巻113

民衆は自ら治めることができないので、君主を立てて司牧とし、元首は独断できないので、臣下を命じてこれを補佐させる。さればこそ、海内を安んじ、国家を正すことは、一人の力によるものではない。文 あざな 記録以前のことは聞こえないが、伏羲・軒轅・昊・頊の時代から、龍・火・鳥・人の職掌については、おおよそ知ることができる。唐虞は六十官、夏商はその倍、周は三百を超え、これをもって大備とする。秦・漢・魏・晋は代々に増減があり、廃置盛衰は時勢に応じて適切な務めとした。しかも国は政を異にし、家は俗を殊にする。官を設け職を命ずることに、常なるものがあろうか。帝王が治めを行うには、礼楽は互いに沿襲せず、海内が家を作るには、物色は一つの用途に限らない。その由来は久しい。

魏氏は代々北方の玄朔を君臨し、遠く臣下を統べ、事を掌り司を立て、それぞれに号と秩があった。南朝と交好するに及んで、かなり改創もなされた。昭成帝が王位に即くと、すでに燕鳳を右長史とし、許謙を郎中令とした。その他の官や雑号は、多く晋朝と同じであった。建国二年、初めて左右近侍の職を置き、定員はなく、時に百数に至り、禁中に侍直し、詔命を伝宣した。皆、諸部の大人および豪族良家の子弟で、儀容端厳、機知弁才に優れた者を選抜した。また内侍長四人を置き、顧問を主とし、遺失を拾い応対し、今の 侍中 じちゅう 散騎常侍 さんきじょうじ の如きものである。諸方の雑人が来附する者は、総じて「烏丸」と称し、それぞれの多少に応じて酋・庶長と称し、南北の部に分け、さらに二部の大人を置いてこれを統轄した。時に帝の弟の觚は北部を監し、子の寔君は南部を監し、民を分けて治め、古の二伯のようであった。

太祖の登国元年、因襲して改めず、南北には依然として大人を置き、二部を対治させた。この年、都統長を置き、また幢将および外朝大人官を置いた。その都統長は、殿内の兵を領し、王宮に直し、幢将は員六人、三郎衛士で禁中に直宿する者を主とした。侍中以下、中散以上は、皆これを統べた。外朝大人は定員なく、詔命を受け、外使し、禁中に出入りし、国に大喪大礼ある時は皆参与し、その管掌に随ってこれに与った。

皇始元年、初めて曹省を建て、百官を備え置き、五等を封拜し、外職は 刺史 しし ・太守・令長以下で未だ備わらざるものは、随時にこれを置いた。

天興元年十一月、詔して吏部郎の鄧淵に官制を典とさせ、爵品を立てしめた。

十二月、八部大夫・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・待詔等の官を置く。その八部大夫は皇城の四方四維に面して一人ずつ置き、八座に擬し、これを八国常侍と謂う。待詔は左右に侍直し、王命に出入りす。

二年三月、 尚書 しょうしょ 三十六曹および諸外署を分ち、凡そ三百六十曹を置き、大夫にこれを主とさせた。大夫にはそれぞれ属官があり、文簿あるものは当該の曹において敷奏し、弾駁の煩わしさを省かんとした。初めて五経諸書に各々博士を置き、国子学生員三十人とす。

三年十月、受恩・蒙養・長徳・訓士の四官を置く。受恩の職は特進に比し、定員なく、人あれば則ち置き、親貴で器望ある者をこれとなす。蒙養の職は光禄大夫に比し、定員なく、勤旧で休閑なる者を取る。長徳の職は中散大夫に比し、定員なし。訓士の職は諫議大夫に比し、時政を規諷し、非違を匡刺す。また仙人博士官を置き、百薬を煮錬することを典とす。

四年七月、 匈奴 きょうど 中郎将官を罷め、諸部の護軍を皆、大将軍府に属せしむ。

九月、外蘭台御史を罷め、総べて内省に属す。

十二月、尚書三十六曹を復し、曹ごとに代人令史一人、訳令史一人、書令史二人を置く。

天賜元年八月、初めて六謁官を置き、古の六卿に準じ、その秩は五品。属官に大夫あり、秩は六品。大夫の属官に元士あり、秩は七品。元士の属官に署令長あり、秩は八品。令長の属官に署丞あり、秩は九品。

九月、五等の爵を減じ、初めて四つに分かつ。曰く王・公・侯・子、伯・男の二号を除く。皇子および異姓で元功上勳ある者は王に封じ、宗室および始蕃王は皆公に降じ、諸公は侯に降じ、侯・子も亦これにより差等をつく。ここにおいて王に封ずる者十人、公二十二人、侯七十九人、子一百三人。王は大郡を封じ、公は小郡を封じ、侯は大県を封じ、子は小県を封ず。王は第一品、公は第二品、侯は第三品、子は第四品。また散官五等を制す。五品散官は三都尉に比し、六品散官は議郎に比し、七品散官は太中・中散・諫議の三大夫に比し、八品散官は郎中に比し、九品散官は舎人に比す。文官五品以下で才能秀異なる者は総べてこれに造士を比し、亦五等あり。武官五品以下で将帥に堪えうる者も、亦五等あり。もし百官に欠員あれば、則ちこの中より擢ててこれを補う。

初め、帝は古の純質に法らんと欲し、官号を制定する毎に、多く周漢の旧名に依らず、或いは身より取り、或いは物より取り、或いは民事により、皆、遠古の雲鳥の義に擬う。諸曹の走使をこれを鳧鴨と謂い、飛ぶ迅疾さを取る。伺察する者を候官と為し、これを白鷺と謂い、その延頸遠望するを取る。その余の官も、義皆これに類し、咸いに比況あり。また諸州ごとに各々都尉を置き、兵を領せしむることを制す。

十一月、八国の姓族が区別し難いため、国ごとに大師・小師を立て、その宗党を弁別させ、人材を品挙せしめた。八国以外の郡はそれぞれ師を立て、職掌は八国と同じく、今の中正に比す。宗室には宗師を立て、これも州郡・八国の儀に同じ。

十二月、詔して初めて王・公・侯・子の国に臣吏を賜うこととし、大郡王は二百人、次郡王・上郡公は百人、次郡公は五十人、侯は二十五人、子は十二人とし、皆典師を立て、その職は家丞に比し、群隷を統べ総べしむ。

二年二月、再び尚書三十六曹を廃し、別に武帰・修勤の二職を置く。武帰は郎中に比し、修勤は令史に比し、省務を分掌せしむ。

二年正月、内官員二十人を置き、侍中・常侍に比し、左右に迭り直せしむ。

また諸州に三刺史を置く制を定む。刺史は六品の者を用い、宗室一人、異姓二人とし、古の上中下三大夫に比す。郡には三太守を置き、七品の者を用う。県には三令長を置き、八品の者を用う。刺史・令長は各々州県に赴くが、太守は上に刺史あり、下に令長あるにより、置くも民に臨むことなし。以前功臣で州となった者は京師に徴還し、爵を以て第に帰らしむ。散騎郎・獵郎・諸省令史・省事・典籤等を置く。

四年五月、侍官を増置し、左右に侍直せしめ、詔命を出納せしむ。八国の良家、 代郡 だいぐん ・上谷・広寧・雁門の四郡の民の中、年長にして器望ある者を選び充てしむ。

永興元年十一月、騏驎官四十人を置き、殿省に宿直せしめ、常侍・侍郎に比す。

神瑞元年春、八大人官を置く。大人の下に三属官を置き、万機を総理せしむ。故に世に八公と号す。

泰常二年夏、六部大人官を置く。天部・地部・東・西・南・北部あり、皆諸公を以てこれに任ず。大人に三属官を置く。

始光元年正月、右民尚書を置く。

神䴥元年三月、左右 僕射 ぼくや ・左右丞・諸曹尚書十余人を置き、各々別寺に居らしむ。

七月、詔して諸征鎮大将に品に依り開府を許し、以て佐吏を置かしむ。

延和元年三月、代尹を万年尹と改め、代令を万年令と改む。後に復す。

真君五年正月、侍中・ 中書 ちゅうしょ 監・宜都王穆寿、 司徒 しと ・東郡公崔浩、侍中・広平公張黎が政を輔け、通事四人を置く。また諸曹の良吏を選び、東宮に給事せしむ。

正平元年七月、諸曹の吏多く過ぎるを以て、その員を減ず。

興安二年(453年)正月、駕部尚書・右士尚書を置く。

太安三年(457年)五月、諸部の護軍をそれぞれ太守とする。

延興二年(472年)五月、詔して曰く、「功なくしては爵を受け、能なくしては禄を受くることなし。凡そ外任に出で遷る者は皆この条を引き奏聞し、仮の品階を求め乞う。在職して効果あれば、下して正品に附することを聴す。若し殊なる称えがなければ、これに随ってこれを削る。旧制、諸鎮の将・刺史は五等の爵を仮授せられ、及び貢献をなして仮の爵を得たる者は、皆世襲することを得ず」。

四年(474年)二月、外牧官を置く。

五年(475年)九月、監御曹を置く。

太和二年(478年)五月、候職四百人を減じて置き、非違を司察せしむ。

四年(480年)、二部内部の幢将を省く。

十一年(487年)八月、散官員一百人、朝請員二百人を置く。

十五年(491年)七月、司儀官を置く。

十二月、侍中・黄門を各四人置き、また 散騎常侍 さんきじょうじ ・侍郎を置き、員は各四人。通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・侍郎、員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・侍郎を各六人置く。また 司空 しくう ・主客・太倉・庫部・都牧・太楽・虞曹・宮輿・覆育の少卿官を置く。また光爵・ ぎょう 游・五校・中大夫・散員士官を置く。また侍官一百二十人を置く。諸局の監、羽林・虎賁を改めて立てる。

旧制、諸々勲功により官爵を賜わりし者の子孫は軍号を世襲す。十六年(492年)、五等の爵を改めて降し、初めてこれを革め、ただ爵のみを襲うに止む。

旧制、辺境の地には皆鎮都大将を置き、兵を統率して備え防ぎ、刺史と同じ。城隍・倉庫は皆鎮将がこれを主管すれども、民政は治めず。故に刺史よりも重し。〈疑〉

太祖より高祖の初めに至るまで、その内外の百官は屡々減置あり、或いは事は当時に出で、常の目録となさず、万騎・飛鴻・常忠・直意の将軍の類これなり。旧令は亡失し、拠る所なし。太和年中、高祖は詔して群僚に百官を議定せしめ、令に著す。今左に列す。勲品・流外は位卑しくして載せず。

太和十八年(494年)十二月、車騎将軍・驃騎将軍、侍中、黄門の秩禄を降し、魏晋の旧事に依る。

十九年(495年)八月、初めて直斎・御仗左右の武官を置く。

二十三年、高祖は再び職令を定め、帝が 崩御 ほうぎょ した後、世宗が初めてこれを公布施行し、永制と為した。

太師・ 太傅 たいふ 太保 たいほう (右三師上公王大司馬・大將軍右二大 太尉 たいい 司徒 しと 司空 しくう 開國郡公右第一品)儀同三司・開國縣公・ 都督 ととく 中外諸軍事・諸開府・散公(右従第一品)太子太師・太子太傅・太子太保・特進・ 尚書令 しょうしょれい ・驃騎将軍・車騎将軍(二将軍に加号する者は、位は 都督 ととく 中外の下に在る)・衛将軍(加号する者は、位は太子太師の上に在る)・四征将軍(加号する者は、位は衛大将軍に次ぐ)・諸将軍に加号する者・左右光禄大夫・開國縣侯(右第二品)太子太師・太子太傅・太子太保・特進・ 尚書令 しょうしょれい ・驃騎将軍・車騎将軍(二将軍に加号する者は、位は 都督 ととく 中外の下に在る)・衛将軍(加号する者は、位は太子太師の上に在る)・四征将軍(加号する者は、位は衛大将軍に次ぐ)・諸将軍に加号する者・左右光禄大夫・開國縣侯(右第二品)尚書僕射(若し左右を並置すれば、則ち左は其の上に居り、右は其の下に居る)・ 中書監 ちゅうしょかん ・司州牧・四鎮将軍(加号する者は、衛将軍に次ぐ)中軍将軍・鎮軍将軍・撫軍将軍(右三将軍)金紫光禄大夫・散侯(右従第二品)吏部尚書・四安将軍・中領軍・中護軍(二軍に将軍を加うれば、則ち中を去り、位は撫軍に次ぐ)太常・光禄・衛尉(右三卿)太子少師・太子少傅・太子少保・中書令・太子詹事・侍中・列曹尚書・四平将軍太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・太府(右六卿)河南尹・上州刺史・秘書監・諸王師・左右衛将軍・前・左・右・後将軍光禄大夫(銀青の者)・開國縣伯(右第三品) 散騎常侍 さんきじょうじ ・四方郎将・護匈奴・ きょう ・戎・夷・蠻・越中郎将・國子祭酒・御史中尉・大長秋卿・将作大匠・征虜将軍・二大・二公長史(若し 司徒 しと に二長史を置けば、左は 散騎常侍 さんきじょうじ の下に在り、右は中庶子の下に在る)・太子左右衛率・武衛将軍・冠軍将軍・護羌・戎・夷・蠻・越 校尉 こうい ・太中大夫・輔國将軍・中州刺史・龍驤将軍・散伯(右従第三品)二大・二公司馬太常・光禄・衛尉(右三少卿)尚書吏部郎中・給事黄門侍郎・太子中庶子・ 司空 しくう ・皇子長史太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・太府(右六少卿)中常侍・中尹・城門 校尉 こうい 司空 しくう ・皇子司馬・従第一品将軍開府長史・ ぎょう 騎将軍・游撃将軍(以前上階)鎮遠将軍・安遠将軍・平遠将軍・建義将軍・建忠将軍・建節将軍・立義将軍・立忠将軍・立節将軍・恢武将軍・勇武将軍・曜武将軍・昭武将軍・顕武将軍・従第一品将軍開府司馬・通直 散騎常侍 さんきじょうじ 司徒 しと 諮議参軍事・中散大夫・下州刺史・上郡太守・内史・相・開國縣子(右第四品)中堅将軍・中壘将軍・尚書左丞・二大・二公諮議参軍事・司州別駕従事史・第二品将軍・始蕃王長史・太子家令・太子率更令・太子僕・中書侍郎・太子庶子・第二品将軍・始蕃王司馬・前・左・右・後軍将軍(以前上階)寧朔将軍・建威将軍・振威将軍・奮威将軍・揚威将軍・広威将軍・諫議大夫・尚書右丞・ 司空 しくう ・皇子諮議参軍事・司州治中従事史・左・右中郎将・建武将軍・振武将軍・奮武将軍・揚武将軍・広武将軍・従第一品将軍開府諮議参軍事・散子(右従第四品)寧遠将軍・鷹揚将軍・折衝将軍・揚烈将軍・従第二品将軍・二蕃王長史・二大・二公従事中郎・秘書丞・皇子友・國子博士・散騎侍郎・太子中舎人・員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・従第二品将軍・二蕃王司馬(以前上階)射声 校尉 こうい ・越騎 校尉 こうい ・屯騎 校尉 こうい ・歩軍 校尉 こうい ・長水 校尉 こうい 司空 しくう ・皇子之開府従事中郎・第二品将軍・始蕃王諮議参軍事・開府従事中郎・中郡太守・内史・相・開國縣男(右第五品)伏波将軍・陵江将軍・平漢将軍・第三品将軍・三蕃王長史・二大・二公掾属・著作郎・通直散騎侍郎・太子洗馬・従第二品将軍・二蕃王諮議参軍事・第三品将軍・三蕃王司馬・奉車都尉(以前上階)太子屯騎 校尉 こうい ・太子歩兵 校尉 こうい ・太子翌軍 校尉 こうい ・都水使者・ 司空 しくう ・皇子之開府掾属・領・護長史・司馬・帰義侯・率義侯・順義侯・朝服侯・軽車将軍・威遠将軍・開府掾属・虎威将軍・ 洛陽 らくよう 令・中給事中・散男(右従第五品)宣威将軍・明威将軍・従第三品将軍長史・二大・二公主簿・二大・二公録事・皇子郎中令・ 司空 しくう 主簿・ 司空 しくう ・皇子録事参軍事・従第三品将軍司馬・第三品将軍・三蕃王諮議参軍事・二大・二公功曹・記室・戸曹・倉曹・中兵参軍事・皇子文学・治書侍御史・謁者僕射・従第一品将軍開府録事参軍・ 司空 しくう ・皇子功曹・記室・戸曹・倉曹・中兵参軍事・皇子功曹史(以前上階)河南郡丞・虎賁中郎将・羽林監・冗従僕射・駙馬都尉・廷尉正・監・評・尚書郎中・中書舎人・従第一品将軍開府功曹・記室・倉曹・戸曹・中兵参軍事・功曹史・下郡太守・内史・相・上県令・相(右第六品)襄威将軍・厲威将軍・第二品将軍・始蕃王録事参軍・二大・二公列曹参軍事給事中・太子門大夫・皇子大農・騎都尉・符璽郎(以前上階)従第二品将軍・二蕃王録事参軍・皇子主簿・ 司空 しくう ・皇子列曹参軍事・第二品将軍・始蕃王功曹・記室・戸曹・倉曹・中兵参軍事・功曹史・従第一品将軍開府主簿・列曹参軍事・従第二品将軍・二蕃王功曹・記室・戸曹・倉曹・中兵参軍事・功曹史・太子舎人・三卿丞(右従第六品)威烈将軍・威寇将軍・威虜将軍・威戎将軍・威武将軍・四品正従将軍長史司馬・二大・二公祭酒・第三品将軍三蕃王録事参軍・ 司空 しくう 皇子之開府祭酒・武烈将軍・武毅将軍・武奮将軍・王・公國郎中令・積弩将軍・積射将軍・員外散騎侍郎・皇子中尉・二大・二公参軍事・二大・二公列曹行参軍・開府祭酒(以前上階) 司空 しくう ・皇子参軍事・ 司空 しくう ・皇子列曹行参軍・従第三品将軍録事参軍・第二品将軍・始蕃王主簿・列曹参軍事・従第一品将軍開府列曹行参軍・第三品将軍・三蕃王功曹・記室・戸曹・倉曹・中兵参軍・功曹史・従第二品将軍・二蕃王主簿・列曹参軍事・二衛司馬・討寇将軍・討虜将軍・討難将軍・討夷将軍・従第三品将軍功曹・戸曹・倉曹・中兵参軍事・詹事丞・列卿丞・秘書郎中・著作佐郎・中県令・相(右第七品)盪寇将軍・盪虜将軍・盪難将軍・盪逆将軍・五品正従将軍長史・司馬・強弩将軍・二大・二公行参軍・ 司空 しくう ・皇子行参軍・第二品将軍・始蕃王列曹行参軍・第三品将軍・三蕃王主簿・列曹参軍事・第一品将軍開府行参軍・王・公國大農(以前上階)太学博士・皇子常侍・太常博士・従第二品将軍・二蕃王参軍事・従第二品将軍・二蕃王列曹行参軍・従第三品将軍主簿・列曹参軍事・四品正従将軍録事・功曹・戸曹・倉曹・中兵参軍事・司州主簿・奉朝請・國子助教(右従第七品)殄寇将軍・殄虜将軍・殄難将軍・殄夷将軍・第二品将軍・始蕃王行参軍・第三品将軍・三蕃王参軍事・第三品将軍・三蕃王列曹行参軍・四品正従将軍主簿・列曹参軍事・侯・伯國郎中令・司州西曹書佐・殿中将軍・皇子侍郎・大長秋丞(以前上階)侍御史・協律郎・辨章郎・従第二品将軍・二蕃王行参軍・従第三品将軍参軍事・従第三品将軍列曹行参軍・五品正従将軍録事・功曹・戸曹・倉曹・中兵参軍事・王・公國中尉・司州祭酒従事・下県令・相(右第八品)掃寇将軍・掃虜将軍・掃難将軍・掃逆将軍・司州議曹従事史・二大・二公長兼行参軍・公車令・符節令・諸署令(千石已上の者)・中黄門令・門下録事・尚書都令史・主書令史・殿中侍御史・中謁者僕射・中黄門冗従僕射(以前上階)宮門僕射・侯・伯國大農・ 司空 しくう ・皇子長兼行参軍・二大・二公長兼行参軍・皇子上・中・下将軍・皇子中大夫・二率丞・四品正従将軍列曹行参軍・王・公國常侍・厲武将軍・厲鋒将軍・虎牙将軍・虎奮将軍・五品正従将軍主簿・列曹行参軍・司州文学・従第一品将軍・開府長兼行参軍・員外将軍(右従第八品)曠野将軍・横野将軍・子・男國郎中令・太祝令・諸署令(六百石已上の者)・中黄門・公主家令・皇子典書令・四門小学博士・律博士・校書郎・二大・二公参軍督護・検校御史(以前上階)王・公國侍郎・侯・伯國中尉・謁者・太子三卿丞・五品正従将軍列曹行参軍・ 司空 しくう ・皇子参軍督護・第二品将軍始蕃王長兼行参軍・従第一品将軍・開府参軍督護・殿中司馬督(右第九品)偏将軍・裨将軍・太子廐長・監淮海津都尉・諸局都尉・皇子典祠令・皇子学官令・皇子典衛令・王公國上中下将軍・王公國中大夫・諸署令(六百石に満たざる者)(以前上階)第二品将軍・始蕃王参軍督護・従第二品将軍・二蕃王長兼行参軍・太常・光禄・衛尉・領・護詹事功曹・五官・治礼郎・子・男國大農・小黄門・員外司馬督(右従第九品)

前代の官職の序列には従品はなく、魏氏が初めてこれを置いた。これも一代の別制である。

正始元年十一月、郡中正を廃止す。

四年九月、詔して曰く、「五校は昔、営を統べる位として列卿に次ぎ、奉車都尉は禁侍の美官として、顕かに通貴を加えられた。世は移り時は変わり、遂に冗職となった。既に典名は昔の如くならば、定員を有すべく、また殿中の二司馬も常数を須う。今、五校は各二十人、奉車都尉二十人、騎都尉六十人、殿中司馬二百人、員外司馬三百人とすべし」。

永平元年十二月、 尚書令 しょうしょれい 高肇、尚書僕射・清河王懌ら、小学博士員三千人を置くことを奏す。

二年正月、 尚書令 しょうしょれい 高肇奏す。都水台は旧に依り二使者を請い、参軍事・謁者並びに録事・令史も事に随って更に立てんことを。詔して曰く、「使者を二と置くは、奏の如くすべし。その下の属司は、ただ事を充たすを須うのみ。何ぞ多くを労せん。参軍・録事は並びに更に一を置き、謁者は二を加え、令史は旧に依れ」。肇はまた諸州の諮議・記室・戸曹・刑獄・田曹・水曹・集曹・士曹参軍を悉く併せ省くことを奏す。

四年七月、詔して宗子羽林を宗士と改め、その本秩を尚書に付してその資集を計らしめ、従七品以下・従八品以上の官に叙す。

正光元年七月、左・右衛将軍各二人を置く。

十二月、諸州の中正を廃し、郡県に姓族を定む。後に復す。

孝昌二年十月、詔して宗士・庶子の二官に各二百人を増し、望士隊四百人を置き、肺腑の族にして武芸ある者を取る。

孝莊帝の初め、尒朱栄に扶翼の功有りとし、柱国大将軍に拝し、位は丞相の上に在り。また大丞相・天柱大将軍に拝し、佐吏を増す。また太尉・上党王天穆を太宰と為し、佐吏を増す。

永安二年、詔して各々司直十人を復置し、五品に視し、廷尉に隷し、御史の検劾する事を覆治せしむ。

普泰の初め、尒朱世隆を儀同三師と為し、位は上公に次ぐ。また侍中・黄門・武衛将軍、並びに六人を増置す。

永安以後、遠近多事にして、京畿大 都督 ととく を置き、また州 都督 ととく を立て、倶に軍人を総べし。

天平四年夏、六州 都督 ととく を廃し、悉く京畿に隷し、その京畿大 都督 ととく は仍って改めず。府を立て佐を置く。

旧制、大将軍有れば太尉を置かず、丞相有れば 司徒 しと を置かず。正光以後、天下多事にして、勲賢並びに軌を同じくす。乃ち倶に之を置く。

武定二年十一月、有司が上奏して言う、「斉献武王は勲功高く徳望重く、礼は諸侯を絶する。昔、霍光の陵邑にも長・丞を置いて陵を主らしめた。今、長一人、丞一人、録事一人、戸曹史一人、禁備史一人、侍一人を置くことを請う。皆、帝陵の官品より一等を降す。その侍は旧に依る。」詔して「可」とす。

七年三月、詔して左右光禄大夫各二人を置き、金紫光禄大夫四人を置き、光禄大夫四人を置き、太中・中散各六人を置く。五月、また詔して四中郎将を以て、世宗永平年中に権(仮に)領軍に隷属せしめたるを、今、護軍に還属せしむ。

古より天子は徳を立て、生まれに因りて姓を賜い、土を胙(賜)いて氏を命ず。諸侯は則ち家と おくりな とを以てし、官に世功有れば、則ち宦族有り、邑も亦之の如し。姓は則ち其の生まれたる所由を表し、氏は則ち族の出づる所由を記す。其の大略然り。或いは居る所に自り、或いは国号を以てし、或いは官爵を用い、或いは事物を用うるに至るまで、時に縁りて同じからずと雖も、俱に其の義有り。魏氏は本朔壤に居り、地遠く俗殊なり。姓を賜い氏を命ずる事、其の一ならず。亦、長勺・尾氏・終葵の属の如し。初め、安帝国を統ぶるに、諸部九十九姓有り。献帝の時に至り、国人を七分し、諸兄弟をして各之を摂領せしめ、乃ち其の氏を分つ。此の後、他国を兼 へい し、各本部有り。部中に別族有りて、内姓と為す。年世稍く久しく、互いに改易を以てし、興衰存滅、間有り。今、其の知るべき者を挙ぐ。

献帝は兄を以て紇骨氏と為し、後に改めて胡氏と為す。

次兄を普氏と為し、後に改めて周氏と為す。次兄を拓拔氏と為し、後に改めて長孫氏と為す。弟を達奚氏と為し、後に改めて奚氏と為す。次弟を伊婁氏と為し、後に改めて伊氏と為す。次弟を丘敦氏と為し、後に改めて丘氏と為す。次弟を侯氏と為し、後に改めて亥氏と為す。

七族の興り、此より始まる。

また叔父の胤を命じて乙旃氏と曰い、後に改めて叔孫氏と為す。また疏属を命じて車焜氏と曰い、後に改めて車氏と為す。

凡そ帝室と十姓を為し、百世婚姻を通ぜず。太和以前は、国の喪葬祠礼、十族に非ざれば与るを得ず。高祖之を革め、各職司に以て事に従わしむ。

神元皇帝の時、余部諸姓内入する者。

丘穆陵氏は、後に穆氏と改めた。歩六孤氏は、後に陸氏と改めた。賀頼氏は、後に賀氏と改めた。独孤氏は、後に劉氏と改めた。賀楼氏は、後に楼氏と改めた。勿忸于氏は、後に于氏と改めた。是連氏は、後に連氏と改めた。僕闌氏は、後に僕氏と改めた。若干氏は、後に苟氏と改めた。抜列氏は、後に梁氏と改めた。撥略氏は、後に略氏と改めた。若口引氏は、後に寇氏と改めた。叱羅氏は、後に羅氏と改めた。普陋茹氏は、後に茹氏と改めた。賀葛氏は、後に葛氏と改めた。是賁氏は、後に封氏と改めた。阿伏于氏は、後に阿氏と改めた。可地延氏は、後に延氏と改めた。阿鹿桓氏は、後に鹿氏と改めた。他駱抜氏は、後に駱氏と改めた。薄奚氏は、後に薄氏と改めた。烏丸氏は、後に桓氏と改めた。素和氏は、後に和氏と改めた。吐谷渾氏は、従前のまま吐谷渾氏とした。胡古口引氏は、後に侯氏と改めた。賀若氏は、従前のまま賀若氏とした。谷渾氏は、後に渾氏と改めた。匹婁氏は、後に婁氏と改めた。俟力伐氏は、後に鮑氏と改めた。吐伏盧氏は、後に盧氏と改めた。牒云氏は、後に云氏と改めた。是云氏は、後には氏と改めた。叱利氏は、後に利氏と改めた。副呂氏は、後に副氏と改めた。那氏は、従前のまま那氏とした。如羅氏は、後に如氏と改めた。乞扶氏は、後に扶氏と改めた。阿単氏は、後に単氏と改めた。俟幾氏は、後に幾氏と改めた。賀児氏は、後に児氏と改めた。吐奚氏は、後に古氏と改めた。出連氏は、後に畢氏と改めた。庾氏は、従前のまま庾氏とした。賀抜氏は、後に何氏と改めた。叱呂氏は、後に呂氏と改めた。莫那婁氏は、後に莫氏と改めた。奚斗盧氏は、後に索盧氏と改めた。莫蘆氏は、後に蘆氏と改めた。出大汗氏は、後に韓氏と改めた。没路真氏は、後に路氏と改めた。扈地于氏は、後に扈氏と改めた。莫輿氏は、後に輿氏と改めた。紇干氏は、後に干氏と改めた。俟伏斤氏は、後に伏氏と改めた。是楼氏は、後に高氏と改めた。尸突氏は、後に屈氏と改めた。沓盧氏は、後に沓氏と改めた。嗢石蘭氏は、後に石氏と改めた。解枇氏は、後に解氏と改めた。奇斤氏は、後に奇氏と改めた。須卜氏は、後に卜氏と改めた。丘林氏は、後に林氏と改めた。大莫干氏は、後に郃氏と改めた。尒緜氏は、後に緜氏と改めた。蓋楼氏は、後に蓋氏と改めた。素黎氏は、後に黎氏と改めた。渇単氏は、後に単氏と改めた。壹斗眷氏は、後に明氏と改めた。叱門氏は、後に門氏と改めた。宿六斤氏は、後に宿氏と改めた。馝䢴氏は、後に䢴氏と改めた。土難氏は、後に山氏と改めた。屋引氏は、後に房氏と改めた。樹洛于氏は、後に樹氏と改めた。乙弗氏は、後に乙氏と改めた。東方の宇文氏、 慕容 ぼよう 氏は、即ち宣帝の時の東部であり、この二部は最も強盛で、別に伝がある。南方には茂眷氏があり、後に茂氏と改めた。宥連氏は、後に雲氏と改めた。次いで南方には紇豆陵氏があり、後に竇氏と改めた。侯莫陳氏は、後に陳氏と改めた。庫狄氏は、後に狄氏と改めた。太洛稽氏は、後に稽氏と改めた。柯抜氏は、後に柯氏と改めた。西方の尉遅氏は、後に尉氏と改めた。歩鹿根氏は、後に歩氏と改めた。破多羅氏は、後に潘氏と改めた。叱干氏は、後に薛氏となった。俟奴氏は、後に俟氏と改めた。輾遅氏は、後に展氏と改めた。費連氏は、後に費氏と改めた。其連氏は、後に綦氏と改めた。去斤氏は、後に艾氏と改めた。渇侯氏は、後に緱氏と改めた。叱盧氏は、後に祝氏と改めた。和稽氏は、後に緩氏と改めた。冤頼氏は、後に就氏と改めた。嗢盆氏は、後に温氏と改めた。達勃氏は、後に褒氏と改めた。独孤渾氏は、後に杜氏と改めた。凡そこれらの諸部は、その渠長(首長)は皆自ら衆を統べ、而して尉遅氏以下は賀蘭諸部氏に及ばない。北方の賀蘭氏は、後に賀氏と改めた。郁都甄氏は、後に甄氏と改めた。紇奚氏は、後に嵇氏と改めた。越勒氏は、後に越氏と改めた。叱奴氏は、後に狼氏と改めた。渇燭渾氏は、後に味氏と改めた。庫褥官氏は、後に庫氏と改めた。烏洛蘭氏は、後に蘭氏となった。一那蔞氏は、後に蔞氏と改めた。羽弗氏は、後に羽氏と改めた。凡そこれ四方の諸部は、歳時に朝貢した。登国の初め、太祖(道武帝)は諸部落を散じ、始めて同じく編民となす。太和十九年、詔して曰く、「代人(代北の 鮮卑 せんび )の諸冑は、先ず姓族無く、功賢の胤たりと雖も、混然として未だ分かれず。故に官達する者は位公卿に極まるも、その功衰の親は、仍って猥任に居る。比来姓族を制定せんと欲するも、事多く未だ就かず、且つ宜しく甄擢し、時に随ひ漸く銓べし。その穆、陸、賀、劉、楼、于、嵇、尉の八姓は、皆太祖已降、勳当世に著しく、位王公に尽くす。灼然として知るべき者は、且つ下司州、吏部に、猥官に充てること勿れ、四姓と同じくせよ。此れ以外に、応に士流に班せらるべき者は、尋いで別勅を続けよ。元来朔土より出で、旧く部落の大人たりし者にして、而して皇始已来、三世官が給事已上に在り、及び州刺史、鎮大将、及び品王公に登る者を姓とす。若し本より大人に非ずと雖も、皇始已来、職官三世尚書已上、及び品王公に登り、而して中間官緒を降さざる者も、亦た姓とす。諸部落の大人の後にして、皇始已来官前列に及ばざるも、三世中散、監已上たり、外は太守、子都たり、品子男に登る者を族とす。若し本より大人に非ずと雖も、皇始已来、三世令已上あり、外は副将、子都、太守たり、品侯已上に登る者も、亦た族とす。凡そ此の姓族の支親、其の身と緦麻服已内に有り、微かに一二世の官ある者は、全く美例に充たずと雖も、亦た姓族に入る。五世已外は、則ち各自に之を計り、宗人の蔭を蒙らず。緦麻たりと雖も三世官姓班に至らず、族官有れば則ち族官に入り、族官無ければ則ち姓族の例に入らず。凡そ此の姓族を定むる者は、皆由来を具列し、直ちに姓族を擬して以て聞に呈せよ。朕当に姓族の首末を決せん。其の此の諸状は、皆須らく宗族に問ひ、疑を列し同きを明らかにし、然る後に其の旧籍を勾し、其の官宦を審らかにし、実有れば則ち奏し、軽々しく其の言を信じ、虚しく僥偽を長ぜしむること得ず。実ならざる者は、訴人皆『伝旨問ひて詐りて実を以てせず』の坐を加へ、選官は『職事答問実を以てせず』の条に依れ。 司空 しくう 公穆亮、領軍将軍元儼、中護軍広陽王嘉、尚書陸琇等に令し、北人の姓を詳定せしめ、務めて平均ならしめよ。了する所に随ひ、三月に一たび簿帳を列し、門下に送りて以て聞かせよ。」と。是に於て昇降区別あり。世宗(宣武帝)の世、代人猶ほ姓族を以て辞訟し、又た尚書于忠、尚書元匡、侍中穆紹、尚書元長等をして量定せしむ。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻113