隋書

巻七十一 列傳第三十六 誠節

『易経』に言う、「聖人の大宝は位という。何をもって位を守るか、仁という」。また言う、「人を立てる道は仁と義という」。しかし士が身を立て名を成すのは、仁義にあるのみである。故に仁の道が遠からざれば、身を殺して仁を成し、義が生よりも重ければ、生を捨てて義を取る。これにより龍逢は夏の癸(桀)に身を投げ、比干は商の辛(紂)に節を尽くし、申蒯は斉の荘公に臂を断ち、弘演は衛の懿公に肝を納む。漢の紀信・欒布、晋の向雄・嵇紹に至るまで、名を立てた士は、皆これに近づかんとした。難に臨んで身を忘れ、危うきを見て命を授くるに至っては、斯文墜ちずといえども、これを行う者は少なく、固より士の重んずる所は、まことにここにあることを知る。内に鉄石の心を懐き、外に霜を凌ぐ節を負わずして、誰が安んじて命の如くし、赴き蹈むこと帰るが如くせんや。皇甫誕らは、擾攘の際に当たり、必死の機を践み、白刃頸に臨むも確乎として抜かず、歳寒の貞柏、疾風の勁草と謂うべく、千載の後も凛々として生けるが如し。ただ伯夷の故事を聞いて懦夫も志を立てるのみならず、将来の君子もまたこれに近づかんことを冀う。故に聞く所を掇採し、『誠節傳』と為す。

劉弘

劉弘、字は仲遠、彭城郡叢亭里の人、魏の太常卿劉芳の孫である。少くして学を好み、行いに慎みがあり、節概を重んじた。斉に仕えて行台郎中、襄城・はい郡・谷陽三郡太守、西楚州刺史を歴任した。斉が滅亡すると、周の武帝は彼を本郡の太守とした。尉遅迥の乱の際、迥はその将席毗を遣わして徐・兗を掠めさせた。弘は兵を率いてこれを拒ぎ、功により儀同・永昌太守・斉州長史に任ぜられた。志は立功にあり、佐職に安んぜず。陳平定の役に際し、上表して従軍を請い、行軍長史として総管吐萬緒に従い江を渡った。功により上儀同を加えられ、濩沢県公に封ぜられ、泉州刺史に拝された。時に高智慧が乱を起こし、兵を以て州を攻めた。弘は城を守ること百余日、救兵至らず。前後出戦し、死者大半に及び、糧尽きて食う所なく、士卒数百人と共に犀の甲や腰帯を煮、また樹皮を剥いでこれを食い、一人も離叛しなかった。賊はその飢餓を知り、降伏させようとしたが、弘は節を抗してますます励んだ。賊は衆を悉くして来攻し、城陥ち、賊のために害せられた。上(文帝)はこれを聞き、久しく嘉歎し、物二千段を賜う。子の長信、その官爵を襲ぐ。

皇甫誕

皇甫誕、字は玄慮、安定郡烏氏県の人である。祖父の和は、魏の膠州刺史。父の璠は、周の隋州刺史。誕は少より剛毅にして、器量と才覚があった。周の畢王(宇文賢)が倉曹参そうしん軍に引き立てた。高祖こうそ(文帝)が禅を受けると、兵部侍郎となった。数年後、出て魯州長史となった。開皇年中、再び入朝して比部・刑部二曹侍郎となり、ともに能名があった。治書侍御史に遷り、朝臣は皆肅然として憚った。上は百姓の流亡が多いことを以て、誕を河南道大使としてこれを検括させた。帰還し、奏事が旨に適い、上は甚だ悦び、大理少卿を判らせた。明年、尚書右丞に遷り、俄かに母憂のため職を去った。喪期満たずして、起用して視事させた。尋いで尚書左丞に転ず。時に漢王諒がへい州総管となり、朝廷は盛んに僚佐を選び、前後の長史・司馬は皆一時の名士であった。上は誕が公正で著名であることを以て、并州総管司馬に拝し、総府の政事を総べ、一切これを諮り、諒は甚だ敬った。煬帝が即位し、諒を征して入朝させようとすると、諒は諮議王頍の謀を用い、兵を発して乱を起こした。誕は数度諫めて止めさせようとしたが、諒は聞き入れなかった。誕は因って涙を流して言う、「窃かに大王の兵資を量るに、京師に敵する者なく、加之君臣の位定まり、逆順の勢殊なるに、士馬精と雖も、勝ちを取るは難し。願わくは王、詔を奉じて入朝し、臣子の節を守らば、必ず松・喬の寿、累代の栄有らん。如し更に遷延せば、身を叛逆に陷れ、一旦刑書に掛からば、布衣の黔首と為るも得べからず。願わくは区区の心を察し、万全の計を思え。敢えて死を以て請う」。諒は怒って彼を囚えた。楊素将到らんとするに及び、諒は清源に屯してこれを拒いだ。諒の主簿豆盧毓が獄より誕を出し、相与に謀を協わせ、城を閉じて諒を拒いだ。諒は襲撃してこれを破り、共に節を抗して害せられた。帝は誕が身を亡ぼして国に殉じたことを以て、久しく嘉悼し、詔を下して曰く、「名節を褒め顕わすは、国の通規、等を加えて終を飾るは、抑々令典なり。并州総管司馬皇甫誕、性理淹く通じ、志懐審正、官に效し務を賛し、声績克く宣ぶ。狂悖禍を構うるに値い、凶威孔だ熾んにして、確かに単誠に殉じ、妖逆に従わず。幽かに寇の手に縶せらるると雖も、雅志ますます厲く、遂に潜かに義徒と与に城を拠りて抗拒す。衆寡敵せず、奄かに非命を致す。柱国を贈り、弘義公に封じ、諡して明と曰うべし」。子の無逸、嗣ぐ。

無逸は尋いで淯陽太守となり、政績甚だ名声有り。『大業令』行わるや、旧爵は例により除かれるが、無逸を誠義の後とし、平輿侯の爵を賜う。入朝して刑部侍郎となり、右武衛将軍を守る。

初め、漢王諒の反するや、州県これに応えざるはなく、嵐州司馬陶模・繁畤県令敬釗有り、並びに節を抗して従わず。

陶模

陶模、京兆の人である。性質明敏にして、器幹有り。仁寿初め、嵐州司馬となる。諒既に乱を起こすや、刺史喬鐘葵兵を発して逆に赴かんとす。模これを拒ぎて曰く、「漢王図る所不軌なり。公は国厚恩を荷い、方伯の位に致る。謂うべくは誠を竭くし命を效して慈造に答うべし。豈に大行皇帝の梓宮未だ掩わざるに、翻って厲階と為らんや」。鐘葵色を失いて曰く、「司馬反するか」。兵を以てこれに臨むも、辞気撓まず、葵は義としてこれを釈す。軍吏進みて曰く、「若し模を斬らざれば、何を以て衆心を圧せん」。ここにおいてこれを獄に囚え、資財を悉く掠め取り、党与に分け賜う。諒平定の後、煬帝これを嘉し、開府を拝し、大興県令を授く。楊玄感の反するや、兵を率いて衛玄に従いこれを撃ち、功により銀青光禄大夫に進み、官に卒す。

敬釗

敬釗、字は積善、河東郡蒲阪県の人である。父の元約は、周の布憲中大夫。釗は仁寿年中に繁畤県令となり、甚だ能名有り。賊至るに及び、力戦するも城陥つ。賊帥墨弼その資産を掠め、兵を以てこれに臨むも、釗の辞気撓まず。弼は義としてこれを止め、偽将喬鐘葵の所に執送す。鐘葵これを釈し、代州総管司馬に署せんとす。釗は正色してこれを拒み、再三に及ぶ。鐘葵忿然として曰く、「官を受くれば則ち可なり、然らずんば当に斬らん」。釗答えて曰く、「忝くも県宰と為り、逆乱に遭逢し、進んでは境を保つ能わず、退きては死節す能わず、辱め已に多し。何ぞ乃ち復た偽官を以て相迫らん。死生は唯命に従う、余は聞く所に非ず」。鐘葵甚だ怒り、釗を熟視して曰く、「卿は死を畏れざるか」。復た将にこれを殺さんとす。会に楊義臣の軍至り、鐘葵遽かに出戦す。因って大敗し、釗遂に免るるを得たり。大業三年、煬帝汾陽宮に避暑す。代州長史柳銓・司馬崔宝山上その状を上る。有司に付して将に褒賞を加えんとす。会に虞世基奏して格止む。後に朝邑県令に遷り、未だ幾ばくもせず、終わる。

遊元

游元、字は楚客、広平郡任県の人、魏の五更(高官)游明根の玄孫である。父の宝蔵は太守の位に至った。元は若くして聡明で、十六歳の時、斉の司徒しと徐顕秀に引き立てられ参軍事となった。周の武帝が斉を平定した後、寿春県令・譙州司馬を歴任し、いずれも有能な名声があった。開皇年間、殿内侍御史となった。晋王広(後の煬帝)が揚州総管となると、元を法曹参軍に任じたが、父の喪で職を去った。後に内直監となった。煬帝が位を継ぐと、尚書度支郎に昇進した。遼東の役では、左ぎょう衛長史を兼任し、蓋牟道の監軍となり、朝請大夫に任ぜられ、治書侍御史を兼ねた。宇文述らの九軍が大敗すると、帝は元にその獄事を審理させた。述は当時貴寵を得ており、その子の士及はまた南陽公主を娶り、朝廷に勢力を傾けていた。述は家僮を元のもとに遣わし、依頼事があった。元は彼に会わなかった。ある日、述を責めて言った、「貴公は親賢の地位にあり、腹心として寄託されている。身を咎め己を責め、以て君に事えることを勧めるべきである。それなのに人を遣わして来らせるとは、何を言おうというのか」。審理をますます急がせ、ついにその状況を弾劾した。帝はその公正さを嘉して、朝服一襲を賜った。九年、黎陽に使いして輸送を監督した時、楊玄感が叛逆を起こし、元に言った、「独夫(煬帝)が暴虐をほしいままにし、天下の士大夫は肝脳を地に塗れ、さらに絶域の地に身を置き、軍糧は断絶している。これも天が滅ぼす時である。我今義兵を親率し、無道を誅伐しようと思うが、卿の考えはどうか」。元は厳しい顔色で答えて言った、「尊公(玄感の父の楊素)は国の寵霊を荷い、功は佐命(創業を助ける)に参じ、高官重禄は近古に比類なく、公の兄弟たちは高官の印綬が交々輝いている。誠を尽くし節を尽くし、大恩に報いるべきである。どうして墳土も乾かぬうちに、みずから反逆を図るなど、深く明公の取らぬところと存じる。禍福の端を思われたい。僕は死ぬのみである。命に従うことはできない」。玄感は怒って彼を囚え、しばしば兵で脅したが、ついに節を屈せず、そこで害した。帝は大いに嘉賞し、銀青光禄大夫を追贈し、縑五百匹を賜った。その子の仁宗を正議大夫・弋陽郡通守に任じた。

馮慈明

馮慈明、字は無佚、信都郡長楽県の人である。父の子琮は斉に仕え、尚書右僕射の官に至った。慈明は斉において、戚属(外戚)の故をもって、十四歳で淮陽王の開府参軍事となった。まもなく司州主簿を補任され、進んで中書舎人に任ぜられた。周の武帝が斉を平定すると、帥都督ととくを授けられた。高祖(文帝)が禅を受けると、三府の官を開き、司空しくう司倉参軍事に任ぜられた。累進して行台礼部侍郎となった。晋王広が并州総管となった時、盛んに僚属を選び、慈明を司士とした。後に吏部員外郎を歴任し、内史舎人を兼ねた。煬帝が即位すると、母の喪で職を去った。帝は慈明が始め藩邸(晋王府)に仕え、後に更に朝廷にいたことを、甚だ恨みに思っており、ここに至って伊吾鎮副に左遷した。赴任しないうちに、交阯郡丞に転じた。大業九年、朝廷に召し入れられた。時に兵部侍郎の斛斯政が高麗に亡奔したので、帝は慈明を見て深く慰労激励した。まもなく尚書兵曹郎に任ぜられ、朝請大夫の位を加えられた。十三年、江都郡丞の事務を代行した。李密が東都を逼迫した時、詔により慈明に瀍・洛の地を安んじ集めること、及び兵を追って密を撃つことを命じた。鄢陵に至り、密の党の崔枢に捕らえられた。密は慈明を座に招き入れ、労い、そこで言った、「隋の運命は既に尽き、天下は沸騰している。我みずから義兵を率い、向かうところ敵なく、東都は危急で、日を数えて陥落せんとしている。今、四方の衆を率いて江都に問罪せんと欲するが、卿はどう思うか」。慈明は答えて言った、「慈明は直道をもって人に事え、死あるのみである。不義の言葉は、敢えて答えない」。密は快く思わず、後に改心することを期待して、礼遇を厚くした。慈明は密かに人を遣わして江都に上表し、また東都留守に書を送り、賊の形勢を論じた。密はその状況を知り、またその義を重んじて釈放した。出て営門に至ると、賊の帥の翟譲が怒って言った、「お前は使いの者として、我らに捕らえられたのに、魏公(李密)は至厚にもてなしたのに、少しも感謝せず、恐れることがあるのか」。慈明は勃然として言った、「天子が私を来らせたのは、正にお前らを除かんがためである。賊党に捕らえられるとは思わなかった。どうして汝らに命乞いをしようか。殺したければ殺せばよい。罵る必要などない」。そこで群賊に言った、「汝らは本来悪心はなく、飢饉のため食を求めてここに至ったのだ。官軍が来たら、早く身の振り方を考えよ」。譲はますます怒り、そこで乱刀で斬り殺した。時に六十八歳。梁郡通守の楊汪が状況を上奏すると、帝は嘆き惜しみ、銀青光禄大夫を追贈した。その二人の子、惇と怦をともに尚書承務郎に任じた。王充が越王侗を主君に推戴すると、重ねて柱国・戸部尚書・昌黎郡公を追贈し、諡して壮武といった。

長子の忱は、先に東都におり、王充が李密を破った時、忱も軍中にいた。そこで奴に父の屍と柩を負わせて東都に送らせ、自身は送らなかった。間もなく、また盛大に花燭をあげて妻を迎えた。当時の論評はこれを醜いとした。

張須陀

張須陀は弘農閿郷の人である。性質剛烈にして勇略あり。弱冠にして史萬歳に従い西爨を討ち、功により儀同を授けられ、物三百段を賜う。煬帝が位を嗣ぐと、漢王諒が并州に乱を起こし、楊素に従いこれを撃ち平らげ、開府を加えられる。大業年間、斉郡丞となる。時に遼東の役が起こり、百姓は失業し、また凶年に属し、穀米の価格が高騰した。須陀は倉を開いて賑給せんとし、官属は皆「詔勅を待つべきであり、擅に与えるべからず」と言った。須陀は「今、帝は遠方におられ、使者を往来させれば必ず年月を費やす。百姓は倒懸の急あり、報せが至るのを待てば、溝壑に委ねられるであろう。我、もしこれにより罪を得るも、死して恨むところなし」と言い、先に倉を開き、後に上状した。帝はこれを知りながら責めなかった。翌年、賊帥王薄が亡命の徒数万人を集結し、郡境を寇掠した。官軍これを撃つも、多く利あらず。須陀は兵を発してこれを拒ぎ、薄は軍を南に引き、転じて魯郡を掠めた。須陀はこれを追跡し、岱山の下に及んだ。薄は驟勝に恃み、備えを設けず。須陀は精鋭を選び、その不意に出でてこれを撃ち、薄の衆は大いに潰え、乗勝して数千級を斬首した。薄は亡散を収め合わせ、一万余人を得て、北へ河を渡らんとした。須陀はこれを追い、臨邑に至り、またこれを破り、五千余級を斬り、六畜を万計獲た。時に天下は平穏な日が久しく、多くは兵に習わず、須陀のみ勇決にして戦に長じた。また撫馭に長け、士卒の心を得、論者は名将と号した。薄はまた北戦し、連ねて豆子䴚の賊孫宣雅・石秪闍・郝孝德等の衆十余万と章丘を攻めた。須陀は舟師を遣わしてその津済を断ち、親しく馬歩二万を率いて襲撃し、大いにこれを破り、賊徒は散走した。既に津梁に至るも、また舟師に拒まれて、前後狼狽し、その家累輜重を獲ること数え切れず、露布をもって聞かせた。帝は大いに悦び、優詔をもって褒揚し、使者に命じてその形容を図画して奏上させた。その年、賊裴長才・石子河等の衆二万が、たちまち城下に至り、兵を縦って大掠した。須陀は兵を集める暇なく、親しく五騎を率いて戦った。賊は競ってこれに赴き、百余重に囲んだ。身に数創を受けながらも、勇気はますます激しかった。城中の兵が至ると、賊は少し退き、須陀は軍を督してまた戦い、長才は敗走した。後数十日、賊帥秦君弘・郭方預等が軍を合わせて北海を囲み、兵鋒は甚だ鋭かった。須陀は官属に「賊は強さを恃み、我が救えぬと思っている。我、今速やかに去れば、これを破ることは必ずである」と言い、そこで精兵を選び、倍道して進んだ。賊は果たして備えなく、撃ち大いにこれを破り、数万級を斬り、輜重三千両を獲た。司隸刺史裴操之が上状し、帝は使者を遣わしてこれを労問した。十年、賊左孝友の衆将十万が、蹲狗山に屯した。須陀は八風営を列ねてこれを逼り、また兵を分けてその要害を扼した。孝友は窘迫し、面縛して降って来た。その党の解象・王良・鄭大彪・李晼等の衆各万計を、須陀は悉く討ち平らげ、威は東夏に振るった。功により斉郡通守に遷り、河南道十二郡黜陟討捕大使を領した。俄かに賊廬明月の衆十余万が、河北を寇掠せんとし、祝阿に次いだ。須陀は邀撃し、数千人を殺した。賊呂明星・帥仁泰・霍小漢等の衆各万余が、済北を擾した。須陀は進軍してこれを撃ち走らせた。尋ねて兵を将いて東郡の賊翟讓を拒ぎ、前後三十余戦し、毎にこれを破り走らせた。滎陽けいよう通守に転ず。時に李密が讓に洛口倉を取るよう説き、讓は須陀を憚り、進まなかった。密がこれを勧め、讓は遂に密と兵を率いて滎陽に逼った。須陀はこれを拒いだ。讓は懼れて退き、須陀はこれに乗じ、北に十余里を逐った。時に李密は先に数千人を林木の間に伏せ、須陀軍を邀撃し、遂に敗績した。密と讓は軍を合わせてこれを囲み、須陀は囲みを潰して出でんとしたが、左右は悉く出でることができず、須陀は馬を躍らせて入りこれを救った。往来すること数四、衆は皆敗散し、乃ち天を仰いで「兵敗ること此の如し、何の面目をもって天子に見えんや」と言い、乃ち馬を下りて戦死した。時に年五十二。その所部の兵は、昼夜号哭し、数日に止まなかった。越王侗は左光禄大夫裴仁基を遣わしてその衆を招撫し、武牢に移鎮させた。帝はその子元備に父の兵を総べさせたが、元備は時に斉郡におり、賊に遇い、遂に行うことができなかった。

楊善會

楊善会は字を敬仁といい、弘農華陰の人である。父の初は、毗陵太守に至った。善会は大業年間に鄃令となり、清正をもって聞こえた。俄かに山東に饑饉があり、百姓が相聚いて盗賊となった。善会は左右数百人を以てこれを逐捕し、往くところ皆克捷した。その後、賊帥張金称が衆数万を率い、県界に屯し、城を屠り邑を剽ぎ、郡県はこれを防ぐことができなかった。善会は率励した所領を以て賊と搏戦し、あるいは日に数合し、毎にその鋒を挫いた。煬帝は将軍段達を遣わして金称を討たせた。善会は達に計を進めたが、達は用いず、軍は遂に敗れた。達は深く善会に謝した。後、また賊と戦い、進止は一にこれを謀り、ここにおいて大いに克った。金称はまた渤海の賊孫宣雅・高士達等の衆数十万を引き、黎陽を破って還り、軍鋒は甚だ盛んだった。善会は勁兵千人を以て邀撃し、これを破り、朝請大夫・清河郡丞に擢げ拝された。金称は稍々屯聚を改め、軽兵を以て冠氏を掠めた。善会は平原通守楊元弘と歩騎数万の衆を率い、その本営を襲った。武賁郎将王辯の軍も至り、金称は冠氏を解き来援し、ここにおいて辯と戦い、利あらず。善会は精鋭五百を選んでこれに赴き、当たる所皆靡き、辯軍はまた振るった。賊は本営に退き守り、諸軍は各々還った。この時、山東は乱を思い、盗賊に従うこと市の如く、郡県は微弱で、陥没相継いだ。賊に抗し得る者は、善会のみであった。前後七百余陣、未だ嘗て負敗せず、毎に衆寡懸殊を恨み、賊を滅ぼすことができなかった。時に太僕楊義臣が金称を討ち、また賊に敗れ、臨清に退き保った。善会の策を取り、頻りに決戦し、賊は乃ち退走した。乗勝して遂にその営を破り、その衆を尽く俘虜にした。金称は数百人を将いて遁逃し、後、漳南に帰り、余党を招集した。善会は追捕してこれを斬り、首を行在所に伝えた。帝は尚方の甲槊弓剣を賜い、清河通守に進拝した。その年、楊義臣に従い漳南の賊帥高士達を斬り、首を江都宮に伝え、帝は詔を下してこれを褒揚した。士達の所部の将竇建德は、自ら長楽王と号し、信都を攻めて来た。臨清の賊王安が兵数千を阻み、建德と相影響した。善会は安を襲ってこれを斬った。建德は既に信都を下し、また清河を擾した。善会は逆にこれを拒いだが、反って敗れ、城に嬰って固守した。賊はこれを四十日囲み、城は陥ち、賊に執われた。建德はこれを釈して礼し、貝州刺史に用いようとした。善会はこれを罵って「老賊何ぞ敢えて国士を擬議せんや。我が力劣りて汝等を擒にすることができぬを恨む。我は豈に汝が屠酤の児輩であろうか、敢えて更に相吏たらんと欲するや」と言った。兵を以てこれに臨んでも、辞気撓まず。建德はなお生かそうとしたが、その部下の請いにより、また終に己の用いざるを知り、ここにおいてこれを害した。清河の士庶は傷痛しまざる者なし。

獨孤盛

獨孤盛は、上柱國獨孤楷の弟である。性質剛烈にして、膽氣有り。煬帝が藩王たる時、盛は左右として従い、累遷して車騎將軍となった。帝が位を嗣ぐに及んで、藩邸の旧臣として、次第に親しく遇せられ、累轉して右屯衛將軍となった。宇文化及の乱を起こすに当たり、裴虔通が兵を率いて成象殿に至ると、宿衛の者は皆武器を捨てて逃げた。盛は虔通に謂いて曰く、「何たる兵ぞ、形勢甚だ異なり」と。虔通曰く、「事勢已に然り、將軍の事に預からず。將軍慎んで動くなかれ」と。盛大いに罵って曰く、「老賊、是れ何たる言ぞ」と。甲を着するに及ばず、左右十余人と共に逆らって拒ぎ、乱兵に殺された。越王侗が称制すると、光禄大夫・紀国公を追贈し、諡して武節と曰う。

元文都

元文都は、洵陽公元孝矩の兄の子である。父は孝則、周の小冢宰・江陵総管。文都は性質鯁直にして、明辯にして器幹有り。周に仕えて右侍上士となる。開皇初め、内史舍人を授かり、庫部・考功の二曹郎を歴任し、共に能名有り。抜擢されて尚書左丞となり、転じて太府少卿となる。煬帝が位を嗣ぐと、司農少卿・司隸大夫に転じ、尋ねて御史大夫に拝せられるも、事に坐して免ぜられる。未だ幾ばくもせず、太府卿を授かり、帝次第に之を任用し、甚だ当時の誉れ有り。大業十三年、帝が江都宮に幸すに当たり、詔して文都を段達・皇甫無逸・韋津等と共に東都留守と為す。帝崩ずるに及んで、文都は達・津等と共に越王侗を推して帝と為す。侗は文都を内史令・開府儀同三司・光禄大夫・左驍衛大将軍・摂右翊衛将軍・魯国公に署す。既にして宇文化及が秦王浩を立てて帝と為し、兵を擁して彭城に至り、所在響震す。文都は侗を諷して使者を李密に通わしむ。密は是に於いて降伏を請い、因って官爵を授け、其の使を礼すること甚だ厚し。王充は悦ばず、因って文都と隙有り。文都之を知り、密かに充を誅するの計有り。侗復た文都に御史大夫を領せしめんとすれども、充固く執して止む。盧楚、文都に説いて曰く、「王充は外軍の一将に過ぎず、元より留守の徒に非ず、何ぞ吾が事に預かるを得んや。且つ洛口の敗は、罪誅に容れず、今者敢えて跋扈を懐き、時政を宰製す。此れを除かざれば、方に国患と為らん」と。文都之を然りとし、遂に奏を懐いて殿に入る。事発せんとするに臨み、人有りて以て充に告ぐ。充時に朝堂に在り、懼れて馳せ還り含嘉城に至り、乱を謀る。文都頻りに呼び遣わすも、充は疾を称して赴かず。夜に至って乱を起こし、東太陽門を攻めて入り、紫微観の下に拝す。侗、人を遣わして之に謂いて曰く、「何を為す者ぞ」と。充曰く、「元文都・盧楚謀りて相殺害せんとす。文都を斬り、罪を司寇に帰せんことを請う」と。侗、兵勢次第に盛んなるを見、度り終に免れ難しと、文都に謂いて曰く、「公自ら王将軍に見ゆべし」と。文都遷延して泣き、侗は其の署将軍黄桃樹に文都を執らしめて出ださしむ。文都顧みて侗に謂いて曰く、「臣今朝亡びなば、陛下も亦た夕べに及ばん」と。侗慟哭して之を遣わし、左右憫み默する者無し。出でて興教門に至り、充は左右に令して乱れ斬らしむ。諸子並びに害せらる。

盧楚

盧楚は、涿郡范陽の人である。祖は景祚、魏の司空掾。楚は少にして才学有り、鯁急にして口吃、言語澀難。大業中、尚書右司郎となり、当朝正色、甚だ公卿の憚る所と為る。帝が江都に幸すに及び、東都の官僚多く法を奉ぜず、楚は毎に糾挙を存し、回避する所無し。越王侗が尊号を称すと、楚を内史令・左備身将軍・摂尚書左丞・右光禄大夫と為し、涿郡公に封じ、元文都等と同心戮力して幼主を輔く。王充の乱を起こすに及び、兵太陽門を攻むるに、武衛将軍皇甫無逸は関を斬って難を逃れ、楚を呼びて共に去らんとす。楚之に謂いて曰く、「僕は元公と約有り、若し社稷に難有らば、誓って以て俱に死せん。今捨て去るは不義なり」と。兵入るに及び、楚は太官署に匿る。賊党之を執り、充の所に送る。充奮袂して令して之を斬らしむ。是に於いて鋒刃交下し、肢體糜碎す。

劉子翊

劉子翊は、彭城叢亭里の人である。父は徧、齊の徐州司馬。子翊は少にして学を好み、頗る文を属するに解し、性質剛謇、吏幹有り。齊に仕えて殿中將軍。開皇初め、南和丞となり、累轉して秦州司法参軍事。十八年、考功に入り、尚書右僕射楊素之を見て異とし、奏して侍御史と為す。時に永寧令李公孝は四歳にして母を喪い、九歳にして外継し、其の後父更に別に後妻を娶る。是に至って亡ぶ。河間劉炫は撫育の恩無しとして、解任せざるを議す。子翊之を駁して曰く、

《伝》に云う、「継母は母の如く、母と同し」と。当に父に配するの尊を以てし、母の位に居り、斉杖の制、皆親母の如し。又「人後に為る者は、其の父母に期す」。期を報ずるは、自ら本生を以てす。親と継とを殊にするに非ざるなり。父は自ら傍尊の地に処すと雖も、子の情に於いて、猶須らく其の本重を隆くす。是を以て令に雲う、「人後に為る者は、其の父母に並びに官を解き、其の心喪を申ぶ。父卒し母嫁ぐは、父後に為る者は服せざると雖も、亦た心喪を申ぶ。其の継母嫁ぐは官を解かず」と。此れ専ら嫁ぐ者に拠りて文を生ずるのみ。将に知るべし、継母父の室に在れば、則ち制親母に同じ。若し撫育の恩無しと謂わば、之を行路に同じくせば、何の服か之有らんや。服既に之を有せば、心喪焉ぞ独り異ならん。三省の令旨、其の義甚だ明らかなり。今言う、令は解かざるを許すと、何ぞ其れ甚だ謬れるや。且つ後人たる者は其の父母に期す。未だ親と継とを以て隔てを変うる無し。親と継既に等しければ、故に知る、心喪殊ならざるを。《服問》に雲う、「母出ずれば則ち継母の党に服す」と。豈に出母は族絶し、推して之を遠くし、継母は父に配し、引いて之を親しむるに非ずや。子思曰く、「伋の為に妻と為るは、是れ白の為に母と為るなり。伋の為に妻と為る有りて、是れ白の為に母と為らざるは無し」と。定めて知る、服は名を以て重くし、情は父親に因る。是を以て聖人は之を孝慈に敦くし、之を名義に弘む。是れ子をして名を以て服せしめ、親母に同じくし、継をして義を以て報ぜしめ、己が生に等しくせしむ。若し継母の来るを、子の出づる後に在りと謂わば、制に浅深有りとす。之を経伝に考うるも、未だ其の文を見ず。譬えば出後たる人、後とする者初めて亡び、後とする者始めて至る。此れ復た以て撫育の恩無しとして重きを服せざるを得んや。昔、長沙人王毖、漢末に上計として京師に詣る。既にして呉・魏隔絶し、毖は内国に於いて更に娶り、子昌を生む。毖死後に東平相と為り、始めて呉の母の亡びたるを知り、便ち情居重に系り、職事を摂せず。時に議する者、以て非と為さず。然らば則ち継母と前母とは、情に別無し。若し要以て撫育始めて生ずるを以て服制と為さば、王昌復た何をか足らんと云わん。又、晉の鎮南将軍羊祜に子無く、弟子伊を取って子と為す。祜薨ずるに、伊重きを服せず。祜の妻表して聞こゆ。伊辞して曰く、「伯父生存して己を養う。伊敢えて違わず。然れども父の命無し。故に本生に還る」と。尚書彭権議して曰く、「子の出養するは、必ず父の命に由る。命無くして出づるは、是れ叛子なり」と。是に於いて詔を下して之に従う。然らば則ち心服の制は、恩を縁りて生ずるを得ず。

論に云う、「礼とは情に称して文を立て、義に仗りて教を設く」と。還ってこの義をもって、彼の情を諭す。情に称するとは、母の如き情に称することをいい、義に仗るとは、子たるの義に仗ることをいう。名義が分定して、然る後に能く父を尊び名に順い、礼を崇め敬を篤くする。苟くも母の養育の恩をもって始めて母子と成すとすれば、則ち恩は彼より至り、服は自ら来る。則ち慈母は母の如し、何ぞ父の命を待たん。又云う、「継母・慈母は、本実は路人なり、己に臨み己を養う、骨血に同じし」と。若し斯くの如き言ならば、子は父によらず、縦え恩育有るとも、母の如くを得んや。其の慈母・継母は三年の下に在りと雖も、而も斉期の上に居す。礼には倫例有り、服は情に称す。継母は本より名を以て服す、豈に恩の厚薄を藉りんや。兄弟の子に至っては猶子なり、私昵の心は実に殊なるも、礼の服の制に二無し。彼の「以」て軽きを「如」く重しと言うは、自ら以て同じからざるをいう。此れ重きに如しの辞を謂うは、即ち重き法に同じし。若し軽重等しからずんば、何ぞ「如」と為すを得ん。律に云う「枉法に准ず」とは、但だ其の罪を准擬するのみ。「枉法を以て論ず」とは、即ち真の法に同じし。律は刑を弊うに以てし、礼は教を設くに以てす。准とは准擬の名、以とは即真の称なり。「如」「以」の二字、義用殊ならず、礼律両文、防ぐ所は一なり。此れを以て彼を明らかにすれば、足りて其の義を見る。譬えを取るに柯を伐つが如し、何ぞ遠からんや。

又論に云う、「子を取って後と為すは、将に以て祧廟を供承し、己身を奉養せんとす。宗子をして其の故宅に帰り、子の道を以て本父の後妻に事えしむるを得ず」と。然れども本父の後妻は、父に因りて母の称を得る。若し来旨の如くならば、本父も亦心喪無き可きか。何ぞ直ちに父の後妻のみならん。論は又云う、「礼に旧君と言う、其の尊豈に復た君たるや。已に其の位を去り、復た純臣に非ず、須らく『旧』を言いて以て之を殊にす。別に重んずる所有り、復た純孝に非ず、故に『其』を言いて已に之を見る。目を其の父の文に以てするは、是れ名異なり」と。此れ又通論に非ず。何を以て之を言うや。「其」と「旧」とは訓殊なり、用いる所も亦別なり。旧とは新に易わるの称、其とは彼に因るの辞、安んぞ以て相類せんことを得ん。至りて《礼》に云う「其の父薪を析き、其の子負荷を克くせず」。《伝》に云う「衛は小なりと雖も、其の君焉に在り」と。若し其の父に異有りとせば、其の君復た異有らんや。斯れ然らず、斯れ然らず。今炫、敢えて礼に違い令に乖き、聖を侮り法を幹み、出でて後としたる子をして、本生に情無からしめ、名義の分、風俗に虧き有らしむ。非を明世に飾りて徇い、強いて礼経に媒蘖せんとす。己を揚げ才を露わさんと欲すと雖も、言の理を傷うるを覚えず。

事が奏上され、竟に子翊の議に従う。仁寿年中、新豊令となり、能名有り。大業三年、大理正を除かれ、当時の誉れ甚だ有り。治書侍御史に擢げ授けられ、朝廷に疑議有る毎に、子翊之を為に弁析し、多く眾人の意表に出づ。江都に従駕す。天下大乱に値う。帝猶悟らず、子翊侍するに因り切に諫め、是に由りて旨に忤う。子翊をして丹陽留守と為さしむ。尋いで上江に遣わして運を督めしむ。賊の呉棋子の虜と為る。子翊之を説き、因りて衆を以て首す。復た首賊を遣わして江を清めしむ。煬帝の殺されたるに遇う。賊知りて之を告ぐ。子翊信ぜず、言う所の者を斬る。賊又請うて以て主と為さんと欲す。子翊従わず。群賊子翊を執りて臨川城下に至り、城中に告げしめて、「帝已に崩ず」と云わしむ。子翊其の言を反す。是に於いて害せらる。時に年七十。

堯君素

堯君素は、魏郡湯陰の人なり。煬帝が晉王たりし時、君素は左右として従う。及び位を嗣ぎ、累遷して鷹撃郎将となる。大業の末、盗賊蜂起し、人多く流亡す。君素の所部独り全し。後に驍衛大將軍屈突通に従い、義兵を河東に拒ぐ。俄にして通兵を引きて南に遁る。君素に胆略有るを以て、河東通守を領するを署す。義師、将の呂紹宗・韋義節等を遣わして之を攻むるも、克たず。及び通の軍敗れ、城下に至りて之を呼ぶ。君素通を見て、歔欷流涕し、悲しみ自ら勝えず。左右皆哽咽す。通も亦泣き下り衿に沾う。因りて君素に謂いて曰く、「吾が軍已に敗る。義旗の指す所、応えざる莫し。事勢斯くの如し。卿は早く降るべく、以て富貴を取るべし」と。君素答えて曰く、「公は爪牙の寄を当て、国の大臣と為る。主上は公に関中を委ね、代王は公に社稷を付す。国祚の隆替、公に懸かる。奈何ぞ報効を思わず、以て此に至る。縦え遠く主上に慚じざるとも、公の乗る所の馬は、即ち代王の賜う所なり。公何の面目有って之に乗るや」と。通曰く、「籲、君素、我力屈して来る」と。君素曰く、「方今力猶未だ屈せず、何を以て多く言わん」と。通慚じて退く。時に囲み甚だ急なり。行李断絶す。君素乃ち木鵝を為り、表を頸に置き、具に事勢を論じ、之を黄河に浮かべ、流れに沿いて下る。河陽の守者之を得て、東都に達す。越王侗之を見て歎息し、是に於いて制を承けて君素を金紫光禄大夫に拝し、密かに行人を遣わして労苦す。監門直閣の龐玉・武衛將軍の皇甫無逸、前後東都より義に帰し、俱に城下に造り、利害を陳ぶ。大唐又金券を賜い、死せずして待つ。君素終に降心無し。其の妻又城下に至りて之に謂いて曰く、「隋室已に亡ぶ。天命属する所有り。君何ぞ自ら苦しみ、身を取って禍敗せん」と。君素曰く、「天下の事は婦人の知る所に非ず」と。弓を引いて之を射れば、弦に応じて倒る。君素亦事必ず済まざるを知る。然れども要は死を守りて易えざるに在り。毎に国家に言及すれば、未だ嘗て歔欷せざること無し。嘗て将士に謂いて曰く、「吾は籓邸の旧臣、累ね獎擢を蒙る。大義に至っては、死せざるを得ず。今穀数年に支う。此の穀を食い尽くせば、足りて天下の事を知る。必ずや隋室傾敗し、天命帰する所有らば、吾当に頭を断ちて以て諸君に付せん」と。時に百姓隋に苦しむこと日久しく、及び義挙に逢い、人に息肩の望み有り。然れども君素統領に善く、下叛く能わず。歳余、頗る外の生口を得、城中微かに江都の傾覆を知る。又糧食乏絶し、人聊かに生く能わず。男女相食う。衆心離駭す。白虹府門に降り、兵器の端、夜皆光見す。月余、君素左右の害する所と為る。

陳孝意

河東の陳孝意は、幼少より志操高く、弱冠にして貞介をもって知られた。大業初年、魯郡の司法書佐となり、郡内で廉平と称された。太守の蘇威がかつて一人の囚人を殺そうとしたとき、孝意は固く諫め、再三に及んだが、威は許さなかった。孝意はそこで衣を解き、先に死を受けたいと請うた。しばらくして、威の心はようやく解け、謝罪して彼を帰した。次第に礼遇を加えるようになった。蘇威が納言となると、孝意を侍御史に奏挙した。後に父の喪のため官を去り、喪に服する礼を過ごし、白鹿がその廬に馴れ従うことがあり、当時の人は孝の感応と見なした。喪期が終わらないうちに、起用されて雁門郡丞に任じられた。郡にあっては菜食斎居し、朝夕に哀悼し、声を発するごとに必ず倒れんばかりに慟哭し、やせ衰えて骨ばかりとなり、見る者は哀れんだ。当時、政刑は日々乱れ、長吏の多くは貪汙していたが、孝意の清節はますます厳しく、奸を発し伏を擿き、動くこと神の如く、吏民はこれを称えた。煬帝が江都に幸すると、馬邑の劉武周が太守王仁恭を殺し、兵を挙げて乱を起こした。孝意は兵を率いて武賁郎将王智辯とともにこれを討ち、下館城で戦ったが、かえって敗れた。武周はそこで傍らの郡を転攻し、百姓は騒然として、叛逆を抱かんとしていた。前の郡丞楊長仁、雁門令王確らは、ともに桀黠で、無頼の徒が帰するところとなり、武周に応じようと謀った。孝意は密かにこれを知り、その家を族滅したので、郡中は戦慄し、敢えて異志を抱く者はいなかった。やがて武周が兵を引いて来攻したが、孝意はこれを防ぎ、しばしば勝利を得た。しかし孤城を独り守り、外に声援なく、孝意は志を固くし、必死を誓った。たびたび江都に使者を遣わしたが、道路は隔絶し、ついに返答はなかった。孝意もまた帝が必ず帰還されぬことを知りながら、毎朝夕に詔勅庫に向かって俯伏し流涕し、その悲しみは左右を動かした。城は百余日包囲され、糧食が尽き、校尉こうい張倫に殺され、城は武周に帰した。

張季珣

京兆の張季珣、父の祥は、若くして高祖に知られ、その後丞相参軍事に引き抜かれた。開皇年間、累遷して并州司馬となった。仁寿末年、漢王諒が兵を挙げて反し、その将劉建に命じて燕・趙の地を攻略させた。井陘に至ると、祥は兵を率いて防ぎ守り、建がこれを攻め、また郭下に火を放って焼いた。祥は百姓の驚き恐れるのを見て、その城の側に西王母廟があったので、祥は城に登ってこれを望み再拝し、号泣して言うには、「百姓に何の罪があって、このような焚焼に至るのか。神霊に霊験あらば、雨を降らせて救ってほしい」と。言い終わると、廟の上に雲が湧き、たちまち驟雨となり、その火は遂に消えた。士卒はその至誠に感じ、命を惜しまぬ者はなかった。城は一月余り包囲されたが、李雄の援軍が至り、賊は遂に退走した。功により開府を授かり、汝州刺史・霊武太守を歴任し、都水監として入朝し、官のまま卒した。季珣は若くして慷慨し志節があった。大業末年、鷹撃郎将となり、その府は箕山に拠って堅固とし、洛口と連なっていた。李密・翟譲が倉城を攻め落とすと、人を遣わして呼びかけた。季珣は密を口を極めて罵ったので、密は怒り、兵を遣わして攻めたが、連年しても陥とせなかった。当時、密の軍勢数十万がその城下にあり、季珣は四方を阻絶され、率いるものは数百人に過ぎなかったが、志を固くし、必死を誓った。三年を経て、物資は尽き、薪も得られず、屋を撤して炊き、人々は皆穴居したが、季珣が慰撫巡視するので、一人も離叛しなかった。糧食が尽き、士卒は疲弊病んで戦うことができず、遂に陥落した。季珣は聴事に坐し、顔色自若としており、密は兵を遣わし捕らえて送らせた。賊の群れは季珣を引きずって密に拝させようとしたが、季珣は言う、「我は敗軍の将とはいえ、なお天子の爪牙の臣である。どうして賊に拝することがあろうか」と。密はその壮挙を称えて釈放した。翟譲が彼に金を求めたが得られず、遂に殺した。時に二十八歳であった。

その弟の仲琰は、大業末年、上洛令となった。義兵が起こると、吏民を率いて城を守ったが、部下に殺されて義軍に帰した。仲琰の弟の琮は、千牛左右となり、宇文化及の乱に遇って害された。季珣の家は元来忠烈で、兄弟ともに国の難に死し、論ずる者はこれを賢とした。

松贇

北海の松贇は、性質剛烈で、名義を重んじ、石門府の隊正となった。大業末年、賊の楊厚が徒党を擁して乱を起こし、北海県を攻めてきたので、贇は郡兵に従ってこれを討った。贇は軽騎で賊を偵察し、厚に捕らえられた。厚は贇に城中に向かって言わせようとした。郡兵はすでに破られた、早く降伏すべきだと。贇は偽って承諾した。城下に至ると、大声で呼んで言うには、「我は松贇なり。官軍のために賊を偵察し、偶然にも捕らえられたが、力尽きたのではない。今、官軍が大挙して来り、すでに至っている。賊徒は寡弱で、旦夕のうちに擒え滅ぼされるであろう。憂うるに足らぬ」と。賊は刀で贇の口を突き、引きずって去り、殴り打ち交々に下した。贇は厚を罵って言うには、「老賊、どうして賢良を辱しめようとするのか。禍は自らに及ぶであろう」と。言い終わらぬうちに、賊はすでにその腰を斬り断った。城中からこれを見て、流涕し扼腕せぬ者はなく、鋭気はますます倍加した。北海はついに完守した。煬帝は戸曹郎郭子賤を遣わして厚を討たせ、これを破った。贇が身を亡ぼして節に殉じたことを、嗟悼してやまず、上表して奏した。優詔をもって褒揚し、朝散大夫・本郡通守を追贈した。

史評

史臣曰く、古人は天下を至大とし、身を比べれば小さく、生を重しとし、義に比べれば軽しとした。されば死は泰山より重く、生は理をもって全うするものあり、生は鴻毛より軽く、死は義と合するものあり。されど死は追うべからず、生は再び得ることなし。故に節を失わずに処すること、これが難しい所以である。楊諒・玄感・李密は反形すでに成り、凶威まさに熾んであるときに、皇甫誕・游元・馮慈明は危険に臨んで顧みず、死を帰するが如く視た。義に蹈む勇ある者と言えよう。獨孤盛・元文都・盧楚・堯君素は、天の廃する所、人興す能わざるを知らなかったわけではないが、甘んじて菹醢の誅に就き、忠貞の節に殉じた。功は未だ社稷に存せず、力は顛危を救うこと無くとも、かの苟免の徒を見るに、三光を貫き九泉を洞くものである。須陀・善会は温序の風あり、子翊・松贇は解揚の烈を蹈んだ。国家昏乱に忠臣あり、誠にこの言なるかな。