隋書

卷七十 列傳第三十五 楊玄感 李子雄 趙元淑 斛斯政 劉元進 李密 裴仁基

楊玄感

楊玄感は、司徒しと楊素の子である。体貌は雄偉で、美しい鬚髯を有していた。年少の頃は成り上がりが遅く、人々は多く彼を癡と呼んだが、その父は常に親しい者に言うには、「この児は癡ではない」と。成長すると、書を読むことを好み、騎射に長じた。父の軍功により、位は柱国に至り、その父と共に第二品となり、朝会では同じ列に並んだ。その後、高祖こうそ(文帝)は玄感に一等降下を命じたところ、玄感は拝謝して言うには、「思いがけず陛下の寵愛が甚だしく、公の朝廷において私の敬意を表することを許された」と。初め郢州刺史に任ぜられ、任地に着くと、密かに耳目を布き、長吏の善し悪しを察した。善政を施す者及び贓污のある者は、些細なことでも必ず知り、しばしばその事を発覚させたので、敢えて欺き隠す者はなかった。吏民は敬服し、皆その才能を称えた。後に宋州刺史に転じ、父の喪により職を去った。一年余りして、起用されて鴻臚卿に任ぜられ、楚国公の爵を襲い、礼部尚書に遷った。性質は驕慢であったが、文学を愛重し、四海の知名の士は多くその門に趨った。

自ら累世の尊貴顕赫を以て、天下に盛名有りとし、朝廷の文武の官は多く父の将吏であり、また朝綱が次第に紊乱し、帝(煬帝)の猜忌が日増しに甚だしくなるのを見て、内心安からず、遂に諸弟と共に密かに帝を廃し、秦王楊浩を立てることを謀った。吐谷渾征従の際、大斗抜谷に還った時、従官は狼狽しており、玄感は行宮を襲撃しようとした。その叔父の楊慎が玄感に言うには、「士心は尚お一にして、国に隙無し、図るべからず」と。玄感はそこで止めた。

時に帝は征伐を好み、玄感は威名を立てんと欲し、密かに将領となることを求めた。兵部尚書段文振に謂って言うには、「玄感は世々国恩を蒙り、寵愛は涯分を踰えています。辺境に功を立てて効を致さずんば、何をもって責めを塞がんや。もし四方に風塵の警有らば、庶幾くは鞭を執って行陣に従い、微少ながらも功を展べたい。明公は兵革を司どっておられます。敢えて心腹を布きます」と。文振はそこで帝に言上すると、帝はこれを嘉し、群臣を顧みて言うには、「将門には必ず将が有り、相門には必ず相が有る。故に虚しからず」と。そこで物千段を賜い、礼遇は益々厚くなり、頗る朝政に参与した。

帝が遼東を征するに当たり、玄感に黎陽において輸送を監督せしめた。当時、百姓は役務に苦しみ、天下は乱を思っていた。玄感は遂に武賁郎将王仲伯・汲郡賛治趙懐義等と謀議し、帝の軍衆を飢餓に陥らせんと欲し、毎度逗留して、時を定めず進発した。帝はこれを遅しとし、使者を遣わして逼迫させた。玄感は声高に言うには、「水路に盗賊多し、前後して発すべからず」と。その弟の武賁郎将玄縦・鷹揚郎将万碩は共に従駕して遼東に在ったが、玄感は密かに人を遣わして召し還した。時に将軍来護児が舟師を率いて東萊より海に入り、平壤城に向かおうとしたが、軍は未だ発たず。玄感は衆を動かす由無く、乃ち家奴を使者に偽らせ、東方より来たり、謬って護児が軍期に失して反したと称せしめた。玄感は遂に黎陽県に入り、城を閉じて男夫を大いに索いた。そこで帆布を取って冑甲と為し、官属を署し、皆開皇の旧制に準じた。傍郡に移書し、護児を討つを名目として、各々兵を発し、倉の所在に会せしめた。東光県尉元務本を黎州刺史と為し、趙懐義を衛州刺史と為し、河内郡主簿唐禕を懐州刺史と為した。衆は且つ一万に及び、洛陽らくようを襲わんとした。唐禕は河内に至り、馳せて東都に往きてこれを告げた。越王楊侗・民部尚書樊子蓋等は大いに懼れ、兵を勒して防禦に備えた。修武県の民は相率いて臨清関を守ったので、玄感は渡ることができず、遂に汲郡の南において河を渡り、乱に従う者は市の如くであった。数日にして、上春門に屯兵し、衆は十万余に至った。子蓋は河南賛治裴弘策にこれを拒がしめたが、弘策は戦いに敗れた。瀍・洛の父老は競って牛酒を致した。玄感は尚書省に屯兵し、毎度衆に誓って言うには、「我が身は上柱国に在り、家には巨万の金を累ね、富貴に至っては、求むる所無し。今、家を破り族を滅ぼすを顧みざるは、ただ天下の倒懸の急を解き、黎元の命を救わんが為のみ」と。衆は皆喜び、轅門に詣でて自ら効せんと請う者は、日に数千に及んだ。樊子蓋に与える書に曰く、

遂に進んで都城を逼った。

刑部尚書衛玄が、数万の衆を率いて関中より東都を救援に来た。歩騎二万を以て瀍・澗を渡り挑戦すると、玄感は偽って敗北した。衛玄がこれを追うと、伏兵が発し、前軍は尽く没した。数日後、衛玄は再び玄感と戦い、兵が始めて合うや、玄感は詐って人をして大呼せしめ、「官軍は既に玄感を得たり」と。衛玄の軍は稍々怠った。玄感は数千騎を以てこれに乗じ、ここにおいて大いに潰え、八千人を擁して去った。玄感はぎょう勇で力多く、毎戦自ら長矛を運び、身を以て士卒に先んじ、喑鳴叱咤し、当たる所は震慴せざるは無かった。論ずる者はこれを項羽こううに比した。また撫馭を善くし、士卒は死を楽しんだ。これにより戦いて捷たざるは無かった。衛玄の軍は日々逼迫し、糧もまた尽きたので、乃ち衆を悉くして決戦し、北邙に陣した。一日の間に、十余合戦った。玄感の弟玄挺が流矢に中って斃れると、玄感は稍々退いた。樊子蓋は再び兵を遣わして尚書省を攻め、また数百人を殺した。

帝は武賁郎将陳稜を遣わして黎陽の元務本を攻撃させ、武衛将軍屈突通を河陽に駐屯させ、左翊衛大将軍宇文述に兵を発して続進させ、右驍衛大将軍来護児を再び救援に赴かせた。玄感は前民部尚書李子雄に計略を請うた。子雄は言う、「屈突通は兵事に通暁しており、もし一度河を渡れば、勝敗は決し難い。兵を分けてこれを拒ぐがよかろう。通が渡河できなければ、樊・衛は援けを失う。」玄感はこれを然りとし、通を拒がんとした。子蓋はその謀を知り、しばしばその陣営を撃ったので、玄感は進むことが果たせなかった。通は遂に河を渡り、破陵に軍を置いた。玄感は両軍とし、西は衛玄に抗し、東は屈突通を拒いだ。子蓋がまた出兵したので、ここに大戦となり、玄感の軍はしばしば敗れた。再び子雄に計略を請うと、子雄は言う、「東都の援軍がますます到着し、我が軍はたびたび敗れる。久しく留まるべからず。関中に直入し、永豊倉を開いて貧乏を賑い、三輔は指麾のもとに平定できるであろう。府庫を拠有し、東に向かって天下を争う、これもまた王の業である。」ちょうど華陰の諸楊が郷導を請うたので、玄感は洛陽を捨て、西に関中を図り、宣言して言う、「我はすでに東都を破り、関西を取った。」宇文述らの諸軍がこれを追った。弘農宮に至ると、父老が遮って玄感に説いて言う、「宮城は空虚で、また多くの粟を積んでいる。これを攻めれば容易に陥ちる。進んで敵の食を絶ち、退いて宜陽の地を割くことができる。」玄感はこれを然りとし、留まってこれを攻めたが、三日たっても城は陥たず、追兵が遂に至った。玄感は西に閿郷に至り、槃豆に上り、陣を布いて五十里に亘り、官軍と戦いながら行き、一日に三たび敗れた。再び董杜原に陣し、諸軍がこれを撃つと、玄感は大敗し、ただ十余騎とともに林間に逃げ込み、上洛に奔らんとした。追騎が至ると、玄感がこれを叱ると、皆恐れて返り走った。葭蘆戍に至り、玄感は窮迫し、ただ弟の積善と歩行した。免れぬことを知り、積善に謂う、「事敗れた。我は人の戮辱を受けることはできない。汝、我を殺せ。」積善は刀を抽いてこれを斬り殺し、自ら刺したが、死なず、追兵に捕らえられ、玄感の首とともに行在所に送られた。その屍を東都市で三日間磔にし、さらに臠にして焼いた。余党は悉く平定された。その弟の玄奬は義陽太守であったが、玄感のもとに帰らんとして、郡丞周琁玉に殺された。玄縦の弟の万碩は、帝の在所から逃れて帰り、高陽に至り、伝舎に止まったが、監事の許華が郡兵とともにこれを捕らえ、涿郡で斬った。万碩の弟の民行は、官は朝請大夫に至り、長安ちょうあんで斬られた。ともに梟磔に処せられた。公卿は玄感の姓を梟氏に改めるよう請うた。詔してこれを可とした。

初め、玄感が東都を囲んだとき、梁郡の人韓相国が兵を挙げてこれに応じ、玄感は彼を河南道元帥とした。旬月の間に、衆十余万を集め、郡県を攻め掠めた。襄城に至り、玄感の敗北に遇い、兵は次第に潰散し、吏に捕らえられ、首を東都に伝送された。

李子雄

李子雄は、渤海郡蓨県の人である。祖父の伯賁は、魏の諫議大夫であった。父の桃枝は、東平太守となり、郷人の高仲密とともに周に帰順し、官は冀州刺史に至った。子雄は若くして慷慨し、壮志を有した。弱冠にして周の武帝に従って斉を平定し、功により帥都督ととくを授けられた。

高祖が丞相となると、韋孝寛に従って相州で尉遅迥を破り、上開府に拝され、建昌県公の爵を賜わった。高祖が禅を受けると、驃騎将軍となった。陳を伐つ役では、功により大将軍に進位し、郴州・江州の二州刺史を歴任し、ともに能ある名があった。仁寿年間、事に坐して免官された。

漢王諒が乱を起こすと、煬帝は幽州の兵を発してこれを討たんとした。時に竇抗が幽州総管であったが、帝は彼に二心あることを恐れ、楊素に任に堪える者を問うた。素は子雄を推挙し、大将軍を授け、廉州刺史に拝し、馳せて幽州に至り、伝舎に止まり、召募して千余人を得た。抗は素の貴いことを恃み、時に応じて相見えなかった。子雄は人を遣わしてこれを諭した。二日後、抗は鉄騎二千を従え、子雄の所に来詣した。子雄は甲兵を伏せ、相見えることを請い、これにより抗を擒らえた。遂に幽州の兵歩騎三万を発し、井陘より諒を討った。時に諒は大将軍劉建を遣わして燕・趙の地を略させ、ちょうど井陘を攻めており、抱犢山下で相遇い、力戦してこれを破った。幽州総管に遷り、まもなく民部尚書に徴し拝された。

子雄は明弁にして器幹あり、帝は甚だこれを信任した。新羅が嘗て使者を遣わして朝貢したとき、子雄は朝堂に至り彼と語り、ついでその冠制の由来を問うた。その使者は言う、「皮弁の遺象である。大国の君子にして皮弁を識らざるがあろうか!」子雄はついで言う、「中国に礼無ければ、四夷に求む。」使者は言う、「至って以来、この言の外に、礼無きを見ず。」憲司は子雄が言葉を失したとして、その事を奏劾し、ついに坐して免官された。俄かに復職し、江都に幸従した。帝は仗衛が整わないのを顧み、子雄に部伍させた。子雄が立ちて指麾すると、六軍は粛然とした。帝は大いに悦んで言う、「公は真に武候の才なり。」まもなく右武候大将軍に転じ、後に事に坐して除名された。

遼東の役では、帝は軍に従って自ら効力するよう命じ、これにより来護児に従って東平より滄海に向かわんとした。ちょうど楊玄感が黎陽で反したので、帝はこれを疑い、詔して子雄を鎖して行在所に送らせた。子雄は使者を殺し、亡走して玄感に帰した。玄感はたびたび子雄に計略を請うた。語は玄感伝にある。玄感が敗れると、誅せられ、その家は籍没された。

趙元淑

博陵の趙元淑、父の世模は、初め高宝寧に仕え、後に衆を率いて周に帰順し、上開府を授けられ、京兆の雲陽に寓居した。高祖が践祚すると、常に宿衛を典した。後に晋王に従って陳を伐ち、先鋒として賊に遇い、力戦して死んだ。朝廷はその身が王事に死したことを以て、元淑に父の本官を襲わせ、物二千段を賜わった。元淑は性疎誕にして、産業を治めず、家は徒に壁立していた。数年後、驃騎将軍を授けられ、官に赴かんとしたが、自ら給するもの無かった。時に長安の富人宗連は、家に千金を累ね、周に仕えて三原令となった。末娘がおり、慧くして色あり、連はひとりこれを奇とし、常に賢夫を求めた。元淑がかくの如しと聞き、相見えることを請うた。連は風儀あり、談笑に美しく、元淑もまたこれを異とした。その家に至ると、服玩居処は将相に擬していた。酒酣のとき、女楽を奏し、元淑の未だ見ざるところであった。元淑が辞して出ると、連は言う、「公子に暇あれば、また来たれ。」後数日、再びこれを訪ね、宴楽はさらに侈であった。かくの如きこと再三にして、ついで元淑に謂う、「公子が素より貧しきを知る。老夫、まさに相済すべし。」ついで元淑の需むところを問い、尽く買い与えた。臨別に、元淑は再拝して謝し、連はまた拝して言う、「鄙人、窃かに自ら量らず、公子を敬慕す。今一女あり、願わくは箕帚の妾となさん。公子の意いかん。」元淑は感愧し、遂に聘して妻とした。連はまた奴婢二十口、良馬十余匹を送り、これに縑帛錦綺および金宝珍玩を加えた。元淑は遂に富人となった。

煬帝が嗣位すると、漢王諒が乱を起こし、元淑は楊素に従ってこれを撃ち平定した。功により柱国に進位し、徳州刺史に拝され、まもなく潁川太守に転じ、ともに威恵があった。朝に入るに因り、ちょうど司農が諸郡の租穀を時に応じて納めないので、元淑がこれを奏した。帝は元淑に謂う、「卿の意の如くならば、幾日で当に了うるか。」元淑は言う、「臣の意の如くならば十日を過ぎず。」帝は即日に元淑を司農卿に拝し、天下の租を納めさせると、言う如くにして了うた。帝はこれを悦んだ。

礼部尚書楊玄感は密かに異心を抱き、元淑が共に乱を起こすに足ると見て、遂に彼と交わりを結び、多く金宝を贈った。遼東の役において、将軍を領し、宿衛を司り、光禄大夫を加授され、葛公に封ぜられた。翌年、帝が再び高麗を征した際、元淑を臨渝に鎮守させた。玄感が乱を起こすと、その弟玄縦が帝の在所から逃げ帰り、道中臨渝を経過した。元淑はその妾の魏氏を出して玄縦に会わせ、対宴して極めて歓び、これにより共に謀議を通じ、併せて玄縦に賂を授けた。玄感が敗れると、その事を告げる者があり、帝はこれを吏に属させた。元淑は玄感と婚姻を結んだと述べ、得た金宝は財聘としたのであり、実に他の故はないと言った。魏氏もまた初め金を受け取らなかったと述べた。帝が自ら臨んで問うたが、終に異なる言葉はなかった。帝は大いに怒り、侍臣に言った、「これこそ反状である、重ねて問う労は何ぞや」と。元淑及び魏氏は共に涿郡で斬られ、その家は籍没された。

斛斯政

河南の斛斯政、祖父は椿、魏の太保・尚書令しょうしょれい・常山文宣王。父は恢、散騎常侍さんきじょうじ・新蔡郡公。政は明悟にして器幹あり、初め親衛となり、後に軍功により儀同を授けられ、甚だ楊素に礼遇された。大業年中、尚書兵曹郎となった。政は風神あり、事を奏する毎に、旨に称わざることはなかった。煬帝はこれを悦び、次第に委信を見るようになった。楊玄感兄弟は皆これと交わった。

遼東の役において、兵部尚書段文振が卒し、侍郎の明雅もまた罪により廃されると、帝は一層意を属した。尋いで兵部侍郎に遷った。当時は外に四夷を事とし、軍国の務多く、政は処断弁速にして、幹理と称された。玄感の反するに当たり、政はこれと謀議を通じた。玄縦らが亡帰したのも、また政の計であった。帝が遼東に在り、将に班師せんとする時、玄縦の党与を窮治した。内に自ら安からず、遂に亡奔して高麗に走った。翌年、帝が再び東征すると、高麗は降を請い、政を執り送ることを求めた。帝はこれを許し、遂に政を鎖して還った。京師に至り、政を以て廟に告げると、左翊衛大将軍宇文述が奏して言った、「斛斯政の罪は、天地の容れざる所、人神の共に忿る所なり。若し常刑と同じくするならば、賊臣逆子を以て何を懲粛すべきか、請うらくは常法を変えんことを」と。帝はこれを許した。ここにおいて政を金光門より出し、柱に縛り付け、公卿百僚並びに親しく撃ち射ち、その肉を臠割し、多く噉う者あり。噉った後、烹煮し、その余骨を収め、焚いてこれを揚げた。

劉元進

餘杭の劉元進、少より任侠を好み、州里に宗とされた。両手各々長さ尺余、臂は膝を垂れて過ぎた。

煬帝が遼東の役を興すと、百姓騒動し、元進は自ら相表が尋常ならずとし、密かに異志を抱き、遂に衆を聚め、亡命を合わせた。時に帝が再び遼東を征し、呉・会に徴兵すると、士卒皆相謂って言った、「去年我が輩の父兄が帝に従って征した者は、全盛の時に当たり、なお死亡太半し、骸骨帰らず。今天下已に罷敝す、この行いは、我が属その遺類無からん」と。ここにおいて多く亡散する者あり、郡県これを捕えるに急であった。既にして楊玄感が黎陽に起こると、元進は天下乱を思うを知り、ここにおいて兵を挙げてこれに応じた。三呉の役に苦しむ者は響き至らざるなく、旬月にして衆数万に至った。将に江を渡らんとするに、玄感敗れた。呉郡の朱爕、晉陵の管崇もまた兵を挙げ、衆七万あり、共に元進を迎え、主と奉じた。呉郡を拠り、天子を称し、爕・崇は共に僕射となり、百官を署置した。毗陵・東陽・会稽・建安の豪傑多く長吏を執ってこれに応じた。帝は将軍吐万緒・光禄大夫魚俱羅に命じて兵を率い討たしめた。元進は西に茅浦に屯し、以て官軍に抗し、頻りに戦い互いに勝負あり。元進は退き曲阿を保ち、朱爕・管崇と軍を合し、衆十万に至った。緒は進軍してこれを逼り、百余日相持し、緒に敗れ、黄山に保った。緒はまたこれを破り、爕は戦死し、元進は建安に趣き、兵を休め士を養った。二将もまた師老いたため、軍を頓して自ら守った。

俄かに二将は共に罪を得、帝は江都郡丞王世充に命じて淮南の兵を発しこれを撃たしめた。大流星ありて江都に墜ち、地に及ばずして南に逝き、竹木を磨ぎ拂うに皆声あり、呉郡に至って地に落ちた。元進はこれを悪み、地を掘らしめ、二丈入りて、一石を得、径丈余。後数日、石の在りし所を失う。世充は既に江を渡り、元進は兵を将いて拒戦し、千余人を殺した。世充は窘急し、退き延陵柵を保った。元進は兵を遺し、人各々茅を持ち、風に因りて火を放った。世充は大いに懼れ、将に営を棄てて遁れんとした。反風に遇い、火は転じ、元進の衆は焼かれるを懼れて退いた。世充は鋭卒を簡びて掩撃し、これを大破し、殺傷太半し、これより頻りに戦いて輒ち敗れた。元進は管崇に言った、「事急なり、当に死を以てこれを決すべし」と。ここにおいて出でて挑戦し、共に世充に殺された。その衆は悉く降り、世充はこれを黄亭澗に坑い、死者三万人。その余党は往々にして険を保ち盗を為した。その後、董道冲・沈法興・李子通等これに乗じて起こり、戦争止まず、隋の亡ぶに逮った。

李密

李密、字は法主、真郷公衍の従孫なり。祖父は耀、周の邢国公。父は寛、驍勇にして戦を善くし、幹略人に過ぎ、周より隋に至るまで、数え将領を経、柱国・蒲山郡公に至り、名将と号された。密は籌算多く、才文武を兼ね、志気雄遠にして、常に物を済うることを己が任と為した。開皇年中、父の爵蒲山公を襲い、乃ち家産を散じ、親故を賙贍し、客を養い賢を礼し、愛吝する所無し。楊玄感と刎頸の交わりを為した。後さらに節を折り、帷を下ろして学に耽り、特に兵書を好み、誦すること皆口に在り。国子助教包愷に師事し、史記しき漢書かんじょを受け、励精して倦みを忘れ、愷の門徒皆その下に出づ。大業初め、親衛大都督を授けられたが、その好む所に非ず、疾を称して帰った。

楊玄感が黎陽に在りて逆謀有るや、密かに家僮を京師に遣わして密を召し、弟の玄挺らと共に黎陽に赴かしめようとした。玄感が兵を挙げて密が至ると、玄感は大いに喜び、謀主と為した。玄感が密に謀計を問うと、密は言った、「愚かに三計有り、惟だ公の択ぶ所なり。今天子出征し、遠く遼外に在り、地幽州を去り、懸隔千里。南には巨海の限り有り、北には胡戎の患い有り、中間一道、理極めて艱危なり。今公兵を擁し、その不意に出で、長駆して薊に入り、直ちにその喉を扼せば、前には高麗有り、退くに帰路無く、旬月を過ぎずして、齎す糧必ず尽きん。麾を挙げて一たび召せば、その衆自ら降り、戦わずして擒にす、これ計の上なり。また関中は四塞、天府の国、衛文昇有りと雖も、意と為すに足らず。今宜しく衆を率い、城を経て攻めず、軽く齎し鼓行し、務めて早く西に入らん。天子還るも、その襟帯を失い、険に据えてこれに臨めば、故に必ず剋つべく、万全の勢い、これ計の中なり。若し近きに随い便に逐い、先ず東都に向かわば、唐禕これに告ぐれば、理当に固守すべし。兵を引きて攻戦すれば、必ず歳月を延ばし、勝負殊に未だ知るべからず、これ計の下なり」と。玄感は言った、「然らず。公の下計、乃ち上策なり。今百官の家口並びに東都に在り、若しこれを取らざれば、安んぞ物を動かすを得ん。且つ城を経て抜かざれば、何を以て威を示さんや」と。密の計は遂に行われず。

玄感が既に東都に至り、ことごとく勝利を得ると、自ら天下の響応するものと謂い、功は朝夕の間に在りとせり。韋福嗣を獲るに及び、また腹心に委ねしにより、軍旅の事は専ら密に帰せず。福嗣は既に同謀にあらず、戦いに因りて捕らえられ、毎に籌畫を設くるも、皆両端を持せり。後に檄文を作らしむるに、福嗣は固く辞して肯わず。密は其の情を揣み知り、因りて玄感に謂いて曰く、「福嗣は元より同盟にあらず、実に観望を懐けり。明公は初めて大事を起こすに、姦人側に在り、其の是非を聴かば、必ず誤らるる所とならん。請う斬りて衆に謝し、方に安輯すべし」と。玄感曰く、「何ぞ此に至らんや」と。密は言の用いられざるを知り、退きて親しき者に謂いて曰く、「楚公は好んで反すも勝たんと欲せず、如何せん。吾属は今虜となるべし」と。後に玄感西に入らんとす、福嗣は竟に亡れて東都に帰せり。

時に李子雄は玄感に速やかに尊号を称すべしと勧む。玄感は密に問う。密曰く、「昔、陳勝ちんしょうは自ら王たらんと欲し、張耳諫めて外され、魏武は九錫を求めんと将ち、荀彧止めて疎んぜらる。今者密は正言せんと欲すも、還って二子の跡を追わんことを恐れ、阿諛して意に順うも、又密が本図にあらず。何となれば、兵起こりし已来、頻りに捷すと雖も、郡県に至りては、従う者未だ有らず。東都の守禦尚ほ強く、天下の救兵益々至らん。公は身を以て士衆に先んじ、早く関中を定むべし。急に自ら尊崇せんと欲するは、何ぞ広からざるを示さんや」と。玄感は笑いて止めり。

宇文述・来護児等の軍将に至らんとするに及び、玄感は密に謂いて曰く、「計将に安く出ださん」と。密曰く、「元弘嗣は強兵を隴右に統ぶ。今其の反すと揚言し、使を遣わして公を迎え、此に因りて関に入らば、衆を紿くを得べし」と。玄感は遂に密の謀に依り、其の衆に号令し、因りて西に引く。陝県に至り、弘農宮を囲まんと欲す。密諫めて曰く、「公今衆を詐りて西に入る。軍事は速やかなるに在り、況んや追兵将に至らんとするに、安くか稽留すべけんや。若し前に拠るに関を得ず、退くに守る所無くば、大衆一たび散ぜば、何を以てか自ら全からん」と。玄感従わず、遂に之を囲み、三日攻めて抜く能わず、方に引きて西す。閿郷に至るに、追兵遂に及べり。

玄感敗れ、密は間行して関に入り、玄感の従叔たる詢に相随い、馮翊の詢が妻の舎に匿る。尋いで隣人の告ぐる所となり、遂に捕獲せられ、京兆の獄に囚はる。是の時、煬帝は高陽に在り、其の党と俱に帝の所に送らる。途に在りて其の徒に謂いて曰く、「吾等の命は朝露に同じ。若し高陽に至らば、必ず葅醢と為らん。今道中猶は計を為す可し。安んぞ行きて鼎鑊に就き、逃避を規らざらんや」と。衆皆然りとす。其の徒多く金有り、密は示して使者に曰わしむ、「吾等の死する日、此の金並びに留めて公に付す。幸いに相い瘞むるに用いよ。其の余は即ち皆徳に報いん」と。使者は其の金に利し、遂に相い然りと許す。関外に出づるに及び、防禁漸く弛み、密は巿の酒食を通ぜんことを請う。毎に讌飲喧譁して竟夕す、使者は意とせず。行きて邯鄲に次ぎ、夜村中に宿す。密等七人皆牆を穿ちて遁れ、王仲伯と亡れて平原の賊帥郝孝徳に抵る。孝徳は甚だ礼せず、備えず饑饉に遭い、樹皮を削りて食うに至る。仲伯は潜かに天水に帰り、密は淮陽に詣で、村中に舎し、姓名を変えて劉智遠と称し、徒を聚めて教授す。数ヶ月を経て、密は鬱々として志を得ず、五言詩を作りて曰く、「金風初節を蕩かし、玉露晩林を凋む。此の夕窮塗の士、空しく鬱陶の心を軫む。眺聽良く多く感あり、慷慨独り襟を霑す。襟を霑す何の為す所ぞ、悵然として古意を懐う。秦俗猶ほ未だ平らかならず、漢道将に何をか冀らん。樊噲は巿井の徒、蕭何しょうかは刀筆の吏。一朝時運合し、万古名器を伝う。世の雄に寄言す、虚しく生くる真に愧づ可し」と。詩成りて数行の泣き下る。時に之を怪しむ者有り、以て太守趙他に告ぐ。県之を捕う。密乃ち亡れ去り、其の妹婿雍丘令丘君明に抵る。後、君明の従子懐義以て告ぐ。帝は密を捕うるを令す。密は遁れ去るを得、君明は竟に坐して死す。

会うこと東郡の賊帥翟讓が党万余を聚む。密之に帰す。其中に密が玄感の亡将たるを知る者有り、潜かに讓を勧めて之を害せしむ。密大いに懼れ、乃ち王伯當に因りて策を以て讓に干る。讓は諸の小賊を説かしむ。至る所輒ち降下す。讓始めて敬い、召して事を計らしむ。密は讓に謂いて曰く、「今兵衆既に多しと雖も、糧出す所無し。若し日を曠くし持久すれば、則ち人馬困敝し、大敵一たび臨まば、死亡無き日無からん。未だ直ちに滎陽けいように趣き、兵を休め館穀し、士馬肥充するを待ち、然る後に人と利を争う可きに若かず」と。讓之に従う。是に於いて金堤関を破り、滎陽諸県を掠め、城堡多く之を下す。滎陽太守郇王慶及び通守張須陁は兵を以て讓を討つ。讓は数たび須陁に敗れ、其の来るを聞き、大いに懼れ、将に遠く之を避けんとす。密曰く、「須陁は勇にして謀無く、兵又驟勝す。既に驕り且つ狠し。一戦にして擒う可し。公但だ陣を列ねて以て待ち、保つて公が之を破らん」と。讓已むを得ず、兵を勒して将に戦わんとす。密は兵千余人を分かちて林木の間に伏を設く。讓と戦いて利あらず、軍稍く却く。密は伏を発して後より之を掩う。須陁の衆潰ゆ。讓と合撃し、大いに之を破り、遂に須陁を陣に斬る。讓は是に於いて密に牙を建てしめ、別に統ぶる所部を領せしむ。

密復た讓に説いて曰く、「昏主は塵を蒙き、呉越に播蕩す。蝟毛競い起こり、海内饑荒す。明公は英桀の才を以てし、而して驍雄の旅を統ぶ。宜しく当に天下を廓清し、群凶を誅剪すべし。豈に草間に食を求め、常に小盗たるのみたらんや。今東都の士庶、中外心を離し、留守の諸官、政令一ならず。明公親しく大衆を率い、直ちに興洛倉を掩い、粟を発して窮乏を賑わしめば、遠近孰か帰附せざらん。百万の衆、一朝に集め可し。先んずれば人を制す。此の機失う可からず」と。讓曰く、「僕は隴畝の間より起こり、望み此に至らず。必ず図の如くならば、君先ず発せよ。僕諸軍を領し、便ち後殿と為らん。倉を得るの日、当に別に之を議せん」と。密と讓は精兵七千人を領し、大業十三年の春を以て、陽城より出で、北の方山を踰え、羅口より興洛倉を襲い、之を破る。倉を開き恣に民の取る所とす。老弱繈負す、道路絶えず。

越王侗の武賁郎将劉長恭は歩騎二万五千を率いて密を討つ。密一戦にして之を破り、長恭僅かに身を以て免る。讓は是に於いて密を推して主とす。密は洛口に城し、周廻四十里を以て之に居る。房彦藻は州を説き下す。東都大いに懼る。讓は密に号を上りて魏公とす。密初め辞して受けず、諸将等固く請う。乃ち之に従う。壇場を設け、即位し、元年を称し、官属を置きて房彦藻を左長史とし、邴元真を右長史とし、楊德方を左司馬とし、鄭徳韜を右司馬とす。讓を拝して司徒とし、東郡公に封ず。其の将帥封拝各差有り。長白山の賊孟讓は東都を掠め、豊都市を焼きて帰る。密は鞏県を攻め下し、県長柴孝和を獲て、拝して護軍とす。武賁郎将裴仁基は武牢を以て密に帰す。因りて仁基と孟讓を遣わし、兵二万余人を率いて迴洛倉を襲わしめ、之を破り、天津橋を焼き、遂に兵を縦して大いに掠む。東都は兵を出して之に乗ず。仁基等大いに敗れ、僅かに身を以て免る。密は復た親しく兵三万を率いて東都に逼る。将軍段達・武賁郎将高毗・劉長恭等は兵七万を出して之を拒ぎ、故都に戦う。官軍敗走す。密は復た迴洛倉を下して之に拠る。俄にして徳韜・徳方俱に死す。復た鄭頲を左司馬とし、鄭虔象を右司馬とす。

柴孝和が密に説いて曰く、「秦の地は山に阻まれ河を帯び、西楚(項羽)はこれを背いて亡び、漢の高祖はここに都して覇を唱えた。愚意を以てすれば、仁基に廻洛を守らせ、翟譲に洛口を守らせ、明公自ら精鋭を選び、西進して長安を襲い、百姓誰か郊迎せざらん、必ず征伐有りて戦闘無かるべし。既に京邑を剋せば、業固く兵強く、更に崤・函を長駆し、京・洛を掃蕩し、檄を伝えて指揮すれば、天下定まる可し。但し今英雄競い起り、実に他人に我より先んぜられるを恐る、一朝これを失えば、臍をぜいむも及ばんや」と。密曰く、「君の図る所、僕も亦久しく之を思う、誠に上策なり。但し昏主尚在し、従兵猶お衆し、我が部する所は、並びに山東の人、未だ洛陽を下さざるを見て、何ぞ肯て相随いて西に入らんや。諸将は群盗より出で、之を留めれば各々雌雄を競わん。若し然らば、殆んど敗れんとす」と。孝和曰く、「誠に公の言の如し、及ぶ所に非ず。大軍既に西出する未だ可からざれば、間を行き隙を観んことを請う」と。密之に従う。孝和数十騎を率いて陝県に至る、山賊之に帰する者万余人。密の時兵鋒甚だ鋭く、毎に苑に入り、官軍と連戦す。会に密流矢に中り、営内に臥す、後数日、東都兵を出して之を撃つ。密の衆大いに潰え、廻洛倉を棄て、洛口に帰る。孝和の衆密の退くを聞き、各々分散して去る。孝和軽騎にて密に帰す。

帝、王世充を遣わし江・淮の勁卒五万を率いて密を討たしむ、密逆らって之を拒ぎ、戦い利あらず。柴孝和洛水に溺死す、密甚だ之を傷む。世充洛西に営し、密と百余日相拒つ。武陽郡丞元宝蔵、黎陽の賊帥李文相、洹水の賊帥張昇、清河の賊帥趙君徳、平原の賊帥郝孝徳並びに密に帰し、共に黎陽倉を襲い破りて之を拠る。周法明江・黄の地を挙げて密に附き、斉郡の賊帥徐円朗、任城の大侠徐師仁、淮陽太守趙他等前後款附し、千百を以て数う。

翟譲の部将王儒信、譲を勧めて大冢宰と為し、衆務を総統し、以て密の権を奪わんとす。譲の兄寛復た譲に謂いて曰く、「天子は止だ自ら作す可く、安んぞ人に与えん。汝若し作ること能わざれば、我当に之を為さん」と。密其の言を聞き、譲を図るの計有り。会に世充陣を列ねて至る、譲出でて之を拒ぎ、世充に撃たれて退くこと数百歩。密と単雄信等精鋭を率いて之に赴き、世充敗走す。譲勝に乗じて進み其の営を破らんと欲す、会に日暮る、密固く之を止む。明日、譲数百人を率いて密の所に至り、宴楽を為さんと欲す。密饌を具えて之を待ち、其の将いる左右を、各々分ち令して就食せしむ。諸門並びに設備す、譲之を覚えず。密譲を引き入れて坐らしめ、良き弓有り、譲に出示し、遂に譲をして射しむ。譲引き満たして将に発せんとす、密壮士蔡建を遣わし後より之を斬らしめ、牀下に殞る。遂に其の兄寛及び王儒信を殺し、並びに其の従者も亦死する者有り。譲の部将徐世勣、乱兵に斫たれて中り、重創を負う、密遽かに之を止め、僅かにして免る。単雄信等皆頭を叩き哀を求め、密並びに釈して慰諭す。ここに於いて左右数百人を率いて譲の本営に詣る。王伯当、邴元真、単雄信等営に入り、譲を殺したる意を告ぐ、衆敢えて動く者無し。乃ち徐世勣、単雄信、王伯当をして其の衆を分統せしむ。

未だ幾ばくもせず、世充夜倉城を襲う、密逆らって之を拒ぎ破り、武賁郎将費青奴を斬る。世充復た営を移して洛北にし、南は鞏県に対し、其の後遂に洛水に浮橋を造り、衆を悉くして以て密を撃つ。密千騎を以て之を拒ぎ、利あらずして退く。世充因って其の城下に迫る、密鋭卒数百人を選び、三隊に分ち出撃す。官軍稍く却き、自ら相陷溺し、死者数万人、武賁郎将楊威、王弁、霍世挙、劉長恭、梁徳重、董智通等諸将率い皆陣に没す。世充僅かにして免れ、敢えて東都に還らず、遂に河陽に走る。其の夜雨雪尺余、之に随う衆、死亡殆んど尽きんとす。密ここに於いて金墉の故城を修めて之に居り、衆三十余万。復た来たり上春門を攻む、留守韋津出でて拒戦す、密之を撃ち破り、津を陣に執う。其の党密に即ち尊号すべくを勧む、密許さず。及び義師東都を囲む、密軍を出して之を争い、交綏して退く。

俄にして宇文化及殺逆し、衆を率いて江都より北に黎陽を指し、兵十余万。密乃ち自ら歩騎二万を率いて之を拒ぐ。会に越王侗尊号を称し、使者を遣わし密に太尉・尚書令・東南道大行臺・行軍元帥・魏国公を授け、先ず化及を平げ、然る後に朝に入り政を輔えしむ。密使者を遣わし報謝す。化及と密相遇う、密其の軍食少なるを知り、急戦に利あるを以て、故に鋒を交えず、又其の帰路を遏ち、西するを得ざらしむ。密徐世勣を遣わし倉城を守らしむ、化及之を攻むるも、下すこと能わず。密化及と水を隔てて語り、密之を数えて曰く、「卿本は匈奴の皁隷破野頭なるのみ、父兄子弟並びに隋室の厚恩を受け、富貴累世、妻は公主に至り、光栄隆顕、朝を挙げて二つ無し。国士の遇に荷う者は、当に国士を以て之に報ずべく、豈に主上の失徳を容れ、死諫すること能わず、反って衆叛に因り、躬ら殺虐を行い、誅及び子孫、傍らに支庶を立て、擅自に尊崇し、篡奪を規し、妃后を汚辱し、無辜を枉げ害さんや。諸葛瞻の忠誠を追わず、乃ち霍禹の悪逆を為す。天地の容れざる所、人神の祐らざる所、良善を擁逼し、将に何をか之さんと欲する。今若し速やかに来たり我に帰すれば、尚く後嗣を全うするを得ん」と。化及黙然たり、俯視すること良久く、乃ち目を瞋らかして大言して曰く、「共に汝と相殺の事を論ず、何ぞ須いん書語を作すを」と。密従者に謂いて曰く、「化及庸懦此の如し、忽ち帝王たるを図らんとす、斯れ乃ち趙高・聖公の流、吾当に杖を折りて之を駆るのみ」と。化及盛んに攻具を修め、以て黎陽倉城に逼る、密軽騎五百を領して馳せ赴く。倉城の兵又出でて相応じ、其の攻具を焚く、夜を経て火滅せず。

密化及の糧将に尽きんとするを知り、因って偽りに和し、以て其の衆を敝わさんとす。化及之を悟らず、大喜び、其の兵食を恣にし、密の之に饋るを冀う。会に密の下に人罪を得て、亡走し化及に投じ、具に密の情を言う。化及大怒し、其の食又尽き、乃ち永済渠を渡り、密と童山の下に戦う、辰より酉に達す。密流矢に中り、汲県に頓す。化及汲郡を掠め、北に魏県に趣く、其の将陳智略・張童仁等の部する兵密に帰する者、前後相継ぐ。初め、化及輜重を以て東郡に留め、其の署する所の刑部尚書王軌を遣わし之を守らしむ。是に至り、軌郡を挙げて密に降り、軌を以て滑州総管と為す。密兵を引いて西し、記室参軍李儉を遣わし東都に朝せしめ、煬帝を殺したる人于弘達を執りて献じ越王侗にす。侗儉を以て司農少卿と為し、之をして反命せしめ、密を召し入朝せしむ。密温県に至り、世充已に元文都・盧楚等を殺したるを聞き、乃ち金墉に帰る。

世充は既に権力を専断するを得て、乃ち将士に厚く賜物し、器械を繕治し、人心次第に鋭し。然れども密の兵は衣少なく、世充は食に乏しく、乃ち交易を請う。密は初め之を難じたが、邴元真等各私利を求め、次々に来たりて密を勧め、密遂に之を許す。初め、東都は糧絶し、密に帰する者、日に数百有り。此に至り、食を得て、而して降人益だ少なく、密方に悔いて止む。密は倉を拠るも、府庫無く、兵は数戦して賞を得ず、又初附の兵を厚く撫す、是に於いて衆心次第に怨む。時に邴元真を遣わして興洛倉を守らしむ。元真は微賤より起り、性又貪鄙、宇文温之を疾み、毎に密に謂いて曰く「元真を殺さざれば、公の難未だ已まじ」と。密は答えず、而して元真之を知り、陰に密に叛くを謀る。揚慶聞きて密に告ぐ、密固より之を疑う。会に世充衆を悉くして来たり決戦す、密は王伯當を留めて金墉を守らしめ、自ら精兵を引きて偃師に就き、北に邙山を阻みて以て之を待つ。世充の軍至り、数百騎を令して御河を渡らしむ、密は裴行儼を遣わし衆を率いて之を逆らう。会に日暮れ、暫く交えて退く、行儼・孫長楽・程䶧金等の驍将十数人皆重創に遇い、密甚だ之を悪む。世充夜に潜かに師を済し、詰朝にして陣す、密方に之を覚り、狼狽して出戦し、是に於いて敗績し、万余人とともに洛口に向かって馳す。世充夜に偃師を囲み、守将鄭頲其の部下の為に翻され、城を以て世充に降る。密将に洛口倉城に入らんとす、元真已に人を遣わし潜かに世充を引きしめたり。密陰に之を知り而して其の事を発せず、因り衆と謀り、世充の兵の洛水を半ば済するを待ち、然る後に之を撃たんとす。及んで世充軍至る、密の候騎時に覚えず、将に出戦せんと比するに、世充軍悉く已に済せり。密自ら度るに支うる能わずと、騎を引きて遁る。元真竟に城を以て世充に降る。

密の衆次第に離れ、将に黎陽に如かんとす。人或いは密に謂いて曰く「翟讓を殺すの際、徐世勣幾くんぞ死に至らんとす。今創猶未だ復せず、其の心安んぞ保つべけんや」と。密乃ち止む。時に王伯當金墉を棄て、河陽を保つ、密は軽騎を以て武牢より河を渡りて以て之に帰し、伯當に謂いて曰く「兵敗れたり!久しく諸君を苦しむ、我今自刎し、請う衆に謝せん」と。衆皆泣き、仰ぎ視る能わず。密復た曰く「諸君幸いに相棄てず、当に共に関中に帰すべし。密身は功無きを愧ずと雖も、諸君必ず富貴を保たん」と。其の府掾柳爕対えて曰く「昔盆子漢に帰し、尚食均輸す、明公は長安の宗族と疇昔の遇有り、起義に陪せずと雖も、然れども東都を阻み、隋の帰路を断ち、唐国をして戦わずして京師を拠らしむ、此れ亦た公の功なり」と。衆咸く曰く「然り」と。密遂に大唐に帰し、邢国公に封ぜられ、光禄卿を拝す。

裴仁基

河東の裴仁基、字は徳本。祖父は伯鳳、周の汾州刺史。父は定、上儀同。仁基は少にして驍武、弓馬に便ず。開皇初め、親衛と為る。陳を平らげるの役、先登して陣を陥し、儀同を拝し、物千段を賜う。本官を以て漢王諒の府の親信を領す。煬帝位を嗣ぎ、諒兵を挙げて乱を作す、仁基苦しく諫む。諒大いに怒り、之を獄に囚う。諒の敗るるに及び、帝之を嘉し、超えて護軍を拝す。数歳、改めて武賁郎将を授け、将軍李景に従い叛蛮の向思多を黔安に討ち、功を以て位を進めて銀青光禄大夫と為し、奴婢百口、絹五百匹を賜う。吐谷渾を張掖に撃ち、之を破り、金紫光禄大夫を加授す。寇掠する靺鞨を斬獲し、左光禄大夫を拝す。高麗に征し従い、位を進めて光禄大夫と為す。

帝江都に幸し、李密洛口に拠る、仁基を令して河南道討捕大使と為し、武牢に拠りて以て密を拒がしむ。滎陽通守張須陁の密に殺さるるに及び、仁基其の衆を悉く収め、毎に密と戦い、斬獲多し。時に隋大いに乱れ、功有る者録せず。仁基強寇の前に在るを見、士卒労敝し、得る所の軍資、即ち用いて分賞す。監軍御史蕭懐静毎に之を抑止す、衆咸く怨怒す。懐静又陰に仁基の長短を持し、奏劾せんと欲する所有り。仁基懼れ、遂に懐静を殺し、其の衆を以て密に帰す。密以て河東郡公と為す。其の子行儼、驍勇善戦、密復た以て絳郡公と為し、甚だ相委昵す。

王世充東都の食尽くるを以て、衆を悉くして偃師に詣り、密と決戦す。密諸将に計を問う、仁基対えて曰く「世充鋭を尽くして至る、洛下必ず虚し、兵を分かちて其の要路を守らしめ、東するを得ざらしむべし。精兵三万を簡び、傍ら河西より出で、以て東都を逼る。世充却って還らば、我且く甲を按じ、世充重ねて出でば、我又之を逼らん。此くの如くすれば則ち此に余力有り、彼は奔命に労す、兵法の所謂『彼出でて我帰り、彼帰りて我出で、数戦以て之を疲れしめ、多方以て之を誤らす』者なり」と。密曰く「公は其の一を知り、其の二を知らず。東都の兵馬に三の不可当有り:器械精しきは一なり、決計して来たるは二なり、食尽きて鬬を求むるは三なり。我甲を按じ力を蓄え、以て其の敝を観ん、彼鬬を求めて得ず、走らんと欲して路無く、十日を過ぎず、世充の首は麾下に懸くべし」と。単雄信等諸将世充を軽んじ、皆戦を請う、仁基苦しく争うも得ず。密諸将の言に違い難く、戦遂に大いに敗れ、仁基世充に虜とせらる。世充其の父子並びに驍鋭なるを以て、深く之を礼し、兄の女を行儼に妻せしむ。及び尊号を僭すに及び、仁基を署して礼部尚書と為し、行儼を左輔大將軍と為す。行儼毎に攻戦有るに、当る所皆披靡し、号して「万人敵」と為す。世充其の威名を憚り、頗る猜防を加う。仁基其の意を知り、自ら安からず、遂に世充の署する所の尚書左丞宇文儒童・尚食直長陳謙・秘書丞崔徳本等と謀反し、陳謙を令して上食の際に、匕首を持して以て世充を劫かしめ、行儼は兵を以て階下に応ぜしむ。指麾して事定まり、然る後に越王侗を出だして以て之を輔けしめんとす。事発せんと臨み、将軍張童仁其の謀を知りて之を告ぐ、俱に世充に殺さる。

史臣曰く、古先帝王の興るや、夫の至徳深仁天地に格り、豊功博利有り、艱難を弘済せざれば、然らずんば則ち其の道由る所無し。

周邦競わずより以来、隋運将に隆らんとし、武元・高祖並びに大功を王室に著し、南国を平げ、東夏を摧き、百揆を総べ、三方を定め、然る後に謳歌を変じ、宝鼎を遷す。時に匈奴驕倨し、勾吳朝せず、既に黄池に長を争い、亦た清渭に馬を飲ます。高祖内に綏め外に禦ぎ、曰く暇あらず、心膂を俊傑に委ね、折衝を爪牙に寄せ、文武争いて馳せ、群策畢く挙がる。猾夏の虜を服し、黄旗の寇を掃い、五岳を峻くして以て鎮と作し、四海を環らして以て池と為し、厚沢域中に被り、余威殊俗に震う。

煬帝は先人の業を受け継ぎ、大いなる基を践み、伊水・洛水を防ぎ崤山・函谷関を固め、両都に跨りて万国を総べた。歴数が己に在ることを誇り、王業の艱難を顧みず、道をもって民を恤うることに務めず、ただ海外に威を伸ばさんとした。諫言を拒む智を運らし、非を飾る弁を騁け、先人の轍跡の未だ遠からざるを恥じず、徳義の修まらざるを忘れた。ここに於いて通渠を鑿ち、馳道を開き、柳や杞を植え、金槌を隠した。西は玉門を出で、東は碣石を踰え、山を塹ち谷を堙め、河を浮かび海に達した。民力は凋み尽き、徭役と戍守に期なく、率土の心は鳥驚き魚潰けた。まさに西は奄蔡を規し、南は流求を討ち、親しく八狄の師を総べ、屡々三韓の域を践んだ。自らは威が万物に行き渡り、顧み指すに違うこと無しとし、また自ら長君として、功は先人より高く、寵は外戚に仮さず、権は群下に及ばず、以て軒轅・唐堯を轢し、周・漢を呑み、子孫万代、人誰も窺う能わず、振古以来、ただ一君のみと自負した。遂には外には猛士を疎んじ、内には忠良を忌み、盗賊の声あるを恥じ、喪乱の事を聞くを悪んだ。出師して将を命ずるに、衆寡を量らず、兵少なく力屈する者は、畏懦を以て顕誅を受け、誠を竭くして勝を克つ者は、功高きを以て隠戮を蒙った。或いは鋒刃の下に斃れ、或いは鴆毒の中に殞ち、賞は有功を以て求むべからず、刑は無罪を以て免るべからず、首を畏れ尾を畏れ、進退維谷の間に陥った。かの山東の群盗は、多く厮役の中より出で、尺土の資なく、十家の産も無く、豈に陳勝の秦を亡ぼすの志や、張角の漢を乱すの謀あらんや!皆、上は欲厭くこと無く、下は命に堪えず、飢寒交々に切なり、死を救わんと雈蒲に走るに苦しめられたのである。旌旗什伍の容を知らず、安んぞ行師用兵の勢いを行なうを知らん!ただ人自ら戦いを為し、衆怒は犯し難く、故に攻むるに完城無く、野に横陣無く、星離れ棊布し、千百の数に及んだ。豪傑は其の機に因りて之を動かし、其の勢いに乗じて之を用い、勇敢の士、明智の将ありと雖も、踵を連ねて覆没し、之を禦ぐ能わざる者あり。煬帝は魂褫れ気懾れ、両京に望み絶え、身を江湖に竄けんと謀り、永嘉の旧跡を襲わんとした。既にして禍は轂下に生じ、釁は舟中に起き、早く告げんと思えども追う莫く、唯死を請うて獲可せられた。身は南巢の野に棄てられ、首は白旗の上に懸けられ、子孫は勦絶し、宗廟は墟と為った。

開皇の初めを以て、大業の盛時に比すれば、土地の広狭を度り、戸口の衆寡を料り、甲兵の多少を算し、倉廩の虚実を校するに、九鼎を鴻毛に譬うるも、未だ軽重を喩えず、培塿を嵩岱に方うるも、曾て何の等級かあらん!地険を論ずれば遼隧は未だ長江に擬せず、人謀を語れば高句麗は陳国に侔びず。高祖は江南を掃いて以て六合を清め、煬帝は遼東に事えて以て天下を喪う。その故は何ぞや?為す所の迹は同じく、用うる所の心は異なるなり。高祖は北には強胡を却け、南には百越をへいせ、十有余載、戎車屡々動き、民亦労止み、無事に非ざるも然り。然れども其の動くや、以て之を安んぜんと思い、其の労するや、以て之を逸せんと思う。ここを以て民は時雍に致し、師に怨讟無く、誠に愛利に在るが故に、其の興ること勃焉たり。煬帝は承平の基を嗣ぎ、已に安んずる業を守りながら、其の淫放を肆にし、其の民を虐用し、億兆を草芥の如く視、群臣を寇讎の如く顧み、近きを労して遠きに事え、名を求めて実を喪う。兵は魏闕に纏わり、阽危に図る無く、雁門の囲み解けて、慢遊息まず。天其の魄を奪い、人其の災を益し、群盗並び興り、百殃俱に起き、自ら民神の望を絶つが故に、其の亡ぶること忽焉たり。古老に訊ね、其の行事を考うるに、此れ高祖の興る所の由にして、煬帝の滅ぶる所以の者なり。然りと謂わざるべけんや!其の隋の得失存亡は、大較秦に相類す。始皇は六国を并吞し、高祖は九州を統一し、二世は威刑を虐用し、煬帝は猜毒を肆に行い、皆禍は群盗より起り、而して身は匹夫に殞つ。始めを原り終わりを要すれば、符契を合するが若し。

玄感は宰相の子にして、国の重恩を荷い、君の失徳あるに当たり、股肱を竭くすべきなり。未だ身を致すを議せず、先ず鼎を問わんと図り、遂に伊尹・霍光の事を仮り、将に王莽・董卓の心を肆にせんとす。人神共に疾み、敗れて踵を旋らさず、兄弟は葅醢の誅に就き、先人は焚如の酷を受け、亦甚だしからずや!李密は風雲の会に遭い、其の鱗翼を奮い、函谷を封ぜんと思い、鴻溝を割かんと将う。朞月の間、衆数十万、化及を破り、世充を摧き、声四方に動き、威万里に行わる。運天眷に乖き事興王に屈すと雖も、而して義は人謀に協い、雄名克く振い、壮なり!然れども志性軽狡にして、終に顛覆を致し、其の長を度り大を挈くは、抑々陳勝・項羽の季孟たるか。