巻112上

帝王たる者は、天地に徳を配し、陰陽に契を協わせ、号令を発し政令を施すにあたり、その動きは幽顕に関わる。ゆえにみずから躬を克して政を修め、天を畏れ神を敬い、たとえ善きことがあっても休まず、怠ることを敢えてしないのである。教化の感ずるところ、その しるし は必ず至り、善悪の来たるや、報応は響きの如し。これは神祇の眷顧により、禍福を告示し、人主がこれに仰ぎ瞻り俯して察し、徳を戒め行いを慎み、譴責と咎を止め、休祥と禎瑞を致し、円首の類をしてことごとく仁寿に納めしめる所以である。されば治世の符、乱邦の孽は、方に随って起こり、その跡は同じからず、百王以来眇遠にして、勝ち数えるべからざるものがある。今、皇始(道武帝の年号)以後の災祥の大小を録し、総じて霊徴志と為す。

地震

洪範論に曰く、地は陰類にして、大臣の象なり。陰は静にして動くべからざるもの、動くは臣下の強盛にして、将に動きて害を為さんとする応なり。

太宗泰常四年(419年)二月甲子、司州に地震あり、屋室ことごとく揺れ動く。

世祖太延二年(436年)十一月丁卯、 并州 へいしゅう に地震あり。

四年(438年)三月乙未、京師に地震あり。

十一月丁亥、幽・兗二州に地震あり。

真君元年(440年)五月丙午、河東に地震あり。

高祖延興四年(474年)五月、雁門の崎城に声雷の如くあり、上より西に十余声を引き、声止みて地震す。

十月己亥、京師に地震あり。

太和元年(477年)四月辛酉、京師に地震あり。

五月、統万鎮に地震あり、声雷の如し。

閏月、秦州に地震あり、殷殷として声あり。四年(480年)正月、雍州の てい 民、斉男王反す。

二年(478年)二月丙子、兗州に地震あり。四年(480年)十月、蘭陵の民、桓富反し、其の県令を殺す。

七月丁卯、 へい 州に地震あり、声あり。

三年三月戊辰の日、平州に地震があり、雷のような音がして、野の雉が皆鳴いた。

七月丁卯の日、京師に地震があった。五年二月、沙門法秀が謀反を企てた。

四年五月己酉の日、 へい 州に地震があった。

五年二月戊戌の日、秦州に地震があった。

六年五月癸未の日、秦州に地震があり、音がした。

八月甲午の日、秦州に地震があり、雷のような音がした。乙未の日にもまた震動した。

七年三月甲子の日、秦州に地震があり、音がした。

四月丁卯の日、肆州に地震があり、音がした。

六月甲子の日、東雍州に地震があり、音がした。

八年十一月丙申の日、 へい 州に地震があった。

十年正月辛未の日、 へい 州に地震があり、殷々と音がした。

閏月丙午の日、秦州に地震があった。

二月甲子の日、京師に地震があった。丙寅の日にもまた震動した。

丙午の日、秦州に地震があり、音がした。

三月壬子の日、京師及び營州に地震があった。十二年三月、中散梁眾保が謀反を企てた。

十九年二月己未、光州に地震あり、東萊の牟平虞丘山に五箇所陥没し、一箇所に水あり。

二十年正月辛未、 へい 州に地震あり。

四月乙未、營州に地震あり。十二月、恒州 刺史 しし 穆泰ら州に在りて謀反し、誅せらる。

二十二年三月癸未、營州に地震あり。

八月戊子、兗州に地震あり。

九月辛卯、 へい 州に地震あり。

二十三年六月乙未、京師に地震あり。

世宗景明元年六月庚午、秦州に地震あり。

四年正月辛酉、涼州に地震あり。

壬申、 へい 州に地震あり。

六月丁亥、秦州に地震あり。

十二月辛巳、秦州に地震あり。正始三年正月、秦州の民王智ら衆二千を聚め、自ら王公と号し、尋いで秦州主簿呂苟兒を推して主と為す。

正始元年四月庚辰、京師に地震あり。

六月乙巳、京師に地震あり。

二年九月己丑、恒州に地震あり。

三年七月己丑、涼州に地震あり、殷殷として声有り、城門崩る。

八月庚申、秦州に地震あり。九月、夏州長史曹明謀反す。

永平元年春正月庚寅、秦州に地震あり。三年二月、秦州の沙門劉光秀謀反す。

九月壬辰、青州に地震あり、殷殷として声有り。

二年正月壬寅、青州に地震あり。

四年五月庚戌、恒・定二州に地震あり、殷殷として声有り。

十月己巳、恒州に地震あり、声雷の如し。

延昌元年四月庚辰、京師及び へい ・朔・相・冀・定・瀛の六州に地震あり。恒州の繁畤・桑乾・霊丘、肆州の秀容・雁門は地震にて陥裂し、山崩れ泉湧き、五千三百十人を殺し、傷つく者二千七百二十二人、牛馬雑畜の死傷する者三千余。後に尒朱栄の強く ほしいまま にする しるし なり。

十月壬申、秦州に地震あり声有り。

十一月己酉、定・肆二州に地震あり。

十二月辛未、京師に地震あり、東北に声有り。

二年三月己未、済州に地震あり声有り。

□月丙戌、京師に地震あり。

三年正月辛亥、有司奏す:「肆州上言す、秀容郡敷城県は延昌二年四月より地震し、今に至るも止まず」と。尒朱栄の徴なり。

四年正月癸丑、華州に地震あり。

十一月甲午、地震が西北より来たり、殷々として声有り。丁酉、また地震が東北より来る。

粛宗熙平二年十二月乙巳、秦州地震有り声有り。

正光二年六月、秦州地震有り声有り、東北に引く。五年、莫折念生反す。

三年六月庚辰、徐州地震す。孝昌元年、元法僧反す。

孝静武定三年冬、 へい 州地震す。

七年夏、 へい 州郷郡地震す。

山崩

洪範論に曰く、山は陽にして君なり、水は陰にして民なり。天戒は若し曰く、君道崩壊し、百姓将に其の所を失わんとす、と。

太祖天賜六年春三月、恒山崩る。

世祖太延四年四月己酉、華山崩る。其の占いに曰く、山岳は天に配し、猶諸侯の天子に係るが如し。山岳崩るれば、諸侯に亡ぶ者有り、と。沮渠牧犍将に滅ぶの応なり。

世宗景明元年五月乙丑、齊州山茌県太陰山崩れ、飛泉湧き出で、一百五十九人を殺す。

四年十一月丁巳、恒山崩る。

正始元年十一月癸亥、恒山崩る。

延昌三年八月辛巳、兗州上言す、「泰山崩れ、頽石湧泉十七処。」泰山は、帝王成を告げ封禅する所なり。而るに山崩れ泉湧くは、陽黜れて陰盛んなり。岱は又斉の地なり。天意は若し曰く、当に斉を継ぎて興り、禅譲を受くる者有るべし、と。斉代魏の徴なり。

大風

京房の易伝に曰く、衆逆同志し、至徳は乃ち潜む、その異は風なり。

太宗永興三年二月甲午、京師に大風あり。五月己巳、昌黎王 慕容 ぼよう 伯児謀反し伏誅せらる。

十一月丙午、また大風あり。五年、河西の叛胡曹龍・張大頭等、各々部衆二万を領して蒲子に入る。

四年正月癸卯、元会にして大風晦冥す、乃ち罷む。

五年十一月庚寅、京師に大風あり、西方より起こる。

神瑞元年四月、京師に大風あり。

二年正月、京師に大風あり。三月、河西の飢胡反し、上党に屯聚し、白亜栗斯を推して盟主と為す。

世祖太延二年四月甲申、京師に暴風あり、宮牆倒れ、数十人を殺す。

三年十二月、京師に大風あり、沙を揚げ樹を折る。

真君元年二月、京師に黒風天に竟くあり、広さ五丈余。四月庚辰、沮渠無 いみな 張掖を寇し、禿髪保周は刪丹嶺に屯す。

高宗和平二年三月壬午、京師に大風晦暝す。

高祖延興五年五月、京師に赤風あり。

太和二年七月庚申、武川鎮に大風あり、六家を吹き失い、羊角の如く上り、所在を知らず。

壬戌、雍州に赤風あり。

三年六月壬辰、相州に大風あり、酉の方より来たり、屋を発し樹を折る。

七年(483年)四月、相州・ 州の二州に大風が吹く。

八年(484年)三月、冀州・定州・相州の三州に暴風が吹く。

四月、済州・光州・幽州・肆州・雍州・齊州の六州に暴風が吹く。

九年(485年)六月庚戌の日、済州・洛州・肆州・相州の四州および霊丘・広昌鎮に暴風が吹き、樹木を折る。

十二年(488年)五月壬寅の日、京師( 洛陽 らくよう )に連日大風が吹き、甲辰の日は特に甚だしく、屋根を飛ばし樹木を抜く。

六月壬申の日、京師に大風が吹く。

十四年(490年)七月丁酉の朔日、京師に大風が吹き、樹木を抜き屋根を飛ばす。

二十三年(499年)八月、徐州において甲寅の日から己未の日まで、大風が吹き樹木を抜く。

閏月庚申の日、河州に暴風が吹き、大雨と雹が降る。

世宗(宣武帝)景明元年(500年)二月癸巳の日、幽州に暴風が吹き、百六十一人を殺す。

三年(502年)閏月甲午の日、京師に大風が吹き、樹木を抜き屋根を飛ばし、閶闔門の門関を吹き折る。

九月丙辰の日、幽州・岐州・梁州・東秦州に暴風と暗い霧が起こり、樹木を抜き屋根を飛ばす。

四年(503年)三月己未の日、司州の河北・河東・正平・平陽に大風が吹き樹木を抜く。

正始元年(504年)七月戊辰の日、東秦州に暴風が吹き、樹木を抜き屋根を飛ばす。

二年(505年)二月癸卯の日、黒い風が羊角(つむじ風)のように上り、柔玄鎮に起こり、およそ一頃の地を覆い、通過する所で樹木を抜く。甲辰の日、営州に至り、東へ海に入る。

四年五月甲子、京師に大風あり。

永平元年四月壬申、京師に大風あり、樹木を抜く。八月癸亥、冀州刺史・京兆王愉、州に拠りて反す。

三年五月己亥、南秦州の広業・仇池郡に大風あり、屋根を飛ばし樹木を抜く。

延昌四年三月癸亥、京師に暴風あり、西北より来たり、屋根を飛ばし樹木を折る。

肅宗熙平二年九月、瀛州に暴風大雨あり、辛酉より乙丑に至る。

正光三年四月癸酉、京師に暴風大雨あり、屋根を飛ばし樹木を抜く。

四年四月辛巳、京師に大風あり。

孝昌二年五月丙寅、京師に暴風あり、樹木を抜き屋根を飛ばし、平昌門の扉を吹きて壊れ、永寧(寺)の九層の撜(柱)折る。時に天下所在に兵乱あり。

前廢帝普泰元年夏、大風雨あり、普光寺の門屋を吹きて地に落とす。

孝靜武定七年三月、潁川に大風あり。

大水

洪範論に曰く、大水とは、皆君臣の治め方に過失ありて陰気が積み盛んとなり強くなり、水雨の災いを生ずるなり。

太祖天賜三年八月、霖雨あり、大いに震い、山谷の水溢る。

太宗泰常三年八月、河内に大水あり。

世祖延和元年六月甲戌、京師に水溢れ、民の廬舎数百家を壊す。

真君八年七月、平州に大水あり。

高祖太和二年夏四月、南 州・徐州・兗州に大霖雨あり。

六年七月、青州・雍州の二州に大水あり。

八月、徐州・東徐州・兗州・済州・平州・ 州・光州の七州、平 くみ ・枋頭・広阿・臨済の四鎮に大水あり。

九年九月、南 州・朔州の二州、それぞれ大水あり、千余人を殺す。

二十二年戊午、兗州・ 州の二州に大霖雨あり。

二十三年六月、青州・齊州・光州・南青州・徐州・ 州・兗州・東 州の八州に大水あり。

世宗景明元年七月、青州・齊州・南青州・光州・徐州・兗州・ 州・東 州、及び司州の潁川郡・汲郡に大水あり、平らな低地は一丈五尺に及び、民家が完全なものは十のうち四五なり。

正始二年三月、青州・徐州に大雨霖あり、海水が青州楽陵郡の隰沃県に溢出し、一百五十二人を流漂せしむ。

永平三年七月、州郡二十に大水あり。

延昌元年夏、京師及び四方に大水あり。

二年五月、寿春に大水あり。

肅宗熙平元年六月、徐州に大水あり。

二年九月、冀州・瀛州・滄州の三州に大水あり。

正光二年夏、定州・冀州・瀛州・相州の四州に大水あり。

孝昌三年の秋、京師に大水あり。

出帝太昌元年六月庚午、京師に大水あり、穀水が氾濫し、三百余家を壊す。

孝靜帝元象元年、定・冀・瀛・滄の四州に大水あり。

興和四年、滄州に大水あり。

湧泉

太宗泰常五年十二月壬辰、湧泉が 平城 へいじょう より出づ。

高宗和平五年十一月、雁門の泉水、石を穿ち湧き出づ。

前廃帝普泰元年秋、 司徒 しと 府の太倉前の井、並びに溢る。占いに曰く、民の遷流の象なり。永熙三年十月、都を ぎょう に遷す。

孝靜帝天平四年七月、泰州の井溢る。

元象元年二月、 鄴城 ぎょうじょう の西南に枯井溢る。

雨雹

洪範論に曰く、陽の専気は雹となり、陰の専気は霰となる。これは陽が専らにして陰之を脅かし、陰が専らにして陽之を薄くし、相い入ること能わず、則ち転じて雹となることを言う。猶お臣の意、君の心に合わざるが如し。

高祖延興四年四月庚午、涇州に大雹あり、稼を傷つく。

承明元年四月辛酉、青・齊・徐・兗に大風、雹あり。

八月庚申、 へい 州の郷郡に大雹あり、平地に尺、草木 いね 稼皆尽きる。

癸未の日、定州に大雹が降り人を殺し、大きいものは方圓二尺であった。

世宗景明元年六月、雍州・青州の二州に大雨雹があり、麞鹿を殺した。

四年五月癸酉、汾州に大雨雹があった。

六月乙巳、汾州に大雨雹があり、草木・禾稼・雉兔が皆死んだ。

七月甲戌、暴風が起こり大雨雹があり、汾州から起こり、 へい 州・相州・司州・兗州を経て、徐州に至って止み、広さ十里にわたり、過ぎた所の草木は残るものがなかった。

正始二年三月丁丑、齊州・濟州の二州に大雹があり、雨雪が降った。

永平三年五月庚子、南秦の広業郡に大雨雹があり、鳥獣・禾稼を殺した。

洪範論に曰く、春秋の大雨雪は、猶ほ庶徴の恒雨の如し、然れども尤も甚だし。夫れ雨は陰なり、雪は又た陰なり。大雪は、陰の積み蓄え盛んなるものなり。一に曰く、大水と同じく、冬なる故に雪と為すのみ。

世祖始光二年十月、大雪が数尺降った。

真君八年五月、北鎮に寒雪があり、人畜が凍死した。この時は政治が厳急であった。

高祖太和四年九月甲子朔、京師に大風が吹き、雨雪が三尺降った。

世宗正始元年五月壬戌、武川鎮に大雨雪があった。

四年二月乙卯、司州・相州の二州に暴風が吹き、大雨雪があった。

九月壬申、大雪があった。

粛宗正光二年(521年)四月、柔玄鎮に大雪が降る。

京房の易伝に曰く、兵を興して妄りに誅する、これを亡法と謂い、その災いは霜となり、夏には五穀を殺し、冬には麦を殺す。誅して情を くみ さず、これを不仁と謂い、夏に先だって大霜が降る。

太祖天賜五年(408年)七月、冀州に霜が降る。

世祖太延元年(435年)七月庚辰、大いに霜が降り、草木を枯らす。

高宗和平六年(465年)四月乙丑、霜が降る。

高祖太和三年(479年)七月、雍州・朔州の二州および枹罕・吐京・薄骨律・敦煌・仇池の各鎮で、いずれも大霜があり、 いね や豆がことごとく枯死した。

同六年(482年)四月、潁川郡に霜が降る。

同七年(483年)三月、肆州で風霜があり、 まめ を枯らす。

同九年(485年)四月、雍州・青州の二州に霜が降る。

六月、洛州・肆州・相州の三州および司州の霊丘・広昌の各鎮に霜が降る。

同十四年(490年)八月乙未、汾州に霜が降る。

世宗景明元年(500年)四月丙子、夏州に霜が降り草を枯らす。

六月丁亥、建興郡に霜が降り草を枯らす。

八月乙亥、雍州・ へい 州・朔州・夏州・汾州の五州、および司州の正平・平陽で、頻りに暴風と霜が降る。

二年三月辛亥の日、斉州に霜が降り、桑と麦を害した。

四年三月壬戌の日、雍州に霜が降り、桑と麦を害した。

辛巳の日、青州に霜が降り、桑と麦を害した。

正始元年五月壬戌の日、武川鎮に霜が降った。

六月辛卯の日、懐朔鎮に霜が降った。

七月戊辰の日、東秦州に霜が降った。

八月庚子の日、河州に霜が降り、穀物を害した。

二年四月、斉州に霜が降った。

五月壬申の日、恒州と汾州の二州に霜が降り、穀物を害した。

七月辛巳の日、豳州と岐州の二州に霜が降った。

乙未の日、敦煌に霜が降った。

戊戌の日、恒州に霜が降った。

三年六月丙申の日、安州に霜が降った。

四年三月乙丑の日、豳州にたびたび霜が降った。

四月乙卯の日、敦煌にたびたび霜が降った。

八月、河州に霜が降りた。

永平元年三月乙酉、岐州と豳州の二州に霜が降りた。

己丑、 へい 州に霜が降りた。

四月戊午、敦煌に霜が降りた。

二年四月辛亥、武州鎮に霜が降りた。

延昌四年三月癸亥、河南の八州に霜が降りた。

肅宗熙平元年七月、河南・河北の十一州に霜が降った。

雲無くして雷鳴る。

洪範論に曰く、雷は陽なり、雲は陰なり。雲有りて然る後に雷有り、臣有りて然る後に君有り。雷は雲に託し、君は臣に託す、是れ陰陽の合なり。故に雲無くして雷鳴るは、君独り処りて臣民無きを示すなり。

顯祖皇興元年七月、東北に雲無くして雷鳴った。

二年七月、東北に雷の如き音声有り。

世宗延昌元年二月己酉、音声が東北に起こり、南へ引き、殷々として雷の如く、二声にして止んだ。

鼓妖

世祖太延四年十月辛酉、北方に大鼓の如き音声有り、西北へ行った。

『洪範論』に曰く、陽が用事すること百八十三日にして終わり、陰が用事することも亦た百八十三日にして終わる。雷は地より出ること百八十三日にして地に入り、地に入ること百八十三日にして復た地より出る。是れ其の常経なり。故に雷安んずれば、万物安んず。雷害あれば、万物害あり。国に猶お似たり。君安んずれば、国も亦た安んず。君害あれば、国も亦た害あり。雷すべからざるに雷すは、皆な節を失うなり。

世祖神䴥元年十月己酉、雨降り、雷電す。

太延三年十月癸丑、雷す。

四年十一月丁亥、雷す。

高祖太和三年十一月庚戌、 州に雷雨あり。

戊申、 州に大雷雨あり、平地水三寸。

四年十月戊戌、雷す。

七年十一月辛巳、幽州に雷電あり、城内尽く赤し。

世宗景明二年十一月辛卯、涼州に雷あり、七たび声を発す。

三年十二月己巳、夜雷あり、九たび声を発す。

正始元年十一月甲寅、秦・齊・荊・朔の四州に雷電あり。

肅宗正光元年正月壬寅、雷す。

春秋に夷伯の廟を震う。左丘明は展氏に隠慝有りと謂う。劉向以為く、夷伯は世大夫なり。天の戒めは若し曰く、大夫に世官せしむること勿れ、将に事を専にせんとす、と。

太祖天賜六年四月、天安殿東序を震う。帝之を悪み、左校に令して衝車を以て殿の東西両序の屋を攻め毀たしむ。帝竟に暴崩す。

顕祖(献文帝)皇興二年十一月の夜、雷電が鳴り響いた。

高祖(孝文帝)太和三年五月戊午、東廟の東中門の屋根南側の鴟尾に雷が落ちた。

班固が説くに、上(君主)が臣下を寛大に包容しなければ、聖位に居ることはできない。貌・言・視・聴は心を主とし、四者全てが失われると、愚昧で無知となる。故にその咎(災いの兆し)は霧である。

世祖(太武帝)太延四年正月庚子、洛陽に土が霧のように降った。

高祖(孝文帝)太和十二年十一月丙戌、土霧が天を覆い、六日間晴れず、甲夜(初更)になってもなお濃密で、勃勃として火煙の如く、辛く惨たらしく人の鼻を刺した。

世宗(宣武帝)景明三年二月己丑、秦州に黄霧が立ち、土が地を覆うように降った。

八月己酉、濁った気が四方に充満した。

四年八月辛巳、涼州に土が地を覆うように降り、これも霧のようであった。

正始二年正月己丑の夜、陰った霧が四方に充満し、初めは黒く後には赤くなった。

三年正月辛丑、土霧が四方に充満した。

九月壬申、黒い霧が四方に充満した。

延昌元年二月甲戌、黄霧が立ち込めて塞がった。時に高肇が外戚として寵愛を受け、兄弟が封を受けたのは、漢の五侯と同じである。

桃李の花

庶徴(種々の兆し)のうちの恒燠(常に暖かいこと)。劉向と班固は、冬に氷がなく霜が草を枯らさないことの応報とした。京房の易伝に曰く、夏の暑さが人を殺せば、冬には物が花咲き実を結ぶ。

世祖(太武帝)の真君五年(444年)八月、華林園の諸果樹がすべて花を咲かせた。

高祖(献文帝)の延興五年(475年)八月、中山で桃と李が花を咲かせた。

承明元年(476年)九月、幽州の民、齊淵の家の杜樹(すももの木)が結実して既に成熟したのに、一朝にしてすべて落ち、花と葉が再び生じ、七日の中に、春のようにはびこった。

世宗(宣武帝)の景明四年(503年)十一月、齊州東清河郡で桃と李が花を咲かせた。

延昌四年(515年)閏十月辛亥、京師の柰樹(りんごの木)が花を咲かせた。

火、上を炎上せず。

洪範伝に曰く、法律を棄て、功臣を逐い、太子を殺し、妾を以て妻と為せば、則ち火は上を炎上せず。火がその本性を失って災いとなることを謂う。

高宗(文成帝)の太安五年(459年)春三月、肥如城内で大火があり、官私の廬舎が焼き尽くされ、ただ東西二寺の仏図(仏塔)と像舎のみが火に及ばなかった。

高祖(孝文帝)の太和八年(484年)五月戊寅、河内沁縣の沢が自然発火し、次第に増して百余歩に及び、五日にしてようやく消滅した。

世宗(宣武帝)の景明元年(500年)三月乙巳、恒岳祠が災害に遭った。

肅宗(孝明帝)の正光元年(520年)五月、鈎盾禁(宮中の園囿)が災害に遭った。

孝昌二年(526年)夏、幽州遒縣で地が燃えた。

三年(527年)春、瀛州城内で大火があり、三千余家を焼いた。

出帝(孝武帝)の永熙三年(534年)二月、永寧寺の九層仏図(仏塔)が災害に遭った。やがて当時の人々は皆、仏図が飛んで東海に入るのを見た者がいると言った。永寧仏図は霊像の在る所であり、天意は言わんとすることは、永寧に災いを見るは、魏の安からざることを示す。勃海は、齊の献武王( 高歓 こうかん )の本封である。神霊が海に帰るは、則ち齊室の将に興らんとする験である。

三月、 へい 州の三級寺の南門が災害に遭った。

孝静帝の天平四年(537年)秋、鄴の閶闔門の東闕が火災に遭う。

武定三年(545年)冬、汾州西河の北山に火が地下に潜行し、熱気が上に出る。

黒い災異と黒い凶兆

世祖(太武帝)の始光二年(425年)正月甲寅の夜、天の東南に黒気あり、広さ一丈、長さ十丈。占うに兵乱の兆し。二月、慕容渴悉隣が北平で反乱を起こす。

顕祖(献文帝)の皇興三年(469年)正月、河済に黒雲が立ち上がり、広さ数里、東陽城の上を覆い、暗く昏いこと夜の如し。やがて東陽城は陥落す。

世宗(宣武帝)の景明三年(502年)九月己卯、黒気四方に充塞す。甲辰、揚州において蕭衍の将軍張囂之を破り、二千級を斬る。

赤い災異

高祖(孝文帝)の太和二年(478年)十一月丁未の夜、三つの白気が地より出で、須臾にして黄赤色に変じ、光明地を照らす。

同十六年(492年)九月丁巳、黄昏時、西北に赤気現る。長さ二十丈、広さ八九尺、一食の頃にして滅ぶ。

世宗(宣武帝)の延昌元年(512年)三月丙申、赤気天に見え、卯の刻より戌の刻まで続く。

粛宗(孝明帝)の正光元年(520年)十一月辛未、西北に赤気天の果てまで広がり、火気の如し。京師には見えず、涼州より聞こえ来る。

同三年(522年)九月甲辰の夜、西北に赤気あり、炎の如く、東西一匹余り。北鎮の反乱の兆し。

同五年(524年)五月癸酉申の刻、北に赤気あり、東西天の果てまで広がり、火焰の如し。

荘帝の永安三年(530年)十一月己丑、赤気霧の如く、顕陽殿の階の西南角より斜めに歩廊に属し、高さ一丈許り、地に連なること絳紗の幔の如し、未の刻より戌の刻まで滅びず。帝これを見て悪しとし、終に幽閉され崩ずる禍いあり。

孝静帝の天平三年(536年)正月己亥戌の刻、東方に赤気あり、およそ三丈余り、三食の頃にして滅ぶ。

青眚

荘帝永安三年六月甲子申の刻、辰の方角に青気あり、広さ四尺、東の端は山に沿い、西北へ引き、天半に至って止む。西北戌の方角に黒赤黄の雲あり、山峯の如く、その頭に青気あり、広さ四尺ばかり、東南へ引く。天半に至り、二つの気相接す。東南の気は先に散じ、西北の気は後に滅ぶ。これ亦た帝の執られ崩ずる徴なり。

夜妖

班固の説に曰く、夜妖とは、雲風並び起こって杳冥たるもの、故に常風と同じ象なり。温かくして風あれば、則ち螟螣の孽を生ず。

世宗正始元年六月乙巳、晦。

八月甲辰、昼晦。

人痾

劉歆の説に曰く、貌の恭ならざる、是れを不肅と謂う。上嫚にして下暴なれば、則ち陰気勝ち、水百穀を傷い、衣食足らず、姦宄並び作る、故に其の極は悪なり。一に曰く、民多く刑せられ、貌醜悪なりと。班固は以て、六畜を之れ禍と謂うは、其の著しきを言うなり。人に及んで、之れを痾と謂う、痾は病貌、言うに寢深きなり。

太宗永興三年、民烏蘭の喉下に骨生ず、状羊角の如く、長さ一尺余。

高祖太和十六年五月、 尚書 しょうしょ 李沖奏す、「定州中山郡毋極県の民李班虎の女献容、去年九月二十日に右手の大拇指の甲下に毛九茎生じ、十月二十日に至りて長さ一尺二寸なり」。

肅宗熙平二年十一月己未、 へい 州表を奉りて祁県の民韓僧真の女令姬が母の右脅より生まるるを送る。霊太后、掖庭に付するを令す。

正光元年五月戊戌、南兗州下蔡郡に大人の跡あり、七歩行くを見る。跡長さ一尺八寸、広さ七寸五分。

高祖延興三年秋、秀容郡の婦人一産に四男を生み、四産して十六男を生む。

荘帝永安三年十一月丁卯、京師の民家の妻男を産む。一頭、二身、四手、四脚、三耳。

太和十六年十一月乙亥、高祖沙門道登と 侍中 じちゅう 省に幸す。日入六鼓、一鬼黄褶袴を衣て、戸に当たりて入らんとすを見る。帝これを人と以為い、叱して退かしむ。左右に問う、皆見ずと言う。唯だ帝と道登のみ之を見る。

顕祖の皇興二年十月、 州に疫病が流行し、民の死は十四五万に及んだ。

世宗の永平三年四月、平陽の禽昌・襄陵の二県に大疫が起こり、正月よりこの月に至るまで、死者二千七百三十人。

金の沴(災異)

太和十九年六月、徐州が表を上して言うには、丈八の銅像が地に汗を流すと。

永安・普泰・永熙の間、京師の平等寺にある定光金像がしばしば汗を流し、国に事変があると、当時の人々は皆これを畏れ怪しんだ。

永安三年二月、京師の民家に二体の銅像があり、各々長さ一尺余り、一体は頤の下に白毫四本を生じ、一体は頬の傍に黒毛一本を生じた。

龍蛇の孽(災異)

洪範論に曰く、龍は鱗蟲にして、水に生ず。雲もまた水の象なり、陰気が盛んなれば、故にその象至る。人君が下には人倫に悖り、上には天道を乱せば、必ず さん 殺の禍有り。

世祖の神䴥三年三月、白龍二頭が京師の家人の井中に見えた。

真君六年二月丙辰、白龍が京師の家人の井中に見えた。龍は神物なり、しかるに井中に屈するは、皆世祖の暴崩の徴なり。

粛宗の正光元年八月、黒龍あり、狗の如く、南に走りて宣陽門に至り、躍り上がり、門楼の下を穿って出でた。魏の衰の徴なり。

荘帝の永安二年、 晋陽 しんよう に龍が井中に見え、久しく去らなかった。荘帝の晋陽における暴崩の徴なり。

前廃帝の普泰元年四月甲寅、龍の跡が宣陽門より西に出で、また城に入る。乙卯、群臣入りて賀す。帝曰く、「国将に興らんとすれば、民に聴き、将に亡ぼんとすれば、神に聴く。ただ君臣上下、己を克ちて治めを為すべし、未だ足らずして此れを恃みて慶と為すに足らず」。

馬の禍

洪範論に曰く、馬は兵の象なり、将に寇戎の事有らんとすれば、故に馬が怪を為すなり。

肅宗熙平二年十一月辛未、恒州より馬駒を献ず。肉尾長さ一尺、騣の処に毛生ぜず。

正光元年九月、沃野鎮の官馬、蟲の耳に入るを為し、死者十に四五。蟲は螝に似て、長さ五寸以下、箸の如き大さ。

牛禍

洪範論に曰く、易に「坤は牛と為す」と。坤は土なり。土気乱るれば則ち牛怪を為す。一に曰く牛禍。その象は、宗廟将に滅せんとす。一に曰く、転輸煩はしければ則ち牛禍を生ず。

世宗景明二年五月、冀州上言す、長楽郡に牛犢を生ず。一頭、二面、二口、三目、三耳。

羊禍

洪範論に曰く、君明ならず、失政の致す所なり。

高祖太和二十三年三月、肆州上言す、陽曲県に羊羔を生ず。一頭、二身、一牝一牡、三耳、八足。尋で高祖崩じ、六輔事を専らにす。

世宗正始元年七月、鄯善鎮より羊羔を献ず。一頭、両身、八脚。

二年正月、鄯善鎮より八脚羊を献ず。

延昌四年五月、薄骨律鎮上言す、羊羔一頭、六足、両尾。

豕禍

京房伝に曰く、凡そ妖象その類足多き者は、任ずる所邪なるなり。京房易に曰く、妖を豕人頭豕身を生ずと曰うは、邑まさに乱亡せんとす。

高祖延興元年九月、有司奏す、 州刺史・臨淮公王譲の表に、猪子を生ず。一頭、二身、八足。

世宗景明四年九月、梁州上言す、犬豕交わる。

正始四年(507年)八月、京師(洛陽)の豚が子を産み、一つの頭に四つの耳、二つの胴体、八本の足があった。

延昌四年(515年)七月、徐州が上奏して言うには、陽平戍の豚が子を産み、頭と顔は人のようで、頭頂に肉の髻があり、体に毛がなかった。これは霊太后と幼主(孝明帝)が傾覆する兆しであった。

鶏の禍

『洪範論』に曰く、京房の伝に曰く、鶏は小畜(小さい家畜)であり、小臣の比喩である。角は兵の象徴であり、上にあるのは君主の威厳である。これは小臣や執事者が君主の威厳を執り行って乱を生じさせ、治まらない害である。

高祖(孝文帝)太和元年(477年)夏五月、有司が奏上して言うには、京師に雌鶏が二羽おり、頭に角のような冠が生え、他の鶏と異なっていた。この時、文明太后が朝政に臨み、群小を信用した兆しである。

世宗(宣武帝)正始元年(504年)四月、河南に鶏の雛がおり、四本の足と四つの翼があった。詳細は崔光伝にある。

八月、司州が上奏して言うには、河内の民、席眾の家の鶏の雛が、尾の近くにさらに一つの頭があり、口と目が備わっていた。二つの頭はそれぞれ頸の後ろから二つの翼があり、二本の足で横歩きしていた。この時、世宗はかなり群小を任用し、朋党が生じ、邪佞の輩が政事に干渉した証左である。

延昌四年(515年)十二月、洛州が上奏して言うには、魏興太守の常矯の家の黄色い雌鶏の頭に、棗のように大きな肉の角があり、長さ一寸三分、角の上に聚毛が生え、長さ一寸半であった。

粛宗(孝明帝)正光元年(520年)正月、虎賁中郎将の蘭兠の家の雄鶏と雌鶏の二羽が、それぞれ頭に二本の角が生え、その毛は雑色で、上に聳えて冠を超えていた。この時、霊太后が朝政に臨み専権を執っていた。

羽虫の孽

『洪範論』に曰く、視ることが明らかでなく、聴くことが聡明でないことへの罰である。

太宗(明元帝)泰常三年(418年)十一月、京師で白い梟を捕獲した。

粛宗(孝明帝)正光二年(521年)八月己卯、殿内で禿鶖鳥を捕獲した。

孝昌二年(526年)四月、民が葬送用の鴨の雛を献じたが、一つの頭に二つの胴体、四本の足、四つの翼、二つの尾があった。

孝静帝天平二年(535年)三月、雄の雉が尚書省に飛び込み、殿中で捕獲された。

蝗蟲と螟蟲

洪範論に曰く、刑罰が暴虐で、下から利益を奪い取り、貪饕飽くことなく、師を興し衆を動かし、邑を取り城を治めて衆心を失えば、則ち蟲が害を為す。

高祖太和五年七月、敦煌鎮に蝗が発生し、秋の穀物はほぼ尽きた。

六年七月、青州・雍州の二州で虸蚄が穀物を害した。

八月、徐州・東徐州・兗州・済州・平州・ 州・光州の七州、平原・枋頭・広阿・臨済の四鎮で、蝗が穀物を害した。

七年四月、相州・ 州の二州で蝗が穀物を害した。

八年三月、冀州・州・相州の三州で虸蚄が穀物を害した。四月、済州・光州・幽州・肆州・雍州・齊州・平州の七州で蝗が発生した。

六月乙巳、相州・齊州・光州・青州の四州で虸蚄が穀物を害した。

十六年十月癸巳、枹罕鎮で蝗が発生し、穀物を害した。

世宗景明元年五月、青州・齊州・徐州・兗州・光州・南青州の六州で虸蚄が穀物を害した。

四年三月壬午、河州で大螟が発生し、二麦は残るところ無かった。

五月、光州で虸蚄が穀物を害した。六月、河州で大蝗が発生した。

七月、東萊郡で虸蚄が穀物を害した。

正始元年六月、夏州・司州の二州で蝗が穀物を害した。

四年四月、青州で歩屈蟲が棗の花を害した。

八月、涇州に黄鼠・蝗蟲・班蟲、河州に虸蚄・班蟲、涼州・司州恒農郡に蝗蟲が発生し、いずれも災害となった。

永平元年六月己巳、涼州に蝗が発生し、穀物を害した。

五年五月、青州に歩屈蟲が発生し、棗の花を害した。

七月、蝗蟲が発生し、京師に虸蚄が発生した。

八月、青・齊・光の三州に虸蚄が発生し、穀物を害し、三分の二を食い尽くした。

肅宗熙平元年六月、青・齊・光・南青の四州に虸蚄が発生し、穀物を害した。

顯祖天安元年六月、兗州に黒蟻と赤蟻が戦いを交え、長さ六十歩、幅四寸に及び、赤蟻は首を断たれて死んだ。黒は北を主り、赤は南を主る。十一月、劉彧の兗州刺史畢眾敬が使者を遣わして内属を願い出たので、詔して鎮南大将軍尉元にこれを受け入れさせ、賊将周凱らを大破した。

高祖太和十年七月、 へい 州治中張萬壽が上表して言うには、建興濩澤県の民賈日成が去る四月の中旬に養蚕したところ、絹網が幕のようになり、中に巻いた物があり絹帯のようで、長さ四尺、幅三寸あり、その薄い上にさらに黄色い繭二つを得たが、形状は履の形のようであった。

世宗正始二年三月、徐州で蚕蛾が人を喰い、病弱・障害を負う者一百十余人、死者二十二人に及んだ。

毛蟲の孽

常を変じて異となることを謂う。

太祖登国年間、河南に虎七頭がおり、河のほとりに臥し、三月にして去った。後一年、蚍蜉・白鹿が尽く河北に渡った。後一年、河水が血のように赤くなった。これは えい 辰滅亡の応である。その族類を誅するに及んで、悉くこれを河中に投げ入れ、その地は遂に空となった。

孝靜元象元年正月、狼が城に入り、硤石に至ったところ、曹がこれを捕獲した。

武定五年十二月、北城の銅爵臺上で豹一頭を捕獲した。

高祖太和元年五月辛亥、狐魅が人の髪を截つことがあった。時に文明太后が朝政に臨んでおり、行い多く不正の徴である。

肅宗熙平二年、春より、京師に狐魅ありて人の髪を截ち、人相驚恐す。六月壬辰、霊太后諸の截髮者を召し、崇訓衛尉劉騰に命じて千秋門外にて之を鞭たしむ。事、太和の如し。

瑞図に曰く、外鎮の王公・刺史・二千石・令長、百姓を酷暴し、人民怨嗟すれば、則ち白鼠至る。

太宗永興三年二月、京師の民趙温の家に白鼠あり、以て献ず。

三年春、北苑に於いて白鼠一を獲たり。尋ねて死す。之を割くに、腹中に三子あり、尽く白し。

四年三月、上西宮に幸し、白鼠一を獲たり。

八月、御府の民張安、白鼠一を獲たり。

神瑞二年五月、帝㯼崙山に狩し、白鼠一を獲たり。平城にて白鼠三を獲たり。

六月、平城にて白鼠二を獲たり。

八月、 章王夔、白鼠一を獲たり。

泰常元年十一月、京師の民、白𪕕一を獲て以て献ず。

二年六月、中山にて白鼠二を獲たり。

三年三月、京師にて白鼠一を獲たり。

十一月、京師にて白鼠一を獲たり。

世祖始光三年八月、相州魏郡にて白鼠を獲たり。

太延元年八月、雁門、白鼠を献ず。

高祖太和二十三年八月、京師に白鼠を獲たり。

世宗景明四年五月、京師に白鼠を獲たり。

正始元年六月、京師に白鼠を獲たり。

肅宗熙平元年四月、肆州より表を奉り白鼠を送る。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻112上