儒林
儒教の教化する所は大なるものがあり、その利益を万物に及ぼすことは広い。父子の情を篤くし、君臣の義を正し、忠節を尚び、仁義を重んじ、廉譲を貴び、貪鄙を賤しむ。政教の根本を開き、民衆の耳目を啓発する。百王の損益も、一貫してこれに拠る。世の治乱盛衰はあれども、この道は失われず、国を治め天下を太平に導くことは、一時のものではない。その流れに身を置く者は、禄がなくとも富み、その道を懐く者は、位がなくとも尊ばれる。故に仲尼は魯の君に頓挫し、孟軻は斉の王に抑揚され、荀卿は強楚に見珍され、叔孫は隆漢に貴ばれた。その他、環堵の室に住み富貴を驕らず、陋巷に安んじて王公を軽んじた者は、数え切れないほどである。晋室が分崩し、中原に喪乱が起こり、五胡が相争い、経籍の道は尽き果てた。魏氏は代陰より発跡し、河朔を経営したが、馬上で天下を得たため、この道は未だ弘まらなかった。太和の後になると、盛んに文教を修め、搢紳の碩学が朝廷に満ち、縫掖の巨儒がしばしば傑出し、その雅誥奥義は、宋及び斉・梁でも及ばなかった。南北で治める所の章句の好尚は、互いに異なる。江左では『周易』は王輔嗣、『尚書』は孔安国、『左傳』は杜元凱を主とする。河・洛では『左傳』は服子慎、『尚書』・『周易』は鄭康成を主とする。『詩』はともに毛公を主とし、『礼』はともに鄭氏に遵う。およそ南人は簡約でその英華を得、北学は深蕪でその枝葉を窮める。その終始を考へ、その会帰を要するに、立身して名を成すことは、方法は異なれど同じ所に至る。漢・魏より以来、碩学は多く清通であったが、近古に至っては、巨儒は必ず鄙俗である。文・武の道が墜ちないのは、人によって弘めるからであり、どうしてただ当今に愚蔽であり、往昔には皆明哲であったと言えようか。用いるか用いないか、知るか知らないかにあるのである。しかし昔は衆事を輔弼調和するには、必ず鴻儒から徳を挙げたが、近代では邦家を左右するには、皆刀筆の吏から士を取った。たとえ学優れて入室し、勤勉は刺股を超え、名は海内に高く、甲科に擢第したとしても、もし命が時に偶して来なければ、青紫を望むことはできず、あるいは数が運に舛れば、必ず草沢に委棄される。然らば則ち古の学者は禄がその中にあり、今の学者は貧賤に困る。明達の人、志識の士は、どうして習った所に滞って、貧賤を求めることがあろうか。これが儒に通人が稀で、学に鄙俗が多い所以である。昔、斉は康莊の邸を列ね、多士は林の如く、燕は碣石の宮を起こし、群英は遠方より自ずから来た。これによって俗を易え風を移すには、必ず上に好む所によることを知る。聖明が世を禦するのでなければ、またこの頽俗を振るうことはできない。正朔が一でなくなってから、三百年に近く、師説は紛綸として、正す所がない。高祖は期を膺え暦を纂ぎ、寰宇を平一し、天網を頓えてこれを掩い、旌帛を賁して礼し、好爵を設けて縻した。ここにおいて四海九州の強学待問の士、畢集せざるはなかった。天子は万乗を整え、百僚を率い、問道の儀に遵い、釈奠の礼を観た。博士は懸河の弁を尽くし、侍中は重席の奥を竭くし、亡逸を考正し、異同を研核し、積滞した群疑は、氷の解ける如くに氷解した。ここにおいて奇秀を超擢し、諸儒を厚賞し、京邑より四方に達するまで、皆黌校を開いた。斉・魯・趙・魏では、学者が特に多く、笈を負って師を追い、千里を遠しとせず、講誦の声は、道路に絶えなかった。中州の儒雅の盛んなことは、漢・魏以来、この時に限る。高祖の暮年に及んで、精華は稍竭び、儒術を悦ばず、専ら刑名を尚び、執政の徒は、皆篤く好む者ではなかった。仁寿年間になると、遂に天下の学を廃し、ただ国子一所を存し、弟子七十二人だけとした。煬帝が即位すると、再び庠序を開き、国子・郡県の学は、開皇の初めより盛んになった。儒生を徴辟すると、遠近より畢至し、東都の下で相与に得失を講論させ、納言がその差次を定め、一々奏聞させた。当時、旧儒は多く既に凋亡し、二劉が抜萃出類し、学は南北に通じ、博く今古を極め、後生が鑽仰しても、測り知ることができなかった。制定した諸経の義疏は、搢紳が皆師宗とした。その後、外に四夷に事を構え、戎馬が息まず、師徒は怠散し、盗賊が群起し、礼義は君子を防ぐに足らず、刑罰は小人を威するに足らず、建学の名はあっても弘道の実はなく、その風は次第に墜ちて滅亡に至り、方領矩歩の徒も多く転死溝壑した。凡そ経籍あるものは、ここより皆煨塵に湮没した。遂に後進の士は再び『詩』・『書』の言を聞かず、皆攘奪の心を懐き、相与に不義に陥った。『伝』に曰く、「学者は将に植えんとし、学ばざる者は将に落ちんとす」と。然らば則ち盛衰はこれに係り、興亡はここに在る。国を持ち家を持つ者は、慎まざるべけんや。諸儒には身は没しても道は存し、遺風が偲ばれる者があり、皆その余論を採り、この篇に綴る。
元善
元善は、河南洛陽の人である。祖父の叉は、魏の侍中であった。父の羅は、初め梁州刺史となったが、叉が誅殺されると、梁に奔り、征北大将軍・青冀二州刺史に至った。善は幼少の頃父に従って江南に至り、性来学を好み、遂に五経に通涉し、特に『左氏伝』に明るかった。侯景の乱の時、善は周に帰った。武帝は大いに礼遇し、太子宮尹とし、江陽県公の爵を賜った。常に経書を執って太子に授けた。開皇初年、内史侍郎に任じられ、上は常に彼を見て「人倫の儀表である」と言った。凡そ奏上する時は、詞気抑揚し、見る者は注目した。陳の使者袁雅が来聘した時、上は善に命じて館に行き国書を受けさせたが、雅は門を出ても拝礼しなかった。善が旧事を論じて拝礼の儀があると言うと、雅は答えることができず、遂に拝礼し、礼を成して去った。後に国子祭酒に遷った。上が親臨して釈奠を行った時、善に『孝経』を講ぜしめた。ここにおいて義理を敷陳し、兼ねて諷諫を加えた。上は大いに喜んで「江陽公の説を聞いて、更に朕の心を起こさせた」と言い、絹百匹と衣一襲を賜った。善の通博は何妥に及ばなかったが、風流醖藉で、俯仰観るべきものがあり、音韻清朗で、聞く者は倦みを忘れた。これによって後進の帰するところとなった。妥は常に不平を懐き、心の中で善を屈せしめようとした。善が『春秋』を講じる時、初めて題を発すると、諸儒が畢集した。善は密かに妥に「名望は既に定まっている。どうか苦しめないでほしい」と言うと、妥はこれを承諾した。講肆に就くと、妥は遂に古今の滞義を引いて難問し、善は多く答えることができなかった。善はこれを深く恨み、二人はここより隙を生じた。善は高熲に宰相の器があると考え、嘗て上に言った。「楊素は粗疏であり、蘇威は怯芃であり、元冑・元旻は正に鴨のようである。社稷に付すことができる者は、ただ高熲だけである」と。上は初めこれを認めたが、熲が罪を得ると、上は善の言葉を熲の遊説とみなし、深く責めて望みを絶った。善は憂懼し、先に患っていた消渴症が、ここに発動して卒した。時に六十歳。
辛彥之
辛彥之は、隴西狄道の人である。祖父の世敘は、魏の涼州刺史であった。父の霊輔は、周の滑州刺史であった。彥之は九歳で孤児となり、非類と交わらず、経史に広く渉猟し、天水の牛弘と志を同じくして学を好んだ。後に関中に入り、京兆に家を定めた。周の太祖は彼を見て器量あるものとし、中外府の礼曹に引き立て、衣・馬・珠玉を賜った。当時は国家草創の時で、あらゆる制度が始まったばかりであり、朝廷の貴人は多く武人出身であったが、儀注を修定したのは、ただ彥之のみであった。まもなく中書侍郎に任ぜられた。周の閔帝が禅譲を受けると、彥之は少宗伯の盧辯とともに専ら儀制を掌った。明帝・武帝の時には、典祀・太祝・楽部・御正の四曹大夫を歴任し、開府儀同三司となった。使節として突厥の皇后を迎えに行き、帰還すると、馬二百匹を賜り、龍門県公の爵位と千戸の封邑を賜った。まもなく五原郡公に爵位を進め、封邑を千戸加増された。宣帝が即位すると、少宗伯に任ぜられた。高祖(隋の文帝)が禅譲を受けると、太常少卿に任ぜられ、任城郡公に改封され、上開府に進んだ。まもなく国子祭酒に転じた。一年余りして礼部尚書に任ぜられ、秘書監の牛弘とともに『新礼』を撰した。呉興の沈重は碩学として名高く、高祖はかつて彥之に命じて沈重と論議させたところ、沈重は抗し得ず、そこで席を避けて謝して言うには、「辛君のいわゆる金城湯池、攻むべき勢いなし」と。高祖は大いに喜んだ。後に随州刺史に任ぜられた。当時、州牧は多く珍玩を貢いだが、ただ彥之の貢いだものは、すべて祭祀に供える物ばかりであった。高祖はこれを良しとし、朝臣を顧みて言うには、「人はどうして学がなくてよいものか。彥之の貢ぐものは、古を稽える力によるものだ」と。潞州刺史に転じ、前後ともに恵みある政治を行った。彥之はまた仏道を崇信し、城内に浮屠(仏塔)二所を建立し、いずれも十五層であった。開皇十一年、州人の張元が急死し、数日して蘇生し、天に遊んで、新たに構えられた一堂を見たが、その造りは極めて崇高華麗であった。張元がその故を尋ねると、人が言うには、「潞州刺史の辛彥之に功徳があるので、この堂を造って彼を待っているのだ」と。彥之はこれを聞いて喜ばなかった。その年、官のまま卒去した。諡は宣といった。彥之は『墳典』一部、『六官』一部、『祝文』一部、『新要』一部、『新礼』一部、『五経異義』一部を撰し、いずれも世に行われた。子に仲龕があり、官は猗氏令に至った。
何妥、蕭該、包愷
何妥は、字を棲鳳といい、西城の人である。父の細胡は、商売をして蜀に入り、郫県に家を定め、梁の武陵王の妃に仕え、金帛の管理を主とし、それによって巨富を致し、西州の大賈と号された。何妥は幼少より機警で、八歳の時に国子学に遊学し、助教の顧良が戯れて言うには、「お前は何という姓だが、それは荷葉の荷か、それとも河水の河か」と。応声に答えて言うには、「先生は顧という姓だが、それは眷顧の顧か、それとも新故の故か」と。人々は皆これを異とした。十七歳で、技巧をもって湘東王に仕え、後にその聰明さを知られ、召されて誦書左右となった。当時、蘭陵の蕭〓もまた俊才があり、青楊巷に住み、何妥は白楊頭に住んだので、当時の人はこれについて語って言うには、「世に両俊あり、白楊の何妥、青楊の蕭〓」と。そのように称賛された。江陵が陥落すると、周の武帝は特に彼を重んじ、太学博士を授けた。宣帝が初め五人の皇后を立てようとし、儒者の辛彥之に問うたところ、答えて言うには、「皇后は天子と匹体して尊きを同じくするもので、五人は宜しくない」と。何妥が駁して言うには、「帝嚳には四妃があり、舜にはまた二妃があった。どうして常の数があろうか」と。これによって襄城県伯に封ぜられた。高祖が禅譲を受けると、国子博士に任ぜられ、通直散騎常侍を加えられ、爵位を公に進めた。何妥の性質は勁急で、口才があり、人物の是非を好んだ。当時、納言の蘇威がかつて上(文帝)に言うには、「臣の先人は常に臣に誡めて言いました。ただ『孝経』一巻を読めば、十分に身を立て国を治めることができる。多くを為す必要はない、と」と。上もまたこれを然りとした。何妥が進み出て言うには、「蘇威の学んだものは、『孝経』だけではない。その父がもしこの言葉を信じていたならば、蘇威は訓に従わなかったことになり、それは不孝である。もしこの言葉がなかったならば、面と向かって陛下を欺いたことになり、それは不誠実である。不誠実で不孝な者が、どうして君に仕えることができようか。かつて夫子(孔子)は言われた。『詩を読まざれば以て言うこと無く、礼を読まざれば以て立つこと無し』と。どうして蘇綽だけが子を教えるのに聖人の訓に反することが許されようか」と。蘇威は当時五つの職務を兼ねており、上は彼を非常に親しく重んじていたが、何妥はこれにより蘇威は信任すべきでないと上奏した。また、天文律度を掌ることについても、いずれもその職に称していないとして、何妥はさらに八つの事柄を上書して諫めた。
臣が聞くに、明なるには則ち礼楽有り、幽なるには則ち鬼神有り。然らば則ち天地を動かし、鬼神を感ずるは、礼楽に近きは莫し。又云う、楽至れば則ち怨み無く、礼至れば則ち争わず、揖譲して天下を治むる者は、礼楽の謂いなり。臣が聞くに、楽に二有り、一は奸声、二は正声。夫れ奸声は人を感して逆気之に応じ、逆気象を成して淫楽興る。正声は人を感して順気之に応じ、順気象を成して和楽興る。故に楽行なわれて倫清く、耳目聡明、血気和平し、風俗を移し易え、天下皆寧し。孔子曰く、「鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ」と。故に鄭・衛・宋・趙の声出ずれば、内には則ち疾を発し、外には則ち人を傷う。是を以て宮乱れば則ち荒く、其の君驕る。商乱れば則ち陂く、其の官壊る。角乱れば則ち憂え、其の人怨む。徴乱れば則ち哀しみ、其の事勤し。羽乱れば則ち危く、其の財匱う。五者皆乱れば、則ち国亡ぶる日無し。魏の文侯、子夏に問うて曰く、「吾れ端冕して古楽を聴けば則ち寐んと欲し、鄭衛の音を聴けば則ち倦むを知らず、何ぞや」と。子夏対えて曰く、「夫れ古楽は、始めに文を以て奏し、復た武を以て乱る。身を修め家に及び、天下を平均す。鄭衛の音は、奸声を以て乱れ、溺れて止まず、子女を颻雑し、父子を知らず。今君の問う所は楽なり、愛する所は音なり。夫れ楽と音とは、相近くして同じからず。人君たる者、謹んで其の好悪を審らかにす」と。案ずるに、聖人の楽を作すは、苟に耳目を悦ばすのみに非ず。宗廟の内に在りては、君臣同じく之を聴けば則ち和敬せざる莫からんことを欲し、郷里の内に在りては、長幼同じく之を聴けば則ち和順せざる莫からんことを欲し、閨門の内に在りては、父子同じく之を聴けば則ち和親せざる莫からんことを欲す。此れ先王の楽を立つるの方なり。故に声を知りて音を知らざる者は、禽獸是れなり。音を知りて楽を知らざる者は、衆庶是れなり。故に黄鐘大呂、弦歌干戚、僮子皆能く之を儛う。能く楽を知る者は、其れ唯君子のみ。声を知らざる者は、与に音を言うべからず。音を知らざる者は、与に楽を言うべからず。楽を知れば則ち道に幾し。紂無道たり、太師楽器を抱きて周に奔る。晋君徳薄し、師曠固より清徴を惜しむ。
上古の時、未だ音楽有らず、腹を鼓し壌を撃ちて、楽其の間に在り。『易』に曰く、「先王楽を作して徳を崇くし、殷かに之を上帝に薦め、以て祖考に配す」と。黄帝の『咸池』を作し、顓頊の『六莖』を作し、帝嚳の『五英』を作し、堯の『大章』を作し、舜の『大韶』を作し、禹の『大夏』を作し、湯の『大濩』を作し、武王の『大武』を作すに至る。夏より以来、年代久遠、唯だ名字有るのみ、其の声聞くを得ず。殷より周に至り、『詩』『頌』に備わる。故に聖賢已下より、多く楽を習う者多し。伏羲の瑟を減じ、文王の琴を足し、仲尼の磬を撃ち、子路の瑟を鼓し、漢高の築を撃ち、元帝の簫を吹くに至るは是れなり。漢高祖の初め、叔孫通秦の楽人に因りて宗廟の楽を制す。神を廟門に迎えて、『嘉至』の楽を奏す、猶古の降神の楽のごとし。皇帝廟門に入りて、『永至』の楽を奏す、行歩の節と為す、猶古の『采薺』・『肆夏』のごとし。乾豆上りて薦むれば、『登歌』の楽を奏す、猶古の清廟の歌のごとし。『登歌』再び終わりて、『休成』の楽を奏す、神の饗うを美とす。皇帝東廂に就きて坐定まりて、『永安』の楽を奏す、礼の成るを美とす。其の『休成』・『永至』の二曲は、叔孫通の制る所なり。漢高祖廟に『武徳』・『文始』・『五行』の儛を奏す。春秋の時に当たりて、陳の公子完斉に奔る。陳は是れ舜の後なり、故に斉に『韶』楽有り。孔子斉に在りて『韶』を聞き、三月肉の味を知らず是れなり。秦の始皇斉を滅ぼし、斉の『韶』楽を得る。漢の高祖秦を滅ぼし、『韶』漢に伝わる。高祖名を改めて『文始』と為し、以て相襲わざるを示す。『五行儛』は、本は周の『大武』楽なり、始皇改めて『五行』と曰う。孝文に及びて、復た四時の儛を作し、以て天下安和、四時順なるを示す。孝景『武徳儛』を采りて以て『昭徳』と為し、孝宣又『昭徳』を采りて以て『盛徳』と為す。其の名を変うるも、大抵皆秦の旧事に因る。魏・晋に至るまで、皆古楽を用う。魏の三祖、並びに楽辞を制す。永嘉播越より、五都傾蕩し、楽声南度す、是を以て大いに江東に備わる。宋・齐已来、梁代に至るまで、行なう所の楽事、猶皆古を伝え、三雍四始、実に大盛と称す。侯景の篡逆に及び、楽師分散し、其の四儛・三調、悉く偽斉に度る。斉氏伝受を知るも、曲を得て之を宗廟朝廷に用いず。臣少くより音律を好み、管弦に留意す。年耆老と雖も、頗る皆記憶す。東土克定に及び、楽人悉く返る。其の逗遛を訪うれば、果たして雲う、是れ梁人の教うる所なりと。今三調・四儛並びに皆手有り、精熟せずと雖も、亦頗る雅声を具う。若し教習伝授せしめば、庶幾くは古楽の流伝するを得ん。然る後に其の会帰を取り、其の指要を撮り、因循損益し、更に嘉名を制す。盛徳を当今に歌い、雅正を来葉に伝う、豈に美ならずや。謹みて三調・四舞の曲名を具録し、又歌辞を制すること別の如し。其の声曲流宕にして、殿庭に陳ぶべからざる者も、亦悉く之を後に附す。
蘭陵の蕭該は、梁の鄱陽王蕭恢の孫である。幼くして攸侯に封ぜられた。梁の荊州が陥落すると、何妥と共に長安に至った。性質は学を篤くし、『詩』・『書』・『春秋』・『礼記』に並びに大義を通じ、特に『漢書』に精通し、甚だ貴遊の礼を受けた。開皇初年、山陰県公の爵を賜り、国子博士に任ぜられた。詔書を奉じて何妥と経史を正定したが、各々自らの見解を執り、互いに是非を争い、久しく成すことができず、上は譴責してこれを罷めさせた。蕭該は後に『漢書』および『文選』の音義を撰し、皆当時に貴ばれた。
東海の包愷、字は和楽。その兄の愉は『五経』に明るく、愷はその業を悉く伝授された。また王仲通に従って『史記』・『漢書』を受け、特に精究に称された。大業年間、国子助教となった。当時『漢書』を学ぶ者は、蕭該・包愷の二人を宗匠とした。徒を聚めて教授し、著録する者は数千人に及んだ。卒すると、門人が墳墓を築き碑を立てた。
房暉遠
房暉遠、字は崇儒、恆山真定の人である。代々儒学を伝えた。暉遠は幼くして志行があり、『三礼』・『春秋三伝』・『詩』・『書』・『周易』を修め、兼ねて図緯を善くし、常に教授を務めとした。遠方より笈を負って従う者は、動けば千を以て数えた。北斉の南陽王高綽が定州刺史となった時、その名を聞き、博士として召し出した。北周の武帝が北斉を平定し、儒俊を捜訪すると、暉遠は真っ先に辟命に応じ、小学下士を授けられた。高祖が禅を受けると、太常博士に遷った。太常卿牛弘はしばしば五経庫と称した。吏部尚書韋世康がこれを推薦し、太学博士となった。まもなく沛公鄭訳と共に楽章を修正した。母の喪に服し、解任された。後数年、殄寇将軍を授けられ、再び太常博士となった。間もなく、国子博士に抜擢された。時に上は国子生で一経を通じる者を、皆悉く推薦させ、抜擢任用しようとした。策問が終わると、博士は時に臧否を定めることができなかった。祭酒元善が怪しんで問うと、暉遠は言った、「江南と河北では、義例が同じでなく、博士は遍く渉猟できない。学生は皆その短所を持ち出し、己の長所を称え、博士は各々自ら疑うので、久しく決しないのです。」祭酒はそこで暉遠に命じてこれを考定させた。暉遠は筆を覧るや直ちに下し、初め疑滞がなかった。或いは不服の者があれば、暉遠はその伝える義疏を問い、直ちに始末を誦し、然る後にその短所を指摘した。ここより敢えて非を飾る者は無かった。試みた四五百人の者を、数日で決し、諸儒はその通博を推服せざるはなく、皆自ら測り知れないと思った。まもなく詔を奉じて令式の修撰に預かった。高祖は嘗て群臣に謂って言った、「古より天子に女楽はあったか。」楊素以下は出処を知らず、遂に女楽は無いと言った。暉遠が進み出て言った、「臣は聞きます、'窈窕たる淑女、鐘鼓以てこれを楽しましむ'と。これ即ち王者の房中の楽であり、『雅頌』に著わされており、無いとは言えません。」高祖は大いに喜んだ。仁寿年間、官において卒した。時に七十二歳。朝廷は嗟惜し、賵賻は甚だ厚く、員外散騎常侍を贈られた。
馬光
馬光、字は栄伯、武安の人である。幼くして学を好み、師に従うこと数十年、昼夜休むことなく、図書讖緯に畢く覧ざるはなく、特に『三礼』に明るく、儒者の宗とされた。開皇初年、高祖が山東の義学の士を徴すると、光は張仲譲・孔籠・竇士栄・張黒奴・劉祖仁らと共に至り、並びに太学博士を授けられ、当時の人は六儒と号した。然し皆鄙野で儀範がなく、朝廷はこれを貴ばなかった。士栄はまもなく病死した。仲譲は間もなく帰郷を告げ、著書十巻を著し、自ら云う、この書がもし奏上されれば、我必ず宰相となると。又しばしば玄象の事を言った。州県がその状を列上し、遂に誅に坐した。孔籠・張黒奴・劉祖仁も間もなく譴責されて去った。ただ光のみが残った。嘗て釈奠に因り、高祖が親しく国子学に幸し、王公以下が畢く集まった。光は座に昇って礼を講じ、章門を啓発した。やがて諸儒生が順次論難する者十余人、皆当時の碩学であったが、光は疑滞を剖析し、辞は俊弁ではないが、理義は弘贍で、論者はその浅深を測り知れず、皆共に推服し、上は嘉して労った。山東の『三礼』学者は、熊安生の後、ただ光一人を宗とするのみであった。初め、瀛・博の間で教授し、門徒千数を数え、この時多くは笈を負って長安に従い入った。後数年、母の喪に服して郷里に帰り、遂に終焉の志を有した。病気により家で卒した。時に七十三歳。
劉焯
劉焯は、字を士元といい、信都郡昌亭県の人である。父の洽は、郡の功曹であった。焯は犀の額に亀の背、遠くを望み高く視るが如く、聡明にして沈深、幼少より遊戯を好まなかった。若くして河間の劉炫と盟を結び友となり、共に同郡の劉軌思に『詩経』を、広平の郭懋常に『左伝』を学び、阜城の熊安生に『礼』を問うたが、いずれも卒業せずに去った。武強県の交津橋にある劉智海の家は元来多くの典籍を蔵しており、焯は炫と共にそこに赴き読書し、およそ十年を経た。衣食が続かぬこともあったが、平然としていた。かくて儒学をもって知名となり、州の博士となった。刺史の趙煚がこれを召して従事とし、秀才に挙げられ、射策にて甲科に及第した。著作郎の王劭と共に国史を修め、律暦の議にも参じ、引き続き門下省に直して顧問を待った。まもなく員外将軍に任ぜられた。後に諸儒と秘書省において群言を考定した。仮に帰郷した際、県令の韋之業がこれを召して功曹とした。まもなく再び京に入り、左僕射の楊素・吏部尚書の牛弘・国子祭酒の蘇威・国子祭酒の元善・博士の蕭該・何妥・太学博士の房暉遠・崔宗徳・晋王文学の崔賾らと国子学において古今の滞義で前賢の通じなかったものを論じた。毎に座に昇れば、論難鋒起すれども、皆これを屈することができず、楊素らはその精博に服さぬ者はなかった。開皇六年、洛陽の『石経』を京師に運び、文字磨滅して知る者なきに当たり、勅を奉じて劉炫らと考定した。後に国子釈奠に際し、炫と二人で論義し、諸儒を深く挫いたため、皆嫉み恨みを抱き、ついに飛書によって誹謗され、除名されて民となった。ここに郷里に優遊し、専ら教授著述を務め、孜孜として倦まなかった。賈逵・馬融・王粛・鄭玄の伝える章句に対して、多く是非を論じた。『九章算術』・『周髀』・『七曜暦書』など十余部について、日月の運行を推歩し、山海を量度する術は、その根本を核とし、その秘奥を窮めぬものはなかった。『稽極』十巻・『暦書』十巻・『五経述議』を著し、並びに世に行われた。劉炫は聡明博学で、その名は焯に次ぐため、当時の人は二劉と称した。天下の名儒や後進が、質疑し学業を受けんと、千里を遠しとせずして至る者は数え切れなかった。論者は、数百年以来、博学通儒にしてその右に出る者なしと為した。しかし、懐抱は広くなく、また財に吝嗇で、束脩を行わぬ者には、未だ嘗て教誨を施さず、当時の人はこれを以て軽んじた。廃太子の勇がこれを聞き召したが、進謁に及ばぬうちに、詔して蜀王に事えさせた。これは彼の好むところではなく、久しく至らなかった。王はこれを聞いて大いに怒り、人を遣わして枷をはめて蜀に送り、軍防に配属させた。その後、書籍の校勘を掌った。王が罪に坐して廃されると、焯はまた諸儒と礼律を修定し、雲騎尉に任ぜられた。煬帝が即位すると、太学博士に遷り、まもなく疾を以て職を去った。数年後、再び征されて顧問を待ち、そこで上著の『暦書』を献じたが、太史令の張胄玄の説と多く異なり、駁されて用いられなかった。大業六年に卒し、時に六十七歳であった。劉炫が諡を請うたが、朝廷は許さなかった。
劉炫
劉炫は、字を光伯といい、河間郡景城県の人である。幼少より聡敏をもって称され、信都の劉焯と共に戸を閉じて読書し、十年間出でなかった。炫は眸子精明にして日を視ても眩まず、強記黙識、比肩する者なし。左手に方形を画き、右手に円形を画き、口で誦し、目で数え、耳で聴く、五事を同時に行っても、遺失することがなかった。周の武帝が斉を平定すると、瀛州刺史の宇文亢がこれを召して戸曹従事とした。後に刺史の李絵が礼曹従事に任じ、吏幹をもって知名となった。歳余りして、勅を奉じて著作郎の王劭と共に国史を修めた。まもなく門下省に直して顧問を待った。また諸術者と天文律暦を修め、兼ねて内史省において群言を考定し、内史令の博陵の李徳林は甚だ礼を以て遇した。炫は三省に遍く直したが、結局官を得ず、県司よりその賦役を責められた。炫は内史に自ら陳べ、内史は吏部に送った。吏部尚書の韋世康がその能うところを問うと、炫は自ら状を作って曰く、「『周礼』・『礼記』・『毛詩』・『尚書』・『公羊伝』・『左伝』・『孝経』・『論語』の孔安国・鄭玄・王粛・何休・服虔・杜預らの注、凡そ十三家は、義に精粗あるも、並びに講授に堪え。『周易』・『儀礼』・『穀梁伝』は、用功稍少なし。史書・子書・文集の嘉言美事は、皆心に誦す。天文律暦は、微妙を窮核す。公私の文翰に至っては、未だ嘗て他人に仮さず」と。吏部は結局詳しく試さなかったが、朝に在る知名の士十余人が、炫の陳べる所の謬らざることを保明したため、ここに殿内将軍に任ぜられた。
時に牛弘が天下の遺逸の書を購求することを奏請した。炫は遂に百余巻の書を偽造し、題して『連山易』・『魯史記』などとし、書き写して官に送り、賞を取って去った。後にこれを訟うる者あり、赦により死を免れ、坐して除名され、家に帰り、教授を以て務めとした。太子の勇がこれを聞き召した。京師に至るや、勅して蜀王秀に事えさせたが、遷延して往かず。蜀王大いに怒り、枷をはめて益州に送った。まもなく帳内に配属し、毎に杖を執らせて門衛と為した。俄かにこれを釈放し、書史の校勘を掌らせた。炫は因って屈原の『卜居』に擬い、『筮途』を作って自ら寄託とした。