藝術
陰陽は時日を正し、気序を順にする所以のものであり、卜筮は嫌疑を決し、猶豫を定める所以のものであり、醫巫は妖邪を禦ぎ、性命を養う所以のものであり、音律は人神を和し、哀楽を節する所以のものであり、相術は貴賤を弁じ、分理を明らかにする所以のものであり、技巧は器用を利し、艱難を済す所以のものである。これらは皆、聖人が心に意図なく、民に因って教えを設け、災患を救恤し、淫邪を禁止したものである。三五の哲王より以来、その由来久しい。然れども昔、陰陽を言う者には、箕子・裨竈・梓慎・子韋あり、音律に通暁する者には、師曠・師摯・伯牙・杜夔あり、卜筮を叙するには、史扁・史蘇・厳君平・司馬季主あり、相術を論ずるには、内史叔服・姑布子卿・唐挙・許負あり、醫を語るには、文摯・扁鵲・季咸・華佗あり、その巧思には、奚仲・墨翟・張平子・馬徳衡あり。凡そ此の諸君は、仰ぎ観て俯して察し、賾を探り隠を索め、皆幽微に詣り、思うこと造化に侔し、霊を通じ妙に入り、殊なる才、絶する技あり。或いは道を弘めて以て時を済し、或いは身を隠して以て物を利し、深くして測るべからず、固より称うるを得ざるなり。近古斯の術に渉る者は、貞一を存するもの鮮く、多く其の淫僻を肆にし、厚く天道を誣う。或いは陰陽を変乱し、曲って君の欲を成し、或いは神怪を仮託し、民心を熒惑す。遂に時俗をして妖訛ならしめ、其の真性に返ることを獲ず、身災毒に罹り、寿終して死するを得ざらしむ。藝成りて下る、意茲に在るか。歴観するに経史百家の言、夫れ藝術を存せざるは無く、或いは其の玄妙を叙し、或いは其の迂誕を記す。徒に異聞を用いて広むるのみならず、将に以て勸戒を明らかにせんとす。是をもって後の作者、或いは相い祖述す。故に今も亦其の尤も著しい者を采り、『藝術篇』と列すと云う。
庾季才、子質、盧太翼、耿詢
庾季才は、字を叔奕といい、新野の人である。八世の祖滔は、晉の元帝に従って江を渡り、官は散騎常侍に至り、遂昌侯に封ぜられ、因って南郡江陵県に家を定めた。祖父の詵は、梁の処士で、同族の易と齊名であった。父の曼倩は、光祿卿である。季才は幼くして穎悟で、八歳で『尚書』を誦し、十二歳で『周易』に通じ、玄象を占うことを好んだ。喪に居て孝行で知られた。梁の廬陵王蕭績が荊州主簿に辟し、湘東王蕭繹は其の術藝を重んじ、引いて外兵参軍に授けた。西台が建てられると、累遷して中書郎となり、太史を領し、宜昌県伯に封ぜられた。季才は固より太史を辞したが、元帝は言った、「漢の司馬遷は歴世に亘って尸掌し、魏の高堂隆も猶此の職を領した。前例無きに非ず、卿何ぞ憚る所あらんや。」帝も亦頗る星暦に明るく、因って共に仰観し、従容として季才に謂って言った、「朕は猶お禍の蕭牆より起らんことを慮る。何方ぞ之を息むべきか。」季才曰く、「頃に天象変を告ぐ。秦将に郢に入らんとす。陛下は宜しく重臣を留め、荊陝に鎮と作り、旆を整えて都に還り、以て其の患を避くべし。仮令羯寇侵蹙すとも、止だ荊湘を失うのみ。社稷に於いては、慮り無きを得べし。必ず久しく停留せば、恐らくは天意に非ざるべし。」帝は初め之を然りとし、後に吏部尚書宗懍等と議し、乃ち止めた。俄にして江陵陥落滅亡し、竟に其の言の如し。
周の太祖は季才に一見し、深く優礼を加え、太史を参掌せしめた。征討有る毎に、常に侍従に預かった。宅一区、水田十頃、並びに奴婢牛羊什物等を賜い、季才に謂って言った、「卿は南人なり。未だ北土に安んぜず。故に此の賜有るは、卿の南望の心を絶たんと欲するなり。宜しく誠を尽くして我に事えよ。富貴を以て相い答うべし。」初め、郢都の陥落するや、衣冠の士人多く賤しきものに没せられた。季才は賜わった物を散じて、親故を購い求めた。文帝問う、「何ぞ能く此の若くするや。」季才曰く、「僕聞く、魏襄陽を克つに、先ず異度を昭にし、晉建業を平ぐるに、喜んで士衡を得たりと。国を伐ちて賢を求むるは、古の道なり。今郢都覆敗し、君信に罪有り。晉紳何の咎ぞ、皆賤隷と為る。鄙人羈旅、敢えて言を献ぜず。誠に之を切に哀しむ。故に贖い購うのみ。」太祖乃ち悟って言った、「吾が過ちなり。君微ならば遂に天下の望を失わんとす。」因って令を出して、梁の俘虜で奴婢と為る者数千口を免じた。
季才は局量寛弘にして、術業優博、信義に篤く、志は賓遊を好む。常に吉日良辰に、琅琊の王褒・彭城の劉㲄・河東の裴政及び宗人の信等と、文酒の会を為す。次に劉臻・明克讓・柳抃の徒あり、後進と雖も、亦た遊款を申べし。『霊台秘苑』一百二十巻、『垂象志』一百四十二巻、『地形志』八十七巻を撰し、並びに世に行わる。
子儉、亦た父の業を伝え、学識を兼ぬ。仕えて襄武令・元徳太子学士・斉王属を歴任す。義寧初め、太史令と為り、時に盧太翼・耿詢あり、並びに星暦を以て知名なり。
盧太翼、字は協昭、河間の人なり、本姓は章仇氏。七歳にして学に詣で、日に数千言を誦し、州裡神童と号す。及び長じ、閑居して道味を玩び、栄利を求めず。群書を博綜し、爰に仏道に及び、皆その精微を得。特に占候算暦の術を善くす。白鹿山に隠れ、数年して林慮山の茱萸澗に徙居す。業を請う者遠方より至る、初めは拒む所無し、後その煩わしきを憚り、五台山に逃る。地多く薬物あり、弟子数人と岩下に廬し、蕭然として世を絶ち、以て神仙致す可しと為す。皇太子勇聞きてこれを召す、太翼は太子必ず嗣と為らざるを知り、親しき者に謂いて言う、「吾拘逼せられて来る、税駕する所を知らず」。及び太子廃せられ、法に坐して当に死すべし、高祖その才を惜しみて害せず、官奴に配す。久しうして、乃ち釈す。その後目盲す、手を以て書を摸りてその字を知る。仁寿末、高祖将に仁寿宮に避暑せんとす、太翼固く諫めて納れられず、再三に及ぶ。太翼曰く、「臣愚なり豈に敢えて詞を飾らんや、但だこの行鑾輿反らざるを恐る」。高祖大いに怒り、長安の獄に系し、還るを期してこれを斬らんとす。高祖宮に至り疾に臥し、崩ずるに臨み、皇太子に謂いて言う、「章仇翼は常人に非ず、前後言う事、未だ嘗て中らざること無し。吾来日道当に反らざるべしと言えり、今果たしてここに至る、爾宜しくこれを釈すべし」。及び煬帝即位し、漢王諒反す、帝これを問う。答えて曰く、「上は玄象を稽え、下は人事に参す、何ぞ能く為さん」。未幾、諒果たして敗る。帝常に従容として天下の氏族に言及し、太翼に謂いて言う、「卿姓は章仇、四嶽の胄、盧と同源なり」。ここにおいて姓を賜いて盧氏と為す。大業九年、駕に従って遼東に至る、太翼帝に言う、「黎陽に兵気あり」。後数日にして玄感の反書聞こゆ、帝甚だこれを異とし、数たび賞賜を加う。太翼の言う所の天文の事、称数す可からず、諸の秘密に関し、世聞くことを得ず。後数載、洛陽に卒す。
耿詢は、字を敦信といい、丹陽の人である。滑稽で弁舌が巧みであり、技芸の巧みさは人に優れていた。陳の後主の世に、客として東衡州刺史王勇に従って嶺南に赴いた。王勇が卒すると、耿詢は帰郷せず、諸越と結びつき、皆その歓心を得た。時に郡の俚が反乱し、耿詢を推して主とした。柱国王世積が討伐してこれを捕らえ、罪は誅に当たった。自ら巧みな思案があると述べたので、世積はこれを釈放し、家奴とした。久しくして、その故人高智宝が玄象をもって太史に直るのを見て、耿詢はこれに従って天文算術を学んだ。耿詢は創意を凝らして渾天儀を造り、人力を借りず、水でこれを回転させ、暗室の中に設置し、智宝に外で天候を観測させると、符契のように合致した。世積はこれを知って上奏し、高祖は耿詢を官奴に配属し、太史局に給使させた。後に蜀王秀に賜わり、益州に赴くに従い、秀はこれを甚だ信頼した。秀が廃されると、再び誅に当たろうとしたが、何稠が高祖に言上して、「耿詢の巧みさは、思案が神の如くあります。臣は誠に朝廷のためこれを惜しみます」と言った。上はそこで特にその罪を赦した。耿詢は馬上刻漏を作り、世はその妙を称えた。煬帝が即位すると、欹器を進上し、帝はこれを善しとし、良民に放免した。一年余りして、右尚方署監事を授けられた。七年、車駕が東征すると、耿詢は上書して、「遼東は討つべからず、師は必ず功無からん」と言った。帝は大いに怒り、左右に命じてこれを斬らせようとしたが、何稠が苦諫して免れた。平壤の敗北の後、帝は耿詢の言が当たったとして、耿詢を以て太史丞を守らせた。宇文化及が弑逆した後、黎陽に至るに従い、その妻に言った、「近く人事を観、遠く天文を察するに、宇文は必ず敗れ、李氏が王となるであろう。我が帰すべき所を知る」と。耿詢は去らんとしたが、化及に殺された。『鳥情占』一卷を著し、世に行われた。
韋鼎
韋鼎は、字を超盛といい、京兆杜陵の人である。高祖の玄は、商山に隠棲し、それによって宋に帰順した。祖父の睿は、梁の開府儀同三司であった。父の正は、黄門侍郎であった。鼎は若くして通脱であり、経史に広く渉猟し、陰陽逆刺に明るく、特に相術に長じていた。梁に仕え、湘東王法曹参軍として起家した。父の喪に遭い、五日間水漿を口にせず、哀傷して礼を過ぎ、殆ど滅性に及んだ。服喪が終わると、邵陵王主簿となった。侯景の乱に、鼎の兄の昂が京城で卒すると、鼎は屍を背負って出て、中興寺に仮葬した。棺を求めたが得られず、鼎は哀憤慟哭した。忽ち江中に物があるのを見て、鼎の所に流れ来たったので、鼎は甚だ怪しんだ。往って見ると、新棺であった。そこで以て殮に充てた。元帝はこれを聞き、精誠の感ずる所と為した。侯景が平定されると、司徒王僧辯はこれをもって戸曹属とし、太尉掾・大司馬従事・中書侍郎を歴任した。
陳武帝が南徐州におられた時、鼎は気を望んでその王たるべきを知り、妻子を寄寓させた。そこで陳武帝に言った、「明年に大臣誅死有り、後四年にして、梁その代終わらん。天の歴数は当に舜の後に帰すべし。昔、周が殷氏を滅ぼし、媯満を宛丘に封ず。その裔子孫、因って陳氏と為る。僕が明公を観るに、天縦の神武、絶えたる統を継ぐ者は、是れに非ずや」と。武帝は密かに僧辯を図る意あり、その言を聞いて大いに喜び、それによって策を定めた。禅を受けると、黄門侍郎に拝され、俄かに司農卿・司徒右長史・貞威将軍に遷り、安右晋安王長史を領し、府国事を行い、転じて廷尉卿となった。太建年中、周への聘使主となり、散騎常侍を加えられた。尋いで秘書監・宣遠将軍となり、転じて臨海王長史、呉興郡事を行い、入朝して太府卿となった。至徳初年、鼎は財貨田宅を全て質に入れ、僧寺に寓居した。友人の大匠卿毛彪がその故を問うと、答えて言った、「江東の王気は此に尽きたり。我と爾は当に長安に葬られん。期運将に及ばんとす、故に破産するのみ」と。
初め、鼎が周に聘使した時、嘗て高祖と出会い、鼎は高祖に言った、「公の容貌を観るに、故に常人に非ず。而して神監深遠、亦た群賢の逮ぶ所に非ず。久しからずして必ず大貴す。貴すれば則ち天下一家、歳一周天、老夫当に質を委ねん。公の相は言うべからず、願わくは深く自ら愛せよ」と。陳が平定されると、上は馳せてこれを召し、上儀同三司を授け、待遇甚だ厚かった。上は毎に公王と宴賞する時、鼎は常にこれに預かった。高祖は嘗て従容としてこれに謂いて、「韋世康と公とは相去ること遠近如何」と言った。鼎は対えて、「臣が宗族は分派し、南北孤絶し、生まれて以来、未だ嘗て訪問せず」と言った。帝は、「公は百世の卿族なり、何ぞ爾るを得んや」と言い、乃ち官に命じて酒肴を給し、世康を遣わして鼎と共に杜陵に還り、楽飲すること十余日させた。鼎は乃ち昭穆を考校し、楚の太傅韋孟以下二十余世にわたり、『韋氏譜』七巻を作った。時に蘭陵公主が寡となり、上はそのために夫を求め、親衛柳述及び蕭瑒等を選び、鼎に示した。鼎は言った、「瑒は封侯すべし、而して貴妻の相無し。述も亦た通顕すべし、而して位を守りて終わらず」と。上は、「位は我に由るのみ」と言い、遂に公主を柳述に降嫁させた。上は又鼎に問うて、「諸児誰か嗣ぐを得ん」と。答えて言った、「至尊・皇后の最も愛する所の者、即ち当にこれを与うべし。臣の敢えて預かり知る所に非ず」と。上は笑って、「肯えて顕言せざるか」と言った。
来和
来和は、字を弘順といい、京兆長安の人である。少くして相術を好み、言うところ多く験があった。大塚宰宇文護がこれを左右に引き、これによって公卿の門を出入りした。初め夏官府下士となり、累遷して少卜上士となり、安定郷男の爵を購われた。畿伯下大夫に遷り、進んで洹水県男に封ぜられた。高祖が微賤の時、来たりて和に相を請うと、和は人を待たせて去り、高祖に謂って、「公は当に王たりて四海を有すべし」と言った。丞相となるに及び、儀同に拝され、既に禅を受けると、進んで子爵となった。開皇末、和は上表して自ら陳べて言った。
上はこれを覧て大いに悦び、位を開府に進め、物五百段、米三百石、地十頃を賜う。
和は同郡の韓則が嘗て和に相を請うた時、これに謂いて言った。『後四五にして大官を得べし』と。人は初め何を指すか知らなかった。則は開皇十五年五月に至って終わり、人はその故を問うた。和は言った。『十五年は三五、これに五月を加えて四五となる。大官とは槨なり』と。和の言は多くこの類である。『相経』四十巻を著す。
道士の張賓・焦子順・雁門の人董子華、この三人は高祖が龍潜の時、共にひそかに高祖に言った。『公は天子となるべし、善く自ら愛せよ』と。践祚に及んで、賓を華州刺史とし、子順を開府とし、子華を上儀同とした。
蕭吉・楊伯醜・臨孝恭・劉祐
蕭吉は字を文休といい、梁の武帝の兄、長沙宣武王蕭懿の孫である。博学で広く通じ、特に陰陽算術に精しかった。江陵が陥落すると、遂に周に帰順し、儀同となった。宣帝の時、吉は朝政が日に乱れるを見て、上書して切に諫めた。帝は納れなかった。隋が禅を受けるに及んで、上儀同に進み、本官の太常として古今の陰陽書を考定した。吉の性質は孤峭で、公卿と共に浮沈せず、また楊素と協わなかった。これによって世に擯落され、鬱々として志を得ず。上は徴祥の説を好むを見て、幹没して自ら進まんと欲し、遂にその跡を矯めて悦媚に為した。開皇十四年、上書して言う。『今年は歳甲寅に在り、十一月朔旦、辛酉を以て冬至とす。来年乙卯、正月朔旦、庚申を以て元日とす。冬至の日、即ち朔旦に在り。『楽汁図徴』に云う、「天元十一月朔旦冬至、聖王享祚を受く」と。今聖主在位し、天元の首に居り、而して朔旦冬至、これ一の慶なり。辛酉の日、即ちは至尊の本命、辛の徳は丙に在り、この十一月は丙子を建つ。酉の徳は寅に在り、正月寅を建つは本命と為し、月徳と合し、而して元朔の首に居る、これ二の慶なり。庚申の日、即ちは行年、乙の徳は庚に在り、卯の徳は申に在り、来年乙卯は、行年と歳と合徳し、而して元旦の朝に在る、これ三の慶なり。『陰陽書』に云う、「年命と歳月と合徳する者は、必ず福慶有り」と。『洪範伝』に云う、「歳の朝、月の朝、日の朝、主は王者なり」と。経書は並びに三長これに応ずる者を、延年福吉と謂う。況んや乃ち甲寅は部首、十一月は陽の始、朔旦冬至は、聖王の上元なり。正月は正陽の月、歳の首、月の先なり。朔旦は歳の元、月の朝、日の先、嘉辰の会なり。而して本命は九元の先、行年は三長の首、並びに歳月と合徳す。故に『霊宝経』に云う、「角音は龍精、その祚日強し」と。来歳の年命納音は俱に角、暦と経とは、符契を合するが如し。又、甲寅・乙卯は天地合なり、甲寅の年は辛酉を以て冬至とし、来年乙卯は甲子を以て夏至とす。冬至は陽始、郊天の日、即ちは至尊の本命、これ四の慶なり。夏至は陰始、祀地の辰、即ちは皇后の本命、これ五の慶なり。至尊の徳は乾の覆育に並び、皇后の仁は地の載養に同じ。故に二儀の元気、並びに本辰に会す』と。上はこれを覧て大いに悦び、物五百段を賜う。
房陵王(楊勇)が当時太子であった時、東宮に鬼巉多く、鼠妖しばしば現れると言った。上は吉に命じて東宮に詣でさせ、邪気を禳わしめた。宣慈殿に神坐を設けると、回風が艮地の鬼門より来たり、太子の坐を掃った。吉は桃湯と葦火を以てこれを駆逐し、風は宮門を出て止んだ。又、土を謝するに、未地に壇を設け、四門と為し、五帝の坐を置いた。時に至って寒く、蝦蟇が西南より来たり、人門に入り、赤帝の坐に昇り、還って人門より出でた。数歩行きて、忽然として見えなくなった。上は大いにこれを異とし、賞賜は優渇であった。又、上言して太子は当に位を安んぜずと。時に上は陰に廃立を欲し、その言を得て是とした。これによって毎に顧問を被る。
献皇后が崩ずると、上は吉に命じて葬所を卜択せしめた。吉は山原を歴筮し、一箇所に至り、「卜年二千、卜世二百」と言い、図を具してこれを奏上した。上は言った。「吉凶は人による。地に在らず。高緯の父を葬るに、豈に卜さざらんや。国は尋いで滅亡せり。正に我が家の墓田の如し、若し不吉と言わば、朕は天子と為るべからず。若し不凶と言わば、我が弟は戦没すべからず」。然しながら竟に吉の言に従った。吉は表して言う。「去月十六日、皇后の山陵の西北、鶏未だ鳴かざる前、黒雲有り方円五六百歩、地より天に属す。東南には又、旌旗・車馬・帳幕有り、七八里に満ち布き、並びに人往来して検校し、部伍甚だ整う。日出でて乃ち滅す。同じく見る者十余人。謹んで案ずるに『葬書』に云う、『気王と姓と相生すれば、大吉』と。今、黒気は冬に当たり王たり、姓と相生す。是れ大吉にして、子孫無疆の候なり」。上は大いに悦んだ。その後、上は将に親しく発殯に臨まんとす。吉は復た上に奏して言う。「至尊の本命は辛酉、今歳の斗魁及び天岡、卯酉に臨む。謹んで『陰陽書』を按ずるに、喪に臨むべからず」。上は納れず。退いて族人の蕭平仲に告げて言う。「皇太子は宇文左率を遣わし深く余に謝して云う、『公は前に我が太子と為るべしと称し、竟にその験有り、終に忘れず。今、山陵を卜するに、務めて我をして早く立たしめよ。我立ちし後、当に富貴を以て相報ぜん』と。吾はこれを記して言う、『後四載、太子天下を禦す』と。今、山陵の気応じ、上又喪に臨まんとす。兆益々見ゆ。且つ太子政を得ば、隋其れ亡ぶべし。当に真人出でてこれを治むべし。吾が前に紿いて卜年二千と言えるは、是れ三十の字なり。卜世二百と言えるは、三十二運を取るなり。吾が言信なり、汝其れこれを志せ」と。
煬帝が位を継ぐと、太府少卿に任ぜられ、開府の位を加えられた。かつて華陰を通りかかり、楊素の塚の上に白気が天に属するのを見て、密かに帝に言上した。帝がその故を問うと、吉は言う、「その兆候は、楊素の家に兵禍あり、滅門の象なり。改葬すれば、おそらく免れることができましょう」と。帝は後に楊玄感にゆったりと語って言う、「公の家は早く改葬すべきである」と。玄感もまた微かにその故を知り、吉祥とみなし、遼東が未だ滅びざるを託け、私門の事に暇あらざるとなした。未だ幾ばくもせずして玄感は反逆により族滅し、帝はますますこれを信じた。後、歳余にして、官に卒す。著すところに『金海』三十巻、『相経要録』一巻、『宅経』八巻、『葬経』六巻、『楽譜』二十巻及び『帝王養生方』二巻、『相手版要決』一巻、『太一立成』一巻あり、並びに世に行わる。
時に楊伯醜、臨孝恭、劉祐あり、ともに陰陽術数をもって知名なり。
臨孝恭は、京兆の人なり。天文算術に明るく、高祖甚だ親遇す。毎に災祥の事を言うに、未だ中らざることなし。上因って陰陽を考定せしむ。官は上儀同に至る。著すところに『欹器図』三巻、『地動銅儀経』一巻、『九宮五墓』一巻、『遁甲月令』十巻、『元辰経』十巻、『元辰厄』一百九巻、『百怪書』十八巻、『禄命書』二十巻、『九宮亀経』一百十巻、『太一式経』三十巻、『孔子馬頭易卜書』一巻あり、並びに世に行わる。
劉祐は、滎陽の人なり。開皇の初め、大都督となり、索盧県公に封ぜらる。其の占候する所、符契の如く合い、高祖甚だこれを親しむ。初め張賓・劉暉・馬顯と暦を定む。後に詔を奉じて兵書十巻を撰す。名づけて『金韜』と曰う。上これを善しとす。また著すところに『陰策』二十巻、『観台飛候』六巻、『玄象要記』五巻、『律暦術文』一巻、『婚姻志』三巻、『産乳志』二巻、『式経』四巻、『四時立成法』一巻、『安暦志』十二巻、『帰正易』十巻あり、並びに世に行わる。
張胄玄
張胄玄は、渤海蓚の人なり。博学多通、特に術数に精し。冀州刺史趙煚これを薦む。高祖徴して雲騎尉を授け、太史に直し、律暦事に参議せしむ。時の輩多く其の下に出ず。ここにおいて太史令劉暉等甚だこれを忌む。然れども暉の言多く中らず、胄玄の推歩する所甚だ精密なり。上これを異とす。楊素に命じて術数人と議を立てしむること六十一事、皆旧法久しく通じ難きもの。暉と胄玄等にこれを弁析せしむ。暉口を杜して一も答うる所なし。胄玄通ずるもの五十四なり。ここにおいて抜擢して員外散騎侍郎に拝し、太史令を兼ね、物千段を賜う。暉及び党与八人皆斥逐せらる。新暉を改定し、前暉の一日差たるを言う。内史通事顔敏楚上言して曰く、「漢の時、落下閎『顓頊暦』を改めて『太初暦』を作り、雲う『後当に一日差たん。八百年にして当に聖者之を定めん』と。計るに今相去ること七百十年、術者其の成数を挙ぐ。聖者之を謂う、其れ今に在らんか」と。上大いに悦び、漸く親用せらる。
胄玄の為す所の暦法、古と異なる者三事有り。
其二、周の馬顕『丙寅元暦』を造る。陰陽転法有り、章分を加減し、蝕余を進退し、乃ち日を推定し、此の数を創開す。当時の術者、多く能く暁らざりき。張賓因ってこれを用うるも、能く考正する者なし。胄玄以て為す、加時の先後、気を逐うて参差し、月を就えて断つは、理に於いて未だ可ならずと。乃ち二十四気に因りて其の盈縮の出ずる所を列す。実に日行遅ければ則ち月日を逐うて易く及び、合朔の加時を早からしめ、日行速ければ則ち月日を逐うて少しく遅く、合朔の加時を晩からしむるに由る。前代の加時の早晚を検し、以て損益の率と為す。日行は秋分已後より春分に至るまで、其の勢速く、計ること一百八十二日にして一百八十度を行く。春分已後より秋分に至るまで、日行遅く、計ること一百八十二日にして一百七十六度を行く。毎気の下に、即ち其の率なり。
その古を超え独り異なること七事有り。
凡そ此れ胄玄独り心に得る所、論者其の精密を服す。大業年中、官に卒す。
許智藏
許智藏は、高陽の人なり。祖父の道幼は、嘗て母の疾を以て、遂に医方を覧み、因りて究極し、世に名医と号す。其の諸子に誡めて曰く、「人子と為る者は、膳を嘗め薬を視るに、方術を知らざれば、豈に孝と謂わんや」と。是れより世相伝授す。梁に仕え、官は員外散騎侍郎に至る。父の景は、武陵王の諮議参軍なり。智藏は少くより医術を以て自ら達し、陳に仕えて散騎侍郎と為る。陳滅びしに及び、高祖之を以て員外散騎侍郎と為し、揚州に詣らしむ。会うに秦孝王俊疾有り、上馳せて之を召す。俊夜中に其の亡妃崔氏の夢を見るに、泣いて曰く、「本来相迎えんとす。比聞くに許智藏将に至らんとす。其の人若し到らば、当に必ず相苦しむ、之を奈何せん」と。明夜、俊又た崔氏の夢を見るに、曰く、「妾計を得たり。当に霊府の中に入りて以て之を避けん」と。智藏至るに及び、俊が為に脈を診て曰く、「疾已に心に入れり。郎当に巘を発すべし、救う可からず」と。果たして言の如く、俊数日にして薨ず。上其の妙を奇とし、物百段を賚う。煬帝即位し、智藏時に家に致仕す。帝毎に苦しむ所有れば、輒ち中使を令して就きて詢訪せしめ、或いは輿に迎えて殿に入れ、扶けて御床に登らしむ。智藏方を作りて之を奏す。用いて効無きこと無し。年八十、家に卒す。
宗人の許澄も、亦た医術を以て顕る。父の奭は、梁に仕えて太常丞・中軍長史と為る。柳仲礼に随いて長安に入り、姚僧垣と斉名し、上儀同三司に拝せらる。澄は学識有り、父の業を伝え、尤も其の妙を尽くす。尚薬典禦・諫議大夫を歴任し、賀川県伯に封ぜらる。父子俱に芸術を以て名周・隋二代に重し。史事を失う、故に附見すと云う。
萬寶常 王令言
萬寶常は、何れの許の人なるかを知らず。父は大通、梁の将軍王琳に従って斉に帰順す。後にまた江南に還らんと謀るも、事泄れて誅せらる。ここにおいて寶常は配されて楽戸と為り、これによりて鐘律に妙達し、八音に遍く工なり。玉磬を造りて斉に献ず。また嘗て人と方に食し、声調に論及す。時に楽器無く、寶常は因りて前の食器及び雑物を取り、箸を以て之を扣き、其の高下を品し、宮商備わり、絲竹に諧ひ、大いに時人の賞する所と為る。然れども周を歴て隋に至るまで、俱に調を得ず。開皇の初め、沛国公鄭訳等楽を定め、初めて黄鐘調と為す。寶常は伶人と為れども、訳等は毎に召して議し、然れども言多く用ひられず。後に訳の楽成りて之を奏す。上、寶常を召し、其の可なるかを問ふ。寶常曰く、「此れ亡国の音なり、豈に陛下の聞く所に宜しからんや」と。上悦ばず。寶常は因りて極言して楽声の哀怨淫放なるを、雅正の音に非ざることを論じ、水尺を以て律と為し、以て楽器を調べんことを請ふ。上之に従ふ。寶常詔を奉じ、遂に諸の楽器を造る。其の声率ね鄭訳の調より二律下る。並びに『楽譜』六十四巻を撰し、具に八音旋相宮を為すの法、弦を改め柱を移すの変を論ず。八十四調、一百四十四律と為し、変化終に一千八百声に至る。時に人、『周礼』に旋宮の義有りとし、漢・魏已来、知音者皆能く通ぜずとし、寶常の特創に其事を見て、皆之を哂ふ。是に至り、試みに之を為さしむるに、手に応じて曲を成し、凝滞する所無く、見る者嗟異せざる莫し。ここにおいて楽器を損益すること、紀すに勝へず。其の声雅淡にして、時人の好む所と為らず、太常の善声なる者は多く排毀す。また太子洗馬蘇夔は鐘律を以て自ら命じ、尤も寶常を忌む。夔の父威、方に用事し、凡そ楽を言ふ者は、皆之に附して寶常を短ず。数たび公卿に詣りて怨望す。蘇威、因りて寶常を詰め、何れの所伝受なるかを問ふ。一の沙門有りて寶常に謂ひて曰く、「上は雅に符瑞を好み、徴祥を言ふ者有れば、上は皆之を悦ぶ。先生は当に胡僧に就きて学を受くと言ひ、雲ふ是れ仏家の菩薩の伝ふる所の音律なりとせば、則ち上必ず悦ばん。先生の為す所、以て行はるべし」と。寶常之を然りとし、遂に其の言の如く以て威に答ふ。威怒りて曰く、「胡僧の伝ふる所は、乃ち四夷の楽にして、中国の行ふに宜しきに非ざるなり」と。其の事竟に寢す。寶常嘗て太常の奏する楽を聴き、泫然として泣く。人其の故を問ふ。寶常曰く、「楽声淫厲にして哀し、天下久しからずして相殺し将に尽きんとす」と。時に四海全盛にして、其の言を聞く者は皆然らざる謂ふ。大業の末、其の言卒に験ふ。
寶常貧しくして子無く、其の妻其の臥疾に因り、遂に其の資物を窃みて逃ぐ。寶常饑餒し、人贍遺する無く、竟に餓えて死す。将に死せんとす、其の著する書を取りて之を焚きて曰く、「何ぞ此れを為さん」と。見る者火中に於て数巻を探得し、世に行はるるを見る。時論之を哀しむ。
開皇の世、鄭訳・何妥・盧賁・蘇夔・蕭吉有り、並びに墳籍を討論し、楽書を撰著して、皆当世の用ふる所と為る。天然に楽を識るに至りては、寶常に及ばざること遠し。安馬駒・曹妙達・王長通・郭令楽等は、能く曲を造りて一時の妙と為り、又鄭声を習ふ。而して寶常の為す所は、皆雅に帰す。此の輩は公議寶常に附せざるも、然れども皆心服し、以て神と為す謂ふ。
時に楽人王令言有り、亦た音律に妙達す。大業の末、煬帝将に江都に幸せんとす。令言の子嘗て従ふ。戸外に於て胡琵琶を弾じ、翻調『安公子曲』を作す。令言時に臥室中に在り、之を聞きて大いに驚き、蹶然として起ちて曰く、「変なり、変なり」と。急ぎ其の子を呼びて曰く、「此の曲興る自ら早晚ぞ」と。其の子対へて曰く、「頃来りて之有り」と。令言遂に歔欷流涕し、其の子に謂ひて曰く、「汝慎みて従行すること無かれ、帝必ず返らざらん」と。子其の故を問ふ。令言曰く、「此の曲宮声往きて反らざるなり。宮は君なり。吾の知る所以なり」と。帝竟に江都に於て殺さる。
史臣曰く、陰陽卜祝の事は、聖人の教へ其の中に在り。専ら行ふべからざるも、亦た得て廃すべからざるなり。人能く道を弘むれば、則ち博く時俗に利し、行ふ其の義に非ざれば、則ち咎悔身に及ぶ。故に昔の君子の妄作を戒むる所以なり。今、韋・来の骨法気色、庾・張の推歩盈虚は、落下・高堂・許負・硃建と雖も、尚ふ能はざるなり。伯醜の亀策は鬼神の情に近く知り、耿詢の渾儀は辰象の度に差へず、寶常の声律は宮商の和に動応す。遠く古人に擬するに足らざるも、皆一時の妙なり。許氏の運針石は世載し称す可く、蕭吉の言ふ陰陽は誣誕に近し。