魏書

卷110 食貨志六

卷110 食貨志六

国を治め家を保つ者は、穀物と財貨を根本としない者はない。ゆえに洪範八政においては、食を第一とし、易経には「人を聚むるを財と曰う」とあり、周礼では九職をもって万民を任じ、九賦をもって財賄を徴収する。このため、古の哲王はみな民時に敬い授け、農を務め穀を重んじ、自ら千畝に臨み、九州に貢賦を課した。また、一人の男が耕さず、一人の女が織らなければ、ある者は飢え寒さを受けることになる。飢寒が身に迫れば、その赤子を保つことができず、窃盗を働いて法を犯し、ついには身を滅ぼすに至る。その跡を尋ねれば、王政の陥るところである。百畝の内において、その時を奪わず、その田畑を易え、その税斂を薄くすれば、民を富ませることができる。飽き足りて富めば、仁義礼節が生じる。いわゆる衣食足りて栄辱を知るというものである。晋末、天下大乱し、生民の道は尽き、あるいは干戈に死に、あるいは飢饉に斃れ、幸いに自ら存する者はおよそ十の五であった。

原文夫為國為家者,莫不以穀貨為本。故洪範八政,以食為首,其在易曰「聚人曰財」,周禮以九職任萬民,以九賦斂財賄。是以古先哲王莫不敬授民時,務農重穀,躬親千畝,貢賦九州。且一夫不耕,一女不織,或受其飢寒者。飢寒迫身,不能保其赤子,攘竊而犯法,以至於殺身。迹其所由,王政所陷也。夫百畝之內,勿奪其時,易其田疇,薄其稅斂,民可使富也。既飽且富,而仁義禮節生焉,亦所謂衣食足,識榮辱也。晉末,天下大亂,生民道盡,或死於干戈,或斃於飢饉,其幸而自存者蓋十五焉。

太祖が中原を平定した時、喪乱の弊を受け継ぎ、兵革が並び起こり、民は農業を廃していた。時事は殷盛であったが、経略の先として、食を根本とし、東平公の拓跋儀に河北を開墾させ、五原から棝陽塞外に至るまで屯田とした。初め、登国六年に衛辰を破り、その珍宝・畜産を収め、名馬三十余万、牛羊四百余万を得て、次第に国用を増した。中山を平定した後、吏民及び徒何種人・工伎巧十万余家を分けて移住させ、京都を充実させ、それぞれ耕牛を与え、口数に応じて田を授けた。天興初年、京邑を制定し、東は代郡から、西は善無に及び、南は陰館を極め、北は参合に尽きるまでを畿内の田とし、その外の四方四維に八部帥を置いて監察させ、農耕を勧め課し、収入を量り校えて、殿最の評価とした。また、自ら籍田を耕して百姓に率先した。その後、連年大いに熟し、一匹(絹)が八十余斛となった。この時、戎車は止まず、頻繁に豊年があっても、なお長く贍うには足りなかった。

原文太祖定中原,接喪亂之弊,兵革並起,民廢農業。方事雖殷,然經略之先,以食為本,使東平公儀墾闢河北,自五原至于棝陽塞外為屯田。初,登國六年破衞辰,收其珍寶、畜產,名馬三十餘萬、牛羊四百餘萬,漸增國用。既定中山,分徙吏民及徒何種人、工伎巧十萬餘家以充京都,各給耕牛,計口授田。天興初,制定京邑,東至代郡,西及善無,南極陰館,北盡參合,為畿內之田;其外四方四維置八部帥以監之,勸課農耕,量校收入,以為殿最。又躬耕籍田率先百姓。自後比歲大熟,匹中八十餘斛。是時戎車不息,雖頻有年,猶未足以久贍矣。

太宗の永興年間、頻繁に水旱の災害があり、詔して宮人のうち御すべきでない者及び執作伎巧でない者を選び出し、残りは鰥民に賜うた。神瑞二年、また不作となり、京畿の内では、路上に飢えた者がいた。帝は飢えのため都を鄴に遷そうとしたが、博士崔浩の計を用いて止めた。そこで特に貧しい者を選び出し、山東に就食させた。有司に命じて留農者を勧課する詔を下し、「前志にあるように、人生は勤に在り、勤めれば匱うることなし。凡そ庶民で畜えない者は祭祀に牲なく、耕さない者は祭祀に盛なく、植えない者は死に槨なく、蚕を飼わない者は衣に帛なく、績がない者は喪に衰なし。三農の教えを行い、九穀を生殖せしめ、園囿の教えを行い、草木を育成せしめ、虞衡の教えを行い、山沢に材を作らせ、藪牧の教えを行い、鳥獣を養い蕃息せしめ、百工の教えを行い、器用を飾り成さしめ、商賈の教えを行い、貨賄を阜通せしめ、嬪婦の教えを行い、絲枲を化治せしめ、臣妾の教えを行い、力役に事を勤しませよ」と述べた。これより民は皆力を勤めるようになり、したがって数年豊穣となり、畜牧も増え息んだ。

原文太宗永興中,頻有水旱,詔簡宮人非所當御及非執作伎巧,自餘出賜鰥民。神瑞二年,又不熟,京畿之內,路有行饉。帝以飢將遷都於鄴,用博士崔浩計乃止。於是分簡尤貧者就食山東。敕有司勸課留農者曰:「前志有之,人生在勤,勤則不匱。凡庶民之不畜者祭無牲,不耕者祭無盛,不樹者死無槨,不蠶者衣無帛,不績者喪無衰。教行三農,生殖九穀;教行園囿,毓長草木;教行虞衡,山澤作材;教行藪牧,養蕃鳥獸;教行百工,飭成器用;教行商賈,阜通貨賄;教行嬪婦,化治絲枲;教行臣妾,事勤力役。」自是民皆力勤,故歲數豐穰,畜牧滋息。

泰常六年、詔して六部の民で羊が百口に満ちる者は、戎馬一匹を調(税)として納めさせた。

原文泰常六年,詔六部民羊滿百口,調戎馬一匹。

世祖が即位すると、四海を開拓し、五方の民はそれぞれその性があるため、その教えを修めてその俗を改めず、その政を斉しくしてその宜しきを易えず、その方貢を納めて倉廩を充たし、その貨物を収めて庫蔵を実にし、また歳時に俎用に登る鳥獣を取って膳府を満たした。

原文世祖即位,開拓四海,以五方之民各有其性,故修其教不改其俗,齊其政不易其宜,納其方貢以充倉廪,收其貨物以實庫藏,又於歲時取鳥獸之登於俎用者以牣膳府。

以前は、禁網が疏闊で、民多く逃げ隠れていた。天興年間、詔して諸々の漏戸を採り、綸綿を輸納させた。その後、諸逃戸が細繭羅縠の業を占める者が甚だ多かった。そこで雑営戸帥が天下に遍在し、守宰に隷属せず、賦役が行き届かず、戸口が錯乱した。始光三年、詔して一切これを罷め、郡県に属させた。

原文先是,禁網疏闊,民多逃隱。天興中,詔採諸漏戶,令輸綸綿。自後諸逃戶占為細繭羅縠者甚眾。於是雜營戶帥遍於天下,不隸守宰,賦役不周,戶口錯亂。始光三年詔一切罷之,以屬郡縣。

神䴥二年、帝自ら六軍を御し、広漠の地を攻略した。諸将に命を分け、蠕蠕を窮追し、東は澣海に至り、西は張掖に接し、北は燕然山を渡って大破し、その種落及び馬牛雑畜方物を万単位で捕虜とした。その後また成周公の万度帰を遣わして西の焉耆を伐たせた。その王の鳩尸卑那は単騎で亀茲に奔り、挙国臣民は銭を負い貨を懐いて一時に降伏し、その奇宝異玩を巨万で獲り、駱駝・馬・雑畜は数え切れなかった。度帰は遂に亀茲に入り、さらにその殊方の瓌詭なる物を億万以上獲た。この時、辺境は未だ平定されず、帝はしばしば自ら戎駕に臨んだが、政を恭宗に委ねた。真君年間、恭宗は農職の教えを修めることを下令し、事は帝紀にある。この後数年の中、軍国の用は足りた。

原文神䴥二年,帝親御六軍,略地廣漠。分命諸將,窮追蠕蠕,東至澣海,西接張掖,北度燕然山,大破之,虜其種落及馬牛雜畜方物萬計。其後復遣成周公萬度歸西伐焉耆,其王鳩尸卑那單騎奔龜茲,舉國臣民負錢懷貨,一時降款,獲其奇寶異玩以巨萬,駝馬雜畜不可勝數。度歸遂入龜茲,復獲其殊方瓌詭之物億萬已上。是時方隅未克,帝屢親戎駕,而委政於恭宗。真君中,恭宗下令修農職之教,事在帝紀。此後數年之中,軍國用足矣。

高宗の時、牧守の官は、かなり貨利を求めた。太安初年、使者二十余輩を遣わして天下を巡行させ、風俗を観察し、民の疾苦を見させた。詔して使者に諸州郡の墾殖田畝・飲食衣服・閭里の虚実・盗賊劫掠・貧富強劣を察させて罰せしめ、これより牧守は前の弊をかなり改め、民は安んじて業に就いた。

原文高宗時,牧守之官,頗為貨利。太安初,遣使者二十餘輩循行天下,觀風俗,視民所疾苦。詔使者察諸州郡墾殖田畝、飲食衣服、閭里虛實、盜賊劫掠、貧富強劣而罰之,自此牧守頗改前弊,民以安業。

太祖が中原を平定して以来、世祖が方難を平定し、珍宝を収穫して、府蔵は盈積していた。和平二年秋、詔して中尚方に黄金の合盤十二具を作らせ、径二尺二寸、白銀で鏤め、玫瑰で鈿し、その銘に「九州貢を致し、殊域賓を来す、乃ち茲の器を作り、錯て珍を用う。紫金にて鍜え、白銀にて鏤め、範囲は載に擬し、燿を吐き真を含む。纖文麗質、化の若く神の若し、皇王之を御す、百福惟れ新たなり」と記した。その年冬、詔して内庫の綾綿布帛二十万匹を出し、内外の百官に分曹して賭射させた。四年春、詔して京師の民で年七十以上の者に太官の厨食を終身賜うた。

原文自太祖定中原,世祖平方難,收獲珍寶,府藏盈積。和平二年秋,詔中尚方作黃金合盤十二具,徑二尺二寸,鏤以白銀,鈿以玫瑰,其銘曰:「九州致貢,殊域來賓,乃作茲器,錯用具珍。鍜以紫金,鏤以白銀,範圍擬載,吐燿含真。纖文麗質,若化若神,皇王御之,百福惟新。」其年冬,詔出內庫綾綿布帛二十萬匹,令內外百官分曹賭射。四年春,詔賜京師之民年七十已上太官厨食以終其身。

顕祖が即位すると、自ら倹素を行い、公卿に率先し、黎庶を賑い益する方策を考えた。天安・皇興の間、年々頻繁に大旱があり、絹一匹が千銭となった。劉彧の淮北の青・冀・徐・兗・司の五州が乱を告げ降伏を請うたので、将を命じ衆を率いてこれを援けさせた。その境に臨むと、青・冀は二心を懐き、進軍してこれを囲み、数年にしてようやく抜いた。山東の民は皆征戍と転運に勤しんだので、帝は深くこれを念とした。そこで民の貧富に因って、租輸の三等九品の制を定めた。千里内は粟を納め、千里外は米を納める。上三品の戸は京師に入れ、中三品は他州の要倉に入れ、下三品は本州に入れる。

原文顯祖即位,親行儉素,率先公卿,思所以賑益黎庶。至天安、皇興間,歲頻大旱,絹匹千錢。劉彧淮北青、冀、徐、兗、司五州告亂請降,命將率眾以援之。既臨其境,青冀懷貳,進軍圍之,數年乃拔。山東之民咸勤於征戍轉運,帝深以為念。遂因民貧富,為租輸三等九品之制。千里內納粟,千里外納米;上三品戶入京師,中三品入他州要倉,下三品入本州。

以前、太安年間に、高宗は常賦の外の雑調十五が頗る煩重であるとして、これを除こうとした。尚書の毛法仁が「これは軍国の資用です。今頓にこれを罷めますのは、臣愚かながら不可と存じます」と言うと、帝は「地利を窮めず、民力を竭きず、百姓に余りあらしめれば、吾れ孰と不足ならんや」と言って遂に免じた。間もなく、以前のように復調したが、この時に至ってようやく終に罷めた。ここにおいて賦斂は稍々軽くなり、民は再び贍うようになった。

原文先是太安中,高宗以常賦之外雜調十五,頗為煩重,將與除之。尚書毛法仁曰:「此是軍國資用,今頓罷之,臣愚以為不可。」帝曰:「使地利無窮,民力不竭,百姓有餘,吾孰與不足。」遂免之。未幾,復調如前,至是乃終罷焉。於是賦斂稍輕,民復贍矣。

旧制では、民間の織る絹・布は、皆幅広二尺二寸、長さ四十尺を一匹とし、六十尺を一端とし、服用に任せた。後には漸次濫悪に至り、尺度に依らなくなった。高祖の延興三年秋七月、更に厳しい制を立て、一に前式に準ずることを令し、違う者は罪各有差とし、有司が検査しなければ同罪とした。

原文舊制,民間所織絹、布,皆幅廣二尺二寸,長四十尺為一匹,六十尺為一端,令任服用。後乃漸至濫惡,不依尺度。高祖延興三年秋七月,更立嚴制,令一準前式,違者罪各有差,有司不檢察與同罪。

太和八年(484年)、初めて古制に準じて百官に俸禄を班給し、品第によってそれぞれ差等を設けた。これ以前は、天下の戸は九品混通の制により、戸ごとに調として帛二匹・絮二斤・絲一斤・粟二十石を納め、さらに帛一匹二丈を州の庫に納め、調外の費用に充てていた。この時より、戸ごとに帛三匹、粟二石九斗を増やし、官司の俸禄とした。後に調外の帛を二匹に満たすまで増額した。調として納めるものは、それぞれその土地の産物による。司・冀・雍・華・定・相・泰・洛・豫・懷・兗・陝・徐・青・齊・濟・南豫・東兗・東徐の十九州は、綿絹および絲を貢納する。幽・平・并・肆・岐・涇・荊・涼・梁・汾・秦・安・營・豳・夏・光・郢・東秦の諸州、司州の萬年・雁門・上谷・靈丘・廣寧・平涼の各郡、懷州邵上郡の長平・白水の両県、青州北海郡の膠東県・平昌郡の東武平昌県・高密郡の昌安高密夷安黔陬の各県、泰州河東の蒲坂・汾陰の両県、東徐州東莞郡の莒・諸・東莞の各県、雍州馮翊郡の蓮芍県・咸陽郡の寧夷県・北地郡の三原雲陽銅官宜君の各県、華州華山郡の夏陽県、徐州北濟陰郡の離狐豊県・東海郡の贛榆襄賁の各県は、いずれも麻布をもって租税に充てた。

原文太和八年,始準古班百官之祿,以品第各有差。先是,天下戶以九品混通,戶調帛二匹、絮二斤、絲一斤、粟二十石;又入帛一匹二丈,委之州庫,以供調外之費。至是,戶增帛三匹,粟二石九斗,以為官司之祿。後增調外帛滿二匹。所調各隨其土所出。其司、冀、雍、華、定、相、泰、洛、豫、懷、兗、陝、徐、青、齊、濟、南豫、東兗、東徐十九州,貢綿絹及絲;幽、平、并、肆、岐、涇、荊、涼、梁、汾、秦、安、營、豳、夏、光、郢、東秦,司州萬年、雁門、上谷、靈丘、廣寧、平涼郡,懷州邵上郡之長平、白水縣,青州北海郡之膠東縣、平昌郡之東武平昌縣、高密郡之昌安高密夷安黔陬縣,泰州河東之蒲坂、汾陰縣,東徐州東莞郡之莒、諸、東莞縣,雍州馮翊郡之蓮芍縣、咸陽郡之寧夷縣、北地郡之三原雲陽銅官宜君縣,華州華山郡之夏陽縣,徐州北濟陰郡之離狐豐縣、東海郡之贛榆襄賁縣,皆以麻布充稅。

九年(485年)、天下の民に田を均しく給する詔を下した。

原文九年,下詔均給天下民田:

魏の初めは三長の制を立てず、したがって民は多く蔭附していた。蔭附する者は皆、官の役務がなく、豪強が徴収するのは公賦の倍であった。十年(486年)、給事中李沖が上言した。「古制に準じるべきである。五家で一隣長を立て、五隣で一里長を立て、五里で一黨長を立て、長には郷人の強壮で謹直な者を選ぶ。隣長は一夫(の賦役)を免除し、里長は二夫、黨長は三夫を免除する。免除されるのは征戍(兵役)であり、その他は民と同じである。三年過失がなければ昇進させ、一等を進める。民の調は、一夫一婦につき帛一匹、粟二石とする。十五歳以上で未娶の民は、四人で一夫一婦の調を出す。耕作に従事する奴、紡績に従事する婢は、八口で未娶者四人分に相当する。耕牛二十頭で奴婢八口分に相当する。麻布の郷では、一夫一婦につき布一匹とし、牛に至るまでこれに応じて減ずる。おおよそ十匹を公調とし、二匹を調外費とし、三匹を内外百官の俸禄とし、これ以外を雑調とする。八十歳以上の民は、一子を役務に従わせないことを聴許する。孤獨・癃老・篤疾・貧窮で自活できない者は、三長の管内で交替で養い食わせる。」

原文魏初不立三長,故民多蔭附。蔭附者皆無官役,豪強徵斂,倍於公賦。十年,給事中李沖上言:「宜準古,五家立一隣長,五隣立一里長,五里立一黨長,長取鄉人強謹者。隣長復一夫,里長二,黨長三。所復復征戍,餘若民。三載亡愆則陟用,陟之一等。其民調,一夫一婦帛一匹,粟二石。民年十五以上未娶者,四人出一夫一婦之調;奴任耕,婢任績者,八口當未娶者四;耕牛二十頭當奴婢八。其麻布之鄉,一夫一婦布一匹,下至牛,以此為降。大率十匹為公調,二匹為調外費,三匹為內外百官俸,此外雜調。民年八十已上,聽一子不從役。孤獨癃老篤疾貧窮不能自存者,三長內迭養食之。」

上書が奏上されると、諸官が通議し、善しとする者が多かった。高祖(孝文帝)はこれに従い、ここに使者を遣わしてその事を行わせた。そして詔して言った。「土地に任じて貢を錯(お)くのは、有無を通じさせるためである。井乗(井田と軍賦)によって賦を定めるのは、労逸を均しくするためである。有無が通じれば民財は乏しくならず、労逸が均しければ人はその業を楽しむ。これは古来の常道である。また隣里郷黨の制は、由来が久しい。風教を行き渡らせやすくし、家ごとに日に見て、大をもって小を督め、近くから及んで遠くに至り、身が手を使うがごとく、幹が枝條を総べるようにし、その後で口算(人頭税)を平均にし、義が興り訟が止むようにするためである。それゆえ三典(夏・殷・周の法典)は同じく、世の盛衰に随い、貳監(周の二つの監察制度)の行いは、時に従って損益した。故に鄭の子産(僑)は丘賦の術を復し、鄒の人は盍徹の規を献じた。軽重は同じではないが、当時にはともに適していた。昔より以来、諸州の戸口は、籍貫が実態に合わず、隠漏を包蔵し、公を廃し私を罔(あざむ)く。富強な者は併兼して余裕があり、貧弱な者は糊口すら足りない。賦税は同等で、軽重の違いがなく、力役は同じく課され、衆寡の区別がない。九品の格を建てても、肥沃と瘠薄の土地の違いは融和されず、均輸の楷を立てても、養蚕紡績の郷に差異がない。これにより淳化が樹立されず、民情は苟且で薄くなる。朕はこれを思うごとに、まことに深く慨く。今、旧を革めて新に従い、里黨の法を為す。在所の牧守は、民に諭して、煩わしさを去り簡易に就く要を知らせるべきである。」初め、百姓は皆、常に従うに如かずと思い、豪富で併兼する者は特に願わなかった。事が施行された後、計算すると昔より十余倍も省力できた。ここに海内はこれに安んじた。

原文書奏,諸官通議,稱善者眾。高祖從之,於是遣使者行其事。乃詔曰:「夫任土錯貢,所以通有無;井乘定賦,所以均勞逸。有無通則民財不匱,勞逸均則人樂其業。此自古之常道也。又隣里鄉黨之制,所由來久。欲使風教易周,家至日見,以大督小,從近及遠,如身之使手,幹之總條,然後口算平均,義興訟息。是以三典所同,隨世洿隆;貳監之行,從時損益。故鄭僑復丘賦之術,鄒人獻盍徹之規。雖輕重不同,而當時俱適。自昔以來,諸州戶口,籍貫不實,包藏隱漏,廢公罔私。富強者并兼有餘,貧弱者餬口不足。賦稅齊等,無輕重之殊;力役同科,無眾寡之別。雖建九品之格,而豐埆之土未融;雖立均輸之楷,而蠶績之鄉無異。致使淳化未樹,民情偷薄。朕每思之,良懷深慨。今革舊從新,為里黨之法,在所牧守,宜以喻民,使知去煩即簡之要。」初,百姓咸以為不若循常,豪富并兼者尤弗願也。事施行後,計省昔十有餘倍。於是海內安之。

十一年(487年)、大旱があり、京都の民は飢えた。牛疫が加わり、公私ともに欠乏し、時に馬・驢および橐駝を用いて駕輓・耕載に供することがあった。詔して民が豊かな地に就くことを聴許した。行く者は十のうち五六に及び、道路では糧食を給し、到着した地では三長が贍養した。使者を遣わして時々省察させた。留まって業を行う者は、皆、主司に審覈させ、倉を開いて賑貸した。特に自活できない者がある場合は、ことごとく検め集め、街路で粥を施し、その困窮を救った。しかし主管の者が明らかに牧察せず、郊甸の間に餓死者が甚だ多かった。時に承平の日が久しく、府蔵は盈積していた。詔して御府の衣服珍宝・太官の雑器・太僕の乗具・内庫の弓矢刀鉾の十分の八、外府の衣物繒布絲纊など国用に供するものすべてを出し、その大半を班齎して百司に下し、工商・皂隸に至り、六鎮の辺戍、畿内の鰥寡孤獨貧癃の者に及ぶまで、それぞれ差等をつけた。

原文十一年,大旱,京都民飢。加以牛疫,公私闕乏,時有以馬驢及橐駝供駕輓耕載。詔聽民就豐。行者十五六,道路給糧稟,至所在,三長贍養之。遣使者時省察焉。留業者,皆令主司審覈,開倉賑貸。其有特不自存者,悉檢集,為粥於術衢,以救其困。然主者不明牧察,郊甸間甚多餧死者。時承平日久,府藏盈積,詔盡出御府衣服珍寶、太官雜器、太僕乘具、內庫弓矢刀鉾十分之八、外府衣物繒布絲纊諸所供國用者,以其太半班齎百司,下至工商皂隸,逮于六鎮邊戍,畿內鰥寡孤獨貧癃者,皆有差。

十二年(488年)、詔して群臣に安民の術を求めた。有司が上言した。「州郡の常調の九分の二を分け、京都の度支の歳用の余剰を、それぞれ官司を立て、豊年には倉に糴貯し、凶年には私の分を一割加えて、民に糶すことを請う。このようにすれば、民は必ず力田して絹を買い、財を積んで粟を取ろうとするであろう。官は、豊年には常に積み、凶年には直ちに給する。また別に農官を立て、州郡の戸の十分の一を取って屯民とする。水陸の宜しきを相(み)て、頃畝の数を定め、贓贖雑物で牛を市い、科して給し、その力を肆(ほしいまま)にさせる。一夫の田は、歳ごとに六十斛を責め、正課および征戍雑役を甄別(選別・免除)する。この二事を行えば、数年の中に穀物が積み民が足るようになるであろう。」帝はこれを覧て善しとし、まもなく施行した。これより公私ともに豊かに贍(た)り、時に水旱があっても災いとならなかった。

原文十二年,詔羣臣求安民之術。有司上言:「請析州郡常調九分之二,京都度支歲用之餘,各立官司,豐年糴貯於倉,時儉則加私之一,糶之於民。如此,民必力田以買絹,積財以取粟。官,年登則常積,歲凶則直給。又別立農官,取州郡戶十分之一,以為屯民。相水陸之宜,斷頃畝之數,以贓贖雜物市牛科給,令其肆力。一夫之田,歲責六十斛,甄其正課并征戍雜役。行此二事,數年之中則穀積而民足矣。」帝覽而善之,尋施行焉。自此公私豐贍,雖時有水旱,不為災也。

世祖(太武帝)が統万を平定し、秦隴を定めた時、河西は水草が良かったので、ここを牧地とした。畜産は繁殖し、馬は二百余万匹に至り、橐駝はその半ばほど、牛羊は数えきれなかった。高祖(孝文帝)が即位した後、また河陽を牧場とし、常に戎馬十万匹を置き、京師の軍警の備えに擬(そな)えた。毎年、河西から并州に牧を移し、次第に南に転じ、水土に慣れさせて死傷がないようにしたが、河西の牧はますます繁殖した。正光(520-525年)以後、天下が喪乱すると、ついに群寇によって盗掠された。

原文世祖之平統萬,定秦隴,以河西水草善,乃以為牧地。畜產滋息,馬至二百餘萬匹,橐駝將半之,牛羊則無數。高祖即位之後,復以河陽為牧場,恒置戎馬十萬匹,以擬京師軍警之備。每歲自河西徙牧於并州,以漸南轉,欲其習水土而無死傷也,而河西之牧彌滋矣。正光以後,天下喪亂,遂為羣寇所盜掠焉。

世宗(宣武帝)の延昌三年(514年)春、有司が奏上して言うには、長安の驪山に銀鑛があり、二石で銀七両を得た。その年秋、恒州がまた上言して、白登山に銀鑛があり、八石で銀七両、錫三百余斤を得、その色は潔白で、上品を超えているという。詔してともに銀官を置き、常に採鑄させた。また漢中には旧来、金戸千余家あり、常に漢水の砂で金を淘り、年末に総べて輸納していた。後に臨淮王元彧が梁州刺史となった時、これを廃することを奏上した。鉄を鑄て農器・兵刃とするのは、所在にあったが、相州の牽口冶が精巧であったので、常に鍛鍊して刀とし、武庫に送った。

原文世宗延昌三年春,有司奏長安驪山有銀鑛,二石得銀七兩。其年秋,恒州又上言,白登山有銀鑛,八石得銀七兩,錫三百餘斤,其色潔白,有踰上品。詔並置銀官,常令採鑄。又漢中舊有金戶千餘家,常於漢水沙淘金,年終總輸。後臨淮王彧為梁州刺史,奏罷之。其鑄鐵為農器、兵刃,在所有之,然以相州牽口冶為工,故常鍊鍛為刀,送於武庫。

魏の徳が既に広まって以来、西域・東夷がその珍物を貢ぎ、王府に充満した。また南垂に互市を立て、南貨を招致したので、羽毛歯革の類は遠くまで至らない所はなかった。神龜(518-520年)・正光(520-525年)の際には、府蔵は盈溢した。霊太后はかつて公卿以下に力を任せて物を負って取らせ、またしばしば禁内の左右に賜り、費やすところは資財を計り知れなかったが、百姓に一度も施すことはできなかった。

原文自魏德既廣,西域、東夷貢其珍物,充於王府。又於南垂立互市,以致南貨,羽毛齒革之屬無遠不至。神龜、正光之際,府藏盈溢。靈太后曾令公卿已下任力負物而取之,又數賚禁內左右,所費無貲,而不能一丐百姓也。

徐揚の地が内附して以来、代々江淮を経略し、中州の物資を転運して辺鎮を充実させたが、百姓は道路に疲弊した。そこで番戍の兵に命じて屯田を営ませ、また内郡の兵糧資材を収め民と和糴し、辺境の備えとして蓄積した。有司はまた水運の途中に随時倉を置くことを請い、小平・石門・白馬津・漳涯・黒水・済州・陳郡・大梁の八箇所に邸閣を立て、軍国に必要な時は機に応じて漕運で輸送した。これにより費用と労役はわずかに軽減された。

原文自徐揚內附之後,仍世經略江淮,於是轉運中州,以實邊鎮,百姓疲於道路。乃令番戍之兵,營起屯田,又收內郡兵資與民和糴,積為邊備。有司又請於水運之次,隨便置倉,乃於小平、石門、白馬津、漳涯、黑水、濟州、陳郡、大梁凡八所,各立邸閣,每軍國有須,應機漕引。自此費役微省。

三門都將の薛欽が上言した。「京西の水次にある汾・華の二州と、恒農・河北・河東・正平・平陽の五郡は、毎年常例の綿絹と資麻をすべて公物に折り替え、車牛を雇って都に送っている。道は険しく人々は疲弊し、公費を浪費し私財を損なう。大略を計算すると、華州では車一台につき、官が酬いる絹は八匹三丈九尺、別に私民の雇価として布六十匹を要する。河東では車一台につき、官が酬いる絹は五匹二丈、別に私民の雇価として布五十匹を要する。その他の州郡は、まだ詳しくは分からないが、遠近によって推し量れば、これより少なくはあるまい。今、車一台の雇絹三匹分をもって材木を買い船を造れば、採伐の労は要しない。船一艘は十三台分の車に相当し、車一台当たり三匹を取れば、合わせて三十九匹となる。作手と工匠および船上の雑具・食費を雇う費用で、十分に船を完成させられる。計算すると、船一艘あたり絹七十八匹、布七百八十匹の余剰が生じる。また租車一台の官定積載量は四十斛であるが、私民の雇価は、遠い場合は五斗で布一匹、近い場合は一石で布一匹である。その私費を基準とすれば、車一台あたり布は遠くて八十匹、近くて四十匹となる。船一艘を造れば、七百石を運搬でき、その雇価を基準とすれば、布一千四百匹に相当する。今、布三百匹をもって船一艘を造り、船上の覆いや雑事の費用も含めると、船一艘あたり布一千一百匹の余剰が生じる。また造船の場所では、皆、材木を鋸引する人夫と船の茹(削り屑)を処理する作業が必要であり、その功程に応じて、当該州郡の門兵に給与すれば、別に召し募る必要はない。汾州に租調を徴収する場所は、汾水から百里を超えず、華州は黄河から六十里に満たない。これらはすべて、里程を計算して旧例に従い酬価を支払い、車で船所まで運送させる。船による運送は、㵢陂まで到達すればよい。陸路は㵢陂から倉庫までで、調の車一台には雇絹一匹、租の車一台には布五匹を支払えば、公私ともに便利となろう。」

原文三門都將薛欽上言:「計京西水次汾華二州、恒農、河北、河東、正平、平陽五郡年常綿絹及貲麻皆折公物,雇車牛送京。道險人弊,費公損私。略計華州一車,官酬絹八匹三丈九尺,別有私民雇價布六十匹;河東一車,官酬絹五匹二丈,別有私民雇價布五十匹。自餘州郡,雖未練多少,推之遠近,應不減此。今求車取雇絹三匹,市材造船,不勞採斫。計船一艘,舉十三車,車取三匹,合有三十九匹。雇作手并匠及船上雜具食直,足以成船。計一船剩絹七十八匹,布七百八十匹。又租車一乘,官格四十斛成載;私民雇價,遠者五斗布一匹,近者一石布一匹。準其私費,一車布遠者八十匹,近者四十匹。造船一艘,計舉七百石,準其雇價,應有一千四百匹。今取布三百匹,造船一艘并船上覆治雜事,計一船有剩布一千一百匹。又其造船之處,皆須鋸材人功,并削船茹,依功多少,即給當州郡門兵,不假更召。汾州有租調之處,去汾不過百里,華州去河不滿六十,並令計程依舊酬價,車送船所。船之所運,唯達㵢陂。其陸路從㵢陂至倉庫,調一車雇絹一匹,租一車布五匹,則於公私為便。」

尚書度支郎中の朱元旭が計算を上申して言う。「公に効を立てるには、民を救済することを根本とし、朝に政を列ねるには、国を潤すことを優先とする。故に大禹は疏導して、四載(車・船・橇・轔)の便を通じさせ、漢代には水路を穿ち開いて、百川の用を受け入れた。その功績は当時に顕著であり、嘉声は図史に伝わっている。今、薛欽の説を検討すると、その効果は未だ明らかではないが、指摘する状況は甚だ善い。船をもって車に代えるというのは、その策の長所である。もし門兵をもって舟を造らせれば、防禦が手薄となるので、全面的に依拠することはできない。雇車の費用をもって材木を買い工匠に作らせ、倉庫の必要なものはすべてこれを営んで調達すべきである。七月の初めから十月初旬にかけて、州郡の綱典にそれぞれ収納所で租調を受け取らせ、その後これを渡す。十台の車ごとに、車士四人を留めて守護を補佐させる。粟帛が船に積み込まれる日には、運送に随行して都に至り、共に監督を厳重にし、もし耗損があれば、ともに賠償を徴収する。河中の欠失は、専ら運司の責任とする。都に輸送する時は、その場で納入することを許し、雑多に混合して常体に違反してはならない。必ず量り上げて数え下ろし、受け入れを謹み、その他はすべてこの列の通りとする。底柱の難所は、天険と号され、急流千里で、その功を成すは容易ではない。しかし既に便利を陳べている以上、軽々しく抑えるべきではない。もしその説が効果を充たせば、例に附して功労に報い、もし効果がなければ、損失を徴収して埋め合わせる。今は創始の段階であり、勝手に減折を生じさせてはならず、請いの通りに営立する。一年の後、損益を知る必要がある。毎年御史を派遣してその虚実を検校し、もし乖違があれば、別に更に裁量する。」尚書の崔休は、木を刳って舟とすることは上代に用いられ、渠を鑿って運を通ずることは中古に利を尽くしたと考えた。それ故に河渭を漕輓することは、留侯(張良)が偉談とし、蜀漢に方舟することは、酈生が口実とした。ただ単に張純の奏上が東都で賞賛され、陳勰の功績が晋代で事績が高いのみではない。その利益たるや、由来久しい。薛欽の列挙した案は、実に事態に適っている。郎中の計算は、公理を備え尽くしている。しかし舟楫の通ずるところは、遠近を問わず必ず至るのであって、もし公私に利するならば、前記の件だけに止めるべきではない。昔の人は褒斜を遠く通じて関中の漕運を利し、南は交広に達して京洛の富を増した。ましてや漳・洹は平坦な道であり、河・済は平らな流れであるのに、その煩わしさを省き、この大きな利益を同じくしないということがあろうか。かつて鴻溝が宋衛を引き入れ、史牒に詳しく残り、討虜渠が幽冀を通じ、古跡に備わっている。舟車の省益は、理実に懸隔があり、水陸の難易は、力用が等しくない。かつて東州に任じ、自ら経験し検証したが、この損益は同年に語るべくもない。水運の通ずるすべての場所で、この方式に倣うべきである。たとえ五百里、三百里であっても、車で水次まで運び、利益の多寡を計算すれば、なお少なくない。薛欽が列挙した州郡については、請いの通りに興造させる。東路の諸州は先に水運を通じており、今年の租調はすべて舟楫を用いる。もし船数が不足すれば、しばらく賃借して用を充たし、車を雇うのに比べて、損益が交じり合う。先に通流していないところは、検行を派遣し、閑月に修治して、理屈上通じ得るようにし、必ず滞りがないようにする。このようにすれば、徴発は多くなく、利益は実に広く、一時の労苦で、久しく安らぎ永く楽となる。」録尚書・高陽王元雍、尚書僕射の李崇らが上奏して言う。「運漕の利は、古今ともに同じであり、舟車の損益は、実に大きく異なる。薛欽の列挙したのは関西のみであるが、もし域内で同行すれば、公私の大きな利益となる。謹んで参酌し、前記の計算の通りに備え、徴発が減り、労苦が止んで小康となることを願う。もしこの請いが認められれば、溝洫を通流させなければならず、直ちに開削修築を求める。あるいは先に開治したもの、あるいは古跡がなお残り、旧事によって用いることができ、功役が比較的容易なものもある。この冬の閑月に、疏通をすべて完了させ、春の水の時節までに、運漕が滞ることのないようにする。」詔はこれに従ったが、完全には実行されなかった。

原文尚書度支郎中朱元旭計稱:「效立於公,濟民為本;政列於朝,潤國是先。故大禹疏決,以通四載之宜;有漢穿引,受納百川之用。厥績顯於當時,嘉聲播於圖史。今校薛欽之說,雖跡驗未彰,而指況甚善。所云以船代車,是其策之長者。若以門兵造舟,便為闕彼防禦,無容全依。宜令取雇車之物,市材執作,及倉庫所須,悉以營辦。七月之始,十月初旬,令州郡綱典各受租調於將所,然後付之。十車之中,留車士四人佐其守護。粟帛上船之日,隨運至京,將共監慎,如有耗損,同其陪徵。河中缺失,專歸運司。輸京之時,聽其即納,不得雜合,違失常體。必使量上數下,謹其受入,自餘一如其列。計底柱之難,號為天險,迅驚千里,未易其功。然既陳便利,無容輒抑。若效充其說,則附例酬庸,如其不驗,徵填所損。今始開創,不可懸生減折,具依請營立。一年之後,須知贏費。歲遣御史校其虛實,脫有乖越,別更裁量。」尚書崔休以為刳木為舟,用興上代;鑿渠通運,利盡中古。是以漕輓河渭,留侯以為偉談;方舟蜀漢,酈生稱為口實。豈直張純之奏,見美東都;陳勰之功,事高晉世。其為利益,所從來久矣。案欽所列,實允事宜;郎中之計,備盡公理。但舟檝所通,遠近必至,苟利公私,不宜止在前件。昔人乃遠通褒斜以利關中之漕,南達交廣以增京洛之饒。況乃漳洹夷路,河濟平流,而不均彼省煩,同茲巨益。且鴻溝之引宋衞,史牒具存;討虜之通幽冀,古迹備在。舟車省益,理實相懸;水陸難易,力用不等。昔忝東州,親逕□驗,斯損益不可同年而語。請諸通水運之處,皆宜率同此式。縱復五百、三百里,車運水次,校計利饒,猶為不少。其欽所列州郡,如請興造。東路諸州皆先通水運,今年租調,悉用舟檝。若船數有闕,且賃假充事,比之僦車,交成息耗。其先未通流,宜遣檢行,閑月修治,使理有可通,必無壅滯。如此,則發召匪多,為益實廣,一爾暫勞,久安永逸。」錄尚書、高陽王雍,尚書僕射李崇等奏曰:「運漕之利,今古攸同,舟車息耗,實相殊絕。欽之所列,關西而已,若域內同行,足為公私巨益。謹輒參量,備如前計,庶徵召有減,勞止小康。若此請蒙遂,必須溝洫通流,即求開興修築。或先以開治,或古跡仍在,舊事可因,用功差易。此冬閑月,令疏通咸訖,比春水之時,使運漕無滯。」詔從之,而未能盡行也。

正光年間以後、四方で事変が多く、水害旱魃が加わり、国用が不足したため、天下の六年分の租調を前倒しで徴収した。百姓は怨み苦しみ、民は命に堪えられなかった。有司が百官への常給の酒を断つことを奏上し、計算では一年で省ける米は合わせて五万三千五十四斛九升、孽穀六千九百六十斛、麺三十万五百九十九斤であった。四時の郊廟祭祀・百神群祀は式に従って供営し、遠方の蕃客や使節は制限の対象外とした。その後、寇賊はますます増え、諸将が出征したが相次いで敗走し、失った器械・資糧は数え切れず、関西の喪失は特に甚だしく、国庫はますます空竭した。有司はまた内外の百官および諸蕃客への稟食と肉をすべて二分の一減らすことを奏上し、計算では一年で省ける肉は百五十九万九千八百五十六斤、米は五万三千九百三十二石であった。

原文正光後,四方多事,加以水旱,國用不足,預折天下六年租調而徵之。百姓怨苦,民不堪命。有司奏斷百官常給之酒,計一歲所省合米五萬三千五十四斛九升,孽穀六千九百六十斛,麪三十萬五百九十九斤。其四時郊廟、百神羣祀依式供營,遠蕃使客不在斷限。爾後寇賊轉眾,諸將出征,相繼奔敗,所亡器械資糧不可勝數,而關西喪失尤甚,帑藏益以空竭。有司又奏內外百官及諸蕃客稟食及肉悉二分減一,計終歲省肉百五十九萬九千八百五十六斤,米五萬三千九百三十二石。

孝昌二年冬、京師の田租を一畝あたり五升とし、公田を借り賃す者は一畝あたり一斗を課した。また市税を課し、入市する者一人につき一銭とし、その店舗はさらに五等に分けて、差等を設けて税を収めた。

原文孝昌二年冬,稅京師田租畝五升,借賃公田者畝一斗。又稅市,入者人一錢,其店舍又為五等,收稅有差。

荘帝の初め、喪乱の後に承け、倉廩は虚しく空しきに至り、遂に入粟の制を班布す。粟八千石を輸すれば、散侯を賞し、六千石は散伯、四千石は散子、三千石は散男を賞す。職人は七百石を輸すれば、一大階を賞し、実官を授く。白民は五百石を輸すれば、第に依りて出身するを聴し、一千石は一大階を加ふ。第無き者は五百石を輸すれば、正九品の出身を聴し、一千石は一大階を加ふ。諸沙門に粟四千石を輸して京倉に入るる者有れば、本州の統を授け、若し本州無き者は大州の都を授く。若し京倉に入らず、外州郡の倉に入るる者は、三千石、畿郡の都統を授け、州格に依る。若し五百石を輸して京倉に入るる者は、本郡の維那を授け、其の本郡無き者は外郡を以て授く。粟を外州郡倉に七百石、京倉に三百石入るる者は、県の維那を授く。

原文莊帝初,承喪亂之後,倉廩虛罄,遂班入粟之制。輸粟八千石,賞散侯;六千石,散伯;四千石,散子;三千石,散男。職人輸七百石,賞一大階,授以實官。白民輸五百石,聽依第出身,一千石,加一大階;無第者輸五百石,聽正九品出身,一千石,加一大階。諸沙門有輸粟四千石入京倉者,授本州統,若無本州者,授大州都;若不入京倉,入外州郡倉者,三千石,畿郡都統,依州格;若輸五百石入京倉者,授本郡維那,其無本郡者,授以外郡;粟入外州郡倉七百石者,京倉三百石者,授縣維那。

孝静帝の天平の初め、遷民は草創に在り、資産未だ立たず、詔して粟一百三十万石を出して以て之を賑ふ。三年夏、又遷民に稟を賑ひ各四十日。其の年秋、并・肆・汾・建・晋・泰・陝・東雍・南汾の九州、霜旱有り、民飢えて流散す。四年春、詔して所在に倉を開き賑恤すと雖も、而して死者甚だ衆し。時に諸州の調絹は旧式に依らず、斉献武王其の民を害するを以て、興和三年冬、請うて海内に班し、悉く四十尺を以て度と為す。天下之に利す。

原文孝靜天平初,以遷民草創,資產未立,詔出粟一百三十萬石以賑之。三年夏,又賑遷民稟各四十日。其年秋,并、肆、汾、建、晉、泰、陝、東雍、南汾九州霜旱,民飢流散。四年春,詔所在開倉賑恤之,而死者甚眾。時諸州調絹不依舊式,齊獻武王以其害民,興和三年冬,請班海內,悉以四十尺為度。天下利焉。

河東郡に塩池有り、旧官司を立てて以て税利を収む。是の時に之を罷め、而して民に富強なる者は専ら其の用を擅にし、貧弱なる者は資益を得ず。延興の末、復た監司を立て、其の貴賤を量り、其の賦入を節し、是に於て公私兼ねて利す。世宗即位し、政は寛簡を存し、復た其の禁を罷め、百姓と之を共にす。其の国用の須ふる所は、別に条制を為し、足るを取るのみ。自ら後、豪貴の家復た勢に乗じて占奪し、池に近きの民は、又輒ち障吝す。強弱相陵ぎ、遠近に聞こゆ。神亀の初め、太師・高陽王雍、太傅・清河王懌等奏す、「塩池は天蔵にして、群生を資育す。仰ぎ惟ふに先朝の限る者は、亦苟も細民と競ひて此の贏利をせんとせざるなり。但だ利は天池より起り、取用に法無く、或は豪貴封護し、或は近き者は吝守し、卑賤遠来の者は、超然として絶望す。是を以て主司を置き、令して其の裁察せしめ、強弱相兼ね、務めて得所ならしむ。且つ十一の税は、古より今に及び、取るに輒ち次を以てし、済ふ所広し。爾より霑洽し、遠近斉しく平らかに、公私両宜しく、儲益少なからず。及んで鼓吹主簿王後興等の詞に称して、百官の食塩二万斛の外に供請し、歳に馬千匹・牛五百頭を輸求む。此を以て推すに、稍計す可からず。後に中尉甄琛、啓して禁を罷むるを求め、敕を被り議に付す。尚書執奏し、称す、琛の啓は坐談すれば則ち理高く、之を行へば則ち事闕く、常禁に依るを請ふは允なりと。詔して琛の計に依る。乃ち池を繞るの民尉保光等、擅自ら固護し、其の障禁を語れば、官司に倍し、取与自由にし、貴賤口に任す。若し大宥無くば、罪は推断に合す。二三を詳度すれば、深く王法に乖く。臣等商量し、先朝の詔に依り、之を禁するを便と為すを請ふ。姦を防ぎ暴を息め、軽重を断遣するも、亦前旨に準ぜん。置く所の監司は、一に往式に同じ。」是に於て復た監官を置き以て監検す。其の後更に罷め更に立て、永熙に至る。

原文河東郡有鹽池,舊立官司以收稅利,是時罷之,而民有富強者專擅其用,貧弱者不得資益。延興末,復立監司,量其貴賤,節其賦入,於是公私兼利。世宗即位,政存寬簡,復罷其禁,與百姓共之。其國用所須,別為條制,取足而已。自後豪貴之家復乘勢占奪,近池之民,又輒障吝。強弱相陵,聞於遠近。神龜初,太師、高陽王雍,太傅、清河王懌等奏:「鹽池天藏,資育羣生。仰惟先朝限者,亦不苟與細民競茲贏利。但利起天池,取用無法,或豪貴封護,或近者吝守,卑賤遠來,超然絕望。是以因置主司,令其裁察,強弱相兼,務令得所。且十一之稅,自古及今,取輒以次,所濟為廣。自爾霑洽,遠近齊平,公私兩宜,儲益不少。及鼓吹主簿王後興等詞稱請供百官食鹽二萬斛之外,歲求輸馬千匹、牛五百頭。以此而推,非可稍計。後中尉甄琛啟求罷禁,被敕付議。尚書執奏,稱琛啟坐談則理高,行之則事闕,請依常禁為允。詔依琛計。乃為繞池之民尉保光等擅自固護,語其障禁,倍於官司,取與自由,貴賤任口。若無大宥,罪合推斷。詳度二三,深乖王法。臣等商量,請依先朝之詔,禁之為便。防姦息暴,斷遣輕重,亦準前旨。所置監司,一同往式。」於是復置監官以監檢焉。其後更罷更立,以至於永熙。

鄴に遷りて後、滄・瀛・幽・青の四州の境に於て、海に傍ひて塩を煑る。滄州に竈一千四百八十四を置き、瀛州に竈四百五十二を置き、幽州に竈一百八十を置き、青州に竈五百四十六を置き、又邯鄲に於て竈四を置き、計ふるに終歳合せて塩二十万九千七百二斛四升を収む。軍国の資とする所、以て周贍するを得。

原文自遷鄴後,於滄、瀛、幽、青四州之境,傍海煑鹽。滄州置竈一千四百八十四,瀛州置竈四百五十二,幽州置竈一百八十,青州置竈五百四十六,又於邯鄲置竈四,計終歲合收鹽二十萬九千七百二斛四升。軍國所資,得以周贍矣。

魏の初めより太和に至るまで、銭貨周流する所無し。高祖始めて天下に銭を用ゐることを詔す。十九年、冶鑄粗く備はり、文に「太和五銖」と曰ひ、詔して京師及び諸州鎮皆之を通行せしむ。内外百官の禄は皆絹に準じて銭を給し、絹一匹を銭二百と為す。在所に銭工を遣はし炉冶を備へ、民に鑄せんと欲する者有れば、就きて之を鑄するを聴し、銅は必ず精練し、和雑する所無し。世宗の永平三年冬、又五銖銭を鑄す。粛宗の初め、京師及び諸州鎮或は鑄し或は否み、或は止だ古銭を用ゐ、新鑄を行はず、致して商貨通ぜず、貿遷頗る隔たる。

原文魏初至於太和,錢貨無所周流,高祖始詔天下用錢焉。十九年,冶鑄粗備,文曰「太和五銖」,詔京師及諸州鎮皆通行之。內外百官祿皆準絹給錢,絹匹為錢二百。在所遣錢工備爐冶,民有欲鑄,聽就鑄之,銅必精練,無所和雜。世宗永平三年冬,又鑄五銖錢。肅宗初,京師及諸州鎮或鑄或否,或有止用古錢,不行新鑄,致商貨不通,貿遷頗隔。

熙平の初め、尚書令・任城王澄上言す、「臣聞く、洪範八政に、貨は二に居ると。易に称す、『天地の大徳は生と曰ひ、聖人の大宝は位と曰ひ、何を以てか位を守るを仁と曰ひ、何を以てか人を聚むるを財と曰ふ。』財は、帝王の以て人を聚め位を守り、群生を成養し、天徳に奉順し、国を治め民を安んずるの本なり。夏殷の政、九州金を貢ぎ、以て五品を定む。周は其の旧に仍る。太公九府の法を立て、是に於て圜貨始めて行はれ、銖両の楷を定む。斉桓循用し、以て諸侯に覇たり。降りて秦始・漢文に及び、遂に軽重の異有り。呉濞・鄧通の銭は、利を収めて天下に遍く、河南の地は、猶甚だ多し。逮ぶ孝武に至り、乃ち更に五銖を造り、其の中毀鑄し、利に随ひて改易す、故に銭をして小大の品有らしむ。窃に太和の銭を尋ぬるに、高祖心を留めて創制し、後五銖と並行す、此れ乃ち刊す可からざるの式なり。但だ臣窃に之を聞く、君子礼を行ふに、俗を変へるを求めず、其の宜しきに因り、順にして用に致すと。『太和五銖』は京邑の肆に利すと雖も、徐揚の市に入らず。土貨既に殊なり、貿鬻亦異なり、荊郢の邦に便なるものは、則ち兗豫の域に礙る。致して貧民に重困の切有り、王道は隔化の訟を貽す。永平三年を去り、都座奏して天下の銭を用ゐて準式に依らざる者を断つ。時に敕を被りて云く、『行はれざるの銭は、常禁有ると雖も、其の先用の処は、権に聴して行はしめ、年末に至り悉く之を断たしめよ。』と。延昌二年、徐州の民儉しく、刺史啓奏して土銭を行ふを求め、旨に聴し権に旧用に依らしむ。謹みて行はれざるの銭を尋ぬるに、律に明式有り、指して謂ふ所は鶏眼・鐶鑿にして、更に余禁無し。計ふるに河南諸州、今行ふ所の者は、悉く制限に非ず。昔より来りて繩禁す、愚窃に惑ふ。又河北の州鎮は、既に新造の五銖無く、旧有る者を設け、而して復た禁断し、並びに行ふを得ず、専ら単絲の縑、疏縷の布を以てし、幅狭く度促く、常式に中らず、匹を裂きて尺と為し、以て有無を済す。今に至るまで徒らに杼軸の労を成し、免れず飢寒の苦しみ、良に布帛を分截し、銭貨を壅塞するに由る。実に凍餒を救恤し、黎元を子育するに非ず。謹みて惟ふに、古より以来、銭品一ならず、前後累代、易変常無し。且つ銭の名と為すは、泉流已まざらんと欲するなり。愚意に謂ふ、今の太和と新鑄の五銖、及び諸の古銭方俗の便用する所の者は、大小の異有ると雖も、並びに通行を得しむ。貴賤の差は、自ら郷価に依らしむ。庶くは貨海内に環り、公私壅無からん。其の行はれざるの銭、及び盗鑄し大を毀ちて小と為し、巧偽法の如くならざる者は、律に拠りて之を罪せん。」と。詔して曰く、「銭行はること久し、今東尚び事有り、且つ旧用に依れ。」と。

原文熙平初,尚書令、任城王澄上言:「臣聞洪範八政,貨居二焉。易稱:『天地之大德曰生,聖人之大寶曰位,何以守位曰仁,何以聚人曰財。』財者,帝王所以聚人守位,成養羣生,奉順天德,治國安民之本也。夏殷之政,九州貢金,以定五品。周仍其舊。太公立九府之法,於是圜貨始行,定銖兩之楷。齊桓循用,以霸諸侯。降及秦始、漢文,遂有輕重之異。吳濞、鄧通之錢,收利遍於天下,河南之地,猶甚多焉。逮于孝武,乃更造五銖,其中毀鑄,隨利改易,故使錢有小大之品。竊尋太和之錢,高祖留心創制,後與五銖並行,此乃不刊之式。但臣竊聞之,君子行禮,不求變俗,因其所宜,順而致用。『太和五銖』雖利於京邑之肆,而不入徐揚之市。土貨既殊,貿鬻亦異,便於荊郢之邦者,則礙於兗豫之域。致使貧民有重困之切,王道貽隔化之訟。去永平三年,都座奏斷天下用錢不依準式者,時被敕云:『不行之錢,雖有常禁,其先用之處,權可聽行,至年末悉令斷之。』延昌二年,徐州民儉,刺史啟奏求行土錢,旨聽權依舊用。謹尋不行之錢,律有明式,指謂雞眼、鐶鑿,更無餘禁。計河南諸州,今所行者,悉非制限。昔來繩禁,愚竊惑焉。又河北州鎮,既無新造五銖,設有舊者,而復禁斷,並不得行,專以單絲之縑,疏縷之布,狹幅促度,不中常式,裂匹為尺,以濟有無。至今徒成杼軸之勞,不免飢寒之苦,良由分截布帛,壅塞錢貨。實非救恤凍餒,子育黎元。謹惟自古以來,錢品不一,前後累代,易變無常。且錢之為名,欲泉流不已。愚意謂今之太和與新鑄五銖,及諸古錢方俗所便用者,雖有大小之異,並得通行。貴賤之差,自依鄉價。庶貨環海內,公私無壅。其不行之錢,及盜鑄毀大為小,巧偽不如法者,據律罪之。」詔曰:「錢行已久,今東尚有事,且依舊用。」

澄また奏す、「臣、猥かに枢衡に属し、心力を尽くさんことを願う。常に願うところは、貨物均しく通じ、書軌一範たることを。謹んで周礼を詳らかにするに、外府は邦布の出入を掌る。布は猶お泉なり、その蔵するを泉と曰い、その流るるを布と曰う。然らば則ち銭の興るや一品に始まり、世匠均同にして、円流極まりなからしめんとす。爰に周景よりして、亡新に降り逮ぶまで、易鑄相尋ね、参差百品、遂に境を接して商を乖き、邦を連ねて貿を隔つに至らしむ。臣、比に奏して海内に宣下し、式に依りて銭を行わんことを求む。登るに旨勅を被り、『銭行わるること已久しく、且つ旧に依るべし』と。謹んで重ねて参量す、『太和五銖』は乃ち大魏の通貨、不朽の恒模なり、寧ぞ専ら京邑に貿し、天下に行わざらんや。但だ今戎馬郊に在り、江疆未だ一ならず、東南の州は、旧に依りて便なり。京西・京北、域内の州鎮、未だ銭を用いざる所に至りては、之を行えば則ち難たるに足らず、之を塞げば則ち通典に乖く。何となれば、布帛は尺寸に裂くべからず、五穀は則ち負檐の難あり、銭の用たるや、貫繈相属し、斗斛の器を仮らず、秤尺の平を労せず、世を済うの宜しき、深允と謂うべし。請う、並びに諸方の州鎮に下し、其の太和及び新に鑄る五銖並びに古銭、内外全好のものは、大小を限らず、悉く之を行うを聴け。鶏眼・鐶鑿は、律に依りて禁ず。河南の州鎮、先に銭を用いる者は、既に旧に依るを聴く、断限に在らず。唯だ太和・五銖の二銭は公造の新しきもの用いるを得、其の余の雑種は、一に古銭を用い、生新の類は、普く同しく禁約す。諸方の銭は、京師に通用し、其の旧に依るを聴くの処は、太和銭及び新造の五銖と並び行わしむ。若し盗鑄する者は常憲より重く罪す。既に物品を均斉せんと欲し、廛井斯くの如く和せば、若し厳法を以て縄せざれば、以て此の違犯を粛する無からん。符旨一たび宣べ、仍って遵用せざる者は、刺史・守・令、律に依りて治罪す」と。詔して之に従う。而して河北の諸州は、旧より銭貨少なく、猶お他物を以て交易し、銭略ね市に入らず。

原文澄又奏:「臣猥屬樞衡,庶罄心力,常願貨物均通,書軌一範。謹詳周禮,外府掌邦布之入出。布猶泉也,其藏曰泉,其流曰布。然則錢之興也始於一品,欲令世匠均同,圜流無極。爰暨周景,降逮亡新,易鑄相尋,參差百品,遂令接境乖商,連邦隔貿。臣比奏求宣下海內,依式行錢。登被旨敕,『錢行已久,且可依舊』。謹重參量,以為『太和五銖』乃大魏之通貨,不朽之恒模,寧可專貿於京邑,不行於天下!但今戎馬在郊,江疆未一,東南之州,依舊為便。至於京西、京北域內州鎮未用錢處,行之則不足為難,塞之則有乖通典。何者?布帛不可尺寸而裂,五穀則有負檐之難,錢之為用,貫繈相屬,不假斗斛之器,不勞秤尺之平,濟世之宜,謂為深允。請並下諸方州鎮,其太和及新鑄五銖并古錢內外全好者,不限大小,悉聽行之。雞眼、鐶鑿,依律而禁。河南州鎮先用錢者,既聽依舊,不在斷限。唯太和、五銖二錢得用公造新者,其餘雜種,一用古錢,生新之類,普同禁約。諸方之錢,通用京師,其聽依舊之處,與太和錢及新造五銖並行,若盜鑄者罪重常憲。既欲均齊物品,廛井斯和,若不繩以嚴法,無以肅茲違犯。符旨一宣,仍不遵用者,刺史守令依律治罪。」詔從之。而河北諸州,舊少錢貨,猶以他物交易,錢略不入市也。

二年の冬、尚書崔亮奏す、「恒農郡の銅青谷に銅鑛あり、計るに一斗にして銅五両四銖を得。葦池谷の鑛は、計るに一斗にして銅五両を得。鸞帳山の鑛は、計るに一斗にして銅四両を得。河内郡の王屋山の鑛は、計るに一斗にして銅八両を得。南青州の苑燭山、齊州の商山は並びに往昔の銅官にして、旧迹見在す。謹んで按ずるに、銭を鑄る方に興り、銅を用うる処広し、既に冶利有り、並びに宜しく開鑄すべし」と。詔して之に従う。自ら後、行わるる所の銭は、民多く私に鑄し、稍々にして小薄に就き、価用い弥賤し。

原文二年冬,尚書崔亮奏:「恒農郡銅青谷有銅鑛,計一斗得銅五兩四銖;葦池谷鑛,計一斗得銅五兩;鸞帳山鑛,計一斗得銅四兩;河內郡王屋山鑛,計一斗得銅八兩;南青州苑燭山、齊州商山並是往昔銅官,舊迹見在。謹按鑄錢方興,用銅處廣,既有冶利,並宜開鑄。」詔從之。自後所行之錢,民多私鑄,稍就小薄,價用彌賤。