡して烈と曰う。

河間公

河間公の拓跋齊は、烈帝の玄孫である。若い頃より雄傑で魁偉であり、世祖はその勇壮さを愛で、側近として侍らせた。 赫連 かくれん 昌征討に従い、世祖の馬が躓くと、賊の軍勢が帝に迫った。齊は身を以て蔽い防ぎ、必死に賊を撃ち、賊は遂に退き、世祖は馬に乗ることができた。この日、齊がいなければ、世祖は危殆に陥るところであった。世祖が微服でその城に入ろうとした時、齊は固く諫めたが、許されず、数人と共に世祖に従って入城した。城内が既に気付き、諸門は悉く閉ざされた。世祖及び齊らはその宮中に入り、婦人の裙を得て、それを槊に結び付け、世祖はそれに乗って上り、これによって脱出することができたが、齊の力によるものであった。浮陽侯の爵位を賜う。和龍征討に従い、功により尚書に任ぜられ、爵位を公に進めた。後に新興王の拓跋俊と共に禿髮保周を討ったが、事に坐して官爵を免ぜられた。

劉義隆の将、裴方明が仇池を陥落させると、世祖は再び齊に前將軍を授け、建興公の古弼と共にこれを討たせ、遂に仇池を攻克し、 きょう てい に威を震わせた。再び河間公の爵位を賜い、武都王の楊保宗と対峙して駱谷に鎮した。時に保宗の弟の文德が保宗を説き、険阻を閉ざして自ら固守しようとした。期日が定まっていたが、秦州主簿の邊因がこれを知り、密かに齊に告げた。齊は朝、保宗の下に赴き、呼んで曰く「古弼が到着し、詔を宣べようとしている」と。保宗が出てくると、齊は左右を叱って保宗を扶け馬に乗せ、駅伝を馳せて朝廷に送った。諸氐は遂に文德を主に推戴し、劉義隆に援軍を求めた。義隆は将の房亮之、苻昭、啖龍らを遣わして軍勢を率い文德を助けさせた。齊は撃って啖龍を斬殺し、亮之を生け捕りにした。氐は遂に平定された。功により内都大官に任ぜられた。卒し、諡して敬といった。

長子の陵は、爵位を襲った。陵の性質は抗直であり、天安の初め、乙渾に害された。

陵の弟の蘭は、忠謹をもって寵愛を受けた。高祖の初め、建陽子の爵位を賜う。武川鎮将の任にて卒した。

子の志は、字を猛略という。若い頃より清弁で強幹、書伝を歴覧し、頗る文才があった。洛陽令となり、強禦を避けず、御史中尉の李彪と道を争い、共に入朝して面陳し得失を述べた。彪は言う、「御史中尉は承華の車蓋を避け、論道の劍鼓に駐まるもので、どうして洛陽県令が臣と抗衡することがあろうか」と。志は言う、「神郷の県主たるもの、普天の下、誰が編戸でないことがあろうか。どうして諸官に俯して同じくし、中尉を避けようか」と。高祖は言われた、「洛陽は我が豊沛である。自ら分かれて路を揚鑣すべきである。今より以後、分かれて路を行くべし」と。出ると、彪と尺を折り道を量り、各々その半ばを取った。高祖は邢巒に謂われた、「この児は結局よろしい。いわゆる王孫公子、鏤らずして自ら雕るというものだ」と。巒は言った、「露の枝、霜の條は、故に勁節多く、鸞ならざれば鳳なり、その本枝にあるものなり」と。員外郎の馮俊は、昭儀の弟であり、勢いを恃んで恣に所管の里正を撾った。志は主吏に命じて収監させ、刑を処し官を除いた。これにより旨に忤い、左遷されて太尉主簿となった。間もなく從事中郎となった。

車駕が南征した時、高祖が微服で戦場を観覧していると、矢が帝を犯さんとした。志が身を以てこれを蔽ったので、高祖は免れることができた。矢は志の目に中り、これにより一目を喪って明を失った。志を行恒州事とした。世宗の時、荊州刺史に任ぜられ、朝廷に還ると、御史中尉の王顯が上奏し、志が州に在った日、良人を抑えて買い婢とし、兼ねて供給を余分に請うたと。赦令に会って免ぜられた。肅宗の初め、廷尉卿を兼ねた。後に揚州刺史に任ぜられ、建忠伯の爵位を賜う。志が州にあっては威名は李崇に減ずるも、また荊楚に憚られた。間もなく雍州刺史となった。

晚年は声伎に耽溺し、揚州に在った日、侍側の者が将に百人に及び、器服は珍麗で、一時に冠たるものであった。雍州に在っては、愈々華侈を尚び、聚斂極まりなく、声名は遂に損なわれた。

莫折念生が反乱を起こすと、詔により志を西征 都督 ととく としてこれを討たせた。念生はその弟の天生を遣わして隴口に屯させ、志と相持した。賊の乗ずるところとなり、遂に大衆を棄てて奔還し岐州に至った。賊は遂に城を攻めた。刺史の裴芬之は城中の者が賊と潜かに通じていると疑い、悉く出そうとしたが、志は聞き入れなかった。城中の者は果たして門を開いて賊を引き入れ、志及び芬之を鎖して念生のもとに送り、害された。前廢帝の初め、尚書僕射・ 太保 たいほう を追贈された。

扶風公

扶風公の拓跋處真は、烈帝の後裔である。若い頃より壮烈をもって聞こえた。殿中尚書の位に至り、扶風公の爵位を賜い、大政を委ねられ、甚だ尊礼された。吐京胡の曹僕渾らが叛き、朔方胡を招き引き援軍とした。處真は高涼王の拓跋那らと共にこれを討滅した。性質は貪婪で、軍中において烈暴であり、事に坐して法に伏せられた。

文安公

文安公の拓跋泥は、国の疏族である。性質は忠直壮烈で、智畫があった。太祖は厚く遇し、文安公の爵位を賜い、安東將軍に任ぜられた。卒した。

子の屈は、爵位を襲った。太宗の時、門下に居り、詔命を出納した。性質は明敏で、奏事を善くし、毎度上旨に合い、元城侯の爵位を賜い、功勞將軍を加えられ、南平公の長孫嵩、白馬侯の崔玄伯らと並んで獄訟を決した。太宗が東巡した時、屈に行右丞相を命じ、山陽侯の奚斤に行左丞相を命じ、軍国を掌らせ、甚だ声譽があった。後に吐京胡と離石胡の出以兵らが叛き、将校を置き立て、外に赫連屈丐を引き入れた。屈は会稽公の劉潔、永安侯の魏勤を督してこれを防がせたが、魏勤は陣に没し、劉潔は馬から墜ち、胡に捕らえられ屈丐のもとに送られ、ただ屈の軍勢のみがなお存した。太宗は屈が二将を没失したことを以て、斬らんとした。時に へい 州刺史の元六頭が荒淫で政事を怠っていたので、屈を赦して州事を摂行させた。屈は酒に耽り、頗る政事を廃した。太宗はその前後の過失を積み重ね、檻車で徴還し、市で斬った。

子の磨渾は、若くして太宗に知られた。元紹の逆乱の時、太宗は外に潜み隠れた。磨渾は叔孫俊と詐って太宗の所在を云った。紹は帳下の二人を磨渾に随わせて行かせ、逆を図らせた。磨渾は既に出ることができたので、便ち帳下を縛って太宗のもとに詣で斬らせた。太宗は磨渾を得て、大いに喜び、これをもって羽翼とした。勲功により長沙公の爵位を賜い、尚書に任ぜられ、出て定州刺史となった。卒した。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻14