隋書

巻八十列傳第四十五 列女

列女

昔より貞専にして淑媛なる者、方策に布くもの多し。婦人の徳は、柔順温和に在りと雖も、節を立て名を垂るるは、皆貞烈に資る。温和は仁の本なり、貞烈は義の資なり。温和なくしては其の仁を成す無く、貞烈なくしては其の義を顕す無し。是を以て詩書の記す所、風俗の在る所、丹青に図像し、竹素に声を流すもの、約を守りて以て正に居り、身を殺して以て仁を成さざるは莫し。文伯・王陵の母、白公・杞植の妻、魯の義姑、梁の高行、衛君霊主の妾、夏侯文寧の女の若きは、或いは信を抱きて貞を含み、或いは忠を蹈みて義を践む。存亡を以て心を易えず、盛衰を以て節を改めず、其の修名は既往に彰け、徽音は不朽に伝わる。亦休なるかな。或いは王公大人の妃偶有りて、淫僻の俗に情をほしいままにし、繍衣を衣、珍膳を食し、金屋に坐し、玉輦に乗すと雖も、彤管の書に入らず、良史の筆にうるおわず、草木と倶に落ち、麋鹿と同死するにはかる。げて道うべきか。永く言いて思うに、実に庶姫の恥なり。今の静女を観るに、各々松筠の操を励まし、玉折れ蘭摧さいするを甘んずるは、以て今古を絶えしむるに足る。故に其の雅志を述べて、以て前代の列女を纂ぶと云う。

蘭陵公主

蘭陵公主、字は阿五、高祖こうその第五女なり。姿儀美しく、性婉順にして、読書を好む。高祖諸女の中に於いて特に鍾愛す。初め儀同王奉孝に嫁ぎ、卒す。河東柳述にく、時に年十八。諸姉並びに驕貴なるも、主独り節を折りて婦道に遵い、舅姑につかえて甚だ謹み、疾病有るに遇えば、必ず親しく湯薬を奉ず。高祖之を聞きて大いに悦ぶ。是れより述漸く寵遇を見る。初め、晋王広、主を以て其の妃の弟蕭瑒に配せんと欲し、高祖初め之を許す。後に遂に述に適す。晋王因りて悦ばず。及んで述用事するに及び、いよいよ之を悪む。高祖既に崩じ、述嶺表にうつる。煬帝、主に命じて述と離絶せしめ、将に改嫁せんとす。公主は死を以て自ら誓い、復た朝謁せず、表を上りて主号を免じ、述と同徙せんことを請う。帝大怒して曰く、「天下豈に男子無からんや、述と同徙せんと欲するか」と。主曰く、「先帝妾を以て柳家に適せしむ。今其れ罪有り。妾当に従坐すべし。陛下の法を屈し恩を申さるるを願わず」と。帝従わず。主憂憤して卒す。時に年三十二。臨終に表を上りて曰く、「昔共姜自ら誓い、前詩に美を著す。鄎媯言わず、往誥に芳を伝う。妾罪を負うと雖も、ひそかに古人を慕う。生既に夫に従うを得ず、死して柳氏に葬らんことを乞う」と。帝之を覧みていよいよ怒り、ついに哭せず。乃ち主を洪瀆川に葬り、資送甚だ薄し。朝野之を傷む。

南陽公主

南陽公主は、煬帝の長女なり。風儀美しく、志節有り、造次必ず礼を以てす。年十四、許国公宇文述の子士及に嫁ぎ、謹肅を以て聞こゆ。及んで述病みてまさに卒せんとするや、主視て飲食を調え、手ずから奉上す。世是れを以て之を称す。及んで宇文化及殺逆するに及び、主聊城に随いて至る。而して化及竇建德に敗れられ、士及済北より西帰して大唐に帰す。時に隋代の衣冠並びに其の所に在り。建德之を引見す。惶懼して常を失わざるは莫し。唯だ主のみ神色自若たり。建德と語るに、主自ら国破れ家亡ぶるを陳べ、怨みを報い恥を雪ぐ能わざるを述べ、淚襟にち、声辞輟まず、情理切至なり。建德及び観聴する者之が為に動容隕涕せざるは莫く、皆粛然として敬異す。及んで建德化及を誅するに及び、時に主一子有り、名は禅師、年且まさに十歳。建德武賁郎将於士澄を遣わして主に謂いて曰く、「宇文化及躬みずから殺逆を行い、人神の容れざる所なり。今将に其の家を族滅せんとす。公主の子は、法当に従坐すべし。若し愛を割く能わざれば、亦留むるをゆるす」と。主泣いて曰く、「武賁既に隋室の貴臣なり。此事何ぞ見問をもちいんや」と。建德竟ついに之を殺す。主尋まもなく建德に請いて髪を削ぎ尼と為る。及んで建德敗れ、将に西京に帰せんとす。復た士及と東都の下に遇う。主之と相見えず。士及之に就き、戸外に立ち、復た夫妻たることを請う。主之を拒ぎて曰く、「我君と仇家なり。今恨むらくは君を手刃する能わざるのみ。但だ謀逆の日、君預あずかり知らざるを察するが故なり」と。因りて告絶し、しかりて速やかに去らしむ。士及固く之を請う。主怒りて曰く、「必ず就死せんと欲せば、相見ゆる可し」と。士及其の言切なるを見、屈す可からざるを知り、乃ち拝辞して去る。

襄城王恪妃

襄城王恪妃は、河東柳氏の女なり。父旦、循州刺史。妃姿儀端麗、年十余り、良家の子として法相に合い、へいして以て妃と為す。未幾にして恪廃せらる。妃婦道を修め、之に事えて愈敬す。煬帝位を嗣ぎ、恪復た辺に徙る。帝使者をして之を道に殺さしむ。恪と辞訣す。妃曰く、「若し王死せば、妾誓って独り生くる無からん」と。是に於いて相対して慟哭す。恪既に死し、棺斂かんれんおわる。妃使者に謂いて曰く、「妾楊氏と同穴ならんと誓う。若し身死の後別に埋められざるを得ば、君の恵なり」と。遂に棺をして号慟し、自経して卒す。見る者之が為に涕流せざるは莫し。

華陽王楷妃

華陽王楷妃は、河南元氏の女なり。父岩、性明敏、気幹有り。仁寿中、黄門侍郎と為り、龍涸県公に封ぜらる。煬帝位を嗣ぎ、柳述と連事するに坐し、名を除かれて民と為り、南海に徙る。後赦に会い、長安ちょうあんに還る。或人岩の逃帰するをそしり、収めて之を殺す。妃姿色有り、性婉順、初め選ばれて妃と為る。未幾にして楷幽廃せらる。妃楷に事えて愈謹み、楷に憂懼の色有るを見れば、すなわち義理を陳べて以て之を慰諭す。楷甚だ之を敬す。及んで江都の乱、楷宇文化及の逆に遇い、妃を以て其の党元武達に賜う。武達初め宗族の礼を以てし、之を別舎に置く。後酔いに因りて之を逼る。妃自ら誓いて屈せず。武達怒り、之を百余り撻つ。辞色弥いよいよ厲し。因りてかわらを取って自ら其の面をやぶり、血淚交まじって下る。武達之を釈す。妃其の徒に謂いて曰く、「我早く死する能わず、致して将に侵辱を見んとす。我が罪なり」と。因りて食わずして卒す。

譙国夫人

譙國夫人は、高涼の洗氏の娘である。代々南越の首領として、山洞を跨ぎ支配し、部落十余万戸を有した。夫人は幼少より賢明で、謀略に長け、父母の家にあって部衆を撫循し、軍を動かし師を用いて諸越を圧服することができた。常に親族に善をなすよう勧めたため、信義が本郷に結ばれた。越人の習俗は互いに攻撃することを好み、夫人の兄である南梁州刺史の洗挺は、その富強を恃み、傍郡を侵掠したので、嶺表はこれを苦しんだ。夫人はしばしば諫言し、これにより怨みの隙は止み、海南・儋耳より帰附するもの千余洞に及んだ。梁の大同の初め、羅州刺史の馮融が夫人に志行あることを聞き、その子である高涼太守の馮宝に娶らせて妻とした。馮融は元来北燕の末裔であり、初め馮弘が高麗に奔った際、馮融の祖父の馮業を三百人とともに海を渡らせて宋に帰順させ、新会に留まらせた。馮業より馮融に至るまで、三代にわたり守牧を務めたが、他郷に寄寓していたため、号令は行われなかった。ここに至り、夫人は本宗を戒め約束させ、民礼に従わせた。常に馮宝とともに辞訟を参決し、首領に犯法ある者は、たとえ親族であっても容赦せず、これにより政令に秩序が生じ、人敢て違う者なし。侯景の反乱に遇い、広州都督ととくの蕭勃が台城救援の兵を徴した。高州刺史の李遷仕が大皋口に拠り、馮宝を召し寄せた。馮宝は行かんとしたが、夫人はこれを止めて曰く、「刺史は故なくして太守を召すべきにあらず、必ずや君を欺き共に反逆せんとするなり。」馮宝曰く、「何をもってこれを知るか。」夫人曰く、「刺史は召されて台城を援けんとし、しかるに病と称し、兵器を鋳造し衆を集め、その後君を喚ぶ。今もし往かば、必ずや質を留め、君の兵衆を追わん。この意は見えたり、願わくは暫く行かず、その勢いを観察せよ。」数日後、李遷仕は果たして反し、主帥の杜平虜を遣わして兵を率い灨石に入らせた。馮宝はこれを知り、急ぎ告げると、夫人曰く、「平虜はぎょう将なり、兵を領して灨石に入れば、即ち官兵と相拒し、還るを得ず。遷仕は州にあって、為す能わざるなり。もし君自ら往かば、必ず戦闘あらん。宜しく使者を遣わしてこれを欺き、卑辞厚礼をもって、身は未だ敢えて出でず、婦を遣わして参らせんと欲すと云うべし。彼これを聞けば喜び、必ず防慮なからん。ここにおいて我れ千余人を将い、歩いて雑物を担ぎ、賧を輸ずると唱え、柵下に至るを得ば、賊は必ず図るべし。」馮宝これに従うと、李遷仕は果たして大いに喜び、夫人の衆が皆物を担ぐのを窺い、備えを設けず。夫人これを撃ち、大勝した。李遷仕は遂に走り、寧都に保った。夫人は兵を総べ、長城侯の陳先と灨石で会した。還って馮宝に謂いて曰く、「陳都督は大いに畏るべく、極めて衆心を得たり。我れこの人を観るに必ず賊を平らげん、君宜しく厚く資すべし。」

馮宝が卒すると、嶺表は大いに乱れ、夫人は百越を懐集し、数州は晏然たり。陳の永定二年に至り、その子の馮僕は年九歳にして、諸首領を帥いて丹陽に朝し、起家して陽春郡守に拝された。後に広州刺史の歐陽紇が謀反し、馮僕を高安に召し寄せ、誘って乱に与からしめんとした。馮僕は使者を遣わして帰り夫人に告げると、夫人曰く、「我れ忠貞を為すこと、今に至るまで二代、汝を惜しむこと能わず、すなわち国家に背かん。」遂に兵を発して境を拒ぎ、百越の酋長を帥いて章昭達を迎えた。内外よりこれを逼れば、歐陽紇の徒は潰散した。馮僕は夫人の功により、信都侯に封ぜられ、平越中郎将を加えられ、石龍太守に転じた。詔して使持節を以て夫人を冊し中郎将・石龍太夫人と為し、繍幰油絡の駟馬安車一乗を賜い、鼓吹一部を与え、並びに麾幢旌節を授け、その鹵簿は刺史の儀に同じ。至徳年中、馮僕卒す。後に陳国滅亡に遇い、嶺南は未だ附くところなく、数郡共に夫人を奉じて聖母と号し、境を保ち民を安んじた。

高祖は総管の韋洸を遣わして嶺外を安撫せしめたが、陳の将の徐璒が南康に拠って拒守した。韋洸は嶺下に至り、逡巡して敢えて進まず。初め、夫人は扶南の犀杖を陳主に献じていたが、ここに至り、晉王の楊広が陳主の遺した書を夫人に送り、国亡びたるを諭して帰化を命じ、併せて犀杖及び兵符を信と為した。夫人は杖を見て、陳の滅亡を験知し、首領数千を集め、終日慟哭した。その孫の馮魂を遣わして衆を帥い韋洸を迎えさせ、広州に入り、嶺南は悉く平定した。馮魂を儀同三司に表し、夫人を宋康郡夫人に冊した。未だ幾ばくもせず、番禺の人王仲宣が反し、首領皆これに応じ、韋洸を州城に囲み、兵を進めて衡嶺に屯した。夫人は孫の馮暄を遣わして師を帥い韋洸を救わしめた。馮暄は逆党の陳佛智と素より友善であったため、遅留して進まなかった。夫人これを知り、大いに怒り、使者を遣わして馮暄を執らせ、州獄に繋いだ。また孫の馮盎を遣わして出でて佛智を討たせ、戦いに克ち、これを斬った。兵を進めて南海に至り、鹿願の軍と会し、共に仲宣を破った。夫人自ら甲を被り、介馬に乗り、錦傘を張り、彀騎を領し、詔使の裴矩を衛して諸州を巡撫し、蒼梧の首領陳坦・岡州の馮岑翁・梁化の鄧馬頭・藤州の李光略・羅州の龐靖等皆来り参謁した。還ってその部落を統べさせ、嶺表は遂に平定した。高祖はこれを異とし、馮盎を高州刺史に拝し、仍お馮暄を赦し出して羅州刺史に拝した。馮宝を追贈して広州総管・譙国公と為し、夫人を冊して譙国夫人と為した。宋康邑を以て馮僕の妾の洗氏に回授した。仍お譙国夫人の幕府を開き、長史以下の官属を置き、印章を与え、部落六州の兵馬を発することを聴し、若し機急あれば便宜を行わしめた。勅書を降して曰く、「朕は蒼生を撫育し、情は父母に均しく、率土を清浄にし、兆庶を安楽ならしめんと欲す。而るに王仲宣等はすなわち相集い結び、彼の民を擾乱す、ここに往きて誅翦せしむる所以は、百姓の為に害を除かんがためなり。夫人の情は国を奉ずるに在り、深く正理を識り、遂に孫の馮盎をして佛智を斬獲せしめ、竟に群賊を破り、甚だ大功有り。今夫人に物五千段を賜う。馮暄は進まずして愆有り、誠に罪責に合うべし、夫人この誠効を立てしを以て、故に特ち原み免く。夫人宜しく子孫を訓導し、礼教を敦崇し、朝化を遵奉し、以て朕が心に副うべし。」皇后は首飾及び宴服一襲を賜い、夫人は併せて金篋に盛り、並びに梁・陳の賜物を各々一庫に蔵めた。毎歳時の大会には、皆庭に陳べて子孫に示し、曰く、「汝等宜しく赤心を尽くして天子に向うべし。我れ三代の主に事え、唯だ一つの好心を用う。今賜物具に存す、これ忠孝の報いなり、願わくは汝皆これを思念せよ。」

時に番州総管の趙訥は貪虐にして、諸俚獠多く亡叛す。夫人は長史の張融を遣わし封事を上せしめ、安撫の宜しきを論じ、併せて趙訥の罪状を言い、遠人を招懐すべからざるを述べた。上は趙訥を推問せしめ、その贓賄を得て、竟に法に致した。勅を降して夫人に亡叛の招慰を委ねた。夫人は親しく詔書を載せ、自ら使者と称し、十余州を歴て、上意を宣述し、諸俚獠を諭し、至る所皆降った。高祖はこれを嘉し、夫人に臨振県を湯沐邑として賜い、一千五百戸。馮僕を追贈して岩州総管・平原郡公と為した。仁寿の初め、卒す。賻物一千段を賜い、諡して誠敬夫人と為す。

鄭善果の母

鄭善果の母は、清河の崔氏の女である。十三歳の時、鄭誠に嫁ぎ、善果を生んだ。ところが誠は尉遅迥を討伐し、力戦して陣中に死した。母は二十歳で寡婦となり、父の彦穆がその志を変えさせようとしたが、母は善果を抱いて彦穆に言うには、「婦人に再び男子に会う義はない。しかも鄭君は死んだとはいえ、幸いにこの子がある。子を棄てるのは慈愛に反し、死者に背くのは礼に悖る。寧ろ耳を切り髪を断って、この素心を明らかにしよう。礼に背き慈愛を滅ぼすことは、敢えて命に従うことはできない」と。善果は父が王事に死したため、数歳にして使持節・大将軍に拝され、開封県公の爵を襲い、邑一千戸を賜った。開皇の初め、武徳郡公に進封された。十四歳の時、沂州刺史に授けられ、景州刺史に転じ、まもなく魯郡太守となった。

母は性質賢明で、節操があり、広く書史に渉猟し、治世の方法に通暁していた。善果が政務を聴くたびに、母は常に胡床に坐り、障子の後ろからこれを観察した。その裁断が理に適っていると聞けば、帰ると大いに喜び、すぐに座を賜って相対して談笑した。もし行いが妥当でなかったり、あるいは妄りに怒りを発したりすると、母は堂に戻り、被をかぶって泣き、終日食事をとらなかった。善果は床前に伏し、敢えて起き上がることもできなかった。母がようやく起きてこれに言うには、「私は汝を怒っているのではない、汝の家を恥じているのだ。私は汝の家の嫁として、洒掃を奉じることを得たが、汝の先君は忠勤の士であり、官にあって清廉謹直で、私事を問うたことはなく、身を以て国に殉じ、死をもってこれを継いだ。私もまた汝がこの心に副うことを望んでいる。汝は幼くして孤となり、私は寡婦である。慈愛はあっても威厳がなく、汝に礼訓を知らしめないのであれば、どうして忠臣の業を負荷することができようか。汝は童子の身で茅土を承襲し、位は方伯に至ったが、これは汝自身の力によるものだろうか。どうしてこのことを思わずに妄りに怒りを加え、心が驕楽に縁って、公政を堕すことがあろうか。内には汝の家風を墜とし、あるいは官爵を失い、外には天子の法を損ない、罪戾を取ることになる。私が死んだ日、何の面目あって汝の先人に地下で会うことができようか」と。

母は常に自ら紡績し、夜半に眠った。善果が言うには、「子は封侯開国し、位は三品にあり、秩俸は幸いに足りています。母はどうしてこのように自ら勤労なさるのですか」と。答えて言うには、「ああ、汝はもう年長になったので、天下の道理を知っていると思っていたが、今この言葉を聞くと、まだそうではないようだ。公事について、どうして成し遂げられようか。今この秩俸は、天子が汝の先人の殉命に報いるものである。まさに六親に散じて贍わしめ、先君の恵みとすべきである。妻子がどうして独りその利を擅にして、富貴とすることができようか。また糸麻を紡ぎ織ることは、婦人の務めであり、上は王后から、下は大夫・士の妻に至るまで、それぞれ制することがある。もし業を堕すならば、それは驕逸である。私は礼を知らないとはいえ、どうして自ら名を敗ることができようか」と。初めて寡婦となって以来、脂粉を用いず、常に大練の服を着た。性質はまた倹約で、祭祀や賓客の事でなければ、酒肉を妄りに前に陳べることはなかった。静室に端居し、みだりに門閣を出ることはなかった。内外の姻戚に吉凶の事があれば、ただ厚く贈遺を加えるだけで、皆その家に詣でることはなかった。自らの手で作ったもの及び荘園や禄賜で得たものでなければ、たとえ親族からの礼の贈り物であっても、すべて門に入れることを許さなかった。

善果は州郡を歴任する間、ただ内から自ら出した食事を、衙中で食べ、公廨から供給されるものは、すべて受け取ることを許さず、悉く廨宇を修治し、僚佐に分け与えた。善果もまたこれによって己を克し、清吏と称された。煬帝は御史大夫の張衡を遣わしてこれを労い、考課して天下第一とした。征されて光禄卿に授けられた。その母が卒した後、善果は大理卿となり、次第に驕恣になり、清廉公平で妥当なことは、かつてのようではなくなった。

孝女王舜

孝女王舜は、趙郡の王子春の女である。子春は従兄の長忻と仲が悪く、斉が滅亡する際に、長忻はその妻と共謀して子春を殺した。舜は当時七歳で、二人の妹がおり、粲は五歳、璠は二歳で、共に孤苦となり、親戚に寄食した。舜は二人の妹を撫育し、恩義は甚だ篤かった。そして舜は密かに復讐の心を抱き、長忻は全く備えをしなかった。姉妹共に成長し、親戚が嫁がせようとすると、常に拒んで従わなかった。そこで密かに二人の妹に言うには、「私には兄弟がおらず、父の仇を復することができない。我々は女子ではあるが、どうして生きている必要があろうか。私は汝らと共に報復したいと思うが、汝らの考えはどうか」と。二人の妹は共に涙を流して言うには、「ただ姉の命に従います」と。その夜、姉妹はそれぞれ刀を持って牆を越えて入り、自ら長忻夫妻を殺し、父の墓に告げた。そこで県に詣でて罪を請うたが、姉妹は争って謀首となったため、州県は決することができなかった。高祖はこれを聞いて嘉歎し、特にその罪を赦した。

韓覬の妻

韓覬の妻は、洛陽らくようの於氏の女で、字は茂徳、父は実、周の大左輔である。於氏は十四歳の時、覬に嫁いだ。膏腴に生まれ育ち、家門は鼎盛であったが、行動は礼度に遵い、自ら倹約し、宗党はこれを敬った。十八歳の時、覬が従軍して戦死すると、於氏は哀毀して骨立し、慟哭は行路の人をも感動させた。朝夕の奠祭に至るたび、皆自ら捧げ持った。喪が明けた後、その父は彼女が幼少で子がないため、再嫁させようとしたが、異志のないことを誓った。さらに家人に敦諭させると、於氏は昼夜泣き、髪を切って自ら誓った。その父は喟然として感傷し、遂にその志を奪わなかった。そこで夫の孽子の世隆を養って嗣とし、身自ら撫育し、愛すること己が子と同じくし、訓導に方があり、遂に成立させることができた。孀居して以後は、ただ時折帰寧するだけで、親族の家には絶えて往来しなかった。尊卑の者が省謁に来れば、送迎も皆戸庭を出なかった。蔬食布衣で、声楽を聴かず、このようにして終生を過ごした。高祖はこれを聞いて嘉歎し、詔を下して褒め称え、その門閭を表彰し、長安中では節婦闕と号した。家で終わり、七十二歳であった。

陸譲の母

陸譲の母は、上党の馮氏の女である。性質は仁愛で、母儀があり、譲はその孽子である。仁寿年中、番州刺史となり、しばしば聚斂を行い、贓貨は狼籍で、司馬によって奏上された。上は使者を遣わしてこれを按問させると、すべて事実であったので、そこで譲を囚えて長安に送り、親臨して問うた。譲は冤罪を称したので、上はさらに治書侍御史に撫按させたが、状は前と変わらなかった。そこで公卿百僚に議させると、皆「譲の罪は死に当たる」と言った。詔してその奏を許可した。譲が刑に就こうとした時、馮氏は蓬頭垢面で朝堂に詣で、譲を数えて言うには、「汗馬の労もなく、刺史の位に至りながら、誠を尽くして国に奉じ、鴻恩に答えることができず、かえって憲章に違犯し、贓貨は狼籍である。もし司馬が汝を誣うと言うなら、百姓百官もまた皆汝を誣うはずがない。もし至尊が汝を憐愍しないと言うなら、どうして治書が汝を覆按したのか。誠臣と言えようか。孝子と言えようか。誠でなく孝でなければ、どうして人たることができようか」と。そこで涙を流して嗚咽し、自ら盂粥を持って譲に食べるよう勧めた。まもなく上表して哀れみを求め、言葉の情は甚だ切実であったので、上は湣然として顔色を改めた。献皇后はその意を甚だ奇とし、上に請うた。治書侍御史の柳彧が進み出て言うには、「馮氏の母徳は至極であり、行路の人をも感動させている。もしこれを殺すならば、どうして勧めとすることができようか」と。上はそこで京城の士庶を朱雀門に集め、舎人を遣わして詔を宣べさせて言うには、「馮氏は嫡母の徳を備え、世の範とするに足り、慈愛の道は、義が人神を感動させる。特に矜み免すべきで、風俗を奨励するために用いよ。譲は死罪を減じて、除名して民とせよ」と。さらに詔を下して言うには、「馮氏は仁慈を体備し、夙に礼度にならう。孽子の譲は彼女の生んだ子ではないが、往って憲章を犯し、極法に従うべきである。躬自ら闕に詣で、そのために命を請い、匍匐頓顙した。朕はその義を哀れみ、特に死罪を免ず。天下の婦人皆馮氏のようであれば、豈に閨門雍睦し、風俗和平しないことがあろうか。朕は常に嘉歎して已むことができない。宜しく優賞を標揚し、以て有徳を章すべし。物五百段を賜うべし」と。諸命婦を集め、馮と相見せしめ、以て寵異とした。

劉昶の女

劉昶の娘は、河南の長孫氏の妻である。劉昶は周に仕え、公主を娶り、柱国・彭国公に至り、数度将帥を務め、位望は隆盛であった。高祖とは旧知であった。高祖が禅譲を受けると、甚だ親任され、左武衛大将軍・慶州総管を歴任した。その子の居士は、太子千牛備身となり、徒党を集めて任侠を好み、法度に従わず、数度罪を得た。帝は劉昶の故を以て、毎度これを宥した。居士はますます恣に振る舞い、常に大言して曰く、「男児たるものは、髪を辮い頭を反縛し、籧篨の上で獠舞を舞うべきである」と。公卿の子弟で膂力雄健なる者を取っては、家に連れて行き、車輪を以てその頸を括り棒で打った。死に瀕して屈せざる者を、壮士と称し、釈放して交わりを結んだ。党与三百人、その捷敏なる者を餓鶻隊と号し、武力ある者を蓬転隊と号した。毎度鷹を韝し犬を絏し、騎を連ねて道中を進み、路人を毆撃し、多く侵奪した。長安市里の貴賤を問わず、これを見る者は皆辟易し、公卿妃主に至るまで、敢えて抗う者無し。その娘は居士の姉であるが、常に涙を垂れてこれを諭し、殷勤懇惻であった。居士は改めず、遂に家産を破るに至った。劉昶は年老い、奉養は甚だ薄かった。その娘は時に寡居し、劉昶のこの様を哀れみ、毎度帰寧しては、自ら紡績に勤め、甘脆なる食物を供えた。或る者が居士が徒党と長安城を遊行し、故未央殿の基壇に登り、南に向かって坐し、前後に隊列を並べ、不遜の意あり、常に相約して曰く、「一死すべきのみ」と。また時に居士が使者を遣わして突厥を引き入れ、南寇させ、京師に於いて応ずべしと云う者あり。帝は劉昶に謂いて曰く、「今日の事、復た如何すべきか」と。劉昶はなお旧恩を恃み、自ら咎を引かず、直ちに進みて曰く、「黒白は至尊に在り」と。帝は大いに怒り、劉昶を獄に下し、居士の党与を捕え、これを治めること甚だ急であった。憲司はまた劉昶が母に孝ならざるを奏した。その娘は劉昶が必ず免れざるを知り、数日食わず、常に自ら飲食を調え、手ずから捧げ持ち、大理に詣でて父に饋った。獄卒を見れば、長跪して進め、歔欷嗚咽し、見る者これを傷んだ。居士は斬罪に坐し、劉昶は遂に家に於いて死を賜った。詔して百僚に臨視せしむ。時にその娘は絶えて復た蘇ること数度、公卿これを慰諭す。その娘は父に罪無く、子に坐して禍に及ぶと云う。詞情哀切、人皆聞見に忍びず。遂に布衣蔬食以てその身を終えた。帝聞きて歎じて曰く、「吾聞く、衰門の女、興門の男、固より虚しからずと」と。

鐘士雄の母

鐘士雄の母は、臨賀の蔣氏の女である。士雄は陳に仕えて伏波将軍となった。陳主は士雄が嶺南の酋帥なるを以て、その反覆を慮り、常に蔣氏を都下に質とした。晋王広が江南を平らげるに及び、士雄が嶺表に在るを以て、恩義を以てこれを致さんと欲し、蔣氏を帰臨賀せしめた。既にして同郡の虞子茂・鐘文華等乱を起こし、兵を挙げて城を攻め、人を遣わして士雄を召す。士雄応えんとす。蔣氏は士雄に謂いて曰く、「我前に揚都に在りて、辛苦を備嘗す。今聖化に逢い、母子聚集す。没身も以て上報すること能わず、焉んぞ逆を為さんや。汝若し禽獣の心を為し、徳に背き義を忘るる者は、我まさに汝が前に自殺せん」と。士雄はここに於いて遂に止む。蔣氏はまた書を子茂等に与え、禍福を諭す。子茂従わず、尋いで官軍に敗る。帝蔣氏のことを聞き、甚だこれを異とし、安楽県君に封ず。

時に尹州の寡婦胡氏なる者あり、何氏の妻なるか知らず、甚だ志節あり、邦族に重んぜらる。江南の乱に当たり、宗党を諷諭し、皆険を守り叛逆に従わず。密陵郡君に封ぜらる。

孝婦覃氏

孝婦覃氏は、上郡の鐘氏の妻である。その夫と相見えて未だ幾ばくもせずして夫死す。時に年十八。後姑に事えて孝を以て聞こゆ。数年之間に、姑及び伯叔皆相継いで死す。覃氏家貧しく、以て葬る無し。ここに於いて躬自ら節儉し、昼夜紡績し、財を蓄えて十年、八喪を葬る。州里に敬せられ、帝聞きて米百石を賜い、その門閭を表す。

元務光の母

元務光の母は、范陽の盧氏の女である。少くより書を読み好み、造次にも礼を以てす。盛年にして寡居し、諸子幼弱、家貧しく学に就くこと能わず。盧氏は常に自ら教授し、義方を以て勖め、世これをもって称す。仁寿末、漢王諒兵を挙げて反す。将綦良を遣わして山東に地を略ましむ。良は務光を記室とす。及び良敗るるに及び、慈州刺史上官政、務光の家を簿籍し、盧氏を見て、悦びてこれを逼る。盧氏は死を以て自ら誓う。政は人兇悍にして、怒り甚だしく、燭を以てその身を焼く。盧氏は志を執ること弥固く、遂に節を屈せず。

裴倫の妻

裴倫の妻は、河東の柳氏の女である。少くより風訓あり。大業末、倫は渭源令となる。薛挙の乱に属し、県城賊の陷すところとなり、倫害に遇う。柳氏時に年四十、二女及び児婦三人あり、皆美色なり。柳氏これに謂いて曰く、「我輩禍乱に遭逢し、汝が父既に死す。我自ら念う、汝を全うすること能わずと。我が門風素より有り、義群賊の辱を受けず。我まさに汝らとともに死せんとす、如何」と。その女等皆涙を垂れて曰く、「唯母の命する所に従う」と。柳氏遂に自ら井に投じ、その女及び婦相継いで下り、皆重ねて井中に死す。

趙元楷の妻

趙元楷の妻は、清河の崔氏の女である。父儦は『文学伝』に在り。家に素範あり、子女皆礼度に遵う。元楷の父は僕射たり、家財に富み、その門望を重んじ、厚礼を以てこれを聘す。元楷は崔氏を甚だ敬し、宴私に在りと雖も、妄りに言笑せず、進止容服、動けば礼儀に合う。化及の反するに及び、元楷は随いて河北に至り、将に長安に帰らんとす。滏口に至り、盗に遇い攻掠せられ、元楷は僅かに身を免る。崔氏は賊に拘えられ、賊請うて以て妻と為さんとす。崔氏は賊に謂いて曰く、「我は士大夫の女、僕射の子の妻たり。今日破亡す、自ら即ち死すべし。賊の婦と遣わさるるは、終に必ず能わず」と。群賊その衣を毀裂し、形體悉く露わにし、床簀の上に縛し、将にこれを凌がんとす。崔氏は辱めらるるを懼れ、これを詐りて曰く、「今力已に屈す、まさに処分を聴くべく、敢えて相違せず。縛を解かんことを請う」と。賊遽かにこれを釈す。崔氏因りて衣を著け、賊の佩刀を取り、樹に倚りて立って曰く、「我を殺さんと欲せば、任せて刀鋸を加えよ。若し死を覓めば、来りて相逼らば可なり」と。賊大いに怒り、乱射してこれを殺す。元楷後ち妻を殺す者を得、これを支解し、以て崔氏の柩に祭る。

【論】

史臣曰く、婦人の徳を称するは、皆柔順を以て先と為す。これはその中庸を挙ぐるのみで、未だその極に臻らざるなり。明識遠図に至り、貞心峻節、志奪うべからず、唯義の在る所に在るを考うるに、図史に、亦何の世にか之れ無からんや。蘭陵主の質は寒松を邁り、南陽主の心は匪石を踰え、洗おう孝女の忠壮、崔・馮二母の誠懇は、足りて義勇をしてその志烈に慚じしめ、蘭玉をしてその貞芳に謝せしむ。襄城・華陽の妃、裴倫・元楷の婦は、時に艱阻に逢い、事好合に乖くも、甘心同穴し、顛はい它無く、志は氷霜を勵まし、言は皎日を踰ゆ。『詩』に共薑の自誓を詠じ、『伝』に伯姫の守死を述ぶるも、その将に復た何を以てか之れを加えんや。