隋書

巻079

卷七十九 列傳第四十四 外戚

卷七十九 列傳第四十四 外戚

原文卷七十九列傳第四十四 外戚 ► 列女

序

原文序

歴代の外戚の家を観るに、母后の権勢を乗じて高位厚禄を得る者は多い。しかしながら、善終を全うする美事は少なく、必ず顛覆の禍患に罹る。何故か。皆、徳無くして尊ばれ、限度を知らず、満盈の戒めを忽せにし、高危の咎を省みないが故に、鬼神がその室を窺い、憂い必ずこれに及ぶのである。艱難に誠を著し、功を社稷しゃしょくに宣べたる者ですら、謙沖をもって自らを治めなければ、顛蹶の禍を免れず、ましてや道が時を済すに足らず、仁が物を利するに足らず、己を矜り、富貴をもって人に驕る者においてをや。これが呂氏、霍氏、上官氏、閻氏、梁氏、竇氏、鄧氏が踵を継いで亡滅した所以である。昔、文皇帝(文帝ぶんてい楊堅)が潜躍の際、献皇后(独孤伽羅)は便ち推轂し、煬帝ようだいが大横の兆し方に在りし時、蕭妃は密勿として経綸した。ここにおいて恩礼綢繆たるも、終始変易せず。然れども内外の親戚、朝権に預かる者はなく、昆弟在位するも、殊寵は無かった。玉堂を擅にし、家を金穴と称え、光を戚里に輝かせ、四方に重く灼けるが如く、三司を以て儀を比べ、五侯を命じて同拜せしむるような者は、一代を通じ、寂として聞こえることが無かった。前代の王者を考うれば、その弊を矯めたと言えよう。故に時は擾攘を経るも、不義に陥る者は無く、市朝遷貿するも、皆保全を得たのである。寵私に憑藉し、恩沢に階縁し、その非拠に乗じて、旋って顛隕する者と比べれば、豈に同日に言うべきであろうか。これ即ち礼を以て愛し、覆車を改むる能うことを謂うのである。ここにその事を叙し、『外戚伝』と為す。

原文曆觀前代外戚之家,乘母后之權以取高位厚秩者多矣,然而鮮有克終之美,必罹顛覆之患,何哉?皆由乎無德而尊,不知紀極,忽于滿盈之戒,罔念高危之咎,故鬼瞰其室,憂必及之。夫其誠著艱難,功宣社稷,不以謙沖自牧,未免顛蹶之禍,而況道不足以濟時,仁不足以利物,自矜於己,以富貴驕人者乎?此呂、霍、上官、閻、梁、竇、鄧所以繼踵而亡滅者也。昔文皇潛躍之際,獻後便相推轂,煬帝大橫方兆,蕭妃密勿經綸,是以恩禮綢繆,始終不易。然內外親戚,莫預朝權,昆弟在位,亦無殊寵。至於居擅玉堂,家稱金穴,暉光戚裡,重灼四方,將三司以比儀,命五侯而同拜者,終始一代,寂無聞焉。考之前王,可謂矯其弊矣。故雖時經擾攘,無有陷於不義,市朝遷貿,而皆得以保全。比夫憑藉寵私,階緣恩澤,乘其非據,旋就顛隕者,豈可同日而言哉!此所謂愛之以禮,能改覆車。輒敘其事,為《外戚傳》云。

外戚

原文外戚

高祖の外家 呂氏

原文高祖外家呂氏

高祖こうその外家の呂氏は、その一族は微賤であり、北斉を平定した後、訪ね求めたが所在を知らなかった。開皇かいこうの初めに至り、済南郡が上言して、男子呂永吉という者がおり、姑に苦桃という字あざなの者がいて、楊忠の妻であったと自称した。勘験して舅の子であることを知り、始めて外祖父の呂双周を追贈して上柱国・太尉・八州諸軍事・青州刺史とし、斉郡公に封じ、諡して敬と曰い、外祖母の姚氏を斉敬公夫人とした。詔して共に改葬し、斉州に廟を立て、守塚十家を置いた。永吉に爵を襲封させ、京師に留めた。大業たいぎょう年間、上党郡太守に任じたが、性質・識見は庸劣で、職務を治めなかった。後に官を去り、行方知れずとなった。

原文高祖外家呂氏,其族蓋微,平齊之後,求訪不知所在。至開皇初,濟南郡上言,有男子呂永吉,自稱有姑字苦桃,為楊忠妻。勘驗知是舅子,始追贈外祖雙周為上柱國、太尉、八州諸軍事、青州刺史,封齊郡公,諡曰敬,外祖母姚氏為齊敬公夫人。詔並改葬,于齊州立廟,置守塚十家。以永吉襲爵,留在京師。大業中,授上党郡太守,性識庸劣,職務不理。後去官,不知所終。

永吉の従父おじの呂道貴は、性質は特に頑愚で、言詞は鄙陋であった。初め郷里から長安ちょうあんに徴し入れられ、上(文帝)はこれを見て悲泣した。道貴は少しも悲しむ様子がなく、ただ高祖の名を連呼して、「種は未だ定まらず、盗むべからず。苦桃の姉に大いに似ている」と言った。この後、数度禁忌を犯し、動もすれば違忤を致し、上は甚だこれを嫌った。そこで高熲に命じて厚く供給させ、朝士と接対することを許さなかった。上儀同三司に拝し、済南太守として出され、即時に任地に赴かせ、入朝を断たせた。道貴は本郡に還ると、自らを高く崇め重んじ、人と語る毎に、自ら皇舅と称した。しばしば儀衛を率いて閭里に出入りし、故人と遊宴し、官民共にこれを苦しんだ。後に郡が廃止され、家で没し、子孫は聞こえることが無かった。

原文永吉從父道貴,性尤頑騃,言詞鄙陋。初自鄉里征入長安,上見之悲泣。道貴略無戚容,但連呼高祖名,雲:「種末定不可偷,大似苦桃姊。」是後數犯忌諱,動致違忤,上甚耽之。乃命高熲厚加供給,不許接對朝士。拜上儀同三司,出為濟南太守,令即之任,斷其入朝。道貴還至本郡,高自崇重,每與人言,自稱皇舅。數將儀衛出入閭裡,從故人游宴,官民鹹苦之。後郡廢,終於家,子孫無聞焉。

獨孤羅 弟 陀

原文獨孤羅 弟陀

獨孤羅は、字を羅仁といい、雲中の人である。父の獨孤信は、初め魏に仕えて荊州刺史となった。武帝(宇文泰)が関中に入った時、信は父母妻子を棄てて西に長安に帰り、顕貴な官職を歴任した。羅はこれによって高氏(北斉)に囚われた。信は後に周に仕えて大司馬となった。信が宇文護に誅殺された時、羅は初めて釈放され、中山に寓居し、孤貧で自らを養う術が無かった。斉の将軍の獨孤永業は宗族の故をもって、これを見て哀れみ、田宅を買い与え、資畜を遺した。初め、信が関中に入った後、再び二妻を娶り、郭氏は六人の男子(善、穆、蔵、順、陀、整)を生み、崔氏は献皇后(獨孤伽羅)を生んだ。斉が滅亡し、高祖が定州総管となった時、献皇后は人を遣わして羅を探し求め、見つけ出し、相見えて悲しみ自ら勝えず、侍御する者皆泣いた。ここにおいて車馬財物を厚く遺した。間もなく、周の武帝は羅が功臣の子であり、久しく異域に沈淪していたことを以て、楚安郡太守に征召し拝した。病を以て官を去り、京師に帰った。諸弟は羅が幼少より貧賤であったのを見て、毎度軽侮し、兄の礼を以て事えなかった。然れども性質は長者であり、諸弟と長短を校競することもなく、後にこれによって重んじられた。高祖が丞相となると、儀同に拝し、常に左右に置いた。禅譲を受けると、詔を下して羅の父の信の官爵を追贈して曰く、「徳を褒め行いを累ねるは、往代の通規、遠きを追い終わりを慎むは、前王の盛典。故柱国の信は、風宇高曠にして、独り生民に秀で、睿哲えいてつ宗に居り、清猷世に映る。宏謀長策は、道に弼諧に著しく、義を緯ぎ仁を経るは、事に拯済に深し。方に廊廟に風を宣べ、台階に采を亮さんとす。而るに運は艱危に属し、功高くして賞せず。眷言令範、事心に切なり。今、景運初めて開け、椒闈粛然として建つ。塗山の義を載懐し、褒・紀の典を忘るる無かれ。太師・上柱国・冀定等十州刺史・趙国公を贈るべし。邑一万戸。」その諸弟は、羅の母が斉で没し、先に夫人の号が無かったことを以て、承襲すべきでないとした。上(文帝)が后(獨孤后)に問うと、后は「羅は誠に嫡長なり、誣うべからず」と言った。ここにおいて趙国公の爵を襲封した。その弟の善を河内郡公とし、穆を金泉県公とし、蔵を武平県公とし、陀を武喜県公とし、整を千牛備身とした。羅を抜擢して左領左右将軍に拝し、尋いで左衛将軍に遷し、前後賞賜すること勝ち計い難し。久しくして涼州総管として出され、位は上柱国に進んだ。仁寿じんじゅ年間、左武衛大将軍に征召し拝した。煬帝が位を嗣ぐと、蜀国公に改封した。間もなく、官で卒し、諡して恭と曰う。

原文獨孤羅,字羅仁,雲中人也。父信,初仕魏為荊州刺史。武帝之入關也,信棄父母妻子西歸長安,曆職顯貴,羅由是遂為高氏所囚。信後仕周為大司馬。及信為宇文護所誅,羅始見釋,寓居中山,孤貧無以自給。齊將獨孤永業以宗族之故,見而哀之,為買田宅,遺以資畜。初,信入關之後,複娶二妻,郭氏生子六人,善、穆、藏、順、陀、整,崔氏生獻皇后。及齊亡,高祖為定州總管,獻皇后遣人尋羅,得之,相見悲不自勝,侍御者皆泣。於是厚遺車馬財物。未幾,周武帝以羅功臣子,久淪異域,征拜楚安郡太守。以疾去官,歸於京師。諸弟見羅少長貧賤,每輕侮之,不以兄禮事也。然性長者,亦不與諸弟校競長短,後由是重之。及高祖為丞相,拜儀同,常置左右。既受禪,下詔追贈羅父信官爵曰:「褒德累行,往代通規,追遠慎終,前王盛典。故柱國信,風宇高曠,獨秀生民,睿哲居宗,清猷映世。宏謀長策,道著於弼諧,緯義經仁,事深於拯濟。方當宣風廊廟,亮采臺階,而運屬艱危,功高弗賞,眷言令範,事切於心。今景運初開,椒闈肅建,載懷塗山之義,無忘褒、紀之典。可贈太師、上柱國、冀定等十州刺史、趙國公,邑萬戶。」其諸弟以羅母沒齊,先無夫人之號,不當承襲。上以問後,後曰:「羅誠嫡長,不可誣也。」於是襲爵趙國公。以其弟善為河內郡公,穆為金泉縣公,藏為武平縣公,陀為武喜縣公,整為千牛備身。擢拜羅為左領左右將軍,尋遷左衛將軍,前後賞賜不可勝計。久而出為涼州總管,進位上柱國。仁壽中,征拜左武衛大將軍。煬帝嗣位,改封蜀國公。未幾,卒官,諡曰恭。

子の纂が嗣ぎ、河陽郡尉に至った。纂の弟の武都は、大業末、また河陽郡尉となった。庶長子の開遠は、宇文化及の弑逆しいぎゃくの時、裴虔通が賊を率いて成象殿に入ると、宿衛の兵士は皆従逆し、開遠は時に千牛であり、獨孤盛と共に閤下で力戦し、賊に捕らえられたが、賊はその義を以てこれを赦した。善は後に柱国に至った。卒し、子の覧が嗣ぎ、左候衛将軍に至り、大業末に卒した。

原文子纂嗣,仕至河陽郡尉。纂弟武都,大業末,亦為河陽郡尉。庶長子開遠,宇文化及之弑逆也,裴虔通率賊入成象殿,宿衛兵士皆從逆,開遠時為千牛,與獨孤盛力戰於閤下,為賊所執,賊義而舍之。善後官至柱國。卒,子覽嗣,仕至左候衛將軍,大業末卒。

獨孤陀は、字を黎邪という。周に仕えて胥附上士となり、父の罪に連座して蜀郡に移され十余年を過ごした。宇文護が誅殺されて後、初めて長安に帰った。高祖(文帝)が禅譲を受けると、上開府・右領左右将軍に任ぜられた。久しくして、郢州えいしゅう刺史として出向し、上大将軍に進み、累転して延州刺史となった。左道を好んだ。その妻の母は先に猫鬼を祀っており、それが転じて彼の家に入った。上(文帝)は微かに聞き及んだが、信じなかった。折しも献皇后と楊素の妻鄭氏がともに病に罹り、医者を召して診させると、皆が「これは猫鬼の病である」と言った。上は陀が皇后の異母弟であり、陀の妻が楊素の異母妹であることから、陀の仕業と疑い、密かにその兄の穆に命じて事情を以て諭させた。上はまた左右を退けて陀を諷したが、陀は無いと言った。上は悦ばず、左遷して遷州刺史とした。陀は怨言を吐いた。上は左僕射ぼくや高熲・納言蘇威・大理正皇甫孝緒・大理丞楊遠らに命じて共同で取り調べさせた。陀の婢の徐阿尼が言うには、元は陀の母方の家から来て、常に猫鬼を祀っていた。毎回子の日の夜にこれを祀る。子とは鼠のことである。その猫鬼が人を殺す度に、死んだ者の家の財物は密かに猫鬼を飼う家に移るという。陀がかつて家から酒を求めると、その妻が「買う金がない」と言った。陀はそこで阿尼に「猫鬼を越公(楊素)の家に向かわせ、我に十分な金を持たせよ」と言った。阿尼はそこで呪文を唱えて帰した。数日後、猫鬼は楊素の家に向かった。十一年、上が初めて并州へいしゅうから帰還した時、陀は園中で阿尼に「猫鬼を皇后の御所に向かわせ、多く我に物を賜らせよ」と言った。阿尼が再び呪うと、遂に宮中に入った。楊遠は門下外省において阿尼に猫鬼を呼ばせた。阿尼はそこで夜中に香粥一盆を置き、匙で叩きながら呼んで「猫女来たれ、宮中に留まるな」と言った。久しくして、阿尼の顔色が真っ青になり、何かに引っ張られているようで、猫鬼が既に来たと言った。上はこの件を公卿に下して議させた。奇章公牛弘が「妖は人より興る。その人を殺せば絶つことができる」と言った。上は犢車とくしゃに陀夫妻を乗せ、その家で死を賜わんとさせた。陀の弟の司勳侍中整が宮門に赴き哀願した。そこで陀の死罪を免じ、除名して庶民とし、その妻楊氏を尼とした。これに先立ち、ある者がその母が人の猫鬼に殺されたと訴えたことがあったが、上は妖妄として怒り、追い返した。この事件を機に、訴えられた猫鬼を行った家を誅するよう詔した。経(陀の妻楊氏か)は間もなく卒した。煬帝が即位し、母方の伯父・叔父を追憶し、礼をもって葬ることを許し、詔を下して「外戚が衰え禍いに遭い、獨孤陀は不幸にも早世し、改葬の期が来た。渭陽の情を思い、追懐傷切す。礼命を加え、哀栄を備えるべし。正議大夫を贈ることを可とする」と言った。帝の思いはなお止まず、再び詔を下して「舅氏の尊さは、戚属の中でも重い。しかしながら天寿永からず、凋落相次ぐ。先に逝った者を思い、その位を崇めるべきである。銀青光禄大夫を贈る」と言った。二子あり:延福・延寿。

原文獨孤陀,字黎邪。仕周胥附上士,坐父徙蜀郡十餘年。宇文護被誅,始歸長安。高祖受禪,拜上開府、右領左右將軍。久之,出為郢州刺史,進位上大將軍,累轉延州刺史。好左道。其妻母先事貓鬼,因轉入其家。上微聞而不之信也。會獻皇后及楊素妻鄭氏俱有疾,召醫者視之,皆曰:「此貓鬼疾也。」上以陀後之異母弟,陀妻楊素之異母妹,由是意陀所為,陰令其兄穆以情喻之。上又避左右諷陀,陀言無有。上不悅,左轉遷州刺史。出怨言。上令左僕射高熲、納言蘇威、大理正皇甫孝緒、大理丞楊遠等雜治之。陀婢徐阿尼言,本從陀母家來,常事貓鬼。每以子日夜祀之。言子者鼠也。其貓鬼每殺人者,所死家財物潛移於畜貓鬼家。陀嘗從家中素酒,其妻曰:「無錢可酤。」陀因謂阿尼曰:「可令貓鬼向越公家,使我足錢也。」阿尼便咒之歸。數日,貓鬼向素家。十一年,上初從并州還,陀於園中謂阿尼曰:「可令貓鬼向皇后所,使多賜吾物。」阿尼複咒之,遂入宮中。楊遠乃于門下外省遣阿尼呼貓鬼。阿尼於是夜中置香粥一盆,以匙扣而呼之曰:「貓女可來,無住宮中。」久之,阿尼色正青,若被牽曳者,雲貓鬼已至。上以其事下公卿,奇章公牛弘曰:「妖由人興,殺其人可以絕矣。」上令以犢車載陀夫妻,將賜死於其家。陀弟司勳侍中整詣闕求哀,於是免陀死,除名為民,以其妻楊氏為尼。先是,有人訟其母為人貓鬼所殺者,上以為妖妄,怒而遣之。及此,詔誅被訟行貓鬼家。經未幾而卒。煬帝即位,追念舅氏,聽以禮葬,乃下詔曰:「外氏衰禍,獨孤陀不幸早世,遷卜有期。言念渭陽之情,追懷傷切,宜加禮命,允備哀榮。可贈正議大夫。」帝意猶不已,複下詔曰:「舅氏之尊,戚屬斯重,而降年弗永,凋落相繼。緬惟先往,宜崇徽秩。複贈銀青光祿大夫。」有二子:延福、延壽。

陀の弟の整は、官は幽州刺史に至り、大業初年に卒し、金紫光禄大夫・平郷侯を追贈された。

原文陀弟整,官至幽州刺史,大業初卒,贈金紫光祿大夫,平鄉侯。

蕭巋、子に琮、琮の弟に瓛。

原文蕭巋 子琮 琮弟瓛

蕭巋は、字を仁遠といい、梁の昭明太子蕭統の孫である。父の詧は、初め岳陽王に封ぜられ、襄陽を鎮守した。侯景の乱の時、その兄の河東王蕭譽が叔父の湘東王蕭繹と不和となり、蕭繹に害された。蕭繹が帝位を嗣ぐと、詧は西魏に称藩し、師を乞いて蕭繹を討伐することを請うた。周の太祖たいそ(宇文泰)は詧を梁主とし、柱国於謹らに騎兵五万を率いさせて蕭繹を襲撃し、これを滅ぼした。詧は遂に江陵に都し、荊郡とその西の平州に至る三百里の地を領有し、その国において皇帝を称し、車服礼制は全て王者と同じであった。なお江陵総管を置き、兵を駐屯させて監視した。詧が薨じ、巋が位を嗣ぎ、年号を天保とした。巋は俊弁で才学があり、兼ねて内典を好んだ。周の武帝が北斉を平定した後、巋が来朝して賀し、帝は大いに歓び、自ら琵琶を弾き、巋に舞を命じた。巋は「陛下自ら五絃を御し給う。臣、敢えて百獣の舞わざらんや」と言った。高祖(文帝)が禅譲を受けると、恩礼はますます厚く、使者を遣わして金五百両、銀千両、布帛一万匹、馬五百匹を賜った。巋が来朝すると、上は大いに敬い、詔して巋の位を王公の上とした。巋は服装が端正で麗しく、進退に閑雅さがあり、天子は目を留め、百官は傾慕した。賞賜は億を数えた。一月余りで帰藩する際、帝は自ら滻水のほとりで餞別した。後に礼を備えてその娘を晋王(楊広、後の煬帝)の妃とし、またその子の瑒に蘭陵公主を娶せようとした。これにより次第に親しく遇されるようになった。献皇后が上に言うには「梁主は一家の如き間柄で、腹心として寄せられている。どうして猜疑と防備を労する必要がありましょうか」と。上はこれを然りとし、そこで江陵総管を廃し、巋がその国を専制することを許した。一年余り後、巋がまた来朝し、縑一万匹とそれに相応する珍玩を賜った。帰る際、上は自らその手を執って「梁主は久しく荊楚に滞在し、旧都(建康)を回復していない。故郷を思う念は、誠に胸に痛む。朕は長江に軍を振るい、送り届けて還るであろう」と言った。巋は拝謝して去った。その年の五月、病に臥し、臨終に上表して「臣は庸暗の身ながら、曲がりなりにも天の慈しみを受け、外藩の中で寵は冠たり、恩は連山を超え、及び子女に至るまで、公主を尚(めと)り王に婚す。常に自ら甲冑をまとい、身を士卒に先んじ、逃亡の賊を掃蕩し、明時に報いんことを願う。しかしながら養生を誤り、急に病に罹り、息の絶えんとする時となり、残された時を待つのみである。聖世に長く別れ、感恋嗚咽す。遺される嗣子は孤藐なり。特に慈しみを降すことを乞う。伏して願わくは、聖躬が山嶽とともに固く、皇基が天日とともに永からんことを。臣たとえ九泉に在りとも、実に遺恨無し」と言い、併せて身に着けていた金装の剣を献上した。上はこれを見て嗟悼した。巋は在位二十三年、年四十四で薨じた。梁の臣子は諡して孝明皇帝、廟号を世宗とした。子の琮が嗣いだ。巋は『孝経』『周易義記』及び『大小乗幽微』十四巻を著し、世に行われた。

原文蕭巋,字仁遠,梁昭明太子統之孫也。父詧,初封岳陽王,鎮襄陽。侯景之亂,其兄河東王譽與其叔父湘東王繹不協,為繹所害。及繹嗣位,詧稱籓於西魏,乞師請討繹。周太祖以詧為梁主,遣柱國於謹等率騎五萬襲繹,滅之。詧遂都江陵,有荊郡、其西平州延袤三百里之地,稱皇帝于其國,車服節文一同王者。仍置江陵總管,以兵戍之。詧薨,巋嗣位,年號天保。巋俊辯有才學,兼好內典。周武帝平齊之後,巋來賀,帝享之甚歡。親彈琵琶,令巋起舞,巋曰:「陛下親禦五絃,臣敢不同百獸!」高祖受禪,恩禮彌厚,遣使賜金五百兩,銀千兩,布帛萬匹,馬五百匹。巋來朝,上甚敬焉,詔巋位在王公之上。巋被服端麗,進退閒雅,天子矚目,百僚傾慕。賞賜以億計。月餘歸籓,帝親餞于滻水之上。後備禮納其女為晉王妃,又欲以其子瑒尚蘭陵公主。由是漸見親待。獻皇后言于上曰:「梁主通家,腹心所寄,何勞猜防也。」上然之,於是罷江陵總管,巋專制其國。歲餘,巋又來朝,賜縑萬匹,珍玩稱是。及還,上親執手曰:「梁主久滯荊楚,未復舊都,故鄉之念,良軫懷抱。朕當振旅長江,相送旋反耳。」巋拜謝而去。其年五月,寢疾,臨終上表曰:「臣以庸暗,曲荷天慈,寵冠外籓,恩逾連山,爰及子女,尚主婚王。每願躬擐甲胄,身先士卒,掃蕩逋寇,上報明時。而攝生乖舛,遽罹屙疾,屬纊在辰,顧陰待謝。長違聖世,感戀嗚咽,遺嗣孤藐,特乞降慈。伏願聖躬與山嶽同固,皇基等天日俱永,臣雖九泉,實無遣恨。」並獻所服金裝劍,上覽而嗟悼焉。巋在位二十三年,年四十四薨,梁之臣子諡曰孝明皇帝,廟號世宗。子琮嗣。巋著《孝經》、《周易義記》及《大小乘幽微》十四卷,行於世。

琮は字を温文といい、性質は寛仁にして大度あり、倜儻として羈絆されず、博学にして文義に通じた。また弓馬をよくし、人を遣わして地に伏せて帖を着けさせ、琮は馬を馳せてこれを射れば、十発十中し、帖を持つ者もまた懼れなかった。初め東陽王に封ぜられ、まもなく梁の太子に立てられた。位を嗣ぐに及んで、上(隋の文帝)は璽書を賜って曰く、「堂構を負荷すること、その事は甚だ重し、憂労を窮めると雖も、常に自ら力を加うべし。内外を輯諧し、才良を親任し、世業を聿遵するは、是れ望むところなり。彼の疆守は、咫尺にして陳人に接し、水潦の時は、特に警備すべし。陳氏は比日、朝聘相尋うと雖も、疆埸の間は猶未だ清粛ならず、ただ我が必ず幹すべからざるを恃むべく、軽んじて人に備えを設けざるを得ざるなり。朕と梁国とは、積世相知り、重ねて親姻を以てし、情義弥く厚し。江陵の地は、朝寄軽からず、国の為、民の為に、深く抑割を宜しくし、恒に饘粥を加え、礼を以て自ら存すべし」と。また梁の大臣に璽書を賜い、誠めてこれを勉励した。時に琮の年号は広運、識有る者曰く、「運の字たる、軍走なり、吾が君将に奔走せんか」と。その年、琮は大将軍戚昕を遣わして舟師を以て陳の公安を襲わしむるも、克たずして還る。琮の叔父岑を征して朝に入らしめ、大将軍に拝し、懐義公に封じ、因りて留めて遣わさず。復た江陵総管を置きてこれを監せしむ。琮の署する大将軍許世武、密かに城を以て陳の将宜黄侯陳紀を召すも、謀泄れ、琮これを誅す。後二歳、上琮を征して朝に入らしめ、その臣下二百余人を率いて京師に朝す。江陵の父老、隕涕して相謂うこと無からず、「吾が君其れ反らざるか」と。上琮の来朝するを以て、武郷公崔弘度を遣わして兵を将いこれを戍らしむ。軍鄀州に至るや、琮の叔父岩及び弟瓛等、弘度の掩襲するを懼れ、遂に陳人を引きて城下に至らしめ、居民を虜いて叛く。ここにおいて梁国を廃す。上左僕射高熲を遣わしてこれを安集せしめ、曲げて江陵の死罪を赦し、民に十年の復除を与う。梁の二主、各々守墓十戸を与う。琮を拝して柱国と為し、爵を莒国公に賜う。煬帝位を嗣ぐに及び、皇后の故を以て、甚だ親重せらる。内史令に拝し、改めて梁公に封ぜらる。琮の宗族、緦麻以上、並びに才に随い擢用せられ、ここにおいて諸蕭の昆弟朝廷に布列す。琮の性質淡雅、職務を以て自ら嬰れず、退朝すれば酒を縦にするのみ。内史令楊約、琮と同列に在り、帝約に令して旨を宣べ誡励せしむ。約復た私情を以てこれを諭す。琮答えて曰く、「琮若し復た事々とせば、則ち何ぞ公に異ならんや」と。約笑いて退く。約の兄素、時に尚書令しょうしょれいたり、琮の従父妹を鉗耳氏に嫁するを見て、因りて琮に謂いて曰く、「公は帝王の族、望高く戚美なり、何ぞ乃ち妹を鉗耳氏に適せしむるや」と。琮曰く、「前に已に妹を侯莫陳氏に嫁せり、此れ復た何を疑わん」と。素曰く、「鉗耳は羌なり、侯莫陳は虜なり、何ぞ相い比ぶるを得ん」と。素の意は虜を優れりとし羌を劣れりとす。琮曰く、「羌を以て虜に異なると為すは、未だ前に聞かず」と。素慚じて止む。琮羈旅と雖も、北間の豪貴を見るに、降下すること無し。嘗て賀若弼と深く相い友誼を善くす。弼既に誅せらるるや、復た童謡有りて曰く、「蕭蕭しょうしょう亦た復た起つ」と。帝ここよりこれを忌み、遂に家に廃す。未だ幾ばくもせずして卒す。左光禄大夫を贈る。子鉉、襄城通守。復た琮の弟子钜を以て梁公と為す。钜の小名は蔵、煬帝甚だこれを昵し、千牛と為し、宇文皛と宮掖に出入りし、内外を伺察す。帝遊宴有る毎に、钜未だ嘗て従わざること無し、遂に宮中に於いて淫穢を多く行う。江都の変に及び、宇文化及に殺さる。

原文琮字溫文,性寬仁,有大度,倜儻不羈,博學有文義。兼善弓馬,遣人伏地著帖,琮馳馬射之,十發十中,持帖者亦不懼。初封東陽王,尋立為梁太子。及嗣位,上賜璽書曰:「負荷堂構,其事甚重,雖窮憂勞,常須自力。輯諧內外,親任才良,聿遵世業,是所望也。彼之疆守,咫尺陳人,水潦之時,特宜警備。陳氏比日雖複朝聘相尋,疆埸之間猶未清肅,唯當恃我必不可幹,勿得輕人而不設備。朕與梁國,積世相知,重以親姻,情義彌厚。江陵之地,朝寄非輕,為國為民,深宜抑割,恆加饘粥,以禮自存。」又賜梁之大臣璽書,誠勉之。時琮年號廣運,有識者曰:「運之為字,軍走也,吾君將奔走乎?」其年,琮遣大將軍戚昕以舟師襲陳公安,不克而還。征琮叔父岑入朝,拜為大將軍,封懷義公,因留不遣。複置江陵總管以監之。琮所署大將軍許世武密以城召陳將宜黃侯陳紀,謀泄,琮誅之。後二歲,上征琮入朝,率其臣下二百余人朝于京師,江陵父老莫不隕涕相謂曰:「吾君其不反矣!」上以琮來朝,遣武鄉公崔弘度將兵戍之。軍至鄀州,琮叔父岩及弟瓛等懼弘度掩襲之,遂引陳人至城下,虜居民而叛,於是廢梁國。上遣左僕射高熲安集之,曲赦江陵死罪,給民複十年。梁二主各給守墓十戶。拜琮為柱國,賜爵莒國公。煬帝嗣位,以皇后之故,甚見親重。拜內史令,改封梁公。琮之宗族,緦麻以上,並隨才擢用,於是諸蕭昆弟布列朝廷。琮性淡雅,不以職務自嬰,退朝縱酒而已。內史令楊約與琮同列,帝令約宣旨誡勵,約複以私情喻之。琮答曰:「琮若複事事,則何異於公哉!」約笑而退。約兄素,時為尚書令,見琮嫁從父妹于鉗耳氏,因謂琮曰:「公,帝王之族,望高戚美,何乃適妹鉗耳氏乎?」琮曰:「前已嫁妹于侯莫陳氏,此複何疑!」素曰:「鉗耳,羌也,侯莫陳,虜也,何得相比!」素意以虜優羌劣。琮曰:「以羌異虜,未之前聞。」素慚而止。琮雖羈旅,見北間豪貴,無所降下。嘗與賀若弼深相友善,弼既被誅,複有童謠曰:「蕭蕭亦複起。」帝由是忌之,遂廢於家,未幾而卒。贈左光祿大夫。子鉉,襄城通守。複以琮弟子钜為梁公。钜小名藏,煬帝甚昵之,以為千牛,與宇文皛出入宮掖,伺察內外。帝每有遊宴,钜未嘗不從焉,遂于宮中多行淫穢。江都之變,為宇文化及所殺。

瓛は字を欽文といい、少にして聡敏、文を属するに解たり。梁に在りて荊州刺史と為り、頗る能名有り。崔弘度兵を以て鄀州に至るや、瓛懼れ、その叔父岩とともに陳に奔る。陳主これを侍中・安東将軍・呉州刺史と為し、甚だ物情を得、三呉の父老皆曰く、「瓛は吾が君子なり」と。陳の亡ぶるに及び、呉人瓛を推して主と為す。呉人、梁の武帝・簡文帝及び詧・巋等兄弟並びに第三子にして尊位を践むを見、瓛自ら巋の第三子なるを以て、深く矜負す。謝異という者有り、頗る廃興を知り、梁・陳の際、言いて験ならざること無く、江南の人甚だこれを敬信す。陳主擒えらるるに及び、異瓛に奔る。ここにより益々衆に帰せらる。褒国公宇文述兵を以てこれを討つ。瓛王哀を遣わして呉州を守らしめ、自ら将いて述に拒ぐ。述兵を遣わし別道より呉州を襲わしむ。哀懼れ、道士の服を衣て城を棄てて遁る。瓛の衆これを聞き、悉く闘志無し。述と一戦して敗る。瓛左右数人を将いて太湖に逃れ、民家に匿るるも、人の執る所と為り、述の所に送られ、長安に斬らる。時に年二十一。

原文瓛字欽文,少聰敏,解屬文。在梁為荊州刺史,頗有能名。崔弘度以兵至鄀州,瓛懼,與其叔父岩奔于陳。陳主以為侍中、安東將軍、吳州刺史,甚得物情,三吳父老皆曰:「瓛吾君子也。」及陳亡,吳人推瓛為主。吳人見梁武、簡文及詧、巋等兄弟並第三而踐尊位,瓛自以巋之第三子也,深自矜負。有謝異者,頗知廢興,梁、陳之際,言無不驗,江南人甚敬信之。及陳主被擒,異奔於瓛,由是益為眾所歸。褒國公宇文述以兵討之,瓛遣王哀守吳州,自將拒述。述遣兵別道襲吳州,哀懼,衣道士服,棄城而遁。瓛眾聞之,悉無鬥志,與述一戰而敗。瓛將左右數人逃於太湖,匿於民家,為人所執,送於述所,斬之長安,時年二十一。

弟璟は朝請大夫・尚衣奉禦と為る。瑒は衛尉卿・秘書監ひしょかん・陶丘侯を歴任す。瑀は内史侍郎・河池太守を歴任す。

原文弟璟,為朝請大夫、尚衣奉禦。瑒,曆衛尉卿、秘書監、陶丘侯。瑀,曆內史侍郎、河池太守。

【論】

原文【論】

史臣曰く、三皇五帝の哲王は、防深く慮遠く、舅甥の国は、鈞衡を執ること罕にして、母后の家は、傾敗を聞くこと無し。爰に漢・晋に及び、顛覆軌を継ぐも、皆礼を以てせざるに進むに由る。故にその斃るるも亦速し。若し独孤権呂・霍に侔しくせば、必ずや仁寿の前に敗れん。蕭氏勢梁・竇に均しくせば、豈に大業の後に全からんや。今或いは旧基を隕さず、或いは更に先構を隆くす。豈に之を道を以て処し、権寵に預からざるに致さざるならんや。

原文史臣曰:三五哲王,防深慮遠,舅甥之國,罕執鈞衡,母后之家,無聞傾敗。爰及漢、晉,顛覆繼軌,皆由乎進不以禮,故其斃亦速。若使獨孤權侔呂、霍,必敗于仁壽之前,蕭氏勢均梁、竇,豈全于大業之後!今或不隕舊基,或更隆先構,豈非處之以道,不預權寵之所致乎!