隋書

巻六十六 列傳第三十一 李諤 鮑宏 裴政 柳莊 源師 郎茂 高構 張虔威 榮毗 陸知命 房彥謙

李諤

李諤は、字を士恢といい、趙郡の人である。学問を好み、文章を綴ることを解した。北斉に仕えて中書舎人となり、弁舌に優れ、しばしば陳の使者に対応した。周の武帝が斉を平定すると、天官都上士に任ぜられ、李諤は高祖こうそ(楊堅)に非凡な風貌があるのを見て、深く心を通わせた。高祖が丞相となると、大いに親しく遇され、得失について諮問された。当時は戦争が頻発し、国家の財用が空乏していたので、李諤は『重穀論』を上奏して諷諫した。高祖は深くこれを容れた。隋が禅譲を受けると、比部・考功の二曹侍郎を歴任し、南和伯の爵位を賜った。李諤は公正で、世務に明るく、当時の論者に推重された。治書侍御史に昇進すると、上(文帝)は群臣に言った。「朕がかつて大司馬であった時、外職を求めたが、李諤が十二の策を述べて、苦言を以て許さず、朕は内に留まる決意をした。今のこの事業は、李諤の力である。」二千段の物を賜った。

李諤は礼教が廃れ、公卿が亡くなると、その愛妾や侍女を子孫がすぐに嫁がせたり売ったりするのが風俗となっているのを見た。そこで上書して言った。「臣は聞く、遠きを追い終わりを慎めば、民の徳は厚きに帰し、三年間(父の道を)改めなければ、初めて孝と称せられると。聞くところによれば、朝臣の中に、父祖が亡くなって日が浅いのに、子孫が無頼にも、その妓妾を分けて、嫁がせ売って財を得る者がいる。このようなことが一つでもあれば、実に風化を損なう。妾はたとえ微賤であれ、生前に衣服や履物を直接お世話し、斬衰の喪に服すること三年は、古今の通則である。どうして急に喪服を脱がせ、無理に化粧を施し、霊前で泣きながら別れを告げて、他人の家に送り届けることができようか。見る者でさえ、なお心を傷めるのに、まして人の子として、このような忍び難きことを耐えられようか。また朝廷の重臣で、地位声望が高く貴い者が、平生の交わりは兄弟のようであったのに、その者が亡くなると、まるで通りすがりの人のようになり、朝にその死を聞けば、夕にはその妾を窺い、機会をうかがって求婚し、手に入れることを限りとし、廉恥の心がなく、友朋の義を捨てている。そもそも家を治める道理は、官に移すことができる。私事を正さずして、どうして公務を補佐できようか。」上はこれを読んで賞賛した。五品以上の者の妻妾が再嫁することを禁じたのは、ここに始まる。

李諤はまた、文章を綴る者たちが、文体を軽薄なものを尊び、互いに模倣し、流れに任せて本に返らないことを憂い、そこで上書して言った。

臣は聞く、古の哲王が民を教化するには、必ずその視聴を変え、その嗜欲を防ぎ、その邪放の心を塞ぎ、淳和の道を示したと。五教六行は民を訓える根本であり、『詩』『書』『礼』『易』は道義の門戸である。故に家には孝慈が回復し、人は礼譲を知り、風俗を正し風化を調えることは、これより大なるはない。上書し賦を献じ、誄を制し銘を鐫るものは、皆徳を褒め賢を序し、勲を明らかにし理を証するためである。もし勧善懲悪でなければ、その意義はむなしい。後代に降るにつれ、風教は次第に衰えた。魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)は、さらに文詞を尚び、人君の大道を忽せにし、彫虫の小技を好んだ。下の者は上に従い、影が形に、響きが声に応じるが如く、文華を競って騒ぎ、ついに風俗となった。江左の斉・梁では、その弊害はさらに甚だしく、貴賤賢愚を問わず、ただ吟詠に務めた。ついには道理を遺棄して異を存し、虚を尋ね微を逐い、一韻の奇を競い、一字の巧を争った。連篇累牘も月露の形を出ず、積案盈箱もただ風雲の状であるのみ。世俗はこれをもって互いに高しとし、朝廷はこれに基づいて士を抜擢した。禄利の道が開かれると、愛好崇尚の情はますます篤くなった。そこで里巷の幼い愚かな者や、貴遊の童子も、六甲(干支)もまだ知らぬうちに、先に五言詩を作る。羲皇・舜・禹の典や、伊尹・傅説・周公・孔子の説には、再び心を留めず、いったい耳に入ることがあっただろうか。傲慢放誕を清虚とし、情に縁ることを勲績とし、儒素を古拙と指し、詞賦をもって君子と為す。故に文筆は日々繁雑になり、その政治は日々乱れていった。まことに大聖の軌範を棄て、無用を以て用と為すことを構えたからである。本を損ない末を逐う風は、華夏の地に広く流布し、互いに師祖として、久しくなるほどますます煽られた。大隋が天命を受け、聖道が興ると、軽浮を屏斥し、華偽を遏止し、経を懐き質を抱き、道を志し仁に依る者でなければ、縉紳に加えられ、纓冕に参ずることを許されなかった。開皇四年、天下に普く詔して、公私の文書は、すべて実録とすべしとした。その年の九月、泗州刺史司馬幼の上表文が華美艶麗であったので、所司に付して罪を治めさせた。これより公卿大臣は、皆正しい道を知り、墳典(古典)を鑽仰し、華綺を棄絶し、先王の美しい法典を択び、この世に大道を行おうとした。聞くところによれば、外州遠県では、なお弊風が残り、官吏を選び人を挙げるに、典則に従わず、宗党に孝と称され、郷曲に仁に帰せられ、学びには必ず典謨に依り、交わりは軽率に迎合しない者を、私門に排斥し、採用しないことがある。学んで古を稽えず、俗に逐い時に随い、軽薄な篇章を作り、朋党を結んで誉を求める者を、吏職に選び充て、朝廷に挙送するのである。これは県令・刺史が風教を行わず、なお私情を挟み、公道を存しないためである。臣はすでに憲司(御史台)に忝くし、職として糾察すべきである。風聞するやただちに弾劾すれば、網にかかる者が多いことを恐れる。諸司に命じ、普く搜訪を加え、このような者がいれば、詳細な状況を台(御史台)に送るよう請う。

李諤はまた、官にある者が好んで自ら功績を誇ることを憂い、さらに上奏して言った。

臣は聞く、舜が禹に戒めて言った。「汝ただ矜らざれば、天下汝と能を争う者莫し。汝ただ伐らざれば、天下汝と功を争う者莫し」と。言偃(子游)もまた言った。「君に事えて数(しばしば諫言)すれば、斯れ辱しめらる。朋友に数すれば、斯れ疏んぜらる」と。これらは皆、先哲の格言、後王の軌轍である。されば人臣の道は、力を尽くして時を済わすことである。たとえ大禹のように勤勉で、太公たいこう望のように功績があっても、厚く自ら誇り、上(君主)に要求してはならない。まして功績として記すに足らず、勤労も過ちを補わないのに、敢えて自ら勲績を述べ、軽々しく聴覧(天子の耳)を煩わすなどとは!世の道の喪失は、周代に極まり、下に廉恥無きは、上(君主)がそうさせたのである。人を用いるにはただその口を信じ、士を取るにはその行いを見ない。矜誇自大であれば、すぐに幹済(有能)として抜擢され、謙恭静退であれば、多くは恬黙として見捨てられる。そこで上表して誠を陳べるには、まず己の功績の状況を論じ、顔色を承けて奏上するにも、臣が最も心を用いていると道う。自ら衒い自ら媒するのに、少しも慚恥の色がなく、強いて請い横に求めるのは、ただ利を得ることを能とする。隋が天命を受けて以来、この風はたちまち改まり、農夫や行商人に至るまで、心を改めない者はなく、まして大臣がなお弊俗に従うなどとは!聞くところによれば、刺史が京に入り朝覲する際、自ら勾検(監査)の功績を述べ、階墀の傍らで喧しく訴え、言辞は遜らず、高らかに自らを称え、上(天子)の冕旒を汚す。特に赦し難く、凡そこのような輩は、詳細な状況を台に送り、明らかに罪を加えて罷免し、風紀を懲らしめるべきである。

帝は、李諤が前後して上奏した内容を天下に頒示し、四海は靡然として風に従い、その弊害を深く革めた。諤は在職数年、大綱を存することを務め、厳猛を尚ばず、これにより剛直な誉れはなかったが、潜かに匡正したことは多かった。邳公蘇威は、街道沿いの旅店・宿舎は、利を求める徒輩の業であり、事業が汚雑で、本を敦厚にする義に非ずとし、遂に高祖に奏上して、およそ農に帰らせ、旧態に留まることを願う者は、所在の州県に市籍に附録させ、なお旧店を撤去して毀ち、併せて遠方の道に令し、時日を限らせた。時に丁度冬の寒さであり、敢えて陳訴する者もなかった。諤は別使として、この様子を見て、四民にはそれぞれの業があり、各々その安んずる所に附すべきであり、旅館と旗亭とは、古来より一概に同じくすべきでなく、即ち市籍に附するは、理に於いて不可であり、且つ行旅の託する所、一朝にして廃すべからず、徒らに労擾を為すのみで、事に於いて宜しからずと考え、遂に専決して、併せて旧態のままに令し、使いをして還って闕に詣らせ、然る後に奏聞した。高祖はこれを善しとして曰く、「国体を体する臣は、まさにこの如くあるべきである」と。年老いたことを以て、出て通州刺史に拝され、甚だ恵政有り、民夷悦服した。後三年、官にて卒し、子四人有り。大体・大鈞は、共に官は尚書郎に至る。世子大方は爵を襲ぎ、最も材品有り、大業初年、内史舎人を判ず。帝はまさに彼を任用せんとしたが、卒に遇う。

鮑宏

鮑宏、字は潤身、東海郯の人である。父の機は、才学を以て知名。梁に仕え、官は治書侍御史に至る。宏は七歳で孤となり、兄の泉之に愛育された。年十二、文を属する能く、嘗て湘東王蕭繹の詩に和し、繹は嗟賞して已まず、中記室に引き、鎮南府諮議・尚書水部郎に遷り、通直散騎侍郎に転ず。江陵が平定されると、周に帰順した。明帝は甚だ礼遇し、麟趾殿学士に引いた。累遷して遂伯下大夫となり、杜子暉と共に陳に聘し、斉を伐つことを謀った。陳は遂に出兵して江北に侵し斉を攻めた。帝は嘗て宏に斉を取る策を問うと、宏は対えて云う、「我は強く斉は弱く、勢い相侔わず。斉主は小人に昵近し、政刑日に紊れる。至尊は仁恵慈恕、法令厳明なり。事は建瓴に等しく、何ぞ克たざるを憂えん。但し先皇往日出師して洛陽らくように至り、彼には其の備え有り、毎に克捷せず。臣の計に如かば、兵を汾・潞に進め、直ちに晋陽を掩い、其の不虞に出で、以て上策と為すべし」と。帝はこれに従った。山東が平定されると、少禦正を除し、平遙県伯の爵を賜い、邑六百戸、上儀同を加えられる。高祖が相となると、山南に奉使した。時に王謙がしょくに挙兵し、路次潼州にて、謙の将達奚期に捕らえられ、成都に送られることを逼られ、終に節を屈せず。謙が敗れた後、馳伝して京に入り、高祖はこれを嘉し、金帯を賜う。禅譲を受けると、開府を加えられ、利州刺史を除し、爵を公に進められる。邛州刺史に転じ、秩満して京に還る。時に尉義臣という者あり、其の父の崇は尉迥に従わず、後にまた突厥と戦って死んだ。帝はこれを嘉し、姓を金氏に賜わんとした。群下に訪うと、宏は対えて曰く、「昔、項伯は項羽こううに同ぜず、漢高は姓を劉氏に賜い、秦真の父は難に死す能く、魏武は姓を曹氏に賜う。臣の愚見に如かば、皇族を以て賜うことを請う」と。高祖曰く、「善し」と。因って義臣に姓を楊氏と賜う。後に均州刺史を授けられるが、目疾を以て免じ、家にて卒す。時に年九十六。初め、周の武帝は宏に勅して『皇室譜』一部を修めさせ、『帝緒』・『疏属』・『賜姓』の三篇に分けた。集十巻有り、世に行わる。

裴政

裴政、字は徳表、河東聞喜の人である。高祖の寿孫は、宋の武帝に従って家を寿陽に徙し、前軍長史・廬江太守を歴任した。祖父の邃は、梁の侍中・左衛将軍・州大都督ととく。父の之礼は、廷尉卿。政は幼くして明敏、博聞強記、時政に達し、当時に称された。年十五、邵陵王府法曹参そうしん軍事に辟され、起部郎・枝江令に転ず。湘東王が荊州に臨むと、宣恵府記室に召され、尋いで通直散騎侍郎を除される。侯景乱が起こると、壮武将軍を加えられ、師を帥いて建寧侯王琳に随い進討し、賊帥宋子仙を擒え、荊州に献じた。侯景が平定されると、先鋒として建鄴に入り、軍功連最を以て夷陵侯に封ぜられる。征されて給事黄門侍郎を授かり、また師を帥いて王琳に副い蕭紀を拒ぎ、硤口にてこれを破る。平越中郎将・鎮南府長史を加えられる。周師が荊州を囲むと、琳は桂州より難に赴き、長沙に次ぐ。政は間道より先ず元帝に報ぜんことを請う。百里洲に至り、周人に捕らえられる。蕭詧は政に謂う、「我は武皇帝の孫なり、爾が君と為すべからずや。爾亦何ぞ七父に殉身する煩いあらん。若し我が計に従わば、則ち貴きこと子孫に及び、如し然らずば、腰領を分かつべし」と。政は詭いて曰く、「唯命に従う」と。詧はこれを鎖し、城下に送り、元帝に謂わしめて曰く、「王僧弁は台城囲まるるを聞き、已みて自ら帝と為す。王琳は孤弱にして、復た能く来たらず」と。政はこれを許す。既にして城中に告げて曰く、「援兵大いに至る、各々自ら勉めよ。吾は間使として擒えらる、まさに碎身して国に報いん」と。監者は其の口を撃つも、終に辞を易えず。詧は怒り、趣に行戮せんことを命ず。蔡大業諫めて曰く、「此れ民の望なり。若し之を殺さば、則ち荊州は下すべからず」と。因って釈放を得る。江陵陥落に会し、城中の朝士と共に京師に送られる。周の文帝は其の忠を聞き、員外散騎侍郎を授け、相府に引いて事えさせる。盧弁と共に『周礼』に依り六卿を建て、公卿大夫士を設け、併せて朝儀を撰次し、車服器用は多く古礼に遵い、漢・魏の法を革め、事は併せて施行された。尋いで刑部下大夫を授かり、少司憲に転ず。政は故事に明習し、また『周律』の参定に与る。酒を飲む能く、数斗に至りても乱れず。簿案机に盈ちるも、剖決流るるが如く、用法は寛平にして、冤濫有ること無し。囚徒で極刑に犯する者は、乃ち其の妻子の獄に入りて就くことを許し、冬に至り、将に行決せんとするに、皆曰く、「裴大夫我を死に致す、死するも恨み無し」と。其の法を処する詳平此の如し。また鐘律に善く、嘗て長孫紹遠と楽を論じ、語は『音律志』に在り。宣帝の時、旨に忤いて免職される。

高祖が摂政となると、彼を召し出して元の官職に復帰させた。開皇元年、率更令に転じ、上儀同三司の位を加えられた。詔により蘇威らと共に律令を修定した。魏・晋の刑典を採り、下っては斉・梁に至るまで、沿革や軽重を検討し、その折衷を取った。共に撰述した者は十余人いたが、凡そ疑義が滞って通じないものは、全て裴政の決断に委ねられた。散騎常侍さんきじょうじに進位し、左庶子に転じ、多く匡正するところがあり、純朴で誠実であると称えられた。東宮に凡そ大事がある時は、皆彼に委ねた。右庶子の劉栄は、性質が甚だ専断で頑固であった。時に武職が交代で番上する際、通事舍人の趙元愷が辞見帳を作成していたが、未だ完成に至らなかった。太子が旨を下し、再三催促したので、劉栄は趙元愷に言った、「ただ口頭で奏上すればよい、帳面を作る必要はない」と。奏上した時、太子が問うて言った、「名簿は何処にあるか」。元愷は言った、「劉栄の指示を受け、帳面を作ることを許されませんでした」。太子は直ちに劉栄を詰問したが、劉栄は拒んで隠し、「そのような言葉はない」と言った。太子は裴政に付けて推問させた。未だ奏状を上るに及ばぬうち、劉栄に与する者が先んじて太子に言った、「裴政は劉栄を陥れようとしており、推問の事実は真実ではない」と。太子は裴政を召し出して責めたが、裴政は奏上して言った、「凡そ事を推問するには二つの方法がある。一つは情実を察することで、一つは証拠に拠ることである。その曲直を審らかにして、是非を定める。臣が劉栄を察するに、位は高く任は重い。仮に実のところ元愷にそのように言ったとしても、それは些細な過失に過ぎない。道理を計って論ずれば、隠し諱む必要はない。また元愷を察するに、劉栄の制御下にある。どうして根拠のない言葉を妄りに用いて、いたずらに累を及ぼそうなどと敢えてできようか。二人の情実は、道理から見て正しく相似ている。元愷は左衛率の崔茜らを証人として引き出したが、崔茜らの供述は悉く元愷の言と符合している。情実を察して既に拮抗している以上、証拠によって定めねばならない。臣は、劉栄が元愷に言ったことは、必ずや虚偽ではないと考えます」。太子もまた劉栄を罪に問わず、裴政の公平で正直なことを称えた。

裴政は人の短所を面と向かって指摘することを好んだが、退いた後で後ろ指を指すようなことはなかった。時に雲定興がしばしば太子の侍従に入り、奇抜な服飾や器物を献上して後宮に奉り、また娘の寵愛に縁って、往来に節度がなかった。裴政は幾度も切に諫めたが、太子は聞き入れなかった。裴政はそこで雲定興に言った、「貴公のなさることは、礼の度合いに合わない。また元妃が急に薨去され、巷では噂が絶えません。これは太子にとって良い評判ではありません。願わくは貴公自ら退かれることを。さもなければ禍が及ぶでしょう」。定興は怒り、太子に告げた。太子はますます裴政を疎んじ、これにより襄州総管として出された。妻子は任地に赴かず、受け取った俸禄は、散じて僚吏に与えた。民に罪を犯す者がいれば、密かに全て知っており、あるいは一年中発覚させず、再三犯すに至って、初めて都会の機会に乗じ、衆人の中で召し出して、自らその罪を審理し、五人を処刑し、流罪や移住させられる者は甚だ多く、管内全体が恐れ慄き、令は行き渡り禁は止み、小民は息をつくことができ、神明の如しと称された。その後は牢獄を修繕せず、殆ど争訟が無かった。任地で卒去した。八十九歳。『承聖降録』十巻を著した。太子が廃された後、高祖は彼を追憶して言った、「以前に裴政と劉行本を遣わしておけば、共に補弼して、なおここまで至らせなかったであろうに」と。子の南金は、膳部郎に至った。

柳莊

柳莊、字は思敬、河東郡解県の人である。祖父の季遠は、梁の司徒しと從事中郎であった。父の遐は、霍州刺史であった。柳莊は若くして遠大な度量を持ち、広く典籍を博覧し、併せて辞令に長けていた。済陽の蔡大寶は江左に重い名声があり、時に岳陽王蕭詧の諮議であったが、柳莊を見て嘆じて言った、「襄陽の水鏡(人物鑑識眼に優れた者の喩え)が、再びここにある」。大寶は遂に娘を彼に娶せた。間もなく蕭詧に召し出されて参軍とされ、法曹に転じた。蕭詧が帝を称すると、中書舍人に任じられ、給事黄門侍郎・吏部郎中・鴻臚卿を歴任した。高祖が政を輔けると、蕭巋は柳莊に命じて書を奉じて関中に入らせた。時に三方(尉遅迥・司馬消難・王謙)が難を構えていたので、高祖は蕭巋に異心があることを恐れた。柳莊が帰還する際、彼に言った、「孤は昔、開府として江陵に従軍し、深く梁主の特別な眷顧を受けた。今、主上は幼く時勢は艱難であり、辱くも顧みられ託された。夜中に自ら省みれば、実に慚愧と恐れを抱いている。梁主は代々の輝きを重ね、誠を朝廷に委ねておられる。今後こそ、松や竹のような節操が現れるであろう。君が本国に帰ったら、幸いにも孤のこの意を梁主に申し上げてほしい」。遂に柳莊の手を取って別れた。時に梁の将帥は皆密かに出兵を請い、尉遅迥らと連衡の勢いを為し、進んでは周氏に節を尽くし、退いては山南を席捲しようとした。ただ蕭巋のみは不可と疑った。丁度柳莊が長安ちょうあんから到着し、高祖が結び託した意を詳しく申し述べたので、蕭巋に言った、「昔、袁紹・劉表・王淩・諸葛誕の徒は、皆一時の雄傑であった。要害の地を拠り、哮闞の群を擁しながら、功業を建てることなく、禍が踵を返す間もなく到来したのは、まことに魏武(曹操)や晋の司馬氏が天子を挟み、京都を保ち、大義に仗って名分としたため、威を取り覇を定めることができたのである。今、尉遅迥は旧将とは言え、老耄は甚だしい。司馬消難・王謙は、常人以下の者で、匡合の才はない。況んや山東・庸蜀(北斉・後蜀の旧地)は教化に従う日が近く、周室の恩恵は未だ行き渡らず、朝廷の将相は多く身の計を為し、競って楊氏(隋公)に節を効している。臣の考えでは、尉遅迥らは結局覆滅し、隋公は必ずや周国を移すでしょう。境を保ち民を休ませ、その変を見守るに如かず」。蕭巋は深くもっともだと思い、衆議は遂に止んだ。間もなく、司馬消難は陳に奔り、尉遅迥と王謙は相次いで誅戮された。蕭巋は柳莊に言った、「近頃もし衆人の言に従っていたならば、社稷は既に守れなかったであろう」。

高祖が即位すると、柳莊はまた入朝し、高祖は深く慰労激励した。晋王広(後の煬帝)が梁から妃を迎える際、柳莊はこれにより往来を四、五度繰り返し、前後で賜わった物は数千段に及んだ。蕭琮が位を嗣ぐと、太府卿に遷った。梁国が廃されると、開府儀同三司を授けられ、間もなく給事黄門侍郎に任じられ、併せて田宅を賜わった。柳莊は旧来の典章に明るく習熟し、風雅に政事に通達しており、凡そ駁正したことについては、帝は称善しなかったことはなかった。蘇威が納言となった時、柳莊の器量と識見を重んじ、常に帝に奏上して言った、「江南で学業のある者は、多く世務に習熟せず、世務に習熟する者は、また学業がない。両者を兼ね備える者は、柳莊に過ぎる者はいません」。高熲もまた柳莊と甚だ親厚であった。柳莊は陳茂と同官であったが、意を低くして従うことができず、陳茂は上や朝臣が多く柳莊に心を寄せているのを見て、心に常に不平を抱き、常に柳莊が自分を軽んじていると言った。帝は陳茂と旧知であったので、曲げて引き立て召し出され、しばしば柳莊の短所を陳べた。数年を経て、讒言は次第に行き渡った。尚書省が嘗て犯罪人のことを奏上し、法に依れば流罪に合うところを、上は大辟(死刑)で処断した。柳莊が奏上して言った、「臣は聞く、張釈之が言ったように、法とは天子が天下と共にするものであると。今、法がこのようであるのに、更に重くするのは、法が民心に信じられないことになります。方今海内に事無く、正に信を示す時です。伏して願わくは陛下が張釈之の言葉を思し召されば、天下幸甚です」。帝は従わず、これにより旨に逆らった。間もなく尚薬局が丸薬を進めたが旨に称わず、陳茂が密かに柳莊が親しく監臨しなかったと奏上したので、帝は遂に怒った。十一年、徐璒らが江南で反乱を起こすと、行軍総管長史として軍に随従して討伐した。徐璒が平定されると、即座に饒州刺史に任じられ、治績の名声が非常に高かった。後数年して任地で卒去した。六十二歳。

源師

源師は、字を踐言といい、河南洛陽の人である。父の文宗は、斉において重い名声があり、開皇の初めに、莒州刺史の任で没した。師は早くから声望があり、司空しくう府参軍事として出仕し、やがて尚書左外兵郎中に昇進し、祠部を兼ねた。後に孟夏の節にあたり、龍星が現れたので雩祭を請うた。時に高阿那肱が宰相であったが、真の龍が出現したと思い、大いに驚き喜び、龍の所在を尋ねた。師は顔色を正して答えて言うには、「これは龍星が初めて現れたのであり、礼に従って郊壇で雩祭を行うべきであり、真の龍が別に降臨したというわけではありません」と。阿那肱は憤然として顔色を変えて言うには、「なぜ星宿のことにまで口を出すのか」と。祭りは結局行われなかった。師は退出してひそかに嘆いて言うには、「国家の大事は、祭祀と軍事にある。礼がすでに廃されているならば、どうして長く保つことができようか。斉の滅亡は日遠からぬことだ」と。七年、周の武帝が斉を平定すると、司賦上士を授けられた。高祖が禅譲を受けると、魏州長史に任じられ、入朝して尚書考功侍郎となり、引き続き吏部を兼ねた。朝廷の規程と国家の法度は、多く彼が参与して定めた。十七年、尚書左右丞を歴任し、明敏で有能であると称された。時に蜀王秀はしばしば法度に違背したので、師を益州総管司馬とした。まもなく秀は召還されたが、秀は京師に変事があることを恐れ、病と称して行かないつもりであった。師はたびたび勧めて命に背くべきでないと言ったが、秀は顔色を変えて言うには、「これは我が家の事柄である。どうして卿の関わることか」と。師は涙を流して答えて言うには、「師は国の厚恩を蒙り、府の幕僚に列することを辱うしております。僚吏としての節義を、敢えて心を尽くさないわけにはまいりません。ただここ数年、国家には多くの事変があり、秦孝王が病に臥せられ、突然に薨去され、庶人となられた二十年の太子も、相次いで廃されました。聖上の御心情は、どうして耐えられるものでありましょうか。しかるに詔勅をもって王を召還され、すでに時月を経ているのに、今なお遷延して赴かず、百姓は王の心を知らず、もし異議を生じ、内外が疑い恐れるならば、雷霆の詔を発し、一介の使者を降して、王はどうして自らを弁明されましょうか。願わくは王ご自身でお考えください」と。秀はついに召還に従った。秀が廃された後、益州の官属は多く連座したが、師はこれによって罪を免れた。後に儀同三司を加えられた。煬帝が即位すると、大理少卿に任じられた。帝が顕仁宮におられた時、宮外の衛士が勝手に守備を離れることを禁ずる勅を出した。ある主帥がひそかに衛士を外に出させたので、帝は大理に付して処罰させた。師は律に基づいて徒刑を上奏したが、帝は斬刑を命じた。師は上奏して言うには、「この者の罪は確かに許し難いものです。もし陛下が初めからこれを殺されたならば、もとより文書を経る必要はありませんでした。すでに役所に付された以上、道理としては恒常の法典に帰すべきです。もし宿衛の近侍者にまたこのような犯行があった場合、どうしてこれに加えることができましょうか」と。帝はやめて許した。刑部侍郎に転じた。師は職務において強力で明敏であり、弁舌に優れていたが、清廉公平という称はなかった。間もなく、官の任で没した。子に昆玉があった。

郎茂

郎茂は、字を蔚之といい、恆山新市の人である。父の基は、斉の潁川太守であった。茂は幼少より聡明で、七歳で『騒』『雅』を誦し、日に千余言を覚えた。十五歳で国子博士河間の権会に師事し、『詩』『易』『三礼』および玄象・刑名の学を受けた。また国子助教長楽の張率礼に就いて『三伝』の諸説を受け、寝食を忘れるほどであった。家人は茂が病気になるのを恐れ、常に灯火を制限した。成長すると、学者と称され、文章を作ることもよく理解した。十九歳の時、父の喪に服し、喪に過ぎた礼をとった。斉に仕え、司空府行参軍として出仕した。時に陳の使者傅縡が来聘したので、茂に応対させた。後に詔により秘書省で典籍を校定した。保城県令に転じ、有能な名があり、百姓が『清徳頌』を立てた。周の武帝が斉を平定すると、上柱国王誼が推薦し、陳州戸曹を授けられた。時に高祖が亳州総管であったが、茂を見て喜び、書記を掌らせた。時に周の武帝が『象経』を作ったが、高祖は穏やかに茂に言うには、「人主のなすことは、天地を感応させ、鬼神を動かすものである。しかし『象経』には多くの法規があり、どうして天下を治めることができようか」と。茂はひそかに嘆いて言うには、「この言葉はどうして常人に及ぶものか」と。そこでひそかに高祖に接近し、高祖もまた親しく礼遇した。後に帰郷して州主簿となった。高祖が丞相となると、書を送って召し、昔のことを語り合い、大いに喜んだ。衛州司録を授け、有能な名があった。まもなく衛国県令に任じられた。時に囚人が二百人おり、茂は自ら数日間審理し、釈放した者は百余人に及んだ。長年にわたり訴訟があっても、州の役所に行くことはなかった。魏州刺史元暉が茂に言うには、「長史が言うには、衛国の民が申し立てをしないのは、明府(県令)を恐れるからだという」と。茂は進み出て言うには、「民は水のようなものであり、法令は堤防です。堤防が堅固でなければ、必ず奔流が起こります。もし決壊や溢水がなければ、使君(刺史)は何を憂えることがありましょうか」と。暉はこれに答える言葉がなかった。民の張元預が、従父の弟の思蘭と仲が悪かった。丞や尉は厳法を加えるよう請うたが、茂は言うには、「元預兄弟は、もともと憎み合っている。また罪に坐せられれば、ますますその憤りを増すだけで、民を教化する意味ではない」と。そこで県中の古老を代わる代わる派遣して諭させ、道中は絶えなかった。元預らはそれぞれ感悔し、県に赴いて頓首して罪を請うた。茂は義をもって諭し、ついに互いに親しみ睦まじくなり、友愛の兄弟と称された。

茂は延州長史から太常丞に転じ、民部侍郎に昇進した。時に尚書右僕射蘇威が条章を立て、毎年民間に五品の不遜を責めた。ある者は答えて「管内に五品の家はありません」と言い、対応せず、多くはこのようなことであった。また余糧簿を作り、有無を補い合うことを企図した。茂は煩雑で緊急でないと考え、すべて上奏して廃止させた。数年後、母の喪により職を去った。喪期が終わらないうちに、復職を命じられた。また、王事のために身死した者の子は田を退けず、品官は年老いても田地を減らさないことなどを上奏したが、これらは皆茂の発案であった。茂の性質は明敏で、裁断に滞りがなく、当時は吏幹をもって称された。仁寿の初め、本官のまま大興県令を兼ねた。煬帝が即位すると、雍州司馬に転じ、まもなく太常少卿に転じた。二年後、尚書左丞に任じられ、選挙の事務に参与した。茂は法理に精通し、世に称された。時に工部尚書宇文愷と右翊衛大将軍于仲文が河東の銀窟を争った。茂は上奏して弾劾して言うには、「臣は聞く、貴賤は礼を異にし、士農は業を異にする。それゆえに人は分限を知り、家は廉恥を識るのである。宇文愷は位も声望もすでに高く、禄賜も優厚である。葵を抜き織りを去る(官吏が私利を求めないことの喩え)ということは、静かで聞こえず、利を求めて下と交わり、かつて愧じる色がない。于仲文は大将であり、宿衛の近臣である。階庭に趨侍し、朝夕に道を聞く。虞や芮の謙譲の風は抑えて慕わず、分銖の利は知って必ず争う。どうして百官に模範を遺し、民に軌範を示すことができようか。もし糾弾しなければ、政教を損なうことになろう」と。愷と仲文はついに罪に坐せられた。茂は『州郡図経』一百巻を撰して奏上し、帛三百段を賜り、その書は秘府に収められた。

当時、帝はしばしば巡幸し、王綱はすでに乱れ、法令は多く失われていた。茂は先朝の旧臣であり、世事に明るく習熟していたが、よく自らの身を謀り、直言敢諫の節義はなかった。帝が猜疑心が強く厳しいのを見て、敢えて言葉を発せず、ただひそかに嘆くだけであった。年老いたことを理由に、上表して致仕を乞うたが、許されなかった。時に帝が親征して遼東に向かうと、茂を晋陽宮留守とした。その年、恆山贊治の王文同が茂と不和があり、茂が朋党を結び、下に附き上を欺くことを上奏した。詔して納言蘇威と御史大夫裴蘊を派遣して共同で審理させた。茂はもともと二人と仲が悪かったので、二人は条文を深く穿ち巧みに誹謗して、その罪状を作り上げた。帝は大いに怒り、その弟の司隸別駕楚之とともに官籍を削除して民とし、且末郡に流した。茂は怡然として命を受け、憂いとしなかった。途上で『登壟賦』を作って自ら慰め、その文辞と意義は見るべきものがあった。また別に上表して自らを陳べたので、帝はやや悟った。十年、京兆に召還され、一年余りして没した。時に七十五歳であった。子に知年があった。

高構

高構は、字を孝基といい、北海の人である。性質は滑稽で、智謀多く、弁舌は人に優れ、書を読むことを好み、吏事に巧みであり、弱冠にして州より主簿に補せられた。斉に仕えて河南王参軍事となり、徐州司馬、蘭陵・平原二郡太守を歴任した。北斉が滅びた後、周の武帝は彼を許州司馬とした。高祖(文帝)が禅譲を受けると、冀州司馬に転じ、甚だ有能の名があった。召されて比部侍郎に任ぜられ、まもなく民部侍郎に転じた。時に内史侍郎の晋平東が兄の子の長茂と嫡子の地位を争い、尚書省は決断できず、朝臣の議論も三度に及んで決まらなかった。高構が裁断して理に合い、上(文帝)は彼を能吏と認め、内殿に召して労い、言った、「朕は尚書郎が天上の列宿に応ずると聞くが、卿の才識を見るに、古人の言葉が真実であることを知った。嫡庶の別は礼教の重んずるところである。朕は卿の判決文を数遍読み、その文と理が適切で、朕の思いも及ばぬところであった」と。米百石を賜った。これにより名を知られた。まもなく雍州司馬に遷り、明断をもって称された。一年余りして吏部侍郎に転じ、称職と号された。再び雍州司馬に移ったが、事に坐して左遷され盩啡県令となり、治績の名が大いにあった。上はこれを善しとし、再び雍州司馬に任じ、また吏部侍郎となったが、公事により免官された。煬帝が立つと、召して元の官に復させた。当時吏部を担当する者は多く不称職で去官したが、ただ高構のみが最も有能の名があり、前後して選挙を司った官は皆その下に出た。当時の人は高構が冗談を好むのを軽薄と見なす者が多かったが、その内には方正高雅を抱き、特に吏部尚書の牛弘に重んじられた。後に老病により解職したが、牛弘が選挙を司っていた時、凡そ擢用しようとする者があると、必ず人を遣わしてその邸に問い可否を尋ねた。河東の薛道衡は当世で才高く、常に高構に清い鑑識があると称え、文筆を作る時は必ず草稿を高構に呈してから公にした。高構が非難批評しても、道衡は嗟嘆して服さないことはなかった。大業七年、家で没し、時に七十二歳であった。彼が推挙した杜如晦・房玄齢らは、後みな自ら公輔(三公・宰相)の地位に至り、論者は高構に人を知る鑑識があったと称えた。

開皇年間、昌黎の豆盧実は黄門侍郎となり、慎密と称された。河東の裴術は右丞となり、多く糾正した。河東の士燮、平原の東方挙、安定の皇甫聿道は、皆刑部にあり、共に法を執り行って平允であった。弘農の劉士龍、清河の房山基は考功にあり、河東の裴鏡民は兵部にあり、共に明幹と称された。京兆の韋焜は民曹にあり、屡々讜言を進めた。南陽の韓則は延州長史となり、甚だ恵みある政績があった。これらの者らの事績行状は散逸して欠けているが、皆吏幹があり、当時に称えられた。

張虔威

張虔威は、字を元敬といい、清河郡東武城県の人である。父の晏之は、北斉の北徐州刺史であった。虔威は性質聡明で、群書に広く通じた。その伯父の嵩之は人に言った、「虔威は我が家の千里駒である」と。十二歳の時、州より主簿に補せられた。十八歳で太尉中兵参軍となり、後に累遷して太常丞となった。北斉が滅びると、北周に仕えて宣納中士となった。高祖(文帝)が政権を得ると、相府典簽に引き抜いた。開皇初年、晋王広(後の煬帝)がへい州に出鎮するに当たり、盛んに僚佐を選び、虔威を刑獄参軍とし、累遷して属官とした。王はその才能を大いに賞美し、河内の張衡と共に礼遇され重んじられ、晋王邸では「二張」と称された。王が太子となると、員外散騎侍郎・太子内舎人に遷った。煬帝が即位すると、内史舎人・儀同三司を授けられた。まもなく藩邸時代の旧臣であることを理由に、開府の位を加えられた。まもなく謁者大夫に任ぜられ、江都行幸に従い、本官のまま江都郡の賛治を兼務し、幹理と称された。虔威はかつて道中で落とし袋を見つけ、持ち主が探すのを恐れ、左右の者に命じて背負わせて行った。数日後、物の主が来て認めると、悉く返した。淮南太守の楊綝が十余人と共に謁見に来た時、帝は虔威に問うて言った、「先頭に立つ者は誰か」と。虔威は殿を下りて近寄って見て答えていう、「淮南太守の楊綝です」と。帝は虔威に言った、「卿は謁者大夫であるのに、参見する人を識らないとは、どうしたことか」と。虔威は答えて言った、「臣は楊綝を識らないのではありません。ただ確かでないことを慮り、軽々しく答えなかったのです。石建が馬の足を数えたのは、慎みの極みによるものです」と。帝は大いにこれを嘉した。その廉潔慎重さは皆この類であった。当時帝は数度巡幸し、百姓は疲弊していた。虔威は封事を上書して諫めた。帝は喜ばず、これより疎んじられた。間もなく、官のまま卒した。子に爽があり、官は蘭陵令に至った。

虔威の弟の虔雄もまた才器があった。秦孝王俊が秦州総管となった時、選ばれて法曹参軍となった。王がかつて自ら囚徒を審問した時、虔雄は誤って文書を持たず、口頭で百余人に対し、皆その事情を尽くし、同輩は嘆服しない者はなかった。後に寿春・陽城二県の県令を歴任し、共に治績があった。

榮毗〈兄に建緒〉

榮毗は、字を子諶といい、北平郡無終県の人である。父の権は、北魏の兵部尚書であった。毗は若い頃より剛直で気骨があり器量があり、群言に広く通じ、北周に仕え、初官は漢王記室となり、内史下士に転じた。開皇年間、累遷して殿内監となった。時に華陰は盗賊多く、長吏を精選することとなり、楊素が毗を推薦して華州長史とし、世に能吏と号された。楊素の田宅は多く華陰にあり、左右の者が放縦であったが、毗は法をもってこれを糾し、寛容にせず容赦しなかった。毗が朝集のため出仕した時、楊素は彼に言った、「素が卿を挙げたのは、却って自らを罰することになった」と。毗は答えて言った、「法を奉じて一心な者は、ただ公のご推挙に累いすることを恐れるのみです」と。楊素は笑って言った、「先の言葉は戯れである。卿が法を奉ずることは、素の望むところである」と。時に晋王(楊広)が揚州におり、常に人を遣わして密かに京師の消息を探らせていた。張衡に命じて道中にしばしば馬坊を設置させ、畜牧を口実としたが、実は私的な供給のためであった。州県は敢えて違えず、毗のみがその事を阻止し絶った。上(文帝)は聞いてこれを嘉し、絹百匹を賜い、蒲州司馬に転じた。漢王諒が反乱を起こすと、河東の豪傑が城を挙げて諒に応じた。刺史の丘和は気づき、関中に逃れ帰った。長史の渤海の高義明が毗に言った、「河東は要害の地、国の東門である。もしこれを失えば、災い小さからず。城中はまた動揺しているが、皆が反逆したわけではない。ただ凶悪狡猾な者十余人を捕らえて斬れば、自然と平定されるでしょう」と。毗はこれを然りとした。義明は馬を馳せて丘和を追い、共に策を協せんとした。城の西門に至り、反逆者に殺され、毗もまた捕らえられた。諒が平定されると、治書侍御史に任ぜられ、帝(煬帝)は彼に言った、「今日の挙動(忠節)は、あの馬坊の件と同じである。汝の心を改めるな」と。帝もまた彼を敬った。毗は朝廷にあって侃々として正色であり、百官に畏れられた。後に母の喪により職を去り、一年余りして復職を命ぜられ、まもなく官のまま卒した。鴻臚少卿を追贈された。

毗の兄の建緒は、性質甚だ明らかで直く、学業も兼ね備えていた。北周に仕えて載師下大夫・儀同三司となった。北斉平定の初め、鄴城ぎょうじょうに留まって鎮守し、『斉紀』三十巻を著した。建緒は高祖(文帝)と旧知であり、高祖が丞相となると、開府の位を加えられ、息州刺史に任ぜられた。任地に赴こうとした時、高祖は密かに禅譲の計略を持っており、建緒に言った、「しばらく躊躇せよ、共に富貴を取ろう」と。建緒は自ら周の大夫であることを以て、義に因り顔色に表して言った、「明公のこのお考えは、私の聞くところではありません」と。高祖は不悦とし、建緒は遂に出発した。開皇初年に来朝すると、上(文帝)は彼に言った、「卿も後悔していないか」と。建緒は稽首して言った、「臣の地位は徐広のようではありませんが、心情は楊彪に類します」と。上は笑って言った、「朕は書物の言葉を解さないが、卿のこの言葉が不遜であることも知っている」と。始州・洪州二州刺史を歴任し、共に有能の名があった。

陸知命

陸知命は、字を仲通といい、呉郡富春の人である。父の敖は、陳の散騎常侍であった。知命は天性学問を好み、大局に通じ、貞介を以て自らを保ち、陳に仕えて始興王の行参軍に初任し、後に太学博士・南獄正を歴任した。陳が滅びると家に帰り、時に高智慧らが江左で乱を起こし、晋王広が江都を鎮守するに及び、その三呉における声望を以て、召し出して反乱者を諷諭させた。知命は賊の十七城を説き下し、その渠帥たる陳正緒・蕭思行ら三百余人を得て、功により儀同三司に任じられ、田宅を賜り、またその弟の恪を汧陽令に任用した。知命は恪が百里の才にあらざるを以て、上表して辞退を陳べ、朝廷はこれを許した。時に天下が一統するを見て、知命は高祖に洛陽に都すべく勧め、因って『太平頌』を上奏して諷諭した。文は多く載せない。数年を経ても転任がなく、朝堂に詣でて上表し、高麗に使することを請い、曰く、「臣聞く、聖人扆に当たりては、物色芻蕘し、匹夫奔踶するも、或いは狂瞽を陳ぶと。伏して願わくは暫く旒纊を輟め、臣の謁する所を覧ぜられん。昔し軒轅曆を馭するや、既に夙沙の誅を緩め、虞舜図を握するも、猶お有苗の伐を稽えたり。陛下は百代の末に当たり、千載の期を膺け、四海廓清し、三邊底定す。唯だ高麗の小豎、燕垂に狼顧す。王度含弘にして、毎に遵養を懐うは、良に悪殺好生にして、之を以て徳を諭さんと欲するによる。臣請う、一節を以て皇風を宣示し、彼の君臣をして闕下に面縛せしめん」と。書が奏上され、天子は之を異とした。歳余りして、普寧鎮将を授けられた。或る人がその正直を言上したことにより、これによって御史台に待詔した。煬帝が位を嗣ぐと、治書侍御史に任じられ、侃然として正色し、百僚に憚られ、帝は甚だ之を敬った。後に事に坐して免官された。歳余りして、復職した。時に斉王暕は頗る驕縱にして小人に昵き、知命は奏してこれを劾した。暕は遂に罪を得、百僚は震慄した。遼東の役に、東暆道受降使者となり、師中に卒した。時に年六十七。御史大夫を追贈された。

房彥謙

房彥謙は、字を孝沖といい、本来は清河の人である。七世の祖の諶は、燕に仕えて太尉掾となり、慕容氏に随って斉に遷り、子孫は因ってここに家した。代々著姓であった。高祖の法壽は、魏の青・冀二州刺史、壮武侯であった。曾祖の伯祖は、斉郡・平原二郡の太守であった。祖の翼は、宋安太守であり、並びに世襲して爵は壮武侯であった。父の熊は、州主簿に初任し、行って清河・広川二郡守を兼ねた。彥謙は早く孤となり、父を知らず、母兄によって鞠養された。長兄の彥詢は、雅に清鑒あり、彥謙の天性穎悟なるを以て、毎に之を奇とし、親しく読書を教えた。七歳にして、数万言を誦し、宗党に異とされた。十五歳で、叔父の子貞の後を出で、継母に事え、本生を超えるほどであり、子貞は之を哀しみ、撫養甚だ厚かった。後に継母の憂に遭い、勺飲も口に入れざること五日であった。伯父の楽陵太守豹に事え、心力を竭くし、毎に四時の珍果も、口に先ず嘗めず。期功の戚に遇えば、必ず蔬食して礼を終え、宗従は之を則とした。その後、博士の尹琳に学を受けて、手巻を釋かず、遂に五経に通涉した。文を属するに解け、草隸に工み、雅に詞辯あり、風概人に高かった。十八歳の時、広寧王孝珩が斉州刺史となるに属し、主簿に辟された。時に禁網疏闊にして、州郡の職は、尤も多く縱弛していたが、彥謙が職に在ると、清簡に法を守り、州境肅然として、敬憚せざる者無かった。周の師が鄴に入り、斉主が東奔するに及び、彥謙を以て斉州治中とした。彥謙は本朝の傾覆を痛み、忠義を糾率して、潜かに匡輔を謀らんとした。事果たさずして止んだ。斉が亡び、家に帰った。周帝は柱国辛遵を遣わして斉州刺史とし、賊帥の輔帯劍に執えられた。彥謙は書を以て之を諭し、帯劍は慚懼した。遵を還して州に送り、諸賊は並びに各々帰首した。高祖が禅を受けた後、遂に郷曲に優遊し、誓って仕えんとする心無し。

開皇七年、刺史の韋藝が固く之を推薦し、已むを得ずして命に応じた。吏部尚書の盧愷は一見して之を重んじ、承奉郎に擢げて授け、俄かに監察御史に遷った。後に陳が平定されるに属し、詔を奉じて泉・括等十州を安撫し、命を銜えて旨に称うるを以て、物百段・米百石・衣一襲・奴婢七口を賜った。秦州総管録事参軍に遷った。嘗て朝集に因り、時に左僕射の高熲が考課を定めるに当たり、彥謙は熲に謂いて曰く、「書に三載考績、幽明を黜陟すと称え、唐・虞以降、代々其の法有り。黜陟理に合い、褒貶虧けず、便ち是れ進むれば必ず賢を得、退くれば皆不肖なり。若し或いは舛謬あらば、法乃ち虚設なり。比来諸州の考校を見るに、執る所の見異なり、進退多少、参差して類せず。況んや復た愛憎肆意にして、平坦に乖いるを致し、清介孤直は、必ずしも高名ならず、卑諂巧官は、翻って上等に居る。直ちに真偽混淆し、是非瞀乱す。宰貴既に精練せず、斟酌取捨し、嘗て驅使せられたる者は、多く蒙識を以て成を獲、未だ台省を歴たらずんば、皆為に知らずして退けらる。又四方懸遠にして、詳悉す可く難く、唯だ人数を量准し、半ば破り半ば成す。徒らに官員の少多を計り、善悪の衆寡を顧みず、允当を求めんと欲すれば、其の道由無し。明公は幽微を鑒達し、平心に物に遇う。今の考校する所、必ず阿枉無からん。脱や前件の数事有らば、未だ審らかにす可からず何を以て之を裁せんとするや。唯願わくは遠く耳目を布き、精く採訪を加え、秋毫の善を褒め、繊介の悪を貶し、直ちに至治に光有るのみならず、亦た足らん以て賢能を標獎せん」と。詞気侃然として、観者目を属した。熲は之が為に動容し、深く見て嗟賞した。因って歴ねて河西・隴右の官人の景行を問うと、彥謙は之に対し響くが如く、熲は諸州の総管・刺史に顧みて曰く、「公と言うは、独り秦州の考使と語るに如かず」と。後数日、熲は上に言上したが、上は用いる能わず。秩満を以て、長葛令に遷り、甚だ恵化有り、百姓は慈父と号した。仁寿年中、上は持節の使者をして州県を行巡せしめ、長吏の能不を察し、彥謙を以て天下第一とし、超えて鄀州司馬を授けた。吏民は号哭して相謂いて曰く、「房明府今去らば、吾属何を以て生かん」と。その後百姓之を思い、碑を立てて徳を頌した。鄀州は久しく刺史無く、州務は皆彥謙に帰し、名有る異政有り。

内史侍郎の薛道衡は、一代の文宗にして、位望清顯、交結する所は皆海内の名賢であった。彥謙の為人を重んじ、深く友敬を加え、襄州総管を兼ねるに及び、辞翰往来し、道路に交錯した。煬帝が位を嗣ぐと、道衡は転じて番州を牧し、路彥謙の所を経て、数日留連し、屑涕して別れた。黄門侍郎の張衡も、亦た彥謙と相善しであった。時に帝は東都を営み、窮極侈麗にして、天下失望した。又漢王が逆を構え、罪に罹る者多し。彥謙は衡が当途に在りながら匡救能わざるを見て、書を以て之を諭して曰く、

賞は善を勧めるためのものであり、刑は悪を懲らしめるためのものであると聞く。故に疎遠な賤しい者でも善があれば必ず賞し、尊貴な親戚でも悪を犯せば必ず刑する。未だ罰は親を避け、賞は賤を遺すということはない。今、諸州の刺史は宰牧を委ねられ、善悪の間は上って本朝に達し、憲章を憚って怠慢することはない。国家は霊命を祗承し、民の父母となり、刑賞の曲直は天に昇聞する。照臨を畏れて謹肅であるべきである。故に文王は言う、「我夙夜に天の威を畏る」と。これによって論ずれば、州と国とは異なり、高下は懸け隔たっているが、民を憂え法を慎む理は一つである。

至って并州の叛逆については、甄明すべきがある。もし楊諒が詔命通ぜざるを実とし、宗社の危逼を慮り、兵を徴し衆を聚めて紀を干すためでなければ、則ちその本情を原し、その刑罰を議し、上は聖主の友于の意に副い、下は愚民の疑惑の心を曉すべきである。もし内外に虞なきを知り、嗣後纂統して好乱楽禍し、妄りに覬覦するならば、則ち管・蔡の誅は諒に在るべきであり、同悪相済い、罪を逃れる所なし。梟懸孥戮は国の常刑である。その間に情協同せず、力自ら固からず、或いは擁逼せられ、凶威に淪陷し、遂に籍没流移せしめられる者は、冤濫たるを恐れる。恢恢たる天網、豈に然らんや。罪疑わしきは軽きに従う、この義は何処に在るか。

昔、叔向は鬻獄の死を置き、晋国これを嘉し、張釈之は犯蹕の刑を断じ、漢文これを善とした。羊舌(叔向)は弟を愛さざるにあらず、廷尉(張釈之)は苟も君に違うに非ず、ただ法を執るに私なく、軽重を容れざるのみ。且つ聖人の大宝は是れ神器と曰い、苟も天命に非ざれば妄りに得べからず。故に蚩尤・項籍のぎょう勇、伊尹・霍光の権勢、李老・孔丘の才智、呂望・孫武の兵術、呉・楚の磐石の据えを連ねるも、産・祿の母后の基を承くるも、曆運の兆に応ぜず、終に帝王の位無し。況んや蕞爾たる一隅、蜂扇蟻聚し、楊諒の愚鄙、群小の凶慝にして、畿甸に憑陵し、非望を覬幸せんと欲する者をや。

開闢より以降、書契雲及し、帝皇の跡は得て詳かにすべし。自ら徳を積み仁を累ね、功を豐かにし利を厚くするに非ざれば、孰か能く道幽顯に洽い、義霊祇を感ぜん。是を以て古の哲王は昧旦丕顯し、履冰を念い、禦朽を競い懷う。逮う叔世驕荒、曾て戒懼無く、民上に肆し、嗜を聘い欲に奔り、具に載すべからず、請う略陳せん。

襄者、斉・陳二国並びに大位に居り、自ら天地と徳を合し、日月と明を斉うと謂い、憂虞を念うこと罔く、刑政を恤れみず。近臣は寵を懷き、善を称えて悪を隠し、史官は筆を曲げ、瑕を掩いて美を録す。是を以て民庶呼嗟し、終に視聴に閉塞せられ、公卿虚譽し、日々左右に敷陳す。法網厳密、刑辟日多、徭役煩興し、老幼疲苦す。昔、鄭に子産有り、斉に晏嬰有り、楚に叔敖有り、晋に士會有り。凡そ此等の小国尚お名臣足れり、斉・陳の疆、豈に良佐無からんや。但だ執政壅蔽し、私を懷き軀に徇い、国を忘れ家を憂え、外は同く内は忌む。設い正直の士有り、才幹持に堪え、己に宜しからざれば、即ち擯壓を加え、倘ひ諂佞の輩に遇い、行多く穢匿有り、我に益有れば、遂に薦挙を蒙る。此を以て賢を求む、何れの所より至らん。

夫れ賢材は、膂力を尚ぶに非ず、豈に文華に係らん、唯だ身を正しくして負載し、確乎として動かざるを須う。譬えば棟の屋に処するが如く、骨の身に在るが如し、所謂棟梁骨鯁の材なり。斉・陳は骨鯁を任ぜず、讒諛を近く信じ、天高く卑を聴き、其の淫僻を監み、故に総べて神器を収め、我が大隋に帰す。向使二国上玄を祗敬し、鰥寡を惠恤し、方直を委任し、浮華を斥遠し、卑菲を心とし、惻隱を務とせば、河朔強富、江湖險隔、各々其の業を保ち、民乱を思わず、泰山の固、動かすべからざるなり。然るに積薪に寝臥し、宴安鴆毒し、遂に禾黍廟に生じ、霧露衣に沾い、影を吊い心を撫で、何ぞ嗟及びたる。故に詩に雲う、「殷の未だ師を喪わざるは、能く上帝に配す。宜しく殷に鑑みよ、駿命易からず」と。萬機の事、何れか熟慮を須いざらん。

彦謙は家に居る時、毎度子や甥が定省に来ると、常に講説してこれを督励し、倦むことなく勤勉であった。家には旧業があり、資産は元より豊かであったが、また前後官に居て得た俸禄は、皆親戚や友人を周済し、家には余財がなく、車や衣服や器物は、必ず質素倹約を旨とした。幼少より成人に至るまで、一言一行、未だ私利に及ぶことはなく、たとえ屡々困窮に陥っても、怡然として自得していた。かつて悠然と独り笑い、顧みて其の子玄齢に謂いて曰く、「人は皆禄によって富むが、我は独り官によって貧しきなり。遺す所の子孫は、清白にあるのみ」と。所有する文筆は、恢廓として閑雅、古人の深い趣きがあった。また草書や隷書を善くし、人が其の尺牘を得る者は、皆これを宝として玩んだ。太原の王邵、北海の高構、蓚県の李綱、河東の柳彧、薛孺は、皆一時の知名なる雅澹の士であり、彦謙は並びに之と友となった。冠蓋列を成すも、門に雑賓無し。体は文雅を資とし、政務に深く通達し、識有る者は皆以て遠大を許した。初め、開皇年中、陳を平げた後、天下は一統し、論者は皆太平が致らんと云う。彦謙は密かに親しい趙郡の李少通に謂いて曰く、「主上は性、忌克多く、諫争を納れず。太子は卑弱にして、諸王は威を擅にし、朝に在っては唯苛酷の政を行い、弘大の体を施さず。天下は安んずるも、方に危乱を憂う」と。少通は初め然らずと謂えども、仁寿・大業の際に至り、其の言皆験す。大唐が宇を馭するに及び、徐州都督・臨淄県公を追贈す。諡して定と曰う。

【論】

史臣曰く、大廈雲の如く構うるは、一木の枝に非ず、帝王の功は、一士の略に非ず。長短は用を殊にし、大小は宜を異にす、㮞棁と棟樑とは、棄つべからざるなり。李諤等は或いは文能く義に遵い、或いは才時を幹うるに足り、識用は当年に顕れ、故事は台閣に留まる。之を参するに有隋の多士、其の物を開き務を成すを取れば、皆廊廟の榱桷、亦北辰の衆星なり。