王劭
王劭、字は君懋、太原郡晉陽県の人である。父は松年、北斉の通直散騎侍郎であった。劭は若くして沈黙寡言で、読書を好んだ。弱冠にして、北斉の尚書僕射魏収が開府軍事に辟召し、累進して太子舎人となり、文林館に待詔した。時に祖孝徴・魏収・陽休之らが古事を論じ、忘れたことがあり、探し調べても得られなかったので、劭を呼んで尋ねた。劭はその出典を詳しく論じ、書物を取って検証すると、少しも誤りがなかった。ここにおいて大いに当時の人々に認められ、その博識を称えられた。後に中書舎人に遷った。北斉が滅ぶと、北周に入ったが、官職を得られなかった。
上はこれを見て大いに喜び、物五百段を賜った。
間もなく、劭はまた上書して言った。
上は大いに喜び、劭を至誠の者とし、寵愛と賜物は日に日に盛んになった。
時に黄鳳泉で浴した者が、二つの白石を得て、頗る文理があり、そこでその文を付会して文字とし、また諸々の物象があると言って上奏した。「その大なる玉には日月星辰、八卦五岳、及び二麟双鳳、青龍朱雀、騶𩦢玄武があり、各々その方位に当たる。また五行・十日・十二辰の名があり、凡そ二十七字である。また『天門地戸人門鬼門閉』の九字がある。また却非及び二鳥があり、その鳥は皆人面で、則ち抱朴子の所謂『千秋万歳』である。その小なる玉にも五嶽・却非・虯・犀の象がある。二つの玉には共に仙人玉女が雲に乗り鶴を操る象がある。別に異なる状の諸神があり、尽く識別できないが、蓋し風伯・雨師・山精・海若の類である。また天皇大帝・皇帝及び四帝坐、鉤陳・北斗・三公・天将軍・土司空・老人・天倉・南河・北河・五星・二十八宿があり、凡そ四十五官である。諸々の字は本来行伍はないが、然し往往に対をなしている。大玉には則ち皇帝の姓名があり、並びに南面に臨み、日字と正しく鼎の足の如し。また老人星があり、蓋し南面して日を象り長寿であることを明らかにする。皇后の二字は西にあり、上に月の形があり、蓋し月を象ることを明らかにする。次玉には則ち皇帝の名と九千字が次比し、両つの『楊』字と『万年』字が次比し、『隋』と『吉』字が正しく並び、蓋し長久吉慶であることを明らかにする」。劭はまたその字を廻互し、詩二百八十篇を作って奏上した。上は誠実と認め、帛千匹を賜った。劭はここにおいて民間の歌謡を採り、図書讖緯を引き、符命に依拠し、仏経を捃摭して、皇隋霊感誌三十巻を撰び、奏上した。上は天下に宣示することを命じ、劭は諸州の朝集使を集め、手を洗い香を焚き、目を閉じてこれを読み、その声を曲折させ、歌詠の如くであった。十日余りを経て、遍くした後に罷めた。上は益々喜び、賞賜は優厚であった。
仁寿年間、文献皇后が崩御すると、劭はまた上言して言った。「仏説に、人は応に天上に生まれ、及び上品上生無量寿国する時、天仏は大光明を放ち、香華妓楽をもって来迎するとある。如来は明星の出る時に涅槃に入った。伏して惟うに、大行皇后は聖徳仁慈、福善禎符、諸々の秘記に備わり、皆妙善菩薩であるという。臣が謹んで案ずるに、八月二十二日、仁寿宮内に再び金銀の花が降った。二十三日、大宝殿の後に夜に神光があった。二十四日卯の刻、永安宮の北に自然に種々の音楽があり、虚空に満ち震えた。夜五更の中に、奄然として寐るが如く、便ち即ち升遐した。経文の説くところと、事皆符験する。臣がまた愚意をもって考えるに、皇后が遷化されたのが、仁寿宮・大興宮でないのは、蓋し至尊の常に居する正処を避けたのである。永安宮であるのは、京師の永安門を象り、平生出入りされた所である。后が升遐して後二日、苑内に夜に鐘声三百余処あり、これは生天の応、顕然である」。上はこれを見て、悲しみ且つ喜んだ。
時に蜀王秀が罪により廃されると、上は顧みて劭に言った。「ああ、吾に五子あり、三子は不才である」。劭が進み出て言った。「古より聖帝明王は、皆不肖の子を移すことができなかった。黄帝には二十五子あり、同姓なる者は二人、余は各々徳を異にした。堯には十子、舜には九子あり、皆不肖であった。夏には五観あり、周には三監があった」。上はその言を然りとした。その後、上は高山に登りたいが登れない夢を見、崔彭が脚を捧げ、李盛が肘を扶けて登ることができ、そこで彭に言った。「死生は当に爾と倶にすべし」。劭は言った。「この夢は大吉である。高山に上るとは、高く崇く大いに安らかで、永く山の如きことを明らかにする。彭は彭祖の如く、李は李老の如く、二人が扶侍するは、実に長寿の徴である」。上はこれを聞き、喜びが顔色に現れた。その年、上は崩御した。間もなく、崔彭も卒した。
煬帝が位を嗣ぐと、漢王諒が乱を起こしたが、帝は誅するに忍びなかった。劭は上書して言った。「臣聞く、黄帝が炎帝を滅ぼしたのは、蓋し母弟なり、周公が管叔を誅したのは、信に天倫なり。叔向が叔魚を戮し、仲尼これを遺直と謂い、石碏が石厚を殺し、丘明これをもって大義と為す。これらは皆経籍の明文、帝王の常法である。今、陛下がこの逆賊を置かれるのは、前聖を度越し、含弘寛大、未だ以て天下に謝する所なし。謹んで案ずるに、賊諒は生民に毒を被らせる者である。ここに知る、古者は徳を同じくすれば則ち姓を同じくし、徳を異にすれば則ち姓を異にする。故に黄帝に二十五子あり、その姓を得る者十有四人、唯だ青陽・夷鼓のみ、黄帝とともに姫姓である。諒は既に自ら絶ったので、その氏を改められたい」。劭はこれをもって媚びを求めたが、帝は依違して従わなかった。秘書少監に遷り、数年して、官で卒した。
王劭は著作に在ること二十年近く、専ら国史を掌り、隋書八十巻を撰した。多くは口勅を記録し、また迂怪で経典に合わぬ言葉や巷の言説を採り、類を以て相従え、その題目と為し、辞義繁雑にして称すべきもの無く、遂に隋代の文武名臣列将の善悪の跡を、埋没して聞こえざらしめた。初めに斉志を撰し、編年体と為し、二十巻、また斉書紀伝一百巻、及び平賊記三巻を為した。或いは文詞鄙野にして、或いは不軌不物にして、人の視聴を駭かし、大いに識有る者の嗤鄙する所と為った。然れどもその経史の謬誤を採擿し、読書記三十巻を為し、時人はその精博に服した。志学より暮歯に至るまで、篤く経史を好み、世事を遺落した。思を用いること既に専らなりし故、性頗る怳忽にして、毎に食に対するに至り、目を閉じて凝思し、盤中の肉は、輒ち僕従の噉む所と為った。劭はこれを覚えず、唯肉の少なきを責め、数たび厨人を罰した。厨人、情を以て劭に白すと、劭は前に依りて目を閉じ、伺いてこれを獲り、厨人始めて笞辱を免れた。その専固この如し。
袁充
袁充、字は徳符、本は陳郡陽夏の人である。その後丹陽に寓居した。祖父は昂、父は君正、共に梁の侍中となった。充は少にして警悟、十余歳の時、父の同僚が門に至り、時は冬初、充は尚葛衫を衣ていた。客、充に戯れて曰く「袁郎子、絺兮𥿭兮、淒其以風」と。充、声に応じて答えて曰く「唯絺と𥿭と、之を服して斁き無し」と。これにより大いに嗟賞された。陳に仕え、年十七、秘書郎となる。太子舎人、晋安王文学、吏部侍郎、散騎常侍を歴任した。
仁寿初め、充、上の本命と陰陽律呂の合すること六十余条を言上して奏し、因りて上表して曰く「皇帝載誕の初め、神光瑞気に止まらず、嘉祥応感、本命行年、生月生日に至るまで、並びに天地日月、陰陽律呂の運転と符し、表裏合会す。これ聖の誕する異、宝暦の元なり。今、物と共に新たにし、年を改めて仁寿と為し、歳月日子、還た誕聖の時と共に同じく、明らかに天地の心に合し、仁寿の理を得たり。故に知る洪基長算、永永として窮まり無きを」と。上大いに悦び、賞賜優崇にして、儕輩比ぶるもの莫し。
大業六年、内史舎人に遷る。遼東に従征し、朝請大夫・秘書少監を拝す。その後天下乱れ、帝初めて雁門の厄に罹り、又盗賊益々起こる。帝心自ら安からず。充復た天文を仮託し、上表して嘉瑞を陳べ、以て上に媚びて曰く
書奏す。帝大いに悦び、超えて秘書令を拝し、親待逾昵。帝、毎に征討せんと欲すれば、充皆予め之を知り、乃ち星象を仮託し、帝の意を奬成し、位に在る者皆切にこれを患えた。宇文化及の殺逆の際、並びに充を誅す。時に年七十五。
【論】
史臣曰く、王劭は幼童よりして白首に至るまで、学を好み倦まず、群書を究極す。搢紳洽聞の士、其の博物を推さざるは無し。雅に著述を好み、久しく史官に在り、既に斉書を撰し、兼ねて隋典を修む。詭怪の説を好み、委巷の談を尚び、文詞鄙穢、体統繁雑。直ちに南・董に愧じ、才は遷・固に無く、徒らに翰墨を煩わし、観採に足らず。袁充は少く江左に在り、初め警悟を以て称せられ、隋朝に委質し、更に玄象を以て自ら命ず。並びに時に幸を求め、干進務入す。劭は符瑞を経営し、妖訛を雑え、充は星占を変動し、謬って晷影を増す。厚く天道を誣い、常を乱り衆を侮り、刑するにこれを舎つる勿れ、其れ斯れに在るか。且つ劭は河朔の清流、充は乃ち江南の望族、栄利に乾没し、道を以て得ずして、其の家声を頽す、良に歎息すべし。