巻114

大人が興り、民を司牧する。結縄以前のことは、書契が絶えているので、知る由もない。伏羲・軒轅以来、三代に至るまで、その神言秘策は図緯の文を蔵し、世を範とし民を率いるには、墳典の跡を垂れた。秦はその毒を肆にし、 灰燼 かいじん に滅びた。漢は遺籍を採り、再び丘山の如くになった。司馬遷は異同を区別し、陰陽・儒・墨・名・法・道徳の六家の義があった。劉歆は七略を著し、班固は芸文を志したが、釈氏の学は、かつて紀されなかった。案ずるに、漢の武帝の元狩年間、霍去病を遣わして 匈奴 きょうど を討たせ、皋蘭に至り、居延を過ぎ、首を斬り大いに獲た。昆邪王が休屠王を殺し、その衆五万を率いて降って来た。その金人を獲て、帝は大神と為し、甘泉宮に列した。金人はおおよそ丈余の長さで、祭祀せず、ただ香を焼き礼拝するのみであった。これが仏道流通の漸である。

西域を開くに及んで、張騫を遣わして大夏に使いさせ、帰還してその傍に身毒国あり、一名天竺と伝え、始めて浮屠の教え有るを聞いた。哀帝の元寿元年、博士弟子の秦景憲が大月氏王の使者伊存より浮屠経を口授された。中土でこれを聞いたが、未だ信じ理解することはなかった。後に孝明帝が夜に金人の夢を見、項に日光有り、殿庭を飛行する。そこで群臣に訪ねると、傅毅が始めて仏をもって答えた。帝は郎中蔡愔・博士弟子秦景等を天竺に使いさせ、浮屠の遺範を写させた。愔は沙門の摂摩騰・竺法蘭と共に東へ帰り 洛陽 らくよう に至った。中国に沙門及び跪拝の法有るは、ここに始まる。愔はまた仏経四十二章及び釈迦立像を得た。明帝は画工に命じて仏像を図させ、清涼台及び顕節陵上に置き、経は蘭台石室に緘した。愔の帰還に際し、白馬が経を負って至ったので、漢は洛城雍門の西に白馬寺を建立した。摩騰・法蘭は皆この寺で卒した。

浮屠の正号は佛陀という。佛陀と浮図は声が近く、皆西方の言葉で、その来たって二音に転じた。華言で訳すと則ち浄覚と謂い、穢れを滅して明となり、道は聖悟と為すと謂う。凡そその経旨は、おおよそ生々の類は、皆行業によって起こると言う。過去・当今・未来有り、三世を歴て、識神は常に滅せず。凡そ善悪を為せば、必ず報応有り。勝れた業を漸く積み、粗鄙を陶冶し、無数の形を経て、神明を澡練し、乃ち無生に至って仏道を得る。その間の階次心行は、等級一ならず、皆浅きに縁りて深きに至り、微なるを藉りて著しきと為す。率ね仁順を積み、嗜慾を蠲ぎ、虚静を習って通照を成すに在る。故にその始め心を修めるには則ち仏・法・僧に依り、これを三帰と謂い、君子の三畏の如し。また五戒有り、殺・盗・淫・妄言・飲酒を去る。大意は仁・義・礼・智・信と同じく、名が異なるのみ。これを持ち奉れば、則ち天人の勝れたる処に生まれ、これを虧き犯せば則ち鬼畜の諸苦に墜つ。また善悪の生ずる処、凡そ六道有り。

その道に服する諸の者は、則ち鬚髪を剃落し、累を釈き家を辞し、師資を結び、律度に遵い、相い和して居り、心を治め浄を修め、行乞して以て自給する。これを沙門と謂い、或いは桑門と曰い、亦声が近く、総べて僧と謂う。皆胡の言葉なり。僧は和命衆と訳し、桑門は息心と訳し、比丘は行乞と訳す。俗人で道法を信憑する者は、男を優婆塞、女を優婆夷と曰う。沙門たる者は、初め十誡を修め、沙弥と曰い、而して終に二百五十に至れば、則ち具足して大僧と成る。婦で道に入る者は比丘尼と曰う。その誡は五百に至る。皆以て□を本と為し、事に随って数を増し、心を防ぎ、身を摂め、口を正すに在る。心は貪・忿・癡を去り、身は殺・淫・盗を除き、口は妄・雑・諸の正しからざる言を断つ。総べてこれを十善道と謂う。能くこれを具するを、三業清浄と謂う。凡人の修行は粗きを極めと為す。悪善の報いを達し、漸く聖迹に階るべしと云う。初めに聖に階るには、三種の人あり、その根業各々差あり、これを三乗と謂い、声聞乗・縁覚乗・大乗なり。乗りて運びて以て道に至るべきを取って名と為す。この三人は悪迹已に尽き、ただ心を修め累を蕩き、物を済わし徳を進める。初根の人は小乗と為し、四諦の法を行い;中根の人は中乗と為し、十二因縁を受け;上根の人は大乗と為し、則ち六度を修む。三乗に階るといえども、要は万行を修進し、億流を拯度し、長遠を弥歴して、乃ち仏境に登ることを得る。

所謂仏とは、本号を釈迦文とし、訳して能仁と謂い、徳充ち道備わり、万物を済わすに堪えると謂う。釈迦の前に六仏有り、釈迦は六仏を継いで道を成し、今の賢劫に処る。文に将来に弥勒仏有り、方に釈迦を継いで世に降ると言う。釈迦は即ち天竺迦維衛国の王の子なり。天竺はその総称、迦維は別名なり。初め、釈迦は四月八日の夜、母の右脇より生まる。既に生まれて、姿相超異なること三十二種有り。天は嘉瑞を降して以てこれに応じ、亦三十二。その本起経にこれを備え説く。釈迦の生まれた時は、周の荘王九年に当たる。春秋魯荘公七年夏四月、恒星見えず、夜明るし、これなり。魏の武定八年に至るまで、凡そ一千二百三十七年と云う。釈迦は年三十にして仏と成り、群生を導化すること四十九載、乃ち拘尸那城の娑羅双樹の間において、二月十五日をもって般涅槃に入る。涅槃は滅度と訳し、或いは常楽我浄と言い、遷謝無く及び諸の苦累無きを明らかにす。

諸仏の法身には二種の義有り、一は真実、二は権応。真実身は、至極の体を謂い、妙絶して拘累を絶ち、方処を以て期すべからず、形量を以て限るべからず、感有れば斯く応じ、体は常に湛然たり。権応身は、和光六道、同塵万類、生滅は時に随い、修短は物に応じ、形は感より生じ、体は実有に非ず。権形は雖も謝ゆれども、真体は遷らず、但だ時に妙感無き故に、常に見ることを得ざるのみ。仏の生は実生に非ず、滅は実滅に非ざることを明らかにす。仏は既に世を謝すと、香木を以て尸を焚く。霊骨は分かれて碎け、大小粒の如く、これを撃つも壊れず、焚くも燋けず、或いは光明神験有り、胡言にこれを「舎利」と謂う。弟子収め奉り、これを宝瓶に置き、香花を竭くし、敬慕を致し、宮宇を建て、これを「塔」と謂う。塔も亦胡言、宗廟の如し、故に世は塔廟と称す。後に百年を経て、王阿育有り、神力を以て仏舎利を分かち、諸の鬼神を役し、八万四千の塔を造り、世界に布き、皆同日に就く。今の洛陽・彭城・姑臧・臨淄に皆阿育王寺有り、蓋しその遺迹を承く。釈迦は雖も般涅槃せりと雖も、影迹爪歯を天竺に留め、今に猶在り。中土より往来する者、並びにこれを見たりと称す。

初め、釈迦の説いた教法は、涅槃の後、声聞の弟子大迦葉・阿難等五百人、撰集著録す。阿難は親しく嘱授を受け、多聞総持、蓋し能く深致を綜覈し、漏失する所無し。乃ち文 あざな を綴り、三蔵十二部経を撰載す。九流の異統の如く、その大帰は終に三乗を本と為す。後数百年、羅漢・菩薩相継いで論を著し、経義を賛明し、以て外道を破る。摩訶衍、大・小阿毘曇、中論、十二門論、百法論、成実論等是れなり。皆諸の蔵部の大義に傍い、仮りに外問を立て、而して内法を以てこれを釈す。

漢の章帝の時、楚王劉英は浮屠の斎戒を好み、郎中令を遣わして黄縑白紈三十匹を奉じ、国相のもとに詣でて罪を贖わんとした。詔して報じて曰く、「楚王は浮屠の仁祠を尚び、潔斎三月、神と誓いを為す。何の嫌疑かあらん、悔吝あるべし。その贖いを還し、以て伊蒲塞・桑門の盛饌を助けよ」と。これにより諸国に班示す。桓帝の時、襄楷は仏陀・黄老の道を言上して諫め、生を好み殺しを悪み、嗜慾を少なくし、奢泰を去り、無為を尚ばんことを欲せり。魏の明帝は嘗て宮西の仏図を壊さんと欲す。外国の沙門、乃ち金盤に水を盛り、殿前に置き、仏舎利を以て之を水に投ずれば、乃ち五色の光起こる。ここにおいて帝歎じて曰く、「自ら霊異にあらざれば、安んぞかくの如くならんや」と。遂に道の東に徙し、周閣百間を作る。仏図の故処は、濛氾池と為し、芙蓉を中に種う。後に天竺の沙門曇柯迦羅、洛に入り、誡律を宣訳す。これ中国に誡律の始まるなり。洛中に白馬寺を構えてより、仏図を盛んに飾り、画跡甚だ妙にして、四方の式と為る。凡そ宮塔の制度は、猶天竺の旧状に依りてこれを重構し、一級より三・五・七・九に至る。世人相承けて、これを「浮図」と謂い、或いは「仏図」と云う。晋の世、洛中の仏図は四十二所あり。漢代の沙門は、皆赤布を衣とし、後に乃ち雑色に易う。

晋の元康年中、胡の沙門支恭明あり、仏経維摩・法華・三本起等を訳す。微言隠義、未だ之を究め能わず。後に沙門常山の衛道安あり、性聡敏にして、日に経万余言を誦し、幽旨を研求す。師匠無きを慨き、独り静室に坐すること十二年、覃思構精し、神悟妙賾す。以前に出づる所の経は、多く舛駁ありとし、乃ちその乖謬を正す。石勒の時、天竺の沙門浮図澄あり、少くして烏萇国に於いて羅漢に就きて入道し、劉曜の時に襄国に到る。後に石勒に宗信せられ、大和尚と号し、軍国の規謨は頗る之を訪い、言う所多く験あり。道安は嘗て ぎょう に至りて澄を候う。澄見て之を異とす。澄卒して後、中国紛乱す。道安は乃ち門徒を率い、南に遊びて新野に至る。玄宗の在所に流布せしめんと欲し、弟子を分遣し、各諸方に趣かしむ。法汰は揚州に詣で、法和は蜀に入り、道安は慧遠と襄陽に之く。道安は後に苻堅に入る。堅は素より徳問を欽み、既に見て、師礼を以て宗ぶ。時に西域に胡の沙門鳩摩羅什あり、法門を通ぜんと思う。道安は之と講釈せんと思い、毎に堅を勧めて羅什を致さしむ。什も亦安の令問を承け、之を東方の聖人と謂い、或いは時に遥かに拝して敬意を致す。道安卒して後二十余載にして羅什 長安 ちょうあん に至る。安に及ばざるを恨み、以て深く慨と為す。道安の正す所の経義は、羅什の訳出す所と、符会して一の如く、初め乖舛無し。ここにおいて法旨大いに 中原 ちゅうげん に著わる。

魏は先に玄朔に建国し、風俗淳一にして、無為を以て自ら守り、西域と殊絶し、往来する能わず。故に浮図の教えは、未だ之を聞くを得ず、或いは聞くも未だ信ぜざりき。神元が魏・晋と通聘し、文帝久しく洛陽に在り、昭成又襄国に至りて、乃ち南夏の仏法の事を備え究む。太祖中山を平らげ、燕趙を経略し、逕る所の郡国の仏寺に、諸の沙門・道士を見るに、皆精敬を致し、軍旅を禁じて犯す所無からしむ。帝は黄老を好み、頗る仏経を覧る。但し天下初めて定まり、戎車屡く動き、庶事草創にして、図宇を建てず、僧衆を招延せざりき。然れども時に時を旁に求む。先ず是に、沙門僧朗あり、其の徒と泰山の琨〈𤣩而〉谷に隠る。帝使を遣わして書を致し、繒・素・旃罽・銀鉢を以て礼と為す。今猶朗公谷と号す。天興元年、詔を下して曰く、「夫れ仏法の興るは、其の来遠し。済益の功は、冥に存没に及び、神蹤遺軌は、信ずるに依憑すべし。其れ有司に勅し、京城に於いて容範を建飾し、宮舎を修整し、信向の徒をして居止する所有らしめよ」と。是の歳、始めて五級仏図・耆闍崛山及び須弥山殿を作り、繢飾を加う。別に講堂・禅堂及び沙門座を構え、厳に備わらざる莫し。太宗践位し、太祖の業を遵い、亦黄老を好み、又仏法を崇め、京邑四方に図像を建立し、仍って沙門に令して民俗を敷導せしむ。

初め、皇始年中、趙郡に沙門法果あり、誡行精至にして、法籍を開演す。太祖其の名を聞き、詔を以て礼を徴して京師に赴かしむ。後に道人統と為し、僧徒を綰摂す。毎に帝と言うに、多く愜允する所あり、供施甚だ厚し。太宗に至り、弥く崇敬を加え、永興年中、前後輔国・宜城子・忠信侯・安成公の号を授くるも、皆固く辞す。帝常に親しく其の居に幸し、門小狭くして輿輦を容れざるを以て、更に之を広大にす。年八十余、泰常中に卒す。未だ殯せざるに、帝三たび其の喪に臨み、老寿将軍・趙胡霊公を追贈す。初め、法果毎に言う、太祖明叡にして道を好むは、即ち是れ当今の如来なり、沙門宜しく礼を尽くすべしと。遂に常に拝を致す。人に謂いて曰く、「能く道を鴻くする者は人主なり、我は天子を拝するに非ず、乃ち仏を礼するのみ」と。法果四十にして、始めて沙門と為る。子有りて猛と曰う。詔して令して果の加うる所の爵を襲わしむ。帝後に広宗に幸す。沙門曇證有り、年且つ百歳。路に於いて邀え見え、果物を奉致す。帝其の年老いて志力衰えざるを敬い、亦老寿将軍の号を加う。

是の時、鳩摩羅什は姚興に敬せられ、長安の草堂寺に於いて義学八百人を集め、経本を重訳す。羅什は聡辯にして淵思有り、東西の方言に達す。時に沙門道肜・僧略・道恒・道𧝼・僧肇・曇影等、羅什と共に相提挈し、幽致を発明す。諸の深大なる経論十余部、章句を更定し、辞義通明、今に至るまで沙門共に祖習する所と為る。道肜等は皆識学洽通し、僧肇は特に其の最たり。羅什の撰訳するに、僧肇は常に筆を執り、諸の辞義を定め、維摩経に注し、又数論を著し、皆妙旨有り、学者之を宗とす。

又沙門法顯有り、律蔵具わざるを慨き、長安より天竺に遊ぶ。三十余国を歴り、経律有る所に随い、其の書語を学び、訳して之を写す。十年にして、乃ち南海の師子国に於いて、商人に随い舟に汎び東下す。昼夜昏迷すること、将に二百日に及ぶ。乃ち青州長広郡の不其労山に至り、南下して乃ち海に出づ。是の歳、神瑞二年なり。法顯の逕る所の諸国は、之を伝記し、今世に行わる。其の得る所の律は、通訳して未だ能く尽く正しむるを得ず。江南に至り、更に天竺の禅師跋陀羅と之を弁定し、之を僧祇律と謂う。前に備わること大なり、今の沙門の持受する所と為る。先ず是に、沙門法領有り、揚州より西域に入り、華厳経本を得たり。定律後数年、跋陀羅、沙門法業と共に重ねて訳撰を加え、時に宣行す。

世祖初めて即位し、亦太祖・太宗の業を遵い、毎に高徳の沙門を引き、与に談論を共にす。四月八日に於いて、諸の佛像を輿にし、広衢を行く。帝親しく門楼に御し、臨観して花を散じ、以て礼敬を致す。

先に、沮渠蒙遜が涼州に在った時、また仏法を好んだ。罽賓の沙門曇摩讖がおり、諸々の経論を習得していた。姑臧において、沙門智嵩らと共に、涅槃経などの諸経十余部を訳出した。また術数・禁呪に通暁し、他国の安危を繰り返し言い当て、多くが的中した。蒙遜は常に国事について彼に諮問した。神䴥年間、帝は蒙遜に命じて讖を京師に送らせたが、蒙遜は惜しんで派遣しなかった。その後、魏の威圧と責めを恐れ、遂に人を使わして讖を殺させた。讖が死ぬ日、門徒に言うには、「今、客が来る時節である。早めに食事をして待つがよい。」食事が終わると走使が到着した。当時の人は彼を知命と称した。智嵩もまた聡明で悟りが早く、経籍に志を篤くした。後に新出の経論をもって、涼土において教授した。幽玄な旨趣を弁論し、涅槃義記を著した。戒行は峻厳で整っており、門人は皆斉しく粛然としていた。涼州に兵役が起こることを知り、門徒数人と共に、胡の地へ行こうとした。道路上で飢饉に遭い、幾日も糧食が絶え、弟子が禽獣の肉を求めてきて、嵩に強いて食べるよう請うた。嵩は戒律を自ら誓って、遂に酒泉の西山で餓死した。弟子が薪を積んでその屍を焼くと、骸骨は 灰燼 かいじん となったが、ただ舌だけが完全に残り、色と形状が変わらなかった。当時の人はこれを誦説の功徳の報いであるとした。涼州は張軌の後より、代々仏教を信奉した。敦煌は西域と地続きであり、僧俗共にその旧式を得て、村や塢が相連なり、多く塔寺があった。太延年間、涼州が平定され、その国人を京邑に移住させると、沙門の仏事も皆共に東へ移り、像教はますます増加した。まもなく沙門が衆多となったため、詔して年五十以下の者は還俗させることとした。

世祖が初めて 赫連 かくれん 昌を平定した時、沙門惠始を得た。姓は張。家は本来清河であった。羅什が新経を出したと聞き、遂に長安へ赴いて彼に会い、経典を観覧習得した。白渠の北で坐禅し、昼は城に入って講義を聴き、夕べは還ってその処で静坐した。三輔の識者は多く彼を宗仰した。劉裕が姚泓を滅ぼし、子の義真を留めて長安を鎮守させると、義真及びその僚佐は皆彼を敬重した。義真が長安を去る時、赫連屈丐が追撃して敗り、僧俗の老少ことごとく坑埋めや殺戮に遭った。惠始は身に白刃を受けながら、体を傷つけられなかった。衆人は大いに怪異に思い、屈丐に言上した。屈丐は大いに怒り、惠始を前に召し出し、所持の宝剣で彼を撃ったが、また害することができず、遂に懼れて謝罪した。統万が平定されると、惠始は京都に到り、多くを訓導したが、当時の人はその行跡を測り知ることができなかった。世祖は彼を甚だ重んじ、常に礼敬を加えた。始は禅を習い始めてから、没するまで、五十余年と称され、一度も寝臥しなかった。ある時は跣足で歩き、泥塵を踏んでも、初めから足を汚さず、色はますます鮮やかで白く、世間では白脚師と号した。太延年間、八角寺において臨終に際し、斉潔にして端坐し、僧徒が満ち側にいたが、凝泊として絶命した。屍を十日余り停めても、坐相は改まらず、容色は一つの如くで、挙世が神異であるとした。遂に寺内に埋葬した。真君六年に至り、城内に埋葬して留めておくことを禁ずる制が出され、乃ち南郊の外に葬った。始が死んで十年が経っていたが、殯を開くと儼然としており、初めから傾き壊れていなかった。送葬者は六千余人に及び、感慟しない者はなかった。 中書 ちゅうしょ 監高允がその伝を書き、その徳跡を頌した。惠始の冢の上に、石の精舎を立て、その形像を図った。廃仏の時に経ても、なお自ら完全に立っていた。

世祖が即位した時は、年若く盛んであった。その後、武功に鋭意を注ぎ、常に禍乱を平定することを先とした。仏法に帰依し、沙門を敬重してはいたが、経教を閲覧し、縁起と報応の深意を求めることには存しなかった。寇謙之の道を得るに及んで、帝はその清浄無為が仙化の証し有ると考え、遂にその術を信じて行った。時に 司徒 しと 崔浩は博学多聞であり、帝は常に大事について彼に諮問した。浩は謙之の道を奉じ、特に仏を信ぜず、帝に言上する時、しばしば非難誹毀を加え、常に虚誕であると謂い、世の費害となるとした。帝はその弁博さゆえに、頗る彼を信じた。蓋呉が杏城で反乱を起こすと、関中が騒動し、帝は乃ち西征し、長安に至った。先に、長安の沙門が寺内で麦を栽培し、御厩の者がその麦の中で馬を放牧していた。帝が馬を見に入ると、沙門が従官に酒を飲ませ、従官がその便室に入ると、多くの弓矢や矛盾があるのを見て、出て奏上した。帝は怒って言うには、「これは沙門の用いる所ではない。蓋呉と通謀し、人を害しようと図っているのだ。」と。役人に命じて一寺を誅殺させ、その財産を調べると、多く酒造りの器具や州郡の牧守・富人が寄蔵した物を押収し、万を以て数えるほどであった。また屈室を設け、貴家の女と私通し淫乱を行っていた。帝は既に沙門の非法に憤り、浩が時に従行していたので、彼の説を進言させた。詔して長安の沙門を誅殺し、佛像を焚き破壊し、留台に命じて四方に令を下し、全て長安の行事に依らせよとした。また詔して曰く、「あの沙門どもは、西戎の虚誕を仮り、妄りに妖孽を生じ、政化を斉一にし、天下に淳徳を布くべきものではない。王公以下、私的に沙門を養う者は、皆官曹に送るべく、隠匿してはならない。今年二月十五日を期限とし、期日を過ぎて出さない場合は、沙門は身死し、容止する者は一門を誅する。」と。

時に恭宗は太子として国政を監理しており、平素より仏道を敬っていた。頻りに上表し、沙門を刑殺することの濫りを陳べ、また図像の罪ではないと論じた。今その道を廃し、諸寺の門を閉ざし、世の修奉を絶てば、土木丹青は自然に毀滅するであろうと。このように再三上奏したが、許されなかった。乃ち詔を下して曰く、「昔、後漢の荒君は、邪偽を信惑し、妄りに睡夢を仮り、胡の妖鬼に事え、以て天常を乱した。古より九州の中に此れ無し。誇誕なる大言は、人情を本とせず。叔季の世の、闇君乱主は、皆これに眩んだ。これにより政教行わず、礼義大いに壊れ、鬼道熾盛となり、王者の法を視ること蔑如たり。此れより以来、代々乱禍を経て、天罰亟に行われ、生民死に尽き、五服の内、鞠として丘墟と為り、千里蕭条として人跡を見ず、皆此れに由る。朕は天緒を承け、窮運の弊に当たり、偽を除き真を定め、羲農の治を復せんと欲す。其れ一切胡神を蕩除し、其の蹤迹を滅ぼし、庶くは風氏に謝すること無からん。自今以後、敢えて胡神に事え、及び形像・泥人・銅人を造る有らば、門誅す。胡神と雖も言えども、今の胡人に問えば、皆云う無しと。皆前世の漢人の無頼の子弟、劉元真・呂伯強の徒、乞胡の誕言を受け、老荘の虚仮を用い、附け益して、皆真実に非ず。至って王法を廃して行わざらしむるは、蓋し大姦の魁たり。非常の人有りて、然る後に能く非常の事を行えり。朕に非ずして誰か能く此の歴代の偽物を去らん。有司は征鎮諸軍・ 刺史 しし に宣告せよ。諸に仏図形像及び胡経有るは、尽く皆撃ち破り焼き払い、沙門は少長無く悉く坑えよ。」是歳、真君七年三月のことであった。恭宗の言は用いられなかったが、然しながら猶詔書の宣布を緩め、遠近皆予め聞き知り、各々計らいを為すことを得た。四方の沙門は多く逃亡隠匿して難を免れ、京邑に在る者もまた全済を蒙った。金銀の宝像及び諸々の経論は、多く秘蔵されることを得た。然るに土木の宮塔は、声教の及ぶ所、ことごとく毀されるに至らなかったものは無かった。

初め謙之は浩と共に車駕に従い、苦しく浩と諍ったが、浩は肯わず、浩に謂って曰く、「卿は今促年にして戮を受け、門戸を滅ぼすであろう。」と。後四年、浩は誅殺され、五刑に備わり、時に年七十であった。浩が誅殺された後、帝は頗るこれを悔いた。既に行われた業は、中途で修復するは難しかった。恭宗は密かにこれを興そうとしたが、敢えて言わなかった。仏法は帝の世の終わりまで淪廃し、積もること七、八年に及んだ。然しながら禁令は稍々緩み弛み、篤信の家は密かに奉事することを得、沙門で専至の者は、猶窃かに法服を着て誦習した。ただ京都において顕かに行うことは得られなかった。

先に、沙門の曇曜は操行と志操があり、また恭宗(景穆帝)に知られて礼遇されていた。仏法が滅ぼされた時、沙門の多くは他の技能をもって自らを役立て、還俗して出仕を求めた。曇曜は死を守らんと誓い、恭宗が親しく勧告と諭しを加え、再三に及んだが、やむを得ず、ようやく止めた。密かに法服と器物を保持し、暫しも身から離さず、聞く者はこれを歎き重んじた。

高宗(文成帝)が即位すると、詔を下して言うには、「帝王たる者は、必ず明らかな霊を敬い奉り、仁の道を顕彰すべきである。その能く生民に恵みを著し、群品を済益する者は、古昔に在りといえども、なおその風烈を序する。それゆえ春秋は崇明の礼を嘉し、祭典は功を施した族を載せる。ましてや釈迦如来は功大千を済し、恵み塵境に流れ、生死に等しい者はその達観を歎き、文義を覧る者はその妙明を貴び、王政の禁律を助け、仁智の善性を益し、群邪を排斥し、正覚を開演する。故に前代以来、崇尚せざるはなく、また我が国家の常に尊事するところである。世祖太武皇帝は、辺荒を開拓し、徳沢は遠くまで及んだ。沙門道士で善行純誠なる者、恵始の類は、遠きに至らざるなく、風義相い感ずる、往々として林の如し。山海の深きには、怪物多くあり、姦淫の徒、容れて仮託を得、講寺の中に、凶党あるに致る。それゆえ先朝はその瑕釁に因り、その罪ある者を戮した。有司が旨を失い、一切禁断した。景穆皇帝は毎に慨然とし、軍国多事に値い、未だ修復に遑あらず。朕は洪緒を承け、万邦に君臨し、先志を述べんと思い、以てこの道を隆盛せしめん。今、諸州郡県に制し、衆居の所において、各々仏図一区を建つるを聴し、その財用に任せ、会限を制せず。その道法を好楽し、沙門たらんと欲する者は、長幼を問わず、良家より出で、性行素より篤く、諸の嫌穢無く、郷里の明らかにする所の者、その出家を聴す。大州には五十人、小州には四十人、その郡で遠く台に隔たる者は十人を率い、各々局分に当たり、皆な悪を化して善に就かしめ、道教を播揚するに足らしむ。」天下は風を承け、朝に及ばずして夕に、往時に毀された図寺は、なお還って修められた。仏像経論は、皆な復た顕れるを得た。

京師の沙門師賢は、もと罽賓国の王種の人であり、少にして道に入り、東に遊んで涼城に至り、涼が平定されると京に赴いた。仏法が罷められた時、師賢は医術と偽って還俗したが、道を守って改めなかった。修復の日に及んで、即ち沙門に戻り、その同輩五人とともにあった。帝は親しく下髪を行った。師賢はなお道人統となった。この年、有司に詔して石像を作らしめ、帝の身の如くならしめた。既に成ると、顔の上と足の下に、各々黒石があり、冥々として帝の体の上下の黒子と同じであった。論ずる者は純誠の感ずる所と為した。興光元年秋、有司に勅して五級大寺内に、太祖より以下五帝のため、釈迦立像五体を鋳造せしめ、各々長さ一丈六尺、総て赤金二十五万斤を用いた。太安の初め、師子国の胡沙門邪奢遺多・浮陀難提ら五人、仏像三体を奉じて京都に到った。皆な言うには、西域諸国を遍歴し、仏の影迹および肉髻を見、外国諸王は相承けて、咸く工匠を遣わし、その容を模写するも、難提の造る所に及ぶものなく、十余歩去って之を視れば炳然として、転じて近づくに従い転じて微かである、と。また沙勒の胡沙門が、京師に赴き仏鉢および画像の迹を致した。

和平の初め、師賢が卒した。曇曜がこれに代わり、沙門統と改名した。初め曇曜は、仏法が復興した明年、中山より命を受けて京に赴き、帝の出でたるに値い、路において見え、御馬が前に進んで曇曜の衣を銜えた。時に馬が善人を識ると為した。帝は後に師礼を以て奉った。曇曜は帝に白し、京城西の武州塞において、山の石壁を穿ち、窟五所を開き、佛像各一体を鐫建した。高いものは七十尺、次は六十尺、彫飾奇偉にして一世に冠たる。曇曜が奏上して言うには、平斉戸および諸民で、歳に穀六十斛を僧曹に輸納し得る者は、即ち「僧祇戸」と為し、粟を「僧祇粟」と為し、儉歳に至っては飢民を賑給すべし、と。また民で重罪を犯した者および官奴を以て「仏図戸」と為し、諸寺の掃洒に供え、歳ごとに兼ねて田を営み粟を輸納せしむべし、と請うた。高宗は併せてこれを許した。ここにおいて僧祇戸・粟および寺戸は、州鎮に遍く行き渡った。曇曜はまた天竺沙門常那邪舍らとともに、新経十四部を訳出した。また沙門道進・僧超・法存らあり、並びに時に有名で、諸の異説を演唱した。

顕祖(献文帝)が即位すると、敦信ことさらに深く、諸の経論を覧、老荘を好んだ。毎に諸沙門および能く玄を談ずる士を引き、理要を論じた。初め高宗の太安の末、劉駿が丹陽の中興寺に斎を設けた。一人の沙門あり、容止ひとり秀で、衆みな往きて目を注ぐも、皆な識る者なし。沙門恵璩が起って之を問うと、名は恵明と答えた。また住む所を問うと、天安寺より来たると答えた。語り終わると、忽然として見えなくなった。劉駿君臣は霊感と為し、中興を天安寺と改めた。この後七年にして帝は 践祚 せんそ し、号を天安元年とした。この年、劉彧の徐州刺史薛安都が始めて城地を以て来降した。明年、淮北の地を尽く有した。その歳、高祖(孝文帝)が誕生した。時に永寧寺を起し、七級仏図を構え、高さ三百余尺、基架博敞にして天下第一と為った。また天宮寺において、釈迦立像を造った。高さ四十三尺、赤金十万斤、黄金六百斤を用いた。皇興の中、また三級石仏図を構えた。榱棟楣楹、上下重ねて結び、大小皆な石にて、高さ十丈。鎮固巧密にして、京華の壮観と為った。

高祖(孝文帝)が践位すると、顕祖は北苑の崇光宮に移御し、玄籍を覧習した。苑中の西山に鹿野仏図を建て、崇光宮の右十里を去り、巌房禅堂、禅僧其中に居す。

延興二年夏四月、詔して曰く、「比丘寺舎に在らず、村落に遊渉し、姦猾と交通し、年歳を経る。民間に五五相保せしめ、容止するを得ざらしむ。籍無きの僧は、精しく隠括を加え、ある者は州鎮に送付せしめ、その畿郡に在る者は本曹に送付せよ。もし三宝のため民を巡り教化する者は、外に在っては州鎮維那の文移を齎し、台に在っては都維那等の印牒を齎し、然る後に行くを聴す。違う者は罪を加う。」また詔して曰く、「内外の人、福業を興建し、図寺を造立し、高敞顕博なるは、亦た以て至教を輝隆するに足る。然れども無知の徒、各々相い高尚し、貧富相い競い、財産を費竭し、務めて高広を存し、昆虫含生の類を傷殺す。苟くも能く精緻ならば、土を累ね沙を聚むるも、福は不朽に鍾る。福を建つるの因たらんと欲して、生を傷つくの業を知らず。朕は民の父母として、慈養を是れ務む。今より一切之を断つ。」また詔して曰く、「信誠なれば則ち応遠く、行篤ければ則ち感深し、歴観先世の霊瑞、乃ち禽獣色を易え、草木性を移す有り。済州東平郡に、霊像発輝し、金銅の色に変成す。殊常の事、往古に絶え、熙隆妙法、理当今に在り。有司は沙門統曇曜とともに州に令し像を都に送達せしめ、道俗をして咸く実相の容を覩せしめ、普く天下に告げ、皆な聞知せしめよ。」

三年十二月、顕祖は田猟に因り鴛鴦一羽を獲た。その偶が悲鳴し、上下して去らなかった。帝は乃ち惕然として、左右に問うて曰く、「この飛び鳴く者は、雌なるか雄なるか。」左右対えて曰く、「臣は雌と為す。」帝曰く、「何を以て知る。」対えて曰く、「陽性は剛、陰性は柔、剛柔を以て推すに、必ず雌なり。」帝は乃ち慨然として歎きて曰く、「人と鳥と事は別つといえども、資識性情に至っては、竟いになんの異なるかあらん。」ここにおいて詔を下し、鷙鳥を禁断し、畜うるを得ざらしめた。

承明元年八月、高祖は永寧寺において大法供を設け、良家の男女で僧尼となる者百余りを度し、帝自ら剃髪し、僧服を施して、道戒を修めさせ、顕祖のために福を資けしめた。この月、また建明寺の建立を詔した。太和元年二月、永寧寺に行幸して斎を設け、死罪の囚人を赦した。三月、また永寧寺に行幸して会を設け、行道し講を聴き、中書省・秘書省の二省に命じて僧徒と仏義を討論させ、僧に衣服・宝器を差等ありて施した。また方山の太祖の営壘の地に、思遠寺を建立した。興光年間よりここに至るまで、京城内の寺は新旧合わせて百か所ほど、僧尼二千余人、四方の諸寺六千四百七十八、僧尼七万七千二百五十八人となった。四年春、詔して鷹師を以て報徳寺とせしめた。九年秋、有司が奏上して言うには、上谷郡の比丘尼恵香が、北山の松の下で死し、屍形は壊れず。爾来三年、士女の観覧する者千百あり。当時、人皆これを異とせり。十年冬、有司がまた奏上して言うには、「前に勒籍の初め、愚民が僥倖をたくみ、入道と仮称して、輸課を避けしめ、その籍なき僧尼は罷遣して還俗せしむることを被敕せり。重ねて旨を被り、所検の僧尼は、寺主・維那が当寺において隠審すべし。その道行精勤なる者は、なお道に在るを聴す。行い凡粗なる者は、籍あるも無きも、悉く罷めて斉民に帰せしむ。今、旨に依りて簡遣するに、諸州の還俗する者は、僧尼合わせて一千三百二十七人なり」と。奏を可とす。十六年詔す、「四月八日・七月十五日、大州には百人を度して僧尼と為すを聴し、中州は五十人、下州は二十人とし、常準と為し、令に著すべし」と。十七年、僧制四十七条を立てることを詔す。十九年四月、帝は徐州の白塔寺に行幸す。諸王及び侍官を顧みて言うには、「この寺に近く名僧の嵩法師あり、成実論を羅什に受け、ここにおいて流通せり。後に淵法師に授け、淵法師は登・紀の二法師に授けたり。朕は毎に成実論を玩ぶに、人の染情を釈くべし、故にこの寺に至るなり」と。時に沙門道登、雅に義業あり、高祖の眷賞を受け、恒に講論に侍せり。嘗て禁内において帝と夜談し、同じく一鬼を見る。二十年に卒す、高祖は甚だ悼惜し、詔して帛一千匹を施す。また一切僧斎を設け、併せて京城に七日間行道せしむ。また詔す、「朕が師登法師奄かに徂背に至る、痛怛摧慟して已むこと能わず。比薬治慎喪するも、未だ即ち赴くを容れず、便ち師義に準じ、門外に哭すべし」と。緇素これを栄とす。また西域の沙門、名を跋陀という者あり、道業あり、深く高祖に敬信せらる。詔して少室山の陰に、少林寺を立ててこれに居らしめ、公に衣供を給す。二十一年五月、詔して曰く、「羅什法師は神出五才、志入四行の者と謂うべし。今常住寺に、なお遺地あり、修蹤を欽悅し、情深く遐遠なり、旧堂の所において、三級浮図を建つべし。また昏虐に逼せられ、道の為に軀を殄す、既に暫く俗礼に同じくす、応に子胤有るべし、推訪して以て聞かしむべく、当に叙接を加うべし」と。

先に、監福曹を立て、また昭玄と改め、官属を備え、以て僧務を断ぜしむ。高祖の時、沙門道順・恵覚・僧意・恵紀・僧範・道弁・恵度・智誕・僧顕・僧義・僧利、並びに義行を以て知重せらる。

世宗即位し、永平元年秋、詔して曰く、緇素既に殊なり、法律も亦異なり。故に道教は互顕に彰れ、禁勧各々宜しき所あり。今より已後、衆僧が殺人已上の罪を犯す者は、なお俗に依りて断じ、余の犯すは悉く昭玄に付し、内律僧制を以てこれを治むべし。二年冬、沙門統恵深上言す、「僧尼浩曠にして、清濁混流し、禁典に遵わず、精粗別つこと莫し。輒て経律法師と群議して制を立てん。諸州・鎮・郡の維那・上坐・寺主は、各々戒律自ら修めしめ、咸く内禁に依らしむ。若し律を解せざる者は、その本次を退くべし。又、出家の人は、法を犯すべからず、八不浄物を積むべからず。然れども経律の制する所、通塞方あり。律に依れば、車牛浄人は、不浄の物、己が私畜と為すべからず。唯だ老病年六十以上の者は、限りて一乗を聴す。又、比来僧尼は、或いは三宝に因り、私財を出貸す。州外に縁りて。又、出家は著を捨つ、本より凶儀無く、道を廃して俗に従うべからず。その父母三師、遠く凶問を聞けば、三日間哭するを聴す。若し見前に在れば、七日を限る。或いは寺舎に安んぜず、民間に遊止し、道を乱し過を生ずるは、皆この等より起こる。若し犯す者有らば、服を脱ぎて民に還すべし。その寺を造る者有らば、僧五十以上を限り、啓聞して造るを聴す。若し輒て営置する者有らば、違敕の罪を処し、その寺の僧衆は外州に擯出すべし。僧尼の法は、俗人の使う所と為すべからず。若し犯す者有らば、還って本属に配すべし。その外国の僧尼来りて帰化する者は、精検して德行有り三蔵に合う者を求め、住するを聴す。若し德行無くば、本国に遣還すべし。若しその去らざれば、この僧制に依りて罪を治むべし」と。詔してこれに従う。

先に、恒農の荊山において珉玉の丈六像一体を造る。三年冬、迎えて洛濱の報徳寺に置き、世宗躬ら観て致敬す。

四年夏、詔して曰く、「僧祇の粟は、本期は済施にあり、儉年には出貸し、豊年には収入す。山林の僧尼には、随って給施し、民に窘弊有れば、即ちこれに賑す。但だ主司利を冒し、贏息を規取し、その徴責に及んで、水旱を計わず、或いは利が本を過ぎ、或いは券契を翻改し、貧下を侵蠹し、紀極を知ること莫し。細民嗟毒し、歳月滋深なり。これら窮乏を矜れむ、慈拯を宗尚する本意に非ず。今より已後、専ら維那・都尉に委ぬること得ず、刺史をして共に監括を加えしむべし。 尚書 しょうしょ は諸に僧祇穀有る処を検し、州別にその元数を列し、出入贏息、賑給多少、並びに貸償歳月、見在未収を、上臺に録記せしむべし。若し利が本を過ぎて収め、及び初券を翻改せば、律に依りてこれを免じ、復た徴責すること勿れ。或いは私債有りて、転じて僧に償いを施すは、即ち以て民に丐うべく、収検を聴さず。後に出貸する有らば、先ず貧窮を尽くし、徴債の科は、一に旧格に準ずべし。富貴の家は、輒て貸すことを聴さず。脱も仍って冒濫せば、法に依りて罪を治むべし」と。

また 尚書令 しょうしょれい 高肇奏言す、「謹みて案ずるに、故沙門統曇曜、昔承明元年に、涼州軍戸趙苟子ら二百家を僧祇戸と為すことを奏し、課を立て粟を積み、飢年に済わんことを擬し、道俗を限らず、皆以て拯施せしむ。又内律に依り、僧祇戸は別に一寺に属すべからず。而るに都維那僧暹・僧頻ら、進んでは成旨に違い、退いては内法に乖き、肆意任情に、奏求逼召し、致す所に吁嗟の怨、行道に盈ち、子を棄て生を傷め、自縊溺死する者五十余人。豈に聖明の慈育の意を仰賛するに足らんや、深く陛下の帰依の心を失う。遂にこの等を行号巷哭せしめ、叫訴する所無く、至っては白羽耳を貫き、列訟宮闕す。悠悠の人の尚お哀痛と為す、況んや慈悲の士において、安んずべけんや。苟子らを聴して郷に還り課輸せしめ、儉乏の年には貧寡に周給し、若し不虞有らば、以て辺捍に擬すべし。その暹ら違旨背律、謬奏の愆は、昭玄に付し、僧律に依りて推処せんことを請う」と。詔して曰く、「暹らは特ちこれを原すべし、余は奏の如し」と。

世宗(宣武帝)は仏理を篤く好み、毎年常に禁中において自ら経論を講じ、名僧を広く集めて義旨を標明した。沙門に条録させ、内起居とした。上(皇帝)がこれを崇めたので、下(臣下)もますます仰ぎ慕った。延昌年間(512–515)に至っては、天下の州郡の僧尼寺は、積もり積もって一万三千七百二十七所となり、徒侶はますます多くなった。

熙平元年(516)、詔を下して沙門恵生を西域に遣わし、諸々の経律を採集させた。正光三年(522)の冬、京師に還った。得た経論は一百七十部で、世に行われた。

二年(517)の春、霊太后は令を下して言った。「毎年恒例の度僧は、定められた限度に従い、大州は百人を応ずるべきところを、州郡は期日の前十日に三百人を解送し、中州は二百人、小州は百人とする。州統・維那が官と共に精練して選び取り、数を満たす。もし精行がなければ、濫りに採ってはならない。もし人を得ずして採れば、刺史を首とし、詔旨違反の罪に論じ、太守・県令・綱僚は節級を追って連坐する。統及び維那は五百里外の異なる州に移して僧とする。今より奴婢は一切出家を聴さず、諸王及び親貴も、みだりに啓請してはならない。犯す者は、詔旨違反の罪に論ずる。僧尼がみだりに他人の奴婢を度する者も、また五百里外に移して僧とする。僧尼が多く親識及び他人の奴婢の子を養い、年が大きくなって私度して弟子とすることを、今より断つ。犯す者は還俗させ、養われた者は本来の身分に帰す。寺主が一人を容認すれば、寺から五百里、二人なら千里を出させる。私度の僧は、皆三長が罪が己に及ばぬことを理由に、多く隠匿濫行を容認している。今より一人でも私度があれば、皆詔旨違反の罪に論ずる。隣長を首とし、里・党は各々一等ずつ降格する。県で十五人、郡で三十人、州鎮で三十人に満てば、免官とし、僚吏は節級を追って連坐する。私度の身は、当州の下役に配する。」当時は法禁が緩み弛んでおり、改めて粛清することはできなかった。

景明(500–503)の初め、世宗は大長秋卿白整に詔して、代京の霊巌寺石窟を準拠とし、洛南の伊闕山において、高祖(孝文帝)と文昭皇太后のために石窟二所を営ませた。初めに建て始めた時、窟頂は地面から三百十尺の高さであった。正始二年(505)の中頃に至って、ようやく山を切り開いて二十三丈を出した。大長秋卿王質の時に至り、山を切り開くのが高すぎて、功を費やし完成が難しいと言い、奏上して下に移して平らな所に就き、地面から百尺、南北百四十尺とすることを求めた。永平年間(508–512)に、中尹劉騰が奏上して世宗のためにさらに石窟一を造り、合わせて三所とした。景明元年(500)から正光四年(523)六月以前までに、用いた功は八十万二千三百六十六であった。粛宗の熙平年間(516–518)に、城内の太社の西に、永寧寺を建立した。霊太后自ら百官を率い、基を表し剎を立てた。仏図(塔)は九層、高さ四十余丈で、その諸費用は数え切れないほどであった。景明寺の仏図も、これに次ぐものであった。官私の寺塔に至っては、その数は甚だ多かった。

神亀元年(518)の冬、 司空 しくう 公・ 尚書令 しょうしょれい ・任城王元澄が上奏して言った。

上奏は許可された。間もなく、天下は喪乱し、河陰の惨事が加わり、朝廷の士で死んだ者の家は多く居宅を捨てて、僧尼に施与したため、京邑の邸宅は、ほぼ寺となった。以前の禁令は、もはや行われなくなった。

元象元年(538)の秋、詔して言った。「梵境は幽玄であり、その義は清曠に帰し、伽藍の浄土は、理として囂塵を絶つ。前朝(北魏)の城内では、先に禁断があったが、鄴に遷都して以来、旧章に従ってきた。しかし百官士民は、都に至る始め、城外の新城には皆宅地を与えられた。旧城中は一時的に広く借り与え、後の必要に備えて更に用意するのであって、永久のためではない。聞くところによれば、多くの人が二箇所で土地を得て、あるいは旧城に借りた宅を捨て、みだりに寺を建立している。己の所有でないことを知りながら、この名を借りている。ついには因習がますます甚だしくなり、恒式を損なうことを恐れる。宜しく有司に付し、精しく隠匿を糾明せよ。また城中の旧寺及び宅には、定まった帳簿があり、新たに立った寺は、全て廃毀に従わせる。」冬、また詔して言った。「天下の牧守令長は、一切寺を造ることを聴さない。もし違反する者があれば、財の出所を問わず、営んだ功庸を合わせて計算し、全て枉法の罪に論ずる。」興和二年(540)の春、詔して 鄴城 ぎょうじょう の旧宮を以て天平寺と為した。

世宗以来、武定末年(550)に至るまで、沙門で名の知られた者に、恵猛・恵辨・恵深・僧暹・道欽・僧献・道晞・僧深・恵光・恵顕・法栄・道長がおり、皆当世に重んぜられた。

魏が天下を有してから、禅譲に至るまで、仏経は流通し、広く中国に集まり、凡そ四百十五部、合わせて一千九百十九巻に及んだ。正光(520–525)以後、天下は多虞で、王役が特に甚だしく、そこで所在の編民は互いに道に入り、沙門を仮に慕うふりをして、実は調役を避け、猥濫の極みは、中国に仏法有って以来、未だかつてなかった。略かにこれを計れば、僧尼の大衆は二百万、その寺は三万有余であった。流弊が帰するところなく、ここに至ったので、識者はこれをもって嘆息するのである。

道家の源は、老子より出る。その自ら言うところによれば、天地に先立って生まれ、以て万類を資ける。上は玉京に処りて神王の宗と為り、下は紫微に在りて飛仙の主と為る。千変万化し、徳有りて徳とせず、感に随い物に応じて、その迹は常無し。峨嵋において軒轅に授け、牧徳において帝嚳を教え、大禹は長生の訣を聞き、尹喜は道德の旨を受けた。丹書紫字、昇玄飛歩の経、玉石金光、妙有霊洞の説に至るまで、このような文は数え切れない。その教えと為すところは、皆邪累を蠲め去り、心神を澡雪し、行を積み功を樹て、徳を累ね善を増し、遂には白日昇天し、世上に長生するのである。それ故に秦皇・漢武は、甘心して止まなかった。霊帝は濯龍に華蓋を置き、壇場を設けて礼とした。張陵が鵠鳴において道を受け、天官章本一千二百を伝え、弟子が相い授け、その事が大いに行われるに及んだ。斎祠跪拜は、各々法道を成し、三元九府・百二十官、一切の諸神有りて、皆その統摂するところとなった。また劫数を称え、頗る仏経に類する。その延康・龍漢・赤明・開皇の類は、皆その名である。その劫が終わるに及んで、天地俱に壊れると称える。その書は多く禁祕有りて、その徒でなければ、みだりに観ることを得ない。化金銷玉、符を行い水を敕し、奇方妙術は万等千条に及び、上は羽化飛天を云い、次は消災滅禍を称える。故に異を好む者は往々にしてこれを尊び事とする。

初め文帝( 拓跋 たくばつ 沙漠汗)が晋に賓入した時、従者の務勿塵は、姿が神奇偉大で、伊闕の山寺で仙に登った。識者は皆魏の祚が将に大いにならんとする兆しであると言った。太祖(道武帝)は老子の言を好み、誦詠して倦まなかった。天興年間(398–404)に、儀曹郎董謐が服食仙経数十篇を献上したことにより、仙人博士を置き、仙坊を立て、百薬を煮練し、西山を封じてその薪蒸を供給させた。死罪の者に試みに服用させたが、その本心ではなかったので、多くは死んで験が無かった。太祖はなお修めようとした。太醫周澹は、その煎採の役の苦しみに耐えかね、その事を廃そうとした。そこで密かに妻に仙人博士張曜の妾を買わせ、曜の隠した罪を得た。曜は死を恐れ、辟穀を請うた。太祖はこれを許し、曜に資用を与え、苑中に静堂を造り、洒掃の民二家を与えた。しかし練薬の官は、依然として止まなかった。久しくして、太祖の意は少し弛み、遂に止んだ。

世祖(太武帝)の時、道士の寇謙之、字は輔真、南雍州刺史の寇讚の弟、自ら寇恂の十三世の孫と称す。早くより仙道を好み、俗を絶つ心あり。若くして張魯の術を修め、服食餌薬を行い、多年にわたり効験なし。幽かな誠意が上に通じ、仙人の成公興、何許の人なるかを知らず、謙之の従母の家に至り傭賃す。謙之嘗てその姨を訪う、興が形貌甚だ強壮にして、力を尽くして倦まず働くを見、請うて興を雇い戻し、己に代わって使役せしむ。乃ち連れ帰り、その家の南の辣田を開かしむ。謙之は樹下に坐して算をし、興は墾発に勤め、時折見に来て算を見る。謙之これに謂いて曰く、「汝はただ力を尽くして働くがよい、何ぞこれを見るや」と。二三日後、また来てこれを見、かくの如く止まず。後に謙之が七曜を算するに、了らざる所あり、惘然として自ら失う。興、謙之に謂いて曰く、「先生何ぞ懌ばざるや」と。謙之曰く、「我学算累年、而して近く算する周髀合わず、これをもって自ら愧ず。且つ汝の知る所に非ず、何ぞ労して問うや」と。興曰く、「先生試みに興の語るに随ってこれを布け」と。俄然として便ち決す。謙之歎服し、興の深浅を測り知れず、請うて師事せんとす。興固より辞して肯わず、ただ謙之の弟子たるを求む。未だ幾ばくもなく、謙之に謂いて曰く、「先生道を学ぶ意あり、豈に興とともに隠遁せんや」と。謙之欣然としてこれに従う。興乃ち謙之に潔斎三日を命じ、ともに華山に入る。謙之をして一つの石室に居らしめ、自ら出でて薬を採り、還って謙之に薬を食わせ、もはや飢えず。乃ち謙之を嵩山に入らしむ。三重の石室あり、謙之をして第二重に住まわしむ。多年を経て、興、謙之に謂いて曰く、「興出でし後、当に人ありて薬を将ち来たるべし。得たらばただこれを食え、疑怪するなかれ」と。間もなく人ありて薬を将ち至る、皆な毒虫臭悪の物、謙之大いに懼れて走り出づ。興還りて状を問う、謙之具に対す、興歎息して曰く、「先生未だ便ち仙を得るに至らず、政に帝王の師たるべしのみ」と。興、謙之に事うること七年、而してこれに謂いて曰く、「興久しく留まるを得ず、明日中に去るべし。興亡き後、先生幸いに沐浴せしめよ、自ら人ありて迎え見るべし」と。興乃ち第三重の石室に入りて卒す。謙之躬自ら沐浴す。明日中、石室を叩く者あり、謙之出でて視る、両童子を見る、一は法服を持ち、一は鉢及び錫杖を持つ。謙之これを引き入る、興の尸の所に至る、興欻然として起き、衣を著け鉢を持ち、杖を執りて去る。先に、京兆灞城の人王胡兒あり、その叔父亡く、頗る霊異あり。曾て胡児を嵩高の別嶺に将ち至り、同行して観望す、金室玉堂を見る、一つの館特に珍麗、空しくして人無し、題して「成公興之館」と曰う。胡児怪しんでこれを問う、その叔父曰く、「これは仙人成公興の館、坐して失火し七間の屋を焼き、謫せられて寇謙之の弟子と為ること七年なり」と。始めて謙之の精誠遠く通ずるを知り、興乃ち仙者にして謫満ちて去るなり。

謙之嵩岳に志を守り、精専にして懈らず、神瑞二年十月乙卯、忽ち大神に遇う、雲に乗り龍に駕し、導従百霊、仙人玉女、左右に侍 えい し、山頂に集まり止まり、太上老君と称す。謙之に謂いて曰く、「往く辛亥の年、嵩岳鎮霊集仙宮主、天曹に表し、天師張陵の世を去りしより已来、地上曠誠、善を修むるの人、師授する所無しと称す。嵩岳の道士上谷の寇謙之、身を立てて理に直く、行い自然に合い、才は軌範に任じ、首めて師の位に処る。吾故に汝を観に来たり、汝に天師の位を授け、汝に雲中音誦新科の誡二十巻を賜う。号して『並進』と曰う」と。言う、「吾が此の経誡は、天地開闢より已来、世に伝わらず、今運数応に出づ。汝吾が新科を宣べ、道教を清整し、三張の偽法、租米銭税、及び男女合気の術を除去せよ。大道は清虚、豈に斯の事あらんや。専ら礼度を以て首と為し、而してこれに服食閉練を加う」と。王九疑の人長客之ら十二人を使わし、謙之に服気導引の口訣の法を授けしむ。遂に辟穀を得、気盛んにして体軽く、顔色殊に麗し。弟子十余人、皆なその術を得たり。

泰常八年十月戊戌、牧土の上師李譜文来たり臨み嵩岳、云う、老君の玄孫、昔 代郡 だいぐん 桑乾に居し、漢武の世に道を得、牧土宮主と為り、三十六土の人鬼の政を領治す。地方十八万里有奇、蓋し暦術一章の数なり。その中方万里なるもの三百六十方あり。弟子を遣わして教を宣べ、云う、嵩岳の統ぶる所広漢平土の方万里、以て謙之に授く、と。誥を作りて曰く、「吾天宮に処り、真法を敷演す、汝の道年に処ること二十二年、十年を除きて竟蒙と為し、その余十二年、教化大功無きも、且つ百授の労あり。今汝に遷りて内宮に入り、太真太宝九州真師、治鬼師、治民師、継天師の四録を賜う。修勤懈らず、労に依りて復た遷す。汝に天中三真太文録を賜い、百神を劾召し、以て弟子に授くべし。文録に五等あり、一に曰く陰陽太官、二に曰く正府真官、三に曰く正房真官、四に曰く宿宮散官、五に曰く並進録主。壇位・礼拝・衣冠の儀式各おの差品あり。凡そ六十余巻、号して録図真経と曰う。汝に付して奉持せしめ、北方泰平真君を輔佐し、天宮静輪の法を出だす。能く興造克就すれば、則ち真仙を起こす。又地上の生民、末劫垂れ及び、その中に行教甚だ難し。ただ男女に壇宇を立て、朝夕礼拝せしめ、家に厳君あるが若く、功上世に及ぶ。その中能く身を修め薬を練り、長生の術を学べば、即ち真君の種民と為る」と。薬は別に方を授け、金丹・雲英・八石・玉漿を銷練するの法、皆な決要あり。上師李君の手筆数篇あり、その余は、皆な正真書曹趙道覆の書く所なり。古文鳥迹、篆隷雑体、辞義約弁、婉にして章を成す。大いに世の礼と相準え、賢を択び徳を推し、信なる者を先とし、勤なる者これに次ぐ。又言う、二儀の間に三十六天あり、中に三十六宮あり、宮に一主あり。最高なる者は無極至尊、次に曰く大至真尊、次に天覆地載陰陽真尊。次に洪正真尊、姓は趙、名は道隠、殷の時に道を得、牧土の師なり。牧土の来るに、赤松・王喬の倫、及び韓終・張安世・劉根・張陵、近世の仙者、並びに翼従と為る。牧土、謙之を子と命じ、群仙と徒友を結ばしむ。幽冥の事、世の了えざる所、謙之具に問う、一一告ぐ。経に云う、仏者は、昔西胡に於いて道を得、三十二天に在りて、延真宮主と為る。勇猛苦教、故にその弟子皆な髠形染衣、人道を断絶し、諸天の衣服悉く然り、と。

始光の初め、その書を奉じてこれを献上し、世祖は謙之を張曜の所に止まらせ、食物を供給させた。当時、朝野においてこれを聞く者は、存するか亡きかの如くで、未だ全く信じる者はなかった。ただ崔浩のみがその言を異とし、これに師事して、その法術を受けた。ここにおいて上疏し、その事を賛明して言うには、「臣は聞く、聖王が命を受けるときは、必ず大いなる応があると。しかるに河図・洛書は、皆虫獣の文に言を寄せたものである。今日の如く人神が接対し、手筆が燦然として、辞旨が深妙なるは、古より比類がない。昔、漢の高祖は英聖であったが、四皓はなおこれを恥じて、節を屈しなかった。今、清徳の隠仙が、召されずして自ら至る。これは誠に陛下が軒轅・黄帝に並び、天に応ずる符である。どうして世俗の常談をもって、上霊の命を忽せにできようか。臣はひそかにこれを恐れる」と。世祖は欣然とし、謁者に命じて玉帛牲牢を奉じ、嵩岳を祭り、山中にいるその他の弟子を迎えさせた。ここにおいて天師を崇奉し、新法を顕揚して、天下に宣布し、道業は大いに行われた。浩は天師に事え、礼拝すること甚だ謹んだ。ある人がこれを譏ると、浩は聞いて言うには、「昔、張釈之は王生のために襪を結んだ。我は才賢哲に非ずといえども、今、天師に奉ずるは、古人に愧じぬに足る」と。嵩高の道士四十余人が至ると、遂に京城の東南に天師道場を起こし、重壇五層を築き、その新経の制に従った。道士百二十人に衣食を給し、斎粛して祈請し、六時に礼拝し、月に厨会を設けて数千人に及んだ。

世祖が赫連昌を討たんとしたとき、 太尉 たいい 長孫嵩がこれを難じたので、世祖は謙之に幽徴を問うた。謙之は答えて言うには、「必ず克つでしょう。陛下の神武は期に応じ、天経は下って治めんとし、兵をもって九州を定め、後に文を先に武を以て、太平真君を成すべきです」と。真君三年、謙之は奏上して言うには、「今、陛下は真君をもって世を御し、静輪天宮の法を建てられました。これは古を開いて以来、未だかつてなかったことです。応に登って符書を受け、聖徳を彰すべきです」と。世祖はこれに従った。ここにおいて自ら道壇に至り、符籙を受けた。法駕を備え、旗幟はことごとく青とし、道家の色に従ったのである。この後、諸帝は、即位するごとに皆これに倣った。恭宗は謙之が静輪宮の造営を奏上するのを見て、必ずその高さを鶏鳴狗吠の声が聞こえぬほどにせよとし、上って天神と交接せんと欲し、功役は万を数え、経年しても成らなかった。そこで世祖に言うには、「人と天の道は異なり、卑高は分定まっています。今、謙之は成らぬ期を要し、然らざる事を説き、財力を費損し、百姓を疲労させています。これは不可ではないでしょうか。必ずその言の如くならば、東山の万仞の上を因るに如かず、功はやや易いでしょう」と。世祖は恭宗の言を深く然りとしたが、ただ崔浩が賛成しているので、その意に違え難く、沉吟すること久しく、乃ち言うには、「吾もまたその成らぬを知っている。事既に爾り、五三百の功を惜しむこと何ぞあらん」と。

九年、謙之は卒し、道士の礼をもって葬られた。未だ亡き前に、諸弟子に謂うには、「謙之の在る間は、汝らは遷録を求めることができる。吾が去った後は、天宮は真に成就し難い」と。また設会の日に遇うと、更に二つの席を上師の坐前に布いた。弟子がその故を問うと、謙之は言うには、「仙官が来るのだ」と。この夜、卒した。前の日、忽ち「吾が氣息続かず、腹中大いに痛む」と言いながら、行止は平常の如く、明け方に至って便ち終わった。須臾のうちに、口中の気状は烟雲の如く、上って窓中より出で、天半に至って乃ち消えた。屍体は引き伸び、弟子がこれを量ると、八尺三寸あった。三日の後、稍々縮み、斂める時に量ると、六寸であった。ここにおいて諸弟子は尸解変化して去ったのであって、死ななかったのだと考えた。

時に京兆の人韋文秀あり、嵩高に隠れていたが、京師に徴し詣でさせた。世祖がかつて方士に金丹の事を問うと、多くは成す可しと言った。文秀は答えて言うには、「神道は幽昧にして、変化は測り難く、闇に遇うべくも、予め期し難いものです。臣は昔、先師より教えを受け、かつてその事を聞きましたが、未だこれを為したことはありません」と。世祖は文秀が関右の豪族で、風操温雅、言対方ありとし、尚書崔賾とともに王屋山に遣わして丹を合せさせたが、遂に成すことができなかった。時に方士として至る者は前後数人あった。河東の祁纖は、人相を見ることを好んだ。世祖はこれを賢とし、纖を上大夫に拝した。潁陽の絳略・聞喜の吳劭は、道引養気を行い、積年百余歳で、神気衰えず。恒農の閻平仙は、百家の言を博覧したが、その意を達することができず、辞占応対は、義旨聴くに足るものがあった。世祖は官を授けようとしたが、終に辞して受けなかった。扶風の魯祈は、赫連屈孑の暴虐に遭い、寒山に避地し、弟子数百人を教授し、方術を好み、嗜慾少なかった。河東の羅崇之は、常に松脂を餌とし、五穀を食わず、自ら中条山にて道を受けたと称した。世祖は崇を郷里に還らせ、壇を立てて祈請させた。崇は言うには、「条山に穴あり、崑崘・蓬莱と相連なります。穴中に入れば仙人を見ることができ、これと往来します」と。詔して河東郡に必要なものを給させた。崇が穴に入り、百余歩行くと、遂に窮まった。後に召し至らせると、有司は崇が誣罔不道であるとして、これを治めるよう奏上した。世祖は言うには、「崇は修道の人である。豈に欺妄をもって世を詐るに至らんや。あるいは伝聞審らかでなく、このようになったのだろう。古の君子は、人を進むるに礼を以てし、人を退けるに礼を以てする。今これを治めるは、朕が賢を待つ意を傷つけることになる」と。遂にこれを赦した。また東萊の人王道翼あり、少より絶俗の志があり、韓信山に隠れ、四十余年、粟を断ちて荽を食い、経章を通達し、符籙を書いた。常に深山に隠居し、世務に交わらず、年六十余。顕祖がこれを聞き召した。青州刺史韓頽が使いを遣わして山よりこれを徴すると、翼は乃ち都に赴いた。顕祖はそのなお本操を守るを以てし、僧曹に命じて衣食を給し、その身を終わらせた。

太和十五年秋、詔して曰く、「夫れ至道は形なく、虚寂を主とす。漢代以後より、壇祠を置き立て、先朝はその至順帰す可きを以てし、寺宇を立て用いた。昔、京城の内は、居舍尚お稀であった。今は里宅櫛比し、人神猥りに湊す。これは至法を祗崇し、神道を清敬する所以ではない。都南の桑乾の陰、岳山の陽に移し、永くその所を置くべし。戸五十を給し、以て斎祀の用に供え、仍って崇虚寺と名づく。諸州の隠士を召し、員を九十人に満たすべし」と。

洛陽に遷り鄴に移っても、故事に踵いた。その道壇は南郊にあり、方二百歩、正月七日・七月七日・十月十五日に、壇主・道士・哥人一百六人を以て、拜祠の礼を行った。諸道士は精至なる能うもの稀く、また才術高む可きものもなかった。武定六年、有司が執奏してこれを罷めた。道術ある者は、河東の張遠遊・河間の趙靜通などの如き、斉の文襄王が別に京師に館を置き礼接した。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻114