隋書

巻八十二列傳第四十七 南蠻

【序】

南蠻の雑類は、華人と錯居し、えんと曰い、じょうと曰い、と曰い、ろうと曰い、㐌(しゃ)と曰う。皆、君長無く、山洞に随って居り、古先の所謂る百越ひゃくえつこれなり。その俗は断髪文身し、相攻討するを好み、みて微弱となり、やや中国に属し、皆郡県として列せられ、斉人せいじんと同じくす。復た詳しく載せず。大業年中、南荒より朝貢する者十余国あり。その事跡多く湮滅して聞くこと無し。今存録する所は、四国のみなり。

林邑

林邑の先は、漢末の交阯こうし女子徴側ちょうそくの乱に因り、内県の功曹の子区連おうれんが県令を殺し、自ら王と号す。子無く、その甥の范熊はんゆう代わって立ち、死して、子のいつ立つ。日南じつなん人范文はんぶんは乱に因りて逸の僕隷となり、遂にこれに宮室を築き、器械を造ることを教う。逸は甚だ信任し、文に兵をひきいさせしむ。極めて衆心を得たり。文はひまにその子弟を間み、或いは奔り、或いはうつる。及び逸死し、国につぎ無く、文自立して王と為る。その後、范佛はんぶつは晋の揚威将軍戴桓たいかんに破られたり。宋の交州刺史檀和之だんわし兵を将いてこれを撃ち、深くその境に入る。梁・陳に至りても、また使を通じ往来す。

その国は延袤数千里、土は香木金宝多く、物産は大抵交阯と同じし。せんを以て城と為し、蜃灰しんかいを塗り、戸は東に向く。尊官に二あり。其一は西那婆帝せいなばていと曰い、其二は薩婆地歌さつばちかと曰う。その属官は三等あり。其一は倫多姓りんたせいと曰い、次は歌倫致帝かりんちていと曰い、次は乙他伽蘭おつたからんと曰う。外官は分かれて二百余部と為す。その長官は弗羅ふつらと曰い、次は可輪かりんと曰う。牧宰の差の如し。王は金花冠を戴き、形は章甫しょうほの如く、朝霞布ちょうかふ珠璣瓔珞しゅきようらくを垂れ、足は革履かくりみ、時にまた錦袍きんほうを加う。良家の子、侍えいする者二百許人、皆、金装の刀を執る。弓・箭・刀・さくあり、竹を以てと為し、毒を矢にく。楽に琴・笛・琵琶・五絃あり、頗る中国と同じし。毎に鼓を撃って以て衆をいましめ、を吹いて以てじゅうく。

その人は深目高鼻、髪はがり色黒し。俗は皆、徒跣とせんし、幅布を以て身に纏う。冬月はほうを衣る。婦人は椎髻ついけいす。椰葉やようの席を施す。毎に婚媾こんこう有れば、媒者に命じて金銀のうでわ・酒二壺・魚数頭をもたらして女家に至らしむ。ここにおいて日を択び、夫家は親賓を会し、歌儛かぶ相対す。女家は一の婆羅門ばらもんを請い、女を送って男家に至らしめ、むこは手をすすぎ、因って女を牽きてこれを授く。王は死すること七日にして葬り、官有る者は三日、庶人は一日なり。皆、はこを以て屍を盛り、鼓儛導従し、輿こしに乗せて水次すいしに至り、薪を積みてこれを焚く。その余骨を収め、王は則ち金甖きんえいの中にれ、これを海に沈む。官有る者は銅甖を以てし、これを海口に沈む。庶人は瓦を以てし、これを江に送る。男女は皆、髪をち、喪に随いて水次に至り、哀を尽くして止む。帰れば則ちこくせず。毎に七日、香をやし花を散じ、復た哭し、哀を尽くして止む。七七しちしちを尽くしてむ。百日・三年に至るも、またこの如し。人皆、仏を奉じ、文字は天竺と同じし。

赤土

赤土国は、扶南ふなんの別種なり。南海の中に在り、水行百余日にして都に達す。土色多く赤く、因って以て号と為す。東は波羅剌国はららつこく、西は婆羅娑国ばらさこく、南は訶羅旦国からたんこく、北は大海にさえぎり、地方数千里。その王の姓は瞿曇氏くだんし、名は利富多塞りふたさいと曰う。国の近遠あるを知らず。その父が王位をてて出家して道と為り、位を利富多塞に伝うと称す。位に在ること十六年なり。三妻有り、並びに隣国の王の女なり。僧祗城そうぎじょうに居す。門三重在り、相去ること各百許歩。毎門、飛仙・仙人・菩薩の像を図画し、金花の鈴毦れいじけ、婦女数十人、或いは楽を奏し、或いは金花を捧ぐ。又、四婦人を飾り、容飾は仏塔の辺の金剛力士の状の如く、門をはさみて立つ。門外の者は兵仗を持ち、門内の者は白仏びゃくぶつを執る。道を夾みて素網を垂れ、花をつづる。王宮の諸屋は悉く是れ重閣、戸は北にし、北面して坐す。三重のとうに坐す。朝霞布を衣、金花冠をかんし、雑宝の瓔珞を垂る。四女子立ちて侍し、左右に兵衞百余人在り。王の榻の後、一の木龕もくがんを作り、金銀五香木を以てまじえてちゅうす。龕の後、一の金光焰きんこうえんを懸け、榻を夾みて又、二の金鏡をて、鏡の前並びに金甕きんおうつらね、甕の前各おの金香炉有り。まさに前に一の金伏牛きんふくぎゅうを置き、牛の前に一の宝蓋ほうがいを樹て、蓋の左右皆、宝扇有り。婆羅門等数百人、東西重行ちょうこうし、相向いて坐す。その官に薩陀迦羅さだから一人、陀拏達义だなたつぎ二人、迦利蜜迦かりみか三人有り、共に政事を掌る。俱羅末帝くらまってい一人、刑法を掌る。毎城に那邪迦なやか一人、鉢帝はってい十人を置く。

その俗、等しく皆、耳を穿ち髪をり、跪拝の礼無し。香油を以て身を塗る。その俗、仏を敬い、尤も婆羅門を重んず。婦人はけいを項後に作る。男女通じて朝霞・朝雲の雑色布を以て衣と為す。豪富の室は、ほしいまま華靡かびを極む。唯だ金鎖きんさは王の賜わらざれば服用するを得ず。毎に婚嫁有れば、吉日を択び、女家は先だって五日、楽を作し酒を飲み、父は女の手を執りて以て壻に授く。七日にして乃ち配す。既に娶れば則ち財を分かち別居す。唯だ幼子は父と同居す。父母兄弟死すれば則ち髪をり素服し、水上に就きて竹木を構えて棚と為し、棚内に薪を積み、屍をその上に置く。香を焼き幡を建て、蠡を吹き鼓を撃って以てこれを送り、火を縦って薪を焚き、遂に水に落つ。貴賤皆同じ。唯だ国王は焼きおわり、灰を収めて金瓶に貯え、廟屋に蔵む。冬夏常に温かく、雨多くれ少なく、種植に時無し。とくに稻・・白豆・黒麻に宜しく、自余の物産は多く交阯と同じし。甘蔗かんしゃを以て酒を作り、紫瓜根しかこんを雑う。酒の色は黄赤、味も亦、香美なり。亦、椰漿やしょうを以て酒と為す。

煬帝が即位し、遠方の地に通じる者を募った。大業三年、屯田主事の常駿と虞部主事の王君政らが赤土国への使節となることを請うた。帝は大いに喜び、常駿らに帛をそれぞれ百匹、その時の服一揃いを賜って派遣した。五千段の物品を持たせ、赤土王に賜るものとした。その年の十月、常駿らは南海郡から船に乗り、昼夜二十日間、順風に恵まれて航行した。焦石山を過ぎ、東南に陵伽鉢抜多洲に停泊した。西は林邑と相対し、その上に神祠があった。さらに南へ航行し、師子石に至り、ここから島嶼が連なっていた。さらに二三日航行し、西に狼牙須国の山を望見し、ここで南に進んで鶏籠島に達し、赤土国の境界に至った。その王は婆羅門の鳩摩羅に船三十艘を率いさせて迎えさせ、法螺貝を吹き鼓を打ち、隋の使節を歓楽し、金の鎖を進めて常駿の船を繋いだ。一か月余りしてその都に至ると、王はその子の那邪迦を遣わし、常駿らと礼をもって会見することを請わせた。先に人を遣わして金盤を送り、香花と鏡鑷を貯え、金の合子二枚には香油を、金瓶八枚には香水を貯え、白疊布四條を送り、使者の盥洗の供えとしようとした。その日の未の刻、那邪迦はまた象二頭を率い、孔雀の蓋を持って使人を迎え、併せて金花と金盤を奉じて詔書の函を支えるものとした。男女百人が法螺貝と鼓を奏し、婆羅門二人が道を導き、王宮に至った。常駿らは詔書を奉じて上閣に上ると、王以下皆座った。詔を宣べ終えると、常駿らを導いて座らせ、天竺楽を奏した。事が終わると、常駿らは宿舎に還り、また婆羅門を宿舎に遣わして食事を送らせた。草の葉を盤とし、その大きさは一丈四方であった。そこで常駿に言うには、「今は大国(隋)の中の人であり、もはや赤土国の者ではありません。飲食は粗末で薄いものですが、大国の御心にかけてお召し上がりください」と。後数日、常駿らを招いて宴に入らせ、儀仗や衛兵の導従は初見の礼と同じであった。王の前に二つの牀を設け、牀の上に共に草の葉の盤を設け、一丈五尺四方で、その上に黄・白・紫・赤の四色の餅、牛・羊・魚・鼈・猪・蝳蝐の肉百余品があった。常駿を延いて牀に昇らせ、従者は地の席に座り、それぞれ金の鍾に酒を置き、女楽が代わる代わる奏し、礼と贈り物は甚だ厚かった。まもなく那邪迦を遣わし、常駿に随行して方物を貢がせ、併せて金芙蓉冠と龍脳香を献上させた。金を鋳て多羅樹の葉とし、浮き彫りにして文様を成して上表文とし、金の函で封じ、婆羅門に香花を持たせ法螺貝と鼓を奏して送らせた。海に入ってから、緑色の魚が群れをなして水上を飛ぶのを見た。海を浮かびて十余日、林邑の東南に至り、山に沿って航行した。その海水の幅は千余歩、色は黄で気は腥く、船で一日航行しても絶えず、これは大魚の糞であるという。海の北岸に沿って、交阯に達した。常駿は大業六年の春に那邪迦と共に弘農で謁見し、帝は大いに喜び、常駿らに物二百段を賜い、共に秉義尉に任じ、那邪迦らには官位と賞賜をそれぞれ差等を設けて与えた。

真臘

真臘国は、林邑の西南にあり、本来は扶南の属国である。日南郡から船で六十日かかり、南は車渠国に接し、西に朱江国がある。その王の姓は剎利氏、名は質多斯那という。その祖父の代から次第に強盛となり、質多斯那に至って、遂に扶南を併せてこれを有した。死ぬと、子の伊奢那先が代わって立った。伊奢那城に居し、城下に二万余家がある。城中に一大堂があり、これは王が政務を聴く所である。総じて大城三十を有し、城には数千家があり、それぞれ部帥がおり、官名は林邑と同じである。その王は三日に一度朝政を聴き、五香七宝の牀に坐り、その上に宝帳を施す。その帳は文木を竿とし、象牙と金の鈿を壁とし、小屋の如き形状で、金光の炎を懸け、赤土国と同じである。前に金香炉があり、二人が側に侍る。王は朝霞古貝を着け、腰腹に瞞絡を垂らし、脛まで下がり、頭には金宝の花冠を戴き、真珠の瓔珞を被り、足には革の履を履き、耳には金の璫を懸ける。常服は白疊で、象牙を屩とする。もし髪を露わにするならば、瓔珞を加えない。臣下の服装の制は、大抵似ている。五人の大臣があり、第一は孤落支、第二は高相憑、第三は婆何多陵、第四は舍摩陵、第五は髯多婁、及び諸々の小臣がある。王に朝する者は、階下で三度稽首する。王が階上に呼び上げれば、跪き、両手で膊を抱え、王を巡って環坐する。政事を議し終われば、跪き伏して去る。階・庭・門・閣には、侍衛が千余人おり、甲を被り仗を持つ。その国は参半・朱江の二国と和親し、しばしば林邑・陀桓の二国と戦争する。その国の人は行くにも止まるにも皆甲仗を持ち、もし征伐があれば、これによって用いる。その習俗では、王の正妻の子でなければ、後継者となれない。王が初めて立った日、すべての兄弟を刑罰で傷つけ、あるいは一指を去り、あるいはその鼻を切り、別の所で供給し、仕官進むことを得させない。

人の体形は小さく色は黒い。婦人にも白い者がいる。皆、髪を拳げて耳に垂れ、性質は敏捷で強勁である。住居や器物は赤土国にやや似ている。右手を清浄とし、左手を穢れとする。毎朝澡洗し、楊枝で歯を清め、経呪を読誦する。また澡洒してから食し、食し終わればまた楊枝で歯を清め、また経呪を読む。飲食は多く蘇酪・沙糖・秔粟・米餅である。食しようとする時、先ず雑肉の羹を取り餅と和え、手でこねて食する。妻を娶る者は、ただ衣服一揃いを送り、日を選んで媒人を遣わし婦を迎える。男女の二家はそれぞれ八日間出ず、昼夜燈を燃やして絶やさない。男の婚礼が終われば、即ち父母と財を分けて別居する。父母が死ねば、小児で未婚の者には余財を与える。もし婚礼が終わっていれば、財物は官に没収される。その喪葬では、児女は皆七日間食さず、髪を剔いで哭き、僧尼・道士・親戚故旧が皆来て集い、音楽で送る。五香木で屍を焼き、灰を収めて金銀の瓶に盛り、大河の内に送る。貧しい者はあるいは瓦を用い、彩色でこれを画く。また焚かない者もあり、屍を山中に送り、野獣に任せて食わせる。

その国の北は多く山阜があり、南は水沢があり、地気は特に熱く、霜雪がなく、瘴癘や毒蠚が多い。土地は粱稲に適し、黍粟は少なく、果物と野菜は日南・九真と類似する。異なるものに婆那娑樹があり、花はなく、葉は柿に似、実は冬瓜に似る。菴羅樹は、花と葉は棗に似、実は李に似る。毗野樹は、花は木瓜に似、葉は杏に似、実は楮に似る。婆田羅樹は、花・葉・実は共に棗に似るが少し異なる。歌畢他樹は、花は林檎に似、葉は榆に似て厚く大きく、実は李に似、その大きさは升の如し。その他は多く九真と同じである。海の中に建同という名の魚があり、四足で鱗がなく、その鼻は象の如く、水を吸い上げて噴き、高さ五六十尺である。浮胡魚があり、その形は䱉に似、嘴は鸚鵡の如く、八足がある。大魚が多く、半身を水から出し、これを望むと山の如し。

毎年五、六月中、毒気が流行すれば、即ち白猪・白牛・白羊を以て城の西門外でこれを祠る。そうしなければ、五穀が実らず、六畜が多く死に、人々に疾疫が流行する。都の近くに陵伽鉢婆山があり、その上に神祠があり、毎に兵五千人でこれを守衛する。城の東に婆多利という名の神があり、祭祀には人肉を用いる。その王は年に別に人を殺し、夜に祀り祈り、また守衛する者千人がある。その鬼を敬うことこの如しである。多く仏法を奉じ、特に道士を信じ、仏及び道士の像を並べて館に立てる。

大業十二年、使いを遣わして貢献し、帝はこれを礼遇すること甚だ厚く、その後もまた絶えた。

婆利

婆利国は、交阯より海を渡り、南に赤土・丹丹を過ぎて、乃ち其の国に至る。国の境界は東西に四月行、南北に四十五日行。王の姓は剎利邪伽、名は護濫那婆。官に曰く獨訶邪挐、次に曰く獨訶氏挐。国人は輪刀を投げることを善くし、其の大きさ鏡の如く、中に竅あり、外の鋒は鋸の如し、遠くして人に投げれば、中らざるは無し。其の余の兵器は中国と略同。俗は真臘に類し、物産は林邑と同じ。其の人を殺し及び盗む者は其の手を截ち、姦ある者は其の足を鎖し、朞年にして止む。祭祀には必ず月晦を用い、盤に酒肴を貯え、之を流水に浮かぶ。毎年十一月、必ず大祭を設く。海より珊瑚出ず。鳥有り、名を舍利と曰い、人の語を解す。

大業十二年、使いを遣わして朝貢し、後遂に絶ゆ。時に南荒に丹丹・盤盤の二国あり、亦来たりて方物を貢し、其の風俗物産は、大抵相類すと云う。

史臣曰く、礼に云う「南方を蛮と曰い、火食せざる者有り」と。書に称す「蛮夷夏を猾えり」と。詩に曰く「蠢爾たる蛮荊」と。種類実に繁く、代として紛梗す。秦二楚をへいせ、漢百越を平げてより、地は丹徼に窮まり、景は日南に極まり、水陸に居る可きは、皆郡県と為る。境の呉・しょくを分ち、時に晋・宋を経るに及び、道に污隆有り、服叛一ならず。高祖命を受け、克く九宇を平げ、煬帝業を纂ぎ、威八荒に加わる。遠夷に甘心し、志珍異を求むる故に、師は流求に出で、兵は林邑に加わり、威殊俗に振るい、秦・漢を過ぐること遠し。荒外の功有りと雖も、域中の敗を救う無し。伝に曰く「聖人に非ざれば、外寧くんば必ず内憂有り」と。誠に斯の言なるかな。