二儀が既に分かれ、万物が生じ、五才(五行)を兼ね用いて、一つを廃することはできない。金・木・水・火・土は、互いに愛憎する。陰陽が育て、気を稟受して形を現し、雷霆をもって鼓舞し、雲雨をもって潤し、春夏には生長させ、秋冬には殺伐・蔵匿させる。これがすなわち徳と刑の設けられた所以であり、神道より顕著である。聖人は天地の間に処し、神祇の意に従う。生民は喜怒の性、哀楽の心を持ち、感応して動き、動けば変異を超える。淳厚な教化が陶冶し、下民は惇朴となる。故に章服を異にし、衣冠を画き、恥を示し禁を申し立てて、敢えて犯させない。その流れが既に鋭くなると、奸黠な者が萌生する。そこで法令を明らかにし、刑賞を立てる。故に書経に曰く、「象刑を典とし、五刑を流して宥し、鞭は官刑と為し、扑は教刑と為し、金は贖刑と為し、終わりを恃んで賊するは刑し、眚災は赦す」と。舜は咎繇に命じて曰く、「五刑には服あり、五服には三就あり、五流には宅あり、五宅には三居あり」と。夏の刑は大辟二百、臏辟三百、宮辟五百、劓・墨各千。殷は夏に因り、損益があった。周礼には、三典を建て、邦国を刑し、五聴をもって民情を求め、八議をもってこれを申し立て、三刺をもってこれを審らかにする。左に嘉石を置き、罷民を平らげ、右に肺石を置き、窮民に通ずる。不識を宥し、過失を宥し、遺忘を宥す。幼弱を赦し、耄耋を赦し、惷愚を赦す。周の道が衰え、穆王は荒耄し、呂侯に命じて祥刑を作らせ、四方を詰め、五刑の属が増えた。疑獄は広く問い、衆と共にし、衆が疑えばこれを赦し、必ず小大の比を察してこれを成す。先王の民を愛することこの如く、刑が成れば変えることができず、故に君子は心を尽くすのである。
戦国に至り、威刑を競い任せ、互いに吞 噬 した。商君は法経六篇を持ち、秦に入って説き、参夷の誅、連坐の法を議した。風俗は凋薄し、虎狼と号された。始皇に至り、遂に天下を兼ね、先王の典を毀ち、挟書の禁を制し、法は秋荼より繁く、網は凝脂より密で、奸偽並び生じ、赭衣路を塞ぎ、獄犴は淹積し、囹圄は市を成した。ここにおいて天下怨叛し、十室にして九。漢祖は関に入り、煩苛を蠲削し、三章の約を致した。文帝は仁厚をもって、断獄四百、ほとんど刑措に致さんとした。孝武の世は奸宄甚だしく滋し、律五十余篇を増した。宣帝の時、路温舒が上書して曰く、「獄は天下の命なり。書に曰く、其れ不辜を殺すに、罪有るを失うに寧ろし、と。今、治獄の吏は、慈仁ならざるに非ず。上下相い毆ち、刻を以て明と為し、深き者は公名を獲、平らかな者は多く後患あり。故に治獄の吏は皆、人の死を欲す。人を憎むに非ず、自ら安んずるの道、人の死に在るなり。夫人の情、安んずれば則ち生を楽しみ、痛めば則ち死を思う。捶楚の下、何をか求めて得ざらん。故に囚人は痛みに勝えず、則ち飾辞を以て人に示す。吏治者は其の然るを利とし、則ち指導して以てこれを明らかにす。上奏して郤るるを畏れ、則ち鍛練して周内す。咎繇と雖もこれを聴けば、猶お死して余罪有りと為さん。何ぞ則ち、文致の罪明らかなればなり。故に天下の患、獄より深きは莫し」と。宣帝はこれを善しとした。痛ましいかな、獄吏の害は久しい。故に曰く、古の獄を立つるは、生を求むる所以なり。今の獄を立つるは、人を殺すを求むる所以なり。慎まざるべからず。于定国は廷尉となり、諸の法律を集め、凡そ九百六十巻、大辟四百九十条、千八百八十二事、死罪決比、凡そ三千四百七十二条、諸の断罪当用のもの、合わせて二万六千二百七十二条。後漢二百年間、律章大なる増減無し。魏武帝は甲子科条を造り、釱左右趾を犯す者は、斗械に易えしむ。明帝は士民罰金の坐を改め、婦人加笞の制を除く。晋武帝は魏の制峻密なるを以て、又詔して車騎賈充に諸の儒学者を集めさせ、名例を刪定し、二十巻と為し、合わせて二千九百余条。
晋室は喪乱し、 中原 は蕩然たり。魏氏は百王の末を承け、崩散の後に属し、典刑泯棄し、礼俗澆薄たり。太祖の撥乱より、華夏を蕩滌し、太和に至り、然る後に吏清く政平らかで、断獄省簡、所謂る百年にして後、残を勝ち殺を去る。故に行事を榷挙し、以て篇に著す。
魏の初め、礼俗純朴、刑禁疏簡。宣帝は南遷し、復た四部大人を置き、王庭に坐して辞訟を決し、言語を以て約束し、契を刻み事を記し、囹圄考訊の法無く、諸の犯罪者は、皆臨時に決遣す。神元は因循し、革易する所無し。
穆帝の時、劉聰・石勒が晋室を傾覆す。帝は其の乱を平らげんとし、乃ち刑法を峻しくし、毎に軍令を以て事に従う。民は寛政に乗じ、多くは命に違いて罪を得、死者万を以て計う。ここにおいて国落騒駭す。平文は業を承け、離散を綏集す。
昭成建国二年:当に死すべき者は、其の家の金馬を献じて以て贖うことを聴す。大逆を犯す者は、親族男女少長無く皆斬る。男女礼を以てせずして交わる者は皆死す。民相殺す者は、死家に馬牛四十九頭及び送葬器物を与えて以てこれを平らぐることを聴す。繫訊連逮の坐無し。官物を盗めば、一に備えて五、私物は則ち備えて十。法令明白、百姓晏然たり。
太祖は幼く艱難に遭い、備々険阻を嘗め、民の情偽を具に知る。及び位に在り、躬ら仁厚を行い、民庶を協和す。既に中原を定め、前代の刑網峻密なるを患え、乃ち三公郎王徳に命じて其の民に酷切なる法を除かしめ、科令を約定し、大いに簡易を崇む。是の時、天下の民久しく兵乱に苦しみ、法を畏れ安を楽しむ。帝は其の此の若きを知り、乃ち玄默を以てこれを鎮め、罰は必ず軽きに従い、兆庶欣戴す。然れども大臣に対しては法を執って捨てず。季年災異屡見し、太祖は 豫 せず、綱紀褫頓し、刑罰頗る濫酷なり。
太宗即位し、廃官を修め、民隠を恤み、南平公長孫嵩・北新侯安同に命じて民訟を対理せしめ、庶政復た敍有り。帝は既に庶事に練精し、吏と為る者浸くに深文を以て罪を避く。
世祖が即位すると、刑罰の禁令が重いことを理由に、神䴥年間(428-431年)に詔を下し、 司徒 の崔浩に律令を制定させた。五年刑・四年刑を廃止し、一年刑を増設した。大辟(死刑)を二種類に分け、斬首と絞首刑とした。大逆不道の罪は腰斬とし、その同籍の者を誅殺し、十四歳以下の者は腐刑(宮刑)に処し、女子は県官に没収された。親を害した者は轘刑(車裂き)に処した。蠱毒を行った者は、男女ともに斬首し、その家を焼き払った。巫蠱を行った者は、羖羊(黒い雄羊)を背負い犬を抱いて淵に沈めた。刑に当たる者は贖罪でき、貧しい者はさらに鞭二百回を加えた。畿内の民で富める者は山で炭を焼き、貧しい者は便所の清掃に使役され、女子は穀物の搗きや藁仕事に従事させた。重い病気で人並みの労役に及ばない者は、苑囿の番をさせた。王官の階級が九品に至れば、官爵をもって刑を免除することができた。婦人で刑に当たりながら妊娠している者は、出産後百日経ってから決行した。十四歳以下の者は、刑を半分に減じ、八十歳および九歳の者は、人を殺さない限り罪に問われなかった。拷問による取り調べは四十九回を超えてはならなかった。刑を論ずる際は、部署の主管が詳細な状況を文書にし、公車(官署)で供述を審理し、三都(廷尉・都官・御史)が判決を下した。死刑に当たる者は、部署が案文を作成して上奏し聞かせた。死は取り返しがつかないため、監察官が公平でないことを恐れ、裁判が成立したものはすべて提出し、帝が自ら臨んで尋問し、異議や怨言がなければ執行した。諸州・諸国の大辟は、すべて先に審議して報告し、それから施行した。宮門の左に登聞鼓を懸け、人が窮して冤罪があればその鼓を打ち、公車がその上表文を奏上した。この後、民官が賄賂に汚れたため、帝はこれを粛清する方法を考えた。太延三年(437年)、詔を下して天下の吏民に、牧守の不法を挙告することを許した。そこで凡庸で凶悪な輩は、専ら牧宰(地方長官)の過失を探し、在位者を脅迫し、里巷から豪勢を取った。そして長吏は皆、心を低くして彼らに対応し、苟くも免れようとして恥じず、貪暴な行為は依然として行われた。
時に帝の車駕はしばしば親征し、四方を行幸した。真君五年(444年)、恭宗(太子 拓跋 晃)に命じて百官を総覧させ、国政を監理させた。少傅の游雅が上疏して言った。「殿下は自ら百官を監察し、内外を経営され、夜明け前に起きて、国の長老に諮詢なさいます。臣は職分として疑義を承り、献替(良案を献じ、悪案を替える)を司っております。漢の武帝の時、初めて河右の四郡を開き、諸々の疑わしい罪人について議論して、彼らを流刑に処して移住させました。十数年後、辺境の郡は充実し、農耕と防衛を共に整えました。孝宣帝はこれに因って、北方を服従させました。これは近世の出来事でございます。帝王が罪人に対しては、怒って誅殺するのではなく、善に移らせて悪を懲らしめようとされるものです。流刑の苦しみは、その懲罰もまた深いものがあります。大逆の罪で正式に刑に処される者以外は、皆、流刑に従うことができ、たとえ一家を挙げて遠方に投じられても、喜んで道に赴き、終身にわたって労役に服し、敢えて苦しいと言いません。また遠方に流されて離散すれば、心に善を思うこともあるでしょう。このようにすれば、姦邪を止め、辺境の防備も十分になります。」恭宗はその言葉を良しとしたが、まだ実行には至らなかった。
六年(445年)の春、役人の法の裁断が公平でないことを理由に、詔を下して諸々の疑わしい獄訟はすべて 中書 に付し、古い経書の義に依って論決させた。当初の盗律では、贓物四十匹で大辟に至ったが、民が政令を軽んじることが多かったため、その法を厳しくし、贓物三匹でも皆、死刑とした。正平元年(451年)、詔して言った。「刑罰の網目が大いに密であり、犯す者がますます多い。朕はこれを甚だ哀れむ。詳しく律令を検討し、必ずその中正を求め、民に不便なものは増減せよ。」そこで游雅と中書侍郎の胡方回らが律制を改定した。盗律は旧に復し、故縦(故意に見逃す)・通情(内通)・止舍(宿泊を許す)の法および他の罪を加え、合わせて三百九十一条とした。門誅(一族誅殺)四、大辟一百四十五、刑二百二十一条。役人は条章を増減したが、まだ刑典を明らかにすることはできなかった。
高宗(文成帝)の初め、依然として旧式に従った。太安四年(458年)、初めて酒禁を設けた。この時は穀物が繰り返し豊作となり、士民は多く酒によって酔って争訟を起こし、あるいは政治を論じた。帝はこのような有様を嫌い、故に一切これを禁じ、醸造・販売・飲用はいずれも斬罪とし、吉凶の賓客や親族の際には禁を開き、日数を定めた。内外の候官を増設し、諸曹・外部・州鎮を伺い探らせ、微服して府寺の間に雑然と紛れ込み、百官の過失を求めることさえあった。その窮極的に取り調べる際、役人は苦しめて訊問し、多くは互いに誣告して逮捕し、すぐに不敬の罪で弾劾した。諸司の官で贓物二丈の者は皆、斬罪とした。また律七十九章を増やし、門房の誅(一族・一門の誅殺)十三、大辟三十五、刑六十二とした。和平(460-465年)の末、冀州 刺史 の源賀が上言した。「大逆の罪で手ずから人を殺した者以外は、その命を許し、辺境の守備に流罪としていただきたい。」詔してこれに従った。
顕祖(献文帝)が即位すると、口誤(過失による発言)の罪を除き、酒禁を解いた。帝は治績に勤勉で、内外の百官は、皆、震え肅然とした。高祖(孝文帝)に位を伝えた後も、なお自ら万機を監理し、刑政は厳明で、清節を顕かに抜擢し、貪鄙な者を淘汰した。牧守で廉潔な者は、しばしばその名が聞かれた。
延興四年(474年)、詔を下して、大逆で綱紀を犯す者以外は、すべてその身のみを止め、門房の誅を罷めた。獄訟を中書に付して覆審させて以来、しばしば法の上下(解釈の違い)があったため、遂にこれを罷め、獄訟に重大な疑義がある場合のみ、公平に議論させた。先に諸曹が奏事する際、多く疑義の請いがあり、また口伝で詔勅を伝えるため、時に矯り擅(偽り勝手に行う)に至った。そこで事の大小を問わず、すべて律に基づいて正しく名指しすることを命じ、疑義を奏上することを許さなかった。合致すれば制可し、中正を失えば弾劾して詰問し、すべて墨詔(皇帝直筆の詔)に従わせた。この時より事柄はすべて精緻詳細となり、下の者は敢えて互いに欺くことがなくなった。
顕祖の末年、特に刑罰を重んじ、言及する際は常に悲しみの情を帯びた。獄案について毎度、必ず覆審を命じ、囚人として繋がれている者の中には、あるいは数年も判決が下らない者がいた。群臣はしばしばこのことを言上した。帝は言った。「獄訟が滞ることは治体ではないが、倉卒に行って濫りに行うよりはまだましではないか。人は幽閉されて苦しめば善を思うものである。故に牢獄と福堂(幸福の場所)は同居するのである。朕は彼らが悔い改めることを望み、軽く許すことを加えようとしているのだ。」これによって囚人は繋がれたまま滞ることがあっても、刑罰は多くその所を得た。また赦令をしばしば下すと、狂愚の者が多く僥倖を望むため、延興年間から末年まで、赦を下すことはなかった。理官(裁判官)が囚人を審問する際、杖の限界は五十回であったが、役人が免れさせたい時は細い杖で、陥れたい時は先に大杖を用いた。民は多く耐えられずに誣告して自白し、あるいは杖の下で命を絶った。顕祖はこのような有様を知り、そこで制度を定めた。その杖は荊を用い、節を平らにし、囚人を訊問する者はその根本の太さ三分、背を打つ者は二分、脛を打つ者は一分とし、拷問はすべて令に依らせた。すべて軽簡な方に従わせた。
高祖(孝文帝)が天下を治め、刑法に心を留めた。故事では、斬罪の者は皆、裸形で質(斬首台)に伏し、死刑に入る者は絞首刑であったが、律にはあるものの、まだ実行されていなかった。太和元年(477年)、詔して言った。「刑法は暴を禁じ姦を止めるためのものであり、その命を絶つことは裸形にあるのではない。旧典を参酌し詳しく調べ、必ず寛仁に従え。」 司徒 の元丕らが奏上して言った。「聖心が仁恕の恵みを垂れ、戮される者が裸骸の恥を免れるようにしてくださいます。普天の下、徳を感じ、幸甚でない者はありません。臣らは謹んで議し、大逆及び賊は各々棄市(市場で斬首)し、袒(上半身裸)で斬り、盗及び吏で賄賂を受けた者は各々絞刑とし、甸師(刑場)に倒れ伏させます。」また詔して言った。「民は教化によって和むのであり、厳刑によって制するものではない。防ぐことが峻厳であっても陥る者はますます甚だしい。今、法を犯して死に至る者は、同じく斬刑に入り、衣を脱ぎ裸体となり、男女が猥りに見られる。これでどうして法をもって整え、礼をもって示すことができようか。今、詳細に制度を定めよ。」
三年(479年)、詔を下して言った。「治世は政が寛大であることによって成り、弊害は網目が密であることから生ずる。今、候職(偵察官)は千数に及び、姦巧に威を弄び、重罪で賄賂を受けた者は列挙せず、細かい過失を吹毛求疵して挙げる。これら一切を罷免せよ。」そこで更に謹直な者数百人を置き、街路での喧嘩闘争を防がせた。吏民はその職業に安んじた。
先に律令が完備していないため、姦吏が法を用いて、軽重を生じさせていた。詔を下して中書令の高閭に、中秘官らを集めて旧文を修改させ、例に従って増減させた。また群官に勅して、その中正を参議させ、帝の経覧により刊定させた。五年(481年)の冬に完了し、合わせて八百三十二章、門房の誅十六、大辟の罪二百三十五、刑三百七十七条とした。群をなして剽劫(強盗)し首謀した者の門誅を除き、律の重い者は梟首のみとした。
当時、法官および州郡県は情状を酌んで獄を裁くことができず、重い枷を用いた。その大きさはほぼ一囲(両手で抱える大きさ)に及び、さらに縋石を囚人の頸に懸け、内傷が骨に至るほどにした。さらに壮卒をして代わる代わるこれを殴打させた。囚人はおおかた耐えられず、これにより誣服した。吏はこれを以て能と為した。帝はこれを聞いて哀れみ、大逆の罪で明証がありながら服罪しない者以外は、大枷を用いてはならないと制した。
律には「枉法十匹、義贓二百匹は大辟」とある。八年に至り、初めて禄制を頒布し、改めて義贓一匹、枉法は多少を問わず皆死罪と定めた。この秋、使者を遣わして天下を巡行させ、不法な守宰を糾弾し、贓罪により死した者は四十余人に及んだ。禄を食む者は畏縮し、賄賂請託の道はほとんど絶えた。帝は諸々の獄事を哀れみ、奏讞に至っては、おおむね降恕に従い、命を全うして辺境に徙す者は、歳に千を数えた。京師で死罪を決する獄は、歳末でも五六を過ぎず、州鎮もまた簡略であった。
十一年春、詔して曰く「三千の罪、不孝より大なるは莫し。然るに律は父母に不遜なる罪を、髠刑に止む。理に於いて未だ衷ならず。更に詳しく改むべし」。また詔して曰く「先に公卿に命じて刑典を論定せしめしが、門房の誅(一族処罰)なお律策に在り。周書の父子異罪に違失す。古を推し情を求めれば、意甚だ取るべからず。更にこれを議し、繁酷を削除すべし」。秋八月、詔して曰く「律文は刑限三年にして、便ち極黙(重刑)に入る。坐するに太半の校(比較考量)無く、罪に死生の殊有り。詳しく律条を案じ、諸れ此の類有るは、更に一たび刊定すべし」。冬十月、再び公卿に詔して参議せしむ。
十二年、詔す「死罪を犯す者、若し父母・祖父母年老いて、更に成人の子孫無く、また期親(服喪一年の親族)も無き者は、仰せて案を経たる後、列奏して報を待て。令格に著せよ」。
世宗即位し、意は寛政に在り。正始元年冬、詔して曰く「獄を議し律を定むるは、国が慎む所なり。軽重損益、世によりて或いは同じからず。先朝は典憲に心を垂れ、令軌を刊革せしが、但だ時に征役に属し、これを詳究せず、時に施して用うるも、猶お疑舛を致す。 尚書 ・門下は中書外省に於いて律令を論ずべし。諸れ疑事有るは、新旧を斟酌し、更に思理を加え、上下を増減し、必ず周備ならしめ、随いて立つ所有れば、別に以て聞かしむべし。循変協時に庶幾し、永く通制と為さんことを」。
永平元年秋七月、詔して尚書に枷杖の大小、制に違える由を検せしめ、其の罪失を科す。 尚書令 高肇、尚書 僕射 清河王懌、尚書邢巒、尚書李平、尚書江陽王継等奏して曰く「臣等聞く、王者は天の物を継ぎ、民の父母と為り、之を導くに徳化を以てし、之を斉うるに刑法を以てす。小大必ず情を以てし、哀矜して喜ばず、務むる所は三訊五聴に在りて、木石を以て獄を定めず。伏して惟うに、陛下は蒼生を子愛し、恩は天地に侔しく、疏網(寛大な法網)を改め祝(刑罰)を改め、仁は商后(商湯)を過ぐ。枷杖の度に非ざるを以て、民命の或いは傷つくを愍み、爰に慈旨を降し、広く昭恤を垂れたまふ。虞の慎獄の深き有りと雖も、漢文の惻隠の至りと雖も、亦未だ共に日を同じくして言うべからず。謹みて獄官令を案ずるに、諸れ獄を察するには、先ず五聴の理を備え、情を求むるの意を尽くし、又諸の証信を験し、事多く疑似するも、猶お首実せざる者に、然る後に拷掠を加う。諸れ□年刑以上に犯す者は枷鎖し、流徙以上は、増して杻械を以てす。迭用して俱にせず。大逆・外叛の罪に非ざれば、皆大枷・高杻・重械せず、又石を用うるの文無し。然るに法官・州郡、因縁して増加し、遂に恒法と為す。進んでは五聴に乖き、退いては令文に違ふ。誠に宜しく案劾し、旨に依りて科処すべし。但だ踵行已久しく、計らく推坐せざるべし。杖の大小、鞭の長短を検するに、令に定式有り。但だ枷の軽重は、先ず成制無し。臣等参量し、大枷を造ること長さ一丈三尺、喉下長さ一丈、通頰木各々方五寸、以て大逆・外叛に擬す。杻械は流刑以上を掌るに以てす。諸の台・寺・州・郡の大枷は、請う悉くこれを焚かん。枷は本囚を掌るもので、拷訊に用うる所に非ず。今より断獄するは、皆令に依りて尽く聴訊の理を尽くし、人の強弱を量り、之に拷掠を加え、法に非ざる拷人を用いず、兼ねて拷石を用いざらんことを」。是より枷杖の制、頗る定準有り。未だ幾ばくもなく、獄官肆虐し、稍々復た重大に戻る。
法例律に「五等列爵及び官品令に在りて第五より従う者は、階を以て刑二歳に当つ。免官する者は、三載の後に仕えるを聴し、先の階一等を降す」とある。延昌二年春、尚書邢巒奏す「窃かに詳らかにするに、王公以下は、或いは宸極(天子)の体を析き、或いは時に勲を著わし、皆土を胙け民を授け、王室の維城と為る。五等の爵に至っては、亦功を以て錫す。爵秩異なる有りと雖も、号は河山に擬し、之を得ること至難にし、之を失えば永墜す。刑典既に同じく、名復殊絶す。宜しき所を議し、永制に附すべく請う」。詔して律の制を議し、八坐・門下と参論せしむ。皆以て為く「官人若し罪本除名し、職を以て刑に当て、猶余資有らば、復た階を降して叙す。五等封爵に至りては、刑を除くこと若し尽くせば、永く即ち甄削し、便ち之を除名に同じくす。例に於いて実に爽(違)ふ。愚謂うに、王公以下、封邑有る者、罪除名せられ、三年の後、宜しく各々本爵一等を降すべし。王及び郡公は県公に降し、公は侯に、侯は伯に、伯は子に、子は男に降す。県男に至りては、則ち郷男に降す。五等爵なる者も、亦此に依りて降し、散男に至る。其の郷男、降授すべき無き者は、三年の後、其の本品の資に依りて出身するを聴すべし」。詔して之に従う。
其の年秋、符璽郎中高□賢・弟の員外散騎侍郎仲賢・叔の 司徒 府主簿六珍等、弟の季賢が元愉の逆に同じたことに坐し、除名して民と為す。赦に会した後、旨を被りて論ぜず。尚書邢巒奏す「案ずるに、季賢は既に逆官を受け、其の為に檄を伝え、幽瀛を規扇し、茲の禍乱を遘へり。律に拠り犯を準ずれば、罪は孥戮に当たる。兄叔の法に坐するは、法に明典有り。頼み大宥に蒙り、身命全うし、除名して民に還る、其の為には幸いなり。然れども反逆は坐重く、故に支属相及ぶ。体既に相及ぶ、事同一科なり。豈に赦前は皆流斬の罪に従い、赦後独り反者の身を除くの理あらんや。又、縁坐の罪は、職を以て流を除くことを得ず。且つ貨賕の小愆、寇盗の微戾、贓状露験する者は、赦に会うも猶其の名を除く。何ぞ罪極めて冠を裂き、釁均しく冕を毀つ、父子刑を斉しくし、兄弟罰を共にし、赦前は斬に同じ流に従い、赦後に復官の理有らんや。律に依れば則ち罪は孥戮に合し、赦に準ずれば則ち例は皆除名す。古人、将いんとすの無き罪を議する者は、其の室を毀ち、其の宮を洿し、其の蹤を絶ち、其の類を滅す。其の宅猶お棄つるに、況んや人をや。請う律に依りて処し、除名して民と為さんことを」。詔して曰く「死者は既に赦前に在り、又員外は正侍の限に在らず。便ち悉く復仕を聴すべし」。
三年、尚書李平が上奏した。「冀州阜城の民費羊皮は母が亡くなり、家が貧しくて葬るに足らず、七歳の子を同城の張回に婢として売った。回はさらに鄃県の民梁定之に転売したが、良人の身分であることを告げなかった。案ずるに盗律には『人を掠め、人を掠め売り、人を和売して奴婢とする者は、死罪』とある。回は故意に羊皮の女を買い、転売を謀った。律に依って絞刑に処すべきである。」詔して曰く、「律に和売人と称するは、二人が詐りて他財を取ることを謂う。今羊皮が女を売り、回に告げて良人と称し、張回は賤価を利とし、良人であることを知り公然と買った。確かに律には共に背いているが、両者共に詐りではない。この女は父に売られて婢となったとはいえ、体は本来良人である。回が転売する日に、猶予すべきであったのに、決して真の売買に従った。情においては許し難い。さらに例を推して永式とすべきである。」
廷尉少卿楊鈞が議して曰く、「謹んで盗律を詳らかにするに『人を掠め、人を掠め売りして奴婢とする者は、皆死罪』、別条に『子孫を売る者は、一年の刑』とある。良人を売ることは同じであるが、刑が死罪と懸け離れているのは、情に縁って罰を制するためであり、罪に差が生じるのである。また詳らかにするに『群盗強盗は、首従皆同じ』、和掠の罪は、固より異なるべきではない。また『人の掠盗の物を知りながら故意に買う者は、随従として論ず』とある。然るに五服内の親族が互いに売ることは、皆明らかな条があり、買う者の罪は、律に記載されていない。窃かに考えるに、凡人の法に従うものと同様とし、その服縁によって相減ずる者は、差があるべきであり、買う者の罪は、売る者の咎を過ぎてはならない。但し羊皮が女を婢として売り、追贖を言わず、張回が真に買い、家財と同じと謂い、転売する日に至っては、再び疑慮しなかった。その女を女の父から買い、便ち他人に売ったことに縁り、和掠に準ずれば、これは因縁の類である。また恐喝条の注を詳らかにするに、『尊長がこれを与えて既に決し、幼賤を恐喝してこれを求む。』然るに恐喝の体は同じであるが、恐喝の罪を受けないのは、尊長がこれを与えて既に決した故である。而して張回は本来羊皮より婢を買い、乃ち真に定之に売った。この条例に準ずれば、先ず由緒ありと得る。因縁を推すに、理頗る相類す。即ち状を条に準え、流刑に処するを允当とす。」
三公郎中崔鴻が議して曰く、「律を案ずるに『子を売る者は一年の刑あり。五服内の親属を売り、尊長にある者は死罪、期親及び妾と子婦は流刑』とある。唯買う者に罪の文無し。然るに売る者既に罪有りとすれば、買う者は坐せざるを得ない。但し売る者は天性奪い難く、支属遺し易く、尊卑同じからず、故に罪に異有り。買う者は良人と知り故意に買い、又彼に親無し。若し買う者を売る者と同じくすれば、即ち理不可なり。何となれば、『五服内の親属を売り、尊長にある者は死罪』、これも掠めではなく、その真の買いに従い、罪に致すに及び、刑死大いに殊なる。明らかに買う者の坐は、自ら一例あるべきであり、全く鈞の議の如く、買う者の罪は売る者の咎を過ぎずと云うことはできない。且つ買う者は彼に天性支属の義無く、何の故に差等の理有らんや。又別条を案ずるに、『人の掠盗の物を知りながら故意に買う者は、随従として論ず』とある。この律文に依れば、人の良人を掠めるを知り、その宜しき買いに従えば、罪は流刑に止まる。然るにその親属相売は、坐凡掠めに殊なる。買う者に至っては、亦宜しく等しからず。若し同じく流刑に坐するに処すれば、法に於いて深し。律に準じて斟酌降せば、五歳の刑に合う。買う者に至っては、良人と知り、決して便ち真に売り、前人に得たる由緒を語らず。前人真の奴婢と謂い、更に或いは転売し、此に因り流漂し、所在を知らず、家人追贖し、求訪する処無く、永く賤隷に沈み、再び良期無し。その罪状を案ずれば、掠めと異ならず。且つ法厳にして姦易く息み、政寛にして民多く犯す、水火の喩えは、先典明文なり。今謂う、人の親属を買い而して復た決して売り、前人に良状の由緒を告げず、掠罪に同じく処すと。」
太保 ・高陽王雍が議して曰く、「州が張回を処断するに、専ら盗律を引き、回の犯したる所を検すれば、本来和掠ではなく、保証明らかであり、盗より遠し。今盗律の条を引き、和掠の罪に処するは、情を原り律を究めれば、実に乖当なり。臣鈞の議の如く、掠めた良人を買うことを知る者は、本来罪の文無し。何を以てか之を言う。『群盗強盗は、首従無く皆同じ』、和掠の罪は、故に異なるべきではない。此れ自ら正条無きを明らかにし、類を引いて罪を結ぶ。臣鴻は転売流漂を以て、罪掠めに等しとし、『罪人斯に得たり』と謂う可し。賊律を案ずるに云く、『人を謀殺して発覚する者は流刑、従者は五歳の刑。已に傷つけ及び殺して還り蘇る者は死罪、従者は流刑。已に殺した者は斬刑、従いて功を加うる者は死罪、加えざる者は流刑。』詳らかにするに、賤に沈むことと身死すること、流漂することと腐骨すること、一は存し一は亡し、害孰れか甚だし。然るに賊律殺人は、首従の科有り、盗人売買は、唱和の差等無し。謀殺と和掠は、同じく良人なり、例に準ずべきなり。何を以てか殺人の減ずるを引かず、強盗の一科に降す。仮令謀殺と強盗と、俱に例と為すを得たりとせよ、而して軽きに似たり。その義安んぞ在る。又云く、『人の掠盗の物を知りながら故意に買う者は、随従として論ず。』これは暴掠の原を禁じ、姦盗の本を遏むるを明らかにするものであり、親尊の手に於いて市うことを謂うにあらず、而して盗掠の刑に同じくするにあらず。窃かに謂う、五服相売は、俱に良人なり、差等の罪を容るる所以は、掠盗の理より遠きを明らかにするが故に、親疏を以て差級と為し、尊卑を以て軽重と為す。律に依れば、『諸れ共に犯罪するは、皆発意を以て首と為す。』売買の元由有るを明らかにし、魁末の坐宜しく定むべきなり。若し羊皮売ると云わざれば、則ち回買う心無く、則ち羊皮を元首と為し、張回を従坐と為す。首には刑に沾る科有り、従には極黙の戾有り、憲律を推すも、法刑据る所無し。買う者の罪は、宜しく各々売る者の坐に従うべし。又臣鴻の議を詳らかにするに、他親属より良人を買い得て、而して復た真に売り、後人に由状を語らざる者は、掠罪に同じく処すと有り。既に一たび婢と為れば、売ると売らざると、俱に良人に非ず。何を以て必ず売らざるを以て原る可しとし、転売を以て恕し難しと為すや。張回の愆は、宜しく鞭一百すべし。子を売り親を葬るは、孝誠美しむ可く、而して表賞の議未だ聞かず、刑罰の科已に降る。恐らくは風を敦め俗を厲し、徳を以て民を導くの謂いに非ざるか。請う、羊皮の罪を免じ、公に売直を酬うべし。」詔して曰く、「羊皮女を売り母を葬るは、孝誠嘉す可く、便ち特らに原るべし。張回は父より之を買いしとはいえ、転売すべきに応ぜず、五歳の刑に処すべし。」
先に、皇族に譴有る者は、皆持訊せず。時に宗士元顕富有り、犯罪し須らく鞫うべく、宗正旧制を以て約す。尚書李平上奏して曰く、「帝宗磐固として、天下に周布し、その属籍疏遠、蔭官卑末、良からずして憲を犯すは、理須らく推究すべし。限断を立て、以て定式と為すことを請う。」詔して曰く、「雲来綿遠、繁衍世に滋し、籍を宗氏に植え、而して善からざるを為すは、量亦多し。先朝既に不訊の格無く、而して空しく相矯恃し、以て違暴を長ず。諸れ議請の外に在る者は、悉く常法に依うべし。」
その年の六月、兼廷尉卿の元志、監の王靖らが上言して言うには、「除名の例を検討するに、律文に依れば、『獄成』とは罪を処する案が成った者を謂う。寺(廷尉寺)は犯罪が直接弾劾された後、再び検察し審問して証拠を定め刑を定め、罪状が明らかになり、案に署名して区別が明らかで、獄の理が成ったとする。もし案が成ったとしても、既に省(尚書省)に申し上げた後、事が廷尉に下り、あるいは寺が情状が未だ尽きていないとし、あるいは駕に邀えて鼓を撾ち、あるいは門下省が疑いを立て、更に別の使者に付す場合は、未成の条に従うべきである。その家人が陳訴し、その一方的な言い分を信じて成った断罪を阻むのは、まさに私情を曲げて遂げ、公の体に背くものである。何となれば、五詐が既に窮まり、六備が既に立てられた後、僥倖の輩が更に異端を起こし、進んでは漏刻の間に罪の延長を求め、退いては測り知れぬ恩赦を希い、弁舌をもって正を惑わし、曲をもって直を乱し、下において民の奸を長じ、上において国法を堕すことになる。窃かに安んぜられない。」
大理正の崔纂、評の楊機、丞の甲休、律博士の劉安元はこれについて、「律文には、獄が既に成り及び決竟し、経由した所の官が綰ねた後、疑いがあり奸欺があり、法に直さず、及び冤枉を訴える者がある場合、取り調べて訊問し覆治することができるとある。検察して罪を処する者が、既に案が成ったとしても、御史が風聞により弾劾し、痛めつけて誣伏させた場合、あるいは拷問しても承引せず、証拠に依って科断した場合、あるいは私嫌があり、強いて罪に逼った場合、家人が枉りを訴え、供述と案文が相背く場合である。刑憲は軽からず、理として訊問審理を須いる。既に公正を為すのであれば、私情を疑うべきではない。もし測り知れぬ恩沢を窺い、訟の端を抑え絶とうとすれば、枉み滞る者たちは、終に申し理めることがない。もしその案成に従えば、覆治の律に背くことになる。然しながら未だ判決せず赦を経て、及び覆治の理状が、真偽未だ分からざるものは、承前以来、このような例は皆復職を得ている。愚かには、奏を経て赦に遇い、及び既に覆治したものは、獄成と為すを得ると謂う。」
尚書の李韶が奏上して言うには、「使者が結案したとしても、処断を廷尉に上し、解送して省に至り、及び家人が枉りを訴え、尚書がその言を受け入れ、連ねて解送して下って審理し、未だ検察せずに赦に遇った者は、案成の獄と為すを得ない。情理を推すに、崔纂らの議を允当と謂う。」詔してこれに従う。
熙平年中、冀州の妖賊延陵王買がおり、罪を負って逃亡し、赦書の断限の後、自ら帰首しなかった。廷尉卿の裴延儁が上言して言うには、「法例律に、『諸の逃亡する者、赦書の断限の後、自ら帰首せざる者は、復た罪を初めの如くす』とある。賊律に依れば、謀反大逆は、王買を梟首に処す。その延陵法㩲らが謂う所の月光童子劉景暉なる者は、妖言をもって衆を惑わし、事は赦後に在り、亦た死坐に合う。」
神龜年間、蘭陵公主の駙馬都尉劉輝は、河陰県の民張智壽の妹容妃および陳慶和の妹慧猛と姦通し、耽溺して惑乱し、公主を殴打して胎児を傷つけた罪に坐せられた。劉輝は罪を恐れて逃亡した。門下省が処断を上奏して言うには、「各々死刑に処し、智寿・慶和はともに情を知りながら防限を加えなかったので、流刑に処すべきである」と。詔して曰く、「容妃・慧猛は死を赦し、髠鞭の刑を加えて宮に付す。その他は上奏の通りとする」と。尚書三公郎中崔纂が執り行って言うには、「伏して見るに、旨を以て劉輝を捕らえた者を募り、職人は二階を賞し、白民は出身を聴して一階を進め、厮役は役を免じ、奴婢は良民とする。案ずるに、劉輝に叛逆の罪はなく、賞は反人劉宣明の格と同じである。また門下省の処断上奏を尋ねると、『容妃・慧猛が劉輝と私通し、両情耽溺して惑乱し、劉輝に忿怒を抱かせ、公主を殴打して胎児を傷つけた。律に正条はないが、罪は極刑に合い、ともに死刑に処す。智寿ら二家は敦煌に配流して兵士とする』と。天慈広く被わるも、直ちに決断に依らず、その命は赦すが、窃かに未だ可ならずと謂う。律令は、高皇帝が以て天下を治むる所以にして、喜怒によって増減せず、親疏によって改易せざるものである。鬬律を案ずるに、『祖父母・父母が忿怒し、兵刃を以て子孫を殺す者は五歳刑、殴打して殺す者は四歳刑、もし心に愛憎ありて故意に殺す者は、各々一等を加える』と。王姫が降嫁するといえども、貴さは常の妻と殊なるも、人婦の孕むは、子に非ざるを得ず。また永平四年の先朝の旧格に依れば、『諸々の刑流および死罪は、皆首罪を判定し、後に従者を決する』と。事は必ず本を因りて支を求め、獄はもし劉輝の逃避を以てすべきならば、便ち懸けて処すべきであり、その首罪を捨ててその末の愆を成すはない。流刑と死刑に参差あり、時に未だ允ならざるか。門下中禁の大臣は、職は敷奏に在り。昔、邴吉が相たりしとき、鬬斃を存せずして、牛の喘ぐを問うたのは、豈に司別の故に非ずや。案ずるに、容妃らの罪は姦私に止まる。もし穢席にてこれを擒らえ、衆証分明ならば、即ち律に科して処し、刑坐を越えざるべし。何ぞ宮掖の罪と同じくし、奚官の役に斉しくせん。智寿の口訴を案ずるに、妹は司士曹参軍羅顕貴に適し、既にその夫に二女を生めり、則ち他家の母である。礼に云う、婦人は二夫せず、猶お二天せずと曰う。もし私門に度を失えば、罪は夫に在り、釁は兄弟に非ず。昔、魏晋は五族の刑を除かず、子を免して母を戮する坐あり。何曾がこれを諍いて謂う、『室に在る女は、父母の刑に従い、既に醮したる婦は、夫家の刑に従う』と。これ乃ち不刊の令軌、古今の通議である。律に『期親相隠』とは凡そ罪を謂う。況んや姦私の醜は、豈に同気を以て相証せんや。刑を論ずるにその犯す所を過ぎ、情を語るにまた律憲に乖く。律を案ずるに、姦罪に相縁の坐はない。劉輝の忿を借りて、兄弟の刑を加うべからず。夫れ人を市に刑するは、衆とこれを棄つるなり、人に爵を朝に与うるは、衆とこれを共にするなり、天下に私せず、耳目を欺かざるを明らかにす。何ぞ正しからざる刑書を以て、四海に施行せん。刑名一たび失えば、駟馬も追わず。既に詔旨あり、依って即ち行下すも、律に非ざる案は、理宜しく更に請うべし」と。
尚書元脩義は以て為すに、「昔、哀姜が魯に於いて礼に悖り、斉侯これを取って殺したことは、春秋に譏られる。また夏姫が陳国に於いて罪濫れども、ただ徴舒を責めて、父母を非とせず。婦人は外に成ることを明らかにし、礼を犯す愆は、本属に関せざるなり。況んや出適したる妹において、釁が兄弟に及ぶことあらんや」と。右僕射游肇が奏言して曰く、「臣ら謬って枢轄に参じ、献替を司どる。門下は出納を掌り、常則を謨明す。無良の法を犯すに至っては、職は有司に存し、罪を劾して案を結ぶは、本よりその事に非ず。容妃らの姦状は、罪は刑に止まり、ともに極法に処するは、律に準じて未だ当たらず。出適したる女の坐がその兄に及ぶは、典憲を推拠すれば、理実に猛し。また劉輝は刑を逃るるも、罪は孥戮に非ず、大逆と同じく募るは、また加重と謂うべし。律に乖く案は、理宜しく陳請すべし。乞うらくは有司に付し、重ねて詳議せしめん」と。詔して曰く、「劉輝は法に悖り理を乱し、罪は縦すべからず。厚賞を懸けて募れば、必ずや擒獲を望まん。容妃・慧猛は劉輝と私乱し、これにより耽惑し、主をして非常を致さしむ。これを誅せずして、何を以てか懲肅せん。且つ既に醮したる女は、応に坐して昆弟に及ぶべからず。但だ智寿・慶和は妹の姦情を知り、初め防禦せず、劉輝を招き引き、共に淫醜を成し、風を敗り化を穢す。理その罰を深くす。特に関下に獄を結ばしめ、恒司に拘わらず。豈に一同常例を以て、通準と為さんや。且つ古に詔獄あり、寧ぞ復た一たび大理に帰せん。而して尚書は治の本、納言の所属なり。悖理の浅深を究めず、損化の多少を詳らかにせず、彼の義途に違い、苟くも執憲を存し、任寄に殊に乖き、深く罪責に合う。崔纂は郎を免ずべく、都坐尚書は悉く禄を一時に奪うべし」と。
孝昌以後、天下淆乱し、法令恒ならず、或いは寛か或いは猛なり。尒朱栄が権を擅にするに及び、軽重意のままにし、官にある者は、多く深酷を以て能と為す。 鄴 に遷都するに至り、京畿に群盗頗る起こる。有司が厳制を立てるを奏す。諸々の強盗人を殺す者は、首従皆斬り、妻子同籍は楽戸に配す。その人を殺さず、及び贓満五匹に満たざるは、魁首斬り、従者は死し、妻子もまた楽戸と為す。小盗贓十匹以上に満つるは、魁首死し、妻子は駅に配し、従者は流す。 侍中 孫騰上言して曰く、「謹んで詳らかにす。法は画一なるを若くし、理は尚お二ならず。喜怒情に由りて軽重を致すべからず。律を案ずるに、公私劫盗の罪は流刑に止まる。而るに比来執事苦く違い、穿鑿を好み、律令の外に、更に余条を立て、糾う路を通じ、捉獲の賞を班つ。これ乃ち刑書徒らに設けられ、獄訟更に煩わしく、法令滋しく彰れば、盗賊多く有り。所謂厳にせずして治め、典故を遵守する者に非ず。臣以為うらくは、升平の美は、義は刑を省くに在り。陵遅の弊は、必ず峻法に由る。是を以て漢は三章を約し、天下徳に帰し、秦は五刑を酷くし、率土瓦解す。礼は君子を訓え、律は小人を禁ず。罪を挙げ名を定むるは、国に常辟有り。『眚災肆赦し、怙終賊刑す』に至りては、經典言を垂れ、国朝範を成す。時に随い用うるは、各々司存有り。巨細に滋しく煩わすべからず、民をして 豫 備せしむる令は、恐らくはこれを防ぐに弥く堅く、これを攻むるに弥く甚だしからん。請うらくは諸々の盗を犯す人の、悉く律令に準じ、以て恒憲を明らかにせん。庶幾くは刑殺折衷し、本を棄てて末に従わざらん」と。詔してこれに従う。
天平以後、遷都草創し、百司多く法を奉ぜず、貨賄公行す。興和初め、斉文襄王朝政を輔入し、公平を以て物を粛し、大いにその風を改む。武定中に至り、法令厳明にして、四海治まるを知る。
校勘記