隋書

巻069

卷第六十九 列傳第三十四 王劭 袁充

卷第六十九 列傳第三十四 王劭 袁充

原文卷六十九列傳第三十四 王劭 袁充 ► 楊玄感 李子雄 趙元淑 斛斯政 劉元進 李密 裴仁基

王劭

原文王劭

王劭、字あざなは君懋、太原郡晉陽県の人である。父は松年、北斉の通直散騎侍郎であった。劭は若くして沈黙寡言で、読書を好んだ。弱冠にして、北斉の尚書僕射ぼくや魏収が開府軍事に辟召し、累進して太子舎人となり、文林館に待詔した。時に祖孝徴・魏収・陽休之らが古事を論じ、忘れたことがあり、探し調べても得られなかったので、劭を呼んで尋ねた。劭はその出典を詳しく論じ、書物を取って検証すると、少しも誤りがなかった。ここにおいて大いに当時の人々に認められ、その博識を称えられた。後に中書舎人に遷った。北斉が滅ぶと、北周に入ったが、官職を得られなかった。

原文王劭字君懋,太原晉陽人也。父松年,齊通直散騎侍郎。劭少沈默,好讀書。弱冠,齊尚書僕射魏收辟參開府軍事,累遷太子舍人,待詔文林館。時祖孝徵、魏收、陽休之等嘗論古事,有所遺忘,討閱不能得,因呼劭問之。劭具論所出,取書驗之,一無舛誤。自是大為時人所許,稱其博物。後遷中書舍人。齊滅,入周,不得調。

高祖こうそ(文帝ぶんてい)が禅譲を受けると、著作佐郎に任じられた。母の喪のため職を去り、家で斉書を著述した。当時、私的に史書を撰することを禁ずる制があり、内史侍郎李元操に奏上された。上(文帝)は怒り、使者を遣わしてその書を没収したが、閲覧して喜んだ。ここにおいて員外散騎侍郎に起用し、起居注を修撰させた。劭は、古に鑽燧改火の義があったが、近代では廃絶しているとして、上表して火を変えることを請い、言うには、「臣が謹んで案ずるに、周官に、四時に火を変えて、時疾を救うとある。火を数えずに変えなければ、時疾必ず興ると明らかである。聖人が法を作るのは、徒然なことであろうか。晋の時、洛陽らくようの火を江を渡らせた者がおり、代々これを奉じ、相続して絶えず、火の色は青に変わった。昔、師曠が飯を食べて、これは労薪で炊いたものだと言った。晋の平公が視させると、果たして車の輞であった。今、酒を温め肉を炙るのに、石炭・柴火・竹火・草火・麻荄火を用いるが、気味がそれぞれ同じではない。これをもって推すに、新火と旧火は、理に応じて異なるべきである。伏して願わくは、遠く先聖に遵い、五時に五木を取って火を変えられたい。用いる功は甚だ少なく、救う益は大きい。たとえ百姓が習い久しく、直ちに同じくすることができなくとも、尚食内厨及び東宮の諸主食厨は、古法に依らざるべからず」。上はこれに従った。劭はまた、上に龍顔戴干の表があると言い、群臣に指示した。上は大いに喜び、物数百段を賜った。著作郎ちょさくろうに任じられた。劭は上表して符命について言上した。

原文高祖受禪,授著作佐郎。以母憂去職,在家著齊書。時制禁私撰史,為內史侍郎李元操所奏。上怒,遣使收其書,覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎,修起居注。劭以古有鑽燧改火之義,近代廢絕,於是上表請變火,曰:「臣謹案周官,四時變火,以救時疾。明火不數變,時疾必興。聖人作法,豈徒然也!在晉時,有以洛陽火渡江者,代代事之,相續不滅,火色變青。昔師曠食飯,云是勞薪所爨。晉平公使視之,果然車輞。今溫酒及炙肉,用石炭、柴火、竹火、草火、麻荄火,氣味各不同。以此推之,新火舊火,理應有異。伏願遠遵先聖,於五時取五木以變火,用功甚少,救益方大。縱使百姓習久,未能頓同,尚食內厨及東宮諸主食厨,不可不依古法。」上從之。劭又言上有龍顏戴干之表,指示羣臣。上大悅,賜物數百段。拜著作郎。劭上表言符命曰:

上はこれを見て大いに喜び、物五百段を賜った。

原文上覽之大悅,賜物五百段。

間もなく、劭はまた上書して言った。

原文未幾,劭復上書曰:

上は大いに喜び、劭を至誠の者とし、寵愛と賜物は日に日に盛んになった。

原文上大悅,以劭為至誠,寵錫日隆。

時に黄鳳泉で浴した者が、二つの白石を得て、頗る文理があり、そこでその文を付会して文字とし、また諸々の物象があると言って上奏した。「その大なる玉には日月星辰、八卦五岳、及び二麟双鳳、青龍朱雀、騶𩦢玄武があり、各々その方位に当たる。また五行・十日・十二辰の名があり、凡そ二十七字である。また『天門地戸人門鬼門閉』の九字がある。また却非及び二鳥があり、その鳥は皆人面で、則ち抱朴子の所謂『千秋万歳』である。その小なる玉にも五嶽・却非・虯・犀の象がある。二つの玉には共に仙人玉女が雲に乗り鶴を操る象がある。別に異なる状の諸神があり、尽く識別できないが、蓋し風伯・雨師・山精・海若の類である。また天皇大帝・皇帝及び四帝坐、鉤陳・北斗・三公・天将軍・土司空しくう・老人・天倉・南河・北河・五星・二十八宿があり、凡そ四十五官である。諸々の字は本来行伍はないが、然し往往に対をなしている。大玉には則ち皇帝の姓名があり、並びに南面に臨み、日字と正しく鼎の足の如し。また老人星があり、蓋し南面して日を象り長寿であることを明らかにする。皇后の二字は西にあり、上に月の形があり、蓋し月を象ることを明らかにする。次玉には則ち皇帝の名と九千字が次比し、両つの『楊』字と『万年』字が次比し、『隋』と『吉』字が正しく並び、蓋し長久吉慶であることを明らかにする」。劭はまたその字を廻互し、詩二百八十篇を作って奏上した。上は誠実と認め、帛千匹を賜った。劭はここにおいて民間の歌謡を採り、図書讖緯を引き、符命に依拠し、仏経を捃摭して、皇隋霊感誌三十巻を撰び、奏上した。上は天下に宣示することを命じ、劭は諸州の朝集使を集め、手を洗い香を焚き、目を閉じてこれを読み、その声を曲折させ、歌詠の如くであった。十日余りを経て、遍くした後に罷めた。上は益々喜び、賞賜は優厚であった。

原文時有人於黃鳳泉浴,得二白石,頗有文理,遂附致其文以為字,復言有諸物象而上奏曰:「其大玉有日月星辰,八卦五岳,及二麟雙鳳,青龍朱雀,騶𩦢玄武,各當其方位。又有五行、十日、十二辰之名,凡二十七字。又有『天門地戶人門鬼門閉』九字。又有却非及二鳥,其鳥皆人面,則抱朴子所謂『千秋萬歲』也。其小玉亦有五嶽、却非、虯、犀之象。二玉俱有仙人玉女乘雲控鶴之象。別有異狀諸神,不可盡識,蓋是風伯、雨師、山精、海若之類。又有天皇大帝、皇帝及四帝坐,鉤陳、北斗、三公、天將軍、土司空、老人、天倉、南河、北河、五星、二十八宿,凡四十五官。諸字本無行伍,然往往偶對。於大玉則有皇帝姓名,並臨南面,與日字正鼎足。復有老人星,蓋明南面象日而長壽也。皇后二字在西,上有月形,蓋明象月也。於次玉則皇帝名與九千字次比,兩『楊』字與『萬年』字次比,『隋』與『吉』字正並,蓋明長久吉慶也。」劭復廻互其字,作詩二百八十篇奏之。上以為誠,賜帛千匹。劭於是採民間歌謠,引圖書讖緯,依約符命,捃摭佛經,撰為皇隋靈感誌,合三十卷,奏之。上令宣示天下,劭集諸州朝集使,洗手焚香,閉目而讀之,曲折其聲,有如歌詠。經涉旬朔,徧而後罷。上益喜,賞賜優洽。

仁寿じんじゅ年間、文献皇后が崩御すると、劭はまた上言して言った。「仏説に、人は応に天上に生まれ、及び上品上生無量寿国する時、天仏は大光明を放ち、香華妓楽をもって来迎するとある。如来は明星の出る時に涅槃に入った。伏して惟うに、大行皇后は聖徳仁慈、福善禎符、諸々の秘記に備わり、皆妙善菩薩であるという。臣が謹んで案ずるに、八月二十二日、仁寿宮内に再び金銀の花が降った。二十三日、大宝殿の後に夜に神光があった。二十四日卯の刻、永安宮の北に自然に種々の音楽があり、虚空に満ち震えた。夜五更の中に、奄然として寐るが如く、便ち即ち升遐した。経文の説くところと、事皆符験する。臣がまた愚意をもって考えるに、皇后が遷化されたのが、仁寿宮・大興宮でないのは、蓋し至尊の常に居する正処を避けたのである。永安宮であるのは、京師の永安門を象り、平生出入りされた所である。后が升遐して後二日、苑内に夜に鐘声三百余処あり、これは生天の応、顕然である」。上はこれを見て、悲しみ且つ喜んだ。

原文仁壽中,文獻皇后崩,劭復上言曰:「佛說人應生天上,及上品上生無量壽國之時,天佛放大光明,以香花妓樂來迎之。如來以明星出時入涅槃。伏惟大行皇后聖德仁慈,福善禎符,備諸祕記,皆云是妙善菩薩。臣謹案:八月二十二日,仁壽宮內再雨金銀之花。二十三日,大寶殿後夜有神光。二十四日卯時,永安宮北有自然種種音樂,震滿虛空。至夜五更中,奄然如寐,便即升遐,與經文所說,事皆符驗。臣又以愚意思之,皇后遷化,不在仁壽、大興宮者,蓋避至尊常居正處也。在永安宮者,象京師之永安門,平生所出入也。后升遐後二日,苑內夜有鍾聲三百餘處,此則生天之應顯然也。」上覽而且悲且喜。

時に蜀王秀が罪により廃されると、上は顧みて劭に言った。「ああ、吾に五子あり、三子は不才である」。劭が進み出て言った。「古より聖帝明王は、皆不肖の子を移すことができなかった。黄帝には二十五子あり、同姓なる者は二人、余は各々徳を異にした。堯には十子、舜には九子あり、皆不肖であった。夏には五観あり、周には三監があった」。上はその言を然りとした。その後、上は高山こうざんに登りたいが登れない夢を見、崔彭が脚を捧げ、李盛が肘を扶けて登ることができ、そこで彭に言った。「死生は当に爾と倶にすべし」。劭は言った。「この夢は大吉である。高山に上るとは、高く崇く大いに安らかで、永く山の如きことを明らかにする。彭は彭祖の如く、李は李老の如く、二人が扶侍するは、実に長寿の徴である」。上はこれを聞き、喜びが顔色に現れた。その年、上は崩御した。間もなく、崔彭も卒した。

原文時蜀王秀以罪廢,上顧謂劭曰:「嗟乎!吾有五子,三子不才。」劭進曰:「自古聖帝明王,皆不能移不肖之子。黃帝有二十五子,同姓者二,餘各異德。堯十子,舜九子,皆不肖。夏有五觀,周有三監。」上然其言。其後上夢欲上高山而不能得,崔彭捧脚,李盛扶肘得上,因謂彭曰:「死生當與爾俱。」劭曰:「此夢大吉。上高山者,明高崇大安,永如山也。彭猶彭祖,李猶李老,二人扶侍,實為長壽之徵。」上聞之,喜見容色。其年,上崩。未幾,崔彭亦卒。

煬帝ようだいが位を嗣ぐと、漢王諒が乱を起こしたが、帝は誅するに忍びなかった。劭は上書して言った。「臣聞く、黄帝が炎帝を滅ぼしたのは、蓋し母弟なり、周公が管叔を誅したのは、信に天倫なり。叔向が叔魚を戮し、仲尼これを遺直と謂い、石碏が石厚を殺し、丘明これをもって大義と為す。これらは皆経籍の明文、帝王の常法である。今、陛下がこの逆賊を置かれるのは、前聖を度越たくえつし、含弘寛大、未だ以て天下に謝する所なし。謹んで案ずるに、賊諒は生民に毒を被らせる者である。ここに知る、古者は徳を同じくすれば則ち姓を同じくし、徳を異にすれば則ち姓を異にする。故に黄帝に二十五子あり、その姓を得る者十有四人、唯だ青陽・夷鼓のみ、黄帝とともに姫姓である。諒は既に自ら絶ったので、その氏を改められたい」。劭はこれをもって媚びを求めたが、帝は依違して従わなかった。秘書少監に遷り、数年して、官で卒した。

原文煬帝嗣位,漢王諒作亂,帝不忍加誅。劭上書曰:「臣聞黃帝滅炎,蓋云母弟,周公誅管,信亦天倫。叔向戮叔魚,仲尼謂之遺直,石碏殺石厚,丘明以為大義。此皆經籍明文,帝王常法。今陛下置此逆賊,度越前聖,含弘寬大,未有以謝天下。謹案賊諒毒被生民者也。是知古者同德則同姓,異德則異姓,故黃帝有二十五子,其得姓者十有四人,唯青陽、夷鼓,與黃帝同為姬姓。諒既自絕,請改其氏。」劭以此求媚,帝依違不從。遷祕書少監,數載,卒官。

王劭は著作に在ること二十年近く、専ら国史を掌り、隋書八十巻を撰した。多くは口勅を記録し、また迂怪で経典に合わぬ言葉や巷の言説を採り、類を以て相従え、その題目と為し、辞義繁雑にして称すべきもの無く、遂に隋代の文武名臣列将の善悪の跡を、埋没して聞こえざらしめた。初めに斉志を撰し、編年体と為し、二十巻、また斉書紀伝一百巻、及び平賊記三巻を為した。或いは文詞鄙野にして、或いは不軌不物にして、人の視聴を駭かし、大いに識有る者の嗤鄙する所と為った。然れどもその経史の謬誤を採擿し、読書記三十巻を為し、時人はその精博に服した。志学より暮歯に至るまで、篤く経史を好み、世事を遺落した。思を用いること既に専らなりし故、性頗る怳忽にして、毎に食に対するに至り、目を閉じて凝思し、盤中の肉は、輒ち僕従の噉む所と為った。劭はこれを覚えず、唯肉の少なきを責め、数たび厨人を罰した。厨人、情を以て劭に白すと、劭は前に依りて目を閉じ、伺いてこれを獲り、厨人始めて笞辱を免れた。その専固この如し。

原文劭在著作,將二十年,專典國史,撰隋書八十卷。多錄口勑,又採迂怪不經之語及委巷之言,以類相從,為其題目,辭義繁雜,無足稱者,遂使隋代文武名臣列將善惡之迹,堙沒無聞。初撰齊誌,為編年體,二十卷,復為齊書紀傳一百卷,及平賊記三卷。或文詞鄙野,或不軌不物,駭人視聽,大為有識所嗤鄙。然其採擿經史謬誤,為讀書記三十卷,時人服其精博。爰自志學,暨乎暮齒,篤好經史,遺落世事。用思既專,性頗怳忽,每至對食,閉目凝思,盤中之肉,輒為僕從所噉。劭弗之覺,唯責肉少,數罰厨人。厨人以情白劭,劭依前閉目,伺而獲之,厨人方免笞辱。其專固如此。

袁充

原文袁充

袁充、字は徳符、本は陳郡陽夏の人である。その後丹陽に寓居した。祖父は昂、父は君正、共に梁の侍中となった。充は少にして警悟、十余歳の時、父の同僚が門に至り、時は冬初、充は尚葛衫を衣ていた。客、充に戯れて曰く「袁郎子、絺兮𥿭兮、淒其以風」と。充、声に応じて答えて曰く「唯絺と𥿭と、之を服して斁き無し」と。これにより大いに嗟賞された。陳に仕え、年十七、秘書郎ひしょろうとなる。太子舎人、晋安王文学、吏部侍郎、散騎常侍さんきじょうじを歴任した。

原文袁充字德符,本陳郡陽夏人也。其後寓居丹陽。祖昂,父君正,俱為梁侍中。充少警悟,年十餘歲,其父黨至門,時冬初,充尚衣葛衫。客戲充曰:「袁郎子絺兮𥿭兮,淒其以風。」充應聲答曰:「唯絺與𥿭,服之無斁。」以是大見嗟賞。仕陳,年十七,為秘書郎。歷太子舍人、晉安王文學、吏部侍郎、散騎常侍。

陳滅びて国に帰した後、蒙・鄜二州司馬を歴任した。充は性、道術を好み、頗る占候を解し、これにより太史令を領した。時に上、将に皇太子を廃せんとし、東宮官属を窮治していた。充、上が雅に符応を信ずるを見て、旨に希い進みて曰く「比来玄象を観るに、皇太子廃すべし」と。上然りとした。充、復た表を奏し、隋興已後の日影漸長なることを曰く「開皇かいこう元年、冬至の日影一丈いちじょう二尺七寸二分、爾来漸く短し。十七年に至り、冬至の影一丈二尺六寸三分。四年冬至、洛陽にて影を測るに、一丈二尺八寸八分。二年、夏至の影一尺四寸八分、爾来漸く短し。十六年に至り、夏至の影一尺四寸五分。周官は土圭の法を以て日影を正し、日至の影尺有五寸。鄭玄云う『冬至の影一丈三尺』と。今十六年夏至の影は、旧影より五分短く、十七年冬至の影は、旧影より三寸七分短し。日、極に去ること近ければ則ち影短くして日長く、極に去ること遠ければ則ち影長くして日短し。内道を行けば則ち極に去ること近く、外道を行けば則ち極に去ること遠し。堯典に云う『日短く星昴すばる、以て仲冬を正す』と。昴星の昏中に拠れば、則ち知る堯の時仲冬、日に須女しゅじょ十度に在るを。暦数を以てこれを推すに、開皇已来の冬至、日に斗十一度に在り、唐堯の代と極に去ること並びに近し。謹んで案ずるに春秋元命包に云う『日月内道に出ずれば、琁璣常を得、天帝霊を崇め、聖王功を祖ぶ』と。京房別対に曰く『太平は上道を行き、升平は次道を行き、霸世は下道を行く』と。伏して惟うに大隋運を啓き、上乾元を感ぜしめ、影短く日長きは、振古いにしえ未だ之有らざるなり」と。上大いに悦び、天下に告げた。将作の役功に因りて程課を加え、丁匠これを苦しんだ。

原文及陳滅歸國,歷蒙、鄜二州司馬。充性好道術,頗解占候,由是領太史令。時上將廢皇太子,正窮治東宮官屬,充見上雅信符應,因希旨進曰:「比觀玄象,皇太子當廢。」上然之。充復表奏,隋興已後,日影漸長,曰:「開皇元年,冬至日影一丈二尺七寸二分,自爾漸短。至十七年,冬至影一丈二尺六寸三分。四年冬至,在洛陽測影,一丈二尺八寸八分。二年,夏至影一尺四寸八分,自爾漸短。至十六年,夏至影一尺四寸五分。周官以土圭之法正日影,日至之影尺有五寸。鄭玄云:『冬至之影一丈三尺。』今十六年夏至之影,短於舊影五分,十七年冬至之影,短於舊影三寸七分。日去極近則影短而日長,去極遠則影長而日短,行內道則去極近,外道則去極遠。堯典云:『日短星昴,以正仲冬。』據昴星昏中,則知堯時仲冬,日在須女十度。以曆數推之,開皇已來冬至,日在斗十一度,與唐堯之代去極並近。謹案春秋元命包云:『日月出內道,琁璣得常,天帝崇靈,聖王祖功。』京房別對曰:『太平日行上道,升平行次道,霸世行下道。』伏惟大隋啟運,上感乾元,影短日長,振古未之有也。」上大悅,告天下。將作役功,因加程課,丁匠苦之。

仁寿初め、充、上の本命と陰陽律呂の合すること六十余条を言上して奏し、因りて上表して曰く「皇帝載誕の初め、神光瑞気に止まらず、嘉祥かしょう応感、本命行年、生月生日に至るまで、並びに天地日月、陰陽律呂の運転と符し、表裏合会す。これ聖の誕する異、宝暦の元なり。今、物と共に新たにし、年を改めて仁寿と為し、歳月日子、還た誕聖の時と共に同じく、明らかに天地の心に合し、仁寿の理を得たり。故に知る洪基こうき長算、永永として窮まり無きを」と。上大いに悦び、賞賜優崇にして、儕輩比ぶるもの莫し。

原文仁壽初,充言上本命與陰陽律呂合者六十餘條而奏之,因上表曰:「皇帝載誕之初,非止神光瑞氣,嘉祥應感,至於本命行年,生月生日,並與天地日月、陰陽律呂運轉相符,表裏合會。此誕聖之異,寶曆之元。今與物更新,改年仁壽,歲月日子,還共誕聖之時並同,明合天地之心,得仁壽之理。故知洪基長算,永永無窮。」上大悅,賞賜優崇,儕輩莫之比。

仁寿四年甲子の歳、煬帝初めて即位す。充及び太史丞高智宝奏言して曰く「去歳冬至、日影長きを逾え、今歳皇帝即位し、堯の受命の年に合す。昔、唐堯受命四十九年、上元第一紀甲子に到り、天正十一月庚戌冬至、陛下即位し、その年即ち当に上元第一紀甲子、天正十一月庚戌冬至に当たり、正に唐堯と同じし。放勳以来、凡そ八上元を経、その間緜代、仁寿甲子の合有ること未だ無し。謹んで案ずるに、第一紀甲子、太一は一宮に在り、天目は武徳に居り、陰陽暦数並びに符同を得たり。唐堯丙辰に生まれ、丙子の年に命を受く、止めて三五に合するも、未だ己丑甲子の如くはあらず、支干並びに当に六合りくごうすべし。允に一元三統の期に合し、五紀九章の会に合し、帝堯と其の数を同じくし、皇唐と其の蹤を比す。信に所謂皇なるかな唐なるかな、唐なるかな皇なるかな者なり」と。仍って斉王暕に諷して百官を率い表を拝して奉賀せしむ。その後、熒惑太微を守ること数旬、時に宮室を繕治し、征役繁重なり。充上表し「陛下徳を修むるに、熒惑退舎す」と称す。百僚畢く賀す。帝大いに喜び、前後賞賜将に万計。時、軍国多務、充、帝の意に候い、将に為す所有らんと欲するを知り、便ち天文見象を奏称し、須らく改作有るべしとし、是を以て上に媚びた。

原文仁壽四年甲子歲,煬帝初即位,充及太史丞高智寶奏言:「去歲冬至,日影逾長,今歲皇帝即位,與堯受命年合。昔唐堯受命四十九年,到上元第一紀甲子,天正十一月庚戌冬至,陛下即位,其年即當上元第一紀甲子,天正十一月庚戌冬至,正與唐堯同。自放勳以來,凡經八上元,其間緜代,未有仁壽甲子之合。謹案:第一紀甲子,太一在一宮,天目居武德,陰陽曆數並得符同。唐堯丙辰生,丙子年受命,止合三五,未若己丑甲子,支干並當六合。允一元三統之期,合五紀九章之會,共帝堯同其數,與皇唐比其蹤。信所謂皇哉唐哉,唐哉皇哉者矣。」仍諷齊王暕率百官拜表奉賀。其後熒惑守太微者數旬,于時繕治宮室,征役繁重,充上表稱「陛下修德,熒惑退舍」。百僚畢賀。帝大喜,前後賞賜將萬計。時軍國多務,充候帝意欲有所為,便奏稱天文見象,須有改作,以是取媚於上。

大業たいぎょう六年、内史舎人に遷る。遼東に従征し、朝請大夫・秘書少監を拝す。その後天下乱れ、帝初めて雁門の厄に罹り、又盗賊益々起こる。帝心自ら安からず。充復た天文を仮託し、上表して嘉瑞を陳べ、以て上に媚びて曰く

原文大業六年,遷內史舍人。從征遼東,拜朝請大夫、秘書少監。其後天下亂,帝初罹雁門之厄,又盜賊益起,帝心不自安。充復假託天文,上表陳嘉瑞,以媚於上曰:

書奏す。帝大いに悦び、超えて秘書令を拝し、親待逾昵。帝、毎に征討せんと欲すれば、充皆予め之を知り、乃ち星象を仮託し、帝の意を奬成し、位に在る者皆切にこれを患えた。宇文化及の殺逆の際、並びに充を誅す。時に年七十五。

原文書奏,帝大悅,超拜秘書令,親待逾昵。帝每欲征討,充皆預知之,乃假託星象,奬成帝意,在位者皆切患之。宇文化及殺逆之際,并誅充,時年七十五。

【論】

原文【論】

史臣曰く、王劭は幼童よりして白首に至るまで、学を好み倦まず、群書を究極す。搢紳洽聞の士、其の博物を推さざるは無し。雅に著述を好み、久しく史官に在り、既に斉書を撰し、兼ねて隋典を修む。詭怪の説を好み、委巷の談を尚び、文詞鄙穢、体統繁雑。直ちに南・董に愧じ、才は遷・固に無く、徒らに翰墨を煩わし、観採に足らず。袁充は少く江左に在り、初め警悟を以て称せられ、隋朝に委質し、更に玄象を以て自ら命ず。並びに時に幸を求め、干進務入す。劭は符瑞を経営し、妖訛を雑え、充は星占を変動し、謬って晷影を増す。厚く天道を誣い、常を乱り衆を侮り、刑するにこれを舎つる勿れ、其れ斯れに在るか。且つ劭は河朔の清流、充は乃ち江南の望族、栄利に乾没し、道を以て得ずして、其の家声を頽す、良に歎息すべし。

原文史臣曰:王劭爰自幼童,迄乎白首,好學不倦,究極羣書。搢紳洽聞之士,無不推其博物。雅好著述,久在史官,既撰齊書,兼修隋典。好詭怪之說,尚委巷之談,文詞鄙穢,體統繁雜。直愧南、董,才無遷、固,徒煩翰墨,不足觀採。袁充少在江左,初以警悟見稱,委質隋朝,更以玄象自命。並要求時幸,干進務入。劭經營符瑞,雜以妖訛,充變動星占,謬增晷影。厚誣天道,亂常侮眾,刑茲勿捨,其在斯乎!且劭為河朔清流,充乃江南望族,乾沒榮利,得不以道,頹其家聲,良可歎息。