隋書

巻七十八列傳第四十三 藝術 外戚

藝術

陰陽は時日を正し、気序を順にする所以のものであり、卜筮は嫌疑を決し、猶を定める所以のものであり、醫巫は妖邪を禦ぎ、性命を養う所以のものであり、音律は人神を和し、哀楽を節する所以のものであり、相術は貴賤を弁じ、分理を明らかにする所以のものであり、技巧は器用を利し、艱難を済す所以のものである。これらは皆、聖人が心に意図なく、民に因って教えを設け、災患を救恤し、淫邪を禁止したものである。三五の哲王より以来、その由来久しい。然れども昔、陰陽を言う者には、箕子・裨竈・梓慎・子韋あり、音律に通暁する者には、師曠・師摯・伯牙・杜夔あり、卜筮を叙するには、史扁・史蘇・厳君平・司馬季主あり、相術を論ずるには、内史叔服・姑布子卿・唐挙・許負あり、醫を語るには、文摯・扁鵲・季咸・華佗あり、その巧思には、奚仲・墨翟・張平子・馬徳衡あり。凡そ此の諸君は、仰ぎ観て俯して察し、賾を探り隠を索め、皆幽微に詣り、思うこと造化に侔し、霊を通じ妙に入り、殊なる才、絶する技あり。或いは道を弘めて以て時を済し、或いは身を隠して以て物を利し、深くして測るべからず、固より称うるを得ざるなり。近古斯の術に渉る者は、貞一を存するもの鮮く、多く其の淫僻を肆にし、厚く天道を誣う。或いは陰陽を変乱し、曲って君の欲を成し、或いは神怪を仮託し、民心を熒惑す。遂に時俗をして妖訛ならしめ、其の真性に返ることを獲ず、身災毒に罹り、寿終して死するを得ざらしむ。藝成りて下る、意茲に在るか。歴観するに経史百家の言、夫れ藝術を存せざるは無く、或いは其の玄妙を叙し、或いは其の迂誕を記す。徒に異聞を用いて広むるのみならず、将に以て勸戒を明らかにせんとす。是をもって後の作者、或いは相い祖述す。故に今も亦其の尤も著しい者を采り、『藝術篇』と列すと云う。

庾季才、子質、盧太翼、耿詢

庾季才は、字を叔奕といい、新野の人である。八世の祖滔は、晉の元帝に従って江を渡り、官は散騎常侍さんきじょうじに至り、遂昌侯に封ぜられ、因って南郡江陵県に家を定めた。祖父の詵は、梁の処士で、同族の易と齊名であった。父の曼倩は、光祿卿である。季才は幼くして穎悟で、八歳で『尚書』を誦し、十二歳で『周易』に通じ、玄象を占うことを好んだ。喪に居て孝行で知られた。梁の廬陵王蕭績が荊州主簿に辟し、湘東王蕭繹は其の術藝を重んじ、引いて外兵参軍に授けた。西台が建てられると、累遷して中書郎となり、太史を領し、宜昌県伯に封ぜられた。季才は固より太史を辞したが、元帝は言った、「漢の司馬遷は歴世に亘って尸掌し、魏の高堂隆も猶此の職を領した。前例無きに非ず、卿何ぞ憚る所あらんや。」帝も亦頗る星暦に明るく、因って共に仰観し、従容として季才に謂って言った、「朕は猶お禍の蕭牆より起らんことを慮る。何方ぞ之を息むべきか。」季才曰く、「頃に天象変を告ぐ。秦将に郢に入らんとす。陛下は宜しく重臣を留め、荊陝に鎮と作り、旆を整えて都に還り、以て其の患を避くべし。仮令羯寇侵蹙すとも、止だ荊湘を失うのみ。社稷に於いては、慮り無きを得べし。必ず久しく停留せば、恐らくは天意に非ざるべし。」帝は初め之を然りとし、後に吏部尚書宗懍等と議し、乃ち止めた。俄にして江陵陥落滅亡し、竟に其の言の如し。

周の太祖は季才に一見し、深く優礼を加え、太史を参掌せしめた。征討有る毎に、常に侍従に預かった。宅一区、水田十頃、並びに奴婢牛羊什物等を賜い、季才に謂って言った、「卿は南人なり。未だ北土に安んぜず。故に此の賜有るは、卿の南望の心を絶たんと欲するなり。宜しく誠を尽くして我に事えよ。富貴を以て相い答うべし。」初め、郢都の陥落するや、衣冠の士人多く賤しきものに没せられた。季才は賜わった物を散じて、親故を購い求めた。文帝問う、「何ぞ能く此の若くするや。」季才曰く、「僕聞く、魏襄陽を克つに、先ず異度を昭にし、晉建業を平ぐるに、喜んで士衡を得たりと。国を伐ちて賢を求むるは、古の道なり。今郢都覆敗し、君信に罪有り。晉紳何の咎ぞ、皆賤隷と為る。鄙人羈旅、敢えて言を献ぜず。誠に之を切に哀しむ。故に贖い購うのみ。」太祖乃ち悟って言った、「吾が過ちなり。君微ならば遂に天下の望を失わんとす。」因って令を出して、梁の俘虜で奴婢と為る者数千口を免じた。

武成二年、王褒・庾信と同しく麟趾学士を補した。累遷して稍伯大夫・車騎大将軍・儀同三司となった。其の後大塚宰宇文護が政を執り、季才に謂って言った、「比日の天道、何か徴祥有りや。」季才対えて曰く、「恩を荷うこと深く厚し。若し言を尽くさざれば、便ち木石に同じ。頃に上臺に変有り、宰輔に利あらず。公は宜しく政を天子に帰し、私門に老いを請うべし。此れ則ち自ら期頤を享け、旦・奭の美を受け、子孫籓屏とし、終に維城の固きを保たん。然らざれば、復た知る所に非ず。」護は沈吟すること久しく、季才に謂って言った、「吾が本意此の如し。但だ辞するを得ずして未だ免れず。公既に王官なり。朝例に依るべし。別に寡人に参する煩わしき無かれ。」此れより漸く疎んぜられ、復た別に見ること無し。護の滅びたる後、其の書記を閲するに、武帝自ら臨検し、符命を仮託し、異端を妄りに造る者有れば、皆誅戮に致した。唯だ季才の書二紙を得るのみ。盛んに緯候の災祥を言い、政を反し権に帰すべしとす。帝は少宗伯斛斯徴に謂って言った、「庾季才は至誠謹愨にして、甚だ人臣の礼を得たり。」因って粟三百石、帛二百段を賜う。太史中大夫に遷し、詔して『霊台秘苑』を撰せしめ、上儀同を加え、臨潁伯に封じ、邑六百戸を賜う。宣帝嗣位し、驃騎大将軍・開府儀同三司を加え、邑三百戸を増す。

高祖こうそが丞相と為るに及び、嘗て夜に季才を召して問うて言った、「吾は庸虚を以て、此の顧命を受く。天時人事、卿は何如と為すか。」季才曰く、「天道は精微にして、意察すべく難し。切に人事を以て之を卜するに、符兆已に定まれり。季才縦え言う可からずとすとも、公豈に復た箕・潁の事を為すを得んや。」高祖は默然として久しく、因って首を挙げて言った、「吾は今譬えば猶お獣に騎るが如し。誠に下るを得ず。」因って雑彩五十匹、絹二百段を賜い、曰く、「公が此の意に愧ず。宜しく善く之を思うべし。」大定元年正月、季才言う、「今月戊戌の平旦、青気楼闕の如く、国城の上に見ゆ。俄かに紫に変じ、風に逆らって西に行く。『気経』に雲う、'天は雲無くして雨すること能わず、皇王は気無くして立つこと能わず。'今王気已に見ゆ。須らく即ち之に応ずべし。二月、日は卯に出で酉に入る。天の正位に居る。之を二八の門と謂う。日は人君の象なり。人君正位するは、宜しく二月を用うべし。其の月十三日甲子、甲は六甲の始め、子は十二辰の初め、甲の数九、子の数又九、九は天の数なり。其の日即ち是れ驚蟄、陽気壮発の時なり。昔周の武王は二月甲子を以て天下を定め、享年八百、漢の高帝は二月甲午を以て即帝位し、享年四百、故に甲子・甲午は天の数を得たりと知る。今二月甲子、宜しく天に応じて命を受くべし。」上之に従う。

開皇元年、通直散騎常侍を授かる。高祖(文帝)が遷都を図らんとし、夜に高熲・蘇威の二人と議を定め、季才は朝になって奏上して言う、「臣が仰いで玄象を観、俯して図記を察すれば、亀卜の兆も允に襲い、必ず遷都あるべし。かつ堯は平陽に都し、舜は冀土に都す、これ帝王の居止する所は世代同じからざるを知る。かつ漢がこの城を営みしより、今に至るまで将に八百歳、水は皆鹹鹵にして、甚だ人に宜しからず。願わくは陛下、天人の心に協い、遷徙の計を為したまえ」。高祖愕然として、高熲らに謂いて言う、「何ぞこれ神なるや!」。遂に詔を発して施行し、絹三百段・馬二匹を賜い、爵を進めて公となす。季才に謂いて言う、「朕は今より以後、天道あることを信ずるなり」。ここにおいて季才にその子質とともに『垂象』・『地形』等の志を撰せしむ。上(文帝)季才に謂いて言う、「天地の秘奥は、推測多途にして、執る所の見解同じからず、或いは差舛を致す。朕は外人のこの事に干預するを欲せず、故に公父子をして共にこれを為さしむるなり」。及び書成りてこれを奏す、米千石・絹六百段を賜う。九年、均州刺史として出づ。策書始めて降り、将に藩に就かんとする時、議する所、季才の術芸精通なるを以て、詔ありて還って旧任に委ぬ。季才は年老いたるを以て、頻りに表して去職を請う、毎に優旨を降して許さず。時に張胄玄の暦行わり、及び袁充が日影の長きを言う。上これを問うに季才に、季才は因りて充の謬りを言う。上大いに怒り、ここにより免職し、半禄を給して第に帰らしむ。所有の祥異、常に人をして家に就きて訪わしむ。仁寿三年卒す、時に年八十八。

季才は局量寛弘にして、術業優博、信義に篤く、志は賓遊を好む。常に吉日良辰に、琅琊の王褒・彭城の劉㲄・河東の裴政及び宗人の信等と、文酒の会を為す。次に劉臻・明克讓・柳抃の徒あり、後進と雖も、亦た遊款を申べし。『霊台秘苑』一百二十巻、『垂象志』一百四十二巻、『地形志』八十七巻を撰し、並びに世に行わる。

瘐質、字は行修、少にして明敏、早くより志尚あり。八歳にして梁の世祖の『玄覧』・『言志』等の十賦を誦し、童子郎に拝す。周に仕えて斉煬王の記室となる。開皇元年、奉朝請に除され、鄢陵令を歴任し、隴州司馬に遷る。大業初め、太史令を授かる。操履貞愨にして、立言忠鯁、災異ある毎に、必ず事を指して面陳す。而して煬帝の性多く忌刻、斉王暕も亦た猜嫌を受く。質の子儉は時に斉王の属官たり、帝質に謂いて言う、「汝は一心に朕に事えず、乃ち児をして斉王に事えしむ、何ぞ向背この如きや」。質曰く、「臣は陛下に事え、子は斉王に事う、実に一心にして、敢えて二つとせず」。帝の怒り解けず、ここにより合水令として出づ。八年、帝親しく遼東を伐ち、行在所に征し詣らしむ。臨渝に至り謁見す、帝質に謂いて言う、「朕は先旨を承け、親しく高麗を事とす、その土地人民を度るに、才だ我が一郡に当たる、卿は克つと為すや」。質対えて曰く、「臣の管を以て窺うに、これを伐てば克つべし、切に愚見あり、陛下の親行を願わず」。帝色を為して曰く、「朕今兵を総べてここに至る、豈に未だ賊を見ずして自ら退かんや」。質又曰く、「陛下若し行かば、軍威を損ずるを慮る。臣は猶願わくは安駕ここに住し、ぎょう将勇士を命じ規模を指授し、倍道兼行して、その不意に出ず。事は速きに在り、緩なれば必ず功無からん」。帝悦ばずして曰く、「汝既に行き難しとす、ここに住すべし」。及び師還り、太史令を授く。九年、復た高麗を征し、又質に問うて曰く、「今段復た何如」。対えて曰く、「臣実に愚迷にして、猶前見を執る。陛下若し万乗を親動かば、糜費実に多し」。帝怒りて曰く、「我自ら行くも尚克つ能わず、直に人を遣わさんに、豈に成功あらんや」。帝遂に行く。既にして礼部尚書楊玄感黎陽に拠りて反し、兵部侍郎斛斯政高麗に奔る、帝大いに懼れ、遽かに西還し、質に謂いて言う、「卿前に我を行かしめず、当にこの為めならん。今者玄感其れ事を成すか」。質曰く、「玄感は地勢隆かなりと雖も、徳望素よりせず、百姓の労苦に因り、僥倖を冀てて成功せんとす。今天下一家、未だ易く動かすべからず」。帝曰く、「熒惑斗に入るは如何」。対えて曰く、「斗は楚の分、玄感の封ぜられし所なり。今火色衰謝す、終に必ず成ること無からん」。十年、帝西京より将に東都に往かんとす、質諫めて曰く、「比歳遼を伐つ、民実に労敝す、陛下は関内を鎮撫し、百姓をして力を畢くして農に帰らしむべし。三五年の間、四海をして少しく豊実を得しめ、然る後に巡省す、事に於いて宜しきなり。陛下これを思え」。帝悦ばず、質疾を辞して従わず。帝これを聞き、怒り、使いを馳伝せしめ、質を鎖して行在所に詣らしむ。東都に至り、詔して獄に下す、竟に獄中に死す。

子儉、亦た父の業を伝え、学識を兼ぬ。仕えて襄武令・元徳太子学士・斉王属を歴任す。義寧初め、太史令と為り、時に盧太翼・耿詢あり、並びに星暦を以て知名なり。

盧太翼、字は協昭、河間の人なり、本姓は章仇氏。七歳にして学に詣で、日に数千言を誦し、州裡神童と号す。及び長じ、閑居して道味を玩び、栄利を求めず。群書を博綜し、爰に仏道に及び、皆その精微を得。特に占候算暦の術を善くす。白鹿山に隠れ、数年して林慮山の茱萸澗に徙居す。業を請う者遠方より至る、初めは拒む所無し、後その煩わしきを憚り、五台山に逃る。地多く薬物あり、弟子数人と岩下に廬し、蕭然として世を絶ち、以て神仙致す可しと為す。皇太子勇聞きてこれを召す、太翼は太子必ず嗣と為らざるを知り、親しき者に謂いて言う、「吾拘逼せられて来る、税駕する所を知らず」。及び太子廃せられ、法に坐して当に死すべし、高祖その才を惜しみて害せず、官奴に配す。久しうして、乃ち釈す。その後目盲す、手を以て書を摸りてその字を知る。仁寿末、高祖将に仁寿宮に避暑せんとす、太翼固く諫めて納れられず、再三に及ぶ。太翼曰く、「臣愚なり豈に敢えて詞を飾らんや、但だこの行鑾輿反らざるを恐る」。高祖大いに怒り、長安ちょうあんの獄に系し、還るを期してこれを斬らんとす。高祖宮に至り疾に臥し、崩ずるに臨み、皇太子に謂いて言う、「章仇翼は常人に非ず、前後言う事、未だ嘗て中らざること無し。吾来日道当に反らざるべしと言えり、今果たしてここに至る、爾宜しくこれを釈すべし」。及び煬帝即位し、漢王諒反す、帝これを問う。答えて曰く、「上は玄象を稽え、下は人事に参す、何ぞ能く為さん」。未幾、諒果たして敗る。帝常に従容として天下の氏族に言及し、太翼に謂いて言う、「卿姓は章仇、四嶽の胄、盧と同源なり」。ここにおいて姓を賜いて盧氏と為す。大業九年、駕に従って遼東に至る、太翼帝に言う、「黎陽に兵気あり」。後数日にして玄感の反書聞こゆ、帝甚だこれを異とし、数たび賞賜を加う。太翼の言う所の天文の事、称数す可からず、諸の秘密に関し、世聞くことを得ず。後数載、洛陽らくように卒す。

耿詢は、字を敦信といい、丹陽の人である。滑稽で弁舌が巧みであり、技芸の巧みさは人に優れていた。陳の後主の世に、客として東衡州刺史王勇に従って嶺南に赴いた。王勇が卒すると、耿詢は帰郷せず、諸越と結びつき、皆その歓心を得た。時に郡の俚が反乱し、耿詢を推して主とした。柱国王世積が討伐してこれを捕らえ、罪は誅に当たった。自ら巧みな思案があると述べたので、世積はこれを釈放し、家奴とした。久しくして、その故人高智宝が玄象をもって太史に直るのを見て、耿詢はこれに従って天文算術を学んだ。耿詢は創意を凝らして渾天儀を造り、人力を借りず、水でこれを回転させ、暗室の中に設置し、智宝に外で天候を観測させると、符契のように合致した。世積はこれを知って上奏し、高祖は耿詢を官奴に配属し、太史局に給使させた。後にしょく王秀に賜わり、益州に赴くに従い、秀はこれを甚だ信頼した。秀が廃されると、再び誅に当たろうとしたが、何稠が高祖に言上して、「耿詢の巧みさは、思案が神の如くあります。臣は誠に朝廷のためこれを惜しみます」と言った。上はそこで特にその罪を赦した。耿詢は馬上刻漏を作り、世はその妙を称えた。煬帝が即位すると、欹器を進上し、帝はこれを善しとし、良民に放免した。一年余りして、右尚方署監事を授けられた。七年、車駕が東征すると、耿詢は上書して、「遼東は討つべからず、師は必ず功無からん」と言った。帝は大いに怒り、左右に命じてこれを斬らせようとしたが、何稠が苦諫して免れた。平壤の敗北の後、帝は耿詢の言が当たったとして、耿詢を以て太史丞を守らせた。宇文化及がしいしいぎゃくした後、黎陽に至るに従い、その妻に言った、「近く人事を観、遠く天文を察するに、宇文は必ず敗れ、李氏が王となるであろう。我が帰すべき所を知る」と。耿詢は去らんとしたが、化及に殺された。『鳥情占』一卷を著し、世に行われた。

韋鼎

韋鼎は、字を超盛といい、京兆杜陵の人である。高祖の玄は、商山に隠棲し、それによって宋に帰順した。祖父の睿は、梁の開府儀同三司であった。父の正は、黄門侍郎であった。鼎は若くして通脱であり、経史に広く渉猟し、陰陽逆刺に明るく、特に相術に長じていた。梁に仕え、湘東王法曹参そうしん軍として起家した。父の喪に遭い、五日間水漿を口にせず、哀傷して礼を過ぎ、殆ど滅性に及んだ。服喪が終わると、邵陵王主簿となった。侯景の乱に、鼎の兄の昂が京城で卒すると、鼎は屍を背負って出て、中興寺に仮葬した。棺を求めたが得られず、鼎は哀憤慟哭した。忽ち江中に物があるのを見て、鼎の所に流れ来たったので、鼎は甚だ怪しんだ。往って見ると、新棺であった。そこで以て殮に充てた。元帝はこれを聞き、精誠の感ずる所と為した。侯景が平定されると、司徒しと王僧辯はこれをもって戸曹属とし、太尉掾・大司馬従事・中書侍郎を歴任した。

陳武帝が南徐州におられた時、鼎は気を望んでその王たるべきを知り、妻子を寄寓させた。そこで陳武帝に言った、「明年に大臣誅死有り、後四年にして、梁その代終わらん。天の歴数は当に舜の後に帰すべし。昔、周が殷氏を滅ぼし、媯満を宛丘に封ず。その裔子孫、因って陳氏と為る。僕が明公を観るに、天縦の神武、絶えたる統を継ぐ者は、是れに非ずや」と。武帝は密かに僧辯を図る意あり、その言を聞いて大いに喜び、それによって策を定めた。禅を受けると、黄門侍郎に拝され、俄かに司農卿・司徒右長史・貞威将軍に遷り、安右晋安王長史を領し、府国事を行い、転じて廷尉卿となった。太建年中、周への聘使主となり、散騎常侍を加えられた。尋いで秘書監・宣遠将軍となり、転じて臨海王長史、呉興郡事を行い、入朝して太府卿となった。至徳初年、鼎は財貨田宅を全て質に入れ、僧寺に寓居した。友人の大匠卿毛彪がその故を問うと、答えて言った、「江東の王気は此に尽きたり。我と爾は当に長安に葬られん。期運将に及ばんとす、故に破産するのみ」と。

初め、鼎が周に聘使した時、嘗て高祖と出会い、鼎は高祖に言った、「公の容貌を観るに、故に常人に非ず。而して神監深遠、亦た群賢の逮ぶ所に非ず。久しからずして必ず大貴す。貴すれば則ち天下一家、歳一周天、老夫当に質を委ねん。公の相は言うべからず、願わくは深く自ら愛せよ」と。陳が平定されると、上は馳せてこれを召し、上儀同三司を授け、待遇甚だ厚かった。上は毎に公王と宴賞する時、鼎は常にこれに預かった。高祖は嘗て従容としてこれに謂いて、「韋世康と公とは相去ること遠近如何」と言った。鼎は対えて、「臣が宗族は分派し、南北孤絶し、生まれて以来、未だ嘗て訪問せず」と言った。帝は、「公は百世の卿族なり、何ぞ爾るを得んや」と言い、乃ち官に命じて酒肴を給し、世康を遣わして鼎と共に杜陵に還り、楽飲すること十余日させた。鼎は乃ち昭穆を考校し、楚の太傅韋孟以下二十余世にわたり、『韋氏譜』七巻を作った。時に蘭陵公主が寡となり、上はそのために夫を求め、親衛柳述及び蕭瑒等を選び、鼎に示した。鼎は言った、「瑒は封侯すべし、而して貴妻の相無し。述も亦た通顕すべし、而して位を守りて終わらず」と。上は、「位は我に由るのみ」と言い、遂に公主を柳述に降嫁させた。上は又鼎に問うて、「諸児誰か嗣ぐを得ん」と。答えて言った、「至尊・皇后の最も愛する所の者、即ち当にこれを与うべし。臣の敢えて預かり知る所に非ず」と。上は笑って、「肯えて顕言せざるか」と言った。

開皇十二年、光州刺史に除され、仁義を以て教導し、務めて清静を弘めた。州中に土豪あり、外は辺幅を修めるも、内は行い軌に合わず、常に劫盗を為した。鼎は都会の時にこれに謂って、「卿は好人なり、何ぞ忽ち賊と作る」と言い、因ってその徒党の謀議逗留を条列した。その人は驚懼し、即ち自首伏罪した。又、人あり客遊し、主家の妾と通じ、その還り去るに及び、妾が珍物を盗み、夜に亡去し、尋いで草中にて人に殺された。主家は客が妾と通じたことを知り、因って客がこれを殺したと告げた。県司が鞫問し、具に奸状を得、因って客を死罪に断じた。獄が成り、上に上ると、鼎はこれを覧て言った、「この客は実に奸有り、而して殺すは非なり。乃ち某寺の僧、妾を詃いて物を盗ませ、奴に令してこれを殺さしめ、贓は某処に在り」と。即ちこの客を放ち、僧を掩捕するよう遣わし、併せて贓物を獲た。ここより部内粛然として言わず、皆その神有りと称し、道に遺物を拾う者無し。尋いで追って京に入り、年老いて病多く、累次優賜を加えられた。頃くして卒し、年七十九。

来和

来和は、字を弘順といい、京兆長安の人である。少くして相術を好み、言うところ多く験があった。大塚宰宇文護がこれを左右に引き、これによって公卿の門を出入りした。初め夏官府下士となり、累遷して少卜上士となり、安定郷男の爵を購われた。畿伯下大夫に遷り、進んで洹水県男に封ぜられた。高祖が微賤の時、来たりて和に相を請うと、和は人を待たせて去り、高祖に謂って、「公は当に王たりて四海を有すべし」と言った。丞相となるに及び、儀同に拝され、既に禅を受けると、進んで子爵となった。開皇末、和は上表して自ら陳べて言った。

臣は早くより龍顔に奉仕し、周代の天和三年以来、幾度も陛下の顧問を蒙り、当時は具に申し上げた。至尊は図籙を膺け天命を受け、区宇に光を宅すべしと。これは天授のものであり、人事によって及ぶものではない。臣は功労なくして五品に至り、二十余年を経た。臣は何者ぞ、慚懼せざるを得んや。愚臣は区区の至りを任じず、謹んで陛下が龍潜の時、臣が言い得た一つのことを秘府に書き記し、死して恨みなからんことを願う。昔、陛下が周に在りし時、永富公竇栄定と語りて臣に言われた。『朕は行く声を聞けば、即ちその人を識る』と。臣は当時即ち言った。公の眼は曙星の如く、照らさざる所なく、まさに王として天下を有つべし、誅殺を忍ばれよと。建徳四年五月、周武帝が雲陽宮に在り、臣に言われた。『諸公は皆汝が識るところ、隋公の相禄は如何』と。臣は武帝に報じて言った。『隋公はただ守節の人に過ぎず、一方を鎮むるに足る。若し将領と為れば、陳を破らざるはない』と。臣は即ち宮の東南にて奏聞した。陛下は臣に、この言葉を忘れずと仰せられた。明年、烏丸軌が武帝に言った。『隋公は人臣に非ず』と。帝は尋ねて臣に問われた。臣は帝に疑い有るを知り、詭りて報じて言った。『これは節臣であり、更に異相はありません』と。当時、王誼・梁彦光らは臣のこの言葉を知っていた。大象二年五月、至尊が永巷東門より入られ、臣は永巷門の東にて北面して立ちし時、陛下は臣に問われた。『朕に災障は無いか』と。臣は陛下に奏上した。『公の骨法気色相応じ、天命は既に付属す』と。未だ幾ばくもせず、遂に百揆を総べられた。

上はこれを覧て大いに悦び、位を開府に進め、物五百段、米三百石、地十頃を賜う。

和は同郡の韓則が嘗て和に相を請うた時、これに謂いて言った。『後四五にして大官を得べし』と。人は初め何を指すか知らなかった。則は開皇十五年五月に至って終わり、人はその故を問うた。和は言った。『十五年は三五、これに五月を加えて四五となる。大官とはひつぎなり』と。和の言は多くこの類である。『相経』四十巻を著す。

道士の張賓・焦子順・雁門の人董子華、この三人は高祖が龍潜の時、共にひそかに高祖に言った。『公は天子となるべし、善く自ら愛せよ』と。践祚に及んで、賓を華州刺史とし、子順を開府とし、子華を上儀同とした。

蕭吉・楊伯醜・臨孝恭・劉祐

蕭吉は字を文休といい、梁の武帝の兄、長沙宣武王蕭懿の孫である。博学で広く通じ、特に陰陽算術に精しかった。江陵が陥落すると、遂に周に帰順し、儀同となった。宣帝の時、吉は朝政が日に乱れるを見て、上書して切に諫めた。帝は納れなかった。隋が禅を受けるに及んで、上儀同に進み、本官の太常として古今の陰陽書を考定した。吉の性質は孤峭で、公卿と共に浮沈せず、また楊素と協わなかった。これによって世に擯落され、鬱々として志を得ず。上は徴祥の説を好むを見て、幹没して自ら進まんと欲し、遂にその跡を矯めて悦媚に為した。開皇十四年、上書して言う。『今年は歳甲寅に在り、十一月朔旦、辛酉を以て冬至とす。来年乙卯、正月朔旦、庚申を以て元日とす。冬至の日、即ち朔旦に在り。『楽汁図徴』に云う、「天元十一月朔旦冬至、聖王享祚を受く」と。今聖主在位し、天元の首に居り、而して朔旦冬至、これ一の慶なり。辛酉の日、即ちは至尊の本命、辛の徳は丙に在り、この十一月は丙子を建つ。酉の徳は寅に在り、正月寅を建つは本命と為し、月徳と合し、而して元朔の首に居る、これ二の慶なり。庚申の日、即ちは行年、乙の徳は庚に在り、卯の徳は申に在り、来年乙卯は、行年と歳と合徳し、而して元旦の朝に在る、これ三の慶なり。『陰陽書』に云う、「年命と歳月と合徳する者は、必ず福慶有り」と。『洪範伝』に云う、「歳の朝、月の朝、日の朝、主は王者なり」と。経書は並びに三長これに応ずる者を、延年福吉と謂う。況んや乃ち甲寅は部首、十一月は陽の始、朔旦冬至は、聖王の上元なり。正月は正陽の月、歳の首、月の先なり。朔旦は歳の元、月の朝、日の先、嘉辰の会なり。而して本命は九元の先、行年は三長の首、並びに歳月と合徳す。故に『霊宝経』に云う、「角音は龍精、その祚日強し」と。来歳の年命納音は俱に角、暦と経とは、符契を合するが如し。又、甲寅・乙卯は天地合なり、甲寅の年は辛酉を以て冬至とし、来年乙卯は甲子を以て夏至とす。冬至は陽始、郊天の日、即ちは至尊の本命、これ四の慶なり。夏至は陰始、祀地の辰、即ちは皇后の本命、これ五の慶なり。至尊の徳は乾の覆育に並び、皇后の仁は地の載養に同じ。故に二儀の元気、並びに本辰に会す』と。上はこれを覧て大いに悦び、物五百段を賜う。

房陵王(楊勇)が当時太子であった時、東宮に鬼巉多く、鼠妖しばしば現れると言った。上は吉に命じて東宮に詣でさせ、邪気を禳わしめた。宣慈殿に神坐を設けると、回風が艮地の鬼門より来たり、太子の坐を掃った。吉は桃湯と葦火を以てこれを駆逐し、風は宮門を出て止んだ。又、土を謝するに、未地に壇を設け、四門と為し、五帝の坐を置いた。時に至って寒く、蝦蟇が西南より来たり、人門に入り、赤帝の坐に昇り、還って人門より出でた。数歩行きて、忽然として見えなくなった。上は大いにこれを異とし、賞賜は優渇であった。又、上言して太子は当に位を安んぜずと。時に上は陰に廃立を欲し、その言を得て是とした。これによって毎に顧問を被る。

献皇后が崩ずると、上は吉に命じて葬所を卜択せしめた。吉は山原を歴筮し、一箇所に至り、「卜年二千、卜世二百」と言い、図を具してこれを奏上した。上は言った。「吉凶は人による。地に在らず。高緯の父を葬るに、豈に卜さざらんや。国は尋いで滅亡せり。正に我が家の墓田の如し、若し不吉と言わば、朕は天子と為るべからず。若し不凶と言わば、我が弟は戦没すべからず」。然しながら竟に吉の言に従った。吉は表して言う。「去月十六日、皇后の山陵の西北、鶏未だ鳴かざる前、黒雲有り方円五六百歩、地より天に属す。東南には又、旌旗・車馬・帳幕有り、七八里に満ち布き、並びに人往来して検校し、部伍甚だ整う。日出でて乃ち滅す。同じく見る者十余人。謹んで案ずるに『葬書』に云う、『気王と姓と相生すれば、大吉』と。今、黒気は冬に当たり王たり、姓と相生す。是れ大吉にして、子孫無疆の候なり」。上は大いに悦んだ。その後、上は将に親しく発殯に臨まんとす。吉は復た上に奏して言う。「至尊の本命は辛酉、今歳の斗魁及び天岡、卯酉に臨む。謹んで『陰陽書』を按ずるに、喪に臨むべからず」。上は納れず。退いて族人の蕭平仲に告げて言う。「皇太子は宇文左率を遣わし深く余に謝して云う、『公は前に我が太子と為るべしと称し、竟にその験有り、終に忘れず。今、山陵を卜するに、務めて我をして早く立たしめよ。我立ちし後、当に富貴を以て相報ぜん』と。吾はこれを記して言う、『後四載、太子天下を禦す』と。今、山陵の気応じ、上又喪に臨まんとす。兆益々見ゆ。且つ太子政を得ば、隋其れ亡ぶべし。当に真人出でてこれを治むべし。吾が前に紿いて卜年二千と言えるは、是れ三十の字なり。卜世二百と言えるは、三十二運を取るなり。吾が言信なり、汝其れこれを志せ」と。

煬帝が位を継ぐと、太府少卿に任ぜられ、開府の位を加えられた。かつて華陰を通りかかり、楊素の塚の上に白気が天に属するのを見て、密かに帝に言上した。帝がその故を問うと、吉は言う、「その兆候は、楊素の家に兵禍あり、滅門の象なり。改葬すれば、おそらく免れることができましょう」と。帝は後に楊玄感にゆったりと語って言う、「公の家は早く改葬すべきである」と。玄感もまた微かにその故を知り、吉祥とみなし、遼東が未だ滅びざるを託け、私門の事に暇あらざるとなした。未だ幾ばくもせずして玄感は反逆により族滅し、帝はますますこれを信じた。後、歳余にして、官に卒す。著すところに『金海』三十巻、『相経要録』一巻、『宅経』八巻、『葬経』六巻、『楽譜』二十巻及び『帝王養生方』二巻、『相手版要決』一巻、『太一立成』一巻あり、並びに世に行わる。

時に楊伯醜、臨孝恭、劉祐あり、ともに陰陽術数をもって知名なり。

楊伯醜は、馮翊武郷の人なり。『易』を読むを好み、華山に隠る。開皇の初め、徴されて朝に入る。公卿を見ても礼を為さず、貴賤なく皆「汝」とて之を呼ぶ。人は測る能わざりき。高祖召して語らしむるも、終に答うる所なし。上衣服を賜うも、朝堂に至り、これを捨てて去る。ここにおいて髪を被き陽狂し、市里に遊行し、形體垢穢にして、未だ櫛沐せざりき。嘗て張永楽という者あり、京師に卜を売る。伯醜毎にこれに従いて遊ぶ。永楽卦を為すに決すること能わざる者有れば、伯醜輒ち爻象を分析し、幽に入り微に尋ぬ。永楽嗟服し、自ら以て及ぶ所に非ずと為す。伯醜もまた肆を開き卜を売る。人嘗て子を失い、伯醜に就きて筮う者有り。卦成るや、伯醜曰く、「汝が子は懐遠坊の南門の道の東北の壁上にあり、青き裙の女子これを抱く、往きて取り得べし」と。言の如くにして果たして得たり。或いは金数両有り、夫妻共にこれを蔵す。後に於いて金を失う。其の夫、妻に異志有りと意い、将にこれを逐わんとす。其の妻冤を称え、以て伯醜に詣る。これが為に筮いて曰く、「金在り」と。悉く其の家人を呼び、一人を指して曰く、「金を取り来たるべし」と。其の人赧然として、声に応じてこれを取る。道士韋知常、伯醜に詣りて吉凶を問う。伯醜曰く、「汝東北に行く勿れ。必ず已むを得ずば、早く還るべし。然らずんば、楊素汝が頭を斬らん」と。未だ幾ばくもせず、上知常をして漢王諒に事えしむ。俄にして上崩じ、諒兵を挙げて反す。知常逃れて京師に帰る。知常先に楊素と隙有り。及んで素へい州を平らぐるや、先ず知常を訪い、将にこれを斬らんとす。これに頼りて免るることを獲たり。又、人馬を失い、来たりて伯醜に卜を詣う者有り。時に伯醜は皇太子に召され、途にてこれに遇い、立ちどころに卦を為す。卦成るや、曰く、「我卿が為に占うに遑あらず。卿且く西市の東壁門の南第三の店にて、我が為に魚を買い膾を作れ。当に馬を得ん」と。其の人此の言の如くにす。須臾にして、一人牽きて失いし馬を至らしむ。遂にこれを擒にす。崖州嘗て径寸の珠を献ず。其の使者陰にこれを易う。上心に疑う。伯醜を召して筮わしむ。伯醜曰く、「物水中より出で、質円くして色光る有り。是れ大珠なり。今人の隠す所と為る」と。具に隠者の姓名容状を言う。上言の如くに簿責す。果たして本の珠を得たり。上これを奇とし、帛二十匹を賜う。国子祭酒何妥嘗てこれに詣りて『易』を論ず。妥の言を聞き、倏然として笑いて曰く、「何ぞ鄭玄・王弼の言を用いんや」と。久しくして、微かに弁答有り。説く所の辞義は、皆先儒の旨に異なり、而して思理玄妙なり。故に論ずる者、天然独得にして、常人の及ぶ所に非ずと為す。竟に寿を以て終わる。

臨孝恭は、京兆の人なり。天文算術に明るく、高祖甚だ親遇す。毎に災祥の事を言うに、未だ中らざることなし。上因って陰陽を考定せしむ。官は上儀同に至る。著すところに『欹器図』三巻、『地動銅儀経』一巻、『九宮五墓』一巻、『遁甲月令』十巻、『元辰経』十巻、『元辰厄』一百九巻、『百怪書』十八巻、『禄命書』二十巻、『九宮亀経』一百十巻、『太一式経』三十巻、『孔子馬頭易卜書』一巻あり、並びに世に行わる。

劉祐は、滎陽けいようの人なり。開皇の初め、大都督ととくとなり、索盧県公に封ぜらる。其の占候する所、符契の如く合い、高祖甚だこれを親しむ。初め張賓・劉暉・馬顯と暦を定む。後に詔を奉じて兵書十巻を撰す。名づけて『金韜』と曰う。上これを善しとす。また著すところに『陰策』二十巻、『観台飛候』六巻、『玄象要記』五巻、『律暦術文』一巻、『婚姻志』三巻、『産乳志』二巻、『式経』四巻、『四時立成法』一巻、『安暦志』十二巻、『帰正易』十巻あり、並びに世に行わる。

張胄玄

張胄玄は、渤海蓚の人なり。博学多通、特に術数に精し。冀州刺史趙煚これを薦む。高祖徴して雲騎尉を授け、太史に直し、律暦事に参議せしむ。時の輩多く其の下に出ず。ここにおいて太史令劉暉等甚だこれを忌む。然れども暉の言多く中らず、胄玄の推歩する所甚だ精密なり。上これを異とす。楊素に命じて術数人と議を立てしむること六十一事、皆旧法久しく通じ難きもの。暉と胄玄等にこれを弁析せしむ。暉口を杜して一も答うる所なし。胄玄通ずるもの五十四なり。ここにおいて抜擢して員外散騎侍郎に拝し、太史令を兼ね、物千段を賜う。暉及び党与八人皆斥逐せらる。新暉を改定し、前暉の一日差たるを言う。内史通事顔敏楚上言して曰く、「漢の時、落下閎『顓頊暦』を改めて『太初暦』を作り、雲う『後当に一日差たん。八百年にして当に聖者之を定めん』と。計るに今相去ること七百十年、術者其の成数を挙ぐ。聖者之を謂う、其れ今に在らんか」と。上大いに悦び、漸く親用せらる。

胄玄の為す所の暦法、古と異なる者三事有り。

其一、宋の祖沖之、歳周の末に於いて、差分を創設し、冬至漸く移り、旧軌に循わず。毎四十六年、却って一度差つ。梁の虞𠠎の暦法に至り、沖之の差つる所多きを嫌い、因って一百八十六年を以て冬至一度を移す。胄玄此の二術を以て、年限懸隔し、古注を追検するに、失う所極めて多し。遂に両家を折衷し、以て度法と為す。冬至の宿する所、歳別に漸く移り、八十三年にして却って一度を行えば、則ち上は堯時の日永星火に合い、次に漢暉の宿起る牛初に符す。其の前後を明らかにし、並びに皆密当なり。

其二、周の馬顕『丙寅元暦』を造る。陰陽転法有り、章分を加減し、蝕余を進退し、乃ち日を推定し、此の数を創開す。当時の術者、多く能く暁らざりき。張賓因ってこれを用うるも、能く考正する者なし。胄玄以て為す、加時の先後、気を逐うて参差し、月を就えて断つは、理に於いて未だ可ならずと。乃ち二十四気に因りて其の盈縮の出ずる所を列す。実に日行遅ければ則ち月日を逐うて易く及び、合朔の加時を早からしめ、日行速ければ則ち月日を逐うて少しく遅く、合朔の加時を晩からしむるに由る。前代の加時の早晚を検し、以て損益の率と為す。日行は秋分已後より春分に至るまで、其の勢速く、計ること一百八十二日にして一百八十度を行く。春分已後より秋分に至るまで、日行遅く、計ること一百八十二日にして一百七十六度を行く。毎気の下に、即ち其の率なり。

第三に、古来の諸暦法は、朔望(新月・満月)が交会(黄道と白道の交点)に値する場合、内外を問わず、入限すれば必ず食となす。張賓が立法するに、外限を創設し、応食すべきもの食せず、未だ明らかにし得ず。胄玄は、日は黄道を行き、一歳にして天を一周し、月は月道を行き、二十七日余りにして天を一周す。月道は黄道と交絡し、毎に黄道の内を十三日余り行きて出で、また黄道の外を十三日余り行きて入る。終わりて復た始め、月が黄道を経るを交と謂う。朔望が交を去ること前後各十五度以下のとき、即ち当食と為す。若し月が内道を行くときは、則ち黄道の北に在り、食多くは験有り。月が外道を行くときは、黄道の南に在り、仮令正交に遇うとも、掩映する由無く、食多くは験無し。遂に前法に因り、別に定限を立て、交の遠近に随い、逐気して差を求め、食分を損益すること、事皆明らかに著るし。

その古を超え独り異なること七事有り。

第一に、古暦は五星の行度皆恒率を守り、見伏盈縮、悉く格準無し。胄玄これを推すに、各々其の真率を得、合見の数、古と同からず。其の差多きものは、加減三十許日に至る。即ち熒惑の平見が雨水気に在るを例とすれば、即ち均しく二十九日を加え、見が小雪気に在れば、則ち均しく二十五日を減ず。平見を減ずるも、以て定見と為す。諸星各々盈縮の数有り、皆此の例の如し、但だ差数同じからず。特に其の積候して知る所、時人其の意旨を原うること能わず。

第二に、辰星の旧率は、一終に再見す。凡そ諸古暦、皆以て然りと為すも、応見すべきもの見えず、人未だ測る能わず。胄玄積候して、辰星一終の中に、時に一見すること有り、及び同類感召して、相随いて出づることを知る。即ち辰星の平晨見が雨水気に在るものは、応見すべきも即ち見えず、若し平晨見が啓蟄気に在るものは、日を去ること十八度外、三十六度内に、晨に木火土金の一星有るものは、亦相随いて見ゆ。

第三に、古暦の歩術は、行に定限有り、自ら見えたる後は、率に依りて推す。進退の期、多少を知る莫し。胄玄積候して、五星の遅速留退の真数皆古法と同じからず、多きものは八十余日の差に至り、留回の所在も亦八十余度差うことを知る。即ち熒惑の前疾初見が立冬の初めに在れば、則ち二百五十日に一百七十七度行き、定見が夏至の初めに在れば、則ち一百七十日に九十二度行く。天を追歩して験すに、今古皆密なり。

第四に、古暦の食分は、平に依りて即ち用い、推験して多少すれども、実数稀に符せず。胄玄積候して、月が木・火・土・金の四星に従い行くに、向背有ることを知る。月が四星に向かえば即ち速く、之に背けば則ち遅く、皆十五度外にて、乃ち本率に循う。遂に交分に於いて、其の多少を限る。

第五に、古暦の加時は、朔望同じ術なり。胄玄積候して、日食の所在、方に随い改変し、傍正高下、毎処同じからず。交に浅深有り、遅速も亦異なり、時を約して差を立て、皆天象に会うことを知る。

第六に、古暦は交分即ち食数と為し、交を去ること十四度のものは一分を食し、交を去ること十三度は二分を食し、交を去ること十度は三分を食す。毎に一度近づくに、食益々一分を加え、当交すれば即ち食既と為す。其の応に少なきに反て多く、応に多きに反て少ないこと、古来諸暦、未だ其の原を悉くせず。胄玄積候して、当交の中に在りては、月、日を掩いて能く畢く尽くさず、其の食反て少なく、交を去ること五六時に、月、日内に在りて、日を掩いて便ち尽くすを以て、故に食乃ち既と為すことを知る。此れ已後、更に遠きものは其の食又少なし。交の前後、冬至に在るは皆然り。若し夏至に近ければ、其の率又差う。立てる所の食分、最も詳密なり。

第七に、古暦の二分(春分・秋分)は、昼夜皆等し。胄玄積候して、其の差有ることを知る。春秋二分に、昼多く夜漏半刻なり。皆日行の遅疾盈縮之をして然らしむるなり。

凡そ此れ胄玄独り心に得る所、論者其の精密を服す。大業年中、官に卒す。

許智藏

許智藏は、高陽の人なり。祖父の道幼は、嘗て母の疾を以て、遂に医方を覧み、因りて究極し、世に名医と号す。其の諸子に誡めて曰く、「人子と為る者は、膳を嘗め薬を視るに、方術を知らざれば、豈に孝と謂わんや」と。是れより世相伝授す。梁に仕え、官は員外散騎侍郎に至る。父の景は、武陵王の諮議参軍なり。智藏は少くより医術を以て自ら達し、陳に仕えて散騎侍郎と為る。陳滅びしに及び、高祖之を以て員外散騎侍郎と為し、揚州に詣らしむ。会うに秦孝王俊疾有り、上馳せて之を召す。俊夜中に其の亡妃崔氏の夢を見るに、泣いて曰く、「本来相迎えんとす。比聞くに許智藏将に至らんとす。其の人若し到らば、当に必ず相苦しむ、之を奈何せん」と。明夜、俊又た崔氏の夢を見るに、曰く、「妾計を得たり。当に霊府の中に入りて以て之を避けん」と。智藏至るに及び、俊が為に脈を診て曰く、「疾已に心に入れり。郎当に巘を発すべし、救う可からず」と。果たして言の如く、俊数日にして薨ず。上其の妙を奇とし、物百段を賚う。煬帝即位し、智藏時に家に致仕す。帝毎に苦しむ所有れば、輒ち中使を令して就きて詢訪せしめ、或いは輿に迎えて殿に入れ、扶けて御床に登らしむ。智藏方を作りて之を奏す。用いて効無きこと無し。年八十、家に卒す。

宗人の許澄も、亦た医術を以て顕る。父の奭は、梁に仕えて太常丞・中軍長史と為る。柳仲礼に随いて長安に入り、姚僧垣と斉名し、上儀同三司に拝せらる。澄は学識有り、父の業を伝え、尤も其の妙を尽くす。尚薬典禦・諫議大夫を歴任し、賀川県伯に封ぜらる。父子俱に芸術を以て名周・隋二代に重し。史事を失う、故に附見すと云う。

萬寶常 王令言

萬寶常は、何れの許の人なるかを知らず。父は大通、梁の将軍王琳に従って斉に帰順す。後にまた江南に還らんと謀るも、事泄れて誅せらる。ここにおいて寶常は配されて楽戸と為り、これによりて鐘律に妙達し、八音に遍く工なり。玉磬を造りて斉に献ず。また嘗て人と方に食し、声調に論及す。時に楽器無く、寶常は因りて前の食器及び雑物を取り、箸を以て之を扣き、其の高下を品し、宮商備わり、絲竹に諧ひ、大いに時人の賞する所と為る。然れども周を歴て隋に至るまで、俱に調を得ず。開皇の初め、はい国公鄭訳等楽を定め、初めて黄鐘調と為す。寶常は伶人と為れども、訳等は毎に召して議し、然れども言多く用ひられず。後に訳の楽成りて之を奏す。上、寶常を召し、其の可なるかを問ふ。寶常曰く、「此れ亡国の音なり、豈に陛下の聞く所に宜しからんや」と。上悦ばず。寶常は因りて極言して楽声の哀怨淫放なるを、雅正の音に非ざることを論じ、水尺を以て律と為し、以て楽器を調べんことを請ふ。上之に従ふ。寶常詔を奉じ、遂に諸の楽器を造る。其の声率ね鄭訳の調より二律下る。並びに『楽譜』六十四巻を撰し、具に八音旋相宮を為すの法、弦を改め柱を移すの変を論ず。八十四調、一百四十四律と為し、変化終に一千八百声に至る。時に人、『周礼』に旋宮の義有りとし、漢・魏已来、知音者皆能く通ぜずとし、寶常の特創に其事を見て、皆之を哂ふ。是に至り、試みに之を為さしむるに、手に応じて曲を成し、凝滞する所無く、見る者嗟異せざる莫し。ここにおいて楽器を損益すること、紀すに勝へず。其の声雅淡にして、時人の好む所と為らず、太常の善声なる者は多く排毀す。また太子洗馬蘇夔は鐘律を以て自ら命じ、尤も寶常を忌む。夔の父威、方に用事し、凡そ楽を言ふ者は、皆之に附して寶常を短ず。数たび公卿に詣りて怨望す。蘇威、因りて寶常を詰め、何れの所伝受なるかを問ふ。一の沙門有りて寶常に謂ひて曰く、「上は雅に符瑞を好み、徴祥を言ふ者有れば、上は皆之を悦ぶ。先生は当に胡僧に就きて学を受くと言ひ、雲ふ是れ仏家の菩薩の伝ふる所の音律なりとせば、則ち上必ず悦ばん。先生の為す所、以て行はるべし」と。寶常之を然りとし、遂に其の言の如く以て威に答ふ。威怒りて曰く、「胡僧の伝ふる所は、乃ち四夷の楽にして、中国の行ふに宜しきに非ざるなり」と。其の事竟に寢す。寶常嘗て太常の奏する楽を聴き、泫然として泣く。人其の故を問ふ。寶常曰く、「楽声淫厲にして哀し、天下久しからずして相殺し将に尽きんとす」と。時に四海全盛にして、其の言を聞く者は皆然らざる謂ふ。大業の末、其の言卒に験ふ。

寶常貧しくして子無く、其の妻其の臥疾に因り、遂に其の資物を窃みて逃ぐ。寶常饑餒し、人贍遺する無く、竟に餓えて死す。将に死せんとす、其の著する書を取りて之を焚きて曰く、「何ぞ此れを為さん」と。見る者火中に於て数巻を探得し、世に行はるるを見る。時論之を哀しむ。

開皇の世、鄭訳・何妥・盧賁・蘇夔・蕭吉有り、並びに墳籍を討論し、楽書を撰著して、皆当世の用ふる所と為る。天然に楽を識るに至りては、寶常に及ばざること遠し。安馬駒・曹妙達・王長通・郭令楽等は、能く曲を造りて一時の妙と為り、又鄭声を習ふ。而して寶常の為す所は、皆雅に帰す。此の輩は公議寶常に附せざるも、然れども皆心服し、以て神と為す謂ふ。

時に楽人王令言有り、亦た音律に妙達す。大業の末、煬帝将に江都に幸せんとす。令言の子嘗て従ふ。戸外に於て胡琵琶を弾じ、翻調『安公子曲』を作す。令言時に臥室中に在り、之を聞きて大いに驚き、蹶然として起ちて曰く、「変なり、変なり」と。急ぎ其の子を呼びて曰く、「此の曲興る自ら早晚ぞ」と。其の子対へて曰く、「頃来りて之有り」と。令言遂に歔欷流涕し、其の子に謂ひて曰く、「汝慎みて従行すること無かれ、帝必ず返らざらん」と。子其の故を問ふ。令言曰く、「此の曲宮声往きて反らざるなり。宮は君なり。吾の知る所以なり」と。帝竟に江都に於て殺さる。

史臣曰く、陰陽卜祝の事は、聖人の教へ其の中に在り。専ら行ふべからざるも、亦た得て廃すべからざるなり。人能く道を弘むれば、則ち博く時俗に利し、行ふ其の義に非ざれば、則ち咎悔身に及ぶ。故に昔の君子の妄作を戒むる所以なり。今、韋・来の骨法気色、庾・張の推歩盈虚は、落下・高堂・許負・硃建と雖も、尚ふ能はざるなり。伯醜の亀策は鬼神の情に近く知り、耿詢の渾儀は辰象の度に差へず、寶常の声律は宮商の和に動応す。遠く古人に擬するに足らざるも、皆一時の妙なり。許氏の運針石は世載し称す可く、蕭吉の言ふ陰陽は誣誕に近し。