高麗
高麗の先祖は、夫餘より出づ。夫餘王嘗て河伯の女を得、因りて室内に閉じ、日光に随ひて之を照らすに、感じて遂に孕み、一大卵を生み、一男子有りて殼を破りて出づ、名づけて朱蒙と曰ふ。夫餘の臣、朱蒙は人の生みしに非ずと以ひ、咸く請ひて之を殺さむとす、王聴かず。壮に及び、因りて猟に従ふに、獲る所多くを占む、又請ひて之を殺さむとす。其の母以て朱蒙に告ぐ、朱蒙夫餘を棄てて東南に走る。一大水に遇ふ、深くして越へ可からず。朱蒙曰く、「我は河伯の外孫、日の子なり。今難有りて、而して追兵将に及ばむとす、如何にしてか渡るを得む」と。是に於て魚鼈積みて橋と成り、朱蒙遂に渡る。追騎渡るを得ずして還る。
朱蒙国を建て、自ら高句麗と号し、高を以て氏とす。朱蒙死し、子閭達嗣ぐ。其の孫莫来に至り兵を興し、遂に夫餘を併す。裔孫位宮に至り、魏の正始の中に西安平に入寇し、毌丘儉拒ぎて之を破る。位宮玄孫の子を昭列帝と曰ひ、慕容氏に破られ、遂に丸都に入り、其の宮室を焚き、大いに掠めて還る。昭列帝後ち百済に殺さる。其の曾孫璉、後魏に使を遣す。璉六世孫湯、周に在りて使を遣し朝貢し、武帝湯を上開府・遼東郡公・遼東王に拝す。高祖禅を受け、湯復た使を遣し闕に詣り、進めて大將軍を授け、改めて高麗王に封ず。歳毎に使を遣し朝貢絶えず。
開皇初め、頻りに使有りて朝に入る。陳を平げし後に及び、湯大いに懼れ、兵を治め穀を積み、守拒の策を為す。十七年、上湯に璽書を賜ひて曰く。
湯書を得て惶恐し、将に表を奉り陳謝せむとす、会ひ病み卒す。子元立つを嗣ぐ。高祖使を遣し元を上開府・儀同三司に拝し、爵を襲ひて遼東郡公と為し、衣一襲を賜ふ。元表を奉り謝恩し、並びに祥瑞を賀し、因りて王に封ぜられむことを請ふ。高祖優に冊して元を王と為す。
明年、元靺鞨の衆万余騎を率ひて遼西を寇し、営州総管韋沖之を撃ち走らす。高祖聞きて大いに怒り、命じて漢王諒を元帥と為し、水陸を総べて之を討たしめ、詔を下して其の爵位を黜く。時に餽運継がず、六軍食に乏しく、師出でて臨渝関に至り、復た疾疫に遇ひ、王師振はざるに及ぶ。遼水に次ぐに及び、元亦た惶懼し、使を遣し謝罪し、表を上りて「遼東糞土の臣元」云々と称す。上是に於て兵を罷め、之を初めの如く待ち、元亦た歳毎に朝貢を遣す。
煬帝位を嗣ぎ、天下全盛し、高昌王・突厥啓人可汗並びに親しく闕に詣り貢獻す、是に於て元を徴して朝に入らしむ。元懼れ、藩礼頗る闕く。大業七年、帝将に元の罪を討たむとし、車駕遼水を渡り、上遼東城に営し、道を分かちて師を出し、各兵を其の城下に頓す。高麗兵を率ひ出でて拒ぎ、戦多く利あらず、是に於て皆城に嬰り固く守る。帝諸軍に令して之を攻めしめ、又諸将に勑して「高麗若し降る者は、即ち宜しく撫納すべし、兵を縱ふるを得ず」とす。城将に陥らむとするや、賊輒ち言ひて降を請ふ、諸将旨を奉り敢へて機に赴かず、先づ馳せて奏すことを令す。報の至るに比するに、賊の守禦亦備はり、随ひ出でて拒戦す。此の如き者再三、帝悟らず。是に由りて食尽き師老ひ、轉輸継がず、諸軍多く敗績し、是に於て師を班す。是の行、唯だ遼水の西に於て賊の武厲邏を抜き、遼東郡及び通定鎮を置きて還るのみ。
九年、帝復た親しく之を征し、乃ち諸軍に勑して便宜に事を行はしむ。諸将道を分かちて城を攻む、賊の勢日くに蹙る。会ひ楊玄感乱を作し、反書至る、帝大いに懼れ、即日六軍並びに還る。兵部侍郎斛斯政高麗に亡入り、高麗具に事實を知り、悉く銳を来して追ひ、殿軍多く敗る。十年、又天下の兵を発し、会ひ盗賊蜂起し、人多く流亡し、所在阻絶し、軍多く期を失ふ。遼水に至る、高麗亦た困弊し、使を遣し乞ひて降り、斛斯政を囚して送り以て罪を贖ふ。帝之を許し、懐遠鎮に頓し、其の降款を受く。仍ひて俘囚軍實を以て帰る。京師に至り、高麗の使者を以て親しく太廟に告げ、因りて之を拘留す。仍ひて元を徴して朝に入らしむ、元竟に至らず。帝諸軍に勑して厳装せしめ、更に後挙を図らむとす、会ひ天下大乱し、遂に復た行ふことを克さず。
百濟
百濟の先祖は、高麗国より出づ。其の国王に一の侍婢有り、忽ち孕みを懐く、王之を殺さむと欲す。婢云く、「物有りて雞子の如き状、来りて我に感ず、故に娠有り」と。王之を捨つ。後遂に一男を生み、之を廁溷に棄つ、久しくして死せず、神と以為ひ、命じて之を養はしめ、名づけて東明と曰ふ。長ずるに及び、高麗王之を忌み、東明懼れ、淹水に逃れ至る、夫餘人共に之を奉ず。東明の後、仇台と曰ふ者有り、仁信に篤く、始めて其の国を帯方の故地に立つ。漢の遼東太守公孫度女を以て之に妻し、漸く以て昌盛し、東夷の強国と為る。初め百家を以て海を濟ふ、因りて号して百濟とす。十余代を歴り、代毎に中国に臣す、前史之を詳しく載す。開皇初め、其の王餘昌使を遣し方物を貢ぎ、昌を上開府・帯方郡公・百濟王に拝す。
陳を平らげた歳、一つの戦船が海東の𨈭牟羅国に漂着し、その船が還るに当たり、百済を経由した。昌(百済王)はこれを資送すること甚だ厚く、併せて使者を遣わし表を奉り陳平定を賀した。高祖これを善しとし、詔を下して曰く、「百済王は既に陳平定を聞き、遠くして表を奉らしむ。往復は至難にして、若し風浪に逢えば、便ち傷損を致す。百済王の心迹淳至なること、朕既に委らかに知る。相去ること遠しと雖も、事は言面に同じ。何ぞ必ずしも数たび使者を遣わし来たりて相体悉にせん。今より以後、年別に入貢するを須いず。朕も亦使者を遣わして往かず。王宜しくこれを知るべし。」使者は舞蹈して去った。
開皇十八年、昌はその長史王辯那を使わして来たり方物を献じ、遼東の役の興るに属り、使者を遣わし表を奉り、軍の導きと為らんことを請うた。帝詔を下して曰く、「往年高麗が職貢を供せず、人臣の礼無きを以て、故に将を命じてこれを討たしむ。高元君臣恐懼し、畏服して罪に帰す。朕既にこれを赦し、伐を致すべからず。」その使を厚くしてこれを遣わした。高麗は頗るその事を知り、兵を以てその境を侵掠した。
昌死し、子の餘宣立つ。死し、子の餘璋立つ。
その南海を行くこと三月、𨈭牟羅国あり、南北千余里、東西数百里、土は多く麞鹿、百済に附庸す。百済より西に行くこと三日、貊国に至るという。
新羅
新羅国は、高麗の東南に在り、漢の時の楽浪の地に居し、或いは斯羅と称す。魏の将毌丘儉高麗を討ち、これを破り、沃沮に奔る。その後故国に復帰し、留まる者遂に新羅と為る。故にその人華夏・高麗・百濟の属を雑え、兼ねて沃沮・不耐・韓・獩の地を有す。その王は本は百濟人、海より逃れて新羅に入り、遂にその国に王と為る。祚を伝えて金真平に至り、開皇十四年、使者を遣わし方物を貢ぐ。高祖真平を上開府・楽浪郡公・新羅王に拝す。その先は百濟に附庸す。後に百濟の高麗を征するに因り、高麗人は戎役に堪えず、相率いてこれに帰し、遂に強盛を致し、因りて百濟に襲い迦羅国に附庸す。
その官に十七等あり:その一を伊罰干と曰い、貴きこと相国の如し;次は伊尺干、次は迎干、次は破彌干、次は大阿尺干、次は阿尺干、次は乙吉干、次は沙咄干、次は及伏干、次は大奈摩干、次は奈摩、次は大舍、次は小舍、次は吉土、次は大烏、次は小烏、次は造位。外に郡県あり。その文字・甲兵は中国に同じ。人を選び壮健なる者は悉く軍に入り、烽・戍・邏俱に屯管部伍あり。風俗・刑政・衣服は、略高麗・百濟と同じ。毎に正月旦に相賀し、王宴会を設け、群官に班賚す。その日日月神を拝す。八月十五日に至り、楽を設け、官人に射を令し、馬布を以て賞す。その大事有れば、則ち群官を聚めて詳議しこれを定む。服色は素を尚ぶ。婦人は辮髪を頭に繞らし、雑綵及び珠を以て飾りと為す。婚嫁の礼は、唯酒食のみ、軽重は貧富に随う。新婚の夕、女は先ず舅姑を拝し、次ぎ即ち夫を拝す。死に棺斂あり、葬りは墳陵を起す。王及び父母妻子の喪には、服を持すること一年。田は甚だ良沃にして、水陸兼ねて種う。その五穀・果菜・鳥獣物産は、略華と同じ。大業以来、歳ごとに朝貢を遣わす。新羅の地は多く山険にして、百濟と隙を構うと雖も、百濟も亦これを図ること能わず。
靺鞨
靺鞨は、高麗の北に在り、邑落俱に酋長あり、相総一せず。凡そ七種あり:その一は粟末部と号し、高麗と相接し、勝兵数千、多く驍武、毎に高麗中を寇す。その二を伯咄部と曰い、粟末の北に在り、勝兵七千。その三を安車骨部と曰い、伯咄の東北に在り。その四を拂𣵀部と曰い、伯咄の東に在り。その五を號室部と曰い、拂𣵀の東に在り。その六を黑水部と曰い、安車骨の西北に在り。その七を白山部と曰い、粟末の東南に在り。勝兵並びに三千を過ぎず、而して黑水部は尤も勁健なり。拂𣵀より以東は、矢皆石鏃、即ち古の肅慎氏なり。居る所多く山水に依り、渠帥を大莫弗瞞咄と曰い、東夷中に強国と為る。徒太山なる者有り、俗甚だ敬畏し、上に熊羆豹狼あり、皆人を害せず、人も亦敢えて殺さず。地は卑湿にして、土を築くこと堤の如く、穴を鑿ちて以て居り、口を開きて上に向かい、梯を以て出入す。相与に偶耕し、土は多く粟麥穄。水気鹹く、木皮の上に塩を生ず。その畜は多く猪。米を嚼みて酒と為し、これを飲むも亦酔う。婦人は布を服し、男子は猪狗の皮を衣る。俗は溺を以て手面を洗い、諸夷の中で最も不潔なり。その俗は淫にして妬み、その妻外に婬すれば、人その夫に告ぐる者有らば、夫は輒ち妻を殺し、殺して後悔すれば、必ず告ぐる者を殺す。これによりて姦婬の事終に発揚せず。人皆射獵を業と為し、角弓長さ三尺、箭長さ尺有二寸。常に七八月を以て毒薬を造り、矢に傅けて以て禽獣を射れば、中る者は立ちどころに死す。
開皇の初め、相率いて使を遣わして貢献す。高祖、その使に詔して曰く、「朕聞く、彼の土の人庶多く勇捷なる能ありと。今来りて相見ゆるは、実に朕が懐に副ふ。朕は爾等を視ること子の如くす、爾等は宜しく朕を敬ふこと父の如くすべし」と。対へて曰く、「臣等は僻く一方に処し、道路悠遠なり。内国に聖人有るを聞き、故に来りて朝拝す。既に労賜を蒙り、親しく聖顔を奉ず。下情、勝へて歓喜せず、願はくは長く奴僕たらんことを得ん」と。その国は西北に契丹と相接し、毎に相劫掠す。後にその使の来るに因り、高祖これを誡めて曰く、「我は契丹を憐念すること爾と異ならず。宜しく各々土境を守るべし。豈に安楽ならずや。何を為すぞ輒く相攻擊し、甚だ我が意に乖く」と。使者謝罪す。高祖因りて厚くこれを労し、令して宴飲せしむること前に於て。使者とその徒皆な舞を起こし、その曲折多く戦闘の容あり。上顧みて侍臣に謂ひて曰く、「天地の間に乃ち此の物有り、常に兵を用ふるの意を為す。何ぞ其れ甚だしきや」と。然れどもその国は隋と懸隔し、唯だ粟末・白山を以て近しとす。
流求国
流求国は、海島の中に居り、建安郡の東に当たり、水行五日にして至る。土は山洞多し。その王は姓は歓斯氏、名は渇剌兜、その由来に国代の数あるを知らず。彼の土人はこれを呼んで可老羊と為し、妻を多抜荼と曰ふ。居る所を波羅檀洞と曰ひ、壍柵三重、流水を以て環らし、棘を樹てて藩と為す。王の居る舎は、その大さ一十六間、禽獣を彫刻す。多く鬬鏤樹有り、橘に似て葉密なり。条は髪の如くに纖く、紛然として下垂す。国に四五の帥有り、諸洞を統べ、洞に小王有り。往々に村有り、村に鳥了帥有り、並びに善戦なる者を以て之を為し、自ら相樹立し、一村の事を理む。男女皆な白紵の縄を以て髪を纏ひ、項後より盤繞して額に至る。その男子は鳥の羽を以て冠と為し、珠貝を以て装ひ、赤毛を以て飾り、形製同じからず。婦人は羅紋の白布を以て帽と為し、その形正方なり。鬬鏤の皮を織り、並びに雑色の紵及び雑毛を以て衣と為し、裁製一ならず。毛を綴じ螺を垂れて飾りと為し、雑色相間じ、小貝を下垂し、その声は珮の如し。鐺を綴じ釧を施し、珠を頸に懸く。藤を織りて笠と為し、毛羽を以て飾る。刀・矟・弓・箭・劍・鈹の属有り。その処は鉄少なく、刃皆な薄小にし、多く骨角を以て之を輔助す。紵を編みて甲と為し、或いは熊豹の皮を用ふ。王は木獣に乗り、左右に令して之を轝せしめて行かしめ、導従数十人を過ぎず。小王は机に乗り、獣形に鏤む。国人は相攻擊するを好み、人皆な驍健にして走るに善く、死に難くして創に耐ふ。諸洞各々部隊を為し、相救助せず。両陣相当ふるに、勇者三五人出でて前へ跳噪し、言を交へて相罵り、因りて相撃射す。もし其れ勝たずんば、一軍皆な走り、人を遣はして謝し致し、即ち和して解く。鬬死する者を収取し、共に聚めて之を食ひ、仍て髑髏を将て王の所に向かふ。王則ち之に冠を賜ひ、隊帥と為さしむ。賦斂無く、事有れば則ち均しく税す。刑を用ふるも亦た常准無く、皆な事に臨みて科決す。犯罪は皆な鳥了帥に断ず。伏せずんば、則ち上りて王に請ふ。王、臣下に令して共に議定せしむ。獄に枷鏁無く、唯だ縄を以て縛するを用ふ。死刑を決するに鉄錐を以てし、大さ筯の如く、長さ尺余、頂を鑽りて之を殺す。軽罪は杖を用ふ。俗に文字無く、月の虧盈を望みて時節を紀し、草薬の枯るるを候ひて年歳と為す。
人は深目長鼻、頗る胡に類し、亦た小慧有り。君臣上下の節無く、拜伏の礼無し。父子同じ牀にて寝す。男子は髭鬢を抜き去り、身上に毛の有る処は皆な亦た除去す。婦人は墨を以て手に黥し、虫蛇の文と為す。嫁娶は酒肴珠貝を以て娉と為し、或いは男女相悦べば、便ち相匹偶す。婦人の産乳するは、必ず子衣を食ひ、産後に火を以て自ら灸し、汗を出さしめ、五日にして便ち平復す。木槽の中に海水を暴して塩と為し、木汁を酢と為し、米麪を釀して酒と為し、その味甚だ薄し。食は皆な手を用ふ。偶ひに異味を得れば、先づ尊者に進む。凡そ宴会有れば、酒を執る者は必ず名を呼ばれて後に飲む。王に酒を上ぐる者も、亦た王の名を呼ぶ。杯を銜へて共に飲み、頗る突厥に同じ。歌呼蹋蹄し、一人唱へば、衆皆な和し、音頗る哀怨なり。女子を膊の上に扶け、手を搖りて舞ふ。その死者は気将に絶えんとするに、庭に挙げ至らしめ、親賓哭泣して相弔ふ。その屍を浴し、布帛を以て之を纏ひ、葦草を以て裹み、土に親しみて殯し、上に墳を起さず。子の父の為る者は、数月肉を食はず。南境の風俗少しく異なり、人に死者有れば、邑里共に之を食ふ。
熊・羆・豺・狼有り、尤も多く猪・雞、牛・羊・驢・馬無し。厥の田良沃、先づ火を以て焼きて水を引きて之を灌ぐ。一插を持ち、石を以て刃と為し、長さ尺余、闊さ数寸、而して之を墾る。土は稻・粱・𢇲黍・麻・豆・赤豆・胡豆・黒豆等に宜しく、木に楓・栝・樟・松・楩・楠・杉・梓有り、竹・籐・果・薬は江表と同じく、風土気候は嶺南に相類す。
俗に山海の神を事へ、酒肴を以て祭り、鬬戦に人を殺せば、便ち将に殺する所の人を以てその神を祭る。或いは茂樹に依りて小屋を起し、或いは髑髏を樹上に懸け、箭を以て之を射ち、或いは石を累ね幡を繫ぎて神主と為す。王の居る所、壁の下多く髑髏を聚めて以て佳と為す。人間の門戸の上には必ず獣の頭骨角を安ず。
倭国
俀国は、百済・新羅の東南に在り、水陸三千里、大海の中に於て山島に依りて居る。魏の時、訳して中国に通ずること三十余国、皆な自ら王と称す。夷人は里数を知らず、但だ日を以て計ふ。その国境、東西五月行、南北三月行、各々海に至る。その地勢、東高く西下る。邪靡堆に都す。則ち《魏志》の所謂る邪馬臺なり。古く云ふ、楽浪郡の境及び帯方郡を去ること並びに一万二千里、会稽の東に在り、儋耳に相近し。
漢の光武帝の時、使者を遣わして朝見し、自ら大夫と称した。安帝の時、また使者を遣わして朝貢し、これを俀奴国と謂う。桓帝・霊帝の間、その国は大いに乱れ、互いに攻伐を繰り返し、長年にわたり主無き状態であった。女子あり、名を卑弥呼と曰い、よく鬼道をもって衆を惑わすことができた。ここにおいて国人共に立ちて王と為す。男弟あり、卑弥を佐けて国を治む。その王には侍婢千人あり、その面を見ることは稀で、ただ男子二人のみが王に飲食を給し、言語を通伝す。その王には宮室楼観あり、城柵には皆兵を持って守衛し、法を厳しくす。魏より斉・梁に至るまで、代々中国と相通ず。
開皇二十年、俀王は姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩鶏弥、使者を遣わして闕に詣でる。上は所司に命じてその風俗を訪わしむ。使者言う、「俀王は天を兄と為し、日を弟と為す。天未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺坐す。日出ずれば便ち務めを停め、『我が弟に委ぬ』と云う」。高祖曰く、「此れは大いに義理無し」。ここにおいて訓令を以てこれを改めしむ。王の妻は鶏弥と号す。後宮に女六七百人あり。太子を利歌弥多弗利と名づく。城郭無し。内官に十二等あり:一に曰く大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大礼、次に小礼、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信、員数定まらず。軍尼一百二十人あり、中国の牧宰の如し。八十戸に一つの伊尼翼を置く、今の里長の如きなり。十の伊尼翼は一つの軍尼に属す。
阿蘇山あり、その石故無くして火起こり天に接す。俗以って異と為し、因りて行い禱祭す。如意宝珠あり、その色青く、鶏卵の如く大、夜には則ち光有り、魚の眼の精なりと云う。新羅・百濟は皆俀を大国と為し、珍物多く、並びにこれを敬仰し、恒に使を通わし往来す。
史臣曰く
史臣曰く、広谷大川は制を異にし、人生其の間は俗を異にす。嗜欲同じからず、言語通ぜず。聖人は時に因りて教を設け、以てその志を達しその俗を通ぜしむ所以なり。九夷の居る所は、中夏と懸隔すれども、然れども天性柔順にして、獷暴の風無し。山海緜邈と雖も、而も道を以て御し易し。夏・殷の代、時に来王す。箕子の朝鮮に地を避くるに及び、始めて八条の禁有り、疎にして漏れず、簡にして久しき可し。化の感ずる所、千載絶えず。今遼東の諸国、或いは衣服冠冕の容に参じ、或いは飲食俎豆の器有り、経術を好尚し、文史を愛楽し、京都に遊学する者は、往来路を継ぎ、或いは亡没して帰らず。先哲の遺風に非ずして、その孰か能く此れに致さんや。故に孔子曰く、「言忠信、行篤敬、蛮貊の邦と雖も行わる」と。誠に斯の言なるかな。その俗の採る可き者は、豈徒に楛矢の貢のみならんや。高祖周の余を撫有し、此の中国を恵むより、開皇の末、方に遼左に事え、天時利あらず、師遂に功無し。二代基を承け、志宇宙を包み、頻りに三韓の域を践み、屡び千鈞の弩を発す。小国亡ぶるを懼れ、敢えて困獣に同ぜんとし、兵連れて戢えず、四海騒然たり。遂に以って土崩し、身を喪い国を滅ぼす。兵志に之を有りて曰く、「広く徳を務むる者は昌え、広く地を務むる者は亡ぶ」と。然れども遼東の地、郡県に列せられず久し。諸国朝正し奉貢し、歳時に闕くること無し。二代震いてこれを矜り、以って人己に若かずと為し、能く文徳を以って懐けず、遽かに干戈を動かす。内には富強に恃み、外には広地を思ひ、驕りを以って怨みを取り、怒りを以って師を興す。此くの如くして亡ばざるは、古より未だ之を聞かず。然らば則ち四夷の戒め、安んぞ深く念わざる可けんや。
この作品は全世界において公有領域に属する。なぜならば、作者の没後百年を経過し、かつ作品が1931年1月1日より前に出版されたからである。