巻110

国を治め家を保つ者は、穀物と財貨を根本としない者はない。ゆえに洪範八政においては、食を第一とし、易経には「人を聚むるを財と曰う」とあり、周礼では九職をもって万民を任じ、九賦をもって財賄を徴収する。このため、古の哲王はみな民時に敬い授け、農を務め穀を重んじ、自ら千畝に臨み、九州に貢賦を課した。また、一人の男が耕さず、一人の女が織らなければ、ある者は飢え寒さを受けることになる。飢寒が身に迫れば、その赤子を保つことができず、窃盗を働いて法を犯し、ついには身を滅ぼすに至る。その跡を尋ねれば、王政の陥るところである。百畝の内において、その時を奪わず、その田畑を易え、その税斂を薄くすれば、民を富ませることができる。飽き足りて富めば、仁義礼節が生じる。いわゆる衣食足りて栄辱を知るというものである。晋末、天下大乱し、生民の道は尽き、あるいは干戈に死に、あるいは飢饉に斃れ、幸いに自ら存する者はおよそ十の五であった。

太祖が 中原 ちゅうげん を平定した時、喪乱の弊を受け継ぎ、兵革が並び起こり、民は農業を廃していた。時事は殷盛であったが、経略の先として、食を根本とし、東平公の 拓跋 たくばつ 儀に河北を開墾させ、五原から棝陽塞外に至るまで屯田とした。初め、登国六年に衛辰を破り、その珍宝・畜産を収め、名馬三十余万、牛羊四百余万を得て、次第に国用を増した。中山を平定した後、吏民及び徒何種人・工伎巧十万余家を分けて移住させ、京都を充実させ、それぞれ耕牛を与え、口数に応じて田を授けた。天興初年、京邑を制定し、東は 代郡 だいぐん から、西は善無に及び、南は陰館を極め、北は参合に尽きるまでを畿内の田とし、その外の四方四維に八部帥を置いて監察させ、農耕を勧め課し、収入を量り校えて、殿最の評価とした。また、自ら籍田を耕して百姓に率先した。その後、連年大いに熟し、一匹(絹)が八十余斛となった。この時、戎車は止まず、頻繁に豊年があっても、なお長く うには足りなかった。

太宗の永興年間、頻繁に水旱の災害があり、詔して宮人のうち御すべきでない者及び執作伎巧でない者を選び出し、残りは鰥民に賜うた。神瑞二年、また不作となり、京畿の内では、路上に飢えた者がいた。帝は飢えのため都を ぎょう に遷そうとしたが、博士崔浩の計を用いて止めた。そこで特に貧しい者を選び出し、山東に就食させた。有司に命じて留農者を勧課する詔を下し、「前志にあるように、人生は勤に在り、勤めれば匱うることなし。凡そ庶民で畜えない者は祭祀に牲なく、耕さない者は祭祀に盛なく、植えない者は死に槨なく、蚕を飼わない者は衣に帛なく、績がない者は喪に衰なし。三農の教えを行い、九穀を生殖せしめ、園囿の教えを行い、草木を育成せしめ、虞衡の教えを行い、山沢に材を作らせ、藪牧の教えを行い、鳥獣を養い蕃息せしめ、百工の教えを行い、器用を飾り成さしめ、商賈の教えを行い、貨賄を阜通せしめ、嬪婦の教えを行い、絲枲を化治せしめ、臣妾の教えを行い、力役に事を勤しませよ」と述べた。これより民は皆力を勤めるようになり、したがって数年豊穣となり、畜牧も増え息んだ。

泰常六年、詔して六部の民で羊が百口に満ちる者は、戎馬一匹を調(税)として納めさせた。

世祖が即位すると、四海を開拓し、五方の民はそれぞれその性があるため、その教えを修めてその俗を改めず、その政を斉しくしてその宜しきを易えず、その方貢を納めて倉廩を充たし、その貨物を収めて庫蔵を実にし、また歳時に俎用に登る鳥獣を取って膳府を満たした。

以前は、禁網が疏闊で、民多く逃げ隠れていた。天興年間、詔して諸々の漏戸を採り、綸綿を輸納させた。その後、諸逃戸が細繭羅縠の業を占める者が甚だ多かった。そこで雑営戸帥が天下に遍在し、守宰に隷属せず、賦役が行き届かず、戸口が 乱した。始光三年、詔して一切これを罷め、郡県に属させた。

神䴥二年、帝自ら六軍を御し、広漠の地を攻略した。諸将に命を分け、 蠕蠕 じゅんじゅん を窮追し、東は澣海に至り、西は張掖に接し、北は燕然山を渡って大破し、その種落及び馬牛雑畜方物を万単位で捕虜とした。その後また成周公の万度帰を遣わして西の焉耆を伐たせた。その王の鳩尸卑那は単騎で亀茲に奔り、挙国臣民は銭を負い貨を懐いて一時に降伏し、その奇宝異玩を巨万で獲り、駱駝・馬・雑畜は数え切れなかった。度帰は遂に亀茲に入り、さらにその殊方の瓌詭なる物を億万以上獲た。この時、辺境は未だ平定されず、帝はしばしば自ら戎駕に臨んだが、政を恭宗に委ねた。真君年間、恭宗は農職の教えを修めることを下令し、事は帝紀にある。この後数年の中、軍国の用は足りた。

高宗の時、牧守の官は、かなり貨利を求めた。太安初年、使者二十余輩を遣わして天下を巡行させ、風俗を観察し、民の疾苦を見させた。詔して使者に諸州郡の墾殖田畝・飲食衣服・閭里の虚実・盗賊劫掠・貧富強劣を察させて罰せしめ、これより牧守は前の弊をかなり改め、民は安んじて業に就いた。

太祖が中原を平定して以来、世祖が方難を平定し、珍宝を収穫して、府蔵は盈積していた。和平二年秋、詔して中尚方に黄金の合盤十二具を作らせ、径二尺二寸、白銀で鏤め、玫瑰で鈿し、その銘に「九州貢を致し、殊域賓を来す、乃ち茲の器を作り、錯て珍を用う。紫金にて鍜え、白銀にて鏤め、範囲は載に そな し、燿を吐き真を含む。纖文麗質、化の若く神の若し、皇王之を御す、百福惟れ新たなり」と記した。その年冬、詔して内庫の綾綿布帛二十万匹を出し、内外の百官に分曹して賭射させた。四年春、詔して京師の民で年七十以上の者に太官の厨食を終身賜うた。

顕祖が即位すると、自ら倹素を行い、公卿に率先し、黎庶を賑い益する方策を考えた。天安・皇興の間、年々頻繁に大旱があり、絹一匹が千銭となった。劉彧の淮北の青・冀・徐・兗・司の五州が乱を告げ降伏を請うたので、将を命じ衆を率いてこれを援けさせた。その境に臨むと、青・冀は二心を懐き、進軍してこれを囲み、数年にしてようやく抜いた。山東の民は皆征戍と転運に勤しんだので、帝は深くこれを念とした。そこで民の貧富に因って、租輸の三等九品の制を定めた。千里内は粟を納め、千里外は米を納める。上三品の戸は京師に入れ、中三品は他州の要倉に入れ、下三品は本州に入れる。

以前、太安年間に、高宗は常賦の外の雑調十五が頗る煩重であるとして、これを除こうとした。 尚書 しょうしょ の毛法仁が「これは軍国の資用です。今頓にこれを罷めますのは、臣愚かながら不可と存じます」と言うと、帝は「地利を窮めず、民力を竭きず、百姓に余りあらしめれば、吾れ孰と不足ならんや」と言って遂に免じた。間もなく、以前のように復調したが、この時に至ってようやく終に罷めた。ここにおいて賦斂は稍々軽くなり、民は再び贍うようになった。

旧制では、民間の織る絹・布は、皆幅広二尺二寸、長さ四十尺を一匹とし、六十尺を一端とし、服用に任せた。後には漸次濫悪に至り、尺度に依らなくなった。高祖の延興三年秋七月、更に厳しい制を立て、一に前式に準ずることを令し、違う者は罪各有差とし、有司が検査しなければ同罪とした。

太和八年(484年)、初めて古制に準じて百官に俸禄を班給し、品第によってそれぞれ差等を設けた。これ以前は、天下の戸は九品混通の制により、戸ごとに調として帛二匹・絮二斤・絲一斤・粟二十石を納め、さらに帛一匹二丈を州の庫に納め、調外の費用に充てていた。この時より、戸ごとに帛三匹、粟二石九斗を増やし、官司の俸禄とした。後に調外の帛を二匹に満たすまで増額した。調として納めるものは、それぞれその土地の産物による。司・冀・雍・華・定・ ・泰・洛・ ・懷・兗・陝・徐・青・齊・濟・南 ・東兗・東徐の十九州は、綿絹および絲を貢納する。幽・平・ へい ほしいまま ・岐・涇・荊・涼・梁・汾・秦・安・營・豳・夏・光・郢・東秦の諸州、司州の萬年・雁門・上谷・靈丘・廣寧・平涼の各郡、懷州邵上郡の長平・白水の両県、青州北海郡の膠東県・平昌郡の東武平昌県・高密郡の昌安高密夷安黔陬の各県、泰州河東の蒲坂・汾陰の両県、東徐州東莞郡の莒・諸・東莞の各県、雍州 馮翊郡 ひょうよくぐん の蓮芍県・咸陽郡の寧夷県・北地郡の三原雲陽銅官宜君の各県、華州華山郡の夏陽県、徐州北濟陰郡の離狐豊県・東海郡の贛榆襄賁の各県は、いずれも麻布をもって租税に充てた。

九年(485年)、天下の民に田を均しく給する詔を下した。

魏の初めは三長の制を立てず、したがって民は多く蔭附していた。蔭附する者は皆、官の役務がなく、豪強が徴収するのは公賦の倍であった。十年(486年)、給事中李沖が上言した。「古制に準じるべきである。五家で一隣長を立て、五隣で一里長を立て、五里で一黨長を立て、長には郷人の強壮で謹直な者を選ぶ。隣長は一夫(の賦役)を免除し、里長は二夫、黨長は三夫を免除する。免除されるのは征戍(兵役)であり、その他は民と同じである。三年過失がなければ昇進させ、一等を進める。民の調は、一夫一婦につき帛一匹、粟二石とする。十五歳以上で未娶の民は、四人で一夫一婦の調を出す。耕作に従事する奴、紡績に従事する婢は、八口で未娶者四人分に相当する。耕牛二十頭で奴婢八口分に相当する。麻布の郷では、一夫一婦につき布一匹とし、牛に至るまでこれに応じて減ずる。おおよそ十匹を公調とし、二匹を調外費とし、三匹を内外百官の俸禄とし、これ以外を雑調とする。八十歳以上の民は、一子を役務に従わせないことを聴許する。孤獨・癃老・篤疾・貧窮で自活できない者は、三長の管内で交替で養い食わせる。」

上書が奏上されると、諸官が通議し、善しとする者が多かった。高祖(孝文帝)はこれに従い、ここに使者を遣わしてその事を行わせた。そして詔して言った。「土地に任じて貢を くのは、有無を通じさせるためである。井乗(井田と軍賦)によって賦を定めるのは、労逸を均しくするためである。有無が通じれば民財は乏しくならず、労逸が均しければ人はその業を楽しむ。これは古来の常道である。また隣里郷黨の制は、由来が久しい。風教を行き渡らせやすくし、家ごとに日に見て、大をもって小を督め、近くから及んで遠くに至り、身が手を使うがごとく、幹が枝條を総べるようにし、その後で口算(人頭税)を平均にし、義が興り訟が止むようにするためである。それゆえ三典(夏・殷・周の法典)は同じく、世の盛衰に随い、貳監(周の二つの監察制度)の行いは、時に従って損益した。故に鄭の子産(僑)は丘賦の術を復し、鄒の人は盍徹の規を献じた。軽重は同じではないが、当時にはともに適していた。昔より以来、諸州の戸口は、籍貫が実態に合わず、隠漏を包蔵し、公を廃し私を あざむ く。富強な者は併兼して余裕があり、貧弱な者は糊口すら足りない。賦税は同等で、軽重の違いがなく、力役は同じく課され、衆寡の区別がない。九品の格を建てても、肥沃と瘠薄の土地の違いは融和されず、均輸の楷を立てても、養蚕紡績の郷に差異がない。これにより淳化が樹立されず、民情は苟且で薄くなる。朕はこれを思うごとに、まことに深く慨く。今、旧を革めて新に従い、里黨の法を為す。在所の牧守は、民に諭して、煩わしさを去り簡易に就く要を知らせるべきである。」初め、百姓は皆、常に従うに如かずと思い、豪富で併兼する者は特に願わなかった。事が施行された後、計算すると昔より十余倍も省力できた。ここに海内はこれに安んじた。

十一年(487年)、大旱があり、京都の民は飢えた。牛疫が加わり、公私ともに欠乏し、時に馬・驢および橐駝を用いて駕輓・耕載に供することがあった。詔して民が豊かな地に就くことを聴許した。行く者は十のうち五六に及び、道路では糧食を給し、到着した地では三長が贍養した。使者を遣わして時々省察させた。留まって業を行う者は、皆、主司に審覈させ、倉を開いて賑貸した。特に自活できない者がある場合は、ことごとく検め集め、街路で粥を施し、その困窮を救った。しかし主管の者が明らかに牧察せず、郊甸の間に餓死者が甚だ多かった。時に承平の日が久しく、府蔵は盈積していた。詔して御府の衣服珍宝・太官の雑器・太僕の乗具・内庫の弓矢刀鉾の十分の八、外府の衣物繒布絲纊など国用に供するものすべてを出し、その大半を班齎して百司に下し、工商・皂隸に至り、六鎮の辺戍、畿内の鰥寡孤獨貧癃の者に及ぶまで、それぞれ差等をつけた。

十二年(488年)、詔して群臣に安民の術を求めた。有司が上言した。「州郡の常調の九分の二を分け、京都の度支の歳用の余剰を、それぞれ官司を立て、豊年には倉に糴貯し、凶年には私の分を一割加えて、民に糶すことを請う。このようにすれば、民は必ず力田して絹を買い、財を積んで粟を取ろうとするであろう。官は、豊年には常に積み、凶年には直ちに給する。また別に農官を立て、州郡の戸の十分の一を取って屯民とする。水陸の宜しきを て、頃畝の数を定め、贓贖雑物で牛を市い、科して給し、その力を ほしいまま にさせる。一夫の田は、歳ごとに六十斛を責め、正課および征戍雑役を甄別(選別・免除)する。この二事を行えば、数年の中に穀物が積み民が足るようになるであろう。」帝はこれを覧て善しとし、まもなく施行した。これより公私ともに豊かに り、時に水旱があっても災いとならなかった。

世祖(太武帝)が統万を平定し、秦隴を定めた時、河西は水草が良かったので、ここを牧地とした。畜産は繁殖し、馬は二百余万匹に至り、橐駝はその半ばほど、牛羊は数えきれなかった。高祖(孝文帝)が即位した後、また河陽を牧場とし、常に戎馬十万匹を置き、京師の軍警の備えに そな えた。毎年、河西から 并州 へいしゅう に牧を移し、次第に南に転じ、水土に慣れさせて死傷がないようにしたが、河西の牧はますます繁殖した。正光(520-525年)以後、天下が喪乱すると、ついに群寇によって盗掠された。

世宗(宣武帝)の延昌三年(514年)春、有司が奏上して言うには、 長安 ちょうあん の驪山に銀鑛があり、二石で銀七両を得た。その年秋、恒州がまた上言して、白登山に銀鑛があり、八石で銀七両、錫三百余斤を得、その色は潔白で、上品を超えているという。詔してともに銀官を置き、常に採鑄させた。また漢中には旧来、金戸千余家あり、常に漢水の砂で金を淘り、年末に総べて輸納していた。後に臨淮王元彧が梁州 刺史 しし となった時、これを廃することを奏上した。鉄を鑄て農器・兵刃とするのは、所在にあったが、相州の牽口冶が精巧であったので、常に鍛鍊して刀とし、武庫に送った。

魏の徳が既に広まって以来、西域・東夷がその珍物を貢ぎ、王府に充満した。また南垂に互市を立て、南貨を招致したので、羽毛歯革の類は遠くまで至らない所はなかった。神龜(518-520年)・正光(520-525年)の際には、府蔵は盈溢した。霊太后はかつて公卿以下に力を任せて物を負って取らせ、またしばしば禁内の左右に賜り、費やすところは資財を計り知れなかったが、百姓に一度も施すことはできなかった。

徐揚の地が内附して以来、代々江淮を経略し、中州の物資を転運して辺鎮を充実させたが、百姓は道路に疲弊した。そこで番戍の兵に命じて屯田を営ませ、また内郡の兵糧資材を収め民と和糴し、辺境の備えとして蓄積した。有司はまた水運の途中に随時倉を置くことを請い、小平・石門・白馬津・漳涯・黒水・済州・陳郡・大梁の八箇所に邸閣を立て、軍国に必要な時は機に応じて漕運で輸送した。これにより費用と労役はわずかに軽減された。

三門都將の薛欽が上言した。「京西の水次にある汾・華の二州と、恒農・河北・河東・正平・平陽の五郡は、毎年常例の綿絹と資麻をすべて公物に折り替え、車牛を雇って都に送っている。道は険しく人々は疲弊し、公費を浪費し私財を損なう。大略を計算すると、華州では車一台につき、官が酬いる絹は八匹三丈九尺、別に私民の雇価として布六十匹を要する。河東では車一台につき、官が酬いる絹は五匹二丈、別に私民の雇価として布五十匹を要する。その他の州郡は、まだ詳しくは分からないが、遠近によって推し量れば、これより少なくはあるまい。今、車一台の雇絹三匹分をもって材木を買い船を造れば、採伐の労は要しない。船一艘は十三台分の車に相当し、車一台当たり三匹を取れば、合わせて三十九匹となる。作手と工匠および船上の雑具・食費を雇う費用で、十分に船を完成させられる。計算すると、船一艘あたり絹七十八匹、布七百八十匹の余剰が生じる。また租車一台の官定積載量は四十斛であるが、私民の雇価は、遠い場合は五斗で布一匹、近い場合は一石で布一匹である。その私費を基準とすれば、車一台あたり布は遠くて八十匹、近くて四十匹となる。船一艘を造れば、七百石を運搬でき、その雇価を基準とすれば、布一千四百匹に相当する。今、布三百匹をもって船一艘を造り、船上の覆いや雑事の費用も含めると、船一艘あたり布一千一百匹の余剰が生じる。また造船の場所では、皆、材木を鋸引する人夫と船の茹(削り屑)を処理する作業が必要であり、その功程に応じて、当該州郡の門兵に給与すれば、別に召し募る必要はない。汾州に租調を徴収する場所は、汾水から百里を超えず、華州は黄河から六十里に満たない。これらはすべて、里程を計算して旧例に従い酬価を支払い、車で船所まで運送させる。船による運送は、㵢陂まで到達すればよい。陸路は㵢陂から倉庫までで、調の車一台には雇絹一匹、租の車一台には布五匹を支払えば、公私ともに便利となろう。」

尚書度支郎中の朱元旭が計算を上申して言う。「公に効を立てるには、民を救済することを根本とし、朝に政を列ねるには、国を潤すことを優先とする。故に大禹は疏導して、四載(車・船・橇・轔)の便を通じさせ、漢代には水路を穿ち開いて、百川の用を受け入れた。その功績は当時に顕著であり、嘉声は図史に伝わっている。今、薛欽の説を検討すると、その効果は未だ明らかではないが、指摘する状況は甚だ善い。船をもって車に代えるというのは、その策の長所である。もし門兵をもって舟を造らせれば、防禦が手薄となるので、全面的に依拠することはできない。雇車の費用をもって材木を買い工匠に作らせ、倉庫の必要なものはすべてこれを営んで調達すべきである。七月の初めから十月初旬にかけて、州郡の綱典にそれぞれ収納所で租調を受け取らせ、その後これを渡す。十台の車ごとに、車士四人を留めて守護を補佐させる。粟帛が船に積み込まれる日には、運送に随行して都に至り、共に監督を厳重にし、もし耗損があれば、ともに賠償を徴収する。河中の欠失は、専ら運司の責任とする。都に輸送する時は、その場で納入することを許し、雑多に混合して常体に違反してはならない。必ず量り上げて数え下ろし、受け入れを謹み、その他はすべてこの列の通りとする。底柱の難所は、天険と号され、急流千里で、その功を成すは容易ではない。しかし既に便利を陳べている以上、軽々しく抑えるべきではない。もしその説が効果を充たせば、例に附して功労に報い、もし効果がなければ、損失を徴収して埋め合わせる。今は創始の段階であり、勝手に減折を生じさせてはならず、請いの通りに営立する。一年の後、損益を知る必要がある。毎年御史を派遣してその虚実を検校し、もし乖違があれば、別に更に裁量する。」尚書の崔休は、木を刳って舟とすることは上代に用いられ、渠を鑿って運を通ずることは中古に利を尽くしたと考えた。それ故に河渭を漕輓することは、留侯(張良)が偉談とし、蜀漢に方舟することは、酈生が口実とした。ただ単に張純の奏上が東都で賞賛され、陳勰の功績が晋代で事績が高いのみではない。その利益たるや、由来久しい。薛欽の列挙した案は、実に事態に適っている。郎中の計算は、公理を備え尽くしている。しかし舟楫の通ずるところは、遠近を問わず必ず至るのであって、もし公私に利するならば、前記の件だけに止めるべきではない。昔の人は褒斜を遠く通じて関中の漕運を利し、南は交広に達して京洛の富を増した。ましてや漳・洹は平坦な道であり、河・済は平らな流れであるのに、その煩わしさを省き、この大きな利益を同じくしないということがあろうか。かつて鴻溝が宋衛を引き入れ、史牒に詳しく残り、討虜渠が幽冀を通じ、古跡に備わっている。舟車の省益は、理実に懸隔があり、水陸の難易は、力用が等しくない。かつて東州に任じ、自ら経験し検証したが、この損益は同年に語るべくもない。水運の通ずるすべての場所で、この方式に倣うべきである。たとえ五百里、三百里であっても、車で水次まで運び、利益の多寡を計算すれば、なお少なくない。薛欽が列挙した州郡については、請いの通りに興造させる。東路の諸州は先に水運を通じており、今年の租調はすべて舟楫を用いる。もし船数が不足すれば、しばらく賃借して用を充たし、車を雇うのに比べて、損益が交じり合う。先に通流していないところは、検行を派遣し、閑月に修治して、理屈上通じ得るようにし、必ず滞りがないようにする。このようにすれば、徴発は多くなく、利益は実に広く、一時の労苦で、久しく安らぎ永く楽となる。」録尚書・高陽王元雍、尚書 僕射 ぼくや の李崇らが上奏して言う。「運漕の利は、古今ともに同じであり、舟車の損益は、実に大きく異なる。薛欽の列挙したのは関西のみであるが、もし域内で同行すれば、公私の大きな利益となる。謹んで参酌し、前記の計算の通りに備え、徴発が減り、労苦が止んで小康となることを願う。もしこの請いが認められれば、溝洫を通流させなければならず、直ちに開削修築を求める。あるいは先に開治したもの、あるいは古跡がなお残り、旧事によって用いることができ、功役が比較的容易なものもある。この冬の閑月に、疏通をすべて完了させ、春の水の時節までに、運漕が滞ることのないようにする。」詔はこれに従ったが、完全には実行されなかった。

正光年間以後、四方で事変が多く、水害旱魃が加わり、国用が不足したため、天下の六年分の租調を前倒しで徴収した。百姓は怨み苦しみ、民は命に堪えられなかった。有司が百官への常給の酒を断つことを奏上し、計算では一年で省ける米は合わせて五万三千五十四斛九升、孽穀六千九百六十斛、麺三十万五百九十九斤であった。四時の郊廟祭祀・百神群祀は式に従って供営し、遠方の蕃客や使節は制限の対象外とした。その後、寇賊はますます増え、諸将が出征したが相次いで敗走し、失った器械・資糧は数え切れず、関西の喪失は特に甚だしく、国庫はますます空竭した。有司はまた内外の百官および諸蕃客への稟食と肉をすべて二分の一減らすことを奏上し、計算では一年で省ける肉は百五十九万九千八百五十六斤、米は五万三千九百三十二石であった。

孝昌二年冬、京師の田租を一畝あたり五升とし、公田を借り賃す者は一畝あたり一斗を課した。また市税を課し、入市する者一人につき一銭とし、その店舗はさらに五等に分けて、差等を設けて税を収めた。

荘帝の初め、喪乱の後に承け、倉廩は虚しく空しきに至り、遂に入粟の制を班布す。粟八千石を輸すれば、散侯を賞し、六千石は散伯、四千石は散子、三千石は散男を賞す。職人は七百石を輸すれば、一大階を賞し、実官を授く。白民は五百石を輸すれば、第に依りて出身するを聴し、一千石は一大階を加ふ。第無き者は五百石を輸すれば、正九品の出身を聴し、一千石は一大階を加ふ。諸沙門に粟四千石を輸して京倉に入るる者有れば、本州の統を授け、若し本州無き者は大州の都を授く。若し京倉に入らず、外州郡の倉に入るる者は、三千石、畿郡の都統を授け、州格に依る。若し五百石を輸して京倉に入るる者は、本郡の維那を授け、其の本郡無き者は外郡を以て授く。粟を外州郡倉に七百石、京倉に三百石入るる者は、県の維那を授く。

孝静帝の天平の初め、遷民は草創に在り、資産未だ立たず、詔して粟一百三十万石を出して以て之を賑ふ。三年夏、又遷民に稟を賑ひ各四十日。其の年秋、 へい ・肆・汾・建・晋・泰・陝・東雍・南汾の九州、霜旱有り、民飢えて流散す。四年春、詔して所在に倉を開き賑恤すと雖も、而して死者甚だ衆し。時に諸州の調絹は旧式に依らず、斉献武王其の民を害するを以て、興和三年冬、請うて海内に班し、悉く四十尺を以て度と為す。天下之に利す。

河東郡に塩池有り、旧官司を立てて以て税利を収む。是の時に之を罷め、而して民に富強なる者は専ら其の用を擅にし、貧弱なる者は資益を得ず。延興の末、復た監司を立て、其の貴賤を量り、其の賦入を節し、是に於て公私兼ねて利す。世宗即位し、政は寛簡を存し、復た其の禁を罷め、百姓と之を共にす。其の国用の須ふる所は、別に条制を為し、足るを取るのみ。自ら後、豪貴の家復た勢に乗じて占奪し、池に近きの民は、又輒ち障吝す。強弱相陵ぎ、遠近に聞こゆ。神亀の初め、太師・高陽王雍、 太傅 たいふ ・清河王懌等奏す、「塩池は天蔵にして、群生を資育す。仰ぎ惟ふに先朝の限る者は、亦苟も細民と競ひて此の贏利をせんとせざるなり。但だ利は天池より起り、取用に法無く、或は豪貴封護し、或は近き者は吝守し、卑賤遠来の者は、超然として絶望す。是を以て主司を置き、令して其の裁察せしめ、強弱相兼ね、務めて得所ならしむ。且つ十一の税は、古より今に及び、取るに輒ち次を以てし、済ふ所広し。爾より霑洽し、遠近斉しく平らかに、公私両宜しく、儲益少なからず。及んで鼓吹主簿王後興等の詞に称して、百官の食塩二万斛の外に供請し、歳に馬千匹・牛五百頭を輸求む。此を以て推すに、稍計す可からず。後に中尉甄琛、啓して禁を罷むるを求め、敕を被り議に付す。尚書執奏し、称す、琛の啓は坐談すれば則ち理高く、之を行へば則ち事闕く、常禁に依るを請ふは允なりと。詔して琛の計に依る。乃ち池を繞るの民尉保光等、擅自ら固護し、其の障禁を語れば、官司に倍し、取与自由にし、貴賤口に任す。若し大宥無くば、罪は推断に合す。二三を詳度すれば、深く王法に乖く。臣等商量し、先朝の詔に依り、之を禁するを便と為すを請ふ。姦を防ぎ暴を息め、軽重を断遣するも、亦前旨に準ぜん。置く所の監司は、一に往式に同じ。」是に於て復た監官を置き以て監検す。其の後更に罷め更に立て、永熙に至る。

鄴に遷りて後、滄・瀛・幽・青の四州の境に於て、海に傍ひて塩を煑る。滄州に竈一千四百八十四を置き、瀛州に竈四百五十二を置き、幽州に竈一百八十を置き、青州に竈五百四十六を置き、又邯鄲に於て竈四を置き、計ふるに終歳合せて塩二十万九千七百二斛四升を収む。軍国の資とする所、以て周贍するを得。

魏の初めより太和に至るまで、銭貨周流する所無し。高祖始めて天下に銭を用ゐることを詔す。十九年、冶鑄粗く備はり、文に「太和五銖」と曰ひ、詔して京師及び諸州鎮皆之を通行せしむ。内外百官の禄は皆絹に準じて銭を給し、絹一匹を銭二百と為す。在所に銭工を遣はし炉冶を備へ、民に鑄せんと欲する者有れば、就きて之を鑄するを聴し、銅は必ず精練し、和雑する所無し。世宗の永平三年冬、又五銖銭を鑄す。粛宗の初め、京師及び諸州鎮或は鑄し或は否み、或は止だ古銭を用ゐ、新鑄を行はず、致して商貨通ぜず、貿遷頗る隔たる。

熙平の初め、 尚書令 しょうしょれい ・任城王澄上言す、「臣聞く、洪範八政に、貨は二に居ると。易に称す、『天地の大徳は生と曰ひ、聖人の大宝は位と曰ひ、何を以てか位を守るを仁と曰ひ、何を以てか人を聚むるを財と曰ふ。』財は、帝王の以て人を聚め位を守り、群生を成養し、天徳に奉順し、国を治め民を安んずるの本なり。夏殷の政、九州金を貢ぎ、以て五品を定む。周は其の旧に仍る。太公九府の法を立て、是に於て圜貨始めて行はれ、銖両の楷を定む。斉桓循用し、以て諸侯に覇たり。降りて秦始・漢文に及び、遂に軽重の異有り。呉濞・鄧通の銭は、利を収めて天下に遍く、河南の地は、猶甚だ多し。逮ぶ孝武に至り、乃ち更に五銖を造り、其の中毀鑄し、利に随ひて改易す、故に銭をして小大の品有らしむ。窃に太和の銭を尋ぬるに、高祖心を留めて創制し、後五銖と並行す、此れ乃ち刊す可からざるの式なり。但だ臣窃に之を聞く、君子礼を行ふに、俗を変へるを求めず、其の宜しきに因り、順にして用に致すと。『太和五銖』は京邑の肆に利すと雖も、徐揚の市に入らず。土貨既に殊なり、貿鬻亦異なり、荊郢の邦に便なるものは、則ち兗 の域に礙る。致して貧民に重困の切有り、王道は隔化の訟を貽す。永平三年を去り、都座奏して天下の銭を用ゐて準式に依らざる者を断つ。時に敕を被りて云く、『行はれざるの銭は、常禁有ると雖も、其の先用の処は、権に聴して行はしめ、年末に至り悉く之を断たしめよ。』と。延昌二年、徐州の民儉しく、刺史啓奏して土銭を行ふを求め、旨に聴し権に旧用に依らしむ。謹みて行はれざるの銭を尋ぬるに、律に明式有り、指して謂ふ所は鶏眼・鐶鑿にして、更に余禁無し。計ふるに河南諸州、今行ふ所の者は、悉く制限に非ず。昔より来りて繩禁す、愚窃に惑ふ。又河北の州鎮は、既に新造の五銖無く、旧有る者を設け、而して復た禁断し、並びに行ふを得ず、専ら単絲の縑、疏縷の布を以てし、幅狭く度促く、常式に中らず、匹を裂きて尺と為し、以て有無を済す。今に至るまで徒らに杼軸の労を成し、免れず飢寒の苦しみ、良に布帛を分截し、銭貨を壅塞するに由る。実に凍餒を救恤し、黎元を子育するに非ず。謹みて惟ふに、古より以来、銭品一ならず、前後累代、易変常無し。且つ銭の名と為すは、泉流已まざらんと欲するなり。愚意に謂ふ、今の太和と新鑄の五銖、及び諸の古銭方俗の便用する所の者は、大小の異有ると雖も、並びに通行を得しむ。貴賤の差は、自ら郷価に依らしむ。庶くは貨海内に環り、公私壅無からん。其の行はれざるの銭、及び盗鑄し大を毀ちて小と為し、巧偽法の如くならざる者は、律に拠りて之を罪せん。」と。詔して曰く、「銭行はること久し、今東尚び事有り、且つ旧用に依れ。」と。

澄また奏す、「臣、猥かに枢衡に属し、心力を尽くさんことを願う。常に願うところは、貨物均しく通じ、書軌一範たることを。謹んで周礼を詳らかにするに、外府は邦布の出入を掌る。布は猶お泉なり、その蔵するを泉と曰い、その流るるを布と曰う。然らば則ち銭の興るや一品に始まり、世匠均同にして、円流極まりなからしめんとす。爰に周景よりして、亡新に降り逮ぶまで、易鑄相尋ね、参差百品、遂に境を接して商を乖き、邦を連ねて貿を隔つに至らしむ。臣、比に奏して海内に宣下し、式に依りて銭を行わんことを求む。登るに旨勅を被り、『銭行わるること已久しく、且つ旧に依るべし』と。謹んで重ねて参量す、『太和五銖』は乃ち大魏の通貨、不朽の恒模なり、寧ぞ専ら京邑に貿し、天下に行わざらんや。但だ今戎馬郊に在り、江疆未だ一ならず、東南の州は、旧に依りて便なり。京西・京北、域内の州鎮、未だ銭を用いざる所に至りては、之を行えば則ち難たるに足らず、之を塞げば則ち通典に乖く。何となれば、布帛は尺寸に裂くべからず、五穀は則ち負檐の難あり、銭の用たるや、貫繈相属し、斗斛の器を仮らず、秤尺の平を労せず、世を済うの宜しき、深允と謂うべし。請う、並びに諸方の州鎮に下し、其の太和及び新に鑄る五銖並びに古銭、内外全好のものは、大小を限らず、悉く之を行うを聴け。鶏眼・鐶鑿は、律に依りて禁ず。河南の州鎮、先に銭を用いる者は、既に旧に依るを聴く、断限に在らず。唯だ太和・五銖の二銭は公造の新しきもの用いるを得、其の余の雑種は、一に古銭を用い、生新の類は、普く同しく禁約す。諸方の銭は、京師に通用し、其の旧に依るを聴くの処は、太和銭及び新造の五銖と並び行わしむ。若し盗鑄する者は常憲より重く罪す。既に物品を均斉せんと欲し、廛井斯くの如く和せば、若し厳法を以て縄せざれば、以て此の違犯を粛する無からん。符旨一たび宣べ、仍って遵用せざる者は、刺史・守・令、律に依りて治罪す」と。詔して之に従う。而して河北の諸州は、旧より銭貨少なく、猶お他物を以て交易し、銭略ね市に入らず。

二年の冬、尚書崔亮奏す、「恒農郡の銅青谷に銅鑛あり、計るに一斗にして銅五両四銖を得。葦池谷の鑛は、計るに一斗にして銅五両を得。鸞帳山の鑛は、計るに一斗にして銅四両を得。河内郡の王屋山の鑛は、計るに一斗にして銅八両を得。南青州の苑燭山、齊州の商山は並びに往昔の銅官にして、旧迹見在す。謹んで按ずるに、銭を鑄る方に興り、銅を用うる処広し、既に冶利有り、並びに宜しく開鑄すべし」と。詔して之に従う。自ら後、行わるる所の銭は、民多く私に鑄し、稍々にして小薄に就き、価用い弥賤し。

建義の初め、盗鑄の禁を重ね、糾賞の格を開く。永安二年秋に至り、詔して改めて鑄せしめ、文を「永安五銖」と曰い、官自ら炉を立て、九月より起こり三年正月に至りて止む。官、銭を貴からしめんと欲し、乃ち蔵絹を出し、分遣して使人を二市に於いて之を売らしむ。絹一匹、銭二百に止まるも、而して私に市する者は猶お三百なり。利の在る所、盗鑄弥衆く、巧偽既に多し。軽重一ならず、四方の州鎮、用いる各同じからず。

鄴に遷りての後、軽濫尤多し。武定の初め、齊の文襄王、其の弊を革めんと奏す。ここに於いて詔して使人を諸州鎮に遣わし、銅及び銭を収め、悉く改めて鑄せしむ。其の文は仍って旧なり。然れども姦僥の徒、法を越えて利に趨り、未だ幾ばくもあらざるの間、漸く復た細薄に戻る。六年、文襄王、銭文五銖を以て、名須らく実に称すべく、宜しく銭一文重さ五銖なるものを称し、市に入り用いるを聴くべしとす。計るに百銭重さ一斤四両二十銖、自余は皆此を準として数と為す。其の京邑の二市、天下の州鎮郡県の市は、各二称を置き、市門に懸け、私民の用いる所の称は、皆市称を準として以て軽重を定む。凡そ私鑄有るも、悉く禁断せず、但だ重さ五銖にして、然る後に用いるを聴く。若し市に入るの銭、重さ五銖ならず、或いは重さ五銖と雖も多く鉛鑞を雑うれば、並びに用いるを聴かず。若し輒ち小薄の雑銭を以て市に入る者有らば、糾獲する者あり、其の銭は悉く告者に入る。其の小薄の銭は、若し即ち禁断せば、人交いに乏絶せんことを恐る。畿内は五十日、外州は百日を限とす。羣官参議し、咸く時穀頗る貴きを以て、有年を待つことを請う。上之に従いて止む。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻110