文學
『易経』に曰く、「天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化す」と。『伝』に曰く、「言は身の文なり、言にして文あらざれば、行くこと遠からず」と。故に堯は則天と称し、文明の称を表し、周は盛徳と云い、煥乎たる美を著す。されば文の用と為すや、その大なることかな。上は以て徳教を下に敷き、下は以て情志を上に達す。大なるものは天地を経緯し、訓を作り範を垂れ、次なるものは風謡歌頌し、主を匡し民を和す。或いは讒を離れ放逐された臣、途窮れて後門の士、道轗軻にして未だ遇わず、志鬱抑して申さず、憤激委約の中にありて、文を飛ばして魏闕の下に至り、泥滓より奮迅し、自ら青雲に致し、沈溺を一朝に振るい、風声を千載に流すこと、往々にして有り。是を以て凡百の君子、心を用いざるは莫し。漢・魏より以来、晋・宋に至るまで、その体屡変わり、前哲これを論じて詳なり。永明・天監の際、太和・天保の間に至り、洛陽・江左、文雅特に盛ん。時に作者、済陽の江淹・呉郡の沈約・楽安の任昉・済陰の温子升・河間の邢子才・巨鹿の魏伯起等、並びに学は書圃を窮め、思は人文に極まり、縟彩は雲霞に鬱し、逸響は金石に振るう。英華秀発し、波瀾浩蕩、筆に余力有り、詞に竭きる源無し。張・蔡・曹・王に比すれども、亦各一時の選なり。その風を聞く者、声馳せて景慕す、然れども彼此の好尚、互いに異同有り。江左は宮商発越し、清綺を貴び、河朔は詞義貞剛、気質を重んず。気質は則ち理その詞に勝ち、清綺は則ち文その意に過ぐ。理深き者は時用に便んじ、文華なる者は詠歌に宜し。これその南北詞人の得失の大較なり。若し彼の清音を掇り、茲の累句を簡び、各その短き所を去り、その両長を合わさば、則ち文質斌斌として、善美を尽くすべし。梁は大同の後より、雅道淪缺し、漸く典則に乖き、新巧に争い馳す。簡文・湘東、その淫放を啓き、徐陵・庾信、路を分かちて鑣を揚ぐ。その意浅くして繁く、その文匿れて彩あり、詞は軽険を尚び、情は哀思多し。延陵の聴を以て格すれば、蓋し亦た亡国の音か。周氏梁・荊を吞併し、この風関右に扇がれ、狂簡斐然として俗を成し、流宕して反るを忘れ、取裁する所無し。高祖初めて万機を統ぶるや、毎に鵶を雕りて樸と為すを念い、号令を発施し、咸浮華を去る。然れども時俗の詞藻、猶お多く淫麗なり、故に憲台は法を執り、屡霜簡を飛ばす。煬帝初め芸文を習うに、軽側に非ざるの論有り、即位に及びて、一変してその風と為す。その『越公に与うる書』・『東都を建つる詔』・『冬至朝を受くる詩』及び『飲馬長城窟を擬す』は、並びに雅体を存し、典制に帰す。意は驕淫に在りと雖も、而も詞に浮蕩無く、故に時に綴文の士、遂に依りて正を取ることを得たり。所謂能く言う者は必ずしも能く行わず、蓋し亦た君子は人を以て言を廃せざるなり。爰に東帝秦に帰するより、青蓋洛に入るに逮ぶまで、四庾咸至り、九州攸同じく、江漢の英霊、燕趙の奇俊、並びに天網の中に該ね、倶に大国の宝と為る。その楚を刈るを言えば、片善遺る無く、木を潤し流れを円らすも、十数を能わず、才の難きや、その然らざるや。時の文人、当世に称せられるは、則ち范陽の盧思道・安平の李徳林・河東の薛道衡・趙郡の李元操・巨鹿の魏澹・会稽の虞世基・河東の柳抃・高陽の許善心等、或いは河朔に鷹揚し、或いは漢南に独歩し、倶に龍光を騁せ、並びに雲路を駆り、各本伝有り、これを論じて叙す。その潘徽・万寿の徒、或いは学優れて切ならず、或いは才高くして貴仕無く、その位は得て卑しとすべく、その名は堙没すべからず、今ここにこれを総めて、『文学伝』と為す。
劉臻
劉臻、字は宣摯、沛国相の人なり。父は顕、梁の尋陽太守。臻年十八、秀才に挙げられ、邵陵王東閣祭酒と為る。元帝の時、中書舎人に遷る。江陵陥没し、復た蕭詧に帰し、中書侍郎と為す。周の塚宰宇文護、中外府記室に辟し、軍書羽檄、多くその手に成る。後に露門学士と為り、大都督を授けられ、饒陽県子に封ぜられ、藍田令・畿伯下大夫を歴任す。高祖禅を受け、位を進めて儀同三司と為る。左僕射高熲の陳を伐つに、臻をして軍に随い、文翰を典らしめ、爵を進めて伯と為す。皇太子勇、学士に引き入れ、甚だ褻狎す。臻に吏幹無く、又性恍惚、経史に耽悅し、終日覃思し、世事に至りては、多く遺忘す。劉訥と云う者亦た儀同に任じ、倶に太子学士と為り、情好甚だ密なり。臻は城南に住み、訥は城東に住む。臻嘗て訥を尋ねんと欲し、従者に謂いて曰く、「汝は劉儀同の家を知るか」と。従者は訥を尋ねることを知らず、臻の家に還ると謂い、答えて曰く、「知る」と。是に於いてこれを引いて去る。既に門を叩くも、臻未だ悟らず、訥の家に至れりと謂う。乃ち鞍に拠りて大呼して曰く、「劉儀同出でよ」と。その子門を迎うるに、臻驚いて曰く、「此れ汝も亦た来たるか」と。その子答えて曰く、「此れは大人の家なり」と。是に於いて顧盼し、久しくして乃ち悟り、従者を叱して曰く、「汝大いに意無し、吾は劉訥に造らんと欲するのみ」と。性蜆を啖うを好み、音父の諱に同じきを以て、扁螺と呼ぶ。その疏放多くこの類なり。『両漢書』に精しく、時人漢聖と称す。開皇十八年卒す、年七十二。集十巻世に行わる。
王頍
王頍は、字を景文といい、齊州刺史の王頒の弟である。数歳の時、江陵陥落に遭い、諸兄に従って関中に入った。若い頃は遊侠を好み、二十歳になってもなお書物を読むことを知らなかった。兄の王顒に責められて怒られると、そこで感激し、初めて『孝経』『論語』を読み、昼夜倦むことなく学んだ。やがて『左伝』『礼』『易』『詩』『書』を読み、ついに嘆じて言った、「書物に読むに足らぬものはない」と。数年にわたり勤勉に学び、ついに五経を遍く通じ、その旨趣を究め、大いに儒者たちに称賛された。文章を綴ることを解し、談論を善くした。二十二歳の時、周の武帝に召されて露門学士となった。疑わしい事柄を決する際は、多く王頍が行った。そして王頍は性質識見が明らかで、精力倦むことなく、諸子を読むことを好み、異書を偏く記憶し、当世において博物と称された。また兵法に通暁し、ますます縦横の志を抱き、常に時に逢わぬことを嘆き、自ら将相たるを期した。開皇五年、著作佐郎に任じられた。まもなく国子において講授することを命じられた。折しも高祖が自ら釈奠に臨まれた時、国子祭酒の元善が『孝経』を講じ、王頍がこれと論難を交わすと、言葉と義理が鋭く立ち上がり、元善はしばしば屈服させられた。高祖は大いにこれを奇とし、格を超えて国子博士に任じた。後に事に坐して解職し、嶺南に配流防戍された。数年後、漢王楊諒の府諮議参軍に任じられ、王は大いに彼を礼遇した。当時、楊諒は房陵王および秦・蜀の二王が相次いで廃黜されるのを見て、ひそかに異志を抱いていた。王頍はひそかに楊諒を勧めて兵甲を繕治させた。高祖が崩御すると、楊諒はついに兵を挙げて反逆したが、その多くは王頍の計略によるものであった。王頍はその後もたびたび奇策を進言したが、楊諒は用いることができなかった。楊素が蒿沢に至り、戦おうとした時、王頍はその子に言った、「気候が甚だしく良くない。軍は必ず敗れるであろう。汝は我に従え」と。やがて軍は敗れ、王頍は突厥に帰ろうとしたが、山中に至り、道が断絶し、必ず免れられぬと知ると、その子に言った、「我が計略は、楊素に劣らぬものがある。ただ言葉が用いられなかったために坐して、ここに至ったのだ。坐して捕縛されるに任せ、あの小僧の名声を成すわけにはいかぬ。我が死んだ後、汝は慎んで故旧を訪ねてはならぬ」と。そこで自殺し、石窟の中に葬った。その子は数日間食を得ることができず、ついにその故人を訪ね、ついに捕らえられた。楊素が王頍の屍体を求め、これを得て、首を斬り、太原に梟首した。時に五十四歳であった。『五経大義』三十巻を撰し、文集十巻があったが、ともに兵乱のため、再び存するものはなかった。
崔儦
崔儦は、字を岐叔といい、清河郡武城県の人である。祖父の崔休は、魏の青州刺史であった。父の崔仲文は、斉の高陽太守であった。代々著姓であった。崔儦は十六歳の時、太守が功曹に請おうとしたが、就任しなかった。若い頃、范陽の盧思道、隴西の辛德源と志を同じくして親しく交わった。常に読書を務めとし、才地を恃んで、世人を軽んじた。戸口に大きく書き記して言った、「五千巻の書を読まざる者は、この室に入るを得ず」と。数年之間に、ついに群言を博覧し、多く通暁した。文章を綴ることを解し、斉において秀才に挙げられ、員外散騎侍郎となり、殿中侍御史に遷った。まもなく熊安生、馬敬徳らと『五礼』を議し、兼ねて律令を修めた。まもなく散騎侍郎を兼ね、陳に聘使された。使節より還ると、文林館に待詔した。殿中、膳部、員外の三曹郎中を歴任した。崔儦は頓丘の李若とともに称えられ重んじられ、当時の人は彼らのために語って言った、「京師に灼灼たるは、崔儦、李若」と。斉が滅ぶと、郷里に帰り、郡に仕えて功曹となり、州より主簿に補された。開皇四年、征召されて給事郎に任じられ、まもなく内史舎人を兼ねた。後数年、通直散騎侍郎を兼ね、陳に聘使され、還って員外散騎侍郎に任じられた。越国公楊素が当時まさに貴幸であり、崔儦の門地を重んじて、子の楊玄縦にその女を娶らせて妻とした。聘礼は甚だ厚かった。親迎の始め、公卿満座の中、楊素は騎兵を遣わして崔儦を迎えさせた。崔儦はわざとその衣冠を破り、驢馬に乗ってやって来た。楊素は推して上座にさせたが、崔儦には楊素を軽んじる色があり、礼甚だ倨傲で、言葉もまた不遜であった。楊素は憤然として、衣を払って立ち上がり、ついに座を罷めた。後数日、崔儦がようやく来て謝すると、楊素は以前のように彼を遇した。仁寿年間、京師にて卒した。時に七十二歳であった。子に崔世済がいる。
諸葛潁
諸葛潁は、字を漢といい、丹陽郡建康県の人である。祖父の諸葛銓は、梁の零陵太守であった。父の諸葛規は、義陽太守であった。諸葛潁は八歳の時、文章を綴ることができ、梁に起家して邵陵王の参軍事となり、記室に転じた。侯景の乱に際し、斉に奔り、文林館に待詔した。太学博士、太子舎人を歴任した。周の武帝が斉を平定すると、任用されず、門を閉ざして出でざること十余年であった。『周易』、図緯、『倉頡篇』、『爾雅』、『荘子』、『老子』を習い、その要を得ることが多かった。清弁にして俊才あり、晋王楊広は平素よりその名を聞き、参軍事に引き、記室に転じた。王が太子となると、薬蔵監に除かれた。煬帝が即位すると、著作郎に遷り、甚だ親幸された。臥内に出入りし、帝はしばしば曲宴を賜い、つねに皇后や嬪御と連席共榻した。諸葛潁は隙間に乗じて、多く讒毀を行ったので、当時の人は彼を「冶葛(猛毒の草)」と呼んだ。後に恩旧を録して、朝散大夫を授けられた。帝は常に諸葛潁に詩を賜い、その卒章に曰く、「参翰は長洲苑に、侍講は肅成門に。名理は研核に窮まり、英華は討論に恣す。実録は平允を資し、芳を伝えて後昆を導く」と。このように遇されたのである。後に吐谷渾を征した時、正議大夫を加えられた。後に帝の北巡に従駕し、道中にて卒した。年七十七。
諸葛潁は性質偏狭でせっかちであり、柳抃としばしば憤り争った。帝はたびたび責め怒ったが、なお止まず、その後帝もまた彼を軽んじた。文集二十巻があり、『鑾駕北巡記』三巻、『幸江都道裡記』一巻、『洛陽古今記』一巻、『馬名録』二巻を撰し、ともに世に行われた。子に諸葛嘉会がいる。
孫万寿
孫万寿は、字を仙期といい、信都郡武強県の人である。祖父の孫宝は、魏の散騎常侍であった。父の孫霊暉は、斉の国子博士であった。孫万寿は十四歳の時、阜城の熊安生に就いて五経を受け、大義を略通し、兼ねて子史に博く渉った。文章を綴ることを善くし、談笑を美とし、博陵の李徳林はこれを見て奇とした。斉において、十七歳で奉朝請となった。高祖が禅を受けると、滕穆王が引きいて文学とし、衣冠不整の罪に坐して江南に配流防戍された。行軍総管の宇文述が召して軍書を典掌させた。孫万寿はもとより書生であり、従容として文雅であったが、一朝軍に従うこととなり、鬱々として志を得ず、五言詩を作って京邑の知友に贈り、曰く、
賈誼は長沙国に流され、屈原は湘水のほとりに沈んだ。江南は瘴癘の地、古来より多くの追放された臣が多い。私は巧みな官吏ではなく、幼い頃から身を処するのが拙かった。飛ぼうにも翼がなく、鳴こうにも時を得ない。どうして筆を執る者が、かえって戈を負う人となったのか!飄々として木偶の如く、棄てられて凶狗と同じ。道を失って西に漂い、狂うでもなく東に走った。晚年に関を出で、春の盛りに京口を渡る。石城は獣のごとくに臨み、天津に牛斗を望む。牛斗には妖気が盛んで、梟獍すでに群を成す。郗超が初めて幕に入り、王粲が始めて軍に従う。糧を裹みて楚山の際に至り、甲を被って呉江の汶に及ぶ。呉江はひとたび浩蕩として、楚山は何と紛糾せることか。驚く波は上って日に濺ぎ、高き喬木は下って雲に臨む。越を撃つには常に弁を資とし、蜀を諭すには幾度か文を飛ばす。魯連はただ患いを救うのみ、吾彥は勲を争わず。羈旅の歳月久しく、帰郷の思い常に首を搔く。萱を植えぬことに関わらず、杯酒なきことのためではあるまい!数年にわたり郷県を辞し、三秋親友と別る。壮志は風雲に後れ、衰えた鬢は蒲柳に先んず。心緒は乱れて糸の如く、空しく昔の時を懐かしむ。昔、帝城に遊び、弱冠の歳に知己に逢う。旅食は南館の中、飛ぶ蓋は西園の裡。河間王はもとより書を好み、東平王はただ士を愛す。英辯は天人に接し、清言は名理を洞徹す。鳳池に時として寓直し、麟閣に常に遊止す。勝地には賓僚盛んにして、麗景相携えて招く。舟は昆明の水に泛び、騎は渭津の橋を指す。祓除は灞岸に臨み、供帳は東郊に出づ。宜城の醖は始めて熟し、陽翟の曲は新たに調ぶ。樹を繞る烏は夜に啼き、麦に雊ぐ雉は朝に飛ぶ。細塵は梁の下に落ち、長袖は掌中に嬌なり。歓楽三楽至り、懐抱百憂銷ゆ。夢想はなお昨の如く、尋思久しく寂寥たり。一朝世の網に牽かれ、万里波潮を逐う。回る輪は常に自ら転じ、懸かる旆は揺らぐに堪えず。高きに登りて衿帯を視れば、郷関は白雲の外。首を回して孤城を望めば、愁人ますます平らかならず。華亭に宵の鶴唳き、幽谷に早き鶯鳴く。断絶する心は続け難く、惝恍たる魂は屡々驚く。群紀は通家の好み、鄒魯は故郷の情。もし南飛の雁に値わば、時に能く死生を訪わん。
この詩が京に至ると、盛んに当時の人々に吟誦され、天下の好事家は多く壁に書いて玩んだ。後に郷里に帰り、十有余年も官職を得られなかった。仁寿の初め、征されて豫章王の長史に拝されたが、好みではなかった。王が斉に転封されると、即ち斉王文学となった。当時諸王の官属は多く誅滅されたので、これによりますます自ら安んぜず、病と称して免官を請うた。久しくして、大理司直を授かり、官にて卒した。時に五十二歳。文集十巻が世に行われた。
王貞
王貞、字は孝逸、梁郡東留の人である。幼少より聡明で、七歳にして学を好み、『毛詩』・『礼記』・『左氏伝』・『周易』に通じ、諸子百家をことごとく読み尽くした。文詞をよくし、産業を治めず、常に諷誦を楽しみとした。開皇の初め、汴州刺史樊叔略が主簿に引き立て、後に秀才に挙げられ県尉を授かったが、好みではなかった。家にて病と称した。煬帝が即位し、斉王楊暕が江都に鎮すると、その名を聞き、書を以て召して言うには、
山は美玉を蔵すれば、光は廊廡の間に照らし、地は神剣を蘊めば、気は星漢の表に浮かぶ。これにより毛遂が穎脱し、義は平原君に感ぜしめ、孫慧の文詞は、東海に遷り来たるを知る。顧みて寡薄を循り、髦彦を懐かしむことあり、籍甚たる清風、日に久し。未だ披覿せず、深く佇遅す。比するに高天流火、早く涼飆に応じ、陵雲の仙掌、方に清露を受けんとす。摂衛宜しきを想い、時と休適せんとす。前園後圃、丘壑の情に従容たり、左琴右書、煙霞の外に蕭散す。茂陵に謝病す、『封禅』の文無きに非ず、彭沢に栄を遺す、先ず『帰来』の作あり。儒雅に優遊す、何の楽しみかこれに如かん!余は藩屏に当たり、条を揚・越に宣べ、棠に坐して訟を聴き、事は詠歌を絶ち、桂を攀じて詞を摛き、高遁を眷言す。旌を北渚に揚げ、蓋を西園に飛ばすに至りては、乗を托するに応・劉乏しく、醴を置くに申・穆闕けり。淮を背くの賓、徒に其の語を聞き、燕に趨るの客、罕に其の人に値う。卿は道は鷹揚に冠たり、声は鳳挙に高し。儒墨は泉海、詞章は苑囿、衡泌に棲遅し、宝を懐いて邦に迷い、茲に独善に徇い、まことに以て邑邑たり。今行人を遣わし、往意を具に宣ぶ。側に望みて我を起たしむること、飢渇に甚だし。便に軽挙し、此の虚心に副わんことを想う。投石の談を信ぜず、空しく鑿坏の逸を慕うことなかれ。書は言を尽くさず、更に詞費を慚ず。
貞が至ると、王は客礼をもってこれを遇し、朝夕安否を問う使者を遣わした。また文集を求めると、貞は啓して謝して言うには、
賀徳仁が教を宣べ、少しく来たる所有の拙文を須うに属す。昔、公旦の才芸は鬼神に事え能くし、夫子の文章は性と天道に与かる。雅志は游・夏に伝わり、余波は屈・宋に鼓する。雕龍の跡、具に風騷に在り。而して前賢後聖、代々師祖す。賞は時に従って移り、門を出でて路を分つ。清音を正始に変じ、高致を元康に体す。咸に坐して蛇珠を握ると言えども、誰か独り麟角たるを許さん。孝逸は戦争の季に生まれ、風塵の世に長ず。学は半古に及ばず、才は人に逮わず。往きて休明に属し、寸陰すでに昃つ。封ず可きの屋に居れども、常に貧賤の恥を懐う。適に鄢郢にして迷途し、邯鄲に入りて歩を失う。帰り来たりて反覆し、心灰ついに寒し。豈に横議実を過ぎ、虚しく睿覧を塵すべしとは謂わんや。高車を枉げて鼷を載せ、明珠を費やして雀を弾く。遂に糧を裹むこと三月、重ねて高門の余地に及び、淮を背くこと千里、章台の後塵を望む。懸黎と並びて肆にし、将に駿驥と同く阜せんとす。終朝缶を撃つも、黄鐘の諧う所に匪ず。日暮れに行きて却る、何ぞ前人に能く及ばんや!平生を顧想すれば、途に触れて感多し。但だ積年の沈痾を以てし、遺忘日に久し。拙思の存する所、漸く三十三巻を成す。仰ぎて至らず、方に学仙の遠きを見、窺いて睹えず、始めて遊聖の難きを知る。咫尺の天人、周章して暇あらず。真龍の降るに甚だ怖れ、白豕の帰るに過ぎて慚ず。紙に伏して情を陳し、形神悚越す。
斉王は上った文集を覧て、これを善とし、良馬四匹を賜う。貞はさらに『江都賦』を上り、王は銭十万貫、馬二匹を賜うた。未幾、病甚だしきを以て郷里に還り、家にて終わる。
虞綽 辛大徳
虞綽、字は士裕、会稽余姚の人である。父は孝曾、陳の始興王諮議であった。綽は身長八尺、姿儀甚だ偉く、博学で俊才あり、特に草隸に巧みであった。陳の左衛将軍傅縡は世に盛名あり、綽の詞賦を見て、人に歎じて言うには、「虞郎の文、尚ぶるもの無し」と。陳に仕えて太学博士となり、永陽王記室に遷る。陳が滅ぶと、晋王楊広が学士に引き立てた。大業の初め、秘書学士に転じ、詔を奉じて秘書郎虞世南・著作佐郎庾自直らと『長洲玉鏡』等の書十余部を撰した。綽の筆削するところ、帝は嘗て善しと称えざるはなく、しかるに官は遂に遷らなかった。初め校書郎となり、藩邸の左右に侍したことを以て、宣恵尉を加えられた。著作佐郎に遷り、虞世南・庾自直・蔡允恭ら四人と常に禁中に居り、文翰を以て詔を待ち、恩顧隆く洽った。遼東征従に従い、帝が臨海頓に宿営した時、大鳥を見て異とし、詔して綽に銘を作らせた。その辞に曰く、
大業八年、歳は壬申に在り、夏四月丙子、皇帝は遼碣を底定し、師を班し旅を振い、龍駕は南に轅し、鸞旗は西に邁る。行宮は柳城県の臨海頓に次ぐ。山川明秀、実に仙都なり。旌門は外に設け、款くに重阜に跨り、帳殿は周りに施し、降りて大壑を望む。清蹕を息め、軽輿を下し、百霊を警め、万福を綏べ、素砂を践み、碧沚を歩む。軒皇の襄野に同じく、漢宗を河上に邁り、汾射を想いて以て襟を開き、蓬瀛を望みて載せて佇つ。窅然として斉粛、藐として殊庭に属し、兼ねて聖徳の遐く宣ぶるを以てし、別風と淮雨を息め、休符潜かに感し、重潤を夷波に表す。璧日は光を曬し、卿雲は采を舒べ、六合開朗、十洲澄鏡。少選の間、倏焉として霊感有り、忽ち祥禽有り、皎として鶴鷺に同じく、霄漢より出で、翻然として双下す。高さ一丈を逾え、長さ乃ち盈尋、霜暉を羽翮に靡かせ、丹華を觜距に激す。鸞翔鳳跱、鵲起鴻騫、或いは蹶ち或いは啄み、載せて飛び載せて止まり、徘徊馴擾、咫尺乗輿。琴を揮うに藉らず、石を拊するに因らず、我が君の徳を楽しましめ、是を用いて来儀す。斯れ固より仙人の騏驥に類し、羽族の宗長に冠たり、西王の青鳥、東海の赤雁、豈に同年にして語らんや!窃かに銘を華嶽に基づくは、事霊異に乖き、跡を鄒山に紀すは、義尽美に非ずと為すも、猶ほ方冊泯まず、遺文観る可しとす。況んや盛徳成功、斯の懿鑠の若き、真を懐い道を味わい、此の感通を加うるに、名山に鐫せずんば、安んぞ異を銘するを用いん!臣拝稽首し、敢えて銘を勒して云わく。
来蘇怨を興し、帝自ら東征し、言う禹の績を復すと、乃ち軒営を禦う。六師薄伐し、三韓粛清し、天罰を龔行し、赫赫たり明明たり。文徳上に暢び、霊武外に薄し、車徒擾わず、苛慝作ること靡し。凱歌路に載し、成功允に鑠り、旆を反し軒を還し、林に遵い並びて壑にす。輿を海澨に停め、驛を岩阯に駐め、窅想遐凝し、藐として千里に属す。金台銀闕、雲浮き嶽峙ち、感有れば斯れ応じ、霊禽祉を效す。清漢に飛来し、倶に華泉に集い、好音玉響し、皓質水鮮なり。仁に狎れ徳に馴れ、習習として翩翩たり、絶跡泯むること無く、万斯年に于る。
帝は覧めて之を善しとし、命じて有司に海上に勒せしむ。遼を渡るの功を以て、建節尉を授く。綽は才を恃み気に任せ、降下する所無し。著作郎諸葛潁は学業を以て帝に幸せらるるも、綽は毎に軽侮す、ここより隙有り。帝嘗て綽を潁に問う、潁曰く「虞綽は粗人なり」と。帝之を頷く。時に礼部尚書楊玄感は貴倨と称せられ、虚襟して之を礼し、布衣の友を結ぶ。綽は数たび之に従いて遊ぶ。其の族人虞世南之に誡めて曰く「上は性猜忌にして、而して君は玄感に過厚し。若し絶交する者有らば、帝は君の改悔するを知り、以て咎無かるべし。然らずんば、終に当に禍を見ん」と。綽は従わず。尋ち有り、綽を告げて禁内の兵書を以て玄感に借すと、帝は甚だ之を銜む。玄感の敗れたる後、其の家を籍没し、妓妾併せて宮に入る。帝因りて之を問う、玄感平常の時何人と交往せるかと、其の妾は虞綽を以て対う。帝は令して大理卿鄭善果に窮めて其の事を治めしむ、綽曰く「羈旅薄遊し、玄感と文酒談款す、実に他謀無し」と。帝の怒解けず、綽を且末に徙す。綽は長安に至りて亡ぶ、吏急に逮う、ここに於て潜かに江を渡り、姓名を変え、自ら呉卓と称す。東陽に遊び、信安令天水辛大德に抵る、大德之を舎す。歳余り、綽は人と田を争い相訟う、因りて綽を識る者有りて之を告ぐ、竟に吏の執る所となり、坐して江都に斬らる、時に年五十四。所有の詞賦、並びに行わる世に。
大德は令と為り、群盗を誅翦し、甚だ民和を得たり。綽と俱に使者の執る所と為る、其の妻泣いて曰く「毎に君に諫めて学士を匿す無かれとす、今日の事、豈に哀しまざらんや」と。大德笑いて曰く「我本と長者を脱せんと図り、反って人の之を告ぐるに為り、吾が罪なり。当に死して以て綽に謝すべし」と。会うに詔有り、死罪は以て賊を撃ち自ら効うことを得とす。信安の吏民使者に詣り頭を叩きて曰く「辛君は人命の懸かる所、辛君若し去らば、亦た信安無からん」と。使者之を留めて以て賊を討たしむ。帝怒り、使者を斬り、大德は全きを獲たり。
王胄
王胄は、字は承基、琅邪臨沂の人なり。祖は筠、梁の太子詹事。父は祥、陳の黄門侍郎。胄は少にして逸才有り、陳に仕え、鄱陽王法曹参軍より起家し、太子舎人・東陽王文学を歴る。陳の滅びるに及び、晋王広引きて学士と為す。仁寿末、劉方に従いて林邑を撃ち、功を以て帥都督を授かる。大業初、著作佐郎と為り、文詞を以て煬帝に重んぜらる。帝常に東都より京師に還り、天下に大酺を賜い、因りて五言詩を為し、詔して胄に之に和せしむ。其の詞に曰く「河洛は朝市と称し、崤函は実に奥区なり。周は曲阜に営み作り、漢は春謨を奉じて建つ。大君は二代を苞み、皇居は両都に盛ん。招搖正に東指し、天駟乃ち西に駆る。軨を展べ玉軑に斉しく、道を式み金吾を耀わす。千門は罕罼を駐め、四達は儼として車徒たり。是の節は春の暮れ、神皋は華実敷く。皇情は時物に感し、睿思は枌榆に属す。詔して百年の老を問い、恩隆くして五日の酺す。小人は熔鑄に荷い、何由ぞか大炉に答えん」と。帝は覧めて之を善しとし、因りて侍臣に謂いて曰く「気高くして致遠、之を胄に帰す。詞清くして体潤う、其れ世基に在り。意密にして理新し、庾自直に推す。此を過ぐる者は、未だ以て詩を言うべからず」と。帝の所有の篇什は、多く令して継和せしむ。虞綽と斉名し、同志友善く、時に後進の士は咸く二人を以て准的と為す。遼東に従征し、進めて朝散大夫を授かる。胄は性疏率にして倫ならず、才大なるを自ら恃み、薄宦に鬱鬱とし、毎に気を負いて陵傲し、時人を忽略す。諸葛潁に嫉まれ、屡々之を帝に譖す、帝は其の才を愛して罪せず。礼部尚書楊玄感は虚襟して与に交わり、数たび其の第に遊ぶ。玄感の敗るるに及び、虞綽と俱に辺に徙る。胄は遂に亡匿し、潜かに江左に還り、吏の捕うる所と為り、坐して誅せらる、時に年五十六。著する所の詞賦は、多く行わる世に。
胄の兄眘は、字は元恭、博学多通なり。少にして江左に盛名有り。陳に仕え、太子洗馬・中舎人を歴る。陳の亡びるに及び、胄と俱に学士と為る。煬帝即位し、秘書郎を授かり、官に卒す。
庾自直
庾自直は、潁川の人なり。父は持、陳の羽林監。自直は少にして学を好み、沈静寡欲なり。陳に仕え、豫章王府外兵参軍・宣恵記室を歴る。陳の滅びるに及び、関に入り、調を得ず。晋王広之を聞き、引きて学士と為す。大業初、著作佐郎を授かる。自直は文を属するに解け、五言詩に於て尤も善し。性恭慎にして、妄りに交遊せず、特り帝に愛せらる。帝に篇章有れば、必ず先ず自直に示し、其の詆訶せしむ。自直の難ずる所は、帝輒ち之を改め、或いは再三に至り、其の善しと称するを俟ちて、然る後に方ち出づ。其の親礼せらるること此の如し。後に本官を以て起居舎人の事を知る。化及逆を作すに及び、之を以て北上し、自ら露車中に載り、感激して病を発し卒す。文集十巻行わる世に有り。
潘徽
潘徽は、字を伯彦といい、呉郡の人である。性質は聡明で、若くして鄭灼に『礼』を学び、施公に『毛詩』を、張沖に『書』を学び、張譏に『荘子』『老子』を講じられ、いずれも大義を通暁した。特に三史に精通し、文章を綴ることを善くし、議論を立てることができた。陳の尚書令江総が文儒の士を招き寄せたとき、徽が一度江総を訪れると、総は大いに彼を敬った。官途に就いて新蔡王国侍郎となり、選ばれて客館令となった。隋が魏澹を陳に派遣して聘問させたとき、陳人は潘徽に応対させた。澹が帰国の命を受けようとしたとき、陳の主君に上奏する啓を作り、「敬奉弘慈、曲垂餞送」と書いた。徽は「伏奉」が重く、「敬奉」が軽いと考え、その啓を受け取らずに奏上しなかった。澹は議論を立てて言った、「『曲礼』の注に『礼は敬に主る』とある。『詩経』に『維れ桑と梓とは、必ず恭敬して止む』とある。『孝経』に『宗廟は高を致す』とあり、また『其の親を敬せざるを、之を悖礼と謂う』とある。孔子は天の怒りを敬い、成湯は聖なる敬い日に躋る。宗廟は極めて重く、上天は極めて高く、父は極めて尊く、君は極めて貴い。この四者は皆同じく一つの敬であり、五経に異なる文はない。敬を軽いとするのが、いったい何に根拠があるのか分からない」。徽はこれに反論して言った、「先ほど論じた敬の字は、元々全面的に軽いとするものではないが、用いられる場所が異なれば、意味は通じても別となる。『礼』が敬に主るというのは、これは一般的な言い方であり、ちょうど男子が『冠して之に字す』とき、注に『成人して其の名を敬うなり』というのと同じである。『春秋』に冀缺があり、夫婦もまた『相敬す』と言う。すでに子に対しては敬名の義があり、夫にもまた妻を敬う説がある。これらをまた皆極めて重いと言えるだろうか。『敬謝諸公』に至っては、もとより尊ぶべき地ではなく、『公子敬愛』は賓友に施すのみであり、『敬問』『敬報』はますます雷同が見られ、『敬聴』『敬酬』は何ら貴賤の隔たりに関わらない。敬の意味は、軽くはないが、言葉における敬は、時に混然としていることを知るべきである。今『敬奉』と言うので、疑いが生じるのである。一つの例を挙げたまでで、深い根拠とはならない」。澹は答えることができず、従って改めた。陳が滅びると、州博士となり、秦孝王楊俊がその名を聞き、学士として召し出した。かつて俊に従って京師に朝したとき、道中で俊が徽に馬上で賦を作るよう命じると、一駅行く間に完成し、名を『述恩賦』といった。俊はこれを見て善しとした。また『万字文』を作るよう命じ、併せて字書を撰集させ、名を『韻篡』といった。徽が序を作って言うには、
文字の起こりは古い。初めには羲皇(伏羲)が震(東方)に出て、象緯を観て天に法り、次には史頡(蒼頡)が軒轅(黄帝)を佐け、蹄跡を察して地を取った。ここにおいて八卦が始まり、爻文が作られ、縄を用いることは既に廃れ、典籍が生まれた。龍策が河に授かり、亀の威が洛に出るに至っては、緑綈の白檢は、勳(堯)・華(舜)の運を述べ、金縄玉字は、殷・夏の符を表し、甲を銜えて姬壇(周)に示し、卷を吐いて孔室(孔子)に徴し、遠近を理に包み、幽明を跡に会し、仰いでは神功に協い、俯しては人事を照らす。その製作はかくの如く、その祥瑞はかくの如し。故に万代に宣流し、百物の名を正し、生民の耳目となり、後王の模範となり、美を頌え形容し、芬を篆素に垂れる。大隋が天命を受けるに及んで、三五(三皇五帝)を追従し、参辰と並び耀き、外には武功を振るい、内には文徳を修めた。英声を飛ばして嵩岱に勒し、大定を彰して鐘鼎に銘す。春幹秋羽、礼楽を膠庠に盛んにし、省俗観風、歌謡を唐衛に采る。我が秦王殿下は、霊を霄極に降し、秀を天機に稟け、質は珪璋に潤い、文は黼黻を兼ねる。楚詩は早く習い、頗る言志に思いを属し、沛の『易』は先に通じ、毎に索隠に神を留む。儒を尊び古を好み、三雍の対は既に遒く、物に博く多能にして、百家の工は弥く洽し、遊ぶには必ず名教にし、漁獵するには唯だ図史のみ。これに情を降して汲引し、善を択び芻微にし、館を築きて賢を招き、枝を攀じて異を佇む。連城を井裡に剖き、束帛を丘園に賁し、薄技も遺さず、片言も便ち賞す。それ故に人は脂粉を加え、物は琢磨を競い、俱に稻粱に報い、各々鳴吠を施す。時に歳次は鶉火、月躔は夷則、驂駕の務隙に、霊光の意静かなり。前に臨むは竹沼、後に倚るは桂岩、泉石は仁智の心を瑩き、煙霞は文彩の致を発し、賓僚は霧の如く集まり、教義は風の如く靡く。ここにおいて群芸を討論し、衆書を商略し、小学の家は、特に舛雑が多いと考えた。周礼漢律といえども、貫通に務めるが、巧説邪辞は、次々に同異を生ず。また文は篆隸に訛り、音は楚夏に謬り、『三蒼』『急就』の流れは、微かに章句を存し、『説文』『字林』の属は、唯だ体形を別つのみ。声を尋ね韻を推すに至っては、誠に疑混であり、古を酌み今を会するも、未だ功要に臻らず。李登の『声類』、呂靜の『韻集』が末にあり、始めて清濁を判じ、才に宮羽を分つも、全く引拠がなく、浅局を傷つけること過ぎ、詩賦に須いるものは、卒に用い難し。ここに躬ら睿旨を紆め、是非を摽摘し、宏綱を撮挙し、篇部を裁断し、旧轍を総会し、新意を創立し、声を別ちて相従い、即ち注釈に随う。詁訓に詳しくし、経史を以て証し、『騒』『雅』を備え包み、子集に博く牴し、汗簡雲の如く畢り、題して『韻篡』と為し、凡そ三十巻、一家を勒成す。まさに彼の名山に蔵し、諸の石室に副え、群玉の浅きを為すを見、懸金の定まらざるを鄙しむに足る。ここに末学を命じ、其の都序を制す。徽が業術は既に寡く、思理は弥く殫き、心は死灰の若く、文は生気に慚ず。徒に犬馬の養いを識り、飛走の仁を懐くを以て、敢えて顛沛の辞を執り、遂に狂簡の筆を操る。而して斉魯は経学に富み、楚鄭は良士多く、西河の彦は、幸いに索居を誚られず、東里の才は、請うらくは能く潤色を加えんことを。
間もなく、俊が薨じると、晋王楊広はまた揚州博士に引き立て、諸儒と共に『江都集礼』一部を撰ばせた。また徽に序を作らせて言うには、
礼の用いられる所は極めて広大である。その大きさは天地と同じく節度を備え、その明るさは日月と並んで照らし、その源は三本を開き、その体は四端に合致する。
巣に住み穴に棲む以前より、既にその理は萌し、亀甲の文や鳥の足跡の後、次第にその事は顕れた。
情は簡易を存するも、意は玉帛に非ずと雖も、夏が造り殷が因る所は、知るを得るなり。
秩宗の三礼の職、司徒の五礼の官に至っては、邦国はこれによって和し、人神はただこれによって敬い、道徳仁義はこれなくしては成らず、進退俯仰はこれを去って安んずる所あらんや。
璽印が塗料を封じるが如く、堤防が水を止めるが如く、ただちに耕耨に譬え、粉沢に均しうるのみならんや。
世が焚書坑儒に属し、時が漢・魏に移り、叔孫通の碩解、高堂隆の博識、専門とする者は霧の如く集い、製作する者は風の如く馳せ、節文は頗る備わり、枝條は互いに起こる。
皇帝は扆に負い旒を垂れ、方正を辨じて位に正し、勳華の暦象を纂ぎ、文武の憲章を綴る。
車書の会通する所、境に触れて斯く応じ、雲雨の沾潤する所、思わざるも韙からず。
東は石簣の符を探り、西は羽陵の策を蠹き、鑾を太室に鳴らし、伯を霊台に偃し、楽は五常を備え、礼は八代を兼ぬ。
上柱国・太尉・揚州総管・晋王は珪璋の宝を握り、神明の徳を履み、隆化を賛傑し、蔵用は仁を顕す。
地は周邵に居り、業は河楚に冠たり、允文允武、多才多藝。
戎衣を以て関塞を籠め、朝服を以て江湖を掃い、杞梓の才を収め、康荘の館を辟く。
これに佃漁六学、網羅百氏を加え、稷下の絶軌を継ぎ、泗上の淪風を弘め、賾は隠れざるなく探らず、事は難きあらば必ず綜ぶ。
標を采るに緑錯を以てし、華を垂るるに丹篆を以てし、刑名長短、儒墨是非、書圃翰林の域、理窟談叢の内、謁者の求むるの余、侍医の校するの逸に至るまで、涇を澄まし渭を辨ぜず、珠を拾い蚌を棄つること莫し。
質文は遞いに改まり、損益は同じからずと為し、《明堂》・《曲台》の記、南宮・東観の説、鄭・王・徐・賀の答、崔・譙・何・瘐の論、簡牒は盈つと雖も、菁華は蓋し鮮しと。
劉斌
南陽の劉斌は、頗る詞藻に富み、官は信都郡司功書佐に至る。竇建德は中書舍人に任ず。建德敗れて後、再び劉闥の中書侍郎となり、劉闥と共に突厥に亡命し、その終わりを知らず。
史臣曰く、魏文(曹丕)に言あり、「古今の文人は、類細行を護らず、鮮くして名節を以て自立する能ふものあり」と。信なるかな。王胄・虞綽の輩、崔儦・孝逸の倫は、或は気を矜り才を負ひて世事を遺落し、或は学優れて命薄く、調高くして位下く、心鬱抑として孤憤し、志盤桓として定まらず、当世に嘯傲し、公卿を脱略す。是れ跅弛にして遺れらるるは、邪を嫉み物に忤ふ、漢陽の趙壹・平原の禰衡のみに非ざるを知る。故に咎悔を離るること多く、鮮くして終りを有する能ふ。然れども其の学は稽古に渉り、文詞は辨麗にして、並びに鄧林の一枝、昆山の片玉たり。隋は寰宇を総一し、人を得ること盛んなりき。秀異の貢は、十数を過ぎず。正玄昆季三人之に預かり、華萼相耀き、亦た難き兄弟たり。